報恩抄
建治2年(ʼ76)7月21日 55歳 浄顕房・義浄房
第三十章(日蓮大聖人の知恩報恩)
本文
此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり、いゐいだすならば殷の紂王の比干が胸を・さきしがごとく夏の桀王の竜蓬が頚を切りしがごとく檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ねしがごとく竺の道生が流されしがごとく法道三蔵のかなやきをやかれしがごとく・ならんずらんとは・かねて知りしかども法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ涅槃経には「寧身命を喪うとも教を匿さざれ」といさめ給えり、今度命をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくひ奉るべきと・ひとへに・をもひ切りて申し始めしかば案にたがはず或は所をおひ或はのり或はうたれ或は疵を・かうふるほどに去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を・かうふりて伊豆の国伊東にながされぬ、又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。
其の後弥菩提心強盛にして申せば・いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし、昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身に・つみしられたり覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も此れには及ばじとをぼゆ、日本六十六箇国・嶋二の中に一日・片時も何れの所に・すむべきやうもなし、古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう、いわうや世間の常の人人は犬のさるをみたるがごとく猟師が鹿を・こめたるににたり、日本国の中に一人として故こそ・あるらめと・いう人なし道理なり、人ごとに念仏を申す人に向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに、人ごとに真言を尊む真言は国をほろぼす悪法という、国主は禅宗を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招ける・わざわひなれば人の・のるをも・とがめず・とがむとても一人ならず、打つをも・いたまず本より存ぜしがゆへに・かう・いよいよ身も・をしまず力にまかせて・せめしかば禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし 但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば・そのまま行われけり。
去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん其の夜は・のびて依智というところへつきぬ、又十三日の夜はゆりたりと・どどめきしが又いかにやありけん・さどの国までゆく、今日切るあす切るといひしほどに四箇年というに結句は去ぬる文永十一年太歳甲戌二月十四日に・ゆりて同じき三月二十六日に鎌倉へ入り同じき四月八日平の左衛門の尉に見参してやうやうの事申したりし中に今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ、同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり、これは・ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざれば・さでこそ候へ、又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり、
現代語訳
このことは、日本の中に、ただ日蓮一人のみが知っているのである。もしこのことを世間にいうならば、殷の紂王が、諫言した比干の胸を割いたように、夏の桀王が同じく竜蓬の頚を切ったように、また檀弥羅王が師子尊者の頚をはねたように、また竺の道生が蘇山に流されたように、法道三蔵が顔に焼き印を押されたように、大迫害をうけるであろことは、かねてから知っていたが、しかし、法華経には「我れ身命を愛せず、但無上の道を惜しむ」と説かれ、涅槃経には「むしろ身命を喪うとも、正法を匿していてはいけない。いいきらなければならない」といましめられている。
このたび正法流布のために命を惜しんで仏勅を実践しなかったならば、いつの世に仏になることができようか。また、いつの世にわれ成仏して父母、師匠を救うことができようか。このように考えて、ひとえに思い切って正法をもって国家諌暁したゆえに、思ったとおり、あるいは所を追われ、あるいは悪口をいわれ、あるいは討たれ、あるいは我が身に傷を蒙るというような迫害をうけつづけたのである。そして、ついにさる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気を受けて、伊豆の国、伊東に流罪された。しかし、それは同じく弘長三年癸亥二月二十二日に許されたのである。
その後、いよいよ菩提心を強盛にして正法をひろめたがゆえに、いよいよ大難が重なってきたことは、あたかも大風によって大波が起こったような姿であった。
過去の不軽菩薩は杖木によって人々から打たれ責められたが、その苦しみも、わが身にして知ることができた。同じく過去の覚徳比丘が、歓喜増益如来の末法に大難を受けたけれども、日蓮がいまの大難にくらべれば、彼らは、遠くおよばないと思われる。日本六十六か国および島二つのなかで、一日たりとも、片時たりとも、どこにも安住するところがない。
いにしえは、二百五十戒をたもって忍辱の行を積み、羅睺羅のようであった持戒の聖者も、また富楼那のようであった智者も、日蓮に会って折伏を受けると、みな悪口をはくようになるのである。正直で魏徴・忠仁公のようである賢者も、日蓮を見ると、道理を曲げて非道なことをおこなうようになるのである。
いわんや、世間の常の人々は、あたかも犬が猿を見るように、猟師が鹿を追うのにも似て、日蓮を敵視したのである。日本国のなかに、だれひとりとして、日蓮の弘教に対して「何か深い道理があるのであろうか」と、まじめに話を聞く人はいない。しかし、それはむしろとうぜんなことであろうか。
なぜならば、念仏を信ずる人々に会うごとに「念仏は無間地獄に堕ちる」と折伏するからであり、また、真言を尊く思って信じている人に会うごとに「真言は国をほろぼす悪法である」と折伏するからである。さらにまた、国主たる北条時宗は禅宗を尊く思って信じているが、これに対しても「禅宗は天魔の所為である」と折伏するゆえに迫害を受けるのである。
かくのごとく、みずから招いた法難であるから、世間の人が悪口するのもとがめず、じっと耐え忍んできたのである。もっとも、とがめるといっても、相手は一人二人ならず大勢であるから、できようはずもない。また他人から打たれても、もとより覚悟していたがゆえに、痛いとも思わない。
このように、いよいよ身命を惜しまず、力を尽くして破折を加えたので、禅宗の僧は数百人、念仏者は数千人、真言宗のもの百千人、このような人々が、あるいは奉行にとりいり、あるいは幕府と縁故のある権勢家にこびて結び、あるいは、そうした権勢家の婦人たちに近づき、あるいは身分ある後家尼御前等などについて、はかりしれないほどの讒言をしてきた。
最後は「天下第一の大事である。それは日蓮が日本国をほろぼそうと呪咀する坊主であり、故最明寺殿(北条時頼)も極楽寺殿(北条重時)も無間地獄に堕ちたといっている。なにも取り調べるまでもない、即刻首を切るべきである。弟子たちも首を切り、あるいは遠島流罪、あるいは牢に入れよ」と、高位の尼御前たちが怒ってののしったので、そのとおり迫害が行なわれたのである。
さる文永八年辛未九月十二日の夜は、相模の国竜の口で首を切られることになったが、いかがしたのであろうか、その夜は首切らずに命のびて、相模の国の依智というところに到着した。あくる十三日の夜は「罪は許された」と、人々が騒ぎどよめいたが、また、どうしたことであろうか、今度は佐渡の国へ流罪になったのである。
きょうこそ切る、あすこそ切るといいながら、四か年の月日が過ぎて、結局、文永十一年太歳甲戌二月十四日許されたのである。文永十一年三月二十六日に鎌倉に帰り、四月八日、平の左衛門尉に面談して、さまざま話したなかに「ことしは必ず蒙古軍が攻めてくるであろう」と申したのである。
そうして、同五月十二日に鎌倉を出て、この身延の山にはいった。これは、ただひとすじに、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国の恩を報ぜんがために身も命もなげうったのである。しかし、なお今日まで首を切られることもなく命を害されることもなく、今日にいたったのである。
また、賢人の習いとして、三たび国をいさめて用いられなかったならば山林にまじわれと、これは昔からの定まった例である。この古賢の法によせて身延に入山したのである。
語釈
殷の紂王の比干胸を・さき
殷王朝第30代の帝・紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとせず国がほろびようとしたとき、忠臣の比干がこれを強く諫めた。すると、妲己は王に向かって「上聖は心に九孔あり、孔に九毛あり、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛ある。比干は中聖である。心を割いてみたまえ」といったので、紂王は比干の胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅亡した。
夏の桀王の竜蓬が頚を切り
夏王朝最後の王・桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。臣下の関竜逢は、王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められて滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。彼ら比干、竜逢等は、共に「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、命とひきかえに主君の非を諌め、諌臣の任を全うした。
檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ね
付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者は、釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
竺の道生が流され
道生は、中国東晋の時代から南北朝の宋の時代の高僧。竺法汰につき出家。のちに長安に上り、鳩摩羅什の門に入り、羅什門下四傑の一人となる。般泥洹経を学び、闡提成仏の義を立て、当時の仏教界に波紋を投じた。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり、洪州廬山に流された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、道生の義が正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0434)廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。
法道三蔵のかなやきをやかれ
宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年(1119)、仏教を弾圧し道教を庇護しようとする徽宗が詔を下して仏僧の称号を改めようとしたとき、法道は上書してこれを諌めた。これを帝は怒って法道の面に火印を押し、江南の道州に放逐した。法道はその後、同7年(1125)に許されて帰った。彼ら師子尊者、竺の道生、法道三蔵等は、共に法華経の行者として、死身弘法、不自惜身命の仏道修行の例として挙げられたのである。
不軽菩薩の杖木のせめ
不軽菩薩は、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。常不軽菩薩は命終に臨み、広く法華経を説いた。この時、かつて菩薩を軽賤・迫害した者は、みな信伏随従した。しかし、消滅しきれなかった謗法の余残によって、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
覚徳比丘が歓喜仏の末の大難
涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを有徳王が守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。
日本六十六箇国・嶋二
日本全国のこと。北海道を除く日本全国を66か国に分割したことにより、66州ともいう。壱岐と対馬は66か国の中には含まれず、2島と称した。
二百五十戒
「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。
羅云
羅睺羅の別称。釈迦十大弟子の一人。密行第一といわれた。釈尊が出家するまえに、耶輸多羅女との間に生まれた子。釈尊の出家を恐れて、魔が六年間も生まれさせなかったといわれている。20歳で仏弟子となり、舎利弗について修行し、ついに密行第一とまでいわれるまでになり、法華経で蹈七宝華如来の記別を受けた。
富楼那
富楼那弥多羅尼子の略称。釈迦十大弟子の一人。説法第一といわれた。聡明で弁論に長じ、その弁舌の巧みさをもって、証果より涅槃に至るま99,000人を度したといわれる。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。法華経で法明如来の記別を受けた。
魏徴
(0580~0643)。唐の第二代皇帝・太宗に重用された文臣。もと太宗の長兄・李建成に仕えたが、次弟の李世民(太宗)が李建成を殺して即位した。しかし太宗は、かつての政敵であった魏徴を評価し、登用した。これに感激した魏徴が「人生意気感、功名誰復論」との詩を詠んだ。諫議大夫として節を曲げぬ直言をもって仕え、侍中(宰相)にまで昇進し、後世に理想の政治と評価された〝貞観の治〟を支えた。没したときは太宗に「魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣と嘆かしめた。
忠仁公
(0804~0872)。藤原良房。左大臣・藤原冬嗣の第二子。白河殿と称され、諡号は忠仁公。人臣初の太政大臣、また摂政となり、藤原北家の権力基盤をつくりあげ、子孫は相次ぎ摂政関白となった。「貞観格式」「続日本後紀」」の編纂にも当たった。
故最明寺殿
(1227~1263)。北条時頼のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子、母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。日蓮大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」(1190:09)とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
極楽寺殿
(1198~1216)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男。執権泰時の弟。宝治元年(1247)、執権北条時頼の連署となった。その後入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ち事件を黙認した。その翌年五月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、にわかに病気になり、11月に死んだ。
三宝の恩
「三宝」とは、仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。心地観経では、この三宝に対する恩を報じることを四恩の一つとしている。
三度国をいさむるに用いずば……
孔子の孝経・諌争章に「三諌不納奉身以退」とある。
講義
この章では日蓮大聖人が、御一生を通じ生命をなげうって、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国恩を報ぜられたことを明かしている。
本抄に明かしている報恩とは、父母、師匠、三宝、国主との四徳をあげられているけれども、別しては師の恩にあるのである。
また、いかにして恩を報ずるかは、一般的にいえば、一代聖教、八宗の章疏を修学しなければならないことになるが、当流においては三大秘法の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、死身弘法に励むことのみが、唯一の知恩、報恩である。
日蓮大聖人の、伊東流罪、竜口法難、佐渡流罪、身延へ入山、とたどられた御一生は、じつに末法の御本仏として、永遠の未来の一切衆生を救われんがための、大慈大悲の御一生であらせられたのである。
わが創価学会の今日あるも、すべて初代会長、二代会長の死身弘法の賜物である。われらは、いかにしてこの師の重恩をば報ずることができようか。ただひたすら、寸刻を惜しみて信行に励み、不自惜身命の決意もあらたに、広宣流布の大道を邁進するのみである。しかし、また、ここに時代の相違を見ることができる。
日蓮大聖人の御一代にわたる大難をはじめとして、当流の歴史は迫害と法難の歴史でもあった。江戸時代においても、入牢、追放、遠流等が跡を断たなかったのである。
しかるに創価学会の初代牧口会長の牢死、二代戸田会長の会長就任よりは、ようやく広宣流布の時のきたれるか。日本国内はいうまでもなく、遠く世界の各国にまで、折伏の手が伸びつつある。弾圧や迫害に耐え忍んできた前代に比し、いまは個人も家庭も社会も、御本尊の大功徳に浴しながら、ますます信行に励む時代となったのである。
法難と戦いぬかれた諸先師を思うにつけても、創価学会員こそ、最も知恩報恩の誠を、一刻も忘れてはならないと痛感するのである。
此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり
開目抄では「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200:08)とおおせである。「此の事」とは、邪宗邪義こそ、民衆の不幸の根本原因であるということである。この恐るべき事実を知られた方は、日本国の中に、いな全世界の中で、日蓮大聖人ただお一人であるとの大宣言は、まことに強き御確信ではないか。
恩師戸田先生は開目抄の講義録の中で「ゆえに名誉も栄達をも考えることなく、身を凡愚に具して身命を捨てて大衆の救済に立たれたのである。末法において、ただ一人、民衆救済の大原理をお知りあそばされたからこそ、このお方こそ聖人であり、仏であらせられるのである。この一言の中に日蓮大聖人の勇猛心と精神力がうかがわれるではないか」と申されている。
われわれは、しあわせにも、このことを知った。ゆえに日蓮大聖人の弟子として、師匠と同じく、広宣流布の先駆をともに切っていこうではないか。
「古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事・羅云のごとくなる持戒の聖人も富楼那のごとくなる智者も日蓮に値いぬれば悪口をはく・正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう」(0322:06)
これは極楽寺の忍性良観等のことをいっているのである。良観は当時の鎌倉時代にあって、幕府の高官や信者の夫人たちの保護をうけて、慈善事業等を行なって宗教の無力をカバーしながら、民衆に生き仏のごとく思わせることに成功した。しかし日蓮大聖人の大破折にあい、大聖人の元品の法性によって、良観の元品の無明が猛然と燃え上がって、ひどく大聖人を怨み悪口し、卑きょうな手段で裏面から大聖人を迫害したのである。これ僣聖増上慢の代表的人物である。
このように、現代にあっても、ふだんはりっぱそうに思われる人が、ひとたび学会を怨嫉するや、あたかも忍性良観のごとく、感情的に学会の悪口誹謗をたくましうする姿は、正しく鎌倉時代も現代も原理は同じだという感がする。
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」また「大聖にほむらるるは一生の名誉なり」と。われわれは、ほめられようと、けなされようと、ただ世界の平和、人類の幸福を願って、ひたすら広宣流布の大道を前進しゆくのみである。

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