撰時抄
建治元年(ʼ75) 54歳 西山由比殿
第二十章(浄土宗を破す)
本文
問うて云く此の三宗の謬悞如何答えて云く浄土宗は斉の世に曇鸞法師と申す者あり本は三論宗の人竜樹菩薩の十住毘婆娑論を見て難行道易行道を立てたり、道綽禅師という者あり唐の世の者本は涅槃経をかうじけるが曇鸞法師が浄土にうつる筆を見て涅槃経をすてて浄土にうつて聖道・浄土二門を立てたり、又道綽が弟子に善導という者あり雑行正行を立つ、日本国に末法に入つて二百余年・後鳥羽院の御宇に法然というものあり一切の道俗をすすめて云く仏法は時機を本とす法華経大日経天台真言等の八宗九宗一代の大小・顕密・権実等の経宗等は上根上智の正像二千年の機のためなり、末法に入りてはいかに功をなして行ずるとも其の益あるべからず、其の上・弥陀念仏にまじへて行ずるならば念仏も往生すべからず此れわたくしに申すにはあらず竜樹菩薩・曇鸞法師は難行道となづけ、道綽は未有一人得者ときらひ善導は千中無一とさだめたり、此等は他宗なれば御不審もあるべし、慧心先徳にすぎさせ給へる天台真言の智者は末代にをはすべきか彼の往生要集には顕密の教法は予が死生をはなるべき法にはあらず、又三論の永観が十因等をみよされば法華真言等をすてて一向に念仏せば十即十生・百即百生とすすめければ、叡山・東寺・園城・七寺等始めは諍論するやうなれども、往生要集の序の詞道理かとみへければ顕真座主落ちさせ給いて法然が弟子となる、其の上設い法然が弟子とならぬ人々も弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし心よせにをもひければ日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間・一天四海・一人もなく法然が弟子となる法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ、譬へば千人の子が一同に一人の親を殺害せば千人共に五逆の者なり一人阿鼻に堕ちなば余人堕ちざるべしや、結句は法然・流罪をあだみて悪霊となつて我並びに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入つて或は謀反ををこし或は悪事をなして皆関東にほろぼされぬ、わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は俗男俗女にあなづらるること猿猴の人にわらはれ俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし、
現代語訳
問うていう。この三宗はどこが誤っているのか。
答えて云う。まず浄土宗は中国の斉の世に曇鸞法師という者がいた。もとは三論宗の人であったが、竜樹菩薩の十住毘婆娑論を見て難行道・易行道を立てた。次に道綽禅師という者がいた。唐の時代の人で、もとは涅槃経を講じていたが、曇鸞法師が浄土にうつる書を見て、涅槃経をすてて浄土へ移って、聖道・浄土の二門を立てた。また道綽の弟子に善導という者がいて、雑行と正行を立てた。
次に日本では末法に入って二百余年、後鳥羽院の時代に法然という者がいた。一切の道俗にすすめていうには、「仏法は時機を本とするのである。法華経・大日経・天台・真言等の八宗、九宗や釈尊一代の大小・顕密・権実等の諸宗等は、上根上智の正像二千年の機のための教えである。末法に入っては、いかに熱心に修行を積んでも、利益はないのである。そのうえ、これらの諸経・諸行を阿弥陀念仏にまじえて行じたならば、念仏の功徳も消えて往生はできなくなる。これは自分が勝手に言っているのではなく、竜樹菩薩・曇鸞法師は念仏以外を難行道と名づけ、道綽は未有一人得者と嫌い、善導は千中無一と定めている。これらは、念仏という他宗派の開祖たちの言であるから、それだけなら疑問もおきるであろう。ところで、慧心先徳を超える天台・真言の智者はこの末法の時代にいるだろうか。その慧心の往生要集には「顕密の教法は、予が死生を離れるべき教法ではない」といっているのである。また三論宗の永観の往生拾因等を見てみなさい。されば法華・真言等を捨てて、一向に念仏を唱えるならば、十即十生・百即百生の功徳がある」とすすめたので、叡山・東寺・園城寺・奈良の七寺等では、はじめは争い論じ合っていたが、結局は往生要集の序のことばが道理のように思えて、顕真座主が念仏の邪義に降伏して法然の弟子となってしまった。
そのうえ、たとえ法然の弟子とならない人々も、阿弥陀仏を他仏には比べようもないほど口ずさみ、心をよせたので、日本国はみな一同に法然房の弟子となったようにみえた。この五十年のあいだ、一天四海、一人もなく法然の弟子となったのである。法然の弟子となったということは、日本国は一人もなく謗法の者となったのである。たとえば、千人の子が一諸に一人の親を殺害すれば千人ともに五逆の者である。そのうち一人が阿鼻地獄へおちれば、ほかの人たちはおちなくてもよいというわけがあろうか。
結局は、法然は流罪されたことを怨んで、悪霊となって、法然並びに法然の弟子を罰した国主や、比叡山や、三井寺の僧等の身に入って、あるいは謀反をおこしたり、あるいは悪事をなさしめたので、朝廷や比叡山や三井寺は、鎌倉幕府に滅ぼされてしまった。わずかに残った比叡山や東寺の僧たちが俗男俗女からあなどられたり笑いものにされるさまは、猿が人に笑われ、俘囚が子供からさげすまされたり、ばかにされたりするようなものであった。
語釈
浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期する宗派。中国では浄土教として廬山の慧遠流・道綽善導流・慈愍流の三派があり、南北朝時代の曇鸞、唐代の道綽、善導によって独立大成した。日本では平安時代末期に法然が浄土の三部経(阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経)と浄土論(世親著。往生論ともいう)の三経一論に依り、善導の教判を受け、専修念仏義を立てて開宗した。
曇鸞法師
(0476~0542)。中国・北魏代の僧。浄土教の祖師の一人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽で訳経僧の菩提流支に会って観無量寿経を授かり、浄土教に帰した。竜樹造とされる十住毘婆沙論にある難行道・易行道の義を曲解し、念仏を易行道とし、その他の修行を難行道として排した。晩年は汾州(山西省)の玄中寺に住み、平州の遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」(往生論註)二巻、「略論安楽浄土義」一巻、「讃阿弥陀仏偈」一巻等がある。
難行道易行道
実践が困難な修行(難行道)と、易しい修行の法門(易行道)をいう。易行という語は、もとは竜樹作とされる十住毘婆沙論の易行品第九にある。そこでは、菩薩が十地(修行の位。十住と同意)の第一、不退地(初地、歓喜地ともいう)に至るのに、自ら勤苦精進して行く道を陸路の歩行にたとえて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水路の船行にたとえて易行道としている。曇鸞はこれを往生論註で独自に解釈し、菩薩が不退を求める修行に難行・易行の二種があるとし、易行の念仏によってのみ成仏できるとしている。
道綽禅師
(0562~0645)。中国の隋・唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。十四歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。
聖道・浄土二門
聖道門と浄土門。中国・唐の道綽の安楽集に説かれる二門。聖道門は、自力によってこの現実世界で成仏することができると説く。対する浄土門は、娑婆世界を穢(けが)れた世界として嫌い、他力によって極楽往生を願う。道綽の安楽集巻上には「聖道の一種は今時に証し難し(中略)唯浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なり」とある。
善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)の人(一説に山東省・臨淄)。幼くして出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
雑行正行
善導は「観無量寿経疏」巻四の散善義のなかで「行に就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」と修行を正行と雑行に分け、西方浄土往生へと導く修行が正行で、雑行とは正行以外のさまざまな修行のこととした。
法然
(1133~1212)。平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(実際は讃岐)に流された。同年12月に赦があり、しばらく摂津国(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。
千中無一
「千が中に一無し」と読む。善導の往生礼讃偈の文。五種の正行(極楽に往生するための五種類の修行)以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないとする。
慧心先徳
(0942~1017)。恵心とも書く。日本天台宗恵心流の祖。先徳は尊称。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。父は卜部正親。幼くして出家し天暦4年(0950)比叡山にのぼる。慈慧大師良源に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度受戒し、源信と名乗った。権少僧都に任じられた時、横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称された。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。本書は寛弘3年(1006)頃の作で、一切衆生に仏性のあることを明かし、法相宗の五性各別説を破折したものである。
往生要集
三巻。比叡山の恵心僧都源信の著。寛和元年(0985)の作。極楽往生に関する経論の要文を集めたもの。十章からなる。まず厭離すべき六道のありさまを述べ(厭離穢土)、次に求めるべき浄土の様子を説き(欣求浄土)、最後に極楽往生するために念仏を称えることを勧めている。
永観
(1032~1111)。平安末期、三論宗の僧。源国経の子。源信死後十余年に生まれた。洛東禅林寺の深観にしたがって剃髪した。深観は密教にくわしく、永観も灌頂を受けた。次に東大寺有慶について三論、法相、華厳などを学び、30歳の時、山城の光明山に入り、十年間、浄土教を習学した。後に東大寺別当職となる。晩年に洛東禅林寺に帰り、「往生拾因」一巻、「往生講式」一巻などを著した。寺内の薬王院に丈六の弥陀の像をつくり、壮年以前は日に一万遍、壮年以後は日に六万遍、弥陀の名号を称えたという。
十即十生・百即百生
善導の往生礼讃偈に「十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず」とある。念仏以外の雑行・雑修を捨てて、念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土に往生できると述べたもの。
顕真座主
(1131~1192)。比叡山延暦寺第六十一代座主。美作守藤原顕能の子。文治2年(1186)法然を大原の勝林院に招いて専修念仏の義を問い、法然(源空)を信じ、余行を捨てて念仏に帰したという。後に浄土宗では法然の弟子になったと喧伝された。文治6年(1190)3月、延暦寺座主となる。
法然・流罪
建永二年二月、法然は度牒(僧尼に交付される身分証)を剥奪され、還俗させられて土佐(実際には讃岐)に流された。さらに法然死後十五年、延暦寺衆徒による、いわゆる嘉禄の法難が起こった。当時の様子は御書に説かれている。「法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」と。すなわち嘉禄3年(1227)6月、天台座主が朝廷に隆寛、幸西、空阿、証空といった浄土宗の僧たちを流罪に処し、さらに東山にある法然の墓を破壊して遺骸を鴨川に流すように訴え出た。そして延暦寺の僧兵が法然の廟所を襲って破壊したので、浄土宗側はいちはやく法然の遺骸を掘りおこし、六波羅探題の武士団が護衛につきいったん嵯峨に運び込んだ。これが延暦寺側の知るところとなったため、更に太秦に移送した。同年7月に門人の隆寛、幸西、空阿の三人がそれぞれ陸奥、壱岐、薩摩へと配流され、十月には選択集の版木が叡山の大講堂の庭で焼かれた。翌安貞2年(1228)1月、法然の遺骸は西山に運ばれ、ここから各地に分骨した。法然は、生前は流罪、死後も流浪の身であった。
講義
これより通じて、念仏・禅・真言を破折されるが、この章は念仏の破折である。念仏の破折にあたっては初めに中国の三師を破し、次に日本の法然を破されている。
斉の世に曇鸞法師
曇鸞は中国における念仏の開祖である。曇鸞はその著往生論の注に「謹んで竜樹菩薩の十住毘婆娑を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり」といっておるが、日寛上人は、曇鸞に二失ありとされている。一には本論違背の失、二には執権謗実の失である。まず第一の本論違背の失とは、竜樹の十住毘婆娑論の主張と、曇鸞の主張とは違っている。すなわち毘婆娑論の巻五易行品にいわく「仏法に無量の門有り。世間の道に難有り、易有るが如し、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽し。菩薩道も亦是の如し。或は勤行精進する有り、或は信の方便を以て易行して、疾く阿惟越致に至る者有り」と、またいわく「菩薩、此の身に阿惟越致地に至ることを得んと阿耨多羅三藐三菩提を成就することを欲せば応当に是の十方の諸仏を念じて其の名号を称うべし」と。
この文を曇鸞は、自己流に解釈して「難行道とは五濁無仏の時に於て阿毘跋致を求むるを難しと為す。譬えば陸地の歩行は則ち苦しきが如し。易行道とは但信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願い、仏の願力に乗ちて、便ち彼の清浄の土に往生することを得。譬えば水路の乗船は則ち楽しきが如し」といっているのである。
その違いは、第一に竜樹の本論は、通じて仏道に難もあれば易もあるといっているのに、彼は別して無仏五濁の時に約している。二には、本論の意は、歴劫修行の教を難行道とし、勤行精進等といっているが、彼は無仏五濁の時にこの土に入ることを難行としている。三には、本論では、この土において不退に入れば易行であることを明かしているのに、彼は往生浄土を易行としている。このように本論に違背している。
次に第二の執権謗実の失とは、爾前四十余年の権教に執着して、実教たる法華経を誹謗している失である。
道綽の誤り
次に道綽のいう聖道、浄土の二門は、曇鸞のいう難行、易行と同じである。ゆえにその誤りも同じになるが、日寛上人は別して二失ありとされ、一には所立不成の失、二には執権謗実の失とされている。第一の所立不成の失とは、道綽の安楽集にいわく、「一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。其の聖道の一種は今時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由り、二には理深解微なるに由る。是の故に大集月蔵経に云く、我が末法時中、億々の衆生行を起し、道を修するに末だ一人の得者有らずと。当に今末法は是れ五濁悪世にして、唯浄土の一門のみ有って通入すべき道たるべし」と。
道綽のいう聖道門とは、曇鸞のいう難行道である。難行道は、歴劫長遠の権大乗の修行であって、たとえ如来の在世であっても、これは難行である。それを何で仏が滅して遥かに遠いなどというのか、これ一。二には、高山の頂の水ほど深谷まで下る力がある。最高の教えほど下根の機まで救う力がある。たとえば軽病には凡薬、重病には仙薬のごとし。ゆえに理深ならば、解微ということはありえない。また解微のような教えなら理深ということはできない。それをなぜ理深解微などということをいうのか。三には、白法隠没とは、浅理の教えが隠没し、深理の大白法が広宣流布するということである。ところが彼が引用している経の意は深理隠没という義であり、そのような義は大集経にはないし、大体この文そのものが大集経に存在しないのである。以上のように、これはとんでもない妄説なのである。
このように、彼のいう論議は成り立たないから、所立不成という。また権経の浄土の一門に執し「未有一人得者」といって法華経を謗ずるから、執権謗実の失というのである。
善導の誤り
善導もまた、曇鸞・道綽と同じ誤りを犯している。善導は正行と雑行を立てる。正行には五種あり、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆であるとしてこの五種を正助に分け、称名の一行を正行となし、読誦等の四を助行としている。そして、この阿弥陀の三部経の正行以外は、すべて雑行であるとしている。そして、雑行は、千中無一であるといい、正行の功徳は、十即十生であるという。結論として彼は、法華経を雑行と誹謗しており入阿鼻地獄の罪を犯しているのである。
善導は、浄土の法門を演説すること、じつに三十年にわたったという。その揚げ句ついに気が狂って、寺前の楊柳の木で自殺を図り、極楽往生を図ったがはたさず、十四日間、脊椎を打った傷によって苦しみぬいて死んだという。これは確かな当時の中国の記録に残っている事実である。念仏は権教であり、夕陽のごとき、はかない教えである。ゆえに生命力を弱め、不幸で消極的な人間をつくる。善導の現証がなによりも、これを物語っているといえよう。
慧心院源信の謗法
慧心は、中古天台の本覚法門を立てた慧心流の祖である。御書では慧心に対して、与、奪の二面から述べられている。すなわち守護国家論では「源信僧都は亦叡山第十八代の座主・慈慧大師の御弟子なり 多くの書を造れることは皆法華を弘めんが為なり、而るに往生要集を造る意は爾前四十余年の諸経に於て往生・成仏の二義有り成仏の難行に対して往生易行の義を存し往生の業の中に於て菩提心観念の念仏を以て最上と為す、故に大文第十の問答料簡の中・第七の諸行勝劣門に於ては念仏を以て最勝と為し次下に爾前最勝の念仏を以て法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時・一念信解の功徳は念仏三昧より勝るる百千万倍なりと定め給えり、当に知るべし往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり」(0049:16)と、与えて論じられ、次に奪っての立場では本抄に「慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子身の中の三虫なり」と仰せである。
慧心は、このように、身は天台宗の権少僧都にありながら、43歳で往生要集三巻を作り、念仏に身を売った。往生要集とは、極楽往生に関する経論の要文を集めたものである。しかし、60歳の時、弥陀念仏を悔い改め法華経読誦、天台の一心三観の功徳を挙げ、さらに61歳の時、法華経に復帰して一乗要決三巻を著し、五乗方便・一乗真実の義を詳論して法華経最勝を述べた。その後は、法華経を中心に、弟子の指導と著述につとめ、天台慧心流の祖となったのであるが、念仏をすすめる往生要集が、念仏無間の道へ僧侶や民衆を追いやった罪は大きく、日蓮大聖人は慧心を「師子の身の中の三虫」の一人として破折されているのである。
第二十一章 (禅宗を破す)
本文
禅宗は又此の便を得て持斎等となつて人の眼を迷かしたつとげなる気色なればいかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず、禅宗と申す宗は教外別伝と申して釈尊の一切経の外に迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり、されば禅宗をしらずして一切経を習うものは、犬の雷をかむがごとし、猿の月の影をとるににたり云云、此の故に日本国の中に不孝にして父母にすてられ無礼なる故に、主君にかんどうせられあるいは若なる法師等の学文にものうき遊女のものぐるわしき本性に叶る邪法なるゆへに皆一同に持斎になりて国の百姓をくらう蝗虫となれり、しかれば天は天眼をいからかし地神は身をふるう、
現代語訳
禅宗はまた、仏教界の混乱や衰微に乗じて「持斎」という特別に戒律を持っている僧侶の姿をして、人の眼を迷わし、貴げな様子であるから、いかに誤った法門を言い出し、邪義を立てても、人々はそれが誤りだと気がつかないでいる。彼らはいう、「禅宗と申す宗は、教外別伝と申して、釈尊の一切経の外に、迦葉尊者にひそかにその悟りをささやいたのである。されば、禅宗を知らないで一切経を習う者は、犬が雷にかみつこうとしているのや、猿が月の影を取ろうとしているのと同じであって、じつに見当はずれもはなはだしいことである」と。
このゆえに、禅宗というのは、日本国の中で親不孝のため父母に捨てられたような、無礼のため主君に勘当されたような、あるいは若い僧が学問を嫌っているような、遊女がもの狂わしいような本性にかなった邪法である。日本国中、みなこの邪法に染まり、持斎となって、表面ばかり戒律を持っている姿をしているのは、国の百姓を食いつくすイナゴである。しかれば、天は天眼を怒らし、地神は身を振るうから、天変地妖が絶えまなく起きるのである。
語釈
持斎
斎戒を持つ者。戒とは、戒法のひとつで、ふつう八斎戒をいう。①不殺生、②不盗、③不婬、④不妄語、⑤不飲酒、⑥不著香華鬘不香塗身不歌舞倡妓不往観聴、⑦不坐高広大床、⑧不非時食である。⑥は十戒のうちの不著香華鬘不香塗身戒(化粧・香水や装身具をつけない)と不歌舞倡妓不往観聴戒(歌舞音曲を見聞きしない)を合わせたもの。⑧は正午から翌朝の日の出前までの間は、食事してはならないこと。
禅宗
菩提達磨所伝の禅定観法によって悟りに至ろうとする宗派。仏法の真髄は教理の追求ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏という謬義を立てる。大聖人御在世当時は、大日房能忍と弟子の仏地房覚晏の弘めた臨済禅の流れで、楊岐派に属す大慧派の拙庵徳光から印可された看話禅が盛んであった。能忍の死後、鎌倉時代に栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を、江戸時代には明僧隠元が黄檗宗を開いた。
教外別伝
仏の悟り・本意は、文字や言語であらわされた経典や教理によらず、経文の外に以心伝心によって別に伝えられたとする禅宗の教義。「文字を立てず(不立文字)」とは真の悟りは経論の語句・文字に依っては示せないとすること。「教外に別伝す(教外別伝)」とは、仏道を伝えるに際して、言語や文字による教説を排して直接ただ心から心へと法を伝えること。禅宗では、仏法の真髄は一切経(教内の法)の外にあり、それは釈尊から摩訶迦葉に文字によらずに伝えられ、その法(教外の法)を伝承しているとし、経文を用いず座禅によって法を悟ることができるとしている。しかし一方では仏教以外の経書を学び、文筆を行い、教義を説くという矛盾を示している。
迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり
大梵天王問仏決疑経にある文の意から、「ひそかにささやかせ」とおおせられたもの。釈尊が涅槃の時、黙って花を拈り聴衆に示した際、魔訶迦葉だけが顔をほころばせ微笑した。そこで、釈尊は、己心に秘めた微妙の法を魔訶迦葉のみに付嘱したとされる。もっともこの大梵天王問仏決疑経は偽経で、中国で創作された「拈華微笑」の説話である。
犬の雷をかむがごとし
天台大師の摩訶止観に、真実の妙法を聞けないで小乗権教に執着するものをたとえて「渇鹿の炎を遂い、狂狗の雷を齧むがごとく、何ぞ理を得ることあらん」とある。ここでは、禅宗が摩訶止観の文を持ち出して、他宗を批判しているさまをいったのである。
猿の月の影をとるににたり
碧巌録に「向上一路千聖伝えず、学者形を労すること猿の影を捉るごとし」とある。真如というものは過去にどれほどの聖があったとしても、人に伝えることはできない。それを学者が言辞を弄して表わそうとしても、かえって猿が水に映った月を取ろうとするごとくで、危ないことである、というほどの意。自分が経験しなければ分からないことだ、との趣旨であるが、所詮は、経文そのものを否定する天魔の言説である。
講義
念仏につづき、第二に禅宗を破したのである。
禅宗と申す宗は教外別伝と申して……
禅宗でいうところの教外別伝の根拠は、大梵天王問仏決疑経に「世尊、霊山会上に在り。華を拈じて衆に示す。衆皆な黙然たり。唯だ迦葉のみ破顔微笑す。世尊云わく、吾れに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝有り、摩訶迦葉に付属す」とあるというのである。「文字を立てず、教外に伝う」といいながら、こんな経文を論拠にすること自体が、すでに自語相違である。
しかも問仏決疑経は、蓮盛抄におおせのとおり「此の文は上古の録に載せず中頃より之を載す」(0150:05)のであって、開元・貞元の録の中には、この経は出ていない。唐の末に慧炬が宝林伝を著して、初めてこの文を引いている。
鎌倉時代の武士は、よく禅宗を信じたようであるが、弥源太入道殿御消息には「本権教より起りて候しを・今は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか」(1229:09)と指摘されている。すなわち経典の拠りどころをあげてみても、それは法華経に対すれば権教であるし、しかも権教なりと破折されるまでもなく、「教外別伝」などといって、自ら仏教典を離れてしまっているから、外道というほかなくなってしまうのである。
ゆえに釈尊は涅槃経に「願って心の師とはなるとも心を師とせざれ」と説き、また「仏の所説に順わざる者あらば、まさに知るべし、これ魔の眷属なり」と説いている。いかに、わが身に仏性ありとしても、いまだ理即・名字即の仏であるからこそ、仏道修行が必要なのである。仏教の何たるかも知らず、正法をも信ぜず、「われ悟れり」というような禅宗は、正しく天魔以外の何物でもない。
国の百姓をくらう蝗虫
蝗虫とは「いなご」のことである。この虫は秋になると稲を食い荒らす。日蓮大聖人は邪宗のことをこの「いなご」に譬えられ、呵責謗法滅罪抄には「国の大蝗虫たる諸僧等、近臣等が日蓮を讒訴する、弥盛んならば大難倍来るべし」(1130:09)と、また、報恩抄には「あら不思議や法師ににたる大蝗虫・国に出現せり仏教の苗一時に・うせなん」(0328:05)と仰せられている。
中国大陸などでは、昔はいなごの大群に襲われたら、すべての植物が全滅してしまった。このような残酷きわまる害虫のゆえに、邪宗教もまたこのとおりであるとの例に引かれたものである。
第二十二章(真言の善無畏を破す)
本文
真言宗と申すは上の二のわざはひにはにるべくもなき大僻見なりあらあら此れを申すべし、所謂大唐の玄宗皇帝の御宇に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす、此の三経の説相分明なり其の極理を尋ぬれば会二破二の一乗・其の相を論ずれば印と真言と計りなり、尚華厳般若の三一相対の一乗にも及ばず天台宗の爾前の別円程もなし但蔵通二教を面とするを善無畏三蔵をもはく此の経文をあらわにいゐ出す程ならば華厳法相にもをこづかれ天台宗にもわらはれなん大事として月支よりは持ち来りぬさてもだせば本意にあらずとやをもひけん、天台宗の中に一行禅師という僻人一人ありこれをかたらひて漢土の法門をかたらせけり、一行阿闍梨うちぬかれて三論・法相・華厳等をあらあら・かたるのみならず天台宗の立てられけるやうを申しければ善無畏をもはく天台宗は天竺にして聞きしにも・なをうちすぐれてかさむべきやうもなかりければ善無畏・一行をうちぬひて云く和僧は漢土には・こざかしき者にてありけり、天台宗は神妙の宗なり今真言宗の天台宗にかさむところは印と真言と計りなりといゐければ一行さもやとをもひければ善無畏三蔵一行にかたて云く、天台大師の法華経に疏をつくらせ給へるごとく大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをもう汝かきなんやといゐければ一行が云くやすう候、但しいかやうにかき候べきぞ天台宗はにくき宗なり諸宗は我も我もとあらそいをなせども一切に叶わざる事一あり、所謂法華経の序分に無量義経と申す経をもつて前四十余年の経経をば其の門を打ちふさぎ候いぬ、法華経の法師品・神力品をもつて後の経経をば又ふせがせぬ肩をならぶ経経をば今説の文をもつてせめ候大日経をば三説の中にはいづくにかをき候べきと問ひければ爾の時に善無畏三蔵大に巧んで云く大日経に住心品という品あり無量義経の四十余年の経経を打ちはらうがごとし、大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし、もししからば大日経は已今当の三説をば皆法華経のごとくうちをとすべし、さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば三密相応の秘法なるべし、三密相応する程ならば天台宗は意密なり真言は甲なる将軍の甲鎧を帯して弓箭を横たへ太刀を腰にはけるがごとし、天台宗は意密計りなれば甲なる将軍の赤裸なるがごとくならんといゐければ、一行阿闍梨は此のやうにかきけり、漢土三百六十箇国には此の事を知る人なかりけるかのあひだ始めには勝劣を諍論しけれども善無畏等は人がらは重し天台宗の人人は軽かりけり、又天台大師ほどの智ある者もなかりければ但日日に真言宗になりてさてやみにけり、年ひさしくなればいよいよ真言の誑惑の根ふかくかくれて候いけり、日本国の伝教大師・漢土にわたりて天台宗をわたし給うついでに真言宗をならべわたす、天台宗を日本の皇帝にさづけ真言宗を六宗の大徳にならはせ給う、但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給う、入唐已後には円頓の戒場を立てう立てじの論の計りなかりけるかのあひだ敵多くしては戒場の一事成りがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず、但し依憑集と申す一巻の秘書あり七宗の人人の天台に落ちたるやうをかかれて候文なり、かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候
現代語訳
真言宗というのは、上の念仏、禅の災いとは比較にならないほどの大邪見の宗派である。その大体のことを述べよう。
大唐の玄宗皇帝の時代に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三人が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経をインドから中国へ渡した。此の三経の説くところは明らかである。その極理は会二破二の一乗であり、その事相を論ずれば印と真言ばかりである。華厳や般若で説く三一相対の一乗にも及ばず、天台宗で説く爾前の別教や円教ほどの深い法門もない。ただ蔵通の二教を表に説かれているだけである。そこで善無畏三蔵が思うには、この三経をそのまま説き始めたならば、華厳宗や法相宗からもバカにされ、天台宗からもわらわれるであろう。インドから大事に持ってきた経典である。黙っていては不本意である、と思ったのであろうか。
天台宗の中に一行禅師というひねくれ者が一人いた。そこでこの人物をかたらって中国の仏教界の法門を語らせた。一行阿闍梨は、すっかり善無畏にだまされて、三論・法相・華厳等大体の教えを述べたばかりでなく、天台宗で立てられた教義についても説明した。善無畏は、天台宗はインドで聞いていた以上に勝れていて、その上へ出られそうもないと思い、そこで善無畏は一行をだましていうには「貴僧は中国には珍しい賢僧である。天台宗は神妙の宗ではあるが、いま真言宗が天台宗より勝れているところは、印と真言である」といいよった。一行はそれもそうかと思ったようなので善無畏はさらに「天台大師の法華経に疏をつくったように、大日経の疏を作って真言をひろめようと思うが、汝が書いてくれないか」というと、一行は「それは、やさしいことだ」といった。
そして「ただし、どのように書いたらよいのか。天台宗は悪い宗派であり、諸宗が我も我もと争っているが、とてもかなわないことが一つある。いわゆる法華経の序分に無量義経という経をもって法華経以前の四十余年の一切の経を権経なり方便なりとしてその門を封じてしまっている。さらに法華経法師品や神力品をもって、法華経以後の経々を防いでしまっている。また法華経と同時に説かれた経典は、法師品の今説の中に入れられて、責められてしまう。そこでいったい大日経は已今当の三説のうちのどこにおいたらよいのだろうか」と問うた。
ここにおいて善無畏三蔵がおおいにたくらんでいうには「大日経に住心品という品がある。ちょうど無量義経に四十余年未顕真実とあって、他の一切の経を討ち払ってしまうような品である。また大日経の入漫陀羅品以下の諸品は、中国では法華経と大日経とて二本に分かれているが、インドでは一つの経である。釈迦仏は舎利弗や弥勒に向かっては大日経を法華経と名づけて印と真言を捨てて但理ばかりを説いた。それを羅什三蔵が中国へ渡し、天台大師はそれをみたのである。しかしまた、大日如来は法華経を大日経と名づけて金剛薩タに向かって説いた。これを大日経と名づけ、自分は近しくインドでそれを見ている。
されば汝は、大日経と法華経とを、水と乳のように一味とすればよい。そうすれば、大日経は、已今当の三説を皆法華経のように打ち払ってしまうことができるのである。そのうえ印と真言で心法の一念三千に荘厳するならば、それこそ三密が相応する秘法となる。三密が相応すれば、天台宗は単なる意密だけなので劣ることになる。真言はたとえば剛勇なる将軍が甲鎧を帯し、弓箭を横たえ、太刀を腰にはいたようなものである。それに対して天台宗は意密計りなので、剛勇なる将軍が赤裸になっているようなものである」といったので、一行阿闍梨はそのとおりに書いたのである。
中国の三百六十箇国の中で、このことを知る者は一人もなかったので、初めは大日と法華の勝劣について論争したが、善無畏らは、高貴の出身であるのに対し、天台宗の人々は、身分も軽く、また天台大師ほどの智慧がある者もいなかったので、ただ日々に真言宗になりおわってしまったのであった。そして年久しくなるにしたがって、いよいよ真言の誑惑の根が深く隠れていったのである。
日本国の伝教大師は中国へ渡って、天台宗を日本へ渡したついでに、真言宗をも持ってきた。そして天台宗を日本の天皇に授け、真言宗を奈良六宗の高僧たちに習学させた。ただし、六宗と天台宗との勝劣は、唐へ渡る前に決定されていた。唐から帰ってからは、比叡山に迹門の円頓の戒檀を建てるか、建てないかとの議論に対する裁定がおりず、そこで敵が多くては戒壇建立が成就しがたいと思われたのであろう。あるいは、真言の破折は末法にゆずられたのであろうか。天皇の前でも真言については論ぜず、弟子等にも、はっきりしたことはいわれなかった。ただし、天台大師に『依憑集』という一巻の秘書がある。七宗の人々が天台に帰伏したことを書いた書物である。この書の序に、真言宗の誑惑を破したところが一ヵ所ある。
語釈
一行禅師
(0683~0727)。中国・唐の学僧。天台学・禅・律を修める。後に善無畏が唐に来ると、共に大日経を訳し、また善無畏による大日経の講義を筆記し「大日経疏」二十巻を著した。真言宗の祖師の一人とされる。数学や天文学の大家としても知られ、「開元大衍暦」を作った。
大日経の疏
善無畏訳の大日経の注釈書。二十巻。中国・唐の善無畏が一行の請いに応じておこなった大日経の講説を一行が筆記したもの。
三密相応
身密・語密・意密をいう。密教で説く身・口・意によって行われる修行。手に印を結び(身密)、口に真言を唱え(語密)、意に本尊を念ずる(意密)。しかして、三密相応とは、三密加持ともいい、行者の三密と本尊の三密が感応して一体となることだという。この三密の修行によって即身成仏するとしている。
甲なる将軍の甲鎧を帯して
甲は乙に対してすぐれたことを意味する。すなわち智勇すぐれた将軍が、りっぱな甲、鎧をきていること。慈覚の蘇悉地経疏に「三密甲冑を法界の体に著、定慧の手に阿字の利剣を執持す。たとえば勇士の密に甲冑を著て利剣を執持して群賊の中に入れば、自他倶に安きがごとし」とある。しかして日蓮大聖人は真言を破していわく「裸形の猛者と甲冑を帯せる猛者との譬の事、裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは何(いず)れが勝るるや、又猛者は法華経なり甲冑は大日経なり、猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん此れは理同の義を難ずるなり」(123:法華真言勝劣事:08)云云と。
依憑集
「大唐新羅諸宗義匠依憑天台義集」の略。依憑天台集とも略す。伝教大師最澄が、弘仁4年(0813)に著し、同7年(0816)に序文を付して公表した書。一巻。そのなかで「天竺の名僧大唐の天台の教迹最も邪正を簡ぶに湛えたりと聞き、渇仰訪問の縁」と題して、法華文句記巻十の末の文を引用し、諸宗の僧が天台大師智顗の教えを依憑としていることを、具体的に明らかにしている。
講義
念仏と禅に引きつづき、第三に真言宗を破折している。この章はまず善無畏を破し、次いで弘法、覚鑁を破している。
善無畏の堕地獄
善無畏三蔵は、烏萇奈国の大王、仏種王の太子である。13歳にして位を捨てて出家し、インドの七十九か国、九万里を歩き回って、諸経、諸論、諸宗を学び、北インドの金栗王の下で祈請こらしている時に、虚空の中に大日如来を中央とした胎蔵界の曼荼羅が顕われたという。そこでこの正法をひろめようと決めて中国へ渡り、唐の玄宗皇帝に重く用いられて、真言の密教を授けた。その中国へ渡って真言をひろめる時、一行という天台宗の僧をかたらって、数々の謀略をたくらみ、理同事勝という謗法の根源をつくったことは、本文に詳しく述べられているとおりである。
さて善無畏は、一時に頓死した。数多くの獄卒が来て鉄縄を七筋かけ閻魔王宮へつれていった。王位を捨てて仏道に入り、遠く中国まで弘教して、皇帝からも厚く信用されたような三蔵が、どうして閻魔の責めを受けなければならなかったのか。日蓮大聖人は二つの失ありとて、善無畏三蔵抄にいわく「一つには大日経は法華経に劣るのみに非ず涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を法華経に勝れたりとする謗法の失なり、二つには大日如来は釈尊の分身なり而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり」(0887:12)と。
また下山御消息にいわく「善無畏三蔵は閻魔王のせめにあづかるのみならず又無間地獄に堕ちぬ、汝等此の事疑あらば眼前に閻魔堂の画を見よ」(0316:09)と。当時、鎌倉の閻魔堂などには、善無畏が獄卒に呵責され、「今此三界」等の法華経の偈を唱えて、ようやく鉄縄が切れた図がかかげられていたと思われる。また、大日経の疏には、善無畏みずから堕地獄のありさまを書いているのである。