異体同心事
第一章(異体同心は万事を成ず)
本文
白小袖一つ・あつわたの小袖、はわき房のびんぎに鵝目一貫、ならびにうけたまわる。
はわき房・さど房等のこと、あつわらの者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなしと申すことは、外典三千余巻に定まって候。殷の紂王は、七十万騎なれども、同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は、八百人なれども、異体同心なればかちぬ。一人の心なれども、二つの心あれば、その心たがいて成ずることなし。百人千人なれども、一つ心なれば、必ず事を成ず。日本国の人々は、多人なれども、体同異心なれば、諸事成ぜんことかたし。日蓮が一類は、異体同心なれば、人々すくなく候えども、大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚え候。悪は多けれども、一善にかつことなし。譬えば、多くの火あつまれども、一水にはきえぬ。この一門も、またかくのごとし。
その上、貴辺は、多年としつもりて奉公法華経にあつくおわする上、今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給うよし、人々も申し候、またかれらも申し候。一々に承って、日天にも大神にも申し上げて候ぞ。
現代語訳
白の小袖一つと厚綿の小袖、および伯耆房の身延来訪の折に託された銭一貫文たしかに受けとりました。
伯耆房、佐渡房等の事や熱原の人々の御志が異体同心であるときは万事を成就し、同体異心であるときは何事もかなうことはない。このことは外典三千余巻に定まっている。殷の紂王は七十万騎の軍勢であったが、同体異心であったので戦に負けてしまった。周の武王は八百人であったが、異体同心であったので勝った。一人の心であっても二つの心があれば、その心と心とが違って何事も成就することはない。百人や千人であっても一つの心であれば、必ずものごとを成就するのである。
日本国の人々は多人数であっても体同異心なので、何事も成就することは難しい。日蓮の一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるであろうと思われる。悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても、一水によって消えてしまう。この一門もまた同様である。
そのうえ、あなたは多年にわたって法華経に仕える心が厚いうえ、この度はまことに勝れた御志が見られると人々も言っている。また彼等も言っている。一つひとつ承って、日天にも天照太神にも申し上げている。
語釈
小袖
袖口がせまく、正面のえりを引き違え合わせて着る長着。はじめ肌着として用いられたが、次第に重ね着されるようになり、上着なしで着用されるようになった。
はわき房
(1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
びんぎ
都合の良いとき。ついで。便り。音信。
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、鵝眼、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞の目のようであるところから、こう呼ばれた。日蓮大聖人御在世当時は、奈良・平安時代頃に輸入して通貨とした唐宋銭が使用されていた。唐銭では開元通宝・乾元重宝、五代十国時代の後漢の漢元通宝・南唐の唐国通宝、宋銭では宋元通宝・太平通宝・景徳元宝・祥符元宝・祥符通宝等である。
さど房
(1253~1314)六老僧の第四民部阿闍梨日向のこと。文永元年(1264)日蓮大聖人が房総地方に遊化せられたとき、13歳で得度した。建治2年(1276)清澄寺道善房死去のときに「報恩抄」を読み、大聖人の聖教を講演した。大聖人滅後弘安5年(1282)、輪番制に加わり、弘安8年(1285)ごろ身延に戻り学頭職に補せられた。だが、その後波木井実長(はぎりさねなが)に鎌倉方面の軟風をふきこみ、それによって実長は四箇の謗法をおかし、身延汚濁の因となった。身延山には正和2年(1313)まで居り、そののち、上総藻原(千葉県茂原)に移り、翌年9月3日に没した。
あつわらの者ども
静岡県熱原地方の農民をさす。ただし、「愚癡の者ども」とは、一般農民を武家にくらべて差別し軽視してこういわれたのではなく、熱原法難にあい、心の動揺が隠せずにいる人びとを指していわれたと思われる。
外典三千余巻
「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
殷の紂王
殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
周の武王
生没年不明。中国古代の周王朝創始の王。父の文王の遺志を継ぎ、殷の紂王を破り、天下を統一した。
日天
日宮殿に住む天人のこと。日天子・大日天・日宮天子・宝光天子などともいう。太陽を神格化したもので帝釈天の内臣とも観音菩薩・大日如来の化身ともされる。密教では十二天の一つで胎蔵界漫荼羅の外金剛部院東方に位置する。日蓮大聖人は諸天善神の一つに数えられており、本尊の中にもしたためられている。
大神
天照太神のこと。日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
講義
本抄の御述作年代については「八月六日」とあるだけで、年号は不明である。
「あつわらの者どもの御心ざし」云云とある本文から推察して、日興上人(伯耆房)の指揮のもとに、駿河国富士郡下方庄熱原郷方面(静岡県富士市)で折伏・弘教が活発に繰り広げられていたときの御消息と思われる。
当時の国情も「もうこの事すでにちかづきて候か」とあるように、蒙古の襲来が目前に迫り、国を挙げて戦々兢々、騒然としていたころである。
したがって、系年については異説はあるが、文永の末、あるいは建治年間の御述作と考えられ、建治元年(1275)8月6日の御述作であろうと推定される。ただし、弘安2年(1279)、文永11年(1274)の説もある。
本抄をいただいたのは富士郡賀島庄に住み、この地方の信徒の中心者的存在だった高橋六郎兵衛入道と思われる。高橋入道は、妻が日興上人の叔母であった関係から、その縁で入信した人である。ただし、太田乗明への御返書との説等もある。題号は内容に即して後代に付されたものである。御真筆は現存しない。
本抄は短い御消息文であるが、異体同心について御教示された前半と、蒙古の襲来によって日本の人々が謗法から目ざめるであろうとの仰せの後半とに、一貫した関連性がみられないところから、二つの御抄が誤って合写されたものとする説もあり、日亨上人も富士日興上人詳伝で「首尾相応せぬ嫌いがある、伝写の際の錯簡ではなかろうか」と述べられている。
こうした背景と事情から、それにともなう系年も宛名も諸説百出するわけである。
さて、本抄の冒頭では、日蓮大聖人の仏法を広宣流布していくうえで、最も心していかなければならないことは〝異体同心〟の信心であり、団結であることを御教示され、門下への戒めとされている。
「異体同心なれば万事を成し」とあるように、人が集まって一つの事を成就しようとした場合、最も大切なことは異体同心の団結である。
「異体」とは、十人十色といわれるように、顔形から性格、才能、趣味など、人それぞれの個性や特質が異なることをいい、また社会的立場や経歴などが異なっている、別々である、ということである。
「同心」とは、目的観や価値観、志、心というものを同じくすることである。
故に「異体同心」とは、多くの人が、それぞれの個性、特質を持ちながら、心を同じくして、行動する姿であり、そこには個人では果たしえない偉大な力が発揮される。いわば個人と全体とを見事に調和させる原理といえる。
仏法で強調される「異体同心」の特徴は、すべての人達が御本尊への信心と民衆救済の心をもって広宣流布への実践を進めるなかで、一人一人の個性、才能等が最大限に発揮されていくことに本義がある。つまり「同心」であると同時に、かつ「異体」をも大事にするのである。
それに対して「同体異心」は「諸事叶う事なし」となる。「同体異心」とは、見かけは一体のようであっても、心が一つにまとまっていない状態をいう。つまり、外面は一つの集合体に属し、団結しているようでも、一人一人の目的観がバラバラで、皆が違うことを考え、自分のエゴで動いているのであっては、やること、なすこと、チグハグになるのは必定であり、何事も成就は不可能である。
かつてのファシズムに例をみるように「同体」を強制され、外見的、形式的には一体の姿を示しても、各人の個性を尊重せず、しかも抑圧するようでは、真の団結が図れるわけがない。かえって「異心」を生じさせてしまうものである。
御義口伝に、「桜梅桃李(おうばいとうり)の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0748:第二量の字の事:03)とある。
仏法では、固定的、画一的な人間を育成しようとするのではなく、妙法の信仰により、一人一人の個性、特質を「改めずして」発揮させ、最も自分らしい姿を現じさせていくのである。
この「異体」の自覚のうえに、自らの成長と幸せを満喫できるよう、横の連帯をたもちつつ、広宣流布という大目的達成の「同心」を堅持して前進していくのである。
殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ
「異体同心」の団結が勝利の根本要諦であることを、中国古代の史実を引用して御教示されている。
司馬遷の史記によると、紀元前十一世紀頃、殷の紂王は悪政をしき、暴虐の限りを尽くしていた。美女の妲己を溺愛し、酒池肉林の宴を張る日々を送っていた。
自分の意に逆らう者があれば殺し、あるいはその肉を塩辛にし、あるいは干肉にした。諌言した忠臣・比干は胸をえぐられた。民衆には重税を課し、その福祉は一願だにされなかった。
一方、周で善政をしき、人々の信望を集めていたのが文王とその子武王であった。太公望など多くの人材を用いて、周の地を隆盛に導いていた。
紂王の暴虐ぶりがいよいよ甚だしくなるに及んで、父・文王なきあと、武王は、ついに紂王を討つ軍を起こした。
そのとき、期せずして八百の諸候が志を同じくして集まり、紂王討伐に向かったのである。これに対して紂王は七十万の大軍を繰り出した。数こそ多かったが、戦意は全くなく、心の中では武王の軍の攻め入ってくるのを待望しているありさまだった。
戦闘になると、紂王の兵は反乱を起こし、武王の軍の進む道を開いた。勝敗の帰趨は戦いの始まる前から、すでに決まっていたともいえる。紂王は敗走し、城中で焼死したといわれる。ここに殷が滅び、周王朝の誕生をみたのである。
武王の軍は民衆の与望を担い、人々の心をとらえた故に、異体同心の団結が可能となり、大事を成しえたのである。
古来、戦において、体同異心の大軍が、異体同心の少数精鋭に破れた歴史は枚挙にいとまがない。仏法流布においても、この原理は不変である。
一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず
「異体同心なれば諸事叶う事なし」は、なにも人が集まって事を成す場合だけではない。一人の心のなかに二つの心があって、迷いがある場合にあてはまる。「百人・千人なれども」に対比していわれたものであるが、個人としても銘記すべき御教示である。
何か事を成就しようとする場合、それをなすべきか否かに逡巡があったり、どのようにするかに迷いがあったりすれば、十分な力を発揮することはできない。
まず目標を明確にし、どう達成していくか、しっかりした方向性を確立してこそ、それに全力を傾注できるものである。
ともあれ、一人の心でも二つの心があれば、物事を成就することはできないし、また大勢の人でも心を一つにすれば、必ず事を成就することができるとの御教示は、個人の人生にとっても、社会の共同生活においても、重要な指針と拝することができる。
日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成(じょう)じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候
当時、諸宗諸派は権力と結託し、日蓮大聖人一門に弾圧を加えてきた。大聖人一門を弾圧するということでは〝体同〟していたが、その心の中は、本来、それぞれに信仰が異なっているうえ、自宗自派の利益、権益を守り、名聞をたもつことしか考えていなかった。つまり〝異心〟である。
故に、どんなに数が多く、強大な権力を持っていたとしても、彼らは必ず崩壊すると、大聖人は見抜いておられたのである。
それに対して大聖人門下は、社会における立場はさまざまに〝異体〟であり、数は少数であっても〝同心〟であるなら、必ず広宣流布を成し遂げることができるとの仰せである。
しょせん〝同心〟とは御本尊を信ずる心を同じくすることである。さらに「大願とは法華弘通なり」(0763:第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事:02)、また「日蓮と同意ならば」(1360:諸法実相抄:01)「わたうども二陣三陣つづきて」(0911:種種御振舞御書:01)と仰せのように、広宣流布の大目的を、同じく己が使命とすることである。
この異体同心の鉄桶の団結があってこそ「若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(1377:生死一大事血脈抄:14)、「日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし」(1360:諸法実相抄:10)との御聖意に応えられることを銘記したい。
そこに〝異心〟を持ち込む人は獅子身中の虫であり、破和合僧の逆罪を犯すことになる。生死一大事血脈抄に「剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(1337:14)と仰せである。まさしく〝異体異心〟は広宣流布の最大の敵である。
この〝異心〟とは、根本は日蓮大聖人のお心に反し、背くことであるが、だれも最初から大聖人に背こうとして背く人はいない。
それが何故〝異心〟に陥ってしまうのか、つきとめるところ我慢・我見・我執である。
自己の利益や感情、驕慢を中心とした行き方をすれば、それは必然的に〝異体異心〟に陥り、不平不満、怨嫉などが渦巻くことになる。あげくは「城者として城を破る」大怨敵と化すのである。
釈尊在世時代の提婆達多、日蓮大聖人御在世時代の三位房日行、大聖人滅後の日昭等の五老僧がその悪しき代表例である。
いずれも〝異心〟を生じ、離反した発端が、結局、私怨であったことに留意し、後代の戒めとして心していきたいものである。
第二章(外寇に寄せ衆生救う大慈示す)
本文
御文はいそぎ御返事申すべく候ひつれどもたしかなるびんぎ候はでいままで申し候はず、べんあさりがびんぎあまりそうそうにてかきあへず候いき、さては各各としのころ・いかんがとをぼしつる、もうこの事すでにちかづきて候か、我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし、かれだにもつよるならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん、譬へば灸治をしてやまいをいやし針治にて人をなをすがごとし、当時はなげくとも後は悦びなり、日蓮は法華経の御使い日本国の人人は大族王の一閻浮提の仏法を失いしがごとし、蒙古国は雪山の下王のごとし天の御使として法華経の行者をあだむ人人を罰せらるるか、又現身に改悔ををこしてあるならば阿闍世王の仏に帰して白癩をやめ四十年の寿をのべ無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし、恐恐謹言。
八 月 六 日 日 蓮 花 押
現代語訳
御手紙に急いで御返事申し上げるべきであったけれども、確かな機会がなかったので今まで申し上げられないでいた。弁阿闍梨日昭の来訪の折は、あまりに急いでいたので書く間がなかった。
さて、あなた方が数年来どうであろうかと思われてきた蒙古襲来のことは、既に近づいているようである。我が国の亡びることは嘆かわしいけれども、これ(立正安国論の予言)さえも嘘になるならば、日本国の人々はますます法華経を誹謗して万人が無間地獄に堕ちることになろう。蒙古が強く攻めてくるならば、日本の国は亡びるとしても謗法は薄くなるであろう。たとえば、お灸をして病気を癒し、鍼で人の病を治すようなものである。その時は痛くて嘆いたとしても、後には悦びとなるのである。
日蓮は法華経の御使いである。日本国の人々は、大族王が一閻浮提の仏法を亡ぼしたようなものである。蒙古国は雪山の下王のようなものである。諸天善神の御使いとして法華経の行者を怨む人々を罰しようとされているのであろうか。また、現身に悔い改める心を起こしたならば、阿闍世王が釈迦仏に帰伏して白癩病を治し、四十年の間寿命を延ばし、無根の信という位に登って現身に無生法忍という悟りを得たのと同じように救われるのである。恐恐謹言。
八月六日 日 蓮 花 押
語釈
べんあさり
(1222~1323)。日昭のこと。字は成弁。承久3年(1221)下総国海上郡能手郷(千葉県匝瑳市能手)の生まれ。嘉禎元年(1235)ごろ天台宗の寺で出家。後、比叡山に登って天台の教観二門を修したが、日蓮大聖人が立教開宗されたことを聞いて松葉ヶ谷の草庵を訪れ、建長5年(1254)11月に入門、文永6年(1269)9月、文永9年(1272)、建治2年(1276)に大聖人から頂いた辧殿御消息をいただいている。この間、大聖人の佐渡流罪等があったが、鎌倉にとどまって留守を守る。弘安5年(1282)10月、大聖人が池上で入滅されるに先立って六老僧の一人となり、翌年1月、大聖人100ヵ日忌後、鎌倉の浜土に帰って妙法華寺を創した。弘安8年(1285)4月に天台沙門と名乗って幕府に申状を提出した。正応元年(1288)9月には大聖人7回忌報恩のために経釈秘抄要文を著し、正安2年(1300)4月には権律師になり、京都四条烏丸において法華本門円頓戒血脈譜を書いて日祐に授け、元亨3年(1323)3月26日、鎌倉・浜土(静岡県三島市玉沢)にて死去。弁阿闍梨は日昭の号、阿闍梨は高徳の僧をさす。
もうこ
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
灸治
もぐさなどを皮膚の一部に乗せて、火をつけ、温熱効果によって行う治療法。
針治
鍼を用いて治療すること。金・銀・鉄などでできた鍼を皮下や皮肉に刺して行う治療法。
大族王
大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝った。大族王は幻日王の母のとりなしで、国に還るよう放されたが、大族王は加湿弥羅国に投じ、その国を奪って自立した。その勢いに乗り健駄羅国を征伐し仏教徒を殺害した。大族王は国に還ろうとしたが、中途で死んだ。幻日王は後に王位を捨てて出家した。
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
雪山の下王
釈尊滅後六百年頃、北インド都貨邏国の王。大唐西域記巻三によると、加湿弥羅国の迦弐色迦王の死後、王と称した訖利多種の者が僧を追放し、仏法を壊滅しようとした。それを聞いた雪山下王は、国内の勇士三千人を集めて隊商に扮し、加湿弥羅国に入り、重宝を献上すると見せかけて袖に隠し持った利剣で訖利多王の首を斬った。そして国を平定し、仏法をもとのように栄えさせたという。
現身
①現世に生きている身、現在の身。②仏・菩薩が衆生救済のために種々の身を化現することをいう。
阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
無根の信
信ずる心のない者が仏力によって信心を起こすこと。
無生忍
無生法忍の略。無生無滅の真理を悟って心を安ずること。
講義
本抄後半は前半とは内容が大きく変わり、先の立正安国論の予言どおり、蒙古襲来という他国侵逼難が文永の役として現実のものとなり、また第二次の蒙古襲来の危機が迫っている国情をふまえながら、蒙古の来襲がどのような意味をもつかを、仏法の立場から述べられている。
蒙古来襲によって日本一国の運命が風前のとなりつつある状況に関して、日蓮大聖人は立正安国論の予言が的中したと喜ばれているわけではない。
御自身が生を受けたこの国をだれよりも愛し、人々の苦悩を自らの苦とされたからこそ、大聖人は、天変地夭や国難の由って来たる原因を明らかにされ、その解決と救済の方途を示されて、その根本である邪法を捨て正法を立てるべきことを身命をなげうって訴えてこられたのである。
しかし、もし立正安国論の予言が事実となって現れないで、虚妄となってしまえば、一国挙げてますます法華経を誹謗するようになり、万人が無間地獄の業因をつくることになる。大聖人が最も憂えられたのはこのことである。
それ故に「我が国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば・日本国の人人いよいよ法華経を謗して万人無間地獄に堕つべし」と仰せられているのである。
立正安国論の予言が的中したことは、ひとえに日蓮大聖人の智慧と仏法の法理の正しさを証明するものにほかならない。
そして「かれだにもつよるならば国はほろぶとも謗法はうすくなりなん」と仰せられ、蒙古の侵攻で国が滅びることは悲しいことであるが、この現証によって、人々の邪法への執着、法華経誹謗の心が断ち切られ、正法に目覚める転機となることを期待されたのである。
それはあたかも医法の一つである鍼灸によって病気を治療するとき、一時は痛かったり、熱かったりするが、治療後は気分爽快となり、病気が治癒して悦ぶようなものである。
この御文には、さらに根本的に拝すれば、日蓮大聖人の仏法における人間観、国家観が明確に示されている。
大聖人があくまでも根本に置かれているのは〝人間〟であり、〝国家〟を超えた〝人間主義〟である。国を愛する以上に〝人間〟を大事にされているのである。
そして国法や国政の根本にあって、この〝人間〟の生命を左右している法、すなわち、仏法の、三世を貫く因果の理法の厳しさを見つめ、これを教えることによって、根源的な幸福への道を示されたのである。
どこまでも一人一人の正法への覚醒を訴えられる大聖人の大慈悲を、一層深く胸奥にとどめていきたい。
無根の信と申す位にのぼりて現身に無生忍をえたりしがごとし
正法誹謗を重ねている日本の一切衆生を、仏法を排斥し破壊した大族王にたとえ、またこの日本を責める蒙古を、仏教を弾圧していた訖利多王を滅ぼして仏法を興隆した雪山の下王になぞらえて、蒙古襲来の意義について述べられている。そして、阿闍世王を例に日本国の人々が正法誹謗の罪科を心から改悔するならば、国も民も必ず救われることを説かれている。
釈尊在世時代、阿闍世王は提婆達多にそそのかされ、父王を幽閉した末に殺した。また父を助けようとした母も殺そうとしたが、耆婆大臣に諌められて思い止まった。さらに酔象を放って釈尊を殺そうとはかったりした。
やがて、提婆達多は生きながらにして大地が割れて地獄へ堕ちた。阿闍世王も父を殺した罪に悩み、全身をおおう悪瘡で苦しんだ末、耆婆の懺悔の勧めに従って改心し、釈尊に帰依したのである。
その結果、たちまちに悪瘡が癒え、寿命をのばすことができたことを「現身に改悔ををこしてあるならば阿闍世王の仏に帰して白癩をやめ四十年の寿をのべ無根の信と申す位にのぼりて」と述べられているのである。
無根の信とは、初めは全く信心がなかった者が、後に信ずる心を生じることをいう。
人間の生命には、本来、信根・善根など、仏法を信じて善行を積む可能性が具わっているのであるが、無根とはその可能性が全く閉ざされていることをいう。
しかし、信根・善根がなくなったわけではなく、深く内在しているのである。故に、後に何らかの縁により、仏力・法力にふれるならば、信ずる心を生じることができるのである。
このように、後に信心が生じてきたことを無根の信というのである。したがって、無根の信の位に入る条件はそれまでの信心なき自分に対して、深い反省と懺悔の念がなければならない。
なお、無根の信は、小乗の初果、別教の十住、円教の十信の位にあたり、見思の惑を断じた位とされている。
また無根の信の位にのぼって得た無生忍とは、無生法忍ともいい、一切諸法は無生無滅であるとの真理を悟って、そこに安住して心を働かさない境地をいうのである。