当体義抄
文永10年(ʼ73) 52歳 最蓮房
- 第三章(信受に約す)
- 本文
- 現代語訳
- 語釈
- 講義
- 総別の二義について
- 当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり
- 大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す
- 法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず
- 故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり
- 所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり
- 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は……三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり
- 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり
- 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず
第三章(信受に約す)
本文
問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華・真如の妙体是なり涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く」文、南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す」文、又云く「法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し是を一乗の衆生の義と名く」文、又云く「二乗声聞及び鈍根の菩薩は方便道の中の次第修学なり利根の菩薩は正直に方便を捨て次第行を修せず若し法華三昧を証すれば衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名く」文、南岳の釈の意は次第行の三字をば当世の学者は別教なりと料簡す、然るに此の釈の意は法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云う故に爾前の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経なり・証拠は無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説す」文、利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修せず若し法華経を証する時は衆果悉く具足す是を一乗の衆生と名くるなり・此等の文の意を案ずるに三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体とは名く可からざるなり、設い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付く可からず権教の三身は未だ無常を免れざる故に何に況や其の余の界界の名言をや、故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり、南岳釈して云く「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文、又云く「問うて云く仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、答えて云く大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文顕れ已れば通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、
現代語訳
問う、一切衆生が、皆ことごとく妙法蓮華経の当体であるならば、われわれのように愚癡で道理に闇く、理解も鈍い凡夫も、妙法の当体であるのか。
答う、当世の人々は数多いけれども、全ての人は二種類に収まってしまう。それは、権教を信ずる人と実教を信ずる人である。しかして、権教・方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということはできない。実教の法華経を信ずる人こそ当体蓮華であり、真如の妙体なのである。その文証として涅槃経には次のように説いている。「一切の衆生の中でも、特に大乗教を信ずる故に大乗の衆生と名づけるのである」と。南岳大師の四安楽行義には「大強精進経にいわく、信心によって衆生(九界)も仏(仏界)も同じく共に一つの生命であり、清浄にして妙なること比いなきことを妙法蓮華と称するのである」と。また同じく南岳大師は「法華経を修行する者は、この余念のない信心・修行にあらゆる果徳がそなわる。しかもそれは一時にそなわるのであって、歴劫修行のように次第に得入するのではない。それはあたかも蓮華の華が開くと同時に、一つの華に、多くの果実を一時に具足するようなものである。これを一乗の衆生の義と名づけるのである」と。またいわく「二乗の声聞及び鈍根の菩薩の修行は、方便道の中での歴劫修行である。これに対して利根の菩薩は、正直に方便を捨てて歴劫修行の道を取らない。もしも法華のさとりを証得するならば、一切の果徳がことごとく具足するのである。これを一乗の衆生と名づける」と。
南岳大師のこの釈の中の次第行の三字を、世間一般の学者は別教であると解している。しかし、これは誤りであって、この釈の意は、法華経の因果俱時の完全な教えに相対して、方便道を次第行といっている。故に次第行とは爾前の円、爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経等の一切をいうのである。
その証拠として、法華経の開経である無量義経説法品第二に「次に方等十二部経・大般若経・華厳経を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説した」と説かれている。利根の菩薩は正直に方便を捨てて歴劫修行をしないで、もし法華経を証得するときは、一切の果徳を具足することができる。これを一乗の衆生と名づけるのである。
これらの文の意を考えてみれば、三乗・五乗・七方便・九法界等、四味三教を修行する一切の凡夫・聖人等は、大乗の衆生・妙法蓮華の当体と名づけるべきではないのである。たとえ仏であっても、権教の仏に対しては仏界すなわち真実の仏と名づけるべきではない。なぜならば、権教の三身は、永遠の生命を説いていない故に、いまだ無常を免れないからである。まして、その余の九界に対しては、どうして当体蓮華と名づけられようか。
ゆえに正・像二千年間の国王・大臣よりも、末法に生まれた非人のほうが尊貴であると釈しているのもこの意なのである。
南岳大師は安楽行義に「一切の衆生は法身の蔵を具足しているので、仏と何ら異なることはない」と述べている。また法華経法師功徳品第十九では「父母所生の清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意もまた是くのごとし」と説いている。さらに安楽行義に「問うていわく、仏は、いずれの経の中で眼等の諸根を説いて名づけて如来としているのか。答えていわく、大強精進経の中に、信心によって衆生(九界)と如来(仏界)は共に同じ一法身(生命)であって、その清浄妙なること比類がない。それを妙法蓮華経と称するのである」と説いている。
この大強精進経は方便権教の文ではあるが、法華経がすでに説きあらわされているから会入の立ち場から引用することができるのである。この大強精進経の同共の二字に習って相伝するのであるが、法華経(御本尊)に同共(境智冥合する)者は妙法の当体であり、法華経に不同共の、法華不信の念仏者等は、すでに衆生所具の仏性・法身如来に背くゆえに妙経の当体ではない。
所詮、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮の弟子檀那等の父母所生の肉身そのものをいうのである。正直に方便の教えを捨て、ただ法華経(御本尊)のみを信じ、南無妙法蓮華経と唱え行ずる人は、煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦がそのまま一心に顕われ、その人の所住の処は、常寂光土となるのである。能居所居・身土・色心・俱体俱用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等のなかの正しい信心をする者のことである。これすなわち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのである。決してこれを疑ってはいけない。これを疑ってはならない。
語釈
涅槃経
釈尊の入涅槃の様子とその時に説かれた教えを記した経。大・小乗で数種ある。①大乗では、㋑中国・東晋代の法顕訳「大般泥洹経」六巻、0418年成立。㋺北涼代の曇無讖訳「大般涅槃経」(北本)四十巻、四二一年成立。㋩劉宋代の慧観・慧厳・謝霊運訳「大般涅槃経」(南本)三十六巻、四三六年成立。㋑を参照して㋺の前半を改めたもの。㋥唐代の若那跋陀羅訳「大般涅槃経後分」二巻、仏の荼毘・舎利の分配までの事績を記す。②小乗では、同じく法顕訳「大般涅槃経」三巻、姚秦(後秦)代の鳩摩羅什訳「仏遺教経」等がある。内容について、大乗の涅槃経では仏身の常住、涅槃の四徳である常楽我浄を説き、一切衆生悉有仏性を明かして、善根を断じた一闡提(いっせんだい)も成仏すると説いている。また小乗の涅槃経は教理を説いたものではなく、釈尊の入涅槃から舎利の分配までの事跡を記している。
四安楽行
ここでは、南岳大師慧思の著「法華経安楽行義」の略称として用いられている。なお四安楽行とは、法華経安楽行品第十四に説かれた四つの行法。文殊菩薩が浅行初心の行者が濁悪世で安楽に妙法蓮華経を修行する方法を問い、釈尊がこれに対して身・口・意・誓願の四種の安楽行を説き、初心の人がこれによって妙法蓮華経を弘通し修行することを示した。
大強精進経
この経名は、諸経録の中には見えない。しかし、一節には央掘摩羅経ではないかといわれる。その根拠は、央掘摩羅経巻四に「南方此を去り、六十二恒河沙刹を過ぎて国有り。一切宝荘厳と名づく。仏を一切世間楽見上大精進如来応供等正覚と名づく……王当に随喜し、合掌し、恭敬せん、彼の如来は、豈異人ならんや。央掘摩羅即ち是れ彼の仏なり」とある。ここから、央掘摩羅の本地は「大精進如来」であるとし、南岳は「大精進如来」の垂迹である仏弟子で、かつて殺人をなすこと一千人に一人を欠くという凶賊であった央掘摩羅の事績を伝えた経典・央掘摩羅経を「大強精進経」といったのであろう。なお央掘摩羅経は四巻、阿含部に属す。
無量義経
一巻。中国・蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経序品第一には、釈尊は「無量義」という名の経典を説いた後、無量義処三昧に入ったという記述があり、その後、法華経の説法が始まる。中国では、この序品で言及される「無量義」という名の経典が「無量義経」と同一視され、法華経を説くための準備として直前に説かれた経典(開経)と位置づけられた。内容は「無量義とは、一法従り生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。また、これまでに説いた経教は、まだ真実を明かさない方便の教えであることを次のように述べている。「善男子よ。我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず。所以は何ん、諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生は得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず」と。
歴劫修行
成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第二にある語。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。
三乗・五乗・七方便・九法界
三乗とは声聞・縁覚・菩薩。五乗とは三乗と人・天。七方便とは、蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教の声聞・縁覚・菩薩と別教の菩薩をいう。九法界は地獄界から菩薩界までの九界である。
能居所居
居住する主体を能居、居住の処を所居という。日寛上人の文段には「『能居・所居』は是れ無作応身の依正なり、例せば妙楽が『即ち本応身の所居の土』と云うが如し」とある。
当体蓮華
当体蓮華とは、一切衆生の当体が妙法蓮華であり、十界互具の生命であることをいう。当体蓮華を説明するために用いられた植物の蓮華(ハスの花)を譬喩蓮華という。蓮華、すなわちハスは、小さなつぼみのうちからその中に果実となる花托がある。多くの花は因である花が先に咲いて散ってから実がなるのに対し、ハスは花びらと果実がともに成長していき、花が開いた時に実がしっかりあり、花と実が同時である。ここで蓮華の蓮はハスの実をあらわし実法に、華はハスの花で権法にたとえる。法華玄義の序王では、妙法蓮華(当体蓮華)を説くために華草の蓮華(譬喩蓮華)をもって権教と実教、本門と迹門との各三種の関係に配して示されている。(1)迹門の三喩。①蓮のための華。為実施権(実の為に権を施す)をたとえる。②華開き蓮現ずる。開権顕実(権を開いて実を顕す)をたとえる。③華落ち蓮成ずる。廃権立実(権を配して実を立てる)をたとえる。(2)本門の三喩。①蓮のための華。従本垂迹(本従り迹を垂れる)をたとえる。②華開き蓮現ずる。開迹顕本(迹を開いて本を顕す)をたとえる。③華落ち蓮成ずる。廃迹立本(迹を廃して本を立てる)をたとえる。
講義
本章は信受に約する段である。前段において、法体に約する意は、信と不信を分別することなく、十界の依正を通じて、妙法蓮華経の当体となしているのである。これは総別の二義のうち、総の立場である。
今、ここに信受に約する意は、不信謗法の類いを簡び捨て、但妙法信受の人をもって、別して妙法の当体となすのである。
総別の二義について
総別の二義は、仏法上極めて重要な原理である。日蓮大聖人の御書も、総別の二義をわきまえて拝さなければ、重大な誤りを犯すことになる。曾谷殿御返事にいわく「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(1055:11)と。よくよく心肝に染むべきである。
総別の総とは、一往表面的、総体的に論ずることである。別とは、再往さらに一重立ち入って、特に別して論ずることである。したがって、総より別が究極となるのである。
総別は仏法の正邪を論じ、教義の浅深・高低を判別する基本的なもので重大な意義がある。たとえば、釈尊一代五十年の説法のうち、総じては一代聖教ことごとく真実であるが、別しては最後の八年間に説いた法華経のみが真実の教えである。さらに、総じては法華経二十八品が真実の教えであるが、別しては本門十四品が真実である。また、総じては、本門十四品が究極円満の教えであるが、別しては、本門寿量品文底の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ、即身成仏の教えである。
付嘱にも、総別の二義がある。総付嘱と別附嘱である。総付嘱とは法華経の嘱累品において本化・迹化の菩薩に通じて付嘱したように、総体的に一往付嘱したことをいう。別附嘱とは、神力品において、特別に上行菩薩を上首とする地涌の菩薩に結要付嘱したことをいうのである。
如来すなわち仏にも総別がある。御義口伝下に「今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(0752:05)とあるごとく、総じていえば、如来とは一切衆生をいうが、別していえば、御本尊を受持した日蓮大聖人の弟子檀那である。ところで、別の中にもまた総別の二義がある。すなわち日蓮大聖人の弟子檀那を如来というは総であり、別しては、如来とは日蓮大聖人御一人のことである。これを両重の総別という。
両重の総別は、当抄においても、分明である。すなわち「一切衆生悉く妙法蓮華経の当体」とは総であり、「妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり」とは別である。ところが「能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」との文は別の中の別であって、この文こそ正に信心に約しているのである。「中」の字を、日寛上人は「正信にあたる」と解釈されているように、大聖人の仰せどおり、広宣流布の達成に向かって実践しきった人が、真実の妙法蓮華経の当体なのである。
当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人・実教の人なり
第一章の、あらゆる衆生も妙法の当体であるとの仰せに重ねて「我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや」と問うているのである。法体に約し、理の上の法相から論ずるならば、実に所問のとおりである。
だが、信受に約し、事について論ずれば、そこに厳然と差別が存する。ここでは一切衆生を、権教の人と実教の人とに分別し、別して実教の人こそ妙法蓮華の当体であると仰せである。
一往、権教とは法華経以前の爾前権教であり、「権教の人」とはこの爾前権教を信じ、執着している人のことである。また、実教を法華経ととり、「実教の人」とは法華経を信ずる人と考えられる。しかしこれは、まだ種脱相対をわきまえない浅薄な見方であって、当抄に「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(0518:16)との御金言より拝しても、実教とは三大秘法の御本尊にほかならないことは明白である。しかして「実教の人」とは、御本尊を持った人であり、この人こそ当体の蓮華・真如の妙体と顕われるのである。
したがって「権教方便の念仏等を信ずる人」すなわち邪宗教、誤れる思想を持った者は「妙法蓮華の当体と云わる可からず」と断定されているのである。
大強精進経に云く衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法華経と称す
この文は、九界即仏界、仏界即九界の不可思議な生命の当体をあらわしている。この大強精進経の文について、日寛上人は、次のように釈されている。
「問う妙法蓮華経と称する意如何。答う、衆生と(与)如来は即是れ蓮華の二字なり、謂く衆生は是れ因にして如来は是れ果なり。与の一字は因果俱時を顕わすなり。同共一法身とは即是れ法の一字なり。謂く衆生如来に同共すれば九界即仏界なり。如来衆生に同共すれば仏界即九界なり。十界互具、百界千如は即是れ法の字なり。清浄妙無比とは即是れ妙の一字なり。此の五字は通じて称嘆の辞なる故なり。中に於て清浄の二字は衆生と如来の蓮華を歎ず。妙無比の三字は同共一法身の法の字を歎ずるなり。是の故に妙法蓮華経と称するなり」と。
妙法蓮華経とは、九界即仏界、仏界即九界の即身成仏の法であることは、これによって明確である。しかして、この文の「同共」の二字に甚深の意味があることを知らなければならない。下の文に「大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり」と仰せのごとく、同共しなければ、もはや妙経の体、すなわち当体蓮華の仏ではありえないからである。
しからば、同共とは何か。われら衆生においては、同共とは信心である。信心によって初めて御本尊と同共し、わが身妙法蓮華の当体とあらわれ、清浄妙無比の、尊極の生命をあらわしていくことができるのである。清浄妙無比とは、何ものにも壊されず侵されない、金剛不壊の幸福境涯をいうのである。
法華経を修行するは此の一心一学に衆果普く備わる一時に具足して次第入に非ず
この文は、南岳大師の安楽行義の文である。無量義経に「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜は自然に在現し」とあるごとく、因位の万行を修行しなくとも、御本尊を受持し、自行化他にわたる信心修行によって、果位の万徳を備えるのである。「一時に具足して」とは直達正観・即身成仏ということである。
また、日寛上人の文段によれば、この文は因果俱時をあらわしている。
すなわち「一心」の一の字は因であり、「衆果普く備わる」とは果である。また「一時に具足して」とは、すなわち、俱時ということである。
故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり
たとえ国王・大臣といえども、正像年間に生まれては、仏法の真髄たる文底独一本門の御本尊にめぐりあうことはできない。非人であったとしても、末法に生まれ、御本尊を信受し、わが身即当体蓮華の仏と開覚できることは、最高無上の幸福である。
人間の真実の偉大さは何によって決まるか。国王、大臣とは、社会的地位であり、肩書きである。本質的な人間生命それ自体にとっては、枝葉末節にすぎない、はかない栄枯盛衰の姿であり、夢の中の夢ではないか。わが生命の本質の輝きは、妙法を信受し、実践する以外にない。この信心から出た生命の輝きは、何ものにも破られず、奪われず、衰えることもない、年とともに、ますます輝きを増していくのである。
真実の幸福は、わが生命の外に求めるのでなく、わが生命それ自体の内に、尊極無上の宝を開発しゆくのである。これこそ、人間として最も偉大なことではなかろうか。
なお、この文について、日寛上人の文段には、次のように申されているので、現代語に訳して引いておく。
正法千年は四味三教流布の時であるから、国主・大臣といえども妙法蓮華の当体でないことは明らかである。しかし、像法の時は法華経を弘めているから、その法華経を信受した人は当体の蓮華仏ではないかとの疑問が生ずる。
だが、天台・伝教の像法時代は法華経迹門流布の時であるから、これを信受した人々もことごとく、迹門の人といわなければならない。たとえ仏といえども迹門の仏であって妙法当体の蓮華仏ということはできない。ましてそれ以外のものはいうまでもないことである。
これは本門寿量の真仏にのぞむ時は、いまだ無常を免れることのできない夢中の虚仏だからである。
しかるに末法今時は、本門寿量の肝心すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布の時である。故にこれを信受する人は非人であっても、本門寿量の当体の蓮華仏なのである。したがって正法像法の国王よりも、末法の妙法を信受した非人は尊貴なのである。
それでは、この釈はどこからでているのか。日講の啓蒙に「此の釈の本拠は未だ的文を見ず、但大論十三に相似の文有り」とあるが、この啓蒙の意では適当のものということができない。
しかして、此の釈は取意の引用である。すなわち天台の法華文句の「後の五百歳遠く妙道に沾わん」、妙楽の法華文句記の「末法の初め冥利無きにあらず」、また伝教の守護国界章の「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り」、同じく法華秀句の「代を語れば則ち像の終り末の始め」等の釈である。
ゆえに撰時抄にこれらの文を引きおわって「天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて末法の始をこひさせ給う御筆なり……道心あらん人人は此を見ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」(0260:07)と仰せである。
すなわち末法の始めは、独一本門の流布の時であるから、是れを信受する者は皆これ本門寿量の当体蓮華仏である。故に末法の始めを恋うるのである。
さて、御本尊を受持し、折伏に励む創価学会員は、たとえ今は貧乏に悩み、病気に苦しんでいるとしても、仏法の眼開けてみれば、地涌の菩薩として、人類の一切の苦悩を救うべき、尊い使命をもって生まれてきているのである。
しからば、なぜ地涌の菩薩が、貧乏人や病人に生まれてきたのであろうか。それは一つには本人の宿命であり、罪業によって悩んでいるのである。二つには願ってこの世へ折伏を行ずるために生まれてきたのである。折伏を行ずる人が裕福で健康で、何一つ不自由しない人ばかりでは、折伏される方の不幸な人々にとって、御本尊を心から信ずるに至る手がかりはなくなってしまうであろう。戸田先生は常に「われわれは折伏を行ずるために、願って貧乏で、また病気の身などで生まれてきたのだ。故に折伏をやりきれば、必ず絶対的幸福の境涯にもどる」といわれていた。
折伏を行ずるには、一般大衆と同じ悩みや苦しみを共にしながら仏道修行に励んで、そのなかに御本尊の功徳を身をもって証明し、事実の生活の上にあらわさなければ、大衆が信用しない。ゆえに、法師品には「此の人は……衆生を哀愍し、願って此の間に生まれ、広く妙法華経を演べ分別す……是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ」と。
日蓮大聖人が、王候や貴族に生まれることなく、貧窮下賤の身で出現になった理由は、一切衆生を救わんがためであった。
開目抄にいわく「経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり」(0203:06)と。
また、善無畏三蔵抄にいわく「日蓮は安房の国・東条片海の石中(いそなか)の賎民が子なり威徳なく有徳のものにあらず」(0883:09)と。
佐渡御勘気抄には「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(0891:07)とも仰せられている。
しかして、日蓮大聖人のご一生の大難を思うならば、われらのごとき悩み、苦しみなど取るに足らぬものではないか。必ず使命があって、この世に生まれ、信心したのであり、いかなる悩みも絶対に解決できるとの確信に立って、信心強盛に折伏に励むべきである。
しかも、今、時は、まさに順縁広布の時代である。中天の太陽のごとき赫々たる黄金時代が到来したのである。このすばらしい、偉大な時代に生まれあわせた福運を身に感じて、一生成仏を目指していきたいと思うのである。
所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり
生命の尊厳をこれほど明確に説ききった哲学が他のいずこにあろうか。「父母所生の肉身」とは、われわれの、ありのままの人間である。妙法を信じたときには、それが即、尊極なる妙法蓮華の当体とあらわれる。
キリスト教においては、肉体を悪魔の所産とし、そこから離れた霊魂、精神にのみ尊厳を認める。過去、世界の主流となってきた思想は、いずれも、こうした「父母所生の肉身」を忌み嫌う考え方に立つものであったといってよい。
もとより、古代ギリシャにおけるように、肉体の美を賛嘆する思想もあったし、ルネサンス以後も、この古代ギリシァの精神が一つの流れを形成してきたことも事実である。だが、それは、あくまでも、均勢のとれた、見事に発達した肉体の美感の問題にすぎない。生命の本質的な尊厳観にかかる思想・宗教にはなりえなかった。
いまここに「父母所生」の、われらのありのままの人間生命が、そのまま「妙法蓮華の当体」とあらわれるとする偉大な仏法哲学によって、初めて真の生命の尊厳が具現されるのである。
肉体を離れて、生きた人間存在はありえない。「父母所生の肉身」を否定して、いかに尊厳を説こうとも、それは観念論にほかならないであろう。
阿仏房御書にいわく、「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(1304:06)と。
この御文に「法華経を持つ男女の・すがた」と仰せられているのも、御本尊を受持した、現実の人間ということである。色心不二の、生命の全体をさして、このように仰せられているのである。また「貴賤上下をえらばず」とは、社会的地位の上下も、財産の有無も、この生命の尊厳ということについては、一切無関係であるとの意である。
ただ大事なことは信心であり、信心があれば、この生命の尊厳を事実の上に顕現し、輝かせていくことができる。信心がなければ、それを開発することはできない。あたかも、大地の中に埋蔵されたダイヤモンドの鉱石のごとく、そのままでは、価値を発揮していくことはできない道理である。
ひるがえって、人類の歴史をかえりみるとき、生命の尊厳が常に叫ばれ、その実現が渇仰されながら、現実には戦争と弱肉強食の争いとの、生命軽視の醜い流転を繰り返してきた。その原因は、とりもなおさず、生命の尊厳を説く哲学、宗教が、たんなる観念論の域を出なかったが故の無力さにあるといわなければならない。
日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、生命のありのままの姿を捉え、そこに確立した尊厳観であると共に、事実の生活の上に、生命の尊厳を具現する唯一の実践哲学なのである。
人類百万年の悲惨と残虐の流転に、今こそ終止符を打たねばならない。核戦争による人類絶滅の脅威におおわれた現在、人類の生きうる道は、それ以外にない。この仏法によって真実の生命の尊厳の土台を確立し、慈悲と平和の栄光の歴史を築こうではないか。
正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は……三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり
この文を日寛上人の文段にしたがって論じていくことにする。
初めの「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は」の文は本因を明かしている。すなわち、われわれが信ずるは心であり、唱うるは身である。この色心一如の境涯は、これわれらの本因妙である。
「正直に方便を捨て」とは、信心第一に生きるということである。一切の活動は、信心から出発し、信心に帰着するのでなくてはならない。その人の根底の一念が、何か他に幸福の道があるのではないかと動揺しているのであっては、正直に方便を捨てたことにはならない。この仏法以外には断じてないと決めることが信心の肝要であり、正直に方便を捨てたことになる。日寛上人の文段には、次のようにある。
「正直とは譬えば、竹を竹と識り、梅を梅と識り、松を松と識る、権を権と識り、実を実と識り、迹を迹と識り、本を本と識り、脱を脱と識り、種を種と識る、是を正直というのである。既に権を権と識り、実を実と識る則は、永く権を用いざる故に権を廃捨す。故に捨方便と云うのである。本迹種脱、之に例して知るべきである。若し、権実雑乱、本迹迷乱、種脱混乱は即ち是れ邪曲の義なのである。故によくよく慎まなければならない。邪義を立てるときは責めなければいけない」との仰せである。
「但法華経を信じ」とは、ひたすら三大秘法の御本尊を信ずることである。上野殿御返事に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)とあるがごとくである。
この法華経を、三大秘法の御本尊ととることは次の日寛上人の文段からも明白である。
すなわち、この文は、ただ権実相対に似ているけれども、釈成の文より立ち返ってこれを見るときは、本迹相対、種脱相対の意を含んでいるのである。ゆえに具さには、但法華経の本門寿量の教主の金言を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる人等というべきである。これすなわち釈成の文中に本門寿量の当体蓮華仏というゆえである。
もし本門寿量の教主の金言を信じないならば、本門寿量の当体の蓮華仏と名づけることはできないのである。
また、末法の衆生の証得を明かす文の中に、当体の蓮華を証得し、寂光当体の妙理を顕わすことは、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱えるゆえである。どうして本迹一致の妙法等ということができるであろうか。
「煩悩・業・苦の三道……三観・三諦・即一心に顕われ」の文は本果をあらわしている。なぜなら、信心唱題の妙因によって顕われた妙果であるから、本果妙である。
「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」とは煩悩即菩提、生死即涅槃ということである。いわゆる釈迦仏法では、三惑を断じ、煩悩を断じて、初めて幸福境涯が得られると説くが、これは現実にありえない低級な教えである。日蓮大聖人の仏法は、煩悩を断ずるのではなく、煩悩は煩悩のまま明らかに見、そして御本尊を信ずる大功徳によって、煩悩はそのまま悟りの境涯に住すると、実際生活の上から、明らかに妙理を説かれているのである。ゆえに、生死一大事血脈抄にいわく「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ……煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」(1338:08)と。
三道の道とは能通の義であり、この煩悩・業・苦の三つは互いに因果となって、よく通ずるゆえに三道というのである。すなわち煩悩は、業の因であり、業すなわち宿業は、煩悩のあらわれであり、苦はそれによって六道の生死の苦果を招くことをいうのである。この六道の苦界を流転する末法の衆生は、文底下種の南無妙法蓮華経の御本尊を信じて唱題修行することによって、煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じ、最高の幸福境涯に住することができるのである。
ここで、法身とは永遠の生命、色心連持、調和された生命、人格をいう。
般若とは智慧をいい、社会にあって、人々を幸福にし、悠々と価値創造に活躍しきっていける人生を遊戯していけるのである。
解脱とは幸福境涯。生死の縛にとらわれない、自由清新な生命活動をいうのである。
このような法身・般若・解脱という尊極極まりない生命も、われわれの煩悩・業・苦の三道があるから、妙法の力用によって、法身・般若・解脱へと、最高の人間革命ができるのである。これこそ煩悩即菩提、生死即涅槃の大原理なのである。
始聞仏乗義にいわく「但し付法蔵の第十三天台大師の高祖・竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、天台云く妙は不可思議と名づく等云云、又云く一心乃至不可思議境・意此に在り等云云、即身成仏と申すは此れ是なり」(0984:01)と。
また法身・般若・解脱の三徳とは本地無作三身である。すなわち法身即法身如来であり、般若即報身如来であり、解脱即応身如来である
「転じて」とは、その人自身に変わりはないが、信心の自覚により、今までと180度変わった人生、境涯に入ることをいうのである。この「転じて」について日寛上人は文段に次のように述べている。
「転」とは、その体を改めないで、ただその相を変ずることを転というのである。大論にはいわゆる「毒を以て薬と為す」とある。本尊供養御書にいわく「金粟王と申せし国王は沙を金となし・釈摩男と申せし人は石を珠と成し給ふ……須弥山に近づく鳥は金色となるなり、阿伽陀薬は毒を薬となす、法華経の不思議も又是くの如し凡夫を仏に成し給ふ」(1536:02)と。
「三観・三諦・即一心に顕われ」とは境智の二法をわれわれの生命に顕現することである。三観は能観の智、三諦は所観の境である。曾谷殿御返事にいわく「抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし」(1055:06)と。
空仮中の三諦は一切万法に通ずるから、万法の体はことごとく三諦の境すなわち御本尊である。また「境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながる」すなわち三諦の境より発す三観は智となる。魔訶止観巻三上に「もし智に由りて境を照し境によりて智を発す」とある。
同じく曾谷殿御返事に「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」(1055:02)と仰せのごとく、三観・三諦とは南無妙法蓮華経のことである。
三観とは、御本仏日蓮大聖人の智慧であり、三諦とは大宇宙の妙法である。一心とは信心の心である。よって「三観・三諦・即一心に顕われ」とは御本尊を信じ、題目を真剣に唱えたとき、仏の智慧が湧現し、その行動は大宇宙のリズムに叶った自在の振舞いとなっていくとの意と拝するものである。
されば、日寛上人は文段に次のように仰せである。
「三諦はこれ境であり、三観はこれ智である。故にただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、本地難思の境智の妙法をわれらが一心に悟り顕わして、本門寿量の当体蓮華仏と顕われるのである。これを本覚無作の一心三観と名づけるのである。修禅寺決に云く『本門実証の時は無思無念にして三観を修す、無思無念にして誰れも造作すること無し故に無作と云うなり』」と。
「其の人の所住の処は常寂光土なり」の御文は依正不二を明かされている。「其の人」とは、南無妙法蓮華経と唱うる人で、すなわち、煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じた妙人である。この妙人は正報である。
「所住の処」等とは依報である。この中において「所住の処」の四字は依報の中の因であり、「常寂光土」の四字は依報の中の果である。されば依正不二なる故に、正報の因果が俱時であるから、依報の因果も、また俱時である。このように依正の因果が俱時であるから依正の因果ことごとく蓮華の法である。
ここで「常寂光土」とは、仏の住する清浄な国土ということであり、当体蓮華仏の住む処である。
したがって、常寂光土は、爾前、迹門で説かれているような、われわれ衆生とかけ離れた、特別な理想世界をいうのではなく、われわれが住むこの娑婆世界をいうのである。これ娑婆即寂光土の原理である。
われわれが住むこの世界を、娑婆とするか寂光土とするかは、正報であるわれわれの一念によって決定されるのである。わが奥底の一念が、地獄であれば、われらが住む世界はことごとく地獄である。奥底の一念が修羅界であれば、われわれをとりまく世界はことごとく修羅界である。われわれの一念が天界であれば、国土も天界となるのである。
しかしてわが一念に仏界を湧現し、当体蓮華仏と顕われれば、依報はことごとく常寂光土となるのである。
したがって、妙法が広宣流布した世界こそ常寂光土となるのは、明々白々たるものではないか。今日、幾多の悲惨な現実がわれらの眼前に展開している。戦争、飢餓等、その現状はあまりにも悲惨であり、残酷である。この五濁乱漫の世相の根源は実に人間生命の濁りである。しかして、われわれが妙法を全世界に広宣流布するならば、必ずやこの乱れきった娑婆世界も常寂光土と転ずることができるのである。このように仏法はまずその人自身の当体を確立するところから出発している。自身の当体を確立しないで、なんの制度であり、政治、文化であろうか。
また「其の人の所住の処は常寂光土なり」とは信心唱題の故に、仏身を成じ、その所住の処は寂光土となるというのであるから、これ本国土妙というのである。
されば、本因、本果は正報の十界である。本国土は十界の依法である。しこうして三妙合論するといえども、三千の相いまだに明らかでない。したがって次に能居所居・身土・色心等といって依正の十如を明かしているのである。
能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり
この文は、真実の生命の幸福論を明かしているのである。
日寛上人の文段には次のように述べている。
此の文は釈成の文である。すなわち文底の意にこれを釈して、日蓮大聖人の末弟に結成するのである。
されば、初めに依正不二を釈成し、次に因果俱時を釈成するのである。
初めの依正不二とは上の御文には広く、其の人所住の処常寂光土等といい、今、文底の意に依って無作三身の依正に約してこれを釈するのである。
すなわち、能居所居はこれ無作応身の依正である。例せば妙楽が「即ち本応身の所居の土」というのと同じである。
身土とは無作法身の依正ということである。例せば妙楽が「即ち是れ毘盧遮那身土の相」というのと同じである。
色心とは無作報身の依正である。十法界を心とするを報身というからである。
されば報身とは色をもって所依とし、心を報身とする故である。この無作三身の所依を寂光土というのである。解釈にいわく「無作三身、寂光土に住すと」等云云。これについて日蓮大聖人は「十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う」(0563:02)、是れ無作三身の一仏である。
したがって「能居所居・身土・色心」の文を日蓮大聖人の御身に拝することができる。すなわち、大聖人御自身は能居であり、大聖人の住する所は所居である。この能居所居ともに依正不二で一体である。
また、身とは大聖人の御身であり、大聖人の住するところは土である。この身も土も一体不二である。
さらに、この文において、事の一念三千の義が明らかに説かれている。すなわち、能居の身の色心とは、すなわちこれ正報の十如是である。されば衆生世間、五陰世間の二千となる。所居の土の色心とはすなわちこれ依報の十如でこれ国土世間の一千である。
能居の身の色心・所居の土の色心が十如である理由は、摩訶止観巻五に云く「国土世間亦十種の法を具す、所以(ゆえ)に悪国土相性体力等」と。法華玄義釈籤の六に「相は唯色に在り、性は唯心に在り」とあるごとくである。
以上において、三妙合論、事の一念三千の文義が分明である。
此の事の一念三千即自受用身なるが故に、俱体具用と仰せられているのである。
「俱体俱用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは」の文の下は因果俱時を釈成している。初めに果をあげ、次に日蓮の下は因を結しているのである。初めに果をあげる中に、俱体俱用の無作三身とは、上の文の三道即三徳の文に配し、本門寿量の当体の蓮華仏とは上の文の三観即三諦の文に配してこれを見るべきである。
前には汎く三道即三徳と転ずるという。今は文底の意に約するから俱体俱用の無作三身というのである。
爾前迹文の意では、法身を体となして報身・応身を用としている。ゆえに俱体俱用ではない。また色相荘厳の仏であるがゆえに無作三身ではない。本門の意は、三身俱体、三身俱用であるから、俱体俱用である。まして名字凡身の本のままであるから無作三身である。されば俱体俱用の無作三身とは日蓮大聖人の御事である。われらが妙法信受の力用によって、即日蓮大聖人と顕われるのである。すなわち、人法一箇の御本尊を信ずることによって、われらもまた当体の蓮華仏となるのである。
また、一往、義立に約せば、俱体俱用の義は迹門に通ずる義辺がある。等海抄十二には「迹門の意は法身に即し、報応二身は倶に体と成る、報応に即し法身は倶に用と成る。故に俱体俱用と云う義之有り」とある。
また、総勘文抄等は此の義辺に当たるか。本門寿量の当体蓮華仏とは、前には汎く三観三諦等といい、今は文底の意に約して本門寿量等というのである。
いうところの当体とは妙法の当体である。これは譬喩に対する故に当体というのである。故に本門寿量の当体蓮華仏とは本門寿量の妙法蓮華経仏ということである。すなわち、これ本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華仏というのである。されば、本有無作の当体蓮華仏とは、本門の本尊の御事である。われら妙法信受の力用によって、本門の本尊、無作の当体蓮華仏と顕われるのである。
「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」の文の下は因を結しているのである。前の「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」は信ずることが因であるから、因を結しているのである。
本門の本尊・無作の当体蓮華仏という仏身は、未曾有の御本尊を信ずる者以外にない。故に「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」と仰せになっているのである。
この「檀那等の中の事なり」の「中」の文字をどう読むかということであるが、日我は「此の中の字はアタルと読む」といっている。
しかるに日寛上人は大聖人の御本意をよくよく拝するならば「正信にアタル意」であると仰せられている。
「中」とは、その義不定である。
一、あるいはその一切をもって中という。華厳頓中の一切法、および法華経中の一切の三宝等の中の字のごときものである。
一、あるいは外から見て中という場合がある。たとえば、この経中においてとか、および衆生の中等の中字のごときものである。
一、あるいは外に望んで中という。洛中、寺中、文中等というがごときである。
しかして今「檀那等の中の事なり」の中は、正に外に望んでいう中である。
文意にいわく、本門寿量の当体蓮華仏とは、不信謗法の人のことではなく、ただこれ日蓮が弟子檀那の中の事である。これすなわち前後の文は皆非を簡んで是を顕わすからである。
また、次下の文に、日蓮が一門等と仰せられているではないか。故に今の文の意は一門の中というにあたっている。
いま、この「中」ということを、われわれの実践において論ずるならば、信心とは第三者、傍観者であってはならない、との精神である。自ら広布の主体者として学会に生き、戦いに生ききるなかに、その当体が妙法の金剛不壊の幸福なる当体とあらわれるのである。
是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず
この文は、われら末弟に対する勧誡の文である。
われら凡夫の生命が本門寿量の当体蓮華仏と顕われるのは、御本尊の仏力・法力によって顕現される功能であるとの仰せである。
自在とは、あらゆることが自由自在になることであり、神力とは、仏がそなえている不思議な力、すなわち、一切衆生を成仏得道させることをいうのである。これ人法一箇の御本尊の力用にほかならない。
以上のことをわれら末弟は絶対に疑ってはならないと厳しく戒められているのである。「無疑曰信」とあるように、御本尊に対する信こそ大事の中の最大事である。
さらに日寛上人は、本門の題目によって、本門の本尊、本門の戒壇を証得し、自受用身を顕現することを明かされている。すなわち、文段に次のように述べている。「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」とは、本門の題目である。「煩悩・業・苦乃至即一心に顕われ」とは本尊を証得することである。
また「三道即三徳」とは人本尊を証得して、わが身まったく日蓮大聖人と顕われるのである。
「三観・三諦・即一心に顕われ」とは法本尊を証得して、わが身まったく本門戒壇の本尊と顕われるのである。「其の人の所住の処」等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕わすのである。
この三大秘法の証得は皆、題目の力用によるのである。しかりといえども体一互融の相はいまだ分明ではない。故に「能居所居・身土・色心」と仰せになって、体一互融の相を分明にされているのである。能居・所居とは法本尊の能所不二を顕わしている。身土とは人本尊の能所不二を顕わしている。色心というのは、色はすなわち人本尊、心はすなわち法本尊である。
また色はこれ境であり、心はこれ智である。故に、人法体一・境智冥合、その義分明である。この故に本尊戒壇、人法本尊、体一互融となるのである。
以上のように証得すれば、すなわちこれ久遠元初の一身即三身、三身即一身の本有無作の自受用身である。この仏身まったく本門の題目、日蓮が弟子檀那等の外のいずこにも求め得られないのである。
次の法華の当体以下は勧誡であって、初めに勧門、次は誡門である。
「正直に方便を捨て但法華経を信じ」とは信力である。「南無妙法蓮華経と唱うる」とは行力である。「法華の当体」とはこれ法力である。「自在神力」とはこれ仏力である。この信・行・法・仏力の四義具足すれば、成仏は疑いない。しかして、法力・仏力はまさしく本尊にある。決してこれを疑ってはならない。われらはただただ信力・行力を励むべきである。
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