撰時抄
建治元年(ʼ75) 54歳 西山由比殿
第二十八章(閻浮第一の法華経の行者)
本文
亡国のかなしさ亡身のなげかしさに身命をすてて此の事をあらわすべし、国主世を持つべきならばあやしとおもひてたづぬべきところにただざんげんのことばのみ用いてやうやうのあだをなす、而るに法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は古の謗法をば不思議とはをぼせども此れをしれる人なければ一子の悪事のごとくうちゆるして、いつわりをろかなる時もあり又すこしつみしらする時もあり、今は謗法を用いたるだに不思議なるにまれまれ諫暁する人をかへりてあだをなす、一日・二日・一月・二月・一年・二年ならず数年に及ぶ、彼の不軽菩薩の杖木の難に値いしにもすぐれ覚徳比丘の殺害に及びしにもこえたり、而る間・梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり度度いさめらるれども・いよいよあだをなすゆへに天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし自界反逆せしむ、吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて仏滅後・二千二百三十余年が間いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり、漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度度ありしかどもいまだ日蓮ほど法華経のかたうどして国土に強敵多くまうけたる者なきなり、まづ眼前の事をもつて日蓮は閻浮提第一の者としるべし、仏法日本にわたて七百余年・一切経は五千七千・宗は八宗十宗・智人は稲麻のごとし弘通は竹葦ににたり、しかれども仏には阿弥陀仏・諸仏の名号には弥陀の名号ほどひろまりてをはするは候はず、此の名号を弘通する人は慧心は往生要集をつくる日本国・三分が一は一同の弥陀念仏者・永観は十因と往生講の式をつくる扶桑三分が二分は一同の念仏者・法然せんちやくをつくる本朝一同の念仏者、而れば今の弥陀の名号を唱うる人人は一人が弟子にはあらず、此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや、心あらん人は此れをすひしぬべし、権経流布せば実経流布すべし権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし、欽明より当帝にいたるまで七百余年いまだきかずいまだ見ず南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし、日出でぬれば星かくる賢王来れば愚王ほろぶ実経流布せば権経のとどまり智人・南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此れに随はんこと影と身と声と響とのごとくならん、日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。
現代語訳
亡国の悲しさ、亡身のなげかしさを思えば、身命を捨てて、その邪義邪見を明らかにしていかなければならない。国主たる者が世を持ち、国の安泰を願うならば、いったい日蓮大聖人の御真意はどこにあるかと不審に思って、尋ね求めなければならないはずである。しかるに、ただ邪法邪義の讒言のことばのみを用いて、幾度か迫害、弾圧を加えてきた。
しかるに、法華経守護の梵天、帝釈、日月、四天、地神等は、昔、日蓮大聖人御出現以前の謗法をば、不都合と思われたが、これを謗法であるといって責める人もいなかったので、一人しかいない子が悪いことをしても、おおめに見て許しておくように、知らぬふりをして許したこともあったし、また少しは誡めて思い知らせる時もあった。今は日蓮が謗法を責めているのであるから、謗法の徒を用いることさえ不思議であるのに、たまたま諌暁する人に対し、かえって迫害を加える。一日二日、一月二月、一年二年だけでなく、数年にわたって弾圧を加えてきた。彼の不軽菩薩が、国中の人から杖木を加えられ迫害を受けたが、とうてい大聖人には及ばないし、覚徳比丘が刀杖をもって責められたが、大聖人の受けた迫害には及ばないのである。
しかるあいだ、梵天、帝釈の二王、日月、四天、衆星、地神等は、さまざまに怒りをなして、たびたび諌められるのに、いよいよ正法を行ずる日蓮大聖人に迫害を加えるので、天の御はからいとして、隣国の聖人に命令してこの謗法の国を攻め、大鬼神を国内に入れて人の心をたぼらかし、内乱を起こさせた。吉につけ、凶につけて、瑞(きざし)が大きければ難も多いのが道理であって、仏の滅後二千二百三十余年の間、いまだ出たことのない大きな彗星や、いまだ経験したことのないような大地震が起きた。漢土にも日本にも智慧が勝れ、才能の高い聖人はたびたびあったけれども、いまだ日蓮ほど法華経の味方となって、国土に多くの強敵をつくった者はない。まずこのような眼前の事実をもって、日蓮は世界第一の者であることを知るべきである。
仏法が日本に渡って七百余年、一切経は五千巻、七千巻、宗は八宗、十宗もでき、智人は稲麻のごとく多く出で、その弘通の盛んなことは竹葦のようであった。しかれども仏といえば阿弥陀、仏の名をとなえるとなれば、阿弥陀の名号をとなえるばかりである。この名号をひろめたのは、比叡山の慧心先徳が往生要集を作って、日本の三分の一は念仏者になった。永観が、往生十因、往生講の式を作って、日本の三分の二分を念仏者にしてしまった。法然は選択集を作り、日本国一同を念仏者にしてしまった。されば、今の念仏を唱える人々は、一人の弟子ではない。この念仏というのは、雙観経、観経、阿弥陀経の題名である。このような権大乗経の題目が広宣流布することは、実大乗経たる法華経の題目が流布するための序分になる。心あらん人々は、このことをよく考えなさい。権経が流布すれば実経が流布するはずである。権経の題目が流布すれば、実経の題目もまた流布するはずである。
仏教が初めて伝わった欽明天皇より、当帝にいたるまで七百余年の間に、いまだ南無妙法蓮華経と唱えよと、他人にすすめ、みずからも唱えた智人はない。太陽が出れば星は隠れる。賢王が来れば愚王は滅ぶ。これと同じで、実経が流布すれば権経は廃れ、智人が南無妙法蓮華経と唱えれば、愚人がこれに随うであろうことは、影と身が相応じ、声と響きのように相応ずるはずである。日蓮は日本第一の法華経の行者であることは、あえて疑いのないところである。これをもって推察せよ。中国にもインドにも、全世界に日蓮大聖人と肩を並べるものはありえないのである。
語釈
いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり
正嘉元年(1258)8月、鎌倉地方を襲った大地震と、文永元年(1264)7月に現れた大彗星のこと。正嘉の大地震については、吾妻鏡に「廿三日 乙巳晴る。戌の尅、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顚倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」とある。文永の大彗星については、安国論御勘由来に「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり」(34:18)とある。
法然せんちやくをつくる
選択は、選択本願念仏集の略。上下二巻。本書の選作については古来より二説があり、法然の弟子の作というものと、法然の作というものとがある。本書は当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)に選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛てという破仏法の義を立てたゆえに、当時においてすら、並榎の定照の「弾選択」、栂尾の明恵の「摧邪輪」三巻および「荘厳記」一巻をもって破折されている。
雙観経・観経・阿弥陀経
浄土三部経である。法然が選択集でこの三つの経典を「弥陀の三部なり。故に浄土の三部経と名づくるなり」と述べたことにもとづく。
雙観経は、無量寿経のこと。雙は双とも書き「ふたつ」の意で、上下二巻からなるので「雙巻経」(双巻経)という。御書では「雙巻経」の異称として「雙観経」と記される。諸訳あるうち、日本で用いられるのは北魏(曹魏)の康僧鎧訳で、正しくは仏説無量寿経という。内容は、因位の法蔵菩薩が四十八願を立てて因行を満足し、その果によって正覚を成じて無量寿仏(阿弥陀仏)となって西方十万億土を過ぎた所に安楽浄土を構えて住し、その荘厳な相を説く。次に衆生が念仏して安楽浄土へ往生する因果とその姿を説いている。
観経は、観無量寿経のこと。一巻。中国・劉宋代の畺良耶舎訳。内容は、悪子・阿闍世のいる濁悪世を嘆き、極楽浄土を願う韋提希夫人に対し、釈尊は神通力によって諸の浄土を示し、そこに生ずるための三種の浄業を説き、特に阿弥陀仏とその浄土の荘厳の相を十六観に分けて説いている。
阿弥陀経は、梵名スカーヴァティー・ヴィユーハ(Sukhāvatī-vyūha)。無量寿経の梵名と同じ。無量寿経の大経に対して、小経と呼ばれる。一巻。中国・姚秦代の鳩摩羅什訳。西方十万億土の極楽浄土と阿弥陀仏の荘厳・功徳の相を説き、弥陀の名号を執持して一心不乱ならば、死後直ちに極楽浄土に往生できると説く。
講義
仏法は機によらず、時によるべきである。末法の時代になると白法が穏没し、わが国の仏教界には念仏、禅、真言という邪宗教が横行し、民衆は不幸につぐ不幸の連続で、ついには身を亡ぼし国が亡びようというところまできた。いったい、末法には、いかなる仏が出現し、いかなる仏法によって、民衆は幸福になれるのであろうか。
前章までの破邪につづき、この章からは顕正であって、正とはすなわち最大深秘の大法である。その中において末法流布の正体、本門の本尊・妙法蓮華経の五字は所持の法であり、日蓮大聖人が能持の人であらせられる。能持の人はすなわち末法下種の教主である。いま当抄の意は、能持、所持の中においては、能持の人をもって表となしている。「法妙なるが故に人貴し」(1578:12)の意であって、これより三義を示して、日蓮大聖人が末法下種の教主であることを顕している。
一には、日蓮大聖人はこれ閻浮第一の法華経の行者のゆえ、前代未聞の大法を弘通されるゆえである。二には、日蓮大聖人はこれ閻浮第一の智人なるゆえ、すなわち瑞相の根源を知るゆえである。三には、日蓮大聖人はこれ閻浮第一の聖人なるゆえ、かねてより自他の兵乱を知るゆえである。ゆえに、日蓮大聖人は末法下種の教主であり、末法下種の人本尊であらせられるのである。
欽明より当帝にいたるまで七百余年……智人なし
この撰時抄の「南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや」とおおせの辺は、いまの御文の「欽明より当帝にいたるまで七百余年いまだきかずいまだ見ず南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし」の御文と、まったく一致している。
しかるに同じく撰時抄には「日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし」の文から考えるならば、法華経の行者は日蓮大聖人に限らず、伝教大師もそうであるようにとれるがどうか。
それは像法当分に約すとき、伝教大師も法華経の行者といえるのである。なぜなら伝教大師は像法時代としては、時にかなった如説修行の行者であったからである。もし末法に相対する時は、真の法華経の行者にあらず。ここには二つの意味があって、一には像法時代は法華経の正しく流布すべき時代でなかったゆえ。本抄に「法華経の流布の時・二度あるべし所謂在世の八年・滅後には末法の始の五百年なり、而に天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて末法の始をこひさせ給う御筆なり」と仰せのとおりである。二には、伝教大師は南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめなかった。ゆえに真の法華経の行者ではないのである。
なお欽明天皇の13年(0552)に仏教が伝来してから、日蓮大聖人の建長5年(1253)の御立宗までが、ちょうど七百年であった。今日蓮大聖人の立宗七百年を期して、創価学会が折伏の大行進を起こすという不思議な一致を痛感せざるを得ないではないか。
一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず
何をもって、日蓮大聖人が一閻浮提第一の法華経の行者であり、一閻浮提の内に日蓮大聖人と肩を並べる者がいないということを知ることができるであろうか。
日寛上人は、これについて顕仏未来記の御文をあげておられる。いわく「疑つて云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや」(008:01)と。記の一に云く「世には二仏無く国には二主無し一仏の境界には二の尊号無し」と。これをもって、日蓮大聖人は正しく末法の御本仏であられることを明らかに知るべきである。
しかして、また報恩抄にいわく「法華経の行者・漢土に一人・日本に一人・已上二人釈尊を加へ奉りて已上三人なり」(0310:10)と。すなわち、末法の法華経の行者とは、御本仏の異名なること明々白々ではないか。
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