上野殿御返事(須達長者御書)

要文

仏にやすやすとなることの候ぞ。おしえまいらせ候わん。人のものをおしうると申すは、車のおもけれども油をぬりてまわり、ふねの水にうかべてゆきやすきようにおしえ候なり。仏になりやすきことは別のよう候わず。旱魃にかわけるものに水をあたえ、寒氷にこごえたるものに火をあたうるがごとし。また二つなき物を人にあたえ、命のたゆるに人のせにあうがごとし。

上野殿御返事(須達長者御書)

弘安3年(ʼ80)12月27日 59歳 南条時光

鵝目一貫文、送り給び了わんぬ。御心ざしの候えば申し候ぞ。よくふかき御房とおぼしめすことなかれ。
仏にやすやすとなることの候ぞ。おしえまいらせ候わん。人のものをおしうると申すは、車のおもけれども油をぬりてまわり、ふねの水にうかべてゆきやすきようにおしえ候なり。仏になりやすきことは別のよう候わず。旱魃にかわけるものに水をあたえ、寒氷にこごえたるものに火をあたうるがごとし。また二つなき物を人にあたえ、命のたゆるに人のせにあうがごとし。
金色王と申せし王は、その国に十二年の大旱魃あって、万民飢え死ぬることかずをしらず。河には死人をはしとし、陸にはがいこつをつかとせり。その時、金色大王、大菩提心をおこしておおきに施をほどこし給いき。せすべき物みなつきて、蔵の中にただ米五升ばかりのこれり。「大王の一日の御くごなり」と臣下申せしかば、大王、五升の米をとり出だして、一切の飢えたるものに、あるいは一りゅう二りゅう、あるいは三りゅう四りゅうなんど、あまねくあたえさせ給いてのち、天に向かわせ給いて、「朕は、一切衆生のけかちの苦にかわりて、うえしに候ぞ」と、こえをあげてよばわらせ給いしかば、天きこしめして甘露の雨を須臾に下らし給いき。この雨を手にふれ、かおにかかりし人、皆食にあきみちて、一国の万民、せちなのほどに命よみがえり候いけり。
月氏国にす達長者と申せし者は、七度貧になり七度長者となりて候いしが、最後の貧の時は、万民皆にげうせ死におわりて、ただめおとこ二人にて候いし時、五升の米あり。五日のかってとあて候いし時、迦葉・舎利弗・阿難・羅睺羅・釈迦仏の五人、次第に入らせ給いて、五升の米をこいとらせ給いき。その日より五天竺第一の長者となりて祇園精舎をばつくりて候ぞ。これをもって、よろずを心えさせ給え。
貴辺はすでに法華経の行者に似させ給えること、さるの人に似、もちいの月に似たるがごとし。あつはらのものどもかかえおしませ給えることは、承平の将門、天喜の貞任のようにこの国のものどもはおもいて候ぞ。これひとえに法華経に命をすつるゆえなり。まったく主君にそむく人とは、天、御覧あらじ。
その上、わずかの小郷におおくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし。かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもいやらせ給いて、ぜに一貫おくらせ給えるは、貧女がめおとこ二人して一つの衣をきたりしを乞食にあたえ、りたが合子の中なりしひえを辟支仏にあたえたりしがごとし。とうとし、とうとし。くわしくは、またまた申すべし。恐々謹言。
弘安三年十二月二十七日    日蓮 花押
上野殿御返事

 

背景と大意

この手紙は弘安3年(1280年)に身延で王日女という女性に宛てて書かれたものです。彼女についてはあまり知られていませんが、手紙の冒頭の一節は、彼女が大聖人の高弟の一人である日昭と何らかのつながりを持っていたことを示唆しています。 大聖人は、徳勝童子の物語や、髪の毛を切って油とした貧しい女性の物語を引き合いに出し、まず王日女の供養決して大きくはなかったが、真心のこもったものであったことを讃えられています。そして、すべての人々を成仏させる南無妙法蓮華経の偉大な力を説いています。

現代語訳

須達長者御書

私はあなたのお供え物千枚の貨幣を受け取りました。 あなたはとても誠実さを示してくれたので、私はあなたに一つ言います。 私を貪欲な僧侶だと思ってはなりません。
簡単に仏陀になれる方法を教えます。 人に何かを教えるということは、荷車の車輪に油を塗って重くても回転させることや、ボートを水に浮かべて容易に前に進むことと同じです。 簡単に仏になる方法は特別なことではありません。 それは、干ばつの時に喉が渇いた人に水を与えることや、寒さで凍える人に火を与えることと同じです。 あるいはまた、他の人に唯一無二のものを与えること、あるいは自分の命を危険にさらしてでも何かを他人に施しとして与えることと同じです。
かつて黄金色王と呼ばれた統治者がいました。 12 年間、彼の国は深刻な干ばつに悩まされ、数え切れないほどの人々が餓死しました。 川では死体が橋として扱われ、陸上では骸骨が墳墓として扱われました。 当時、金色王は他者を救いたいという大きな志を呼び起こし、膨大な量の施しをしました。 彼はできる限りのすべてを寄付したので、倉庫には米がわずか 5 尺しか残らなかった。 大臣たちが、これで一日分の食糧が得られると告げると、大王は五尺の米を手に取り、飢えている臣下たちに、例えば一粒か二粒、あるいは三粒か四粒を持たせました。 そして天を仰いで声を張り上げ、民全員の飢え渇きの苦しみを自分が背負って餓死してやる、と叫びました。 天の神々は彼の声を聞き、即座に不死の甘露の雨を降らせました。 この雨が体に触れた人、あるいは顔に降った人は皆食べ物で満腹になり、一瞬のうちに国中の住民が復活しました。
インドに須達長者という裕福な人がいました。 彼は七回貧乏になり、七回裕福になりました。 彼の最後の貧困期間、すべての人々が逃げるか死んでしまい、彼と彼の妻だけが残ったとき、彼らは5日分の栄養となる5升の米を持っていました。 そのとき、迦葉・舎利弗・阿難・羅睺羅・釈迦仏の五人が次々にやって来て、須達長者が与えた米升を乞いました。 その日以来、須達長者はインド全土で最も裕福な男となり、祇園精舎を建てました。 これからすべてのことがわかるはずです。
猿が人に似、餅が月に似ているように, あなたはすでに法華経の行者に似ています。 熱原で私の信奉者を熱心に守ってくれたので、この国の人々はあなたを承平の将門や天喜の貞任のようなものだと思っています。 それはひとえにあなたが法華経に生涯を捧げてきたからです。 天の神々はあなたを主君を裏切った男とは少しも思っていません。 加えて、あなたの小さな郷に数多くの公共事業が強制的に割り当てられてきたため、あなた自身には乗るべき馬が不足しており、あなたの妻と子供たちは着るべき衣服が不足しています。 法華経の行者が山中で雪に埋もれて食べ物に困っているのではないかと不安になり、そのような状況下でも貨幣千枚を送ってくださるのは、まさに哀れな女が托鉢僧に単衣を与えるのと同じです。 彼女と彼女の夫が身に着けていたもの、あるいは阿那律が壺に入った稗を辟支仏に与えたもののように。なんと立派で、なんと高貴なことでしょう。 詳しくは後ほどお話します。

深い敬意を表しつつ、

日蓮

弘安3年(1280年)十二月二十七日

上野殿へのお返事

 

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