下山御消息 第四段第一(正像末の区分と正法時代の弘法)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
また私に異義を申すべきにあらず。如来は未来を鑑みさせ給いて、我が滅後正法一千年・像法一千年・末法一万年が間、我が法門を弘通すべき人々ならびに経々を、一々にきりあてられて候。しかるに、これを背く人世に出来せば、たとい智者・賢王なりとも用いるべからず。いわゆる「我が滅後の次の日より正法五百年の間は、一向小乗経を弘通すべし。迦葉・阿難、乃至富那奢等の十余人なり。後の五百年には権大乗経の内華厳・方等・深密・般若・大日経・観経・阿みだ経等を、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩等の大論師弘通すべし」と云々。これらの大論師は、法華経の深義を知ろしめさざるにあらず。しかれども、法華経流布の時も来らざる上、釈尊よりも仰せ付けられざる大法なれば、心には存して口に宣べ給わず。ある時は、ほぼ口に囀るようなれども、実義をば一向に隠して演べ給わず。
現代語訳
また、自分勝手に異議を唱えるべきではありません。
如来は未来を見通されて自らの亡き後、正法一千年・像法一千年・末法一万年の間、自らの法門を弘通すべき人々と弘めるべき経を一つ一つ明確に当てられています。これに背く人が世に現れたならば、たとえ智者・賢王であってもその教えを用いてはならないのです。
いわゆる「我が滅後の次の日から正法五百年の間は専ら小乗経のみを弘めるべきであり、その人は迦葉・阿難から富那奢に至る十余人である。その後の五百年には権大乗経の内の華厳経・方等経・深密経・般若経・大日経・観経・阿弥陀経などを弥勒菩薩・文殊師利菩薩・馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩等の大論師が弘通すべきである」と説かれています。
これらの大論師は法華経の深義を知っておられないのではなく、法華経流布の時もいまだ来ていないのと、釈尊からも命じられていない大法なので、心の中には知っていても口にはだされなかったのです。ある時は概略このことを口に出されるようなことがあっても、仏の真意はひたすら隠して説かれなかったのです。
講義
法華経流布の時も来らざる上・釈尊よりも仰せ付けられざる大法
仏が入滅した後、その教法が辿る変遷を時代的に区分したのが正法・像法・末法です。大聖人は、釈尊の小乗経の変遷について「正法千年は教行証の三つ具さに之を備う像法千年には教行のみ有つて証無し末法には教のみ有つて行証無し等云云」(御書全集頁506頁14行目、顕仏未来記)と述べられています。
小乗教は初めの正法時代においては、教・行・証の三つが共に備わっています。つまり、民衆が小乗教の実践によって功力を得ることができる時代です。しかし、像法時代に入ると、小乗教は教と行はあっても、証果はなく、形骸化していきます。そして、末法においては、行じる人さえなくなるというのです。
大乗教は正法後半においても教行証共に具わっていますが、末法に入ると、教行のみはあっても証がなくなります。すなわち、末法には大小乗共に証果がなくなってしまうのです。
なお、釈尊滅後の正像の年限は経論によって異なります。すなわち、
①正法 500年、像法1000年
②正法1000年、像法 500年
③正法1000年、像法1000年
④正法 500年、像法 500年
の4説です。
大聖人は、大集経巻55の分布閻浮提品第17の「五の五百歳」説を踏まえて、正法1000年・像法1000年、末法10000年説を用いられています。これは、法華経薬王菩薩本事品第二十三にも「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して」と説かれていることにより、大集経の「後の五百歳」の予言こそ釈尊の真意であると判じられたものであると拝されます。
つまり、この薬王品の文中にある「後の五百歳」とは、五の500歳のうちの最後の500歳です。「闘諍言訟・白法隠没」の時を指します。この時代に釈尊の仏法が隠没し、代わって法華経の肝心たる大白法が広宣流布することを予言したのが薬王品にほかなりません。
大集経第55・月蔵分第12・分布閻浮提品第17には次のようにあります。
「我が滅後に於いて五百年中には、諸の比丘等猶我が法に於いて、解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦・多聞堅固に住するを得るなり、次の五百年は、我が法中に於いて、多くの搭寺を造り、堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて、闘諍言訟し白法隠没し損滅して堅固なり」
釈尊滅後最初の500年は解脱堅固と称し、人々は正しく仏法を修行し、智慧を得て解脱の境地に至ることができる時代としています。次の500年は禅定堅固といい、前代よりも解脱に至る者は少なくなるが、なお禅定を持ち、三昧の境地に安住する者が多い時代であり、以上の1000年が正法時代にあたります。
次の500年は読誦多聞堅固と称し、経典を熱心に読誦したり、説法等を聴聞することが行われる時代、次の500年は、多造搭寺堅固といい、寺院や仏搭が多く建立される時代です。以上の1000年が像法時代にあたります。
第五の500年は闘諍言訟・白法隠没といい、人々は互いに自説に固執して仏教の中で争いが絶えず、白法は隠没してその功力が失われる時代であり、これより末法の時代に入ります。
さて大聖人は本抄並びに諸御抄で、それぞれの時代に弘通すべき経典とその人物を具体的に挙げられています。まず、仏滅後500年までの解脱堅固の時代には、撰時抄に「大乗経の法門少々・出来せしかども・とりたてて弘道し給はず、但小乗経を面としてやみぬ」(御書全集261頁1行目、撰時抄)と仰せられているため、歴史的に見ると、4回にわたって経典結集が行われ、阿闍世王・阿育王などの外護のもとで仏法が興隆した時代です。
次の正法後半の500年・禅定堅固の時代には、付法蔵第11の馬鳴菩薩から第23の師子尊者に至るまでの10余人によって権大乗経が弘められました。これらの人々のうち、小乗を破し大乗経を宣揚した論師に、馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等がいました。
しかしながら、この時代の大論師たちは、撰時抄に「始には外道の家に入り次には小乗経をきわめ後には諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給いき此等の大士等は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給いしかども諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず」(御書全集261頁4行目)と仰せのように、大乗経をもって小乗経を打ち破り、それを弘通することはしたが、法華経の勝劣については明らかにせず、法華経の実義たる一念三千は胸中にとどめ、それを口に出すことはなかったのです。
開目抄に「始には外道の家に入り 次には小乗経をきわめ後には 諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給いき此等の大士等は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給いしかども諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず」(御書全集189頁2行目)と仰せられた通りです。
それでは、なぜこれらの菩薩が法華経を弘めなかったのでしょうか。本抄では、「法華経流布の時も来らざる上・釈尊よりも仰せ付けられざる大法なれば」と二つの理由を挙げられていますが、曾谷殿許御書には「問うて曰く迦葉・阿難等の諸の小聖何ぞ大乗経を弘めざるや、答えて曰く一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり、問うて曰く竜樹・天親等何ぞ一乗経を弘めざるや、答えて曰く四つの義有り先の如し」(御書全集1082頁16行目)と述べられています。
すなわち、一つには弘経に伴う難に耐えられないこと、二つには民衆の機根が整っていなかったこと、三つには仏より付嘱を受けていない故にその資格がないこと、四つには時がきていなかった故です。よって法華経の深義は知っていても、心にとどめて弘通はしなかったのです。