諫暁八幡抄 第十九章(八幡は法華行者の住処に栖む)
弘安3年(ʼ80)12月 59歳
今八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。
法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや・天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云。
現代語訳
八幡大菩薩は本地身としては月支国において不妄語の法華経を説かれ、その垂迹身として、日本国において彼の法華経を正直の二字として「賢人の頂き宿らん」と誓われたのである。
したがって、この大菩薩は宝殿を焼いて天に昇られても、法華経の行者が日本国にあるならば、その行者の住処をすみかとされるはずである。
法華経の第五の巻・安楽行品第十四に「諸天は昼夜に常に法のためのゆえに、これを衛護する」と説かれている。
この経文のとおりであれば、南無妙法蓮華経と唱える人を大梵天王、帝釈天、日月、四天等が昼夜にこれを守護されるわけである。
また第六の巻・如来寿量品第十六には「あるいは己身を説き、あるいは他身を説き、あるいは己身を示し、あるいは他身を示し、あるいは己事を示し、あるいは他事を示す」とある。
観音菩薩は三十三身を現じ、妙音菩薩はまた三十四身を現じられる。教主釈尊がどうして八幡大菩薩と現じられないことがあるだろうか。天台大師は「すなわち、形を十界に垂れて種々の像を作す」等といわれている。
語句の解説
日月
日天と月天のこと。①日天。日天子とも。サンスクリットのスールヤの訳。インド神話では太陽を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。月天と併記されることが多い。日宮殿に住むとされる。②月天。月天子とも。サンスクリットのチャンドラの訳。インド神話では月を神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法の守護神とされた。日天と併記されることが多い。長阿含経巻22では、月天子は月宮殿に住むとされる。基(慈恩)の『法華玄賛』巻2には「大勢至を宝吉祥と名づけ、月天子と作す。即ち此の名月なり」とあり、その本地は勢至菩薩とされる。法華経序品第1には、釈提桓因(帝釈天)の眷属として名月天子の名が出ており、諸天善神の一つとされる。
四天
古代インドの世界観で、一つの世界の中心にある須弥山の中腹の四方(四王天)の主とされる4人の神々。帝釈天に仕える。仏教では仏法の守護神とされた。東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に毘沙門天王(多聞天王)がいる。法華経序品第1ではその眷属の1万の神々とともに連なり、陀羅尼品第26では毘沙門天王と持国天王が法華経の行者の守護を誓っている(法華経73,644,645㌻)。日蓮大聖人が図顕された曼荼羅御本尊の四隅にしたためられている。
観音
観音菩薩、観自在菩薩ともいう。「観世音」とは「世音を観ずる」ということで、慈悲をもって衆生を救済することを願う菩薩。大乗仏教を代表する菩薩の一人で、法華経観世音菩薩普門品第25などに説かれる。その名前をとなえる衆生の声を聞いて、あらゆる場所に現れ、さまざまな姿を示して、その衆生を苦難から救うとされる。浄土教でも信仰され勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士とされる。
三十三身
観世音が衆生を救うため、場合に応じて変化する33の姿。法華経普門品に基づく。仏・辟支仏・声聞・梵王・帝釈(・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門・小王・長者・居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦・執金剛。
妙音
妙音菩薩のこと。法華経妙音菩薩品第二十四に説かれる。妙音菩薩が法華経の会座に列なるため、この娑婆世界に来至する時、「経る所の諸国は、六種に震動して、皆悉な七宝の蓮華を雨らし、百千の天楽は、鼓せざるに自ら鳴る」と、種々の神力を有するところから妙音の名がある。ここで華徳菩薩が釈迦牟尼仏に「是の妙音菩薩は、何なる善根を種え、何なる功徳を修してか、是の神力有る」との問いを発すると、仏の告げたまうに、過去の雲雷音王仏の在世の時、現一切世間という国があり、劫を喜見といった。その時一人の菩薩があり、名を妙音菩薩といった。妙音菩薩は一万二千年の間、十万種の伎楽を雲雷音王仏に供養し、八万四千の七宝の鉢を奉納した。この果報として、妙音菩薩は浄華宿王智仏の有す一切浄光荘厳国に生じ、三十四身を現じて法を説き衆生を利益する神力を得たのであると。そしてこの妙音菩薩品が説かれたことで、華徳菩薩は法華三昧を得たのである。
三十四身
妙音品第24に説かれる。妙音菩薩の34の変化身。梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天王・転輪聖王・小王・長者・居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩鍮羅伽・地獄・餓鬼・畜生・後宮女。
講義
八幡大菩薩は本地身としては月支で不妄語の法華経を説き、日本国には垂迹身として不妄語の法華経を「正直」の二字として、「賢人の頂きにやどらん」と誓った神である。したがって、宝殿を焼いて天に昇っても、法華経の行者が日本国に在るかぎり、その行者の住処に必ず栖むことを述べられ、観音・妙音菩薩でさえ、三十三身、三十四身を現ずるのであるから、教主釈尊が八幡大菩薩と示現し、利益を垂れないわけがないことを強調されている。
四条金吾許御文に「此の神は正直の人の頂に・やどらんと誓へるに・正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり」(1196:16)と仰せのように、仏法上の正直の人がいないために天にのぼってしまったのである。
しかし、法華経の行者は「正直の人」であるから、その頂に宿り、守護の働きを示すのである。日寛上人は撰時抄愚記で次のように述べられている。すなわち「凡そ神天上とはこれ謗者の前に約するなり。若し信者の前に約さば、諸神恒に頂に居するなり」と。
このことは、他の諸御書にも「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては争か其の影をばをしみ給うべき、我が一門は深く此の心を信ぜさせ給うべし、八幡大菩薩は此にわたらせ給うなり」(1197:14)、また新池御書には「霊山の起請のおそろしさに社を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし」(1442:14)と述べられているところである。
そして法華経安楽行品第十四の「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之れを衛護し」の文を示されている。「常に法の為の故に」とは、御義口伝巻上に「末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(0750:第五有人来欲難問者諸天昼夜等の事)と説かれているように、末法今時では三大秘法の南無妙法蓮華経をさす。
又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」
法華経如来寿量品第十六の文で、仏があらゆる姿で一切衆生を救う大慈悲の振る舞い、また活動することを説いた文である。
「説き」とあるのは、仏の音声を聞いて利益を得る「声益」を明かし、「示し」とあるのは、仏が出現してさまざまな形や事相を示し、衆生はこれを聞いて利益を得る「形益」を明かしている。
天台大師はこの文を法華文句巻九下で「若し法身を説かば是れ己身を説き、若し応身を説かば是れ他身を説く。益燃燈仏に値いたてまつると言わば即ち是れ己身を説く。燃燈は是れ我が師、是れ他身を説くなり(中略)随他意語は是れ他身を説く。随自意語は是れ己身を説く。己他の事を示すこと亦類して此くの如し」と釈している。己身を仏自身・法身・仏界に、他身を他の仏・応身もしくは垂迹身・九界に約すのである。
観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ
法華経観世音菩薩普門品第二十五に、観音菩薩が衆生のあらゆる苦を救うために、機根に応じて三十三種の変化身を現ずることが説かれている。
仏・縁覚・声聞・梵王・帝釈・毘沙門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷であるが、日蓮大聖人は御義口伝巻下で「三十とは三千の法門なり、三身とは三諦の法門なり云云、又云く卅三身とは十界に三身づつ具すれば十界には三十・本の三身を加うれば卅三身なり、所詮三とは三業なり十とは十界なり三とは三毒なり身とは一切衆生の身なり」(0777:第五三十三身利益の事)と説かれている。
「妙音又三十四身を現じ」とは、同じく妙音菩薩品第二十四に、妙音菩薩が、機により、時により、三十四種の変化身を現じて衆生を利益することが説かれている。
おもなものを挙げれば、梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・転輪聖王・長者・居士・宰官・婆羅門等であるが、大聖人は御義口伝巻下「妙音菩薩の事」で「妙音菩薩とは十界の衆生なり、妙とは不思議なり音とは一切衆生の吐く所の語言音声が妙法の音声なり三世常住の妙音なり、所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり是を菩薩と云うなり」(0774:第一妙音菩薩の事:01)と教示されている。
このように、観音や妙音でも、三十三身・三十四身を現じるのであるから、教主釈尊が八幡大菩薩と現じないわけがあろうか、と述べられているのである。
「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」とは、天台大師の法華玄義の文である。仏は、十界のさまざまな形をとって現れるのであるから、十界のなかの天界に八幡神の姿をとるということである。
以上をもって、八幡大菩薩に対する両重の諫暁を終わり、結びとして仏法西遷の定理を明かされるのである。