乙御前御消息
建治元年(ʼ75)8月4日 54歳 日妙・乙御前
第一章(内道・外道の勝劣を明かす)
本文
漢土にいまだ仏法のわたり候わざりし時は、三皇・五帝・三王、乃至太公望・周公旦・老子・孔子つくらせ給いて候いし文を、あるいは経となづけ、あるいは典等となづく。この文を披いて、人に礼儀をおしえ、父母をしらしめ、王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがい、天も納受をたれ給う。これにたがいし子をば不孝の者と申し、臣をば逆臣の者とて失にあてられしほどに、月氏より仏経わたりし時、ある一類は「用うべからず」と申し、ある一類は「用うべし」と申せしほどに、あらそい出来して召し合わせたりしかば、外典の者負けて仏弟子勝ちにき。その後は、外典の者と仏弟子を合わせしかば、氷の日にとくるがごとく火の水に滅するがごとく、まくるのみならず、なにともなき者となりしなり。
現代語訳
中国にまだ仏法の伝わらなかった時は、三皇・五帝・三王の諸王や、太公望・周公旦・老子・孔子等の聖賢がつくられた書を、あるいは経と名づけ、典等と名づけた。これらの書を開いて人に礼儀を教え、父母を知らせ、王と臣とを定めて世を治めたから、世の人も従い、天も願いを聞き入れられた。この経典に背く子を不孝の者といい、臣下を逆臣の者と称して罪に処せられたが、そのうちにインドから仏経が伝来してきた時、ある一類は仏経を用いてはならないといい、ある一類は仏経を用いるべきであると主張してあらそいが起き、双方が、朝廷に召されて対決したところが、外典の者が負けて仏の弟子が勝ったのである。そののちは外典の者と仏弟子とを対決させると、あたかも氷が日光に照らされて解け、火が水によって消えるように、外典の者は負けただけではなく、なんの価値もない者となったのである。
語釈
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
三皇
中国古代の伝説上の理想君主。伏羲・神農・黄帝または伏羲・黄帝・神農とされるなど異説も多い。
五帝
三皇に続く中国古代の五人の帝王。諸説があるが史記によれば伏羲・顓頊・帝嚳・尭・舜。
三王
中国古代、夏の禹王、殷の湯王、周の文王の三王をいう。異説には周王を武王ととるものがある。三王とも善政を施したことで特に尊敬を集めた。
大公望
中国周代の賢者。名は呂尚。周の文王の師。渭水で釣りをしていて周の西伯に会い、請われてその師となる。文王の祖父太公が周に必要な人材として待ち望んでいた人という意味で、のちに太公望と称された。文王の死後、武王を助け、殷の紂王を滅ぼして斉国の主となった。
周公旦
中国周代の賢者。姓は姫氏、名は旦という。文王の子。文王の死後、兄の武王を助けて殷の紂王を滅ぼし、武王没後は幼い成王を助けて政治をとり周朝の基礎を固めた。周公旦の政治は殷代の神権政治を脱却し、礼楽を採用して、社会秩序の根本としたことが特色とされる。
老子
古代中国の思想家。道徳経を著す。史記によると、楚の苦県の人。姓は李、名は耳、字は耼、または伯陽。周の守藏の吏。周末の混乱を避けて隠棲しようとして、関所を通る時、関の令尹喜が道を求めたので、道徳経五千余言を説いたと言う。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、万物を生み出す根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人が道の原理に法って事を行なえば現実的成功を収めることができるとする。
孔子
(BC0551頃~BC0479)。中国春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘、字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。貧しいなかで育ったが、礼を学び学問に熱心であった。理想政治の実現をめざして政治改革を行なったが失脚して、衛、陳等を遍歴。前四八四年、魯国に帰り著述に励み、顔回・子路・子貢、子游など多くの弟子の育成に努めた。
経
①儒教でとく特に重要とされる書物。経書。経籍。②サンスクリット(sūtra)の漢訳。仏教の経典。③儒教・仏教以外でも、ある分野・宗教において特に重要とされる書物。④ 四部分類の一つ。⑤織物の縦糸。
典
①大切な書物。ふみ。「 典籍 ・楽典 ・経典 ・外典・古典・字典 ・辞典 ・聖典 ・内典 ・仏典 ・文典 ・宝典 。② おきて。のり。「 典型 ・典範 ・典例 ・恩典 ・教典 ・法典 」。 ③ 根拠がある。一定の型。「典雅 ・典拠 ・典故 ・典麗 ・出典 」 。④ 儀式。「 典礼 ・祭典 ・式典 ・大典 ・特典 」。⑤ つかさどる。「 典獄 ・典侍 ・典薬 」。 ⑥ 質入れ。「典当 ・典物 ・典舗 」。
仏弟子
仏教を修行する者。釈尊の弟子。
外典の者負けて……
外典とは、仏教以外の書籍。内典に対する語。外典の者とは仏教以外の経典、思想の信奉者。仏祖統紀巻三十五によると、後漢の明帝の永平14年(0071)、漢の道士ら数百人が、迦葉摩騰、竺法蘭の二僧と討論をして敗れたとある。四条金吾殿御返事に詳しい。
仏弟子
仏教を修行する者。釈尊の弟子。
講義
本抄は、建治元年(1275)8月4日、日蓮大聖人が54歳の時、身延でしたためられたものであるが、御真筆は現存しない。別名を「身軽法重抄」という。本抄のあて名は「乙御前」とあるが、内容はその母親に与えられたお手紙である。
まず、中国への仏教伝来の例を引きながら、内道・外道の勝劣を明かされる第一章から始まって、内典の中にも、勝劣・浅深があり、そのなかでもとくに法華経が、他の一切経に比較して、もっとも勝れて立派な教えであることを強調される。ついで、諸経の人師にも経と同様、勝劣・浅深があることを論じ、とくに、当時、隆盛を極めていた真言師と法華経の行者とを対比され、真言師を犬とすれば、法華経は師子であり、また、前者を修羅とすれば、後者は日輪のように、比較もできないほど、法華経の行者は真言師に勝ることを教えられている。また、遠い佐渡といい、不便な身延の山中といい、女人の身で大聖人を慕って訪ね、仏法を求める乙御前の母の姿は、このうえなく不思議なことであると賞められている。そして、夫なき身ではあっても、ますます強盛に信心に励むならば、妙法の功徳は絶大であると述べて激励されている。
法華経がもっとも勝れた経であることを述べるにあたって、まず、中国の歴史において、仏教が伝来したことにより、それ以前の外典の教えが力を失った様子を叙述されている。すなわち、まず内道と外道との勝劣を歴史的事実から明らかにされたところである。
此の文を披いて人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ、王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがひ、天も納受をたれ給ふ
仏教渡来以前からの中国思想の主柱である儒教が、中国社会で果たした役割を、簡潔に述べられている。
儒教の特色は、人間社会の中での相互の在り方について、規範を確立したことにある。「人に礼儀」とは、同じ人間としての接し方であり、「父母をしらしめ」は、その中でも自分を産み、育ててくれた父母に対する敬いの心、「王臣を定め」は、国家、社会の中でのそれぞれの立場の遵守である。これらの基本原理をもって「世をおさめしかば」とあるように、儒教は、なによりも支配的立場にある人々によって積極的に支持された。すなわち、支配者の哲学であったといえる。
中国が、周の統一以来、巨大な国家でありながら、幾多の変動はあったものの、他のいかなる文明社会にも見られないほどの安定性を保つことができたのは、儒教を一貫した精神的基盤としたことによる面が大きい。当然、そうした支配者の哲学ということから、支配者の御都合主義と民衆の自由への圧迫に陥りやすいという限界は認めなければならない。しかし、儒教がそれなりに果たした人間精神進歩の功績を、大聖人は客観的に評価されているのである。
開目抄にいわく「三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁えて孝をいたす」(0186:02)と。儒教思想の源流といわれる三皇の教えは、父の恩を教えたとされる。このことは、三皇がたとえば伏義(ふっき)は狩猟、漁労を、神農は農耕を、というように、技術を教えたとされることと関係がある。つまり、こうした技術とともに、技術伝達の関係として、父と子のつながりが必然的に緊密化したと考えることができる。さらに五帝は、家族制度の確立によって、老いた父母を子が養うべきことを教えた。こうして、家というものを基盤とした儒教によって、国という集団生活に必要な礼儀・仁義等の道徳を行じ、安定した社会生活を営む基盤ができたのである。
しかし、仏教はこうした外典の教えはあくまでも仏教へ入るための序分であるとする。すなわち儒教は礼楽等を教えて、のちに仏教が伝来した時に、仏教の理解を容易にさせるためであったとするのである。なぜなら、儒教は、人間関係についての在り方や行動の規範は説いたが、宿業などに代表される人間生命の内面の問題については、解決の方途を示さない。すなわち、ただ現世における五常の道を行ずるのみで、一人として永遠の幸福へ導くことはできない。まして生命を覆う無明を破ることはできず、仏法と対比するならば、まことに浅薄なものである。
人間の生命は、現在における外の世界のさまざまな事象や他の人々との関係によってと同時に、その奥深いところで、過去・現在・未来の三世にわたる因果の法則によって動かされている。したがって、この生命を動かす因果の理法を正しくわきまえなければ根本的な幸福と社会の安定を得ることはできない。生命の因果の法則を立て得ない儒教では、真実の人生観の確立はありえないので、仏教に対して儒教を外道というのである。開目抄上には、これを「外典・外道の四聖三仙、其の名は聖なりといえども、実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども、実に因果を弁えざる事嬰児のごとし。彼を船として生死の大海をわたるべしや。彼を橋として六道の巷こゑがたし」(0188:06)と明快に仰せられている。この文に仰せの「因果」とは、生命の因果の法則であることはいうまでもない。
ここに、本章に述べられるように、仏教が儒教より勝れるゆえんは明らかであり、仏教の興隆とともに儒教が「冰の日にとくるが如く、火の水に滅するが如くまくるのみならず、なにともなき者となりし」原因がある。人人の人生の苦悩を解決する、より力ある宗教は、障害にあったとしてもかならず人々の心の中に受け入れられ、流布していくのである。