主君耳入此法門免与同罪事(与同罪を免るるの事)
文永11年(ʼ74)9月26日 53歳 四条金吾
第一章(生命の尊厳を説く)
本文
銭二貫文、給び畢わんぬ。
有情の第一の財は、命にはすぎず。これを奪う者は、必ず三途に堕つ。しかれば、輪王は十善の始めには不殺生。仏の小乗経の始めには五戒、その始めには不殺生。大乗の梵網経の十重禁の始めには不殺生。法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒の功徳に当たって候品ぞかし。されば、殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ、六欲天もこれを守ることなし。この由は世間の学者も知れり。日蓮もあらあら意得て候。
現代語訳
銭二貫文いただきました。
有情の第一の財は命にすぎるものはない。これを奪う者は、必ず三悪道に堕ちる。それゆえ、転輪聖王は十善戒のはじめには、不殺生戒を守り、仏は小乗経のはじめには五戒を説き、そのはじめには不殺生戒を説いている。大乗の梵網経の十重禁戒のはじめにも不殺生戒を説いている。法華経の寿量品は、釈迦如来の不殺生戒の功徳に相当する品なのである。それゆえ、殺生をする者は、三世の諸仏に捨てられ、六欲天もこの人を守ることはない。このことは世間の学者も知るところであり、日蓮もだいたい心得ている。
語釈
銭二貫文
一貫文は銭千枚、千銭のことで、千文ともいう。したがって、銭二貫文は銭二千文のこと。当時の記録によると、銭一貫文で米150㎏が買えたとある。
有情
梵語の薩埵、薩埵嚩(sattva)の新訳。旧訳では衆生とする。感情や意識をもっている、生あるものの一切の総称。草木、山河、大地などの非情に対する語。
三途
死者が行くべき三つの場所。猛火に焼かれる火途、刀剣・杖で強迫される刀途、互いに食い合う血途の三つで、それぞれ地獄道・畜生道・餓鬼道にあてる。三悪道。三悪趣。
輪王
転輪聖王または転輪王ともいう。仏教で説く理想の君主で、即位するとき天より輪宝を感得し、その輪宝を転じて四方を制するのでこの名がある。輪宝に金・銀・銅・鉄の四種があり、感得する輪宝によって、それぞれ金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王とよばれる。
十善
十善戒のこと。正法念処経巻二に説かれている十種の善。身・口・意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。大乗在家の戒。十善戒を持った者は、天上に生じては梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となる等と説かれている。
① 不殺生
② 不偸盗
③ 不邪淫
④ 不妄語
⑤ 不綺語
⑥ 不悪口
⑦ 不両舌
⑧、 不貪欲
⑨ 不瞋恚
⑩ 不邪見
不殺生
戒律に規定されたことで,生物の生命を絶つことを禁止する戒。これを犯して殺すものは,僧伽では最も重い波羅夷 (教団追放の罪) になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。
小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
五戒
小乗教で、八斎戒とともに俗男俗女のために説かれた戒。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少ない。死んでは、また人に生まれ、慶幸をうけることができるという。
梵網経
「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下2巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。梵網経すべてを翻訳すると120巻61品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出した。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。
十重禁
十重禁戒のこと。十種の重大な禁戒。梵網経では、これらの戒を犯すと無間地獄に堕ちると説かれている。
① 快意殺生戒 決楽のためいたずらに生命あるものを殺害してはならない
② 劫盗人物戒他 人のものを盗んではならない
③ 無慈行欲戒相 手を思いやる慈悲の心なくして婬欲を行じてはならない
④ 故心妄語戒 わざと相手をだましてはいけない
⑤ 酤酒生罪戒 酒を売ってはならない
⑥ 談他過失戒他 人の過失をことさらに語ってはいけない
⑦ 自讃毀他戒 自分を褒め他人を謗るのはいけない
⑧ 慳生毀辱戒人 に教えを施すことを慳貪し、求める人に恥を与えてはいけない
⑨ 瞋不受謝戒 立腹して相手の謝罪を受けず、なお怒りを向けてはいけない
⑩ 毀謗三宝戒三 宝すなわち仏宝、法宝、僧宝を貶してはならない
六欲天
天上界のうち、いまだ欲望に捉われる6つの天界をいう。六天ともいう。またそのうちの最高位・他化自在天を特に指して言う場合もある。他化自在天は、天魔波旬の住処であることから第六天の魔王の住処とされている。
講義
本抄は、文永11年(1274)9月、四条金吾が主君・江馬光時に仏法について語り、信仰を勧めたことに関し、著わされたお手紙である。すなわち、四条金吾は、ひとたび主君を折伏することによって、相手が発心するしないにかかわりなく、すでに与同罪をまぬかれたのであると激励され、以後は充分に口をつつしみ、金吾を憎んでいる人人につけこむ隙を与えないよう、注意を促されている。
しかしながら、本抄のもつ意義は、そうした四条金吾の身にかかる特殊な状況における指導というにとどまらず、仏法が生命の尊重を第一義とすること、この罪を犯す者は深重の苦を受けなければならないこと、ただし、そこで受ける罪の大きさは、相手の果報の大小による、等といった、生命の尊厳という原理について述べられている点にある。
有情の第一の財は命にすぎず。此れを奪う者は必ず三途に堕つ
生命は尊厳である、ということは誰しも認めるところである。では、なぜ、尊厳なのかとなると、尊極だから尊極だとぐらいしか答えられないのが実情であろう。この「なぜ、尊厳なのか」という問題について、この一節は、見事に解答を提示されているのである。
すなわち、あらゆる生きとし生けるものにとって、究極的な価値、目的は、自らの生を守り維持することにある。一応、ここでは有情――つまり、意識能力をもった生物を代表として挙げられているが、たとえば草木であっても、そのあらゆる機能、活動は、その生命を維持するためにあることを思えば、この文のもつ意味は、瞭然たるものがあろう。
尊厳とは、かけがえのないこと、他の何物とも代えられないことであり、他の目的のために手段にできず、それ自体が究極の目的であるということである。それを、大聖人は「第一の財」と表現されたのである。
なにごとにせよ、所有主が大切にしているものを奪ったり、傷つけたり、壊したりすることは罪になる。そして、大切にしているものであればあるほど、それを奪い、破壊した罪は深く大きいのである。生命は、あらゆる生命体にとってもっとも「第一の財」であるが故に、これを奪うことは重罪であり、必ず地獄、餓鬼、畜生の三途に堕ちるのである。
このことから、あらゆる生物は、生きるために他の生命を犠牲にせざるを得ない、という現実をどう考えるべきであろうか。これだけで考えれば、生きることは常に罪を重ねていくことになるからである。
事実、小乗仏教においては、生きることはますます罪をつくっていくことだとして、生の否定へと走った。いわゆる空に帰し、灰身滅智することをもって涅槃、悟りとしたのである。
これに対し、単に罪をつくらないことのみをめざすのでなく、それを相殺し、超克する善を創造し、社会に、あらゆる生命に提供する方向を開いたのが大乗仏教の行き方であったといえよう。
法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒の功徳に当って候品ぞかし
周知のように、寿量品は、釈迦自身の久遠の成道を説き明かし、一切衆生の生命に内在する仏界の常住を示した品である。ここにおいて、生死は本有の生死となり、生死を超えて永遠に実在する生命の実体が明らかになったのである。
この寿量品こそ、一切衆生に自らの生命の永遠への覚知をもたらす大哲学であり、故にこれを説いたことは、釈迦にとって本源的な「不殺生戒」の実践となるのである。
されば殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ、六欲天も是を守る事なし
仏法の根本精神は、この段で述べられているように、不殺生――生命を最も尊重することである。故に、殺生をなすものは、仏法のあらゆる覚者――過去、現在、未来の一切の仏から見捨てられると仰せられているのである。
また、本文に出ている転輪聖王をはじめ、梵天、帝釈等の六欲天に住するといわれた王たちも、不殺生戒を第一の戒として持って天界の衆生となったのであるから、殺生の罪を犯す者を守ることはないのである。
「三世の諸仏にすてられ」るということは、成仏できないことはもちろん、生命の安定、心の安らかさや充実感を得ることができないということである。「六欲天も是を守る事なし」とは、社会、自然の外界がもつ力、作用が、この人の生命を守る働きをしないということである。精神的、内面的にも、物質的、環境的にも、どこにも頼るところなく、苦しみのどん底に陥るということである。
第二章(尊厳観の具体的原理を示す)
本文
但し殺生に子細あり彼の殺さるる者の失に軽重あり、我が父母主君・我が師匠を殺せる者を・かへりて害せば同じつみなれども重罪かへりて軽罪となるべし、此れ世間の学者知れる処なり、但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ、五逆の罪人も彼を怨とすれば必ず人天に生を受く、仙予国王・有徳国王は五百・無量の法華経のかたきを打ちて今は釈迦仏となり給う、其の御弟子迦葉・阿難・舎利弗・目連等の無量の眷属は彼の時に先を懸け陣をやぶり或は殺し或は害し或は随喜せし人人なり、覚徳比丘は迦葉仏なり、彼の時に此の王王を勧めて法華経のかたきをば父母・宿世・叛逆の者の如くせし大慈・大悲の法華経の行者なり。
現代語訳
但し、殺生にも子細がある。すなわちその殺される者の失に軽重がある。自分の父母・主君・師匠を殺した者を逆に殺害すれば、同じ殺生の罪であるけれども重罪はかえって軽罪となるであろう。このことは世間の学者も知っているところである。
しかし、法華経の敵を供養すれば、たとえ大慈大悲の菩薩であっても、必ず無間地獄に堕ちる。五逆罪の罪人であっても、法華経の敵を憎めば、必ず人天に生を受ける。仙予国王や有徳国王は、五百ないし無量の法華経の敵を討って、今は釈迦仏となられた。その弟子、迦葉・阿難・舎利弗・目連等の無量の眷属は、その時に先を駆け、敵陣を破り、あるいは殺し、あるいは害し、あるいは、この正法を護る戦に随喜した人々である。その時の覚徳比丘が迦葉仏である。その時にこの有徳王に法華経を勧めて、法華経の敵を、父母の宿世の叛逆者のように討ち滅ぼさせた大慈大悲の法華経の行者である。
語釈
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
五逆の罪人
五逆罪を犯した人。殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
仙予国王
釈尊の過去世における菩薩修行の時の姿。涅槃経の聖行品に説かれている。釈尊はその昔、過去世に閻浮提の大国の王に生まれ、仙予と名のっていた。そして大乗経典を愛念し敬重し、その心は純善で、粗悪の心や人をねたんだり物惜しみをするようなことはなかった。口には愛語、善語を述べ、身は貧窮と孤独を守り、布施、精進を少しも休み廃することがなかった。その時代には仏、声聞、縁覚はいず、婆羅門に師事した。その婆羅門に仙予国王が「師等今応に阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし」といったところ、婆羅門は「大王、菩提の性は是れ有る所無く、大乗経典も亦復是の如し。大王、云何ぞ乃ち人と物とをして、虚空に同ぜしむ」と大乗経典を誹謗した。これを聞いた大王は直ちに五百人の婆羅門を殺した。この因縁によって大王はそれ以来地獄に堕ちず、殺された婆羅門も大乗誹謗を悔い、後の世に大乗の信を発して救われたという。
有徳国王
有徳王ともいう。釈尊の過去の菩薩修行中の姿。涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。
迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
阿難
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
目連
梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。
覚徳比丘
涅槃経の金剛身品に説かれている。過去世に歓喜増益如来の入滅後、正法を護持した僧。諸の比丘に「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と戒めたところ、これを聞いた破戒の僧は悪心を起こし刀杖をもって迫った。このとき、有徳国王が護法のために覚徳比丘をわが身を賭して守った。刀剣箭槊で全身に瘡を被った有徳王に覚徳比丘は「善い哉善い哉、王は今真に是れ正法を守る者。当来の世、この身まさに無量の法器となるべし」と述べた。王は歓喜し命を終え、次に阿閦仏国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となる。覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。正法滅尽のときに正法を護った因縁によって覚徳比丘は迦葉仏となった。
迦葉仏
過去七仏の第六で、現在賢劫の第九の減・人寿20,000歳のときに出現した仏、大智度論巻九には「この九十一劫の中、三劫に仏ありき、賢劫の前の九十一劫の初めに仏あり、鞞婆尸と名づく、第三十一劫の中に二仏あり、一を尸棄と名づけ、二を鞞恕婆付と名づく。この賢劫の中に四仏、一を拘留孫仏と名づけ、二を俱那含仏と名づけ、三を迦葉と名づけ四を釈迦牟尼と名づく、これを除いて余の劫は皆空にして仏なし、はなはだ憐愍すべし」とある。また、長阿含経巻一にも「毘婆尸仏のとき人寿八万歳。尸棄仏のとき人寿七万歳、毘舍婆仏のとき人寿六万歳。拘留孫仏のとき人寿四万歳。拘那阿仏のとき人寿三万歳、迦葉仏のとき人寿二万歳。われいま出世す。人寿百歳より少し出で、多く減ず」と説かれている。
宿世
前世・過去世。
講義
生命は尊厳であるといっても、全てが平等に尊厳であるということではない。もし、そのように一律に尊厳であるとしたら、何も食べることができず、自らの生命は維持できないとし、どんな悪人をも罰することができず、悪が増長し、善は滅びてしまうであろう。
したがって、一応は、根本的な尊厳性を認めなければならないが、再応は、その各々の果報によって、それを殺したときに受ける罪の多寡が異なってくるのである。もとより、果報の少ない者であっても、それを殺すことは少ないとはいえ罪を生ぜずにはおかない。大事なことは、その殺生が無意味なものではないよう、その犠牲によって得た自らの生を、より大なる善のために生かしていくことである。
また、一切の生命に悪を及ぼす存在を許すことは、生命の尊重という善を行なっているようであって、実は、一切の生命に悪を及ぼす存在に加担したことになり、大きい罪を得るのである。これが、本抄の題名にも含まれている「与同罪」という概念に他ならない。この場合は、却って、その悪を及ぼす存在を改め、悪を及ぼすことのできないようにすることが「大善」となる。
生命の尊厳という抽象的な理念に終わるのでなく、生命の尊厳を守るにはいかにすべきかという具体的実践原理を明らかにされているのが、この章である。
彼の殺さるる者の失に軽重あり。我が父母・主君・我が師匠を殺せる者をかへりて害せば、同じつみなれども重罪かへりて軽罪となるべし
あらゆる生命は、三世の流転のなかで、さまざまな罪を犯し、業を担っている。生命の本源的な見地に立てば、全む、といわれているのである。
ただし、この文で注意しなければならないことは、決して殺すことを奨励されているのでなく、軽い罪で済むといわれているだけのことだという点である。したがって、国家的社会的に、人の罪を裁き、これに死という罰を加えようとする、いわゆる死刑制度は、正当とはいえない。
また「失の軽重」によって、その生命の尊厳の度合いが異なるということから、真実に自らの生命を尊厳ならしめるには、自身の三世の流転によって得た罪業を消滅し、社会に一切生命に善を施す実践が要請されることを知るべきであろう。
但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば、必ず無間地獄に堕つ
法華経すなわち御本尊は、宇宙生命の本源の法であり、あらゆる生命を生ぜしめる根源である。この妙法を誹謗し、迫害する者は、あらゆる生命に害を及ぼす大悪の者であり、したがって、この大悪を助ける人は、たとい「大慈大悲の菩薩」という大善の人であっても、この一事によって無間地獄におちるのである。
これは、どんなに長い間、慈善を行ない、人助けをしてきた人であっても、残忍な殺人を犯せば、たちまち大悪人になってしまう現実と考え合わせれば、容易に理解できることであろう。いかなる大慈大悲の菩薩といえども、妙法そのものに及ぶ善はなしえない。妙法は宇宙大の力があり、あらゆる生命にその利益を及ぼすのである。これに対し、人間はどんなに力があるといっても、その及ぼしうる範囲は僅かであり、しかも、きわめて浅く、短期的なものでしかない。故に、いかなる善も、妙法に敵対すれば、たちまちに帳消しとなり、大悪と化してしまうのである。
反対に、五逆罪という大悪を犯した人であっても、妙法を守るという善を行なえば、たちまち無間地獄の苦から救われ、人天に生ずることができる。さらに、もともと善根をもって人天にいる人々は、正法の敵対者を責め仏法を守りぬくことによって仏になることができるのである。
法華経すなわち正法を守ることは、宇宙のあらゆる生命を守り育くむことであり、したがって、それに敵対する者の生命を破るという小罪は、超巨大の善のもとに呑みこまれてしまうのだとも考えられよう。
ただし、ここで「法華経のかたきを打ち」「殺し」「害し」とあるのは、釈迦以前の仏教であり、釈迦以後は「其の施を止む」ということで、殺す意味ではない。この点については、立正安国論を拝されたい。
第三章(実践を喜び用心を促す)
本文
今の世は彼の世に当れり、国主日蓮が申す事を用ゆるならば彼がごとく・なるべきに用いざる上かへりて彼がかたうどとなり一国こぞりて日蓮を・かへりてせむ、上一人より下万民にいたるまで皆五逆に過ぎたる謗法の人となりぬ、されば各各も彼が方ぞかし、心は日蓮に同意なれども身は別なれば与同罪のがれがたきの御事に候に主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ・ありがたく候へ、今は御用いなくもあれ殿の御失は脱れ給ひぬ、此れより後には口をつつみて・おはすべし、又天も一定殿をば守らせ給うらん、此れよりも申すなり。
かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねらひ候らん、御さかもり夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき、他人のひるの御さかもりおこたるべからず、酒を離れて・ねらうひま有るべからず、返す返す、恐恐謹言。
九月二十六日 日蓮花押
左衛門尉殿御返事
現代語訳
今の世は、仙予国王や有徳王の世に相当する。国主が日蓮のいうことを用いるならば、かの仙予国王や有徳王の時のようになるであろうに、用いないうえ、かえって、法華経の敵の味方となり、一国こぞって、日蓮を逆に責めている。そして、上一人から下万民にいたるまで、皆五逆罪にもすぎた謗法の人となってしまった。
さて、あなた方もこの謗法の国主の側の人である。心は日蓮に同意であっても、身は別であるから、与同罪は逃れ難いことであったのに、主君の耳にこの法門を説いて聞かせたことは、実にすばらしいことである。たとえ主君が今は用いなくとも、あなたの与同罪は、免れたのである。
これから後は、口を慎しんでいきなさい。また、諸天も必ずやあなたを守るであろう。日蓮からも諸天に申しつけましょう。
心して、用心に用心をしていきなさい。いよいよ、あなたを憎む人がつけ狙うであろう。酒宴は、夜は一切やめなさい。ただ、女房と酒を飲んで、何の不足がありましょう。他人との昼の酒宴でも、油断してはなりません。酒を離れては、敵も狙う隙があるはずはない。くれぐれも用心をしていきなさい。恐恐謹言。
九月二十六日 日 蓮 花 押
左衛門尉殿御返事
語釈
かたうど
味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
与同罪
主犯と連座して、同じ罪に処せられること。
恐恐謹言
恐れかしこみ申し上げるの意で、手紙の最後に書くていねいなあいさつ語。
講義
四条金吾が、主君に妙法を説いたことを称賛され、これによって金吾は、すでに与同罪を免れたのであるから、あとは口を慎しむよう指導されている。そして、この事件により今後ますます敵の乗ずる恐れがあるので一層用心するよう促されている。
心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候に、主君に此の法門を耳にふれさせ進らせけるこそありがたく候へ。今は御用いなくもあれ、殿の御失は脱れ給ひぬ
与同罪の原理は、仏法の厳しさの一面を示すものといえよう。与同罪とは、自らがその主犯とはならなくとも、同意を示し、与することである。すなわち、自らは正法を破ることはしないが、他の人が正法を破ることを黙認するのは、結果として同意を示したこととなり、与同罪となるとの原理である。「曾屋殿御返事」にいわく「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(1056:06)と。
四条金吾の主君江馬氏は、大聖人の迫害を目論んだ極楽寺良観の信者であった。その臣下である金吾が、江馬氏の信仰を黙認するならば、広い意味でこの与同罪はまぬかれられないことになる。当時の社会体制にあって、また信仰というものが、生活に深く根を下ろしていた状況下にあって、臣下の立ち場で主君を折伏することは、容易な決意をもってできることではなかったであろう。しかし、あえて主君への折伏を断行した金吾の勇気を「主君に此の法門を耳にふれさせ進らせけるこそありがたく候へ」と、讃えられたのである。
四条金吾のこの姿は、いかなる状況に立とうとも、またどれほど多数の反対者の中にあっても、自身の信仰を主張し、弘教を貫くことの大切さを教えておられる。すなわち、現代においては「主君」とは社会そのものであり、社会を構成するあらゆる人々である。故に、現代にあってはひろく社会に妙法を弘め人々に正法を教えていく人こそが、免与同罪の人である。