要文
濁水は清けれども月やどらず。糞水はきたなけれども、すめば影をおしまず。濁水は、智者・学匠の持戒なるが法華経に背くがごとし。糞水は、愚人の無戒なるが、貪欲ふかく瞋恚強盛なれども、法華経ばかりを無二無三に信じまいらせてあるがごとし。
されば、八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては、いかでか、その影をばおしみ給うべき。我が一門は深くこの心を信ぜさせ給うべし。八幡大菩薩は、ここにわたらせ給うなり。疑い給うことなかれ、疑い給うことなかれ。
四条金吾許御文
弘安3年(ʼ80)12月16日 59歳 四条金吾
白小袖一つ・綿十両、たしかに給び候い畢わんぬ。
歳もかたぶき候。また処は山の中。風はげしく、庵室はかごの目のごとし。うちしく物は草の葉、きたる物はかみぎぬ、身のひゆることは石のごとし。食物は氷のごとくに候えば、この御小袖給び候いて、やがて身をあたたまらんとおもえども、明年の一日とかかれて候えば、迦葉尊者の鶏足山にこもりて慈尊の出世五十六億七千万歳をまたるるも、かくやひさしかるらん。
これはさておき候いぬ。しいじの四郎がかたり申し候御前の御法門のことうけたまわり候こそ、よにすずしく覚え候え。この御引出物に大事の法門一つかき付けてまいらせ候。
八幡大菩薩をば、世間の智者・愚者、大体は阿弥陀仏の化身と申し候ぞ。それもゆえなきにあらず。中古の義に、あるいは八幡の御託宣とて、阿弥陀仏と申しけること少々候。これは、おのおの心の念仏者にて候故に、あかき石を金と思い、くいぜをうさぎと見るがごとし。それ実には釈迦仏にておわしまし候ぞ。その故は、大隅国に石体の銘と申すことあり。一つの石われて二つになる。一つの石には「八幡」と申す二字あり。一つの石の銘には「昔霊鷲山において妙法華経を説き、今正宮の中に在って大菩薩と示現す」云々。これ釈迦仏と申す第一の証文なり。
これよりも、ことにまさしきこと候。この八幡大菩薩は、日本国人王第十四代仲哀天皇は父なり、第十五代神功皇后は母なり、第十六代応神天皇は今の八幡大菩薩これなり。
父の仲哀天皇は、天照太神の仰せにて、新羅国を責めんがために渡り給いしが、新羅の大王に調伏せられ給いて、仲哀天皇ははかたにて崩御ありしかば、きさきの神功皇后は、この太子を御懐妊ありながらわたらせ給いしが、王の敵をうたんとて数万騎のせいをあい具して新羅国へ渡り給いしに、浪の上、船の内にて、王子御誕生の気いでき見え給う。その時、神功皇后は、はらの内の王子にかたり給う。「汝は王子か、女子か。王子ならばたしかに聞き給え。我は君の父・仲哀天皇の敵を打たんがために新羅国へ渡るなり。我が身は女の身なれば、汝を大将とたのむべし。君、日本国の主となり給うべきならば、今度生まれ給わずして、軍の間、腹の内にて数万騎の大将となりて父の敵を打たせ給え。これを用い給わずして只今生まれ給うほどならば、海へ入れ奉らんずるなり。我を恨みに思い給うな」とありければ、王子、本のごとく胎内におさまり給いけり。その時、石のおびをもって胎をひやし、新羅国へ渡り給いて新羅国を打ちしたがえて、還って豊前国うさの宮につき給い、ここにて王子誕生あり。
懐胎の後三年六月三日と申す甲寅の年四月八日に生まれさせ給う。これを応神天皇と号し奉る。御年八十と申す壬申の年二月十五日にかくれさせ給う。男山の主、我が朝の守護神、正体めずらしからずして霊験新たにおわします今の八幡大菩薩これなり。
また釈迦如来は、住劫第九の減、人寿百歳の時、浄飯王を父とし摩耶夫人を母として、中天竺伽毘羅衛国らんびに園と申す処にて、甲寅の年四月八日に生まれさせ給いぬ。八十年を経て、東天竺俱尸那城跋提河の辺にて、二月十五日壬申にかくれさせ給いぬ。今の八幡大菩薩もまたかくのごとし。月氏と日本と父母はかわれども、四月八日と甲寅と、二月十五日と壬申とはかわることなし。仏滅度の後二千二百二十余年が間、月氏・漢土・日本、一閻浮提の内に、聖人・賢人と生まるる人をば皆釈迦如来の化身とこそ申せども、かかる不思議はいまだ見聞せず。
かかる不思議の候上、八幡大菩薩の御誓いは、月氏にては法華経を説いて「正直に方便を捨つ」となのらせ給い、日本国にしては「正直の頂にやどらん」と誓い給う。しかるに、去ぬる十一月十四日の子時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給いぬる故をかんがえ候に、この神は正直の人の頂にやどらんと誓えるに、正直の人の頂の候わねば、居処なき故に、栖なくして天にのぼり給いけるなり。
日本国の第一の不思議には、釈迦如来の国に生まれて、この仏をすてて一切衆生皆一同に阿弥陀仏につけり。有縁の釈迦をばすて奉り、無縁の阿弥陀仏をあおぎたてまつりぬ。その上、親父・釈迦仏の入滅の日をば阿弥陀仏につけ、また誕生の日をば薬師になしぬ。八幡大菩薩をば崇むるようなれども、また本地を阿弥陀仏になしぬ。本地・垂迹を捨つる上に、このことを申す人をばかたきとする故に、力及ばせ給わずしてこの神は天にのぼり給いぬるか。
ただし、月は影を水にうかぶる。濁れる水には栖むことなし。木の上・草の葉なれども澄める露には移ることなれば、かならず国主ならずとも正直の人のこうべにはやどり給うなるべし。しかれば、百王の頂にやどらんと誓い給いしかども、人王八十一代安徳天皇・二代隠岐法皇・三代阿波・四代佐渡・五代東一条等の五人の国王の頂にはすみ給わず。諂曲の人の頂なる故なり。頼朝と義時とは臣下なれども、その頂にはやどり給う。正直なる故か。これをもって思うに、法華経の人々は正直の法につき給う故に、釈迦仏なおこれをまぼり給う。いわんや、垂迹の八幡大菩薩、いかでか、これをまぼり給わざるべき。
浄き水なれども、濁りぬれば月やどることなし。糞水なれども、すめば影を惜しみ給わず。濁水は清けれども月やどらず。糞水はきたなけれども、すめば影をおしまず。濁水は、智者・学匠の持戒なるが法華経に背くがごとし。糞水は、愚人の無戒なるが、貪欲ふかく瞋恚強盛なれども、法華経ばかりを無二無三に信じまいらせてあるがごとし。
涅槃経と申す経には法華経の得道の者を列ねて候に、蜣・蜋・蝮・蠍と申して糞虫を挙げさせ給う。竜樹菩薩は法華経の不思議を書き給うに、「蜫虫と申して糞虫を仏になす」等云々。また、涅槃経に法華経にして仏になるまじき人をあげられて候には、「一闡提の人の、阿羅漢のごとく、大菩薩のごときもの」等云々。これらは、濁水は浄けれども月の影を移すことなしと見えて候。
されば、八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給うとも、法華経の行者を見ては、いかでか、その影をばおしみ給うべき。我が一門は深くこの心を信ぜさせ給うべし。八幡大菩薩は、ここにわたらせ給うなり。疑い給うことなかれ、疑い給うことなかれ。恐々謹言。
十二月十六日 日蓮 花押
背景と大意
この書状は弘安3年(1280年)12月に身延で四条金吾の妻・日眼女に宛てて書かれたものですが、その内容から二人に宛てたものと思われます。
手紙の本文は、太陽の女神と並んで日本神話の主要な神の一人である八幡について扱っています。 八幡と応神天皇の同一視は、奈良時代 (710 ~ 794 年) と平安時代 (794 ~ 1185 年) に発展したと考えられています。 その後、八幡は武士階級の崇敬の対象となりました。 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、鎌倉に源頼朝を祀る神社を建立しました。
八幡は、仏教と神道の要素が融合した初期の例でもあります。 日本に仏教が広まるにつれ、日本の神々は仏や菩薩の現地の現れであるとみなされるようになり、平安時代初期に八幡は朝廷から大菩薩の称号を与えられました。
鎌倉時代 (1185 ~ 1333 年) になると、浄土信仰の人気が高まり、ほとんどの人々が八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身とみなすようになりました。 日蓮大聖人はこの書簡の中でこの見解を鋭く批判し、八幡は釈迦の化身であると明言されています。 彼はこの主張を裏付ける2つの証拠を提示しています。それは大隅国の石碑、もう一つは釈迦牟尼仏と八幡と同一視される応神天皇の生没年が全く同じであるという偶然である。 大聖人の応神天皇誕生に関する記述は、日本最古の歴史である『古事記』や『日本書紀』の記述とはいくつかの点で異なっています。 大聖人の時代には、これらの経典の異なるバージョンや歴史的出来事に関するさまざまな伝承が流通していた可能性があります。
次に大聖人は、その前月に起きた、鎌倉の八幡神社の焼失についての解釈を述べられます。 実際、この出来事のニュースがこの手紙の主題の選択を促した可能性があります。 大聖人は、八幡はかつて「正直者の頭の上に」住まうと誓ったと述べています。 彼が今自分の神社を捨てて天に昇ったという事実は、もはやこの国に正直な人がいないことを意味するだけです。 皆法華経の「正法」を放棄したのです。 しかし大聖人は、法華経の行者は「正直者」にほかならず、八幡はきっと彼らを守り続けられると結論づけられています。
現代語訳
八幡大菩薩
あなたが送ってくれた白小袖と綿十両を受け取りました。 今年も終わりに近づいていますが、私が住んでいるこの山では風が激しく吹き、私の小さな住居は籐かごのように穴だらけです。 私は床材に植物の葉を置き、紙でできた服を着ています。そのため、体は石のように冷たくなり、食べなければならないものは氷のようです。 小袖が届いたので、すぐに着て暖かくしようと思ったのですが、来年のお正月用と書いてありました。 56 億 7,000 万年後の慈悲深い尊い方の到来を待つために鶏足山に隠棲された迦葉尊者でさえ、私と同じように焦りを感じられるだろうか。
しかし、それで十分です。 椎路四郎は、あなたが主君の御前で仏教の教えについて話し合っていると私に言いました、それは私にとって限りなく嬉しいことです。 ご褒美として、私は今、非常に重要な教義についてあなたに書きます。
賢い人も無知な人も、ほとんどの人は、八幡大菩薩は阿弥陀仏の化身であると言うでしょうが、この主張には理由がないわけではありません。 中世の文書や八幡自身の託宣の中で、彼が阿弥陀仏と同一視されている例がいくつかあります。これは、人々がそれぞれ心から念仏を信じているため、間違いを犯しているのです。 赤い石を金の塊と見なす人、または野原の切り株を見てウサギと見る人のようです。
真実は、八幡は釈迦牟尼仏の化身であるということです。 なぜこのようなことを言うかというと、大隅国にその旨の石碑が刻まれているからです。その石は今では二つに割れています。 一つには八幡の二文字が書かれています。 もう一つには、「昔、霊鷲山で妙法法華経を説き今は大菩薩として姿を現し、本殿に鎮座しております。」 これが八幡が釈迦であることの第一の証拠です。
しかし、さらに決定的な証拠があります。 八幡大菩薩の父は日本の第 14 代王である仲哀天皇であり、母は第 15 代王である神功皇后です。 [彼らの息子] 第 16 代王である応神天皇は、現在八幡大菩薩として知られている人物です。
彼の父、仲哀天皇は、天照太神の命令を受けて、新羅王国を攻撃するために海を渡ろうとしていました。 しかし、新羅の王が彼に呪いをかけたため、仲哀天皇は博多で崩御しました。そのとき、彼の妃である神功皇后はすでに皇子を妊娠していた。 しかし彼女は先帝の仇を討つため、数万騎の軍勢を集めて海を渡り新羅へ渡りました。
船がまだ波に乗っている間、彼女は子供が生まれる時が来たことを感じました。 その時、神功皇后はお腹の中の赤ちゃんにこう言いました。 あなたが王子なら、私の言うことをよく聞いてください。 私はあなたの父である仲哀天皇の敵を攻撃するために新羅の地に渡ります。 私はただの女性なので、あなたには私の最高司令官になってもらいたいのです。 もしあなたが日本の主権者になる運命にあるのなら、あなたは今生まれたばかりではなく、戦闘中は私の胎内に留まり、そこから父親の敵を攻撃するために私の数万騎の最高司令官として働き、任務を実行しなければなりません。しかし、もしあなたが私の言葉に耳を傾けず、すぐに生まれようと主張するなら、私はあなたを海に投げ込みます。 私を恨んではいけませんよ!」
したがって、子供は以前と同じように子宮の中に残りました。 その時、皇后は子宮を冷やすために石でできた帯を締めて新羅へ向かい、そこで王国を平定しました。 帰国後、豊前国の宇佐神宮に参拝し、そこで子供が生まれました。 お腹の中にいたのは3年6か月と3日で、年の4月8日に甲寅(きのえとら)という干支で生まれました。 この子が後の応神天皇となります。 享年80歳、壬申(みずのえさる)の正二月十五日に命を落としました。 彼は男山の主神であり、我が国を統治する王朝の守護神です。 彼の祀られた姿は特に珍しいものではありませんが、それでもその神秘的な力のために崇拝されています。 現在は八幡大菩薩として知られる神様です。
さて、釈迦牟尼仏は、人間の寿命が百年である住劫第九の減に、生まれました。 彼の父親は浄飯王、母親は摩耶夫人でした。 彼はインド中部の伽毘羅衛国のルンビニ庭園と呼ばれる場所で、年の第 4 月 8 日に甲寅(きのえ)の年に生まれました。
80年間生きた後、彼はインド東部の俱尸那城にある跋提河のほとりで、壬申(みずのえさる)に亡くなりました。 それは現在の八幡大菩薩も同様であった。 一人はインドで、もう一人は日本で生まれ、父も母も違いましたが、二人とも甲寅の四月八日に生まれ、壬申の二月十五日に亡くなりました。
釈迦入滅以来 2,220 年以上、インド、中国、日本、あるいは一閻浮提のどこでも、聖者や尊者として生まれた人々は皆、釈迦牟尼の現われであると言われています。 しかし、私が今指摘したような偶然の一致については誰も聞いたことがありません。
この奇妙な偶然に加えて、八幡大菩薩の誓いのことがあります。 インドで釈迦として法華経を説いたとき、彼は「正直に方便を捨てる」 と言い、日本では正直な人の頭に住処を置くと誓いました。 それにもかかわらず、彼は先月 11 月 14 日、子午の刻(午後 11 時~午前 1 時)に神聖な神殿を焼き払い、天に昇りました。 その理由を考えてみると、この神は正直な人の頭の上に宿ると誓っていたにもかかわらず、彼が頭上に宿るであろう正直な人はもはや誰もいなかったからでしょう。 こうして彼は住む場所を失って天に昇っていきました。
しかし、この日本という国で最も奇妙なことは、国民は釈迦如来ゆかりの地に生まれながら、この仏を捨て去り、誰もが同じように阿弥陀仏を崇敬しているという事実です。彼らは深い縁のある釈迦を捨て、全く縁のない阿弥陀仏を崇敬している。
また、父である釈迦牟尼仏が亡くなった日を阿弥陀仏の入滅の日とし、仏が生まれた日を薬師仏陀が生まれた日と定めています。 そして、彼らは八幡大菩薩を崇敬しているように見えますが、その正体は阿弥陀仏であると主張しています。 彼らは真のアイデンティティと表現の両方を捨てただけでなく、自分たちの間違いを指摘しようとする人を敵として扱います。 それが、この八幡大菩薩が状況を正す力もなく天に昇った理由であるに違いありません。
月は水面にその姿を映しますが、その反射は泥水には宿りません。 しかし、露が澄んでいて純粋であれば、上の木や草の葉についた露の滴にもそれが反映されます。 そして同じように、たとえその人が国の統治者でなくても、八幡大菩薩は間違いなく誠実な人の頭上に住居を構えることになるでしょう。
八幡大菩薩は、百人の統治者の頭の上に住むことを誓いました。 第82代王、隠岐上皇。 第83代国王、阿波上皇。 第84代君主、佐渡上皇。 八幡大菩薩は、彼らの頭がへつらって曲がった人間の頭をしているため、そうすることを拒否しました。 代わりに、彼は頼朝と義時の頭の上に居を構えましたが、これらの人々は単なる臣下でした。 それは疑いようもなく、彼らが正直な人たちだったからです。
このように考えてみますと、法華経を信仰する者は誠実な教えに従っているので、釈尊ご自身がその者を守ってくださることが分かります。 では、その化身である八幡大菩薩が彼らを守れないということがどうして起こり得るでしょうか?
たとえ水が最初は清らかであっても、濁ってしまうと月は光りません。 糞水であっても、表面が澄み渡れば月の影を惜しみません。 濁った水は本来は清らかであっても、その中には月が輝いていません。 しかし、し尿は本来は不純なものですが、表面が澄み渡れば月の光を反射します。
濁水は、戒律を守りながら法華経に背を向ける学僧や高名な学者にたとえられるかもしれません。 し尿は、貪欲が深く怒りが激しいが法華経だけを信じ続ける無戒の人々にたとえられるかもしれません。
涅槃経として知られる経典には、法華経によって道を成就することができた生き物のリストがあり、そのリストには蜣・蜋・蝮・蠍らの汚らわしい生き物が含まれています。 法華経の素晴らしい力を表現するために、竜樹菩薩は、糞虫(フンコロガシ)のような生き物も成仏できると述べています。
また、涅槃経では、法華経を経ても仏に成れない者を、阿羅漢や大菩薩のような不信心者と定義しています。 本来は清らかであるのに、月の光を反射しない泥水のようなものです。 こうして八幡大菩薩は不正直を憎んで天に昇られたのです。 しかし、法華経の行者を見て、彼らに光を当てたことをどうして恨むことができましょうか。
私の信者はこの件の真実をしっかりと信じるべきです。 ここには八幡大菩薩が私たちとともに住まわれます。 疑う余地はありません。 疑う余地はありません。
深い敬意を表しつつ、
日蓮
十二月十六日
四条金吾夫人への返答