今の時は、世すでに上行菩薩等の御出現の時剋に相当たれり。しかるに、余、愚眼をもってこれを見るに、先相すでにあらわれたるか。
しかるに、諸宗の依るところの華厳・大日・阿みだ経等は、その流布の時を論ずれば、正法一千年の内、後の五百年、乃至像法の始めの諍論の経々なり。しかるに、人師等、経々の浅深・勝劣等に迷惑するのみならず、仏の譲り状をもわすれ、時機をも勘えず、みだりに宗々を構え、像・末の行となせり。例せば、白蔵に種を下ろして玄冬に穀をもとめ、下弦に満月を期し、夜中に日輪を尋ぬるがごとし。
いかにいわんや、律宗なんど申す宗は一向小乗なり。月氏には正法一千年の前の五百年の小法、また日本国にては、像法の中比、法華経・天台宗の流布すべき前に、しばらく機を調養せんがためなり。例せば、日出でんとて明星前に立ち、雨下らんとて雲まずおこるがごとし。日出で雨下って後の星・雲はなにかせん。しかるに、今は時過ぎぬ。また末法に入ってこれを修行せば、重病に軽薬を授け、大石を小船に載するがごとし。修行せば、身は苦しく、暇は入って験なく、花のみ開いて菓なからん。故に、教大師、像法の末に出現して、法華経の迹門の戒・定・慧の三つが内、その中の円頓の戒壇を叡山に建立し給いし時、二百五十戒たちまちに捨て畢わんぬ。したがって、また鑑真の末の南都七大寺の一十四人・三百余人も加判して大乗の人となり、一国挙って小律儀を捨て畢わんぬ。その授戒の書を見るべし。分明なり。
背景と大意
大集経に説く五五百歳の第五の500年は末法の始めを指しています。釈尊の入滅年代を周の穆王53年壬申(BS・0949)とすると、仏滅より2001年経過した後冷泉天皇の永承7年(1052)が末法初年に当たります。
末法に入って200余年、日蓮大聖人御在世当時、自然災害が多発し、民衆はなすすべもなく不安を募らせていました。例えば地震に限ってみても、嘉禄2年(1226)の鎌倉大地震をはじめとして、立正安国論後述作の機縁となった正嘉元年(1257)の鎌倉大地震まで、鎌倉だけでも少なくとも10数回の地震が起こっており、それに伴って火災・疫病・飢餓などが蔓延しました。このほか洪水、暴風雨、干ばつなどの転変地夭が度重なり、民衆は地獄の苦しみにあえいでいたのです。
この様相は立正安国論の冒頭に「近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」(御書全集17頁1行目)と描かれているように、悲惨を極めた地獄図そのものでした。
そうした自然の災害によってもたらされた民衆の苦しみと不安を更に助長せしめたのが相次ぐ戦乱です。平安末期に起きた保元の乱、平治の乱に始まって、源平の合戦と、血を血で洗う戦乱の歴史が綴られ、末世の様相を濃くしていきます。とりわけ承久3年(1221)、後鳥羽上皇を中心とする朝廷方が、鎌倉幕府を滅ぼそうとしてかえって幕府方に破れた承久の乱は、三上皇が流罪に処されるという前代未聞の出来事となり、さらに五濁乱漫の様相を象徴する事件でした。
大聖人の御在世当時においても、文永9年(1272)2月に、執権北条時宗の異母兄・時輔の謀反の陰謀が発覚し、鎌倉名越の江間時章・教時兄弟らとともに誅殺されました。いわゆる2月騒動と呼ばれる北条一門の争いが起きました。また文永11年(1274)には、日本にたび重なる使者を送り服属を求めていた元から遂に大軍が襲来し、猛威をふるいました。これは大聖人が立正安国論で予言されていた自界叛逆難や他国侵逼難が現実化したものでした。
また当時の宗教界においても、「闘諍言訟・白法隠没」という仏の予言通りの様相を呈していました。多くの人々に末法の到来をいやがうえにも実感させたのは、僧侶の堕落・腐敗であり、なかでも僧兵の横暴は目を覆うばかりでした。それを象徴的に示したのが天台宗内部における延暦寺山門派と園城寺寺門派との抗争です。
両門徒の対立は既に10世紀の末に、天台座主の補佐をめぐって激化し、正歴4年(西暦993年)8月に智証門徒が叡山より追い出されたことによって分裂は決定的となりました。その確執は500年にも及んだといいます。
特に末法に入って30年目にあたる永保元年(西暦1081年)、延暦寺の僧兵が園城寺を襲い、堂搭を焼き払うという暴挙に出たことは人々に大きな衝撃を与えました。以後、7度にわたって園城寺は山門の衆徒による焼き打ちに逢い、そのたびに近所の民家もその災厄に巻き込まれました。
このような両門の抗争は、大聖人時代も変ってはいません。文永元年(1264)3月、叡山の衆徒が自ら放火し、叡山が炎上するという事件が起きました。
これは、文応元年(1260)1月、朝廷が宣旨を下し、三摩耶戒をもって法臈を定めることを園城寺に許したのに対して、叡山が強く反発したためにこれを取り下げたことをきっかけにし、その後、その代わりに四天王寺の別当職を園城寺に付したところ、これにも山門派が反対し、抗議行動を起こしましたが、要求をいれられなかったため、山門の大衆が自ら火を放ったものです。火は叡山の講堂をはじめ、法華堂、戒壇院等、多くの堂搭をなめつくしました。
しかも、山僧らは、日吉・祇園・北野の神輿を奉じて京に入り、院の武士等と武力衝突を繰り返したのです。大聖人はこの事件を聞かれて「中堂炎上の事・其の義に候か山門破滅の期・其の節に候か」(御書全集1264頁1行目)と、叡山の滅亡に代わって大聖人の仏法が新たに興隆する象徴であると示されています。
そうしたなかで、宗教者が権力と癒着し、その庇護のもとで自宗の勢力拡大を図っていたことも見逃してはなりません。真言律宗の極楽寺良観はその典型でした。
大聖人は、このような当時の状況こそ、大集経に「白法隠没」と説かれている通りの様相であり、それは同時に、法華経薬王菩薩本事品第二十三で「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布」と説かれている時であると見抜かれ、本抄で「上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり」と断言されたのである。
なお本抄で大聖人は「余愚眼を以てこれを見るに先相すでにあらはれたるか」と仰せですが、このことについては、観心本尊抄の次の文を拝すれば明らかでありましょう。すなわち「正像に無き大地震・大彗星等出来す、此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか」(御書全集254頁14行目)と。この御文では、当時の相次ぐ未曾有の転変地夭が上行等の四菩薩出現の先兆であることを明かされています。
すなわち顕仏未来記には「当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(御書全集508頁6行目)と正像2000年に弘まった釈尊の仏法が滅尽し、それに代わって大聖人の仏法が新たに興隆する大瑞相にほかならないと仰せられています。
華厳経・大日経・阿弥陀経等の権大乗の教えは、仏滅後正法時代1000年のうち後の500年、いわゆる禅定堅固の時代あるいは像法の初めに当たる読誦多聞堅固の時代に流布すべき経でした。像法後半になると、法華経迹門でなくては救えない機根となっていたのです。
にもかかわらず、像法末期の人師たちは経の浅深勝劣も知らず、釈尊の付嘱、また時や機根を弁えずに自分勝手に禅宗とか念仏宗等を立て、それが末法に入っていよいよ勢力を拡大していたのです。大聖人はこれらを信仰・修行しても無益であることを、例えば、畑に種をまいて冬に収穫しようとするようなものであり、下弦の月が出る頃に満月を期待し、あるいは夜中に太陽を捜すようなものであると破折されています。
そして、更に律宗に言及され、この宗はもっぱら小乗の教えであり、インドでは正法1000年の前の500年に弘まるべき小法に過ぎず、日本の国では像法の中頃、天台法華宗が流布すべき前にしばらく衆生の機根を整えるために鑑真が立てた教えであったのです。
この故に大聖人は、伝教大師により法華経が弘められて後は、当然捨てられるべき教えであり、まして末法において、律宗を修行するのは、重病人に軽い薬を与え、あるいは小石を小船に乗せるようなものであると仰せられているのです。
現代語訳
今末法の時代は既に上行菩薩等が出現される時に当たっている。私の愚眼をもって見るにその瑞相は既に現れているようである。
しかるに、諸宗が依りどころとしている華厳経・大日経・阿弥陀経等の諸経は、その流布の時を論ずれば正法一千年の後半五百年かあるいは像法時代の初めの諍論の時のためのものである。しかるに諸宗の人師らは経典の浅深とか勝劣などに迷うのみでなく、釈尊の弘通の付嘱も忘れ、時や機根も考えないで勝手に宗派を起こし、像法や末法の修行としたのである。これは畑に種を植えて冬に収穫を求め、下弦の月が出る頃に満月を期待し、夜中に太陽を探すようなものである。
まして律宗などという宗は専ら小乗の教えであり、インドでは正法一千年の前半の五百年の小法であり、日本にあっては像法時代の中頃、法華経天台宗が流布する前にしばらく衆生の機根を整えるために立てられた教えなのである。これを譬えるならば日の出前に明けの明星が輝くようなものであり、また雨が降る前にまず雲が生じるようなものである。日が出て後の星、あるいは雨が降った後の雲に何の意味があるであろうか。
今は正像の時は過ぎてしまっている。末法に入ってから小乗の教えを行じるのは、例えば重病の人に軽い薬を与え、あるいは大石を小船に乗せるようなものである。これを修行すればその身は苦しく、時間がかかるだけで結果もあらわれない。花だけ咲いて果実が実らないようなものである。
故に伝教大師が像法時代の末に現われ、法華経迹門の戒・定・慧の三学の内の円頓の戒壇を比叡山に建立された時、小乗の二百五十戒を直ちに捨て去ったのである。したがって、鑑真の末流の南都七大寺の僧十四人・三百余人も承伏状に署名して大乗の人となって、日本の国を挙げて小律儀を捨て去ったのである。その授戒の記録を見ればそのことは明らかである。
講義
南都の戒壇と大乗の戒壇
一般に仏道修行のうえで必ず修学すべきものとして、「戒」「定」「慧」の三学があります。このうち戒とは防非止悪の義であり、五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、大乗経・小乗経を通じ在家出家それぞれに持つべき規律の詳細が定められています。その受戒の儀式を行う場所が戒壇です。
日本においては、天平勝宝6年(西暦754年)に東大寺に戒壇が建立され、鑑真によって菩薩戒が授けられたのが最初です。
東大寺の凝然が著した三国仏法伝通縁起巻下には「其の年の四月に、初めて廬舎那度の前に於いて戒壇を立つ。天皇、初めに登壇して菩薩戒を受け、次いで皇后・皇太子も亦登壇して受戒したもう。…所立の戒壇には三重の壇有り。大乗の菩薩の三聚浄戒を表せるなり」とあることからもうかがえるように、伝教大師が大乗戒壇建立の勅許を朝廷に請うた際に、南都の諸徳はこれに反発し、日本には既に鑑真によって大乗戒が伝えられていると主張し、その旨を上奏しました。
これに対して、伝教大師は顕戒論三巻を著して、南都の批判が的外れであるとして、法華経に基づく円の三学として大乗戒を樹立することが目的であることを明らかにしています。
ここで、南都六宗で言う「大乗の菩薩の三聚浄戒」と伝教大師の大乗戒との相違について論及しておきます。
まず、三聚浄戒とは大乗の菩薩戒の一つで、仏の定めた一切の律儀を厳持して悪を防ぐ摂律儀戒、身口意にわたって一切の善法を修することを戒とする摂善法戒、一切衆生を教化して饒益することを戒とする摂衆生戒の三つをいいいます。
瑜伽派では、これら三聚浄戒のうち、摂律儀戒については、比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十八戒等のいわゆる小乗戒を内容とし、これとは別に大乗的な戒律である摂善法戒・摂衆生戒を立て、合わせて三聚浄戒とすることにより、大乗の菩薩戒と小乗声聞の戒をも併せて受持すべきことを唱えたのです。これを大乗共門戒と称します。瑜伽論・菩薩地持経・菩薩善戒経等に説くところの大乗戒です。
これに対して、小乗戒を受持することを許さず、もっぱら大乗菩薩戒のみを受持すべきことを説くのが不共門戒であり、これは梵網菩薩戒経、菩薩瓔珞本業経に説かれます。鑑真が伝えた南都の戒は、瑜伽系の大乗戒であったので、大小兼学というべきものです。
これに対し、伝教大師の建立しようとした大乗戒は、「凡そ仏戒に二有り、一には大乗の大僧戒十重四十八軽戒を制し、以て大僧戒と為す。二には小乗の大僧戒、二百五十戒を制し、以て大僧戒と為す」とあるように、そうした小乗戒を一切まじえない梵網戒です。顕戒論巻中には次のように述べています。
「夫れ此の十重戒は先より伝授すと雖も、然も但其の名有りて、末だその義を伝えず。何を以てか末だ其の義を伝えずと知ることを得るや。然るに末だ円の義を解せざるが故に、猶小儀に共するが故なり」
つまり、梵網経に説く菩薩戒も既に日本に伝えられていたとはいえ、華厳部における別教の意においてであり、法華経の絶待妙開会の立場から権即実と開いて円戒とした梵網経と一線を画するものであります。したがって、円教を意に解せずにいくら大乗戒を受けても小乗戒の域を出ません。これが伝教大師の南都への反駁でした。
その意味で、伝教大師が梵網経を円戒と位置付けているのはあくまで法華経の絶待妙開会の立場からであり、法華経開会がその前提となっているといえるでありましょう。
大聖人は十法界明因果抄に「法華経の戒と言うは二有り、一には相待妙の戒・二には絶待妙の戒なり」(御書全集435頁13行目)と述べられ、相対妙の戒については「法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌わざる戒等を相対して麤妙を論ずるを相対妙の戒と云うなり」(御書全集435頁16行目)と、また絶待妙の戒については「絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、爾前の戒即ち法華経の戒なり」(御書全集436頁15行目)と述べられています。
伝教大師は法華経を根本とした絶待妙の意味において梵網経の戒を立てたのです。したがって、伝教大師が梵網経を円頓の戒としたのは、あくまで傍意であり、正意は法華の円戒にあったことを看過してはなりません。大師が顕戒論において、もっぱら梵網経をもって大乗の円戒としたのは、小乗戒をまじえた南都所伝の大乗戒が有名無実であることをもっぱら明かすためであったと思われます。
鑑真が受戒したという菩薩戒が梵網戒であったかどうかについては諸説があり、史料的には定かではありませんが、鑑真が学んだ律が道宣律師の小乗の四分律であったことを考慮すれば、四分律の二百五十戒を三聚浄戒の律儀戒に摂する瑜伽系の大乗戒であったと考える方が自然であると思われます。
小乗戒を禁じた梵網戒と小乗の二百五十戒を併せもつことは道理に合わないことは明白であり、天台の宗義にも通じていた鑑真がそのような誤りを犯すはずがありません。故に日寛上人は撰時抄愚記で次のように指摘されています。
「鑑真既に道岸法師に随って菩薩戒を受くるが故に、時の宣しきに随ってこれを授くるならん。既に南山を祖と為す。故に四分小律を出ずべからず。設い菩薩戒を兼ぬと雖も、多くはこれ善戒経・瑜伽論等の意なり。尚梵網の大戒に及ばず、況や法華の円戒に及ばんをや」
したがって、先に見たように三国仏法伝通縁起で東大寺の凝然が南都の戒壇を大乗であるとしたのはかえって鑑真の心を曲解したものといわなければなりません。しかも、その凝然が八宗綱要下で明らかにしているように、戒には別受戒・通受戒の二種があり、総じて三聚浄戒を受けるのは通受戒で、別してそのうちの摂律儀戒を受けるのを別受戒といい、南都の戒壇では別受戒はもっぱら小乗の二百五十戒のみであったのです。
これに対して伝教大師は、一切の小乗戒を廃棄し別受戒を大乗の梵網戒とすべきことを主張したのです。大聖人は次のように仰せられています。
「伝教大師は仏の滅後一千八百年像法の末に相当つて日本国に生れて小乗大乗一乗の諸戒一一に之を分別し梵網・瓔珞の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し又法華普賢の円頓の大王の戒を以て諸大乗経の臣民の戒を責め下す」(御書全集1034頁10行目)と。
伝教大師の大乗戒壇建立以前は、天台宗としての年分得度者であっても東大寺の小乗戒壇で受戒しなければならないという制約がありました。そのせいか、叡山で得度しながら、南都の権威に屈して途中で法相宗に移ったり、退転して下山する学生が少なくなかったのです。このことは顕戒論巻下に記された次の言葉にうかがえます。
「而して頃年の間、此の宗の学生、小儀に駆散す。山室空しく蕪れ、将に円道を絶せんとす」
もちろん、そうした現実的な問題もさることながら、大乗教の真髄たる法華経を宗旨とする天台法華宗の立場からすれば、小乗の戒壇で受戒するということは相容れない根本的な問題であったといわなければなりません。故に伝教大師は、叡山において独自に得度受戒できるために大乗戒壇を建立し、大乗僧を育成することを念願としたのです。
しかしながら、これに対して、南都の諸徳は当然のことながら強く反発し、こぞって頑強に反対したのです。このために大師の生存中には実現しませんでしたが、弘仁13年(西暦822年)時の嵯峨天皇は大師の入寂を深く哀惜し、7日を経た6月11日をもって、叡山大乗戒独立允許の官符が発せられました。また翌年2月の延暦寺の勅額及び太政官牒が下がりました。伝教大師の弟子・義真によって4月に菩薩大戒の受戒が延暦寺において行われ、天長4年(御書全集827年)に円頓の戒壇院が叡山に建立されたのです。これによって、南都において小乗の二百五十戒を受けなくても大乗の僧侶となる道が開かれたのでした。
なお、大聖人が本抄をはじめ諸御抄で、戒壇の建立が伝教大師入滅後であったにもかかわらず、大師が叡山の戒壇を建立したと述べられているのは、「功を伝教に帰して」のことです。
また、本抄で伝教大師建立の円頓戒壇を、法華経の迹門の戒定慧の一つであると位置づけられている点も見逃してはなりません。三大秘法禀承事に「延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に」(御書全集1022頁18行目)と仰せのごとく、五濁悪世の末法にあっては、迹門の戒は無益となるのです。