法蓮抄
建治元年(ʼ75)4月 54歳 曽谷教信
第一章(法華経の行者誹謗の罪報を明かす)
本文
夫れ以んみれば、法華経第四の法師品に云わく「もし悪人有って、不善の心をもって、一劫の中において、現に仏前において、常に仏を毀罵せば、その罪はなお軽し。もし人、一つの悪言をもって、在家・出家の法華経を読誦する者を毀訾せば、その罪ははなはだ重し」等云々。妙楽大師云わく「しかもこの経の功高く理絶するに約して、この説を作すことを得。余経はしからず」等云々。
この経文の心は、一劫とは、人寿八万歳ありしより、百年に一歳をすて、千年に十歳をすつ。かくのごとく次第に減ずるほどに、人寿十歳になりぬ。この十歳の時は、当時の八十の翁のごとし。また人寿十歳より、百年ありて十一歳となり、また百年ありて十二歳となり、乃至一千年あらば二十歳となるべし。乃至八万歳となる。この一減一増を一劫とは申すなり。また種々の劫ありといえども、しばらくこの劫をもって申すべし。
現代語訳
法華経第四の巻法師品第十には「もし悪人があって、不善の心で一劫という長い間、仏の面前で常に仏を罵っても、その罪はまだ軽い。もし人がただの一言でも、在家・出家の法華経を読誦する者を毀るならば、その罪は非常に重い」と説かれている。妙楽大師は「この法華経の功力は高く、教理は勝れているから、このようにいうことができる。余経はこのようにはいえない」と釈している。
この経文の心について述べよう。一劫とは、人の寿命が八万歳であった時から、百年に一歳ずつ短くなり、千年間に十歳短くなる。このように次第に減っていって、人の寿命が十歳になる。この十歳の時は今時の八十歳の翁に当たるのである。また人の寿命が十歳の時から、百年たって十一歳となり、また百年たって十二歳となり、ないし一千年たてば二十歳となるのであり、こうして八万歳となる。この一減一増の期間を一劫というのである。このほかに種々の劫の考え方もあるけれども、今はこの劫によって述べよう。
語釈
法師品
法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。
毀罵
誹謗しののしること。
在家
①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
出家
世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
毀訾
そしること。
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
講義
まず、法蓮抄の由来を背景、大意などについて明らかにしておこう。
法蓮抄とは、曾谷教信の法名をとって付けられた題である。建冶元年(1275)4月、日蓮大聖人聖寿54歳の御時、身延山においてしたためられた。
本文中に「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当り一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」、「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」という曾谷入道の諷誦を引用されていることからも明らかなように、本抄は、曾谷入道法蓮が自分の父の13回忌にあたり、大聖人に御供養申し上げるとともに、諷誦を送ったことに対して、種々、御教示されたものである。
日蓮大聖人は、本抄で、最初に法華経の行者を賛嘆する功徳とこれを誹謗する罪報とを比較され、法華経の行者を供養する功徳をたたえられる。次に、法蓮の二つの諷誦文を挙げられ、とくに亡き父の追善のために自我偈を読誦した功徳がいかに大きいかを、烏竜遺竜の故事を引いて述べられる。法華経は一々の文字が皆生身の仏であるゆえに、法蓮の読んだ経文が仏体として現れて、慈父の聖霊を救うであろうと教えられ、法蓮の孝養の尊さをたたえられている。
更に、末法における法華経の修行の根本は折伏であることを示され、最後に、それを身をもって実践された大聖人を迫害したために国をあげて大罰を受けていることを指摘されている。
なお、本抄はその内容から別名を「父子成仏抄」とも呼ばれている。御真筆は現存していない。
本抄は、法華経の法師品の経文と、これを釈した妙楽大師の釈の文とを挙げられて、法華経の行者を誹謗する者の罪報を明かされている。
法師品の文は、もし悪人がよくない心をもって、一劫という長い間、仏をその面前でののしり続けたとしてもまだその罪は軽いが、もし人がただの一言でも法華経を読誦する在家、出家の者をそしると、その罪ははるかに重い、というものである。
要約すると、仏を長時間ののしるよりも、法華経を読誦する僧俗の者をそしるほうがはるかに罪は重い、ということである。
なぜ、そうなのかについて明かしているのが、次の妙楽大師の釈である。
妙楽大師は「此の経の功高く理絶えたる」からであると述べている。すなわち、法華経の功徳が高く、その教理が絶対的に勝れているがゆえであって、法華経以外の他の経典では、法師品のようには説けない、といっている。
次に大聖人は、法師品の「一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん」の文中における「一劫」について説明されるのである。
仏教では、日時で計りがたい長遠な時間を「劫」という。「劫」は梵語でカルパ(Kalpa)といい、劫波、劫跛などと音写したものの略で、意訳すると「大時」となる。
古来、仏典では、この劫の長さを説明するにあたって、種々の数え方や譬喩を説いている。
「種種の劫ありといへども」と仰せの〝種種の劫〟というのは、この仏典における種々の考え方や譬喩をさしているのである。
例えば、数え方に関しては、一劫について、一増一減を一小劫とする説や二十小劫を一中劫とする説などがある。
また、譬喩については、大智度論巻五に、例えば長寿の人がいて、四千里四方の石山を、百年ごとに細軟の衣で拭いて、石山が摩耗し尽くしても、なお劫は尽きないと説き、更に四千里四方の大城を芥子で満たし、百年に一度、一粒を取って、取り尽くしても、なお劫は尽きない、と説いている。
このような、さまざまな「劫」の説明のなかから、大聖人は一減一増を一劫とする説をもって、法師品の「一劫」とするとされている。
仏教の宇宙観によると、一つの世界は、成立し、そこに衆生が住し、やがて崩壊し、消滅してしまうという四段階、すなわち四劫を繰り返す、とする。
この四劫の期間を一大劫といい、成劫・住劫・壊劫・空劫のそれぞれの期間を中劫という。そして、一中劫は二十小劫から成るとするが、この二十劫は、住劫における人寿の増減を基準として採用したものである。
すなわち、本文に説かれているように、人寿八万歳から百年ごとに一歳を減じていって人寿十歳に至るまでを「一減」とし、今度は逆に、人寿十歳から百年ごとに一歳を増していって人寿八万歳に至るまでを「一増」とする。「一減一増を一劫とは申すなり」とあるように、一増減を一劫とするのである。
これを年数に換算すると、15,998,000年ということになる。これだけ長期にわたって仏を謗り続ける罪よりも、法華経を読誦している人を一言でも毀訾する罪のほうがはるかに重いというのである。これは、その読誦している法華経が仏よりはるかに尊いからにほかならない。
第二章(提婆達多の実例を挙ぐ)
本文
此の一劫が間・身口意の三業より事おこりて仏をにくみたてまつる者あるべし例せば提婆達多がごとし、仏は浄飯王の太子・提婆達多は斛飯王の子なり、兄弟の子息なる間仏の御いとこにて・をはせしかども今も昔も聖人も凡夫も人の中をたがへること女人よりして起りたる第一のあだにてはんべるなり、釈迦如来は悉達太子としてをはしし時提婆達多も同じ太子なり、耶輸大臣に女あり耶輸多羅女となづく五天竺第一の美女・四海名誉の天女なり、悉達と提婆と共に后にせん事をあらそひ給いし故に中あしくならせ給いぬ、後に悉達は出家して仏とならせ給い提婆達多・又須陀比丘を師として出家し給いぬ、仏は二百五十戒を持ち三千の威儀をととのへ給いしかば諸の天人これを渇仰し四衆これを恭敬す、提婆達多を人たとまざりしかばいかにしてか世間の名誉・仏にすぎんと・はげみしほどにとかう案じいだして仏にすぎて世間にたとまれぬべき事五つあり、四分律に云く一には糞掃衣・二には常乞食・三には一座食・四には常露座・五には塩及び五味を受けず等云云、仏は人の施す衣をうけさせ給う提婆達多は糞掃衣、仏は人の施す食をうけ給う提婆は只常乞食、仏は一日に一二三反も食せさせ給い提婆は只一座食、仏は塚間・樹下にも処し給い提婆は日中常露座なり、仏は便宜にはしを復は五味を服し給い提婆はしを等を服せず、かうありしかば世間・提婆の仏にすぐれたる事・雲泥なり、かくのごとくして仏を失いたてまつらんとうかがひし程に頻婆舎羅王は仏の檀那なり日日に五百輛の車を数年が間・一度もかかさずおくりて仏並びに御弟子等を供養し奉る、これをそねみ・とらんがために未生怨太子をかたらいて父・頻婆舎羅王を殺させ我は仏を殺さんとして或は石をもつて仏を打ちたてまつるは身業なり、仏は誑惑の者と罵詈せしは口業なり、内心より宿世の怨とをもひしは意業なり三業相応の大悪此れにはすぐべからず、此の提婆達多ほどの大悪人・三業相応して一中劫が間釈迦仏を罵詈・打杖し嫉妬し候はん大罪はいくらほどか重く候べきや、此の大地は厚さは十六万八千由旬なりされば四大海の水をも九山の土石をも三千の草木をも一切衆生をも頂戴して候へども落ちもせずかたぶかず破れずして候ぞかし、しかれども提婆達多が身は既に五尺の人身なりわづかに三逆罪に及びしかば大地破れて地獄に入りぬ、此の穴・天竺にいまだ候・玄奘三蔵・漢土より月支に修行して此れをみる西域と申す文に載せられたり、
現代語訳
この一劫の間、身口意の三業によって事が起こって、仏を憎む者が出てくる。例えば提婆達多 のような者である。仏は浄飯王の太子であり、提婆達多は斛飯王の子である。兄弟の子息であるから、仏にとって従兄弟であったが、今も昔も、聖人も凡夫も、人の仲を違えるのは、女人のことから起こるのが第一の怨となるのである。
釈迦如来が悉達太子であられた時、提婆達多も同じ太子であった。耶輸大臣に娘があり、耶輸多羅女といった。全インド第一の美女で、その名は四海に聞こえた天女である。悉達太子と提婆達多は、ともに后にしようとして争ったので、仲が悪くなったのである。後に、悉達太子は出家して仏になられ、提婆達多もまた須陀比丘を師として出家したのである。
仏は二百五十戒を持ち、三千の威儀をととのえられていたから、諸々の天人は渇仰し、四衆は恭敬した。しかし、提婆達多を人が貴ばなかったので、どのようにしたら世間の名誉が仏に過ぎることができるかと考えていたが、思案の末に、仏以上に世間から貴ばれることが五つある。四分律にはこれを「一には糞掃衣、二には常乞食、三には一座食・四には常露座、五には塩及び五味を食べない」と説かれている。仏は人の施す衣を受けられるが、提婆達多は糞掃衣を着た。仏は人の施す食を受けられるが、提婆達多はただ常に乞食を行じた。仏は一日に一、二、三度も食事されるが、提婆達多はただ一度しか食事しない。仏は塚間や樹下でも休まれるが、提婆達多は日中は常に露天に坐った。仏はときには塩または五味を食べられるが、提婆達多は塩などを食べない。このようであったから、世間では提婆達多が仏に勝れていることは雲泥であると考え出したのである。
このようにして、仏の威徳をなくそうと狙っていたところに、頻婆舎羅王は仏の檀那である。一日に五百両の車を、数年の間一度も欠かさずに送って、仏ならびに御弟子等に供養されたのである。提婆達多はこれを妬み取ろうとして、未生怨太子を仲間に引き入れて父の頻婆舎羅王を殺させ、自分は仏を殺そうとして、あるいは石でもって仏を打った。これは身の悪業である。仏は人を誑かし惑わす者であると罵詈したのは口の悪業である。内心から宿世の怨と思ったのは意の悪業である。三業相応の大悪はこれに過ぎたものはない。
この提婆達多ほどの大悪人が、三業相応して一中劫の間、釈迦仏を罵詈し、打杖し、嫉妬した大罪はどのように重いことであろう。この大地は厚さ十六万八千由旬である。ゆえに四大海の水をも、九山の土石をも、三千の草木をも、一切衆生をも戴せているけれども、落ちもしないし、傾かないし、破れることもない。しかしながら、提婆達多の身は五尺の人身であるが、わずかに三逆罪を犯して、大地が破れて地獄に堕ちた。この穴はインドに今もなおあり、玄奘三蔵が中国からインドに修行に行った時、これを見たと西域記という書に記されている。
語釈
身口意の三業
身業・口業・意業のみっつ。身・口・意による三種の所作のことで、生命体の一切の振る舞いをさす。業は未来にもたらされる果の原因となる。
提婆達多
梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆舎羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下したが果たすことができなかった。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
浄飯王
浄飯は梵名シュッドーダナ(Śuddhodana)の訳。中インド迦毘羅衛国の王。釈尊の父。釈尊の出家に反対したが、釈尊が成道後、迦毘羅衛城に帰還した時、仏法に帰依した。
斛飯王
迦毘羅城の主。獅子頬王の子で、浄飯王の弟。釈尊の叔父。阿那律の父。なお、提婆達多・阿難の父とする説もあり、ここでは後者を用いられている。
悉達太子
悉達は、梵名シッダールタ(Siddhārtha)の音写である悉達多の略。釈尊の出家前の太子であった時の名。
耶輸大臣
梵名ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。釈尊の出家以前、中インド・波羅奈国の善覚長者の子。天上からの帝釈天の声を聞き出家を決意した。仏のもとで直ちに悟りを開き、五比丘に続いて具足戒を得て阿羅漢となる。釈尊の妃・耶輸多羅女の父。
耶輸多羅女
梵名ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。釈尊の出家以前、太子の時の正妃で羅睺羅の母。釈迦族の娘で才色ともに極めてすぐれていたという。摩訶波闍波堤とともに出家して比丘尼となり、法華経勧持品第十三で具足千万光相如来の記別を受けた。
須陀比丘
増一阿含経に出てくる。提婆達多の神通の師。
二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
三千の威儀
「威儀」とは威容儀礼の義で、きびしい規律にしたがった起居動作。これに行・住・坐・臥の四威儀を根幹に、「三千」八万の細行がある。もとより250戒とともに小乗教の所説で大乗は重視しない。
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
四分律
仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律である。十誦律、五分律、摩訶僧祇律と共に、「四大広律」と呼ばれる。この四分律は、これら中国および日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、ほとんどがこの四分律に依拠している。
糞掃衣
僧の衣のこと。インドの教団で、糞や塵ちりのように捨てられたぼろ布を洗い、つづって作ったことからいう。衲衣
常乞食
常に他に向かって食を乞うて歩くこと。四分律・五法のひとつ。
一座食
一日に一回、午前中に食事をとるほかは食事をとらないという行。四分律・五法のひとつ。
常露座
常に屋外の露天に坐って、家の中や樹下に坐らない行。四分律・五法のひとつ。
五味
①乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味のこと。涅槃経では、牛乳を精製する段階に従って得られる五味を説く。天台大師はこれを、乳味=華厳時、酪味=阿含時、生酥味=方等時、熟酥味=般若時、醍醐味=法華涅槃時としている。②甘・酸・苦・辛・鹹のこと。
頻婆舎羅王
梵名ビンビサーラ(Bimbisāra)の音写で、影勝・顔色端正などと訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。阿闍世王の父。釈尊に深く帰依し、仏教を外護した。提婆達多にそそのかされた阿闍世太子に幽閉されるが、かえって阿闍世太子の不孝を悲しみ諌めた。阿闍世太子は獄吏に命じて食を断ち、ついに王は命終した。この時、王は釈尊の光明に照らされ、阿那含果を得たといわれる。
檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
未生怨太子
阿闍世王のこと。未生怨は、梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の訳。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆舎羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、半面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体に悪瘡を生じ懺悔して寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。未生怨という名のいわれは、観無量寿仏経疏によると、父の頻婆舎羅王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に韋提希夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王の怨となるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられたという。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王のことを別名婆羅留枝ともいう。
誑惑
たぶらかすこと。
罵詈
誹謗し謗ること。
三業相応
三業とは身口意で行なう業のこと。相応とはあいかなうこと。身口意の三業が一致していること。すなわち、心で思い、言葉で述べ、身で行なうことが一致していることをいう。
一中劫
20小劫のこと。
打杖
杖木で打ちのめすこと。
由旬
梵語ヨージャナ(yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での四十里、三十里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ十六里にあたるとしている。その他、約九マイル(14・4㌖)とする説もある。
四大海
須弥山をめぐる四方の大海のこと。古代インドの世界観で、世界の中央に須弥山があり、その四方に、東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があり、それをめぐる海をいう。
九山
須弥山を中心とする一小世界の山の総称。古代インドの世界観。須弥山を中心として同心円状に①持雙 ②持軸 ③檐木 ④善見 ⑤馬耳 ⑥象鼻 ⑦持辺 の七つの金山があり、山と山の間は功徳水をたたえた七つの海(内海)がある。持辺山の外は塩水をたたえた海となっており、外海と称する。外海の更に外を鉄輪囲山が取り巻いており、以上の須弥山・七金山・鉄囲山をまとめて九山という。
三逆罪
五逆罪のうち提婆達多の犯した三逆罪をいう。それは一つに、大衆に囲繞されることを仏と等しいと考え、釈迦をねたむのあまり和合僧団を破り、五百人の釈迦の弟子をたぶらかした。二つには、釈迦を殺さんとして耆闍崛山の上から大石を投じたが、地神が受けとめたため、その砕石がとびちって釈迦の足にあたり、小指より血を出した。三つには、阿羅漢果をえた蓮華色比丘尼が提婆を呵責したので、拳をもって尼を打ち即死させた。この仏を恐れない悪業のため、提婆は大地が裂けて生きながら地獄に堕ちたのである。
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
月支
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
西域と申す文
大塔西域記のこと。12巻からなる。唐の玄奘の旅行記。7世紀初め玄奘が16年間にわたって仏教典籍を求めて歴遊した西域(インド)諸国の地理・歴史・言語・風俗・仏教事情・政治などについて詳しく記したもの。見聞の地と伝聞によって知った諸国を合わせる140ヵ国に及んでいる。
講義
法師品の経文のように、仏を憎み、ののしった例として、釈尊に対する提婆達多を挙げられている。
提婆達多というのは、梵語名をデーヴァダッタ(Devadatta)といい、その音写である。提婆達兜、地婆達多などとも音訳し、略して、提婆、達多、調達などともいう。その意訳は、デーヴァ(deva)が「天」の意味で、ダッタ(datta)は「授」「与」の意味で、合して「天から授けられた」「天から与えられた」の意味となり、ここから「天授」「天与」となる。
提婆達多は、仏教教団の分裂を図り、仏陀・釈尊を妬み、恨み、憎悪し、遂には殺そうとして、生きながら地獄に堕ちたことで有名である。
釈尊と提婆達多の関係は、いとこ同士の間柄とされる。釈尊の父の浄飯王と提婆の父とされる斛飯王とが兄弟であったからである。
釈尊と提婆達多がともに太子であった時に「五天竺第一の美女・四海名誉の天女」である耶輸大臣の娘、耶輸多羅女を后にしようとして争った。耶輸多羅女は結局、悉達太子の后になったのであるが、この争いがもとで、二人は「中あしく」なった。後に、二人とも出家したが、仏陀・釈尊が多くの人々の尊敬を一身に集めたのに対し、提婆は、人々から尊敬されなかったので、なんとかして世間の名声において釈尊をしのごうと、五つの事柄において仏よりすぐれることができると思い立ち、その点を言い触らすことによって世間は提婆が仏に勝れているのは雲泥の相違であると思うようになった。
更に提婆は、大檀那をだれにするかと考えて未生怨太子に近づいた。阿闍世の父、マガダ国の頻婆舎羅王が釈尊に対し「日日に五百輛の車を数年が間・一度もかかさず」供養しているのを見て、提婆は、頻婆沙羅王の太子である未生怨に近づき、阿闍世をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺させ、自らは仏を殺そうとして機をうかがったのである。しかし、その野望を果たすことはできず、三逆罪を犯した結果、大地が忽然と裂けて、提婆は生きながら地獄に堕ちたという。
こうして、提婆の行為は、仏を殺そうとして石を投げて仏の身体を傷つけるという身業、更に、仏のことを「誑惑の者」とののしるという口業、また、内心に仏を過去の世からの自分の怨敵と思うという意業、の三業にわたっての悪業となったのである。
以上が、仏をその面前で身・口・意の三業にわたって、憎しみののしってきた実例である。
ところで、提婆と釈尊とがともに生きた年数は、一劫にははるかにおよばない。ただここでは法師品の「不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん」の例として挙げられたのである。そして、これを一劫もの間、犯す罪がどれほど大きいかを暗に示されたと考えられる。
なお、先の提婆達多の意業を述べられているところで、「内心より宿世の怨とをもひし」と仰せになっているように、提婆達多の釈尊への恨みははるか過去の世からのものである、と仰せられている点にも留意しておきたい。
すなわち、大聖人は、提婆達多の師敵対の生命を、三世の生命観のうえから洞察されている。現世的にはたかだか五十年前後の現象ではあっても、その三世にわたる怨念を、一劫にもわたる仏への罵詈として教えられているのである。
此の穴・天竺にいまだ候・玄奘三蔵・漢土より月支に修行して此れをみる西域と申す文に載せられたり
ここで、「西域と申す文」とは、玄奘の「大唐西域記」のことである。提婆が仏を殺害しようとして、生身で地獄に堕ちた穴があると記されているのは、巻六の「一、室羅伐悉底国」のなかにおいてである。
今、その箇所を引用してみよう。
「伽藍の東、百余歩の所に大きな深い坑がある。提婆達多が毒薬で仏を害しようと思い、生身で地獄に陥ち込んだ処である。提婆達多は斛飯王の子である。精勤すること十二年、すでに八万の法蔵を暗誦していた。後に、利のために神通を学ぼうとし、悪友と親しく交わり、共に『私の相は三十であり仏〔の三十二相〕より不足することさほどでもないのに、大衆の取り巻くあり方がどうして如来と異なるのであろうか』と話し合った。考えがここに至り、仏の僧団を破壊分裂することを企てた。舎利子と没特伽羅子は仏のお指図を奉じ、仏の御威勢を受け、仏の教えを説き教え諭したところ、僧たちは再び仏の僧団と和合することとなった。提婆達多は悪心去りやらず、猛毒の薬を指の爪の中に入れ、礼する際に仏を傷害しようと思った。まさにこの計画を実行しようとして遠くからやって来て、ここまで来るや、地は坼けてしまった。生きながら地獄に陥ちたのである」。
ここでは、本文とは少し異なった観点から、提婆の教団分裂の企図や仏を害しようとした様子が記されているとともに、提婆が地獄に堕ちたとされる「大きな深い坑」に言及されている。
第三章(末代の法華経の行者誹謗の罪を明かす)
本文
而るに法華経の末代の行者を心にも・をもはず色にもそねまず只たわぶれてのりて候が上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫・仏を罵詈し奉るにすぎて候ととかれて候、何に況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもつて多年が間・法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや。
問うて云く末代の法華経の行者を怨める者は何なる地獄に堕つるや、答えて云く法華経の第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん一劫を具足して劫尽きなば復死し展転して無数劫に至らん」等云云、此の大地の下・五百由旬を過ぎて炎魔王宮あり、その炎魔王宮より下・一千五百由旬が間に八大地獄並びに一百三十六の地獄あり、其の中に一百二十八の地獄は軽罪の者の住処・八大地獄は重罪の者の住処なり、八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり、第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処なり、今法華経の末代の行者を戯論にも罵詈・誹謗せん人人はおつべしと説き給へる文なり、
現代語訳
ところが、末代の法華経の行者を、心に悪く思わず、顔色に出して嫉むこともなく、ただ戯れに罵っただけでも、上に述べた提婆達多のように三業相応して、一中劫の間、仏を罵詈した罪よりも過ぎていると説かれている。
まして今日の人で、提婆達多のように三業相応しての大悪心をもって、多年の間、法華経の行者を罵詈、毀辱、嫉妬、打擲し、讒死、歿死に当てようとした者の罪はいうまでもないことである。
問う。末代の法華経の行者を怨嫉した者はどのような地獄に堕ちるのか。
答う。法華経第二の巻に「法華経を読誦し、書写し、受持している者を見て、軽んじ、賎み、憎み、嫉んで結恨を懐くならば……その人は命終えて後、阿鼻地獄に堕ちるであろう。一劫の間苦しんで、劫が尽きればまた死に、繰り返して無数劫に至るであろう」と説かれている。
この大地の下、五百由旬を過ぎた所に炎魔王宮がある。その炎魔王宮より下、千五百由旬の間に八大地獄並びに百三十六の地獄がある。その中の百二十八の地獄は軽罪の者の住処で、八大地獄は重罪の者の住処である。八大地獄の中の七大地獄は十悪の者の住処であり、第八の無間地獄は五逆罪の者と不孝の者と誹謗正法の者との三人の住処である。今末代の法華経の行者を戯れにも罵詈、誹謗する人々は、無間地獄に堕ちるであろうと説かれた文である。
語釈
末代
正像二千年過ぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法のこと。釈迦仏法に功力が失せ、邪法の前に隠れてしまうこと。
毀辱
毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。
打擲
打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。
讒死
讒言により死ぬこと。
歿死
死に果てること。
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
炎魔王宮
炎魔王の住む宮殿。炎魔は梵名ヤマ(Yama)の音写。閻魔、琰魔等とも書き、縛、双王等と訳す。死後の世界の大王で、地獄界、餓鬼界の主とされる。その王宮の住処については、諸経典によって種々の説がある。長阿含経巻十九には「閻浮提の南、大金剛山内に、閻魔王宮あり、王の所治処は縦広六千由旬なり、その城は七重にして七重の欄楯あり、七重の羅網、七重の行樹、乃至無数の衆鳥相和して悲鳴す」とある。また、大毘婆沙論巻百七十二には「贍部洲の下五百踰繕那に琰魔王界あり、これ一切の鬼の本所住処なり」とある。また倶舎論巻十一には「此の贍部洲の下に於いて、五百踰繕那を過ぎて琰魔王の国あり。縦と広さとの量も亦爾なり」とある。
八大地獄
八熱地獄ともいう。仏典では古代インドの世界観に基づき、この世界には、殺生・盗み・邪淫などの人倫にもとる悪い行いをした罪の報いとして、死後に堕ちる8種の地獄があるとされる。①等活地獄(獄卒に鉄杖で打たれ刀で切られても身体がよみがえり同じ苦しみを繰り返す)②黒縄地獄(熱鉄の黒縄を身体にあてられそれに沿って切り刻まれる)③衆合地獄(鉄の山の間に追い込まれ両側の山が迫ってきて押しつぶされる)④叫喚地獄(熱鉄の地面を走らされ溶けた銅の湯を口に注がれるなどの苦しみで喚き叫ぶ)⑤大叫喚地獄(様相は前に同じ)⑥焦熱地獄(焼いた鉄棒で串刺しにされ鉄鍋の上で猛火にあぶられる)⑦大焦熱地獄(様相は前に同じ)⑧阿鼻地獄(無間地獄)の八つで、その様相は諸経論でさまざまに説かれる。この順に地を下り苦しみも増していき、最底、最悪の阿鼻地獄に至る。日蓮大聖人は「顕謗法抄」(443㌻)で、それぞれを詳述されている。
一百三十六の地獄
長阿含経、倶舎論、正法念経等に説かれている。大小の地獄の全体の数で、八熱地獄は等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、大阿鼻地獄のおのおのに十六の別処があり、合わせて百二十八、これに八大地獄を加えて一百三十六の地獄となる。
地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
七大地獄
八大地獄から無間地獄を除く七つの地獄。等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱地獄。
十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
五逆
五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
講義
法師品では、先の提婆達多のように、一劫の間仏を恨み、ののしり、迫害するという重罪も、末代の法華経の行者をののしる罪に比べれば、はるかに軽いと説いている。
本章では、その法華経の行者に対する誹謗がいかに重いものであるかを明かされている。
まず「法華経の末代の行者を心にも・をもはず色にもそねまず只たわふれてのりて候が上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫・仏を罵詈し奉るにすぎて候ととかれて候」と説かれているように、末代の法華経の行者に対して〝心にも・をもはず〟すなわち、意業なく、〝色にもそねまず〟すなわち、身業もなくても、ただ冗談のように、戯れにののしっても、その口業だけで、一劫の間、身・口・意の三業相応して仏を罵詈した提婆より罪が重い、とされている。
「たわふれて」であるから、その口業も時間的には一瞬のことと考えてよいであろう。一劫とは比較にならないことはいうまでもない。
そのただ、一時の戯れの口業だけで、三業相応して一劫の間、誹謗した提婆の罪をはるかに超えるのであるから、ましてや、身・口・意の三業相応して法華経の行者を誹謗すればどれほどの罪になるかは想像を絶するといわなければならない。
そのことを「何に況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもつて多年が間・法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや」と仰せられているのである。
「当世の人」とは日蓮大聖人御在世当時の人々であり、「法華経の行者」とは大聖人御自身であることはいうまでもない。
また、罵詈、毀辱が口業に、嫉妬が意業に、打擲、歿死は身業に、讒死は讒言で死に至らしめるのであるから口業に、それぞれ相当し、大聖人御在世当時の三類の敵人が行った三業による誹謗の姿を具体的に示されている。
以上のように、提婆の三逆罪より末代の法華経の行者を怨み、誹謗した者のほうが罪が重いとなると、ではいかなる地獄に堕ちるのかということについて、次に問答を設け、法華経の譬喩品の文証によって、無間地獄に堕することを明らかにされている。
地獄について
本文にもあるとおり、まずこの大地(贍部洲=南閻浮提)の下、五百由旬を過ぎて閻魔王宮がある。
そして、その閻魔王宮より下、千五百由旬という距離の間に、八大地獄と百三十六地獄がある。
八大地獄と百三十六地獄については、顕謗法抄に詳しいが、ここでは簡単に説明しておこう。
八大地獄は八熱地獄のことで、上から下へ順に、
①等活、
②黒縄、
③衆合、
④叫喚、
⑤大叫喚、
⑥焦熱、
⑦大焦熱、
⑧大阿鼻(無間)、
のそれぞれの地獄が並んでいるとされている。
更に、この八大地獄のどの地獄も、立方体の形をした世界であるが、その四壁面に一つずつ門があって、一つの門ごとに四つの副地獄がついているので、合計して十六の別処の地獄をもっていることになる。八大地獄全体では、結局、百二十八の別処の地獄があることとなり、八大地獄と合して百三十六の地獄となるのである。
地獄には、また、このほかに八寒地獄がある。この八寒地獄はやはり贍部洲の下で、八大地獄のかたわらにある。その名は、
①頞部陀、
②尼刺部陀、
③頞唽吒、
④臛臛婆、
⑤虎々婆、
⑥嗢鉢羅(青蓮華)、
⑦鉢特摩(紅蓮華)、
⑧摩訶鉢特摩(大紅蓮華)、
である。
さて、八大地獄と別処の百二十八地獄に堕ちる業因であるが、まず、別処の百二十八の地獄は「軽罪の者の住処」とされている。これに対し、八大地獄は「重罪の者の住処」とされている。
顕謗法抄にはこの八大地獄のそれぞれの業因業果が明かされている。
まず、等活地獄は殺生の罪を犯した者が堕ちるところで、ここでは罪人が責めさいなまれて死んでも再び蘇っては責めさいなまれるということを繰り返す刑罰を受けるのである。たとえ小虫に対してであっても、殺生を行えば、この地獄に堕ちるのである。
次の黒縄地獄は、先の殺生に加えて偸盗した者が堕ちるところで、ここでは獄卒が、大工のように、熱鉄の黒縄を糸として罪人の体に線を引き、その線のとおりに鋸で体を切っていくという刑罰を受けるのである。
第三に衆合地獄は、殺生、偸盗のうえに邪淫を犯した者が堕ちる地獄である。獄卒が罪人を二つずつ向かい合っている鉄の山の合間に追いやると、それら二つの山が双方から迫ってきて、罪人を押しつぶすという苦しみを受けたり、その他さまざまな苦が迫ってくるところである。
第四に叫喚地獄は、殺生、偸盗、邪淫のうえに飲酒を加えた者が堕ちるところで、さまざまな苦痛により、泣き叫ぶ刑罰を受けるのである。
第五に、大叫喚地獄は、殺生、偸盗、邪淫、飲酒を行ったうえに、妄語を犯した者が堕ちるところで、先の叫喚地獄よりもっと大きな苦痛を受けて、大いなる叫び声を上げる地獄である。
第六の焦熱地獄は、これまでの五つの罪に更に邪見を抱く者が堕する地獄で、火炎に苦しめられるという刑罰を受けるところである。
第七に大焦熱地獄は、これまで以上の罪を犯した者が堕ちる地獄で、第六の地獄よりも更に激しい火炎に苦しめられるのである。
以上、総じて「七大地獄は十悪の者の住処」と本章で説かれているように、これまでの説明のとおり、十悪を行った者が堕ちるところなのである。
八大地獄の最下層の無間地獄は「五逆と不孝と誹謗」という三つの大罪を犯した者の住処で、〝無間〟というのは倶舎論によれば、楽が苦に間ら無いということで、苦しみが間断なく続くという意味である。
楽が苦にまじわらないというのは、苦しんでいる生命に楽の境涯が一瞬でも入ってこない、ということで、苦の連続を意味するのである。
しかも、その一つ一つが「若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給はず」(0447:顕謗法抄:07)といわれるほどの苦とされる。
さて、無間地獄に堕ちる業因としての、五逆と不孝と誹謗の三罪において、その軽重の問題であるが、〝不孝〟とは、観仏三昧経や因果経などによると「父母に孝せざる者」が死んで後に阿鼻地獄に堕ちるとされているから、殺父・殺母を含む五逆罪よりは軽い、ということになろう。
次に、五逆と誹謗との関係であるが、この点について顕謗法抄には次のように説かれている。すなわち、
「問うて云く五逆と謗法と罪の軽重如何、答て云く大品経に云く『舎利弗仏に白して言く世尊五逆罪と破法罪と相似するや、仏舎利弗に告わく相似と言うべからず所以は何ん若し般若波羅蜜を破れば則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ、仏宝を破るが故に法宝を破るが故に僧宝を破るが故に三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり無量無辺阿僧祇の罪を得已つて則ち無量無辺阿僧祇の憂苦を受るなり』文又云く『破法の業因縁集るが故に無量百千万億歳大地獄の中に堕つ、此の破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る若し劫火起る時は他方の大地獄の中に至る、是くの如く十方に徧くして彼の間に劫火起る故に彼より死し破法の業因縁未だ尽きざるが故に是の間の大地獄の中に還来す』等と云云、法華経第七に云く『四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者あり悪口罵詈して言く是れ無智の比丘と、或は杖木瓦石を以て之れを打擲す乃至千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く』等と云云、此の経文の心は法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし、故に法華経第二に云く『経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん』等と云云」(0448:02)と。
ここで大聖人は、大品経、法華経の経文を引かれて、誹謗正法の罪のほうが五逆罪よりどれほど重いかを示されている。なぜなら、は三世十方の諸仏の能生の根源であるから、この正法を誹謗することは三世十方の諸仏を破り、したがって三宝を破ることと同じであり、ひいては、世間の正見を破って無数の衆生を迷わすことになるからである。
顕謗法抄の御文で法華経第七の文を受けて「法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」と仰せられているのは、法華経巻七不軽品第二十で、不軽菩薩を迫害した衆生が懺悔してなお、残った罪のため、千劫の間、無間地獄に堕ちたことをいわれているのである。
また、法華経譬喩品の有名な「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至、其の人は命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更に生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」の経文を文証とされて、末法の法華経の行者を誹謗する者の罪は、無間地獄に無数劫の間沈むことになると説かれているのである。
本抄でもこの譬喩品の文を引かれているのであるが、この文は十四誹謗の依文となっている。この文の前は「憍慢懈怠、我見を計する者には、此の経を説くこと莫れ。凡夫は浅識にして、深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ。亦た為めに説くこと勿れ。若し人は信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復た顰蹙して、疑惑を懐かん。汝は当に、此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き経典を、誹謗すること有らん」となっていて、本抄の文がそのあとに続くのである。
妙楽大師はこの文をもって、法華文句記に十四誹謗として釈している。すなわち、
①憍慢
②懈怠
③計我
④浅識
⑤著欲
⑥不解
⑦不信
⑧顰蹙
⑨疑惑
⑩誹謗
⑪軽善
⑫憎善
⑬嫉善
⑭恨善
である。
このうち①の憍慢から⑥の不解までは一般的に誹謗に陥りやすい者を挙げ、これらの者に説くことを戒めている。
また、⑦の不信から⑩の誹謗までは「此の経」「斯の如き経典」に対する誹謗となっていて、法への誹謗である。
それに対して、⑪の軽善から⑭の恨善の四つの誹謗は「経を読誦し書持すること有らん者」に対する誹謗となっている。したがって、大聖人はこの四つをとくに挙げられたのである。