顕仏未来記

顕仏未来記

文永10年(ʼ73)閏5月11日 52歳

  1. 序講
    1. 第一 本抄御述作の由来
    2. 第二 本抄の大意
    3. 第三 本抄の元意
  2. 第一章 (釈尊の未来記を挙げる)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云
      2. 亦一たびは喜んで云く、何なる幸あって後の五百歳に生れて、此の真文を拝見することぞや
  3. 第二章(未来の留難を明かす)
    1. 現代語訳
    2. 語釈
    3. 講義
      1. 仏在世と滅後の留難の相
        1. (一)仏在世の留難
        2. (二)仏滅後の留難
          1. (1)正法時代の留難の相
          2. (2)像法時代の留難の相
          3. (3)末法の留難と円実の行者
  4. 第三章(末法の弘通の方軌を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 教行証について
      2. 此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか
      3. 威音王仏の像法の時・不軽菩薩……彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり
  5. 第四章(末法の御本仏を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に……若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん
      2. 日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり
  6. 第六章(御本仏の未来記を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 仏記に順じて之を勘うるに、既に後の五百歳の始めに相当れり。仏法必ず東土の日本より出づべきなり
      2. 瑞相について
      3. 仏の如き聖人生れたまわんか
  7. 第七章(妙法流布の方軌を示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 日来の災、月来の難、此の両三年の間の事、既に死罪に及ばんとす。今年今月、万が一も脱れ難き身命なり
      2. 世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え
      3. 幸なるかな、一生の内に無始の謗法を消滅せんことを。悦ばしいかな、未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ
      4. 願わくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん
      5. 浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり

序講

顕仏未来記の講義にあたり、その序講として、
 第一に、本抄御述作の由来を明かし、
 第二に、本抄の大意を明かし、
 第三に、本抄の元意を論ずることとする。

第一 本抄御述作の由来

本抄は、文永10年(1273)5月11日、如説修行抄の御述作のほとんど同時またはその直後に、佐渡において御述作されたものである。
 とくに宛名はないので、特定の弟子檀那ではなく、門下一同に対して与えられた御抄であると拝される。御正筆の所在については不明である。
 本抄の背景については、如説修行抄の序講に詳しく述べておいたので参照されたい。顕仏未来記の題号が示す通り、日蓮大聖人の広布の予言書として重大な意義を有し、御本仏の絶対の確信に満ちた偉大な書である。恐らく、弟子達に、御遺言のようなお気持で、全生命をこめて書かれた御抄であるに違いない。
 本文にいわく「日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え云云」と。
 まさに、この一節のなかに、大聖人が本抄を御述作されたお心がにじみ出ているではないか。死はもはや必定であり、一切を弟子に託されたのである。しかし、この間に、綽然として、かかる御書をしたためられ、さらに「我を損する国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん」と仰せられているのでる。まことに悠々たる、広々とした御本仏の境地であると共に、大慈悲のお姿ではなかろうか。
 戸田前会長は、本抄について「つらつら、この御抄を拝するのに、大聖人が、御本仏としての御確信が巌のごとく堅く、また、末法法華経の行者としての意気天をつくの思いがあり、かつは生を思わず、死をもおそれず、ゆうゆうとして子弟を教ゆるの態度が躍如としている」と述べている。
 とまれ、今日広宣流布をめざし実践する人にとって、感銘深き御抄であるとともに、仏の未来記を虚妄にすることなく証明されたのが日蓮大聖人の御振舞いであった。しかも、そうした大聖人の御振舞いをさらに一重立ち入って拝するならば、末法の御本仏の御振舞いであったと拝することができる。

第二 本抄の大意

本抄は、仏の未来記を顕わすとの題号のとおり、まず日蓮大聖人が、釈尊の未来記のことごとく実証されたことを述べられ、御自身が末法の御本仏であることを大確信をもって宣言せられ、ついで本抄の眼目たる御本仏日蓮大聖人の未来記を論じられている。大要次の通りに本文を七段に分けることができる。
   第一に 釈尊の未来記を挙げる。
   第二に 末法の留難を明かす。
   第三に 本門の本尊の流布を明かす。
   第四に 末法の御本仏を明かす。
   第五に 月氏・漢土に仏法無きを明かす。
   第六に 末法の御本仏の未来記を明かす。
   第七に 弘教の方軌を示す。
 以上が本抄の大要である。
 次に、大意を順次、簡略して述べてみる。
 第一に 釈尊の未来記を挙げるの段は、冒頭に「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」と。法華経薬王品の未来記の文をあげ、まず「一たびは歎いて云く」と。仏在世に、さらに正法の四依の菩薩の時代、像法の天台大師・伝教大師の時代に生まれ合わせなかったことを歎いておられる。しかしながら「亦一たびは喜んで云く」と述べられて薬王品の経文に示された大白法流布の時代に生まれ合わせたことを、大聖人は心から喜んでおられるのである。さらに末法の始めに対して像法の教主、天台・伝教が「時代以て果報を論ずれば竜樹・天親に超過し天台・伝教にも勝るるなり」と時代の果報を論じ、末法の御本仏としての大福運を論じておられる。
 第二に 末法の留難を明かすの段は、日蓮大聖人が末法に生まれ、殊に喜悦している理由を留難の相をもって明かしている。まず「如来の現在すら、猶怨嫉多し。况や滅度の後をや」の法華経法師品の文を冒頭にあげ、さらに妙楽大師の弟子・東春の文をあげ、伝教大師の法華秀句を用い、最後に仏説を掲げて、「况滅度後」の末法には必ず留難のあることを論じられている。すなわち末法の法華経の行者に必ず留難のあることを仏説および論釈をもって示している。
 第三に 本門の本尊の流布を明かすの段は、正像二時と末法を比較すれば、時も機も共に正像が勝れているのにどうして末法を尊ぶのかとの問いに対して、教行証をもって、末法の衆生が釈尊の仏法に結縁のないことを論じ、まさに釈尊の仏法が隠没し、仏法が混乱した時こそ、必ず本眷属たる地湧の菩薩が末法の法華経の行者として出現して諸天の加護を受け、本門の本尊・妙法蓮華経の五字が広宣流布することを、不軽菩薩の例をあげて述べている。すなわち、末法に謗法の者が充満することをあげ、末法の御本仏日蓮大聖人が三大秘法の法体の広宣流布をすすめることを明かした章である。
 第四に 末法の御本仏を明かすの段は、どうして日蓮大聖人を末法の始めの法華経の行者と知ることができるのかとの疑難に答え、はじめに「況や滅度の後をや」勧持品の「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん」さらに同品の「数数擯出せられん」安楽行品の「一切世間怨多くして信じ難し」不軽品の「杖木・瓦石を以って、之を打擲す」薬王品の「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等と末法の法華経の行者に留難あることを、仏が未来の衆生のために記していることを示されている。そしてこれらの経文をもって、まさしく大聖人が法華経の行者であることを明かし、大聖人を非難する者に対して「汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり」と大聖人こそが末法の法華経の行者として釈尊の予言を身業読誦し、仏の実語を証明されたことを述べておられる。すなわち「日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん」「日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや」と仰せである。
 この段は末法に法華経の行者として、仏記を証明したことを示され、疑難を破しておられるが、さらに一重立ち入るならば、日蓮大聖人こそ末法の御本仏であり、仏語の証明を借りて、御本仏の内証を明かされているのである。よってこの段は惑者の疑難に対して厳しい御文をもって回答されたのである。まさしく日蓮大聖人こそが末法に三大秘法を広宣流布される御本仏であると拝すべき段といえよう。
  第五に 月氏・漢土に仏法無きを明かすの段は、日蓮大聖人が法華経の行者であり、仏の未来記を証明した人であることを惑者は納得したが、インドや中国にも法華経の行者がいるのではないかとの問いに答えて「四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや」と日蓮大聖人こそ法華経の行者であり、その内証は末法の御本仏であることを明かされたのである。
 一往文義として「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」と広布の方軌を述べ、妙楽大師の「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや」と、まずインドに仏法無き証文をあげ、次に「漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」と漢土に仏法がないことを明かし、その後に東西北にも仏法のないことを明かしたのである。
 第六に 末法の御本仏の未来記を明かすの段は、末法の法華経、寿量文底の事の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経が後五百歳の始めに日本国に出現することを述べられたのである。よって「仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と仰せである。
 さらに仏の誕生、転法輪、入涅槃の諸瑞相と、日蓮大聖人との瑞相を挙げて、釈尊在世の瑞相と日蓮大聖人在世の瑞相では、日蓮大聖人の瑞相のほうが比べものにならないほど大きく、これをもって、末法に三大秘法の仏法が興隆すべきことを現証をもって論じておられる。すなわち「当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし 惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」と仰せである。
 第七に 弘教の方軌を示すの段は、内証を述懐なされ、大聖人滅後の遺弟に必ず広宣流布を成就すべきであるとの文と拝せられる。冒頭の「日蓮此の道理を存して既に二十一年なり」と仰せられ、「日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす 」の文にあるとおり、文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難から佐渡の一の谷に移るまでの三年間、苦難の中にありながら、令法久住のために、振舞われたことを示されている。しかも奥底に只今臨終なりの精神を堅持されていたことは「今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり」との御文に脈々としている。
 さらにこうした事態であるが故に「世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」と門弟に一切を託されている。そして、「未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ」と御自身を凡夫として、末法の衆生として振舞われ、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」、「我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん」、「我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん」と大慈大悲の心境をもって仰せられている。
 しかるに門弟に対して「但し今夢の如く宝塔品の心を得たり」と、仏説の六難九易を御自身が身で読まれたことを示唆され、さらに伝教大師の法華秀句を借りて「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」の文によって、広宣流布をかならず実現していくよう、その実践を強調されている。まさしく第七段は広布の一切を遺弟に託された段といえよう。
 なお最後に「三に一を加えて三国四師と号く」とは、あくまでも仏法の正統の流れを述べられたものであり、その元意は末法の法華経の行者は日蓮大聖人以外にないとの結論である。

第三 本抄の元意

本抄の元意といっても、大意のなかに尽くされているので、重複することになるが、日蓮大聖人が、御本仏の境地に立脚して、三大秘法の大仏法が、太陽のような輝きをもって、東土の日本から広宣流布していくことを確信し、予言しておられるのが、本抄の意である。
 したがって、題号の「仏の未来記を顕わす」との文を、日蓮大聖人が、釈尊の未来記を、事実の上に顕わすのであると読み、さらに一重立ち入って日蓮大聖人こそ末法の御本仏であると実証の上から、御自身の未来記を顕わすのである、と二重に読むべきである。すなわち、仏の未来記とは、釈尊の未来記であるが、再往、日蓮大聖人の未来記であり、この再往の義に本抄の元意がある。
 日蓮大聖人の未来記とは、化儀の広宣流布である。これ以外に末法御本仏の未来記はない。
 ゆえに、ひろく門家の立場で拝するならば、日蓮大聖人の弟子檀那の実践が、日蓮大聖人の未来記を事実の上に顕わすものでなくてはならない。そうでなければ、御本仏の未来記は虚妄となるわけである。
 今思うに、あの700年前、佐渡で叫ばれた唯一人の大聖哲の叫びが、現在、全世界に輝いているのである。大聖人の、この未来記を当時誰人が信ずることができたであろうか。想像も及ばなかったに違いない。まさに、今日の日蓮大聖人の弟子檀那にして、はじめて知る、御本仏の偉大な予言であり、達見ではなかろうか。
 それゆえ顕仏未来記は、一往、門下に対する遺命の書ではあるが、再往、化儀の広宣流布のために不惜身命で活動する者に対する遺命の書と拝していきたい。

 

 

第一章 (釈尊の未来記を挙げる)

 

 本文

                沙門 日蓮 之を勘う

  法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。予一たびは歎いて云く、仏滅後既に二千二百二十余年を隔つ。何なる罪業に依って仏の在世に生れず、正法の四依、像法の中の天台・伝教等にも値わざるやと。亦一たびは喜んで云く、何なる幸あって後の五百歳に生れて、此の真文を拝見することぞや。在世も無益なり。前四味の人は未だ法華経を聞かず。正像も又由し無し。南三北七並びに華厳・真言等の学者は法華経を信ぜず。天台大師云く「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」等云云。広宣流布の時を指すか。伝教大師云く「正像稍過ぎ已って、末法太だ近きに有り」等云云。末法の始めを願楽するの言なり。時代を以て果報を論ずれば、竜樹・天親に超過し、天台・伝教にも勝るるなり。

 

現代語訳

 

法華経の第七の巻、薬王品には「我が滅度の後、後の五百歳の中に、この閻浮提(世界)に広宣流布して断絶することがないであろう」等と述べられている。

 予(日蓮大聖人)一たびは歎いていう。今は仏滅後、すでに二千二百二十余年も経っている。一体いかなる罪業があって、仏の在世に生まれあわすことができなかったのであろうか。また、せめて正法の時代に生まれて、人の四依といわれる迦葉・阿難・竜樹・天親等の諸の菩薩に会えなかったのだろうか。また、像法時代の天台・伝教等にも巡り会えなかったのであろうかと。

 また、一たびは歓喜していう。一体いかなる福運があって後の五百歳(末法)に生まれて、この薬王品の真実の文を拝見することができたのであろうかと。よしんば釈尊在世に生まれたとしてもこの真文にあうことはなかった。なぜならば乳味(華厳)・酪味(阿含)・生蘇味(方等)・熟蘇味(般若)の前四味の説法を受けた人は、いまだ法華経を聞いていないからである。また正法・像法時代に生まれたとしても、少しも意義がない。なぜなら法華経は、すでに説かれていたが、南三北七ならびに華厳・真言等の学者は法華経を信じなかったからである。天台大師は法華文句巻第一に「後の五百歳、すなわち末法の始めから、遠く末法万年・尽未来際にいたるまで妙法が流布し、一切衆生がその功徳に沾おうであろう」等といっているが、これは仏の真文と符節を合わせ、広宣流布の時を指していると思われる。また同じく伝教大師は「(熟脱の)正像二千年は、ほとんど過ぎおわって、(下種の教主が出現する)末法がはなはだ近づいている」といっているが、これは末法の始めに生まれることを願い慕っている言葉なのである。ゆえに、時代の比較によって、身に備えた果報の優劣を論ずるならば、自分は正法時代の竜樹・天親に超えているばかりでなく、像法時代の天台・伝教にも勝れているのである。

 

語釈

 

法華経

 梵名サッダルマプンダリーカ・スートラ(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)、音写して薩達摩芬陀梨伽蘇多覧、「白蓮華のごとき正しい教え」の意。経典として編纂されたのは紀元一世紀ごろとされ、すでにインドにおいて異本があったといわれる。そのためこれを中国で漢訳する段階では、訳者によって用いた原本が異なり、種々の漢訳本ができたと推察される。こうしてできた漢訳本は、①法華三昧経(六巻。魏の正無畏訳。二五六年訳出)。②薩曇分陀利経(六巻。西晋の竺法護訳)。③正法華経(十巻。西晋の竺法護訳)。④方等法華経(五巻。東晋の支道根訳)。⑤妙法蓮華経(八巻。姚秦の鳩摩羅什訳)。⑥添品妙法蓮華経(七巻。隋の闍那崛多・達磨笈多共訳)の六種である。このうち現存するのは③正法華経、⑤妙法蓮華経、⑥添品法華経の三種があるが(六訳三存)、⑤妙法蓮華経が古来から名訳とされて最も普及しており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。内容は、それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一し、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調する。

 

正法の四依

 四依には法の四依と人の四依とがあり、今いうところの四依は後者である。この人の四依に四種の段階があり、初依、二依、三依、四依をいう。仏の滅後に正法を弘宣し、民衆の依怙となった人をいう。ここでは滅後一千年の間の四依のことであり、迦葉・阿難・竜樹・天親等を指す。観心本尊抄に「四依に四類有り、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す、大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す、三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分は末法の初なり、四に本門の四依は地涌千界末法の始に必ず出現す可し今の遣使還告は地涌なり」とある。本抄ではこのうちの第一、第二にあたる。

 

正法の前五百年

 小乗の四依 ――┬ 初依 ― 三賢(煩悩性を具す)

         ├ 二依 ― 初果(須陀洹の人)

         ├  〃 ― 二果(斯陀含の人)

         ├ 三依 ― 三果(阿那含の人)

         └ 四依 ― 四果(阿羅漢の人)

 

正法の後五百年

 権大乗の四依 ―┬ 初依 ― 十住・十行・十回向

         ├ 二依 ― 初地~六地

         ├ 三依 ― 七地~九地

         └ 四依 ― 十地・等覚

 

天台

 (05380597)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、また智者大師と尊称する。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。荊州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、慧曠律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(0560)光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、32歳の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で8年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建7年(0575)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳3年(0585)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(0587)法華文句を講説した。開皇11年(0591)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し60歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂)によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

 

伝教

 (07670832)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬[]貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)滋賀郡に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦四年(0785)東大寺で具足戒を受け、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻、「山家学生式」等がある。

 

竜樹

 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の訳。0150年~0250年ころ、南インドに出現し大乗の教義を大いに弘めた大論師。付法蔵の第十三。新訳経典では竜猛と訳される。主著「中論」などで大乗仏教の空の思想にもとづいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。こうしたことから、八宗の祖とたたえられる。同名である複数の人物の伝承が混同して伝えられている。日蓮大聖人は、世親(天親、ヴァスバンドゥ)とともに、釈尊滅後、正法の時代の後半の正師と位置づけられている。著書に「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻、「中観論」(中論、中頌、中論頌、根本中頌ともいう)四巻等がある。

 

天親

 生没年不明。梵名ヴァスバンドゥ(Vasubandhu)、音写して婆薮槃豆。旧訳で天親、新訳では世親という。45世紀ごろのインドの学僧。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。その時、小乗に固執してきた非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後、舌をもって大乗を讃して罪を償うようにと諭され、大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」四巻など多数あり、千部の論師といわれる。

 

講義

 

法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云

 

 今、この法華経の第七の巻、薬王品第二十三の文を、日寛上人の御教示(薬王品談義)によって拝してみよう。

 初めに「後の五百歳」の意は、何であろうか。これについては、大集経に五箇の五百歳を明かしている。いわゆる釈尊滅後の五百年は解脱堅固である。次の五百年は禅定堅固である。ここまでが、正法一千年である。次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、ここまでが像法一千年である。次の五百年は「我が法中において闘諍言訟し・白法隠没」であり、末法の始めの五百年である。以上、釈尊滅後の五箇の五百歳、合わせて二千五百年を示している。今の薬王品の「後の五百歳」とは、最後の五百歳を示している。すなわち末法万年の中の始めの五百年にあたる。日本の歴史においては、人王七十代後冷泉天皇の時代、永承七年壬辰より末法になったといわれている。

 次に、大集経には第五の五百歳を白法穏没と説いているのに、薬王品には広宣流布といわれているのは、釈尊の自語相違ではないかとの疑問が生ずる。

 日寛上人は、この問いに答えて、大集経にいう白法という意味は、権教当分の白法であり、末法に入って、この権教当分の白法が穏没することを明かすのである。薬王品は南無妙法蓮華経の大白法が広宣流布することを明かすのであるとおおせである。

 妙楽の文句記の一卅九には「然るに五の五百とは且く一往に従る、末法の初め冥利無きにあらず」文とある。この文の意は、大集経の五箇の五百歳は爾前権教に付いて盛衰を説いての一往の論であって、末法において実大妙法の利益が滅無するのではない。ゆえに薬王品には「後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布」と説き、その天台の釈には「後の五百歳、遠く妙道に沾おわん」と説かれている。妙楽の指南の「冥利」とは、ただ在世の顕益に対していうのである。

 釈迦仏法の権教当分の白法が穏没し、南無妙法蓮華経の大白法が広宣流布することは、たとえば、闇が去れば明が来り、明が来れば闇が去る、これが同時であるようなものである。

 これは撰時抄の「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258:14)の仰せと少しも相違しないのである。

 次に薬王品には「後の五百歳」と説き、天台の文句には「後の五百歳、遠く妙道に沾おわん」とあるが、もしそうであるならば、妙法の利益は、ただ末法の始めの五百年に限るのかという疑問があるがそうではない。妙楽の文句記一卅九には「且く大教の流布すべき時に拠る故に五百と云う」とある。この文の意は、薬王品や法華文句の「後の五百歳」という文は、しばらく妙法大教の流布し始まる時を指している。しかし、実は、尽未来際までも流布すべしという意なのである。もし、そうでないなら、薬王品の次下の「断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」の文を、どのように解釈しようとするのか。報恩抄にいわく「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329:03)と。これ「後の五百歳広宣流布」とは末法万年、尽未来際まで南無妙法蓮華経が流布すること明らかではないか。

 次に「広宣流布」の文について、日寛上人は、次のような問答を示して、その真意を明かされている。

 問う、天台大師は像法五百年に出現して、三大部において法華経の義を尽くし、南北の邪義を破して法華経を弘通している。いわんや、また伝教大師は像法八百年に出世して、天台宗を弘宣するのみでなく、天台大師もいまだ立てなかった円頓の戒壇を比叡山に建立し、日本一同が法華経を信じた。これ像法の中に広宣流布したことではないか。

 答えていうには、法華経において、広略要がある。しばらく広略について論ずるのに三意がある。一には利生隠顕。いわゆる彼の像法の時は権小の利益もあったがゆえに法華の利生は独り分明でなかった。今、末法に入れば権小の利益隠没して法華経独り分明なるがゆえである。二には利生強弱。いわゆる彼の像法の時は利生弱く末法は強盛である。法華経薬王品の十喩の第三は月の譬である。薬王品得意抄にいわく「月はよいよりも暁は光まさり・春夏よりも秋冬は光あり、法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有る可きなり」(1501:08)と。三には像末正序。いわゆる彼の像法の弘通は、なお末法の序分である。下山御消息にいわく「世尊眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」(0346:10)と。本門とは迹門を簡び、寿量とは十三品を簡び、肝心とは文上の寿量品を簡ぶのである。

 次に肝要について論ずれば、これ天台未弘の大法である。いわゆる寿量文底の南無妙法蓮華経がこれである。つぶさに、これを談ずれば三大秘法である。すなわち妙法五字を図顕された大曼荼羅である。これすなわち本門の本尊である。本門の本尊所住の処は、すなわち本門の戒壇である。また本門の本尊を信じて妙法を口唱するのは本門の題目である。伝教大師の守護国界抄上にいわく「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機・今正しく是れ其の時なる、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と。撰時抄には、これらの文を引きおわっていわく「末法の始をこひさせ給う御筆なり、例せば阿私陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て悲んで云く現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生には無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず正像末にも生るべからずとなげきしがごとし、道心あらん人人は此を見ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや」(0260:07)と。これは末法において、三箇の秘法が流布するゆえんである。これ、しかしながら、法はみずから弘まるものではない。法を弘める人の如何により、法の弘通の先後が決定するのである。すなわち、末法今時に、日本に妙法が流布したのは、ひとえに日蓮大聖人の大慈大悲の弘通によるのである。報恩抄にいわく「三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、乃至時のしからしむる耳」(0328:16)と。

「閻浮提に弘宣流布して断絶せしむること無けん」の文についても、日寛上人は次のように示されている。

 問う、閻浮提の中に十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟散国がある。およそ物には先に始まる処があって後に広布する。たとえば天台宗のごときは釈尊所立の宗旨であるが故に天竺に始まる。禅、念仏、真言は人師の所立で大唐に始まる。今、三大秘法は閻浮提の中には何れの国に在って先ず始まるのか。答えて云うには、日本国に始まるのである。

 一には、弥勒菩薩の瑜伽論にいわく「東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有り」云云と。安然の普通授菩薩戒広釈にいわく「弥勒菩薩説きて云く東方に小国有り其の中に唯大乗の種姓のみ有りとは、日本国みな成仏すと知れり、豈其の事にあらざるにあらずや」云云と。

 二には肇公の法華翻経の後記にいわく「什云く予昔し天竺国に在る時、遍く五竺に游て大乗を尋討す。大師須利耶蘇摩より理味を飡稟し殷懃に梵本を付属す、云く仏日西に入りて遺耀将に東北に及ばんとす、茲の典東北に縁有り汝慎んで伝弘せよ」云云と。

 三には秀句の下にいわく「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり」云云と。唐の東・羯の西とは即ち日本国である。

 四には依憑集にいわく「我が日本天下の円機已に熟し円教遂に興らん」と。

 五には一乗要決にいわく「日本一州・円機純一・朝野遠近同じく一乗に帰し緇素・貴賤悉く成仏を期す」云云と。日本はすでに有縁にして円機は已に熟している。どうして先に広布しないわけがあろうか。

 六に遵式の天竺別集にいわく「始めは西より伝う月の生ずるがごとし今復東より返る日の昇るがごとし」云云と。顕仏未来記にいわく「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508:02)と。

 問う、日本国に六十余国、五百八十六郡、三千七百二十九郷がある。ともに法華を弘めれば、家その数相別れ、寺々は無量である。中において何れの国、何郡、何郷、何寺をもって根源となすのか。およそ天に二の日なく、国に二の王なし、仏法もまたしかるべし。止観の一に「流れを挹んで源を尋ね、香を聞いで根を討ぬ」とある。源不浄であれば流を挹むことはできず、根を知らないときは薬を用いることはできない。

 弘の一十五にいわく「像末の四依・仏化を弘宣し化を受け教を禀く。須らく根源を討ぬべし。もし根源に迷いぬれば則ち増上、真証に濫すか。もし香流・緒を失せば則ち邪説、大乗に混ぜん」文と。もし、しからば、この根源を知らなければならぬのではないか。

 答えていうには、根源とは、三大秘法である。

 問う、今世(日寛上人の時代)はすでに後の五百歳を過ぎている。どうして一同に南無妙法蓮華経ではないのか。また、どうして、いまだ広宣流布しないのか。

 答えていうには、これに二意がある。

 一には順縁広布。

 法華取要抄にいわく「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(0338:02)と。

 二には逆縁広布。

 顕仏未来記にいわく「諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し」(0507:05)と。

 もし逆縁に約すならば広宣流布である。もし順縁に約せば、未だ広布ではないが、後の五百歳の中より、漸々に流布することは疑いないものである。もし、この一事虚しければ世尊は大妄語、法華経も虚説となるのである。どうして仏の説が妄語となることがあろうか。仏説の如く日本国一同に流布すべきである。報恩抄にいわく「『我滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便りを得せしむること無けん』等云云、此の経文若しむなしくなるならば舎利弗は華光如来とならじ迦葉尊者は光明如来とならじ目犍は多摩羅跋栴檀香仏とならじ阿難は山海慧自在通王仏とならじ摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏とならじ、三千塵点も戯論となり・五百塵点も妄語となりて恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち多宝仏は阿鼻の炎にむせび十方の諸仏は八大地獄を栖とし一切の菩薩は一百三十六の苦をうくべし・いかでかその義候べき、其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり」(0329:08)と。

 以上が、日寛上人の法華経薬王品第二十三の文「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無かれ等云云」についての講義である。

 すなわち、日寛上人は、末法において必ず日蓮大聖人の大仏法すなわち三大秘法の南妙法蓮華経が、わが国より全世界に広宣流布すべきことを、大確信をもって論ぜられているのである。

 とくに、日寛上人の時代は、広宣流布といっても、逆縁の広宣流布の時であった。しかるに日寛上人は、順縁の広宣流布も、絶対に確信しておられたのである。

 今や、日蓮大聖人の御予言のままに、そして日寛上人の大確信のごとく、順縁の広宣流布の時代がやってきたのである。これすなわち末法の御本仏、日蓮大聖人の大慈大悲のゆえであり、また時のしからしむるのみといわざるをえない。そして、創価学会が、この順縁広布の大業を担わせていただくのは、何たる光栄、何たる喜びであろうか。広布の華と散られた初代先生、戸田先生の死身弘法の学会精神をわれらが胸にして、勇躍、大前進しようではないか。

 

亦一たびは喜んで云く、何なる幸あって後の五百歳に生れて、此の真文を拝見することぞや

 

「予一たびは歎いて云く……」の御文によると、大聖人は、仏の在世及び竜樹、天台、伝教等にあえなかったことを、わが罪障なりと一たびは歎かれているようにみえるが、真実はこのように、薬王品の「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」の真文にあわれたことを喜ばれているのである。

 真実の仏法にあうことの難しさは、あるときには一眼の亀の浮木の穴にあうことに譬えられ、ある場合には、三千年に一度しか咲かないといわれる優曇華に比較されている。なぜならば、方便品に「諸仏の世に興出したまうこと 縣遠にして値遇することは難し」等とあるように、仏が世に出現するのは極めて希であり、たとえ世に出現しても真実の法門はなかなか説かない。また、たとえ説いたとしても信受する者は、これまた希だからである。

 ここでいう真実の法門とは、いうまでもなく事の一念三千・人法一箇の三大秘法の南無妙法蓮華経のことである。三世十方の諸仏も皆この妙法によって成仏したのであり、皆ことごとく南無妙法蓮華経の広宣流布の時節に生まれあわせることを請い願っていたのである。釈尊の法華経が勝れている所以も、その文底に三大秘法の南無妙法蓮華経が秘沈されていたからにほかならない。ゆえに撰時抄に「法華経の流布の時・二度あるべし所謂在世の八年・滅後には末法の始の五百年なり、而に天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて末法の始をこひさせ給う御筆なり」(0260:05)と大聖人は仰せられているのである。ここに「末法の始をこひさせ給う御筆なり」とは、天台の「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」、妙楽の「末法の初め冥利無きにあらず」、伝教の「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り」等の文を指しているのである。

 このように像法の教主・天台すら願望していた三大秘法の広宣流布の時に生まれあわせたことを、日蓮大聖人は喜ばれているのである。否、すでに竜の口で発迹顕本され、久遠元初の自受用報身如来の御内証を開発せられた大聖人にあっては、本地難思・境智冥合・久遠元初自受用報身如来の当体の御本尊を広宣流布すべき時を迎えられたことを心から喜ばれているのである。今日のように順縁広布の時に生まれあわせたわれわれにとっては、広宣流布といっても決して夢のような言葉ではない。しかし上一人より下万民にいたるまで、国をあげて悪口誹謗しているなかで「広宣流布の時を指すか」と仰せられ、喜びにあふれているご心境は到底凡夫の及ぶところではない。しかも大聖人の弟子檀那の数は少なく一宇の寺院もなく、御自身は、ほとんど御一生を迫害のなかで過ごされている。

 実に大聖人の御境涯は、常に諸仏・諸菩薩の功徳の雲集せる境地に立ち、大確信に満ちみちておられたのである。

 聖人知三世事にいわく「幸なるかな楽しいかな穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」(0975:02)と。また四菩薩造立抄にいわく「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり」(0998:14)とある。

 特に余人には到底耐えられそうもない、極寒の佐渡において、絶えず死の恐怖に直面されているなかで「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360:10)、「経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし」(0203:06)と仰せられ盤石の巌のような揺るぎなき確信に立たれておられる。

 この御抄を著わされた大聖人のご心境を戸田先生は次のように述べている

「この顕仏未来記を拝し、また他の御書を拝読するにあたり、御本仏日蓮大聖人の澄みきったご心境が如実にうかがわれる。成仏の境涯とは絶対の幸福境である。何ものにも犯されず、何ものにも恐れず、瞬間瞬間の生命が澄みきった大海のごとく、雲一片なき虚空のごときものである。この境涯が大聖人の佐渡ご流罪中のご境涯である」と。

 

 

第二章(未来の留難を明かす)

問うて云く後五百歳は汝一人に限らず何ぞ殊に之を喜悦せしむるや、答えて云く法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」文、天台大師云く「何に況や未来をや理・化し難きに在り」文、妙楽大師云く「理在難化とは此の理を明すことは意・衆生の化し難きを知らしむるに在り」文、智度法師云く「俗に良薬口に苦しと言うが如く此の経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ故に凡を斥ぞけ聖を呵し大を排し小を破る乃至此くの如きの徒悉く留難を為す」等云云、伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の始・地を尋れば唐の東・羯の西・人を原れば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉・況滅度後と此の言良に以有るなり」等云云、此の伝教大師の筆跡は其の時に当るに似たれども意は当時を指すなり正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有りの釈は心有るかな、経に云く「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」云云、言う所の等とは此の経に又云わく「若は夜叉・若は羅刹・若は餓鬼・若は富単那・若は吉遮・若は毘陀羅・若は犍駄・若は烏摩勒伽・若は阿跋摩羅・若は夜叉吉遮・若は人吉遮」等云云、此の文の如きは先生に四味三教・乃至外道・人天等の法を持得して今生に悪魔・諸天・諸人等の身を受けたる者が円実の行者を見聞して留難を至すべき由を説くなり。

 

現代語訳

問うていうには、後の五百歳の記文は別にあなた(日蓮大聖人)一人を対象として説いたものではないのに、どうして特にこのことを最上の喜びとしているのか。

答えていうには、法華経第四の巻、法師品には「仏の在世中さえ、なお怨嫉が多いのであるから、ましてや仏の入滅の後には、さらに大きい怨嫉が競い起こるであろう」といっている。天台大師も法華文句に、この法師品の文を「仏の在世においても、なお怨嫉が多い。まして仏滅後の末法においてはなおさらである。その理由は、なかなか教化し難いところにあるのである」と記している。妙楽大師は、さらに法華文句記に「理在難化とは、この理由を明かす真意は、末法の衆生が教化し難いことを知らしめることにある」と釈している。

智度法師は天台法華疏義讃に「俗世間のことわざに〝良薬口に苦し〟というように、この法華経は、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗が人生の目的であるという偏見に執着することを打ち破って、人生の目的はただ一つ、成仏することであると、即身成仏の根本の宗旨を立てる。故に、人においては爾前の凡位の者をしりぞけ、聖位の者を訶責し、法においては、諸の大乗を排し、小乗を破折する。乃至そのために、このように破折をうけた五乗・凡聖の徒輩が、皆、身命に害を加えて正法流布を妨げる」と述べている。

伝教大師は法華秀句下に「妙法が流布するのは、その時を論ずれば、像法の終わり末法の始めである。その出現する国土は、中国の東、摩羯国の西、すなわち日本国にほかならない。教えをうける衆生を尋ねれば五濁悪世の末法に生をうけた本未有善の衆生であり、闘諍堅固の時代の人である。故に、法華経法師品に『如来の現在にすら猶怨嫉が多い、况や滅度の後をや』と予言しているが、これはまことに深いわけのある言葉である」等といっている。

この伝教大師の秀句の文は、一見これを著わした大師の時代に相当するようにみえるが、実に本意は末法の始めである今を指しているのである。「正法千年、像法千年も大体過ぎおわって、末法がはなはだ近くになった」との釈は、実に深い心をもった言葉ではないか。

また薬王品には「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉・鳩槃茶等の悪鬼魔神がつけこんで、さまざまな災いをなすであろう」と説かれている。この中の「等」とは、この陀羅尼品に、「あるいは夜叉・あるいは羅刹・あるいは餓鬼・あるいは富単那・あるいは吉遮・あるいは毘陀羅・あるいはは犍駄・あるいは烏摩勒伽・あるいは阿跋摩羅・あるいは夜叉吉遮・あるいは人吉遮」等をいうのであると。この文は、先の世において爾前権教である四味三教、ないし外道・人天等の法を持得して、その結果、今生には悪魔や諸天竜、諸人等の身を受けた者が、円教であり実教である法華経の行者を見聞して、その行者に種々の難を加えるであろうということを説いているのである。

 

語釈

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(現在の江蘇省宜興市)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。直弟子に、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道・行満がいる。

 

智度法師

生没年不詳。中国・唐代の僧。妙楽大師の弟子。法華文句の注釈書である「法華経疏義纘」(天台法華疏義讃)六巻を著した。東春という地に住んでいたことから、彼ならびにその著作も「東春」と呼ばれる。「智度」の読みは天台宗では伝統的に「ちたく」とする。

 

摩羯国のこと。羯とは靺羯摩羯)で六世紀半ばから約一世紀の間、中国東北部の松花江流域に住したツングースの一種族を隋唐時代にこう呼んだ。当時の地理の知識では、中国大陸は日本の西方から北及び東にまでわたって広がっていると考えられていた。

 

夜叉

薬叉とも書く。梵語ヤクシャ(Yaka)の音写。勇健と訳す。樹神など古代インドの民間信仰の神に由来し、猛悪な鬼神とされる。仏教では八部衆の一。多聞天(毘沙門天)の眷属で、北方を守護する。

 

鳩槃荼

梵名クンバーンダ(Kumbhāṇḍa)の音写。人の精気を吸う、馬頭人身の鬼神。仏教では増長天の眷族で、南方を守護する。

 

羅刹

梵語ラークシャサ(Rākasa)の音写。可畏と訳す。人をたぶらかし、血肉を食うという悪鬼。男は醜悪で、女はきわめて美麗という。速疾鬼ともいう。仏教では多聞天(毘沙門天)の眷属で、夜叉と共に仕え、北方を守護する。

 

餓鬼

梵語プレータ(Preta)、音写して薜茘多、訳して餓鬼である。

 

富単那

梵語プータナー(Pūtanā)の音写。陀羅尼品にあげられている餓鬼の梵名。餓鬼のなかでも福が最勝な者。仏教では広目天の眷属で、西方を護る。

 

吉遮

怨ある人を害する働きをする悪鬼。

 

毘陀羅

梵語ヴェーターラ(Vetāla)の音写。赤色鬼で屍鬼ともいう。人の死体を操り、生者に害を成すと言われる。四夜叉の一。

 

犍駄

健陀、犍陀羅とも書く。黄色または赤色の鬼神。嘉祥の義疏巻十には赤色鬼とある。四夜叉の一。

 

烏摩勒伽

黒色で、人の精気を餌とする鬼。四夜叉の一。

 

阿跋摩羅

梵語アパスマーラ(Apasmara)の音写。人を悩ます鬼。天台の法華文句には青色鬼とある。四夜叉の一。

 

夜叉吉遮・人吉遮

怨ある人を害する働きをする悪鬼。人の悪鬼なるを人吉遮といい、夜叉なるを夜叉吉遮という。

 

講義

この章は、日蓮大聖人御一人がどうして喜ばれるのであろうかとの問いに対して、末法の法華経の行者には必ず留難があるという仏の予言、天台・妙楽・智度・伝教の予言をもって、円実の行者、末法の法華経の行者としての留難を証明されたものである故に、大聖人は殊に喜悦されているのがこの章である。

一重立ち入れば、仏の未来記、滅後の人師の末法への渇仰によって末法の御本仏、日蓮大聖人の出現を明された章なのである。

 

仏在世と滅後の留難の相

 

(一)仏在世の留難

釈尊の出現により、インドの六師外道、さらには九十五派の婆羅門はことごとく邪道とされたのである。すなわち釈尊出現以前の婆羅門の姿は開目抄上に「仏・出世に当つて六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり」(0187:01)とあるごとく、九十五派の婆羅門は四韋陀、六万蔵を聖典となして、勝手気ままな義を立て、修行をしていたのである。だが釈尊の出現により、華厳(権大乗)をもって一切の婆羅門の義は破られて、正法が大いに弘まった。

だが陰に釈尊は九横の大難をわが身に、わが門弟に受けたのである。釈尊を慕って集まった声聞は外道婆羅門の家の出身者で、ある者は高貴の種姓を、ある者は富裕を等々、みなふり捨てて釈尊の下に馳せ参じたのである。そして、裸一貫となり、慢心を打ち捨て、俗服を脱ぎ、糞衣をまとい、釈尊に従ったのである。それだけに婆羅門の敵視は厳しく、あまつさえ国中ことごとく外道の弟子、檀那であったために、当時の釈尊に対する迫害は言語を絶するものがあった。

阿耆多王が遊楽に耽って、釈尊とその弟子、五百の僧に供養を忘れ、九十日の間、馬の餌である麦を食べたり、孫陀梨が釈尊は過去世に私を殺して自分だけ仏になり、その罪を辟支仏に転嫁したと謗じたり、釈尊があるとき阿難をともない、乞食の修行をしているとき、年老いた下婢が、供養する物がないために腐った米のとぎ汁を供養したのを、婆羅門は見て臭食の報いであると釈尊を謗る等等の迫害を受けたのである。

さらに大きな難として提婆達多が釈尊をなきものにしようとして、耆闍崛山の山上で釈尊を待ち受け、長さ三丈、幅一丈六尺もの大石を落とした。だが諸天の加護により、大石は当たらず、小石が散って釈尊の足の親指に当たり、血を出した。さらに提婆にそそのかされた阿闍世王は、父を幽閉して新王となり、釈尊を殺して提婆を閻浮提第一の師とするために、象に酒を飲ませて、釈尊の一行の中に放ち多くの犠牲者を出した。憍薩羅国の波瑠璃王は、父の波斯匿王が欺かれて釈迦族の卑賤な婢と結婚をしたのを恨んで、即位後、釈迦一族を数多く殺した等々、釈尊にふりかかる大難は九つを数え、小さな迫害にいたっては枚挙にいとまがない。九横の大難の内容は、経文、御書により若干の相違がある。

興起行経には「孫陀利の謗、奢弥跋の謗、頭痛、骨節痛、背痛、木槍刺脚、調達擲石、栴遮の謗、食馬麦、苦行」とある。大智度論には「孫陀利謗、栴遮女謗、提婆推山、迸木刺脚、琉璃殺釈、一夏馬麦、冷風背痛、六年苦行、乞食空鉢」とある。日蓮大聖人の諸御抄の中にも九横の大難が引用されている。

たとえば、開目抄に「仏すら九横の大難にあひ給ふ、所謂提婆が大石をとばせし阿闍世王の酔象を放ちし阿耆多王の馬麦・婆羅門城のこんづ・せんしや婆羅門女が鉢を腹にふせし、何に況や所化の弟子の数難申す計りなし、無量の釈子は波瑠璃王に殺され千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼は提婆にがいせられ迦廬提尊者は馬糞にうづまれ目犍尊者は竹杖にがいせらる、其の上六師同心して阿闍世・婆斯匿王等に讒奏して云く『瞿曇は閻浮第一の大悪人なり、彼がいたる処は三災七難を前とす』」(0205:18)と述べられている。

 

(二)仏滅後の留難

 

(1)正法時代の留難の相

正法年間に留難は比較的に少なかったが、その少ない時代でも正法弘通のために留難を受けた師として、馬鳴・竜樹・迦那提婆・如意論師・師子尊者をあげることができる。馬鳴は仏滅後六百年、竜樹は仏滅後七百年に出現して、小乗ならびに外道を破して大乗を立てたのである。

しかしながら当時の衆生は、小乗に執着して、次の理由によって迫害を加えたのである。その一つは仏の第一、第二の弟子たる迦葉、阿難が一代仏法の肝心として、苦・空・無常・無我を説いたのであって、この法門こそ仏法の詮要である。馬鳴、竜樹がいかに勝れ、賢明であっても、迦葉尊者、阿難尊者よりも勝れるわけがないではないかとする。その二は迦葉は直接に釈迦仏にあって相承された尊者であって、馬鳴、竜樹は仏にあわないではないかという。

以上の理由により「おそらくは釈迦仏の入滅後にしかも迦葉・阿難が死んで、第六天の魔王がこの馬鳴・竜樹らの身に入って、仏法を破り外道を弘めようとするものである」と考え、「馬鳴・竜樹らは仏教の怨敵であるから、頭を破り、首を切れ、また命を断て、食をとどめよ、国を追い払ってしまえ」といって小乗教の信者は激怒し、昼も夜も悪口をいい、杖や木でさんざんに打ったのである。

なお馬鳴についてさらにいえば、中天竺・摩訶陀国華氏城に遊化していたとき、迦膩色迦王が兵を起こして攻めてきて、交戦の結果、華氏王は破れ、迦膩色迦王は九億の金を求めた、そこで華氏王は、馬鳴と仏鉢と一つの慈心鷄をもって各三億にあて迦膩色迦王に奉献したのである。

仏滅後七百五十年頃、南インドに出現した付法蔵第十四竜樹の弟子・迦那提婆は南天竺の王が外道に帰依しているのを救おうと、宿衛となって王宮に入り、王に大乗教が最勝の仏法であることを説き、もし論士がわが義を破ったならば、首を切ってわびようと王に誓った。そこで王は、外道の各派にこの旨を通達し、論士を集め討論させたが、ことごとく提婆に論破されたのである。だが、ある外道の弟子が師匠の屈辱を恥じ、王宮より出る提婆を待ち受けて害を加えたのである。しかし提婆はこれを許し、弟子が仇討ちしようとするのを制して命絶したのである。

仏滅後九百年頃、天親の師、如意論師は室羅伐悉底国の毘訖羅摩阿迭多王に私怨を抱かれ、小乗多部派の学者百人を相手に、王の前で討論し、九十九人まで屈服せしめたが、最後の一人と国王のために恥ずかしめを受けた。そのときの論師は「党援の衆と大義を競うことなかれ、群迷の中に正論を弁ずることなかれ」と天親に遺誡し、自ら舌をかみ切って死んだのである。

仏滅後千二百年前後、中インドに出現した師子尊者は鶴勒夜那について仏法を学び、罽賓国で仏法を弘めたが、国王檀弥羅のために殺され、付法蔵二十四人の最後として伝持を断つのである。師子尊者が檀弥羅王に殺された理由に二説ある。一説によると、王は邪見が強くて多くの寺塔を破壊し、多くの僧をも殺害し、ついに師子尊者を殺したとする説で、もう一説は、師子尊者が罽賓国に遊化して衆生を化導し、仏法を宣揚した。このために二人の外道が恨んで相謀って乱を起こし、仏弟子の姿をして王宮に潜入してわざわいをなしたために、檀弥羅王は誤解し怒って師子尊者の首をはねたというものである。以上が正法時代における留難である。

報恩抄に「付法蔵の人人は四依の菩薩・仏の御使なり提婆菩薩は外道に殺され師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ仏陀密多・竜樹菩薩等は赤幡を七年十二年さしとをす馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり如意論師はおもひじにに死す。此れ等は正法・一千年の内なり」(0297:17)とあるのがそれである。

 

(2)像法時代の留難の相

像法千年の間では、天台・伝教の難に代表される。天台大師が南三北七の教義を破して法華経迹門・理の一念三千を明かすことにより、中国全土の衆生は法華経こと仏の重要な法門であることを知り正法流布がなされた。したがって生存中はあまり難を受けなかった。天台大師の死後、玄奘三蔵が天竺に渡り、唐の貞観十九年、月氏より帰って法相宗を開き、「法華経は一切経には勝れたれども深密には劣る」といって法華経を謗じ、則天武后の時代に法蔵法師が出て、天台大師によってせめ落とされた華厳経に、その後、訳された新訳の華厳経の助けを借りて華厳宗を開いた。こうしてまた権実雑乱し、わが国の法相宗の僧・得一(会津徳一)などは「つたないかな智公(天台)よ、汝はこれ、誰の弟子であるか。三寸に足らざる舌根をもって釈尊一代の所説を謗じ、世間を迷わしている」と悪口し、加えて「豈是れ顚狂の人にあらずや」と天台大師を気違い扱いまでしたのである。

次に伝教大師は桓武天皇の時代に出現して、天台大師の五時八教、理の一念三千、三諦円融の法門等の最高の法理を顕揚して、当時の日本にあった華厳宗、法相宗、三論宗、俱舎宗、成実宗、律宗の南都六宗をことごとく破折したのである。破折の根本書としての顕戒論に、当時の悪口雑言の由を「六人の僧統が天皇に上奏していうには、西のインドに逆説的理論をもてあそぶ鬼弁婆羅門があり、東の国の日本には巧みな言葉をもって民衆を惑わす禿頭沙門(伝教)がいる。これらは共に同類の輩で自然と集まって世間を誑惑している」と難じたとある。

以上、天台・伝教の留難について述べたが、まったく「况滅度後」と予言にいわれるような難は受けていないのである。

 

(3)末法の留難と円実の行者

正法時代には、迦那提婆、如意論師、師子尊者が仏法のために死を賭したものの、法華経の故ではなく、像法時代においては、天台、伝教が法華経を弘通したが、さしたる難は受けていないのである。ここに末法の御本仏の出現の必然性があり、法師品の「况滅度後」の予言を身業読誦されたのは、まさしく日蓮大聖人お一人なのである。

法華行者逢難事に「夫れ在世と滅後と正像二千年の間に法華経の行者・唯三人有り所謂仏と天台・伝教となり(中略)竜樹・天親等の論師は内に鑒みて外に発せざる論師なり、経の如く宣伝すること正法の四依も天台・伝教には如かず、而るに仏記の如くんば末法に入つて法華経の行者有る可し 其の時の大難・在世に超過せん」(0966:09)と。

すなわち、日蓮大聖人は建長5年(1253428日、安房国長狭郡の内、東条の郷、清澄寺にある諸仏坊の持仏堂の南面にて、全世界の民衆を救済するところの南無妙法蓮華経を唱えられたのである。

しかる後の蓮祖大聖人の御振舞いは大聖人門下であれば周知のとおり、大白法弘通のために死身弘法をなされた。大聖人ならびに御門下の戦いは壮絶を極め、北条幕府の迫害は日を追って激しさを増したのである。

聖人御難事に「而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず」(1189:13)と。

よって一往、正法の竜樹・天親、像法の天台・伝教の留難と末法の日蓮大聖人のそれとを比較すれば、大聖人の難は正像の正師に比較にならないほどの大難である。これらの現証をもってしても、釈尊の予言たる末法の法華経の行者は日蓮大聖人である。

同じく聖人御難事に「仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189:18)と。

再往、論ずれば仏在世の九横の大難に超過する大聖人の留難の相貌こそ、まさしく末法の御本仏としての証明である。だが大聖人はつねに御謙遜なされ「仏の使いなり」「喜い哉况滅度後の記文に当れり」と申されているために、門下五老僧ですら大聖人の正意がわからずにいるのである。まったく師匠の心を知らぬ不肖の弟子達である、といわざるをえない。

日蓮大聖人こそ末法の御本仏であり、本地は久遠元初の自受用身であり、外用は上行菩薩の姿であって、内証は久遠元初の自受用報身の再誕なのである。

正しくわれわれこそ日蓮大聖人の真の門下として、喜悦を共に味わえる福運を強く感ずるものである。

 

 

 

第三章(末法の弘通の方軌を明かす)

本文

 

  疑つて云く正像の二時を末法に相対するに時と機と共に正像は殊に勝るるなり何ぞ其の時機を捨てて偏に当時を指すや、答えて云く仏意測り難し予未だ之を得ず試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘うるに正法千年は教行証の三つ具さに之を備う像法千年には教行のみ有つて証無し末法には教のみ有つて行証無し等云云、法華経を以て之を探るに正法千年に三事を具するは在世に於て法華経に結縁する者か、其の後正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し小乗の証を得るなり、像法に於ては在世の結縁微薄の故に小乗に於て証すること無く此の人・権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず、末法に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有つて行証無し大乗には教行のみ有つて冥顕の証之無し、其の上正像の時の所立の権小の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり、仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵よりも多く正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり、此の時に当つて諸天善神其の国を捨離し但邪天・邪鬼等有つて王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し法華経の行者を罵詈・毀辱せしむべき時なり、爾りと雖も仏の滅後に於て四味・三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり。

 

現代語訳

疑っていうには、正法・像法の二時を末法と比べてみると、時も衆生の機根も、共に正像は末法よりも特に勝れている。それなのに薬王品の後五百歳の文は、どうしてその勝れた正像の時と機とを捨てて、ひとえに末法を指しているのであるか。

答えていうには、仏の御本意は凡夫には測りがたいので、まだ予(日蓮大聖人)もこのことは証得していない。だが試みに一義を考えてみると、まず小乗教をもって正像末の三時を考えてみると、正法一千年間には教行証の三つが完全にそなわっている。像法一千年には教と行だけがあって証果は無いのである。末法には小乗教は教だけあって行証は無いのであるといわれている。

そこで法華経をもってこの教行証について考えてみると、正法千年の間に教行証の三つをそなえているのは、釈尊在世において法華経に結縁した者であろうか。これらの人が正法に生まれて小乗教の教行を縁として、小乗教の証果を得るのである。像法においては、釈尊在世の法華経との結縁がきわめて薄いために、小乗教で証果をうることはなくて、この種類の人は権大乗教を縁として、十方の浄土に生ずるのである。

ところが末法においては、大乗教・小乗教の益は共に無いのである。まず小乗教は教だけは残っているが、行証は無くなっている。次に、大乗教においては、教行だけは残っているが、冥益、顕益の証はまったく無くなっている。そのうえ正法・像法時代に立てたところの小乗教・権大乗教の二つの宗派は漸次に末法に入ってからは、その執着心がいよいよ強くなって、小乗教で大乗教を批判したり、権教の教義で実教の教義を破ったりして、国中はこうした謗法を犯す者で充満している。そのために仏教を誤って三悪道に堕ちる者は大地微塵よりも多く、正法を修行して遂に成仏する者は、爪の上の土よりも少なくなっている。こういう時期に当面して諸天善神はその国を捨てて離れてしまい、ただ邪天・邪鬼だけがいて王臣・比丘・比丘尼等の身体や心の中に入り住んで、これらの人々に法華経の行者に対し悪口をいったり、そしりはずかしめたりさせる時になっている。

しかしながら、そうであっても、如来滅後五五百歳において、四味・三教等への邪まな執心を捨てて実大乗教たる法華経(末法の法華経)に帰依するならば、諸天善神ならびに地涌千界を中心とする一切の菩薩は必ず法華経の行者を守護するであろう。そしてこの人は、この諸天善神や地涌の菩薩などの守護の力を得て、本門の本尊・南無妙法蓮華経を一閻浮提に広宣流布させていくであろう。この姿はたとえば、威音王仏の像法の時に、不軽菩薩が「我深敬」等の二十四字の法華経をもって彼の国土に広宣流布して、一国全体から杖や棒で迫害されるという大難を呼び起こしたようなものである。不軽菩薩の二十四文字と(日蓮大聖人の)この五文字とは、その語は異なるといっても、下種の妙法であるという意は同じであり、その時の像法の末と今の末法の初めとは、逆縁に下種して救うという弘法の方軌がまったく同じなのである。また不軽菩薩は、初随喜の人であって、日蓮は名字即の凡夫であり、同じく本因妙の法華経の行者なのである。

 

語釈

教行証

教法・行法・証法のこと。三法ともいう。①教は仏の説いた教法。②行は教法によって立てた修行法。③証は教・行によって証得される果徳。日蓮大聖人は、末法では在世結縁の者がおらず、教のみあって行・証がない時代とされている。

 

地涌千界

無数の地涌の菩薩のこと。千界は千世界のこと。法華経如来神力品第二十一には「千世界微塵等の菩薩摩訶薩の地従り涌出せる者」とあり、地涌の菩薩は千の世界をすりつぶしてできる微塵ほどに数が多いと説かれている

 

威音王仏

法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる仏。同品によれば、はるか過去に大成国を、威音王という二万億の同名の仏が順番に主宰し、衆生を教化してきた。そのうち最初の威音王仏が入滅した後の像法時代に、増上慢の比丘の勢力が大きくなっていた。その時に不軽菩薩が現れたという。

 

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる常不軽菩薩のこと。釈尊の過去世における修行の姿の一つ。威音王仏の像法の時代に仏道修行をし、自らを迫害する人々に対してさえ、必ず成仏できるという言葉、「我れは深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(鳩摩羅什の漢訳では二十四文字なので「二十四文字の法華経」という)を唱えながら、出会ったすべての人を礼拝したが、増上慢の人々から迫害された。この修行が成仏の因となったと説かれる。

 

初随喜の人

法を聞いて随喜の心を起こす人。初随喜とは法華経修行の最初の位であり、信心修行の段階を四信五品の九種に分けて説かれるうち、五品の最初の位をいう。分別功徳品第十七に「又復た如来の滅後に、若し是の経を聞いて、毀訾せずして、随喜の心を起こさば、当に知るべし、已に深信解の相と為す」とある。毀訾すなわち悪口をいわないで随喜の心を起こす人のことである。

 

名字の凡夫

名字は名字即の位のこと。名字即の位に住する凡夫である。天台大師は法華経を修行する人の位を理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即位に分けた。名字即はその第二であり、初めて仏法の信仰にはいった位をいう。日蓮大聖人の仏法には、修行の段階はない。「即身成仏」のゆえに名字妙覚という。名字即の凡夫が御本尊を拝んで、仏の生命を覚知したときが、即ち妙覚の仏である。三世諸仏総勘文抄には「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」とある。

 

講義

この章は、末法に三大秘法の御本尊が広宣流布することを明かしている。初めに教行証に約して、末法こそ、妙法が弘通される時にあたり、また衆生も妙法蓮華経の下種を受けて成仏得道する機根であることが示されているのである。

 

教行証について

 

この段では教行証と時代との関係を一往・再往に分けて述べられている。すなわち、最初の部分は小乗経を中心とした通途の説を、次の部分は法華経の立場から論ぜられているのである。

いま「小乗経を以て之を勘うるに、正法千年は教行証の三つ具さに之を備う。像法千年には教行のみ有って証無し。末法には教のみ有って行証無し等云云」と述べられているが、この通途の説はむしろ教行証による正像末三時の定義にあるといってよい。

大乗法苑義林章には「教行証の三を具するを名づけて正法となし、但だ教行のみあるを名づけて像法となし、教あり余なきを名づけて末法となす」とあり、また仁王経疏(良賁著)に「教あり行あり得果あるを名づけて正法と為し、教あり行あり果証なきを名づけて像法と為し、唯其教のみありて行なく証なきを名けて末法と為す」と。

次に、正法・像法が一千年ずつであるということは大集経に依るのである。すなわち釈尊は大集経巻五十五に未来の時を予言して「我が滅後において五百年中は、諸の比丘等猶我が法において、解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固を住するを得るなり。次の五百年は、我が法中において、多くの塔寺を造りて、堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中において、闘諍・言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。このうち第一(解脱堅固)と第二(禅定堅固)が正法時であり、第三(読誦多聞堅固)と第四(多造塔寺堅固)が像法時であり、第五の五百年(闘諍堅固)は末法の始めであり、すなわち今日のことである末法には「教のみ有つて行証無し」の定義をもってみるならば、釈尊の一切の経教には今日の衆生に利益を与える力が全くないことは明らかなのである。したがって、現在が末法であることを認めながらも、なお、釈尊の経典によって救おうという念仏、真言等の諸宗は、釈尊の教えをわきまえぬ者であり、自らの主張が自語相違するのにも気づかず、無知をさらけだしているのである。

次に「法華経を以て之を探るに」として、再往の立ち場から通途の説をみるならば、正法時代に小乗教で得道した衆生も、その原因をたずねれば在世に法華経に縁したがためであると明かされている。教行証御書にいわく「仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機の熟否に依り円機純熟の者は在世にして仏に成れり、根機微劣の者は正法に退転して権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し、されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有つて証無し、今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり」(1276:03)と。

以上、明らかなように、一往・再往いずれにしても釈迦仏法はもはや力はないのである。釈迦仏法の衆生は、歴劫修行を経てきた本已有善の衆生であるのに対し、末法に出現する衆生は、以前に下種を受けていない本未有善の荒凡夫なのである。

したがって、末法の衆生は、たとえ法華経といえども釈尊の教えで得道できないことは明瞭である。末法は、ただ、寿量文底下種、事の一念三千の南無妙法蓮華経以外にないのである。

上野殿御返事にいわく「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)と。また、教行証御書にいわく「此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(1276:06)と。

したがって、現在を末法というのは釈迦仏法の末法であって、日蓮大聖人の仏法にはあてはまらない。日蓮大聖人の仏法には、教行証が厳然と備わっているのである。

いま、世界の有智の人々は、偉大なる宗教を真剣に模索し、眼を東洋に、そして日本に向けている。我々は、この二十一世紀の黎明を開いていく宗教は、まさに教行証兼備の大宗教でなくてはならないと心から叫ぶものである。

さて、大聖人の仏法における教行証を論ずるならば、教とは、大聖人の仏法であり、いかなる時代、いずこの世界にあっても不変の哲理であり、万人の宗教である。行とは、勤行唱題および折伏行であり、さらに広宣流布していくことが、まさに行である。証とは、生命、そして生活の上に偉大な功徳の花を咲かせていくのが証である。今、何百万人の人々の当体の上に、生活の上に厳然と実証されているのである。

 

此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか

 

末法今日にあって、正しく三大秘法の御本尊を世界に広宣流布していくことを明かされている。「本門の本尊」とは三大秘法の御本尊であり、本抄より二十日ほど前に著わされた観心本尊抄にて、末法の観心の本尊、すなわち本門の本尊の解明がなされている。

だが「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(025408)と仰せのごとく、広宣流布を明確に示されていない。これは観心本尊抄が御本尊開顕が正意であったからであると思われる。

したがって、本抄において世界広宣流布の実践の方途が示されたことは重大な意義があるといえよう。この時は、諸天善神、地湧の菩薩の守護の力によって実現することができると仰せである。

諸天善神とは、なにも絵に描かれたようなものが、どこかにいるのではなく、生命の本質に備わる働きにほかならない。仏の生命にせよ、われわれの生命にせよ、ことごとくこれらの働きが備わっている。さらに国土も、否、大宇宙それ自体が一個の偉大なる生命体である。そしてこれらの働きは大宇宙に遍満しているのである。諸天善神の働きとは、これら宇宙の働きのなかで、われわれの生活を守護する「働き」をいうのである。

治病抄に「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(099707)とあるごとく、御本尊によって、仏界が顕現したときに、われわれの生命のなかに、梵天・帝釈の力が働きだし、いかなる災難、いかなる圧迫も克服していくことができるのである。宇宙のさまざまな事物や現象、すなわち天体の働き、太陽の光、星辰のまたたきであれ、雨や風であれ、山川草木であれ、動物であれ、人間であれ、すべてがわれわれの幸福実現へと働き動くのである。世界広布という大偉業実現へのわれわれの実践活動に対しても、諸天が守護するのは当然といえよう。

また、地涌の菩薩が守護するとは、われら妙法を持っ同志が一致団結して、世界広布達成目指して活動していることを意味する。かような人類未曾有の大業は、少数の人々によって達成されるものではなく、己々の使命に目覚めた六万恒河沙の地涌の菩薩およびその眷属、さらに諸天の加護を得て実現されるのである。

 

威音王仏の像法の時・不軽菩薩……彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり

 

この文は、末法の法華経の行者、日蓮大聖人と、不軽菩薩の関係を示されているところである。すなわち法華経不軽品には、威音王仏の像法時に、悪口罵詈、杖木瓦石の難にあいながら二十四文字の法華経を説き礼拝を行じた菩薩のことが説かれている。

この菩薩は、迫害を加えた衆生に向かって「但行礼拝」といって、もっぱら礼拝を行ない「汝等を軽んぜず。汝等は当に作仏すべし」と衆生の具している仏性を信じ敬って、常に説いたので常不軽と名づけるのである。

一方、不軽菩薩に迫害を加えた、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の上慢の四衆は、この因によって、一度は地獄に堕ちるのであるが、逆縁によりまた不軽菩薩と共に生まれ、法華経を信じて成仏できるのである。釈尊はこの常不軽菩薩の修行をとおして、折伏の方軌と逆縁の功徳を説いている。

常不軽品に説かれていることは、ただ威音王仏の像法時のことのみでなく三世にわたって通ずる真理であり、なかんずく日蓮大聖人の弘法の方軌を示したものにほかならない。

寺泊御書にいわく「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(0953:18)と。

されば、不軽菩薩とは、日蓮大聖人がいかなる迫害もものともせず、むしろ謗ずる人々をも包容し、すべての人々を救い切る姿をあらわすのである。また、上慢の四衆とは、日蓮大聖人を迫害した当時の人々のことである。また、二十四文字の法華経とは、末法今時においては、ただ南無妙法蓮華経なのである。礼拝の行とは、折伏行である。およそ礼拝とは、相手の生命の中にある尊極の仏界を敬ったのである。しかし、末法今時においては、礼拝の行は全く意味をなさない。ただ、折伏行のみが、時機相応の修行であることを知るべきである。

しかして、折伏行こそ、最も生命の尊厳を認めた行為である。あらゆる人々の生命の奥底に、仏界という尊極極まりない偉大な生命があり、折伏することによって、たとえその時には信心しなくとも、折伏が縁となり仏種が薫発され、やがて御本尊を受持し、真に光輝ある人生を進みゆくことができると確信しての、振舞いだからなのである。

不軽菩薩の説いた二十四文字の法華経は略法華経ともいわれる。その所詮は南無妙法蓮華経である。したがって「其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ」と仰せなのである。

御義口伝にいわく「此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり」(0764:第五我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏の事)と。教行証御書には「得道の時節異なりと雖も成仏の所詮は全体是れ同じかるべし」(1277:03)とある。本抄に「其の意」といい、御義口伝には「其の意」とあり、教行証御書に「成仏の所詮」というも、ことごとく、文底深秘の南無妙法蓮華経を指していうのである。

四信五品抄に「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(0342:04)とあり、我深敬(がじんきょう)等の二十四字の法華経といえども、南無妙法蓮華経と元意は同じであり、南無妙法蓮華経の序文であり流通分であるといえよう。

また「彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ」とは、弘教の方軌が共に同じであることをいう。

上慢の四衆が、不軽の教化に反対し、地獄に堕ちるのを承知の上で、なおかつ法を説き而強毒之によって根本的に救ったのは、慈悲より起こった行為である。同じく末法のわれわれもまた、折伏すると必ずといってよいほど、相手は反対する。反対すれば罰を受けて不幸になる。しかし逆縁の功徳でいったんは地獄に落ちても、必ず目覚め信心し、真の幸福をつかむのである。このように、なんとしても、相手を幸福にしてあげたいという慈悲の心から起こる行為が折伏である。したがって、われわれの実践の姿は経文に明確に説かれているとおりであり、誇りをもち、勇気をもって進みゆこうではないか。

御義口伝下にいわく「此の文は不軽菩薩を軽賎するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賎せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:01)と。

不軽菩薩を憎んで軽賤した上慢の四衆は、千劫の間、無間地獄という想像も絶する大苦悩を受けた。だが末法において、日蓮大聖人および弟子檀那を軽賤した場合は、無数劫の間、無間地獄に堕ちる。ここに、不軽と日蓮大聖人との間に天地雲泥の相違があることを知るべきである。日蓮大聖人は、御本仏である。故に、不軽と大聖人とは、その弘教の方軌においては一致するが、仏としての力、資格はまったく問題にならないのである。

「彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」とは、修行の位が共に同じであることを示している。すなわち、初随喜とは、法華経修行の最初の位であり、四信五品のうちの最初の位を指す。法を信順して歓喜する意である。

分別功徳品には「又復た如来の滅後に、若し是の経を聞いて、毀訾せずして、随喜の心を起こさば、当に知るべし、已に深信解の相と為す」とある。

天台・妙楽はこの初随喜の位を六即位の相似即、観行五品の初品、名字即の位に配立している。しかし、日蓮大聖人はこのうち名字即をもって仏意にかなうとされている。

四信五品抄にいわく「予が意に云く、三釈の中名字即は経文に叶うか」(0339:05)と。

しかして、不軽菩薩の位が初随喜であることについては、法華文句巻十に次のようにある。すなわち「文に云く、専ら経典を読誦せずして但礼拝を行ずとは、此はこれ初随喜の人の位なり。一切の法は悉く安楽の性ありて皆一実相なることを随喜し、一切の人に皆三仏性あることを随喜す」と。

日蓮大聖人の外用の面は凡夫位であり、これ名字即である。

御義口伝下にいわく「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)と。また三世諸仏総勘文抄に「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し」(0568:13)とある。五百塵点劫の当初とは久遠元初、すなわち本地をあらわす。そのとき凡夫の位において、わが身が妙法蓮華経の当体であることを即座に開悟された。すなわち自受用報身と成じたのである。凡夫の位においてとは、名字即の位にほかならない。日蓮大聖人が、なぜ凡夫の姿をとられたかというのに、まったく大聖人の仏法が全民衆の仏法であり、最も不幸な人々を救いきる宗教だからである。民衆の中に飛び込み、信心を教え、ともに成仏の道を歩まれんとしたのである。

名字即とは末法今時においては信心である。

御義口伝下にいわく「信の一字は名字即の位なり」(0760:第一其有衆生聞仏寿命長遠如是乃至能生一念信解所得功徳無有限量の事:01)と。

名字即とは六即の第二であり、天台大師は「一切法是れ仏法なりと通達解了する」位と説いた。一切法とは、宇宙の森羅万象であり、これことごとく妙法の当体と通達解了するそことが名字即なのである。

通達解了とは、生命の覚知即信心であり、御本尊こそ、大宇宙の本源であり、その法力・功力は宇宙大であると信ずることである。すなわち、御本尊を唯一無二と信ずる、無疑曰信の信の一字が名字即であることは明瞭である。

名字即とは、また信心によって、わが身が御本尊と境智冥合し、一切の活動、働きがことごとく妙法の活動、働きとなり、真実の衆生所遊楽の人生となっていくことをいうのである。

 

 

第四章(末法の御本仏を明かす)

本文

疑つて云く何を以て之を知る汝を末法の初の法華経の行者なりと為すと云うことを、答えて云く法華経に云く「況んや滅度の後をや」又云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」又云く「数数擯出せられん」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「杖木瓦石をもつて之を打擲す」又云く「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」等云云、此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に、日本国中の王臣・四衆の面目に引き向えたるに予よりの外には一人も之無し、時を論ずれば末法の初め一定なり、然る間若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん、難じて云く汝は大慢の法師にして大天に過ぎ四禅比丘にも超えたり如何、答えて云く汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり、我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり、然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出して法華経の行者と為さん汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす豈大悪人に非ずや。

  

現代語訳

疑っていうには、あなたを末法の初めの法華経の行者であると決定することは、何をもって知ることができるのであるか。

答えていうには、法華経に次のように説かれている。法師品には「釈尊在世でさえも怨嫉が多い。まして、滅後末法に法華経を持ち弘める者には、それにもまさる大怨嫉がおこるであろう」と。勧持品には「滅後末法において法華経を弘める者には、多くの無智の人が、必ず悪口をいったりののしったりなどし、さらに刀で切りつけたり、杖で打ったりする者がいるであろう」と。

同じく勘持品には「一度ならず二度までも法華経の行者は権力者や大衆に迫害されて所を追い出されるであろう」と。また、安楽行品には「世間のあらゆる人は仏に怨嫉し、正法を信じようとしない」と。また不軽品には「法華経を説けば、増上慢の民衆は、杖木や、瓦、石などをもってこの人を打ちたたき迫害する」と。また前に述べた薬王品にも「悪魔、魔民、諸天竜、夜叉、鳩槃荼等の悪鬼、魔神がつけこんで、さまざまな災いをなすであろう」等と説かれている。

これら法華経の文証という明鏡について、仏語を信じさせるために、日本国中の王と臣下および四衆の行為に当てはめてみるに、この経文に符合するのは予(日蓮大聖人)よりほかに、まったく一人も見当たらない。時を論ずれば、まさしく末法の初めで、まさに「その時」にあたっており、それ故、もし日蓮が出なかったならば、仏語は虚妄となってしまうであろう。

非難していうには、あなたは大慢の法師であって、その慢心ぶりは、大天に過ぎ、四禅比丘にも超えていると思うが、どうであろうか。

答えていうには、あなたがこの日蓮を軽蔑する重罪こそ提婆達多の犯した逆罪に過ぎ、無垢論師の罪にも超えている。わが言葉は、大慢に似ているように聞こえるかもしれないが、それは、仏の未来記を立証し、仏の実語を顕わすためなのである。しからば日本国中において、日蓮を除いてほかに、誰人を選び出して法華経の行者ということができようか。それ故、あなたこそこの法華経の行者である日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にするものである。これこそ、まさに大悪人ではないか。

 

語釈

大天

梵名マハーデーヴァ(Mahādeva)、音写して摩訶提婆。大天と訳す。釈尊滅後二百年(一説に百年)ごろに末土羅国の商家に生まれた。「大毘婆沙論」によると、父母および阿羅漢を殺すという三逆罪を犯した。その罪を滅するために摩訶陀国の鶏園寺で出家した。言葉巧みに人々の尊敬を得たことを良いことにして、悪見を起こし、また慢心を生じて自ら阿羅漢を得たと称した。ところが、阿羅漢にも煩悩が起こるなどといった阿羅漢を低く見る説(五事)を唱えたことで、激しい論争が起こり、それにより仏教教団が大きく二つに分裂したと伝えられる。ただし仏教教団の大分裂(根本分裂)は、一説によると、律に関わる見解の相違が起こったことを機に、ヴァイシャーリーで行われたと伝えられる、第二結集の頃に起こったと考えられている。臨終の時は悲惨であったという。

 

四禅比丘

梵名シュナサットラ(Sunakatra)、音写して修那刹帝羅。善星比丘、善宿とも訳す。釈尊存命中の出家者の一人。一説に釈尊の出家以前の子とされる。出家して仏道修行に励み、欲界の煩悩を断じて、四禅を得たので四禅比丘という。しかし悪知識である苦得外道に親近し、四禅を失い邪見を生じた。苦得外道は、涅槃経巻三十三には「釈尊を毀謗して、予言どおり七日後に死んで食吐餓鬼になるが、その時にいた善星比丘は、その事実を知りながら、三十三天(忉利天)に生まれたといった」とある。食吐餓鬼は、人が吐き出したものを食らうという。それでも善星比丘は仏法の正義を信ずることができず、釈尊の教えを誹謗し、ついに生身で無間地獄に落ちたといわれる。

 

無垢論師

梵名ヴィマラミトラ(Vimalamitra)、音写して毘末羅蜜多羅、漢訳した無垢友の略。五、六世紀ごろの人。大唐西域記巻四によると、インドの迦湿弥羅国の論師。説一切有部に属し、広く衆経・異論を学んだ。世親菩薩の倶舎論に論破された衆賢(梵名サンガバドラ(Saghabhadra))の教義を再興し、大乗の名を絶やして世親の名声を滅ぼそうと誓いを立てた。しかし、その誓願の終わらぬうちに舌が五つに裂け、熱血を流して後悔しながら無間地獄に堕ちたという。

 

講義

日蓮大聖人こそ末法に出現された、御本仏であることを明かされたところである。

初めに、なぜ大聖人が末法の法華経の行者であるかとの問いに対し、法華経の文を引用され、もし日蓮大聖人が御本仏として末法に出現されなかったならば、釈尊の経文は、すべて虚妄になることを厳然と言いきったところである。

そのためさらに、こうしたことを述べるのは大慢の法師ではないかと問う。しかし、日本国に日蓮大聖人を除いて他の誰人も法華経の行者とはならない。故に大聖人を謗れば、仏記を虚妄にする大悪人となると、大聖人こそ御本仏であることを断言せられている。

 

此の明鏡に付いて仏語を信ぜしめんが為に……若し日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん

 

もし、日蓮大聖人の出現なくば仏法は虚妄になるとの大確信である。釈尊の法華経はことごとく日蓮大聖人の予言書であり、証明の書にほかならない。悠久と二千余年にわたり、大河の流れのごとく西より東に向かった仏法は、ここに日蓮大聖人の大仏法の大海に注がれたのである。

開目抄にいわく「いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし」(0202:09)と。

そしてさらに「今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ」(0202:13)と仰せられている。

また法華取要抄にいわく「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや(中略)滅後の衆生を以て本と為す在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり、問うて曰く其の証拠如何、答えて曰く況滅度後の文是なり、疑つて云く日蓮を正と為す正文如何、答えて云く「諸の無智の人有つて・悪口罵詈等し・及び刀杖を加うる者」等云云」(0333:16)とも仰せられている。

仏の入滅後、広宣流布の予言は虚しく崩れ去るところであった。もしそのような事態になるならば、釈尊の説いた最高の法華経の予言も、三世諸仏の証明も、天台の出現も、伝教の出現も、なんの意味もなくなるところであった。

思うに日蓮大聖人は、三大秘法の御本尊を建立なされて、広宣流布の基礎を築かれた。そして、後の広宣流布は、未来の弟子にご遺命されたのである。

しかるに、この予言を虚妄とすることなく、日本の広宣流布のために、さらに世界広布の実現のために、創価学会は立ち上がったのである。すなわち、創価学会の今日の姿こそ、大聖人の予言が正しかったことを示す証明である。

されば創価学会の出現、またその行動は、本仏の未来記を現実にあらわしているのである。

 

日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ無垢論師にも超えたり

 

これは日蓮大聖人が末法の本仏であるとの内証の上から、大聖人を御本仏と拝さない者に対して、その迷妄を破した箇所である。

「仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり」との言は、まさに仏の未来記を虚妄とせず、末法出現の御本仏であるとの大確信に立ったものである。

戸田先生はこの文について「この御文意、じつに壮絶で浄光輝き、世に獅子吼とは真にこのことであろうか。この声にひとたびひびいて百獣おののく、(中略)すなわち大聖人は、末法の御本仏としての御内証に立って、大聖人を法華経の行者にあらずという者を大声叱咤したのである」と述べている。

開目抄下に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223:16)と述べているように、大聖人の凡夫の身は、そのまま久遠元初の自受用身と顕われたのである。

 

 

第六章(御本仏の未来記を明かす)

本文

問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか、所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり、仏は此れ聖人の本なり経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し仏御入滅の時には十二の白虹・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし、其の後正像二千年の間・内外の聖人・生滅有れども此の大瑞には如かず、而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり、天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て池の深きを知る」等云云、妙楽の云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、

  

現代語訳

問うていうには、釈尊の未来記があなたの身の上にあてはまることはよくわかった。それではあなたの未来記はどうなっているのか。

答えていうには、釈尊の未来記にしたがってこれを考えてみるのに、今はすでに後五百歳の始め、すなわち末法の始めに相当している。末法の真の仏法は、必ず東土の日本から出現するはずである。ゆえに、その前相として、必ずや正法・像法時代に超えた天変地夭があるだろう。いわゆる釈迦仏の誕生の時、仏が法を説いた時、また入滅の時起こった瑞相には、吉瑞も凶瑞も共に、前後の時代に比べるべきものがないほどの大瑞であった。仏は聖人の本である。経文を見ると、釈尊が誕生した時の有様は、五色の光りが四方をあまねく照らして、夜も昼のように明るかったと説かれている。また、釈尊が入滅の時には、十二の白い虹が南北にわたって現われ太陽は光りを無くしてしまって、闇夜のように暗黒になってしまったと説かれている。その後、正法・像法二千年の間に内道・外道の多くの聖人が出現し、そして死んでいったけれども、この釈尊の時のような大瑞にはとうてい及ばなかった。

しかるに、去る正嘉年中より今年に至るまでの間に、あるいは大地震が起こり、あるいは大天変があって、これらは、あたかも釈尊の生滅の時の瑞相のようである。これによってまさに知るべきである。釈尊のような聖人が生まれてきているのではなかろうかと。大空には、大彗星が出たが、いったいどのような王臣の出現が、この瑞相に対応するのであろうか。また、大地震が起こり、大地を傾動して、三度も振裂したほど激しいものであったが、どのような聖人、賢人の出現をもって、この瑞相に当てることができるのだろうか。まさに知るべきである。これらの大瑞は、一般世間における普通の吉凶の大瑞ではない。これはひとえに、南無妙法蓮華経の大仏法が興隆し、釈迦仏法が廃れるという大瑞なのである。

天台大師は、法華文句の第九の巻に次のように述べている。「雨の降り方の猛烈さを見て(瑞相)、それを降らせている竜の大きさ(現象)を知ることができる。また蓮華の花の咲き方の盛んなのを見て(瑞相)、その池の深いこと(現象)を知ることができる」と。妙楽大師は、法華文句記に釈して「智者は事の起こる由来を知り、蛇は自ら蛇の道を知っている」と述べている。

 

語釈

五色の光気

釈尊降誕の瑞相の一つ。開目抄下に「周の第四昭王の御宇二十四年甲寅・四月八日の夜中に天に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし、大地・六種に震動し雨ふらずして江河・井池の水まさり一切の草木に花さき菓なりたりけり不思議なりし事なり」と。

 

十二の白虹

釈尊入滅の瑞相の一つ。釋迦如來成道記註(二巻)に「周書異記曰。穆王五十二年壬申二月十五日。暴風忽起。撥屋折木。山川覆震。天陰雲黑。西方有白虹十二道。南北通過。至夜不滅。王問大史扈多曰。是何徵耶。對曰。西方有大聖人。滅衰相現耳」とある。

 

大地震

正嘉元年(1257)より、本抄が著された文永10年(1273)にいたるまで、毎年のように、鎌倉、京都を中心として天変地夭や飢饉などの大災害が起こった。ただし、鎌倉、京都を中心としてということは、鎌倉幕府の歴史書・吾妻鏡、公家九条兼実の玉葉等の記録がこの時点の事件に重点をおいているためで、おそらく全国的にわたったと思われる。殊に大きな災害が、正嘉の大地震であった。正嘉元年(1257823日に鎌倉地方を襲った大地震で、この時の惨状が「立正安国論」を著される契機となった。吾妻鏡には、「廿三日 乙巳晴る。戌の尅、大地震。音あり。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顚倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水涌き出づ。中下馬橋の辺、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云云」と当時の様子が記されている。

 

大彗星

文永の大彗星。文永元年(126475日の大彗星をさす。日蓮大聖人の時代、彗星は時代・社会を一掃する変革をもたらすできごとの兆しと考えられていた。安国論御勘由来に「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり」と。大聖人御自身は、正嘉の大地震とともに、この大彗星を末法に地涌の菩薩が出現する前兆と捉えられていた。

 

智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る

妙楽大師の法華文句記巻第九中に「然るに智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る。豈補処の人その真応を識らざらんや」とある。これは法華経従地涌出品第十五で地涌の菩薩が大地から忽然と現れたのに対して、補処の弥勒菩薩がその因縁を説きたまえと述べたところを釈した文である。文意は、智者は物事の起こる由来を予知し、蛇は蛇だけの知る世界を知っている。それゆえ、仏法の法灯を継ぐ智者は仏法の極理を知る、すなわち唯仏与仏と経にある通り、悟達の聖人のみが宇宙森羅万象の本質を知り予知している、との意である。

 

講義

この章は御本仏日蓮大聖人の未来記を明かされたところである。

末法において日蓮大聖人の仏法が、かならず東土の日本より出でて、東洋へ、全世界へ広宣流布していくことを御予言されている。

しかして、その証拠として、インドの釈尊の降誕そして入滅の瑞相を引き、大聖人当時の天変地夭が大法興廃の大瑞なりと断ぜられるのである。

 

仏記に順じて之を勘うるに、既に後の五百歳の始めに相当れり。仏法必ず東土の日本より出づべきなり

 

本抄のはじめに薬王品の文を引き「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」と、釈尊が末法において必ず正法が広宣流布することを予言している。

それに対し、この文は、日蓮大聖人が未来のために予言なされた、大聖人の未来記の文である。末法において正法が必ず東土の日本より興り、朝鮮、中国、インドはもとより、全世界に流布することは間違いないとの御本仏の大確信を述べられた文である。

天台、妙楽、伝教にも未来記の言はあった。撰時抄に明らかなように「未来記の言はありや」との問いに対して、天台大師は法華文句に「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と末法を慕い、妙楽大師は法華文句記に「末法の初め冥利無きにあらず」と正法が流布して、大利益を得ることを願っており、伝教大師も守護国界章上に「正像稍過ぎ已つて末法太(はなは)だ近きに有り」と恋い慕った。

こうした願望に対して日蓮大聖人は「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と大きく御自身の未来記を明かされたのである。

すなわち、東国の辺土ともいわれたこの日本の地より、あたかも「日は東より出でて西を照す」ごとく、大仏法が興隆し、東洋へ、全世界へと流布するとの予言の御文である。

いま、創価学会の出現によって、この大聖人の御予言はことごとく真実であることが証明されつつある。だが、二十世紀に入っても学会草創期のころには、未だ「世界広布」は夢のような話であった。それを十三世紀において、わが生命の安全もおぼつかない状態の中で、世界広布を断言されている大聖人の言葉は、なんと偉大な予言ではないか。それは決して凡人の大言壮語ではなく、本仏なればこその確信であり、一切を見通された上での言葉と拝する以外にないのである。

 

瑞相について

 

瑞相の瑞とは、昔、中国において、天子が諸侯を各地に封ずるとき、その符節として下賜した圭玉をいったが、これが転じて、めでたい微を瑞相というようになった。後に、さらに転じて、兆し、前相を意味するようになったのである。

何事にせよ、ある事象の起こるときには、必ず、それを必然ならしめる、現象界の変化が現れるものである。無から有が生じないように、ある事態が生ずるためには、その条件が整えられなければならない。

たとえば、一点の雲もない青空から、突如として雨が降るなどということはあり得ないであろう。そこには必ず、気圧の変化、雲の出現等がある。人々は、それを見て、雨が近いことを知る。雨が降るという事象に対して、気圧の変化、湿気、雲の出現等は前相である。

自然現象に限らず、人間社会の場合も、たとえば、革命や社会的変動が起こるときには、それなりの前相というものがあるものである。愚人には分からなくとも、透徹した知性の眼をもって見れば、明瞭に知覚することができるのである。

ところで、いま、この御抄で示されているような、仏法でいう瑞相は、これらの気象上の現象や社会現象とは、大きい相違がある。すなわち、ここにあげた例は、起こるべき事象が気象上の現象であるなら、その前相も、やはり気象上の現象である。そこには、気象の科学によって裏づけられた、明白な因果関係がある。したがって、それについて疑義をはさむ人はいない。

しかるに、仏法でいう瑞相、前相は、本抄で示されているように、起こるべき事象は仏の出現という、人間社会の出来事である。その前相たる天変地夭は、自然現象である。この両者の間の因果関係が、現代科学では明かされていないところに、仏法の瑞相論の理解を困難にしている淵源がある。

それでは、人間社会と自然界とは、それぞれ独立した無関係な存在なのであろうか。今日の、あたかも無関係であるかのように考える思考法が、これまでの分化し専門化した西欧の科学の行き過ぎに起因するものであることは、一部の識者によって深く指摘されている。事実、その反省のもとに、科学界においても、総合化の試みがなされるようになっているのである。

人間と環境、人間社会と自然現象の一体性を、生命哲学の立ち場から、明瞭に説き切ったのが仏法である。依正不二の原理がそれで、正報とは果報の主体、依報とは、この正報の所依、すなわち自己主体に対して、それをとりまく環境の一切である。

一念三千の法門の中で、三世間のうち、五陰世間とはわが生命、衆生世間とは社会、そして国土世間とは、この生命の住する自然環境をいう。この三種が、わが生命の一念に収まっていることを一念三千というのである。気象学の眼をもってみれば、雨が降り、雪が降ることを、前相によって予知できるのと同じく、この仏法の透徹した眼をもって見るならば、自然現象の大なる変化をみて、人間社会の事象を予知することは何ら不思議ではなくなってくるのである。

そこには明晰なる生命の哲学、生命の科学とがあり、その道理の示すところを仏は述べられているのである。それを知ろうともしないで、迷信であるかのように排斥するのは、中世末から近世のヨーローパで、優れた科学者を魔法使いのごとく思い込んだ、迷信深い民衆と何ら変わらないといってよいであろう。

 

仏の如き聖人生れたまわんか

 

これは、日蓮大聖人が、御自身のことを仰せられた御文である。「仏の如き聖人」と言葉は和らげておられるが、御自身が末法の仏であることを厳然と示されたのである。

初めに、釈迦仏の生滅の瑞相をあげ、正像二千年の間、内外の聖人の生滅の時の瑞相がこれに及ぶべくもないことを論じ、次に末法今時の瑞相は、まさに仏の生滅以上の大瑞であるといわれ、このように「仏の如き聖人」云云と仰せられたのである。

ここに大聖人御出世の時の瑞相が、「宛かも仏陀の生滅の時の如し」といわれているが、釈尊の瑞相よりはるかに大瑞であることは、文にありて明白である。刮目して、ここに仰せられた一連の御文を拝するのに、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であると宣言された元意が汲みとれるではないか。

しかも、その後に「惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」といわれ、日蓮大聖人の三大秘法の大法興ることを明言されているのである。すでに、釈尊の仏法を月に、大聖人の仏法を太陽にたとえ、その勝劣を明かし、さらにここで瑞相論より、大聖人こそ末法の御本仏であり、今、日本に、釈迦仏法に代わって、それに勝る大白法が勃興することを告げられているのである。

 

 

第七章(妙法流布の方軌を示す)

本文

日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え、幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ、願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん、但し今夢の如く宝塔品の心を得たり、此の経に云く「若し須弥を接つて他方の無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為難しとせず乃至若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為難し」等云云、伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり、天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し・叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云、安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す三に一を加えて三国四師と号く、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
 文永十年太歳癸酉後五月十一日 桑門日蓮之を記す

  

現代語訳

日蓮はこの道理を覚知して、すでに二十一年になる。そのために日ごとに災いを受け、月ごとに難をこうむってきた。特にこの二、三年の間の難は大きく、すでに死罪にまで及ぼうとした。今年また今月は、万が一にも身命が助からないという状態におかれているが、世の人々はもし我が言うことについて疑いがあるならば、詳しいことは弟子に問いただしなさい。

なんと幸福なことであろうか。生涯の内に無始以来の謗法の罪業を消滅できるとは。また、なんと悦ばしいことであろうか、いままでに、あうことのできなかった教主釈尊にお仕え申し上げられるとは。自分はこのような大利益を得たのであるから、願わくは自分を迫害した国主等を先ず最初に化導してあげよう。自分を助ける弟子等のことを釈尊に申し上げよう。また自分を生んでくださった父母には、今生のうちにこの南無妙法蓮華経の大善をおすすめしよう。この数々の大難によって、今、夢のように、宝塔品の要である六難九易の文意を証得することができた。

すなわちこの宝塔品には、次のように説かれている。「もし須弥山をつかんで、他方の無数の仏土に投げようとも、それは難しいことではない。乃至もし、仏の滅度の後、悪世末法においてよくこの法華経(御本尊)を説いて折伏するということは、これこそ非常に難しいのである」等と。

伝教大師は法華秀句に次のように述べている。「浅い爾前権教につくことは易しいが、深い法華経を持つことは困難であるというのは釈尊の教判である。しかし浅い小法を捨てて、深い大法につくことこそ、丈夫の心なのである。この教えにしたがって天台大師は釈尊に信順し、法華宗を助けて中国に法華経を広宣流布した。叡山の一家(伝教大師)は天台の法を承け法華宗を日本に弘通したのである」と。

安房国の日蓮は、恐らくは、釈尊、天台、伝教の三師に相承し、法華宗を助けて、末法に南無妙法蓮華経を広宣流布するのである。ゆえに釈尊、天台、伝教の三師に日蓮を加えて、三国四師と名づけるのである。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

文永十年太歳癸酉後の五月十一日

桑門日 蓮 之を記す

 

語釈

宝塔品の心を得たり

法華経見宝塔品第十一に説かれている「六難九易」の経文の意を覚知することができたとの意。六難九易とは、仏の滅後に法華経を受持し弘通することの難しさを、六つの難しいこと(六難)と九つの易しいこと(九易)との対比をもって示したもの。およそ不可能な九易でさえ、六難に比べればまだ易しいと説いたうえで釈尊は、滅後の法華経の弘通を促している。六難とは、①広説此経難(悪世のなかで法華経を説く)②書持此経難(法華経を書き人に書かせる)③暫読此経難(悪世のなかで、しばらくの間でも法華経を読む)④少説此経難(一人のためにも法華経を説く)⑤聴受此経難(法華経を聴受してその義趣を質問する)⑥受持此経難(法華経をよく受持する)。九易とは、①余経説法易(法華経以外の無数の経を説く)②須弥擲置易(須弥山をとって他方の無数の仏土に投げ置く)③世界足擲易(足の指で大千世界を動かして遠くの他国に投げる)④有頂説法易(有頂天に立って無量の余経を説法する)⑤把空遊行易(手に虚空・大空をとって遊行する)⑥足地昇天易(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇る)⑦大火不焼易(枯草を負って大火に入っても焼けない)⑧広説得通易(八万四千の法門を演説して聴者に六神通を得させる)⑨大衆羅漢易(無量の衆生に阿羅漢位を得させて六神通をそなえさせる)。開目抄には「法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」(法華経の六難九易が分かったので、すべての経典は読まなくてもわがものとなっているのである」と仰せになっている。

 

法華宗

①天台宗の正式名称である天台法華宗の別称。日蓮大聖人立宗以後は、混同を避けて用いられない。②日蓮大聖人を開祖とする流派の一つ。ここでは①を指す。

 

講義

この段は、本抄全体のしめくくりであり、末法御本仏としての、御自身の悦びと、全民衆を救わんとの大慈悲、また妙法を受持して起つ丈夫の心を述べておられる。この一文一句は、そのまま、日蓮大聖人の弟子たる者の自覚であり、決意であり、勇気でなければならない。すなわち、学会精神の骨髄であり、ここに師弟不二の原理があるといえる。

 

日来の災、月来の難、此の両三年の間の事、既に死罪に及ばんとす。今年今月、万が一も脱れ難き身命なり

 

「此の両三年の間の事」とは、文永八年九月十二日の竜の口の頸の座より佐渡御流罪中のことを指す。この間、大聖人の身辺は常に危険にみまわれ、「昼夜十二時に仏の短をねらいし」がごときありさまで、念仏者は口々に悪口をなし、阿弥陀仏のかたきと狙っていたのである。こうした中で日蓮大聖人は毅然とし、峨々たる眉山の如く、洋々たる大河の如く、振舞われ、極寒をものともせず、妙法広布のために、令法久住のために、観心本尊抄をはじめとする重要御書を、死身弘法の精神で、魂魄をとどめて執筆されたのである。

よってこの御文を拝するときに、妙法広布の厳しさを痛切に感ずると共に、今日、順縁広布の時に生まれあわせたわれわれは、己心の魔に打ち勝ち、常に大聖人佐渡御流罪の厳しさを、広布達成まで瞬時たりとも忘ることがあってはならない。いかに時代が変わろうとも、妙法広布への燃え上がる情熱と闘魂を内に秘め、さらに只今臨終の決意に立って邁進する者こそ、日蓮大聖人の真実の弟子であり、創価学会員であると信ずる。

 

世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え

 

この御文は短いが実に厳しい文であり、師弟不二の原理を厳然と述べておられる。すなわち、師匠は原理を説き、弟子は師匠の教えを応用し、実践し、敷衍すべきであるとの意である。弟子は広布実現のために師を守り、師と共に、さらに師の本意を永遠に伝えねばならない。よって、弟子はいざという時にひるむような弱者であっては、人類恒久の平和は達成されない。かような弟子はこの文を拝すべき資格のない者である。われわれは生涯、開拓者として、先駆者として、広布の礎として、絶えざる前進をしなければならない。

 

幸なるかな、一生の内に無始の謗法を消滅せんことを。悦ばしいかな、未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ

 

大聖人御自身が、32歳の立宗より52歳のこの年にいたる20年の間に受けられた数々の大難も、所詮は、御自身の罪障消滅のためであり、妙法広布のためであるが故に、無上の幸福であり、最高の喜びであると申されているのである。

もとより、これは示同凡夫の立ち場に立ってのお言葉であり、御内証は本来、本有の自受用身如来である。信心の極意を、弟子のため、末法の荒凡夫のために教えられているのである。

仏法のために受ける、いかなる大難も、ことごとくその本体は、わが身の罪業を消滅するための薬にほかならない。われわれは、過去より無数の悪業を犯し、無量の謗法の罪業を積み重ねてきている。その一切の罪障は永劫にわたっても、なおかつ消滅できるものではない。しかるに、今、妙法に巡り会って、この一生の間に消すことができるのである。

あたかも、化膿した悪質の傷を治すようなものである。たとえ当座は痛くても、必ず後はよくなるのである。もし、当座の痛みを恐れて、治療を怠るならば、化膿はさらに進み、ますます苦しみを増すであろう。

この原理を覚知するならば、妙法の故に、どんな迫害を蒙ろうと、それは、最高の幸福への道程であり、楽しみではないか。

いわんや、このように、一生の内に無始の謗法の罪を消滅しうる仏法は、日蓮大聖人の三大秘法の仏法をおいて、他には絶対にない。一生成仏、転重軽受の大仏法を受持しえたことこそ、それ自体すでに最高の幸福なりと確信すべきである。

また「悦ばしいかな、未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ」とは、仏に仕え、妙法広布に活躍できることこそ、この上ない喜びであるとの意である。

あらゆる民衆を、未来永劫にわたって、根底より救済される仏に仕え、その精神を受けついで妙法の広宣流布のために活動しゆく人生こそ、永遠不滅の、崇高なる人生というべきであろう。これこそ、「浅きを去つて深きに就く」丈夫の心であり、人間として、最高の喜びであり、感激ではないか。

 

願わくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん

 

この一文に、末法御本仏としての大慈大悲と、大確信とが躍如としてあらわされている。心ある人ならば、この御文を拝して、感涙を抑えることはできないであろう。

「我を損ずる国主等」とは逆縁の衆生である。「我を扶くる弟子等」とは順縁の衆生である。順逆とも大聖人の大慈悲によって救われていくのである。

御自身、何の罪もなくして、佐渡の極寒の地に配流せられ、命をも狙われながら「最初に之を導かん」と申されるその御心は、まさに大海のごとく広く、深く、雄大であるといわなければならない。

仏の慈悲は絶対的なものであり、愛憎の範疇をはるかに超越した境涯である。「眼には眼を」(ハンムラビ法典)の文言は聖書にも記述があり、およそ比較にならないことを知るべきである。また、それは「汝の敵を愛せよ」と説いたキリストの偽善的な態度とも根本的に異なる。

ここに「我を扶くる弟子等」とは、弟子のあるべき姿を示された言葉であり、大聖人の御偉業を扶け、実践し、具現しゆく人こそ、真の弟子であるとの仰せと拝せる。その大聖人の御偉業とは「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」と本抄にも述べられているごとく、全世界に、この三大秘法の仏法を広宣流布することである。

すなわち、折伏に励み、広宣流布のために不惜身命の活躍をなす人こそ、「我を扶くる弟子等」の御文にあたる人であり、大聖人の心よりの賞讃を受ける人であることは、文にも明白である。

「我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん」とは、この仏法を持たせることが、最高の親孝行であり、自分を生み、育ててくれた父母に対する報恩の道であるとの御文である。

真の孝行とは何か、それは、親を最高に幸福にしていくことであり、永遠に崩れることのない幸福境涯に住せしめることである。ゆえに、その唯一の道たる妙法を教え、受持させることが、真実の孝行なのである。

 

浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり

 

丈夫の心とは、究極的にいえば、仏の心ということである。だが一般的に敷衍して論ずるならば、勇気ある人という意味になる。

すなわち、人間は、本然的に安易な道をとろうとする弱みをもっているものである。遠大な目的観に立てば、いまは苦しくとも耐えて、困難な道を進むべきだということがわかっていても、なかなか、思うようにできないことが多い。その弱い自己に打ち勝って、あえて苦難の道を選び、前進していくのが丈夫の心、すなわち勇気ある人といえるのである。

平坦な道や下り坂であれば、そこには努力を必要としない。だが、それはいくら進んでも、出発の時に立っていた位置の高さより高くなっているということはない。険しい登り道は、なみなみならない努力を必要とする。しかし、それをのり越え、がんばりぬいて登っていったとき、かつていた地点をはるか眼下に見下ろすような、高い位置に立つことができるのである。

妙法は、あらゆる哲学、あらゆる人生の行き方の中で、最も難しい、険しい道である。無始以来の罪業をこの一生に集め、三類の強敵は行く手を阻まんと迫ってくるであろう。だが、臆せず、屈せず、自己と戦い、自己の宿業と戦い、あらゆる障害と戦いぬいていく人こそ、丈夫の中の大丈夫であり、最も勇気ある人なのである。

 

 

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