富木殿御書(止暇断眠御書)
建治3年(ʼ77)8月23日 56歳 富木常忍
第一章(謗法の悪業深重を示す)
本文
妙法蓮華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗し経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん其人命終して阿鼻獄に入らん乃至是の如く展転して無数劫に至らん」第七に云く「千劫阿鼻獄に於てす」第三に云く「三千塵点」第六に云く「五百塵点劫」等云云、涅槃経に云く「悪象の為に殺されては三悪に至らず悪友の為に殺されては必ず三悪に至る」等云云、堅慧菩薩の法性論に云く「愚にして正法を信ぜず邪見及び憍慢なるは過去の謗法の障りなり不了義に執着して供養恭敬に著し唯邪法を見て善知識に遠離して謗法者の小乗の法に楽著する是の如き等の衆生に親近して大乗を信ぜず故に諸仏の法を謗ず、智者は怨家・蛇・火・毒・因陀羅・霹靂・刀杖・諸の悪獣・虎狼・師子等を畏るべからず、彼は但能く命を断じて人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむること能わず、畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識となり決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ、悪知識に近づきて悪心にして仏の血を出だし及び父母を殺害し諸の聖人の命を断じ和合僧を破壊し及び諸の善根を断ずると雖も念を正法に繫ぐるを以て能く彼の処を解脱せん、若し復余人有つて甚深の法を誹謗せば彼の人無量劫にも解脱を得べからず、若し人衆生をして是の如きの法を覚信せしめば彼は是我が父母亦是れ善知識なり、彼の人は是智者なり如来の滅後に邪見顚倒を廻して正道に入らしむるを以ての故に三宝清浄の信・菩提功徳の業なり」等云云、竜樹菩薩の菩提資糧論に云く「五無間の業を説きたもう乃至若し未解の深法に於て執着を起せるは○彼の前の五無間等の罪聚に之を比するに百分にしても及ばず」云云。
現代語訳
妙法蓮華経の第二の巻に「もし人が信じないで法華経をそしり、この経を読誦し書持する者を見て、軽んじ賎しめ憎み嫉んで恨みを懐くならば、その人は死んで阿鼻地獄に入るであろう。(中略)そのように阿鼻地獄に生まれることを繰り返して無数劫にいたるであろう」とあり、第七の巻に「千劫の間、阿鼻地獄において大苦悩を受けた」とあり、第三の巻には「三千塵点劫の間、成仏できずにいた」とあり、第六の巻には「五百塵点劫の間、六道に堕してきた」等とある。涅槃経には「悪象のために殺されたときは三悪道に堕ちない。悪友のために殺されたときは必ず三悪道に堕ちる」等とある。
賢慧菩薩の宝性論には「愚かで正法を信ぜず邪見および憍慢なのは過去の謗法の罪障である。不了義に執着して供養恭敬されることに著し、ただ邪法に眼を向けて善知識から遠ざかり離れて、謗法の者で小乗の法に執着するような衆生に親しみ近づいて大乗を信じない。ゆえに諸仏の法を誹謗するのである。智者は、怨をなす敵人や、蛇、火の毒、雷神、雷、刀や杖、諸の悪獣、虎、狼、師子等を畏れるべきではない。それらはただ命を断つのみで、人を畏るべき阿鼻地獄に入れることはできない。畏るべきは深遠な妙法を謗ることと謗法の友人である。かならず人を畏るべき阿鼻地獄に入れる。仏道修行を妨げる者に近づき、悪心をいだいて、仏の血を出だし、父母を殺害し、諸の聖人の命を断ち、和合の教団を破壊し、諸の善根を断つとしても、一念を正法につなげ置くことによって、よくあの阿鼻地獄を脱れ悟りを得るであろう。またもし、他の人がいて甚深の正法を誹謗するならば、その人は量り知れないほどの長遠の時を経ても苦を脱れ悟りを得ることはできない。もし人が衆生にそのような正法を覚知させ信じさせるならば、彼は父母であり、また善知識である。その人は智者であり、如来の滅後に邪見、顚倒を正して正道に入れるがゆえに、三宝に対する清浄の信をもち、悟りを得させる功徳の所作をなす者である」等とある。竜樹菩薩の菩提資糧論には「五逆罪による無間地獄の業を説かれている。(中略)もし未だ理解していない深遠の法に対して、執着を起こして仏説でないというのは○前の五逆による無間地獄等の罪を集めて、この罪に比べると百分の一にも及ばない」とある。
語釈
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
三千塵点
三千塵点劫のこと。法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。
五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
三悪
三悪道・三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
悪友
悪知識と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。
賢慧菩薩
生没年不明。堅慧菩薩とも書く。六世紀ころの中インドの学僧といわれ、「究竟一乗宝性論」の著者とされるが、異説も多い。他に「大乗法界無差別論」一巻を著したといわれる。
法性論
「究竟一乗宝性論」四巻のこと。宝性論と通称される。著者は堅慧といわれるが、弥勒とする説もある。内容としては一切衆生に仏性があるとして二乗、も成仏することができると主張している。
憍慢
自らおごり高ぶって正法をあなどること。十四誹謗の第一。
不了義
仏法の道理が完全明瞭に説きつくされていないこと。
善知識
善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
怨家
自分に対して怨をなす敵人のこと。互いに怨みあっている者。
因陀羅
梵語インドラ(Indra)の音写で、主・帝と訳す。仏教では帝釈天として諸天善神の一つに数えられているが、仏教以前には雷・風雨を司る雷神とされていた。
霹靂
雷、雷鳴のこと。
悪知識
善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001:08)とある。
三宝
仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
菩提
菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
業
①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。
竜樹菩薩
付法蔵の第十四。仏滅後700年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義を弘めた大論師。梵名はナーガールジュナ(Nāgārjuna)。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗経を学んでいたが、のちヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。南インドの国王が外道を信じていたので、これを破折するために、赤幡を持って王宮の前を七年間往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけ、大乗経をひろめた。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
菩提資糧論
六巻。竜樹の作といわれる本頌と自在比丘の長行釈より成る。中国・隋代の達摩笈多訳。内容は菩提を得るための資糧を論じ、種々の修行を説いている。
五無間の業
五無間は五つの無間地獄に堕ちる重罪で、五逆罪と同じ。このうち一つでも犯せば無間地獄に堕ちるため、五つの無間の重罪・五無間といわれている。すなわち無間地獄に堕ちる業因のこと。
罪聚
罪業が集まること。
講義
本抄は建治元年(1275)8月23日、身延の地より富木常忍に与えられた御抄とされている。御真筆が存している。しかし御真筆には「八月二十三日」とあるだけで年号の記載はない。そこで建治元年(1275)のほか、建治2年(1276)の説もある。また文永10年(1273)11月3日の「土木殿御返事」の花押に極めて似ているところから、文永10年(1273)8月23日の御抄とする説もある。本抄は漢文で書かれており、佐渡から富木常忍にあてられたお手紙は漢文ばかりで、身延からのものは半漢・半和文であることも、文永10年(1273)説の根拠である。
本抄は謗法の恐ろしさ、悪知識に紛動されてはならないことを強調され、日本国の諸宗が弘法・慈覚・智証に影響を受けて謗法に陥っていることを嘆かれている。しかし本抄の最後では「問うて云く」として、各宗の先徳がこの三大師を信じ崇めているではないかとの疑難を挙げたままで終わられ、この重大な問題について「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ」と、門下の人々に研鑽をゆだねられている。そこで本抄の別名を「止暇断眠御書」とするのである。
謗法・悪知識について
本抄は、まず冒頭に経論を挙げて、謗法を畏れなければならないことを教えられている。
最初の譬喩品の文は、法華誹謗の者が無間地獄に堕ちることを説いた有名な文である。この文のあとには、無間地獄を免れたあとも、蜒々と苦報を受けなければならないことが説かれている。蛇身となって小虫に蝕まれたり、野犬として人々から嫌悪されることなどが例として挙げられている。そこに説かれているのは、総体としては、人々から嫌われる姿である。人の生き方について正しく説いた法、またそれを修行する人々を軽蔑したり恨んだりする人は、因果の厳しい理法によって、今度は、人々から嫌われる報いを受けなければならないのである。謗法の果報の一つは、人々から最も嫌われる存在になるということなのであろう。
次の「千劫阿鼻獄」の文は、常不軽菩薩が人々の仏性を敬って但行礼拝したのを、上慢の四衆が杖木瓦石の迫害を加えたことにより、後に千劫阿鼻地獄に堕ちたことを指している。ここで大切なのは、この四衆は最初、不軽菩薩を誹謗したが、のちにその正しさを知って、信伏随従したにもかかわらず、わずかに残った罪のため千劫の間、阿鼻獄に堕ちたことである。正法誹謗のいかに恐ろしいかを示した文である。
次の三千塵点、五百塵点は、久遠の昔に正法を聞きながら退転して仏道を成ずることのできなかった衆生を指している。釈尊は久遠五百塵点劫の成道の際、衆生を教化した。そのとき、不退、退大、未発心の三種の衆生がいた。法を聞いて退転しなかった人、法を信じたが後に退転した人、最初から発心しなかった人である。この第二、第三の人は苦悩の世界に沈んでいったのである。
その後、三千塵点劫に至って、大通智勝仏の十六王子の教化に巡りあったが、五百塵点劫の下種を思い出した衆生は仏道に入り、そこでも、不退の人は成仏したが、退転した人もおり、この退転した人と、思い出さず発心しなかった衆生はまた、今日の釈尊の出世まで苦業を受けなければならなかったのである。法華経の説くところによれば、この衆生は寿量品に至ってことごとく妙覚の位を得たとされるが、根本は南無妙法蓮華経を悟ったゆえであることはいうまでもない。
次の涅槃経の文は、悪知識を恐るべきことを説いたものである。悪象に殺されるとは、物理的な力により我が身が破壊されることを意味するのであろう。それに対し悪友に殺されるとは、悪友は仏法上の悪友、すなわち悪知識であるから、悪知識により我が心が破壊されるのである。仏法を破壊する悪知識に紛動されることの恐ろしさを教えたものである。
賢慧菩薩の宝性論には、この点がさらに詳細に説かれている。謗法の果報は三世にわたるものであり、愚癡、不信、邪見、憍慢、執着等がそのあらわれであり、永劫にその苦しみを繰り返していかなければならないものであるから、智者たるものは、世のさまざまな災害、暴力等を恐れるよりも、謗法と、それをそそのかす悪知識を恐れなければならないと力説している。なぜなら、災害、暴力等は命を断じても阿鼻獄に堕とすことはないが、悪知識は人を阿鼻獄に堕とすからである。
さらに同じ無間地獄に堕ちる業でも、五逆罪の場合は、正法に信をつなぐことにより無間地獄を脱することができるが、誹謗正法により無間地獄に堕ちたものは、苦を脱れて悟りを開くことができないと、論を進めている。
したがって、人々を正法に目覚めさせる善知識の尊さと、その功徳の大きさは計り知れないのである。
最後の竜樹の菩提資糧論は、五逆罪による無間地獄の業を百集めても、一つの謗法に及ばないと決している。
これらの経論はいずれも謗法の罪の大きいことを明確に述べた例であるが、大聖人は四箇の格言等をもって厳しく諸宗を責められたのは、じつにこの誹謗正法を、諸宗が犯しているゆえなのである。小乗・権大乗・法華経迹門等が、正像年間を過ぎて末法に至っては、功力のないのはもちろんであるが、そのうえに、仏の本懐たる法華経を誹謗しているところに、誤りの最たるものがあることを知らなくてはならない。
また、謗法とともに悪知識をいかに恐るべきかを説いた経論を引いておられるのは、人々に、いつのまにか謗法を犯させている悪知識の存在こそ、最大の悪の根源であることを教えられているのである。法然しかり、弘法、慈覚、智証しかりである。人々から尊敬を受けているようでありながら、仏法の眼からみれば、最大の悪人なのである。
悪知識は、それを悪知識と見破れば、悪知識ではない。強盛な信、智慧の持ち主にあっては、かえって善知識ともなるのである。そこで大事なことは、それを見破る賢明さであり、大聖人が本抄の末尾で、我が門家は夜は眠りを断ち、昼は暇をとどめて思索・究明せよといわれている意味はそこにある。
第二章(賢聖の謗法懺悔を挙ぐ)
本文
夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く大火は小水を畏怖し大樹は小鳥に値いて枝を折らる智人は恐怖すべし大乗を謗ずる故に、天親菩薩は舌を切らんと云い馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い吉蔵大師は身を肉橋と為し玄奘三蔵は此れを霊地に占い不空三蔵は疑いを天竺に決し伝教大師は此れを異域に求む皆上に挙ぐる所は経論を守護する故か。
現代語訳
さて賢人は安全な所に居ても危険にそなえ、よこしまで愚かな人は危険な状態にあっても安穏を願う。大火は少しの水をも畏れ、大樹は小鳥にあっても枝を折られる。智人は大乗を誹謗することを恐れるのである。そこで天親菩薩は舌を切ろうといい、馬鳴菩薩は頭を刎ねようと願い、吉蔵大師は身を橋となし、玄奘三蔵は何が正法かをインドの霊地において占い、不空三蔵はその疑いをインドに行って解決し、伝教大師はこれを求めて中国に行った。みな以上にあげた事柄は経論の正義を守護するためであった。
語釈
佞人
よこしまな智慧の人。口先がうまく、こびへつらう人。
天親菩薩
生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
馬鳴菩薩
2世紀ころ、中インドに出現したといわれる大乗の論師。付法蔵の第十二祖・アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)のこと。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」一巻などがあり、「大乗起信論」一巻なども馬鳴の作といわれている。馬鳴菩薩の頭を刎ねられることを願ったという話は、いずれの出典によるか明らかでない。
吉蔵大師
(0549~0623)。中国・隋・唐代の人で三論宗再興の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論宗を学ぶ。後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。吉蔵が身を肉橋とした話は、法華文句輔正記巻三に吉蔵が天台大師に対して身を肉隥として高座に登らせた、とあることによると思われる。隥とは、はしごの意。
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
不空三蔵
(0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。のちにスリランカに行き密教経典を集め、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など110部百433巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
伝教大師
(0767~0822)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国滋賀郡(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦23年(0804)に入唐して道邃・行満・翛然・順暁等について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力、没後、大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻などがある。
講義
夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く
この御文のそのままの意味は、賢人は、安穏なところにいても、いつ危険がくるかと慮るが、愚かな人は、自らが危険なところにいるのにそれを察知して対処しようとせず、安穏であることを願うということである。賢人か愚人かの分かれ目は、未来を考え自らが今どういうところにいるかを知っているか否かにあるという教えである。
賢人は、今が安穏であっても、それがやがて崩れ危険な状態になることを見抜いて、常に準備しているのである。したがっていつ災難が襲いきたっても、それをかねてからの存知のこととして受け止め、乗り越えていくのである。
愚人は、危険な状態にあっても気づかず、対処しようともしないばかりか、安穏であることを願っているのである。
ここでこういうことをいわれているのは、前に引用された経論と関連している。すなわち、賢人は正法を持って安穏の境地にいても、つねに厳しく謗法を戒め、謗法を犯して苦道に陥ることのないよう、心を配っているということである。
それに対し、邪智で愚かな人は、すでに謗法を犯して無間地獄に堕ちようとしていても、その自分の誤りに気づかないでいるということである。
大聖人が天親以下の例を挙げられているのは、真実の求道の人は謗法を最も恥とし、また正法を護持していても、常に誤りがないかと自問し、生涯求道を続けるものであることを示さんがためである。
天親、馬鳴、吉蔵の例は、自らの謗法を恥じたものである。馬鳴の例は出典が明らかでないが、外道を信じていて仏法と論じ、負けたとき、自らの謗法の大きさを自覚していったということであろう。吉蔵は般若第一を立てていたが、天台大師に信伏し、前非を悔いて、身を肉橋としたのである。
玄奘、不空、伝教は、求道のために、遠く旅した例である。玄奘は法相宗、不空は真言宗の祖で、ともに正法の伝灯者とはいいがたいが、ここでは経論を求めていったその求法の情熱をいわれているのであろう。伝教大師についてはいうまでもない。
第三章(真言三師の謗法根源を明かす)
今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆上主上・上皇より下臣下万民に至るまで皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫・檀越なり、円仁・慈覚大師云く「故に彼と異り」円珍・智証大師云く「華厳・法華を大日経に望むれば戯論と為す」空海弘法大師云く「後に望むれば戯論と為す」等と云云、此の三大師の意は法華経は已・今・当の諸経の中の第一なり然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云、此の義心有らん人信を取る可きや不や。
今日本国の諸人・悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも此に超過し以て恐怖すべきこと百千万億倍なれば持戒・邪見の高僧等なり、問うて云く上に挙ぐる所の三大師を謗法と疑うか叡山第二の円澄寂光大師・別当光定大師・安慧大楽大師・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳・此等の数百人、弘法の御弟子実慧・真済・真雅等の数百人並びに八宗・十宗等の大師先徳・日と日と・月と月と・星と星と・並びに出でたるが如し、既に四百余年を経歴するに此等の人人一人として此の義を疑わず汝何なる智を以て之を難ずるや云云。
此等の意を以て之を案ずるに我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ、恐恐謹言。
八月二十三日 日蓮 花 押
富 木 殿
鵞目一結給び候畢んぬ、志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか。
現代語訳
いま日本国の俱舎・成美・律・法相・三論・華厳・天台・真言の八宗と浄土宗・禅宗等の出家在家の男女は、上は天皇・上皇から下は臣下・万民にいたるまで一人も漏れなく弘法・慈覚・智証の三大師の末孫であり、檀家である。慈覚大師円仁は「華厳等の経は如来の秘密の教えを説き尽くしていないがゆえに真言教とことなるのである」といっている。智証大師円珍は「華厳経や法華経を大日経に対すれば、それらは無益な経論である」といっている。弘法大師空海は「法華や華厳等は後の真言に対すれば無益な経論である」等といっている。この三大師の意は、法華経は已説・今説・当説の諸経の中の第一であるけれども、大日経に相対すれば無益な経論である、ということである。この義を心ある人は信ずべきであろうか。
いま日本国の諸人が悪象・悪馬・悪牛・悪犬・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも百千万億倍超えて恐るべきものは、戒を持つ邪見の高僧等である。
質問していう。上に挙げた三大師の義を謗法と疑うのか。比叡山第二代座主の寂光大師円澄・別当の光定大師・大楽・大師安慧・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳等の数百人、弘法の弟子の実慧・真済・真雅等の数百人、ならびに八宗・十宗等の大師や先徳は、日と日と、月と月と、星と星とが並んで出でたような方々である。すでに四百余年を経過しているのに、これらの人々は一人としてこの義を疑っていない。あなたはどのような智慧をもって、これを疑難するのか、と。
これらの主旨からこれを考えるに、わが一門の者は夜は眠りを断ち、昼は暇なくこのことを思案しなさい。一生を空しく過ごして、万歳に悔いることがあってはならない。恐恐謹言。
八月二十三日 日 蓮 花 押
富 木 殿
銭を一結受け取りました。志ある人々は一所に集まってお聞きなさい。
語釈
八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384-02)と申されている。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
上主
天皇のこと。
弘法
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。讃岐(香川県)に生れる。延暦12年(0793)勤操にしたがって出家したといわれる。延暦23年(0804)入唐し、青竜寺の慧果について密教を学んだ。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘仁14年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻などがある。
慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)円澄の跡を受け延暦寺の第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏」七巻、「蘇悉地経疏」七巻等がある。
智証
(0814~0891)。延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来した。帰国後、貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。
檀越
布施をする在家信者のこと。
華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
已・今・当
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
悪狗
人を殺害する狂暴な犬。無間の業をもつ衆生が悪犬をもって釈迦を殺害しようとしたと大集経にある。
悪刺
毒をもった刺のあるもの。
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
円澄寂光大師
(0771~0836)。延暦寺第二代座主。寂光大師は諡号。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「報恩抄」には「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320)とある。
別当光定大師
(0779~0858)。延暦寺の別当となったことから別当大師とも呼ばれた。伊予(愛媛県)に生まれ、30歳の時に伝教大師の弟子となる。よく宗義を論じ、大乗戒壇設立に尽力した。著書に「一心戒文」などがある。
安慧大楽大師
(0794~0868)。天台宗の僧。延暦寺第四代座主。大楽大師は山門のおくり名。河内(大阪府)に生まれ、13歳で伝教大師の弟子となり、後に円仁に師事し、止観ならびに密教を学んだ。著書に「顕法華義抄」十巻などがある。
慧亮和尚
(0801~0859)。天台宗の僧。信濃(長野県)に生まれ、幼くして比叡山に登り、後に円澄・円仁について顕密の法を学んだ。西塔の宝幢院に住し、同院の検校となった。
安然和上
(0841~)。天台宗の僧。伝教大師の同族といわれる。はじめ円仁の弟子となり、後に遍照について顕密二教の法を受けた。著述に専念し、天台宗を密教化した。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
浄観僧都
(0843~0927)。天台宗の僧。増命のこと。京都に生まれ、幼くして比叡山に登り、延最に師事する。後に円珍にしたがい、延喜6年(0906)延暦寺第十代座主となった。治癒の祈祷に験があったといわれる。静観と諡された。
檀那僧正
(0953~1007)。日本天台宗檀那流の祖。覚運のこと。京都に生まれ、比叡山で良源に師事して天台教学を修し、後に皇慶について密教を学んだ。東塔南谷の檀那院に住していたことからこの名がある。恵心僧都源信と並び称された。著書に「玄義鈔」一巻などがある。
慧心先徳
(0942~1017)。日本天台宗恵心流の祖。恵心僧都源信のこと。先徳とは、徳望の高い人を尊敬していう語で、とくに亡くなった高徳の僧をいう。大和(奈良県)に生まれ、幼くして比叡山に登り、良源に師事して天台の教義を学んだ。権少僧都に任ぜられたとき、横川恵心院に住んでいたので恵心僧都と呼ばれた。著書に「往生要集」三巻などがある。
実慧
(786~847) 平安初期の真言宗の僧。弘法大師空海十大弟子の一人。「じつえ」ともいう。晩年に河内(大阪府)檜尾山法禅寺に隠棲したため、別名を檜尾僧都(という。空海と同じ讃岐(香川県)の出身で、幼少のころ儒学を学んだが、長じて仏道を志し、806年)空海の弟子となってからは密教の修行に励む。816年空海が高野山を開くにあたって協力し、また827年河内檜尾に観心寺を建て密教を広めた。835年の大師入定後は日本第二の大阿闍梨となり、翌年には東寺第2代長者となる。円行の入唐に際し、書と法衣を託して空海の師である恵果の墓前に供えて孫弟子の礼をとった。846年には高野山で『大日経疏』を講義し、これ以降に高野山における講義の伝統が始まった。著作は多数ある。
真済
(0800~860)平安時代の真言宗の僧。空海の弟子。一般に高雄僧正,紀僧正と称される。空海のあとをうけて高雄山神護寺の第2世となった。また承和3 (836) 年入唐を志したが台風のため断念。のちに東寺の長者となり僧正に進んだ。
真雅
(801~879)平安時代の真言宗の僧。空海の弟。兄の遺命によって,弘福寺,東寺の経蔵を管理し,東大寺の別当,さらに東寺の長者を歴任し,のちに貞観 16 (874) 年に貞観寺を創建した。 79歳で寂。諡は法光大師。
十宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
講義
日本において、人々を謗法の大罪に陥れた、最も恐るべき悪知識こそ弘法・慈覚・智証であることを指摘されている。日本国の八宗・十宗がことごとくこの3人の末孫であると述べられているが、それほど当時の密教の影響は大きかった。弘法は真言密経を立てているゆえに法華経を誹謗しているのはもちろんだが、慈覚・智証という天台宗の座主までが、真言密経を取り入れ、法華経を誹謗さえしていることは、まことに驚くべきことである。
大聖人は三大秘法抄に「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023:01)と、天台宗の密経化を嘆かれている。
弘法は真言を密経とし、法華経を顕教として、大日経こそが如来の真実の教えであって、応身の釈尊が説いた法華経等は戯論であると述べている。しかし、彼が根本とした大日如来こそ、たんなる法身如来であり、この世界に現実にあらわれない架空の仏なのである。大日如来とは、宇宙に根本的真理の存在することを象徴した譬喩的仏身であるともいえよう。したがって、真言の教えこそ、法華経の実義からすれば戯論にすぎない。法華経は、現実にこの世界に出現した釈尊が仏の悟りの極理を明かした、真実の如来秘密の経なのである。
いわんや、慈覚・智証らが法華経と大日経を比較して、一念三千を明かしていることにおいて法華経と大日経は理同であり、大日経は印・真言のゆえに事勝であるなどと説くのは、憐れむべき混迷ぶりである。
印(手を結ぶこと)や真言(呪)などは、仏法にあらざるインド外道の呪術宗教の名残りに他ならない。
理同に至っては、善無畏等の邪義に全くのせられたものといってよい。これについては日寛上人の三重秘伝抄で破折されているが、大日経の大那羅延力をもって二乗作仏の文とするなどはこじつけ以外の何ものでもなく、法身本有を説いただけの文を久遠実成と同列に考えるのは無認識も甚だしいと断じられている。しかも法華経がこれらの義を明確に説いた経であるにもかかわらず、大日経以外の経にはこれらは明かされていないなどといっているのは誹謗正法の最たるものといわねばならない。
さらに、これらの三人の教えを、叡山の座主・高僧、真言宗の僧等がすべて、受け入れているのは嘆かわしいかぎりである。真言宗の僧のみではなく、本来、法華経を根本と立てた天台宗までが、密教の軍門に下っていることの罪は、このうえなく重いといわなければならない。
しかも、人々はこの邪義を、地位・名声のある人達のいうことだからというだけで、無批判に受け入れている。ここに末法の衆生の宗教観の一つがあらわれている。仏説によるのでなく、人師の言葉を用いているところに、誤りを生じた根源があるのである。
大聖人が、最後で問いに対する答えを書かず、門家に対し、止暇断眠をもって案じていけといわれているお言葉を、心から拝していかなければならない。真言宗にかぎらず、人々を誤謬に陥れる悪知識は、いつの世にも充満しているものである。その誤りをつき、人々を正法に目覚めさせるには、不断の研鑽・実践が大切である。その使命を忘れて一生を空しく過ごしたならば、その悔いは万歳に残るとの仰せである。地涌の使命はこのうえなく大きい。