撰時抄2

 

撰時抄

建治元年(ʼ75) 54歳 西山由比殿

  1. 第二十章(浄土宗を破す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 斉の世に曇鸞法師 
      2. 道綽の誤り 
      3. 善導の誤り
      4. 慧心院源信の謗法 
  2. 第二十一章 (禅宗を破す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 禅宗と申す宗は教外別伝と申して……
      2. 国の百姓をくらう蝗虫
  3. 第二十二章(真言の善無畏を破す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 善無畏の堕地獄
  4. 第二十三章(真言の弘法を破す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 第四熟蘇味、醍醐を盗む等
      2. 弘法の邪義
  5. 第二十四章 (聖覚房を破す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  6. 第二十五章(慈覚を破す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  7. 第二十六章 (慈覚の本師違背の失)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1.  伝教大師は……我が心には法華は真言にすぐれたり
      2. 世俗と勝義の融・不融
  8. 第二十七章(問答帰釈して慈覚を破す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 夢とわれわれの生活との関係
      2. 木画の像の開眼の事
      3. これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人
  9. 第二十九章(閻浮第一の智人)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  10. 第三十章(智人たるの証文)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 師子の身の中の虫
  11. 第三十二章(聖人たるを広く釈す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 自界反逆難の予言
      2. 彼等が頸をゆひのはまにて切る
      3. 殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひ
      4. 日蓮大聖人滅後に兼知未萌が符合したこと
      5. 十如是の始の相如是が第一の大事
  12. 第三十三章(日本第一の大人)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. いたひとかゆきとはこれなり
  13. 第三十四章(外難を遮す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1.  彼の人人は或は彼の経経に等

第二十章(浄土宗を破す)

 本文

問うて云く此の三宗の謬悞如何答えて云く浄土宗は斉の世に曇鸞法師と申す者あり本は三論宗の人竜樹菩薩の十住毘婆娑論を見て難行道易行道を立てたり、道綽禅師という者あり唐の世の者本は涅槃経をかうじけるが曇鸞法師が浄土にうつる筆を見て涅槃経をすてて浄土にうつて聖道・浄土二門を立てたり、又道綽が弟子に善導という者あり雑行正行を立つ、日本国に末法に入つて二百余年・後鳥羽院の御宇に法然というものあり一切の道俗をすすめて云く仏法は時機を本とす法華経大日経天台真言等の八宗九宗一代の大小・顕密・権実等の経宗等は上根上智の正像二千年の機のためなり、末法に入りてはいかに功をなして行ずるとも其の益あるべからず、其の上・弥陀念仏にまじへて行ずるならば念仏も往生すべからず此れわたくしに申すにはあらず竜樹菩薩・曇鸞法師は難行道となづけ、道綽は未有一人得者ときらひ善導は千中無一とさだめたり、此等は他宗なれば御不審もあるべし、慧心先徳にすぎさせ給へる天台真言の智者は末代にをはすべきか彼の往生要集には顕密の教法は予が死生をはなるべき法にはあらず、又三論の永観が十因等をみよされば法華真言等をすてて一向に念仏せば十即十生・百即百生とすすめければ、叡山・東寺・園城・七寺等始めは諍論するやうなれども、往生要集の序の詞道理かとみへければ顕真座主落ちさせ給いて法然が弟子となる、其の上設い法然が弟子とならぬ人々も弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし心よせにをもひければ日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間・一天四海・一人もなく法然が弟子となる法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ、譬へば千人の子が一同に一人の親を殺害せば千人共に五逆の者なり一人阿鼻に堕ちなば余人堕ちざるべしや、結句は法然・流罪をあだみて悪霊となつて我並びに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入つて或は謀反ををこし或は悪事をなして皆関東にほろぼされぬ、わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は俗男俗女にあなづらるること猿猴の人にわらはれ俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし、

現代語訳

 問うていう。この三宗はどこが誤っているのか。
 答えて云う。まず浄土宗は中国の斉の世に曇鸞法師という者がいた。もとは三論宗の人であったが、竜樹菩薩の十住毘婆娑論を見て難行道・易行道を立てた。次に道綽禅師という者がいた。唐の時代の人で、もとは涅槃経を講じていたが、曇鸞法師が浄土にうつる書を見て、涅槃経をすてて浄土へ移って、聖道・浄土の二門を立てた。また道綽の弟子に善導という者がいて、雑行と正行を立てた。
 次に日本では末法に入って二百余年、後鳥羽院の時代に法然という者がいた。一切の道俗にすすめていうには、「仏法は時機を本とするのである。法華経・大日経・天台・真言等の八宗、九宗や釈尊一代の大小・顕密・権実等の諸宗等は、上根上智の正像二千年の機のための教えである。末法に入っては、いかに熱心に修行を積んでも、利益はないのである。そのうえ、これらの諸経・諸行を阿弥陀念仏にまじえて行じたならば、念仏の功徳も消えて往生はできなくなる。これは自分が勝手に言っているのではなく、竜樹菩薩・曇鸞法師は念仏以外を難行道と名づけ、道綽は未有一人得者と嫌い、善導は千中無一と定めている。これらは、念仏という他宗派の開祖たちの言であるから、それだけなら疑問もおきるであろう。ところで、慧心先徳を超える天台・真言の智者はこの末法の時代にいるだろうか。その慧心の往生要集には「顕密の教法は、予が死生を離れるべき教法ではない」といっているのである。また三論宗の永観の往生拾因等を見てみなさい。されば法華・真言等を捨てて、一向に念仏を唱えるならば、十即十生・百即百生の功徳がある」とすすめたので、叡山・東寺・園城寺・奈良の七寺等では、はじめは争い論じ合っていたが、結局は往生要集の序のことばが道理のように思えて、顕真座主が念仏の邪義に降伏して法然の弟子となってしまった。
 そのうえ、たとえ法然の弟子とならない人々も、阿弥陀仏を他仏には比べようもないほど口ずさみ、心をよせたので、日本国はみな一同に法然房の弟子となったようにみえた。この五十年のあいだ、一天四海、一人もなく法然の弟子となったのである。法然の弟子となったということは、日本国は一人もなく謗法の者となったのである。たとえば、千人の子が一諸に一人の親を殺害すれば千人ともに五逆の者である。そのうち一人が阿鼻地獄へおちれば、ほかの人たちはおちなくてもよいというわけがあろうか。
 結局は、法然は流罪されたことを怨んで、悪霊となって、法然並びに法然の弟子を罰した国主や、比叡山や、三井寺の僧等の身に入って、あるいは謀反をおこしたり、あるいは悪事をなさしめたので、朝廷や比叡山や三井寺は、鎌倉幕府に滅ぼされてしまった。わずかに残った比叡山や東寺の僧たちが俗男俗女からあなどられたり笑いものにされるさまは、猿が人に笑われ、俘囚が子供からさげすまされたり、ばかにされたりするようなものであった。

語釈

浄土宗
 阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期する宗派。中国では浄土教として廬山の慧遠流・道綽善導流・慈愍流の三派があり、南北朝時代の曇鸞、唐代の道綽、善導によって独立大成した。日本では平安時代末期に法然が浄土の三部経(阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経)と浄土論(世親著。往生論ともいう)の三経一論に依り、善導の教判を受け、専修念仏義を立てて開宗した。

曇鸞法師
 (0476~0542)。中国・北魏代の僧。浄土教の祖師の一人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽で訳経僧の菩提流支に会って観無量寿経を授かり、浄土教に帰した。竜樹造とされる十住毘婆沙論にある難行道・易行道の義を曲解し、念仏を易行道とし、その他の修行を難行道として排した。晩年は汾州(山西省)の玄中寺に住み、平州の遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」(往生論註)二巻、「略論安楽浄土義」一巻、「讃阿弥陀仏偈」一巻等がある。

難行道易行道
 実践が困難な修行(難行道)と、易しい修行の法門(易行道)をいう。易行という語は、もとは竜樹作とされる十住毘婆沙論の易行品第九にある。そこでは、菩薩が十地(修行の位。十住と同意)の第一、不退地(初地、歓喜地ともいう)に至るのに、自ら勤苦精進して行く道を陸路の歩行にたとえて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水路の船行にたとえて易行道としている。曇鸞はこれを往生論註で独自に解釈し、菩薩が不退を求める修行に難行・易行の二種があるとし、易行の念仏によってのみ成仏できるとしている。

道綽禅師
 (0562~0645)。中国の隋・唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。十四歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。

聖道・浄土二門
 聖道門と浄土門。中国・唐の道綽の安楽集に説かれる二門。聖道門は、自力によってこの現実世界で成仏することができると説く。対する浄土門は、娑婆世界を穢(けが)れた世界として嫌い、他力によって極楽往生を願う。道綽の安楽集巻上には「聖道の一種は今時に証し難し(中略)唯浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なり」とある。

善導
 (0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)の人(一説に山東省・臨淄)。幼くして出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

雑行正行
 善導は「観無量寿経疏」巻四の散善義のなかで「行に就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」と修行を正行と雑行に分け、西方浄土往生へと導く修行が正行で、雑行とは正行以外のさまざまな修行のこととした。

法然
 (1133~1212)。平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(実際は讃岐)に流された。同年12月に赦があり、しばらく摂津国(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。

千中無一
「千が中に一無し」と読む。善導の往生礼讃偈の文。五種の正行(極楽に往生するための五種類の修行)以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないとする。

慧心先徳
 (0942~1017)。恵心とも書く。日本天台宗恵心流の祖。先徳は尊称。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。父は卜部正親。幼くして出家し天暦4年(0950)比叡山にのぼる。慈慧大師良源に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度受戒し、源信と名乗った。権少僧都に任じられた時、横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称された。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。本書は寛弘3年(1006)頃の作で、一切衆生に仏性のあることを明かし、法相宗の五性各別説を破折したものである。

往生要集
 三巻。比叡山の恵心僧都源信の著。寛和元年(0985)の作。極楽往生に関する経論の要文を集めたもの。十章からなる。まず厭離すべき六道のありさまを述べ(厭離穢土)、次に求めるべき浄土の様子を説き(欣求浄土)、最後に極楽往生するために念仏を称えることを勧めている。

永観
 (1032~1111)。平安末期、三論宗の僧。源国経の子。源信死後十余年に生まれた。洛東禅林寺の深観にしたがって剃髪した。深観は密教にくわしく、永観も灌頂を受けた。次に東大寺有慶について三論、法相、華厳などを学び、30歳の時、山城の光明山に入り、十年間、浄土教を習学した。後に東大寺別当職となる。晩年に洛東禅林寺に帰り、「往生拾因」一巻、「往生講式」一巻などを著した。寺内の薬王院に丈六の弥陀の像をつくり、壮年以前は日に一万遍、壮年以後は日に六万遍、弥陀の名号を称えたという。

十即十生・百即百生
 善導の往生礼讃偈に「十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず」とある。念仏以外の雑行・雑修を捨てて、念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土に往生できると述べたもの。

顕真座主
 (1131~1192)。比叡山延暦寺第六十一代座主。美作守藤原顕能の子。文治2年(1186)法然を大原の勝林院に招いて専修念仏の義を問い、法然(源空)を信じ、余行を捨てて念仏に帰したという。後に浄土宗では法然の弟子になったと喧伝された。文治6年(1190)3月、延暦寺座主となる。

法然・流罪
 建永二年二月、法然は度牒(僧尼に交付される身分証)を剥奪され、還俗させられて土佐(実際には讃岐)に流された。さらに法然死後十五年、延暦寺衆徒による、いわゆる嘉禄の法難が起こった。当時の様子は御書に説かれている。「法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」と。すなわち嘉禄3年(1227)6月、天台座主が朝廷に隆寛、幸西、空阿、証空といった浄土宗の僧たちを流罪に処し、さらに東山にある法然の墓を破壊して遺骸を鴨川に流すように訴え出た。そして延暦寺の僧兵が法然の廟所を襲って破壊したので、浄土宗側はいちはやく法然の遺骸を掘りおこし、六波羅探題の武士団が護衛につきいったん嵯峨に運び込んだ。これが延暦寺側の知るところとなったため、更に太秦に移送した。同年7月に門人の隆寛、幸西、空阿の三人がそれぞれ陸奥、壱岐、薩摩へと配流され、十月には選択集の版木が叡山の大講堂の庭で焼かれた。翌安貞2年(1228)1月、法然の遺骸は西山に運ばれ、ここから各地に分骨した。法然は、生前は流罪、死後も流浪の身であった。

講義

これより通じて、念仏・禅・真言を破折されるが、この章は念仏の破折である。念仏の破折にあたっては初めに中国の三師を破し、次に日本の法然を破されている。

斉の世に曇鸞法師 

曇鸞は中国における念仏の開祖である。曇鸞はその著往生論の注に「謹んで竜樹菩薩の十住毘婆娑を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり」といっておるが、日寛上人は、曇鸞に二失ありとされている。一には本論違背の失、二には執権謗実の失である。まず第一の本論違背の失とは、竜樹の十住毘婆娑論の主張と、曇鸞の主張とは違っている。すなわち毘婆娑論の巻五易行品にいわく「仏法に無量の門有り。世間の道に難有り、易有るが如し、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽し。菩薩道も亦是の如し。或は勤行精進する有り、或は信の方便を以て易行して、疾く阿惟越致に至る者有り」と、またいわく「菩薩、此の身に阿惟越致地に至ることを得んと阿耨多羅三藐三菩提を成就することを欲せば応当に是の十方の諸仏を念じて其の名号を称うべし」と。
 この文を曇鸞は、自己流に解釈して「難行道とは五濁無仏の時に於て阿毘跋致を求むるを難しと為す。譬えば陸地の歩行は則ち苦しきが如し。易行道とは但信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願い、仏の願力に乗ちて、便ち彼の清浄の土に往生することを得。譬えば水路の乗船は則ち楽しきが如し」といっているのである。
 その違いは、第一に竜樹の本論は、通じて仏道に難もあれば易もあるといっているのに、彼は別して無仏五濁の時に約している。二には、本論の意は、歴劫修行の教を難行道とし、勤行精進等といっているが、彼は無仏五濁の時にこの土に入ることを難行としている。三には、本論では、この土において不退に入れば易行であることを明かしているのに、彼は往生浄土を易行としている。このように本論に違背している。
 次に第二の執権謗実の失とは、爾前四十余年の権教に執着して、実教たる法華経を誹謗している失である。

道綽の誤り 

次に道綽のいう聖道、浄土の二門は、曇鸞のいう難行、易行と同じである。ゆえにその誤りも同じになるが、日寛上人は別して二失ありとされ、一には所立不成の失、二には執権謗実の失とされている。第一の所立不成の失とは、道綽の安楽集にいわく、「一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。其の聖道の一種は今時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由り、二には理深解微なるに由る。是の故に大集月蔵経に云く、我が末法時中、億々の衆生行を起し、道を修するに末だ一人の得者有らずと。当に今末法は是れ五濁悪世にして、唯浄土の一門のみ有って通入すべき道たるべし」と。
 道綽のいう聖道門とは、曇鸞のいう難行道である。難行道は、歴劫長遠の権大乗の修行であって、たとえ如来の在世であっても、これは難行である。それを何で仏が滅して遥かに遠いなどというのか、これ一。二には、高山の頂の水ほど深谷まで下る力がある。最高の教えほど下根の機まで救う力がある。たとえば軽病には凡薬、重病には仙薬のごとし。ゆえに理深ならば、解微ということはありえない。また解微のような教えなら理深ということはできない。それをなぜ理深解微などということをいうのか。三には、白法隠没とは、浅理の教えが隠没し、深理の大白法が広宣流布するということである。ところが彼が引用している経の意は深理隠没という義であり、そのような義は大集経にはないし、大体この文そのものが大集経に存在しないのである。以上のように、これはとんでもない妄説なのである。
 このように、彼のいう論議は成り立たないから、所立不成という。また権経の浄土の一門に執し「未有一人得者」といって法華経を謗ずるから、執権謗実の失というのである。

善導の誤り



 善導もまた、曇鸞・道綽と同じ誤りを犯している。善導は正行と雑行を立てる。正行には五種あり、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆であるとしてこの五種を正助に分け、称名の一行を正行となし、読誦等の四を助行としている。そして、この阿弥陀の三部経の正行以外は、すべて雑行であるとしている。そして、雑行は、千中無一であるといい、正行の功徳は、十即十生であるという。結論として彼は、法華経を雑行と誹謗しており入阿鼻地獄の罪を犯しているのである。
 善導は、浄土の法門を演説すること、じつに三十年にわたったという。その揚げ句ついに気が狂って、寺前の楊柳の木で自殺を図り、極楽往生を図ったがはたさず、十四日間、脊椎を打った傷によって苦しみぬいて死んだという。これは確かな当時の中国の記録に残っている事実である。念仏は権教であり、夕陽のごとき、はかない教えである。ゆえに生命力を弱め、不幸で消極的な人間をつくる。善導の現証がなによりも、これを物語っているといえよう。

慧心院源信の謗法 

慧心は、中古天台の本覚法門を立てた慧心流の祖である。御書では慧心に対して、与、奪の二面から述べられている。すなわち守護国家論では「源信僧都は亦叡山第十八代の座主・慈慧大師の御弟子なり 多くの書を造れることは皆法華を弘めんが為なり、而るに往生要集を造る意は爾前四十余年の諸経に於て往生・成仏の二義有り成仏の難行に対して往生易行の義を存し往生の業の中に於て菩提心観念の念仏を以て最上と為す、故に大文第十の問答料簡の中・第七の諸行勝劣門に於ては念仏を以て最勝と為し次下に爾前最勝の念仏を以て法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時・一念信解の功徳は念仏三昧より勝るる百千万倍なりと定め給えり、当に知るべし往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり」(0049:16)と、与えて論じられ、次に奪っての立場では本抄に「慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子身の中の三虫なり」と仰せである。
 慧心は、このように、身は天台宗の権少僧都にありながら、43歳で往生要集三巻を作り、念仏に身を売った。往生要集とは、極楽往生に関する経論の要文を集めたものである。しかし、60歳の時、弥陀念仏を悔い改め法華経読誦、天台の一心三観の功徳を挙げ、さらに61歳の時、法華経に復帰して一乗要決三巻を著し、五乗方便・一乗真実の義を詳論して法華経最勝を述べた。その後は、法華経を中心に、弟子の指導と著述につとめ、天台慧心流の祖となったのであるが、念仏をすすめる往生要集が、念仏無間の道へ僧侶や民衆を追いやった罪は大きく、日蓮大聖人は慧心を「師子の身の中の三虫」の一人として破折されているのである

 

 

第二十一章 (禅宗を破す)

 本文

   禅宗は又此の便を得て持斎等となつて人の眼を迷かしたつとげなる気色なればいかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず、禅宗と申す宗は教外別伝と申して釈尊の一切経の外に迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり、されば禅宗をしらずして一切経を習うものは、犬の雷をかむがごとし、猿の月の影をとるににたり云云、此の故に日本国の中に不孝にして父母にすてられ無礼なる故に、主君にかんどうせられあるいは若なる法師等の学文にものうき遊女のものぐるわしき本性に叶る邪法なるゆへに皆一同に持斎になりて国の百姓をくらう蝗虫となれり、しかれば天は天眼をいからかし地神は身をふるう、

 

現代語訳

  禅宗はまた、仏教界の混乱や衰微に乗じて「持斎」という特別に戒律を持っている僧侶の姿をして、人の眼を迷わし、貴げな様子であるから、いかに誤った法門を言い出し、邪義を立てても、人々はそれが誤りだと気がつかないでいる。彼らはいう、「禅宗と申す宗は、教外別伝と申して、釈尊の一切経の外に、迦葉尊者にひそかにその悟りをささやいたのである。されば、禅宗を知らないで一切経を習う者は、犬が雷にかみつこうとしているのや、猿が月の影を取ろうとしているのと同じであって、じつに見当はずれもはなはだしいことである」と。
 このゆえに、禅宗というのは、日本国の中で親不孝のため父母に捨てられたような、無礼のため主君に勘当されたような、あるいは若い僧が学問を嫌っているような、遊女がもの狂わしいような本性にかなった邪法である。日本国中、みなこの邪法に染まり、持斎となって、表面ばかり戒律を持っている姿をしているのは、国の百姓を食いつくすイナゴである。しかれば、天は天眼を怒らし、地神は身を振るうから、天変地妖が絶えまなく起きるのである。

 

語釈

持斎
 斎戒を持つ者。戒とは、戒法のひとつで、ふつう八斎戒をいう。①不殺生、②不盗、③不婬、④不妄語、⑤不飲酒、⑥不著香華鬘不香塗身不歌舞倡妓不往観聴、⑦不坐高広大床、⑧不非時食である。⑥は十戒のうちの不著香華鬘不香塗身戒(化粧・香水や装身具をつけない)と不歌舞倡妓不往観聴戒(歌舞音曲を見聞きしない)を合わせたもの。⑧は正午から翌朝の日の出前までの間は、食事してはならないこと。

禅宗
 菩提達磨所伝の禅定観法によって悟りに至ろうとする宗派。仏法の真髄は教理の追求ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏という謬義を立てる。大聖人御在世当時は、大日房能忍と弟子の仏地房覚晏の弘めた臨済禅の流れで、楊岐派に属す大慧派の拙庵徳光から印可された看話禅が盛んであった。能忍の死後、鎌倉時代に栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を、江戸時代には明僧隠元が黄檗宗を開いた。

教外別伝
 仏の悟り・本意は、文字や言語であらわされた経典や教理によらず、経文の外に以心伝心によって別に伝えられたとする禅宗の教義。「文字を立てず(不立文字)」とは真の悟りは経論の語句・文字に依っては示せないとすること。「教外に別伝す(教外別伝)」とは、仏道を伝えるに際して、言語や文字による教説を排して直接ただ心から心へと法を伝えること。禅宗では、仏法の真髄は一切経(教内の法)の外にあり、それは釈尊から摩訶迦葉に文字によらずに伝えられ、その法(教外の法)を伝承しているとし、経文を用いず座禅によって法を悟ることができるとしている。しかし一方では仏教以外の経書を学び、文筆を行い、教義を説くという矛盾を示している。

迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり
 大梵天王問仏決疑経にある文の意から、「ひそかにささやかせ」とおおせられたもの。釈尊が涅槃の時、黙って花を拈り聴衆に示した際、魔訶迦葉だけが顔をほころばせ微笑した。そこで、釈尊は、己心に秘めた微妙の法を魔訶迦葉のみに付嘱したとされる。もっともこの大梵天王問仏決疑経は偽経で、中国で創作された「拈華微笑」の説話である。

犬の雷をかむがごとし
 天台大師の摩訶止観に、真実の妙法を聞けないで小乗権教に執着するものをたとえて「渇鹿の炎を遂い、狂狗の雷を齧むがごとく、何ぞ理を得ることあらん」とある。ここでは、禅宗が摩訶止観の文を持ち出して、他宗を批判しているさまをいったのである。

猿の月の影をとるににたり
 碧巌録に「向上一路千聖伝えず、学者形を労すること猿の影を捉るごとし」とある。真如というものは過去にどれほどの聖があったとしても、人に伝えることはできない。それを学者が言辞を弄して表わそうとしても、かえって猿が水に映った月を取ろうとするごとくで、危ないことである、というほどの意。自分が経験しなければ分からないことだ、との趣旨であるが、所詮は、経文そのものを否定する天魔の言説である。

 

講義

 念仏につづき、第二に禅宗を破したのである。

 

禅宗と申す宗は教外別伝と申して……



 禅宗でいうところの教外別伝の根拠は、大梵天王問仏決疑経に「世尊、霊山会上に在り。華を拈じて衆に示す。衆皆な黙然たり。唯だ迦葉のみ破顔微笑す。世尊云わく、吾れに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝有り、摩訶迦葉に付属す」とあるというのである。「文字を立てず、教外に伝う」といいながら、こんな経文を論拠にすること自体が、すでに自語相違である。
 しかも問仏決疑経は、蓮盛抄におおせのとおり「此の文は上古の録に載せず中頃より之を載す」(0150:05)のであって、開元・貞元の録の中には、この経は出ていない。唐の末に慧炬が宝林伝を著して、初めてこの文を引いている。
 鎌倉時代の武士は、よく禅宗を信じたようであるが、弥源太入道殿御消息には「本権教より起りて候しを・今は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか」(1229:09)と指摘されている。すなわち経典の拠りどころをあげてみても、それは法華経に対すれば権教であるし、しかも権教なりと破折されるまでもなく、「教外別伝」などといって、自ら仏教典を離れてしまっているから、外道というほかなくなってしまうのである。
 ゆえに釈尊は涅槃経に「願って心の師とはなるとも心を師とせざれ」と説き、また「仏の所説に順わざる者あらば、まさに知るべし、これ魔の眷属なり」と説いている。いかに、わが身に仏性ありとしても、いまだ理即・名字即の仏であるからこそ、仏道修行が必要なのである。仏教の何たるかも知らず、正法をも信ぜず、「われ悟れり」というような禅宗は、正しく天魔以外の何物でもない。

 

国の百姓をくらう蝗虫



 蝗虫とは「いなご」のことである。この虫は秋になると稲を食い荒らす。日蓮大聖人は邪宗のことをこの「いなご」に譬えられ、呵責謗法滅罪抄には「国の大蝗虫たる諸僧等、近臣等が日蓮を讒訴する、弥盛んならば大難倍来るべし」(1130:09)と、また、報恩抄には「あら不思議や法師ににたる大蝗虫・国に出現せり仏教の苗一時に・うせなん」(0328:05)と仰せられている。
 中国大陸などでは、昔はいなごの大群に襲われたら、すべての植物が全滅してしまった。このような残酷きわまる害虫のゆえに、邪宗教もまたこのとおりであるとの例に引かれたものである。

 

 

第二十二章(真言の善無畏を破す)

 本文

真言宗と申すは上の二のわざはひにはにるべくもなき大僻見なりあらあら此れを申すべし、所謂大唐の玄宗皇帝の御宇に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす、此の三経の説相分明なり其の極理を尋ぬれば会二破二の一乗・其の相を論ずれば印と真言と計りなり、尚華厳般若の三一相対の一乗にも及ばず天台宗の爾前の別円程もなし但蔵通二教を面とするを善無畏三蔵をもはく此の経文をあらわにいゐ出す程ならば華厳法相にもをこづかれ天台宗にもわらはれなん大事として月支よりは持ち来りぬさてもだせば本意にあらずとやをもひけん、天台宗の中に一行禅師という僻人一人ありこれをかたらひて漢土の法門をかたらせけり、一行阿闍梨うちぬかれて三論・法相・華厳等をあらあら・かたるのみならず天台宗の立てられけるやうを申しければ善無畏をもはく天台宗は天竺にして聞きしにも・なをうちすぐれてかさむべきやうもなかりければ善無畏・一行をうちぬひて云く和僧は漢土には・こざかしき者にてありけり、天台宗は神妙の宗なり今真言宗の天台宗にかさむところは印と真言と計りなりといゐければ一行さもやとをもひければ善無畏三蔵一行にかたて云く、天台大師の法華経に疏をつくらせ給へるごとく大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをもう汝かきなんやといゐければ一行が云くやすう候、但しいかやうにかき候べきぞ天台宗はにくき宗なり諸宗は我も我もとあらそいをなせども一切に叶わざる事一あり、所謂法華経の序分に無量義経と申す経をもつて前四十余年の経経をば其の門を打ちふさぎ候いぬ、法華経の法師品・神力品をもつて後の経経をば又ふせがせぬ肩をならぶ経経をば今説の文をもつてせめ候大日経をば三説の中にはいづくにかをき候べきと問ひければ爾の時に善無畏三蔵大に巧んで云く大日経に住心品という品あり無量義経の四十余年の経経を打ちはらうがごとし、大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし、もししからば大日経は已今当の三説をば皆法華経のごとくうちをとすべし、さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば三密相応の秘法なるべし、三密相応する程ならば天台宗は意密なり真言は甲なる将軍の甲鎧を帯して弓箭を横たへ太刀を腰にはけるがごとし、天台宗は意密計りなれば甲なる将軍の赤裸なるがごとくならんといゐければ、一行阿闍梨は此のやうにかきけり、漢土三百六十箇国には此の事を知る人なかりけるかのあひだ始めには勝劣を諍論しけれども善無畏等は人がらは重し天台宗の人人は軽かりけり、又天台大師ほどの智ある者もなかりければ但日日に真言宗になりてさてやみにけり、年ひさしくなればいよいよ真言の誑惑の根ふかくかくれて候いけり、日本国の伝教大師・漢土にわたりて天台宗をわたし給うついでに真言宗をならべわたす、天台宗を日本の皇帝にさづけ真言宗を六宗の大徳にならはせ給う、但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給う、入唐已後には円頓の戒場を立てう立てじの論の計りなかりけるかのあひだ敵多くしては戒場の一事成りがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず、但し依憑集と申す一巻の秘書あり七宗の人人の天台に落ちたるやうをかかれて候文なり、かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候

 

現代語訳

 真言宗というのは、上の念仏、禅の災いとは比較にならないほどの大邪見の宗派である。その大体のことを述べよう。
 大唐の玄宗皇帝の時代に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三人が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経をインドから中国へ渡した。此の三経の説くところは明らかである。その極理は会二破二の一乗であり、その事相を論ずれば印と真言ばかりである。華厳や般若で説く三一相対の一乗にも及ばず、天台宗で説く爾前の別教や円教ほどの深い法門もない。ただ蔵通の二教を表に説かれているだけである。そこで善無畏三蔵が思うには、この三経をそのまま説き始めたならば、華厳宗や法相宗からもバカにされ、天台宗からもわらわれるであろう。インドから大事に持ってきた経典である。黙っていては不本意である、と思ったのであろうか。
 天台宗の中に一行禅師というひねくれ者が一人いた。そこでこの人物をかたらって中国の仏教界の法門を語らせた。一行阿闍梨は、すっかり善無畏にだまされて、三論・法相・華厳等大体の教えを述べたばかりでなく、天台宗で立てられた教義についても説明した。善無畏は、天台宗はインドで聞いていた以上に勝れていて、その上へ出られそうもないと思い、そこで善無畏は一行をだましていうには「貴僧は中国には珍しい賢僧である。天台宗は神妙の宗ではあるが、いま真言宗が天台宗より勝れているところは、印と真言である」といいよった。一行はそれもそうかと思ったようなので善無畏はさらに「天台大師の法華経に疏をつくったように、大日経の疏を作って真言をひろめようと思うが、汝が書いてくれないか」というと、一行は「それは、やさしいことだ」といった。
 そして「ただし、どのように書いたらよいのか。天台宗は悪い宗派であり、諸宗が我も我もと争っているが、とてもかなわないことが一つある。いわゆる法華経の序分に無量義経という経をもって法華経以前の四十余年の一切の経を権経なり方便なりとしてその門を封じてしまっている。さらに法華経法師品や神力品をもって、法華経以後の経々を防いでしまっている。また法華経と同時に説かれた経典は、法師品の今説の中に入れられて、責められてしまう。そこでいったい大日経は已今当の三説のうちのどこにおいたらよいのだろうか」と問うた。
 ここにおいて善無畏三蔵がおおいにたくらんでいうには「大日経に住心品という品がある。ちょうど無量義経に四十余年未顕真実とあって、他の一切の経を討ち払ってしまうような品である。また大日経の入漫陀羅品以下の諸品は、中国では法華経と大日経とて二本に分かれているが、インドでは一つの経である。釈迦仏は舎利弗や弥勒に向かっては大日経を法華経と名づけて印と真言を捨てて但理ばかりを説いた。それを羅什三蔵が中国へ渡し、天台大師はそれをみたのである。しかしまた、大日如来は法華経を大日経と名づけて金剛薩タに向かって説いた。これを大日経と名づけ、自分は近しくインドでそれを見ている。
 されば汝は、大日経と法華経とを、水と乳のように一味とすればよい。そうすれば、大日経は、已今当の三説を皆法華経のように打ち払ってしまうことができるのである。そのうえ印と真言で心法の一念三千に荘厳するならば、それこそ三密が相応する秘法となる。三密が相応すれば、天台宗は単なる意密だけなので劣ることになる。真言はたとえば剛勇なる将軍が甲鎧を帯し、弓箭を横たえ、太刀を腰にはいたようなものである。それに対して天台宗は意密計りなので、剛勇なる将軍が赤裸になっているようなものである」といったので、一行阿闍梨はそのとおりに書いたのである。
 中国の三百六十箇国の中で、このことを知る者は一人もなかったので、初めは大日と法華の勝劣について論争したが、善無畏らは、高貴の出身であるのに対し、天台宗の人々は、身分も軽く、また天台大師ほどの智慧がある者もいなかったので、ただ日々に真言宗になりおわってしまったのであった。そして年久しくなるにしたがって、いよいよ真言の誑惑の根が深く隠れていったのである。
 日本国の伝教大師は中国へ渡って、天台宗を日本へ渡したついでに、真言宗をも持ってきた。そして天台宗を日本の天皇に授け、真言宗を奈良六宗の高僧たちに習学させた。ただし、六宗と天台宗との勝劣は、唐へ渡る前に決定されていた。唐から帰ってからは、比叡山に迹門の円頓の戒檀を建てるか、建てないかとの議論に対する裁定がおりず、そこで敵が多くては戒壇建立が成就しがたいと思われたのであろう。あるいは、真言の破折は末法にゆずられたのであろうか。天皇の前でも真言については論ぜず、弟子等にも、はっきりしたことはいわれなかった。ただし、天台大師に『依憑集』という一巻の秘書がある。七宗の人々が天台に帰伏したことを書いた書物である。この書の序に、真言宗の誑惑を破したところが一ヵ所ある。

 

語釈

一行禅師
 (06830727)。中国・唐の学僧。天台学・禅・律を修める。後に善無畏が唐に来ると、共に大日経を訳し、また善無畏による大日経の講義を筆記し「大日経疏」二十巻を著した。真言宗の祖師の一人とされる。数学や天文学の大家としても知られ、「開元大衍暦」を作った。

大日経の疏
 善無畏訳の大日経の注釈書。二十巻。中国・唐の善無畏が一行の請いに応じておこなった大日経の講説を一行が筆記したもの。

三密相応
 身密・語密・意密をいう。密教で説く身・口・意によって行われる修行。手に印を結び(身密)、口に真言を唱え(語密)、意に本尊を念ずる(意密)。しかして、三密相応とは、三密加持ともいい、行者の三密と本尊の三密が感応して一体となることだという。この三密の修行によって即身成仏するとしている。

甲なる将軍の甲鎧を帯して
 甲は乙に対してすぐれたことを意味する。すなわち智勇すぐれた将軍が、りっぱな甲、鎧をきていること。慈覚の蘇悉地経疏に「三密甲冑を法界の体に著、定慧の手に阿字の利剣を執持す。たとえば勇士の密に甲冑を著て利剣を執持して群賊の中に入れば、自他倶に安きがごとし」とある。しかして日蓮大聖人は真言を破していわく「裸形の猛者と甲冑を帯せる猛者との譬の事、裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは何(いず)れが勝るるや、又猛者は法華経なり甲冑は大日経なり、猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん此れは理同の義を難ずるなり」(123:法華真言勝劣事:08)云云と。

依憑集
 「大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集」の略。依憑天台集とも略す。伝教大師最澄が、弘仁4年(0813)に著し、同7年(0816)に序文を付して公表した書。一巻。そのなかで「天竺の名僧大唐の天台の教迹最も邪正を簡ぶに湛えたりと聞き、渇仰訪問の縁」と題して、法華文句記巻十の末の文を引用し、諸宗の僧が天台大師智顗の教えを依憑としていることを、具体的に明らかにしている。

 

講義

念仏と禅に引きつづき、第三に真言宗を破折している。この章はまず善無畏を破し、次いで弘法、覚鑁を破している。

 

善無畏の堕地獄



 善無畏三蔵は、烏萇奈国の大王、仏種王の太子である。13歳にして位を捨てて出家し、インドの七十九か国、九万里を歩き回って、諸経、諸論、諸宗を学び、北インドの金栗王の下で祈請こらしている時に、虚空の中に大日如来を中央とした胎蔵界の曼荼羅が顕われたという。そこでこの正法をひろめようと決めて中国へ渡り、唐の玄宗皇帝に重く用いられて、真言の密教を授けた。その中国へ渡って真言をひろめる時、一行という天台宗の僧をかたらって、数々の謀略をたくらみ、理同事勝という謗法の根源をつくったことは、本文に詳しく述べられているとおりである。
 さて善無畏は、一時に頓死した。数多くの獄卒が来て鉄縄を七筋かけ閻魔王宮へつれていった。王位を捨てて仏道に入り、遠く中国まで弘教して、皇帝からも厚く信用されたような三蔵が、どうして閻魔の責めを受けなければならなかったのか。日蓮大聖人は二つの失ありとて、善無畏三蔵抄にいわく「一つには大日経は法華経に劣るのみに非ず涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を法華経に勝れたりとする謗法の失なり、二つには大日如来は釈尊の分身なり而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり」(0887:12)と。
 また下山御消息にいわく「善無畏三蔵は閻魔王のせめにあづかるのみならず又無間地獄に堕ちぬ、汝等此の事疑あらば眼前に閻魔堂の画を見よ」(0316:09)と。当時、鎌倉の閻魔堂などには、善無畏が獄卒に呵責され、「今此三界」等の法華経の偈を唱えて、ようやく鉄縄が切れた図がかかげられていたと思われる。また、大日経の疏には、善無畏みずから堕地獄のありさまを書いているのである。

 

 

第二十三章(真言の弘法を破す)

 本文

弘法大師は同じき延暦年中に御入唐・青竜寺の慧果に値い給いて真言宗をならはせ給へり、御帰朝の後・一代の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候、此の大師は世間の人人もつてのほかに重ずる人なり、但し仏法の事は申すにをそれあれども・もつてのほかにあらき事どもはんべり、此の事をあらあら・かんがへたるに漢土にわたらせ給いては但真言の事相の印真言計り習いつたえて其の義理をばくはしくもさはくらせ給はざりけるほどに日本にわたりて後大に世間を見れば天台宗もつてのほかに・かさみたりければ、我が重ずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに本日本国にして習いたりし華厳宗をとりいだして法華経にまされるよしを申しけり、それも常の華厳宗に申すやうに申すならば人信ずまじとやをぼしめしけん・すこしいろをかえて此れは大日経・竜猛菩薩の菩提心論・善無畏等の実義なりと大妄語をひきそへたりけれども天台宗の人人いたうとがめ申す事なし。
  問うて云く弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論に云く「此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す」又云く「無明の辺域にして明の分位に非ず」又云く「第四熟蘇味なり」又云く「震旦の人師等諍つて醍醐を盗んで各自宗に名く」等云云、此等の釈の心如何、答えて云く予此の釈にをどろいて一切経並びに大日の三部経等をひらきみるに華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論・六波羅蜜経に対すれば盗人・守護経に対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候はず此の事はいとはかなき事なれども此の三四百余年に日本国のそこばくの智者どもの用いさせ給へば定めてゆへあるかとをもひぬべし、しばらくいとやすきひが事をあげて余事のはかなき事をしらすべし、法華経を醍醐味と称することは陳隋の代なり六波羅蜜経は唐の半に般若三蔵・此れをわたす、六波羅蜜経の醍醐は陳隋の世にはわたりてあらばこそ天台大師は真言の醍醐をば盗ませ給はめ、傍例あり日本の得一が云く天台大師は深密経の三時教をやぶる三寸の舌をもつて五尺の身をたつべしとののしりしを伝教大師此れをただして云く深密経は唐の始玄奘これをわたす天台は陳隋の人・智者御入滅の後・数箇年あつて深密経わたれり、死して已後にわたれる経をばいかでか破り給うべきとせめさせ給いて候いしかば得一はつまるのみならず舌八にさけて死し候いぬ、これは彼にはにるべくもなき悪口なり、華厳の法蔵・三論の嘉祥・法相の玄奘・天台等・乃至南北の諸師・後漢より已下の三蔵人師を皆をさえて盗人とかかれて候なり、其の上・又法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず、仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給う、されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか、弘法の門人等・乃至日本の東寺の真言師・如何に自眼の黒白はつたなくして弁へずとも他の鏡をもつて自禍をしれ、此の外法華経を戯論の法とかかるること大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ、設い彼彼の経経に法華経を戯論ととかれたりとも訳者の悞る事もあるぞかしよくよく思慮のあるべかりけるか、孔子は九思一言・周公旦は沐には三にぎり食には三はかれけり外書のはかなき世間の浅き事を習う人すら智人はかう候ぞかし、いかにかかるあさましき事はありけるやらん、

 

現代語訳

弘法大師は、伝教大師と同じく延暦年中に唐へ入り、青竜寺の慧果に会って真言宗を習学した。日本へ帰って後、釈迦一代仏教の勝劣を判ずるに、第一真言、第二華厳、第三法華とした。この弘法大師は、世間の人々がもってのほかに重んじて尊敬をしている。ただし、仏法のことについては、批判するのも憚りがあるとは思うが、もってのほかに見当はずれや誤りが多いのである。
 これらの事情を、あらあら考えてみるのに、漢土へ渡ってもただ真言の事相、すなわち印と真言などの形式ばかり習い伝えて、その義理は詳しく思索したり学んだりしなかったのであろう。日本へ帰り、よくよく世間を見れば、天台宗が伝教大師によって、もってのほかに尊重されていた。これでは真言宗はひろまりそうもない。そこで、その昔は日本で習ったことのある華厳宗を取り出して、法華に勝るといい出した。それも、ありふれた華厳宗のいいぶんを繰り返すのみでは、人々が信じないと思って、少し色を変えて「これは大日経にも、竜猛菩薩の菩提心論にもあり、善無畏もいっているところの実義である」と大妄語をつけ加えて全国にひろめた。けれども、天台宗の人々も、弘法の権威を恐れてか、強くこれをとがめる人はなかった。
 問うていわく、弘法大師の著述たる十住心論、秘蔵宝鑰、二教論には「各宗とも自宗に仏乗と名のっているが、後に出てくるより高い教えに望めば、前の浅義は戯論となるのである」、またいわく「大日如来に相対すれば、釈尊は無名の辺域であって、明の分位(悟りの位)ではない」、また「五味に譬えると、法華は第四の熟蘇味の位である」、また「中国の人師たちは、争って第五の醍醐味を真言宗から盗み取って、おのおの自宗に添加した」といっているが、これらの釈はどうか。
 答えていわく、自分もこの釈に驚いて一切経ならびに大日の三部経等を開いてみるに、華厳経と大日経に対すると法華経が戯論になるとか、六波羅蜜経に対すれば天台宗が盗になるとか、守護経に釈尊を無明の分際にするなどという文は一字一句もないのである。このことは、大変に幼稚の邪義であるが、この三、四百年のあいだ、日本国では多くの智者どもが用いてきたので、定めて理由のあることかとも思えるのであろう。そこで、しばらく、大変にわかりきった彼らのごまかしをあげて、そのほかのことも信ずるに足らないことを明らかにしよう。
 天台大師が法華経を醍醐味であるといったのは、陳・隋の時代である。六波羅蜜経はその後の唐の時代になってから、般若三蔵がこれを中国へ持ってきたのである。六波羅蜜経の醍醐が陳・隋の代に渡ってきていれば、天台大師は真言宗でいうところの、六波羅蜜経の醍醐を盗んで、法華経へつけたということもいえるかもしれない。しかし、事実は天台大師の時代に、真言はなかったのである。どうして盗んだといえるのか。
 ここに同じような例がある。日本の法相宗の僧、得一は「天台大師は深密経の三時教を破折しているが、これは三寸の舌で五尺の身を断つようなものである」といって天台を非難したが、伝教大師はこれに対して「深密経は唐の初めに玄奘三蔵が持ってきた経典である。しかるに天台大師は、その前代の陳・隋の人であるから、大師の死後に伝えられた経を、どうして生前に破折することができようか」と責めたので、得一は返答につまったのみか、舌が八つに裂けて死んでしまったのである。
 弘法が盗人だといっているのは、得一よりも、さらにひどい悪口である。華厳の法蔵、三論の嘉祥、法相の玄奘、天台大師、乃至南北の諸師、後漢に仏法が漢土へ渡って以来の三蔵の人師を、みな、ひとからげにして盗人と書いているのである。そのうえ、また、法華経を醍醐であると定めたのは、天台大師の私の言ではない。仏が涅槃経に法華経が醍醐であると説かれ、天親菩薩は法華経と涅槃経を醍醐であると書かれている。竜樹菩薩は法華経を妙薬であると名づけられた。
 されば法華経等を醍醐であると申す人が盗人ならば、釈迦、多宝、十方の諸仏、竜樹・天親等は盗人であるのか。弘法の弟子たち乃至日本の東寺の真言師たちは、自分の眼の黒白は、いかにも拙くして見分けがつかなくとも、他の鏡たる仏法に引き合わせて自分の謗法の禍を知れ。このほか、法華経を戯論の法と書かれることは、大日経、金剛頂経等から確かな証文を出せ。たとえ、それらの経々に法華経を戯論と書いてあっても、訳者の誤りということもある。よくよく考えてから、いわなければならない。孔子は九たび思って一言出し、周公旦は沐浴するのに、三度も髪を握り、食べる時には三度吐いて、常に注意を怠らなかったという。外道の書で、はかなき世間の浅いことを習う人すら、智人はこのように慎重にしていたのである。それにもかかわらず、弘法は浅はかにも、仏法の大事中の大事を誤って、法華経を第三戯論などと下してしまったのである。

 

語釈

青竜寺の慧果
 (0746~0806)。中国・唐代の僧。照応(陝西省臨潼県)の人で、俗姓を馬という。真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。不空の弟子。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。永貞元年(0805)弘法に教えを伝えた。

あらき事
 荒い量見のこと。いいかげんな思慮・見解をいう。

竜猛
 付法蔵十三祖の竜樹のこと。梵名ナーガールジュナ。玄奘らによる新訳。弘法の秘密曼荼羅教付法伝では「唐には竜猛菩薩といい、旧に竜樹というは訛略なり」とあり、真言宗では竜樹よりも竜猛を多く用いるようである。

菩提心論
 一巻。正しくは金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論といい、発菩提心論ともいう。仏乗を修するために菩提心を起こすべきであるとし、菩提心の行相を行願・勝義・三摩地の三種に分けて説明している。そしてこの三摩地法を説かない顕教では即身成仏はできないとしている。弘法は、本論が作者名を記していないことをいいことに勝手に本論を竜樹の造とし、これを根拠に真言のみが即身成仏の法であるとしている。しかし現在では、本論に七世紀ごろの成立とされる大日経や金剛頂経を引用していることから、二~三世紀ごろの人とされる竜樹の造でないことは明らかとなっている。また弘法当時であっても、中国・唐代の一行筆記の大日経疏を引いていることから、本論は竜樹造ではなく不空の造ではないかとされていた。

十住心論
「秘密曼荼羅十住心論」の略。十巻。弘法大師空海の著。十住心とは、大日経住心品に十種の衆生の心相が説かれているとして、それに世間の道徳・諸宗を当てはめ、菩提心論によって顕密の優劣を判じ、真言宗が最高の教えであることを示そうとしたもの。①異生羝羊住心(凡夫が雄羊のように善悪因果を知らず本能のまま悪行をなす心)・②愚童持斎住心(愚童のように凡夫善人が人倫の道を守り五戒・十善等を行う心)・③嬰童無畏住心(嬰童は愚童と同意で現世を厭い天上の楽しみを求めて修行する位をいう。外道の住心)・④唯蘊無我住心(唯蘊はただ五蘊(五陰と同じ)の法のみ実在するという意で、無我はバラモン等の思想を離脱した声聞の位のこと。すなわち出世間の住心を説く初門で、小乗声聞の住心)・⑤抜業因種住心(十二因縁を観じて悪業を抜き無明を断ずる小乗縁覚の住心)・⑥他縁大乗住心(他縁は利他を意味し、一切衆生を救済しようとする利他・大乗の住心のこと。法相宗の立場)・⑦覚心不生住心(心も境も不生すなわち空であることを覚る三論宗の住心)・⑧一道無為住心(一仏乗を説く天台宗の住心)・⑨極無自性住心(究極の無自性〔固定的実体のないこと〕・縁起を説く華厳宗の住心)・⑩秘密荘厳住心(究極・秘密の真理を悟った真言宗の住心。大日如来の所説で、これによって真の成仏を得ることができるとした)。弘法は上記十住心の①~③までを世間道、④⑤を小乗、⑥~⑨を大乗の顕教、⑩を密教とした。

秘蔵宝鑰
 三巻。弘法の著。「秘密曼荼羅十住心論」十巻を要約して三巻にまとめたもの。法華経は真言・華厳に劣る戯論であると下し、更に法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理智法身ではあるが、真言門に望めば初門にすぎず、悟りには遠い「無明の辺域」にすぎない、と法華経の教主である釈尊を卑しめている。

二教論
 二巻。弘法の著。「弁顕密二教論」の略。顕密二教を比較対照して、その浅深・勝劣を判じ、真言密教が最勝であるとしている。真言宗では、十住心論を竪(たて)の教判とし、二教論を横の教判とする。

戯論
 児戯に類した無益な論議・言論をいう。

無明の辺域
 弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。要約すると、顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない、という邪義を述べている。

六波羅蜜経
 「大乗理趣六波羅蜜多経」の略。中国・唐の般若訳。十巻。般若経典の一つ。般若経典を仏の智慧を説いた真実の経典と位置づけるとともに、経典・論書などを学ぶ力がない者のために呪文(陀羅尼)が説かれたとする。菩薩が実践すべき六種の修行(六波羅蜜)が説かれている。弘法は自著「弁顕密二教論」で、この経典の「大乗般若は猶熟蘇の如く、総持門(密教の呪文)は譬えば醍醐の如し……総持門は契経等の中に最も第一たり」などの文を引き、「中国の学者らは争って密教に説かれる醍醐味を盗み、それぞれが自宗を醍醐味と名づけた」と述べている。日蓮大聖人はこの点を法華誹謗として諸御抄で厳しく糾弾されている。

得一
 生没年不明。徳一、徳溢とも書く。平安時代初期の法相宗の僧。藤原仲麻呂の子と伝える。出家して興福寺の修円について法相宗を学び、常陸国筑波山に中禅寺を開いた。法華一乗は権教であるとして三乗真実・一乗方便の説を立て、伝教大師とのあいだにしばしば法論をたたかわした。著書に「仏性抄」一巻、「中辺義鏡」三巻、「中辺義鏡残」二十巻、「恵日羽足」三巻などがある。

深密経
 解深密経の略。中国・唐の玄奘訳。五巻。唯識説(あらゆる事物・事象は心に立ち現れているもので固定的な実体はないという思想)を体系的に説き明かし、法相宗では根本経典とされた。

舌八にさけ
 「私聚百因縁集」の七巻にいわく、「得一大師という人、彼の宗論の為に奥州より登り叡山に上り見て、伝教をいって小僧彼処にありといいたりける時、舌口中に裂けると爾いう」と。また「破邪弁正記」には「東国の徳溢止観宗を破して舌口中に爛れたり」とある。

東寺
 京都市南区九条町にある真言宗東寺派の本山。金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と称し、略して教王護国寺、また弥勒八幡山総持普賢院ともいう。延暦15年(0796)第五十代桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の二寺を建立した。その左大寺が東寺である。弘仁14年(0823)第五十二代嵯峨天皇が空海に下賜した。文明18年(1486)京都徳政一揆のとき、一揆勢が当寺に立てこもって放火したため、金堂以下ほとんどの建物が灰燼に帰した。その後、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建された。 

九思一言
 九思のすえに一言を出だすということで、物事の是非善悪を充分に考察したうえで話をすること。九思一言という語は孔子の語としては見あたらないが、論語の季氏第十六に「孔子曰わく、『君子に九の思あり、視ることは明ならんことを思い、聴くことには聡ならんことを思い、色は温ならんことを思い、貌は恭ならんことを思い、言は忠ならんことを思い、事は敬ならんことを思い、疑わしきは問を思い、忿りには難を思い、得るを見ては義を思う』」とある。

沐には三にぎり食には三はかれけり
 司馬遷の史記巻三十三にある故事。「握髪吐哺」という。周公旦が天下の士を求めるために示した態度で、人の訪問を受ければ、洗髪の時でも、食事の時でも中断して会い、礼をおろそかにしなかったという。ここでは、周公旦の故事のように、あらゆることに気を使うべきであるといわれたところ。史記には「ここにおいてついに成王を相け、而してその子伯禽をして代わりて封じ魯に就かしむ。周公、伯禽を戒めて曰く『我は文王の子、武王の弟にして、成王の叔父なり。我れ天下においてまた賤しからず。然れども我は一沐に三たび髮を捉り、一飯に三たび哺を吐き、起ちてもって士を待ち、なお天下の賢人を失わんことを恐る。子、魯に之かば、慎みて国をもって人に驕ることなかれ』」とある。

 

講義

通じて真言を破す中で、この章には日本の弘法の邪義を破している。本抄に「此の大師は世間の人人もつてのほかに重ずる人なり」とおおせられているので、鎌倉時代にも相当に崇められていたものとみえる。今日でも、いろいろの面で世にもてはやされたり、「川崎大師」などといえば、当然に弘法をさすようにもなっている。しかし、仏法のことについては「もつてのほかにあらき事どもはんべり」である。

 

第四熟蘇味、醍醐を盗む等



 六波羅蜜経と涅槃経とに、五味の譬えがあるので、その両方を引いてみよう。六波羅蜜経にいわく「所謂八万四千の諸の妙法薀なり、摂して五分と為す。一には素咀纜、二には毘奈耶、三には阿毘達磨、四には般若波羅密、五には陀羅尼門となり、此の五種の蔵をもって有情を教化す。……此の五種の法蔵譬えば乳・酪・生蘇・熟蘇および妙なる醍醐のごとし、総持門とは譬えば醍醐のごとし、醍醐の味は乳・酪・蘇の中に微妙第一にして、よくもろもろの病を除き、もろもろの有情をして身心安楽ならしむ」と。
 次に涅槃経を示せば、「善男子、譬えば牛従り乳を出し、乳従り酪を出し、酪従り生蘇を出し、生蘇従り熟蘇を出し、熟蘇従り醍醐を出す。醍醐は最上なり。……善男子、仏もまた是のごとし、仏従り十二部経を出し、十二部経従り修多羅を出し、修多羅従り方等経を出し、方等経従り般若波羅密を出し、般若波羅密従り大涅槃を出す。なお醍醐のごとし、醍醐というは仏性に喩う」と。
 弘法が法華経を第四に下し、大日経を第五の醍醐とし、天台大師等を盗人扱いしたことは、本文にくわしく論じられているとおりである。開目抄にいわく「六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし何に況や久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよばず何に況や法華経の迹門・本門にたいすべしや、而るに日本の弘法大師・此の経文にまどひ給いて法華経を第四の熟蘇味に入れ給えり、第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばずいかにし給いけるやらん、而るを震旦の人師争つて醍醐を盗むと天台等を盗人とかき給へり惜い哉古賢醍醐を嘗めず等と自歎せられたり」(0222:10)と。

 

弘法の邪義



 弘法の邪義については、本抄では秘蔵法鑰の「後に望めば戯論」同じく「無明の辺域」、顕密二教論の「第四熟蘇味」同じく「諍って醍醐を盗む」等をあげている。くわしい仏法上の論議は別にして、もっとも簡単なことで弘法のごまかしを破責するならば、醍醐を盗む問題である。まだ天台大師の時代には、六波羅蜜経が漢土へ渡ってきてなかったのに、天台がそれを盗んで自宗へくっつけたという。実にありもしない妄語を並べ立てるから、こんなとんでもない誤りを犯してしまうのである。
 法恩抄には、同じく弘法の誤りを破折するのに、いろいろの現証や説法を挙げて、その虚妄を覆されている。すなわち一には天長元年二月の大旱魃の時、人が祈って降った雨を、自分のものにして「弘法の雨」などと名乗っていること。二には弘仁九年の春、天下に疫病が流行した。弘法が般若心経で祈ったら、病気がなおるとともに、夜太陽が出て輝き出したと。三には弘法が帰朝して真言宗を開こうとした時、朝廷に各宗を集め、智拳の印を結んで南方に向かったら、口が俄かに開いて法身仏になっってしまったと。四には漢土から舟に乗る時に、三鈷を投げ上げておいたら、その願いどおりに高野山で発見されたという。
 大体このような、非常識きわまる妄語であって、よくもこんなことに世間の人は迷わされたものだと不思議になるくらいである。しかも、こんな大嘘つきのほうが、正しく仏法をひろめる聖僧よりも、はるかに尊敬されたり有名になったりしていたのである。ゆえに「法門をもて邪正をただすべし」(0016:13)との御遺訓どおりに、仏法は判断していかなければならないのである。

 

第二十四章 (聖覚房を破す)

 本文

   かかる僻見の末へなれば彼の伝法院の本願とがうする聖覚房が舎利講の式に云く「尊高なる者は不二摩訶衍の仏なり驢牛の三身は車を扶くること能はず秘奥なる者は両部・漫陀羅の教なり顕乗の四法は履を採るに堪へず」と云云、顕乗の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼・履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候、彼の月氏の大慢婆羅門は生知の博学・顕密二道胸にうかべ内外の典籍・掌ににぎる、されば王臣頭をかたぶけ万人師範と仰ぐ。あまりの慢心に世間に尊崇する者は大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊・此の四聖なり我が座の四足にせんと座の足につくりて坐して法門を申しけり、当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて灌頂する時敷まんだらとするがごとし、禅宗の法師等が云く此の宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし、而るを賢愛論師と申せし小僧あり彼をただすべきよし申せしかども王臣万民これをもちゐず、結句は大慢が弟子等・檀那等に申しつけて無量の妄語をかまへて悪口打擲せしかどもすこしも命もをしまずののしりしかば帝王・賢愛をにくみてつめさせんとし給いしほどにかへりて大慢がせめられたりしかば、大王天に仰ぎ地に伏してなげひての給はく朕はまのあたり此の事をきひて邪見をはらしぬ先王はいかに此の者にたぼらされて阿鼻地獄にをはすらんと賢愛論師の御足にとりつきて悲涙せさせ給いしかば、賢愛の御計いとして大慢を驢にのせて五竺に面をさらし給いければいよいよ悪心盛になりて現身に無間地獄に堕ちぬ、今の世の真言と禅宗等とは此れにかわれりや、漢土の三階禅師の云く教主釈尊の法華経は第一・第二階の正像の法門なり末代のためには我がつくれる普経なり法華経を今の世に行ぜん者は十方の大阿鼻獄に堕つべし、末代の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時の礼懺・四時の坐禅・生身仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかどもわづかの小女の法華経をよみしにせめられて当坐には音を失い後には大蛇になりてそこばくの檀那弟子並びに小女処女等をのみ食いしなり、今の善導・法然等が千中無一の悪義もこれにて候なり、此等の三大事はすでに久くなり候へばいやしむべきにはあらねども申さば信ずる人もやありなん、

 

現代語訳

  このように、弘法等の邪義邪見を受けついだ末流であるから、かの伝法院の本願と号する聖覚房(正覚房覚鑁)という人は、舎利供養式の講演の中で次のようにいっている。「尊高なる者は、不二摩訶衍という大日如来である。驢牛の三身というべき法華経等の仏などは、その車を引く資格すらない。秘奥なる教えは、真言両部の漫陀羅の教えである。いわゆる顕乗の四法の仏やこれを行じている者は、真言の履取りにもおよばないのである」と。顕乗の四法というのは、法相、三論、華厳、法華の四人をさす。驢牛の三身とは、法華、華厳、般若、深密経の教主の四仏をいう。これらの仏や僧は真言師に対すれば、聖覚房や弘法の牛飼いか履物取りにもおよばないのであると書いてある。
 かのインドの大慢婆羅門は、生まれながらの博学で、仏教については顕密の二道に通じているばかりでなく、内道外道ともに、あらゆる典籍を掌ににぎるように通達していた。されば王臣も頭を下げ万人が師範とあおいだのである。しかし、万人からあおがれるあまりに、ついに慢心をおこして、世間の人が尊崇しているものは、大自在天・婆籔天・那羅延天と釈尊の四人であるところから、これら四人を自分のすわる座の四本の柱にし、足としてその上にすわって説法をした。それはあたかも、現在の真言師たちが、釈迦仏等の一切の仏を搔き集めて、潅頂という真言の儀式を行う時の敷まんだらとしているようなものである。また今の禅宗の法師等がいうには、この宗は仏の頂をふむ大法であるというようなものである。
 しかるところ、賢愛論師という小僧があって、彼の大慢を糺問すべしといったが、王臣万民ともにこれを用いなかった。決局は、大慢は自分の弟子や檀那にいいつけて、無量の妄語をかまえて賢愛論師の悪口をいったり、打ちすえたりしたが、論師は少しも命をおしむことなく大慢の邪見を責めたので、帝王はかえって賢愛論師をにくみ、問答をさせて問いつめようとした。ところが結果は逆に大慢が責められたので、帝王は天をあおぎ地に伏して歎いていうには、「朕、まのあたりこのことを聞いて邪見を晴らすことができたが、先王は大慢にたぼらかされたまま死んだので、いまは阿鼻地獄にいるであろう」と、賢愛論師の足にとりついて、悲涙にむせんだ。そこで賢愛のはからいとして、国王はは大慢を捕えて馬に乗せ、インドじゅうに顔をさらさせた。そのためいよいよ悪心が強盛になって、生きながら無間地獄におちてしまった。今の世の真言や禅宗も、まったくこれと同じではないか。
 漢土の三階禅師がいうには、「三階の仏法からすれば、教主釈尊の法華経も、第一階、第二階の正像の法門である。第三階の末法のためには、自分の作った『普経』でなければならない。されば法華経を今の世に行ずる者は、十方の大阿鼻地獄におちるであろう。末代の根機に法華経は合わないからである」といって、昼三回夜三回の六時の礼拝懺悔や、昼夜を四つに分けた四時の坐禅などを行い、生き仏のように多くの人から尊敬されていた。弟子も一万余人もできたのであるが、わずかの少女が法華経をもって三階を責めたので、その場で声が出なくなり、後には大蛇となって、多くの自分の弟子檀那や、少女、処女等を飲み食うたのである。今の浄土宗の善導、法然等が「法華経を行じても千人のうち一人も得道する者がない」などという悪義もこれと同じである。これら念仏、禅、真言の三つの大悪事は、すでに年久しくなっているので、賤しむわけではないが、申さば信ずる人もあると思ってこのようにいうのである。

 

語釈

聖覚房
 (10951144)。正覚房覚鑁のこと。平安時代後期の僧。新義真言宗の開祖。興教大師と諡された。仁和寺の寛助僧正について得度し、密教の奥義を学ぶ。大治5年(1130)高野山に伝法院を建立し、天承元年(1131)鳥羽上皇の勅願によって堂宇を拡充し大伝法院と称した。長承3年(1134)大伝法院と金剛峯寺の両座主を兼ねた。のち、金剛峯寺衆徒と対立し、一門を率いて根来山に移り円明寺を建立した。死後、その門流が大伝法院を根来山に移し、新義真言宗として分立、覚鑁はその開祖とされる。覚鑁は密教の即身成仏を基にして浄土思想を取り入れ理論的に統一した。著書には「五輪九字明秘密釈」一巻、「密厳諸秘釈」十巻などがある。

尊高なる者は不二摩訶衍の仏なり驢牛の三身は車を扶くること能はず
 密厳諸秘釈第二巻にある「舎利供養式」一巻にある。驢牛は驢馬と牛のこと。舎利講式の本文には露牛となっている。露は顕露、すなわち顕教の仏である釈尊をけなしたことばで、牛は法華経譬喩品の白牛、三身は法華経の三身如来をあざけっていったものであろう。

敷まんだら
 真言宗では僧が一定の地位に進むときに頭の頂に水を注ぐ灌頂の儀式を行うが、その際に檀上に諸仏・菩薩の図を描いた曼荼羅を敷く。したがって仏を踏んで灌頂の儀式を行うことから、「仏の頂をふむ」といった禅宗に対すると同じ破折がそのままあてはまる。そのような不遜な儀式が、経文に説かれているわけはない。

仏の頂をふむ大法なり
 壁巌録に「粛宗帝、忠国師に問う、如何なるか是れ十身調御。国師云く、壇越、毘盧の頂上を踏み行け。帝云く、寡人会 せず。国師云く、自己の清浄法身を認むる事莫れ」とある。壁巌録は宋代の公案集。粛宗は唐の第十代皇帝。十身は華厳経に説く十種の仏身。調御は仏の十号の一つ、調御丈夫で、優れた調教師のように人々を教え導くのが巧みな人の意。毘廬は毘廬遮那仏の略で法身仏をいう。仏の十身を会得することは、仏の頂を踏み越えていくことで、仏の身相に執着してはならない、との意という。
 それに対し大聖人は蓮盛抄で、「禅宗では毘盧遮那仏の頭の頂を踏むという。ではその毘盧遮那仏とは何者なのか。もし法界を周り遍く法身ならば、山川や大地もすべて毘盧遮那仏の身体である。それは理としての仏性の毘盧遮那仏である。この理としての身体においては犬や狐の類も踏む。禅宗の手本になるものではない。もし実際に仏の頭の頂を踏むというのであれば、梵天もその頭を見ることができないといっているのに、薄地の凡夫がどうしてその頂を踏むことができようか。仏は一切衆生において主・師・親の三徳がある。恩徳の広い慈父を踏むなどというのは不孝で逆罪の大愚人・悪人である。中国の孔子の書物においてもなおこの輩を捨てる。まして如来の正法においてはなおさらである。このような邪な者や邪な法を誉めて無量の重罪を得てよいものであろうか。釈尊在世の迦葉は頭の頂を礼し敬うといっている。滅後の愚かな禅宗の者は頭の頂を踏むという。恐るべきことである」と、禅宗の謬見を厳しく破折されている。

大慢婆羅門
 南インドのバラモン僧。大唐西域記巻十一によると、外典・暦法等に通じ、国王・国の人々に尊敬されていた。しかし、慢心を起こして外道の三天(大自在天・婆籔天・那羅延天)と釈尊像を作って高座の四足とし、これに登って、我が徳は四聖に勝れていると説法していた。時に西インドからきた賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛の助けで命は救われ、そのかわりに国じゅうをひきまわして懺悔させた。大慢はこれを恥として血を吐いて病に伏した。賢愛が見舞に行ったとき、大慢はさらに賢愛を悪口し大乗を誹謗したので、大地が裂けて生きながら地獄に堕ちたという。

大自在天
 梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)の音写。シヴァ神(Śiva)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされた。摩醯首羅天と音写され、大自在天と訳される。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂(目が三つで臂が八本)で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。

婆籔天
 梵名ヴァスデーヴァ(Vasu-deva)の音写。「玄応音義」巻二十二では毘紐天(ヴィシュヌ。Viṣṇu)の別名とされているが、毘紐天の父またはクリシュナ(Kṛṣṇa)(音写して訖哩瑟拏)の父とする説もある。

那羅延天
 梵名ナーラーヤナ(Nārāyaa)の音写。大力の神と訳し、堅固力士、金剛力士ともいう。大日経疏には、毘紐天(ヴィシュヌ。Viṣṇu)の別名で、仏の分身であり、迦楼羅 鳥(ガルダ)に乗って空を行くとある。慧琳音義には、大力で、この神を供養する者は多くの力を得るとあり、大毘婆沙論にも同様の大力が示されている。

三階禅師
 (05400594)。中国・隋代の三階教の開祖。諱は信行。姓は王氏。幼いころに出家し、経論を学び、浄土の修行を積んだ。相州(河南省)の法蔵寺で具足戒を受けたが、後にこの戒を捨て、自ら労役に従事し民衆の間に教えを弘めた。開皇の初めに隋帝に迎えられて長安に入り真寂寺に住した。「三階仏法」四巻をはじめ「三階集録」「対根起行法」など多くの書を著わし、すべての仏教を時・処・人について三階に分類した。正法時代・像法時代の仏法を第一階・第二階とし、当時は末法、処は穢土、人は凡夫の世であるから、特定の経典・仏は無益であり、第三階の「普法」によらなければならないとし、あまねく信じ、あまねく敬い礼拝の対象とする(普仏・普法・普敬による)三階教を説いた。普法宗ともいわれ、一時は長安、大興の都を中心に隆盛をきわめたが、信行の死後、隋の文帝、唐代の則天武后、玄宗などによって圧迫され、宋代の初めころ滅亡した。三階宗の教義は、主として地蔵十輪経の説に依っており、光宅寺法雲の教判による邪義である。

当坐には音を失い後には大蛇になりて
「当坐には音を失い」とは、弟子の孝慈であり、「後には大蛇になりて」とは三階教の師の信行である。ゆえに合わせて、これをあげたのである。すなわち法華伝の九には、信行の弟子である慈門寺孝慈の伝に、孝慈が三階教に帰したとき、一優婆夷(在家の女性)が法華経を読誦しているのをみて、孝慈は「法華経等の大乗経は、末法に普経が流布するときには、不相応の別教であるから阿鼻地獄におちる」といったので、この優婆夷は「それでは、どちらが仏意にかなっているかを決定しよう」と勝負をした。「その時禅師神に打たれて音を失い語らず、西の高座の上、集録を唱うる者もまた音を失いて語らず」と。また釈門自鏡録(唐代の仏教説話集)には「一時中に忽然として命終し、ついに業道の中において信行禅師大蛇身と作るを見る。遍身すべてこれ口、また三階を学ぶ人の死する者を見るに、みなこの蛇身の口中に入り、去る処を知らず」とある。

 

講義

 この章は真言を破折す中で、弘法に続いて聖覚房(正覚房)を破している。「彼の月氏の大慢婆羅門」からは例を示す。初めに大慢を挙げて、真言と禅を示し、次に三階禅師を挙げて、浄土宗の例としている。
 邪宗教の輩ということは、いずれにしても経文も道理も無視した邪義であるから、別に驚くことはないが、この正覚房の悪口などもずいぶん徹底したものである。舎利講の式には、仏と教を挙げて対比しているが、これを大聖人は「此等の仏僧は真言師に対すれば」とおおせられているが、ここのところは「此等の法仏は真言の法仏に対すれば」というべきところではないかとの疑問がおきろ。これに対し、日寛上人は、顕密ともに三宝は一体であるから、そうなのであるとおおせられている。ゆえに真言にいわせれば、「密教の三宝は顕教の三宝に勝れる」となるが、事実は真言密教の三宝などは、日蓮大聖人の仏法の三宝に比べたなら、天地雲泥の相違があって。問題にならないのである。
 邪師の例として引かれた大慢婆羅門は、外道の三神と釈尊とを四本の足にして高座を作り、その上で説法をしたという。これなどは奇想天外の行動のようにも聞こえるが、事実はよくある例で、大聖人の時代には真言と禅がこれと同じであるとおおせになっている。現代でも日蓮大聖人を軽賤し、我見を立てる輩は、同じ謗法の罪となるのである。
 三階禅師信行の妄説もまた変わっている。第一階、第二階の衆生は、釈迦仏教で救われるが、末法の第三階の衆生は信行の勝手に作った普教でなければならないという。この邪宗も一時は中国において相当に流行したが、たびたびの弾圧によって、根絶されてしまった。しかし、末法の現代でもこれと同じような邪宗がある。孝道教団などというのもこの類であろう。いわく、「日蓮大聖人の仏法は下種仏法で、末法の初め五百年にしか功徳がない。今は熟益の法でなければならず、それを無辺行菩薩が出現してひろめる。それが孝道教団の教祖である」と。およそ、このような三階流の邪義邪法に、だまされ迷わされている衆生が、今日もまだあるから驚かざるをえないではないか。

 

 

第二十五章(慈覚を破す)

 本文

これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり、慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なりしかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝れてをはします人なりとをもえり、此の人真言宗と法華宗の実義を極めさせ給いて候が真言は法華経には勝れたりとかかせ給へり、而るを叡山三千人の大衆・日本一州の学者等・一同の帰伏の義なり、弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣るとかかせ給えるは、我がかたながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもつてをもうに真言宗の法華経に勝れたることは一定なり、日本国にして真言宗を法華経に勝るると立つるをば叡山こそ強がたきなりぬべかりつるに慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし、されば東寺第一のかたうど慈覚大師にはすぐべからず、例せば浄土宗・禅宗は余国にてはひろまるとも日本国にしては延暦寺のゆるされなからんには無辺劫はふとも叶うまじかりしを安然和尚と申す叡山第一の古徳・教時諍論と申す文に九宗の勝劣を立てられたるに第一真言宗・第二禅宗・第三天台法華宗・第四華厳宗等云云、此の大謬釈につひて禅宗は日本国に充満してすでに亡国とならんとはするなり法然が念仏宗のはやりて一国を失わんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり、師子の身の中の虫の師子を食うと仏の記し給うはまことなるかなや。

 

現代語訳

これらの三宗の悪事よりも、百千万億倍信じがたい最大の悪事がある。慈覚大師は、伝教大師の第三番目の弟子であったが、上一人より下万民にいたるまで、慈覚のほうが伝教大師より勝れていると思うほどの有名人であった。この慈覚は、真言宗と法華宗の実義を学びつくした結果、真言は法華経より勝れていると書きつけた。しかして、叡山三千人の大衆をはじめ、日本国中の学者等が、一人残らず、その邪義に帰伏してしまった。弘法の門人たちは、弘法が十住心の教判を立て、法華経は華厳経におよばないといったことについては、自分の師匠ながら強く言いすぎているのではないかと思った。しかし、天台座主の慈覚が真言宗は法華経に勝れているといったので、それが決定的な結論であると思うようになった。
 いったい、日本国で真言宗を法華経より勝れていると立てる場合に、比叡山こそ強い敵となって真言と戦うべきであるのに、慈覚が真言を取り入れて叡山三千人の学徒の口をふさいでしまったので、真言宗の思いどおりになったのである。されば、真言の総本山たる東寺の第一の味方は、慈覚大師である。
 たとえば、浄土宗も禅宗も、ほかの国では自由にひろまるとしても、日本の国では、延暦寺の許可がなければ、無辺劫を経てもひろまるわけがない時代であった。しかるに安然和尚という叡山第一の古徳が、教時諍論と申す書をつくって、九宗の勝劣を立てなかに、第一は真言宗、第二は禅宗、第三は天台法華宗、第四は華厳宗であると。この大謬釈によって、禅宗は日本国に充満した。邪法ばかりがひろまって、すでに日本は亡国にならんとしている。
 法然の念仏宗が流行して、一国が失われようとするにいたった因縁は、慧心の往生要集の序から始まったのである。「獅子が死んでもいかなる動物もこれを食べようとしないが、獅子の身中にわいた虫が獅子の肉を食ってしまう」というのは、これである。

 

語釈

慈覚大師は……伝教大師には勝れてをはします
 慈覚は伝教大師の弟子であるが、唐にいた期間は、伝教の一年に対し慈覚は十年であり、大師号も、慈覚の弟子の相応和尚が清和天皇の御母の病平癒を祈祷したゆえに、円仁に慈覚大師、あわせて最澄に伝教大師をたまわった。また慈覚はその他の点でも一般に俗受けしたので、当時の人々は伝教大師よりも慈覚のほうがすぐれていると思ったのであろう。

叡山三千人の大衆
 この当時、いつも比叡山に修学している学徒は三千人といわれていた。しかし僧兵は一万以上いたと思われる。

安然和尚と申す叡山第一の古徳
 のちに比叡山延暦寺で八先徳を選んだとき、第一に数えられたので、第一の古徳といわれた。

教時諍論
 安然の著作。一巻。独自の教時論(教判論)を展開し、諸宗派を九宗に分類してその勝劣を立て、真言宗を第一、禅宗を第二、天台宗を第三と位置づけた。

 

講義

これより別して慈覚を破している。この章はその第一で、真言与同の失を顕わすのである。
 天台法華宗の清浄な比叡山を破壊した元凶は、天台の第三代の座主である慈覚であった。この慈覚の理同事勝などの誑惑は、後にくわしく出てくる。たとえば、安然によって禅宗がひろめられ、慧心によって念仏がひろめられるようになったのと同じく、真言の邪法を日本に流行させた重罪は、とくに慈覚にある。慈覚こそ、身は天台座主でありながら、みずから邪義へ堕ちた師子身中の虫である。
 三大秘法禀承事にいわく「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023:01)と。また、この謗法の罪によって慈覚の死去のありさまが悪かったことは、諸御書に見える。報恩抄には「死去の後は墓なくてやみぬ」(0310:18)とあり、慈覚大師事には「慈覚大師の御はかは・いづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭は出羽の国・立石寺に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか……死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり」(1019:12)とある。

 

 

第二十六章 (慈覚の本師違背の失)

 本文

   伝教大師は日本国にして十五年が間・天台真言等を自見せさせ給う生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給いしかども、世間の不審をはらさんがために漢土に亘りて天台真言の二宗を伝へ給いし時漢土の人人はやうやうの義ありしかども我が心には法華は真言にすぐれたりとをぼしめししゆへに真言宗の宗の名字をば削らせ給いて天台宗の止観・真言等かかせ給う、十二年の年分得度の者二人ををかせ給い、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し永代・日本国の第一の重宝・神璽・宝剣・内侍所とあがめさせ給いき、叡山第一の座主・義真和尚・第二の座主・円澄大師までは此の義相違なし、第三の慈覚大師・御入唐・漢土にわたりて十年が間・顕密二道の勝劣を八箇の大徳にならひつたう、又天台宗の人人・広修・惟蠲等にならはせ給いしかども心の内にをぼしけるは真言宗は天台宗には勝れたりけり、我が師・伝教大師はいまだ此の事をばくはしく習せ給わざりけり漢土に久しくもわたらせ給わざりける故に此の法門はあらうちにみをはしけるやとをぼして日本国に帰朝し・叡山・東塔・止観院の西に総持院と申す大講堂を立て御本尊は金剛界の大日如来・此の御前にして大日経の善無畏の疏を本として金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻・已上十四巻をつくる、此の疏の肝心の釈に云く「教に二種有り一は顕示教謂く三乗教なり世俗と勝義と未だ円融せざる故に、二は秘密教謂く一乗教なり世俗と勝義と一体にして融する故に、秘密教の中に亦二種有り一には理秘密の教諸の華厳般若維摩法華涅槃等なり但だ世俗と勝義との不二を説いて未だ真言密印の事を説かざる故に、二には事理倶密教謂く大日経金剛頂経蘇悉地経等なり亦世俗と勝義との不二を説き亦真言密印の事を説く故に」等云云、釈の心は法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給うに真言の三部経と法華経とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり、しかれども密印と真言等の事法は法華経かけてをはせず法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なりとかかれたり、しかも此の筆は私の釈にはあらず善無畏三蔵の大日経の疏の心なりとをぼせどもなをなを二宗の勝劣不審にやありけん、はた又他人の疑いをさんぜんとやをぼしけん、大師慈覚の伝に云く「大師二経の疏を造り功を成し已畢つて心中独り謂らく此の疏仏意に通ずるや否や若し仏意に通ぜざれば世に流伝せじ仍つて仏像の前に安置し七日七夜深誠を翹企し祈請を勤修す五日の五更に至つて夢らく正午に当つて日輪を仰ぎ見弓を以て之を射る其の箭日輪に当つて日輪即転動す夢覚めての後深く仏意に通達せりと悟り後世に伝うべし」等云云、慈覚大師は本朝にしては伝教・弘法の両家を習いきわめ異朝にしては八大徳並に南天の宝月三蔵等に十年が間・最大事の秘法をきわめさせ給える上二経の疏をつくり了り重ねて本尊に祈請をなすに智慧の矢すでに中道の日輪にあたりてうちをどろかせ給い、歓喜のあまりに仁明天王に宣旨を申しそへさせ給い・天台の座主を真言の官主となし真言の鎮護国家の三部とて今に四百余年が間・碩学稲麻のごとし渇仰竹葦に同じ、されば桓武・伝教等の日本国・建立の寺塔は一宇もなく真言の寺となりぬ公家も武家も一同に真言師を召して師匠とあをぎ官をなし寺をあづけ給ふ、仏事の木画の開眼供養は八宗一同に大日仏眼の印真言なり。

現代語訳

  伝教大師は日本国において、十五年のあいだ、天台真言等の仏法の奥義を学ばれた。生まれつきの秀れた智慧をもって、師匠もなく悟られたのである。しかし、なお世間の人々の疑いを晴らそうとして、唐へ渡り、天台・真言の二宗を伝えたのである。当時の漢土の仏教界においてはいろいろの義があったが、伝教大師は我が心には法華経は真言に勝れていると思われたので、真言宗という宗の字を削り取り、天台宗の止観、真言等と書かれたのである。十二年のあいだ、二人ずつ年分得度者を勉強させ、そのうえ一乗止観院で、法華経、金光明経、仁王経の三部を長講させ、鎮護国家の三部と定めた。天皇の宣旨を申し下し、日本国第一の重宝たる神璽と宝剣と内侍所のように、崇重したのである。比叡山第一代の座主義真和尚、第二の座主・円澄大師までは、伝教大師の精神に相違しなかった。
 第三の慈覚大師は、唐へ渡って十年の間、顕密二道の勝劣を八人の真言師から学び、天台宗のことは広修・惟蠲等に修学したけれども、彼は心の中で思っていたことは、真言宗は天台宗より勝れているのであると。わが師伝教大師は、いまだこのことを、くわしく学ばないうちに、わずか一年で日本へ帰ってしまったので、このことをよく知らなかったに違いないと思って、帰朝した。そして比叡山の東塔、止観院の西に、総持院という大講堂を建て、真言の金剛界の大日如来を本尊とし、この前で大日経の善無畏の疏に習い、金剛頂経の疏七巻、蘇悉地経の疏七巻、以上の十四巻を著述したのである。
 この疏の肝心の釈にいわく「教には二種類があって、一には顕示教で、いわゆる三乗教である。この教ではまだ世俗諦という一般世間と、勝義諦という仏法の理とが円融していないのである。二には秘密教で、いわゆる一乗教である。これは世俗と勝義とが一体になり融合している。秘密教の中にまた二種類がある。一には理秘密の教で、もろもろの華厳・般若・維摩・法華・涅槃等である。これらの経には、ただ世俗と勝義との不二を説いて、いまだ真言と密印のことを説いてない。二には事理倶密の教で、大日経、金剛頂経、蘇悉地経等、いわゆる真言の三部経がこれである。これには世俗と勝義との不二、一体を説くとともに、また真言と密印のことを説いているので事理倶密なのである」と。
 この慈覚の釈の意味は、法華経と真言の三部経との勝劣を定めるのに、真言の三部経は法華と、所詮の理は同じく一念三千の法門である。しかれども、密印と真言等との事法は、法華経は欠けて無い。法華はただ理秘密にすぎないが、真言の三部経は事理倶密であるから、真言のほうが天地雲泥のように勝れている、と書いたのである。しかもこれは自分の勝手な意見ではなく、善無畏三蔵の大日経の疏の心であるといった。しかもなお二宗の勝劣に疑問を持っていたのであろうか、はたまた他人の疑いを晴らそうと思ったのであろうか、慈覚の伝には、次のように書いている。
「慈覚は二経の疏を作り、功を成しおわって、心中ひとり思うのに、この疏は仏の意にかなうかどうか。もし仏意に通じないならば、世に流布しないようにしなければならない。そこで仏像の前に安置し、七日七夜にわたり、心をこめて深い祈りをつくした。五日目の五更(夜明けがた)にいたって夢をみた。その夢は、正午の太陽が輝いているのをあおぎ見て、弓をもってこれを射ると、その箭()が太陽に命中し、太陽は動転して落ちた。夢がさめてのち、自分の釈が深く仏意に通達したと悟り、後世にこの疏を伝えるべしと決意した」というのである。
 慈覚大師は、日本においては伝教、弘法の両大師の教えを習いきわめ、唐へ渡ってからは、八大徳を始め、南インドの宝月三蔵等に十年の間、最大事の秘法を習いきわめたうえ、二経の疏を作ったのである。しかも重ねて本尊に祈請をなしたところ、智慧の矢はすでに中道の太陽にあたり、正しいことを証明できたと錯覚したのである。歓喜のあまりに仁明天王に奏聞し、宣旨を申しそえて、天台の座主を真言の官主となし、真言の三部経を鎮護国家の三部といい出して、今日まで四百余年のあいだ、仏法の大学者は稲や麻のように多く、これを渇仰する者は竹や葦のように多かった。されば桓武天皇や伝教大師によって日本国中に建立された寺塔は、一つ残らず真言の寺となってしまった。公家も武家も一同に真言師を召して師匠とあおぎ、官位を与え、寺をあずけたのである。仏事としての木像画像の開眼供養も、八宗とも一同に大日仏眼の印と真言で行なうようになった。

 

語釈

年分得度の者
 各宗で年度ごとに国が決めた定員によって出家を許される者。年分度者ともいう。伝教大師最澄は山家学生式で、天台宗の僧は出家の後、十二年間、比叡山にこもって修行に専念することを定めた。止観業は法華経などの顕教を学び止観の修行を専攻し、遮那業は密教を専攻する。

止観院
 一乗止観院ともいう。伝教大師が比叡山に入って薬師如来を安置した小堂を建立したことに始まる。この薬師堂を中心にして左右に文殊堂・経蔵が建てられたことから、薬師堂を中堂または根本中堂といった。また後に、この三宇をまとめて止観院と称した。

義真 
 (07810833)。平安初期の天台宗の僧。比叡山延暦寺の初代座主。伝教大師最澄の弟子で、伝教大師の通訳として共に唐に渡った。伝教没後、延暦寺の運営を担い、天長元年(0824)に初代天台座主となった。

円澄
 (07720837)。平安初期の天台宗の僧。伝教大師最澄の弟子。比叡山延暦寺の初代座主である義真の後を受けて第二代座主となった。日蓮大聖人は「報恩抄」で、伝教大師の教えは義真には純粋に伝わったが、円澄からは半ば密教が入って濁乱したとされている。

広修
 (07710843)。中国・唐代の天台宗の僧。広脩・廣修とも書く。至行尊者ともいわれる。道邃和尚の弟子となり、天台山禅林寺で天台の教観を学び、法華経・維摩経・金光明経等を日々読誦したといわれる。後に、請われて台州(浙江省東部の都市)に行き、学堂で止観を講じた。開成5年(0840)、比叡山の学僧・円載が延暦寺第二代座主・円澄の天台宗学に関する質問三十条をもって唐に来た。伝教大師以降の日本天台宗では、天台教学における密教の位置づけが大きな課題であり、これに対し、回答を与えた。その中で広修は、大日経は五時教判において第三時である方等部の経典であるとし、維蠲も同じ問いに対して方等部に属するとしている。

惟蠲
 惟蠲は中国天台宗、天台山広修座主の高弟。維蠲とも書く。国清寺に住した。開成5年(0840)円澄の延暦寺未決三十条の問いに対し、広修とともに答えている。これを「澄唐決」という。本抄に「等」とあるのは、志遠が挙げられる。同じく天台宗の僧。唐に渡った円仁(慈覚)に、五台山の大華厳寺で止観の法門を教えた。

東塔
 滋賀県大津市の比叡山延暦寺の三搭(東塔・西塔・横川)の一つ。比叡山東面の中腹に位置する一山の中心の地域で、東谷・西谷・南谷・北谷・無動寺谷が属す。根本中堂(一乗止観院)をはじめとして大講堂・戒壇院などがある。

総持院
 法華仏頂総持院という。比叡山延暦寺の東塔の本院。円仁(慈覚)が仁寿元年(0851)に建立した。大日如来を本尊とする。現在では総持院の名称として「大講堂」が一般化している。

大師慈覚の伝
 慈覚大師伝。真寂法親王が遺弟らの記を撰し、子の源英明が完成した。

宝月三蔵
 中国・唐の僧。南インドの出身で長安の青竜寺に住んでいた。唐に渡った慈覚に密教を伝えた。慈覚が学んだ八大徳のなかのひとりである。

仁明天王
 (08100850)。第五十四代仁明天皇。嵯峨天皇の第二皇子。

 

講義

 この章は別して慈覚を破すなかに、慈覚の本師伝教大師に違背した失を述べられている。

 

 伝教大師は……我が心には法華は真言にすぐれたり



 伝教大師が法華経は真言に勝れていると考えられていたということが、どうしてわかるかとの問いに対し、日寛上人は、次のように、三つの例を挙げられている。
 一には、法華経をもって宗旨となすがゆえに。秀句にいわく「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷掦し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」と。正しくこの文の意は、大日経の浅きを去って法華経の深きに就くをもって、宗旨となす。勝劣が分明ではないか。
 二には、大日経を傍依となすゆえに。守護章にいわく「いま山家所伝の円教宗の依経は、正には法華経及び無量義経に依り、傍には大涅槃、華厳、維摩等、般若甚深の諸大乗に説くところの円教……諸経諸論」等と。すでに法華を正依の経となし、大日経等をもって傍依の経となすから、勝劣が実にはっきりしているではないか。
 三には、略して真言宗の謬りを破すゆえに。依憑集の序にいわく「新来の真言家は即ち筆受の相承を泯ぼし」等と。いわんや記十の含光の物語を、さらに依憑集に載せているところからみても、はっきりしているではないか。

 

世俗と勝義の融・不融



 世俗は事であり、勝義は理である。慈覚のいわんとするのは理同事勝である。いまその邪義を、日寛上人の文段によって破折する。
 一には、真言は三部経の中には、開権顕実の妙理を説いていない。二乗作仏の文義もない。このゆえに十界互具の理もない。ゆえに真言には真実の妙理があるわけがない。なぜ法華と理同といえるであろうか。
 二には、衆生の成仏は、ただ十界互具の妙理による。印と真言という外面の形は、成仏した上で自然に表われるものである。もし十界互具の妙理にかない、即身成仏すれば、印と真言は自然に具足する。そうでなくて、成仏はしたが、印もない真言もないなどという仏は、唖の仏とか、中風で手足の動かない仏ができたようなもので、そんなことがあるわけがない。ゆえに経典には十界互具があるかないかが問題であって、印と真言の有無は問題でない。もし、一々なんでも説いていなければ、その経典が事において劣るというなら、阿含経に説いて、大日経にないこともあるから、阿含は事において勝れているとでもいうのか。
 三には、いわんやまた、真言の教えは印や真言を説くけれども、久遠実成の事を説いていない。どうして事において勝れるといえるであろうか。
 四には、伝教大師は、法華経をもっとも勝れた経とし、天台大師も同じである。慈覚はその流れを汲みながら、なぜ本師に違背するのか。
 五には、伝教大師は唐へ渡ってわずか一年しかいなかったので、勉強が足りないとか、天台大師は大日経等がまだ渡ってきていなかったので、その勝れていることがわからなかったなどというならば、釈迦、多宝、分身の諸仏はどうか。これらの諸仏が、法華第一と証明したことを、うそだとでもいうのか。
 六には、すべての一代仏教の中に、真言が勝れ、法華が劣るなどという文は、一字一句もないではないか。

 

 

第二十七章(問答帰釈して慈覚を破す)

 本文

疑つて云く法華経を真言に勝ると申す人は此の釈をばいかがせん用うべきか又すつべきか、答う仏の未来を定めて云く「法に依つて人に依らざれ」竜樹菩薩の云く「修多羅に依れるは白論なり修多羅に依らざれば黒論なり」天台の云く「復修多羅と合せば録して之を用ゆ文無く義無きは信受すべからず」伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」等云云、此等の経論釈のごときんば夢を本にはすべからずただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ、但印真言なくば木画の像の開眼の事・此れ又をこの事なり真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか、天竺・漢土・日本には真言宗已前の木画の像は或は行き或は説法し或は御物言あり、印・真言をもて仏を供養せしよりこのかた利生もかたがた失たるなり、此れは常の論談の義なり、此の一事にをひては但し日蓮は分明の証拠を余所に引くべからず慈覚大師の御釈を仰いで信じて候なり。
  問うて云く何にと信ぜらるるや、答えて云く此の夢の根源は真言は法華経に勝ると造定めての御ゆめなり、此の夢吉夢ならば慈覚大師の合せさせ給うがごとく真言勝るべし、但日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか、内典五千七千余巻外典三千余巻の中に日を射るとゆめに見て吉夢なる証拠をうけ給わるべし、少少此れより出し申さん阿闍世王は天より月落るとゆめにみて耆婆大臣に合せさせ給しかば大臣合せて云く仏の御入滅なり須抜多羅天より日落るとゆめにみる我とあわせて云く仏の御入滅なり、修羅は帝釈と合戦の時まづ日月をいたてまつる、夏の桀・殷の紂と申せし悪王は常に日をいて身をほろぼし国をやぶる、摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給う、かるがゆへに仏のわらわなをば日種という、日本国と申すは天照太神の日天にてましますゆへなり、されば此のゆめは天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経をいたてまつれる矢にてこそ二部の疏は候なれ、日蓮は愚癡の者なれば経論もしらず但此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国をほろぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候、今現証あるべし日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行ひ候へば日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとおもひ候なん、但し承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候しが調伏せられ給し権の大夫殿はかたせ給い、後鳥羽院は隠岐の国へ御子の天子は佐渡の嶋嶋へ調伏しやりまいらせ候いぬ、結句は野干のなきの身にをうなるやうに還著於本人の経文にすこしもたがはず叡山の三千人かまくらにせめられて一同にしたがいはてぬ、しかるに又かまくら日本を失はんといのるかと申すなり、これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人なるべしよくよく知るべきか。(この部分は創価学会版御書全集にはないが、ほかの書で引かれている文もあるので付記した)今はかまくらの世さかんなるゆへに東寺・天台・園城・七寺の真言師等と並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人人・関東にをちくだりて頭をかたぶけひざをかがめやうやうに武士の心をとりて、諸寺・諸山の別当となり長吏となりて王位を失いし悪法をとりいだして国土安穏といのれば、将軍家並びに所従の侍已下は国土の安穏なるべき事なんめりとうちをもひて有るほどに法華経を失う大禍の僧どもを用いらるれば国定めてほろびなん、

 

現代語訳

疑っていわく、法華経が真言より勝れていると申す人は、この慈覚の釈をどうするか、用いてよいか、それとも捨てなければならないであろうか。

 答う、仏の未来記を検討してみよう。仏は涅槃経に滅後の仏道修行のあり方を示していわく「法によって物ごとを判断し、人によって判断してはならない」と。竜樹菩薩は十住毘婆沙論にいわく「経典をもとにした白論(正論)によるべし、経典によらないものは黒論(邪論)である」と。天台大師は法華玄義にいわく「経論と合する義は用いよ、経論に文証も義もないのは信じてはならない」と。伝教大師は法華秀句にいわく「仏説に依るべきであって、口伝を信じてはならない」と。

 これらの経論釈のとおりであるならば、宗教の正邪・勝劣は、夢などをもとにしてはならない。ただ直接に法華経と大日経との勝劣を、明らかに説き示した経論の文こそ大切であって、勝劣の判定の基準となるのである。ただし、真言宗のいうように、印と真言がなければ木画二像の開眼ができないという主張は、実に幼稚な愚論である。それでは真言宗のできる以前の木画は、開眼できなかったというのであるか。インドでも中国でも日本でも、真言宗以前の木画の像が、優填大王の木像は歩いたとか、摩騰の画像は一切経を説いたとか、鵜田寺の薬師像は話しかけてきたなどと伝えられている。かえって真言宗が流行し、印、真言で仏を供養するようになってよりこのかた、功徳もさっぱりでなくなってしまった。これは常に論談しているところである。ただし慈覚のいうように、真言が勝れ法華が劣るということについて、日蓮は明らかな証拠を余所に求める必要がない。慈覚自身の書いたものにとって信じられるところがある。

 問うていわく、いかように信じられるのであるか。答えていわく、慈覚のこの夢の根源は、真言は法華経に勝ると造り定めてからの夢である。この夢が吉夢なら、慈覚が判断したように真言が勝れていることになる。ただし、太陽を射ると夢にみたことを、吉夢といえるであろうか。仏教の内典五千、七千余巻といわれ、外典三千余巻といわれるが、その中で、太陽を射ると夢にみて、吉夢だという証拠がどこにあるか出してみなさい。逆に、それは凶夢である証拠を二・三あげてみよう。阿闍世王は天より月が落ちると夢にみて、耆婆大臣に聞いたら、大臣は答えて「仏の御入滅に違いない」といった。須抜多羅は天より太陽が落ちると夢にみて、みずから「仏の御入滅である」といった。修羅は帝釈と戦うとき、まず日月を射た。夏の桀王、殷の紂王という悪王は、常に太陽に弓を引いて身を滅ぼし、国を破ったのである。

 また反対に、釈尊の生母である摩耶夫人は、太陽を孕むと夢に見て悉達太子を産んだ。このゆえに仏の幼名を日種といった。日本国と申すは、天照太神が日天にましますゆえの国名である。されば慈覚の夢は、天照太神、伝教大師、釈迦仏、法華経を射る矢であり、彼の造った二部の疏は同じく法華経を射る矢なのである。日蓮は愚癡の者であるから経論などくわしいことはわからない。ただこの夢をもって法華経より真言が勝れているという人は、今世には国を滅ぼし、家を失い、後生には阿鼻地獄へおちるということを知っている。

 今ここに何よりはっきりした現証がある。日本国と蒙古との戦いに、一切の真言師に敵国の調伏を行わせて日本が勝つことができるならば、真言は勝れ、尊いということがわかる。ただし、承久の乱の例があるので、真言に調伏をまかせるわけにいかないのである。承久の合戦には、たくさんの真言師が、鎌倉幕府の権の大夫殿義時を調伏しようと祈ったが、結果は祈られたほうの北条義時の大勝利となり、祈ったほうの朝廷軍は惨敗した。そして後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の天子は佐渡等の島々へ流され、自分が島流しされるための調伏になってしまった。決局は、野干(やかん)は自分が鳴くために他の動物に殺されるようなもので、経文に「還って本人に著きなん」とあるとおり、人を亡ぼそうと邪法に祈れば、かえって我が身を亡ぼすのである。この経文どおり、比叡山三千人の僧徒は、鎌倉軍を亡ぼそうと祈ってかえって鎌倉に攻め亡ぼされ、一同に従属されてしまった。

 しかして(また、鎌倉幕府が真言師に命じて祈禱させるのは、日本を滅亡させようという祈りにひとしい。このことを、よくよく知っている人こそ、世界第一のただ一人の智人というべきである。よくよく知らなければならないことである)、今は鎌倉の世が盛んとなったため、京都の東寺、天台宗の比叡山、三井の園城寺、奈良七寺の真言師等と、ならびに自分の立ち場を忘れ果てた天台法華宗の謗法の徒が、関東へ落ち下っては、頭を下げ、ひざをかがめて、さまざまに武士に取りいっている。そして、諸寺、諸山の別当とか長吏などという官位をいただいて、朝廷を滅亡させた悪法の真言をもって国土安穏を祈っているが、将軍家ならびに家来の侍以下は、そのうちに国土は安穏になるだろうと思っているうちに、法華経を失うという大謗法の僧たちを用いる禍により、定めて国が滅亡するであろう。

 

語釈

修多羅に依れるは白論なり修多羅に依らざれば黒論なり

 竜樹菩薩の「十住毘婆沙論」第七の分別法師品第十三にある。

 

復修多羅と合せば録して之を用ゆ文無く義無きは信受すべからず

 天台大師の「法華玄義」十の上の文である。経論と合する義は用いていくが、経論に文証も義もないのは信じてはいけないこと。

 

仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ

 伝教大師の「法華秀句」下の文である。仏説経名示義勝二の末文で「誠に願わくは一乗の君子、仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ。誠文を仰信して偽会を信ずること莫れ」の文。

 

真言宗已前の木画の像は或は行き或は説法し或は御物言あり、

 法蓮抄にいわく「かかる仏なれば木像・画像にうつし奉るに優填大王の木像は歩をなし摩騰の画像は一切経を説き給ふ」(1044:10)と。すなわち、そのような大徳ある仏であればこそ、仏滅後に造られた木像、描かれた画像も、不思議な功力を具えていたのである、とのおおせである。また遠州鵜田寺の薬師像は、水底に声を発して「我を取れ、我を取れ」といい、そのために発掘されたと伝えられている。

 

須抜多羅天より日落るとゆめにみる

 須抜多羅は梵名スバッダ(スバドラとも。Subhadra)の音写。須跋陀羅、須抜陀とも書く。仏の入滅のときに教化をうけた最後の弟子。大智度論第三にいわく「ある夜、いっさいの人がみな目を失い、裸形で闇の中に立ち、日はおちて大地は破れ、大海は乾いて大風が須弥山を吹き散らした夢を見た。翌朝、仏が今夜半に涅槃するということを聞き、仏に会って出家しその夜のうちに羅漢となった」という。

 

摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給う……わらわなをば日種という

 摩耶は梵名マーヤー(māyā)の音写。迦毘羅衛国(カピラヴァストゥ)の浄飯王(シュッドーダナ)の妃。釈尊の生母で、釈尊生誕七日後に亡くなり、かわりに妹の摩訶波闍波提(マハープラジャーパティー)が釈尊を養育したと伝えられる。摩耶夫人は六牙の白象が右脇に入る夢をみて釈尊を懐妊し、出産のため実家に帰る途中、ルンビニー園(ネパールのタライ地方、カピラ城の林)でサーラ樹(娑羅双樹)に右腕を伸ばして枝をつかんだとき、右脇から釈尊が誕生したという。古代インドの諸王家の祖神をさかのぼると、ほとんどが太陽神あるいは月神のいずれかに行き着き、前者を日種、後者を月種という。釈迦族は日種と伝えられる。

 

権の大夫殿

 北条義時のこと。建保5年(1217)、右京権大夫になったところからこの呼称となる。

 

野干のなきの身にをうなる

 野干は梵語シュリガーラ(śgāla)の音写。射干・悉伽羅等とも書く。狐に似た獣、ジャッカルのこと。翻訳名義集巻二に「悉伽羅。此に野干という。狐に似て而も小型なり。色は青黄にして狗の如し。群行して夜狼の如く鳴く」とある。アジア南部からヨーロッパ南東部、アフリカに分布し、中国、日本には棲息しない。日本では狐の異名として使われた。ここでは、野干は夜鳴くために、かえって他の獣に知られて食われてしまうことを、真言の邪法で祈ればかえって自ら禍を招くことにたとえたもの。

 

還著於本人

 法華経観世音菩薩普門品第二十五の文。「還って本人に著きなん」と読み下す。法華経の行者に呪いや毒薬で危害を加えようとする者は、かえって自らの身にその害を受けることになるとの意。日蓮大聖人は、承久の乱の時に、上皇方が真言の祈禱を用いて敗れたことを還著於本人の道理によるものだとされている。またこの例に倣い、蒙古の襲来に際し、朝廷と幕府が真言師を用いて調伏の祈禱を行っていることに対しても、還著於本人として亡国の結果を招くことになると警告されている。

 

講義

この章では、問答解釈して、慈覚を破している。

 宗教の勝劣は夢によって決定されるのではない。その決定の規準は、経文により、道理により、現証によってのみ決定されるのである。ゆえに釈尊一代の経典の上からみても、一念三千の道理のうえからみても、功徳と罰という現証の上からみても、法華経が最も第一に勝れ、真言などは七重の劣となるのであるが、これはすでに詳しく説かれてきたところである。

 

夢とわれわれの生活との関係

 

 夢には実体がないから、迷いを夢に譬え、悟りを寤に譬える。当体義抄にいわく「人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり」(0510:10)と。これによってみれば、夢を捨てて寤を基にしなければならない。しかしさらにその根本を論ずれば、夢も寤もその体は一であり、無明と法性も体一となる。

 三世諸仏総勘文教相廃立にいわく「夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う……九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり」(0566:11)と。

 法華経の安楽行品第十四には、御本尊を受持し、信心修行に励む者の功徳を「若しは夢の中に於いても 但だ妙なる事を見ん」と説いている。すなわち、夢で十信に入り、十住、十行、十回向、十地と修行が進み、ついには夢に妙覚の位に入ると。これは実際に功徳を受け、日常生活が功徳に満ち溢れ、そのような幸福の夢をみるようになるであろう。反対に謗法を犯すと不幸になり、不幸になれば不幸の夢ばかり見るのである。開目抄に「いたうの大悪人ならざる者が正法を誹謗すれば即時に夢みて・ひるがへる心生ず」(0231:11)と。これは涅槃経に説かれている原理で、折伏を受けた時に、反対して正法を誹謗すると、その人が過去世に謗法の罪がなければ、すぐに夢に羅刹を見、羅刹から信仰しなければ命を断づぞとおどされ、恐ろしくなって、夢がさめてすぐに入信するというのである。

 さて慈覚の夢のごときは、太陽を弓で射落とすというような、凶夢中の大凶夢である。こんなことで真言宗の正しい証拠になるなどとというのは、よほど悪人か狂人でなければ、いえないことであろう。

 

木画の像の開眼の事

 

 木像や画像が生身の仏として、一切衆生を即身成仏せしめる御本尊と顕れることは、次の御書にお示しのとおりで、真言などには関係のないことである。四条金吾釈迦仏供養事に「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1145:01)と。この御文に「法華経」とおおせられるのは、寿量品文底の御本尊である。観心本尊抄にいわく「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246:08)とおおせられ、開目抄上には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189:02)と。このように、日蓮大聖人の仏法においてのみ、草木成仏も、木画二像の成仏もあるのである。

 しからば木画の像が「或は行き或は説法し或は御物言あり」というようなことがあるかという問題がおきる。そもそも御本尊の功徳は、凡夫を一人のこらず即身成仏させるという大功徳なのである。仏像が歩いたり、説法を始めたりしても、肝心の悩める衆生に功徳が顕われなければ、なんにもならないではないか。

 観心本尊抄に、妙楽の釈を引いていわく「一身一念法界に遍し」(0247:08)と。事行の一念三千の御本尊により、われら凡夫といえども即身成仏の大益をえて、一身一念が全宇宙に遍満するのである。

 ゆえに死んだ祖先をも成仏させることができるのである。三大秘法の御本尊の真の法力仏力によれば、全人類の永遠の平和と幸福を築くことができるのである。

 

これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人

 

 開目抄にいわく「無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始の三類を見るべからず一分の仏眼を得るもの此れをしるべし」(0229:06二二九㌻)と。また慈覚大師事にいわく「三千年に一度花開くなる優曇花は転輪聖王此れを見る。究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらさ(不知)んなり、一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候」(1019:10)と。深く、これらの御文の意を案ずるならば、三類の敵人を知り、これを出でし、しかもこれを粉砕なされた「一閻浮提一人の智人」とは、末法の御本仏の異名というべきである。ゆえに、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であられること、御文によって明々白々ではないか。

 

 

第二十九章(閻浮第一の智人)

 本文

問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり、問うて云く日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか、問うて云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、あらあさましやあらあさましや、答えて云く蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、日蓮は凡夫なり、此の事をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを辛有といゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者勘えていはく十二年の内に大王事に値せ給うべし、今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。

 

現代語訳

問うていわく、正嘉元年八月の正嘉の大地震と、文永元年(12646月・7月の文永の大彗星とは、なぜ起きたのか。答えていわく、天台は「智人は将来の起こるべきことを知り、蛇はみずから蛇のことを知っている」と。

 問うていわく、それは何を意味するのか。答えていわく、法華経従地涌出品第十五の時に、上行菩薩が大地より出現なされたのを見て、弥勒菩薩、文殊師利菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩等の四十一品の無明を断じた菩薩たちは元品の無明をまだ断じていなかったので、愚人といわれ、寿量品の南無妙法蓮華経を末法に流布せしめるために、上行菩薩がここへ出現したことを知らなかったという。

 問うていわく、日本、中国、インドの中にこのことを知っている人があるか。答えていわく、見惑・思惑を断じ尽くし、四十一品の無明を立ち切った大菩薩さえも、このことを知らないといった。いかにいわんや、少しの惑をも断じていないわれら凡夫が、このことを知りえようか。

 問うていわく、智人がいなければ、どうしてこのような大災難を対治することができようか。たとえば、病の起きる原因を知らない人がその病をなおそうとしても、必ず病人は死んでしまう。この大災難の根源を知らない人々が祈りをなしたならば、国はまさに亡びるであろうことは疑いない。まことに、あさましい限りである。

 答えていわく、蛇は七日の内の大雨を知り、烏はその年の吉凶を知るという。なぜそれはできるかといえば、蛇は大竜の家来であり、烏は久しい間にわたって世間に起きるべきことを学んできた結果によるのであろう。日蓮は凡夫であるから、そのことを知る由もないが、汝等に、ほぼこのことを教えさとそう。

 彼の周の平王の時に、頭を禿にして裸になっている者を見て、辛有という人が占っていうには「百年の内に世が亡びるであろう」と。同じく周の幽王の時に、山や川が崩れ大地震があった。白陽というものが考えていうには「十二年の内に大王は大事件に遭うであろう」と。これらの例は、みなそのとおりになった。さて今の大地震と、大彗星は、国王が日蓮をにくみ、亡国の邪法たる禅宗と念仏者と真言宗の徒の味方となるので、天が怒り起こさせたところの災難である。

 

語釈

正嘉の大地しん文永の大彗星

 正嘉の大地震と文永の大彗星のこと。呵責謗法滅罪抄に「正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震と、文永元年太歳甲子七月四日の大彗星」(1129:05)とある。まず正嘉の大地震とは、正嘉元年八月二十三日の午後九時ごろ、鎌倉地方一帯を襲った大地震。吾妻鏡巻四十三にはその時の模様が次のように記されている。「二十三日、乙巳、晴。戌刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩す。人屋顚倒す。築地皆悉く破損す。所々地裂け水涌き出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず。色青し云々」。また文永の大彗星とは「文永の長星」ともいわれる。文永元年六月二十六日に東北の上空に彗星が出現し、七月四日に再び現れ、八月に入っても光は衰えなかった。このため、彗星を攘う祈禱が連日のように行われたという。安国論御勘由来には「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。

 

智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る

 妙楽大師の法華文句記巻九中に「然るに智人は起を知り、蛇名自ら蛇を識る、豈輔処の人其の真応亦二身を具すること有るをを識らざらんや」とある。これは法華経従地涌出品第十五で地涌の菩薩が大地から忽然と現れたのに対して、補処の弥勒菩薩がその因縁を説きたまえと述べたところを釈した文である。智者は物事の起こる由来を予知し、蛇は蛇だけの知る世界を知っているという文意である。

 

四十一品の無明

 菩薩は見思惑・塵沙惑、さらに四十二の無明惑を断じて仏の境地に至るとされる。この無明惑のうち、四十一品の無明は最後の元品の無明以外の四十一の無明のこと。

 

元品の無明

 無明とは、根本の煩悩の一つで、生命にそなわる根源的な無知。特に自らをはじめ万物が妙法の当体であることがわからない、最も根源的な無知を「元品の無明」という。「治病大小権実違目」には「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:08)と述べられ、元品の無明が現れて正法を妨げる障魔の働きとなることを示されている。

 

蛇は七日が内の大雨をしり

 蛇は水辺湿地に多く生息することから、古くから水の神の姿、またはその使者とみなされた。曾谷入道殿御返事にも「蛇と申す虫は竜象に及ばずとも七日の間の洪水を知るぞかし」(1058:13)と述べられている。

 

烏は年中の吉凶をしる

 烏は全身黒色の羽毛や不気味で大きな鳴声、鋭い眼光などの特徴が神秘的な印象を与えるため、古くから神意を伝える霊鳥と考えられ、年中の吉凶を伝えるとされた。曾谷入道殿御返事にも「烏と申す鳥は無下のげす鳥なれども鷲鵰の知らざる年中の吉凶を知れり」(1058:12)と述べられている。

 

周の平王

 生没年不詳。中国・周の第十三代の王。父の幽王が異民族・犬戎の侵入によって殺されたため、即位して都を鎬京から東の洛邑(後の洛陽)に遷した。

 

禿

 ①禿頭。②髪を短く切り、後髪も結わずに垂らす髪型。ここでは②で、髪をふり乱した野蛮人の姿をいったもの。

 

幽王の時山川くづれ……

 幽王は中国・周の第十二代の王。在位十一年で異民族の侵入を受けて殺された。「山川くづれ」等は、史記に出ている。「幽王の二年・西周の山川皆震う。伯陽甫が曰く『周将に亡びんとす』云云」と。

 

講義

これより日蓮大聖人が閻浮第一の智人なることを明かされている。「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0947:01)とて、三世にわたる因果の上から、災難の起こる原因を知り、さらにまた災難対冶の方法を知る人が大切なのである。

「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」について、日寛上人は、文段に次のように述べられている。一義にいわく、但仏の智人のみ本化の智人の出現を知る。迹化の愚人は本化の智人の出現を知らないのである。一義にいわく、但仏の智人のみ自ら仏の智を知る。蛇は自ら蛇足を知るが如し。仏の智は近きをもって遠きを推し、現を以て当を知る。譬えば雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛んなることを見て池の深きことを知る。今またこのとおりであって、本化出現の大瑞を見て、寿量品の妙法が末法に流布することを知る。これすなわち仏の智である。仏の智人のみ自ら此の智を知り、迹化の愚人は知らないのである……と。聖人知三世事にいわく「予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵逼之を以て我が智を信ず敢て他人の為に非ず」(0974:08)と。このように智人とは仏の意である。

 

 

第三十章(智人たるの証文)

 本文

問うて云くなにをもつてか此れを信ぜん、答えて云く最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、此の経文のごときんば此国に悪人のあるを王臣此れを帰依すという事疑いなし、又此の国に智人あり国主此れをにくみてあだすという事も又疑いなし、又云く「三十三天の衆咸忿怒の心を生じ変怪流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来りて国人喪乱に遭わん」等云云、すでに此の国に天変あり地夭あり他国より此れをせむ三十三天の御いかり有こと又疑いなきか、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く其王別ずして信じて此語を聴く」等云云、又云く「日月度を失い時節反逆し或は赤日出で或は黒日出で二三四五の日出で或は日蝕して光無く或は日輪一重二重四五重輪現ず」等云云、文の心は悪比丘等・国に充満して国王・太子・王子等をたぼらかして破仏法・破国の因縁をとかば其の国の王等此の人にたぼらかされてをぼすやう、此の法こそ持仏法の因縁・持国の因縁とをもひ此の言ををさめてをこなうならば日月に変あり大風と大雨と大火等出来し次には内賊と申して親類より大兵乱おこり我がかたうどしぬべき者をば皆打ち失いて後には他国にせめられて或は自殺し或はいけどりにせられて或は降人となるべし是れ偏に仏法をほろぼし国をほろぼす故なり、守護経に云く「彼の釈迦牟尼如来所有の教法は一切の天魔外道悪人五通の神仙皆乃至少分をも破壊せず而るに此の名相の諸の悪沙門皆悉く毀滅して余り有ること無からしむ須弥山を仮使三千界の中の草木を尽して薪と為し長時に焚焼すとも一毫も損ずること無し若し劫火起りて火内従り生じ須臾も焼滅せんには灰燼をも余す無きが如し」等云云、蓮華面経に云く「仏阿難に告わく譬えば師子の命終せんに若しは空若しは地若しは水若しは陸所有の衆生敢て師子の身の宍を食わず唯師子自ら諸の虫を生じて自ら師子の宍を食うが如し阿難我が之の仏法は余の能く壊るに非ず是れ我法の中の諸の悪比丘我が三大阿僧祇劫積行勤苦し集むる所の仏法を破らん」等云云、経文の心は過去の迦葉仏釈迦如来の末法の事を訖哩枳王にかたらせ給い釈迦如来の仏法をばいかなるものがうしなうべき、大族王の五天の堂舎を焼き払い十六大国の僧尼を殺せし漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとくなる悪人等は釈迦の仏法をば失うべからず、三衣を身にまとひ一鉢を頸にかけ八万法蔵を胸にうかべ十二部経を口にずうせん僧侶が彼の仏法を失うべし、譬へば須弥山は金の山なり三千大千世界の草木をもつて四天六欲に充満してつみこめて一年二年百千万億年が間やくとも一分も損ずべからず、而るを劫火をこらん時須弥の根より豆計りの火いでて須弥山をやくのみならず三千大千世界をやき失うべし、若し仏記のごとくならば十宗・八宗・内典の僧等が仏教の須弥山をば焼き払うべきにや、小乗の倶舎・成実・律僧等が大乗をそねむ胸の瞋恚は炎なり真言の善無畏・禅宗の三階等・浄土宗の善導等は仏教の師子の肉より出来せる蝗虫の比丘なり、伝教大師は三論・法相・華厳等の日本の碩徳等を六虫とかかせ給へり、日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。
  此等の大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば天神もをしみ地祇もいからせ給いて災夭も大に起るなり、されば心うべし一閻浮提第一の大事を申すゆへに最第一の瑞相此れをこれり、あわれなるかなや・なげかしきかなや日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ、悦しきかなや・楽かなや不肖の身として今度心田に仏種をうえたる、

 

現代語訳

問うていわく、(天変地夭の起こるのは、国王が邪宗の味方となり、正法の行者たる日蓮を迫害するゆえであるというが)何をもってこれを信ずることができようか。

 答えていわく、最勝王経には「悪人を愛敬し、善人を罰すると、星宿や風雨が順調にならなくなる」と。この経文によると、この日本の国に悪人がおり、王臣がその悪人に帰依していること疑いない。またこの国に智人があって、国主がこれを憎み迫害を加えていることも、疑いのない事実である。天変地夭が盛んだからである。また同じく最勝王経には「三十三天の天の衆が、みな怒っているから、怪しい流星がおちたり、二つの太陽が同時に出たり、他国の怨賊が攻め来たって国中の人が戦乱の巷にさまようであろう」とある。すでに日本の国には、天変もあり地夭もある。他国より蒙古が攻め来たっている。三十三天の怒っていることも、疑いのない事実である。

 仁王経には「もろもろの悪比丘が、多く名誉や利益を求め、国王、太子、王子の前においてみずから仏法を破失する因縁や、国を破る因縁を説く。その王がこれをわきまえないで、悪比丘を信じ、その語を聞いている」と。またいわく「日月が度を失って不規則になり、時節が逆になったり、あるいは赤い日、黒い日、あるいは二三四五の日が出たりする。あるいは日が蝕して光がなく、あるいは太陽が二重になったり、四五重輪になったりする」と。

 これら経文の心は、悪比丘等が国に充満して、国王、太子、王子等をたぼらかして破仏法。破国の因縁を説くと、その国の王はこの悪人にたぼらかされて思うのには、この法こそ持仏法の因縁であり、持国の因縁であろうと。そうしてこの悪人のことばを用いて行なうならば、日月に変があり、大風と大雨と大火等が起こり、次には内賊といって親しい中から内乱がおこり、自分の味方や兄弟などをみな打ち殺してしまい、のちには他国に攻められて、あるいは自殺し、あるいは生け捕りにされ、あるいは降人として敵にとらわれるであろう。これひとえに、仏法を亡ぼし国を滅ぼすゆえである。

 守護経にいわく「彼の釈迦牟尼如来のたもつところの教法は、一切の天魔、外道、悪人、五神通をえた神仙等のごとき、仏法外の敵はこれを少しも破壊することはできない。しかるに、名ばかり出家したという僧の姿をした悪人が、ことごとく仏法を破り滅してなにも残らなくするであろう。須弥山を、たとえ三千世界の中の草木をぜんぶあつめて薪して長く焼いたところで、須弥山は焼けも崩れもしない。しかし、もし劫火がおき、地球の破滅する時がきたならば、内より生じた火によって、たちまち焼滅するであろうし、その灰さえ残らないであろう」と。

 蓮華面経にいわく「仏が阿難に告げていうには、たとえば師子が死んだ時に、もしは空、もしは地、もしは水、もしは陸地にすんでいる、いかなる動物もあえて師子の肉を食べようとしない。ただ師子がみずから死体の中にもろもろの虫を発生して、この虫が師子を食うのである。阿難よ。仏法もまたこのとおりであって、外部から破ることはできないが、仏法中の悪比丘が、仏が三大阿僧祇劫にもわたって行を積み、勤苦して集めたところの仏法を破るであろう」と。

 この経文の心を、まず守護経の意からのべるならば、過去の迦葉仏は現在の釈迦如来の末法のことを訖哩枳王に説かれたところによれば、釈迦如来の仏法をいかなる者が滅すかといえば、それは外部の敵ではない。大族王は全インドの寺院を焼き払い、十六大国の僧尼を殺したり、漢土の武宗皇帝は九国の寺塔四千六百余所を消滅させ、僧尼二十六万五百人を還俗させた。しかし、このような悪人は、釈尊の仏法を滅失することはできない。三衣を身にまとい、一鉢を頚にかけ、八万法蔵を胸にうかべ、十二部経を口に誦す僧侶たちが、仏法を破り仏法を失うであろう。

 たとえば須弥山は金の山である。三千大千世界の草木をもって、欲界の四天王より第六の他化自在天まで、充満して積みこめて、一年二年、百千万億年のあいだ焼いても、一分も焼け損ずることはないのである。しかるに、世界が滅亡する壊劫がきて劫火がおきる時には、須弥山の山の根から豆つぶばかりの火が出て、須弥山を焼きつくすのみならず、三千大千世界をも焼き失うであろう。

 もし仏の予言のごとくならば、日本国内において、十宗、八宗といわれる仏教の僧たちが、仏教の須弥山をば焼き払うのであろう。小乗宗たる倶舎・成実・律の僧たちが大乗を嫉む胸の怒りは炎である。真言の善無畏、禅宗の三階等、浄土宗の善導等は、仏教の師子の肉から発生した蝗虫というべき坊主である。伝教大師は顕戒論で、三論、法相、華厳等の日本の高僧・大学者等を六匹の虫と書かれたのである。日蓮は真言、禅宗、浄土宗の元祖を三匹の虫と名づける。また天台宗の慈覚、安然、慧心は天台宗でありながら邪宗に転落したので、法華経、伝教大師の師子の身の中の三虫である。

 これらの大謗法の根源を糺明するところの日蓮に、迫害を加え怨嫉をいだくので、天神も光をおしみ、地の神も怒って、災夭も大いに起こるのである。されば心得なさい。一閻浮提第一の大事を申すゆえに、最第一の瑞相がおきたのである。あわれなるかな、なげかしきかな。日本国の人はみな無間大城におちるのである。悦ばしいかな、楽しいかな、不肖の身として、このたび心田に仏種を植えたことよ。

 

語釈

最勝王経

 金光明最勝王経の略。十巻。中国・唐代の義浄訳。この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ一切の諸天善神の加護を受けると説かれている。逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨てるため、三災七難が起こると説かれている。

 

仁王経

 後秦代の鳩摩羅什訳の仁王般若波羅蜜経二巻と、唐代の不空訳の仁王護国般若波羅蜜多経二巻とがある。サンスクリット原典もチベット語訳も現存しておらず、中国撰述の経典とする見解がある。内容は正法が滅して思想が乱れる時、悪業のために受ける七難を示し、この災難を逃れるためには般若を受持すべきであるとして菩薩の行法を説く。法華経・金光明経とともに護国三部経とされる。

 

日月度を失い時節反逆し……

 仁王経に説かれる七難の第一である日月難のうち、また①日月度を失い時節反逆し(日月失度難)、②或は赤日出()で或いは黒日出で(顔色改変難)、③二三四五の日出で(日体増多難)、④或は日蝕して光無く(日月薄蝕難)、⑤或は日輪一重二重三四五重輪現ず(重輪難)の五難がある。

 

守護経

 守護国界主陀羅尼経のこと。十巻。中国・唐代の般若三蔵と牟尼室利三蔵の共訳。密教部の経典。仏滅後に、提婆達多のような僧が国中に充満し、正法の僧を流罪、死罪に行うことが説かれ、陀羅尼の力によって国主を守護することがすべての人々を守護することになると説く。日本では弘法が鎮護国家の法として真言宗に取り入れて講説した。

 

須弥山は金の山

 大智度論巻三十五に「五色は須弥山に近づけば、自ら其の色を失して、皆な同じく金色なるが如し」とある。

 

蓮華面経

 中国・隋の那連提耶舎訳。二巻。未来世の仏法の様相を予言した経。最初に僧俗の堕落を説き、次に仏法が罽賓国(カシュミール)に伝えられて興隆することを述べ、さらに蓮華面という名の富蘭那外道の弟子が未来に国王として生まれ仏鉢(仏が食物を受けるための鉢)を破壊し、仏法が世界から消滅すると説いている。

                                     

訖哩枳王

 梵名クリキーの音写。訖利季とも書く。守護国界主陀羅尼経巻第十の阿闍世王受記品第十に説かれる。訖哩枳王は太古二万年前のインドの王で、迦葉仏の父。ある夜、王は二つの夢を見た。その一つは十匹の猿がいて、そのうちの九匹は城中の一切の人民、男女を擾乱して、飲食を侵奪し、器物を破壊した。ところが一匹だけ心に知足を懐いて、樹上に安座して人を乱すことはしなかった。他の九匹は、この一匹をいじめて、仲間から追い払った。もう一つの夢は、一匹の白象があり、首と尾に口があり、水草をみな食べ、つねに飲食しながら、しかもその身はつねに痩せていた。この二つの夢について、訖哩枳王が迦葉仏に質問したところ、迦葉仏は、この夢は五濁悪世に仏が出現し、その仏の滅後の遺法の相を示すものだと答えた。その仏は釈迦牟尼仏と称し、十匹の猿は、釈迦牟尼仏の十種の弟子であり、その中の一匹が少欲知足で独り樹上にいて、人を擾さないのは、釈迦如来遺法中の沙門であると教えた。また第二の白象の夢については、王の家臣が寵愛と栄禄をむさぼり、非理の追及を行なって、ついに家をほろぼし、身を破り、今度は仏法に出家すると、悪比丘となって邪見を起こして外道になることを示すものだと説いたという。

 

大族王

 梵名ミヒラクラ(Mihirakula)の訳。古代北インド結迦国(磔迦国)(Ceka)の王。大唐西域記巻四によると、摩醯邏矩羅という王がいて、才智があり勇烈であって諸国を臣伏させていた。ある時、政務の合間に仏法を習おうと思い、僧の中から一人の俊徳の僧を推すように命じた。だが、多くの僧はその命に応じなかった。王家の召使いで衣を着てからしばらくたつ僧がいた。弁論もさわやかで敏であったので、人々は彼を推挙した。王はこれを見て、仏法を敬い遠く名僧をたずね求めているのに、人はこの奴隷を推してきた。この者が僧の中で賢明にして肩を比べる者がいないというなら、どうして仏法を敬うことができようか、といって、インドに仏法を継ぐことをやめさせ、仏法を破壊するよう命じた。あるとき、摩竭陀国を攻めたが仏教徒の幻日王に捕らえられた。幻日王の母の助命により命を救われ、流浪の末、加涇弥羅国(カシミール)に身を投じた。国王の厚いもてなしを受けたが、後に国王を殺害、国を奪って自ら王となり、さらに健駄羅国(ガンダーラ)を攻めて王ならびに親族を殺し、伽藍およそ一千六百箇所を破壊し、多くの人々を虐殺して帰国したが、その年を越すことなく死去した。

 

武宗皇帝

 (08140846)。中国・唐の第十五代皇帝。道教に傾倒し仏教を斥け、道士趙帰真等を用いて、会昌5年(0845)に天下の仏寺を破り僧尼を還俗させた。会昌の廃仏といい、三武一宗の法難の一つにあたる。理由は、寺塔の建立と僧尼の免税が国家財政を疲弊させたことや仏教教団内部の腐敗堕落などとされる。当時、留学中だった円仁(慈覚)も還俗を命じられている。その翌年、武帝は、道教で不老不死の薬とされた丹薬の中毒のために死んだ。宣宗が即位すると復仏の詔が出され、趙帰真は捕縛されて斬殺された。

 

講義

さきに大地震と大彗星のいわれを問われたのに対し、その瑞相は禅、念仏、真言という亡国の悪法を重んじ、三大秘法をお建てになる日蓮大聖人を迫害するゆえ、天が怒りて起きるところの大難であると答えたが、この章ではその証文を問うのである。

 その答えとして、最勝王経、仁王経、守護経、蓮華面経を引く。これらはともに、禅、念仏、真言が亡国の悪法である証文である。

ゆえに御書には、諌暁八幡抄、御義口伝、秋元御書等々各所に、真言は亡国、禅は天魔、念仏は無間地獄とおおせられているが、日寛上人はそれは一往であって、再往はこれらの三宗が亡国、三宗が天魔、三宗が無間であるとなされている。無間地獄へはおちるが、天魔でもない亡国でもないということはありえない。地獄へおとす悪法は、天魔でもあり亡国でもあるのである。

 

師子の身の中の虫

 

「師子身中の虫」とは、一般によく使われることわざである。蓮華面経の文によると、死んだ獅子でさえ、ほかの動物がよりつかないほど、獅子は力もあり権威もあると考えられる。しかし、いかに獅子に力があっても、その身中に発生する小虫によって、食いつくされてしまうというのである。ゆえに力もない、権威もない存在ならば、身中の虫を待つまでもなく外敵に滅ぼされ、押し潰されてしまうのである。いまの創価学会はもじどおり宗教界の王者である。いかなる邪宗の教団にも、創価学会と戦うだけの力があろうはずがない。ゆえに、もし創価学会を害する力があるとすれば、それは師子身中の虫以外に、なにものもないであろう。

 本抄にお示しのように、伝教大師は奈良の六宗を、六匹の虫とされた。日蓮大聖人は真言、禅、浄土の元祖を三虫とし、また天台宗の慈覚、安然、慧心を三虫とされた。これらはみな仏教の中で仏教を破り、天台宗の中から法華経を破ったものである。また日興遺誡置文にいわく「偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事」(1617:08)と。日蓮大聖人の滅後において、このような師子身中の虫が数多く発生し、その一つの流れが現在の身延山であり、さらに最近になってさえ偽日蓮宗が発生するが、これみな害虫であることに変わりはないのである。

 最近でも、ある日蓮宗身延派の学者のごときは「四箇格言が、そのまま今日も生きていると思うものがあるとすれば、ナンセンスである」というような、日蓮大聖人の邪宗破折の大獅子吼を軽しめる暴言を吐くものまであらわれている。そのほか、日蓮門下と称しながら、「現代は折伏にあらずして摂受である」とかいったりするものも多い。また、もっとも甚だしいのは、師敵対の五老僧いらいの本尊雑乱であろう。このような邪宗日蓮宗の徒こそ、師子身中の虫というべきである。

 

 

第三十二章(聖人たるを広く釈す)

 本文

外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり一には去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文 永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき、此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり、経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う、智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれなり、衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。

 

現代語訳

外典にいわく「将来に起きるべきことを知るのを聖人という」と。内典に云く「過去、現在、未来の三世を知るを聖人という」と。
 日蓮には三度の大功績がある。一には、去る文応元年七月十六日に「立正安国論」を最明寺入道時頼にたてまつって、その時の仲介をした宿谷の入道に「禅宗と念仏宗は捨てなさいと、執権時頼に忠告をしなさい。この日蓮の意見を用いないならば、北条の一門から内乱がおき、ついには他国から攻められるであろう」といった。
 二には、去る文永八年九月十二日の夕刻、平左衛門尉に向かって「日蓮は日本国の棟梁である。日蓮を失うということは日本国の柱を倒すことになる。ただいまに自界反逆難とて、一族の同士打ちが始まり、他国侵逼難といって、この国の人人が他国から攻められ、打ち殺されるのみならず、多くいけどりにされるであろう。建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏、長楽寺などの一切の念仏者や、禅僧などの寺院を焼き払って、彼らの首を由比の浜で斬って、謗法の根を断たなければ、日本の国はほろびるであろう」といった。
 三には、去年の文永十一年四月八日に、平左衛門尉に語っていうのには「鎌倉幕府の代に生まれあわせた以上は、身は幕府の命に随えられているようであるが、心まで随っているではない。念仏は無間地獄、禅は天魔の所為であることは疑いない。ことに真言宗がこの日本国の大なる禍いである。大蒙古との戦いに、調伏を真言師に仰せつけたなら、いよいよ急いでこの国が亡びるであろう」と申したら、頼綱は「いつごろ寄せてくるであろうか」と聞いた。予がいわく「経文には何時とは書いてないが、天の怒りが少なくないように思う。襲来の時が迫っていて、恐らく今年を越すことはあるまい」と答えた。
 この三つの大事は、日蓮が勝手に申したのではない。ただひとえに釈迦如来の御精神が、わが心となってこのような行動をとったのであろう。わが身ながらも喜びが身にあまる思いである。法華経の一念三千と申す大事の法門がこれである。法華経方便品の「いわゆる諸法の是の如き相」等というのはいかなる意味か。十如是の始めの「相是くの如し」というのが第一の大事であるから、仏は世に出現するのである。「智人は将来の起こるべきことを知る」といい、「蛇は自から蛇を知る」というが、現在の姿や現象の中から、その本質や将来のことまで察知するのが智人である。多くの流れが集まって大海となる。わずかの塵もつもって須弥山となる。日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本の国にとっては一つの渧、一つの微塵のようなものである。その結果、二人、三人、十人、百千万億人と南無妙法蓮華経と唱え伝えていくならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃という悟りの大海ともなるであろう。仏になる道はこれよりほかに求むべきではないのである。

 

語釈

未萠
 未来の出来事。萠は萌の俗字で、きざす・おこる・あらわれるの意。未萠は未だ起こらないこと。

最明寺殿
 (12271263)。北条時頼のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子、母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。日蓮大聖人は、文応元年(1260716日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261512日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」(1190:09)とあるように、時頼の意図であったことがわかる。

宿谷の入道
 宿屋入道のこと。生没年不明。鎌倉時代の武士。北条氏得宗家被官である御内人。日蓮大聖人の立正安国論を時頼に取り次いだ人。宿屋左衛門入道・宿屋光則・宿屋禅門とも呼ばれる。光則は諱。法名は最信。吾妻鏡巻五十一には弘長3年(126311月、時頼の臨終に際して最後の看病のため出入りを許された七人の中に挙げられている。もと極楽寺良観に帰依し律と念仏を信仰していたが、後に大聖人の教えを信ずるようになったと伝えられる。

平左衛門尉
 (~1293)。平頼綱のこと。平盛時の子。執権北条時宗・貞時の二代に仕え、北条得宗家の家司(執事)、侍所の所司(次官)として軍事・警察・政務を統轄し、鎌倉幕府の実力者として権勢をふるった。極楽寺良寛など諸宗の僧と結びつき、文永8年(1271912日には、軍勢をつれて松葉ヶ谷の草庵を襲い、竜の口で大聖人の頸を斬ろうとしたが果たせず、佐渡に流罪した。文永11年(127448日、佐渡から帰られた大聖人と対面し、蒙古の来襲の時期を尋ねている。弘安2年(1279)には捕えられて鎌倉へ連行されてきた熱原の農民信徒に拷問を加え、三人を斬殺、他を追放処分にしている。弘安7年(1284)貞時が執権となった時、内管領となり、翌年、評定衆の秋田城介の安達泰盛を滅ぼし(霜月騒動)、権力を独占したが、永仁元年(12934月、長男・宗綱の訴えにより、貞時によって次男の資宗と共に滅ぼされ、宗綱も佐渡流罪となった。

建長寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、宋僧・蘭渓道隆を開山として同5年(1253)に完成した。仏殿は丈六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。道隆の死後、宋僧・無学祖元もまた来朝してここに住んだ。

寿福寺
 神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。源頼朝が没した翌年の正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。開山は栄西。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。

極楽寺
 神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺ともいう。正元元年(1257)、北条重時により現在地に移築された。文永4年(1267)、重時の子・長時が良観房忍性を招いて開山とし、西大寺律宗の東国における拠点となった。当初は七堂伽藍、四十九の支院をもち、病院なども擁する大規模な寺院であった。文永12年(1275323日に焼亡。この火災について「王舎城事」には「其の上名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ」(1137:10)と述べられている。弘安4年(1281)、北条時宗によって再建され祈願寺とされ、元弘2年(1332)には勅願寺になる。以後、地震や火災で損壊し、次第に衰退した。
 
大仏
 鎌倉にある浄土宗の寺院・高徳院にある大仏殿をさし、嘉禎4年(1238)に造営が開始された。現在、建物は失われていて、大仏が露地にある。

長楽寺
 鎌倉にあった浄土宗の寺院。開山は法然(源空)の孫弟子・智慶。日蓮大聖人の御在世当時、鎌倉における念仏勢力の一大拠点となっていた。現在は廃寺。

 

講義

この章は日蓮大聖人が、一閻浮提第一の聖人であらせられることを、広く釈するのである。聖人とは三世を知ること、また、将来の起こるべきことを知ってその対策をもっていること等、すでに述べられてきたとおりである。
 種種御振舞御書にいわくは「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909:01)と。「仏の未来記」とは本抄にくわしく論じてきたとおり、正像末の三時にわたる予言である。いま安国論はその「仏の未来記にもをとらず」とおおせられているのである。立正安国論奥書にいわく「此の書は徴有る文なり」(0033:06)と。

 

自界反逆難の予言



 北条一門には、この同士討ちが多かった。佐渡御書にいわく「宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり」(0975:13)と。今年というのは、文永九年であって、次の御書の合戦もこれと同じである。すなわち日妙聖人御書にいわく「当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217:12)と。
 宝冶の合戦とは、日蓮大聖人が20歳の宝冶元年(1247)六65日、鎌倉幕府の執権たる北条時頼によって、三浦泰村が滅ぼされたのをいう。すでに三浦の一族は北条氏と姻戚関係を結びありとて兵乱となり、安達景盛はかねて三浦の勢威を恐れていたので、これを攻め、時頼もまた三浦を討たしめたので、一族ことごとく滅亡した。兄弟抄には「わかさのかみが子となり」(1084:09)等とあるのがこれである。
 次の文永9年(1272211日、15日の合戦は、日蓮大聖人を佐渡へ流罪した翌年に、たちまちに起きた内乱である。北条時頼は長子時輔をおいて次子の時宗に家督をゆずったため、時輔は六波羅の南方にいて、時宗を誅殺しようと謀った。しかし事が発覚して、211日には鎌倉において一味を殺し、15日には早馬が京都へ着き、六波羅北方の義宗が急に南方の時輔を攻めて一族を滅亡させた。
 聖人御難事に「平等も城等も」(1190:08)と仰せであるが、この平と城の二家が、大聖人御在世中には最も強大な権力者であった。宝治の合戦で三浦を攻め滅ぼした安達景盛は、秋田城介という官位についた。代々この一族が城介の官位を世襲したので、この一族を「城等」という。安達一族もまた北条氏と重々の姻戚関係を結び、強大な勢力となり、「平等」の平左衛門と権勢を競うていた。弘安五年、安達宗景が秋田城介に任ぜられたが、宗景は狂奢の性格で、姓を源氏と改めたりした。平左衛門は執権の貞時にすすめて、叛逆の恐れありとし、弘安8年(12851117日、これを攻めて一族をことごとく誅戮した。
 次の「平家」の平左衛門は、執権の執事と、侍所の所司という権力の座におり、前記のように競争相手となる権力者を悉く覆滅して、独り強大をきわめていた。しかも、日蓮大聖人の御一生を通じて迫害弾圧を加え、第二の高名も、第三の高名も、平左衛門を諌められたのである。しかるに大聖人の教えを用いないのみか、弘安二年の熱原の法難には、20人の農民を捕えて自宅の牢に入れ、ついに3人の首を斬り、17人を追放するという弾圧を加えた。その結果は大聖人の予言のとおり、熱原法難より14年を経て、永仁元年(1293)に謀叛の罪によって、一族ことごとく誅戮された。これすなわち法華の厳罰である。

 

彼等が頸をゆひのはまにて切る



 由比が浜で念仏者や禅僧らの首を斬れとの経文の根拠は、涅槃経にある。すなわち、「仏がその昔に大王と生まれ仙予といった。その時に婆羅門が大乗を誹謗するのを聞いて、その命を断った。この因縁によって、これより後には地獄に堕ちることはないのである」と。また「有徳王の時代に覚徳比丘という正法の行者があった。その時に多くの破戒の比丘があって、覚徳比丘を責めた。有徳王は護法のために、悪比丘と戦って全身に傷を受けて戦死し、阿閦仏の国に生まれて、彼の仏の第一の弟子となった」と。
 立正安国論には「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(030:17)とある。これによれば、「釈迦以前は邪宗の徒を斬ったが、釈迦以後においては、その布施をとどめるのであって、本抄のように由比が浜で首を斬ってはならないではないか」という矛盾がある。これに対し日寛上人は、その施をとどめるとは為人悉檀に約し、首を斬れとは対冶悉檀に約するのである。本経の文に両意があるから、それぞれ一意に拠ったのであると。
 冶部房御返事にいわく「又法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候」(1426:06)と。このような御文を見て、人を殺してもよいと教えているかのように早合点するのがある。これらの御文は、「人を殺せ、父母を殺せ」といっているのではない。要は謗法を悪み、謗法を破折せよとの意である。

 

殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひ



 三度の高名のうち第一回と第二回は、ともに念仏と禅を破したのに、なぜ第三回は別して真言を破すか。それは三沢抄にいわく「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489:07)と。日寛上人は、以下、次のように述べられている。
 ここに二義があり、一には所破、二には所顕である。所破とは佐渡以前はいまだ真言を破さないからであって、その次の文に「此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489:07)と。すなわち真言を国主諌暁の時に破折しようと思って、佐渡以前においては弟子たちにもいわなかったのである。
 次に所領とは、いまだ三箇の秘法を顕されなかったからである。ゆえに次の文にいわく「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず」(1489:10)と。
 佐渡以後もっぱら真言を破すとは、三箇の秘法を顕わすからである。たとえば、法華にいたって初めて三乗を破して一仏乗を顕し、また迹を破して本を顕わすのと同じである。爾前の中には、三乗や迹門を破してはいない。佐渡以前はまたこれと同じであるゆえに「ただ仏の爾前の経」とおおせられるのである。もし通じて、これを論ずれば、爾前は未顕真実であると同じで、佐渡以前は未顕真実といえるのである。

 

日蓮大聖人滅後に兼知未萌が符合したこと



 日蓮大聖人は、三度の国主諌暁により、自界叛逆と他国侵逼を予言なされた。その予言どおりに、佐渡御流罪後、百日目の文永9年(1272211日に北条時輔を誅殺するという内乱がおき、同じく3年後、文永11年(127410月と、さらに7年後の弘安4年(12817月には、元の大軍が来襲するという大戦乱となった。
 さて日蓮大聖人の滅後においては、やはり予言が的中して今日にいたっている。まず日寛上人の文段によってその概要をみよう。下山御消息にいわく「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散に蹋たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(0363:01)と。このような乱暴の限りをつくした平左衛門頼綱は、大聖人滅後12年にして一類が皆滅亡した。そのいきさつは、すでに述べたとおりである。
 ここにおいて日寛上人は、平左衛門が首を斬られたのは、日蓮大聖人の顔を打ったゆえんである。最愛の次男が首を斬られたのは、大聖人の御首をはねんとしたゆえんである。長男が佐渡へ流されたのは、大聖人を佐渡へ流したゆえんであると。
 平左衛門が首を斬られたのは、熱原法難の三烈士を斬った罪ではないかという疑問もおきる。上野殿御返事にいわく「あつはらのものどもの・かくをしませ給へる事は・承平の将門・天喜の貞当のやうに此の国のものどもは・おもひて候ぞ、これひとへに法華経に命をすつるがゆへなり、まつたく主君にそむく人とは天・御覧あらじ」(1579:01)と。日興上人の本尊脇書にいわく「駿河国下方熱原郷の住人、神四郎、法華宗と号して平左衛門尉の為に頸を刎ねらる三人の内なり、平左衛門入道法華宗の首を切る後、14年を経て謀叛を企つる間、誅せられ其の子孫跡形無く滅亡し畢んぬ、徳治三年戊申卯月八日」と。以上のように平左衛門の滅亡は熱原法難の現罰ではないか。
 これに対し日寛上人は、現報に遠近があり、遠因は日蓮大聖人を打った罰であり、近因は熱原の殺害にあるといわれている。

 

十如是の始の相如是が第一の大事



 この御文は解しがたく、知りがたいため、古来、多くの解釈がある。いま日寛上人の文段から、その大意を取って次に示そう。
 一にはいわく「如来の出世は衆生本具の仏知見を開示悟入せしめんがためである。しかして如来は、衆生の仏知見を開くべく先ず相を照見して出世し給うゆえ相如是第一の大事という」と。二にはいわく「十如是の中において、初の如是相は別して実相の義を顕わす、三千皆実相で相は宛然、深旨灼然のゆえ、如是相が肝要であり、ゆえに第一の大事という」と。三にはいわく「事に即して真、当位即妙は法華の深旨、円宗の洪範である。ゆえに相如是第一の大事という」と。四にはいわく「わが祖は台家理具の分斉を簡び、一念三千事々互具を顕すゆえ、相如是第一の大事という」と。五にはいわく「仏の出世は善悪の因果をもって、未来作仏の記を授くる事併ながら諸法相の隠顕を能く明らかに照見したもう上の事なるゆえ、相如是第一の大事という」と。
 しかして日寛上人いわく、相とは、これ前相であり、瑞相である。ゆえに一切に通ずといえども、別して今いうところの相如是とは、正しく本化の涌出を指して、相如是と名づけ、また出世の大事と名づけるのである。これすなわち本化の涌出は、寿量の妙法、末法流布の瑞相のゆえである。ゆえに「智人は知を知る」等の文を引いて、この義を証するのである。
 呵責謗法滅罪抄にいわく「法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞なり、涌出品は又此れには似るべくもなき大瑞なり」(1129:01)と。ここに大瑞とは相如是のことである。涌出品にいわく「無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」、「弥勒乃至斯の事を問いたてまつり」という「斯の事」が、第一の大事である。
 日蓮大聖人はなぜ「第一の大事」とおおせられたか。それは第一とは最極の義である。ひろく出世の大事を論ずるに三意がある。一には迹門の顕実を大事となす。二には本門の寿量の顕本を出世の大事となす。三には文底の秘法を出世の大事となす。三大秘法抄にいわく「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)と。
 問う、「智人は知を知る」とは、いかなる意味か、答う、この文に面裏がある。文の裏の意は迹化が知らざるをいう。文の面の意は、ただ仏のみ能く知るをいう。上行菩薩等の大地より出現したもうを、仏は元品の無明を断つゆえに智人といわれ、寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布するゆえ、この菩薩が出現するということを仏が知っているのである。

 

 

第三十三章(日本第一の大人)

 本文

問うて云く第二の文永八年九月十二日の御勘気の時はいかにとして我をそんぜば自他のいくさをこるべしとはしり給うや、答う大集経五十に云く「若し復諸の刹利国王諸の非法を作し世尊の声聞の弟子を悩乱し若しは以て毀罵し刀杖をもて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い若しは他の給施に留難を作す者有らば我等彼をして自然に卒に他方の怨敵を起さしめ及び自界の国土にも亦兵起り飢疫飢饉非時の風雨闘諍言訟譏謗せしめ、又其の王をして久しからずして復当に己れが国を亡失せしむべし」等云云、夫れ諸経に諸文多しといえども此の経文は身にあたり時にのぞんで殊に尊くをぼうるゆへにこれをせんじいだす、此の経文に我等とは梵王と帝釈と第六天の魔王と日月と四天等の三界の一切の天竜等なり、此等の上主・仏前に詣して誓つて云く仏の滅後・正法・像法・末代の中に正法を行ぜん者を邪法の比丘等が国主にうつたへば王に近きもの王に心よせなる者・我がたつとしとをもう者のいうことなれば理不尽に是非を糾さず・彼の智人をさんざんとはぢにをよばせなんどせば、其の故ともなく其の国ににわかに大兵乱・出現し後には他国にせめらるべし其の国主もうせ其の国もほろびなんずととかれて候、いたひとかゆきとはこれなり、予が身には今生にはさせる失なし但国をたすけんがため生国の恩をほうぜんと申せしを御用いなからんこそ本意にあらざるに、あまさへ召し出して法華経の第五の巻を懐中せるをとりいだしてさんざんとさいなみ、結句はこうぢをわたしなんどせしかば申したりしなり、日月天に処し給いながら日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば一つには日蓮が法華経の行者ならざるか忽に邪見をあらたむべし、若し日蓮・法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ若ししからずば今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る大妄語の人なり、提婆が虚誑罪・倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと声をあげて申せしかば忽に出来せる自界反逆難なり、されば国土いたくみだれば我身はいうにかひなき凡夫なれども御経を持ちまいらせ候分斉は当世には日本第一の大人なりと申すなり。

 

現代語訳

問うていわく、第二の諌暁、文永八年九月十二日の御勘気の時は、日蓮を失うと内乱がおき、他国から攻められるとは、なぜ知ることができたのか。

 答えていわく、大集経にいわく「もしまた、もろもろの刹帝利種の国王が、もろもろの非法をなし、世尊の声聞の弟子を悩乱し、または悪口をいって馬鹿にし、刀杖をもって打ち、僧侶の衣鉢や種種の資具を奪い、もしは他の布施供養するものに妨害を加える者があれば、われら(梵天・帝釈・日月等)は、自然ににわかに他国から怨敵をおこさしめ、および自国の内にもまた兵がおこり、飢疫や飢饉や、時にあらざる風雨や、種々の争いを生じて、またその王をして久しからずして、まさに己れの国を失わしめるであろう」と。

 それ、諸経に諸文が多いとはいえ、この経文は身にあたり、時に臨んで、ことに尊く思えるゆえに、この文を選び出したのである。この経文にわれらとは、梵王と帝釈と第六天の魔王と、日月と四天等の三界のいっさいの天竜等である。これらの上主たちが、仏の前で誓っていうのには、仏の滅後、正法、像法、末代の中に正法を行ずる者を、邪法の比丘等が国主に訴えれば、王に近い者や王に心をよせている側近の者たちは、自分が尊いと思って帰依していた僧たちの訴えであるから、理不尽に、是非を糾さずに、智人をさんざんに迫害する。そうすると、そのゆえともなくその国に、にわかに大兵乱が出現し、後には他国から攻められるであろう。その国主も亡び、その国も亡びるであろうと説かれている。

 痛しかゆしというのはこれであって、いま日蓮大聖人の御予言が的中すれば、大聖人は未萌を知る聖人であることは証明できるが、一方で国が亡びるという大不幸がおきることになる。日蓮が身には今生には大した失はない。ただ国をたすけんため、生まれた国の恩を報ぜんために申すことを、用いられないことこそまことに不本意である。その上さらに官憲に召し出されて、法華経の第五の巻を懐中から取り出して、さんざんになぐりつけ、結局は捕えて鎌倉の町を引き回しなどしたから、次のようにいったのである。日天も月天も、天におりながら日蓮が大難にあうのを見て、放っておくということは、一つには日蓮が法華経の行者ではないのか、もしそうなら、たちまちに邪見を改めなければならない。もし日蓮が法華経の行者であるならば、たちまち国にしるしを表わすべきである。もしそうしなければ、今の日月天は、釈迦、多宝、十方の仏をたぼらかす大妄語の人である。提婆虚誑罪・倶伽利の大妄語よりも百千万億倍も過ぎた大妄語の天となるではないか、と声を上げて叫んだ結果、たちまちに出現した自界叛逆難である。されば国土が大変に乱れ、わが身はいうにかいなき凡夫であっても、三大秘法の法華経を持つからには、当世には日本第一の大人であると申すのである。

 

語釈

刹利国王

 くわしくは刹帝利といい、インド四種姓の第二位、王侯・武士階級のクシャトリヤ(katriya)をいう。

 

いたひとかゆきとはこれなり

 かけば痛いし、かかなければ痒い。そのように、いま日蓮大聖人の御予言が的中すれば、日本国が亡びんとする。もし御予言が的中しなければ、に日蓮大聖人が法華経の行者であられ、末法の御本仏であらせられることをあらわすことができない。

 

瞿伽利

 梵名コーカーリカ(Kokālika)の音写。倶伽利・仇伽離などとも書き、漢訳して悪時者・牛守という。釈迦族の出身。提婆達多の弟子である。大智度論十三に「瞿伽利は常に舎利弗・目連の過失を求めていた。舎利弗・目連の二人はある日、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈尊もまた三度、瞿伽利を呵責したが、受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死して堕獄した」とある。

 

日本第一の大人なり

 大人とは大聖人ということである。開目抄上に「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す……此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし」と。すなわち「当世には日本第一の大人なり」とは、末法の御本仏であられることを宣言されておられると拝するのである。

 

講義

この章は、勘文して日本第一の大人たることを顕わしている。「大人」とは語訳にあるように仏の名である。開目抄上の「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す、外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし」(0191:05)の文と、いまの「当世には日本第一の大人なり」の御文と合わせ拝するならば、日蓮大聖人がみずから御本仏であると宣言なされていることを、だれが疑いえようか。しかるに日蓮宗と名のる諸派は、このような明文にも迷って、「日蓮大菩薩」などと呼んでいるのである。これみな師子身中の虫である。

 

いたひとかゆきとはこれなり

 

「かけば痛し、かかざれば痒し」という譬えである。日蓮大聖人の予言が符合すれば日本の国が亡びることになるし、符合しなければ、大聖人が法華経の行者であり末法の御本仏であらせられることが、わからないで終わってしまう。

 日蓮大聖人の時代には、大聖人のお祈りによって亡国の悲運からはまぬかれたが、いくら御本尊がいます日本の国であっても、あまりにもその謗法が過ぎれば、罰が出て敗戦亡国となるのである。そのことは次の御書にくわしい。

 種種御振舞御書にいわく「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:16九)と。

 すなわち、日蓮大聖人の滅後六百数十年にして、あまりにもその謗法が過ぎ、遂に国が滅びたのである。しかるに御本尊の大功徳は、そのような逆縁の衆生、逆縁の国土にもかえって変毒為薬の大功徳を生じさせ、創価学会の出現とともに、広宣流布が着々と実現しつつある。

「若し日蓮・法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ」とのおおせどおり、日本の国には内乱が相つぎ、終には世界の国々を敵として戦って敗れるという「国にしるし」が顕れた。もししからば広宣流布という「国にしるし」が顕われないわけがない。もし創価学会がなければ、広宣流布もなく、日蓮大聖人のすべての兼知未萠が大虚妄となるところであった。ここに創価学会の重大な使命がありと信ずるのである。

「御経を持ちまいらせ候分斉」とは、われわれが御本尊を持つことである。たとえ身は貧窮であり、下賤であっても、御本尊の功徳の広大無辺によって、以上のような大利益を証明できるのである。

 

 

第三十四章(外難を遮す)

 本文

問うて云く慢煩悩は七慢・九慢・八慢あり汝が大慢は仏教に明すところの大慢にも百千万億倍すぐれたり、彼の徳光論師は弥勒菩薩を礼せず・大慢婆羅門は四聖を座とせり、大天は凡夫にして阿羅漢となのる・無垢論師が五天第一といゐし、此等は皆阿鼻に堕ちぬ無間の罪人なり汝いかでか一閻浮提第一の智人となのれる地獄に堕ちざるべしやおそろしおそろし、答えて云く汝は七慢・九慢・八慢等をばしれりや大覚世尊は三界第一となのらせ給う一切の外道が云く只今天に罰せらるべし大地われて入りなんと、日本国の七寺・三百余人が云く最澄法師は大天が蘇生か鉄腹が再誕か等云云、而りといえども天も罰せずかへて左右を守護し地もわれず金剛のごとし、伝教大師は叡山を立て一切衆生の眼目となる結句七大寺は落ちて弟子となり諸国は檀那となる、されば現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか、伝教大師云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依の経に拠るが故に自讃毀他ならず」等云云法華経第七に云く「衆山の中に須弥山これ第一なり此の法華経も亦復かくの如し諸経の中に於て最もこれ其の上なり」等云云、此の経文は已説の華厳・般若・大日経等、今説の無量義経、当説の涅槃経等の五千・七千・月支・竜宮・四王天・忉利天・日月の中の一切経・尽十方界の諸経は土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山のごとし日本国にわたらせ給える法華経は須弥山のごとし。
  又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し、一切衆生の中に於て亦これ第一なり」等云云、此の経文をもつて案ずるに華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇・深密般若経を持てる勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭・孝徳天皇、真言宗の大日経を持てる金剛薩埵・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・慧果・弘法大師・慈覚大師、涅槃経を持てる迦葉童子菩薩・五十二類・曇無懺三蔵、光宅寺の法雲南三北七の十師等よりも末代悪世の凡夫の一戒も持たず一闡提のごとくに人には思はれたれども、経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて而も一分の解なからん人人は、彼等の大聖には百千万億倍のまさりなりと申す経文なり、彼の人人は或は彼の経経に且く人を入れて法華経へうつさんがためなる人もあり、或は彼の経に著をなして法華経へ入らぬ人もあり、或は彼の経経に留逗のみならず彼の経経を深く執するゆへに法華経を彼の経に劣るという人もあり、されば今法華経の行者は心うべし、譬えば「一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く法華経を持つ者も亦復是くの如し、又衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く法華経を持つ者も亦復是くの如し」等と御心えあるべし、当世日本国の智人等は衆星のごとし日蓮は満月のごとし。

 

現代語訳

問うて言う。慢煩悩は七慢・九慢・八慢がある。汝が大慢は仏教に明すところの大慢よりも百千万億倍も勝れている。彼の徳光論師は弥勒菩薩を礼拝しなかったし、大慢婆羅門は四人の聖人を柱として、その上にすわらせたという。また大天は凡夫でありながら阿羅漢と名のり、無垢論師はインド第一といった。これらのものはみな、 阿鼻地獄に堕ち無間の罪人となった。汝は何ゆえに一閻浮提第一の智人となのるのか。地獄に堕ちないわけがない。じつに恐ろしいことである。

 答えて言う。汝は七慢・九慢・八慢等を知っているのか。釈尊は三界第一と名のられた。これに対していっさいの外道は、ただいま天に罰せられるであろう、大地が割れて入るであろうなどといった。日本国においては、奈良の七寺の三百余人が「最澄法師は大天がの生まれかわりか、鉄腹婆羅門が再誕したのか」等といった。しかし天も罰することなく、かえって左右を守護し、地も割れないで、金剛のごとくであった。伝教大師は叡山を立てて、一切の衆生の眼目となった。結局、伝教を非難した奈良七大寺は伝教大師に降伏して、その弟子となり、諸国の人々はみな檀那となったのである。されば事実勝れていることは、慢に似てじつは大功徳なのである。

 伝教大師は「天台法華宗が諸宗より勝れているということは依りどころとする法華経が勝れているからである。ゆえに自讃毀他ではない」といっている。また法華経の第七には「多くの山の中では須弥山が第一である。この法華経も同じで、多くの経典の中において、もっともその上にあるのである」とある。この経文は已説の華厳・般若・大日経等や、今説の無量義経、当説の涅槃経等の五千・七千・インド、竜宮・四王天・トウ利天。日月の中の一切経およびそのほか十方世界のあらゆる経々は土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山のようなものであるが、日本へ渡った法華経は、須弥山のようなものであるとの意である。

 また同品に「よく是の経典を受持するものも、またこのとおりであって、一切衆生の中においてまた第一である」とある。この経文から考えてみると、華厳経を持っている普賢菩薩・解脱月菩薩や・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇や、また深密・般若経を持っいる勝義生菩薩.須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭。孝徳天皇や、更に真言宗の大日経を持っている金剛薩タ・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・慧果・弘法大師・慈覚大師等や、それに涅槃経を持っている迦葉童子菩薩・五十二類。曇無懺三蔵・光宅寺の法雲・南三北七の十師等よりも、末代悪世の凡夫で、一戒も持たず、一闡提のようにおもわれているが、経文どうりに已今当に勝れている法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて、しかも一分のない人々の方が、彼の大聖等より百千万億倍も勝れているという経文である。

 これらの人々は、あるいは法華経へ移るために経々にしばらく人を入れる人もあり、あるいは彼の爾前経に執着して法華経へ入らぬ人もあり、あるいは彼の経々にしばらくふみとどまるのみならず、彼の経々に長く執着するゆえに、法華経を彼の経より劣るという人もある。されば今、法華経の行者は、譬えば「いっさいの川流、江河の諸水の中にあって海がもっとも第一であるように、法華経を持つ者もまた同じである」とあるが、この経文のように心得るべきである。また多くの星の中に月天子がもっとも第一であるように、法華経を持つ者もまたまた同じでる」とあるが、この経文のように心得るべきである。当世日本国の智人等は、多くの星のようなものであり日蓮は満月のようなものである。

 

語釈

 他人よりも自分の方が優れていると誤認すること。七慢・八慢・九慢に分類される。

 

七慢

「阿毘達磨品類足論」巻一などに説かれる。①慢は、劣れる他人に自分が優れていると思い、等しい他人に等しいと思うこと。②過慢は、他人に等しいのに自分が優れていると思い、他人が優れているのに自分と等しいと思うこと。③慢過慢は、他人が優れているのに、自分がさらに優れていると思うこと。④我慢は、我をたのんで思いあがること。⑤増上慢は、法理などをいまだ得ていないのに得たと思うこと。⑥卑慢は、他人のほうがはるかに優れているのに自分は少ししか劣っていないとすること。⑦邪慢は、自分は徳がないのに徳があるようにみせること。

 

九慢

「俱舎論」巻十九に説かれる。①我勝慢類とは、我と等しい者の中で、我が優れていると思うこと。②我等慢類とは、我より優れているものに対して我に等しいと思うこと。③我劣慢類とは、我より多分に優れているものに対し、自分は少し劣ると思うこと。④有勝我慢類とは、実際に他は我より優れているのに、謙遜を装って他は我より優れていると思うこと。⑤有等我慢類とは、他は我に等しいと思うこと。⑥有劣我慢類とは、等しいのに、他は我より劣ると思うこと。⑦無勝我慢類とは、他は我より優れることはないと思うこと。⑧無等我慢類とは、他が我に等しいことはないと思うこと。⑨無劣我慢類とは、実際には他は我より優れているのに、謙遜を装って他が我よりも劣ることはないと思うこと。

 

 八慢

「成実論」巻十に説かれる。①慢は、他人より劣っているのに自分の方が優れていると思い高ぶること。②大慢は、対等の立場にありながら、自分の方が優れていると思い高ぶること。③慢慢は、自分が他人よりも優れていることを鼻にかけて相手を見下すこと。④我慢は、五陰が和合した身体を真の我であるとみること。⑤増上慢は、まだ覚りを得ていないのに得たとしていつわり高ぶること。⑥不如慢は、他人が自分より多分に優れているのに、その差はわずかであると思い高ぶること。⑦邪慢は、実際には自分に徳がないのにあると思い高ぶること。⑧傲慢(ごうまん)は、善人や優れた人に対して礼をなさず尊敬しないこと。

 

徳光論師は弥勒菩薩を礼せず

 大唐西域記巻四にある。徳光は梵名グナプラバの漢訳で、音写して瞿拏鉢刺婆。インドの論師。はじめ大乗を学び、いまだ奥義をきわめないうちに毘婆沙論を読み、小乗に転じて数十部の論を作って大乗を破した。さらに仏経についての多年の疑難を除こうとして、天軍羅漢に解決を請うた。天軍は梵名デーヴァセーナの漢訳で、音写して提婆犀那。徳光は羅漢の神通力を借りて覩史多天に上り、慈氏(弥勒)菩薩に会ったが、礼拝しなかった。天軍羅漢がその非礼を責めると、「我は具戒の比丘・出家の弟子であるが、慈氏菩薩は天の福楽を受けてはいるが出家の僧ではない」といった。慈氏菩薩は彼の我慢の心をみて、聞法の器でないと知り疑難に答えなかった。そこで徳光は天軍羅漢に頼み菩薩を礼拝しようとしたが、天軍羅漢は彼の我慢の心を憎んで応対しなかった。そのため徳光は怒り、山林に趣いて修行をしたが我慢の心がとれず、道果を証することがなかったと述べている。

 

大慢婆羅門は四聖を座とせり

 大唐西域記巻十一にある。大慢は南インドのバラモン僧。外典・暦法等に通じ、国王・国の人々に尊敬されていた。しかし、慢心を起こして外道の三天(大自在天・婆籔天・那羅延天)と釈尊像を作って高座の四足とし、これに登って、我が徳は四聖に勝れていると説法していた。時に西インドからきた賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛の助けで命は救われ、そのかわりに国じゅうをひきまわして懺悔させた。大慢はこれを恥として血を吐いて病に伏した。賢愛が見舞に行ったとき、大慢はさらに賢愛を悪口し大乗を誹謗したので、大地が裂けて生きながら地獄に堕ちたという。

 

大天は凡夫にして阿羅漢となのる

 大毘婆沙論にある。大天は梵名マハーデーヴァ(Mahādeva)の漢訳。音写して摩訶提婆。釈尊滅後二百年ごろに末土羅国の商家に生まれた。父母および阿羅漢を殺すという三逆罪を犯した。その罪を滅するために摩訶陀国の鶏園寺で出家した。言葉巧みに人々の尊敬を得たことを良いことにして、悪見を起こし、また慢心を生じて自ら阿羅漢を得たと称した。ところが、阿羅漢にも煩悩が起こるなどといった阿羅漢を低く見る説(五事)を唱えたことで、激しい論争が起こり、それにより仏教教団が大きく二つに分裂したと伝えられる。ただし仏教教団の大分裂(根本分裂)は、一説によると、律に関わる見解の相違が起こったことを機に、ヴァイシャーリーで行われたと伝えられる、第二結集の頃に起こったと考えられている。臨終の時は悲惨であったという。

 

無垢論師が五天第一といゐし

 大唐西域記巻四にある。無垢は梵名ヴィマラミトラ(Vimalamitra)、音写して毘末羅蜜多羅、漢訳した無垢友の略。五、六世紀ごろの人。インドの迦湿弥羅国の論師。説一切有部に属し、広く衆経・異論を学んだ。世親菩薩の倶舎論に論破された衆賢、梵名サンガバドラ(Saghabhadra)の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを立てた。しかし、その誓願の終わらぬうちに舌が五つに裂け、熱血を流して後悔しながら無間地獄に堕ちたという。

 

鉄腹

 鉄腹婆羅門。サーンキヤ(Samkhya)学派の学者。梵名イーシュヴァラクリシュナ、自在黒と漢訳す。蓄えた智慧によって腹が破裂することを恐れて、鉄板を腹に巻いていた。仏教徒を論破して、王の信任を得たが、世親(ヴァスバンドゥ)によって誤りが示された。

 

土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山

 法華経薬王菩薩本事品第二十三に「土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山、及び十宝山の衆山の中に、須弥山は為れ第一なるが如く、此の法華経も亦復た是の如く、諸経の中に於いて、最も為れ其の上なり」とある。鉄囲山は、須弥山を中心とする九山八海の一番外側にある鉄山のこと。また三千大千世界を囲む鉄山をさすこともあり、この時は前者を小鉄囲山、後者を大鉄囲山という。

 

印生王

 引正王のこと。梵名サーティヤヴァーハナ、音写して娑多婆訶。釈尊滅後七百年ごろの南インドの憍薩羅国(コーサラー)の王。竜樹(ナーガールジュナ)に帰依し大乗仏教を保護した。本抄の「印生王」とは引正王の音を取ったものと思われる。

 

五十二類

 釈尊の涅槃の会座に集まった、比丘・比丘尼・菩薩・優婆塞・優婆夷など五十二の異類の衆生。五十二衆ともいう。章安大師灌頂の「涅槃経疏」巻一にある。

 

講義

この章は外難を遮す段である。すでに日蓮大聖人は一閻浮提第一の法華経の行者であり、第一の智人であり、第一の聖人であり、第一の大人であると述べられてきた。邪宗の徒はこれを信じられないのみか、かえって大聖人に対し、仏教に明かすところの大慢より百千万億倍もすぎていると非難してくるであろう。そうした論難をここに破折なされるのである。

「現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか」と。実に日蓮大聖人が第一の聖人、智人、大人であらせられることは、現にそのように勝れているのである。そのゆえは、日蓮大聖人は久遠元初の自受用身であらせられ、事行の一念三千、人法一箇の南無妙法蓮華経の御本尊の当体であらせられるからである。

 日蓮大聖人がそのように勝れているから、その大聖人の教えを信じ、御本尊を持ち、南無妙法蓮華経と唱えるわれら末弟もまた一切に勝れているのである。本文にお示しのごとく華厳宗、真言宗その他の各宗を信じていた人たちは、国王大臣とか、名僧、高僧とあおがれていても、持つところの経典が低級であるから、その思想も人格も低級となってしまうのである。

 いま創価学会は、日蓮大聖人の如説修行の弟子として、戦いつつある。「法妙なるが故に人貴し」(1578:12)で、御本尊を持ち折伏を行ずるわれわれこそ、もっとも勝れて第一なのである。四信五品抄にいわく「問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず(中略)進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり(中略)退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿(なか)れ蔑如すること勿れ」(0342:12)と。

 

 彼の人人は或は彼の経経に等

 

 三類の人があり。一には爾前経にしばらく人を入れて後に法華経を信じさせようとするもの。これは身心ともに法華経を信ずるようになった者で、三論の嘉祥等である。開目抄にいわく「三論の嘉祥は法華玄十巻に法華経を第四時・会二破二と定れども天台に帰伏して七年つかへ廃講散衆して身を肉橋となせり」(0216:11)と。

 二には爾前経に執着して法華に入らぬ者。これは、心は移っても身の移らないもので、法相の慈恩等である。開目抄には「法相の慈恩は法苑林・七巻・十二巻に一乗方便・三乗真実等の妄言多し、しかれども玄賛の第四には故亦両存等と我が宗を不定になせり、言は両方なれども心は天台に帰伏せり」(0216:12)と仰せである。

 三には爾前経にとどまるのみならず、彼の経に深く執するゆえ、法華経は爾前経に劣るという者。これは身心ともに法華に移らなかったところの善導や法然である。

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