清澄寺大衆中

清澄寺大衆中

 建治2年(ʼ76)1月11日 55歳 清澄寺知友

背景と大意

この手紙は建治2年(1276年)正月、大聖人が身延に住んでいた時に書かれたものである。題名が示す通り、これは大聖人が幼少期に修学のために送られた清澄山の清澄寺の僧侶たちに宛てられている。

清澄寺は、天平宝字2年(771年)に不思議という名の僧によって創建され、彼が自ら彫刻した虚空蔵菩薩像を安置したことに始まる。虚空蔵菩薩は、その智慧と福徳が宇宙のように広大であると信じられていた。

清澄寺は天台宗に属し、当初は法華経研究の中心地となった。しかしやがて真言宗の影響を受けて密教の修法を取り入れ、さらに後には阿弥陀仏を依りどころとする浄土教を採用するようになった。大聖人は16歳で正式に出家得度を受け、その後さらに仏教の研鑽を深めるために、各地の仏教の大寺院を訪れて学問を重ねた。

この手紙の中で大聖人は、自身が「大なる珠」を得たと述べているが、これはすなわち仏の智慧を体得したことを意味している。その後も経典や仏教伝統の諸文献に対する理解をさらに深め、最終的に1253年、清澄寺に入山してから20年後、初めて南無妙法蓮華経の教えを宣言されたのである。

 

 

はじめに

  本抄は、建治2年(1276)正月十一日、日蓮大聖人が55歳の時、身延から安房国の清澄寺大衆に与えられた御書である。

はじめに「真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に」とあるのは、前年の建治元年(12751226日、真言僧強仁より勘状が届き、法論対決を迫ったのに対し、大聖人が「世・出世の邪正を決断せんこと必ず公場なる可きなり(中略)速速天奏を経て疾疾対面を遂げ邪見を翻えし給え」(0184:強仁状御返事:04)と答えられたことから、真言宗と公場において対決する可能性が生じ、それに備えて天台・真言の疏釈を借用するために本抄をしたためられ、あわせて清澄寺の大衆を教導されたものであろう。

本抄をいただいたのは、清澄寺の住僧の一人とも思われるが、「安房の国清澄寺大衆中」と宛名されており、また御文の中で「清澄山の大衆」「大衆」と二度まで呼びかけられ、追伸で重ねて「大衆ごとに・よみきかせ給へ」と仰せなので、佐渡房日向および助阿闍梨を通じて清澄寺一山の大衆に与えられたものと考えることができる。

本抄の大意は、はじめに新春の挨拶と真言・天台の疏釈の借用を依頼され、「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」と、真言宗との公場対決を期されたうえ、大聖人が流罪・死罪等の大難にあわれたのは、生身の虚空蔵菩薩より大智慧をたまわって諸宗の勝劣・邪正を知り、真言・禅・念仏等の僻見を責めたためであると述べられている。しかし、いかに怨まれ諸難にあうとも、立正安国論の予言が事実となって自界叛逆難・他国侵逼難に日本の国があったのは「仏法が一国挙りて邪なるゆへ」であり、日蓮大聖人の教えに随って、邪法を排し正法を用いるしかないことを強く叫ばれている。

つぎに、とくに清澄寺の大衆は、大聖人から重恩を蒙っていることを述べられ、大聖人を父母とも三宝とも思わなければ今生には貧窮の身となり後生には無間地獄に堕ちるであろうと厳しく戒められている。また、領家の尼御前の愚癡多く信心弱き姿を憐れまれ、我が父母に恩のある人なので後生に悪道に堕とすまいと祈っているとの心情を述べられている。

最後に、過去・未来のことを正しく明かしているのが法華経であり、そのとおりに、蒙古の襲来を未萠に知った大聖人こそ法華経の行者であることを述べられ、清澄寺の大衆の正法への覚醒を強く促されているのである。

本抄は、旧縁ある清澄寺の人々に対する大聖人の深い御慈愛があふれており、また、生身の虚空蔵菩薩より大智慧をたまわったことへの、尽きせぬ感謝と報恩の御一念に貫かれている。

 

日蓮大聖人と安房・清澄寺

 

ここで、大聖人と安房・清澄寺の関係について述べてみよう。

貞応元年(1222216日、安房国東条郷小湊の地で三国の太夫、梅菊女を父母として聖誕された日蓮大聖人は、幼名を善日麿といわれた。「幼少の時より学文に心をかけ」(1292:破良観等御書:17)との仰せから、幼少の時から学問を好まれていたことがうかがえる。そのすぐれた資質を見ぬかれた父母のはからいで、天福元年(1233)、12歳の時、清澄寺へ登られ、道善房のもとで仏法修学の第一歩をふみ出されたことは「生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき」(0370:本尊問答抄:08)との仰せから明らかである。

出家剃髪されるまでの間、寺内にあって、師匠への給仕や仏事法要に参加する一方、勉学に精進されたことであろう。道善房に師事して修学する善日麿を教導したのが、法兄である浄顕房、義浄房の二人である。大聖人は後に「各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし」(0324:報恩抄:01)と述べられているように、仏教修学の基礎をこの二人から手ほどきされたのである。

清澄寺は、安房でも有数な大寺で、宝亀2年(0771)に不思議法師という僧が、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂を建てて安置したことに始まるといわれている。のち、承和年間に慈覚大師がこの地に十二僧坊を建てて以来、天台系真言密経の道場として栄えていたようである。

善日麿は「大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ」(1292:破良観等御書:17)と、清澄入山の当初から大願を立てて、本尊の虚空蔵菩薩に祈請されていたのである。

「虚空蔵菩薩から智慧の珠を受け取った」といわれることがあったのがいつのことかは明らかでないが、嘉禎3年(1237)、16歳になった善日麿は、道善房を師として剃髪し、是聖房蓮長と名乗られる。出家後、さらに修学と思索に努めるなかで、いくつかの疑問にぶつかる。それは、諸御書によれば

① 鎮護国家の大法とされた真言密経をもって祈禱しながら、なぜ平家が源氏に破れて安徳天皇が西海に身を投じられたのか、なぜ承久の乱で朝廷側が破れて三上皇が臣下である鎌倉武士によって流罪されるようなことになったのか。

② 念仏宗等の行者等がなぜ臨終に悪相を現ずるのか。

③ 真言・念仏・禅等の多くの宗々が「我が宗こそ一代の心を得たり」としているが、釈尊所説の本意に適う宗旨は一つであり、最勝の経はただ一経のはずではないか。

等の疑いであった。

しかし、清澄寺は「遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし」(0370:本尊問答抄:09)という状態で、所蔵の経釈も十分にはなく、指導を受けるべき学匠もいなかったようであり、師匠である道善房も「愚癡におはする上念仏者」(0888:善無畏三蔵抄:18)で、それらの根本的な疑問をはらす力はとうていなかった。

「此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候」(1407:妙法比丘尼御返事:14)と仰せのように、その疑問を晴らすため、諸国・諸大寺に遊学されたのである。

そして、本抄にも「建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す」と述べられているように、末法の大正法たる三大秘法の南無妙法蓮華経を弘宣し諸宗破折の第一声を放たれ、立教開宗を宣言されるとともに、日蓮と名乗りを改められた。

大聖人が、清澄寺で正法流布の弘教を開始されたのは、一つには本抄に「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために」とあるように、日本第一の智者としてくださった虚空蔵菩薩への報恩感謝のためであり、二つには「諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし……此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」(0888:善無畏三蔵抄:16)と仰せのように、剃髪の師たる道善房と広くは所縁の清澄寺の大衆並びに父母や故郷安房の人々をまず正法に導こうとされた故であり、三つには「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり……此の太神は……安房の国東条の郡にすませ給うか」(0906:新尼御前御返事:09)と、安房東条の郷こそ日本の中心との意義をこめられたものであろう。

しかし、念仏無間と破折をもって始められた正法弘宣の第一声は「怨多くして信じ難し」の経証のとおり、たちまちに世間の怨嫉を招き、伝え聞いた念仏者の地頭・東条景信の怒りをかつて、大聖人の身に早くも危機が迫った。

そのとき、大聖人をかくまって、清澄寺から西条華房の蓮華寺まで無事に逃れる手引きをしたのが、義浄房と浄顕房であった

大聖人は二人に対して「日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0324:報恩抄:02)、「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373:本尊問答抄:14)等とその功を称賛されている。

なお、地頭の東条景信は、本抄に述べられているように、清澄の飼鹿を狩りとり、清澄・二間の二か寺を念仏に改宗させようとした。この景信の理不尽な策謀に対して、大聖人は領家の味方となって所領争いの裁判を勝訴させ、二か寺を景信の毒手から救ったことがあった。これもまた景信の大聖人への憎しみをかきたてたにちがいない。領家の尼御前が大聖人の法門を信じ仰ぐようになったのは、これを縁としてであったろうと考えられる。

大聖人は、ふたたび清澄の地を踏まれることはなかった。「地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿・藤次左衛門入道・一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて・結句は合戦起りて候上・極楽寺殿の御方人理をまげられしかば東条の郡ふせがれて入る事なし、父母の墓を見ずして数年なり」(1413:妙法比丘尼御返事:09)と仰せのように、執権北条長時の父・極楽寺重時を後ろだてにした東条景信に制止されたために、その後、故郷の東条郷へ入ることもできず、正嘉2年(1258)に亡くなられた御父の墓参も心にまかせなかった。

そして、大聖人がふたたび安房の国に入られたのは、文永元年(1264)秋、御母の病を見舞われたときであり、じつに12年ぶりのことであった。母の病気平癒を祈って回復させただけでなく、4か年の寿を延ばされた大聖人は、その後も華房の蓮華寺を拠点にして、安房方面の弘教にあたられた。そして、文永元年(12641111日、天津の領主工藤吉隆の招きによって、大聖人と門下の一行が東条郷の小松原にさしかかったとき、東条景信の指揮する数百人の念仏者に襲われたのである。

「頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」(1189:聖人御難事:13)、「弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり」(1498:南条兵衛七郎殿御書:06)と述べられているように、大聖人御自身も傷をうけられ、鏡忍房と工藤吉隆が乱戦の中で討ち死にしている。

小松原法難から3日後の1114四日、大聖人は華房の蓮華寺で旧師・道善房と12年ぶりで再会された。その時の模様は善無畏三蔵抄に詳しい。大聖人はふたたび見参することもないであろうと「思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(0889:善無畏三蔵抄:08)と強折され、正法への帰依を訴えられた。愚癡で臆病な道善房も、大聖人の強言によって少しは目覚めたようだが、結局は頼りない信心のまま、本抄から2か月後の建治2年(1276316日に没している。

大聖人は師恩報謝のために報恩抄をしたためられたが、その中で「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり……いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(0323:報恩抄:08)と述べられていることから、道善房の信心をうかがうことができる。

一方、浄顕房・義浄房は、幼少の大聖人を教導した法兄ながら、後に大聖人の門下となって常にその教えを仰ぎ、道善房をもいさめていたことが、本抄をはじめ数編の賜書や、報恩抄送状などからうかがえる。また、聖密房など清澄寺の大衆の中にも大聖人門下となった者がいたようである。

しかし、道善房の死去の報を聞かれた大聖人は「彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども……まいるべきにあらず」(0323:報恩抄:15)と旧師を思う心情を吐露され、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし(中略)此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329:報恩抄:03)とされた報恩抄を「嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍」(0330:報恩抄送文:09)読ませて、報恩の誠をささげられたのである。

なお、故郷安房に対する大聖人の切々たるお心を物語る御文に「本国にいたりて今一度・父母のはかをも・みんと・をもへども・にしきをきて故郷へは・かへれといふ事は内外のをきてなり、させる面目もなくして本国へ・いたりなば不孝の者にてや・あらんずらん……其の時父母のはかをもみよかしと・ふかくをもうゆへに・いまに生国へはいたらねども・さすがこひしくて吹く風・立つくもまでも東のかたと申せば庵をいでて身にふれ庭に立ちてみるなり、かかる事なれば故郷の人は設い心よせにおもはぬ物なれども我が国の人といへば・なつかしくて・はんべる」(0928:光日房御書:07)という、建治2年(12763月、安房の天津の住人・光日房にあてた御抄の一節がある。

このように、安房と清澄寺は、大聖人にとって成長し修学された終生忘れることのできない旧縁の地であり、有縁の人々へ正法による報恩を思われぬ日とてなかったのである。

 

 

第一章(亡国の悪法・真言を破す)

  新春の慶賀、自他幸甚、幸甚。
 去年来らず、いかん。定めて子細有らんか。そもそも、参詣を企て候わば、伊勢公御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏を借用候え。かくのごときは、真言師蜂起の故にこれを申す。また、止観の第一・第二、御随身候え。東春・輔正記なんどや候らん。円智房の御弟子に観智房の持って候なる宗要集、かしたび候え。それのみならず、ふみの候由も人々申し候いしなり。早々に返すべきのよし申させ給え。
 今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か。浄顕御房、義城房等には申し給うべし。
 日蓮が度々殺害せられんとし、ならびに二度まで流罪せられ、頸を刎ねられんとせしことは、別に世間の失に候わず。
 生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりしことありき。「日本第一の智者となし給え」と申せしことを不便とや思しめしけん、明星のごとくなる大宝珠を給わって右の袖にうけとり候いし故に、一切経を見候いしかば、八宗ならびに一切経の勝劣、ほぼこれを知りぬ。
 その上、真言宗は法華経を失う宗なり。これは大事なり。まず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めてみんと思う。その故は、月氏・漢土の仏法の邪正はしばらくこれを置く、日本国の法華経の正義を失って、一人もなく人の悪道に堕つることは、真言宗が影の身に随うがごとく、山々寺々ごとに法華宗に真言宗をあいそいて、如法の法華経に十八道をそえ、懺法に阿弥陀経を加え、天台宗の学者の灌頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせしほどに、真言経と申すは爾前権経の内の華厳・般若にも劣れるを、慈覚・弘法これに迷惑して、あるいは「法華経に同じ」、あるいは「勝れたり」なんど申して、仏を開眼するにも仏眼・大日の印・真言をもって開眼供養するゆえに、日本国の木画の諸像、皆、無魂・無眼の者となりぬ。結句は天魔入り替わって、檀那をほろぼす仏像となりぬ。王法の尽きんとする、これなり。
 この悪真言、かまくらに来って、また日本国をほろぼさんとす。その上、禅宗・浄土宗なんどと申すは、またいうばかりなき僻見の者なり。
 これを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月二十八日、安房国東条郷の清澄寺、道善の房、持仏堂の南面にして、浄円房と申す者ならびに少々の大衆にこれを申しはじめて、その後二十余年が間、退転なく申す。あるいは所を追い出だされ、あるいは流罪等。昔は聞く、不軽菩薩の杖木等を。今は見る、日蓮が刀剣に当たることを。
 日本国の有智・無智、上下万人の云わく「日蓮法師は、古の論師・人師・大師・先徳にすぐるべからず」と。日蓮この不審をはらさんがために、正嘉・文永の大地震・大長星を見て勘えて云わく「我が朝に二つの大難あるべし。いわゆる自界叛逆難・他国侵逼難なり。自界は鎌倉に権大夫殿御子孫どしうち出来すべし。他国侵逼難は四方よりあるべし。その中に、西よりつよくせむべし。これひとえに、仏法が一国挙って邪なるゆえに、梵天・帝釈の他国に仰せつけてせめらるるなるべし。日蓮をだに用いぬほどならば、将門・純友・貞任・利仁・田村のようなる将軍、百千万人ありとも叶うべからず。これまことならずば、真言と念仏等の僻見をば信ずべし」と申しひろめ候いき。

 

現代語訳

  新春を喜び祝うこと、自他ともに何よりの幸せである。去年来られなかったが、どうしたことか。きっと事情があったのであろう。さて、参詣をしようと思われるならば、伊勢公の御房から十住心論、秘蔵宝鑰、二教論等の真言の注釈書を借用してきてほしい。このことは真言師が大勢騒いでいるのでこういうのである。また、摩訶止観の第一と第二の巻を携えてきてほしい。東春・輔正記などもあるであろうか。円智房の御弟子の観智房の持っている宗要集も貸してもらっていただきたい。それだけでなく、文書があるということも人人がいっていた。すぐに返す旨をいって借りてきてもらいたい。今年は、ことに仏法の邪正がただされるべき年であろう。

浄顕の御房や義城房等には言ってください。日蓮が、たびたび殺害されようとし、また二度まで流罪され、頚を切られようとしたことは、べつに世間の罪によるのではない。生身の虚空蔵菩薩から大智慧をいただいたことがあった。日本第一の智者にしてくださいと申し上げたことを、かわいそうに思われたのであろう。明星のような大宝珠を与えられて、それを右の袖で受け取ったために、それから一切経を見たところ八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知ることができた。

そのうえ、真言宗は法華経を滅ぼす宗である。これは大事であるので、まず序分に禅宗と念仏宗の誤った考え方を責めてみようと思ったのである。そのわけは、インドや中国の仏法の邪正については、しばらくさしおく。日本国が法華経の正義を失って一人ももれなく人々が悪道に堕ちることは、真言宗が影の身に随うように多くの山々、寺々ごとに法華宗に真言宗をいっしょに添えて、法に説くとおりの法華経の修行に十八道という真言の修法を添え、法華経による懺悔の法に阿弥陀経を加え、天台宗の僧の潅頂の儀式に際し真言宗を正とし法華経を傍としたので、真言の経というのは法華経以前に説かれた権の教のなかの華厳経・般若経にも劣っているのを、慈覚・弘法はこれに迷って、あるいは法華経と同じ、あるいは法華経より勝れているなどといって、仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言をもって開眼供養をするために、日本国の木画の諸の像は皆、魂のない、眼のないものとなってしまった。結局は天魔が入り替わって檀那を滅ぼす仏像となってしまった。王法が尽きようとしているのは、このためである。この悪法である真言宗が鎌倉に入ってきて、また日本国を滅ぼそうとしている。そのうえ禅宗・浄土宗などというのは、また、いいようもない誤った考えの者である。

これをいえば、かならず日蓮の命にかかわることになるであろうと承知していたけれども、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷にある清澄寺の道善房の持仏堂の南面において浄円房という者並びに少しばかりの大衆にこれをいいはじめて、その後二十余年の間、退転することなくいってきた。その間、あるいは所を追い出されたり、あるいは流罪されたりした。昔は、不軽菩薩が杖木等の難にあったと聞く。今は、日蓮が刀剣の難にあうことを見る。

日本国の有智・無智そして上下のすべての人はいう。「日蓮法師は昔の論師、人師、大師、先徳にすぐれるはずがない」と。日蓮はこの不審を晴らすために、正嘉元年の大地震と文永元年の大彗星を見て考えていった。「我が国に二つの大難があるであろう。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に権の大夫殿のご子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方からあるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これはひとえに信じている仏法が一国こぞって邪であるために、梵天、帝釈天が他国にいいつけて攻められるのである。日蓮を用いないでいる間は、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような将軍が百千万人いても叶いはしない。これが真実でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じよう」といいひろめてきた。

 

語釈

 十住心論

秘密曼陀羅十住心論の略。十巻。弘法大師空海の著。大日経住心品、菩提心論に衆生の心相を十種に分けて説かれていることに依拠して十住心を立て、顕密二教・世間出世間の衆生の境界を判じ、真言密教が仏の真実の教法であるとしている。

 

秘蔵宝鑰

三巻。弘法大師空海の著。秘密曼陀羅十住心論の要点をまとめたもの。真言宗開創のゆえんも述べている。

 

二教論

弁顕密二教論の略。二巻。弘法大師空海の著。顕密二教を比較対照して、その勝劣浅深を判じ、真言密教が真実であるとしている。

 

障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。

 

止観

摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。

 

東春

法華経疏義纉のこと。中国・唐代の智度述。智度が東春に住んでいたところから、その人と書を「東春」と呼んだ。天台大師の法華文句の註釈書であるが、その内容は初めに法華玄義によって五重玄を概説し、つぎに法華経の本文、法華文句記等にわたって懇切に注釈し、自己の見解を主張している。

 

輔正記

法華文句輔正記の略。中国・唐代の道暹述。法華文句記を主として、ところどころに法華経や法華文句の文を選び、唐代の天台教学の解釈に忠実にしたがって、丁寧に字義の説明をした書。

 

円智房

清澄寺の住僧。詳細は不明だが、種種御振舞御書、報恩抄、四信五品抄に出てくる。それらによると、学問はあって人から崇められていたが、日蓮大聖人に敵対し、罰を受け惨死したことがうかがわれる。

 

観智房

清澄寺の住僧。詳細不詳。種種御振舞御書・報恩抄・四信五品抄に出てくる。

 

宗要集

一宗の教義を討究するため、宗義の要目を集め編纂した書。真言宗や浄土宗にもあるが、ここでは天台宗のものをさしていると思われる。

 

浄顕の御房

清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで義浄房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。のちに御本尊をいただいている。

 

義城房

清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで浄顕房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。

 

生身

①衆生の肉親をいう。②二身のひとつ。生身仏・父母生身ともいう。

 

虚空蔵菩薩

智慧と福徳を蔵することが大空にも似て広大無辺であるが故に、そしてそれを衆生の願いにしたがって施すに尽きることがない菩薩であるが故に虚空蔵菩薩という。その形像は、蓮華座に座して五智宝冠をいただき、右手に智慧の利剣、左手には福徳の蓮華と如意宝珠を持っているもの等いろいろある。密教では胎蔵界曼荼羅虚空蔵院の中尊等とされている。大聖人が出家・修学された清澄寺の本尊が虚空蔵菩薩であった。

 

真言宗

大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。

 

序分

経典等の序論となる部分。

 

禅宗

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

念仏宗

阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。

 

僻見

偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

十八道

密教の修法。

 

懺法

①犯した罪を告白し、悔い改め、許しを請うという懺悔の修行法・儀式。②法華経を読誦して罪障を懺悔する法華懺悔のこと。

 

阿弥陀経

鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。

 

灌頂

頭に水を灌ぎかけることによって、一定の位につくことを示す儀式。①もとインドの国王即位や立太子の際に行った。②大乗仏教では、菩薩が最終の位に入るときの法王の職を受けることを証するという形式で行った。③密教では、大日如来の五智を表す五瓶の水を用いて、秘密法門の印可伝授、師資面接、法燈の継承をさせるとの意味で行った。

 

爾前権教

「爾前」とは爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。「権教」は実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。

 

華厳

華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。

 

般若

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

慈覚

07940864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。

 

弘法

07740835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。

 

開眼

眼目を開くということ。新たに彫刻し、鋳造し、書写した仏像等を法をもって供養し、心を入れ、生身の仏・菩薩と同じにすること。またはその儀式で開眼供養ともいう。本尊問答抄(0366)に「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」とある。

 

仏眼大日

大日経で説かれる仏眼尊と大日如来のこと。仏眼尊は仏眼仏母ともいい、仏を出生させる徳があるとされる。大日如来は森羅万象の真理・法則を仏格化した根本仏で、すべての仏・菩薩を生み出すとされる。

 

印・真言

印相と真言のこと。印とは決定不改または印可決定の義で、手指を種々に組み合わせて諸仏諸尊の内証の徳を表示する形式。真言宗でいう三密の中の身密にあたる。合掌ももちろん印である。真言とは真実の言葉という意味で、これを唱えれば不思議の功徳があるという。一種の呪文で、諸仏の梵名などを原語で唱えることなどを指す。真言宗にはこの印・真言が説かれているから法華経に優れているとの邪義を立てる。

 

天魔

天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、天子魔は大天魔・第六天の魔王ともいわれ、最も恐ろしい魔とされる。

 

王法

①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範

 

浄土宗

阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。

 

安房の国東条の郷

地名。現在の千葉県鴨川市広場付近と思われる。

 

清澄寺

くわしくは千光山清澄寺といい、金剛宝院と号する。安房五大寺随一で、東国第一の古霊場といわれる。千葉県鴨川市清澄山上にある。天尊鎮座の地として山頂には池があり、長雨の時にも濁水がたまることがない故に清澄という。池辺の柏樹が光りに反射するさまは千光を放つようであるということから千光山の名がある。宝亀2年(0771)ある法師が登山し、柏樹を伐り、虚空蔵菩薩の像を刻み、堂宇を建立してここに安置したのが始まりという。承和3年(0836)、慈覚大師が中興して天台宗の寺院とした。嘉保3年(1096)、雷火によって焼亡したが、国守源親元が再建し、承久年中には、北条政子が宝塔、輪蔵等を建立している。輪蔵には一切経が蔵されていたといわれる。天福元年(1233512日、日蓮大聖人は12歳でこの寺に登山し、道善房の弟子となり、16歳の時に剃髪し是生房蓮長と号される。そののち、鎌倉、京都に遊学され、建長5年(1253428日に立教開宗を宣せられる。

 

道善の房

(~1276)安房国清澄寺(千葉県鴨川市清澄)の住職。日蓮大聖人幼少の剃髪の師。日蓮大聖人は天福元年(123312歳の時、道善房の弟子となり、16歳で出家剃髪。以後、鎌倉に数年間修学、さらにいったん清澄寺に帰られて後、京都に出て比叡山・奈良・高野山に回って研学に務められた。建長5年(125332歳の時、故郷に帰り、428日、清澄寺の諸仏坊の持仏堂の南面で、初めて南無妙法蓮華経を説かれて立教開宗された。その時、念仏の強信者であった地頭・東条景信の迫害にあって、清澄寺を脱出され、鎌倉で布教を開始された。道善房は大聖人を思いながらも東条景信と争うこともできず、大聖人に帰依することもできなかった。文永元年(12641114日、小松原法難の直後に西条・華房で、大聖人は道善房と再会された。その時、道善房は大聖人に対して成仏できるかどうかを質問している。それに対して道善房が阿弥陀如来像を五体も造ったことから、五度無間地獄に堕ちると答えられ、真心込めて正法への帰依を勧められた。その後、道善房は少し信心を起こしたようだが、改宗までに至らず一生を終わった。

 

持仏堂

日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂。念誦堂とも呼ばれ、僧侶のみが礼拝する場合は内持仏堂とも呼ぶ。一般世人の家では、仏像や位牌を安置する仏間、あるいは仏壇を指して持仏堂と言うこともある。

 

浄円房

安房の国の蓮華寺に住んでいたと思われる僧。詳細不明。当世念仏者無間地獄抄に出てくる。

 

大衆

①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。

 

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766:第十二常不軽菩薩豈異人乎則我身是の事:01)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

 

論師

阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。

 

人師

人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。

 

大師

①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。

 

先徳

徳望の高い人を尊敬していう言葉。

 

正嘉・文永の大地震・大長星

正嘉元年(12758月の大地震と、文永元年(12646月~8月にかけて現れた大彗星のこと。

 

自界叛逆難

仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。

 

他国侵逼難

他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。

 

権の大夫

11631224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。

 

梵天

仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

将門

(~0940)。平将門のこと。桓武天皇の曾孫・平高望の孫で鎮守府将軍良将の子。下総に勢力をもっていたが、延長9年(0931)父の遺領問題等から一族と争いを起こし、承平5年(0935)に伯父の国香(を殺害して一族の指導権を握った。後に常陸(茨城県の大部分)国府を侵し、さらに下野・上野両国府を得た。みずから新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築いた。しかし天慶3年(0940)藤原秀郷の援けを得た平貞盛によって滅ぼされた。

 

純友

(~0941)。藤原純友のこと。平安中期の貴族。大宰少弐藤原良範の子。承平6年(0936)ころ、当時、瀬戸内海に横行していた海賊の追捕に加わったが、やがて自ら海賊の棟梁となり、伊予(愛媛県)の日振島を根拠地として略奪を行った。瀬戸内海のほぼ全域にわたって勢力を伸ばしたが、天慶3年(0940)小野好古等の追捕使に敗れ、九州の大宰府に逃れた。しかし翌年、警固使橘遠保に滅ぼされた。

 

貞任

10191062)。安倍貞任のこと。平安後期の陸奥の豪族。頼時の子で岩手郡を譲られ支配した。前9年の役では天喜5年(1057)朝廷軍の源頼義・義家と戦った。康平5年(1062)出羽の豪族・清原光頼・武則兄弟と同盟した朝廷軍に厨川柵(岩手県盛岡市)で滅ぼされた。

 

利仁

藤原利仁のこと。生没年不詳。平安中期の人。鎮守府将軍時長の子。延喜15年(0915)鎮守府将軍となる。沈着で軍略に富み、飛ぶような軽捷さがあったといわれる。下野(栃木県)の高蔵山に群盗が結集して関東の調庸を略奪した時、命を受けてこれを平定し、武名をあげたと伝えられる。

 

田村

07580811)。坂上田村麻呂のこと。平安初期の武将。苅田麻呂の子。蝦夷征伐に力を発揮し、延暦16年(0797)征夷大将軍になった。陸奥の地の平定や弘仁元年(0810)の薬子の乱の鎮定に功を立てた。その優れた武才と人格とによって、模範的武将として後世の武士に尊崇された。

 

講義

  本抄では、最初に清澄寺の住僧の一人に対して、身延へ参詣する機会があるなら、寺内の伊勢公から真言の論釈を借用してくるよう依頼され、また摩訶止観や東春、輔正記などの天台宗の論釈や宗要集などの借用も申し入れられている。清澄寺は天台系の真言密教の道場であったから、そうした天台・真言の論釈があったのであろう。

借用の理由は、前述のように、前年末に真言僧の強仁との交渉があり、また真言僧が蜂起して法論対決が行われるとの風評があったため、万全を期して天台や真言の経文や論釈を収集されていたものである。

同年七月の報恩抄送文にも「内内・人の申し候しは宗論や・あらんずらんと申せしゆへに十方にわかて経論等を尋ねしゆへに国国の寺寺へ人をあまたつかはして候」(0330:報恩抄送文:05)と記されており、当時、各所に人を派遣して資材を集め、宗論に備えられていたことがうかがえる。

大聖人は強仁状御返事において「大日本国・亡国と為る可き由来之を勘うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師法華経と大日経との勝劣に迷惑し日本第一の聖人なる伝教大師の正義を隠没してより已来・叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き神護七大寺は弘法の僻見に随う其れより已来王臣邪師を仰ぎ万民僻見に帰す(中略)悪法は弥貴まれ大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす」(0185:強仁状御返事)と、法華経を大日経より下した弘法・慈覚の大謗法こそ災難の根源であり亡国の因であると破折され、最後に「書は言を尽さず言は心を尽さず悉悉公場を期す」(0185:強仁状御返事:15)と、公場において邪正を決せんことを主張されている。それが実現することを予想されて「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」と仰せになっているものと思われるのである。

本抄においても、同趣旨の真言の破折が述べられているが、それは清澄寺が台密であるため、慈覚・弘法の邪義を破して亡国の悪法であることを明かし、清澄寺の大衆の迷妄を晴らそうとされたものであろう。

生身の虚空蔵菩薩より智慧の宝珠をたまわり、日本第一の智者となられたとあるのは、善無畏三蔵抄の「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき」(0888:善無畏三蔵抄:09)の御文と同意なので、同抄の講義を参照されたい。

大聖人は、生まれながらの明智をおもちだったが、宇宙法界を貫く妙法の大智慧を自得されて、八宗並びに一切経の勝劣を明らかにされ、その邪義僻見を責めたが故に「度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られん」としたのである。

その後に、真言宗が悪法である理由を「法華経を失う宗」だからであると指摘され、具体的には「法華宗に真言宗をあひそひ」「真言宗を正とし法華経を傍とせし」「真言経……或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申し」等という弘法・慈覚ら真言師の邪義の根本を端的に示されている。

日本真言宗の祖である弘法大師の立義については報恩抄に「弘仁十四年より弘法大師・王の御師となり真言宗を立てて東寺を給真言和尚とがうし此より八宗始る、一代の勝劣を判じて云く第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云、法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり、教主釈尊は仏なれども大日如来に向うれば無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し、天台大師は盗人なり真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐という」(0305:報恩抄:09)と記されている。

また、慈覚大師においても同抄に「慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とは・なのらせ給ども心は御弟子にあらず(中略)されば叡山の仏法は但だ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん、天台座主すでに真言の座主にうつりぬ名と所領とは天台山其の主は真言師なり(中略)慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なりなんど申せば皆人さもやと・をもう、かう・をもうゆへに事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり(0308:報恩抄:07)と述べられている。

こうした、仏説に背いて法華経と釈尊を下し、天台宗を真言の土泥にまみれさせた邪義が「かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす」るからこそ、大聖人は真言を強折し、真言師を蜂起させて公場での対決を迫ろうとされたのである。

なお「仏を開眼するにも仏眼大日の印・真言をもつて開眼供養するゆへに日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ」との御文については、四条金吾釈迦仏供養事に次のように述べられている。

「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし……草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり……然るに天台以後二百余年の後・善無畏・金剛智・不空等・大日経に真言宗と申す宗をかまへて仏説の大日経等には・なかりしを法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑せしかば皆人此の事を知らず一同に信伏して今に五百余年なり、然る間・真言宗已前の木画の像は霊験・殊勝なり真言已後の寺塔は利生うすし」(1144:四条金吾釈迦仏供養事:14)。

このように、一念三千・草木成仏の法理をもたない真言による開眼供養は、全く無意味なばかりでなく「天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像」となるのである。

そして、法華経の法理を盗み入れて巧妙に立てる真言に比べれば、禅宗や浄土宗の教義などは、じつにはかなく浅薄なものといえる。

 

此れを申さば必ず日蓮が命と成るべし……今は見る日蓮が刀剣に当る事を

 

「此れを申さば」とは、末法の成仏の直道は法華経本門寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経以外にないと、諸宗の謗法を強く訶責することであり、「命と成るべし」とは、一度それを言い出せば、三類の敵人が競い起こり、身命に及ぶ大難が雨のごとくふりかかることが、法華経勧持品等に明白に説かれていることをいう。

だが、大聖人は末法の一切衆生を苦悩の闇より救い出さんとの大慈悲の請願から、建長5年(1253428日、正法弘宣の第一声を放たれたのである。当時の御心境を、後に開目抄のなかで、次のように述懐されている。

「これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」(0200:開目抄:11)。

清澄寺の大衆を前にして、はじめて下種の題目を唱え出され、念仏無間と強折された大聖人の大師子吼は、たちまち地頭・東条景信の怨嫉と憎悪を招き、清澄寺を追われ、生命の危険を招いた。浄顕房・義浄房の助けで清澄山を出られた大聖人は、その後、鎌倉・松葉ヶ谷に草庵を構えて、折伏・弘教を開始される。ここでも、以後、俗衆・道門・僭聖の三類の強敵が相次いで出現し、三障四魔は紛然と競って「此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ」(0200:開目抄:17)という大難の連続だった。

本抄で「其の後二十余年が間・退転なく申す、或は所を追い出され或は流罪等」と述べられているように、大聖人が伊豆流罪・小松原法難・竜の口法難・佐渡流罪など、不軽菩薩の杖木瓦石の難をはるかに越える刀剣の難を忍ばれたのは、「難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:開目抄:08)と仰せのごとく、末法の衆生を不幸と悲惨から救い出し、衆生所遊楽の平和世界を実現せしめんとの大慈悲の故なのである。

「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:報恩抄:03)と。

また「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254:如来滅後五五百歳始観心本尊抄:18)と。

いま私達が、あい難き妙法に巡りあい、末法の唯一の正法たる三大秘法の大御本尊を信受することができたのも、立教開宗され、生涯、多くの大難を忍びながら南無妙法蓮華経を下種してくださった、御本仏の大慈悲のたまものであることをけっして忘れてはならないのである。

本章の最後で、大聖人は立正安国論で自界叛逆・他国侵逼の二つの大難が起こると予言されたことを述べられ、とくに他国侵逼難について「偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天・帝釈の他国に仰せつけて・せめらるるなるべし」と、日本一国がこぞって邪義謗法におおわれたことにより自ら招いた災難であり、諸天の怒りであるとされている。

当時は、文永9年(12722月の北条時輔の乱、文永11年(127410月の蒙古軍の九州襲来によって、大聖人の予言はすでに事実となって現れており、蒙古軍の再襲来も必至という情勢にあった。

本抄御述作の前年の文永12年(12754月、蒙古の使者杜世忠らが長門(山口県)に着き、ふたたび入貢をして服属すべしと勧告してきたが、幕府は蒙古の使者五人を、同年九月に竜の口で処刑して強硬姿勢を示す一方、北条一門をはじめ関東の御家人を九州へ下らせ、また筑紫(福岡県)の海岸数里に防塁を築くなど、防備を固めることに懸命になっていた。

しかし、大聖人は「日蓮をだに用いぬ程ならば将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍・百千万人ありとも叶ふべからず」と、いかなる勇将・猛将が何万人集まろうとも、謗法によって招いた他国侵逼の大難に勝利することはできないと断言され、御本仏日蓮大聖人を仰ぎ信じ、正法に帰する以外にないと叫ばれているのである。

 

 

第二章(清澄寺の大衆に重恩を教える)

  本文

就中清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にも・をもひをとさせ給はば今生には貧窮の乞者とならせ給ひ後生には無間地獄に堕ちさせ給うべし・故いかんとなれば東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり、此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給うべき、大衆も日蓮を心へずに・をもはれん人人は天にすてられ・たてまつらざるべしや、かう申せば愚癡の者は我をのろうと申すべし後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申すなり。
 領家の尼ごぜんは女人なり愚癡なれば人人のいひをどせば・さこそとましまし候らめ、されども恩をしらぬ人となりて後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なればいかにしても後生をたすけたてまつらんと・こそいのり候へ、

 

現代語訳

  なかでもとくに清澄山の大衆は、日蓮を父母にも、仏・法・僧の三宝にも劣ると思われるならば、今生には貧しい乞者の身となり、後生には無間地獄に堕ちられるであろう。なぜならば、東条左衛門景信が悪人で清澄寺で飼っている鹿等を狩り取り、各房の法師等を念仏者の従者にしようとした時に、日蓮が反対をして領家の味方となり、清澄・二間の二つの寺が東条方につくならば日蓮は法華経を捨てよう、と真心からの起請文を書いて、日蓮が御本尊の手に結びつけて祈り、一年の内に両寺は東条方の手を離れたのである。このことは虚空蔵菩薩もどうして捨てられるだろうか。清澄寺の大衆も日蓮を信じようとしない人々は、諸天に捨てられないことがあろうか。こういえば愚かな者は、自分を呪っている、というであろうが、後生に無間地獄に堕ちるのがかわいそうなのでいうのである。

領家の尼御前は女性であり、愚かなので人々がいろいろといって嚇すと、そうかと思っておられるのであろう。けれども恩を知らない人となって後生に悪道に堕ちられることがかわいそうであるし、また一つには日蓮の父母等に恩を施された人であるので、なんとしても後生を助けてさしあげようと祈っている。

 

語釈

三宝

仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。

 

貧窮の乞者

貧しく生活に困る乞食の身。

 

後生

三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。

 

無間地獄

八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。

 

東条左衛門尉景信

生没年不明。鎌倉時代の武士。安房国長狭郡東条郷の地頭。念仏の強信者であったらしく、建長5年(1253年)4月、清澄寺での立教開宗の時には日蓮大聖人を害しようとし、以後ずっと敵対した。文永元年(126411月、大聖人とその門下を東条郷小松原で襲い、門下を殺傷し、大聖人にも傷を負わせた。

 

領家

中世の荘園制度ににおける荘園の領主のこと。

 

二間

日蓮大聖人御在世当時、安房国長狭郡東条郷内にあったと思われる寺。清澄寺の東から南の方へ流れる二間川の近くにあったのではないかと考えられるが、明らかではない。

 

せいじやう

まごころ。

 

起請

祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。

 

領家の尼ごぜん

安房国東条郷の領主・名越家の尼御前すなわち名越朝時の妻ともされる。大尼御前ともいう。日蓮大聖人の両親も世話になるなどの恩のある人で、大聖人の信者であったが、信心は不安定で竜の口法難のとき退転した。後に改め、大聖人に御本尊の授与を願ったが許されなかった。

 

講義

 本章では、清澄寺の大衆が日蓮大聖人に重恩を受けていることを述べられ、大聖人を父母とも三宝とも仰ぐべきであり、そうでなければ今生には貧窮の身となり、後生には無間地獄に堕ちるであろうと、厳しく戒められている。

その大恩とは、東条郷の地頭・東条左衛門尉景信が、領家の権利を侵し、清澄・二間の両寺をその支配下におき、念仏に改宗させようとはかったのを、大聖人が世法・仏法の両面から尽力されて、その野望をくじかれたことをさしている。

景信の策謀については「度度の問註ありて・結句は合戦起りて候上・極楽寺殿の御方人理をまげられし」(1413:妙法比丘尼御返事:10)と述べられている御文もあり、問注沙汰、つまり領有権が裁判で争われ、武力抗争も起こったようである。しかも景信には時の執権北条長時の父・極楽寺重時がついて、法を曲げてまでも景信に有利なようにはかっていたことがうかがえる。なお、景信は重時の家人だったという説もある。

もともと、東条氏は源頼朝が鎌倉に幕府を開く前から安房に勢力を張っていた豪族であり、頼朝が石橋山の合戦に破れて安房に逃れた時には反抗したともいわれている。頼朝が後に東条郷の一部を伊勢神宮の神領として寄進したことから、当時の領主は頼朝であったと推される。源家が三代で滅びると、その遺領は北条一門に配分されたのであろう。

領家の尼とは、名越の尼と同一人で、北条朝時の未亡人と考えられているが、朝時は頼朝の夫人・政子の弟で二代執権だった北条義時の二男であったことから、安房・東条の領主となったのであろう。北条朝時は、仁治3年(1242)に北条一門の権力紛争から出家して寛元3年(1245)に没しており、朝時の死後、領家職が朝時未亡人のものとなったものだろう。

朝時の子光時も、寛元4年(1246)に前将軍頼経とはかって執権時頼の追放を企てたとの疑いをかけられ、出家して謝罪し伊豆国江間に蟄居している。光時は後に許されて鎌倉に帰るが、家督をその子親時に譲っている。このように、名越家は、北条一門でも得宗家に次ぐ家柄でありながら、得宗家と争ったために評定衆等幕府の要職者を出すこともなく、衰運にあったといえる。

そのため、東条景信は、名越家を軽視し、領家を女とあなどって、極楽寺重時など幕府の有力者をバックに、領家の権力を侵そうとしたのである。鎌倉時代には、武力をもった地頭達が、領家の権利を侵害する風潮が強く、裁判で争っても、多くの場合は地頭に有利だったようで、しかも東条景信の場合「極楽寺殿の御方人理をまげられし」という状態のもとで領家側が勝つことは困難だった。

本抄に「一年が内に両寺は東条が手をはなれ」とあることは、一時、清澄・二間の両寺が東条の支配下に入ってしまったが、急転して領家の手に戻ったことを示しており、裁判で領家側が勝ち、東条方が手をひかざるをえなくなったのであろう。それは、大聖人が領家の味方となって、東条方が勝つなら法華経を捨てるとの最大の誓願を立てて祈られた結果であり、また裁判においても東条方を破るために智慧と力を貸されたためであろう。

大聖人が清澄の大衆に、父母とも三宝とも仰がれなければ無間地獄に堕ちると厳戒されているのは、一応は清澄寺を東条景信の手から救い、念仏に堕ちることを防がれた大聖人の恩を忘れることになるからとの趣旨であるが、その元意はそれにことよせて、大聖人を末法の主師親と仰ぐべきことを示されていると拝すべきであろう。

なお領家の尼御前の信心については、新尼御前御返事に「領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき」(0906:17)と述べられているように弱く不安定で、大聖人は深く心配されていたのである。

 

 

第三章(法華経の行者への帰依を勧む)

  本文

法華経と申す御経は別の事も候はず我は過去・五百塵点劫より先の仏なり、又舎利弗等は未来に仏になるべしと、これを信ぜざらん者は無間地獄に堕つべし、我のみかう申すにはあらず多宝仏も証明し十方の諸仏も舌をいだして・かう候、地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈・日月・四天・十羅刹・法華経の行者を守護し給はんと説かれたり、されば仏になる道は別のやうなし過去の事・未来の事を申しあてて候が・まことの法華経にては候なり。
 日蓮はいまだ・つくしを見ずえぞしらず、一切経をもつて勘へて候へば・すでに値いぬ、もし・しからば各各・不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給うべしと申し候はたがひ候べきか、今はよし後をごらんぜよ日本国は当時のゆき対馬のやうになり候はんずるなり、其の時安房の国にむこが寄せて責め候はん時日蓮房の申せし事の合うたりと申すは偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事不便なり不便なり。
       正月十一日 日蓮花押

     安房の国清澄寺大衆中
 このふみはさど殿と・すけあざり御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとに・よみきかせ給へ。

 

現代語訳

  法華経というお経は、べつのことを説いているのではない。「我(釈尊)は過去の五百塵点劫より昔からの仏である。また舎利弗等は未来に仏になるであろう」と、「これを信じない者は無間地獄に堕ちるであろう。自分だけがこういうのではない。多宝仏も証明し、十方の諸仏も舌を出して証明し、こういっている。地涌千界の菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、梵天、帝釈天、日天、月天、四天王、十羅刹女等は法華経の行者を守護するであろう」と説かれている。それ故、仏になる道にはべつの方法はない。過去の事、未来の事をいい当てているのが、まことの法華経なのであり、それを信ずることである。

日蓮は未だ筑紫(九州)を見たことはないし、蒙古も知らない。一切経によって考えて述べたところが、その予言はすでに的中した。もしそうならば、あなた方は不知恩の人となるならば無間地獄に堕ちられるであろう、といったことが違うことがあろうか。

今はいいとしても、後をご覧なさい。日本国は現在の壱岐・対馬のようになるであろう。その時、安房の国に蒙古が寄せてきて責めるとき、日蓮房のいっていたことが合った、といいながら、邪法の法師等が口をすくめて無間地獄に堕ちるであろうことは、かわいそうでならない。

正月十一日             日 蓮  花 押

安房の国清澄寺大衆中

この手紙は佐渡殿と助阿闍梨御房とが、虚空蔵菩薩の御前で清澄寺の大衆の皆に読んで聞かせなさい。

 

語釈

五百塵点劫

法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。

 

舎利弗

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

 

多宝仏

東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。

 

十方の諸仏

十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。

 

地涌千界

法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、滅後末法の妙法流布の使命を託すためであるが、また、寿量品の仏の本地を示すための不可欠の前提となった。ゆえに、この地涌出現を、一応「在世の事」といわれているのである。

 

文殊

文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。

 

観音

観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。

 

日月

日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。

 

四天

四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。

 

十羅刹

羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。

 

つくし

九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。

 

えぞ

北海道や樺太等の未開の地をいう。

 

ゆき対馬

朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(127410月、及び弘安4年(12815月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。

 

むこ

蒙古国のこと。十三世紀はじめ初祖テムジンは十八歳で近隣の部族を統一し、自らチンギス汗と称した。その後全蒙古を統一し、東方の金、南方の西夏などを攻め、アジア大陸の東西にわたる大帝国となった。第二代オゴタイ汗のときにはヨーロッパにも遠征、ついに世界空前の大帝国を建設したが、内部の分裂により、四汗国と中国に基礎をおく元朝とに分裂した。その後、元は、世界制覇の気運にのってわが国にも、文永11年(127410月と弘安4年(12815月と二度にわたって攻めてきたが、日本軍の奮戦と、おりからの大風によって、蒙古軍は大半が壊滅した。

 

偏執

偏ったものに執着すること。偏った考えに固執して正邪・勝劣をわきまえないこと。

 

さど殿

12531314)。民部阿闍梨日向のこと。日蓮大聖人御在世当時の弟子で、六老僧の一人。佐渡公、佐渡房ともいわれる。安房国長狭郡に生まれ、13歳で大聖人に帰依したといわれる。大聖人滅後は軟風におかされ、弘安8年(1285)ころ身延の日興上人のもとで学頭職についたが、後に地頭の波木井実長の謗法を許すなどして日興上人に違背した。正和2年(1313)上総国(千葉県中央部)藻原に移るまで身延に住し、翌39月没した。

 

すけあさり御房

安房国(千葉県南部)に住した僧と思われるが、詳細は不明。新尼御前御返事によると、安房国長狭郡東条郷の領家と往来があったようである。また大聖人からお手紙をいただいているようであるが、御書として残っていない。清澄寺の高僧という説もある。

 

講義

本抄の最後で大聖人は、過去・未来のことを明かしたのが法華経であり、未萠を知る大聖人こそ真実の法華経の行者であることを明かされて、清澄寺の大衆も大聖人の恩を忘れたならば、無間地獄に堕ちることは間違いないと警告されて、本抄を結ばれている。

大聖人は「法華経と申す御経は別の事も候はず」と法華経の教えのすぐれているゆえんを、過去の五百塵点劫の成道を明かしたことと、舎利弗等の二乗が未来に成仏すべきことを説いていることであると述べられている。

開目抄にも「前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに其の相違多しといえども先ず世間の学者もゆるし我が身にも・さもやと・うちをぼうる事は二乗作仏・久遠実成なるべし」(0190:18)とあるように、二乗作仏と久遠実成が説かれていることこそ、法華経が爾前経と根本的に異なる点であり、二乗不成仏の権経を廃し始成正覚の迹を払って明かされた真実のなかの真実なのである。したがって、もし、法華経を信じないで毀謗するならば無間地獄に堕ちると定められているのである。このことは、多宝如来・十方分身の諸仏も証明を加えているのであり、「地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈・日月・四天・十羅刹・法華経の行者を守護し給はんと説かれたり」とあるように、あらゆる菩薩や諸天善神が、この正法を説き実践する人を守るのである。

このように三世のことを正しく説いているのが法華経である故に、法華経の正しい行者は、三世を見通して誤りがない。三世を正しく知っていることは仏たる証拠でもあるのである。

なお、本抄の御真筆は現存していないが「過去の事……」の御文は「過去の事・未来の事を申しあてて候が・まことの法華経の行者にては候なり」とする説もある。

 

日蓮はいまだ・つくしを見ず……無間地獄に堕ちん事不便なり不便なり

 

大聖人が、他国侵逼の大難が起こることを予言されたのは、九州を知っていたためでも、蒙古の事情に通じていたためでもなく、仏法に通達された仏だからであり、一切経に示されている法理から導き出された結論なのである。

立正安国論では「薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来つて国を侵すの難なり」(0031:11)と、薬師経・大集経・金光明経・仁王経の四経の明文を引いて論じられ「先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(0031:15)と為政者を諌められたのである。しかも、その予言はすでに事実となって的中している。

撰時抄に「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287:08)と仰せのように、未来を明らかに知られた日蓮大聖人こそ、聖人であり末法の御本仏なのである。

清澄寺の大衆もこの大聖人の大恩を忘れ背くならば、無間地獄に堕ちることは必定であると断言され、やがて蒙古の大軍が攻め寄せて大苦悩に沈んでから後悔することのないよう戒められている。

撰時抄にも「あわれなるかなや・なげかしきかなや日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ……いまにしもみよ大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせめば上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はんずるにや(中略)今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(0286:16)との同趣旨の御文がある。

撰時抄は建治元年(1275)の御執筆であり、本抄が翌年正月の御抄であることから、前にも述べたように、当時は第二次の蒙古襲来の切迫に日本中が恐怖していたことがうかがわれる。だからこそ、大聖人は亡国の悪法たる真言を強く責められているのであり、とくに、旧縁ある清澄寺の人々の妄執を破って、正法に伏さしめ、阿鼻の苦悩から救おうとして本抄をしたためられたものと拝されるのである。

「清澄寺大衆中」とあて名され、また「虚空蔵の御前にして大衆ごとに・よみきかせ給へ」と念注されているのも、そうした大慈悲のあらわれであろう。

 

 

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