曽谷入道殿御返事(文字即仏の事)
文永12年(ʼ75)3月 54歳 曽谷教信
本文
方便品の長行、書き進らせ候。先に進らせ候いし自我偈に相副えて読みたもうべし。
この経の文字は、皆ことごとく生身妙覚の御仏なり。しかれども、我らは肉眼なれば文字と見るなり。例せば、餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれども、果報に随って別々なり。この経の文字は、盲眼の者はこれを見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る。仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり。「即ち仏身を持つ」とは、これなり。されども、僻見の行者は、かようにめでたくわたらせ給うを破し奉るなり。
ただ相構えて相構えて、異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし。「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」とは、六波羅蜜経の文ぞかし。委細は見参の時を期し候。恐々謹言。
文永十二年三月 日 日蓮 花押
曽谷入道殿
現代語訳
方便品の長行を書写して差し上げた。先に差し上げた自我偈に添えて読まれるように。この経の文字は一字一字、ことごとく生身の妙覚の仏である。しかしながら、我等凡夫は肉眼なので、ただ、文字と見るのである。例えば餓鬼道のものは恒河を火と見、人間は水と見、天人は甘露と見る。水は同じでも果報によって別々なのである。それと同じように、この経の文字は盲目の者はこれを見ることができず、肉眼の者は文字と見、二乗は虚空と見、菩薩は無量の法門と見、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧になるはずなのである。経に「即持仏身」とあるのはこのことである。けれども、僻見の行者はこのように尊い御経を破っているのである。ただ、用心に用心をして異念なく、一心に霊山浄土に参れるよう期せられるべきである。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文である。委細はお会いした時に申し上げる。恐恐謹言。
文永十二年三月 日 日 蓮 花 押
曾谷入道殿
語釈
方便品
妙法蓮華経方便品第二のこと。法華経迹門正宗分の初めに当たり、迹門の主意である開三顕一の法門が展開されている。無量義処三昧に入っていた釈尊が立ち上がり、仏の智慧を賛嘆しつつ、自らが成就した難解の法を住如是として明かし、一仏乗を説くために方便力をもって三乗の法を設けたことを、十方諸仏・過去仏・未来仏・現在仏・釈迦仏の五仏の説法の方程式を引いて明かしている。
自我偈
寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
生身妙覚の御仏
生身は肉身の意。妙覚の仏は元品の無明を断じ、一切の因行果徳を具足した仏のことで、生きている仏のこと。
餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
恒河
ガンジス河のこと。
天人
天界および人界の衆生。
甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
心の師とはなるとも心を師とせざれ
六波羅蜜経巻七に「常に心の師と為るとも心を師とせざれば卒暴有ることなし」とある。
六波羅蜜経
中国・唐の罽賓国・般若三蔵の訳10巻、大乗理趣六波羅蜜経のこと。
講義
本抄は、文永12年(1275)3月、日蓮大聖人が54歳の御時、身延においてしたためられ、曽谷教信に与えられた御消息である。なお、この年は4月25日に、年号が「建治元年」と改元されている。
この年は、曽谷教信の父が弘長3年(1263)に死去してから13回忌にあたっており、故聖霊の追善回向のために、御供養を大聖人に奉ったのであろう。この13回忌のことについては、本抄御述作の後、翌4月にしたためられたと拝される法蓮抄に教信自らが回向のために法華経五部を転読したこと、またこの13年間、自我偈を読誦し回向してきたことが記されている。しかも、自我偈読誦の功徳を述べられた個所では「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり」(1050:10)等とあり、ほとんど本抄と同文の内容となっている。この繰り返しは、おそらく教信からの諷誦の状に対して、まず、書写した「方便品の長行」に添えて短文の本抄が送られ、後に長文の法蓮抄が与えられたのではないかと推察される。
本抄の内容は、初めに方便品と自我偈の読誦を勧めておられる。そして、文底の深義のうえから、この経の文字は「事の一念三千」の法を説き明かしているとともに、一字一字が「生身妙覚の御仏」であり、人法体一であることを示されて、この経を信受し読誦することが、即仏身を持つ、すなわち我が身の即身成仏になることを教えられている。だが、我見を構える行者はこの尊い成仏の直道を破ると戒められ、心して教えどおりに信心修行していくよう勧められている。
日蓮大聖人は、曽谷教信にすでに法華経の本門寿量品の「自我偈」を書写して与えられていたようである。それが、この十三年間、故聖霊のために読誦してきたという「自我偈」であろうか。このたびは、迹門の「方便品の長行」を書写して与え、先の「自我偈」に相添えて読誦するよう述べられ、これからは、毎日の勤行において、方便・寿量の二品を読誦すべきことを教えられたものと拝される。
法華経二十八品のなかで方便品は迹門十四品の要であり、寿量品は本門十四品の要である。余の二十六品は皆、この二品の枝葉となるのである。このことは、月水御書に「寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり(中略)されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候」(1202:02)と仰せのとおりである。
大聖人の仏法は、法華経の本門寿量品・文底下種の事の一念三千の南無妙法蓮華経をもって正意とし、究極の法体として御本尊とする。修行においては、御本尊を信受して正行と助行を立て、正行には題目を唱え、助行としては、正に本門の要である寿量品、傍に迹門の要である方便品を読誦するのである。成仏のための種子は御本尊を信受して、正行の題目を唱えることに限るわけであるが、その妙法の大功徳を助顕するために、方便・寿量の二品を読誦するのである。
しかも、「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり」と仰せられ、一々の文字が尊極の仏と顕れることを示されている。すなわち、この御文は文底の大事である文字即仏、人法体一の深意を示されている。「此の経の文字」とは、いうまでもなく、法華経二十八品の文字である。「生身妙覚の御仏」とは、本来、生身とは父母所生の肉身である凡夫のことであるが、この場合は生きた仏の生命の意である。妙覚とは悟りの極位に到達した仏を意味する。法華経は、釈尊の仏としての悟りを説き明かした経であるゆえに、その文字はことごとく生身妙覚の仏であると仰せられているのである。
これほど尊いこの経の文字であるけれども、凡愚の肉眼では、ものの表面しか見ず、文字即仏の尊い当体を、ただの文字としか見ることができない。
ものをどのように見、どのように受け止めるかは、見る者の「果報に随つて別別なり」と仰せである。果報とは、過去の業因によってもたらされた現在の生命の境界であり、十種の生命境界となって顕現する。
この十界に従って、ものの見方、受け止め方が異なるのである。例えば、同じ水であっても、貪りの餓鬼の境界にある者は、生命の渇きを潤すよりも我が身を焼く業火に見え、平穏な人間らしい境界にある者は普通の水と見、喜びの天界にある者は身心を清め、寿命を延ばす尊い甘露と見るように、生命の境界によって受け止め方が異なるのである。
この経の文字についても、同じことが言える。盲目の人は文字を全く見ることができない。凡夫は、目は見えても、ただの文字としか見ない。
仏法では、仏道修行によって身心を磨き、境界を高めていくことにより、肉眼のうえに、心の眼、生命の眼として天眼・慧眼・法眼・仏眼が具わることを説いている。声聞縁覚の二乗の境界には慧眼を具えているが、それは一切の諸法を実体のない空理であると悟る智慧の眼であって、文字を空と見る。菩薩の境界には法眼を具え、衆生済度のための無量の法門と見る。仏の境界には仏眼を具え、一々の文字を金色の釈尊、すなわち常住不変の生命の輝きをもつ仏なりと見ることができるのである。
しかし、「僻見の行者」すなわち邪見にとらわれた者は、このように尊い御経を爾前権経と同等視したりして破るのである。ただ用心に用心を重ねて邪義に惑わされ法華経以外にも成仏の道があるとするような異念をいだくことなく、妙法への正しき信心の一念を決定して、成仏を願い霊山浄土を期していかなければならないのである。
そのためにも、大事な信心の要諦は、六波羅蜜経に「常に我が心の師となって、心を師としてはならない」と戒めているように、常に仏説を根本として自分の一念に対し「師」となって自分の心を正信へ導いていくことである。