要文
減劫と申すは人の心の内に候。貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに、次第に人のいのちもつづまり、せいもちいさくなりもてまかるなり。
減劫御書
建治元年(ʼ75)末または同2年(ʼ76) 54歳または55歳 高橋六郎兵衛の縁者
減劫と申すは人の心の内に候。貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに、次第に人のいのちもつづまり、せいもちいさくなりもてまかるなり。
漢土・日本国は、仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもって民の心をととのえてよをば治めしほどに、次第に人の心はよきことははかなく、わるきことはかしこくなりしかば、外経の智あさきゆえに、悪のふかき失をいましめがたし。外経をもって世おさまらざりしゆえに、ようやく仏経をわたして世間をおさめしかば、世おだやかなりき。これはひとえに、仏教のかしこきによって人民の心をくわしくあかせるなり。
当時の外典と申すは、本の外経の心にはあらず。仏法のわたりし時は外経と仏経とあらそいしかども、ようやく外経まけて王と民と用いざりしかば、外経のもの、内経の所従となりて、立ちあうことなくありしほどに、外経の人々、内経の心をぬきて智慧をまし、外経に入れて候を、おろかなる王は外典のかしこきかとおもう。
また、人の心ようやく善の智慧ははかなく悪の智慧かしこくなりしかば、仏経の中にも小乗経の智慧、世間をおさむるに、代おさまることなし。その時、大乗経をひろめて代をおさめしかば、すこし代おさまりぬ。その後、大乗経の智慧及ばざりしかば、一乗経の智慧をとりいだして代をおさめしかば、すこししばらく代おさまりぬ。
今の代は、外経も小乗経も大乗経も一乗法華経等も、かなわぬよとなれり。ゆえいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。譬えば、犬は鼻のかしこきこと人にすぎたり。また鼻の禽獣をかぐことは、大聖の鼻通にもおとらず。ふくろうがみみのかしこき、とびの眼のかしこき、すずめの舌のかろき、りゅうの身のかしこき、皆かしこき人にもすぐれて候。そのように、末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは、いかなる賢人・聖人も治めがたきことなり。
その故は、貪欲をば、仏、不浄観の薬をもって治し、瞋恚をば慈悲観をもって治し、愚癡をば十二因縁観をもってこそ治し給うに、いまはこの法門をといて、人をおとして、貪欲・瞋恚・愚癡をますなり。
譬えば、火をば水をもってけす。悪をば善をもって打つ。しかるに、かえりて水より出でぬる火をば、水をかくれば、あぶらになりていよいよ大火となるなり。
今、末代悪世に、世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり。これをばしらずして、今の人々善根をすすれば、いよいよ代のほろぶること出来せり。今の代の天台・真言等の諸宗の僧等をやしなうは、外は善根とこそ見ゆれども、内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり。
しかれば、代のおさまらんことは、大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有って、仙予国王のごとくなる賢王とよりあいて、一向に善根をとどめ、大悪をもって、八宗の智人とおもうものを、あるいはせめ、あるいはながし、あるいはせをとどめ、あるいは頭をはねてこそ、代はすこしおさまるべきにて候え。
法華経の第一の巻の「諸法実相」乃至「ただ仏と仏とのみ、いまし能く究尽したまえり」ととかれて候はこれなり。「本末究竟」と申すは、「本」とは悪のね善の根、「末」と申すは悪のおわり善の終わりぞかし。善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり。
天台云わく「夫れ、一心に十法界を具す」等云々。章安云わく「仏これをもって大事となす。何ぞ解し易きことを得べけんや」。妙楽云わく「乃ちこれ終窮究竟の極説なり」等云々。法華経に云わく「皆実相と相違背せず」等云々。天台これを承けて云わく「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」等云々。
智者とは、世間の法より外に仏法を行わず。世間の治世の法を能く能く心えて候を、智者とは申すなり。
殷の代の濁って民のわずらいしを、太公望出世して殷の紂が頸を切って民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし、張良出でて代をおさめ民の口をあまくせし、これらは、仏法已前なれども、教主釈尊の御使いとして民をたすけしなり。外経の人々はしらざりしかども、彼らの人々の智慧は、内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。
今の代には、正嘉の大地震、文永の大せいせいの時、智慧かしこき国主あらましかば、日蓮をば用いつべかりしなり。それこそなからめ、文永九年のどしうち、十一年の蒙古のせめの時は、周の文王の太公望をむかえしがごとく、殷の高丁王の傅説を七里より請ぜしがごとくすべかりしぞかし。日月は生盲の財にあらず。賢人をば愚王のにくむとは、これなり。しげきゆえにしるさず。法華経の御心と申すは、これていのことにて候。外のこととおぼすべからず。
大悪は大善の来るべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば、「閻浮提内、広令流布(閻浮提の内に、広く流布せしむ)」は、よも疑い候わじ。
この大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。むかしこの法門を聞いて候人々には、関東の内ならば、我とゆきてそのはかに自我偈よみ候わんと存じて候。しかれども、当時のありさまは、日蓮かしこへゆくならば、その日に一国にきこえ、またかまくらまでもさわぎ候わんか。心ざしある人なりとも、ゆきたらんところの人、人めをおそれぬべし。いままでとぶらい候わねば、聖霊いかにこいしくおわすらんとおもえば、あるようもありなん。そのほど、まず弟子をつかわして、御はかに自我偈をよませまいらせしなり。その由、御心え候え。恐々謹言。
背景と大意
この手紙の日付も宛先も不明です。 結語から判断すると、日蓮大聖人は弟子の大進阿闍梨を介して、駿河国・富士郡・鹿島在住の信徒、故高橋六郎兵衛の一族の誰かにこの書を送った可能性があります。
大聖人は冒頭の御言葉で「減劫は人の心に根源がある」と仰せられています。 そして、世界は人間の妄想の結果として衰退し、人々の心の貪欲、怒り、愚かさが激化するにつれ、その影響を抑えるために徐々に高度な教えが必要になると説明しています。 末法の現在、これらの三毒は非常に蔓延しており、暫定的な教えはそれらを抑制できないだけでなく、さらに悪化させています。 この時代において、最悪の悪は実際に世俗の悪行からではなく、仏教の諸宗派の教義への執着から実際に生じ、その実践はもはや救いに至らない、と大聖人は説明されています。
大聖人は、法華経の「方便品」の一節「諸現象の真実の相は、仏の間でのみ知り得、共有することができる」の一節を引用し、仏の智恵だけが世界に平和をもたらす最高の真理を見極めることができると説かれています。また、真の知恵のある人とは、世間から孤立して仏道修行を行う人ではなく、世界を統治する原理を徹底的に理解している人であるとも説かれています。 これは、究極の現実はすべての現象の中に現れるという法華経の教えと一致しています。 この意味で、仏教伝来以前の時代に中国の王朝に平和をもたらした賢臣たちは、仏法の一部を理解していたと言えるかもしれません。
日本の統治者は、妙法への信仰だけがこの国に平和を取り戻すことができるという大聖人の忠告に耳を貸さなかったけれども大聖人は、自分の教えがいつか栄えると確信していました。 この書簡の題名からもわかるように、大聖人は、当時の社会を襲った災難を、人間の迷いと劣等な教えへの執着から生じたものであると、ある観点から捉えられていました。 しかし、大聖人は、「大悪は大善の到来を予兆する」という言葉に見られるように、別の観点から、これを最高法の興隆と普及を告げるものであるとも解釈されている。
現代語訳
減少の劫(カルパ){減劫}…寿命が年々減っていく長い期間
背景
減少のカルパ(減劫)は人間の心に起源を持ちます。 貪欲、怒り、愚かさの毒が徐々に強まるにつれて、人間の寿命は徐々に短くなり、身長も低くなっていきます。
中国と日本に仏教が伝わる前は、三皇、五帝、三聖の非仏教経典が人々の心に秩序をもたらし、世界を統治するために使われていました。 人々の心が徐々に善を失い、悪に熟達すると、非仏教経典の知恵が浅いため、深刻な悪の罪を抑制することができなくなりました。 非仏教の経典では統治できない世界だったため、徐々に仏教の経典が伝わり、それが統治に用いられるようになると、世界は平静になりました。 それはひとえに仏教の智恵が人々の心を解き明かすことができるからです。
今日「非仏教著作」と呼ばれるものは、本来の非仏教経典とは精神が異なります。 仏教伝来当時、非仏教経典と仏教経典は互いに競い合いましたが、やがて非仏教経典は敗北し、統治者も民衆も非仏教経典を利用しなくなりました。 しかし、非仏教経典の信奉者が仏教経典の信者となり、対立に終止符が打たれると、これらの信者は仏教経典のエッセンスを抽出し、知恵を高め、それを非仏教経典に組み込んだのです。そして 愚かな支配者たちは、これが実際には非仏教の書物の知恵であると考えたのです。
また、人々の心の中で善の知恵が衰退し、悪の知恵が上回ったとき、為政者は仏典の一つである小乗経典の知恵で社会を治めようとしましたが、世の中は平和ではありませんでした。 当時、為政者が大乗経典を広めて統治することで、世界は多少なりとも秩序を取り戻しました。 その後、大乗の教えの智恵だけでは不十分になると、一乗経の智恵が導入されて世界を統治し、つかの間ですが、世界は平和になりました。
現代は非仏教経典、小乗経典、大乗経典も法華経の一乗も効力を持たない時代です。 なぜなら、人々の心の中にある貪欲と怒りと愚かさの巨大さは、大いなる善における大覚世尊の優位性に匹敵するからです。 たとえば、犬は嗅覚の鋭さにおいて人間よりも優れています。 さらに、鳥や獣の匂いを嗅ぎ分ける点では、その鼻は偉大な賢者の超自然的な嗅覚の力にも劣りません。 フクロウの耳の優秀さ、トビの目の優秀さ、スズメの舌の軽さ、竜の体のすばらしさなどの全ては優れた人間の能力さえも超えているのです。 このように、末法の不純な世界における人々の心の貪欲、怒り、愚かさの極みは、いかなる徳のある者や賢者にとっても制御することを困難にしています。
なぜなら、仏陀は、肉体の卑劣さを瞑想するという薬で貪欲を治し、慈悲を瞑想することで怒りを癒し、十二因縁を瞑想することで愚かさを治療し、これらの教えを説いたからです。 今では、これらの法門を説くことで人々をさらに悪化させ、貪欲、怒り、愚かさを増幅させています。 例えば、火は水によって消え、悪は善によって打ち破られます。 しかし、逆に、水から出た火に水を注ぐと、あたかも油を注いだようなものとなり、さらに大火災が発生するのです。
さて、末法の悪の時代において、大きな悪は世俗の悪事からではなく、宗教界の教義との関連から生じています。 それを知らない現代人が善の根を育てようとすると、ますます世界を破滅に導く出来事が起こります。 現代の天台宗や真言宗などの僧侶たちを支援することは、表面的には善行に見えますが、実際には五逆罪や十悪行をも超える大悪です。
このため、世に平和が訪れるためには、もし大覚世尊のような智恵を持った賢者がこの世に存在し、仙予国王のような立派な統治者に出会ったなら、そしてもし彼らが力を合わせてこれらの善行を終わらせることに専念し、知恵ある人物と考えられている八宗の人々を非難し、追放し、施しを打ち切り、さらには首を切るという大悪を犯したとしたら、世界ははある程度平和になるかもしれません。このことは、法華経第一巻に「一切の現象の真実の相は仏の間にのみ知り得、共有することができる」と説かれています。 「最初から最後まで一貫している」というフレーズの「始まり」は、悪の根源と善の根源、そして「終わり」は悪の結末と善の結末を示します。 善悪の本質を根から枝葉まで徹底的に悟った人を仏と呼ぶのです。 天台は「人生の各瞬間に十界が与えられている」と述べ、章安は「仏陀はこれを究極の教えとして意図した。 どうして簡単に理解できるのでしょうか?」 妙楽は、「この原則は、天台の最終かつ最高の教えの究極の啓示である」と付け加えました。法華経に説く「彼らの説く教えは…」は決して真実の現実に反することはありません。天台はこれについて、「人生や仕事における世俗的な出来事は、決して真実の現実に反するものではない」とコメントした。智恵のある人とは、世事から離れて仏法を実践する人ではなく、世界がどのように統治されているかを深く理解している人のことです。
殷王朝が腐敗し、人々が苦しんでいたとき、太公王が世に現れ、殷の周王を斬首し、人々の苦しみを終わらせました。 秦の二代皇帝が人々に苦味を感じさせたとき、張良が現れて世界に秩序を取り戻し、人々が甘さを知ることができるようになりました。 彼らは仏教伝来以前に生きていましたが、教えの主である釈迦牟尼仏の使者として人々を助けました。 そして、非仏教経典の信奉者はそのことに気づいていませんでしたが、そのような人々の知恵には本質的に仏教の知恵が含まれていました。
もし正嘉の大地震の時、あるいは文永の大彗星の時、今の世に優れた智恵を持った君主がいたとしたら、彼はきっと私、日蓮に耳を傾けたでしょう。 あるいは、そうでなかったとしても、文永9年(1272年)に豪族内で内紛が勃発したとき、あるいは同11年にモンゴル軍が攻めてきたとき、周の文王が太公望を歓迎したように、彼は私を歓迎しただろうし、殷の高丁王が七里離れたところから傅説を捜し求めたように、私を捜し出しただろう。このように、目が見えない者にとって太陽や月は宝ではなく、価値ある者は愚かな統治者に憎まれるだろうと言われています。 長々と続けるよりもここでやめておきます。 法華経の中心は先ほど説明した通りです。 そうでないと考えるべきではありません。 大きな悪は大きな善の到来を予感させます。 一閻浮提が混乱に陥ったとしても、[この経典が]「一閻浮提に広く広まる」ことは疑いの余地がありません。
私は、亡き六郎入道の墓を訪問するために大進阿闍梨を派遣することにしました。 以前、私は関東にこの教えを聞いた人がいたら、自らお墓に行って法華経「寿量品」の偈文を読誦して差し上げようと思っていました。しかし、今の状況で行けば、その日のうちに国中に知れ渡り、遠く鎌倉まで大騒ぎになるでしょう。 たとえ堅固な信仰を持っていても、私がどこへ行っても人々は他人の目を恐れるに違いありません。
亡くなった六郎入道が、まだお伺いしていない私にどれほど会いたがっているだろうかと思うと、何かできることはあるかもしれないと思いました。 そこで私は、まず弟子を送り、墓前で「寿量品」の偈文を朗読させることにしました。 その点はご理解いただきますようお願いいたします。
深い敬意を表します。