三三蔵祈雨事

 

三三蔵祈雨事

 建治元年(ʼ75)6月22日 54歳 西山殿

第一章(善知識の大切なるを明かす)

本文

夫れ、木をうえ候には、大風ふき候えども、つよきすけをかいぬればたおれず。本より生いて候木なれども、根の弱きはたおれぬ。甲斐なき者なれども、たすくる者強ければたおれず。すこし健げの者も、独りなれば悪しきみちにはたおれぬ。
 また、三千大千世界のなかには、舎利弗・迦葉尊者をのぞいては、仏よにいで給わずば、一人もなく三悪道に堕つべかりしが、仏をたのみまいらせし強縁によりて、一切衆生はおおく仏になりしなり。まして阿闍世王・おうくつまらなんど申せし悪人どもは、いかにもかなうまじくて、必ず阿鼻地獄に堕つべかりしかども、教主釈尊と申す大人にゆきあわせ給いてこそ仏にはならせ給いしか。
 されば、仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちえなににかせん。ただあつき・つめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。

現代語訳

さて、植えた木であっても、強い支柱で支えておけば、大風が吹いても倒れない。もともと生えていた木であっても、根が弱いものは倒れてしまう。腑甲斐ない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。少し強い者でも、独りであれば、悪い道では倒れてしまう。

三千大千世界のなかでは、舎利弗・迦葉尊者を除いては、仏が世に出現されなかったならば、一人ももれなく三悪道に堕ちるところであったが、仏を頼み奉った強い因縁によって、一切衆生は多く仏になったのである。ましてや阿闍世王や鴦掘摩羅などという悪人達は、どんなにしても成仏ができなくて、必ず阿鼻地獄に堕ちるはずであったけれども、教主釈尊という偉大な人に行きあったからこそ仏になることができたのである。それゆえ仏になる道は善知識に勝るものはない。我が智慧が何の役に立つだろう。ただ熱さ寒さを知るばかりの智慧だけでもあるならば、善知識が大切である。

語釈

三千大千世界

古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。

舎利弗

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、八歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

迦葉

梵語マハーカーシャパ(Mahākāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。釈尊の十大弟子の一人。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目に悟りを得たという。衣食住等の欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称される。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお、法華経信解品第四には、須菩提・迦旃延・迦葉・目連の四大声聞が、三車火宅の譬をとおして開三顕一の仏意を領解し、更に舎利弗に対する未来成仏の記別が与えられたことを目の当たりにし、歓喜踊躍したことが説かれ、さらに法華経授記品第六において未来に光明如来になるとの記別を受け、他の三人も各々記別を受けた。

三悪道

三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。

阿闍世王

梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。

あうくつまら

梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。央掘摩羅・鴦掘摩とも書く。指鬘と訳す。釈尊在世当時の弟子。央掘摩羅経巻一等によると、人を殺して指を切り、鬘(首飾、髪飾)としたのでこの名がある。外道の摩尼跋陀を師としてバラモンを学んでいたが、ある時、師の妻の讒言にあい、怒った師は央掘摩羅に1000人を殺してその指を取るよう命じた。そのため999人を殺害し、最後に自分の母と釈尊を殺害しようとしたが、あわれんだ釈尊は彼を教化し大乗につかせたという。仏説鴦掘摩経では100人を殺そうとして99人を殺したとある。

阿鼻地獄

阿鼻大城・阿鼻地・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

善知識

善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。

講義

本抄は、建治元年(1275)6月22日、聖寿54歳の御時、身延でしたためられ、西山入道に与えられた御手紙である。

西山入道は、駿河国富士郡西山郷の地頭で、所領の名にちなんで西山殿と呼ばれた。日興上人の外祖父である河合入道の一族との説もある。

大聖人に帰依する以前は、真言宗を信仰していた。本抄でも、三人の三蔵並びに弘法の邪義を徹底的に破折され、悪知識である真言の邪師を捨てて、最高の善知識であられる日蓮大聖人を信じてこそ、必ず成仏の功徳を受けることができるとの意を述べておられる。

本抄の題号は、善知識をあらわすために、善無畏・金剛智・不空の三三蔵の祈雨のことを取り上げ、その悪知識なる所以を説かれているところから、三三蔵祈雨事と名づけられたものである。

本抄の御真筆は大石寺に現存する。

さて本抄は、まず初めに仏法を修行し成仏するためには善知識に値うことが肝要であることを、植木とその支え、悪路の歩行に譬喩を借りて示され、阿闍世王や鴦掘摩羅のような堕地獄必定の悪人でさえも釈尊という善知識に値うことによって成仏できたことを説かれている。

植木の譬喩では、木を仏道修行する凡夫にたとえ、強き支柱を善知識にたとえている。大風とは仏道修行の道程に襲いかかる三障四魔の風を意味する。歩行者の譬喩では、歩行者は凡夫であり、道の悪いことは種々の障害、苦難をあらわしている。凡夫の歩行者を助け、導くものが善知識である。

されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり

善知識の大切さを説かれた御文である。仏道修行において善知識に値うことこそ成仏への要諦である。寒熱を知るほどの智慧さえあれば善知識を求めて親近し、教えを求めてこそ成仏が可能になるとの仰せである。

善知識とは、仏道を成就させる善因縁の知識をいい、有徳の人を意味する。仏、菩薩、二乗、人天を問わず、人を仏道に導く者を善知識という。

逆に、仏道修行を妨げ、衆生を迷わせる悪友、悪師のことを悪知識という。

増一阿含経巻十一には、比丘が善知識に親近し、悪知識から遠ざかるべき理由が示されている。

「爾の時世尊、諸比丘に告げたまわく『当に善知識に親近すべし、悪行を習い、悪行を信ずること莫かれ。然る所以は、諸比丘、善知識に親近し、已に信ずれば便ち増益し、聞・施・智慧普く悉く増益せん。若し比丘、善知識に親近して悪行を習うこと莫かれ。然る所以は、若し悪知識に近づかば便ち、信・戒・聞・施・智慧なし。是の故に諸比丘、当に善知識に親近すべし。悪知識に近づくこと莫かれ。是の如く諸比丘、当に是の学を作すなし』と」。

すなわち善知識は、信を益し、聞・施・智慧も増益するからである。

法華経妙荘厳王本事品には「若し善男子・善女人は、善根を種えたるが故に、世世に善知識を得ば、其の善知識は、能く仏事を作し、示教利喜して、阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。大王よ。当に知るべし、善知識とは、是れ大因縁なり。所謂る化導して仏を見、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すことを得しむ」と説かれている。

ここには、善知識はよく衆生の菩提心を発さしめるとある。

天台大師は摩訶止観巻四で善知識に近づくべきことを説き、その理由を次のように示している。「善知識とは、これ大因縁なり、所謂、化導して仏に見ゆることを得しむ」。

日蓮大聖人は、守護国家論のなかで、末代凡夫のための善知識を次のように論じておられる。

「第三に正しく末代の凡夫の為の善知識を明さば、問うて云く善財童子は五十余の善知識に値いき其の中に普賢・文殊・観音・弥勒等有り常啼・班足・妙荘厳・阿闍世等は曇無竭・普明・耆婆・二子夫人に値い奉りて生死を離れたり此等は皆大聖なり仏・世を去つて後是の如きの師を得ること難しとなす滅後に於て亦竜樹・天親も去りぬ南岳・天台にも値わず如何が生死を離る可きや、答えて云く末代に於て真実の善知識有り所謂法華涅槃是なり(中略)此の文を見るに法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」(0066:06)。

末代凡夫にとっての善知識は、末法の法華経の行者であり、久遠元初の御本仏であられる日蓮大聖人にほかならないのである。

 

 

第二章(善知識に値うことの難きを示す)

本文

而るに善知識に値う事が第一のかたき事なり、されば仏は善知識に値う事をば一眼のかめの浮木に入り・梵天よりいとを下て大地のはりのめに入るにたとへ給へり、而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく善知識は爪上の土よりもすくなし、補陀落山の観世音菩薩は善財童子の善知識・別円二教ををしへて・いまだ純円ならず、常啼菩薩は身をうて善知識をもとめしに曇無竭菩薩にあへり、通別円の三教をならひて法華経ををしへず、舎利弗は金師が善知識・九十日と申せしかば闡提の人となしたりき、ふるなは一夏の説法に大乗の機を小人となす、大聖すら法華経をゆるされず証果のらかん機をしらず、末代悪世の学者等をば此をもつてすいしぬべし、天を地といゐ東を西といゐ・火を水とをしへ・星は月にすぐれたり、ありづかは須弥山にこへたり、なんど申す人人を信じて候はん人人は・ならはざらん悪人に・はるかをとりてをしかりぬべし。

 

現代語訳

しかしながら、善知識に値うことが最も難しいことである。それゆえ、仏は善知識に値うことを、一眼の亀が浮木に入るようなものであり、梵天より糸を下げて大地に置いた針の目に通すようなものであると譬えられている。そのうえ末代悪世には、悪知識は大地微塵よりも多く、善知識は爪の上の土よりも少ない。

補陀落山の観世音菩薩は善財童子の善知識ではあるが、別教・円教の二教を教えて、いまだ純円の法華経は教えなかった。常啼菩薩は身を売って善知識を求めたところ曇無竭菩薩に会った。しかし通教・別教・円教の三教を習っただけで法華経は教えられなかった。舎利弗は鍛冶屋の善知識となって、九十日の間教えたが、一闡提の人にしてしまった。富楼那は一の間の説法で、大乗の機の人に小乗を教えて小乗の人にしてしまった。

大聖でさえ法華経を説くことは許されず、証果の阿羅漢であっても機根を知らない。末代悪世の学者等のことはこれらの例をもって推し量るべきである。天を地といい、東を西といい、火を水と教え、星は月に優れている、蟻塚は須弥山よりも高いなどという人々を信じている人々は、習わない悪人よりも、はるかに劣っているのである。

 

語釈

一眼のかめの浮木に入り

法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く、又た一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」とある。正法に巡りあい、受持することの難しさを、一眼の亀が海中の浮木にあうことの難しさに譬えたもの。きわめて稀なことの譬えに用いられる。雑阿含経巻十五等にも説かれる。「松野殿後家尼御前御返事」に詳しい。

 

悪知識

善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001:08)とある。

 

補陀落山

インド南海岸にあるという山の名。補陀落迦、補陀洛とも書き、海島・光明と訳す。観世音菩薩の住処とされる。華厳経巻五十には、遊行していた善財童子に釈尊が「此の南方に於いて山有り、名づけて光明と曰う。彼に菩薩有り、觀世音と名づく。汝彼に詣りて問え」と奨め、同巻五十一に童子が観世音菩薩に会ったことが述べられている。

 

観世音菩薩

梵語アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)の音写が阿縛盧枳低湿伐羅で、観世音と意訳、略して観音という。光世音、観自在、観世自在とも訳す。異名を蓮華手菩薩、施無畏者、救世菩薩ともいう。法華経観世音菩薩普門品第二十五には、三十三種の身に化身して衆生を救うことが説かれている。

 

善財童子

華厳経に説かれる。華厳経巻四十五によれば、長者の五百童子の一人で、生まれた時、種々の珍宝が地から涌き出で、衆宝や諸の財物を降らせて一切の庫蔵に充滿させたところから、善財と名付けられたという。文殊師利菩薩に会って菩提心を発して以後、南方に法を求めて観世音菩薩等、五十余の善知識を歴訪し、ついに広大不可思議の仏海に証入したという。

 

常啼菩薩

梵名サダープララーパ(Sadāpralāpa)。音写して薩陀波倫。般若経巻三百九十八に説かれる。身命を惜しまず、財利を顧みず、東方に般若波羅蜜を求めたという。常啼の名の由来について、大智度論巻九十六には「小事に喜んで啼いた故、また衆生の悪世にあって貧窮・老病・憂苦するのを見て悲泣する故、あるいは仏道を求めて啼哭すること七日七夜であった故に常啼という」(取意)とある。

 

曇無竭菩薩

梵名ダルモードガタ(Dharmodgata)という。般若経に説かれる菩薩の名。法盛・法勇・法尚等と訳す。大品般若経巻二十七によれば、曇無竭菩薩は、六万八千の婇女と共に五欲を具足し、共に娯楽し已りて、衆香城で日に三度、般若波羅蜜を説いた。城中の男女は、人の多く集まる所に大法座を敷いて、黄金等をもって供養し恭敬した。法を聞き、受持した者は悪道に堕ちなかったといわれる。また薩陀波倫菩薩(常啼菩薩)はこの曇無竭菩薩について法喜を得、三昧を得たという。

 

通別円

天台の教判にいう化法の四教のうち蔵教をのぞいたもの。 通は通教 (声聞・縁覚・菩薩に通ずる大乗初門の教え)、 別は別教 (菩薩だけに説かれた教え。 空・仮・中の三諦が各別であるような法門)、 円は円教 (完全円満な三諦円融法門)

 

金師

金師は鍛冶職のこと。金物を造る者のことで、金属を鍛えるとき、精神の集中を要するので、呼吸を調えることがもっとも大事とされた。教機時国抄には「仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし舎利弗尊者は金師に不浄観を教え浣衣の者には数息観を教うる間九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ、仏は金師に数息観を教え浣衣の者に不浄観を教えたもう故に須臾の間に覚ることを得たり、智慧第一の舎利弗すら尚機を知らず何に況や末代の凡師機を知り難し」(0438:08)とある。

 

闡提

一闡堤のこと。梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦、一闡底柯とも書く。断善根、信不具足、焼種、極悪、不信等の意で、正法を信じないで誹謗し、また誹謗の重罪を悔い改めない者のこと。涅槃経一切大衆所問品第十七には「麁悪言を発して正法を誹謗し、この重業を造り永く改悔せず、心に懺悔無くば、是の如き等の人を、名づけて一闡提の道に趣向すと為す。もし四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定んで是の如き重罪を犯すを知りつつ、しかも心にすべて怖畏・慙愧無く、肯て発露せず。仏の正法において、永く護惜建立の心無く、毀呰軽賎して、言に過咎多き、是の如き等の人も、また一闡提の道に趣向すと名づく」とある。

 

ふるな

梵名プールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūra Maitrāyanīputra)の音写である富楼那弥多羅尼子の略。釈尊十大弟子の一人。釈迦の実父・浄飯王の国師バラモンの子で、釈尊と同年月に生まれたという。聡明で弁論に長じ、説法第一と称される。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。法華経化城喩品第七に説かれた化城宝処の喩をとおして開三顕一の仏意を領解し、法華経五百弟子受記品第八において法明如来の記別を受けた。

 

一夏

416日から715日までの90日間のこと。僧侶が行脚をしないて室内で修行に励む期間をいう。インドでは夏季に雨が多く托鉢伝道に適しないため、修行僧達は、夏の三か月間は一定の場所にこもって修行したことに由来する。本文の「一夏の説法」の故事については法華経三大部補注巻一に「宝篋経に云く、富楼那が三昧に入り、百千の尼乾外道を見て、化導をしようとして法を説いたが、反って軽笑せられ、三月のうちに教化を受けた者は無かった」とある。

 

大乗

仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。

 

証果のらかん

六神通を得た阿羅漢のこと。すなわち、天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)のこと。仏道修行の根本は漏尽通の薪を焼き菩提の慧火に転換していくのであり、阿羅漢は声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。

 

須弥山

古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。

 

講義

前段で善知識の大切さを説かれたあと、この段では善知識に値うことのむずかしさを〝一眼の亀〟等の仏の記文を引かれ、また観世音菩薩、曇無竭菩薩、舎利弗、富楼那等の例を示され、さらに末代の悪世の学者の姿を挙げて、教示されている。

善知識に値うことが爪上の土より少ないことは、守護国家論にも、涅槃経の文を引用された後、次のように仰せである。

「此の文の如くんば法華涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く法華涅槃を信ずるは爪上の土の如し」(0064:01)。

とくに、末代悪世についても「故に末代に於て法華経を信ずる者は爪上の土の如く法華経を信ぜずして権教に堕落する者は十方の微塵の如し」(0064:11)と仰せである。

本文に「大聖すら法華経をゆるされず」と仰せになっているのは、善財童子に華厳経の別円二教を教えた観世音菩薩、並びに常啼菩薩に般若経の通別円三教を教えた曇無竭菩薩のことをさしている。

これらの大聖は、いずれも爾前の円にとどまり、法華経の純円を人々に教え弘めることはできなかったのである。

「証果のらかん機をしらず」とは、鍛冶職に不浄観、浣衣者に数息観を説き、かえって一闡提人とした舎利弗、大乗教を聞くべき機根の衆生に小乗教を説き、ついに小乗の人とした富楼那をさしている。舎利弗や富楼那のような証果を得た阿羅漢でさえも、機根を見抜くことができなかったのである。

舎利弗のことについては、教機時国抄で次のように仰せである。

「舎利弗尊者は金師に不浄観を教え浣衣の者には数息観を教うる間九十日を経て所化の弟子仏法を一分も覚らずして還つて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ」(0438:08)。

このような上代の実例から推測しても、末代悪世の学者が善知識であるはずはないのである。「天を地といゐ……火を水とをしへ」とは、真言宗が釈尊を凡夫だといってバカにしていることであり、「星は月にすぐれたり、ありづか(蟻塚)は須弥山にこへたり」とは、大日経を法華経より勝れていると言っていることをさされていると拝せられる。こうした顚倒した彼ら悪知識の教説を信ずれば、仏法を習わない世間の悪人よりもはるかに悪い境界、すなわち無間地獄に堕ちるのであり、悪知識の恐ろしさを知らなければならない。

したがって、悪知識を避け、善知識に親近することが大切なのであるが、現実には悪知識が充満しているのが濁世でもある。その場合、正法を知った者にとって大事なことは、たんに悪知識を避け、逃れようとするだけの消極的な行き方ではなく、悪知識をも善知識としていく強さである。それは、正しい善知識をあくまでも自らの根本とした時、悪知識も善知識に変えていけるのである。

日蓮大聖人は、釈尊にとっては提婆達多も、また御自身にとっては良観や平左衛門尉等も善知識であるとされている。

種種御振舞御書には次のように仰せである。

「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(0917:05)、また、富木殿御返事にも「其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり」(0962:08)と仰せである。

一往、仏道修行をする者に迫害を加える人は悪知識であるが、彼らに値って信心をますます強盛にしていくならば、苦難を受けることによって過去世からの宿業を転換し、成仏得道できるゆえに、善知識に変えていくことができるのである。

 

 

第三章(三三蔵の祈雨の現証を挙げる)

本文

日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず、而るに去る文永五年の比・東には俘囚をこり西には蒙古よりせめつかひつきぬ、日蓮案じて云く仏法を信ぜざればなり定めて調伏をこなはれずらん、調伏は又真言宗にてぞあらんずらん、月支・漢土・日本三箇国の間に且く月支はをく、漢土日本の二国は真言宗にやぶらるべし、善無畏三蔵・漢土に亘りてありし時は唐の玄宗の時なり、大旱魃ありしに祈雨の法を・をほせつけられて候しに・大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に・須臾ありて大風吹き来りて国土をふきやぶりしかば・けをさめてありしなり、又其の世に金剛智三蔵わたる、又雨の御いのりありしかば七日が内に大雨下り上のごとく悦んでありし程に、前代未聞の大風吹きしかば・真言宗は・をそろしき悪法なりとて月支へをわれしが・とかうしてとどまりぬ、又同じ御世に不空三蔵・雨をいのりし程三日が内に大雨下る悦さきのごとし、又大風吹きてさき二度よりも・をびただし数十日とどまらず、不可思議の事にてありしなり、此は日本国の智者愚者一人もしらぬ事なり、しらんとをもはば日蓮が生きてある時くはしくたづねならへ、

 

現代語訳

日蓮が仏法の勝劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはない。さらに道理・証文よりも現証に勝れるものはない。しかしながら、去る文永五年の頃、東には俘が起こり、西には蒙古から入貢を迫る使者が着いた。日蓮は「このことは仏法を信じないことから起こったことである。必ず調伏の祈禱が行われるであろう。それはまた真言宗によって行われるであろう」と思案したのである。インド・中国・日本の三か国の間でインドはしばらく置くとして、中国・日本の二国は真言宗によって亡ぼされるにちがいない。

善無畏三蔵が中国に渡った時は唐の玄宗の時代であった。大旱魃があって、祈雨の法を仰せ付けられ、大雨を降らせたので、上一人より下万民にいたるまで大いに喜んでいたところに、しばらくして大風が起こって国土を吹き荒らしたので、皆興ざめてしまった。またその時代に金剛智三蔵が渡った。また雨の御祈りを行ったところ、七日の内に大雨が降り、前の時のように喜んでいたところに、前代未聞の大風が吹いたので、真言宗は恐ろしい悪法であるとして、インドへ追い返されようとしたが、あれこれと言い繕って留まったのである。また同じ御世に不空三蔵が雨を祈ったところ、三日の内に大雨が降った。喜びは前の時のようであった。また大風が吹いて、前の二度の時よりも激しく、数十日もとまらなかった。不可思議なことであった。このことは日本国の智者・愚者は一人も知らないことである。知ろうと思うならば、日蓮が生きている時に詳しく尋ね習いなさい。

 

語釈

東には俘囚をこり西には蒙古より

文永5年(12681月、高麗の使節団が大宰府に到来、蒙古への入貢を迫る国書をもたらした。さらに津軽では蝦夷の蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれたこと。種種御振舞御書に「安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚(くび)をば・ゑぞに・とられぬるぞ」(0921:13)と述べられている。安藤五郎が蝦夷に殺されたのは、直接蝦夷との合戦によるのではなく、権力争いから蝦夷人によって殺されたらしいとの説もある。

 

蒙古

13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(12681月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。

 

真言宗

大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。

 

月氏

インドのこと。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

善無畏三蔵

06370735)。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiha)、音写して輸波迦羅。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」7巻、「蘇婆呼童子経」3巻、「蘇悉地羯羅経」3巻などを翻訳、また「大日経疏(だいにちきょうしょ)20巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。

 

玄宗

06850762)。唐朝第9代皇帝。姓名は李隆基。睿宗の第3子。韋皇后が夫の中宗を殺し政権を手中におさめようと謀ったため、隆基は兵を起こして平定、その功によって皇太子となった。0712年即位。初期の政治は、外征をおさえ、農民生活の安定に努めたので産業も大いに発展し、都、長安は繁栄をきわめた。これを「開元の治」という。しかし晩年には奢侈を好み、楊貴妃を寵したので、綱紀大いに乱れ、安禄山・史思明の大乱を生じた。楊貴妃は殺され、玄宗は一時蜀に逃れた。後に長安に帰り、悶々のうちに、78歳で死んだ。開4年(0716)善無畏三蔵が来唐して以来、真言宗に帰依したという。

 

金剛智三蔵

07610741)。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提。金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時、那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。開元8年(0720)唐の洛陽に入り、玄宗皇帝に迎えられ慈恩寺に住し、その後、長安の薦福寺に移った。「金剛頂瑜伽中略出念誦経」四巻など、多くの密教の諸経論を訳出。弟子に不空などがいる。

 

不空三蔵

07050774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目佉跋折羅。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安で金剛智に従って出家した。開元29年(0741)、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ、「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。

 

講義

仏法の正邪を識別する方法として、法の道理と文証によって批判することが大切であるが、それ以上に重要な批判の原理は現証であることが、まず述べられている。つまり、文証、理証、現証の三証のうちでも特に現証が重要であることを教えられている。

この現証からみても、真言宗がいかに邪悪な教えであるかは明白であるとして、三三蔵や弘法の祈雨の例を挙げられ、その邪法である真言宗によって蒙古調伏を行わせている愚かさを厳しく指摘されるのである。

これら三三蔵の祈雨の失敗については、宋高僧伝にも記されている話である。しかるに「此は日本国の智者愚者一人もしらぬ事なり」といわれたのは、この根源が真言の邪法にあるということを、日蓮大聖人以外は、だれも見抜いていないということであると拝せられる。

 

日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず

 

文証・理証・現証の三証は宗教批判の原理の一つである。この三証によって仏法の正邪、高低浅深を識別することができるのであるが、三証のうちでも特に現証が重要であることを述べられた御文である。

まず文証とは、一つの宗派の教義が、その宗教の開祖――仏教であれば釈尊――の教えに正しくのっとっているかどうか、また、いかなる経文によっているかを調べて判定の基準にすることである。

およそ仏教と名乗る以上は、その教主たる釈尊の教えに正しく従ったものでなければならない。釈尊の教えを記録したものが経典であるから、その教義上の主張は経文上の証拠すなわち文証がなければならないのである。ゆえに持妙法華問答抄では「又云く『文証無きは悉く是れ邪の謂い』とも云へり」(0462:06)と仰せである。

広い意味では、文献には経文または論釈が含まれるが、特に経文が重要視される。それは、経文によらない人師、論師の勝手な臆見に惑わされないためである。

聖愚問答抄には「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり」(0482:02)と述べられている。

次に理証とは、道理、道筋が通っているかどうかであり、その教義が道理にかない、普遍妥当性を有しているか否かを調べて判断の基準にするのである。

道理が深く、また普遍性を有するものほど、その教えは高く、価値あるものといえよう。四条金吾殿御返事にも「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(1169:05)と仰せである。

現証とは、現実の証拠であり、教義を実践することによって、そこに説かれている内容が現実社会、生活のうえに証明されているかどうか、また、実践した結果がいかなる形で現れているかを調べて判定の基準にする。社会、生活を混乱に陥れ、不幸に導く現証が現れてくる教えは邪法であり、逆に、現実生活に幸福と繁栄をもたらす教えは正法である。

現証は三証のうちでも最も大切な原理である。ゆえに日蓮大聖人は教行証御書でも「一切は現証には如かず」(1279:16)と仰せられ、また観心本尊抄でも「此等の現証を以て之を信ず可きなり」(0242:12)と教示されている。

もとより、現証だけを判断の基準にせよということではない。およそ道理に反し、文証もない邪教であっても、一時的小利益等が現れることもあるからである。文・理・現の三証すべてにかなってこそ正しい宗教といえるのである。ただ、文証・理証が専門的知識や高度な理解力を必要とするのに対して、万人に分かるのが現証であるゆえに、現証を第一として強調されるのである。

 

 

第四章(弘法の祈雨失敗の現証を挙げる)

本文

日本国には天長元年二月に大旱魃あり、弘法大師も神泉苑にして祈雨あるべきにて・ありし程に守敏と申せし人すすんで云く「弘法は下﨟なり我は上﨟なり・まづをほせを・かほるべし」と申す、こうに随いて守敏をこなう、七日と申すには大雨下りしかども京中計りにて田舎にふらず、弘法にをほせつけられてありしかば七日にふらず二七日にふらず三七日にふらざりしかば、天子我といのりて雨をふらせ給いき、而るを東寺の門人等我が師の雨とがうす、くわしくは日記をひきて習うべし、天下第一のわうわくのあるなり、これより外に弘仁九年の春のえきれい又三古なげたる事に不可思議の誑惑あり口伝すべし。

 

現代語訳

日本国には天長元年2月に大旱魃があった。弘法大師も神泉苑において祈雨を行うはずであったが、守敏という人が自ら進んで「弘法は法﨟が浅い。私は法﨟が長い。まず私に仰せ付けください」と申し出たので、その請いにしたがって、守敏が祈雨を行った。7日目には大雨が降ったけれども、京の都ばかりで田舎には降らなかった。今度は弘法に仰せ付けられたが、7日たっても降らず、2週間たっても降らず、3週間たっても降らなかったので、天子が御自ら祈られて雨を降らせたのである。しかるに東寺の門人等は我が師が降らせた雨と主張したのである。詳しくは日記を開いて見るがよい。天下第一の誑惑があるのである。これよりほかに、弘仁九年の春の疫病の時のこと、また三鈷を投げたということにも不可思議の誑惑がある。これらは口で伝えよう。

 

語釈

弘法大師

07740835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。

 

神泉苑

平安京造営の時、大内裏の南に接して造られた禁苑。南北四町、東西二町の地を占め,自然の涌泉にもとづく広大な池があり、樹林繁茂し、乾臨閣などの楼閣を配していた。延暦19年(0800)の桓武天皇の行幸以来、歴代天皇の遊宴場となった。天長元年(0824)の大旱魃に、弘法が祈雨をして以来、善女竜王がまつられ、雨乞いの場とされた。現在は京都市中京区門前町に苑池の一部が存し、東寺付属の寺院となっている。

 

守敏

生没年不明。平安初期の真言僧。幼い頃から奈良で遊学し、勤操等について三論・法相などを学び、また密教に通じた。弘仁14年(0823)嵯峨天皇から西寺を授けられた。この時、弘法は東寺を授けられた。天長元年(08242月の大旱魃に、弘法と祈雨を競い、守敏は京中のみに雨を降らせることができたが、弘法は守敏の呪によって雨を降らせることができなかった。それ以後、弘法と不仲となったといわれる。

 

下﨟・上﨟

﨟とは、法﨟ともいい、僧侶の出家してからの年数のこと。出家した者は、一夏九旬といって一夏の90日の間仏道修行をする。この積み重ねた回数が、その僧侶の法﨟となる。法﨟を多く積んだ位の高い僧侶を上﨟といい、法﨟が浅く位の低い僧侶を下﨟という。

 

東寺

50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。

 

三古

三鈷、三鈷杵ともいう。真言密教の祈禱に用いる道具。鈷はもと古代インドの武器で、仏教では法具となり、煩悩を破るとの意をもつ。金剛杵の一種で、手杵の形に似ており、両端に各三鋒あるものを三鈷という。

 

講義

日本真言宗の開祖・弘法が祈雨に失敗したにもかかわらず、世間を誑惑していることについて述べられ、その他にも種々の妄語のあることを指摘されている。

弘法が3週間祈って雨を降らすことができず、天皇の降らせた雨を自分の雨だといって世人を惑わせたことについては、報恩抄にも次のように記されている。

「弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに先には守敏・祈雨して七日が内に雨を下す但京中にふりて田舎にそそがず、次に弘法承取て一七日に雨気なし二七日に雲なし三七日と申せしに天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば天雨下事三日、此れをば弘法大師並に弟子等此の雨をうばひとり我が雨として今に四百余年・弘法の雨という」(0317:03)。

また「これより外に弘仁九年の春のえきれい」と仰せられているのは、弘仁9年(0818)の春、疫病が流行した時に、弘法が祈禱をすると夜半に日輪が現れたという妄語の件で、これについては、本抄でも後の部分で「弘法大師の自筆に云く、『弘仁九年の春疫れいをいのりてありしかば夜中に日いでたり』と云云、かかるそらごとをいう人なり」と指摘されている。

報恩抄では、これが明らかに妄語であることを次のように破折されている。

「『弘仁九年の春・天下大疫』等云云、春は九十日・何の月・何の日ぞ是一、又弘仁九年には大疫ありけるか是二、又『夜変じて日光赫赫たり』と云云、此の事第一の大事なり弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり左史右史の記に載せたりや是三、設い載せたりとも信じがたき事なり成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間に・いまだ無き天変なり、夜中に日輪の出現せる事如何・又如来一代の聖教にもみへず未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の日は出ずべしとは見えたれども・かれは昼のことぞかし・夜日出現せば東西北の三方は如何、設い内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春・何れの月・何れの日・何れの夜の何れの時に日出ずるという・公家・諸家・叡山等の日記あるならば・すこし信ずるへんもや」(0319:08)。

また「三古なげたる事」と仰せられているのは、弘法が中国から帰朝する際、船から三鈷を投げたところが、雲の中に消えていった。帰朝後、高野山の中にそれがあったという誑惑である。これについても、報恩抄では次のように破折されている。

「又三鈷の事・殊に不審なり漢土の人の日本に来りてほりいだすとも信じがたし、已前に人をや・つかわして・うづみけん、いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠とはしりがたし」(0321:04)。

 

 

第五章(天台・伝教大師の祈雨を明かす)

本文

天台大師は陳の世に大旱魃あり法華経をよみて・須臾に雨下り王臣かうべをかたぶけ万民たなごころをあはせたり、しかも大雨にもあらず風もふかず甘雨にてありしかば、陳王大師の御前にをはしまして内裏へかへらんことをわすれ給いき、此の時三度の礼拝はありしなり。

  去る弘仁九年の春・大旱魃ありき・嵯峨の天王真綱と申す臣下をもつて冬嗣のとり申されしかば・法華経・金光明経・仁王経をもつて伝教大師祈雨ありき、三日と申せし日ほそきくもほそきあめしづしづと下りしかば・天子あまりによろこばせ給いて、日本第一のかたことたりし大乗の戒壇はゆるされしなり、伝教大師の御師・護命と申せし聖人は南都第一の僧なり、四十人の御弟子あいぐして仁王経をもつて祈雨ありしが五日と申せしに雨下りぬ、五日は・いみじき事なれども三日にはをとりて而も雨あらかりしかばまけにならせ給いぬ、此れをもつて弘法の雨をばすひせさせ給うべし、

 

現代語訳

中国の陳の時代に大旱魃があった時、天台大師が法華経を読誦したところ、たちまちに雨が降り、王臣は頭傾け、万民は掌を合わせたのである。しかも大雨でもなく、風も吹かず、甘雨であったので、この時陳王は大師の御前をにお座りになられて内裏へ帰ることを忘れられた。この時陳王は大師に対し三度の礼拝をされたのである。

日本でも去る弘仁九年の春に大旱魃があった。嵯峨天皇は藤原冬嗣に命じて、和気真綱という臣下をもって伝教大師に祈雨を仰せ付けられた。伝教大師は法華経・金光明経・仁王経をもって祈雨されたところ、三日目という日に細雲が現れ、雨がしずしずと降ったので、天子は非常に喜ばれて、日本第一の難事であった大乗戒壇の建立を許されたのである。

伝教大師の御師の護命という聖人は南都第一の僧である。四十人の御弟子を伴い、仁王経をもって祈雨されたところ、五日目に雨が降った。五日目とは素晴らしいことではあるけれども、三日目に比べると劣り、そのうえ暴雨であったから、護命の負けとなった。これをもって弘法の雨を推し量るべきである。

 

語釈

天台大師

05380597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。智者大師ともいう。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、ついで慧曠律師に仕えて律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師慧思を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、大いに法華経の深義を照了し、「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにした。

 

陳王

05530604)。陳の第五代、後主の叔宝をいう。第四代宣帝の子。(0582)、30歳で即位した。摩訶止観巻一上に「陳隋二国に宗めて帝師と為す」とある。

 

嵯峨の天王

07860842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。

 

真綱

07830846)。和気真綱のこと。平安初期の貴族。和気清麻呂の子で、広世の弟。若くして大学に学び、よく史伝に通じ、参議従四位上に進んだ。仏教に深く帰依し、高雄山寺で南都六宗の高僧十四人を集め、伝教大師を講師として法華会を開くなど、兄の広世とともに伝教大師を援助して天台宗発展に尽くした。

 

冬嗣

07750826)。藤原冬嗣のこと。平安時代初期の貴族。藤原内麻呂の子。閑院左大臣と呼ばれた。嵯峨天皇の信任を得て弘仁元年(0810)に初代蔵人頭の任を受け、天長2年(0825)には左大臣となった。娘順子を皇太子妃とし、藤原北家隆盛の基を築いた。施薬院・勧学院を置き、また弘仁格式・内裏式を撰修した。死後、正一位太政大臣を贈られた。

 

金光明経

釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。

 

仁王経

釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(03340413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(07050774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」(1053:14)とある。

 

伝教大師

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

護命

07500834)。法相宗の僧。美濃国(岐阜県南部)に生まれる。姓は秦氏。若くして出家し、元興寺の勝虞について唯識論を学ぶ。後、京都に召されて諸経を講じ、天長4年(0827)僧正となる。伝教大師の大乗戒壇設立に激しく反対した。著作に「大乗法相研神章」5巻などがある。なお伝教大師の御師と言われていることの典拠は不明。

 

南都

奈良のこと。京都(平安京)に対して南に位置するので、都であった奈良をこのように呼ぶ。

 

講義

弘法が21日も祈って雨を降らせられなかったのに対し、たちまちに降らせた天台大師や伝教大師の例を挙げられて、弘法の祈雨の失敗がいかに顕著であるかを示されるのである。

まず、中国では天台大師が陳の時代に大旱魃があった時、法華経を読誦してたちまち甘雨を降らせたので、陳王が大師を三度まで礼拝したという史実を挙げられている。

この史実は、隋天台智者大師別伝や続高僧伝等に出ているが、今、続高僧伝巻十七の智顗伝の記述を挙げれば次のようである。

「是の春亢旱す。百姓咸な謂らく、神怒ると。顗、泉源に到って、衆を率いて経を転ず。便ち雲興り雨の澍ぐを感じ、虚誣自ら滅す。総管宣陽公王積、山に到って礼拝し、戦汗し安んぜず。出でて曰く、『積屢々軍陣を経、危に臨んで更に勇なり。未だ嘗て怖懼すること、頓に今日のごとくならず』。其の年、晋王又手疏を遺って、還らんことを請う」。

次に日本では、伝教大師が祈ること3日にして甘雨を降らせたことが挙げられている。

伝教大師の祈雨については、別当大師光定の伝述一心戒文巻上に次のように記されている。「即ち二十六日山寺の一衆を率いて、頭を分け、転経を修す。細雲峰を走って炎霞消散しぬ。細雲陰に澍いで白色本に復す」。

この祈雨に天皇が感銘したことが起因となって、伝教大師滅後の弘仁13年(0822611日、右大臣藤原冬嗣等が奏請して、法華迹門の大乗戒壇の建立が許可されたのである。

また、護命の祈雨については、同じく伝述一心戒文巻上に記されている。

「護命僧都、四十の大徳を率いて仁王経を講ず。彼の四日の中、甘雨降らず、五日の早朝、大甘雨降る」。

護命は雨を降らすのに5日かかったので、3日で降らせた伝教大師に対し、負けとなったのである。このことからも、21日かけて降らせられなかった弘法の失敗がいかに無残なものであるかが明らかであると仰せられている。

 

 

第六章(真言による亡国を憂う)

本文

かく法華経はめでたく真言はをろかに候に日本のほろぶべきにや一向真言にてあるなり、隠岐の法王の事をもつてをもうに・真言をもつて蒙古とえぞとをでうぶくせば・日本国やまけんずらんと・すひせしゆへに此の事いのちをすてて・いゐて・みんとをもひしなり、いゐし時はでしらせいせしかども・いまはあひぬれば心よかるべきにや 、漢土・日本の智者・五百余年の間一人もしらぬ事をかんがへて候なり、善無畏・金剛智・不空等の祈雨に雨は下りて而も大風のそひ候は・いかにか心へさせ給うべき、外道の法なれども・いうにかひなき道士の法にも雨下る事あり、まして仏法は小乗なりとも法のごとく行うならば・いかでか雨下らざるべき、いわうや大日経は華厳・般若にこそをよばねども阿含には・すこしまさりて候ぞかし、いかでか・いのらんに雨下らざるべき・されば雨は下りて候へども大風のそいぬるは大なる僻事のかの法の中にまじわれるなるべし、弘法大師の三七日に雨下らずして候を天子の雨を我が雨と申すは・又善無畏等よりも大にまさる失のあるなり。

  第一の大妄語には弘法大師の自筆に云く、「弘仁九年の春疫れいをいのりてありしかば夜中に日いでたり」と云云、かかるそらごとをいう人なり、此の事は日蓮が門家第一の秘事なり本文をとりつめていうべし、仏法はさてをきぬ上にかきぬる事天下第一の大事なり、つてに・をほせあるべからず御心ざしのいたりて候へば・をどろかしまいらせ候、日蓮をばいかんがあるべかるらんとをぼつかなしと・をぼしめすべきゆへに・かかる事ども候、むこり国だにも・つよくせめ候わば今生にもひろまる事も候いなん、あまりにはげしくあたりし人人は・くゆるへんもや・あらんずらん。

現代語訳

このように法華経は勝れ、真言は劣っているのに、日本国が亡びようとしているのであろうか、すべてに真言のみを用いている。隠岐の法王のことをもって思うに、真言をもって蒙古と俘囚とを調伏したならば日本国は亡びるであろうと推し量ったゆえに、このことを命を捨てて言ってみようと決意したのである。言い出した時は弟子等は制止したけれども、今では的中したので快く思っているであろう。中国や日本の智者が五百余年の間一人も知らなかったことを考えたのである。

善無畏・金剛智・不空等の祈雨で雨は降ったが、大風が伴ったのはどういうわけか考えるべきである。外道の法であっても、論ずるにたらない道士の法でも雨は降ることがある。まして仏法は、小乗教であっても法のとおりに行うならば、どうして雨が降らないことがあろうか。ましてや大日経は華厳経や般若経にこそ及ばないけれども、阿含経には少し勝れている。どうして祈って雨が降らないことがあろう。それゆえ雨は降ったけれども、大風が伴ったのは大きな僻事が彼の法の中に混じっているからである。

弘法大師が祈雨の時、三七日経っても雨が降らなかったのに、天子が降らせた雨を自分が降らせた雨であるといっているのは、善無畏等よりもさらに大きな誤りがあるのである。

第一の大妄語として弘法大師の自筆の書に「弘仁九年の春、疫病を払う祈禱を行ったところが、夜中に太陽が出た」とある。このような虚言をいう人である。このことは日蓮の門家の第一の秘事である。本文を引いて、相手を詰めていうべきである。仏法それ自体の勝劣はしばらく置いておく。いままでに述べてきたことは天下第一の大事である。人づてに軽々しく語ってはならない。貴殿の御志が厚いからあえて申し上げるのである。

日蓮の諌言を、いかほどのことがあろう、疑わしいと思って用いないゆえに、このような蒙古襲来が起こったのである。蒙古国が強く攻め寄せてくるならば、今生にも法華経が広まることもあるであろう。日蓮をあまりにも激しく迫害した人々は、後悔することもあるであろう。

 

語釈

隠岐の法皇

11801239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第4皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちした後、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚である坊門信清の女を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。

 

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

 

小乗

小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経の略。中国・唐代の善無畏三蔵訳。七巻。一切智を体得して仏果を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界曼荼羅が示されている。金剛頂経、蘇悉地経と合わせて大日の三部経、また三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

 

華厳

華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。

 

般若

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

阿含

阿含経のこと。阿含とは梵語のアーガマ(āgama)の音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限って使われる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類されている。長阿含経巻一に「如来の大智は……群生を愍れむが故に、世に在りて成道す。四真諦を以って、声聞の為に説く」とあるように、声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも声聞を正意として説かれた経といえる。

 

講義

法華経をもって祈った天台大師、伝教大師は見事に雨を降らせ、真言によって祈った三三蔵や弘法は大失敗しているという事実は、法の勝劣を明確に物語っている。この偉大なる力用がある法華経を捨て、もっぱら真言によって祈りをしている日本の現状を、大聖人は心から憂えらえているのである。

しかも今度は、雨のことではなく、日本の国の運命にかかわる戦争に関する祈りである。その結果は恐るべきものであろう。真言の邪法に祈ったがゆえに、逆に悲惨な敗北を招いた例としては、承久の乱の前例がある。

「隠岐の法王の事」とは、承久の乱で、真言僧に祈禱をさせ、その結果惨敗して流罪にあった後鳥羽上皇のことである。この事件について、大聖人は数多くの御抄に触れられているが、神国王御書には、各寺で行われた幕府の調伏の祈禱について、次のように具体的に描かれている。

「又承久の合戦の御時は天台の座主・慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催して・日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う、所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる、天台の座主は一字金輪法等・五月二日は仁和寺の御室・如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う、又六月八日御室・守護経法を行い給う、已上四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり、権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ御調伏も行い給はず」(1520:05)。

後鳥羽上皇方は、当時仏教界の最高の権威ある僧達が、これほどの秘法を尽くして祈りながら、幕府軍の前にあっけなく敗れ、後鳥羽上皇、順徳天皇が隠岐、佐渡へ流罪されるという結果になったのである。

次に、三三蔵の祈雨に雨は降ったものの、大風が吹ききたった事実は、真言宗が単に方便の低い教えというにとどまらず、正法誹謗の僻見に毒された邪法であることをあらわす現証であることを指摘されている。

下山御消息では、祈雨の雨にも種々の形貌があることを示された後、三三蔵の祈雨と天台大師、伝教大師の祈雨の様相を比較されている。

「又祈雨の事はたとひ雨下らせりとも雨の形貌を以て祈る者の賢・不賢を知る事あり雨種種なり或は天雨或は竜雨或は修羅雨或は麤雨或は甘雨或は雷雨等あり(中略)善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も小雨は下たりしかども三師共に大風連連と吹いて勅使をつけてをはれしあさましさと、天台大師・伝教大師の須臾と三日が間に帝釈雨を下らして小風も吹かざりしもたとくぞおぼゆる」(0350:08)。

この三三蔵の祈雨より更に質の落ちるのが弘法の場合で、弘法は遂に降らせることができなかったのである。自分で降らせられなかったにもかかわらず、天皇が降らせた雨を自分の祈りで降ったなどと言っているのは、法の無力さを暴露したのにとどまらず大妄語の罪をも犯したことになる。元来、弘法の妄語癖はこれだけでなく、弘仁9年(0818)、夜中に太陽が出たといっているのが、その最たるものであると大聖人は指摘されている。

また、このような弘法の大誑惑に関しては、法論対決の際のポイントになるところであり、人づてに話してはならない等の注意を与えられている。真言破折に対する大聖人の並々ならぬ御決意が拝される御文である。

 

 

第七章(釈尊を迫害した外道の本質)

本文

外道と申すは仏前・八百年よりはじまりて、はじめは二天・三仙にてありしが・やうやく・わかれて九十五種なり、其の中に多くの智者・神通のもの・ありしかども一人も生死をはなれず、又帰依せし人人も善につけ悪につけて皆三悪道に堕ち候いしを・仏出世せさせ給いてありしかば、九十五種の外道・十六大国の王臣諸民をかたらひて或はのり或はうち或は弟子或はだんな等・無量無辺ころせしかども仏たゆむ心なし、我此の法門を諸人にをどされていゐやむほどならば一切衆生地獄に堕つべしと・つよくなげかせ給いしゆへに・退する心なし、この外道と申すは先仏の経経を見て・よみそこないて候いしより事をこれり。

 

現代語訳

外道というのは、仏の出世以前八百年から起こって、初めは二天・三仙のみであったが、次第に分かれて九十五種となった。その中に多くの智者や神通を得た者がいたけれども、一人も生死の迷いから離れてはいない。また帰依した人々も善につけ、悪につけ、皆三悪道に堕ちたのである。そこへ仏が出世されると、九十五種の外道は十六大国の王臣や万民を味方にして、仏を或いは罵り、或いは打ち、或いは仏の弟子・檀那等の無量無辺の人々を殺した。けれども、仏には怯む心はなかった。自分が、この法門を諸人に脅されて説くのをやめるならば、一切衆生は地獄に堕ちるであろうと、強く嘆かれたゆえに退する心はなかった。この外道というのは、過去の仏の経々を見て、読み誤ったために、外道となったのである。

 

語釈

二天

もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)とヴィシュヌ(Viṣṇu)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされ、ヴィシュヌは世界の維持を司る神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天、梵語マヘシバラ(Maheśvara)と音写され、大自在天と訳され、ヴィシュヌ神は毘紐天と音写され、遍聞と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、白払を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。毘紐天については、大梵天王の父で、同時に一切衆生の親であるとされていた。

 

三仙

インドのバラモンの開祖といわれる迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三人をいう。迦毘羅は、インド六派哲学の一つ、数論学派、サーンキヤ学派(Sāṃkhya)の開祖。漚楼僧佉は、同じく六派哲学の一つ、勝論学派、バイシェーシカ学派(Vaiśeṣika)の開祖。勒娑婆は、尼乾子外道(ジャイナ教)の開祖であるといわれている。

 

十六大国

釈尊在世の時代、インドにあった十六の大国のこと。長阿含経巻五には①鴦伽、②摩竭堤、③迦尸、④居薩羅、⑤抜祇、⑥末羅、⑦支堤、⑧抜沙、⑨居楼、⑩般闍羅、⑪頗漯波、⑫阿般堤、⑬婆蹉、⑭蘇羅婆、⑮乾陀羅、⑯剣并沙の国を挙げている。その他経論によって諸説がある。

 

講義

人々が邪法への迷妄のために不幸に陥っているのを見て、これを救うために立ち上がられた日蓮大聖人に対し、種々の迫害を加えている他宗の僧達の本質を、釈尊在世の外道と同じであると指摘されるのである。

インドのバラモン外道は二天三仙を起源とし、釈尊の時代には95種にも分かれていたが、低い教えであるゆえ、一人も生死の迷いを離れた者はいなかった。

開目抄には外道の起源、生死を離れざる理由を次のように教示されている。

「二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当って六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり(中略)しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ(中略)外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし」(0187:08)。

結局、外道は生命内在の因果律を洞察することもできなかったゆえに、たとえ外界の事象に関しては智慧や神通力があったとしても、生死の苦悩を克服できないで六道を輪廻するのみで悪道へと堕ちざるを得なかったのである。

この御文によっても、仏法すなわち内道と外道の根本的な違いは、生命の因果をわきまえて成仏できるかどうかという点にあることが明らかであろう。

ともあれ、この外道の教えのために不幸の境涯に苦しむ人々を救うために釈尊は立ち上がった。その釈尊に対し、外道が激しい憎しみを抱いてさまざまな迫害を加えたことは、釈尊の九横の大難をはじめ、数多くのエピソードとして伝えられているところである。

この外道の本質は先仏の諸経を読み誤って邪見に陥ったゆえであると、その根本因を明かされている。

これは真言宗などの徒が、釈尊の経々を読みそこなって邪見に陥ったのと同じであり、真言等の謗法者は釈尊在世のバラモン外道と同じ類であるということである。

 

 

第八章(真言の迷妄が亡国の因なるを明かす)

本文

今も又かくのごとし、日本の法門多しといへども源は八宗・九宗・十宗よりをこれり、十宗のなかに華厳等の宗宗は・さてをきぬ、真言と天台との勝劣に弘法・慈覚・智証のまどひしによりて日本国の人人・今生には他国にもせめられ後生にも悪道に堕つるなり、漢土のほろび又悪道に堕つる事も善無畏・金剛智・不空のあやまりよりはじまれり、又天台宗の人人も慈覚・智証より後は・かの人人の智慧にせかれて天台宗のごとくならず、されば・さのみやはあるべき。

  いわうや日蓮は・かれにすぐべきとわが弟子等をぼせども・仏の記文にはたがはず、末法に入つて仏法をばうじ無間地獄に堕つべきものは大地微塵よりも多く、正法をへたらん人は爪上の土よりも・すくなしと涅槃経にはとかれ、法華経には設い須弥山をなぐるものはありとも・我が末法に法華経を経のごとくにとく者ありがたしと記しをかせ給へり、大集経・金光明経・仁王経・守護経・はちなひをん経・最勝王経等に末法に入つて正法を行ぜん人・出来せば邪法のもの王臣等にうたへて・あらんほどに彼の王臣等・他人が・ことばにつひて一人の正法のものを或はのり或はせめ或はながし或はころさば梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等・りんごくの賢王の身に入りかはりてその国をほろぼすべしと記し給へり、今の世は似て候者かな。

 

現代語訳

今の日本国もまた同様である。日本における法門は多いといえども、源は八宗・九宗・十宗から起こっている。十宗のなかで華厳宗等の諸宗はしばらく置くとする。真言宗と天台宗との勝劣に弘法・慈覚・智証が迷ったことによって、日本国の人々は今生には他国から攻められ、後生には悪道に堕ちるのである。中国が亡び、また人々が悪道に堕ちたことも、善無畏・金剛智・不空の誤りから始まったのである。また天台宗の人々も、慈覚・智証より以後はそれらの人々の智慧に抑えられて、もとの天台宗のようではなくなった。

それゆえ、日蓮が慈覚・智証の誤りを指摘しても、「そんなことがあるだろうか、ましてや日蓮は彼等に勝れているのであろうか」と我が弟子等が思っているけれども、仏の記した経文には違わないのである。

「末法に入って、仏法を謗り無間地獄に堕ちる者は大地微塵よりも多く、正法を信受する人は爪の上の土よりも少ない」と涅槃経には説かれ、法華経には「設え須弥山を擲げる者はあっても、末法に法華経を経文のとおりに説く者はまことに稀である」と記し置かれている。大集経・金光明経・仁王経・守護経・般泥洹経・最勝王経等には「末法に入って正法を行ずる人が現れれば、邪法を信ずる者が王臣等に訴えるので、王臣等はその人の言葉を信じて、一人の正法を持つ者を、或いは罵ったり、或いは責めたり、或いは流罪したり、或いは殺すであろう。そのとき梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等が隣国の賢王の身に入り代わって、その国を亡ぼすであろう」と記されている。今の世はこれらの経文に説かれたことと似ているではないか。

 

語釈

八宗・九宗・十宗

八宗とは、日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。

 

天台

天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。

 

慈覚

07940864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。

 

智証

08140891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(08911078歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。

 

無間地獄

八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(Av?ci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。

 

涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻。大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻。栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

 

大集経

方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。

 

守護経

中国・唐代の般若と牟尼室利の共著。守護国界主陀羅尼経の略。密教部の経とされる。国主を守護することが、人民を守護することになるとの理を明かし、正法守護の功徳が説かれている。

 

はちひをん経

般泥洹経のこと。一般には法顕訳の仏説大般泥洹経をいう。

 

最勝王経

中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。1031品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。

 

梵王

大梵天王のこと。梵はブラフマン(Brahman)の音写で、バラモン教では万物の生因たる根本原理の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では、娑婆世界を支配する善神で、仏が出世して法を説く時には、帝釈天とともに常に仏の左右にあって、仏法を守護するとしている。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

天神地神

天上にいる神と大地に住む神。天つ神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとす。

 

講義

大聖人御在世当時の諸宗の混迷と日本国の様相は、インドの外道が先仏の諸経を読み誤って釈尊に敵対したのと同じであると指摘され、特に天台宗・真言宗をインドの外道に類比して論を進められている。

つまりインドの外道が先仏の教えを誤って理解し僻見に堕したように、日本では弘法・慈覚・智証の三人が天台と真言の勝劣に迷ったのである。そして、この弘法の真言宗と、慈覚以後の天台真言宗の邪義に日本中が染められてしまったゆえに日本国は蒙古の攻めにあっているのであり、それは、三三蔵による真言の邪法のために滅びた中国の先例にも明らかであると指摘されている。

そうした大聖人の天台・真言破折に対しては、大聖人の弟子のなかにも、そんなことがあるだろうか、大聖人よりも慈覚、智証のほうがすぐれているはずだなどという僻見をいだく者もいたことを述べられている。しかし、大聖人の主張は、あくまでも仏説によっているのであり、仏説のとおりの姿であることを涅槃経、法華経宝塔品の六難九易の文、大集経をはじめとする爾前の諸経に記された法華経の行者値難の文等を挙げて示され、日蓮大聖人こそこれらの経文に符合した法華経の行者であることは現証によって明瞭であると結論づけられている。

撰時抄にも、法華経の行者を迫害するゆえに諸天が怒りをなし、隣国の聖人に仰せつけてその国を罰することが記されている。

また大聖人の値われた迫害の現証、そのゆえに引き起こされた三災七難等をみれば、大聖人こそ末法の法華経の行者であり、閻浮第一の聖人であることを知るべきであると次のように教示されている。

「而る間・梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり度度いさめらるれども・いよいよあだをなすゆへに天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし自界反逆せしむ、吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて仏滅後・二千二百三十余年が間いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり、漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度度ありしかどもいまだ日蓮ほど法華経のかたうどして国土に強敵多くまうけたる者なきなり、まづ眼前の事をもつて日蓮は閻浮提第一の者としるべし」(0283:12)。

 

 

第九章(西山入道に強盛な信心を勧める)

本文

抑各各はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ、能く能く過去を御尋ね有らば・なにと無くとも此度生死は離れさせ給うべし、すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ・是れ偏に末代の今の世を表するなり、敢て人の上と思し食すべからず事繁ければ止め置き候い畢んぬ、抑当時の怱怱に御志申す計り候はねば大事の事あらあらをどろかしまひらせ候、ささげ青大豆給い候いぬ。

       六月二十二日                    日 蓮 花 押

     西山殿御返事

 

現代語訳

ところで、あなた方は、どのような過去世の善根で日蓮を訪ねられるのであろうか。よくよく過去を御尋ねになれば、なにはともあれこの度は生死の迷いを離れることができるであろう。須梨槃特は三箇年に十四字すら暗唱できなかったけれども仏になった。提婆達多は六万蔵を暗唱したけれども無間地獄に堕ちた。このことはひとえに末代の今の世のことを表しているのである。けっして他人のことと思ってはならない。申し上げたいことは多くあるがこれでとどめておく。

ところで現在のようなあわただしいなかに、御供養していただいたその御志には、御礼の申し上げようもないので、大事の法門のことを概略申し上げたのである。

ささげ・青大豆(枝豆か?)をいただいた。

六月二十二日            日 蓮  花 押

西山殿御返事

 

語釈

すりはむどく

梵語チューダパンタカ(apanthaka)の音写。周利槃特迦などとも書く。小路、愚路などと訳す。釈尊の弟子でバラモンの出身。経典によって諸説があり、兄弟二人のうち弟をさすという説と兄弟二人の並称であるとする説がある。また兄弟ともに愚鈍であったという説と、兄は聡明であったが、弟は暗愚で三年かかって一偈も覚えられなかったとする説がある。いずれにせよ、須利槃特は、釈尊に教えられた短い言葉をひたすら持って修行したところ、三年を経てその意を悟り、阿羅漢果を得たという。法華経五百弟子受記品第八で普明如来の記別を得た。

 

提婆

提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。

 

六万藏

六万の方蔵のこと。法蔵とは、教えの蔵の意で、仏の経説、経説を含蔵する経典・聖教。②インドのバラモン教の聖典・四韋陀のこと。神への讃歌などが説かれるインド最古の経典。迦毘羅・漚楼僧佉・勒娑婆の三仙が説いたとされる。

 

ささげ

マメ科の一年草。品種が多く、茎の蔓性のものと直立するものとがある。葉は三小葉からなる羽状複葉で、莢と種子を食用とする。

 

講義

最後に、西山入道等が、身延に大聖人を訪れたり御供養の品々を奉っているのは過去世における宿善のゆえであろうといわれ、こうして、宿善によって大聖人にお会いできた以上は、必ず生死を離れ、一生成仏は疑いないことであるから、いよいよ強盛な信心に励むようにと教誡されるとともに、御供養に対する御礼を述べて結ばれている。

そのなかで、須梨槃特と提婆達多の例を挙げられ、これは遠い過去の話でなく末法の成仏はあくまで信が根本であることを戒めた教訓として胸に刻んでいくよう指導されている。須梨槃特は極めて愚鈍であったが、仏の教えを素直に信じたことによって成仏し、逆に提婆達多は六万蔵という膨大な経典を暗誦したほどの智者であったが、仏法に反逆したゆえに、その罪によって無間地獄に堕ちなければならなかったのである。

 

すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ

 

この故事は、法句譬喩経巻二に説かれている。

昔、釈尊が舎衛国にいた時、一長老の比丘、槃特が新たに比丘になった。性質が闇鈍であって五百の阿羅漢が三か年にわたって日々一偈を授けたが、ただの一偈も暗誦することができなかった。国中の人々がその愚鈍を知るに至ったという。

仏はこのことを哀れんで槃特を呼び、自ら前において、次のような一偈を授けたのである。「口を守り、意を摂め、身に非を犯すことなかれ。かくの如く行ずれば世を度することを得る」と。

槃特は仏の慈恩を感じて偈を誦して口に上らせたとある。仏を信じ、仏の大慈悲に報いんとする一念が、一偈を口に上らせたのであろう。

それを見た仏は、次のように告げて法を説き始めた。「汝は今、年老いて、まさに一偈を得ることができた。今、汝のために其の義を解説するから一心に聴くように」と。

それから仏は、身三、口四、意三の善悪業の所由を説き、その起滅、三界五道の輪転、昇天と堕地獄の所以を述べ、さらに涅槃を得る道を説ききたったという。その時、槃特の心が開けて、阿羅漢の道を得たと記されている。

後に、国王・波斯匿(はしのく)のもとに釈尊が槃特を伴って訪れた時、王が仏に「槃特は本性愚鈍であると聞いている。それなのに、まさに何によって一偈を知り、道を得ることができたのか」と質問した。

それに対して釈尊は王に「学は必ずしも多くは必要としない。学んだことを実行するを上となすのである。槃特は一偈の義を解して精理神に入ったのである。もし人、多く学ぶとも、行わなければ何の益もないのである」と教え、さらに偈を説いて「一法句を解するも、行ぜば道を得べし」と説いたという。

成仏への道は、仏を信じ、たとえ一句でもそれを実践に移すことが肝要なのである。

須梨槃特は三年もかかって、僅か十四字の一偈さえ暗誦できないほどの愚鈍であったが、釈尊を信じ、釈尊の言葉のとおりに実行し、ついに法華経では仏に成ることができたのである。大聖人はこの故事を通じて、末法今日の信仰の在り方を教訓されているのである。

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