高橋殿御返事
第一章(末法弘通の人法を示す)
本文
進上 高橋入道殿御返事 日蓮
我らが慈父・大覚世尊は、人寿百歳の時、中天竺に出現しましまして、一切衆生のために一代聖教をとき給う。仏在世の一切衆生は、過去の宿習有って仏に縁あつかりしかば、すでに得道成りぬ。「我が滅後の衆生をばいかんがせん」となげき給いしかば、八万聖教を文字となして、一代聖教の中に小乗経をば迦葉尊者にゆずり、大乗経ならびに法華経・涅槃等をば文殊師利菩薩にゆずり給う。ただし、八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字をば、迦葉・阿難等にもゆずり給わず、また文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹等の大菩薩にもさずけ給わず。これらの大菩薩等ののぞみ申せしかども、仏ゆるし給わず。大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして、多宝仏・十方の諸仏の御前にして、釈迦如来、七宝の塔中にして妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆずり給う。
現代語訳
進上 高橋入道殿御返事 日 蓮
我等衆生の慈父・大覚世尊は、人寿百歳の時に、中インドに御出現になられ、一切衆生のために一代聖教を説かれた。
釈尊在世の一切衆生は過去世の宿習があって仏に縁が厚かったのですでに得道をした。我が滅後の衆生をいかにして救おうかと嘆かれて、八万聖教を文字として残され、一代聖教の中でも小乗経は迦葉尊者に譲り、大乗経並びに法華経・涅槃経等を文殊師利菩薩に譲られたのである。
しかし、八万聖教の肝心・法華経の眼目である妙法蓮華経の五字は、迦葉・阿難にも譲られなかった。また文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹等の大菩薩にも授与されなかったのである。
これらの大菩薩等は末法に妙法蓮華経の弘通を望み、付嘱されるよう申し出たが、仏はこれをお許しにならなかった。大地の底から上行菩薩という老人を呼び出されて、多宝仏・十方の諸仏の御前で、釈尊は七宝の塔の中に坐して、妙法蓮華経の五字を上行菩薩にお譲りになられたのである。
語釈
大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
中天竺
インドを五つの地域、東・南・西・北・中と立て分けたうちの「中」釈尊はこの中天竺の迦毘羅衛国の太子として生まれた。
一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
過去の宿習
法華経では迹門に三千塵点劫、本門に五百塵点劫の因縁を明かし、このように長い時間にわたって修行してきた衆生が最後にインドの釈迦仏にあって成道すると説く。
宿習
宿世の習い、くせのこと。過去世で身心に積み重ねてきた善悪の潜在能力のこと。なおここでは宿縁の意で用いられている。
得道
仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
八万聖教
八万四千の聖教、八万聖教、八万威儀、八万四千の法蔵、八万四千の細行とこいう。煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」。二百五十戒を行住坐臥の四威儀におのおのわたし、一千の威儀になり、過去・現在・未来の三世に約して三千の威儀、この三千を殺・盗・淫・妄・綺・悪・両の七支に分配すれば、二万千となり、貧・瞋・癡・等の四にわたせば七十八万四千となる。
小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
迦葉尊者
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
大乗経
仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。4④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
涅槃
涅槃経の事。釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
文殊師利菩薩
文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
阿難
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。
普賢
普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
観音
観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。
弥勒
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆(ほっきしゅ)となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
地蔵
地蔵菩薩のこと。忉利天」で釈尊から付属を受け、毎日晨朝に恒沙の禅定に入って衆生の機を感じ、釈尊滅後、弥勒菩薩が出るまでの中間に衆生の願いに応じて利益・安楽を与えるという。
竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
上行菩薩
法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
七宝の塔
宝塔品で大地から涌出た塔のこと。高さ500由旬・縦広250由旬の大きさで七宝によって飾られている。「七宝」については必ずしも一定しないが、代表的なものとしては,金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰。
講義
本抄は日蓮大聖人が建治元年(1275)7月12日、身延から富士・賀島の高橋六郎兵衛入道に送られた御手紙である。最後の章に「御所労の大事にならせ給いて候なる事あさましく候」との御文があるように、高橋入道の病状重体を報じてきたのに対する御返事として認められたものと拝される。
内容は八万聖教の肝心・法華経の眼目である南無妙法蓮華経の大法は、末法弘通のために地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱されたことから説き起こされ、この大白法を弘めたが故に、大聖人が種種の大難にあってきたこと、そして、それは経文の予言のとおりであり、大聖人が法華経の行者・上行菩薩の再誕であることの証であることが述べられている。
更に、本抄御執筆の前年に、佐渡御流罪から帰られて、三度目の諌暁を平左衛門尉に対して行われ、その後、身延に御入山された経緯と、平左衛門尉に対し、特に真言宗の邪義について厳しく破折したこととを述べられている。
一貫して、御自身の苦難はともかくとして、それに伴って苦しみにあっている門下に対する思いやりの心情を吐露されており、一国あげて迫害の刃を向けてくるなかで正法への信心を貫いている高橋入道の病気が治らないわけがないと激励されている。
我等が慈父・大覚世尊は人寿百歳の時・中天竺に出現しましまして一切衆生のために一代聖教をとき給う
大覚世尊とは釈迦牟尼仏のことである。釈尊をここで「我等が慈父」と呼ばれているのは、もとより仏は主・師・親三徳を具備されているのであるが、特に親徳をもって代表されたのである。では、なぜ親徳をもって代表されたかというと、一つには、開目抄にも「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:08)と仰せのように、衆生を慈愛する親徳に仏の特質を捉えられていたことが挙げられよう。また、もう一つには、釈尊は、末法においては衆生を救いうる力はない。あたかも、親がやがて子にその座を譲るように、正・像二時に三徳具備の仏であった釈尊も、末法には久遠元初の自受用報身の再誕であられる日蓮大聖人にその座を譲るのである。そうした意義を含めて、特に親徳をもって呼ばれたと考えられる。
「人寿百歳の時」とは、古代インド人は、この宇宙が成・住・壊・空を繰り返しており、その住劫の中で、人寿が八万歳の時から百年ごとに一歳減じ、十歳にまでなると、今度は逆に百年ごとに一歳増え、八万歳になり、住劫の間に二十回増減を繰り返すと考えた。そして、現在は、その第九の減の時であり、その中で人寿百歳の時に釈尊が出現したと考えていたのである。
ともあれ、釈尊は、あらゆる衆生を救うために、衆生の機根に応じて、八万法蔵といわれる厖大な教えを説いた。もとより成仏という究極の目的のためには、法華経以外にないのであり、それ以外の諸経は、この法華経へ導くための方便として位置づけられるが、人生に生ずる種々の悩み苦しみについて、それを克服する、さまざまな方途を説き明かしたのが一代聖教であったのである。
仏在世の一切衆生は過去の宿習有つて仏に縁あつかりしかば・すでに得道成りぬ、我が滅後の衆生をば・いかんがせんと・なげき給いしかば……
釈尊在世の衆生は、過去の宿縁が厚く、すでに仏道を行じてきた善根の強い人々であったので、釈尊の直接の化導によって在世の間に得道することができた。しかし、過去の善根の薄い人々が滅後に生まれてくる。これらの人々の救済のために、釈尊は、それぞれの法を、その法に最も通達した弟子達に譲って、滅後の弘通を託したことを示されている。いわゆる小乗教は迦葉をはじめとする声聞の弟子達に譲って弘めさせ、大乗教は文殊師利をはじめとする菩薩に譲られた。
だが、最も善根の薄い、過去の宿縁のない衆生ばかりが生まれる末法に弘通されるべき「八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字」は、上行菩薩に譲られた。この末法における妙法弘通は、文殊・普賢・薬王等の菩薩達も望んで、釈尊に付嘱をお願いしたのであるが、釈尊はそれを断って、ただ本化地涌の菩薩の上首・上行菩薩に譲られたのである。その理由については、次に述べられていく。
第二章(末法濁世の記文を示す)
本文
其の故は我が滅後の一切衆生は皆我が子なりいづれも平等に不便にをもうなり、しかれども医師の習い病に随いて薬をさづくる事なれば・我が滅後・五百年が間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもつて一切衆生にあたへよ、次の五百年が間は文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩に華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生にさづけよ、我が滅後一千年すぎて像法の時には薬王菩薩・観世音菩薩等・法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆生にさづけよ、末法に入りなば迦葉・阿難等・文殊・弥勒菩薩等・薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし、其の時一切衆生・此の菩薩をかたきとせん、所謂さるのいぬをみたるがごとく・鬼神の人をあだむがごとく・過去の不軽菩薩の一切衆生にのりあだまれしのみならず杖木瓦礫に・せめられしがごとく覚徳比丘が殺害に及ばれしがごとくなるべし。
其の時は迦葉阿難等も或は霊山にかくれ恒河に没し・弥勒・文殊等も或は都率の内院に入り或は香山に入らせ給い、観世音菩薩は西方にかへり・普賢菩薩は東方にかへらせ給う、諸経は行ずる人はありとも守護の人なければ利生あるべからず、諸仏の名号は唱うるものありとも天神これをかごすべからず、但し小牛の母をはなれ金鳥のたかにあえるがごとくなるべし、其の時十方世界の大鬼神・閻浮提に充満して四衆の身に入つて・或は父母をがいし或は兄弟等を失はん、殊に国中の智者げなる持戒げなる僧尼の心に此の鬼神入つて国主並びに臣下をたぼらかさん、此の時上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけば・彼の四衆等・並びに大僧等此の人をあだむ事父母のかたき宿世のかたき朝敵怨敵のごとくあだむべし、其の時大なる天変あるべし、所謂日月蝕し大なる彗星天にわたり大地震動して水上の輪のごとくなるべし、其の後は自界叛逆難と申して国主・兄弟・並びに国中の大人をうちころし・後には他国侵逼難と申して鄰国より・せめられて或はいけどりとなり或は自殺をし国中の上下・万民・皆大苦に値うべし、此れひとへに上行菩薩のかびをかをほりて法華経の題目をひろむる者を・或はのり或はうちはり或は流罪し或は命をたちなんどするゆへに・仏前にちかひをなせし梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の座にて誓状を立てて法華経の行者をあだまん人をば父母のかたきよりもなをつよくいましむべしと・ちかうゆへなりとみへて候に、今日蓮日本国に生れて一切経並びに法華経の明鏡をもて・日本国の一切衆生の面に引向たるに寸分もたがはぬ上・仏の記し給いし天変あり地夭あり、
現代語訳
その理由として仏が述べられているのは、仏滅後の一切衆生はすべて我が子であり、いずれも平等に慈愛し、不愍に思っている。しかしながら、医師は病気にしたがって薬を与えるのが習いであり、我が滅後五百年の間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもって一切衆生に与えよと命じ、次の五百年の間は、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩に、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生に授けよと命じ、我が滅後一千年を過ぎて像法の時代には、薬王菩薩・観世音菩薩等が、法華経の題目を除いたそのほかの法門の薬を一切衆生に授けよと命じたのである。末法の時代に入ったならば、迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等が譲られたところの小乗経、大乗経、そして法華経は、文字があっても衆生の病の薬とはならない。いわゆる病は重く薬は浅いのである。その時には、上行菩薩が出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授けるであろう。
その時に、一切衆生がこの上行菩薩を敵とするであろう。いわゆる猨が犬を見て騒ぐように、鬼神が人を怨むように、過去の不軽菩薩の一切衆生から罵詈され怨嫉されたばかりでなく、杖木瓦礫によって責められたように、覚徳比丘が悪比丘に殺害されそうになったようになるだろう。
その時は、迦葉・阿難等も、あるいは霊鷲山にかくれ、あるいは恒河に没し、弥勒・文殊等も、あるいは都率の内院に入り、あるいは香山に入られ、観世音菩薩は西方浄土にかえり、普賢菩薩は東方浄妙世界にかえってしまわれるのである。諸経を修行する人はあっても守護する人がなければ、衆生を利益することはできないであろう。諸仏の名号を唱える人はあったとしても、天神はこれを加護しないであろう。それはちょうど小牛が母から離れ、金鳥が鷹にあったような姿となろう。
またその時は、十方世界の大鬼神が一閻浮提に充満して、広く出家・在家の男女の身に入って、あるいは父母を害し、あるいは兄弟等をなきものにするであろう。特に国中の智者をよそおい、持戒をよそおう僧尼の心にこの鬼神が入って、国主並びに臣下をたぶらかすであろう。
この時、上行菩薩の守護を受けて、法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字を一切衆生に授けるならば、大鬼神が身に入っている出家在家の男女等、並びに尊信を集めている高僧等が、この人を、父母の敵、過去世からの敵のように怨むであろう。
その時、大きな天変があるであろう。いわゆる日月蝕があり、大いなる彗星が天空をわたり、大地が震動して水上輪のように揺れることだろう。それらの天変地夭の起こった後は、自界叛逆難といって、国主・兄弟・並びに国中の人々を打ち殺すような内乱があり、また他国侵逼難といって隣国から攻められて、あるいは生け捕りとなり、あるいは自殺をし、国中の上下万民がみな大苦に値うであろう。
これは、ひとえに上行菩薩の加護を蒙って法華経の題目を弘通する者を、あるいは罵詈し、あるいは打ちすえ、あるいは流罪し、あるいは命を断とうとする故に、仏前で誓いを立てた梵天・帝釈・日月・四天等が、法華経の会座で誓状を立てて、法華経の行者を怨む人を、父母の敵よりも更に強く懲めると誓ったからであると経文には見えている。
今、日蓮が日本国に生まれて、一切経並びに法華経の明鏡をもって、日本国の一切衆生の姿を映し出してみると、寸分も違わぬうえ、仏が記された天変地夭がある。
語釈
天親菩薩
生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
像法
釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。
薬王菩薩
法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
鬼神
鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
覚徳比丘
涅槃経巻三に説かれている過去世の正法護持の比丘。過去に拘尸那城に歓喜増益如来が出現し、その滅後、あと四十年で正法が滅しようとした。その時、覚徳は九部の経典を頒宣広説し、諸の比丘を「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と制した。この言葉を聞いて、多くの比丘は悪心を生じ、刀杖を執持して覚徳を殺害しようとした。この時、国王の有徳王が破戒の悪比丘と戦い、覚徳は守られたが、有徳王は身体に刀剣箭槊の瘡を受けて死んだ。有徳王は次に阿閦仏(あしゅくぶつ)国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となり、覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。
霊山
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
恒河
ガンジス河のこと。
都率の内院
都率天の内院のこと。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のために説法しているという。
香山
香酔山ともいう。山中に諸の香気があって人を酔わせるという。文殊師利は入涅槃して雪山にある香山で不壊の身を得ているという。
西方
西方極楽世界のこと。観世音菩薩は西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の脇侍とされている。
東方
東方浄妙国のこと。観普賢菩薩行法経には「普賢菩薩は乃(すなわ)ち東方の浄妙国土に生ぜり」とある。
利生
利益衆生の意で、衆生を利益すること。
天神
①天界の衆生の総称。②諸天善神のこと。
十方世界
「十方」と7は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
宿世
前世・過去世。
朝敵
朝廷・天皇家に敵対すること。
怨敵
仏及び仏の正法、またはその修行者に怨をなす敵をいう。謗法の者。
天変
天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
日月触し
日蝕と月触のこと。
彗星
ホオキ星を典型的なものとする天体。微塵の集合である核と,それから発散するガス体が,太陽光線の放射圧と太陽風の影響で長く尾を引いているものが多い。質量と密度は通常きわめて小さい。この出現は大火や兵乱などの起こる悪い前兆とされている。
水上の輪
水車のこと。水上輪。大集経巻五十六の「仏の法宝隠没し、鬚・髪・爪皆長く、諸法も亦忘失す。時に当り虚空中に大声あり、地を震う。一切皆遍く動き、猶水上の輪の如し。城壁砕け落下し、屋宇悉く圯坼し、樹林の根・枝葉・花葉・果薬尽く」による。
自界叛逆難
仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
他国侵逼難
他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。
流罪
罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
地夭
地震・水害・火災等。地上に起こる禍。夭はわざわいの意。
講義
妙法蓮華経の五字は迹化の菩薩に譲らず、本化地涌の菩薩にのみ譲られた理由として、このように妙法の弘通を末法の時と限られたのは、衆生に対する慈悲に偏頗があるからではなく、むしろ、あらゆる人々を平等に救おうとするからであることを述べられている。ちょうど、医師が病気にしたがって、それに応じた薬を与えるように、滅後の衆生の病もさまざまであるので、平等に救うためには、むしろ薬を変えることが必要なのである。そこで、仏滅後最初の五百年、すなわち正法時代の前半は小乗教、次の五百年、すなわち正法時代の後半は権大乗教、像法一千年間は「法華経の題目を除いて余の法門」つまり文上の法華経を弘めるように定められたのである。そして末法においては最も病が重く、小乗・権大乗・法華経等をもってしては救えず、妙法蓮華経の五字による以外にないので、これを末法に弘通するよう託されたと仰せられている。
ここでは、衆生の病と薬の関係を譬えに用いて、弘まる法が時代によって異なることは示されているが、なぜ小乗教は迦葉等に、権大乗教は文殊師利や竜樹等に、法華経の文上の法門は薬王菩薩等に、そして妙法蓮華経は上行菩薩に付嘱されたのかという理由には触れられていない。この点については、四条金吾殿御返事に「正法をひろむる事は必ず智人によるべし、故に釈尊は一切経を・とかせ給いて小乗経をば阿難・大乗経をば文殊師利・法華経の肝要をば一切の声聞・文殊等の一切の菩薩をきらひて上行菩薩をめして授けさせ給いき」(1148:01)と述べられている。すなわち、それぞれの法に最もよく通達している人を弘教者として定められたということである。妙法蓮華経の五字は久遠元初の大仏法であり、故に本地久遠元初の自受用報身如来である上行菩薩に付嘱されたのである。このように、上行菩薩が、本地は久遠元初の仏であられることを暗示して、いま本抄においては「大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして……」と表現されたのである。〝大地〟とは天台大師が法華文句に「法性之淵底玄宗之極地」と釈しているように、一切万法の極理である久遠元初の妙法である。上行菩薩が本来、この〝大地〟の底に安らっておられたということは、本地が法即人の久遠元初の自受用報身であられることを意味する。その覚りの境界の深さ、姿の尊さをあらわして「老人」といわれているのである。
「其の時一切衆生・此の菩薩をかたきとせん」以下は、釈尊より付嘱を受けて法華経の肝心である妙法蓮華経の五字を弘める上行菩薩に対して、いかなる迫害が巻き起こるかを述べられている。
この時は、二乗や迹化の菩薩達は、この末法に弘める付嘱を受けていないので、ことごとく去ってしまっており、小乗教や権大乗教等を修行しても、なんの利益もない時代である。あとに残っているのは、悪鬼神のみであり、それが、もはや無益となった小乗・権大乗教を形だけ行じている僧尼の身に入り「法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字」を人々に弘める行者を激しく憎み、迫害を加える。
しかるに、法華経の会座で、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天善神は、法華経の行者を憎み迫害する者に対して治罰を加えると誓っているので、その誓いにしたがって、天変地夭や自界叛逆難、他国侵逼難の災いを起こし、法華経の行者を迫害している者に対して苦しみを与えるであろう、というのである。
そして、以上の釈尊の予言を受けて、いま日蓮大聖人が日本国のあらゆる人々の姿を見るのに、まさに仏の記されているとおりであり、天変地夭も、まったくそのとおりに起きている、と言われている。
其の時は迦葉阿難等も或は霊山にかくれ……金鳥のたかにあえるがごとくなるべし
この段は、正像二千年が過ぎて末法に入るので、もはや釈尊の説かれた小乗教・権大乗教、更に文上の法華経も、全く無益となってしまうことを述べられている。諸経を行じても、もはや利生はなく、諸仏の名号を唱えても、諸天善神の加護はない。そのため、母牛のもとを離れた仔牛のように心細い状態であり、鷹にあったキジのように脅えた状態になる、と言われている。
特に、ここで「観世音菩薩は西方にかへり」といわれているのは、当時の浄土宗が人々に阿弥陀如来の名を称えれば、死後、観世音菩薩が勢至菩薩と共に迎えにきてくれると宣伝していたのに対する痛烈な破折の意味をこめられたものと拝せられる。すなわち、観世音は、もはや自分の出る幕は終わったので西方浄土に帰ってしまったのであるから、いくら阿弥陀の名を称えようと、迎えになど来るわけがないということである。
其の時十方世界の大鬼神・一閻浮提に充満して四衆の身に入つて・或は父母をがいし或は兄弟等を失はん
仏法に功力がなく、あらゆる仏・菩薩の利生もなくなったあとは、単に幸せの道がふさがれたというだけではすまない。あたかも真空になった空間に、周囲の力が強大な圧力をもって圧しつぶすように、十方世界すなわち全宇宙の悪の力が、正法を失った人々の生命に入り、悪業を犯させるのである。
「父母をがいし」とは、いかなる人にとっても最も尊敬すべき父母を害することは、五逆罪として定められているように、正法誹謗を別にすれば最も大きな悪業であり、無間地獄の報いを受けなければならないとされている。「兄弟等を失はん」とは、この世で最も親しいはずの人間関係が破壊され、安住の世界が失われるということである。
まさに、正像過ぎて末法に入ったとされる平安中期以後の日本の様相は、源平の争いに端的に見られるように親子、兄弟で血を流し合う殺伐たる世相を現出したのである。
殊に国中の智者げなる持戒げなる僧尼の心に此の鬼神入つて国主並びに臣下をたぼらかさん
国中の人々に、さも智者であり、持戒者であるかのように思わせている僧や尼が、その本質は人々の生命を蝕み、悪道につきおとす鬼神であること、そして、このような僧尼の姿をかりて、国主をはじめ一国の指導的地位にある人々をたぶらかしていくというのである。
これは、法華経勧持品の二十行の偈のうち、僭聖増上慢について述べている部分を取意していわれたと考えられるが、大聖人当時、幕府の要人達から生き仏のように崇められていた極楽寺良観や建長寺道隆等を念頭に置かれての御言葉であることは疑いないところであろう。
此の時上行菩薩の御かびをかほりて法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字計りを一切衆生にさづけ云云
これまでのところは、日蓮大聖人が立宗をされ、妙法弘通の戦いを始められる末法の様相にあたる。この御文から以下は、大聖人が立宗をされ弘教の戦いを開始されたことによって起こった様相を記述されていく。
「上行菩薩の御かび(加被)をかほり」云云とは、大聖人の垂迹外用の辺が上行菩薩の再誕であられることは言うまでもないが、御謙遜の立場で、自分はその加披をこうむっている使いであるとの意味で言われているのである。
ともあれ、法華経の付嘱のとおりに末法に妙法を弘める人に対し、先述のような悪鬼が身に入った大僧やそれにたぶらかされた四衆が迫害を加える。その結果、法華経の行者を守護すると誓った梵天・帝釈等の諸天の治罰により、まず天変地夭が起こり、更に自界叛逆難、他国侵逼難が起こって、国中の人々が大苦にあう、というのである。
「今日蓮日本国に生れて一切経並びに法華経の明鏡をもて」云云の御文は、以上の内容は末法の様相について、一切経並びに法華経に述べられているところを総合したものであり、これらの経文の予言と大聖人が眼前にされている日本国の現実とが寸分も違っていない、との仰せである。
振り返って、釈尊がなぜ末法の妙法弘通の使命を本化地涌の菩薩にのみ託し、二乗の弟子や迹化の菩薩達に付嘱しなかったかの理由を再考すると、一つには先に述べたように、それぞれの法に最も通達している人を選んだのであるが、ここに仰せの、種々の大難が競い起こるということと考え合わせるなら、末法の弘通には余りにも大きな難が起こるため二乗や迹化の菩薩ではそれに耐えられないからであるということが、いま一つの理由として浮かびあがってくる。
そして、まさしく、この点こそ、本抄で言わんとされている中心的問題であり、難の競い起こるなかを大聖人を外護申しあげる高橋入道に対し、その仏法上の使命の尊さを示し、その労苦を謝し激励されていくのである。
第三章(記文の符号と法華行者の証)
本文
定んで此の国亡国となるべしとかねてしりしかば・これを国主に申すならば国土安穏なるべくも・たづねあきらむべし、亡国となるべきならば・よも用いじ、用いぬ程ならば日蓮は流罪・死罪となるべしとしりて候いしかども・仏いましめて云く此の事を知りながら身命ををしみて一切衆生にかたらずば我が敵たるのみならず一切衆生の怨敵なり、必ず阿鼻大城に堕つべしと記し給へり。
此に日蓮進退わづらひて此の事を申すならば我が身いかにもなるべし我が身はさてをきぬ父母兄弟並びに千万人の中にも一人も随うものは国主万民にあだまるべし、彼等あだまるるならば仏法はいまだわきまへず人のせめはたへがたし、仏法を行ずるは安穏なるべしとこそをもうに・此の法を持つによつて大難出来するはしんぬ此の法を邪法なりと誹謗して悪道に堕つべし、此れも不便なり又此れを申さずは仏誓に違する上・一切衆生の怨敵なり大阿鼻地獄疑いなし、いかんがせんとをもひしかども・をもひ切つて申し出しぬ、申し始めし上は又ひきさすべきにもあらざれば・いよいよつより申せしかば、仏の記文のごとく国主もあだみ万民もせめき、あだをなせしかば天もいかりて日月に大変あり大せいせいも出現しぬ大地もふりかえしぬべくなりぬ、どしうちもはじまり他国よりもせめるなり、仏の記文すこしもたがわず・日蓮が法華経の行者なる事も疑はず。
現代語訳
このままにしておいたならば、必ずこの国は亡国となるであろうと兼ねてから知っていたので、これを国主に言えば、国土が安穏になるべきものなら国主は仏法を尋ね求めるはずである。もし亡国となるべきものであるなら、日蓮が申すことを用いることはあるまい。用いないようならば、日蓮は恐らく流罪・死罪となるだろうと知っていたが、仏は誡めて「人々の謗法を知りながら、身命を惜しんで一切衆生に語らなければ、我が敵になるだけでなく、一切衆生の怨敵であり、その人は必ず阿鼻大城に堕ちるであろう」と記されている。
ここで日蓮は進退を思い煩ったのであるが、この事を言うならば我が身はどのようになるかもしれない。我が身のことはさておいて、父母・兄弟並びに千万人の中にたとえ一人でも日蓮に随うものは、国主や万民にあだまれるであろう。彼らは、怨まれると、いまだに仏法をわきまえていず、人の責めは耐えがたい。仏法を行ずると安穏になるはずだとこそ思っているのに、この妙法蓮華経を持つことによって大難が出来するのはきっとこの法は邪法ではないかと誹謗して悪道に堕ちることであろう。これもまた不愍なことである。
しかし、このことを言わなければ、仏への誓いにたがううえ、一切衆生の怨敵である。大阿鼻地獄に堕ちることは疑いない。どうしようかと思ったけれども、思い切って申し出だしたのである。
申し始めた以上は、どのようなことがあっても引き退くべきではないから、いよいよ強盛に申したので、仏の記された文のとおり、国主も怨み、万民からも責められたのである。日蓮を敵のように怨をなしたので、天も怒り、日月に異変があり、大彗星も出現した。大地も大きく震え引っくり返るばかりになった。同士打ちも始まり、他国からも攻められたのである。仏の記文は少しもたがわず符合した。このことから、日蓮が法華経の行者であることも全く疑いないことである。
語釈
仏いましめて……
涅槃経巻三には「戒を破し正法を壊する者有るを見れば、即ち応に駆遣・呵責・挙処すべし。若善比丘、壊法の者を見て、置きて駆遣・呵責・挙処せずば、当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり。若能く駆遣・呵責・挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり」とあり、これを釈した章安大師の涅槃経疏巻七には「慈無くして詐り親しむは、これ彼の人の怨なり。能く糾治する者は、これ護法の声聞、真に我が弟子。彼が為に悪を除く、即ちこれ彼が親なり」とある。
大せいせいも出現しぬ
文永の大彗星のこと。吾妻鏡、続史愚抄等によると、文永元年(1264)7月4日に彗星が現れている。また、同2年(1265)12月14日にも彗星が出現するなど、大聖人御在世当時にはたびたび彗星が見られた。
大地もふりかえしぬ
正嘉の大地震のこと。正嘉元年(1257)8月23日に大地震があり、吾妻鏡には「晴る。戌の尅、大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顛倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」とある。
どしうちもはじまり
北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄である北条時輔は、第七代執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は文永9年(1272)2月11日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、更に十五日には北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、幕府の中枢たる北条得宗家の内乱であったことから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。
他国よりもせめる
文永5年(1268)1月蒙古から牒状が届き、その後数度国書によって入貢を迫るが幕府はこれに応ぜず、文永11年(1274)10月、ついに蒙古軍は、6日に対馬を攻撃、守護代の宗助国以下全滅、14日には壱岐を攻撃、守護代の平景高以下全滅、更に20日、九州・博多湾に上陸、博多、箱崎を侵略した。しかし、太宰府の占領を翌日に延ばして船に引き揚げたところ、冬の季節風にみまわれ、遠征軍は高麗の合浦へ引き返した。文永の役である。また弘安4年(1281)にも蒙古・高麗の大軍は日本を襲撃している。日蓮大聖人が立正安国論で予言した他国侵逼難にあたる。
講義
日蓮大聖人は立教開宗される以前に、経文に照らして、当時の天変地夭の様が仏記のとおりであり、その根源が正法への違背にあることを見抜かれていた。むしろ、大聖人が幼少のころ、仏道への志を立てられた動機が、天災地変に苦しむ世を救おうとの願いであったのである。そして、仏法を学ばれて、災いの起こる原因が仏の正しい教えに背いていることにこそあると知られ、では末法救済の正法とは何かを悟り究められて立教開宗されたのである。
しかし、これをもし言い出し弘教を始めるならば、自身に大難が競い起こってくることはもとよりとしても、大聖人に従う人々にも種々の難があることを覚悟しなければならない。そのために、立宗すべきか否かで思い悩まれた。この段では、その心中の葛藤を述べられるとともに、立教開宗されて以後の経緯もまた経文に予言されたとおりであったことを述べられ、仏法の正しさと、大聖人が法華経の行者であることが、これらの事実によって証明されてきたことを述べられている。
此に日蓮進退わづらひて……
立教開宗にあたって、進んで立宗すべきか、退いて思いとどまるべきかに思い悩まれたことを仰せである。それは、御自分がどのような難を受けることも、覚悟の上である。しかし、仏法をまだ十分にわきまえず、苦難を覚悟していない門下が難にあったとき、仏法を行ずれば現世安穏が得られると思っていたのにこのように難にあうのは邪法だからではないかと疑い、かえって悪道に堕ちてしまうかもしれない、という恐れが一方にある。だがもう一方では、正法を知り人々の誤りを知りながら折伏を行じなければ仏前の誓いに背くことになり、一切衆生にとっても大怨敵となり大阿鼻地獄に堕ちることになる。この二つの恐れの間でジレンマに陥って悩んだと言われているのである。
ここに、我々は、日蓮大聖人が単純な使命感だけから立教開宗されたのではなく、それによって生ずるであろうあらゆる事態を考え抜かれたうえで、遂に立教開宗せられたことを拝察できる。なんと、ありがたいことではないか。
その結果は、折伏に反発し誹謗する人も出ようし、また、いったん信受しながら退転する者も出ようが、それらの人々も一度地獄に堕ちた後、逆縁によって、やがては救われていくのであるし、何といっても、仏の心に従うのが仏法者の道であり、かつ、この妙法による以外に人々の成仏・救済の道はないが故に、立教開宗に踏み切られたのであった。そして、一方では仏の教えどおりに苛烈な破邪の論を展開されつつも、その奥底には、人々が理解し納得して素直に信受できるよう、道理を尽くして仏法を説こうとの大慈悲であることが拝される。門下となった人々が退転・堕獄の道に入らないよう、難の起こる道理を示されるために、いかに肝胆をくだかれたかは、開目抄、佐渡御書、如説修行抄等々、諸御抄を拝するとき、明瞭である。
この大聖人の深い御慈愛に応え、生涯、不退転の信心を貫き、自身が成仏を遂げるとともに、大聖人の御心を一人でも多くの人々に伝えていくためにも、御書を拝し、御書を心肝に染める教学の研鑽と、弘教の実践が不可欠なのである。
仏の記文のごとく国主もあだみ……日蓮が法華経の行者なる事も疑はず
前述されているように、釈尊は、末法に正法を弘めようとすれば、人々がどのような対応をし、それに対して、諸天の治罰としてのいかなる天変地夭が起こるかを記されているが、日蓮大聖人の立教開宗、破邪顕正の戦いの展開によって、その仏の記文のとおりにあらゆる人々が怨嫉し迫害を加え、それに対して天変地夭があり自界叛逆・他国侵逼の二難が起こった、これらの現象によって、仏の予言の正しさが証明されたと共に、日蓮大聖人が、この末法に「妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづく」べく釈尊より付嘱を受けた上行菩薩であり「法華経の行者」すなわち末法の御本仏であられることが立証されたのである。
第四章(門下を想う慈愛の情を語る)
本文
但し去年かまくらより此のところへにげ入り候いし時・道にて候へば各各にも申すべく候いしかども申す事もなし、又先度の御返事も申し候はぬ事はべちの子細も候はず、なに事にか各各をば・へだてまいらせ候べき、あだをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並びに国主等をもたすけんがためにこそ申せ、かれ等のあだをなすは・いよいよ不便にこそ候へ、まして一日も我がかたとて心よせなる人人はいかでかをろかなるべき世間のをそろしさに妻子ある人人のとをざかるをば・ことに悦ぶ身なり、日蓮に付てたすけやりたるかたわなき上・わづかの所領をも召さるるならば子細もしらぬ妻子・所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし。
而も去年の二月に御勘気をゆりて三月の十三日に佐渡の国を立ち同月の二十六日にかまくらに入る、同四月の八日平左衛門尉にあひたりし時・やうやうの事ども・とひし中に蒙古国は・いつよすべきと申せしかば、今年よすべし、それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし、たすからんとをもひしたうならば日本国の念仏者と禅と律僧等が頚を切つてゆいのはまにかくべし、それも今はすぎぬ・但し皆人のをもひて候は日蓮をば念仏師と禅と律をそしるとをもひて候、これは物のかずにてかずならず・真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大なる呪咀の悪法なり、弘法大師と慈覚大師此の事にまどひて此の国を亡さんとするなり、設い二年三年にやぶるべき国なりとも真言師にいのらする程ならば一年半年に此のくにせめらるべしと申しきかせて候いき。
たすけんがために申すを此程あだまるる事なれば・ゆりて候いし時さどの国より・いかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども・此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき、又申しきかせ候いし後は・かまくらに有るべきならねば足にまかせていでしほどに便宜にて候いしかば設い各各は・いとはせ給うとも今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかいてすぎ候いき、そのゆへはするがの国は守殿の御領ことにふじなんどは後家尼ごぜんの内の人人多し、故最明寺殿・極楽寺殿のかたきといきどをらせ給うなればききつけられば各各の御なげきなるべしとおもひし心計りなり、いまにいたるまでも不便にをもひまいらせ候へば御返事までも申さず候いき、この御房たちのゆきすりにも・あなかしこあなかしこ・ふじかじまのへんへ立ちよるべからずと申せども・いかが候らんとをぼつかなし。
現代語訳
ただし、去年(文永11年)鎌倉からこの身延の山中に入った時、通り道であったから、貴方がたにもいろいろと申すべきであったが、申すこともなく身延に入ってしまった。また先頃の貴方への御返事も認めなかったのは、これといったわけがあるのではない。返事を出さないからといって、どうして貴方がたをうとましく思うだろうか。
日蓮に怨をなす念仏者や禅宗の者や真言師等や国主等をも助けてあげたいから申すのであって、かえって彼らが日蓮に怨をなすことは不愍なことである。まして、一日であろうと我が味方として心をよせてくれる人々をどうして疎略にしようか。世間の恐ろしさに、妻子ある人々が遠ざかることをことに悦んでいるのが私の気持ちである。日蓮についていても助けてあげることもできないうえ、わずかの所領を主君に召し取られるならば、子細を知らない妻子や家来等は、どのように嘆くことかと心苦しく思うのである。
そのうえ、去年の二月に流罪を赦免されて、三月の十三日に佐渡の国を出発し、同月の二十六日に鎌倉に入った。同四月八日に平左衛門尉に会った時、いろいろの事を問う中に「蒙古国はいつ日本に攻めてくるか」と申したので「今年やってくるだろう。それについて日蓮を離したならば、日本国を助けることのできる者は一人もいない。助かろうと願うなら、日本国の念仏者と禅宗の者と律僧等の頚を切って、由比の浜に懸けるべきである。ただ、これも今では過ぎたことである。世間の人々は皆、日蓮を念仏の僧と禅と律とを謗る者と思っている。しかし念仏・禅・律など物の数であっても数に入らない。真言宗と申す宗こそ、うるわしい日本国の大いなる呪咀の悪法なのである。弘法大師と慈覚大師は、この悪法に惑い、この日本国を亡ぼそうとするのである。たとえ二年、三年で破られる国であっても、真言師に祈禱させるようならば、一年、半年でこの国は攻められて亡ぼされるであろう」と申し聞かせた。
国を助けたいために申すことを、これほどまでに怨まれるのであるから、佐渡流罪が許された時、佐渡の国からどのような山中・海辺にもまぎれて入るべきであったが、このことをいま一度平左衛門尉に申しきかせて、蒙古が日本国に攻めてきた時、幸いにも生き残った衆生を助けようと鎌倉に上ったのである。
また申し聞かせた後は、鎌倉にいるべきではないから、足に任せて鎌倉を出たのであるが、身延に行く道の途中なので、各には迷惑になろうとも、いま一度はお目にかかりたいと千度も思ったけれども、心に心を戦わせてお目にかからず通り過ぎたのである。
その理由は駿河の国は相模守殿の御領であり、ことに富士などは後家尼御前の一族の人々が多い。故最明寺殿、極楽寺殿の敵であると憤っていることであるから、日蓮が貴方がたの所に寄ったと聞きつければ、貴方がたのご迷惑になるだろうと思ったからである。今に至るまで迷惑がかかることを不愍に思ったので、御返事も出さなかったのである。この御房達の通行にも、くれぐれも富士・賀島のあたりに立ち寄ってはならないと申してあるが、しかしどうであろうかと心配をしている。
語釈
佐渡の国
新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
平左衛門尉
日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライが1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
ゆいのはま
現在の神奈川県鎌倉市にある海岸をいう。日蓮大聖人が竜の口の頸の座にのぞまれるとき、この浜を通って行かれた。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
するがの国
東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
守殿
(1251~1284)。北条時宗のこと。相模守であったことから守殿とも呼ばれた。鎌倉幕府第8代執権。第五5代執権時頼の子。母は北条重時の娘。幼名は正寿。相模太郎と称した。文永元年(1264)連署となり、翌年相模守となる。文永5年(1268)3月に執権となった。たび重なる蒙古の牒状、二度の元寇という国家の危機の中で、防衛に全力を注いで難局を乗り越えた。また禅宗に帰依し、中国・宋から無学祖元を迎えて円覚寺を創建し、後に出家した。
後家尼ごぜん
夫に先立たれた身分の高い出家した婦人。または、鎌倉幕府要人の未亡人。
最明寺殿
北条時頼(1227~1263)のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘である。鎌倉幕府第五代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、建長4年(1252)将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅を受け建長寺を建立した。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。
極楽寺殿
(1198~1261)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男。執権泰時の弟。宝治元年(1247)、執権北条時頼の連署となった。その後入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ち事件を黙認した。その翌年五月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、にわかに病気になり、11月に死んだ。
講義
門下にも難のふりかかることは覚悟の上で立教開宗されたのであるが、これを最小限にくいとめるために、大聖人御自身、いかに心を配られているかを述べられている。
もとより各人が自らの自行化他の実践を貫くうえで起こってくる難を恐れてはならないことは、大聖人も、つねづね指導されている。この点に関しては兄弟抄で摩訶止観の「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」(1080:兄弟抄:16)の文を示され「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087:兄弟抄:17)と教えられているとおりである。
それに対して、本抄で大聖人が心配されているのは、大聖人が高橋入道の家へ寄られたり、頻繁に便りのやりとりをすることによって、執権・北条時宗の領地であり、故北条時頼・重時等の未亡人の縁故の人が多い土地柄であるだけに、各人の信行故の必然的な難以外の波風が立つ恐れがあるということである。純粋に仏法の故に起こる難と、御自分との関係の故に起こる難とを厳しく区別されているのである。御自身、法即人の御本仏であられるにもかかわらず、このように法に対して謙虚な姿勢を堅持され、門下の身の上を思われ、細かい配慮をされていることに、胸を打たれる思いを禁じえない。
日蓮に付てたすけやりたるかたわなき上・わづかの所領をも召さるるならば子細もしらぬ妻子・所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし
この段で、大聖人は、念仏者・禅宗・真言師、また国主などに対してさえ、彼らを救おうとして折伏をしながら、彼らが怨嫉して堕地獄の因をつくっていることがかわいそうでならない。まして一日でも大聖人に心を寄せ門下となった人のことを思わないわけがない。彼らが世間の恐ろしさから、大聖人から遠ざかっていったとしても、それによって人々が迫害をまぬかれることを、かえって喜んでいると言われ、大聖人について所領を取りあげられるなどの難を受けた人の妻子等が嘆いていることを思うと心苦しいと、心情を吐露されている。
なんという温かいお心を持たれ、細やかな配慮をされていることであろうか。
而も去年の二月に御勘気をゆりて三月の十三日に佐渡の国を立ち……
佐渡流罪御赦免後、鎌倉へ帰られた経緯、4月8日、平左衛門尉に会って第三回の国主諌暁をされた時の内容を述べられている。
「ゆりて候いし時さどの国より・いかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども・此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき」と仰せのように、赦免後、そのまま隠栖してもよかったのであるが、未来のために一言いっておこうと鎌倉へのぼった、と。そして、平左衛門尉に会われたとき、質問に答えて、今年中に蒙古は攻めてくるということとともに、特に真言宗の邪義、亡国の悪法であることを厳しく指摘されたのである。
既に、念仏・禅・律については、初期のころから厳しく破折され、これらの諸宗の僧については頸を切るべきであるとまで言われ、それが文永8年(1271)9月の竜の口法難の原因になったのであった。竜の口法難以前の大聖人の破折は念仏・禅等に主力が注がれ、真言宗についてはあまり触れられなかった。しかし、いまや念仏や禅を破折するだけではすませられなくなった。「これは物のかずにてかずならず」と言われているのは、念仏・禅は、邪義邪教といっても、内容的には幼稚なものである。一重巧みで邪見が深く、日本を不幸に追い込んでいる元凶が真言宗であるとして、文永11年(1274)に平左衛門尉に会われたときは、真言宗破折を真っ向から掲げられたのである。
「真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大なる呪咀の悪法なり、弘法大師と慈覚大師此の事にまどひて此の国を亡さんとするなり」と仰せのように、真言宗は比叡山天台宗と深く結びついている。叡山は本来、法華経を根本とした宗であったにもかかわらず、第三代座主慈覚以来、真言の邪義をとりいれ真言宗に毒されてしまったのである。そのため、真言宗を破折することは比叡山天台宗をも破折することになる。これは法門上からいうと、天台宗で立てる法華経文上の脱益仏法と文底の下種仏法との相対を明らかにしなければならないので、竜の口法難の発迹顕本以後、はじめて論じていかれたのである。
又申しきかせ候いし後は・かまくらに有るべきならねば……
三度諌めて用いられなければこれを去るという、礼記の述べる原理にのっとられるとともに、佐渡流罪御赦免後は、直ちに隠栖しようというのが大聖人のお心であったから、平左衛門尉への最後の諌暁をされると、5月12日、鎌倉を出て身延山へ向かわれた。身延を選ばれた理由については、日興上人が化導された中に身延の地頭・波木井実長がおり、したがって、日興上人の案内で身延山に入られ、ここを隠栖の地と定められたと考えられる。
その途中、高橋入道のいる駿河国富士郡を通られたのであるが、高橋家等に寄られなかった理由を仰せられている。「今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかいてすぎ候いき」と、その時の御気持ちを述べられている。なぜ立ち寄ることをやめられたかというと、執権・北条時宗の直轄領であり、富士郡は特に北条時頼や重時らの未亡人のゆかりの人が多く住んでいた。これらの未亡人達は、大聖人が時頼や重時は地獄に堕ちたと公言しているとの良寛らの告げ口で特に激しく大聖人を憎んでいた。もし、大聖人が高橋家に寄れば、どれほど激しい弾圧が高橋入道一家に対して加えられるかしれなかったからである。
そして、身延御入山後も、高橋家等に対しては、あまり御手紙も書かず、弟子達にも立ち寄らないようにと指示されていた。それも、高橋家に迫害・弾圧が加えられることをおもんぱかってのことであったと述べられている。
第六章(三事相応の信心を勧む)
本文
但し皆人はにくみ候にすこしも御信用のありし上・此れまでも御たづねの候は只今生計りの御事にはよも候はじ定めて過去のゆへか、御所労の大事にならせ給いて候なる事あさましく候、但しつるぎはかたきのため薬は病のため、阿闍世王は父をころし仏の敵となれり、悪瘡身に出で後に仏に帰伏し法華経を持ちしかば悪瘡も平癒し寿をも四十年のべたりき、而も法華経は閻浮提人病之良薬とこそとかれて候へ、閻浮の内の人は病の身なり法華経の薬あり、三事すでに相応しぬ一身いかでかたすからざるべき、但し御疑のわたり候はんをば力をよばず、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。覚乗房はわき房に度度よませてきこしめせ・きこしめせ。
七月十二日 日 蓮 花押
進上 高橋六郎兵衛入道殿 御返事
現代語訳
世間の人々が皆日蓮を憎んでいるところに、貴方は少しでも日蓮を信じてこられたうえ、身延までも訪ねられたことは、全く今生だけでなく、きっと過去の因縁によるのであろう。
御病気が重くなられたことは、嘆かわしいことである。ただし、剣は敵を討つため、薬は病気を治すためのものである。阿闍世王は父を殺害し仏の敵となったが、悪瘡が身に出て、後に悔いて仏に帰伏して法華経を持ったので、悪瘡も癒って寿命を四十年延ばしたのである。そのうえ、法華経には「閻浮提人の病の良薬」と説かれている。閻浮提の内の人々は病の身であるが、法華経の薬がある。病気回復のための三事はすでに相応している。貴方が助からないわけがあろうか。ただ、貴方に法華経への疑いがあるなら、日蓮の力は及ばないのである。無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
覚乗房と伯耆房にたびたび読ませて、お聞きなさるがよい。お聞きなさるがよい。
七月十二日 日 蓮 花 押
進上 高橋六郎兵衛入道殿 御返事
語釈
所労
①病気、煩いのこと。②疲労のこと。
阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
三事
三事は法華初心成仏抄では「よき師・よき檀那・よき法」(0550:17)であり、新田殿御書では「経・仏・行者」(1452)となっている。ここでは御抄の内容から「経・仏・行者」をさすと思われる。詳しくは新田殿御書に「経は法華経・顕密第一の大法なり、仏は釈迦仏・諸仏第一の上仏なり、行者は法華経の行者に相似たり、三事既に相応せり檀那の一願必ず成就せんか」(1452:01)とある。
覚乗房
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の弟子。駿河国富士郡賀島荘(静岡県富士市)付近にいたと思われるが詳細は不明。千日尼御前睺返事に出てくる学乗房と同一人物とする説や異説がある。
はわき房
(1246~1333)日興上人のこと。号は白蓮阿闍梨。甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)に誕生。父は遠州(静岡県浜松市近辺)の記氏で大井の橘六、母は富士(静岡県富士市)由井氏の娘・妙福。幼くして父を失い、母は綱島家に再嫁したので、祖父・由井氏に養育された。7歳の時に、天台宗・四十九院に登って漢文学・歌道・国書・書道を学び、天台の法門を研鑽した。正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が岩本実相寺を訪問し一切経を閲覧された時、13歳で大聖人の弟子となり伯耆房の名をいただいている。大聖人の伊豆流罪の時から常随給仕して親しく教示を受けるとともに、弘教に励み、大聖人が三度の諌暁を終えて身延に入山された後は、富士方面の縁故を通じて弘教を進め、熱原滝泉寺の日秀・日弁・日禅、甲斐の日華・日仙・日妙をはじめ付近の多くの農民を化導した。これに対して各寺の住職たちが神経を尖らせ始め、四十九院では日興上人をはじめ日持・承賢・賢秀等が律師・厳誉によって追放され(四十九院法難)、滝泉寺では院主代・行智の一派が熱原地方の農民を捕らえて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件が起きた(熱原法難)。この法難を機に日蓮大聖人は、一閻浮提総与の大御本尊を顕され、御入滅に先立って日興上人に後世の一切を託された。こうして、日興上人は身延山久遠寺の別当となったが、五老僧が大聖人の墓所輪番制度も守らず違背し、特に地頭・波木井六郎実長が四箇の謗法を犯し、身延山を謗法によって汚したことから離山。上野郷の地頭・南条時光の懇請に応じ、その持仏堂に入り、正応3年(1290)、富士・大石ケ原に大坊を建立して移った。大石寺開創後は6人の弟子を定め、その上首として日目上人に寺務を委ね、自らは重須にあたって弟子の育成に当たった。後念、寂日房日澄を初代の学頭に任じ、二代日順の時、談所を開設した。さらに重須で6人の高弟を定めた。後世の弟子への遺誡として日興置文を著し、元弘2年(1332)、日興条条の事によって日目上人に一切を付嘱し、翌元弘3年(1333)2月7日、88歳で没した。
講義
本抄の最後にあたり、高橋入道の信心の厚さをたたえ、病気の事を心配されて、法華経の功徳を説き、どこまでも疑いなき信心を勧め、激励されている。
怨嫉多き社会の中で信心を貫いてきたばかりでなく、大聖人の身延御入山後は身延にまで訪ねてこられたのは今生だけの浅い縁ではなく「定めて過去のゆへか」と述べられている。
そして、高橋入道の病気について心配され、阿闍世王の例を挙げて信心によって助からないわけがないと激励されている。
仏法は、心の病、身の病について、内なる生命に迫って、病悩の因果を解明し、病者の苦悩を取り除くのである。
阿闍世王の悪瘡は、その典型的な例といえる。
王の悪瘡の起因は父を殺した五逆罪と、仏の敵となって犯した謗法の大罪にあり、それが悪瘡という病悩の果報をもたらしていたのである。
だから、この悪瘡を平癒するためには、生命の奥底から変革を起こさせなければならなかった。釈尊のもとに帰することによって、仏の大慈悲の象徴といえる釈尊の身から発した光を浴びて悪瘡は忽ちに平癒したばかりでなく、四十年の寿命を延ばしたのである。そして、阿闍世王は釈尊一代の教法を経典として後世に伝える偉業に対し、重大な外護の任を果たしたのである。
しかも、法華経は薬王品第二十三に「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」とあるように一人、阿闍世王のための生命の薬でなく、全世界の人の生命の病を治す薬なのである。
高橋入道は閻浮提の内の人であり、病の身である。阿闍世王の信受した法は在世脱益の法華経であり、仏はまた迹仏である。これに対して、高橋入道の受持、実践している末法の法華経は文底下種の妙法であり法華経の行者である大聖人は下種の御本仏である。
大聖人の御出現によって、祈りの叶う条件である経と仏と行者の三事もまた相応している。これらがそろって、一身の病悩を平癒できないわけはない。
「但し御疑のわたり候はんをば力をよばず」と、疑いがあったのでは、祈りは叶わないと誡められ、疑いなき信心を貫くよう勧め激励されている。無疑曰信の信心こそ、生命の無明・疑惑を断破する利剣であることを銘記すべきである。