新尼御前御返事

新尼御前御返事

 文永12年(ʼ75)2月16日 54歳 新尼

第一章(甘海苔の供養に故郷を想う)

 本文

   あまのり一ふくろ、送り給び畢わんぬ。また大尼御前よりあまのり、畏り入って候。
この所をば身延の岳と申す。駿河国は南にあたりたり。彼の国の浮島がはらの海ぎわより、この甲斐国波木井郷・身延の嶺へは、百余里に及ぶ。余の道千里よりもわずらわし。富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。この河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして、高き屛風を立て並べたるがごとくなり。河の水は筒の中に強兵が矢を射出だしたるがごとし。この河の左右の岸をつたい、あるいは河を渡り、ある時は河はやく石多ければ、舟破れて微塵となる。
かかる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屛風を四つついたてたるがごとし。峰に上ってみれば、草木森々たり。谷に下ってたずぬれば、大石連々たり。大狼の音山に充満し、猿猴のなき谷にひびき、鹿のつまをこうる音あわれしく、蟬のひびきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。たまたま見るものは、やまがつがたき木をひろうすがた、時々とぶらう人は、昔なれし同法なり。彼の商山の四皓が世を脱れし心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山も、かくやありけん。峰に上って、わかめやおいたると見候えば、さにてはなくして、わらびのみ並び立ちたり。谷に下って、あまのりやおいたると尋ぬれば、あやまりてやみるらん、せりのみしげりふしたり。
古郷のこと、はるかに思いわすれて候いつるに、今このあまのりを見候いて、よしなき心おもいいでて、うくつらし。かたうみ・いちかわ・こみなとの磯のほとりにて昔見しあまのりなり。色・形・あじわいもかわらず。など、我が父母かわらせ給いけんと、かたちがえなるうらめしさ、なみだおさえがたし。

現代語訳

  あまのりを一袋お送りいただいた。また、大尼御前からのあまのりもかたじけなく思う。

この所は身延の嶽という。駿河の国は南にあたっている。その国の浮島が原の海際から、この甲斐の国、波木井の郷の身延の山までは百余里であるが、他の道の千里よりもわずらわしい。富士川という日本一の流れの早い川が北から南へ流れている。この川は東西は高山で、谷が深く、川の左右は大石で、高い屏風を立て並べたようになっている。川の水は筒の中に強い兵が矢を射出したように早い。

この川の左右の岸をつたい、あるいは川を渡ると、ある時には川の流れが早く、岩が多いために舟がこわれて微塵になってしまう。このような所を過ぎて行くと身延の岳という大山がある。東は天子の嶺、南は鷹取りの嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺である。高い屏風を四つ衝い立てたようである。峰に登って見れば草木が森々と茂っており、谷に下ってみれば大石が連々としている。狼の声が山に充満し、猿のなき声は谷に響き、鹿がメスを恋い鳴く声はあわれをもよおし、蝉の鳴く声は騒がしい。春の花は夏に咲き、秋の菓は冬に実る。たまに見るものはやまがつが薪を拾う姿で、時々訪ねて来る人はといえば昔から親しい同朋ぐらいである。中国の商山の四皓が世をのがれた心地や、竹林の七賢が姿を隠した山の様子も、このようだろうと思われる。

峰に登ってわかめが生えているかと見れば、そうではなくてわらびだけが一面に生え並んでいる。谷に下ってあまのりが生えているのか、と見てみれば、そうではなくて芹だけが茂り伏している。このように故郷の事は久しく思い忘れていたところへ、今、このあまのりを見てさまざまなことが思い出されて悲しく、辛いことである。片海、市川、小湊のほとりで、昔見たあまのりである。色や形や味も変わらないのに、どうして我が父母は変わられてしまわれたのだろうと、方向違いのうらめしさに涙を押えることができない。

語釈

 あまのり

浅草のりや佃煮の原料となる紅藻ウシケノリ科アマノリ属の総称名で,主な種類にアサクサノリ、スサビノリなどがある。熱帯域を除く世界各地の沿岸に分布する。体は膜質,紅紫色で、形はササの葉の形や不規則な円形のものなどが多い。大きさは種類によりまちまちであるが、10~20cmのものが多く、また20cm以上になるものや、5cm以下のものもある。日本沿岸には約20種類が生育し,体が1層の細胞からできている種類と2層の細胞からできている種類がある。

大尼御前

生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の信徒。大聖人の御聖誕地・安房国長狭郡東条(千葉県安房郡・鴨川市の一部)の領主・名越遠江守朝時の妻とされる。領家の尼、名越の尼ともいう。大尼は大聖人に帰依し、大聖人や御両親を世話した。しかし信心は不安定で竜の口法難の際、退転した。

身延の嶺

山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。

駿河の国

東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。

浮島がはら

静岡県東部。愛鷹山南麓、沼津市原から富士市鈴川に及ぶ一帯。

甲斐の国

甲州ともいう。山梨県のこと。

波木井の郷

山梨県南巨摩郡身延町波木井のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。

冨士河

冨士川のこと。山梨県釜無川・笛吹川を源流とし、甲府盆地の水を集め、富士山西麓を南下して駿河湾にそそぐ川。全長129㌔。日本三大急流のひとつ。

天子の嶺

天子ヶ岳のこと。静岡県富士宮市と山梨県南巨摩郡の境にある山。

鷹取りの嶺

鷹取山のこと。山梨県南巨摩郡にある山。七面山の東、身延山の南にある。

七面の嶺

七面山のこと。山梨県南巨摩郡にある高山。頂上部の東面に「なないたがれ」と呼ばれる七つの断崖があるところから七面山という。

大狼

イヌ科イヌ属に属する哺乳動物。広義には近縁種も含めることがあるが、通常はタイリクオオカミ(Canis lupus)一種を指す。多数の亜種が認められている。同属の近縁種としてアメリカアカオオカミ、コヨーテ、アビシニアジャッカルなどがいる。

猨猴

さるのこと。

やまかつ

猟師・きこりなど、山中に生活する身分の低い人。また、ひろく身分の卑しい者をいう。

同朋

なかま、どうほう。

商山の四皓

商山は商洛山のことで、中国陝西省商県の南部にある山。秦代の末に国乱を避け、この商山に入った東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生の四人の隠士のこと。四人とも髪と眉が皓白の老人であったところから四皓と称された。

漢の高祖・劉邦は性格の柔弱な盈太子に譲位しないで、戚夫人の子・隠王如意を立てようとした。この時、盈太子の母・呂皇后は高祖の功臣・張良と謀り、四皓を盈太子の補佐役とした。高祖はこの四人が高齢ながら威容を持つ商山の四君子であることを知り、盈太子の廃嫡をやめ、帝位を譲り、第二代恵帝とした。

竹林の七賢

中国・三国時代の魏に集まった七人の賢者。阮籍、嵆康、山濤、阮咸、向秀、劉伶、王戎のこと。世間に絶望して、老荘と神仙の超越的な世界にあこがれた七人が、河南省の竹林に集まって酒と音楽と清談に興じたといわれる。しかし、これら七人が一堂に会したことはないものと思われ、後世の創り話とされる。

わかめ

日本海側では北海道以南、太平洋岸では北海道南西部から九州にかけての海岸、朝鮮半島南部の両岸の、低潮線付近から下に生育する。根状の部分で岩などに固着し、葉状部を水中に伸ばし、長さは2mにも達する。葉状部の中心には主軸があって、それを中心に左右に広く伸び、大きく羽状に裂ける。広がった葉の基部には、とても厚くなった葉状部がちぢまり、折れ重なったような部分がある。これをメカブと呼び、生殖細胞が集まっている部分である。

わらび

シダ植物の1種。コバノイシカグマ科。かつてはイノモトソウ科に分類されていた。草原、谷地、原野などの日当たりのよいところに群生している。酸性土壌を好む。山菜のひとつに数えられている。

せり

湿地やあぜ道、休耕田など土壌水分の多い場所や水辺の浅瀬に生育することもある湿地性植物である。高さは30cm程度。泥の中や表面を横に這うように地下茎を伸ばす。葉は二回羽状複葉、小葉は菱形様。全体的に柔らかく黄緑色であるが、冬には赤っぽく色づくこともある。花期は7~8月。やや高く茎を伸ばし、その先端に傘状花序をつける。個々の花は小さく、花弁も見えないほどである。北半球一帯とオーストラリア大陸に広く分布する。

古郷

こきょうのこと。

よしなき心

理由のない、わけのわからないことを思いやること。

かたうみいちかはこみなと

安房国の東条郷にあった地名。大聖人の御聖誕の地であり、幼年期を過ごされた地である。大聖人御在世当時は安房国長狭郡東条郷の漁村であり、東条景信が地頭職にあった。なお、かたうみ、いちかはの地は、ともに明応・元禄の両度にわたる地震と津波で海中に没したといわれている。

かたちがへなる・うらめしさ

方向違いの恨み、見当違いの思い。

講義

  この御手紙は、文永12年(1275)2月16日、御年54歳の時、身延においてしたためられた。内容は、新尼から、大尼の御供養の甘海苔も添えて送り、御本尊の授与を願い出たことに対する御返事である。

日蓮大聖人は、文永11年(1274)5月、「本よりごせし事なれば三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」(0932:種種御振舞御書:01)と仰せられ、奥深き身延の山中に入られた。以来約九か月、訪う人もまれな山中の大聖人のもとへ、新尼から便りが届き、故郷である安房東条郷の海の香りをただよわす甘海苔の御供養が送られてきた。本抄は、まず、この甘海苔によって喚起された故郷への思慕の情を切々と述べられている。

身延の模様を語られた御書はいくつかあるが、入山後、本抄が最初である。身延への道のり、周囲のけわしい山々、そして山中の日々について、詳しく語られている。身延山中での御生活と対比されて、海浜の地である故郷を懐かしみ、父母を想われるおさえがたい真情が拝される御文である。

 

 

第二章(御本尊の前代未聞なるを述ぶ)

 本文

此れは・さて・とどめ候いぬ、但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされて・おもひわづらひて候、其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いし・あまたの三蔵・漢土より月氏へ入り候いし人人の中にもしるしをかせ給はず、西域慈恩伝・伝燈録等の書どもを開き見候へば五天竺の諸国の寺寺の本尊・皆しるし尽して渡す、又漢土より日本に渡る聖人日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候、寺寺の御本尊皆かんがへ尽し・日本国最初の寺・元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば其の寺寺の御本尊又かくれなし、其の中に此の本尊は・あへてましまさず。

  人疑つて云く経論になきか・なければこそ・そこばくの賢者等は画像にかき奉り木像にも・つくりたてまつらざるらめと云云、而れども経文は眼前なり御不審の人人は経文の有無をこそ尋ぬべけれ、前代につくりかかぬを難ぜんと・をもうは僻案なり、例せば釈迦仏は悲母・孝養のために忉利天に隠れさせ給いたりしをば一閻浮提の一切の諸人しる事なし、但目連尊者・一人此れをしれり此れ又仏の御力なりと云云、仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事・法爾の道理なり、例せば大海の潮の時に随つて増減し上天の月の上下にみちかくるがごとし。

 

現代語訳

  それはさておく。ところで大尼御前の御本尊の御事を仰せつかわされて日蓮も思い悩んでいる。そのわけは、この御本尊はインドから中国へ渡った多くの三蔵、また中国から月氏の地に入った人々のなかにも書き残されていない。西域記や慈恩伝、伝燈録などの書を開いてみれば、五天竺の諸国の寺々の本尊は、皆ことごとく記されて伝えられている。また中国から日本に渡った聖人、日本から中国に入った賢者等が記された寺々の本尊を皆調べてみた。日本国の最初の寺、元興寺や四天王寺等の多くの寺々の日記や、日本紀という書をはじめとして多くの日記に残りなく記されているから、その寺々の本尊もまた明らかである。それらのなかに、この御本尊はいっこうに記されていない。

人は疑っていう。「それは、経論にないからこそ、多くの賢者等は画像にもかかれず、木像にも造立されなかったのであろう」と。しかし、経文には明らかである。不審に思う人々は経文に有るか無いかをこそ尋ねるべきである。前代に造りかいてないのを非難しようと思うのは僻案である。たとえば、釈迦仏は、御母の孝養のために忉利天に隠れられたのを一閻浮提の一切の人々は知る事がなかった。ただ目連尊者一人がこれを知っていた。このように人々に分からないようにしたのは、仏の御力によるといわれている。仏法は眼前であっても、機根がなければ顕れず、時が至らないと弘まらないことは、法の道理である。たとえば大海の潮が時にしたがって増減し、天の月が時にしたがって上下に満ち欠けるようなものである。

 

語釈

大尼御前の御本尊の御事

大尼御前が、大聖人に御本尊の授与をお願いしてきたこと。大尼御前は竜口の法難の際、退転したが、再び信心を始めたのであろう。

 

天竺

古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

三蔵

①仏教聖典を三つに分類した経論・律論・論蔵のこと。②三蔵に通達している法師のこと。③仏典の翻訳者のこと。④声聞蔵・縁覚蔵・菩薩蔵のこと。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前二世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

西域

西域とは、中国から見て西の地域をいう。ただし、ここでは西域を旅行し、インドまで仏法を求めた玄奘の見聞記「大唐西域記」十二巻をさす。

 

慈恩伝

玄奘三蔵の伝記で全十巻。唐の慧立の伝本五巻に対し、彦悰が箋し、完成したものといわれる。正しくは「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」。前五巻は西域・インド紀行の事跡が記され、後の五巻には帰国後の訳経、講述などの事跡が記されている。

 

伝燈録

景徳伝燈録のこと。三十巻。中国・宋代の禅僧・道原の撰と伝えられる。毘婆尸仏、釈迦牟尼仏等の七仏、摩訶迦葉、阿難等の天竺十四祖から法眼文益に至るまでの禅宗5521701名に及ぶ伝記と歴史が詳述されている。

 

五天竺

インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。

 

漢土より日本に渡る聖人

中国から日本に渡ってきて多くの仏典を伝えた僧侶。

 

日域より漢土へ入る賢者

日本から中国に渡って仏典を日本に持ち帰った僧侶。

 

元興寺

奈良市にある華厳宗の寺院。飛鳥寺のこと。南都七大寺のひとつ。曽我馬子の発願によって飛鳥の地に建立された。

 

四天王寺

天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。

 

日本紀

日本書紀のこと。単に紀ともいう。全三十巻。舎人親王編。養老4年(0720)に完成した勅撰の正史で、六国史の第一番目。古事記と並ぶ日本最古の古典の一つ。

 

経論

三蔵のうち経蔵・論蔵をいう。経は仏が説いたところの教法。論は仏みずから問答論議して理を弁じたもの。また仏弟子が仏語を論じ、法相を講じたもの。

 

画像

絵像・絵画に書いた仏・菩薩像。

 

木像

木に彫られた仏・菩薩の像。

 

僻案

誤った教えや見解のこと。

 

忉利天

梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

目連尊者

梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。

 

機なければ顕れず

機は仏の説法を聞き、受け入れて発動する衆生の可能性。衆生に仏法を聞く機根がなければ、仏法は仏によって説かれず顕われないということ。

 

法爾の道理

法爾とは本来あるがままのすがたをいう。すなわち自然のことわりの意。

 

講義

この章までは、大尼御前から御本尊を授与してほしいとの申し出があったことに対して、大尼御前には御本尊を授与するわけにいかないので困っていると仰せられ、授与できないその理由として御本尊の甚深の義について述べられるのである。

そこで、御本尊の授与を安易に許さない理由として、まず御本尊のかぎりない尊厳を明かし、つぎに御本尊を受持していくうえでの信心の姿勢を御教示されているのである。

仏法流布の歴史は、インドに始まり、西域、中国、日本へと、二千年をこえる重厚なる伝統がある。その歴史は、優れた多くの人々の貴重な記録文献によって辿ることができる。

大聖人は、インド・西域について記録された玄奘三蔵の有名な「大唐西域記」をはじめとして、中国、日本について記録されたすべての文献をもひもとかれたが、大聖人が顕された南無妙法蓮華経の御本尊に関しては、インドにも、中国にも、日本にも、全く記録が見当たらない。つまり、いまだ誰も顕したことのない御本尊であると断言されたのである。

このように、大聖人の「此の御本尊」が未曾有の御本尊であることを述べられた真意は、大聖人がこの御本尊を顕されることに容易ならざる意義があることを示唆されているのである。

本尊とは教法の骨髄、宗旨の根源を顕示するものであり、信仰者にとって絶対帰依の当体である。故に、大聖人にあっても、末法万年のために御本尊を顕すことに一期弘法の究極、出世の本懐があった。しかも、大聖人が御本尊を顕し始められたのは、竜の口法難によって発迹顕本され、末法の御本仏の御境界を開顕されて以後である。

大聖人は、この竜の口、および佐渡の難を基点とされて以前と以後とに一線を画し、重要な教判を示されている。すなわち、三沢抄に「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(148907)と仰せられ、佐渡以前の法門は爾前経のようなものであり、佐渡以後に大聖人究竟の文底下種の仏法が展開されていることを明示されたのである。

文永9年(1272220日、最蓮房に与えられた草木成仏口決に「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず」(1339:13)と。

また、文永10年(1273815日、四条金吾夫妻に与えた経王殿御返事には、授与された御本尊について「其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり」(1124:03)とあり、さらに「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124:11)と。

さらに、千日尼への妙法曼陀羅供養事にも「此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(1305:04)と仰せである。

これらの御文は、大聖人の御本尊の御図顕が過去二千年の釈尊の仏法と根本的に異なる末法の大白法であることを示されたものといえよう。

しかしながら、このように「此の御本尊」は前代未顕ではあるが、釈尊の悟りの究極にあったものであり、仏法の正統であることを明らかにされる。

そのために、まず、前代に顕されていないことについて経論に説かれていないからこそ、だれも顕さなかったのではないかという世人の疑問を挙げられている。すなわち、この疑問には、過去に多くのすぐれた仏法の智者・学者がいたにもかかわらず、その誰も顕さず述べてもいないということは、それが経論にないからであり、大聖人は勝手に我見をもって本尊を顕したのではないか、という疑惑、非難が込められているのである。

だが、大聖人は、こうした考え方に対して、経文の有無をこそ問うべきであると、破折されている。この短い御言葉に仏法者の基本姿勢である〝仏説・経典を根本の依所とする〟との厳然たる態度を拝することができる。

釈尊は、滅後の仏法者に遺言として、涅槃経に「依法不依人」――法に依って人に依らざれ――等と戒めているように、仏法者であれば、だれびとたりとも仏説・経典を根本とすべきである。ゆえに、大聖人御自身、開目抄にも「普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず」(0219:07)と仰せられ、また天台大師の文を引いて「文無く義無きは信受すべからず」と戒め、伝教大師の文を引いて「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」と述べているのである。

したがって、前代未聞の御本尊について、不審をいだく人、納得できない人は、まずはじめに経文の有無を問いただすべきなのである。しかるに前代の論師・人師が述べず顕さなかったから経文にないのだときめつけるのは、本末転倒である。原典の経文・仏説を根本とせず、論師・人師の説を根本としたところに、諸宗が邪義に陥った最大の因があったのである。また、数の多少を判断の基準にして、日蓮大聖人ただ一人だから間違っていると非難するのは、全くの誤りである。

たとえ一人であっても、正見の人がいる場合がある。その例を仏典に依って示されている。昔、釈尊が悲母・摩耶夫人の孝養のために忉利天へ昇ったことを、人々は皆知らなかった。そのことを、目連尊者一人だけが知っていた。このように、人々に見抜けなかったのは仏の神通力によると説かれているのである。

大聖人は、目連尊者のみが釈尊の忉利天訪問を知っていたとの例に託されて、釈尊が滅後末法のために「此の御本尊」を説き示しているにもかかわらず、ただ日蓮大聖人御一人がそれを知って顕されたことを示されたのである。

なお、この大聖人御一人が知っておられるということは、次に末法弘通の使命が本化上行菩薩に託されたことを述べられる伏線ともなっているのである。

そして、この御本尊が前代未顕である理由を示して「仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事・法爾の道理なり」と仰せられている。

仏法弘通の条件には、四つの義がある。迦葉・阿難等が大乗仏法を知ってはいたが弘めなかった理由として、曾谷入道殿許御書に「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028:16)と仰せである。これは、末法弘通の法についてもあてはまる条件である。

自身が堪えられない、仏から譲り与えられていないとの二つは、仏法を弘通する人の主体的条件であり、衆生の機がない、時が来ていないとの二つは、仏法を受け容れる側の客観的条件である。厳密にいえば、正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台・伝教等は、御本尊について知ってはいたが、弘めなかったし顕すこともしなかった。それは、これらの理由からであったのである。

 

 

第四章(東条郷が日本の中心なるを示す)

 本文

而るを安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり、昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅かりしかば、太神・瞋りおぼせし時・源右将軍と申せし人・御起請文をもつて・あをかの小大夫に仰せつけて頂戴し・伊勢の外宮にしのび・をさめしかば太神の御心に叶はせ給いけるかの故に・日本を手ににぎる将軍となり給いぬ、此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う、されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず安房の国東条の郡にすませ給うか、例えば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国・男山に移り給い、今は相州・鎌倉・鶴が岡に栖み給うこれも・かくのごとし。

 

現代語訳

  ところで、安房の国の東条の郷は辺国であるけれども、日本国の中心のようなものである。そのわけは天照太神がこの地に跡を垂れたからである。昔は伊勢の国に跡を垂れておられたが、国王は八幡大菩薩や加茂の明神の御帰依が深く、天照太神の御帰依が浅かったので太神がお瞋りになっていたとき、源右将軍頼朝という人が御起請文を書いて会加の小大夫に申し仰せつけていただきささげ、伊勢の外宮にひそかに御納めしたところ、太神の御心に叶ったのであろう。日本を手中におさめる将軍となった。その源頼朝は東条の郷を天照太神の御栖と定められた。そのため、この太神は伊勢の国にはおられず、安房の国・東条の郡に住まわれるようになったのであろう。例えば八幡大菩薩は昔は西府においでになったが、中ごろは山城の国の男山に移り、今は相州鎌倉の鶴が岡に栖まわれているのと同様である。

 

語釈

安房の国

千葉県南端部。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222216日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。

 

東条の郷

安房の国長狭軍東条郷(千葉県鴨川市広場)のこと。

 

天照太神

「あまてらすおおみかみ」といい、大日孁貴・日の神とも呼ばれる。伊弉諾・伊弉冉二神の第一子で、大和朝廷の祖先神とされ、日本書紀、古事記などでは主神となっている。仏法上では守護神の一人とされる。

 

伊勢の国

東海道15ヵ国のひとつ。古くから皇大神宮の鎮座地として開け、大化の改新で一国となる。現在の三重県。

 

八幡

天照太神と並んで広く崇拝された神で、古くは農耕を守る神であったが、日本国百代の王を守護する請願を立てたと伝えられる。仏教との混淆のなかで正八幡大菩薩とも呼ばれるようになった。また、武士の台頭とともに、武士の守護神とされ、とくに源氏に厚く信仰された。仏法においては、諸天善神の一人とし、法華経の守護神としている。

 

加茂

京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社と同市左京区下鴨泉川にある賀茂御祖神社とを総称して賀茂神社という。両社はそれぞれ賀茂川の上流と下流にあり、それぞれ上賀茂社・下賀茂社、または上社、下社などと呼ばれる。上社の祭神は賀茂別雷命で、下社はその母・玉依姫命と外祖父・賀茂建角身命を祭る。社伝によると、社殿の創建は天武天皇の6年(0678)とされ、この地方の豪族賀茂氏が奉斎していた。平安遷都の後はとくに皇室の崇拝をうけ、王城鎮護の神とされ、伊勢神宮に準ずる規模と待遇を誇った。

 

源右将軍

11231160)。源義朝のこと。平安時代後期の武将。為義の子で頼朝の父。保元の乱の時に、平清盛とともに後白河天皇方に味方して勝利し、崇徳上皇方についた父の為義を斬った。その後、平清盛の進出に不満をもち、藤原信頼と結んで挙兵した。いったんは政権を掌握したが、天皇・上皇ともに内裏を脱出し六波羅に移動したため、一転して賊軍となった義朝は戦に敗れ、東国に逃れる途中、尾張で長田忠致に謀殺された。

 

御起請文

誓約書のこと。

 

あをかの小大夫

会賀の小大夫とも書く。会賀次郎大夫生倫のこと。東条御厨の神主。吾妻鏡巻三には「安房国東条御厨、会賀次郎大夫生倫に付せられ訖」とあり、源頼朝より東条御厨の神主として委託された人。

 

伊勢の外宮

伊勢神宮の豊受大神宮のこと。

 

西府

律令制下に西海道(九州)総管と大陸に対する外交折衝のうえで重要な役割をもっていた九州・筑前の大宰府のこと。この近くの宇佐八幡宮が八幡信仰の最古の中心で総本社とされる。

 

山城の国

京都府の南半部の旧名。畿内の一国。上国。奈良時代には山背国、山代国と書いた。奈良京から「山のあなた」とされたところ。古くから文化が開け、秦氏や高麗氏らの帰化人が住んだ。京都市太秦の広隆寺は秦河勝が聖徳太子から授かった仏像を安置した寺と伝え、木津川市に高麗寺跡があることはこれを物語る。

 

男山

京都府綴喜郡にある、標高143㍍。この地に石清水八幡宮がある。

 

相州・鎌倉・鶴が岡

相模国(神奈川県)の鎌倉にある鶴岡八幡宮のこと。康平6年(1063)に源頼義が安倍貞任征伐に向かった時、京都の石清水八幡宮の分霊を由比郷の鶴岡に祀ったのが始まり。その後、源頼朝が小林郷に移し、ここを下宮とし、後方の山上に本殿として上宮を建てた。以後、鎌倉幕府の庇護を受けて栄えた。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。

 

講義

日蓮大聖人の御聖誕の地であり、しかも、末法の大白法たる南無妙法蓮華経の第一声が放たれた安房の国・東条郷が、日本民族にとって深い意義を持った地であることを述べられている。

 

而るを安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし

 

東条郷について、政治や文化が栄え日本の中心とされている京・鎌倉からみれば、はるかに未開の辺地であり、遠国であるが、日本の民族の祖先神とされる天照太神を中心にみた場合は、安房・東条の郷こそ「天照太神・跡を垂れ」ている地であるが故に日本の中心といえる、と仰せである。

天照太神は八幡大菩薩と並んで、日本古来の民族信仰の対象として、最も権威ある地位を占めていた。八幡が衣食等の国土の恵み、物資の生産力を象徴するのに対し、天照太神は民族の祖先神と考えられる。

この天照太神は、昔、伊勢の国に神社があって祀られていたのである。この神社への供物を確保するための所領を神領とも御厨ともいい、権力者・勢力家がそれぞれの分に応じて、古来、御厨を寄進した。源頼朝は平氏を滅ぼし権力をめざすにあたり、起請文を書き、天照太神を奉じて、伊勢の外宮に納めた。このことが天照太神の心に叶ったのであろうか、日本の政権を握る征夷大将軍となったのである。そこで、頼朝は東条郷を御厨として寄進し、天照太神のすみかと定めたのである。

このことは、聖人御難事にも「安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり」(1189:01)と仰せられており、はじめは東条郷の御厨は日本の中でも第二の神領であった。これは、頼朝が平氏に代わって実権を握ったものの、まだ朝廷の権威には従わなければならず、それを超える御厨を寄進することはできなかったからである。

しかるに承久の乱(1221)によって、鎌倉幕府は朝廷方を打ち破り、気兼ねなく第一の御厨を寄進できることとなった。「今は日本第一なり」と仰せられるゆえんである。

ともあれ、神がその座を遷されるということは他にもあることで、八幡大菩薩の場合もこれと同じことがいえる。昔は九州筑前の太宰府に近い宇佐八幡宮にいたが、次いで山城の国・男山の石清水八幡宮に移り、今は幕府の所在地である鎌倉の鶴岡八幡宮をすみかとしているのである。

神は「正直の頭」に宿るのであって、この原理から、天照太神も八幡も、謗法に毒されることの少なかった東国に遷ったのである。しかし、今や、その東国も邪智謗法に毒されて〝不正直〟となってしまったため、神はこの国を去って天に上り、故に、年々に災害に見舞われる不幸な国となってしまったというのが「立正安国論」で示される〝神天上の法門〟である。今日においては、正法を行ずる人が「正直の人」であり、そこにのみ諸天善神は宿り加護をなすのである。

 

 

 

第五章(御本尊受持の信心を正す)

 本文

日蓮は一閻浮提の内・日本国・安房の国・東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり、随つて地頭敵となる彼の者すでに半分ほろびて今半分あり、領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき、日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり、日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師と・をぼしめされなん、又経文のごとく不信の人に・わたしまいらせずば日蓮・偏頗は・なけれども尼御前我が身のとがをば・しらせ給はずして・うらみさせ給はんずらん、此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ召して尼御前の見参に入れさせ給うべく候。

  御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候、さどの国と申し此の国と申し度度の御志ありてたゆむ・けしきは・みへさせ給はねば御本尊は・わたしまいらせて候なり、それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし、くはしくは又又申すべく候、それのみならず・かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候人人も・いまは世間やわらぎ候かのゆへに・くゆる人人も候と申すげに候へども・此れはそれには似るべくもなく・いかにも・ふびんには思いまいらせ候へども骨に肉をば・かへぬ事にて候へば法華経に相違せさせ給い候はん事を叶うまじき由いつまでも申し候べく候、恐恐謹言。
       二月十六日                       日蓮花押

     新尼御前御返事

 

現代語訳

日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡でこの正法を弘通し始めた。これに対して地頭が敵となったが、彼等はすでに半分亡びて半分を残すだけである。領家は偽りおろかで、あるときは信じ、あるときは破る、というように定まらなかったが、日蓮が御勘気を蒙った時に法華経を捨ててしまわれた。日蓮が前からお目にかかるごとに「法華経は信じ難く解し難し」と話してきたのはこのことである。日蓮にとって重恩の人であるから、助けてあげようとこの御本尊をしたためてさしあげるならば、十羅刹はきっと日蓮を偏頗の法師と思われるであろう。また経文に説かれているとおりに、不信の人に御本尊をさしあげないならば、日蓮は偏頗はないけれども、大尼御前は自身の失を知られず、日蓮を恨まれることであろう。その事は詳しく助阿闍梨の手紙に書いておいたので、呼ばれて尼御前にお目にかけていただきたい。

新尼御前は大尼御前とご一緒のようであるが、法華経への信心は形にあらわれておられる。佐渡の国までの御心尽くしといい、この国までといい、度々の厚い志で信心がたゆむ様子は見えないので、御本尊をしたためてさしあげたのである。しかし、この先はどうであろうかと思うと、薄い氷をふみ、太刀に向かうようである。詳しくは、また申しあげよう。それだけでなく、鎌倉でも御勘気のとき、千人のうち九百九十九人が退転してしまったが、それらの人々も今は世間も和らいできたためか、後悔している人人もあるということである。大尼御前はそれらの人々と全く違っているので、いかにもかわいそうだとは思うが、骨に肉を換えられない道理であるから、法華経に違背された人に御本尊をさしあげることはできないと、どこまでもお伝えください。恐恐謹言。

二月十六日             日 蓮  花 押

新尼御前御返事

 

語釈

此の正法

久遠名字の南無妙法蓮華経のこと。

 

地頭敵となる

安房国長狭郡東条郷の地頭が大聖人立宗宣言以来、ことごとく敵対したこと。

 

領家

中世の荘園制度ににおける荘園の領主のこと。

 

難信難解

法師品には「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」とある。信じがたく解しがたいとで、法華経の信解は及びもつかないほど甚深の義があることを言いあらわしている。易信易解に対する語。

 

十羅刹

仏教の天部における10人の女性の鬼神。鬼子母神と共に法華経の諸天善神である。

 

偏頗の法師

かたよった不公平の僧。

 

不信の人

正法を正しく信仰しない人。

 

助阿闍梨

安房国長狭郡東条郷の領家に親しく出入りしていた人であろうと思われるが、詳細は不明。大聖人の御弟子と思われるが、清澄寺の高僧であるという説もある。

 

さどの国

新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(127110月~文永11年(12743月までである。

 

講義

本抄は、新尼と大尼が御本尊の授与を願い出たことに対する御返事として、前章までのところで、大聖人の顕されたこの御本尊は仏法が説き顕した生命の究極、御本仏の尊極きわまりない当体であることを教えられた。

本章では、この御本尊の授与について、大尼の信心の姿勢をきびしく問い、大尼には授与を許さず、新尼には許すとの結論を示されているのである。

大尼御前について、御書の中で日蓮大聖人は〝領家〟あるいは〝領家の尼〟(0891)と呼称されている。この領家というのは、一定の地域の土地を領有している主家の意で、大尼は安房の国・東条郷を領していた領主の後家尼であったことから、領家の尼というのである。

また〝大尼〟とは、尼の子に嫁をめとらせたが、子が早く死んで嫁もまた後家尼となってしまったような場合、二人の後家尼を呼びわけるため、母尼を大尼、嫁尼を新尼と称したのである。なお、新尼は孫の妻であるともいわれている。

この領家と大聖人との関係は、大聖人の御生家が東条郷の片海の漁人であったことから種々あったと考えられるが、それも、領地内のただの住人という関係でなく、御書に「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」(0895-03)、また「日蓮が重恩の人」等と仰せられているように、領家は大聖人の御両親に特別の恩願をかけていたようである。

東条景信は、領家を未亡人とあなどってか、執権北条長時の父・極楽寺重時をうしろだてにして武力で圧迫し、領内を支配下において自由にしようとした。

こうした状況下で起きたのが、清澄・二間の二か寺の支配にかかわる対立抗争である。この時、大聖人は領家に味方され、景信の野望を打ちくだいて、二か寺を領家に取り戻している。詳しくは、清澄寺大衆中に語られているので、同抄の講義を参照されたい。

 

日蓮は一閻浮提の内・日本国・安房の国・東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり

 

東条の地から弘通を開始された大聖人の仏法が、一閻浮提に波及していく世界の大仏法であることを示されたものと拝するのである。

したがって、受難もまた初めて下種仏法のくさびを打ち込んだ東条の地から始まっている。立教開宗とともに、地頭の東条景信が、第一の敵となったのである。彼は建長5年(1253)から文永12年(1273)に至る20余年の間に、さまざまな迫害を加えているが、とくに大聖人が伊豆流罪から帰られて、悲母の御病気を心配され安房に帰郷された文永元年(1264)の1111日、兵を率いて、東条の小松原の地に大聖人を襲撃した。大聖人は身に傷をこうむり、大聖人を守っていた御門下の鏡忍房、工藤吉隆等は殉死している。小松原の法難である。景信はその後まもなく狂死したと伝えられている。

大尼は「いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なり」と指摘されているように、不安定な状況を続けてきたあげく大聖人の竜の口法難から佐渡流罪という大難の時に、一度退転してしまったのである。故に、たとえ世法のうえで「重恩の人」であろうと、仏法の道理のうえから不信退転の人には、御本尊の授与はできないと仰せられたのである。

つぎに新尼の信心について、大勢の不信の人にとりかこまれているけれども「御信心は色あらわれて候」と、求道心が実践によくあらわれていることを認められ、佐渡御流罪中も身延御入山後も退することなく持続している故に、御本尊を授与すると仰せられているのである。

さらに、大聖人は御本尊を受持してからの信心について「それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし」と、生涯求道の決意がなければ御本尊を受持できないことを心配され、うすい氷の上を踏み太刀に向かうような思いであると仰せられている。御本尊を受持してからが本格的な信心の始まりであり、生涯にわたって難を乗り越える信心の決意を固めよとうながされているのである。

ここに、新尼と大尼の信心の姿勢を相対させながら仰せられた、御本尊を受持するうえでの厳格な信心の御教示こそ、今日における信心の源流であり、また永遠にわたる信心の規範として継承していかなければならない。

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