法蓮抄
建治元年(ʼ75)4月 54歳 曽谷教信
- 第一章(法華経の行者誹謗の罪報を明かす)
- 第二章(提婆達多の実例を挙ぐ)
- 第三章(末代の法華経の行者誹謗の罪を明かす)
- 第四章(法華行者を賛嘆する福徳を説く)
- 第五章(仏の徳の広大なるを明かす)
- 第六章(法華行者を賛嘆供養する功徳を明かす)
- 第七章(仏の金言を信ずべきことを明かす)
- 第八章(法華経が孝養の経典なるを明かす)
- 第十章(自我偈読誦の功徳を讃える)
- 第十一章(自我偈最勝の理由を明かす)
- 第十二章(亡父追善の功徳を讃える)
- 第十三章(法華修行の種々相を示す)
- 第十四章(御自身の怨嫉留難の生涯を説く)
- 第十五章(国主諌暁の背景を明かす)
- 第十六章(大瑞が前代に起こらなかった理由示す)
- 第十七章(謗法者に現罰なき理由を明かす)
第一章(法華経の行者誹謗の罪報を明かす)
本文
夫れ以んみれば、法華経第四の法師品に云わく「もし悪人有って、不善の心をもって、一劫の中において、現に仏前において、常に仏を毀罵せば、その罪はなお軽し。もし人、一つの悪言をもって、在家・出家の法華経を読誦する者を毀訾せば、その罪ははなはだ重し」等云々。妙楽大師云わく「しかもこの経の功高く理絶するに約して、この説を作すことを得。余経はしからず」等云々。
この経文の心は、一劫とは、人寿八万歳ありしより、百年に一歳をすて、千年に十歳をすつ。かくのごとく次第に減ずるほどに、人寿十歳になりぬ。この十歳の時は、当時の八十の翁のごとし。また人寿十歳より、百年ありて十一歳となり、また百年ありて十二歳となり、乃至一千年あらば二十歳となるべし。乃至八万歳となる。この一減一増を一劫とは申すなり。また種々の劫ありといえども、しばらくこの劫をもって申すべし。
現代語訳
法華経第四の巻法師品第十には「もし悪人があって、不善の心で一劫という長い間、仏の面前で常に仏を罵っても、その罪はまだ軽い。もし人がただの一言でも、在家・出家の法華経を読誦する者を毀るならば、その罪は非常に重い」と説かれている。妙楽大師は「この法華経の功力は高く、教理は勝れているから、このようにいうことができる。余経はこのようにはいえない」と釈している。
この経文の心について述べよう。一劫とは、人の寿命が八万歳であった時から、百年に一歳ずつ短くなり、千年間に十歳短くなる。このように次第に減っていって、人の寿命が十歳になる。この十歳の時は今時の八十歳の翁に当たるのである。また人の寿命が十歳の時から、百年たって十一歳となり、また百年たって十二歳となり、ないし一千年たてば二十歳となるのであり、こうして八万歳となる。この一減一増の期間を一劫というのである。このほかに種々の劫の考え方もあるけれども、今はこの劫によって述べよう。
語釈
法師品
法華経法師品第十のこと。法華経迹門の流通分にあたる。一念随喜と法華経を持つ者の功徳を明かし、室・衣・座の三つをあげ滅後の弘教の方軌を説いている。
毀罵
誹謗しののしること。
在家
①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
出家
世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。
毀訾
そしること。
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
講義
まず、法蓮抄の由来を背景、大意などについて明らかにしておこう。
法蓮抄とは、曾谷教信の法名をとって付けられた題である。建冶元年(1275)4月、日蓮大聖人聖寿54歳の御時、身延山においてしたためられた。
本文中に「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当り一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」、「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」という曾谷入道の諷誦を引用されていることからも明らかなように、本抄は、曾谷入道法蓮が自分の父の13回忌にあたり、大聖人に御供養申し上げるとともに、諷誦を送ったことに対して、種々、御教示されたものである。
日蓮大聖人は、本抄で、最初に法華経の行者を賛嘆する功徳とこれを誹謗する罪報とを比較され、法華経の行者を供養する功徳をたたえられる。次に、法蓮の二つの諷誦文を挙げられ、とくに亡き父の追善のために自我偈を読誦した功徳がいかに大きいかを、烏竜遺竜の故事を引いて述べられる。法華経は一々の文字が皆生身の仏であるゆえに、法蓮の読んだ経文が仏体として現れて、慈父の聖霊を救うであろうと教えられ、法蓮の孝養の尊さをたたえられている。
更に、末法における法華経の修行の根本は折伏であることを示され、最後に、それを身をもって実践された大聖人を迫害したために国をあげて大罰を受けていることを指摘されている。
なお、本抄はその内容から別名を「父子成仏抄」とも呼ばれている。御真筆は現存していない。
本抄は、法華経の法師品の経文と、これを釈した妙楽大師の釈の文とを挙げられて、法華経の行者を誹謗する者の罪報を明かされている。
法師品の文は、もし悪人がよくない心をもって、一劫という長い間、仏をその面前でののしり続けたとしてもまだその罪は軽いが、もし人がただの一言でも法華経を読誦する在家、出家の者をそしると、その罪ははるかに重い、というものである。
要約すると、仏を長時間ののしるよりも、法華経を読誦する僧俗の者をそしるほうがはるかに罪は重い、ということである。
なぜ、そうなのかについて明かしているのが、次の妙楽大師の釈である。
妙楽大師は「此の経の功高く理絶えたる」からであると述べている。すなわち、法華経の功徳が高く、その教理が絶対的に勝れているがゆえであって、法華経以外の他の経典では、法師品のようには説けない、といっている。
次に大聖人は、法師品の「一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん」の文中における「一劫」について説明されるのである。
仏教では、日時で計りがたい長遠な時間を「劫」という。「劫」は梵語でカルパ(Kalpa)といい、劫波、劫跛などと音写したものの略で、意訳すると「大時」となる。
古来、仏典では、この劫の長さを説明するにあたって、種々の数え方や譬喩を説いている。
「種種の劫ありといへども」と仰せの〝種種の劫〟というのは、この仏典における種々の考え方や譬喩をさしているのである。
例えば、数え方に関しては、一劫について、一増一減を一小劫とする説や二十小劫を一中劫とする説などがある。
また、譬喩については、大智度論巻五に、例えば長寿の人がいて、四千里四方の石山を、百年ごとに細軟の衣で拭いて、石山が摩耗し尽くしても、なお劫は尽きないと説き、更に四千里四方の大城を芥子で満たし、百年に一度、一粒を取って、取り尽くしても、なお劫は尽きない、と説いている。
このような、さまざまな「劫」の説明のなかから、大聖人は一減一増を一劫とする説をもって、法師品の「一劫」とするとされている。
仏教の宇宙観によると、一つの世界は、成立し、そこに衆生が住し、やがて崩壊し、消滅してしまうという四段階、すなわち四劫を繰り返す、とする。
この四劫の期間を一大劫といい、成劫・住劫・壊劫・空劫のそれぞれの期間を中劫という。そして、一中劫は二十小劫から成るとするが、この二十劫は、住劫における人寿の増減を基準として採用したものである。
すなわち、本文に説かれているように、人寿八万歳から百年ごとに一歳を減じていって人寿十歳に至るまでを「一減」とし、今度は逆に、人寿十歳から百年ごとに一歳を増していって人寿八万歳に至るまでを「一増」とする。「一減一増を一劫とは申すなり」とあるように、一増減を一劫とするのである。
これを年数に換算すると、15,998,000年ということになる。これだけ長期にわたって仏を謗り続ける罪よりも、法華経を読誦している人を一言でも毀訾する罪のほうがはるかに重いというのである。これは、その読誦している法華経が仏よりはるかに尊いからにほかならない。
第二章(提婆達多の実例を挙ぐ)
本文
此の一劫が間・身口意の三業より事おこりて仏をにくみたてまつる者あるべし例せば提婆達多がごとし、仏は浄飯王の太子・提婆達多は斛飯王の子なり、兄弟の子息なる間仏の御いとこにて・をはせしかども今も昔も聖人も凡夫も人の中をたがへること女人よりして起りたる第一のあだにてはんべるなり、釈迦如来は悉達太子としてをはしし時提婆達多も同じ太子なり、耶輸大臣に女あり耶輸多羅女となづく五天竺第一の美女・四海名誉の天女なり、悉達と提婆と共に后にせん事をあらそひ給いし故に中あしくならせ給いぬ、後に悉達は出家して仏とならせ給い提婆達多・又須陀比丘を師として出家し給いぬ、仏は二百五十戒を持ち三千の威儀をととのへ給いしかば諸の天人これを渇仰し四衆これを恭敬す、提婆達多を人たとまざりしかばいかにしてか世間の名誉・仏にすぎんと・はげみしほどにとかう案じいだして仏にすぎて世間にたとまれぬべき事五つあり、四分律に云く一には糞掃衣・二には常乞食・三には一座食・四には常露座・五には塩及び五味を受けず等云云、仏は人の施す衣をうけさせ給う提婆達多は糞掃衣、仏は人の施す食をうけ給う提婆は只常乞食、仏は一日に一二三反も食せさせ給い提婆は只一座食、仏は塚間・樹下にも処し給い提婆は日中常露座なり、仏は便宜にはしを復は五味を服し給い提婆はしを等を服せず、かうありしかば世間・提婆の仏にすぐれたる事・雲泥なり、かくのごとくして仏を失いたてまつらんとうかがひし程に頻婆舎羅王は仏の檀那なり日日に五百輛の車を数年が間・一度もかかさずおくりて仏並びに御弟子等を供養し奉る、これをそねみ・とらんがために未生怨太子をかたらいて父・頻婆舎羅王を殺させ我は仏を殺さんとして或は石をもつて仏を打ちたてまつるは身業なり、仏は誑惑の者と罵詈せしは口業なり、内心より宿世の怨とをもひしは意業なり三業相応の大悪此れにはすぐべからず、此の提婆達多ほどの大悪人・三業相応して一中劫が間釈迦仏を罵詈・打杖し嫉妬し候はん大罪はいくらほどか重く候べきや、此の大地は厚さは十六万八千由旬なりされば四大海の水をも九山の土石をも三千の草木をも一切衆生をも頂戴して候へども落ちもせずかたぶかず破れずして候ぞかし、しかれども提婆達多が身は既に五尺の人身なりわづかに三逆罪に及びしかば大地破れて地獄に入りぬ、此の穴・天竺にいまだ候・玄奘三蔵・漢土より月支に修行して此れをみる西域と申す文に載せられたり、
現代語訳
この一劫の間、身口意の三業によって事が起こって、仏を憎む者が出てくる。例えば提婆達多 のような者である。仏は浄飯王の太子であり、提婆達多は斛飯王の子である。兄弟の子息であるから、仏にとって従兄弟であったが、今も昔も、聖人も凡夫も、人の仲を違えるのは、女人のことから起こるのが第一の怨となるのである。
釈迦如来が悉達太子であられた時、提婆達多も同じ太子であった。耶輸大臣に娘があり、耶輸多羅女といった。全インド第一の美女で、その名は四海に聞こえた天女である。悉達太子と提婆達多は、ともに后にしようとして争ったので、仲が悪くなったのである。後に、悉達太子は出家して仏になられ、提婆達多もまた須陀比丘を師として出家したのである。
仏は二百五十戒を持ち、三千の威儀をととのえられていたから、諸々の天人は渇仰し、四衆は恭敬した。しかし、提婆達多を人が貴ばなかったので、どのようにしたら世間の名誉が仏に過ぎることができるかと考えていたが、思案の末に、仏以上に世間から貴ばれることが五つある。四分律にはこれを「一には糞掃衣、二には常乞食、三には一座食・四には常露座、五には塩及び五味を食べない」と説かれている。仏は人の施す衣を受けられるが、提婆達多は糞掃衣を着た。仏は人の施す食を受けられるが、提婆達多はただ常に乞食を行じた。仏は一日に一、二、三度も食事されるが、提婆達多はただ一度しか食事しない。仏は塚間や樹下でも休まれるが、提婆達多は日中は常に露天に坐った。仏はときには塩または五味を食べられるが、提婆達多は塩などを食べない。このようであったから、世間では提婆達多が仏に勝れていることは雲泥であると考え出したのである。
このようにして、仏の威徳をなくそうと狙っていたところに、頻婆舎羅王は仏の檀那である。一日に五百両の車を、数年の間一度も欠かさずに送って、仏ならびに御弟子等に供養されたのである。提婆達多はこれを妬み取ろうとして、未生怨太子を仲間に引き入れて父の頻婆舎羅王を殺させ、自分は仏を殺そうとして、あるいは石でもって仏を打った。これは身の悪業である。仏は人を誑かし惑わす者であると罵詈したのは口の悪業である。内心から宿世の怨と思ったのは意の悪業である。三業相応の大悪はこれに過ぎたものはない。
この提婆達多ほどの大悪人が、三業相応して一中劫の間、釈迦仏を罵詈し、打杖し、嫉妬した大罪はどのように重いことであろう。この大地は厚さ十六万八千由旬である。ゆえに四大海の水をも、九山の土石をも、三千の草木をも、一切衆生をも戴せているけれども、落ちもしないし、傾かないし、破れることもない。しかしながら、提婆達多の身は五尺の人身であるが、わずかに三逆罪を犯して、大地が破れて地獄に堕ちた。この穴はインドに今もなおあり、玄奘三蔵が中国からインドに修行に行った時、これを見たと西域記という書に記されている。
語釈
身口意の三業
身業・口業・意業のみっつ。身・口・意による三種の所作のことで、生命体の一切の振る舞いをさす。業は未来にもたらされる果の原因となる。
提婆達多
梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆舎羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下したが果たすことができなかった。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
浄飯王
浄飯は梵名シュッドーダナ(Śuddhodana)の訳。中インド迦毘羅衛国の王。釈尊の父。釈尊の出家に反対したが、釈尊が成道後、迦毘羅衛城に帰還した時、仏法に帰依した。
斛飯王
迦毘羅城の主。獅子頬王の子で、浄飯王の弟。釈尊の叔父。阿那律の父。なお、提婆達多・阿難の父とする説もあり、ここでは後者を用いられている。
悉達太子
悉達は、梵名シッダールタ(Siddhārtha)の音写である悉達多の略。釈尊の出家前の太子であった時の名。
耶輸大臣
梵名ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。釈尊の出家以前、中インド・波羅奈国の善覚長者の子。天上からの帝釈天の声を聞き出家を決意した。仏のもとで直ちに悟りを開き、五比丘に続いて具足戒を得て阿羅漢となる。釈尊の妃・耶輸多羅女の父。
耶輸多羅女
梵名ヤショーダラー(Yaśodharā)の音写。釈尊の出家以前、太子の時の正妃で羅睺羅の母。釈迦族の娘で才色ともに極めてすぐれていたという。摩訶波闍波堤とともに出家して比丘尼となり、法華経勧持品第十三で具足千万光相如来の記別を受けた。
須陀比丘
増一阿含経に出てくる。提婆達多の神通の師。
二百五十戒
男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。
三千の威儀
「威儀」とは威容儀礼の義で、きびしい規律にしたがった起居動作。これに行・住・坐・臥の四威儀を根幹に、「三千」八万の細行がある。もとより250戒とともに小乗教の所説で大乗は重視しない。
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
四分律
仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律である。十誦律、五分律、摩訶僧祇律と共に、「四大広律」と呼ばれる。この四分律は、これら中国および日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、ほとんどがこの四分律に依拠している。
糞掃衣
僧の衣のこと。インドの教団で、糞や塵ちりのように捨てられたぼろ布を洗い、つづって作ったことからいう。衲衣
常乞食
常に他に向かって食を乞うて歩くこと。四分律・五法のひとつ。
一座食
一日に一回、午前中に食事をとるほかは食事をとらないという行。四分律・五法のひとつ。
常露座
常に屋外の露天に坐って、家の中や樹下に坐らない行。四分律・五法のひとつ。
五味
①乳味・酪味・生酥味・熟酥味・醍醐味のこと。涅槃経では、牛乳を精製する段階に従って得られる五味を説く。天台大師はこれを、乳味=華厳時、酪味=阿含時、生酥味=方等時、熟酥味=般若時、醍醐味=法華涅槃時としている。②甘・酸・苦・辛・鹹のこと。
頻婆舎羅王
梵名ビンビサーラ(Bimbisāra)の音写で、影勝・顔色端正などと訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。阿闍世王の父。釈尊に深く帰依し、仏教を外護した。提婆達多にそそのかされた阿闍世太子に幽閉されるが、かえって阿闍世太子の不孝を悲しみ諌めた。阿闍世太子は獄吏に命じて食を断ち、ついに王は命終した。この時、王は釈尊の光明に照らされ、阿那含果を得たといわれる。
檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
未生怨太子
阿闍世王のこと。未生怨は、梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の訳。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆舎羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、半面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体に悪瘡を生じ懺悔して寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。未生怨という名のいわれは、観無量寿仏経疏によると、父の頻婆舎羅王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に韋提希夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王の怨となるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられたという。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王のことを別名婆羅留枝ともいう。
誑惑
たぶらかすこと。
罵詈
誹謗し謗ること。
三業相応
三業とは身口意で行なう業のこと。相応とはあいかなうこと。身口意の三業が一致していること。すなわち、心で思い、言葉で述べ、身で行なうことが一致していることをいう。
一中劫
20小劫のこと。
打杖
杖木で打ちのめすこと。
由旬
梵語ヨージャナ(yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での四十里、三十里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ十六里にあたるとしている。その他、約九マイル(14・4㌖)とする説もある。
四大海
須弥山をめぐる四方の大海のこと。古代インドの世界観で、世界の中央に須弥山があり、その四方に、東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があり、それをめぐる海をいう。
九山
須弥山を中心とする一小世界の山の総称。古代インドの世界観。須弥山を中心として同心円状に①持雙 ②持軸 ③檐木 ④善見 ⑤馬耳 ⑥象鼻 ⑦持辺 の七つの金山があり、山と山の間は功徳水をたたえた七つの海(内海)がある。持辺山の外は塩水をたたえた海となっており、外海と称する。外海の更に外を鉄輪囲山が取り巻いており、以上の須弥山・七金山・鉄囲山をまとめて九山という。
三逆罪
五逆罪のうち提婆達多の犯した三逆罪をいう。それは一つに、大衆に囲繞されることを仏と等しいと考え、釈迦をねたむのあまり和合僧団を破り、五百人の釈迦の弟子をたぶらかした。二つには、釈迦を殺さんとして耆闍崛山の上から大石を投じたが、地神が受けとめたため、その砕石がとびちって釈迦の足にあたり、小指より血を出した。三つには、阿羅漢果をえた蓮華色比丘尼が提婆を呵責したので、拳をもって尼を打ち即死させた。この仏を恐れない悪業のため、提婆は大地が裂けて生きながら地獄に堕ちたのである。
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
月支
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
西域と申す文
大塔西域記のこと。12巻からなる。唐の玄奘の旅行記。7世紀初め玄奘が16年間にわたって仏教典籍を求めて歴遊した西域(インド)諸国の地理・歴史・言語・風俗・仏教事情・政治などについて詳しく記したもの。見聞の地と伝聞によって知った諸国を合わせる140ヵ国に及んでいる。
講義
法師品の経文のように、仏を憎み、ののしった例として、釈尊に対する提婆達多を挙げられている。
提婆達多というのは、梵語名をデーヴァダッタ(Devadatta)といい、その音写である。提婆達兜、地婆達多などとも音訳し、略して、提婆、達多、調達などともいう。その意訳は、デーヴァ(deva)が「天」の意味で、ダッタ(datta)は「授」「与」の意味で、合して「天から授けられた」「天から与えられた」の意味となり、ここから「天授」「天与」となる。
提婆達多は、仏教教団の分裂を図り、仏陀・釈尊を妬み、恨み、憎悪し、遂には殺そうとして、生きながら地獄に堕ちたことで有名である。
釈尊と提婆達多の関係は、いとこ同士の間柄とされる。釈尊の父の浄飯王と提婆の父とされる斛飯王とが兄弟であったからである。
釈尊と提婆達多がともに太子であった時に「五天竺第一の美女・四海名誉の天女」である耶輸大臣の娘、耶輸多羅女を后にしようとして争った。耶輸多羅女は結局、悉達太子の后になったのであるが、この争いがもとで、二人は「中あしく」なった。後に、二人とも出家したが、仏陀・釈尊が多くの人々の尊敬を一身に集めたのに対し、提婆は、人々から尊敬されなかったので、なんとかして世間の名声において釈尊をしのごうと、五つの事柄において仏よりすぐれることができると思い立ち、その点を言い触らすことによって世間は提婆が仏に勝れているのは雲泥の相違であると思うようになった。
更に提婆は、大檀那をだれにするかと考えて未生怨太子に近づいた。阿闍世の父、マガダ国の頻婆舎羅王が釈尊に対し「日日に五百輛の車を数年が間・一度もかかさず」供養しているのを見て、提婆は、頻婆沙羅王の太子である未生怨に近づき、阿闍世をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺させ、自らは仏を殺そうとして機をうかがったのである。しかし、その野望を果たすことはできず、三逆罪を犯した結果、大地が忽然と裂けて、提婆は生きながら地獄に堕ちたという。
こうして、提婆の行為は、仏を殺そうとして石を投げて仏の身体を傷つけるという身業、更に、仏のことを「誑惑の者」とののしるという口業、また、内心に仏を過去の世からの自分の怨敵と思うという意業、の三業にわたっての悪業となったのである。
以上が、仏をその面前で身・口・意の三業にわたって、憎しみののしってきた実例である。
ところで、提婆と釈尊とがともに生きた年数は、一劫にははるかにおよばない。ただここでは法師品の「不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん」の例として挙げられたのである。そして、これを一劫もの間、犯す罪がどれほど大きいかを暗に示されたと考えられる。
なお、先の提婆達多の意業を述べられているところで、「内心より宿世の怨とをもひし」と仰せになっているように、提婆達多の釈尊への恨みははるか過去の世からのものである、と仰せられている点にも留意しておきたい。
すなわち、大聖人は、提婆達多の師敵対の生命を、三世の生命観のうえから洞察されている。現世的にはたかだか五十年前後の現象ではあっても、その三世にわたる怨念を、一劫にもわたる仏への罵詈として教えられているのである。
此の穴・天竺にいまだ候・玄奘三蔵・漢土より月支に修行して此れをみる西域と申す文に載せられたり
ここで、「西域と申す文」とは、玄奘の「大唐西域記」のことである。提婆が仏を殺害しようとして、生身で地獄に堕ちた穴があると記されているのは、巻六の「一、室羅伐悉底国」のなかにおいてである。
今、その箇所を引用してみよう。
「伽藍の東、百余歩の所に大きな深い坑がある。提婆達多が毒薬で仏を害しようと思い、生身で地獄に陥ち込んだ処である。提婆達多は斛飯王の子である。精勤すること十二年、すでに八万の法蔵を暗誦していた。後に、利のために神通を学ぼうとし、悪友と親しく交わり、共に『私の相は三十であり仏〔の三十二相〕より不足することさほどでもないのに、大衆の取り巻くあり方がどうして如来と異なるのであろうか』と話し合った。考えがここに至り、仏の僧団を破壊分裂することを企てた。舎利子と没特伽羅子は仏のお指図を奉じ、仏の御威勢を受け、仏の教えを説き教え諭したところ、僧たちは再び仏の僧団と和合することとなった。提婆達多は悪心去りやらず、猛毒の薬を指の爪の中に入れ、礼する際に仏を傷害しようと思った。まさにこの計画を実行しようとして遠くからやって来て、ここまで来るや、地は坼けてしまった。生きながら地獄に陥ちたのである」。
ここでは、本文とは少し異なった観点から、提婆の教団分裂の企図や仏を害しようとした様子が記されているとともに、提婆が地獄に堕ちたとされる「大きな深い坑」に言及されている。
第三章(末代の法華経の行者誹謗の罪を明かす)
本文
而るに法華経の末代の行者を心にも・をもはず色にもそねまず只たわぶれてのりて候が上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫・仏を罵詈し奉るにすぎて候ととかれて候、何に況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもつて多年が間・法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや。
問うて云く末代の法華経の行者を怨める者は何なる地獄に堕つるや、答えて云く法華経の第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん一劫を具足して劫尽きなば復死し展転して無数劫に至らん」等云云、此の大地の下・五百由旬を過ぎて炎魔王宮あり、その炎魔王宮より下・一千五百由旬が間に八大地獄並びに一百三十六の地獄あり、其の中に一百二十八の地獄は軽罪の者の住処・八大地獄は重罪の者の住処なり、八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり、第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処なり、今法華経の末代の行者を戯論にも罵詈・誹謗せん人人はおつべしと説き給へる文なり、
現代語訳
ところが、末代の法華経の行者を、心に悪く思わず、顔色に出して嫉むこともなく、ただ戯れに罵っただけでも、上に述べた提婆達多のように三業相応して、一中劫の間、仏を罵詈した罪よりも過ぎていると説かれている。
まして今日の人で、提婆達多のように三業相応しての大悪心をもって、多年の間、法華経の行者を罵詈、毀辱、嫉妬、打擲し、讒死、歿死に当てようとした者の罪はいうまでもないことである。
問う。末代の法華経の行者を怨嫉した者はどのような地獄に堕ちるのか。
答う。法華経第二の巻に「法華経を読誦し、書写し、受持している者を見て、軽んじ、賎み、憎み、嫉んで結恨を懐くならば……その人は命終えて後、阿鼻地獄に堕ちるであろう。一劫の間苦しんで、劫が尽きればまた死に、繰り返して無数劫に至るであろう」と説かれている。
この大地の下、五百由旬を過ぎた所に炎魔王宮がある。その炎魔王宮より下、千五百由旬の間に八大地獄並びに百三十六の地獄がある。その中の百二十八の地獄は軽罪の者の住処で、八大地獄は重罪の者の住処である。八大地獄の中の七大地獄は十悪の者の住処であり、第八の無間地獄は五逆罪の者と不孝の者と誹謗正法の者との三人の住処である。今末代の法華経の行者を戯れにも罵詈、誹謗する人々は、無間地獄に堕ちるであろうと説かれた文である。
語釈
末代
正像二千年過ぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法のこと。釈迦仏法に功力が失せ、邪法の前に隠れてしまうこと。
毀辱
毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。
打擲
打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。
讒死
讒言により死ぬこと。
歿死
死に果てること。
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
炎魔王宮
炎魔王の住む宮殿。炎魔は梵名ヤマ(Yama)の音写。閻魔、琰魔等とも書き、縛、双王等と訳す。死後の世界の大王で、地獄界、餓鬼界の主とされる。その王宮の住処については、諸経典によって種々の説がある。長阿含経巻十九には「閻浮提の南、大金剛山内に、閻魔王宮あり、王の所治処は縦広六千由旬なり、その城は七重にして七重の欄楯あり、七重の羅網、七重の行樹、乃至無数の衆鳥相和して悲鳴す」とある。また、大毘婆沙論巻百七十二には「贍部洲の下五百踰繕那に琰魔王界あり、これ一切の鬼の本所住処なり」とある。また倶舎論巻十一には「此の贍部洲の下に於いて、五百踰繕那を過ぎて琰魔王の国あり。縦と広さとの量も亦爾なり」とある。
八大地獄
八熱地獄ともいう。仏典では古代インドの世界観に基づき、この世界には、殺生・盗み・邪淫などの人倫にもとる悪い行いをした罪の報いとして、死後に堕ちる8種の地獄があるとされる。①等活地獄(獄卒に鉄杖で打たれ刀で切られても身体がよみがえり同じ苦しみを繰り返す)②黒縄地獄(熱鉄の黒縄を身体にあてられそれに沿って切り刻まれる)③衆合地獄(鉄の山の間に追い込まれ両側の山が迫ってきて押しつぶされる)④叫喚地獄(熱鉄の地面を走らされ溶けた銅の湯を口に注がれるなどの苦しみで喚き叫ぶ)⑤大叫喚地獄(様相は前に同じ)⑥焦熱地獄(焼いた鉄棒で串刺しにされ鉄鍋の上で猛火にあぶられる)⑦大焦熱地獄(様相は前に同じ)⑧阿鼻地獄(無間地獄)の八つで、その様相は諸経論でさまざまに説かれる。この順に地を下り苦しみも増していき、最底、最悪の阿鼻地獄に至る。日蓮大聖人は「顕謗法抄」(443㌻)で、それぞれを詳述されている。
一百三十六の地獄
長阿含経、倶舎論、正法念経等に説かれている。大小の地獄の全体の数で、八熱地獄は等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、大阿鼻地獄のおのおのに十六の別処があり、合わせて百二十八、これに八大地獄を加えて一百三十六の地獄となる。
地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
七大地獄
八大地獄から無間地獄を除く七つの地獄。等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱地獄。
十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
五逆
五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
講義
法師品では、先の提婆達多のように、一劫の間仏を恨み、ののしり、迫害するという重罪も、末代の法華経の行者をののしる罪に比べれば、はるかに軽いと説いている。
本章では、その法華経の行者に対する誹謗がいかに重いものであるかを明かされている。
まず「法華経の末代の行者を心にも・をもはず色にもそねまず只たわふれてのりて候が上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫・仏を罵詈し奉るにすぎて候ととかれて候」と説かれているように、末代の法華経の行者に対して〝心にも・をもはず〟すなわち、意業なく、〝色にもそねまず〟すなわち、身業もなくても、ただ冗談のように、戯れにののしっても、その口業だけで、一劫の間、身・口・意の三業相応して仏を罵詈した提婆より罪が重い、とされている。
「たわふれて」であるから、その口業も時間的には一瞬のことと考えてよいであろう。一劫とは比較にならないことはいうまでもない。
そのただ、一時の戯れの口業だけで、三業相応して一劫の間、誹謗した提婆の罪をはるかに超えるのであるから、ましてや、身・口・意の三業相応して法華経の行者を誹謗すればどれほどの罪になるかは想像を絶するといわなければならない。
そのことを「何に況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもつて多年が間・法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや」と仰せられているのである。
「当世の人」とは日蓮大聖人御在世当時の人々であり、「法華経の行者」とは大聖人御自身であることはいうまでもない。
また、罵詈、毀辱が口業に、嫉妬が意業に、打擲、歿死は身業に、讒死は讒言で死に至らしめるのであるから口業に、それぞれ相当し、大聖人御在世当時の三類の敵人が行った三業による誹謗の姿を具体的に示されている。
以上のように、提婆の三逆罪より末代の法華経の行者を怨み、誹謗した者のほうが罪が重いとなると、ではいかなる地獄に堕ちるのかということについて、次に問答を設け、法華経の譬喩品の文証によって、無間地獄に堕することを明らかにされている。
地獄について
本文にもあるとおり、まずこの大地(贍部洲=南閻浮提)の下、五百由旬を過ぎて閻魔王宮がある。
そして、その閻魔王宮より下、千五百由旬という距離の間に、八大地獄と百三十六地獄がある。
八大地獄と百三十六地獄については、顕謗法抄に詳しいが、ここでは簡単に説明しておこう。
八大地獄は八熱地獄のことで、上から下へ順に、
①等活、
②黒縄、
③衆合、
④叫喚、
⑤大叫喚、
⑥焦熱、
⑦大焦熱、
⑧大阿鼻(無間)、
のそれぞれの地獄が並んでいるとされている。
更に、この八大地獄のどの地獄も、立方体の形をした世界であるが、その四壁面に一つずつ門があって、一つの門ごとに四つの副地獄がついているので、合計して十六の別処の地獄をもっていることになる。八大地獄全体では、結局、百二十八の別処の地獄があることとなり、八大地獄と合して百三十六の地獄となるのである。
地獄には、また、このほかに八寒地獄がある。この八寒地獄はやはり贍部洲の下で、八大地獄のかたわらにある。その名は、
①頞部陀、
②尼刺部陀、
③頞唽吒、
④臛臛婆、
⑤虎々婆、
⑥嗢鉢羅(青蓮華)、
⑦鉢特摩(紅蓮華)、
⑧摩訶鉢特摩(大紅蓮華)、
である。
さて、八大地獄と別処の百二十八地獄に堕ちる業因であるが、まず、別処の百二十八の地獄は「軽罪の者の住処」とされている。これに対し、八大地獄は「重罪の者の住処」とされている。
顕謗法抄にはこの八大地獄のそれぞれの業因業果が明かされている。
まず、等活地獄は殺生の罪を犯した者が堕ちるところで、ここでは罪人が責めさいなまれて死んでも再び蘇っては責めさいなまれるということを繰り返す刑罰を受けるのである。たとえ小虫に対してであっても、殺生を行えば、この地獄に堕ちるのである。
次の黒縄地獄は、先の殺生に加えて偸盗した者が堕ちるところで、ここでは獄卒が、大工のように、熱鉄の黒縄を糸として罪人の体に線を引き、その線のとおりに鋸で体を切っていくという刑罰を受けるのである。
第三に衆合地獄は、殺生、偸盗のうえに邪淫を犯した者が堕ちる地獄である。獄卒が罪人を二つずつ向かい合っている鉄の山の合間に追いやると、それら二つの山が双方から迫ってきて、罪人を押しつぶすという苦しみを受けたり、その他さまざまな苦が迫ってくるところである。
第四に叫喚地獄は、殺生、偸盗、邪淫のうえに飲酒を加えた者が堕ちるところで、さまざまな苦痛により、泣き叫ぶ刑罰を受けるのである。
第五に、大叫喚地獄は、殺生、偸盗、邪淫、飲酒を行ったうえに、妄語を犯した者が堕ちるところで、先の叫喚地獄よりもっと大きな苦痛を受けて、大いなる叫び声を上げる地獄である。
第六の焦熱地獄は、これまでの五つの罪に更に邪見を抱く者が堕する地獄で、火炎に苦しめられるという刑罰を受けるところである。
第七に大焦熱地獄は、これまで以上の罪を犯した者が堕ちる地獄で、第六の地獄よりも更に激しい火炎に苦しめられるのである。
以上、総じて「七大地獄は十悪の者の住処」と本章で説かれているように、これまでの説明のとおり、十悪を行った者が堕ちるところなのである。
八大地獄の最下層の無間地獄は「五逆と不孝と誹謗」という三つの大罪を犯した者の住処で、〝無間〟というのは倶舎論によれば、楽が苦に間ら無いということで、苦しみが間断なく続くという意味である。
楽が苦にまじわらないというのは、苦しんでいる生命に楽の境涯が一瞬でも入ってこない、ということで、苦の連続を意味するのである。
しかも、その一つ一つが「若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給はず」(0447:顕謗法抄:07)といわれるほどの苦とされる。
さて、無間地獄に堕ちる業因としての、五逆と不孝と誹謗の三罪において、その軽重の問題であるが、〝不孝〟とは、観仏三昧経や因果経などによると「父母に孝せざる者」が死んで後に阿鼻地獄に堕ちるとされているから、殺父・殺母を含む五逆罪よりは軽い、ということになろう。
次に、五逆と誹謗との関係であるが、この点について顕謗法抄には次のように説かれている。すなわち、
「問うて云く五逆と謗法と罪の軽重如何、答て云く大品経に云く『舎利弗仏に白して言く世尊五逆罪と破法罪と相似するや、仏舎利弗に告わく相似と言うべからず所以は何ん若し般若波羅蜜を破れば則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ、仏宝を破るが故に法宝を破るが故に僧宝を破るが故に三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり無量無辺阿僧祇の罪を得已つて則ち無量無辺阿僧祇の憂苦を受るなり』文又云く『破法の業因縁集るが故に無量百千万億歳大地獄の中に堕つ、此の破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る若し劫火起る時は他方の大地獄の中に至る、是くの如く十方に徧くして彼の間に劫火起る故に彼より死し破法の業因縁未だ尽きざるが故に是の間の大地獄の中に還来す』等と云云、法華経第七に云く『四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者あり悪口罵詈して言く是れ無智の比丘と、或は杖木瓦石を以て之れを打擲す乃至千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く』等と云云、此の経文の心は法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし、故に法華経第二に云く『経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん』等と云云」(0448:02)と。
ここで大聖人は、大品経、法華経の経文を引かれて、誹謗正法の罪のほうが五逆罪よりどれほど重いかを示されている。なぜなら、は三世十方の諸仏の能生の根源であるから、この正法を誹謗することは三世十方の諸仏を破り、したがって三宝を破ることと同じであり、ひいては、世間の正見を破って無数の衆生を迷わすことになるからである。
顕謗法抄の御文で法華経第七の文を受けて「法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし」と仰せられているのは、法華経巻七不軽品第二十で、不軽菩薩を迫害した衆生が懺悔してなお、残った罪のため、千劫の間、無間地獄に堕ちたことをいわれているのである。
また、法華経譬喩品の有名な「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至、其の人は命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更に生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」の経文を文証とされて、末法の法華経の行者を誹謗する者の罪は、無間地獄に無数劫の間沈むことになると説かれているのである。
本抄でもこの譬喩品の文を引かれているのであるが、この文は十四誹謗の依文となっている。この文の前は「憍慢懈怠、我見を計する者には、此の経を説くこと莫れ。凡夫は浅識にして、深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ。亦た為めに説くこと勿れ。若し人は信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。或は復た顰蹙して、疑惑を懐かん。汝は当に、此の人の罪報を説くを聴くべし。若しは仏の在世、若しは滅度の後に、其れ斯の如き経典を、誹謗すること有らん」となっていて、本抄の文がそのあとに続くのである。
妙楽大師はこの文をもって、法華文句記に十四誹謗として釈している。すなわち、
①憍慢
②懈怠
③計我
④浅識
⑤著欲
⑥不解
⑦不信
⑧顰蹙
⑨疑惑
⑩誹謗
⑪軽善
⑫憎善
⑬嫉善
⑭恨善
である。
このうち①の憍慢から⑥の不解までは一般的に誹謗に陥りやすい者を挙げ、これらの者に説くことを戒めている。
また、⑦の不信から⑩の誹謗までは「此の経」「斯の如き経典」に対する誹謗となっていて、法への誹謗である。
それに対して、⑪の軽善から⑭の恨善の四つの誹謗は「経を読誦し書持すること有らん者」に対する誹謗となっている。したがって、大聖人はこの四つをとくに挙げられたのである。
第四章(法華行者を賛嘆する福徳を説く)
本文
法華経の第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て乃至持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云、妙楽大師云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養する有らん者は福十号に過ぐ」等云云、夫れ人中には転輪聖王・第一なり此の輪王出現し給うべき前相として大海の中に優曇華と申す大木生いて華さき実なる、金輪王出現して四天の山海を平になす大地は緜の如くやはらかに大海は甘露の如くあまく大山は金山・草木は七宝なり、此の輪王須臾の間に四天下をめぐる、されば天も守護し鬼神も来つてつかへ竜王も時に随つて雨をふらす、劣夫なんども・これに従ひ奉れば須臾に四天下をめぐる、是れ偏に転輪王の十善の感得せる大果報なり、毘沙門等の四大天王は又これには似るべくもなき四天下の自在の大王なり、帝釈は忉利天の主・第六天の魔王は欲界の頂に居して三界を領す、此れは上品の十善戒・無遮の大善の所感なり、大梵天王は三界の天尊・色界の頂に居して魔王・帝釈をしたがへ三千大千界を手ににぎる、有漏の禅定を修行せる上に慈・悲・喜・捨の四無量心を修行せる人なり、声聞と申して舎利弗・迦葉等は二百五十戒・無漏の禅定の上に苦・空・無常・無我の観をこらし三界の見思を断尽し水火に自在なり故に梵王と帝釈とを眷属とせり、縁覚は声聞に似るべくもなき人なり仏と出世をあらそふ人なり、昔猟師ありき飢えたる世に利吒と申す辟支仏にひえの飯を一盃供養し奉りて彼の猟師・九十一劫が間・人中・天上の長者と生る、今生には阿那律と申す天眼第一の御弟子なり、此れを妙楽大師釈して云く「稗飯軽しと雖も所有を尽し及び田勝るるを以ての故に勝るる報を得る」等云云、釈の心はひえの飯は軽しといへども貴き辟支仏を供養する故にかかる大果報に度度生るとこそ書かれて候へ、又菩薩と申すは文殊・弥勒等なり、此の大菩薩等は彼の辟支仏に似るべからざる大人なり、仏は四十二品の無明と申す闇を破る妙覚の仏なり、八月十五夜の満月のごとし、此の菩薩等は四十一品の無明をつくして等覚の山の頂にのぼり十四夜の月のごとし、
現代語訳
法華経の第四の巻法師品第十に「人があって仏道を求め、一劫の間法華経を持つ者を賛嘆することは、その福徳は、彼よりもすぐれている」と説かれている。妙楽大師は「もし法華経を持つ者を悩乱する者は、頭が七分に破れ、供養する者は、その福徳は十号の仏を供養するよりもすぐれる」と述べている。
人の中では転輪聖王が第一である。この輪王が出現される時には、前相として大海の中に優曇華という大木が生えて、華が咲き実がなる。
金輪王が出現して、四天下の山海を平らにする。大地は綿のように軟らかく、大海は甘露のように甘く、大山は金山に、草木は七宝となる。
この輪王は須臾の間に四天下を巡る。それゆえ、諸天も守護し、鬼神も来て仕え、竜王も時にしたがって雨を降らす。
劣夫であっても、輪王に従うならば、須臾に四天下を巡ることができる。これはひとえに転輪王が十善を行って感得した大果報である。
毘沙門等の四大天王は、また転輪王には似るべくもない四天下の自在の大王である。帝釈天は忉利天の主であり、第六天の魔王は欲界の頂に住して三界を領している。これは上品の十善戒を持ち、無遮の大善を行って得たものである。
大梵天王は三界の天尊として、色界の頂に住して魔王や帝釈天を従え、三千大千世界を掌握している。有漏の禅定を修行した上に、慈・悲・喜・捨の四無量心を修行した人である。
声聞といって、舎利弗や迦葉等は二百五十戒を持ち、無漏の禅定を修業した上に、苦・空・無常・無我の観念を凝らし、三界の見思惑を断ち尽くし、水火の中でも自在である。ゆえに、大梵天王と帝釈天とを眷属としている。
縁覚は声聞に似るべくもない人である。仏と出世を争う人である。昔、猟師が、飢饉の世に利吒という辟支仏に稗の飯を一盃供養したので、彼の猟師は九十一劫の間、人間界や天上界の長者と生まれた。今生には阿那律という天眼第一の御弟子となった。これを妙楽大師は「稗の飯は少ないけれども、持っているものを出し尽くし、そしてそれを受ける田が勝れていたがゆえに、勝れた果報を得たのである」と釈している。
この釈の心は、稗の飯は少ないけれども、貴い辟支仏を供養したゆえに、このような大果報に度々生まれたのであると書かれたのである。
また、菩薩というのは、文殊や弥勒等である。この大菩薩等は、かの辟支仏には似るべくもない大人である。
仏は四十二品の無明という闇を破り尽くした妙覚の仏である。八月十五夜の満月のようなものである。この菩薩等は、四十一品の無明を断じ尽くして等覚の山の頂に登り、十四夜の月のようなものである。
語釈
十号
仏のもつ十種の尊称。如来、応供、正?知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊さす。
転輪聖王
インド古来の伝説で武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされる理想の王。七宝および三十二相をそなえるという。人界の王で、天から輪宝を感得し、これを転じて一切の障害を粉砕し、四方を調伏するのでこの名がある。その輪宝に金銀銅鉄の四種があって、金輪王は四州、銀輪王は東西南の三州、銅輪王は東南の二州、鉄輪王は南閻浮提の一州を領するといわれる。
優曇華
梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。
金輪王
金の輪宝をもって四方を支配する転輪聖王のこと。金輪聖王ともいう。四輪王の一人。金輪王は、人寿八万歳の時に出現し、須弥山を中心とする東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四洲、すなわち全世界を併合し領有するという。また金輪王の出現にあたっては、その先兆として必ず優曇華が咲くといわれる。
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
七宝
仏典中に列挙される7種の宝。経典によって多少の相違はあるが、代表的なものは、金、銀、瑠璃、玻璃(水晶) 、硨磲 (貝)、珊瑚,瑪瑙 、である。
須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
鬼神
鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。
十善
十善戒のこと。正法念処経巻二に説かれている十種の善。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。身・口・意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で、十善道ともいう。大乗在家の戒。十善戒を持った者は、天上に生じては梵天王となり、世間に生じては転輪聖王となる等と説かれている。
大果報
大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。
毘沙門
毘沙門天王のこと。四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
四大天王
帝釈天の外将。須弥山の中腹に由健陀羅やまがあり、この山に四頭あって、ここを四天王といい、東方に持国天、南方に増長天、西方に広目天、北方に多聞天が位置する
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
忉利天
梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
欲界
欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。
三界
欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。
上品の十善戒
十善戒のなかで最も尊いもの。三品の十善戒のひとつ。これを修する者は未来に転輪王として生まれるという。
無遮の大善
制限を設けないで広く僧俗に平等に善根を施すこと。
大梵天王
梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
色界
欲界の外の浄名の世界とされ、物質だけが存在する天上界の一部をいう。これに十八天がある。
三千大千界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
有漏の禅定
無漏禅に対する語。有漏禅、有漏の坐禅と同意。三界を九地に分け、六行観によって地上の喜び下地を嫌って、次第に上地に進む坐禅観法のこと。この禅によって欲界を離れ、初禅天に入り、更に二禅・三禅・四禅の色界をきわめ、ついに色界を離れて無色界に入り、空無辺処・識無辺処・無所有処より非想非非想処にのぼる。しかし下地を離れたといっても真の断惑ではなく、三界第九地の惑は更にこれに対比すべき上地がないゆえに伏惑・断惑ともにない。したがって三界六道の生死から離れることができず、たとえ非想非非想処にのぼったとしても、再び三悪道に堕ちてとどまっているものはいない。開目抄には「所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より 返つて三悪道に堕つ 一人として天に留るものなし」(0187:14)とある。結局三界を離れるには無漏道を修する以外になく、有漏禅は仏法に入る一つの序分にすぎない。
慈・悲・喜・捨の四無量心
他の生命に対する自他怨親なく平等で、過度の心配などのない、落ち着いた気持ちを持つことをいう。止の対象である四十業処の一部。四梵住梵、(brahmavihāra)、四梵行ともいう。『分別論註』によれば、無量(appamaññā)というは、「対象となる衆生が無数であること」あるいは「対象とする個々の有情について(慈悲の心で)余すことなく完全に満たす」という遍満無量(pharaṇa-appamāṇa)の観点から、このように称する。①慈無量心(maitrī)「慈しみ」、相手の幸福を望む心。②悲無量心( karuṇā)「憐れみ」、苦しみを除いてあげたいと思う心。③喜無量心(muditā)「喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心。④捨無量心(upekṣā)「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指す。
声聞
声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
迦葉
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
無漏の禅定
三乗の証得する最高の智慧を発起するところの根本となる禅定。出世間禅ともいう。三静慮のひとつ。これに観禅・練禅・熏禅・修禅の四種がある。
苦・空・無常・無我
小乗教の四念処の法門をいう。大乗仏教の「常・楽・我・浄」に対する。
利吒
阿那律の過去世の兄。雑宝蔵経巻四によると、長者の子に利吒・阿利吒という兄弟がいた。父からは二人で力を合わせていくようにと諭されていたが、父の死後、二人は別れて暮らすようになった。最初のうちは兄が富裕で弟が貧しかったが、後には反対になり、兄は出家して辟支仏になった。弟もやがて富を失い、薪を打って生活しなければならなくなった。そうした時、城中にいた辟支仏の鉢が空であるのを知り、兄とは知らずに一食を供養したという。
辟支仏
梵語プラティエーカブッダ(pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚等と訳す。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。有仏の世には十二因縁の理によって断惑証理し、無仏の世には、飛花落葉などの外縁によって覚りを得るという。
阿那律
梵名アニルッダ(Aniruddha)の音写。阿㝹樓駄等とも書く。無貧・如意等と訳す。釈尊十大弟子の一人で、天眼第一と称せられた。釈尊の従弟。楞厳経巻五によれば、出家した当初、居眠りをしていたため仏からしかられ、自らを責めて七日間眠らずにいて両眼を失明したという。法華文句巻一下には「阿㝹樓駄、また阿那律という、また阿泥盧豆という。皆、梵音の奢切のみ。此には無貧と翻じ、または如意、または無猟と名づくるなり。昔、饑世に於いて辟支仏に稗の飯を贈るに、九十一劫の果報を充足することを獲たり」とある。
天眼
①五眼の一。天界の衆生がもつ眼で、昼夜遠近を問わず物を見ることができる。②天眼通のこと。六通の一。衆生の未来の生死の姿を自在に見ることのできる通力。
菩薩
菩薩薩埵(bodhisattva)の音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。
文殊
文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
弥勒
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆(ほっきしゅ)となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
四十二品の無明
42品の無明のこと。別教で説く菩薩の52位のうち、十住・十行・十回向・十地をへて51位の等覚・52位の妙覚までそれぞれの位にあらわれる無明をさす。42品断は、これらの無明を断じ尽くすことで、これを断じなければ、妙覚位には登れないとする。
妙覚
①真の悟り、微妙・深遠な悟りのこと。また、仏の無上の悟りのこと。②菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる]。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。一つ前の等覚の位にいる菩薩が、さらに一品の無明を断じてこの妙覚位に入る。しばしば、仏の位と同一視される。
四十一品の無明
41品の無明のこと。別教で説く菩薩の52位のうち、十住・十行・十回向・十地をへて51位の等覚までそれぞれの位にあらわれる無明をさす。四十一品断は、これらの無明を断じ尽くすことで、これを断じなければ、妙覚位には登れないとする。
等覚
菩薩が修行して到達する階位の52位の中、下位から51番目に位置する菩薩の極位をいう。その智徳が略万徳円満の仏である妙覚とほぼ等しく、一如になったという意味で等覚という三祇百劫の修行を満足し、まさに妙覚の果実を得ようとする位。一生補処、有上士、金剛心の位といわれる。
講義
これまでは、法華経の行者を誹謗し罵詈する者の罪の大きさを説かれてきたが、本章からは、法華経の行者を供養し賛嘆する者の福徳の大きさが説かれるのである。
まず、法華経の巻第四法師品第十の経文と妙楽大師の釈とを挙げられている。
法師品の経文は「人有って仏道を求めて、一劫の中に於いて、合掌し我が前に在って、無数の偈を以て讃めば、の讃仏に由るが故に、無量の功徳を得ん。持経者を歎美せば、其の福は復た彼れに過ぎん」というものである。
この文の意味は、ある人が仏道を求めて、一劫という長期間にわたって合掌しつつ仏の面前で無数の偈を唱えて賛嘆すると無量の功徳を得るけれども、法華経の持経者、行者を賛嘆する福徳のほうがはるかに大きい、ということである。
次に、妙楽大師の釈は、法華文句記巻四下に出てくる十双歎の一つである。十双歎とは、法華経と諸経とを相対して、法華経に十双、つまり二十種の勝れた特色があることをたたえたものである。
ここで引用されたものは、十双のうちの第七双で、法華経のもたらす福徳と罪報とが厳然たるものであることを明かしている。
初めに、「若し悩乱する者は頭七分に破る」というのは、法華経陀羅尼品において鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を守護すべきことを仏前で誓約した偈文の一節について釈した文である。
今、その法華経の文を挙げると、「若し我が呪に順ぜずして、説法者を脳乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」というものである。
阿梨樹は、梵語アルジャカ(Arjaka)の音写で、インド等の熱帯産の植物である。天台大師の法華文句では、阿梨樹の枝が地に落ちる時に、破れて七片となる、と説明している。
すなわち、法華経の行者を悩乱させる者があるならば、その者は鬼子母神・十羅刹女によって阿梨樹のように頭が七分に割れる、という厳然たる罪を受けるのである。
これに対し、「供養する有らん者は福十号に過ぐ」というのは、法華経法師品中の先の経文からその意を取ったものである。
すなわち、法華経の行者を賛嘆する福徳は、仏をその面前で一劫にわたって賛嘆する功徳に過ぎる、という経文のなかの「仏」を強調するために、〝十号具足の仏〟としたのである。つまり、法華行者を供養し賛嘆する福徳は、十号を具足する偉大な仏陀をたたえる功徳、しかも一劫という長期にわたりたたえる功徳より、はるかに大きい、というのである。
以上のごとく、妙楽大師の釈は、福徳と罪報の双方を説いたものであるが、大聖人がここでこの文を引用された意図が、福徳の大きさを述べている「供養する有らん者は福十号に過ぐ」の経文のほうにあることはいうまでもない。
さて、本文の「夫れ人中には転輪聖王・第一なり」から始まり「又菩薩と申すは……十四夜の月のごとし」に終わる部分は、今の「福十号に過ぐ」ということの意義を示すために仏の十号の徳が、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界のそれぞれの徳に比べてはるかに勝れていることを説かれている。
人界のなかでは転輪聖王を第一としてその徳が説かれ、次に、天界は四大天王、帝釈天王、第六天の魔王、そして大梵天王の徳が明かされる。
声聞界の徳は、これら天界の衆生よりも更に大きく、舎利弗、迦葉等のように梵天王、帝釈天を眷属とするほどである。
また、縁覚界の徳は、声聞に似るべくもなく大きく「仏と出世をあらそふ人」とされる。すなわち、仏と交互に世に出現する聖人であるとされている。
しかし、菩薩というのは、その縁覚など及びもつかない徳をもっている。仏が四十二品の無明を断じ尽くした妙覚の仏とすれば、例えば文殊・弥勒などの大菩薩は四十一品までの無明を断じ尽くして、あと一品で仏と等しくなるという等覚位に達しており、その功徳は計り知れないのである。
以上、人界から菩薩界に至る、次第に大きくなるそれぞれの徳も、次章で説かれる十号具足の仏徳に比べれば、はるかに劣るのであり問題にすらならないのである。
ところで、人界から菩薩界に至る各界の代表者の徳がどのような因行により獲得されてきたか、について本文で説かれている。
まず、人界の転輪聖王の徳は、過去世に十善戒を修した果報により得られる。
次に、天界のうちの四大天王や忉利天の主である帝釈天、更に欲界の頂・第六天にいる魔王は、いずれも、欲界に属する六天のうちの諸天であるから、同じ因行により得られる果報である。
その因行を「上品の十善戒・無遮の大善の所感なり」と仰せられている。すなわち、十善戒に上品・中品・下品の三品あるうちの、最も尊く、高度である上品の十善戒を修することと無遮の大善を行った果報として、これら六欲天に生ずるのである。
同じ天界でも、大梵天王の場合は、欲界より更に上の色界に四禅という四つの世界があるが、そのうちの初禅の境地にいる。
この初禅の境地は、まだ心の作用が完全には止まっていないが、しかし欲界の欲や悪事を離れた喜びに浸っている。大梵天王は色界初禅の頂上にいて、欲界の魔王や帝釈天を従えているのである。
そして、この境地は、「有漏の禅定を修行せる上に慈・悲・喜・捨の四無量心を修行」した果報として得られると仰せられている。
〝有漏の禅定〟とは、有漏、すなわち漏を除かずに残したままの禅定で、世間普通の禅定修行をいう。この有漏の禅定に、四無量心を加えて修行するのである。四無量心とは、己が力で衆生に福と楽を与えようとする慈無量心、同じく衆生の苦を除かんとする悲無量心、また、衆生の喜びを己が喜びとする喜無量心、更に、衆生を平等に念じ、自己を中心とする愛憎の心を捨てるのが捨無量心で、以上の四つの無量心をいう。なお、四無量心の〝無量〟とは、慈・悲・喜・捨の四心を行うとよく無量の力を生ずるからであるという。
次に、声聞に至る因行は、「二百五十戒・無漏の禅定の上に苦・空・無常・無我の観をこらし三界の見思を断尽」することである。
〝無漏の禅定〟とは、先の有漏の禅定より更に勝れた禅定で、出世間禅ともいい、味禅・浄禅・無漏禅の三静慮の第三をいう。この無漏禅を修して、有漏禅では不可能であった三界の見思惑を断尽することにより、声聞界に生ずるのである。
縁覚界に生ずる因行については、本文ではとくに説かれておらず、むしろ縁覚に供養する者の功徳の大きさが説かれている。
最後に、菩薩界に生ずる因行は、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚の四十二位においておのおの一品の無明を断ずる修行のうち、最後の一品を残して四十一品の無明を断尽するのである。
第五章(仏の徳の広大なるを明かす)
本文
仏と申すは上の諸人には百千万億倍すぐれさせ給へる大人なり、仏には必ず三十二相あり其の相と申すは梵音声・無見頂相・肉髻相・白毫相・乃至千輻輪相等なり、此の三十二相の中の一相をば百福を以て成じ給へり、百福と申すは仮令大医ありて日本国・漢土・五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・乃至一閻浮提・四天下・六欲天・乃至三千大千世界の一切衆生の眼の盲たるを本の如く一時に開けたらんほどの大功徳を一つの福として此の福百をかさねて候はんを以て三十二相の中の一相を成ぜり、されば此の一相の功徳は三千大千世界の草木の数よりも多く四天下の雨の足よりもすぎたり、設い壊劫の時僧佉陀と申す大風ありて須弥山を吹き抜いて色究竟天にあげて・かへつて微塵となす大風なり、然れども仏の御身の一毛をば動かさず仏の御胸に大火あり平等大慧・大智光明・火坑三昧と云う、涅槃の時は此の大火を胸より出して一身を焼き給いしかば六欲・四海の天神・竜衆等・仏を惜み奉る故にあつまりて大雨を下し三千の大地を水となし須弥は流るといへども此の大火はきへず、仏にはかかる大徳ましますゆへに阿闍世王は十六大国の悪人を集め一四天下の外道をかたらひ提婆を師として無量の悪人を放ちて仏弟子をのりうち殺害せしのみならず、賢王にて・とがもなかりし父の大王を一尺の釘をもつて七処までうちつけ、はつけにし生母をば王のかんざしをきり刀を頭にあてし重罪のつもりに悪瘡七処に出でき、三七日を経て三月の七日に大地破れて無間地獄に堕ちて一劫を経べかりしかども仏の所に詣で悪瘡いゆるのみならず無間地獄の大苦をまぬかれ四十年の寿命延びたりき、又耆婆大臣も御つかひなりしかば炎の中に入つて瞻婆長者が子を取り出したりき、之を以て之を思うに一度も仏を供養し奉る人はいかなる悪人女人なりとも成仏得道疑無し、提婆には三十相あり二相かけたり所謂白毫と千輻輪となり、仏に二相劣りたりしかば弟子等軽く思いぬべしとて螢火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付けて行くほどに足焼て大事になり結句死せんとせしかば仏に申す、仏御手を以てなで給いしかば苦痛さりき、ここにて改悔あるべきかと思いしにさはなくして瞿曇が習ふ医師はこざかしかりけり又術にて有るなど云ひしなり、かかる敵にも仏は怨をなし給はず何に況や仏を一度も信じ奉る者をば争でか捨て給うべきや。
かかる仏なれば木像・画像にうつし奉るに優塡大王の木像は歩をなし摩騰の画像は一切経を説き給ふ、
現代語訳
仏というのは、上の諸人に百千万億倍勝れている大人である。仏には必ず三十二相が具わっている。その相というのは、梵音声、無見頂相、肉髻相、白毫相、ないし千輻輪相等である。この三十二相の中の一つ一つを仏は、百福によって得られたのである。
百福というのは、たとえば大医がいて、日本国、中国、インドの十六の大国、五百の中国、十千の小国、ないしは一閻浮提、四天下、六欲天、ないしは三千大千世界の一切衆生の盲目となっているのを、もとのように一時に開けるような大功徳を一つの福として、この福を百重ねることによって、三十二相の中の一相を得たのである。
それゆえ、この一相の功徳は、三千大千世界の草木の数よりも多く、四天下の雨足よりも過ぎている。たとえ壊劫の時、僧佉陀と申す大風があって、須弥山を色究竟天まで吹き上げて、かえって微塵とする大風があっても、仏の御身の一毛すら動かすことはできない。仏の御胸に大火がある。平等大慧・大智光明・火坑三昧という。涅槃の時、この大火を胸から出して一身を焼かれたところ、六欲天や四大海の天神、竜神等は仏を惜しんで、集まって大雨を降らし、三千大千世界の大地が水に浸り、須弥山が流れるほどになっても、この大火は消えなかった。
仏にはこのような大徳があったゆえに、阿闍世王は十六大国の悪人を集め、一四天下の外道を味方にし、提婆を師として、無量の悪人を遣って、仏弟子を罵り、打ち、殺害するだけでなく、賢王であって失もない父の大王を、一尺の釘でもって七処まで打ちつけて磔にし、生母の玉の簪を切り、刀を頭にあてた重罪が積もって、悪瘡が七処に出たのであった。
三週間を経て、三月の七日に大地が破れて無間地獄に堕ちて、一劫の間苦しまねばならなかったが、仏のみもとに詣でたので、悪瘡が癒えただけでなく、無間地獄の大苦を免れ、四十年の寿命を延ばすことができた。
また耆婆大臣も仏の御使いであったので、炎の中に入って瞻婆長者の子を取り出すことができた。これらのことから思うと、一度でも仏を供養した人は、どのような悪人、女人であっても、成仏得道は疑いないのである。
提婆には三十相が具わり、二相が欠けていた。いわゆる白毫相と千輻輪相である。仏に二相劣っていると弟子等が軽んじるであろうと思って、螢火を集めて眉間につけて白毫といい、千輻輪には、鍛冶に菊の形を作らせて、足に付けて歩くうちに、足が焼けて重傷となり、結局は死ぬところであったので、仏にお話ししたのである。仏が御手をもって撫でられると、苦痛は癒えたのである。
ここで悔い改めるであろうと思ったが、そうではなくて、瞿曇が習った医術は小ざかしいものであり、また魔術であるなどと言ったのである。
このような敵にも仏は怨むこともなかった。まして、仏を一度でも信じた者をどうして見捨てられることがあろうか。
このような仏であるから、木像や画像に写すと、優填大王の木像は歩きだし、摩騰迦の描いた画像は一切経を説かれたのである。
語釈
三十二相
応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)。2 足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること)。3 長指相(指が繊細で長い。4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること。5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと。6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)。7 足趺高満相(足の甲が高いこと)。8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)。9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)。10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)。11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと。12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)。13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)。14 金色相(皮膚が金色をしていること)。15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)。16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである。17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)。18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)。19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)。20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)。21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)。22 四十歯相(歯が四十本あること)。23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)。24 牙白相(牙があって白く光ること)。25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)。26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)。27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)。28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)。29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)。30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)。31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)。32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)。
梵音声
梵音深遠相のこと。仏の三十二相の一つ。音声が遠くまで明瞭に達して、清浄で聞く人を悦ばせること。大智度論巻四に「二十八には梵声の相なり。梵天王の五種の声の口より出づる如し。一には深きこと雷の如し。二には清く徹して遠く聞え、聞く者は悦楽す。三には心に入りて敬愛す。四には締了にして解し易し。五には聴く者厭うこと無し」とある。
無見頂相
だれも頂を見ることができないという相。仏が具える八十種好の一つ。仏の頂上の肉髻を仰ぎ見れば非常に高く、一切の人天がついに見ることのできないという相をいう。三十二相の一つである頂上肉髻相を細別した好相をいう。
肉髻相
仏が具える三十二相の一つ。頭の頂上に肉が髻の形をして盛り上がっている相のこと。頂上肉髻相ともいう。大智度論巻四には「三十一には頂髻の相なり、菩薩には骨の髻ありて、拳等の頂上に在るが如し」とある。
白毫相
白毛相、眉間白毫相ともいう。仏身に具足する三十二相の一つ。仏の眉間には清浄で柔軟な白い繊毛が右回りにはえていて、絶えず光を放っているとされ、その光を毫光という。仏智をもってあまねく一切を見通していくことをあらわしている。大智度論巻四には「三十二には白毛の相なり。白毛眉間より生じ、高からず下からず、白く浄くして、右に旋りて舒び、長さ五尺なり」とある。
千輻輪相
仏の三十二相の一つ。足下千輻輪相、足下具足千輻輪相ともいう。輻輪とは軸の周りに矢の形をした輻を放射状にとりつけた輪状のもの。仏がその足の裏、掌に千輻輪の肉紋をそなえていること。四分律巻五十一に「時に世尊の足下に相輪あり、輪に千輻あり。輪郭成就し、輪相具足せり。光明晃曜として輪より光を出し、光、三千大千国土を照らす」とある。大智度論巻四には「二には足下の二輪の相と千輻と輞轂となり」とある。
百福
釈尊がかつて修行して得た百の福徳のこと。大毘婆沙論等にあり、種々の説がある。百福をもって32相の一つ一つを荘厳することを百福荘厳の相という。
十六の大国・五百の中国・十千の小国
大国とは土地が広く人口の多い国。南インドにはたくさんの国があり、大きさによって大中小とわけた。仁王経受持品には十六の大国の名前を列記している。すなわち、「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。憍薩羅国、舎衛国、摩竭提国、波羅奈国、迦夷羅衛国、鳩尸那国、鳩腅弥国、鳩留国、罽賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、揵崛闍国、波提国、是のごとき一切の諸国王等、皆般若波羅蜜を受持すべし」と。一説には人口10,000人以上の国を大国、4,000~10,000人の国を中国、700~3,000人の国を小国、以下国とは呼ばず、200人以下は粟散国としている。
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
六欲天
天上界のうち、いまだ欲望に捉われる6つの天界をいう。六天ともいう。またそのうちの最高位・他化自在天を特に指して言う場合もある。他化自在天は、天魔波旬の住処であることから第六天の魔王の住処とされている。
壊劫
四劫のひとつ。生命・世界が破滅する時期。
僧佉陀
梵語サンガータ(samghāta)の音写。四劫の中の壊劫の時、国土を破壊する大風のこと。須弥山をはじめ全世界を吹き上げ、粉微塵に砕いてしまうという大風災のこと。
須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
色究竟天
阿迦尼吒天・有頂天ともいう。色界十八天のひとつ。色界四禅天の最頂であることから色究竟という。
平等大慧
諸仏の実智のこと。諸法平等の理を悟り、一切衆生を平等に利益する仏の智慧をいう。宝塔品には「釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法華経を以って、大衆の為に説きたもう」とあり、一切衆生を平等に、救済していく、広大な御本仏の智慧、大御本尊の智慧をいう。
大智光明
仏の智慧の光が偏頗なく行き渡り、煩悩・迷いの闇を打ち破ること。
火坑三昧
火坑は猛火の穴、三昧は禅定。猛火の穴に入って悟りを得ること。
涅槃
梵語(nirvāana)滅・滅度・寂滅・円寂と訳す。生死の境を出離すること。また自由・安楽・清浄・平和・永遠を備えた幸福境界をいい、慈悲・智慧・福徳・寿命の万徳を具備している境涯ともいえる。①外道では、六行観によって悲想天に達すれば、涅槃を成就できると考えた。②小乗仏教では煩悩を断じ灰身滅智すること。③権大乗では他方の浄土へ往生すること。④法華経では三大秘法の御本尊を信ずることによって、煩悩即菩提・生死即涅槃を証することができると説く。
天神
①天界の衆生。②梵天・帝釈・日月天等。
阿闍世
梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。のち、身体に悪瘡ができことによって仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
悪瘡
法華経を受持する者を軽笑したり誹謗する者が受ける過悪のひとつ。悪瘡のできもの。はれもの。
瞻婆長者
中インド瞻婆国の長者。釈尊の在世に恒河のほとりに都城をかまえていた。涅槃経巻三十によると瞻婆長者は世継ぎがないのを悩み、外道に供養したところ久しからずして妻が懐妊した。長者は生まれてくる子供が男か女かと六師に問うたが、必ず女が生まれるとの答えだった。長者は男子の誕生を期待していたので非常に悲しんだが、ある人が仏に聞くことを勧めたので釈尊を訪ねて聞いたところ、必ず男であるとの答えだった。長者は大いに喜んだが、六師外道は嫉妬を起こし、妊婦に毒薬を飲ませて殺してしまい、仏の予言が当たらなかったと公言した。長者自身もまた子を産まないで妻が死んだことを悲しみ、仏に対して不信の念を抱いた。屍を棺に納めて城外で火葬にするとき、仏は火葬場に赴き、長者に必ず男子を得るといった。この時、死体が焼けて腹が裂け、男の子が中から現れて火中に端坐した。仏は耆婆に火中の子を抱きいだすように命じ、耆婆は火中に入って清涼の大河水を行くようにしてこの小児を抱持した。仏は長者に子を授けて、「一切衆生の寿命の定まらざること、水上の泡の如し。衆生若し殷重業の果有らば、火も焼くこと能わず、毒も害すること能わず。是れ児の業果にして我が所作に非ず」と言って、その子に樹堤と名づけた。これを見て無量の衆生が菩提心を発したとある。
瞿曇
梵名ガウタマ(Gautama)の音写。地最勝、純淑、滅悪などと訳す。釈尊の名をガウタマ・シッダルタといった。
優填大王
優填は梵名ウダヤナ(Udayana)の音写。出愛、日子等と訳す。釈尊在世当時の憍賞弥国の王。妃の教化によって釈尊に帰依した。増一阿含経巻二十八によると「釈尊が母の摩耶夫人に説法するために三十三天に赴き、久しく閻浮提に帰らなかった。そのため王は仏を拝することができないことを悲しんで病気になり、家臣に命じて牛頭栴檀で五尺の釈尊の形像を作った」とある。これがインドにおける仏像造立の最初とされている。なお優陀延王と同じともされるが、増一阿含経巻二十八には五王として「波斯匿王、優填王、悪生王、優陀延王、頻毘沙羅王なり」とあり、別人ともされている。また四分律には優陀延王を拘睒弥国の王としている。日蓮大聖人も、優陀延王を多く悪王の例に引かれ、王は多く造像のことに引かれている。
摩騰
生没年不明。中国・漢代仏教伝道者。迦葉摩騰ともいう。中インドの人。バラモンの家に生まれ、よく大小乗経に通達していた。後漢の明帝の時、竺法蘭とともに中国に初めて仏教を伝え、白馬寺に住し、「四十二章経」を翻訳した。なお、「摩騰の画像」については出典は不明。
一切経
釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。
講義
ここでは、十号具足の仏陀の功徳の大きさが述べられている。
初めに、仏陀が必ずその身に具えているという三十二相の功徳の大きさが明かされている。三十二相の一つ一つについては詳説されず、その幾つかを挙げられている。
まず、梵音声相は、仏の音声が明瞭に遠くまで聞こえ、清浄で聞く人を喜ばせるという相である。次に、無見頂相とは、だれびとも仏の頭の頂を見ることができないというものであり、肉髻相は、仏の頭の頂上の肉が髻の形に隆起している相である。
また白毫相とは、仏の両眉の間に長くて白い毛があり、それが右回りに巻いて生えていて、ここから放つ光を毫光、眉間光という。更に、千輻輪相とは、仏の足の裏に、細かい千の輻のある輪宝の肉紋があることをいう。
「此の三十二相の中の一相をば百福を以て成じ給へり」と説かれているように、三十二相の一つ一つが百福という大功徳を有しているのである。
その百福とは「大医ありて日本国・漢土・五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・乃至一閻浮提・四天下・六欲天・乃至三千大千世界の一切衆生の眼の盲たるを本の如く一時に開けたらんほどの大功徳」を一つの福としてそれを百集めたほどという大功徳である。
その意味から、三十二相の一つの功徳の大きさは、三千大千世界の草木の数より多いと仰せられているのである。
これほどの功徳を三十二相の一つ一つに秘めているので、例えば、法華経方便品にも「綵画して仏像の百福荘厳の相を作すこと」とあるように、三十二相の一つ一つを「百福荘厳の相」というのである。
百福荘厳の一相に、三千大千世界の草木の数より多く、四天下の雨の足を超えるほどの功徳があると仰せられているのは、一相の功徳を量的に明かされたものといえるであろう。
それに対し「設い壊劫の時僧佉陀と申す大風ありて須弥山を吹き抜いて色究竟天にあげて・かへつて微塵となす大風なり、然れども仏の御身の一毛をば動かさず仏の御胸に大火あり平等大慧・大智光明・火坑三昧と云う、涅槃の時は此の大火を胸より出して一身を焼き給いしかば六欲・四海の天神・竜衆等・仏を惜み奉る故にあつまりて大雨を下し三千の大地を水となし須弥は流るといへども此の大火はきへず」と仰せられているのは、不動性というその質的な面を述べられていると拝される。
その不動のほどについて、四劫のうち、壊劫において起こる、須弥山を色究竟天まで吹き飛ばして微塵のように破壊する僧佉陀という風であっても、仏の身の一毛すら動かすことができない、と仰せられている。
また、仏が涅槃の時に、自らの胸にある平等大慧、大智光明、火坑三昧という火を出して自らの身を焼いた時、仏の涅槃を惜しむ六欲天や四大海の天神竜神が集まり、大雨を降らしてこの火を消そうとして三千大千世界の大地が水浸しになり、須弥山が流れ出すほどになっても、ついに仏の胸の火は消えなかったと仰せられている。
次に、「仏にはかかる大徳ましますゆへに……」から始まる御文は、仏陀の徳がかくも偉大であるから、父を殺した阿闍世王は仏のもとに詣でて改悔することによって救われ、仏を嫉んで反逆した提婆達多をも仏は捨てなかったと仰せられている。二人のうち、阿闍世は改悔したために救われたのに対し、提婆は改悔しなかったが、それでも仏はうらむことはなかったと、その広大な慈悲の徳を示しておられる。したがって、その大徳のゆえに「一度も仏を供養し奉る人はいかなる悪人女人なりとも成仏得道疑無し」と仰せられている。
更に、「かかる仏なれば木像・画像にうつし奉るに優填大王の木像は歩をなし摩騰の画像は一切経を説き給ふ」と説かれているように、そのような大徳ある仏であるから、仏滅後に造られた木像、描かれた画像も、不思議な功力を具えていたのである、と仰せられている。
三十二相について
釈尊の仏法においては、仏陀は必ずその身に三十二相を具足しているとされた。この三十二相は元来、インドで理想上の帝王とされた転輪聖王の優れた肉体的な特徴をさしていた。これが仏陀にも転用されたものである。
しかし、転輪聖王が三十二相だけであるのに対して、仏は三十二相のほかに、もっと細かくて見がたい特質である八十種好も具えているとされ、三十二相と八十種好とを合わせて、仏の相好という。
ただし、末法の下種の教主、久遠元初自受用身如来は、三十二相を具足することなく示同凡夫の姿をとられ、ありのままの振る舞いで末法の衆生を導かれたのである。
御義口伝には「第廿三久遠の事 御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云」(0759)と仰せられている。
日寛上人は末法相応抄で三十二相と八十種好の仏陀は色相荘厳の仏であるがゆえに、どこまでも熟脱の教主にすぎず、末法の下種の仏ではない、それゆえに末法の本尊として造立してはならない、と論じられている。
その理由を三点挙げられている。
一つは色相荘厳の仏は熟脱の教主であること、
二つに主・師・身の三徳の縁が末法の衆生には浅いこと、
三つに人法勝劣であること、
の三つである。
とくに、最後の理由は、本抄で、三十二相の仏を供養、賛嘆するより、法華経並びにその行者を賛嘆する功徳のほうが百千万億倍も大きい、と説かれていることからも明らかである。すなわち、色相荘厳の仏は、法より劣るがゆえに、自らの身を荘厳にすることによって、衆生よりも勝れた相を見せて仏への渇仰の心を起こさせて化導せざるをえなかったのである。
第六章(法華行者を賛嘆供養する功徳を明かす)
本文
是れ程に貴き教主釈尊を一時二時ならず一日二日ならず一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて頭を低て他事を捨て頭の火を消さんと欲するが如く渇して水ををもひ飢えて食を思うがごとく間無く供養し奉る功徳よりも戯論に一言継母の継子をほむるが如く心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべしと説き給いて候、これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり、十号と申すは仏の十の御名なり十号を供養せんよりも末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり、妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり、
現代語訳
このように貴い教主釈尊を一時二時ではなく、一日二日ではなく、一劫の間掌を合わせ、両眼で仏の御顔を見つめ、頭を垂れ、他事を捨てて、頭についた火を消したいと願うように、渇いて水を思うように、飢えて食を思うように、絶えまなく供養する功徳よりも、戯れに一言でも、継母が継子をほめるように、志がなくても、末代の法華経の行者をほめ、供養する功徳は、かの三業相応の信心によって一劫の間、生身の仏を供養することよりも百千万億倍優れていると説かれている。これを妙楽大師は「福十号に過ぐ」と書かれたのである。
十号というのは、仏の十の御名である。十号の仏を供養するよりも、末代の法華経の行者を供養する功徳は勝れると書かれたのである。これは妙楽大師が、法華経の一切経に勝れている事を二十集めた中のその一つである。
語釈
妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる
法華経が爾前の諸経に対し二十の勝れた特色があることを妙楽大師が法華文句記巻四下で明かしたもの。十双歎という。「今義に依り文に附するに略して十双有り以って異相を弁ず。二乗に近記を与え、如来の遠本を開く。随喜は第五十の人を歎じ、聞益は一生補処に至る。釈迦は五逆調達を指して本師と為し、文殊は八歳の竜女を以って所化と為す。凡そ一句を聞くにも咸く綬記を与う。経名を守護するに功量るべからず。品を聞いて受持するは永く女質を辞し、若し聞いて読誦するは不老不死なり。五種法師は現に相似を獲、四安楽行は夢に銅輪に入る。若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養することある者は福十号に過ぎたり。況や已今当の説は一代に絶えたる所と、其の教法を歎ずるに七喩を以って称揚す。地より湧出せるをば、阿逸多一人をも識らず、東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず。況や迹化には三千の塵点を挙げ、本成には五百の微塵に喩えたり。本迹の事の希なる諸経に説かず。斯くの如き等の文、経に準ずるに仍あり」とある。これを図示すると次のようになる。表の下段は出典となる法華経の品である。
双 法華文句記の文
一 二乗に近記を与え (方便品乃至人記品)
如来の遠本を開く (如来寿量品)
二 随喜は第五十の人を歎じ (随喜功徳品)
聞益は一生補処に至る (分別功徳品)
三 釈迦は五逆調達を指して本師と為し (提婆達多品)
文殊は八歳の竜女を以って所化と為す (提婆達多品)
四 凡そ一句を聞くにも咸く綬記を与う (法師品)
経名を守護するに功量るべからず (法師品)
五 品を聞いて受持するは永く女質を辞し (陀羅尼品)
若し聞いて読誦するは不老不死なり (薬王品)
六 五種法師は現に相似を獲 (法師功徳品)
四安楽行は夢に銅輪に入る (安楽行品)
七 若し悩乱する者は頭七分に破れ (陀羅尼品)
供養することある者は福十号に過ぎたり (法師品)
八 況や已今当の説は一代に絶えたる所 (法師品)
其の教法を歎ずるに七喩を以って称揚す (薬王品)
九 地より湧出せるをば阿逸多一人をも識らず(従地涌出品)
東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず (妙音菩薩品)
十 況や迹化には三千の塵点を挙げ (化城喩品)
本成には五百の微塵に喩えたり (如来寿量品)
講義
前章までで、十号を具足する仏の徳の、他に勝れていることを述べられたのであるが、本抄は、その仏に供養するよりも、法華行者を供養、賛嘆する功徳が百千万億倍勝れていることを明かされている。
戯論に一言……百千万億倍すぐべしと説き給いて候
十号を具えている仏・教主釈尊を一劫という長期間にわたり、「掌を合せ両眼を仏の御顔にあて頭を低て他事を捨て頭の火を消さんと欲するが如く渇して水ををもひ飢えて食を思うがごとく」と説かれているような、身口意の三業相応の清らかな信心で供養するよりも、末代の法華経の行者を「戯論に一言継母の継子をほむるが如く心ざしなくとも」供養し、賛嘆するほうが百千万億倍勝れていると仰せられている。
ここで、〝戯論であっても、志なくとも〟と仰せであるのは、あくまで供養の対象として教主釈尊の徳よりも法華経の行者の徳がはるかに勝れていることを強調されんがために説かれているのであって、そのような態度であってよいということではない。
むしろ、法華経の行者に対して、三業相応して真剣に供養、賛嘆すれば凡夫の想像を絶する功徳があると述べられたものと拝していきたい。
ここでの法華経の行者は別して、末法の御本仏・日蓮大聖人であられることはいうまでもない。
第七章(仏の金言を信ずべきことを明かす)
本文
已上・上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや、而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑い多宝仏の証明を軽しめ十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし、若し爾らば現身に阿鼻地獄に堕つべし、巌石にのぼりて・あら馬を走らするが如し心肝しづかならず、又信ぜば妙覚の仏にもなりぬべし如何してか今度法華経に信心をとるべき信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し、但し近き現証を引いて遠き信を取るべし仏の御歳八十の正月一日・法華経を説きおはらせ給て御物語あり、「阿難・弥勒・迦葉我世に出でし事は法華経を説かんがためなり我既に本懐をとげぬ今は世にありて詮なし今三月ありて二月十五日に涅槃すべし」云云、一切内外の人人疑をなせしかども仏語むなしからざればついに二月十五日に御涅槃ありき、されば仏の金言は実なりけるかと少し信心はとられて候、又仏記し給ふ「我滅度の後一百年と申さんに阿育大王と申す王出現して一閻浮提三分の一分が主となりて八万四千の塔を立て我が舎利を供養すべし」云云、人疑い申さんほどに案の如くに出現して候いき是よりしてこそ信心をばとりて候いつれ、又云く「我滅後に四百年と申さんに迦弐色迦王と申す大王あるべし五百の阿羅漢を集めて婆沙論を造るべし」と是又仏記のごとくなりき、是等をもつてこそ仏の記文は信ぜられて候へ、若し上に挙ぐる所の二の法門・妄語ならば此の一経は皆妄語なるべし、寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なりと説き給う我等は凡夫なり過ぎにし方は生れてより已来すらなをおぼへず況や一生・二生をや況や五百塵点劫の事をば争か信ずべきや、又舎利弗等に記して云く「汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎ乃至当に作仏することを得べし号を華光如来と曰わん」云云、又又摩訶迦葉に記して云く「未来世に於て乃至最後の身に於て仏と成為ことを得ん名けて光明如来と曰わん」云云、此等の経文は又未来の事なれば我等凡夫は信ずべしともおぼえず、されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし又修行しても何の詮かあるべき是を以て之を思うに現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。
現代語訳
以上、この二つの法門は仏説ではあるけれども、信じられないことである。仏を供養するよりも、凡夫を供養することが勝るなどということが、どうしてあろうか。
しかしながらこれを妄語といおうとすれば、釈迦如来の金言を疑い、多宝仏の証明を軽んじ、十方の諸仏の舌相を破ることになる。
もしそうならば、生きながらに阿鼻地獄に堕ちるであろう。巌石に登って荒馬を走らせるようなものである。心は穏やかではない。
しかしまたこれを信ずるならば、妙覚の仏になることができよう。どのようにして、今度、法華経の信心をとるべきであろうか。
信がなくてこの経を行ずることは、手がなくて宝山に入り、足がなくて千里の道を歩こうとするようなものである。ただし近い現証によって、遠い信を取るべきである。
仏は御歳八十の正月一日に法華経を説き終えられて、「阿難・弥勒・迦葉よ、私がこの世に出たのは法華経を説くためであった。すでに本懐を遂げた今は、この世にあっても詮がない。今から三月の後、二月十五日に涅槃するであろう」と仰せられたのであった。
一切の内外の人々は疑いを起こしたけれども、仏語は空しくないものであるから、ついに二月十五日に御涅槃になった。
それゆえ、仏の金言は真実であったかと少しは信心をとるようになった。
また仏は「我が滅度の後、百年という時に、阿育大王という王が出現して、一閻浮提の三分の一の主となって、八万四千の塔を立てて我が舎利を供養するであろう」と予言されたのであった。
人は疑っていたが、予言のとおりに出現したのであった。このことからして、更に信心をとるようになった。
また「我が滅後四百年という時に、迦弐色迦王という大王が出現して、五百人の阿羅漢を集めて大毘婆沙論を造るであろう」と予言されたが、これまた仏記のとおりになった。これらの現証があって初めて、仏の予言は信じられたのであった。もしまえに述べたところの二つの法門が妄語であるならば、この法華経一経は皆妄語となるであろう。
寿量品に「我は過去五百塵点劫の当初の仏である」と説かれている。
我らは凡夫である。過ぎ去ったことは、生まれてからのことさえなお覚えていない。
まして一生二生前のことはなおさらである。まして五百塵点劫の過去のことを、どうして信ずることができよう。
また舎利弗等に授記して「汝は未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて、当に成仏するであろう。号を華光如来という」と説かれた。
また摩訶迦葉に授記して「未来世において……最後の身として仏となるであろう。名づけて光明如来という」と説かれた。
これらの経文は、また未来のことであるから、我ら凡夫は信じられるとは思えない。したがって、過去・未来を知ることができない凡夫は、この経を信ずることはむずかしい。また修行しても、何の意味があるであろう。
このことをもって思うには、現在に眼前の証拠を現せる人がこの経を説かれるときは、信じる人もいるであろう。
語釈
妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
多宝仏の証明
「多宝」とは多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
十方諸仏の舌相
如来神力品で、十方分身の諸仏が舌を梵天につけて、法華経の所説を真実であると証明したこと。
阿育大王
前三世紀頃の人。阿育は梵語アショーカ(Aśokaḥ)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と訳す。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタはナンダ朝を倒して、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設し、阿育の時に全盛期を迎えた。阿育王は篤く仏教を信仰し、その慈悲の精神を施政に反映するとともに、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。
舎利
梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。
迦弐色迦王
梵名カニシカ(Kaniska)の音写。迦膩色迦王、迦弐志加王等とも書く。二世紀中期の人。古代インドの健陀羅国の王。ガンダーラ地方のプルシャプラに都を定め、西は大夏の境より東はガンジス川中流付近にいたる広大な領土を支配した。玄奘の「大唐西域記」によれば初めは仏法を軽毀していたが、後に釈尊の予言に王自身の名があることをしり、仏法を信じ仏法の保護者となったといわれる。そして大規模な仏典の結集をはかり、また、プルシャプラの大塔を建立した。また、政治、経済、文化のあらゆる面でクシャン朝の最盛期を現出した。いわゆるガンダーラ美術の発達もこの頃が頂点であり、広く中央アジアの文化に影響を与えた。
阿羅漢
羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
婆沙論
説一切有部の教説の注釈書。旧訳は北涼の浮陀跋摩・道泰の共訳による「阿毘曇毘婆沙論」60巻、新訳には玄奘三蔵訳の「阿毘達磨大毘婆沙論」200巻がある。
五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
華光如来
釈迦の十大弟子の中で最も智慧に優れた舎利弗が、将来仏となった時の名で、その時に住む国の名。舎利弗は未来世において千万億の仏に導かれ、法を正しく保ったため成仏するとされる。華光如来の寿命は十二小劫で、大宝荘厳の国民の寿命は八小劫であり、そして華光如来が世を去る際に弟子の堅満菩薩に次のような記を与えるとした。曰く、この者は私の次に仏となり、名は華足安行如来である。そしてまた、華光如来入滅後に正法と像法は三十二小劫の間続くだろう、とされた。
講義
最初にいわれている「二つの法門」とは、法華経の法師品に説かれた「二つの法門」、すなわち、信じ供養することと毀謗するの両面である。
この両面において、仏陀に対するよりも末代の法華経の行者に対するほうが、はるかに大きいという仏陀の金言を信ずべきことを明かされているところである。
本章は二段に分かれている。
「已上・上の二つの法門は……」から「……千里の道を企つるが如し」までの御文では、難信難解であることを示されている。
次に、「但し近き現証を引いて遠き信を取るべし」から「此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」までの御文は、現証によって仏語を信ずべきことを明かされている。
初めに「争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや」と仰せのように、法師品の経文は、凡夫である法華経の行者に供養するほうが十号を具する仏陀に供養するよりも、その福徳においてはるかに勝れていると説いているのは常識として考えられないことなので、たとえ仏説でもなかなか信じがたいことである、と説かれている。
しかし、だからといって、この法師品の経文を〝妄語″だとして信じないならば、それは、釈迦如来の金言を疑い、多宝仏の証明や十方諸仏の舌相による証明を軽んずるところとなって、結局、三仏に背反することとなり、現身に阿鼻地獄に堕ちることになる。
といって、容易に信じられないので、法師品の経文に対する心は、ちょうど、巌石の上で荒馬を走らせるような不安定なものとなると仰せられている。
だが、また、信じていくならば、妙覚の仏にも成ることができるのであるから、なんとしても今生で法華経に対する信心を獲得すべきであると仰せられている。
次の段で、仏説を信ずるための裏付けとして、現証を示されているのである。
初めに、三つの仏陀の予言を挙げられ、それらがすべて実現したことを述べられている。
一つは、釈尊が法華経を説き終わった後、80歳の正月1日に、阿難、弥勒、迦葉を前にして、自らの出世の目的である法華経を説いて本懐を遂げたので、三か月後の2月15日に涅槃に入ると予言したことである。
これを聞いた内外の人々は疑ったが、実際はそのとおりになった。
次に、釈尊は、自分の死後は百年すると、阿育大王という王が出現して、一閻浮提のうち三分の一の領土を支配するとともに、八万四千の仏塔を立てて自分の舎利を供養するであろうと予言した。これが二つ目である。
それを聞いた人々は疑ったけれども、これも、予言どおりになった。
三つ目に、釈尊は、自分の滅後四百年すると、迦弐色迦王という大王が出現して、五百人の阿羅漢を集めてという大論書を造ると予言した。そしてそのとおりになったのである。
こうして、予言が実現したという現証によって、仏の説法や言葉が人々から信ぜられるようになっていった、と仰せられている。
更に、法華経の行者を供養する功徳と誹謗する罰の大きさについての説法がうそであるなら、法華経のすべてがうそになってしまうと仰せられ、法華経の肝要として、久遠実成と二乗作仏の法門について挙げられている。
法華経の寿量品で、釈尊が自らは過去五百塵点劫のそのかみ以来仏であったと説いた久遠実成の法門は、凡夫には信じがたい、遠い過去のことである。
一方、舎利弗、摩訶迦葉が受けた未来成仏の授記は、遠い過去のことであり、これも凡夫はなかなか信ずることができないものである。
これらも「現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」と説かれて、凡夫の眼前に、はっきりとした証拠を示すことのできる人が法華経を説けば信ずる人も現れるであろうと述べられている。
ここで「現在に眼前の証拠あらんずる人」とは、賛嘆する功徳と誹謗する罰が厳然と証明された法華経の行者であり、日蓮大聖人御自身であられることはいうまでもない。具体的には、大聖人を迫害したゆえに起こった自界叛逆難と他国侵逼難の二難という現証をさしておられるのであり、これについては本抄の最後に説かれている。
信なくして此の経を行ぜんは……千里の道を企つるが如し
大智度論巻一には「仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す」という有名な文がある。
この文を受けて、信を手にたとえ、次のように述べている。すなわち「経中に、信を説いて手の如しとなす。人は手有れば、宝山の中に入りて、自在に宝を取るが如し。信有るも亦是の如し。仏法の無漏の根力、覚道、禅定の宝山に入りて、自在に取る所あり。信無きは手無きが如し。手無き人は宝山中に入るに、則ち所取あること能わず。信無きも亦是の如し。仏法の宝山に入って、都て所得無し」と。
また「足」については、大智度論巻十三に「譬えば足なくして行かんと欲し、翅なくして飛ばんと欲し、船なくして渡らんと欲するが如きは、是れ得べからず」と述べている。この文意から「足なくして千里の道を企つるが如し」と仰せられているのである。
大聖人は、以上の大智度論の「手」と「足」のたとえを用いられて、法華経に対する信の重要性を強調されたのである。
近き現証を引いて遠き信を取るべし
ここで「近き」とは、凡夫にとっては、現実に現れた証拠をさされており、「遠き」とは、凡夫にとっては見ることも知ることもできない遠き過去や未来の事柄をさされている。
凡夫は、現在の眼前の事実という証拠があって初めて、遠い過去や未来のこと、とくに現実の世界と別の死後の果報などについても信じようという気になるということである。
大聖人はこのような凡夫の限界を見極められたうえで、近き現証をとおして、深遠なる仏法の法理、真実を信じていくという道が最も肝要であると仰せられたのである。
撰時抄では「経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う」(0288:03)と仰せられている。〝相如是〟という、外に現れた相を第一の大事とされているのである。
また、三三蔵祈雨事では「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468:16)と仰せられている。この御文のなかの〝現証にはすぎず〟との仰せも、三証を挙げられてそのなかの現証を第一とされているのである。
これらの仰せは〝近き現証〟を重視された本抄と軌を一にしているのである。
第八章(法華経が孝養の経典なるを明かす)
本文
今法蓮上人の送り給える諷誦の状に云く「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当り一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」等云云、夫れ教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる、世尊と申す尊の一字を高と申す高と申す一字は又孝と訓ずるなり、一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊と号し奉る、釈迦如来の御身は金色にして三十二相を備へ給ふ、彼の三十二相の中に無見頂相と申すは仏は丈六の御身なれども竹杖外道も其の御長をはからず梵天も其の頂を見ず故に無見頂相と申す是れ孝養第一の大人なればかかる相を備へまします、孝経と申すに二あり一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり、二には内典今の法華経是なり、内外異なれども其意は是れ同じ、釈尊・塵点劫の間・修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ孝養の事なり、然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり孝養おへざりしかば仏にならせ給はず、今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり、所謂地獄の一人・餓鬼の一人・乃至九界の一人を仏になせば一切衆生・皆仏になるべきことはり顕る、譬えば竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し、囲碁と申すあそびにしちようと云う事あり一の石死しぬれば多の石死ぬ、法華経も又此くの如し金と申すものは木草を失う用を備へ水は一切の火をけす徳あり、法華経も又一切衆生を仏になす用おはします、六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり、一人ももれば仏になるべからず故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏と説かせ給う孝養の心あまねからざる故なり、仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養の功徳を身に備へ給へり、
現代語訳
今、法蓮上人から送られた諷誦文には「慈父の聖霊の第十三年の忌日に当たり、一乗妙法蓮華経五部を読誦した」とある。
さて教主釈尊を大覚世尊と申し上げる。世尊という尊の一字を高という。高という一字はまた孝と訓ずるのである。一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なので、世尊と申し上げるのである。
釈迦如来の御身は金色であって、三十二相を備えている。その三十二相の中の無見頂相というのは、仏は丈六の御身であるけれども、竹杖外道もその御長を計ることができず、梵天もその頂を見ることができないので、無見頂相というのである。これは孝養第一の大人であるので、このような相を備えておられるのである。
孝経というのに二つある。一には外典の孔子という聖人の書に孝経がある。二には内典の今の法華経である。内典、外典の違いはあっても、その意は同じである。
釈尊が塵点劫の間、修行して仏になろうと励まれたことは何のためか、孝養のためである。ところで六道四生の一切衆生は、皆我が父母である。孝養を終えないうちは、仏になられなかったのである。今、法華経というのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経である。いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、ないし九界の中の一人を仏にすることによって、一切衆生が皆、仏になることができるという道理が顕れたのである。譬えば、竹の節を一つ破れば、他の節もそれにしたがって破れるようなものである。また囲碁という遊びに四丁という事がある。一つの石が死ぬならば、多くの石が死んでしまう。法華経の道理もまたこれと同様である。
金というものは、木草を切る力用を備え、水は一切の火を消す徳がある。法華経もまた一切衆生を仏にする力用がある。
六道四生の衆生に男女がある。この男女は皆我等の先生の父母である。一人でも成仏に漏れるならば、自分も仏になることはできない。
ゆえに、二乗を不知恩の者と定めて、「永く仏には成れない」と説かれたのである。孝養の心が他の人に行き渡らないからである。
仏は法華経を悟られて、六道四生の父母への孝養の功徳を身に備えられている。
語釈
法蓮上人
曾谷二郎兵衛尉教信(1224~1291)が入道して名乗った名前。文永8年(1271)ごろに入道し、日蓮大聖人から法蓮日礼という法号を賜ったといわれる。
諷誦の状
諷誦文のこと。死者の追善供養のための志を書き、施物を供えて僧に誦経を請う文。法会のとき導師が読む。
大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
竹杖外道
婆羅門の一派で、仏教徒を憎んで目連尊者を殺したことで有名。釈尊の無見頂相を疑い、竹杖をもって測ろうとしたが、ついに測ることができず、杖を投じて去ったという。
孝経
中国の儒教倫理の根本である「孝」について説いた書物。「論語」と共に、初学者必修の書として尊重されている。孔子と門弟曽子とが交わした対話の様式をとり、孝の意義、人倫の方途について述べられている。今、引用の文は、孝経の諫争章第十五の文である。云く「曽子曰く、夫の慈愛恭敬、親を安んじ、名を揚ぐるが若きは即ち命を聞けり。敢て問う、子、父の命に従うは、孝と謂うべきか。子曰く、是れ何の言ぞや、昔は天子に争臣七人あれば、無道と雖も天下を失わず。諸侯・争臣五人あれば、無道と雖もその国を失わず。大夫・争臣三人あれば、無道と雖もその家を失わず。(中略)故に不義に当れば即ち子以て父に争わざるべからず、臣以て君に争わざるべからず。故に不義に当れば即ち之を争う、父の命に従うは、又焉んぞ孝たるを得ん」とある。
外典
仏経典以外の典籍。内典に対する語。
孔子
(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
塵点劫
きわめて長い時間。
六道四生
十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道といい、後の声聞・縁覚・菩薩・仏を四聖という。
餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
九界
十界の仏界を除く、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩をいう。仏界が悟りの境地であるのに対して、迷いの境界をさしている。
囲碁
囲碁とは、宇宙である。石を使った陣取りボードゲーム。主に二人で行うゲームである。先手が黒い石、後手が白い石を使う。日本には天平年間(0730頃)伝わったといわれている。
しちよう
征とも書く。囲碁の一つの手で、一つの石が死ぬのを逃れようとしても、その頭を押さえられて連続して当たりにされて逃げきれず、結局、逃げようとして打った多くの石が全部死んでしまうことをいう。
二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
講義
慈父の第十三年の忌日にあたって一乗妙法蓮華経五部を読誦し奉った、という法蓮の諷誦文を挙げられ、法華経こそ真実の孝養の経であることを示されている。
そのなかで、仏法の本意が孝養にあることを、教主釈尊を大覚世尊と称する意義をとおして教えられている。
世尊の「尊」という字は「高」に通じ、「高」はまた「孝」に通じているので、最も孝養の人であることを表しているのである。
そして、仏は三十二相の一つとして、頭の頂を見ることができないという〝無見頂相″を具えているが、これは孝養のゆえに身に具わった徳であるとされている。
続いて孝に二つある、一つは、中国の孔子の著とされる外道の聖典で、今一つは、内道の仏典中で、最もよく孝道を説き示した法華経であると仰せられている。
したがって、孝経というのは内、外典にわたって説かれており、説き方に相違はあっても、その意は同じであると説かれている。
次に、法華経が孝経である理由を明かされている。
まず、釈尊が塵点劫という長い間、修行して仏になろうと努力したのは、何のためであるかといえば、ひとえに孝養のためであったと仰せられている。
普通は自分の父母への孝行が孝養とされているけれども、釈尊の場合は、下地獄から上天界に至るまでの六道四生の一切衆生が成仏しないかぎり、釈尊は孝養を尽くしたことにならないので、釈尊自身もすぐには仏にならなかったと説かれている。
このように孝養に努めた釈尊の説いた一切経のなかで、真実の孝養を可能にする経こそが法華経なのである。
なぜなら、三世にわたる永遠の生命観に立ってみるなら、この世界の一切衆生は、皆、自分の父母なのである。したがって、一切衆生を成仏させ、永遠の幸福境涯に住せしめてこそ、真実の孝養を果たしたといえる。この一切衆生を成仏させうる教えこそ法華経だからである。
すなわち法華経においては、地獄界の衆生の代表として提婆達多の成仏を説き、餓鬼界の代表として鬼子母神や十羅刹女の成仏を、畜生界の代表として竜女の成仏をというように、十界のすべてについて成仏が明かされたのである。
例えば、竹の一つの節が割れると、他の節もそれにつれて自然に割れてくるように、提婆の成仏は地獄界の衆生すべての成仏に通じているのである。
孝経と申すに二あり……二には内典今の法華経是なり
「孝」というのは、親に対する子としての真心をいい、孔子に始まる儒家の道徳思想の根本をなす徳目で、親に対して従順であることをその内容としている。これを孔子が門弟の曽子に説いたのを曽子の門人が記録した書物が「孝経」である。儒家十三経の一つである。本文に〝外典の孝経″と仰せられているものである。
これに対し、日蓮大聖人は、法華経を内典、すなわち仏典のなかの孝経とされている。
法華経を孝経とされたのは、一つは、仏教の説く「孝」とは、今世だけの幸せではなく、未来永久にわたる幸福境涯に導いてこそ真の孝養であるという考えを根本としている。すなわち、親を成仏させることにある。
そのためには、子が仏道修行を全うし、ひいては親をも仏道に導くことが肝要であり、親が信心に反対する場合には、一見すると儒教における「孝」と反する場合も出てくる。
兄弟抄にも「釈迦如来は太子にて・をはせし時・父の浄飯王・太子を・をしみたてまつりて出家をゆるし給はず、四門に二千人の・つわものをすへて・まほらせ給ひしかども、終に・をやの御心をたがへて家を・いでさせ給いき、一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か、されば心地観経には孝養の本をとかせ給うには棄恩入無為・真実報恩者等云云、言は・まことの道に入るには父母の心に随わずして家を出て仏になるが・まことの恩をほうずるにてはあるなり」(1085:06)と仰せられている。
また、単に、今世の親に対するだけでなく、三世の生命観から見れば、一切衆生が父母であることになり、したがって一切衆生を成仏に導くことが仏教の「孝」となるのである。したがって、一切衆生ことごとくを成仏させる道理を説いた法華経が仏典中の唯一の孝養の経典となるのはしごく当然の結果というべきである。
第十章(自我偈読誦の功徳を讃える)
本文
彼の諷誦に云く「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云、当時日本国の人仏法を信じたるやうには見へて候へども古いまだ仏法のわたらざりし時は仏と申す事も法と申す事も知らず候しを守屋と上宮太子と合戦の後信ずる人もあり又信ぜざるもあり、漢土も此くの如し摩騰・漢土に入つて後・道士と諍論あり道士まけしかば始て信ずる人もありしかども不信の人多し、されば烏竜と申せし能書は手跡の上手なりしかば人之を用ゆ、然れども仏経に於てはいかなる依怙ありしかども書かず最後臨終の時・子息遺竜を召して云く汝我が家に生れて芸能をつぐ我が孝養には仏経を書くべからず殊に法華経を書く事なかれ、我が本師の老子は天尊なり天に二つの日なし而に彼の経に唯我一人と説くきくわい第一なり、若し遺言を違へて書く程ならば忽に悪霊となりて命を断つべしと云つて舌八つにさけて頭七分に破れ五根より血を吐いて死し畢んぬ、されども其の子善悪を弁へざれば我が父の謗法のゆへに悪相現じて阿鼻地獄に堕ちたりともしらず遺言にまかせて仏経を書く事なし況や口に誦する事あらんをや、かく過ぎ行く程に時の王を司馬氏と号し奉る御仏事のありしに書写の経あるべしとて漢土第一の能書を尋ねらるるに遺竜に定まりぬ、召して仰せ付けらるるに再三辞退申せしかば力及ばずして他筆にて一部の経を書かせられけるが、帝王心よからず尚遺竜を召して仰せに云く汝親の遺言とて朕が経を書かざる事其の謂無しと雖も且く之を免ず但題目計りは書くべしと三度勅定あり、遺竜猶辞退申す大王竜顔心よからずして云く天地尚王の進退なり、然らば汝が親は即ち我が家人にあらずや、私をもつて公事を軽んずる事あるべからず、題目計りは書くべし若し然らずんば、仏事の庭なりといへども速に汝が頭を刎ぬべしとありければ題目計り書けり、所謂妙法蓮華経巻第一・乃至巻第八等云云、其の暮に私宅に帰りて歎いて云く我親の遺言を背き王勅術なき故に仏経を書きて不孝の者となりぬ天神も地祇も定んで瞋り不孝の者とおぼすらんとて寝る、夜の夢の中に大光明出現せり朝日の照すかと思へば天人一人庭上に立ち給へり又無量の眷属あり、此の天人の頂上の虚空に仏・六十四仏まします、遺竜・合掌して問うて云く如何なる天人ぞや、答えて云く我は是れ汝が父の烏竜なり仏法を謗ぜし故に舌八つにさけ五根より血を出し頭七分に破れて無間地獄に堕ちぬ、彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに無間の苦は尚百千億倍なり、人間にして鈍刀をもて爪をはなち鋸をもて頸をきられ炭火の上を歩ばせ棘にこめられなんどせし人の苦を此の苦にたとへば・かずならず、如何してか我が子に告げんと思いしかどもかなはず、臨終の時・汝を誡て仏経を書くことなかれと遺言せし事のくやしさ申すばかりなし、後悔先にたたず我が身を恨み舌をせめしかども・かひなかりしに昨日の朝より法華経の始の妙の一字・無間地獄のかなへの上に飛び来つて変じて金色の釈迦仏となる、此の仏三十二相を具し面貌満月の如し、大音声を出して説て云く「仮令法界に遍く善を断ちたる諸の衆生も一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜん」云云、此の文字の中より大雨降りて無間地獄の炎をけす閻魔王は冠をかたぶけて敬ひ獄卒は杖をすてて立てり、一切の罪人はいかなる事ぞとあはてたり、又法の一字来れり前の如し又蓮・又華・又経・此くの如し六十四字来つて六十四仏となりぬ、無間地獄に仏・六十四体ましませば日月の六十四が天に出たるごとし、天より甘露をくだして罪人に与ふ、抑此等の大善は何なる事ぞと罪人等仏に問い奉りしかば六十四の仏の答に云く我等が金色の身は栴檀宝山よりも出現せず是は無間地獄にある烏竜が子の遺竜が書ける法華経八巻の題目の八八・六十四の文字なり、彼の遺竜が手は烏竜が生める処の身分なり、書ける文字は烏竜が書くにてあるなりと説き給いしかば無間地獄の罪人等は我等も娑婆にありし時は子もあり婦もあり眷属もありき、いかに・とぶらはぬやらん又訪へども善根の用の弱くして来らぬやらんと歎けども歎けども甲斐なし、或は一日・二日・一年・二年・半劫・一劫になりぬるにかかる善知識にあひ奉つて助けられぬるとて我等も眷属となりて忉利天にのぼるか、先ず汝をおがまんとて来るなりとかたりしかば、夢の中にうれしさ身にあまりぬ、別れて後又いつの世にか見んと思いし親のすがたをも見奉り仏をも拝し奉りぬ、六十四仏の物語に云く我等は別の主なし汝は我等が檀那なり、今日よりは汝を親と守護すべし汝をこたる事なかれ、一期の後は必ず来つて都率の内院へ導くべしと御約束ありしかば遺竜ことに畏みて誓いて云く今日以後外典の文字を書く可からず等云云、彼の世親菩薩が小乗経を誦せじと誓い日蓮が弥陀念仏を申さじと願ぜしがごとし、さて夢さめて此の由を王に申す、大王の勅宣に云く此の仏事已に成じぬ此の由を願文に書き奉れとありしかば勅宣の如くにし、さてこそ漢土・日本国は法華経にはならせ給いけれ、此の状は漢土の法華伝記に候。
是は書写の功徳なり、五種法師の中には書写は最下の功徳なり、何に況や読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり、
現代語訳
彼の諷誦には「慈父が亡くなった日から十三回忌の日まで、釈迦如来の前で自ら自我偈一巻を読誦し奉って聖霊に回向してきました」等とある。
今の日本国の人々は仏法を信じているようにみえるけれども、昔まだ仏法が渡ってきていなかった時は仏ということも法ということも知らなかったのであるが、物部守屋と聖徳太子との合戦の後は信ずる人もおり、また信じない人もいた。
中国も同様であった。笠の摩騰迦が中国に入って後、道士と論争があり、道士が負けたので初めて信ずる人も出てきたけれども、不信の人が多かった。
ところで、烏竜という能書家は字を書くことが上手であったので、人々はこれを用いた。しかしながら、仏経だけはどのように頼んでも書かなかった。最後臨終の時、息子の遺竜を呼んで「おまえは我が家に生まれて芸を受け継いだ。私の孝養のためには仏経を書いてはならない。とくに法華経を書くことのないように。我が本師である老子は天尊である。天に二つの日はない。それなのに彼の経には『唯、我一人のみ』と説いている。けしからぬこと甚だしい。もし遺言をたがえて、書くようなことがあったならば、すぐに悪霊となって命を断つであろう」といって、舌が八つに裂けて頭が七分に割れ、眼耳鼻等の五根から血を吐いて死んでいった。しかしながら、その子は法の善悪をわきまえていなかったので、我が父が謗法のゆえに悪相を現じて阿鼻地獄に堕ちたとも知らず、遺言に従って仏経を書くことはしなかった。ましてや口に誦することはなかった。
こうして時が過ぎるうちに、時の王を司馬氏といった。仏事があった時に経を書写することになり、中国一の能書家を尋ねられた結果、遺竜に決定した。
召して命じられたところ再三にわたって辞退したので、やむをえず他の書家に一部の経を書かせられたが、帝王は気に入られなかった。なおも遺竜を召して「おまえが親の遺言だからといって私が命ずる経を書かないということは理由にならないことであるけれども、一応それは許そう。ただ題目だけは書くように」と再三、命じられた。遺竜はなおも辞退した。
大王は気色ばんだ顔で「天地であっても王の支配するところである。そうであれば、おまえの親はすなわち私の家来ではないか。私事をもって公の事を軽んずることがあってはならない。題目だけは書きなさい。もし、そうしないならば仏事の場であっても、速やかにおまえの頭をはねるであろう」と言ったので、題目だけは書いた。いわゆる〝妙法蓮華経巻第一、……巻第八〟等と。
その夕暮れ、自宅に帰って嘆いて「私は親の遺言に背き、王の命令にしかたなく仏経を書いて不孝の者となってしまった。天の神も地の神もきっと怒り、不孝の者と思っていることであろう」と言って寝た。
夜、夢のなかに大光明が出現した。朝日が照らしているのかと思っていると、天人が一人、庭の上に立たれ、また無数の眷属が連なっていた。この天人の頭上の虚空に六十四の仏がおられた。遺竜が合掌して「いかなる天人でいらっしゃいますか」と問うと、答えて、
「私はおまえの父の烏竜である。仏法を誹謗したために舌は八つに裂け、五根から血を出し、頭は七つに割れて無間地獄に堕ちてしまった。彼の臨終のときの大苦でさえ耐えられるとも思われなかったのに、無間地獄の苦しみは更にその百千億倍である。人間の世界で鈍刀でもって爪をはがされ、鋸でもって頸を切られ、炭火の上を歩かせられ、いばらの中に閉じ込められたりした人の苦しみも、この苦に比べれば物の数ではない。どうにかして我が子に告げ知らせようと思ったけれども、かなわなかった。臨終の時おまえを戒めて、仏経を書くことのないようにと遺言したことの悔しさはいいようのないほどであった。後悔先に立たず、我が身を恨み、舌を責めたけれども、なんの甲斐もなかった。ところが、昨日の朝から法華経の始めの〝妙〟の一字が無間地獄の鼎の上に飛んで来て、変じて金色の釈迦仏となった。この仏は三十二相を具え、顔つきは満月のようであった。大音声を出して『たとえ法界のすべてにわたって善根を断ち切ってしまった諸々の衆生も、ひとたび法華経を聞くならば必ず悟りを成ずるであろう」と説いた。この文字のなかから大雨が降ってきて無間地獄の炎を消し、閻魔王は冠を傾けて敬い、獄卒は杖を投げ捨てて立っており、すべての罪人は何事かとあわてていた。また〝法〟の一字が来て、前と同様であった。また〝蓮〟、また〝華〟、また〝経〟と、このようにして六十四字が飛び来って六十四の仏となった。無間地獄に仏が六十四体おられるので、六十四の日月が天空に出現したようであった。天から甘露を降らして罪人に与えた。『いったい、これらの大善事はどういうことなのでしょう』と罪人らが仏にお尋ねしたところ、六十四の仏が答えていうには『我らの金色の身は栴檀や宝山から出現したものではない。この身は、無間地獄にいる烏竜の子の遺竜が書いた法華経八巻の題目の六十四の文字である。彼の遺竜の手は烏竜が生んだところの体の一分である。遺竜が書いた文字は烏竜が書いたことになるのである』と説いた。それを聞いて無間地獄の罪人らは『我らも娑婆にいたときは子もあり、妻もあり、眷属もいた。どうして弔おうとしないのであろう。また弔っても善根の力用が弱くて来られないのであろうかと嘆いたけれども、効果はなかった。あるいは一日二日、一年二年、半劫一劫と経って、このような善知識に会えて助けられた』といって喜び、ともに眷属となって忉利天に昇ることになり、まずおまえを拝してと思って来たのである」
と語ったので、夢のなかでうれしさが身にあふれた。別れて後、またいつの世にか会おうと思っていた親の姿をも見、仏をも拝することができたのである。
六十四の仏が語っていうには「我らには特別の主はいない。あなたは我らの檀那である。今日からはあなたを親と思って守護しよう。あなたは怠ってはならない。一生の後は必ず来て兜率の内院へ導こう」と約束されたので、遺竜はとりわけ畏まって〝今日以後は外典の文字を書くまい〟と誓った。
彼の世親菩薩が〝小乗経を二度と読誦しない〟と誓い、日蓮が〝弥陀念仏を称えまい〟と誓願したようなものである。
さて、夢が覚めてから、このことを王に申し上げたところ、大王は「この仏事はすでに成就した。このことを願文に書き留めよ」と仰せられたので、そのとおりに行われたのである。かくして、中国、日本は法華経を信ずるようになったのである。この物語は中国の法華伝記にある。
これは書写の功徳である。五種法師のなかでは書写は最も低い功徳である。ましてや、読誦というのは量り知れない功徳があるのである。
語釈
自我偈
寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。
守屋
(~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
上宮太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
烏竜
中国・并州(山西省)の人。姓は李氏。烏竜と遺竜の話の原典は僧祥撰の法華伝記巻八・書写救苦第十の二・李遺竜六である。御書のなかでは「法蓮抄」に詳しく、また「光日上人御返事」にも引用される。烏竜は父親。
能書
文字を書くのが上手な人。書道家。
手跡
書いた文字。筆跡。
遺竜
中国・并州(山西省)の人。姓は李氏。烏竜と遺竜の話の原典は僧祥撰の法華伝記巻八・書写救苦第十の二・李遺竜六である。御書のなかでは「法蓮抄」に詳しく、また「光日上人御返事」にも引用される。遺竜は息子。
老子
生没年不明。中国周代の思想家。道徳経を著す。史記によると、楚の苦県の人。姓は李、名は耳、字は伯陽。周の守藏の吏。周末の混乱を避けて隠棲しようとして、関所を通る時、関の令、尹喜が道を求めたので、道徳経五千余言を説いたと言う。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、それが万物を生みだす根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人が道の原理に法って事を行えば現実的成功を収めることができるとする。
唯我一人
譬喩品に「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し、唯我一人のみ、能く救護を為す」とある。日蓮大聖人が末法の救世主として、一切衆生を救おうと思われる大慈悲である。
五根
目・耳・鼻・舌・身のことをいう。根とは、生命には、対境に縁すると作用する機能が本然的に備わっており、その機能の根源を根という。たとえば、生命には眼根があるため、色境に縁すれば眼識を生ずるのである。
司馬氏
中国の氏のひとつ。
勅定
天子がみずから定めたこと。また、天子の命令。勅命。
竜顔
天子の顔。天顔。りょうがん。
王勅
皇帝、天皇の命令、または、その命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書と言う。なお、秘密裏に行われるものを密勅という。
天神
①天界の衆生。②梵天・帝釈・日月天等。
地祇
大地を司る神。大地を堅牢にする神。
法界
意識の対象となる一切の事物・事象。有情・非情にわたるすべての存在および現象をいう。法は一切諸法・万法・森羅万象・界は差別・境界。
菩提
菩提とは梵語(Bodhi)で、道・覚・知等と訳す。①悟り・悟りの智慧。②煩悩を断じて得たさとりの境地。③冥福の意。
閻魔王
閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
獄卒
地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
栴檀
インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。
宝山
宝の山。
娑婆
雑会の意で忍土、忍界と訳す。権教の意においては、もろもろの煩悩を忍受していかねばならないということであるが、妙法を弘通する立場からは、いま「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり」(0771:第六娑婆是中有仏名釈迦牟尼仏の事:01)と仰せのごとく、三障四魔・三類の強敵を耐え忍び、これを乗り越えていかねばならない。
善知識
善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
忉利天
梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
都率の内院
「兜率」とは梵語(tusita)の音写。上足・妙足・知足と訳す。三十三天のうち、欲界六天の第四天。七宝の宮殿で、それが天処・内処の二処に分かれその「内院」に弥勒菩薩が澄み、釈迦の化導にもれた衆生を救済するために説法しているところという。外院を天界の衆生の欲楽するところとする。都史多天宮ともいう。
世親菩薩
生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵名はヴァスバンドゥ(Vasubandhu)。世親は新訳名で、旧訳名は天親。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」30巻、「十地経論」12巻、「法華論」2巻、「摂大乗論釈」15巻、「仏性論」6巻など多数あり、千部の論師といわれる。
小乗経
仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
弥陀念仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
法華伝記
十巻。中国・唐代の僧祥の撰。法華経の伝訳やその流派、また法華経の論釈や釈した高僧の伝記などを記した書。構成は部類増減第一、隠顕時異第二、伝訳年代第三、支派別行第四、論釈不同第五、諸師序集第六、講解感応第七、諷誦勝利第八、転読滅罪第九、書写救苦第十、聴聞利益第十一、依正供養第十二から成っている。烏竜・遺竜の話は、書写救苦第十にある。
五種法師
五種頓修の妙行、五種の妙行ともいう。五種は受持・読・誦・解説・書写のこと。この五つを修行する人を、五種法師という。受持とは経文を受持すること、読とは経文を見ながら読むこと、誦とは暗誦すること、解説とは化他のために法を説くこと、書写とは経文を書き写すこと。これらの修行は正法年間における釈迦仏法の修行である。末法における修行は南無妙法蓮華経と唱え、折伏を行ずることである。
講義
慈父が亡くなった日から第十三年の忌日まで自ら自我偈一巻を読誦して聖霊に回向してきた、という法蓮の諷誦文を挙げられ、法華伝記第八巻に記載されている中国の能書家、烏竜・遺竜父子の事跡を挙げられて、法蓮の回向の功徳の大きさを述べられている。
今、簡潔に、その事跡をまとめると、次のようになる。
遺竜は姓を李といい、并州の人であったが、その家は書を業とし、父は烏竜といった。烏竜は中国に広まっていた道教を重んじ、仏教を信じなかった。
烏竜は酒肉を好んでいたので、それを制止している仏教を誹謗したのである。そして、一生、仏教の経書を書かなかった。人がお金等で誘惑しても、経を見ることさえしなかった。まして、書写することなどなかったのである。
そして、ついに狂乱してしまった。子の遺竜に語っていうには「おまえは私の子であるならば、絶対に仏教を信じてはならない。もし信じたら災難が起こるであろう」と。その後、血を吐いて死んだ。
時に、この国の主である司馬氏は法華経を法のごとく固く信じ、法華経を書写しようと発心したが、それを書く者がいなかった。
ある人が司馬氏に、烏竜の子で遺竜という者がいて、父の業を継ぎ、書をよくするが、邪見をもち、仏経を書こうとしないことを述べた。司馬氏はさまざまな手段で書かせようとしたが、家伝と称して固辞し続けた。
ついに司馬氏は、自分は主であり、もし言うことをきかないならば、刑を科するといったり、また、金銀を与えたりしたので、ついに題目だけを書いた。
父の遺言に背いたことを悔いた遺竜であったが、次の夜、夢に百千の天人が大威徳の天を囲んで現れた。遺竜は庭に立ち、いったい、どなたかと問うと、天は答えて
「私はおまえの父の烏竜である。先の世に愚かにして仏教を信ぜず、大地獄に堕ちて、その炎が身にまといつき、また舌肉を引かれて、死ぬことも生きることもできず、その苦しさは筆舌に尽くしがたいほどであった。ところが昨日、地獄の上にたちまち光明が射し、仏が現れて『たとえ法界にあまねく善を断じた衆生であっても、ひとたび法華経を聞けば、必ず菩提を成ずることができる』と説かれた。こうして六十四の仏が現れて次第に偈を説かれた。そのとき、地獄の火が滅し、清涼な池のごとくになった。我らは天に生ずることができた。これはおまえが書いた法華経の題目の六十四字が一々の仏となられて偈を説かれ、苦を救われたのである。私だけでなく、その縁によって皆、同じように苦を離れ、同じ所に生じたのである。今、私の周りにいるのはその者達である。遺竜よ、以後は邪悪を捨て、仏経を書写することをもって家業とすべきである」
と述べた。
夢が覚めて、遺竜は涙を流して過ちを悔いた。そして司馬氏に詳しく事の顛末を語った。聞く者は皆、歓喜した。
そして、心からでなく、また題目のみを書いただけでこのような功徳があるのであるから、経を書き、人に教えればその人の得る功徳は限りがないと言ったので、竜家は書写の業を今に至るまで続けているのである―と。
大聖人はこの法華伝記の意をとって、具体的に、また詳細に御教示されている。そして、その結論として、遺竜が行った法華経の書写行ですら父を無間地獄から救い出す功徳があったのであるから、ましてや法蓮が亡き父のために十三年間続けた読誦の功徳にいたっては無量無辺であると仰せられている。
五種法師の中には書写は最下の功徳なり
五種法師とは、法華経法師品第十に説かれている法華経の修行法である。
①受持。教法・経文を受け持つこと。
②読。 経文を見ながら読むこと。
③誦。 経文を暗誦すること。
④解説。人に対して仏の経教を伝え、説くこと。
⑤書写。経文を書き写すこと。
であるが、遺竜の行ったものは「書写」行で、第五番目にあたるので、本文で「最下の功徳」であると説かれている。
これに対し、法蓮が毎日行った自我偈の「読誦」は、第二、第三の位置にあるだけに、その功徳は絶大であると仰せられている。仏法においては「声仏事を為す」といい、声に出して仏説を読誦することがとくに尊ばれるのである。
なお、五種の妙行の究極は、第一の「受持」にあることはいうまでもない。
日女御前御返事に「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり」(1245:04)と仰せのとおり、末法今時では、妙法を信受し題目を唱えるなかに五種行及び一切の万行を含むのである。
第十一章(自我偈最勝の理由を明かす)
本文
今の施主・十三年の間・毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯仏与仏・乃能究尽なるべし、夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす、自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ、其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり、涅槃経四十巻の中に集りて候いし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給いしか、されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等・雲の如くに集りて候いし大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点を経しかども今度・釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり。
されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還つて我が身を捨て給うなるべし、これを以て思うに田村利仁なんどの様なる兵を三千人生みたらん女人あるべし、此の女人を敵とせん人は此の三千人の将軍をかたきに・うくるにあらずや、法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし、
現代語訳
今の施主が十三年間、毎朝読誦されてきた自我偈の功徳は、ただ仏と仏のみが能く究められているところのものである。
そもそも、法華経は一代聖教の骨髄である。自我偈は法華経二十八品の魂である。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目としている。自我偈の功徳については勝手にいうべきではない。次の分別功徳品第十七に説かれている。この自我偈を聞いて仏になった人人の数を挙げていうには、小千世界や大千世界の三千大千世界を微塵にした数を挙げている。そのうえ薬王菩薩本事品第二十三以下の六品で得道した者は自我偈の功徳の残りであり、涅槃経四十巻のなかに集まってきた五十二類の衆生にも自我偈の功徳を仏は再び説かれたのである。
したがって、最初の華厳経が説かれた寂滅道場に十方世界の微塵の数ほどの大菩薩や天人等が雲のように集まり、大集経や大品般若経の諸聖も、大日経や金剛頂経等の千二百余尊も、過去世に法華経の自我偈を聴いたことのある人々が信力が弱くして三千塵点劫・五百塵点劫を経たけれども、今度、釈迦仏に会って法華経の功徳が進んだがゆえに、霊鷲山での法華経の説法を待たずに、爾前経を縁として得道したものと思われる。
それゆえ、十方世界の諸仏は自我偈を師として仏に成られたのである。世界の人の父母のようなものである。
いま法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を継ぐ人である。自分が得道することのできた経を持つ人を捨てられる仏があろうか。
もし、この人を捨てられるならば仏はかえって自分の身を捨てられることになろう。このことから考えてみると坂上田村麻呂や藤原利仁などのような武将を三千人産んだ女性がいたとして、この女性を敵とする人はこの三千人の将軍を敵に回すことになるであろう。法華経の自我偈を持つ人を敵とする人は、三世の諸仏を敵とすることになるのである。
語釈
唯仏与仏・乃能究尽
法華経方便品第二に「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」とある。
三世
過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231:03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432:12)とある。
十方
十方は、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。
分別功徳品
妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。
小千・大千・三千世界
仏教の世界観。日月・須弥山・四大洲を含む九山八海と欲界の諸天・色界の初禅天を合わせて小世界とし、1000個の小世界を小千世界、1000個の小千世界を大千世界、1000個の大千世界を三千世界という。
五十二類
釈尊の会座に集まった52異類の衆生のこと。52衆ともいう。章安大師の涅槃経疏巻一に説かれている。1. 無量の諸大比丘2. 六十億の比丘尼3. 十地の菩薩比丘尼4. 一恒沙の菩薩5.二恒沙の優婆塞6. 三恒沙の優婆夷7. 四恒沙の諸離車8. 五恒沙の大臣長者9. 六恒沙の毘沙離王及び夫人後宮眷属閻浮提内諸王10.七恒沙の諸王夫人11.八恒沙の諸天女12.九恒沙の諸竜王13.十恒沙の諸鬼神王14.二十恒沙の金翅鳥王15.三十恒沙の乾闥婆王16.四十恒沙の緊那羅王17.五十恒沙の摩睺羅伽王18.六十恒沙の阿修羅王19.七十恒沙の陀那婆王20.八十恒沙の羅刹王21.九十恒沙の樹林神王22.千恒沙の持咒王23.億恒沙の貪色鬼魅24.百億恒沙の天の諸采女25.千億恒沙の地の諸鬼王26.十万憶恒沙の天の諸天子27.十万億恒沙の四方の風神28.十万億恒沙の主雲雷神29.二十恒沙の大香象王30.二十恒沙の師子獣王31.二十恒沙の諸飛鳥王32.二十恒沙の水牛と牛羊33.二十恒沙の四天下中諸神仙人34.閻浮提中一切の蜂王35.閻浮提中一切の比丘・比丘尼36.無量世界の中元の人天衆37.閻浮提所有の山神38.阿僧祇恒沙の四大海神及び諸河神39.四天王40.釈提桓因及び三十三天41.夜摩天42.都率天43.楽変化天44.第六天45.大梵天及び梵衆46.阿修羅47.欲界天魔波旬48.大自在天49.東方仏世界無辺人菩薩50.南方仏世界無辺身菩薩51.西方仏世界無辺身菩薩52.北方仏世界無辺身菩薩。
寂滅道場
釈尊は19歳で出家し、最初は多くの婆羅門について学んだが、解脱の道でないことを知り、もっぱら苦行に励んだ。しかし、これも解脱の道とはならず、尼連禅河にはいり沐浴して、一人の牧女・難陀婆羅の捧げる乳を飲んで身心がさわやかになることができた。こうして最後に伽耶城の菩提樹下の金剛宝座の吉祥の奉る浄輭草をしいて安住した。ここで沈思黙想7週間(49日)魔を降して12月8日の朝暁、朗然と悟りを開き、その座で3週間十方から集まった諸大菩薩に説いたのが華厳経であり覚道の地であるがゆえに「寂滅道場」という。
大集
方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
大品
大品般若経のこと。般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若があり、仁王般若経を結経とする。釈尊が方等部の後、法華経以前の14年(30年説もある)に説いた経文で、説法の地は鷲峯山・白露池。訳には鳩摩羅什の「大品般若経」40巻、玄奘三蔵の「大般若経」600巻などがあり、前者を旧訳・後者を新訳という。玄奘の「大般若経」には仁王を除く五般若の大部分を含んでいる。
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
千二百余尊
真言宗の本尊のこと。胎蔵界に500余尊、金剛界に700余尊があり、あわせて1200余尊となる。
霊山
霊鷲山のこと。中インド・マガダ国の首都である王舎城の丑寅すなわち東北の方角にある。法華経の説処。梵語で耆闍崛山といい、その南を尸陀林といって、死人の捨て場になっていたため、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏成道の法である法華経が説かれたので、「霊山」という。
爾前の経経
爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。
田村
坂上田村麻呂(0758~0818)のこと。平安時代の武将。苅田麻呂の子。蝦夷征伐に力を発揮し、16年(0797)征夷大将軍になった。陸奥の地の平定や弘仁元年(0810)の薬子の変の鎮定に功を立てた。その優れた武才と人格とによって、模範的武将として後世の武士に尊崇された。
利仁
藤原利仁のこと。生没年不詳。平安中期の人。鎮守府将軍藤原時長の子。延喜15年(0915)鎮守府将軍となる。沈着で軍略に富み、飛ぶような軽捷さがあったといわれる。下野(栃木県)の高蔵山に群盗が結集して関東の調庸を略奪した時、命を受けてこれを平定し、武名をあげたと伝えられる。
講義
前章では、法華経の読誦が勝れていることを説かれたが、本章は法華経のなかでも、とくに自我偈が最も肝要であることを明かされるのである。
まず、法蓮が十三年もの間、毎朝、自我偈を読誦した、その功徳の大きさは、とうてい凡智では計り知れないもので、仏と仏のみがよく究め尽くすことができると仰せられている。
それは、一代聖教の骨髄は法華経二十八品であるが、その法華経二十八品の魂こそ、寿量品の自我偈だからである。
寿量品は、長行と偈頌から成るが、自我偈は長行で説かれた内容を重ねて偈をもって説いたものである。
長行の内容を簡潔に述べると、釈尊は五百塵点劫という思議しがたい久遠において菩薩道を行じて仏となったことを明かし、それ以後、常に娑婆世界にあって種々に法を説き衆生を教化してきたことを明かす。その間、然燈仏等として現れ、また入滅する姿を現じたが、それらはすべて方便としての姿であって、仏は実には滅度することはなく、仏の寿命は常住であるというのである。そして、このことを良医病子の譬をもって説いた後、更に以上の長行の内容を重ねて偈をもって重説したのが自我偈なのである。
とくに、寿量品・自我偈のなかで最重要な教説は、釈尊の久遠実成にあり、この久遠の開顕によって、三世十方の諸仏は皆釈尊の分身となり、垂迹仏となるとともに、三世十方の菩薩も、久遠の釈尊の弟子として統一されたのである。それゆえに本文で「三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす」と仰せられたのである。
このことは、開目抄でも「此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる、仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんがごとくして・あるべき」(0214:01)と仰せられている。
この自我偈の功徳の大きさは、「私に申すべからず」と述べられ、分別功徳品第十七に詳説されていると仰せられている。
分別功徳品は、前品の寿量品・自我偈で説かれた仏寿の長遠なることを聞いた菩薩大衆がさまざまな功徳を得たのであるが、その功徳に浅深不同があり、その不同を分別することを説いているので「分別功徳品」というのである。なかでも、本文で「此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ」と仰せられているところを分別功徳品から引用すると次のようになる。
「爾の時、大会は仏の寿命の劫数の長遠なること是の如くなるを説きたまうを聞いて、無量無辺阿僧祇の衆生は、大饒益を得つ。時に世尊は弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、『阿逸多よ。我れは是の如来の寿命の長遠なるを説く時、六百八十万億那由他恒河沙の衆生は、無生法忍を得。復た千倍の菩薩摩訶薩有って、聞持陀羅尼門を得。復た一世界の微塵数の菩薩摩訶薩有って、楽説無碍弁才を得。復た一世界の微塵数の菩薩摩訶薩有って、百千万億無量の旋陀羅尼を得。復た三千大千世界の微塵数の菩薩摩訶薩有って、能く不退の法輪を転ず。復た二千中国土の微塵数の菩薩摩訶薩有って、能く清浄の法輪を転ず。復た小千国土の微塵数の菩薩摩訶薩有って、八生に当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。復た四四天下の微塵数の菩薩摩訶薩有って、四生に当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。復た三四天下の微塵数の菩薩摩訶薩有って、三生に当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。復た二四天下の微塵数の菩薩摩訶薩有って、二生に当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。復た一四天下の微塵数の菩薩摩訶薩有って、一生に当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。復た八世界の微塵数の衆生有って、皆な阿耨多羅三藐三菩提の心を発しつ』と。」
更に、法華経薬王品第二十三から以後、普賢菩薩勧発品第二十八までの六品を聞いて得道した者も、結局、自我偈の功徳の余残なのである。
また、涅槃経四十巻のなかに集まった五十二類の衆生に対しても仏は重ねて自我偈を説いた、と仰せられている。
また、さかのぼって、寂滅道場、すなわち華厳経、大集経、大品般若経、大日経、金剛頂経など爾前諸経を聞いて得脱した人々は、すでに過去に自我偈を聴聞していた人々であるが、ただ信力が弱かったために三千塵点劫、五百塵点劫という長期間にわたって迷いの流転を経た後、釈迦仏に出会って爾前諸経を聴聞しているうちに、かつて聞いた自我偈の功徳が花開いて爾前の経々を縁として得道したのであると仰せられている。
なぜ自我偈を聞いて成仏したと仰せられているかというと、成仏とは種熟脱を悟ることに尽きるのであり、仏寿の長遠を聞かなければ種熟脱は知ることができない。その仏寿の長遠を説いているのが寿量品・自我偈だからである。
以上のように、寿量品・自我偈を中心にして釈尊の一代聖教が成り立っていることを明らかにされた後、「されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し」と仰せられているのである。
すなわち、寿量品・自我偈は、三世十方の諸仏が仏に成ることのできた根源の師であり、また世界の人々の父母であると讃えられている。
したがって、この寿量品・自我偈を持つ人は「諸仏の命を続ぐ人」であり、その逆に「法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とする」ことになるのである。
自我偈について
日蓮大聖人が自我偈をとくに重んじられたことは、諸御抄に、自我偈を読んだと仰せになっていることからも、明らかである。
しかし、御義口伝においては、その甚深の義をもって自我偈の位置を示されている。以下に、その御文を挙げよう。
自我偈の冒頭は「自我得仏来」という句であるが、この句をとおして、次のように仰せである。
「第十一自我得仏来の事
御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。」(0756:01)
また、自我偈全体については二か所で述べられている。
「第廿一自我偈の事
御義口伝に云く自とは九界なり我とは仏身なり偈とはことわるなり本有とことわりたる偈頌なり深く之を案ず可し、偈様とは南無妙法蓮華経なり云云。」(0759:01)
「第廿二自我偈始終の事
御義口伝に云く自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍つて自我偈は自受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身とは一念三千なり、伝教云く『一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり』云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。」(0759:01)
以上のように大聖人は、自我偈を、無始無終の久遠元初自受用身即一念三千、無作三身にして本有の十界の御当体であられる末法の御本仏・日蓮大聖人の御生命を表したものとして読まれていたことが明らかである。
第十二章(亡父追善の功徳を讃える)
本文
今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る、されば経文に云く「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」等云云、天台の云く「稽首妙法蓮華経一帙・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文・是真仏・真仏説法利衆生」等と書かれて候。
之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放つて大地をつきとをし三悪道・無間大城を照し乃至東西南北・上方に向つては非想・非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息・法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそ・ねんごろに語らせ給うらめ、其の時・過去聖霊は我が子息・法蓮は子にはあらず善知識なりとて娑婆世界に向つておがませ給うらん、是こそ実の孝養にては候なれ。
現代語訳
今の法華経の文字は皆生身の仏である。我らは肉眼なので文字と見るのである。例えば餓鬼は恒河を火と見、人は水と見、天人は甘露と見るのである。水は一つであるけれども、果報にしたがって見方はそれぞれ別である。
この法華経の文字は盲目の者はこれを見ず、肉眼は黒色と見、二乗は虚空と見、菩薩は種種の色と見、仏種が十分に熟している人は仏と見るのである。
それゆえ、経文に「もし能く持つことならば、仏身を持つことになるのである」等とあり、天台大師は「稽首妙法蓮華経一帙・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字の一文字一文字が真の仏であり、真の仏が法を説いて衆生を利するのである」等と書かれている。
このことからあなたが自我偈を読誦してきたことを考えてみると、法蓮法師は毎朝、口から金色の文字を出したのである。この文字の数は五百十字である。一つ一つの文字は変じて太陽となり、太陽は変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地を突き通し、三悪道や無間地獄を照らし、また東西南北、上方に向かっては非想非非想処へも昇り、いかなる所であっても過去聖霊のおられる所まで尋ねて行かれて彼の聖霊に語られるであろう。
「私をだれだと思われる。私はあなたの子息の法蓮が毎朝、読誦するところの法華経の自我偈の文字である。この文字はあなたの眼となり、耳となり、足となり、手となるであろう」と懇ろに語られているであろう。
その時、亡き聖霊は「我が子息の法蓮は子ではない、善知識である」といって娑婆世界に向かって拝まれるであろう。これこそ真実の孝養なのである。
語釈
肉眼
人間の肉体に具わる眼。普通の人間の眼。
恒河
ガンジス河のこと。
二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
仏種
仏果を生じる因種。南無妙法蓮華経は、一生成仏の果を得るための因の種子であり、衆生の仏性とも、とることができる
天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
「稽首妙法蓮華経……衆生」
略法華経の冒頭にある語。
稽首
南無・帰命。ひざまずいて両手を差し出し、相手の足に額をつけて礼拝する最高の礼法のこと。仏教では身心から信じ奉る意で、仏にたいする礼をいう。
一帙
帙は書物の損傷を防ぐために覆い包むものをいい、書物を数える単位として用いられた。
三悪道
三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。
無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
非想・非非想
非想天・有頂天のこと。無色界の第四天で、三界諸天のなかの最頂部。
講義
ここでは、法華経の文字がことごとく生身の仏であることを説かれ、法蓮が毎朝読誦してきた自我偈の510字は、そのまま510の仏となって、あの世の亡き父の聖霊を訪ね救われているだろうと述べられている。
法華経の文字が生身の仏であるにもかかわらず、凡夫はただ黒い文字としか見ないことを、一つは同一のものであっても見る側の境地に応じて異なって見えるということと、いま一つは、経と釈による文証を挙げられることによって、裏付けられている。
水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり
涅槃経や摂大乗論に出ている有名な「一水四見」について説かれたところである。
まず涅槃経では、同一の恒河の水を、餓鬼界の衆生は火と見、人間は水と見、天人は甘露と見、魚は住処と見る、と説いている。
次に、摂大乗論では同一の水を天は宝の荘厳された池と見、人は水と見、餓鬼は膿血と見、魚は住処と見る、と説いている。
いずれも、対象物は同じであっても、これを見る主体の〝果報″すなわち、過去世から積んできた業の果報により、異なって見えることを強調しているのである。
この「一水四見」の譬えを、更に法華経の文字に関しても展開されて、目の不自由な人は法華経の文字を見ることができず、肉眼をもつ人には黒色と見える。
また、同じ文字を二乗は虚空と見るし、菩薩は種々の色をともなって見える。だが、仏種が熟した人は仏と見る、と仰せられている。
同じ意味のことを、同じく曾谷入道に対してしたためられた御手紙の中で仰せられているので、次に挙げておく。
「方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(1025:01)。
ここでは、菩薩が法華経の文字を「無量の法門と見る」とあって、本文中の「種種の色と見」ると仰せになっているのと表現上において若干の相違があるが、意味においては全く同じであると拝することができよう。
経文に云く……天台の云く……
法華経の文字がそのまま生身の仏であることについて、その文証を挙げられているところである。
まず、経文の「若し能く持つこと有るは・即ち仏身を持つなり」とあるのは、法華経見宝塔品第十一の偈頌の一つである。
これは、法華経が最勝である理由を説くなかの一節であって「我れは仏道の為めに、無量の土に於いて、始従り今に至るまで、広く諸経を説く。而も其の中に於いて、此の経は第一なり」とあって、今の文に続くのである。
つまり、法華経は釈尊の説いた諸経のなかで最第一の経典であるから、この経を護持する者は、釈迦仏の身体を保持することになると説いている。
なお、御義口伝には次のように仰せられている。
「第十三若有能持則持仏身の事
御義口伝に云く法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、則の一字は生仏不二なり上の能持の持は凡夫なり持つ体は妙法の五字なり仏身を持つと云うは一一文文皆金色仏体の故なり、さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり、理即の凡夫と究竟即の仏と二無きなり即の字は即故初後不二の故なり云云。」(0742:01)。
また、天台大師の釈は、妙法蓮華経の全体の文字数、69384の文字がことごとく真仏であって、説法して衆生を利益していると説いている。しかし、この出典は明らかではなく、天台略法華経の文とも伝えられているが、詳細は不明である。
第十三章(法華修行の種々相を示す)
本文
抑法華経を持つと申すは経は一なれども持つ事は時に随つて色色なるべし、或は身肉をさひて師に供養して仏になる時もあり、又身を牀として師に供養し又身を薪となし、又此の経のために杖木をかほり又精進し又持戒し上の如くすれども仏にならぬ時もあり時に依つて不定なるべし、されば天台大師は適時而已と書かれ、章安大師は「取捨得宜不可一向」等云云。
問うて云く何なる時か身肉を供養し何なる時か持戒なるべき、答えて云く智者と申すは此くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり、たとへば渇者は水こそ用うる事なれ弓箭兵杖はよしなし、裸なる者は衣を求む水は用なし一をもつて万を察すべし、大鬼神ありて法華経を弘通せば身を布施すべし余の衣食は詮なし、悪王あつて法華経を失わば身命をほろぼすとも随うべからず、持戒精進の大僧等・法華経を弘通するやうにて而も失うならば是を知つて責むべし、法華経に云く「我身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」云云、涅槃経に云く「寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざれ」等云云、章安大師の云く「寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し身を死して法を弘む」等云云。
現代語訳
さて、法華経を持つということは、経は一つであっても持ち方は時にしたがって色々である。あるいは身体の肉を裂いて師に供養して仏に成る時もあり、また身体を床として師に供養し、また身体を薪とし、またこの経のために杖や木で打たれ、また精進し、また戒を持つ、というようにする時もあり、また、以上のようなことをしても仏に成らない時もあり、時によって一定ではない。
それゆえ、天台大師は「時に適うのみ」と書かれ、章安大師は「取捨宜しきを得て一向にす可からず」等と述べている。
質問していう、いかなる時に身体の肉を供養し、いかなる時に戒を持つべきであろうか。
答えていう、智者というのは、そのような時を知って法華経を弘通するのが最も大事なことなのである。例えば喉の渇いた者には水こそが入り用であり、 弓箭や兵仗は用がない。裸の者は衣を求めるのであり、水は用をなさない。一事をもって万事を察しなさい。大鬼神がいて法華経を弘通するならば身を布施とすべきであり、他の衣食は用をなさない。悪王がいて法華経を滅ぼそうとするときには命をすてても従ってはならない。持戒・精進の大僧等が法華経を弘通するかのようにして滅ぼしているならば、これを知って責めるべきである。
法華経に「私は身命を愛惜しはしない。ただ無上道を惜しむのである」と説かれ、涅槃経に「むしろ身命を失っても、終に王の説いた教えを隠すことがあってはならない」等と説かれ、章安大師は「『寧ろ身命を喪うとも……教を匿さざれ』とは、身は軽く法は重い、身を捨てて法を弘めるべきである、ということである」等と述べている。
語釈
精進
一般的には一生懸命努力すること。心を明らかにして進むこと。仏法においては、勇猛に善法を修行して悪法を断ずること。心をもっぱらにして仏道修行に励む心の働き。またはその行為をいう。大御本尊を絶対と信じ、題目を唱え、間断なく前進していくことが精進である。
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
適時而已
天台の法華文句の中にある語。「時にかなうのみ」と読む。摂受と折伏のどちらを行ずるかは、そのときによるべきであるとの意。末法今時は折伏のみである。
章安大師
(0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
取捨得宜不可一向
大般涅槃経疏巻8の文。「取捨宜きを得て一向にす可からず」と読む。摂受をとるか、折伏をとるかの取捨は時代にしたがい、機にしたがい異なるのであり、一向にすべきではないということ。
布施
物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。
「寧ろ……匿さざれ」
涅槃経に「譬えば王の使いの、善能く談論し、方便に巧みにして命を他国に奉じ、寧ろ身命を喪うとも、終に王所説の言教を匿さざるが如し。智者も亦爾なり。凡夫の中に於いて、身命を惜しまず。要必ず大乗方等如来の秘蔵、一切衆生皆仏性有るを宣説す」とある。
講義
本章は、法華経の修行にも種々の相があり、いずれを実践するかは時によることを示し、末法今時は、身軽法重で死身弘法すべきことを説かれている。
初めに、法華経という経は一つであっても、その修行の仕方は時にしたがってさまざまであると仰せられ、種々の例を挙げられている。
「身肉をさひて師に供養して仏になる時もあり」と説かれているのは、雪山童子や楽法梵志の修行法を示されている。
また「身を牀として師に供養し」とあるのは、法華経提婆達多品で、檀王が阿私仙人に仕えて身体をもって牀座としたことを説かれている。
次に「身を薪となし」というのは、薬王品で説かれている、喜見菩薩が過去に自分の身を焼き臂を焼いて法華経に供養して薬王菩薩となったという因縁を述べたものである。
更に「此の経のために杖木をかほり」とは不軽品での不軽菩薩の姿であり、またこれらのほかに、精進行や持戒行を修めて仏になったりすることもあるが、いくら行じても仏にならぬこともある。
これらのことは「時に依つて不定」で、どの修行が成仏のための行となるかは〝時〟によると仰せられている。
そのことを、天台大師は法華文句巻八下で「時に適う而已」と説き、章安大師は「取捨宜しきを得て一向にす可からず」と説いている、と仰せられている。
次に、問答によって末法今時の修行の在り方に論及されていく。
まず最初に、いかなる時に身肉を供養し、いかなる時に持戒を修すべきであるか、という問いを設けられている。
その答えとして、智者というのは「時」を知って法華経を弘通するのが第一の秘事である、と仰せられ、同じ布施行でも、相手が渇えている時には水こそが大事なのであって、弓矢や兵器は全く役立たないのである。裸の者に必要なのは衣であって水は用がないのである。更に、大鬼神が法華経を弘通する時には、大鬼神が求める身肉を布施としなければならないのであって、それ以外の着物や食物を施しても無意味なのである。
更に、今度は悪王が法華経を滅し去ろうとしているときは、たとえ身命を断たれるようなことがあっても、これに従ってはならない。また、持戒行と精進行とを修した大僧達が表面ではいかにも法華経を弘通するような姿をして、実際には法華経を滅しようとしているならばこれを破折しなければならない、と仰せられている。
とくに最後の二つの例は、末法今時の折伏行を説かれていて、本章の中心の主題も、ここにあると拝していきたい。
そのことは、最後に掲げられた三つの文証から明らかであろう。一つは、法華経勧持品の「我れは身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」という文であり、二つには涅槃経の「寧ろ身命を喪うとも、終に王の所説の言教を匿さざれ」であり、三つは、上の涅槃経の文を釈した章安大師の、身軽法重・死身弘法の文である。
いずれも、末法今時の法華修行が折伏行にあることを強調している点で共通している。
適時而已・取捨得宜不可一向
仏法において衆生を教化する方法に摂受と折伏の二門があるが、二門のいずれを用いるかは時によるべきであることを示した文である。
まず「適時而已」は、法華文句巻八下の一節である。今、その前後の文を引用すると、次のようになる。
「問う、大経は国王に親附し、弓を持し箭を帯し悪人を摧伏するを明かす。此の経は豪勢を遠離し、謙下慈善なり。剛柔碩きに乖く。云何ぞ異ならざらん。答う、大経は偏に折伏を論ず。一子地に住す。何ぞ曾て摂受無からん。此の経は偏に摂受を明かす。頭を七分に破るとは折伏無きに非ず。各一端を挙げるは時に適うのみ」と。
これは、法華経安楽行品を釈するなかでの文である。初めに、安楽行品が「豪勢を遠離し、謙下慈善」の立場に立って〝柔〟の教化法を説いているのに対し、大経すなわち涅槃経は「国王に親附し、弓を持し箭を帯し悪人を摧伏する」という〝剛〟の教化法を説いている。
このように剛と柔の二つの異なる立場があるがどのように考えるべきであるか、という問いが設けられている。
これに答えて、涅槃経はひとえに折伏を論じているが、摂受がないわけではない。また、法華経の安楽行品は、ひとえに摂受を明かしているが、法華経陀羅尼品では「頭破作七分」を説いているので折伏の立場もある、というように、ともに折伏と摂受の二門の双方を説いているけれども、問者が挙げた涅槃経と安楽行品の例は、それぞれの一端を挙げているにすぎず、摂受、折伏の二門のうち、どちらが表になるかは、時に適うのみである、といわれているのである。
次に「取捨得宜不可一向」の文は章安大師の涅槃経疏に説かれている。
これは、涅槃経の金剛身品に「善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持して、持戒清浄の比丘を守護すべし」とある文を釈したものである。
先に、法華文句に出てきた涅槃経の折伏門も、この金剛身品の一節を挙げていたように、まさに折伏そのものの姿が強調されている。
章安大師はこの一節を釈して、その涅槃経疏に次のように書いている。
「昔の時は、平にして法弘まる。応に戒を持つべし、仗を持すること勿れ。今の時は、嶮にして法翳る。応に仗を持つべし、戒を持すること勿れ。今昔倶に嶮ならば、応に倶に仗を持つべし、今昔倶に平ならば、応に倶に戒を持すべし。取捨宜きを得て一向にす可からず」と。
すなわち、金剛身品では、五戒を受けず、刀剣を持つべきであると述べているが、それは時代が険悪で正法の滅せんとする時であったからである。
しかし、時代が平穏で正法が広まっている時には戒を持つことが大切である。戒を持つか刀剣を持つか、の取捨は時の宜しきを得て、片寄ってはならない、というのがその意味である。この場合、戒が摂受にあたり、仗が折伏にあたることはいうまでもない。
さて、日蓮大聖人は開目抄で、以上の二つの文を引かれて、末法の日本国は折伏を行ずる時であると結論されている。
その御文は次のとおりである。
「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。
問うて云く摂受の時・折伏を行ずると折伏の時・摂受を行ずると利益あるべしや、答えて云く涅槃経に云く『迦葉菩薩仏に白して言く如来の法身は金剛不壊なり未だ所因を知ること能わず云何、仏の言く迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり、迦葉我護持正法の因縁にて今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり、善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣弓箭を持つべし、是くの如く種種に法を説くも然も故師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり能く戒を持ち浄行を守護すと雖も当に知るべし是の人は能く為す所無からん、乃至時に破戒の者有つて是の語を聞き已つて咸共に瞋恚して是の法師を害せん是の説法の者・設い復命終すとも故持戒自利利他と名く』等云云、章安の云く『取捨宜きを得て一向にす可からず』等、天台云く『時に適う而已』等云云」(0235~0236)
ここで、大聖人は、国土を大きく無智・悪人の国土と邪智・謗法の国土とに分けられ、邪智・謗法の日本国では、折伏を行ずべきであると御教示されている。
身軽法重・死身弘法について
末法の日本国では折伏を行ずべきであることを本文で「持戒精進の大僧等・法華経を弘通するやうにて而も失うならば是を知つて責むべし」と示された後、法華経勧持品、涅槃経、章安大師の涅槃経疏の諸文を引用されて〝死身弘法〟の精神を強調されている。
大切なのはどこまでも、護法・弘教の精神なのであって、ただ形式的に、身命を軽く取り扱ってよい、ということではない。
この点については御義口伝に明確に御教示されているので、次にその御文を挙げておこう。もって肝に銘じていきたい。
「第三捨是身已の事
御義口伝に云く此の文段より捨不捨の起りなり転捨にして永捨に非ず転捨は本門なり永捨は迹門なり此の身を捨るは煩悩即菩提生死即涅槃の旨に背くなり云云、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは捨是身已なり不惜身命の故なり云云、又云く此の身を捨すと読む時は法界に五大を捨すなり捨つる処の義に非ず、是の身を捨てて仏に成ると云うは権門の意なりかかる執情を捨つるを捨是身已と説くなり、此の文は一念三千の法門なり捨是身已とは還帰本理・一念三千の意なり、妙楽大師の当知身土・一念三千・故成道時・称此本理・一心一念・遍於法界と釈するは此の意なり云云」(0731:01)。
第十四章(御自身の怨嫉留難の生涯を説く)
本文
然るに今日蓮は外見の如くば日本第一の僻人なり我が朝六十六箇国・二の島の百千万億の四衆・上下万人に怨まる、仏法・日本国に渡つて七百余年いまだ是程に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし、月氏・漢土にもありとも・きこえず又あるべしとも・おぼへず、されば一閻浮提第一の僻人ぞかし、かかるものなれば上には一朝の威を恐れ下には万民の嘲を顧みて親類もとぶらはず外人は申すに及ばず出世の恩のみならず世間の恩を蒙りし人も諸人の眼を恐れて口をふさがんためにや心に思はねども・そしるよしをなす、数度事にあひ両度御勘気を蒙りしかば我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも或は御勘気或は所領をめされ或は御内を出され或は父母兄弟に捨てらる、されば付きし人も捨てはてぬ今又付く人もなし、殊に今度の御勘気には死罪に及ぶべきがいかが思はれけん佐渡の国につかはされしかば彼の国へ趣く者は死は多く生は稀なり、からくして行きつきたりしかば殺害・謀叛の者よりも猶重く思はれたり、鎌倉を出でしより日日に強敵かさなるが如し、ありとある人は念仏の持者なり、野を行き山を行くにもそばひらの草木の風に随つてそよめく声も、かたきの我を責むるかとおぼゆ、やうやく国にも付きぬ北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし、根を移されし橘の自然にからたちとなりけるも身の上につみしられたり、栖にはおばなかるかやおひしげれる野中の三昧ばらにおちやぶれたる草堂の上は雨もり壁は風もたまらぬ傍に昼夜・耳に聞く者はまくらにさゆる風の音、朝に眼に遮る者は遠近の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ、彼の蘇武が十九年の間・胡国に留められて雪を食し李陵が巌窟に入つて六年蓑をきて・すごしけるも我が身の上なりき。
今適御勘気ゆりたれども鎌倉中にも且くも身をやどし迹を・とどむべき処なければ・かかる山中の石のはざま松の下に身を隠し心を静むれども大地を食とし草木を著ざらんより外は食もなく衣も絶えぬる処にいかなる御心ねにてかくかきわけて御訪のあるやらん、知らず過去の我が父母の御神の御身に入りかはらせ給うか、又知らず大覚世尊の御めぐみにや・あるらん涙こそ・おさへがたく候へ。
現代語訳
ところで、いま日蓮は外見からみれば日本一の悪人である。我が国の六十六か国と二つの島の百千万億の四衆、上下万人に怨まれている。
仏法が日本の国に渡って七百余年の間、いまだこれほどに法華経のために諸人に憎まれた者はいない。インドや中国にもいたとは聞いてない。また、いるであろうとも思えない。それゆえ、世界一の憎まれ者である。
このような者なので、上には幕府の権威を恐れ、下には万民の嘲りを懸念して親類も訪れない。他人はいうまでもない。出世間の恩だけでなく世間の恩を受けた人も諸人の眼を恐れて、人々の口を塞ぐためであろうか、心には思っていないけれども謗るそぶりをしている。
数度、迫害にあい、二度、御勘気をこうむったので、我が身が科を受けただけでなく、行き通う人々のなかにも御勘気をうけたり、領地を取り上げられたり、主君の家から追い出されたり、父母兄弟に捨てられたりしている。それゆえ、ついてきた人もすっかり捨て去ってしまい、今また、ついてくる人もいない。
とくに、この度の御勘気は死罪になるはずであったが、なんと思われたのであろうか、佐渡の国に流された。彼の国へ行く者は死ぬ者が多く、生きているのは稀である。かろうじて行き着いたときには殺人や謀叛の者よりも、もっと重罪の者と思われたのである。
鎌倉を出発してから日々に強敵が加わってくるようであった。いる人はみな念仏を持つ者ばかりである。野を行き山を行くにも、かたわらの草木が風に吹かれてざわめくかすかな音も、敵が我を責めているのではないかと思われた。
ようやく佐渡の国に着いた。北国のことなので冬はとくに風が激しく雪は深い。衣は薄く、食べ物は乏しい。根を移された橘が自然に枳殻となったというのも、身につまされて知ることができた。住まいは尾花や刈萱が生い茂る野原のなかの墓所にある落ち破れた草堂で、屋根は雨が漏り壁は風も防げないような所で、昼夜に耳に聞こえるものは枕に冴える風の音であり、朝に目に映るものはあちらこちらの道を埋めている雪である。現身に餓鬼道を経て、寒地獄に堕ちたかのようであった。
彼の蘇武が十九年の間、胡国に留められて雪を食べ、李陵が岩窟に入って六年間、蓑を着て過ごしたのも我が身の上に感じられた。
今、たまたま御勘気は赦されたが、鎌倉中にも少しの間も身をおき跡を留めることのできる所がなかったので、このような山中の岩間の松の下に身を隠し心を静めているけれども、大地を食物とし草木を着るよりほかには食物もなく衣も絶えてない。このような所にどのような御志で、道をかき分けて訪れられたのであろう。
過去の我が父母の魂があなたの身に入り替わられたのであろうか、また、大覚世尊の御恵みであろうか。涙を押さえがたい。
語釈
僻人
ひねくれ者。変わり者。悪人。
六十六箇国
北海道、琉球及び壱岐・対馬の2島を除く日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、東山道八か国(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽)、東海道15か国(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸)、北陸道7か国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)、山陽道8か国(播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門)、山陰道8か国(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐)、南海道6か国(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)、西海道9か国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)である。
二の島
壱岐と対馬の二島のこと。九州と朝鮮半島の間に飛び石状に位置する。
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けることで、流罪・死罪などの公の罪科に処せられること。
佐渡の国
新潟県の佐渡ヶ島のこと。北陸道7か国の一国。神亀元年(0724)遠流の地と定められて以来、承久3年(1221)に順徳上皇が流されるなど多くの人々が流されている。日蓮大聖人は文永8年(1271)10月から同11年(1274)3月まで、佐渡流罪にあわれた。
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。一般に浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
おばな
ススキの花穂のこと。
かるかや
イネ科の多年草、オガルカヤとメガルカヤの総称。ススキに似る。根をたわしやはけなどの材料とする。メガルカヤは湿地に生え、高さ約80センチ。秋に花穂をまばらにつける。
三昧ばら
佐渡国(新潟県)の塚原にあった三昧所のこと。三昧は梵語サマーディ(samādhi)の音写で定、正受、正心行処等と訳す。一説に死を三昧、すなわち定に入る義とするゆえに墓地を三昧所とする。また、昔から葬地に必ず法華三昧堂を立てた。塚原三昧所も種種御振舞御書に「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし」(九一六㌻)と述べられているように、墓地の所にあった。日蓮大聖人は文永8年(1271)11月1日に三昧所に入られ、翌年の4月3日に一谷に移るまでの5か月間をここで過ごされた。
餓鬼道
餓鬼は梵語プレータ(preta)の訳。常に飢渇に苦しめられる境界。その様子について大智度論巻三十に「鬼に二種あり。弊鬼と餓鬼なり……餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に惟三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。また正法念処経巻十六には、餓鬼の住所として「一には人中に住し二には餓鬼世界に住するなり。是の人中の鬼は、若し人夜行かば、則ち見る者有り。餓鬼世界は閻浮提の下五百由旬に住す」とあり、更に業の果報によって三十六種の餓鬼のあることが述べられている。
寒地獄
極寒の地獄のこと。八種類あるところから八寒地獄ともいう。諸経論によって異説はあるが、涅槃経では、「阿波波地獄・阿吒吒地獄・阿羅羅地獄・阿婆婆地獄・優鉢羅地獄・波頭摩地獄・拘物頭地獄・芬陀利地獄が挙げられている。この八寒地獄は、地獄の中の罪人が寒さに責められ、声にならない苦痛の叫びや寒さのために皮膚が裂ける様から名づけたものである。
蘇武
(前0140頃~前0060頃)。中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海(バイカル湖)の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の手紙が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われたとおり単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝御も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。
胡国
中国人は中華思想の上から、周辺の諸民族を胡、夷などと呼んで卑しんだが、胡はとくに西方の民族をさしていった語。秦・漢以前には、匈奴をさす。
李陵
(前0074)。中国・前漢の武将。李広の孫。字は少卿。漢書によると、幼少の頃から弓術に長じ、謙譲で、部下を愛したので評判も良く、若くして登用された。武帝に願って五千の歩兵を率い、匈奴軍を撃破していったが、匈奴王・単于の指揮する三万の騎兵、および八万騎の土兵に遭遇し包囲されて、奮闘のかいなく、ついに李陵は匈奴に降った。武帝は李陵が漢に反逆したと誤解して、李陵の一族を皆殺しにしてしまった。「史記」の著者・司馬遷が李陵を弁護して帝の怒りに触れ、宮刑に処せられた話は有名。後、過ちを悔いた武帝は、使者を派遣して李陵を呼び戻そうとしたが、李陵はそれを断り、単于の娘をめとり、匈奴の地に二十余年暮らして病没した。
講義
本章は、日蓮大聖人が末法・日本国において折伏を行じた結果、さまざまな怨嫉留難を御自身の身に招来してきたことを述べられるとともに、そのような大聖人を訪れ外護申し上げる法蓮の信心をたたえられている。
まず、大聖人は法華経の折伏を行じてきたことにより、外見のうえから日本国の上下万民から〝僻人〟と思われてきたと仰せられている。
しかも、日本に仏法が渡って七百余年の間はもちろんのこと、月氏・漢土においても、大聖人ほど、法華経のゆえに諸人から憎悪された者はいないし、また、あるとも思えないと仰せられて、「一閻浮提第一の僻人 ぞかし」と述べられている。
ここで「あるべしとも・おぼへず」と仰せられているのは「僻人」との仰せに関連しての仰せであるが、その元意は、大聖人の受けられた迫害は釈尊を超えるものであり、過去のみか、今後も、大聖人以上の難を受ける人はいない、という大聖人の深い御確信の言であると拝される。
それゆえに、大聖人の親類ですら、上の権威を恐れ、多くの人の嘲笑を顧慮して大聖人に会うことを差し控えたのであるから、ましてや他人となると、大聖人に出世間の恩だけでなく、世間の恩のある人々でも、多くの人々の眼を恐れて大聖人と同類であるといわれないように、心に思っていなくとも、大聖人をそしる様子をした、と大聖人をめぐる人々の動揺を指摘されている。
また、大聖人は幾度も難にあわれ、二度の御勘気をも受けられ、御自身のみならず、大聖人と交流した人々も御勘気にあったり、領地を召し上げられたり、主家を追放されたり、あるいは父母兄弟に見捨てられたりしたので、それまで大聖人についてきた人も大聖人を捨ててしまい、現在は大聖人についてくる人はだれ一人としていない、と仰せられている。
更に、とくに佐渡流罪での厳しい苦闘の生活に触れられ、「現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ」とまで述べられている。
また、佐渡流罪御赦免後、身延山に入られるまでのいきさつと、入られてからの窮乏生活を述べられ、そうした山中に法蓮が大聖人を訪問したことをことのほか喜ばれ、「知らず過去の我が父母の御神の御身に入りかはらせ給うか、又知らず大覚世尊の御めぐみにや・あるらん涙こそ・おさへがたく候へ」と、法蓮の供養の志を讃えられている。
とくに「付きし人も捨てはてぬ今又付く人もなし」との御文は、曽谷教信が大聖人を求める信心を変わらず貫いていることを賛嘆されんための御言葉であると拝されるが、一面、大聖人の門下でありながら、大聖人を批判し、離反しつつある者を、厳しく指摘されている御文である。
日蓮は外見の如くば日本第一の僻人なり
同じように仰せられた御文を他の御書に求めてみると、次のごとくである。
「抑日蓮は日本第一の僻人なり、其の故は皆人の父母よりも・たかく主君よりも大事に・おもはれ候ところの阿弥陀仏・大日如来・薬師等を御信用ある故に、三災・七難・先代にこえ天変・地夭等・昔にも・すぎたりと申す故に・結句は今生には身をほろぼし国をそこない・後生には大阿鼻地獄に堕ち給うべしと、一日・片時も・たゆむ事なく・よばわりし故に・かかる大難にあへり」(1226:弥源太殿御返事:01)。
「夫れ日蓮は日本第一のゑせものなり、其の故は天神七代は・さておきぬ、地神五代も又はかりがたし、人王始まりて神武より今に至るまで九十代・欽明天王より七百余年が間・世間につけ仏法によりても日蓮ほど・あまねく人にあだまれたるものは候はじ(中略)これは・ひとえに我が身には失なし日本国を・たすけんと・をもひしゆへなり」(1324:国府尼御前御書:10)。
「日蓮は日本第一のえせものなり、法華経は一切経にすぐれ給へる経なり、心あらん人・金をとらんと・おぼさば・ふくろをすつる事なかれ、蓮をあひせば池をにくむ事なかれ、わるくて仏になりたらば法華経の力あらはるべし、よつて臨終わるくば法華経の名をりなん、さるにては日蓮はわるくても・わるかるべし・わるかるべし」(1476:西山殿御返事:09)。
「日蓮は無戒の比丘・邪見の者なり故に天これをにくませ給いて食衣ともしき身にて候、しかりといえども法華経を口に誦し・とき・どき・これをとく」(1296:法衣書:09)。
「日蓮は無戒の比丘なり法華経は正直の金言なり、毒蛇の珠をはき伊蘭の栴檀をいだすがごとし」(0971:御衣並単衣御書:09)。
以上、大聖人が御自身のことを「僻人」「えせもの」「無戒の比丘・邪見の者」等と仰せられた御文である。
ここで「無戒」と仰せであるが、無戒は有戒に対する語である。他に持戒に対する語として「破戒」がある。破戒は戒を破ることであり、戒を持った者が、持てずに破ってしまうことである。それに対して無戒は、普通はまだ戒を受けるに至っていない者をいう。しかし、大聖人の仏法の場合は、釈尊の仏法の戒を必要としないのであり、その意味の無戒なのである。
一往は「無戒」と御謙遜の表現をとられながら、釈尊の仏法の戒を超えた立場であることを示されているものと拝される。
したがって、これらの御文も、表面的にとらえると、いかにも大聖人が御自身悪びれて言われているようにみえるが、前後の文章の流れのなかでよく拝すると、むしろ、そこに大聖人の雄大な御境界が拝されるのである。
日蓮大聖人が末法の衆生を救済すべく徹底して邪宗を折伏され法華経の正法を弘通されている姿が、大聖人の御境地を理解することのできない当時の次元の低い人々には「えせもの」「僻人」「無戒の比丘」と映っていたのである。
大聖人は、こうした当時の人々の無理解や誤解を御本仏の大慈悲のうえから温かく包容されて、このように御自身を規定される言葉にされたのである。
それゆえに、これらの御文は、大聖人の御内証の御境地がいかに雄大であられたかを示しているといえるであろう。
第十五章(国主諌暁の背景を明かす)
本文
問うて云く抑正嘉の大地震・文永の大彗星を見て自他の叛逆・我が朝に法華経を失う故としらせ給うゆへ如何、答えて云く此の二の天災・地夭は外典三千余巻にも載せられず三墳・五典・史記等に記する処の大長星・大地震は或は一尺二尺・一丈二丈・五丈六丈なりいまだ一天には見へず地震も又是くの如し、内典を以て之を勘うるに仏御入滅・已後はかかる大瑞出来せず、月支には弗沙密多羅王の五天の仏法を亡し十六大国の寺塔を焼き払い僧尼の頭をはねし時もかかる瑞はなし、漢土には会昌天子の寺院・四千六百余所をとどめ僧尼・二十六万五百人を還俗せさせし時も出現せず、我が朝には欽明の御宇に仏法渡りて守屋・仏法に敵せしにも清盛法師・七大寺を焼き失い山僧等・園城寺を焼亡せしにも出現せざる大彗星なり。
当に知るべし是よりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘えて立正安国論を造りて最明寺入道殿に奉る、彼の状に云く取詮此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頸をきりて鎌倉ゆゐの浜にすてずば国正に亡ぶべし等云云、其の後文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る、去文永八年九月十二日の御勘気の時重ねて申して云く予は日本国の棟梁なり我を失うは国を失うなるべしと今は用いまじけれども後のためにとて申しにき、又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時蒙古国は何比かよせ候べきと問うに、答えて云く経文は月日をささず但し天眼のいかり頻りなり今年をばすぐべからずと申したりき、是等は如何にして知るべしと人疑うべし予不肖の身なれども法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間法華経の座にて守護せんと誓をなせる地神いかりをなして身をふるひ天神身より光を出して此の国をおどす、いかに諫むれども用いざれば結句は人の身に入つて自界叛逆せしめ他国より責むべし。
問うて云く此の事何たる証拠あるや、答う経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行わず」等云云、夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く「聖人去らん時は七難必ず起る」等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。
現代語訳
問うていう、いったい正嘉の大地震や文永の大彗星を見て、自界叛逆の難と他国侵逼の難が我が国に法華経を滅ぼすゆえであると知られた理由は何か。
答えていう、この二つの天変地夭は外典の三千余巻にも載せられていない。三墳、五典、史記等に記されているところの大長星や大地震は一尺二尺か、一丈二丈か、五丈六丈である。未だ一天にわたる大彗星は見当たらない。地震についても、また同様である。内典においてこれを考えてみるに、仏の入滅以後はこのような大瑞は現れていない。
インドで弗沙密多羅王が全インドの仏法を滅ぼし、十六大国の寺塔を焼き払い、僧尼の頭をはねた時もこのような瑞相はなかった。
中国で会昌の武宗が四千六百余所の寺院を廃止し、二十六万五百人の僧尼を還俗させた時も出現しなかった。
我が国で欽明天皇の時代に仏法が渡ってきて物部守屋が仏法に敵対した時にも、清盛法師が七大寺を焼き払い、比叡山の僧等が園城寺を焼き払った時にも出現しなかった大彗星である。
これよりも大事なことが一閻浮提のなかに出現するであろうということをまさに知るべきである、と考えて立正安国論を造って最明寺入道殿に上呈したのである。
彼の状に「この大瑞は他国からこの日本国を滅ぼすとの先兆である。禅宗、念仏宗等が法華経を滅ぼしているからである。彼の法師達の頸を切って鎌倉の由比が浜に捨てないならば、国はまさに滅びるであろう」等と述べた。その後、文永の大彗星の時はまた手に握ったように、はっきりとこれを知った。去る文永八年九月十二日の御勘気の時、再び「私は日本国の棟梁である。私を失うことは国を失うことになるであろう」と、その時は用いないであろうけれども後のためにと思って言っておいたのである。また去年の四月八日に平左衛門尉に対面した時「蒙古国はいつごろ攻め寄せてくるであろうか」と問われたので、答えて「経文は月日を指し示してはいない。ただし天眼の怒りがしきりに現れているので、今年を過ぎることはないであろう」といっておいた。
これらはどうしてわかるのであろう、と人が疑うであろう。私は不肖の身であるけれども、法華経を弘通する行者を王臣や人民が怨むとき法華経の会座において守護しようと誓いをなした地神は怒りをなして身を震い、天神は身から光を出してこの国を威すのである。そして、いかに諌めても用いないので、結局は人の身に入って自界叛逆させ、他国から責めるのである。
問うていう、このことは何か証拠があるのか。
答えていう、金光明最勝王経に「悪人を愛敬し善人を治罰するがゆえに、星宿および風雨はみな時節どおりに行われない」等とある。
そもそも、天地は国の明鏡である。今この国に天災地夭が起こっている。国主に過失があるということを知るべきである。鏡に映っているのであるから、これを言い争うことはできない。国主に小さな禍があるときは天の鏡に小さな災が見えるのである。今の大きな災は国主に大きな禍があるということを知るべきである。
仁王経には「小難は無数であり、中難は二十九、大難は七つある」とあり、この経を一には仁王と名づけ、二には天天地鏡と名づけるのである。この国の国主をこの天地鏡に映して見ると明白である。また、この経文に「聖人が去るときは七難が必ず起こる」等とある。
この国に大聖人がいるということを知るべきである。また、かの聖人を国主が信じていないということを知るべきである。
語釈
正嘉の大地震
正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
文永の大彗星
文永元年(1264)6月26に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034:18)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
自他の返逆
日蓮大聖人が文応元年(1260)に上奏された立正安国論のなかで予言された自界叛逆、他国侵逼の二難のことで、文永9年(1272)2月に鎌倉と京都で起きた北条一門の内乱「二月騒動」、さらに文永5年(1268)蒙古からの最初の牒状に始まり同、文永11年(1274)10・弘安4年(1281)をいう。
外典三千余巻
「外典」は仏教以外の経典のこと。「三千」は中国の儒家と道家の書が合わせて三千余巻あることをいう。
三墳
孔子が編した五経のひとつ、書経の序に、三皇の書をまとめたもの。
五典
孔子が編した五経のひとつ、書経の序に、五帝の書をまとめたもの。
史記
(前0145~013?)司馬遷が前漢の武帝時代に著した中国最初の歴史書。その内容は、開闢時代から武帝に至るまでの帝王の興亡史を編年体で書いた「本紀」、各種の「年表」、政治・経済・文化の諸制度の変遷を書いた「列伝」等からなる。こうした歴史叙述の形式は紀伝体といわれ、以後正統的な史書の発祥となった。彼以前には、断片的な記録や列国史等しかなく、綜合形式による一般史はこの史記をもって最初とするのである。司馬遷は本署によって「天人の際を究め、古今の変に通じて一家の言に立つ」ことをめざした。序文で、悪事の限りを尽くしながら幸福な一生を終える者もあれば、善人であるが不幸な人もいる。その原因はどこにあるのかと疑問を投げているのは興味深い。著者・司馬遷は字は子長、太史公と称された。太史令司馬談の子で、夏陽に生まれ、幼少のころから学者となるべく厳格な教育を受けた。10歳の時には、すでに諸種の古典に通じたという。20歳の時、父の命により中国全土を巡歴し各地の史跡をたずね、記録伝承を採取した。のちに武帝に仕えて郎中となり、37歳、または27歳の時、父の跡を継いで太史令となった。これは宮廷の図書を司り、暦を作る職で、これによって、一層見識を深めることができた。また彼の改正した太初暦は後の暦法の基礎となる画期的なものであった。おりしも、西域に出征していた武将李陵が匈奴に降ったのを独り弁護したので、武帝の怒りをかい宮刑に処せられた。この時恥を忍んで自決を思い止まったのは、父の遺命である修史を完成するためで、以後、全魂を傾けて「史記」を完成した。史記130巻は本記12巻、世家30巻、列伝70巻、年表10巻、書8巻より成っている。
内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
大瑞
兆し・前兆。善悪ともに通じる。
弗沙密多羅王
紀元前2世紀ごろのインドの王。阿育大王の末孫にあたるインドの王であるが、自分の名を上げようとして、悪臣の言を容れて阿育王の立てた八万四千の仏塔を破壊し、僧侶を殺害した。
会昌天子
武宗のこと。(在位0841~0847)唐の第15代皇帝。はじめ念仏宗を重んじたため、外敵の侵入と節度使の内乱が続発した。そこで同士・趙帰真を重用して仏教排斥に転じ、会昌5年には仏寺46,000を破壊し、僧尼26万余を還俗せしめ、田を数1000万頃、奴隷15万人を没収、仏教を弾圧した。御書には念仏追放のために比叡山の大衆が出した奏状が引かれており、その一条に徽宗皇帝の礼を引いて、唐の世の乱れた原因を「是れ則ち恣に浄土の一門を信じて 護国の諸教を仰がざるに依つてなり」(0088:15)と述べられている。
欽明
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
清盛法師
(1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
山僧
①山寺の僧。古来寺院は、山に建てられ、寺号とともに山号をつける習慣がある。②比叡山延暦寺の僧のこと。延暦寺を山門という。③僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。
園城寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
立正安国論
文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で10問9答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。
最明寺入道
北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
念仏宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
ゆゐの浜
現在の神奈川県鎌倉市にある海岸をいう。日蓮大聖人が竜の口の頸の座にのぞまれるとき、この浜を通って行かれた。
棟梁
家や棟の梁で家にとっての急所。転じて、組織における重要な位置。法門のもっとも根本となる語。仏教界の大事な地位を占める高僧。
平左衛門尉
日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916:種種御振舞御書:11)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
中難は二十九
仁王般若波羅蜜経に説かれた七難を伝教大師が顕戒論のなかで細別して26の難としたもの。①日月失度難(1、失度難・太陽や月の軌道がずれること。2、顔色改変難・太陽の色が変化すること。3、日体増多難・複数の日が出ること。4、日月薄蝕難・日蝕や月蝕。5、重輪難・太陽に二重・三重・四重の輪ができること)。②星宿失度難(6、失度難。7、彗星難。8、五星難・水・金・火・木・土星の五星に異変が起きること9、昼出難・星が日中に出現すること)。③災火難(10、竜火難・落雷によって起こる火災。11、鬼火難・原因不明の火災。12、人火難・人の過失から起こる火災。13、樹木難・山林の自然火災。14、大火四起難・随所に火災が起こること)。④雨水難(15、時候改変難・季節の推移が乱れること。16、冬夏雨雪難・冬に雨が降り夏に雪が降ること。17、雨土石山難・集中豪雨によって起きる土石流。18、非時降雹変難・真夏に雹が降ること。19、雨水色変難・火山灰や土砂等が雨に混じって降ること。20、江河汎漲難・大河が逆流・氾濫すること)。⑤悪風難(21、昏蔽日月難・大風が雲を呼び太陽や月を隠すこと。22、発屋抜樹難・台風等によって家屋を倒したり樹木を折ったりすること。23、飛沙走石難・大風が砂塵や石を巻き上げること)。⑥亢陽難(24、陂池竭涸難・ため池が枯れること。25、草木枯死難・草木が立ち枯れること。26、百穀不成難・すべての作物が実らないこと)。⑦悪賊難(27、侵国内外難・戦争や内紛が起こること。28、兵戈競起難・争いが多発すること。29、百姓喪亡難・民衆が亡びること)。
大難は七
仁王経の七難をいう。日月失度難(太陽や月の異常現象)②星宿失度難(星の異常現象)③災火難(種々の火災)④雨水難(異常な降雨・降雪や洪水)⑤悪風難(異常な風)⑥亢陽難(干ばつ)⑦悪賊難(内外の賊による戦乱)。
天地鏡
仁濃般若波羅蜜経のこと。
七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す。
講義
本章では、三度にわたって敢行された国主諫暁について述べられ、大聖人の言葉を用いないため、ますます大きな災いを招いていることを指摘されている。
初めに、正嘉の大地震、文永の大彗星という天災地夭を、自界叛逆難と他国侵逼難の起こる瑞相と把握された理由について、問答を設けて説き進められている。
答えにおいて明らかなように、正嘉の大地震、文永の大彗星の二つの天災地夭は、その大きさにおいて、外典三千余巻や三墳・五典・史記には記されておらず、また仏教の歴史上においても、総じて釈尊入滅後にはこれほどの大瑞は起こったことはない、と仰せられている。具体的にいって、インドで、弗沙密多羅王がインド全土の仏法を滅ぼし、十六大国の寺塔を焼き払い僧尼の頭をはねるような大虐殺を行った時もこのような瑞相は起こらなかったし、中国で、唐の武宗が会昌五年に行った仏教への弾圧の時も、また日本において、欽明天皇の御宇に物部守屋が仏法伝来に反対した時も、更には平清盛が七大寺を焼き払った時も、叡山の僧徒が三井園城寺を焼亡させた時も、正嘉の大地震、文永の大彗星のような大きな瑞相は起こらなかったと仰せである。
このように、外典においてもインド、中国、日本の仏教史においても、これほどの瑞相は存在しなかったとすると、いったい、この瑞相は何を意味することになるのか、ということについて、大聖人は「当に知るべし是よりも大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなり」と勘えられて、立正安国論を著され、最明寺入道に奉ったと仰せである。これが第一回の国主諫暁である。この安国論で、大聖人は、天災地夭は他国が日本国を責めて滅ぼす先兆であり、その原因は念仏宗・禅宗等が正法の法華経を滅ぼそうとしていることにある、それゆえに、それらの法師達を鎌倉の由比ヶ浜へ引き出して頸を切るべきであると進言した、と仰せられている。
更に、文永の大彗星の時、他国侵逼難を、手に取るように明白に知った、そこで文永8年(1271)9月12日の御勘気の時、平左衛門尉に対して「我は日本国の棟梁である。我を失うということは日本国を失うことである。現在は用いないであろうが後々のためになるから言っておく」と諫暁した、と説かれている。これが第二回の国主諫暁である。
また、文永11年(1274)4月8日に、平左衛門尉と対面された時「蒙古国はいつ攻め寄せてくるだろうか」との問いに対し「経文は月日を明らかにはさしていないが、天眼の怒りが厳しいから今年を越えることはないだろう」と予告した、と仰せである。これが第三回の国主諫暁である。
次に、自界叛逆難、他国侵逼難という二難を何ゆえに予言できるのかについて、大聖人は「予不肖の身なれども」と、謙遜されている。
しかし、法華経の行者として正法を弘通する大聖人に、日本国の王臣人民がことごとく怨をなしているので、法華経説法の会座で、法華経の行者を守護すると誓った諸天善神が日本国の上下万民を諌めようとして、大彗星や大地震を現ずるのであると仰せである。
それでもまだ、その諌めを用いないと、今度は天神地祇が人の身に入って、国内で自界叛逆を起こさせ、他国から責めさせるのである。
そして、次いで、その文証を挙げられている。文証として、金光明最勝王経の「悪人を愛し尊敬し、善人を治罰するために、星宿及び風雨が時宜どおりに運行しなくなるのである」という文を挙げられている。
天地の状態は国の明鏡であるから、今日本国に二つの天災地夭があるということは、金光明経に照らせば国主に欠点があるということになる。国主に小禍のある時は天地に小災が現れ、大禍のある時は大災が現れることになる。
したがって、正嘉の大地震、文永の大彗星という前代未聞の天災地夭があるということは国主に大禍のある証拠であると仰せられている。
仁王経には、小難は無量、中難は二十九、大難は七が挙げられていることを述べられ、仁王経は〝仁王〟と名づけられるとともに、〝天地鏡〟とも名づけられることを明かされて、その天地鏡に照らすと国主の大禍は明らかであると仰せられている。さて、その大禍は何かといえば、国にいる聖人を信じないということであり、それによって聖人が国を去る時に七つの大難が必ず起こる、というのが仁王経の趣旨である、と仰せられている。
大難である七難が日本国に起こっているということは、聖人である末法の御本仏・日蓮大聖人を信じず、かえって迫害しているからであることを暗示されている。
第十六章(大瑞が前代に起こらなかった理由示す)
本文
問うて云く先代に仏寺を失ひし時何ぞ此の瑞なきや、答えて云く瑞は失の軽重によりて大小あり此の度の瑞は怪むべし、一度二度にあらず一返二返にあらず年月をふるままに弥盛なり、之を以て之を察すべし先代の失よりも過ぎたる国主に失あり、国主の身にて万民を殺し又万臣を殺し又父母を殺す失よりも聖人を怨む事・彼に過ぐる事を、今日本国の王臣並びに万民には月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後・二千二百二十余年の間いまだなき大科・人ごとにあるなり、譬えば十方世界の五逆の者を一処に集めたるが如し、此の国の一切の僧は皆提婆・瞿伽利が魂を移し国主は阿闍世王・波瑠璃王の化身なり、一切の臣民は雨行大臣・月称大臣・刹陀・耆利等の悪人をあつめて日本国の民となせり、古は二人・三人・逆罪不孝の者ありしかばこそ其の人の在所は大地も破れて入りぬれ、今は此の国に充満せる故に日本国の大地・一時にわれ無間に堕ち入らざらん外は一人二人の住所の堕つべきやうなし、例せば老人の一二の白毛をば抜けども老耄の時は皆白毛なれば何を分けて抜き捨つべき只一度に剃捨る如くなり、
現代語訳
問うていう、前の代に仏寺を滅失した時は、どうしてこの瑞相がなかったのか。答えていう、瑞相は過失の軽重によって大小がある。この度の瑞相は不思議に思うべきである。一度二度ではない、一編二編ではない、年月がたつにつてますます盛んである。このことから、前の時代の過失よりもまさる過失が国主にあり、国主の身で万民を殺し万臣を殺し父母を殺す過失よりも聖人を怨むことのほうがまさる過失であるということを察しなさい。
今、日本国の王臣と万民には、インドや中国ひいては全世界において仏滅後二千二百二十余年の間いまだかつてなかった大きな過が、一人一人にあるのである。例えば十方世界の五逆罪の者を一か所に集めたようなものである。
この国の一切の僧は皆、提婆達多や瞿伽利の魂を移し持ち、国主は阿闍世王や波瑠璃王の化身であり、一切の臣民は雨行大臣・月称大臣や刹陀・耆利等の悪人を集めて日本国の民としたのである。
昔は二人や三人が逆罪の不孝の者であったから、その人のいる所は大地も破れ裂けて入ってしまったのである。
今はこの国に逆罪の者が充満しているがゆえに、日本国の大地が一時に裂けて無間地獄に陥らない以外は一人や二人のいる所が裂けて陥るようなことはない。例えば老人の一本や二本の白髪は抜いても、非常に年とった時はみな白髪なので何を分けて抜き捨てることができよう。ただ一度に剃り捨てる以外にないようなものである。
語釈
瞿伽利
梵名コーカーリカ(Kokālika)の音写。漢訳して悪時者・牛守という。釈迦族の出身。雑阿含経巻四十八等によると、提婆達多の弟子であり、舎利弗、目連を悪欲があると難じた。その報いによって、身に悪瘡を生じて大蓮華地獄に堕ちた。
波瑠璃王
梵名ヴィルーダカ(Virudhaka)の音写。悪生王等と訳す。釈尊在世の舎衛国の王。大唐西域記巻六等によると、父王波斯匿と釈迦族の大名の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、長行大臣と謀って父王を放逐し、国王となり、釈迦族を殺戮した。その数9990万人といわれ、血が流れて池となった。それから七日後、河上に舟を浮かべ歓楽にふけっているさなか、火災が起き、火に包まれて死に、無間地獄に堕ちたという。
化身
仏や菩薩が衆生を救うために様々に身を変化して、出現した身影のこと。
雨行大臣
阿闍世王に仕えた大臣の一人。太子であった阿闍世王をそそのかし、その父親である頻婆沙羅王を一緒になって捕らえ、牢に閉じ込めた。
月称大臣
阿闍世王に仕えた大臣の一人。涅槃経巻十九によると、父の頻婆沙羅王を殺害して殺戮や悪政を行った罪によって、心に悔熱を生じて身に悪瘡ができ苦しんでいた阿闍世王に、外道の富蘭那の所へ行くよう勧めて仏教を排斥した、という。
刹陀
梵名スナクシャトラ(Sunakssatra)の音写である須那刹陀の略。種々の悪事をなした後、仏に帰依して罪を滅したといわれる。
耆利
梵名ギリカ(Girika)の音写である耆利柯の略。暴虐な時の阿育王のもとで獄吏として殺害を仕事とした。マガダ国の織師の子であったが、性格は極悪で生き物を毒をもって殺すなどし、父母も殺害した。阿育王伝に説かれている。
講義
前章で、仏教史上、インド、中国、日本でなされた仏寺破壊などの仏教弾圧の時には瑞相が起こらず、なぜ今の日本には大きな瑞相が起きているのかについて論究されている。
そして、その主要な理由として、瑞相の大小は、その国の国主の失の軽重によって決まるからであると仰せられている。
国主が万民を殺し、父母を殺すことも罪になるが、仏法上からいえば、聖人を怨む失に比べればはるかに軽い、と仰せられている。
この理由から、インド、中国、日本の国主達による仏教破壊の弾圧は、日本の国主が行った法華経の行者である聖人を怨み憎むということに比べてはるかにその失が軽いために、瑞相も小さかったのであると説かれている。
しかも、日本国の聖人を怨む行為は、単に国主だけでなく、上下万民に及んでいるのであるから「月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後・二千二百二十余年の間いまだなき大科・人ごとにあるなり」と仰せられている。
この日本国の人々の姿をたとえられて「十方世界の五逆の者を一処に集めた」ようなものであり、また、日本国の一切の僧は皆「提婆・瞿伽利」という仏法反逆者の「魂」を引き移したようなものであり、更に国主は「阿闍世王・波瑠璃王」のごとき悪逆の王の化身であり、日本国の臣民は「雨行大臣・月称大臣・刹陀・耆利」等の悪人を集めたようなものである、と仰せられている。
そして、前代のインド、中国、日本においては、五逆罪を犯した者や不孝の者は、その国でわずか二、三人であったために、提婆達多のように、その悪人のいる大地が割れて無間地獄に堕ちて、それですんだのである。
しかし、大聖人御在世当時の日本国はそのような悪人が全国に充満しているゆえに、日本国全体の大地が一時に割れて無間地獄に堕ちるほかないのである。
そのために、今の日本国に、正嘉の大地震・文永の大彗星といった、前代にない大瑞相が起こったのであると説かれている。
第十七章(謗法者に現罰なき理由を明かす)
本文
問うて云く汝が義の如きは我が法華経の行者なるを用いざるが故に天変地夭等ありと、法華経第八に云く「頭破れて七分と作らん」と、第五に云く「若し人悪み罵れば口則ち閉塞す」等云云、如何ぞ数年が間・罵とも怨とも其の義なきや、答う反詰して云く不軽菩薩を毀訾し罵詈し打擲せし人は口閉頭破ありけるか如何、問う然れば経文に相違する事如何、答う法華経を怨む人に二人あり、一人は先生に善根ありて今生に縁を求めて菩提心を発して仏になるべき者は或は口閉ぢ或は頭破る、一人は先生に謗人なり今生にも謗じ生生に無間地獄の業を成就せる者あり是はのれども口則ち閉塞せず、譬えば獄に入つて死罪に定まる者は獄の中にて何なる僻事あれども死罪を行うまでにて別の失なし、ゆりぬべき者は獄中にて僻事あれば・これをいましむるが如し、問うて云く此の事第一の大事なり委細に承わるべし、答えて云く涅槃経に云く法華経に云く云云。
日蓮花押
現代語訳
問うていう、あなたの趣旨は自身が法華経の行者であるのにこれを用いないがゆえに天変地夭等があるということだが、法華経第八の巻の陀羅尼品第二十六に「法華経を説く者を悩まし乱すならば、頭が破れて七つになる」とあり、第五の巻の安楽行品第十四に「法華経を読む者を、もし人が憎み罵れば口は閉じ塞がってしまう」等とある。どうして何年間も、罵ったり怨んだりしているのに、そのようにならないのか。
答えていう、反問するが、不軽菩薩を謗り罵り打った人は口が閉じ頭が破れたかどうか。
問う、それならば経文に相違するが、どうなのか。
答えていう、法華経を怨む人に二種類ある。一人は過去世に善根があって今世に仏縁を求めて菩提心をおこして仏になる可能性をもっている者は、罵ったり怨んだりすると、口が閉じたり頭が破れたりする。一人は過去世に謗法の人で今世にも謗法を犯し、生まれるたびに無間地獄の業を積む者であり、これは罵っても口が閉じ塞がることはない。譬えていえば牢獄に入って死罪に定まっている者は、牢獄の中でどのような悪事があっても死罪を行うまでで、別の咎はない。赦される予定の者は獄中で悪事があれば、これを戒めるようなものである。
問うていう、このことは最も大事である。詳しく承りたい。
答えていう、涅槃経に説かれており、法華経に説かれている。
日 蓮 花 押
語釈
「頭破れて七分と作らん」
法華経陀羅尼品第二十六に「若し我が呪に順ぜずして、説法者を脳乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」とある。
「若し人悪み罵れば口則ち閉塞す」
法華経安楽行品第十四に「若し人は悪み罵らば、口は則ち閉塞せん」とある。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766:第十二常不軽菩薩豈異人乎則我身是の事:01)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
先生
前生のこと。前世・過去世のこと。
善根
善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高の善根である。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383:14)とある。
今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
菩提心
悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある
講義
本章は、末法の法華経の行者であられる日蓮大聖人に対して悪口罵詈し怨をなす謗法者になぜ現罰がないのかについて説かれている。
まず、日本国に起こった前代未聞の天災地夭は、日本国の上下万民が聖人―末法の法華経の行者即御本仏―を用いずに怨をなしていることを象徴する大瑞相である、との前章までの論を受けて、次のような問いを立てられている。それは、法華経陀羅尼品の「頭破れて七分に作ること……」という文や同じく安楽行品の「若し人は悪み罵らば、口は則ち閉塞せん」という文に照らせば、大聖人に怨をなした謗法者は当然、頭破作七分になったり、その口が閉塞しなければならないのに、実際にはそのようになっていないのは何ゆえであるか、という問いである。
これに反問されて、では不軽菩薩を誹謗したり、杖木瓦石で打ったりした人には頭破七分になったり、口の閉塞があったかと仰せられている。
その反問は正論なので、問者は直接それに答えず、そうすれば経文に相違するがどうなのかと問うのである。
法華経の行者であるか否かは諸天に守護されるかされないか、行者を迫害した者に現罰があるか否かということで決まるのではなく、法華経を経のとおりに弘めているか否かで法華経の行者であるかどうかが決まるのである。
したがって、大聖人に対する問いは本筋を外れているのであり、大聖人は不軽菩薩の例を引いて、不軽を迫害した者に現罰がなかったが、それをもって不軽菩薩が法華経を弘めなかったというのか、と反問されているのである。
それでも、まだ納得しない者に対して、それを前提としたうえで、なぜ、大聖人を迫害する者に現罰がないかを答えられるために、再び問いを設けられているのである。
これに対して答えられて、法華経を怨む人間に二種類ある、と仰せられている。
一つは、過去世に善根あって今生に縁を求めて菩提心を発して成仏する可能性のある者が、現世でもし法華経や法華経の行者を謗ったり怨むと、口が閉じたり頭が七分に破れるのである、それはちょうど、軽罪によって獄中にいて、いずれ許される予定の者が獄中で悪事をなすと、すぐ罰せられるようなものであるとたとえられている。
今一つは、過去世に謗法を犯し今生でも法華経並びに行者を謗じて生々世々に無間地獄に堕ちることが決定している者は、たとえどれだけ謗っても口が閉塞したりしないのである、それはちょうど、死罪と決定している者には、獄中でどんな悪事を働いても別に罰せず、死罪に行うだけのようなものであるとたとえられている。
つまり、大聖人を罵ったり怨んだりしている人は、無間地獄に堕ちることが決定しているので、現罰が出ないのである。
この答えに対して「此の事第一の大事なり委細に承わるべし」との問いを設けられたのであるが、その答えは「涅槃経に云く法華経に云く」と述べられただけで、本抄を閉じておられる。
涅槃経に云く法華経に云く
この最後の答えについては、開目抄において同じ趣旨を説かれた御文が拝される。
すなわち「事の心を案ずるに前生に法華経・誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ずこれを世間の失によせ或は罪なきをあだすれば忽に現罰あるか・修羅が帝釈をいる金翅鳥の阿耨池に入る等必ず返つて一時に損するがごとし、天台云く『今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り』等云云、心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云、不軽品に云く『其の罪畢已』等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり、又順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり、涅槃経に云く『迦葉菩薩仏に白して言く世尊・仏の所説の如く大涅槃の光一切衆生の毛孔に入る』等云云、又云く『迦葉菩薩仏に白して言く世尊云何んぞ未だ菩提の心を発さざる者・菩提の因を得ん』等云云、仏・此の問を答えて云く『仏迦葉に告わく若し是の大涅槃経を聞くこと有つて我菩提心を発すことを用いずと言つて正法を誹謗せん、是の人即時に夜夢の中に羅刹の像を見て心中怖畏す羅刹語つて言く咄し善男子汝今若し菩提心を発さずんば当に汝が命を断つべし是の人惶怖し寤め已つて即ち菩提の心を発す当に是の人是れ大菩薩なりと知るべし』等云云、いたうの大悪人ならざる者が正法を誹謗すれば即時に夢みて・ひるがへる心生ず、又云く『枯木・石山』等、又云く『燋種甘雨に遇うと雖も』等・又『明珠淤泥』等、又云く『人の手に創あるに毒薬を捉るが如し』等、又云く『大雨空に住せず』等云云、此等多くの譬あり、詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし例せば夏の桀・殷の紂の世には天変なし重科有て必ず世ほろぶべきゆへか」(0231:01)と。
開目抄では、法華経の行者を迫害する者に現罰がない理由を三つ挙げられており、ここに引用した御文では、そのうち二つが挙げられている。
すなわち
①法華経の行者が過去に誹謗の罪がない場合は、この法華経の行者を迫害すると、迫害した者に現罰が出るが、行者が過去に法華経誹謗の罪を犯している場合は、この行者を迫害する者に現罰が出ない
②法華経の行者を迫害する者が順次生に地獄に堕ちることが決定している場合は、その者に現罰が出ない、の二つである。
③法華経の行者のいる国土に諸天善神がいない場合は法華経の行者を迫害する者に現罰が出ない、
である。
さて、開目抄の御文と、本抄の御文とを比較すると、本抄では、法華経の行者を迫害する者の側に過去世の法華経誹謗の罪があるか否かを論じておられる。
これは、開目抄の②の場合に相当する。したがって、開目抄の②の文証として引用されている涅槃経の文が本抄で仰せの「涅槃経に云く」にあたっていることは明らかである。
すなわち、この御文をとおして、日本の上下万民は、順次生に地獄に堕ちるほどの重罪の者であり、そのゆえに、大聖人を迫害しても、現罰がない、と仰せになっているのである。
次に、開目抄の①と②の御文を対照すると、
①では法華経の行者が重罪をもっているか否か、によって迫害する者に現罰があるか否かが決まると仰せになっており、
②では法華経の行者を迫害する者が重罪をもっているか否かによって、その者に現罰があるか否かが決まると仰せになっていると考えられる。
すなわち、
①では法華経の行者の側の罪を、
②では法華経の行者を迫害する者の側の罪を問題にしておられる。
つまり、法華経の行者、または法華経の行者を迫害する者のどちらかに法華経誹謗の重罪がある場合は、法華経の行者を迫害する者に現罰がなく、どちらにも重罪がない場合に、迫害する者に現罰があるという原理を示されていることになろう。
いうまでもないことであるが、このことからすると、法華経の行者にも、行者を迫害する者にも、ともに過去の重罪がある場合には、迫害する者に現罰がないことになる。
開目抄の
①の例として挙げられている不軽菩薩の場合は、不軽菩薩が過去に法華経誹謗の重罪があったゆえに、不軽菩薩を迫害した者に現罰がなく、不軽菩薩は、その難を受けることによって、ようやくその罪を終えることができたのである。
逆にいえば、不軽菩薩を迫害した者に現罰がなかったゆえに、不軽菩薩は杖木瓦石の難を受けて自らの重罪を滅することができたともいえるのである。そのことを、法華経の「其の罪畢え已って」の文が示しているのである、と仰せである。
本抄の場合は、法華経の行者を迫害する者の側に重罪があるか否かを論じておられるのであるが、今の意味からすれば、法華経のこの文は、法理においては同じことを示しているといえよう。