経王殿御返事
文永10年(ʼ73)8月15日 52歳 (四条金吾)
第一章(本尊図顕の姿勢を示す)
本文
其の後御をとづれきかまほしく候いつるところに・わざと人ををくり給候、又何よりも重宝たるあし山海を尋ぬるとも日蓮が身には時に当りて大切に候。
夫について経王御前の事・二六時中に日月天に祈り申し候、先日のまほり暫時も身を・はなさずたもち給へ、其の本尊は正法・像法・二時には習へる人だにもなし・ましてかき顕し奉る事たえたり、師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出す事は・ただをなじき事なり、日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、
現代語訳
その後、お便りを聞きたいと思っていたところに、わざわざ人を遣わしていただきました。また、何よりも重宝な金銭を受け取りましたが、これは山海を尋ねても、日蓮の身には、時にあたって大切なものであります。
お便りにあった経王御前の事は、昼夜に日月天に祈っております。先日差し上げた御本尊は、しばらくも身から離すことなく受持していきなさい。その御本尊は、正法、像法の二時には、習い伝えた人すらいない。まして書き顕わしたことは絶えてなかった。
師子王は前三後一といって、蟻の子を取ろうとするときにも、また獰猛なものを取ろうとするときにも、その勢いは、全く同じである。日蓮が守護の御本尊を認めるのも師子王に劣らぬ姿勢によってあらわしたのである。法華経涌出品に「師子奮迅の力」とあるのはこれである。
語釈
二六時中
昔、一日を十二支に分けて十二時と数えた。すなわち二掛ける六で、二六時といった。一日中ということ。
日月天
日天子、月天子のこと。日天子は日宮殿に住む天人のこと。月天子は月を宮殿とする天人。日天、月天ともそれぞれ太陽、月を神格化したもので、法華経の会座にも列なり、法華経守護の諸天善神とされる。
まほり
お守り御本尊のことと思われる。
前三後一
他方の菩薩の拒否する理由が前三で、地涌の菩薩を召し出す理由が後三である。前三 ①他方の菩薩は、各、自己の任務があり、娑婆世界に永く住すれば彼の土の利益が失くなる。②他方はこの土に結縁が浅いから、娑婆世界で法を弘めても大利益がない。③他方の菩薩に弘法を許すなら地涌の菩薩を召し出すことはできない。後三。④地涌はわが弟子であるから我が法を弘めよ。⑤娑婆世界に結縁深厚である。⑥近成を開いて遠成を顕わす。
師子奮迅之力
法華経従地涌出品第15に「如来今、諸仏の智慧、諸仏の自在神通の力、諸仏の師子奮迅の力、諸仏の威猛大勢の力を顕発し宣示せんと欲す」とある。
講義
本抄は、四条金吾夫妻が、娘・経王御前の病気について報告したのに対して、認められたお手紙である。宛名は「経王御前」となっているが、文永10年(1273)のこの時、経王御前は、幼児であるから、実際には、四条金吾または夫人の日眼女に与えられたものと考えられる。
このとき、大聖人は佐渡・一の谷の一谷入道の邸におられたが、流人の身であることに変わりはなく、不自由な境遇にあって、四条金吾から送られたお金を、とくに喜ばれている。
お手紙としても、決して長いほうではないが、御本尊が大聖人の生命であり、この御本尊を深く信ずることが大事であることが強調されており、内容はきわめて重要である。すなわち、大聖人は竜口の頸の座で発迹顕本され、末法の本仏、久遠元初の自受用身如来としての境地を開顕されたのであるが、一切衆生の信行の根本対象を確立することによって、その御本仏としての使命は完結する。
四条金吾をはじめ、当時の大聖人門下は、権教を捨てて法華経に帰すべきこと、日々の修行としては題目を唱えることは知っていても、信仰の対象は日蓮大聖人としか知らなかった。否、それさえ知らず、釈迦像を本尊と考えている門下も少なくなかったのである。それに対して、本抄では、その信行の根本依処が何であり、したがって、信仰の正しいあり方はいかにあるべきかを明確に教示されている。この点を明らかにされた御書は、数多い述作の中でも稀であって、その意味でも、本抄は、非常に大事な御書ということができる。
夫について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候
日蓮大聖人が経王御前の健康の回復を願って日天・月天等の諸天善神に二六時中祈っていると、最大の激励をされている一節である。
母親にとって子供が病気になることほど不安で心配なことはない。しかも経王御前の場合は、姉の月満御前と同じように大聖人から名前をいただいたものと推測され、経王御前御書においては「現世には跡をつぐべき孝子なり。後生には又導かれて仏にならせ給うべし」(1123)とまでいわれた子供である。四条金吾夫妻の心労は並々ならぬものであったろう。
そのような状態にあって、この「二六時中に日月天に祈り申し候」の一言は、どれほど大きな激励になったか測り知れない。「日月天に祈る」とは、宇宙生命の一つの象徴として日月天といわれたともいえるし、生命を守り育むべき諸天善神に仰せつけられたともいえよう。
確かに、大聖人は民衆の幸福を奪う傲慢な魔の勢力に対しては、師子王のごとく敢然と挑まれていった。
「立正安国論」「十一通御書」等には、烈々たる気魄、破邪顕正の精神が躍動している。その反面、大聖人は庶民の一人ひとりを実に大事にされた。庶民の幸福を願い、さまざまな角度から激励され、人情の機微をわきまえた細々とした配慮をなされているのである。
其の本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕し奉る事たえたり
中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」としたためられた、事の一念三千の御本尊は、正法・像法二千年間、だれも聞いたこともないし、まして書き顕わした事もない、未曽有の本尊であるとの仰せである。もちろん、釈尊も顕わしてはいない。その釈尊も、竜樹、天親も、天台、伝教も顕わすことのできなかった本尊を、いま末法において、日蓮大聖人がはじめて書き顕わしたのであるという、自負のお言葉と拝せよう。
仏法は「一切衆生皆成仏道」―全民衆を等しく成仏の道に入らしめることに本意がある。そのために釈迦は法華経を説いて生命の哲理を明かし、衆生の生命に仏性があることを示した。成仏とはこの仏性を開覚することにほかならず、その開覚のためには法華経を信じ、受持・読・誦・解説・書写の修行に励まなければならないと教えた。また、天台は己心に法華経の哲理を観ずることが成仏の要諦であると示したのである。しかしながら、では、その仏性の当体とは何か、成仏の根源の種子は何かを明示することはなかった。
これに対して、日蓮大聖人は、はじめて、その実体が「南無妙法蓮華経」であることを明かされ、本尊として図顕されたのである。そして、この本尊を受持し、信じて題目を唱えるならば、境智冥合して、わが身もまた妙法の当体となることを教えられている。すなわち、五種の修行や内観などという方法に重点をおいた釈尊および正像の仏法に対し、本尊を根本として、修行は信じ受持することに尽きるとするところに、末法の日蓮大聖人の教えの特質があるといえよう。
過去の仏法は、目的に迫る過程しか示すことができなかった。その目的そのものを、本尊という明確な実体として顕わしたのが大聖人の仏法である。ここに、仏としての力および資格の、格段の違いがあることを知らなければならない。また、厳密にして複雑な修行を必要とするものは、そうした条件にかなった一部の人々しか救うことができない。それに対して、修行の簡易な教えは、あらゆる階層、立ち場の人々を、等しく救っていくことができる。ここに、大聖人が、一切衆生皆成仏道の根本依処として、御本尊を図顕されたことの重大な意義があるといわなければなるまい。
日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず
御本尊を認めるにあたっての大聖人の心構え、姿勢を述べられた文である。大聖人は、全生命力をこの一幅の曼荼羅に込められているのである。それゆえにこそ、御本尊は即、日蓮大聖人の生命そのものであり、偉大な力があるのである。
御本尊の功力とは、衆生を成仏得道せしめることである。御義口伝(0753)にいわく「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」と。また観心本尊抄(0246)にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と。
仏法の八万法蔵を凝集し、宇宙生命の縮図ともいうべき当体が御本尊である。たとい一機一縁の御本尊といえども、小さなお守り御本尊といえども、衆生成仏の根源として、そこには仏法の一切が秘められているのである。すなわち、御本仏日蓮大聖人の全生命が注入されているのである。したがって、この御本尊を信受する者も、次章以下に教示されるように、強い確信をもって信行に励むことが要求されるのである。
第二章(本尊受持の精神を示す)
本文
又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、さいはいは愛染の如く福は毘沙門の如くなるべし、いかなる処にて遊びたはぶるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし、十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり、但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし、
現代語訳
また、この曼荼羅をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どのような病が、障をなすことができようか。
鬼女母神、十羅刹女は、法華経の題目を持つ者を守護すると経文に見えている。幸せは愛染明王のように、福運は毘沙門天のように備わっていくであろう。
たとえ、どのようなところに遊びたわむれていても、災難のあるはずがない。悠々と遊行して畏れのないことは師子王のようであろう。十羅刹女のなかでも皐諦女の守護がとくに深いことであろう。
ただし御信心によるのである。剣なども、勇気のない人のためには何の役にも立たない。法華経という利剣は、信心の殊勝な人が用いる時こそ役にたつのであり、これこそ鬼に金棒なのである。
語釈
曼荼羅
梵語マンダラ(maṇḍala)の音写。曼荼羅などとも書き、道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。古代インドの風習として、諸仏を祀(まつ)るために方形または円形に区画した区域に起源をもつ。転じて、信仰の対象として諸仏を総集して図顕したものを曼陀羅というようになった。①本尊のこと。②菩提道場のこと。釈尊が成道した菩提座、及びその周辺の区域。③壇のこと。仏像等を安置して供物・供具などを供える場所。④密教では本質、心髄などを有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に画いたものをいう。本抄の場合は、日蓮大聖人の出世の本懐である事の一念三千の御本尊のこと。
鬼子母神
梵名ハーリティー(Hārītī)、音写して訶梨帝、訶梨帝母と書き、鬼子母神と訳する。インドでは出産の女神としている。鬼神槃闍迦の妻で一万の子があったといわれ、性質は凶暴で、王舎城に来て幼児を取って食うのを常とした。釈尊はそれを誡めるため、末子の嬪伽羅をとって隠したところ、探しあぐねて釈尊のところにいき、その安否をたずねた。釈尊は今後、人の子を取って食うことをしないと誓わせ、その子を返した。以後仏法に帰依し、法華経陀羅尼品で法華経の行者を守護することを誓った。
十羅刹女
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
愛染
愛染明王のこと。大日如来あるいは金剛薩埵を本地とする明王で、衆生の煩悩を浄化し解脱させるとされる。愛染の梵語ラーガ(rāga)は愛貪染者の意。その姿は赤色で忿怒の相を示し、三目六臂で、その手にそれぞれの弓や箭などを持っている。
毘沙門
毘沙門天王のこと。四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
皐諦女
もともと十羅刹女の中でも、ただ一人の善鬼とされており、法華経陀羅尼品でも「皐諦よ。汝等、及び眷属は応当に是の如き法師を擁護すべし」と。とくに皐諦女に法華経の行者の守護が託されている。
けなげ
勇ましい。かいがいしい。たのもしい。
講義
御本尊を信受する心構え、その功徳がいかに広大であるかを説かれている段である。
此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし
「能く能く」と仰せられている言葉に、深く心を止むべき一文である。「能く御本尊を信ずる」という場合、では、いかに信ずることをいうのかということは、大聖人の教えのなかから全体的、総合的に考える以外にない。さまざまに考えられるが「無疑曰信」といわれているように、疑うことなく、どこまでも御本尊を信じきるということである。絶対に間違いないと確信することである。
また、この御本尊をただ一筋に信ずることである。他にも正しいものがあるのではないかといった信仰のあり方であってはならない。純粋に、ただ御本尊を信ずることが大切である。「法華折伏破権門理」の原理のままに、他に帰命すべき正しい本尊は絶対にないという信心でなければならない。
また、三障四魔、三類の強敵にあって崩れるような信心であってはならない。いかなる障礙にあおうと、毅然として信仰を貫くべきであるとの意も、この言葉のなかに含まれていると考えるべきであろう。
さらにまた、惰性の信心ではなく「月月・日日につより給へ」(1190:11)の御金言のごとく、主体性、能動的に、新鮮な決意と自覚をもって信仰することである。
もとより、このほかにも、さまざまな表現の仕方や、要素も考えられるであろうが「能く能く」とのお言葉に深く思いをいたして、強い信心を貫いていきたいものである。
南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや云云
御本尊を信受した者の功徳を二つの面から示されている。「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」云云とは、その人の本源的な生命の躍動の力をいわれている。すなわち、南無妙法蓮華経という本源的生命の力が、題目を唱えることによって躍動してくるのである。それは、あたかも百獣の王である師子の一吼が、あらゆる獣の声を圧して沈黙させてしまうように、煩悩や病悩の生命のリズムを吹き消してしまう、強大な力がある。ゆえに「いかなる病さはりをなすべきや」と断言されているのである。
およそ、病気というものは、生命力の衰えに乗じて起こってくるものである。古いドイツの諺に「病気は神が治す、カネは医者がとる」というのがあるが、病気を治す根本の力が、その人自身の生命力にあることは、よく知られているとおりである。そして、生命は本来、あらゆる病気に対して、抵抗する力、治癒する力をもっている。その生命力の本源の実体こそ、南無妙法蓮華経にほかならない。
いな「病」とは、肉体の上に起こる病気ばかりではない。人生のあらゆる悩み、苦しみも、みな、同じ方程式で起こってくる。生命力が弱まれば、病悩・苦悩に敗れて、不幸のどん底に落ちるのである。いかなる悩み、苦しみが襲ってこようと、強い生命力があるなら、悠々とこれを克服し、乗り越えていくことができる。むしろ、そうした起伏は、人生に華をそえるにすぎず、それゆえにこそ楽しいといえるようになるであろう。
これを幸福を実現する正報、主体の面の条件とすると、次の「鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり」は、その依報、状況の面の条件といえよう。病気の人の例でいえば、腕のよい医者にめぐりあったとか、すぐれた薬が手に入った等の現象がこれにあたる。鬼子母神・十羅刹女といった諸天善神は、このような周囲の状況、環境条件について、その、人々の幸福に寄与する働きをシンボライズして立てられた概念なのである。ここでは、経王御前が女性であるところから、諸天善神も女性を代表としてあげられたのであるが、他に、梵天・帝釈・日天・月天・四天王などがあることはいうまでもない。
ともあれ、御本尊は、中央に認められた首題の「南無妙法蓮華経」を根本に、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩、さらに梵・釈・日・月・四天・鬼子母神・十羅刹女等、十界のあらゆる生命を包含している。ゆえに、この御本尊に題目を唱えるとき、根本の「南無妙法蓮華経」の大生命が躍動するのみならず、諸天善神などの働きも活発になり、いっさいが幸福の増進へと働いていくことになるのである。
さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし
愛染すなわち愛染明王は愛欲をつかさどる神とされ、煩悩をあらわす。「さいはい」とは「さきはい」の音便といわれ「さき」は「さち」と同じである。すなわち「さち」に満ちあふれる状態で、現実の姿の上で恵まれていることを意味する。したがって「さいはいは愛染の如く」とは、願望が満たされて感ずる幸福境涯であり、煩悩即菩提の原理をいわれたものと考えてよい。
毘沙門は、四天王の一人で多聞天といい、仏法を守護し、福徳を施与する神とされる。「福は毘沙門の如し」とは、生命の内に、知らず識らず積んでいく福運であると考えられる。具体的に現象としてあらわれるというより、生活、人生全体が、幸福に包まれていくような姿であろう。前者を〝顕益〟とすると後者は〝冥益〟といってもよいと思われる。
このように、人間の幸福には、二つの要因があり、その両方とも具現していくのが御本尊の功力であるとの仰せである。もとより、より根本的なのは〝冥益〟であり〝福〟の方であるが、人の世を生きていくうえにおいて、種々の悩みがつきまとうのは当然であり、生命の内にある〝福〟といえども、そうした生活の場面にあっては〝顕益〟とし、悩みが解決し菩提へと転ずるかたちをとらざるを得ない。この両面が具現されるところに、人間の真実の幸福があるのである。
いかなる処にて遊びたはぶるともつつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし
日蓮大聖人御図顕の南無妙法蓮華経の御本尊を信じきっていくならば、いかなる処であっても、衆生所遊楽の境地で、楽しんでいけるということである。すなわち、絶対的幸福の境涯になるとの意である。
「いかなる処にて」とは、どのような社会的条件のもとにあっても、ということである。どのような国土であろうと、いかなる職業や階層に属しようと、そこで、最高に幸福な人生を生きていけるのが「衆生所遊楽」である。「遊びたはぶる」また「遊行」とは、生きていること自体が楽しいという境涯である。
だからといって、人生途上において、障害や苦難がないというわけではない。種々の摩擦や起伏があるのは当然である。だが「畏れ無きこと師子王の如くなるべし」と仰せのように、百獣は横行するとも、あたかも師子王が、いかなる獣をも恐れないように、悠然と苦難や障害を乗り越えて、人生、社会を楽しみながら生きることができるというのである。
この一文は、所詮、人生の究極の理想は、生きること自体を楽しむことにあるとの真理を示されているといえる。もとより「生きること自体を楽しむ」といっても、心の底から楽しむためには、無気力な諦めに堕したり、他人の苦しみを無視したものでは、ありえない。自己自身の人間としての完成と、他のあらゆる人々の幸福のため、全生命を傾倒していく、張りつめた充実感のなかに、はじめてこの遊楽が可能となることを忘れてはならないであろう。
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ゆる事なれ。鬼にかなぼうたるべし
法華経すなわち南無妙法蓮華経の御本尊は、不幸の根源である生命の無明を断ち切る剣である。それは、あらゆる思想・宗教など比肩すべくもない利剣といえよう。その力がいかに偉大であるかは、これまでに述べられたとおりであり、衆生をして師子王のごとき遊楽の境地に住せしめることができるのである。
だが、どんなにすぐれた名剣であろうと、それを使いこなすためには、技術と勇気と、そして、正しい心が必要であるように、法華経の剣もまた、その力を充分に発揮させるためには〝信心〟がなければならない。「けなげ」とは勇気であるが、力強さ、深さ、まっすぐであること等の意味を含む。
信心が強く深ければ、それだけ、偉大な功力を抽き出すことができるのである。南無妙法蓮華経は宇宙生命の当体であるがゆえに、その力は、祈る人の信力・行力の強さにしたがって、無限に大きい。どれだけその力を具現化できるかは、全く、その人の祈りの強さによるのである。
しかしながら、ここで「祈り」といい、「信心」といっても、それは、御本尊に任せて、自分は努力しないということではない。人間として、社会に生きる者として、人一倍、真剣に努力し、誠意を尽くすことも〝信心〟のなかに入ると考えるべきである。なぜなら、「三世諸仏総勘文抄」に「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す」(0566:15)と教示されている。名字即とは「頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり」(0752:07)で、この御本尊の信仰の出発点であり、基本姿勢にほかならないからである。
この御本尊への確信、人間としての努力を忘れない人が「信心のけなげなる人」であって、そのとき「かなぼう」を得た鬼のように、いかなる苦難をも克服してゆける力強い人生を歩むことができるのである。
第三章(末法の独自性を示す)
本文
日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。
現代語訳
この御本尊は、日蓮が魂を墨に染めながして書き認めたのである。信じていきなさい。釈迦仏の本意は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経にすぎたものはない。妙楽大師の法華文句記に「本地の遠寿を顕わすことをもってその根本となす」と解釈されている。
語釈
日蓮がたましひ
日蓮大聖人の根本の当体が南無妙法蓮華経であるということ。
仏の御意
釈尊の本意。元意。
妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
顕本遠寿を以て其の命と為す
妙楽の法華文句記巻10にある。本の遠寿を顕わすこと。法華経本門において、久遠・五百塵点劫に成道なされた、長遠なる仏の命を顕されたことを意味する。文底下種の義においては、法華経本門寿量品の文底に秘沈なされた、久遠元初自受用身の本地の開顕、人法一箇の大御本尊の御当体となる。
講義
日蓮大聖人によって、この末法に初めて開顕された南無妙法蓮華経の御本尊が、いかに釈迦仏法と異なる独自のものであるかを示されている。
三大秘法抄にいわく、
「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」(1022:08)と。
「五百塵点の当初」とは、すなわち久遠元初の謂である。ゆえに、この文に仰せの「教主釈尊」とは、とりもなおさず久遠元初の自受用身如来のことにほかならない。「寿量品に建立する所の」とは、釈迦が建立したという意味ではなく、寿量品を依文として、日蓮大聖人が建立する、との意である。それは、次の御義口伝の文に明らかであろう。
「御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云」(0760:第廿五建立御本尊等の事:01)と。
いま、三大秘法抄の文といい、この御義口伝といい、大聖人正意の本尊とは、久遠元初の自受用身即末法の法華経の行者の一身の当体であると明示されている。これは、人すなわち仏身に約して、このように説かれているのである。いいかえると、日蓮大聖人の生命自体が本尊であるということである。
しかしながら、それだけでは、大聖人御在世当時の人々はよいとしても、入滅されてのちの民衆は、根本依処の本尊がなくなってしまう。それを、大聖人は御自身の生命を「すみにそめながして」一幅の曼荼羅として、末法万年の未来まで、一切衆生の帰命すべき本尊を遺されたのである。この経王殿御返事の本文に仰せの「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」の言葉こそ、御本尊即大聖人の御生命、人法一箇であることを示されたものであり、大聖人を直接に拝することのできぬ衆生への大慈悲のお心なのである。
仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
種脱相対を明らかにされた御文である。「仏の御意は法華経なり」の仏とは、インド応誕の釈迦であり、脱益仏法の教主である。その釈迦の本意、根本精神は法華経二十八品である。これに対し、下種の教主である日蓮大聖人の生命は、南無妙法蓮華経以外のなにものでもないと断言されているのである。
「上野殿御返事」に仰せのように「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)である。末法においては、釈迦の教えは、たとえ法華経といえども、成仏の法とはなりえない。ただ日蓮大聖人の教えを信じ、三大秘法の御本尊を受持し、題目を唱え、行ずる以外に、成仏得道の法はないのである。
文は短く、内容も、釈迦と御自身がどう違うかを簡潔に言い切られているのみである。だが、この底には、もはや正像も過ぎて形骸化し、のみならず濁乱しきっている釈迦の仏法に対して、末法万年尽未来際の全民衆を救うべき、末法の仏が御自身であるとの大確信が秘められていることを知らなければならない。そして、その大聖人の教えの根本義こそ、御自身の生命を「すみにそめながして」図顕された南無妙法蓮華経の御本尊なのである。
妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」
法華文句記巻第十下の「此の経は常住仏性を以て咽喉と為し、一乗妙行を以て眼目と為し、再生敗種を以て心腑と為し、顕本遠寿を以て其の命と為す」の文である。顕本遠寿とは、いうまでもなく、寿量品の発迹顕本、開近顕遠すなわち五百塵点劫成道を明かしたことである。法華経二十八品においては、この顕本遠寿がその命であり、最も肝要であるとの意である。
いま、大聖人がこの妙楽の文を引かれた元意は、釈迦において顕本遠寿が命であるのと同じく、日蓮大聖人においても顕本遠寿がその御命であることを示さんがためである。では大聖人において顕本遠寿とは何か。本とは、本地内証の無作三身であり、遠寿とは久遠元初の生命である。これはすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならない。
このように、釈迦においては五百塵点劫の成道、大聖人においては久遠元初の妙法と、明確に区別されるが、両者は無関係のものではなく、甚深の関係がある。つまり、釈迦は五百塵点劫の成道の当初において「我れ本、菩薩の道を行ず」と、菩薩道を修したと説いている。この菩薩道は本因初住の位に入った根底に、久遠元初の妙法を受持したことが言外に示されているのである。
したがって、釈迦の顕本遠寿をもう一歩掘り下げて、そこに秘されている真理を究明したときに、日蓮大聖人の顕本遠寿があらわれてくるわけである。釈迦はただその結果しか明かしていないので本果妙の教主というのであり、大聖人はその本因を明示されたので本因妙の教主と申し上げる。これは当然、衆生救済のあり方にも反映し、釈迦の教えは、あくまで脱益仏法であり、大聖人の教えは、成仏の根源の種子をうえる下種仏法となるのである。
第四章(法華経の功力の偉大なるを明かす)
本文
経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき、「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処」疑なからん、又申し候当国の大難ゆり候はば・いそぎ・いそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし、法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり、ただ歎く所は露命計りなり天たすけ給へと強盛に申し候、浄徳夫人・竜女の跡をつがせ給へ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。
八月十五日 日 蓮 花 押
経王御前御返事
現代語訳
経王御前にとっては、今の禍いも転じて幸いとなるであろう。心して信心を奮い起こしてこの御本尊に御祈念していきなさい。何事か成就しないわけがあろうか。
法華経薬王品には「その願いが充満して、清涼の池のごとし」とあり、また薬草喩品には「現世は安穏にして、後の世には善処に生まれる」とある。これらの経文の通りになることは疑いないところであろう。
また申し上げましょう。佐渡の国への流罪という大難が許されたならば、大急ぎで鎌倉へのぼり、お目にかかりましょう。
法華経の功徳力を思うと、不老不死は目前にある。ただ歎くところは、経王御前の露のようにはかない命だけである。天助けたまえと強盛に祈っております。浄徳夫人や竜女の跡を継ぎなさい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。あなかしこ、あなかしこ。
八月十五日 日 蓮 花 押
経王御前御返事
語釈
不老不死
老いたり死んだりしない若々しい生命状態をいう。
露命
露のようにはかない命。
浄徳夫人
妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。妙荘厳王の夫人で浄蔵・浄眼の母。過去の雲雷音宿王華智仏の在世のとき、光明荘厳という国があり、劫を憙見といい、その時の王が妙荘厳王である。浄徳夫人および子供が正法を信仰していたのに対し、王ははじめ反対していたが、やがて二子に導かれて信仰し、娑羅樹王仏の記別を受けた。この四人の過去の因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は、仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者が、その功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と二人の王子に生まれて、王を救うことを誓ったという。
竜女
法華経提婆達多品第十二に説かれた娑竭羅竜王の女。文殊師利菩薩の化導で菩提心を発し、即身成仏の相を示して、女人成仏の実証となった。
講義
これほどの偉大な力ある御本尊であるから、強盛な信力をもって祈念するならば、いかなる願いも叶い、満足しきった、永遠の幸福境涯に住していくことができると仰せられているところである。とくに「何事か成就せざるべき」との大聖人の大確信の言葉を、自らの信念としていくべきであろう。
経王御前にはわざはひも転じて幸となるべし
経王御前が病気になってしまったということは禍いであるが、それを克服すればかえって幸いへと転ずるであろうと激励されているのである。
大病を克服した人が、病気をあまりしない人より強靭な体になることは、しばしば見聞されるところである。試練に耐えたからであろう。さらにこれは病気ばかりでなく、あらゆる人生の問題についてもいえる。失敗は成功の母であり、経験は人生の財なのである。
ただし、禍いを転じて福とするかどうかは、それにくじけず、努力と挑戦をやりきったかどうかによって決まることを忘れてはならない。
御本尊への信仰を根本に、自らの宿命を打ち破っていったときに、ただ禍いが解決するだけでなく、思いもかけない幸福境地が開けてくるのである。
法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。ただ歎く所は露命計りなり
「不老不死」とは、この肉体が不老不死になるということではない。肉体の生老病死は自然の理であり、それを逃れることはできない。
ここでいわれている意味は、御本尊の功力によって、己心に仏性が湧現し、永遠の幸福を会得するということである。いわゆる内証の覚知の問題である。
現実の肉体は、いかなる人も生老病死をまぬかれることはできないし、まして、病弱な幼児の経王御前の生命は、いつ、どのような災厄にあってかき消されないとも限らない。それを「ただ歎く所は露命計りなり」といわれているのである。
このように、肉身としての〝露命〟と、内に妙法の珠を抱くが故の〝不老不死〟とを分けられているのであるが、同じく、妙法の確信による〝絶対的幸福〟と、外界とのかかわりによる〝相対的幸福〟とも、本質的には別のものと考えるべきである。すなわち、相対的幸福は、どのように累積しても〝絶対的幸福〟にはならない。
〝絶対的幸福〟とは、ただ御本尊への不動の信仰から、己心に開かれる生命の歓喜にあるのである。大聖人が佐渡にあって、流人の身として、苦しみのどん底にありながら、日本第一の富める者といわれているのも、このことにほかならない。
ただし「仏法は体なり世法は影なり」と教示されるように、己心にひらいた〝絶対的幸福〟あるいは〝不老不死〟の境地は、必ず現実の生活、人生のうえにも〝影〟として実証されていくものである。これを、どう実証するかは、その人の努力と英知であり、社会に対する誠意ある実践による。ただ、経王御前の場合は、自らそうした力はまだないがゆえに、大聖人が「天たすけ給へ」と諸天善神に、その加護を仰せつけられているのである。成人にあっては、自身の社会における努力、社会人としての姿勢のなかに〝諸天善神〟の働きがあると考えるべきであろう。