国府尼御前御書


 

国府尼御前御書

 建治元年(ʼ75)6月16日 54歳 国府尼

第一章(供養の功徳を説く)

本文

阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文、同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ。

  単衣一領・佐渡の国より甲斐の国・波木井の郷の内の深山まで送り給候い了んぬ、法華経第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、持経者を歎美せんは其の福復た彼に過ぎん」等云云、文の心は釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと・とかれて候、まことしからぬ事にては候へども・仏の金言にて候へば疑うべきにあらず、其の上妙楽大師と申す人・此の経文を重ねて・やわらげて云く「若し毀謗せん者は頭七分に破れ若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云、釈の心は末代の法華経の行者を供養するは十号を具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり、又濁世に法華経の行者あらんを留難をなさん人は頭七分にわるべしと云云。

現代語訳

阿仏御房の尼御前から、銭三百文いただきました。同心の二人であるから、この手紙を二人で人に読ませて、お聞きなさい。

単衣一領、佐渡の国から、甲斐の国・波木井郷の内の深山まで送っていただきました。

法華経第四の巻の法師品の文に「仏道を求める人が、一劫の長い間、合掌して仏の前にあって、無数の偈を唱え讃嘆するならば、この讃仏によって、量り知れない功徳を得るであろう。しかし法華経を受持する者を讃嘆する功徳は、復それよりもすぐれる」とある。文の心は、釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末法悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。真実とは思えぬ事ではあるが、仏の金言であるから疑うべきでない。そのうえ、妙楽大師という人は、この経文を重ねて解釈して、「若しこの法華経を毀謗する人は頭が七分に破れ、若し供養する人は、その福は仏の十号に過ぎるであろう」と述べている。

この釈の心は、末法の法華経の行者を供養することは、十号を具足された仏を供養するよりも、その功徳が勝れているということである。また五濁悪世に出現した法華経の行者に対して迫害する人々は、頭が七分に破れるということである。

語釈

単衣

本来は、公家の男女が着る装束の下着のことであるが、後に小袖の上に着るようになった、夏の一重の衣服のこと。

甲斐の国・波木井の郷

山梨県南巨摩郡身延町のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。

仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ(Śloka)、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤー(Aryā)などがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。

持経者

経典を受持・護持する者。正法を信じ、身口意の三業にわたって精進する者のこと。末法では三大秘法の南無妙法蓮華経を受持する者をさす。

三業相応

三業とは身口意で行なう業のこと。相応とはあいかなうこと。身口意の三業が一致していること。すなわち、心で思い、言葉で述べ、身で行なうことが一致していることをいう。

一中劫

20小劫のこと。

妙楽大師

(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。

十号

仏のもつ十種の尊称。如来、応供、正徧知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊さす。

濁世

濁って乱れきった社会・世の中。五濁悪世・濁劫悪世のこと。

留難

留は拘留、難は迫害のこと。身命に害を加えて、正法流布を妨げること。

講義

本抄は、建治元年(1275)6月16日に身延でしたためられ、佐渡に住む国府尼御前に与えられたお手紙である。御真蹟は7紙で佐渡の妙宣寺に現存する。

国府入道が国府尼御前から単衣を一領、阿仏房の尼御前から銭三百文をことづかって身延の大聖人の所へ訪ねてきた。日蓮大聖人はこうした真心の御供養に対して、佐渡滞在中お世話になったことのお礼を兼ねて、心をこめた謝意と激励の言葉を述べられている。ただ、文永12年(1275)4月の作と推定される国府入道殿御返事(1323)にも、入道が身延を訪ねた様子が記されているところから、本書を文永11年(1274)の作とする説もある。

最初の段は、末法の法華経の行者に供養する功徳がいかに大きいかということを法華経法師品第十の文を引いて述べられている。

ここに、末法の法華経の行者すなわち日蓮大聖人が、釈尊以上の仏であり、末法の御本仏であるということを暗に示されている。つまり功徳の大小というのは、その所対によって決まる。例えば小乗経の仏より大乗経の仏の方が勝れている。したがって小乗教の仏に供養するよりも大乗経の仏に供養する功徳の方が大きい。権仏より実仏が勝れる。よって実仏に供養する功徳は権仏に供養するよりも大きいわけである。したがって、功徳の大小を示されていることは、その供養の対象の仏としての位の高低、力の勝劣を示されていることになるのである。

釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたり

法師品の文を受けて、日蓮大聖人の立場から、その内容を更にわかりやすく示された御文である。

法師品のこの文に述べられていることは「讃仏」であり「持経者を歎美」することである。にもかかわらず、大聖人が「供養」と置き換えられているのは、本来、法師品の原文のこの段が、持経者への供養を勧めたところだからである。

すなわち、この偈の冒頭に「若し仏道に住して、自然智を成就せんと欲せば、常に当に勤めて、法華を受持せん者を供養すべし」と。そして「応に天華の香、及び天宝の衣服、天上の妙宝聚を以て、説法者を供養すべし」また「上饌の衆の甘味、及び種種の衣服もて、是の仏子に供養して、須臾も聞くことを得んと冀え」と述べられている。

その中においていわれている「讃仏」とは口業による供養であり、そこには当然、意業の供養も含まれているわけで、したがって、「三業相応して……ねんごろに供養し奉るよりも」と大聖人が仰せられているのは、法華経の原文の心を忠実に受けておられることが理解できよう。

また、引用の法師品の文においては、単に「持経者を歎美せん」とあるのを「末代悪世の世に法華経の行者を供養せん」とされているのも、法師品の中のすぐ前のところに「吾が滅後の悪世に、能く是の経を持たば、当に合掌し礼敬して、世尊を供養するが如くすべし」とあるのを見れば当然であろう。

このように釈迦仏を直接に供養する功徳よりも、一介の凡夫にすぎない末法の法華経の行者を供養する功徳がはるかに大きいとは、普通には、とうてい信じがたいところであろうと世情を容認しつつ、しかし「仏の金言にて候へば疑うべきにあらず」と、信をとるべきことを勧められている。

そのあとに妙楽大師の釈を引かれているのは、経文こそ仏説であるから信用するには十分なのであるが、さらに念を押して、この釈を示されているのである。

なお、ここでは「仏の金言にて候へば」と単純に信をとるべき理由を挙げられているだけであるが、その奥には、末法の法華経の行者とはすなわち本地内証は久遠元初の自受用報身如来であるという仏法の極説の深い理由づけがあることはいうまでもない。

対告衆の国府尼、千日尼といった老齢の婦人達を考慮されて、そうした複雑な論議は避けられたとも考えられるが、それ以上に、信心の根本精神は、仏の金言であれば、素直に信じなければならないことを教えるために、このように述べられたと拝すべきであろう。

 

 

第二章(大難を挙げて本仏の慈悲を示す)

 本文

   夫れ日蓮は日本第一のゑせものなり、其の故は天神七代は・さておきぬ、地神五代も又はかりがたし、人王始まりて神武より今に至るまで九十代・欽明天王より七百余年が間・世間につけ仏法によりても日蓮ほど・あまねく人にあだまれたるものは候はじ、守屋が寺塔をやき清盛入道が東大寺興福寺を失せし・彼等が一類は彼がにくまず、将門貞たうが朝敵と成りし・伝教大師の七寺にあだまれし・彼等もいまだ日本一州の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆には.にくまれず、日蓮は父母・兄弟・師匠・同法・上一人.下万民・一人ももれず・父母のかたきのごとく・謀反強盗にも・すぐれて人ごとに・あだをなすなり、されば或時は数百人にのられ・或時は数千人に取りこめられて刀杖の大難にあう、所を・をはれ国を出さる・結句は国主より御勘気二度・一度は伊豆の国・今度は佐渡の嶋なり、されば身命をつぐべきかつてもなし・形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の嶋に・はなたれしかば彼の国の道俗は相州の男女よりも・あだをなしき、野中に捨てられて雪にはだへをまじえ・くさをつみて命をささえたりき、彼の蘇夫が胡国に十九年・雪を食うて世をわたりし、李呂が北海に六ケ年がんくつにせめられし・我は身にて・しられぬ、これは・ひとえに我が身には失なし日本国を・たすけんと・をもひしゆへなり。

 

現代語訳

  日蓮は日本第一のまやかし者である。そのわけは、天神七代はさておき、地神五代も、また知りがたいが、人王が始まって、神武天皇から今上帝に至るまで九十代、欽明天皇の時代に仏教が伝来してから七百余年の間、一般世間のことにつけ、仏法のことにつけても、日蓮ほどすべての人に敵視された者はいないからである。

 物部守屋が寺塔を焼き、平清盛入道が東大寺・興福寺を焼失させたが、彼等の一族は彼等を憎まなかった。

 平将門や安倍貞任は朝敵となり、伝教大師は南都七大寺に憎まれたが、彼等も未だ、日本全土の出家の男女・在家の男女の四衆には憎まれなかった。

 日蓮に対しては父母・兄弟・師匠・朋友をはじめ、上一人から下万民に至るまで一人ももれず、父母の仇のごとく、謀反人や強盗よりもひどく、人ごとに迫害を加えるのである。

 それゆえ、ある時は数百人に悪口をいわれ、ある時は数千人に取り囲まれて、刀で斬られ杖で打たれるなどの大難にあった。住居を追われ、国を出された。その挙句、国の執権から御勘気を二度、一度は伊豆の国、今度は佐渡の島へ流罪となった。

 命をつなぐ食糧もなく、身体をおおうべき粗末な衣も持たず、北方の海の島に流罪されてみると、佐渡の国の出家や在家の者は、相模の男女よりも迫害を加えた。

 野原の中に捨てられ、雪に膚をさらし、草を摘んで命をささえたのである。

 かの蘇武が、捕えられた胡国の地で十九年間、雪を食として世を過ごし、李陵が北海の岩窟に六年間閉じこめられたその苦しみを、今、わが身にあてて知ることができた。

 このことは、ひとえに、わが身の誤りではなく、日本国の人々を助けようと思ったが故の難である。

 

語釈

 ゑせもの

 にせ者。取るにたりない者、卑しい者、バカ。

 

天神七代

 日本神話の神々で、地神五代より前に高天原に出現して日本国を治めたという七代の天神。国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊の独化身三代と、夫婦で一代である泥土煮尊と沙土煮尊、大戸之道尊と大苫辺尊、面足尊と惶根尊、伊弉諾尊と伊弉冉尊の耦生神四代のこと。

 

地神五代

 天神七代のあと、神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の地神。天照大神、天忍穂耳尊、天津彦彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊をさす。

 

神武

 第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。

 

欽明

 (~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(055210月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。

 

守屋

 (~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。

 

清盛入道

 (11181181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

 

東大寺

 聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。

 

興福寺

 法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する脅威となっている。

 

将門

 (~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、延長九年(0931)父の遺領問題から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県)国府を攻め、さらに下野・上野両国府を占拠し、みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。このために朝廷は天慶3年(0940)藤原忠文を征東大将軍に任じ東国に向かわせたが、その前に国香の長子・平貞盛が下野押領使藤原秀郷の援けを得て将門を攻め滅ぼした。

 

貞たう

 安倍貞任(10191062)。平安後期の陸奥の豪族。強力な地盤を背景に、朝廷に従わず、独立の風を強めたため、朝廷は源頼義、義家の親子に討伐を命じ、ここに前9年の役が起こった。貞任は父の頼時の死後、抵抗をやめず、天喜5年(1057)いったん義家を破ったが、康平5年(1062)、出羽の清原光頼、武則兄弟と同盟した朝廷軍に大敗し、本拠厨川柵(岩手県盛岡市付近)に逃れたが敗死した。

 

七寺

 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。

 

比丘

 ビクシュ(bhiku)の音写。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人男子の称。

 

比丘尼

 ビクシュニー(bhiksunīの音写)。仏教に帰依して,具足戒を受けた成人女子の称。

 

優婆塞

 在家の男子をいう。

 

優婆夷

 在家の女子をいう。

 

四衆

 比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。

 

同法

 同胞・仲間。同じ師匠について仏道修行する者。

 

刀杖の大難

 ①勧持品第13に出てくる三類の強敵の第一類、俗衆増上慢が起こす難。②文永元年(1264年)1111日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」に記されている。(小松原法難)。

 

御勘気

 主人または国家の権力者から咎めを受けること。

 

かつて

 かて・糧・食料。

 

藤の衣

 粗末な衣類のこと。藤や葛などのツルから繊維をとって織った布で、貧しい人々が着るものとされていた。

 

相州

 相模国(神奈川県)の別称。州は国と同意で、国名を略称するときに州を用いる。

 

蘇夫

BC0140頃~BC0060)。蘇武のこと。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の手紙が結びつけてあり、蘇武らは某沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われた通り単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折りには、髪は真っ白になっていたという。帰朝御も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、漢中興の補佐に列せられるほど、名臣として尊敬された。

 

胡国

 中国人は中華思想の上から、周辺の諸民族を胡、夷などと呼んで卑しんだが、胡はとくに西方の民族をさしていった語。秦・漢以前には、匈奴をさす。

 

李呂

 (~BC0074)。中国・前漢の武将。李広の孫。字は少卿。漢書によると、幼少の頃から弓術に長じ、謙譲で、部下を愛したので評判も良く、若くして登用された。武帝に願って五千の歩兵を率い、匈奴軍を撃破していったが、ある時、匈奴王・単于の指揮する三万の騎兵に遭遇し、包囲され、奮闘のかいなく、ついに李陵は匈奴に降った。武帝は李陵が漢に叛逆したと誤解して、李陵の一族を皆殺しにしてしまった。後、過ちを悔いた武帝は、使者を派遣して李陵を呼び戻そうとしたが、李陵はそれを断わり、単于の娘をめとり、匈奴の地に二十余年暮らして病没した。

 

講義

 前章の、法華経の行者を供養すれば無量の善根を積み、反対に留難をなせば頭七分に破るとの文を受けて、日蓮大聖人が日本の歴史始まって以来、かつて前例を見ないほど国中の人々から憎まれ、迫害されてきたことを述べられている。

 しかも「これはひとえに我が身には失なし。日本国をたすけんとをもひしゆへなり」と仰せのように、大聖人の慈悲に対する逆恨みから起こったものである。

 事実、もし大聖人が三災七難に苦しむ日本民衆を救おうとして、国諌の書「立正安国論」を著しこれを上呈するなどということをされなかったならば、松葉谷の焼き打ち、伊豆流罪という難は起きなかったであろう。南無妙法蓮華経という奇妙な題目を唱える新しい僧が現れた、といったぐらいの認識しか、人々はもたなかったにちがいない。

 また、邪法邪師の根源としての良観房に対する破折、他国侵逼難より一国を救うため各宗各寺に法論対決を挑まれた十一通御書の出来事等がなければ、やはり竜口の法難や佐渡流罪もなかったはずである。まさに「日本国をたすけんとおもひしゆへ」の苦難の連続の一生であられたのである。

 「開目抄」に「日蓮が法華経の智解は、天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」(0202:08)と。日蓮大聖人において、苦難と慈悲とは表裏の関係にあった。それはまた、大聖人の大慈悲に対して、逆恨みし、迫害をもって応えた日本民衆の生命の汚れと歪みとのいかに深いかを証するものでもあった。

 

 

第三章(尼御前の信心を励ます)

本文

しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めを・をそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをも・はばからず身にも・かわらんと・せし人人なり、さればつらかりし国なれどもそりたるかみをうしろへひかれ・すすむあしもかへりしぞかし、いかなる過去のえんにてや・ありけんと・おぼつかなかりしに・又いつしか・これまで・さしも大事なるわが夫を御つかいにて・つかはされて候、ゆめかまぼろしか尼ごぜんの御すがたをば・みまいらせ候はねども心をば・これに・とどめをぼへ候へ、日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり、又後生には霊山浄土に・まいりあひ・まひらせん、南無妙法蓮華経。

       六月十六日                                日蓮花押

     さどの国のこうの尼御前

 

現代語訳

ところが尼御前および入道殿は、日蓮が佐渡の国に居た時は、人目をはばかって夜中に食物を送り、ある時は国の役人が咎めをも恐れず、日蓮の身代わりにもなろうとした人々である。それゆえ、辛かった佐渡の国ではあったが、そった髪を後へ引かれ、進む足も戻りそうになるほど名残り惜しいものであった。

どのような過去の因縁によるものかと、不思議に思っていたところ、また、いつの間にかこの身延まで、これほど大切な我が夫を、御使いとして遣わされた。

夢か、幻か。尼御前の御姿は見ることはできないが、心はここにおられると思われる。

日蓮を恋しく思われるならば、常に朝に出る日、夕に出る月を拝みなさい。何時であっても、日月に影を浮かべている身なのである。

また、後生には、霊山浄土へ行って、そこでお会いしましょう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

六月十六日             日 蓮  花 押

さどの国のこうの尼御前

 

語釈

後生

三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。

 

霊山浄土

釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、「御義口伝」に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(757:第十四時我及衆僧俱出霊鷲山の事:07)とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

 

講義

日本国中が「父母のかた訖のごとく、謀叛強盗にもすぐれて」憎んだ日蓮大聖人を、国府入道夫妻は、種々御供養し、身をもって守ろうとさえしたのである。これに対し、心からの礼を述べられているところである。

普通ならば、流罪の地に未練愛着など、ありえようはずがない。それを「そりたるかみをうしろへひかれ、すすむあしもかへりしぞかし」と言われているところに、国府入道夫妻に対する大聖人の愛情の深さが示されている。

しかも、そうした大聖人の心に応ずるかのように、国府入道は、身延に入山された大聖人を慕って、はるばる佐渡から訪ねてきたのである。国府入道が来たということは、単に国府入道一人の問題ではない。途中、どんな危険があるとも知れない長路の旅に、大事な夫を送り出した妻の尼御前も、姿こそないが、心はすでに一緒に来られているのだと仰せである。尼御前の思いもまさにそうであったにちがいない。

そして更に、今度は逆に、大聖人自身、日月に影を浮かべて、どんなに遠く離れていても、大聖人を思う尼御前を訪ねているのであり、そこには、間を隔つ何ものもないことを示されている。

「いつとなく日月にかげをうかぶる身なり」とは、さらに深く拝すれば、単に情緒的な意味でいわれたのでなく、宇宙法界に遍満する久遠本仏としての境地を仰せられているのである。

「又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん」とは、妙法の信心を貫き通すならば、必ず成仏を遂げることができる、ゆえに尼御前も成仏得道を遂げて、霊山浄土へいらっしゃい、そこでお会いしましょうと、一方では尼御前の信心を励まし、一方では、いま直接に大聖人にお会いできない尼御前の心を慰めながら、御自身の仏法への絶対の確信を教えられているのである。

ともあれ、この段は、妙法への確信と御本仏としての境地を根底に示しつつ、入道夫妻に寄せる、人間味あふれる愛情を吐露された、感銘深い一節である。

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