下山御消息 序講一

はじめに

 本抄は建治3年(1277)6月、日蓮大聖人が因幡房日永に代わって、下山兵庫五郎光基宛に認められた長文の御消息である。

 本文中で大聖人は、因幡房の立場を借りてではあるが「教主釈尊より大事なる行者」と御自身の立場を表現され、末法の御本仏としての御内証の一端を明示されている。

 しかるに本抄の御真蹟は断片しか残っていないために、例えば安国院日講の著した録内啓蒙に「日昭門流の抄に云う、此書は異本これ有り、聖人の御詞にあらざる処これあるか」とあるように、弟子による改竄があったのではないかという疑義が日昭門流から出ていたようである。

 これについて浅井要麟氏も「教義法門の綱格に於て、往々不審を懐かしむる点がある。思ふに御真筆の一部を所蔵して、全貌を補成するに当り、遂にこの種の結果を生じたものではあるまいか。昭門学匠逸早くこれを感知せるは、烱眼ともいふべきである」と述べている。

 日昭門流は、釈尊を本仏と立てる自説にとって不利であることから、この改竄を唱えたとも考えられる。まして浅井氏のように、勝手な「教義綱格」を立てて、それに合わないから不審であるといった我田引水の解釈は慎まなければならない。

 よって、第一章においては、これまで等閑に付されてきた本抄の文献的な考証を本格的に行い、日昭門流の説について検討を加えたいと思う。また、併せて本抄を与えた下山兵庫と、大聖人がその代筆を努められた因幡房日永との関係についても明らかにしていきたい。

 続いて第二章においては、その考証をふまえたうえで日蓮大聖人の教学における最重要課題たる「本仏論」をめぐって、教学的観点から本抄の位置付けを行いたい。

本抄の文献的考察

 本抄は御真筆が分散し、全国20ヵ所においてその断簡が所蔵されているのであるが、これらを全部合わせても、写本で伝わっている全体の1/7強にしかならない。10大部に数えられながら、御真筆がこのように分散した例は他には見られないところである。

 次に写本のなかで書写年代が比較的古いものとされているのは、静岡県沼津市の岡宮光長寺に所蔵されている日法所持本には2本あり、このうち送り仮名が平仮名中心となっている<平仮名本>が古い写本と目されるものであり、他の1本はこれを書写して書体を改めた<片仮名本>と考えられている。次に現在重須本門寺に所蔵されている寂日房日澄の写本がある。さらに、これらより200年後に日澄による写本が大石寺にある。

 これらは、いわゆる個別写本であるが、録内御書のセット本として、平賀日意によって書写された平賀本が、千葉県松戸市の平賀本土寺にある。

 このなかで、日法所持本の<平仮名>本は、日法が正慶2年(1333)に大輔阿闍梨某に付嘱することを内題下に記しているという。

 したがって、平仮名本の書写年代は、正慶2年(1333)以前であることは間違いなく、また高木氏は、片仮名本の写本の時期も平仮名本の付嘱の前後であろうと推定している。ただし、平仮名本の写本がどこまで遡れるかは不明である。

 一方、日澄写本は、寂日房日澄が正安2年(1300)に日向と決別して日興上人に帰伏してから成ったものとすれば、その成立は死去の延慶3年(1310)に至る10年間であることは明白であり、あるいは日向との絶縁以前だとすると、その成立年代は更に遡るわけであるから、断定はできないまでも、日澄本が日法の平仮名本に先立つ可能性が十分にあるといえる。

 さて、本抄の対告衆は甲斐の国、下山郷の地頭下山兵庫五郎光基であるが、彼の氏寺である平泉寺の僧因幡房日永が建治2年(1276)大聖人に帰依し、因幡房の請いによって大聖人は光基への諌暁の書として因幡房の名において本抄を認められた。下山兵庫は因幡房の父親である、というのが今日の通説となっている。

 本抄は内容的には10大部に数えられる重書であるが、文献的に問題が多い。そのため、まず第一節で御真蹟について論じ、続いて第二節で全体像の手掛かりとなっている岡宮本の位置付けを論じ、最後に第三節では、対告衆の下山兵庫五郎と因幡房日永の関係を論じ、もって次章における教学的観点からの準備としたい。

第一章 本抄の御真蹟について

 下山抄は、第二祖日興上人が10大部御書に数えられた重書であるにもかかわらず、その御真筆は、早くから散逸し、断片しか伝わっていない。延慶2年(1309)に富士一跡門徒存知の事が記された時点において、既に御正本の所在が不明になっていた。

 その約半世紀後に著された三位日順の推邪立正抄には、当時、一致派の日学らが本抄の存在自体を疑っていたことが記されている。更に前述したように、写本に対しても、改竄があるのではないかという疑義が日昭門流から出されていた。存在自体に対する疑義については、部分的ではあれ御真蹟が確認されている今日では、明快にこれを晴らすことができる。

一、十八世紀初頭の御真蹟断簡

 18世紀における本抄御正本に関する情報を記した玉沢禅智院日好著の録内扶老の巻12の下山御消息の題下には「此書ノ正本駿州岡ノ宮光長寺ニ之有リ。結要抄三十七往見、正徳四年七月此ノ書ノ中二十三ノ十一字ノ切レ御正筆ヲ拝見ス」とある。

 日好がここに引用している結要抄は、円明院日澄(先の寂日房とは別人)の本迹結要抄を指している。日好引用の該当の文は、正しくは「此御書ノ御正筆ハ駿河ノ州タニ岡ノ山に在之云云」となっており、岡宮の地名をタニ岡ノ山と誤って書いていることからも、下山抄の御真筆が岡宮にあるとしているのは、日澄自身が確認したものではなく、伝聞によったものではないかと想像せしめるのである。

 一方日好は、正徳4年(1714)7月に下山抄中の「責ル故両火房内々諸方ニ」という11文字の断片となった御真筆を見たという。また、日好は同じ録内扶老に本文中の「内々諸方ニ」という語について解説を加えて「予御正本ヲ拝スルニ分明ニ<諸方ニ>と仮名アリ<諸方ヘ>ニワアラザルナリ」と述べ、本抄の御正筆を拝したと主張して、当時の写本や版本には「諸方ヘ」となっているものもあるが、これは「諸方ニ」と正しいと言っている。(論点の部分は創価学会版御書全集の「せむる故に両火房・内内諸方に」(0348:18)の部分か?)故に両火房・内内諸方に

 この日好の記述のとおりであれば、18世紀当初の時期においては、既に御真筆が細断散逸していたことが知られるのである。

 同時に、円明院日澄の記述から、彼が活躍した15世紀末から16世紀の初頭にかけて、岡宮光長寺の写本が大聖人直筆の御正本と誤って伝えられていた節があると考えられる。つまり、当時の人々が本抄の御正本、及び岡宮本の実態についての正確な情報をもっていなかったということを示しているのである。

 本抄御真筆の手掛かりとしては、身延山12世円教院日意の大聖人御自筆目録、及び寂照院日乾の身延山久遠寺御霊宝記録があるが、そのいずれにも記されていないことから、少なくとも身延では、これらより以前に散逸していたと考えられる。また富木常忍の本修院本尊聖教事には、「御書箱」の項目の一つとして「下山御消息 一帖」と記されているが、これは御真筆ではなく、写本とされている。ただし、本抄の写本が間違いなく存在していることを示しており、貴重な記録である。

二、御真筆の分散化について

 本抄の御真蹟は数多くの断片としてのみ伝えられているが、その中で、細断を免れ、ほぼ現状をとどめていると思われる御真蹟が京都本圀寺に所蔵されている。

 これはたて30.3cm、よこ43㎝の1紙に15行にわたって記されており、その字数は180字である。宮崎英修氏の計算によると本抄全体の字数が17000字であるから、この大きさの紙に、ほぼ同じ字数で書かれたとすると、本抄の御正本は約90枚に及ぶ大作であることになる。

 ただし、この御真蹟も正確にいうならば完全な一紙ではなく、末行の文字の端が少し切り取られている。また頁数も記されていないことなどからして、本抄は立正安国論などと同じように巻物として、文字どおり一巻となっていたのではないかと思われる。

 貞和4年(1348)に行われた富士門徒日寿と本迹一致派の日学との間の問答をもとに、重須談所の第2代学頭三位日順が著した推邪立正抄には、大聖人入滅後わずか半世紀にしか経過していない当時にあって、既に下山抄の存在自体を否定する見解が日学らによって出されていたことが記されている。

 日学は、日朗門流の九老僧の一人・日像の門下であり、その彼が本抄の存在を疑っていたことから、日朗門流にも御正本の存在が知られていなかったと思われる。

 本抄がいつ四散したのかは分からないが、現在では20数個所の寺院または個人の家に所蔵されている。

 これらの御真蹟を所蔵している寺院は日向や日朗の流れをくむところが大半であり、今日では日蓮宗に属している。14世紀の中葉には、日朗門流の日学が、本抄の存在を否定したのであるが、その日朗門流の寺院に本抄の多くの断片が所蔵されていることは何を意味するか、これは今後の研究を待たねばならない。

三、御真蹟分散化の跡づけ

 本抄御真蹟の分散がいつごろから始まったかは不明であるが、前掲の録内扶老によれば、正徳年間、すなわち18世紀には既に分散化はかなり進行していたことが分かるのである。

 宮崎英修氏によれば、これより半世紀あまり前の慶安4年(1651)の記録として万宝全書には、日蓮大聖人の御真蹟の断葉が1枚5両という高価な値を付けて売りに出されていたことが記されているという。それらの中に本抄の御正筆の一部も含まれていたという可能性は十分に考えられることである。

 以下に御真蹟が細分化されていった過程の一部を、できる範囲で跡づけておきたい。

 宮崎氏によれば、昭和36年(1961)に滋賀の妙孝寺より断片が発見され(この部分ではなかろうか?「世間の人人には持戒実語の者の様には見ゆれども其の実を論ぜば天下第一の大不実の者なり、其の故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律なり、在世には十二年の後・方等大乗へうつる程の且くのやすめ言滅後には正法の前の五百年は一向小乗の寺なり此れ亦・一向大乗の寺の毀謗となさんがためなり、されば」(0347:08))2年後には東京の和田家よりの断片(この部分ではなかろうか?「ども後に事の由を知らしめんがために 我が大乗の弟子を遣してたすけをき給う、而るに今の」(0347:12))が発見された。元禄元年(1688)創建とされる妙孝寺は京都本圀寺の末寺であり、本圀寺第20世の元禄8年(1695)に妙孝寺3世日秀に与えた本尊が現存する。その裏書には「妙孝寺第三世権律師日秀与之、大僧正日隆花押」と記されている。宮崎氏は、日隆がこの本尊の授与に際し、先の御真筆を添えたものと推定している。

 また和田家所蔵の書簡と妙孝寺所蔵の書簡とでは中間が欠けているものの(この部分か?「日本国には像法半に鑑真和尚大乗の手習とし給う教大師・彼の宗を破し給いて 人をば天台宗へとりことし宗をば失うべしといへ」(0347:11))続くものであり、本國寺所蔵の(この部分か「華経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在りて、乃至利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如きもの有らん」又云く「常に大衆の中に在て我等を毀らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説き乃至悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん」、又云く「濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯出せられん」等云云、涅槃経に云く「一闡提有つて羅漢の像を作し空処に住し方等大乗経典を誹謗す諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩薩なりと謂えり」等云云、今予・法華経と涅槃経との仏鏡を以て当時の日本国を浮べて其影をみ」(0351:05))御真蹟と同じく、漢字で振られた読み仮名を削り取った跡があり、これも同じく本國寺から出たものと宮崎氏は推定する。この推定は本断簡が京都から持ってこられたという言い伝えに符合するという。とするなら、先に示した和田家所蔵の書簡と妙孝寺所蔵の書簡との空間の部分も元禄の頃までには本國寺にあったことになる。

 なお、本國寺所蔵の御真蹟にも切り取られた跡がある。この該当部分は岡宮本では、「等云云、今予・法花経と涅槃経との仏鏡をもつて」となっているが、御真蹟では「等云云、(三字空白)法花経と涅槃経との仏鏡をもんで」となっている。岡宮本ではこの3字空白のところを「今予」の2字をもって補っているのであるが、正しくはここにいかなる文字が入るのであろうか。このことを考察するうえでの重要なヒントが別の御真蹟中にある。すなわち、大阪府川崎家所蔵の(この部分か?「山より出現せるか迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ、余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば末代に入りて法華経の大怨敵三類あるべし其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ、 便宜あらば国敵をせめて彼れが大慢を倒して仏法の威験をあらはさんと思う処に両火房常に高座にして歎いて云く『日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・男女には五戒・八斎戒等を一同に持たせんとおもうに、日蓮が此の願の障りとなる』と云云、余案じて云く『現証に付て事を切らんと思う処に、彼常に雨を」(0349:11))書簡なかの「戒等を一同に持たせんとおもうに、(三字空白)此の願の障りとなる」とあるのがそれである。

 文中に3文字の空白があり、その部分が類似している。この空白部は宮崎氏等も認めているように、岡宮本等に見られる「日蓮が」の3文字が入っていたと推察できる。

 ではその切り取られた3文字はどうなったか。宮崎氏の考察によればそれは「護符」として飲まれたのであろう、という。なお「日蓮が」の3文字を切り取ったのは、川崎家に渡る以前にどこかの寺院に所蔵されていた時期であったと思われる。文脈うえから、この3文字はなくても意味の通じる個所であり、また、本國寺の場合と全く軌を一にしている。

 本國寺の場合の空白部にいかなる文字が認められたかといえば、次のように推側される。すなわち「今日蓮」の3文字があり、これが切り取られて護符として使用されたか、あるいは売られたかしたと見られるのである。

 では、これを切り取ったのはいかなる人であったか、それは本國寺の別当にあたる人物であったか、あるいはその前に所蔵していたであろう身延派総本山久遠寺の貫主にあたる人物であったか、そのいずれかであった可能性が大きいかも知れない。なぜなら高木氏らも述べるように、御真筆は厳重なる管理がなされていたはずだからである。

 次に稲田海素氏の日蓮聖人御遺文対照記によると同氏は明治35年(1902)4月13日に千葉県茂原市の藻原寺を訪れており、そこで下山抄断片の「己証の一念三千の法門を盗み入れて人の珍宝を我が有とせる大誑惑の者なりと心得給へり、例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳に盗み入れて還つて天台宗を末教と下せしが如しと御存知あて宗の一字を削りて叡山は唯七宗たるべしと云云、而るを弘法大師と申し天下第一の自讃毀他の大妄語の」(0352:18)を書写している。ただし御真蹟は同寺には現存せず、その一部すなわち「せる大誑惑の者なりと心得給へり、例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳に盗み入れて還つて天台宗を末教と下せしが如しと御存知」(0353:01)の4行64字が佐賀県岸川家に所蔵されている旨が記されている。

 すなわちかっては、稲田氏が書写した御真蹟は藻原寺に所蔵されていたものが、3分、あるいはそれ以上に細断されたもので、藻原寺にはその写ししか残っていなかったものと思われる。そのうち1片が岸川家に所蔵され、他の2片ないし数片はやはりいずれかの所に現存している可能性が多分にある。何故に御真蹟がこのように分与されたかといえば、恐らくは供養の返礼として与えられたり、あるいは金銭でもって取引されたものであろう。

 次にもう一例を挙げると「法華経の第一巻に至つて世尊法久後・要当説真実・又云く正直捨方便・但説無上道と説き給う譬へば闇夜に大月輪の出現し大塔立て後足代を切り捨つるが如し、然後実義を定めて云く『今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す、復教詔すと雖も而も信受せず、乃至経を読誦し書き持つこと有らん者を見て軽賎憎嫉して而も結恨を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん』等云云、経文の次第・普通の性相の法には似ず常には五逆・七逆の罪人こそ阿鼻地獄とは定めて候に此れはさにては候はず在世滅後の一切衆生・阿弥陀経等の四十余年の経経を堅く執して法華経へうつらざらんとたとひ法華経へ入るとも本執を捨てずして彼彼の経経を法華経に並て修行せん人と又自執の」(0358:11)という320字分はいずれも千葉県調福寺に保存されていた御真蹟と思われるが、所存の仕方が悪かった故に中間の部分が腐食してしまったのか、あるいはいずれかに分与されたのであろう。ある時点で比較的保存のよかった「第一巻に至つて世尊法久後・要当説真実・又云く正直捨方便・但説無上道と説き給う譬へば闇夜に大月輪の出現し大塔立て後足代を切り捨つるが如し」(0358:11)「而不、乃至経を読誦し書き持つこと有らん者を見て軽賎憎嫉して而も結恨を懐かん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、経文の次第・普通の性相の法には似ず常には五逆・七逆の罪人こそ」(0358:14)「法花経へうつらざらんとたとひ法華経へ入るとも本執を捨てずして彼彼の経経を法華経に並て修行せん人と又自執の」(0358:17)

 3点は、張り合わせて表装し直されたようである。

 以上、数少ない史料ではあるが、今日たどれる範囲において、御真蹟がどのように細分されたかの過程の一部を見てきた。本抄の全体の字数がおよそ17000字に対して、御真蹟の現存率は15%である。今後更に発見される可能性もない訳ではないが、完全に収集することは不可能であろう。写本と比較しながら御正本の実体を復元することは、今後の研究のいかんによってはある程度可能であると思われる。

四、御真蹟分散化に至った理由とその背景について

 前述したように今日に伝わる本抄の御真蹟の多くは広い意味で日向・日朗の流れをくむ寺院に所蔵されているが、また現在個人の所有となっているものも、たとえば佐賀県岸川家所蔵の「とせる大誑惑の者なりと心得給へり、例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳に盗み入れて還つて天台宗を末教と下せしが如しと御存知」(0535:11)は、日向を開山とする藻原寺、及び和田家所蔵の「ども後に事の由を知らしめんがために我が大乗の弟子を遣してたすけをき給う、而るに今の」(0347:11)は日朗門流の本圀寺から分与されたと考えられる。

 ただし重要な日法所持本を有していた岡宮光長寺は身延系ではない。同寺には比較的短い断片が所蔵されているのみである。あるいはこの2つの断片はある時点で同寺に購われたものであろうか。

 宮崎氏が指摘したように、大聖人の御真蹟が市場に出されていたとするならば、そのもとをたどっていけば、その出所はやはり身延門流の寺院であったように思われる。というのも日朗の門流は、明治維新以降、身延派と合同することによって身延山を総本山とするに至ったが、それ以前にも日向の身延門流の支配下に入っていたこともあり、しばしば分立・統合を繰り返していたという経緯があるからである。

 さて、われわれの確認できた範囲では、遅くとも近世までには本抄分散化は始まっていた。しかし、大聖人滅後、ある期間は、分散しないで保管されていたことはいうまでもない。

 本抄の御正本が大聖人によって認められ、これが下山兵庫五郎のもとに届けられたのであるが、彼の没後、正中2年(1325)におけるその33回忌の時点では、彼の子息又四郎義宗のもとには既になくなっていたことは確かである。とするなら、その御正本は身延山久遠寺関係のいずこかに所蔵されていたという推理が成り立つのである。

 第三節で後述するように、日興上人の御離山後、身延山久遠寺の中心者は日向であり、この日向が下山兵庫の没後、左衛門四郎の代になって新堂の開眼供養をしたという経緯があり、因幡房の弟子であった左衛門四郎は、大聖人入滅後に因幡房について日興上人に背き、日向の弟子となっていたのである。この経緯を考慮すると、本抄はこの頃、下山氏の手を離れて日向の所有に記したという可能性は十分に考えられる。

 しかも、日興上人は、大聖人の御書の結集に努めておられた。しかしながら、富士一跡門徒存知の事に「正本の在所を知らず」(1605:04)と記されているように、門徒存知執筆の時点では、本抄の御正本は日興上人にとっては行方不明となっていた。したがって、本抄の御正本は、その日興上人の知られない某所に蔵されていたのであろう。

 しかしながら、その後、厳格に保存されなかったのは、自らの寺院の格付け、これを利用したと計ったものと考えられる 

 だからこそ、その後、御真蹟は細断され、甚だしきは数文字の断片になって、更には「日蓮」という文字を含む個所が秘かに切り取られて護符とされたりしたのであろう。

 こうした大聖人の御真蹟に対する扱いは、何も身延系日蓮入の人々の場合のみとは限らなかったかもしれないが、それらの行為がいかなる発想か、よくよく考えなければならない。

 一言でいうと、それは、彼らが日蓮大聖人を単に祖師とみるのみで、末法の御本仏であるという御内証を深く拝することができなかったからである。少なくとも、釈尊と同様に仏として大聖人を拝していたとするならば、その御真蹟を細断したり売却したりするなどということはできないはずであったに違いない。

第二節 岡宮品(日法所持本)の位置

 録内啓蒙に日昭門流の言として引用された「此書は異本これ有り」との文は、各写本間にかなりの異同があったことを指している。実際に岡宮長光寺所蔵の日法所持本と御真蹟の断片とを実際比べてみると、前者が後者を直接書写したものとはとても信じられないほどの内容の相違が見られるのである。そのような相違の生じたのはそれなりの理由がなければならない。我々がこれを追求することによって、それが日昭門流のいうような意図的改竄によるものか否かを明らかにしたい。

一、平仮名本と仮名本について

 これまで伝統的に、現存する写本の中で、御正本の執筆年代に比較的近いものとされてきたのは、岡宮の2本のうちの1本、すなわち漢字と平仮名で書写されている写本である。

 高木氏は両本の関係を解説して「諸本解説」で次のように述べている。

 「日法所持本は二本ある。表記の仮名で区別すれば、一本は平仮名本、他は片仮名本といえよう。前者は、日法が1333(正慶2)年に大輔阿闍梨某に付嘱する内題を記している。後者の表紙左端下には、日法の自署花押があり、本文末尾一紙半闕失、1620(元和6)年日意がこれを写し足している。後者が前者を書写し、その際、その際、平仮名を片仮名化し、漢文風の表記に改めたと考えてよく、書写の時期も前者の付嘱の前後であろう。前者はとりわけ首尾の破損がはげしく、かつ中間に脱落がある。書写年度を明らかにできる下山抄の写本は後者片仮名本ということになろう。ただ、両者の写本は同一とは見えない。別筆による写本と考えられるが、後者の日法の自署花押はすくなくともその所持本であったことを示している。

 以上の文中には、平仮名本の中間に脱落があるというが、その部分がどこであったかは明記されていない。片仮名本と平仮名本との異同については、平仮名本から片仮名本へと転写する間に漢文風に改めたと考えられると記すのみである。

 ここで、平仮名・片仮名の関係を再確認しておく。高木氏は「諸本解説」において、御真蹟と両本を対照させ、「賢人は二君に仕へす貞女は両夫に嫁す」(御真蹟)、「賢人ハ二君ニ仕へす貞女ハ両夫ニ嫁かす」(平仮名本)、「賢人ハ二君二不仕貞女ハ両夫二不嫁」(片仮名本)の御文を挙げている。御真蹟に「仕へす」「嫁す」とあるのを片仮名本が「不仕」「不嫁」というように改めていることが確認され、少なくとも表記のスタイルは明らかに平仮名本の方が御真蹟に近いといえる。同氏は片仮名本が平仮名本が書写したものであるとしているが、その論拠は必ずしも明確でない。(HP作成者より・創価学会版御書全集でこの部分を示しておく「賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がず」(0346:02))

 ここでは、一往、片仮名本が平仮名本を書写したものであるとの高木氏の見解を受けて、論孝を進めていくことにする。また、日本思想大系十四巻所収の下山抄の頭注には、両本の異同が若干記されており、それも大きな相違がないことから、写本がほぼ正確になされたと推定して大過ないと判断される。

 さて、高木氏は「平仮名本も直接本を直接書写したものではない」としていることから、少なくとも第二転以上の写本と推定していることになる。

 確かに岡宮本と御真蹟の間にはかなりの差異がある。しかしながら、それは平仮名本が第二転以上の重写本であったとすることによって解釈できるであろうか。

 もしも平仮名本が第二転以上の重写本であったとするならば、どこかで直弟子による直筆本が少なくとも一つは存したことになる。そしてその写本はほとんど御真蹟と一致する正確さをもっていたと考えてよいであろう。したがって、岡宮本がその第一写本からの転写によったとすれば、不注意によるわずかの誤字を除けば、これまた御真蹟に近いはずである。ところが実際には岡宮本と御真蹟の間に大きな隔たりがあることは後に詳述するとおりである。

 では岡宮本は第三転あるいは第四転の写本であったと考えるべきであろうか。もしそうであるとすれば、岡宮本よりはるかに御真筆に近い第一ないし第二転の写本がどこかに存在していたと考えられよう。しかし、今日伝わる個別の写本はいずれも御真蹟と大幅なズレがある。

 また、寛文9年(1669)に京都に法華宗門書堂から刊行された録内御書収録の下山抄を見ても、写本における御真蹟とのズレ、特に岡宮本の誤り、欠落と思われる個所がそのまま踏襲されている。列挙すれば「比丘・比丘尼→四衆」「親近せず→欠落」「本朝末弘の→日本国に末だ弘通せざる」「最澄法師→教大師」等々、枚挙にいとまがない。

 この寛文9年(1669)本は、寛永19年(1642)本を版下として、御真筆や異本と校合したうえで改定して出版された寛永20年(1643)を重印出版したものであるが、下山抄に限っていえば、御正本、あるいは直写本との校合がなされないままに刊本化されたといわざるを得ない。つまり、その時点では、御正本の所在、及びどれが直写本であるかが不明になっていたと推察されるのである。そして、先に見たように、円明院日澄が岡宮本を御真筆と誤って伝えたことからも、少なくとも岡宮本が御真筆に近い親写本と信じられていたのではないかと思われる。

 本抄にはそうした特殊性がある故に、本抄の存在そのものを疑う極論さえ出てきた訳であるが、これについては、多くの御直筆の断片が発見されている今日にあっては、大聖人が本抄を記されたこと自体に対してはもはや疑う余地がないのであるから、自らの都合によって写本の価値を根拠もなく貶めるような非科学的な態度があっては断じてならない。そこで先入観を取り払って、改めて岡宮本の位置付けを再検討してみる必要があろう。

 ところで、写本としては、日澄写本が岡宮の片仮名品よりも古いことはほぼ疑いないが、寂日房日澄師は日興上人の名において富士一跡門徒存知の事を記した人物であり、日興上人が後世のために十大部御書を定められたこの時点において、日興上人の手元には控えの写本があったはずであるが、それが日澄写本であったこともありえる。あるいは、今日に伝わっていないとはいえ、日興上人御自身が写本した可能性も決して否定できない。

 同書に挙げられている十大部御書のうち、開目抄と報恩抄については「日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604:13)「日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず」(1604:15)等と記されている。しかし、本抄の場合は第二転という記述すらなく、しかも御正本の所在が既にわからなくなっていたという。

 したがって、日興上人の手元にあった写本がいかなるものであったかは不明である。ただし、「聖人御書の事、付けたり十一ヶ条」に「御筆抄に法華本門の四字を加う」(1605:13)とあるように、十大部の御書には、すべて題号の上に「法華本門」の4字が加えられたのである。

 よって本抄の写本にも題号たる「下山抄」の上に「法華本門」の4字が加えられたことが知られ、今日現存する日澄写本の題号も「法華本門下山抄」と記されているという。このことから、日澄写本の成立は正安2年(1300)に日澄師が日興上人に帰伏してより、延慶3年(1310)に亡くなる前の10年間の間に成立したことが明らかとなり、帰伏以前に遡ることはまず考えられない。

 したがって、富士一跡門徒存知の事の執筆時である延慶2年(1309)の時点において、日興上人の手元にあったのは、日興上人の御自身による写本か、そうでなければこの日澄写本であったと推定されるのである。

 なお、日澄写本が、いったい何から写本したものであるか、という疑問が残る。これについて手掛かりの一つとなるのが、昭和定本の脚注に記された日澄本との異同である。しかし、昭和定本においては、御真筆の断簡が残されている御文についてはほぼそのまま収録しており、御真筆の該当個所には、その異同が記されていない。

 ところが、昭和28年(1953)の昭和定本編纂当時は未発見であった断簡当については、第四巻に正誤表を収録し、訂正を施している。

 この異同は、昭和定本が根底とした、したがって、その異同によって、未収録の断簡に関して、日澄本と御真筆の違いを知ることができるようになる。ちなみに、下山御消息においては、大石寺版の御書全集でも日蓮聖人御遺文を根底としていると思われる。

 では、日澄本と御真筆の違いの実例を挙げてみよう。

 まず「を糾明せられしに六宗の碩学宗宗毎に我宗は一代超過の由各各に立て申されしかども教大師の一言に」の御文であるが、これについては異同が記されていないので、日澄本もこれと等しい訳である。これに該当する御真蹟は「を糾明せられしに、先は六宗の碩学各各宗宗ごとに我宗は一代超過々々の由立て申しされしかども澄公の一言に」となっている。したがって日澄本もやはり岡宮本の同系統の写本のように思われるのである。

 以上の文の違いを図表すると次のようになる。

御真筆  創価学会版御書全集      日澄本  日法本  日主本

先は    欠落    欠落    欠落    先は

各々宗々ごとに  宗宗毎に        宗々毎に        宗々毎に        宗々毎に

超過の由各々    超過の由各各    超過の由各々に  超過の由各々    超過の由各々

澄公    教大師  教大師  教大師  教大師

 価学会版御書全集「世間の人人には持戒実語の者の様には見ゆれども其の実を論ぜば天下第一の大不実の者なり、其の故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律なり、在世には十二年の後・方等大乗へうつる程の且くのやすめ言滅後には正法の前の五百年は一向小乗の寺なり此れ亦・一向大乗の寺の毀謗となさんがためなり、されば」(0347:08)

 ②日澄本「世間の人人には持戒実語の者の様には見ゆれども、其実を論ぜば天下第一の大不実の者也。其故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律也。在世には十二年の後、方等大乗へうつる程の且くのやすめ言、滅後には正法の前の五百年は一向小乗の寺也。此亦一向大乗寺の毀謗となさんがためなり、されば」

 御真筆「世間の人人には持戒実語の者のやうに見ゆれども、其実を論ずれば天下第一の不実の者也。其故は彼等が本文とする四分律十誦等の律文は大小乗の中には一向小乗、小乗の中には最下の小律也。在世には十二年の後、方等大乗へ還る程の且くのやすめことば、滅後には正法の前五百年は一向小乗寺なり。此又一向大乗寺の毀謗となさんが為。されば」

 ③御真蹟「世間の人人には持戒実語の者の様に見ゆれども、其実を論ぜば天下第一の大不実の者也。其故は彼等が本文とする四分律・十誦律等の文は大小乗の中には一向小乗・小乗の中にも最下の小律也。在世には十二年の後、方等大乗へうつる程の且ラくのやすめ言、滅後には正法の前ノ五百年は一向小乗の寺也。此亦一向大乗ノ寺の毀謗となさんがためなり、されば」

 となっている。つまりいずれも御真筆からの写本でないことを示唆いている。

 では、大聖人滅後さほど時を経ずして書写されたこれらの写本が何故に御真筆と隔たっているのであろうか。この問題を次に考察してみたい。

二、御真筆と写本の異同するもの

 前項に述べたように、高木豊氏の見解によれば、岡宮本のうちの平仮名品は第二転、あるいは第三転以上となり、片仮名本はそれから更に転写した写本であったことになる。おそらく岡宮本と該当する御真蹟と比較したときに、余りにも多くの相違があることから、転写の際に誤写が生じたと考えたものであろう。つまり転写を重ねればそれだけ誤写が増えるからである。

 しかし、後述するように、岡宮本にしろ、あるいは日澄本にしろ、御真筆との相違は、単なる誤写とは思えない節がある。しかも、これら両本は、他抄の誤写と比較しても早い時期に成立した写本であり、録内御書の写本が多数成立した時代とは違って、それだけ転写の回数が少なかった訳であるから、多少の誤写があるにせよ決定的な間違いというのは少ないはずである。

 このことは、撰時抄の写本からも類推することができる。例えば、岡宮長光寺には同じく日法所持の撰時抄の写本があり、これは個別写本としては最古とされている。そして、他の録内御書の写本と比較して最も御真筆に近いとされている。ちなみに同書によれば、日法所持の同写本は、奥書によって元徳3年(1321)と判明していることから、下山抄の片仮名本とほぼ時期が重なっている。

 では、以下に下山抄と現存の御真筆の写本との際立った相違点について、例を挙げ、その理由を究明してみることにする。

 まず第一に、次のような諸例が挙げられる。御書全集に「設い親父たれども一向小乗の寺に住する比丘比丘尼をば一向大乗の寺の子息これを礼拝せず親近せず何に況や其法を修行せんや大小兼行の寺は後心の菩薩なり」(0344:15)との御文があり、これに該当する個所は岡宮本では「設親父たれども、一向小乗の寺に住する四衆をば、一向大乗の寺の子息、是を不礼拝、何況其の法を行ぜんをや、大小兼行の寺は後心の菩薩也」となっている。

 一方これに該当する御真蹟は「比丘比丘尼をば、一向大乗ノ寺の初心の者入ること許ず」となっている。岡宮本と御真蹟を比較してまず気付くことは、御真蹟の「比丘・比丘尼」が岡宮本では、これに在家の優婆塞・優婆夷をも加えた「四衆」となっていることである。

 次に、御真蹟の「初心の者入ること許ず」とあるのが、岡宮本では「後心の菩薩也」と全く別の言葉になっている。なるほど「後身」と同音の「後心」に改め、更に「菩薩」の下に「ための(のもの)」という語を補って解釈するならば、意味は通ずるといえる。ほかの諸本では「後身」が「後心」となっている所以でもあろう。

 更に、御真蹟にある「修行」の「修」字、及び「親近せず」の四文字が岡宮品では脱落していることも見逃せない。このような一見不注意による書き落しと見受けられる欠落部は、後述するように岡宮本には極めて多いのである。

 次に、もう一つ例を挙げておく。御書全集の0346-:05~07行目に該当する御真蹟は「後の五百餘年は権大乗経、所謂華厳・方等・深密・大日経・般若・観経・阿彌陀経等を、馬鳴菩薩・龍樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩・大論師弘通すべし。而に此等の阿羅漢竝大論師は」となっているが、岡宮本では「後の五百年には、権大乗の内花厳・方等・深蜜・般若・大日経・観経・阿みだ経等を、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩の大論師、弘通可と云々。此等の大論師は」となっている。

 御真蹟においては四依の大菩薩として馬鳴より天親に至る人物が記されているのに対して、岡宮本ではこれに弥勒菩薩と文殊師子菩薩とが加えられている。また御真蹟に記されている「阿羅漢竝」の4文字が岡宮本では脱落していること、大日経と般若との順序が入れ代わっている等の違いが見られる。しかし、ここに指摘したいことは、これらの相違とは、単なる不注意によるミス、すなわち誤写の範囲を超えたものといわざるを得ないということである。

 次に御書全集に「世間の法にも賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申す是なり」(0346:01)とあり、これに該当する個所は岡宮品では、高木氏の諸本解説によれば「世間の法ニモ賢人ハ二君に仕へす貞女ハ両夫ニ嫁かすと申是也」となっているのであるが、この部分をほぼ含んでいる御真蹟は「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず。賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申是也」となっている。

 岡宮本が第二転の写本であったとするならば、この場合は岡宮本の基づいたものと写本の筆者、あるいは岡宮本の筆者が御真蹟の「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず」の部分を抹消して「世間の法にも」と書き改めたことになるであろう。なるほど岡宮本の表現でも意味は十分に通ずる。

 しかしながら、大聖人の記された文字に対して、そのような大幅な書き換えを弟子がなし得るものであろうか。まして御真蹟と岡宮本を比較したときに、御真蹟の文章の方が適切な譬喩も用いられており明らかにわかりやすくなっているのである。言い換えるならば、文章としての完成度が高いのである。しかるに、せっかくわかりやすくなっている文章から譬喩を削って書き改める。そのような添削が弟子によってなされたとすれば、それは明らかに越権行為というべきである。

 御正本を拝すると、本抄はできる限り平仮名を多く使うという方針が貫かれており、仏法用語に不慣れな人に対しても可能な限りわかりやすい文章に、という配慮が多分になされている。にもかかわらず岡宮本は、そうした大聖人の意図に逆行する表現をしているのであり、これは写本という制約をはるかに超えていたといわねばなるまい。これが、岡宮本が御正本からの転写本であったとする場合、たとえ重写本であっても、どうしても拭えない疑問である。

三、下書の可能性

 これまで挙げた例からも十分にうかがえるように、日法所持の岡宮本や日澄本は現存する御真蹟との間に相当の相違がある。にもかかわらず、それなりに一貫した文章で書かれており、かなり周到に練り上げられたものといえる。したがって御真蹟と写本の隔たりを理由で、書写した人物の単純ミス、転写の過程で生じたあやまりにのみ、求めるのは無理ではないかと思われる。

 では、御真蹟と写本の間に大きなズレが生じたのは一体いかなる理由によるものであろうか。これについて一つの仮説を立てれば、大聖人自身が書き換えられたことによると考えられないであろうか。すなわち、大聖人が下書きを用意されて、これに推敲を加えられて御正本を認められたという可能性はないであろうか。つまり、岡宮本や日澄本の古い写本は、実はその下書き本を筆写したものではないかといいう推察である。

 こうして完成された御正本は下山兵庫のもとへ届けられ、大聖人の手元に残された下書をもとにして岡宮本や日澄本が成立したのではないかと推察される。しかし、これだけでは推測の域を出ない。そこで、これを一つの仮説として、様々な角度から検討してみることにしたい。

 まず、この仮説に基づいて考えるならば、写本と御真蹟の間にかなりの差異があることも極めて自然なことであり、転写に際して生じた欠落と見えた部分も、実は欠落ではなく、逆に加筆された部分であったことになるのである。以下に、下山抄に下書があったとするこの仮説を検討していく。

四、御真蹟が浄書本の一部である可能性

 前項で提示したように、大聖人が下書きを準備されたうえで本抄を著されたという説をとる場合、現存する御真筆は果たして草稿の方であったか、あるいは浄書本であったのかという問題が起きてくる。

 本抄の御真筆における大きな特徴は、他の御書の御真筆と比較して、訂正や末梢、挿入等がほとんど見られないことである。わずか3文字を抹消した跡が1ヵ所残っているのみである。これは、例えば、大聖人自身の手によると思われる30余ヵ所にわたる補筆・訂正が施されている観心本尊抄に比べるとはるかに少ない。もちろん、本抄の御真筆は著しく断片化されているため、これだけでは即断できないが、おそらく現存する御真筆が浄書のように思われる。

 本抄の御真筆には、もう一つ際立った特徴がある。それは振り仮名が多いということである。これが誰の手によるものであるか不明であるが、あるいは日興上人ではないかといわれている。この点について日亨上人は次のように述べられている。

 「記憶がたしかではないが、下山抄の断編に、興尊が旁訓をつけられたのを見たことがある。大聖より興師の手に、興師より弟子の日永に下りしときの御親切である」

 ただし、宮崎氏の論文「下山抄の御真蹟について」では、振り仮名が削り取られたり、墨抜きされたりした御真蹟断片は10にものぼるとしている。したがって現存する御真蹟には、振り仮名があったといえることから、それは同一の御正本の一部であると推定される。というのも、草稿に振り仮名がつけられたとは考えられないからである。

 次に写本との異同に着目てし、下書き説の可能性を探ってみたい。これまでの考察により、大聖人が本抄御執筆のために下書を用意されたという仮説が必ずしも根拠のない説ではないことがほぼ承認されるであろう。しかし、更に幾つかの事例を通してこの仮説を検討してみたいと思う。

 前述したように、本抄は日昭門流によって「異本これあり」と疑いの眼で見られてきた。下書き説を前提にすれば、そのようになった経過はおよそ次のようであったろう。

 すなわち下書きの草稿を書写して成ったと推定される日澄本や岡宮本と御正本の間にはかなりのズレが生じ、しかも御正本は行方不明となり、後に各方面に分散した。このために、後代になって岡宮本の写本が御正本や御正本からの直写本に基づいて校訂しようという試みもなされたに違いないのであるが、完璧にそれを成し遂げることは誰にもできなかった。この故に校合の度合いによって、また写本の系統によって複雑な錯綜が生じたものと考えられる。

 さて、そのような跡を残すと思われる典型的な例がある。それは前項の御書全集の「不正直の者となる、世間の法にも賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申す是なり」(0346:01)の個所である。

 平賀本土寺所蔵の下山抄写本の該当個所は「不正直ノ行者トナルナリ、譬ヘハ一女カ二夫ヲ兼タルカ如シ我ニハ殺害ヲ招キ子息ハ父定ナシ、世間の法ニモ賢人ハ二君貞女ハ不嫁両夫ハ申ハニ是也」となっている。これは御真蹟に極めて近い。よって平賀本は、この部分に関していえば御真蹟による校合を経た写本か、あるいはかつて御正本からの筆写本が存在していて、その系統に属する写本といえるであろう。ただし、御真蹟と全く一致するわけではない。

 比較のために御真蹟を再掲すると、「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず。賢人は二君に仕へず貞女は両夫に嫁がずと申是也」となっており、平賀本では「家」を「我」に、「定ず」を「定ナシ」と改め、「と申」を「ハ申ハ」と誤写していることのほかに、御真蹟にない「世間ノ法ニモ」を「賢人ハ」の前に置いていることが御真蹟と異なる個所である。

 さて平賀本によって御真蹟より前の部分を復元することができるであろうか。これは比較的難問である。まず昭和新定においては「世間の法にも…かねたるがごとし」と、御正本の原形を想定している。すなわち「世間の法にも」の語は、正本中にも存在し、そのあとに何らかの語句、ないし御文があって「かねたるがごとし」に続いたと解しているのである。

 これまでに岡宮本と御真蹟とを比較対照した際の例としては、御真蹟にはあるのに岡宮本に欠落している部分がある、という場合が多かった。これまで挙げた「親近せず」、「阿羅漢並に」、「々を法花経」のほかにも「浅深徳道の有無」、「存外に」というような語句がその例である。しかし、その逆の例は、つまり岡宮本にあって御真蹟には見られないという語句は、前述の「弥勒菩薩・文殊師利菩薩」の例くらいしかないのである。

 その故に、他例と照らし合わせて、岡宮本をはじめとする現存するほとんどの写本にある「世間の法にも」の語は御真蹟にもあったはずである。と平賀本の筆録者や昭和新定の編者が判断したのも無理なからぬことではある。しかし、「世間の法にも」とくれば岡宮本や平賀本の如く「と申すは是なり」と首尾呼応すべきところである。ところがその中間に「かねたるがごとし。家には殺害を招き、子息は父定ず」と比喩表現が挿入されるとどうしても文章としては続かないなである。

 ともかく岡宮本が現存の御真筆からの転写本であることを前提とし、その欠落部は書写の過程で生じたものであるとする見方に立つかぎり、この問題は解決できない。そこで、岡宮本は実は大聖人御自身による下書きの別本を筆写したとする見方をとれば、大聖人は下書きに記された「世間の法にも」という語にこだわられなかったのではないかと考えられるのである。というのも、これは「賢人は二君に仕えず」以下の語を引き出すための枕ことばに過ぎないからである。

 大聖人は下書に基づいて「不正直の者となる」のところまで筆を進められたとき、ここで、よりわかりやすい譬えを挙げることを思いつかれ「譬へば一女が二夫をかねたるがごとし、家には殺害を招き子息は父定ず」の比喩を加えられたと推側される。これを挿入し、しかる後に再び下書きに立ち戻って「賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁がすと申此也」と続けられたのではなかろうか。その際、新たな比喩を挿入された結果不要となった「世間の法にも」の語は捨てられたのではないかと愚考する。

 上の考察結果によって正本を復元すると「不正直の者となるなり、譬へば一女が二夫をかねたるがごとし、家には殺害を招き子息は父定ず、賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁がすと申此也」となる。さて上の考察結果が認められたとするならば、その前提としての、岡宮本は下書きの草稿からの写本であったという仮説が必ずしも突飛な考えとはいえないのではないかと思うものである。この点については、更に考察を続えていくことにしたい。

五、下書き説の検討

 前項では、最古の写本と目されている日法本や日澄本が御正本の直書写ではなく、下書きの草稿、またはその写本を書写したものであろうという仮説を立て、それに基づいて各地に残っている断片の御真筆のおそらく浄書本の一部であろうと推測した。ここでは、この下書の説の検討を更に進めることにしたい。

 さて、日蓮大聖人が下書を用意されたことは他に例のないことではない。これまでの御真蹟目録などから、御草案が存在していたと推定されているのは、浄書御真蹟の完本が現存する曾谷入道殿許御書(御草案の一部と思われる断簡が現存する)をはじめとして、治病抄・法華取要抄・強仁状御返事・顕謗法抄等がある。

 現存する本抄の御真蹟も、下書きをもとに浄書された可能性について言及する理由のもう一つ挙げておこう。それは、御真蹟中にある「法華経」という語の位置である。本抄中には「法華経」及び「法華宗」という文字が80数個所にわたって用いられており、そのうち現存する御真蹟によってその記された位置が確認できるものは19例である。

 この19例のうち実に13例において、「法華経」及び「法華宗」の文字が行頭に位置している。これは果たして偶然であろうか。

 思うに、大聖人は、本抄の執筆にあたって、できるだけ「法華」の文字が行頭に置くよう意図されていたのではなかろうか。つまり本抄の御執筆にあたっては、それだけ細かい神経を払われていたことが拝せられるのである。とするならば、大聖人があらかじめ下書を用意されたことも決してありえない話ではない。

 次に、御書全集に「今の時は世すでに上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり、而るに余愚眼を以てこれを見るに先相すでにあらはれたるか」(0346:12)の1節があるが、岡宮本はほぼこれと同じで、「今の時きは、世既に上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり、而に余愚眼を以て此を見に、先相既に顕たるか歟」となっており、日蓮宗全書所収の録内御書・縮冊遺文・及び昭和定本も同じである。

 これに対し昭和新定ではこの個所に大幅な加筆が施されている。すなわち上の該当部は「今の時は世すでに末法のはじめなり、釈尊の記文、多宝・十方の諸仏の証明に依て、五百塵点劫より一向に本門寿量品の肝心を修行し習い給へる上行菩薩等の御出現の時刻に相当れり、例せば寅の時間浮に日出で、午の時大海の潮減ず。盲人は見ずとも眼あらん人は疑ふべからず。而るに余愚眼を以てこれを見に先相すでにあらはれたる歟」となっており、赤文字部が新たに挿入されている。これは、日講の録内啓蒙巻32に異本ある御文として引かれており、昭和新修日蓮聖人遺文集もこれを踏襲している。

 この御文については、後世の人が勝手に挿入したと考えられなくもないが、大聖人御自身が挿入されたと判断したものであろう。もしそうであるとすれば、おそらく、できる限りのわかりやすく、というお考えから、御正本の中にこうした挿入がなされたのであろう。岡宮本の「時剋」が一般の人によりなじみのある「時刻」に改められているが、これも今までに見られた傾向と共通するものである。

 啓蒙というところの「異本」が、具体的にはいかなる写本を指すかは不明であるが、御抄本からの直写本に系統に属する写本、あるいは部分的にであれ御真筆との校合を経た写本がかつて存在していたのかも知れない。前述したように日好が録内扶老で11文字の御真筆断片を見たと記しているが、それも今日には伝わっていない。当然のことながら、時代をさかのぼればさかのぼるほど、数多くの御真筆断片が存在していたはずであるが、ただし、写本を作成する段階でそうした御真筆の断片との照合が行われた可能性は小さいはずではないか。

 というのも、写本において御真筆との照合が行われたのは、御正本のほぼ全体が残されていた場合であり、本抄の場合は既に御真筆が断簡化し余りにも広く分散してしまっていたからである。

 本抄の場合においては、明治35年(1902)に稲田海素氏が小川泰堂編の高祖遺文録を根底として、御真筆との対照校合を行って縮冊遺文を編纂した当時ですら、京都・妙満寺、同・本國寺、小湊・誕生寺にそれぞれ所蔵されている御真筆断簡のわずか3片が知られていただけに過ぎない。交通機関が十分に発達していなかった昔の時代では、たとえ御真筆の断片がどこかに所蔵されていても、そうした情報を多くの人が共有するまでにはいたらなかったであろうと思われる。

 次に、御書全集の「大石を小船に載するが如し修行せば身は苦く暇は入りて験なく華のみ開きて菓なからん、故に教大師・像法の末に出現して」(0347:02)の部分に関してであるが、岡宮本では「大石を小船に載るが如し。修行せば、身は苦く暇は入りて無験、花のみ開て無菓。故に教大師」となっており、一方、御真蹟では「大石を小船に載セたり。偶々修行せば身は苦シク暇は入リて験なく、花のみ開キて菓なく、雷のみ鳴テ雨下ラじ。故に教大師」となっている。この青文字「雷のみ鳴雨下じ」は先の例と同じく、大聖人御自身が御草案に加筆されたものとも考えられる。

 以上、大聖人御自身の手になる本抄の御草案がかって存在した可能性について検討してみたが、本抄の場合、各書写本間の異同の厳密な考証、中世に成立した録内御書写本と御真筆との対照、あるいは現存する御真筆そのものの克明な考察など残された課題は少なくない。

 例えば、御真筆における振り仮名の削除についても、御真筆の断片によっては研究者の見解が分かれているものもある。渡辺氏所蔵の「を糾明せられしに…澄公の一言に」の三行断片は、立正安国会編の日蓮大聖人御真蹟対照録中巻では“降り仮名削除”としているが、宮崎英修氏は全掲論文「下山抄の御真蹟について」でそのように扱っていない。

 また、「三蔵・金剛智…雨を下ラシて」六行断片については、逆に宮崎氏のみが振り仮名ありとしている。この二例以外で見解が分かれているものは、一行の断片二葉であり、この場合は、もともと平仮名がなかったが、あるいは一行に切り取られる過程で平仮名が脱落した可能性もあるので、ここでは先の三行と六行の断片について触れておきたい。

 さて、前項では下書の御草案があったと仮定し、振り仮名のある御真筆は浄書本の断片であろうと推察してきたのであるが、上の二つの断片と日法本及び日澄本の該当個所を比べてみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。

 まず、はじめに三行の断片は前項でも取り上げたように、御真筆は次のようになっている。

 「を糾明せられしに、先は六宗の碩学各々宗々ごとに我が宗は一代超過々々の由立テ申されしかども澄公の一言に」

 これに対し、日法本では「を糾明せられしに、各宗々毎に、我宗は一代超過の由各々立申されしかども、教大師の一言に」となっている。前項で見たように澄本もほぼ日法本と変わらない。

 これらの御真筆と写本との際立った相違から写本は下書きをしたものとする仮説を立てたのであるが、この仮説に基づけば、この御真筆の断簡は御草稿ではなく浄書本の一部であり、仮名が振れられていたのであるとの推測が成り立つ。故に、振り仮名がない場合は、前に削除されたとする対照録の見解と一致する。

 一方、六行の断片の御真蹟は「三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時、小雨は下たりしかども三師ともに大風連々と吹て勅師つきてをはれしあさましさと、天台大師・伝教大師の須臾と三日が間に帝釈雨を下て」となっている。これに対いて日法本では「三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時、小雨は為下、三師共に大風連々と吹て、勅旨を付けて追れし浅染と、天台大師・伝教大師の須臾と三日之間に帝釈雨を下して」となっており、漢文風に書き改められていること、同音異字を除けばほとんど同一であるといえる。

 また、日法本及び日澄本と校合して編纂した縮冊遺文や日蓮宗全書収録の下山抄でも、この御文の個所は御真蹟とほとんど変わらないことから日澄本も同一であったと思われる。

 先に私たちは、これら日法本や日澄本は浄書本の方ではなく、別の下書きを底本として書写したものではないかと推察した。ただし浄書と下書きが一致することは珍しくない。下書きの草稿の完成度が高ければ、当然、量的にもその方が多くなる。

 このことを踏まえると、上の六行の御真蹟断片には、次の二とおりのケースしかない。一つは、御草稿の一部であるが浄書で訂正を加えられなかった場合であり、もう一つは浄書の一部である場合である。そして前者のケースでは振り仮名はなく、後者のケースでは振り仮名があるという推定が成り立つのである。

 故に、対抄録の見解に従ってもしこの六行の断簡が振り仮名を削除したものではないとすれば、この断簡は現存するほとんどの唯一の御草稿断片であると考えられるのである。しかし、前項で述べたように、本抄の数多い御真筆の中で大聖人による御訂正はただ一ヵ所しか見られないのであるが、その唯一の訂正個所を含む六行がこの断簡なのである。

 振り仮名の残っている御真筆を拝する限り、実に丁寧に振り仮名が振られており、六行もの長さにわたって振り仮名をつけ忘れたり、手を抜くというのは考えられないことである。そこから、この六行の断片に関しては、下書の可能性が高いといえるのである。

 最後に大石寺所蔵の五行の断片があり、日蓮大聖人真蹟集成第九巻に付す山中喜八氏の」解説には次のように記されている。

 「善護等謝差勅使表の文を抄出した五行断片。この断片は、その筆蹟並びに一度ほどこした振り仮名を再び削り去った痕跡をみることによって推考すると『下山御消息』の一部かと思われる」

 その断簡の全文は次の通りである。

 「惣括釈迦一代之教悉顕其趣無所不通独逾諸宗殊示一道。又云、其中所説甚深妙理。七箇大寺六宗学生昔所来未聞曾所未見。三論法相久年之諍渙焉水」

 ところが、この文は、下山抄には引用されていないし、写本にも見当たらない。下山抄に善議等14人の謝表の文として引かれているのは、この文の少し後に続く個所である。すなわち、創価学会版御書全集でいうと0345:12行目の「此界の含霊而今而後悉く妙円の船に載り早く彼岸に済ることを得」の文である。

 下書の説に立って推側すれば、御草案にあった文に更に引用文を増して書き加えられたが、あるいは引用文を変えられたと考えられなくもないが、やや無理があるのではないかと思われる。

 現行の御書で、この文が引用されているのは、撰時抄と釈迦一代五時継図の二書のみである。このうち後者は御真筆が現存せず、御述作年代もはっきりしていないが、前者はほぼ完全な形で御真筆が今日に伝わっており、該当の文も含まれている。すなわち、三島市玉沢・妙法華寺に所蔵される第三巻の第9紙に全く同一の文がある。

 妙法華寺に所蔵される撰時抄の御真筆は、大聖人による推敲の跡が著しく、おそらく御草案であろうと推定されている。もちろん振り仮名はつけられていない。そして、身延における御真蹟目録の身延山久遠寺御霊宝記録によって撰時抄の前半にあたる53紙がかって存在していたことが確認できることから、浄書本に当たる御抄本の前半は身延に存し、明治8年(1875)の大火で焼失したものと考えられる。ただし、これについては疑問がないわけではない。

 例えば、報恩抄も日乾の目録によると身延に所蔵されていたが、日乾以後に身延所蔵の同抄の一部が流出していたため明治の大火による焼失を幸いにも免れているのである。このような例があることからも、目録に載せられているからといって、それがすべて完全な形で明治の大火まで身延にあったと必ずしも断定できないからである。

 つまり、大石寺所蔵の五行の御真筆は、想像をたくましくすれば、かつて身延にあったと推定される撰時抄の浄書本の一部であることも十分考えられるのであり、釈迦一代五時継図の一部であるかも知れない。それは何ともいえないのであるが、それらの可能性と比較するならば、現実に対応する文が下山抄のどの写本にもないのであるから、下山抄の一部である可能性は少ないと考えるべきではないであろうか。

 このように、御真筆についても更に厳密な研究が要求されるものであり、大聖人の御文における文献学的・書誌学的な研究に進むにつれて、新たに解明される問題もあるに違いないと思われる。本稿の仮説は、その意味で必ずしも十分ではないが、一つの問題提起として可能性を検討したものであり、決してこれに固執するものではない。いずれにしても、本抄が十分に推敲を重ねたうえで著されたことは疑いのないことであり、心して大聖人の大慈悲を拝するとともに、本抄にとどめられた大聖人の御真意をかりそめにも損ねるようなことがあってはなるまい。

 

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