日々の御書

宗教

崇峻天皇御書(三種財宝御書)

 建治3年(ʼ77)9月11日 56歳 四条金吾

第六章(同じく地獄なるべしの事)

本文

返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ、若しすこしも此の事をたがへさせ給うならば日蓮うらみさせ給うな。

  此の世間の疫病は・とののまうすがごとく年帰りなば上へあがりぬと・をぼえ候ぞ、十羅刹の御計いか今且く世にをはして物を御覧あれかし、

 

現代語訳

返す返す今も忘れられぬ事は、文永八年九月十二日、竜口で日蓮が首を切られようとした時、あなたが私の供をし、馬の口にとりついて、泣き悲しまれたことである。これはいかなる世にも忘れることはできない。もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたといっしょに地獄へ入ろう。

日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におられるにちがいない。そうすれば、ちょうど闇の中に月が入って輝くようなものであり、また湯に水を入れ冷ますようなものであり、氷に火をたいてとかしてしまうようなものであり、また太陽に闇を投げつければ闇が消えてしまうようなもので、地獄即寂光の浄土となるであろう。

もしこのことを少しでもたがえて取り返しのつかないことになったならば、日蓮をお恨みになってはなりません。

今、世間に流行している疫病は、あなたのいわれるとおり、年が改まれば、身分の高い人々にまでも及ぶことであろう。これも十羅刹女の御計いであろうか。今しばらくは、世間の様子をごらんなさい。

 

語釈

頚切れんとせし時

文永8年(1271912日、大聖人が竜口で首を刎ねられようとしたとき、四条金吾が大聖人の馬の口にとりつき、殉死の決意を示したこと。

 

講義

竜口の法難に際して四条金吾が日蓮大聖人に示した誠意に対し、御自分もまた、もし四条金吾が地獄へ行くようなことがあれば共に行くとの、真心あふれる心情を吐露されている。弟子を思う測り知れない慈愛がうかがわれるとともに、もし、大聖人が四条金吾と地獄へ行くならば、釈迦仏・法華経も一緒であり、したがって、地獄は寂光土となるであろうと、御本仏としての大確信がうかがわれる。

 

設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば……同じく地獄なるべし

 

四条金吾が大聖人の受難のときに示した真心に対し、いま四条金吾が苦難にあるとき、同じ真心を示されているのである。そこには、等しい人間としての真心の交流がある。封建的な君臣や師弟の関係にあっては、君主や師匠は臣下・弟子に、自分に真心・忠誠を尽くすことを求めはするが、臣下・弟子の苦難に対して自らを捧げようとはしない。大聖人の師弟観は、それとは根本的に異なる。共に、等しい人間としての基盤に立って、互いに真心を尽くすのである。ここに、人間の尊厳を根底とする仏法の大精神があることを知らなければならない。

また、この御文から、師弟のつながりというのは「師が地獄へ行くなら自分も地獄へ」という弟子の師に対する隨順を意味するとともに、「弟子が地獄へ行くなら自分も地獄へ」という師匠の弟子に対する慈愛をも意味することが明瞭である。この両方が相まって、真の師弟不二といえるのであり、師が弟子に一方的に献身を求め、自らの我がままを押し通すのは、封建的な狭い師弟観であって、仏法の師弟観ではないのである。

さらに、この関係は「智者に我義やぶられずば用いじとなり」と断言できるほどの、正しい法を根本にしているとの確信に裏づけられたものでなければならない。明らかに師が誤った仏法を用いている場合には、これに従わず、正しい法を求め、ひるがえって師を正法に導くことが真の弟子の道である。大聖人が道善房に対して立たれた関係がこれであって、師弟関係をあくまでも重要視していくのが仏法だとすれば、大聖人が道善房のもとを離れることはありえなかったであろう。

いずれにしても、正しい法を究めるための師弟関係であり、この法を究めるということにおいて師弟は平等であり一体であり〝不二〟となるのである。

 

日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ

 

御本仏としての烈々たる確信を秘めたお言葉である。単に、純粋な師弟の契りがあるところに「釈迦仏・法華経がある」ということではない。法然とその門弟の契りがいかに深く純粋であろうと、彼らの行くところは地獄であり、そこに待っているのは地獄の獄卒である。妙法を受持した大聖人と四条金吾なるが故に、その行く所が、かりに地獄であっても、そこには必ず釈迦仏・法華経も隨順しているはずであり、したがって、そうした地獄は、もはや地獄ではありえず、寂光の浄土となるのである。「法妙なるが故に人貴し」であり、「人貴きが故に所尊し」の原理である。

このことはまた、地獄といい、仏界といっても、固定的に定められてあるものではなく、そこに住する衆生の生命の反映にほかならず、その衆生の生命は、受持する法によって決まることをあらわしている。すなわち、生命論の見地から、その一端の原理を示された文とも拝せられるのである。

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