異体同心事(2008:09 大白蓮華より 先生の講義)
異体同心 確かなる「絶対勝利の軌道」
「広布勝利の証し」を世界人類に
「人生勝利の人華」を未来へ陸続と
歌は、心を一つにします。
学会歌は、広宣流布の同志を一つに結びます。今、全国・全世界の同志が、声高らかに学会歌を歌いながら、新しい時代の大建設へ、さっそうと前進しています。
歌は、勝利への呼吸です。
歌は、師弟のスクラムです。
戸田先生も、よく青年に歌わせました。指揮を執らせ、舞を舞われた。ある時は、戸田先生自ら、座布団一枚の上で、見事に舞い、歌の指揮を執られました。
私も、行く先々で、皆と歌い、皆を鼓舞するために舞を舞った。そして皆と心を一つにして、広宣流布の師匠である戸田先生に生命のギアを合わせ、平和と文化と人間共和の大進軍を開始しました。
師弟不二と異体同心は車の両輪
創価学会が心と心を結ぶ歌を大切にしてきたのは、師と弟子の心を結ぶ「師弟不二」と、同志と同志の心をむすぶ「異体同心」こそ、広宣流布と人生における絶対勝利のための不変の方程式だからです。
一人一人の信心の深化も、広宣流布の前進も、ひとえに、その根本は「師弟不二」と「異体同心」にある。
創価学会の発展も、この要諦を継承できるかどうか、一切が決まるといっても過言ではありません。
私は、大田で、文京で、北海道で、大阪で、山口で、一貫して戸田先生を語り、弟子として勝利しようと訴えてきました。広宣流布のために、弟子が一致団結できるかどうか。師匠の教えのままに、生き抜けるかどうか。ここに未来の一切がかかっているとの思いで「師弟不二」を軸とした「異体同心」の勝利のリズムを築いてきました。
千万馬力のモーターが回っているとき、そのモーターにギアを合わせれば、つぎつぎと千万馬力が伝わります。したがって、広宣流布の師匠に呼吸を合わせる団結こそが、勝利の方程式となります。
その一点で、「師弟不二」「異体同心」を破壊しようとする悪とは断固、戦うことが重要となる。戸田先生は「戸田の命よりも大事な学会の組織」と幾度も語られました。また「清浄な創価学会の組織を攪乱する者を追放せよ」と厳命されました。
「師弟不二」と「異体同心」は、本来、切り離せるものではなく、車の両輪の関係にあります。どこまでも和合僧を大切にして「異体同心」を実現する努力がなければ、本当の不二の弟子でるとは言えない。
「師弟不二」の実践と「異体同心」の団結があれば、必ず広宣流布を成就することができる、というのが蓮祖大聖人の御聖訓です。
一切の勝利は「異体同心」の組織を構築できるかどうかにある。この一点を再認識する意味で、今回は「異体同心事」を拝読します。ともどもに、我が使命の実現へ、そして、新しき勝利の峰へ、仏法の最高の将軍学を学んでいきましょう。
本文
はわき房さど房等の事あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は 外典三千余巻に定りて候、
現代語訳
伯耆房・佐渡房等の事や熱原の人々の御志が異体同心であるときは万事を成就し、同体異心であるときは何事もかなうことはない。このことは外典三千余巻に定まっている。
講義
団結は大難を乗り越える要諦
「異体同心事」という御書は、御述作の年月や、送られた人が不明です。また、この御書は、前半の異体同心の仰せと、後半の蒙古襲来の仰せについては、内容的に直接、関係がないことから、日亨上人は、もとは二つの御書だったが、後世の伝写の時に錯覚して一つになったのではないかと指摘しています。今回は、この御書の前半部分にある「異体同心」についての教えを中心に拝していきたいと思います。
この御書の前半に限っていえば、駿河の地で弘教に活躍していた日興上人のお名前や「あつわらの者どもの御心ざし」という表現があるところから、熱原の不穏な動きが出てきた建治年間にかけての頃に、高橋六郎兵衛入道などの駿河の中心的門下に送られた御書ではないかと推定されます。
その場合、やがて熱原の法難に発展していく権力からの迫害がすでに始まっており、その大難を乗り越えていく要諦として、「異体同心」の団結を強調された御書であると拝することができます。すなわち、駿河の地は、いつ法難が起きても不思議ではない状況であるからこそ、魔を打ち破る鍵は、どこまでも信心に団結にしかないことを、明快に教えられていると拝することができる。
信心の団結こそが、第六天の魔王を破る唯一の“武器”だからです。
あらためて確認すれば「異体同心」の「異体」とは、それぞれの個性、特質、立場等が異なることです。
「同心」とは、一般的に言えば目的観や価値観が同じことです。また、高い目的観や価値観を実現していこうという意志が一致していることでもあります。
仏法のうえで言えば、仏の心であり遺命である「広宣流布」を我が使命として自覚し実践し抜いていく「師弟不二の信心」にこそ、「同心」の核心があります。師と同じ精神に立って、戦いに挑み、勝利することが「異体同心」の根幹です。
また「異体」との仰せがどこまでも重要です。いわゆる「一心同体」などの表現ではなく「異体同心」と仰せられているところに甚深意味を拝することができます。
すなわち「同心」といっても、一人一人の個性を殺すことはありません。「妙法」によって、一人一人の可能性が最大限に発揮されたときに、「異体同心」の大いなる力が現われるのです。
仏は、すべてのものを結びつける宇宙根源の力を発見しました。それが「妙法」です。さらに、人間が、その妙法の力を自分の生き方として現しうる可能性をもっていることをも発見しました。それが「仏性」であり、「法性」です。
一人一人の人間が、この仏性の智慧を現すことによってのみ、仏法における「異体同心」が成り立つのです。一人一人が、我執を超えて、最高の可能性と個性を発揮していくゆえに、「異体同心」は絶対勝利の軌道になっていくのです。
このとき同時に、一人一人は、人間の悪と不幸に縛りつけられている無明の力から解放されることを忘れてはなりません。
「異体同心」は決して束縛や画一化による団結ではなく、一人一人の生命における仏性の智慧の発揮なのです。仏の心に一致することによる団結なのです。
「異体」とは「あらゆる人が人材」「あらゆる人が最高の人生を」という仏法の大鉄則に裏づけされている表現であると言えます。
ここで大聖人は、「異体同心」こそが勝利の要諦であることについて、「外典三千余巻に定まりて候」と示されています。文化と思想の大国である中国でも、異体同心こそが事を成就するための要諦であることは確固たる定義として通っているということです。
そして次に、この定説の典型的な例として殷の紂王と周の武王の戦を取り上げられています。
本文
殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ、
現代語訳
殷の紂王は七十万騎の軍勢であったが、同体異心であったので、戦に負けてしまった。周の武王は八百人、異体同心であったので勝った。
講義
「民の力」を糾合する真のリーダーに
ここで取り上げられている戦は「殷周戦争」あるいは「殷周革命」と呼ばれ、司馬遷の『史記』などで有名です。
大聖人がこの例を挙げられているのは、単なる一例としてではなく、「異体同心」の意義を示す上で示唆に富んでいるからであると拝することができます。
今から3000年以上も前の紀元前11世紀頃、中国殷王朝の最後の王である紂王は、70万騎の大軍を擁していました。それに対して、紂王の悪政に立ち上がった周の武王の側に集った勢力は800の諸候の軍勢であった。その実際の数は分かりませんが、一説には、45000人の軍勢であったともあります。
常識的に考えれば、圧倒的に力が違い、殷の優勢は揺るぎません。しかし、現実には、殷の兵士たちは戦意が全くなかった。兵士たちは皆、武器を逆さまにして、周の軍勢が進む道を自ら開けたと伝えられます。紂王が敗れたのは、まさに、殷の軍勢が、暴君と言われる紂王に対して反発心を懐くなど、王と軍の心が離れていたからに他なりません。
「殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ」と仰せの通りです。
武王の軍は「悪政を許すな!」という道義のために諸候が結集した、異体同心です。
紂王の軍は、形は王を守る兵士であったが、心は王と異なっていた、同体異心です。
組織論から見れば、「異体同心」の実践上の急所は、リーダーの姿勢です。一見、矛盾するようですが、中心者が一人立ち上がることから、「異体同心」が始まります。
指導者が真剣で誠実であれば、多くの人が共鳴して「異体」を「同心」にしゆく団結が生れます。反対にトップが臆病で権威的であれば、団結はできない。
その端的な例が、今述べた殷の紂王と周の武王の違いであるとも言えましょう。
『史記』によると、紂王は「弁舌にたけ」「頭の回転が早かった」。また「怪力の持主」でした。しかし、優秀であるゆえに、己の「どんな非をも正当化し」「臣下を無能よばわりし、ひたすら自分の権威を誇った」慢心のリーダーのもとからは団結が生れないことは、歴史の教訓です。
紂王のもとには三人の有力諸候がいましたが、紂王は、そのうち二人を殺し、もう一人も幽閉の後、放逐します。その一人が、周の西伯すなわち武王の父です。紂王の悪政を諌めようたした臣下がことごとく排除され「諂い」と「讒言」に長けた人間だけが残っていったのです。
一方、殷の支配力のもとにあった周の国では、西伯を中心に善政が行われていた。周辺の諸候も、何か争いがあると、西伯に裁定を頼むようになりました。あるとき、ある二つの国の間で紛争が起こり、なかなか解決しないので、両国の君主が裁定を求めて周を訪れた、その様子を『史記』は伝えている。
「一歩周の領内にはいってみると、農民はあぜを譲りあっているし、なにごとによらず年長者に譲る気風がみなぎっている。両君はすっかりわが身がはずかしくなった。
『われわれの争いなど、この国では物笑いのたねだ。これでは恥をかきにいくようなものではないか』
二人はすぐさま引き返し、互いに譲歩しあって和解の上、国に帰った」
大聖人は「周の代の七百年は文王の礼孝による」(0329:報恩抄:02)と記されています。周の国が長きにわたって栄えた「根本の功」は、文王が、礼を尽くして太公望という優れた師を迎え、先達を尊敬して大切にしたことにあるとの仰せです。
さて西伯が亡くなり、後を継いだのが武王です。武王は、軍師に太公望を、王の介添え役に、弟の周公旦を任命しました。戸田先生は、魚釣りをする太公望の姿や、太公望が武王の軍を指揮し、紂王を倒したことなどを、よく聞かせてくださいました。
大聖人は他の御書でも、武王が亡き父・文王の象徴を車に乗せて戦ったことに注目されています。まさに武王は孝養の人であり、太公望らと共に人々に善政を施したリーダーとして描かれています。
私たちの次元で言えば「民衆の力」を高めるためにリーダーが「一人立つ」ところから一切が始まる。そして、その理念に同志が賛同し糾合し「異体同心」の実践で、悪と戦い、悪を破る。そこに、広宣流布における民衆勝利の方程式が示されているといえます。
「異体同心」の組織をつくる重要性
「一人立つ」実践と、独裁とは根本的に違います。確かに、「一人立つ」勇者には、屹立した責任感から、果敢な決断が必要な時がある。しかし、真の指導者は、独裁者と異なり、同時に、大勢の真摯な意見に耳を傾けるものです。
特に今は、中核となる人たちと、よく話し合うことが大事です。同じ責任感を共有するリーダーたちと何でも協議する。そして、対話の力でスクラムを拡大させていく。そうすれば、創価学会の組織は、もっと発展していきます。
したがって、指導者は、広宣流布のために、そして皆が満足して立ち上がるために、何をすべきか、何を協議するか、絶えず心を配る。それが「異体同心」の組織の長の責務であるといえます。
また、中心者に正確な報告をすることも、「異体同心」の組織を築く必須条件となります。戸田先生は「大事なことを報告しないものは敵だ」とよく言われていました。中心者を支えていこうとしない異体同心の者は、厳しくいえば、敵を利することで「城者として城を破る」者となってしまうのです。
創価学会は、永遠に「異体同心がなればかちぬ」の御金言を魂に刻んでいく。その決意で、皆の信心と努力で「異体同心」の組織を作り、どこまでも常勝のリズムを築いていくのです。
本文
一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし、百人・千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず、
現代語訳
一人の心であても二つの心があれば、その心と心とが違って何事も成就することはない。百人や千人であっても一つの心であれば必ず物事を成就するのである。
講義
異体同心は、自身の一念の変革から
ここでは、「同心」の大切さを強調されています。
まず「一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし」と仰せです。
「一人の心」であっても、そこに「二つの心」、すなわち、異なる考えがあり、迷いがある場合は、何事も成就することはできません。これは道理です。一人の中に「異心」があれば、何もできない。どちらでもよいというのならば、一念は定まりません。
結局は、縁に紛動され、迷い乱れてしまうところに、凡夫のはかなさがあります。
まして、成仏という人生の根幹にかかわることで思い迷って、「二つの心」が生じてしまえば、仏道を成就することができないどころか、かえって不幸になってしまいます。
「心こそ大切」です。我が一念を定めることが、勝利の軌道を確立することになります。
一切は、自分の一念の変革から始まります。「異体同心」の団結を築くことも同じです。“自分はわるくない、他人が悪い”と言って、互いに責めあっていれば、永久に「異体異心」のままです。
人間の集団である以上、さまざまな人間がいます。なかには、自身と性格的に折り合いが付かない人がいるかもしれない。
だからこそ、自身の人間革命を根幹にしなければ、「異体同心」の絆を作ることは不可能です。大聖人は「自他彼此の心なく水魚の思いをなして異体同心にして」と仰せです。
人間にさまざまな個性があることは当然であり「違い」があるからといって、差別し排除することがあってはならない。その「違い」を認め合うかどうか「自他彼此の心なく」がどこまでも重要です。
「自他彼此の心」とは自己を孤立化させ、絶対化し、その自己に執着する我執から生れる。悪と不孝の心です。その心は、人により、時により、例えば軽蔑、憎しみ、妬み、恨み、憤懣、高慢、悪意、不機嫌、有鬱、頑迷、短気、裏切り、不知恩など、さまざまな形の悪の心として現れます。我執を超えて、妙法の力を現す人は、これらの悪と不幸の心から解放されていくのです。
また「水魚の思いを成して」と仰せです。これは、共に学び、実践し、前進する友に対して、さらには自分の縁するすべての友に対して抱く「親和」の思いです。「自他彼此の心」を超えた生命には、すべてを結びつける妙法の働きが顕現していくのです。
その人は、時には、自ら広布の主役として自在に活躍し、時には、中心者を支える陰の努力に徹します。しかも、どのような立場にあっても、妙法という宇宙根源の力によって生命は躍動していくのです。
私たちは、「異体同心」を目指して、人間革命していくなかで、「我執」を目指して人間革命していくなかで「我執」を破り、「身軽法重の信心」を確立していくことができるのです。どこまでも「法」根本の実践であるところに「異体同心」の本質があります。
大聖人はさらに、「百人・千人なれども一つの心なれば必ず事を成ず」と仰せです。この「一つの心」とは、先ほどの「水魚の思」と同じです。「信心の団結」で仲良く前進し、自他ともに勝利する。これが学会精神の真髄です。
戸田先生は、何度も語られました。
「創価学会のこれまでの発展というのは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何ものでもない。
異体だが、同心とするものの団結である。心などというものは、縁に紛動されて、どうにでもなってしまう。それが同じ心になるということは、よくよくのことだ。号令をかければ簡単にできるというものではないのです」
どこまでも『異体同心』の精神がなければ、広宣流布はできない。『異体同心』の精神に背くならば、日蓮大聖人の教えにも背くのである」
「一つの心なれば」との御金言を深く銘記したい。どこまでも、一切の勝利の実現は、私たちが「心を一つにする」粘り強い行動にあることを忘れてはなりません。
本文
日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし。
現代語訳
日本国の人々は多人数であっても体同異心なので何事も成就することは難しい。日蓮が一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるであろうと思われる。悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても、一水によって消えてしまう。この一門もまた同様である。
講義
「異体同心」の姿は広布勝利の証明
ここでは具体的に、当時の大聖人一門をめぐる状況を踏まえて、「異体同心」こそが「善の勝利の要諦」であることを浮き彫りにされています。
当時、日本国中の人々が大聖人の一門を憎み、迫害する側にいました。しかし、大聖人はここで、広宣流布の成否を決するものは、決して人数の多少ではないとされ、少数でも異体同心の団結があれば、必ず広宣流布は実現することを強調されています。
「日本国の人々は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜんことかたし」と仰せです。ここで言う「日本国の人々」とは、大聖人一門の法華経弘通に反発する当時の人々です。
大聖人の弘通は、法華経の理想を実現することを目指したものでした。その理想は「自他ともの幸福の実現」と「立正安国」として掲げられました。
しかじ、当時の日本国の人々は、この法華経の理想を理解できず、かえって反発したり、大聖人の一門を反発した。
ところが、弾圧する彼らの側には、現実変革の理想は全く見られない。
例えば、彼らが受け入れていた宗教は、現実社会を穢土として厭い捨てる浄土教、出家修行者の悟りに逃避する禅、敵国調伏の祈禱に終始するだけの真言・天台等の旧仏教などであり、結局、武家政権の宿命というべき戦乱の世に拍車をかけるに終わっていたのです。
確たる哲学も宗教もなく、人々の幸福の実現や社会の繁栄など望むべくもない状況だったのです。「多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし」との仰せの通りでした。
大聖人一門を迫害する「日本国の人人」は、いわば「反法華経」という一点では「体同」でしたが、思惑も利害もバラバラであり、理想を求める真摯な姿勢もないという「異心」のゆえに、結局は何も実現できないことは目に見えていたのです。
これに対して、「日蓮が一類は異体同心なれば人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚え候」と仰せです。
大聖人の一門は、異体同心だから、少数でも絶対に勝利して、広宣流布は必ずできるとの御断言です。
事実、熱原の信徒たちは、この仰せを貫き、いかなる権力の迫害にも屈することのない「魂の勝利」の実証を示しました。いかなる権力にも束縛されない民衆の強靭な魂は、今日の世界広宣流布の模範となり、民衆仏法の崩れざる原点となりました。
大聖人は諸法実相抄で「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360:09)と仰せです。
一人唱え始めた大聖人を師として、「二人・三人・百人」と唱え伝える「師弟不二」と「異体同心」の地涌の連帯があれば、必ず広宣流布はできると宣言されています。
実は、その時、その時において異体同心の姿を現していること自体が、「広布勝利の証明」であり、「広布進展の精華」なのです。すなわち、異体同心は「勝利への要諦」であるとともに「勝利の証明」でもあるのです。
また「異体同心」の躍動の中にいる地涌の友は、既に自分を悪と不幸に縛り付ける「自他彼此の心」から解放されています。人間として、これ以上の勝利の姿はありません。
要するに、異体同心の躍動の中では、すべての人は、妙法蓮華経の一法が「人華」として開花した勝利の姿を現しているのです。その姿は、人生全体の勝利に通じます。
妙法は「唯一の善の原理」
大聖人は本抄で、妙法の力を現して悪と戦い、前進する大聖人の一門を「一善」と表現されています。妙法こそ、すべてを結びつけて、いかなる悪をも滅していける唯一の善の原理」だからです。
「分断は悪」「結合は善」です。
仏界の生命は、すべてのものが互いに結びつく宇宙の実相を悟った智慧で、現実を生きていく生命です。
仏とは、分断の悪にあえぐ人間たちが織り成す現実の中で、人間と人間を結びつけ、安国と理想現実に尽力しつつ、全人類の平和を目指していく価値創造の生命に他ならない。
ゆえに「悪は多けれども一善にかつ事なし」と仰せです。善の太陽が昇れば、いかに深い悪の闇も、直ちに、そして必ず滅します。
「一善」とは、大聖人一門のことです。それは大聖人の一門こそ、障魔との戦いを恐れず妙法という根本の善を弘通しぬく戦いに徹する決意と実践があるからです。
私たちは法華経の理想を実現する広宣流布の戦いに生きています。誰にどう批判されようと、「民衆の力」を解放し、「民衆の時代」を築くために、汗を流し、足を鉄板のようにして歩き、岩盤に爪を立てる思いで戦ってきたのは、創価学会だけです。その事実があるからこそ、世界から賞讃がたえないのです。
一面から言えば、私たちの築いてきた「異体同心」の哲学と実践は、今、世界で注目される段階になったともいえます。
例えば、「分明間対話」も「宗教間対話」も、人類の発展のために、時代の要請であり、不可欠な行動になっています。いわば、人類全体が「異体同心」を模索しているともいえましょう。
それぞれの文明の差異を超えて、人間の「根本善」の開発のために、対話がいっそう重視される時代となっていることは、各界の識者が共通して認識している通りです。その先端に私たちがいると言うこともできます。
「善」と「善」の連帯を築き上げていく、私たちの「異体同心」の実践を、世界が待望しています。どこまでも、威風堂々と前進し、勝利の歴史を築いていきましょう。