法華行者逢難事

法華行者逢難事

文永11年(ʼ74)1月14日 53歳 門下一同   

第一章 (三大秘法の名目を明かす)

 本文

三郎左衛門尉殿
 謹上          日蓮
    富木殿
    河野辺殿等中
    大和阿闍梨御房等中
    一切の我が弟子等中  

追て申す、竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず此に口伝有り、天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう、所詮一には仏・授与したまわざるが故に、二には時機未熟の故なり、今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ、西王母の先相には青鳥・客人の来相には干鵲是なり、各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ。

  富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え、かかる濁世には互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ。

現代語訳

    河野辺殿等中

大和阿闍梨御房御中

一切我弟子等中

謹上 三郎左衛門尉殿   日蓮

富木殿

追って申し上げる。竜樹・天親はともに千部の論師であるが、ただ権大乗の義を述べただけで、法華経については心に知っていて、口には説かれなかった。天台大師や伝教大師は法華経の義を宣べたが、本門の本尊と上行等の四菩薩と本門の戒壇と南無妙法蓮華経の五字とについては説かずに残された。結局は、一には仏が授与されなかったからであり、二には時機が未だ熟していなかったからである。今すでに時は到来した。四菩薩は出現されたであろうか。日蓮はこのことを、いちはやく知ったのである。西王母が来る先兆には青鳥が飛来し、客が来る前兆にはかささぎが鳴くといわれるのは、これである。おのおの我が弟子たろうとする者は深くこのことを承知しておきなさい。たとえ大難が身命に及んでも退転してはならない。

富木、三郎左衛門尉、河野辺、大和阿闍梨等の殿達や御房達、おのおの互いに読み、聞かせてさしあげなさい。このような濁世には互いにつねに話し合って、ひまなく後世を願うようにしなさい。

語釈

 河野辺殿

日蓮大聖人御在世当時の信徒。佐渡御書、弥源太入道殿御返事などに、その名が見えるが、詳細については不明である。

大和阿闍梨御房

日蓮大聖人御在世当時の弟子。弁阿闍梨日昭という説もあるが、明らかではない。

三郎左衛門尉殿

(1230頃~1300)。日蓮大聖人御在世当時の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。左衛門尉という官名の唐の呼び名を金吾といったことから、四条金吾と通称された。北条氏の支族・江間家に仕えた武士で、医術にも通じていた。建長8年(1256)ごろ、池上兄弟、工藤吉隆などと前後して大聖人に帰依したといわれる。文永8年(1271)の竜の口法難の時は、大聖人に殉死の覚悟で供をし、文永9年(1272)には、佐渡の大聖人より人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。

竜樹

梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

天親

天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。

権大乗

大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。

天台

(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

伝教

(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

本門の本尊

日蓮大聖人が建立された宗旨である三大秘法の文底独一本門・事の一念三千の大御本尊のこと。

四菩薩

四人の菩薩のこと。①華厳経の四菩薩(法慧、功徳林、金剛幢、金剛蔵)。②胎蔵界の四菩薩(文殊、普賢、弥勒、観音)。③法華迹門の四菩薩(文殊、普賢、薬王、観音)。④法華経本門の釈尊(上行、無辺行、浄行、安立行)。

戒壇

受戒の儀式を行う場所。場内で高く築くので壇という。

西王母の先相には青鳥

事文類聚後集に同意の文がある。西王母は西方に住む祖母の意で、中国西方の高山に住むとされた伝説上の女神のこと。

客人の来相には干鵲

法華玄義巻六上に「世人は蜘蛛挂るときは則ち喜事来り、干鵲鳴くときはすなわち行人至ると以ふ」とある。干鵲はカササギのこと。

後世

三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。

講義

  本抄は文永11年(1274)正月14日にしたためられ「一切の諸人之を見聞し志有らん人人は互に之を語れ」「富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え」と念をおされていわれているように、門下一同にあてられたお手紙である。

文永11年(1274)正月14日といえば、大聖人の佐渡流罪に対する鎌倉幕府の赦免が決定された2月1日のちょうど一か月前である。しかし、本抄に示されている文永10年(1273)12月7日の武蔵の前司・北条宣時の命令書のように、大聖人を助けようとする者には厳罰を加えるということが行われていた時であり、あすの命も知れない状態であったと思われる。

このゆえに、本抄は釈尊、天台大師、伝教大師等の受難の前例を挙げられ、日蓮大聖人の今の難がそれらに超過する大難であることを示されて、法華経の行者の証であると喜びを述べられているのである。

本抄の御真筆は、中山法華経寺に現存している。宛名は、富木常忍、三郎左衛門尉、河野辺、大和阿闍梨の名を挙げられているが、御本意は「一切我弟子等中」にあったことは、先に述べた背景からも明らかであろう。

「種種御振舞御書」には、北条宣時が佐渡の唯阿弥陀仏等の直訴を受けて「上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよ」(0920:09)と勝手な命令を出し、しかもそれを下文にして布告し、それを三度も重ねた、と記されている。

そうしておいたうえで、執権・時宗に報告したところ、時宗は宣時の予想に反して大聖人赦免の決定を下したという。

おそらく北条時宗は、日蓮大聖人が無実の罪であることを知っており、このまま放置しておくと、大聖人の生命が危ういことを察知して、急いで赦免したものと思われる。その意味からも、正月十四日の本抄御執筆の時点は、大聖人の身にひしひしと危険が迫っていたころで、大聖人はそのゆえに、このお手紙を書かれて、弟子檀那一同に対し、信心の自覚を強く促されたのであろう。

さて、本抄の冒頭に「追て申す」と記されていることからも明らかなように、第一章全体が、追伸の御文であり、本来は、本抄の最後になるのが順当である。しかし、御真筆では追伸の御文が最初の余白に書き込まれているために、このようになっているのである。

日蓮大聖人の御手紙は、一枚一枚紙に書かれていき、何枚かを重ねて、門下に出されたものであるが、後世の人が散逸を防ぐために順を追って貼り合わせている。本抄の場合は、最後の追伸の部分が最初のところになったため、このような形になったのである。それゆえ、本章はあくまでも、本抄の一番最後に書かれた追伸の御文として拝していきたい。

本章において、日蓮大聖人は、正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台大師・伝教大師が明確には宣説せず、末法のために残した法門として「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」を挙げられている。

三大秘法の内容については、もとより早くから御胸中に抱かれていたと拝せられるが、その具体的な御教示――とくに戒壇ということについて明確にいわれたのは、本抄が最初と思われる。

すなわち、文永9年(1272)5月2日の「四条金吾殿御返事」には「今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり」(1116:09)とあり、翌文永10年(1273)5月28日の「義浄房御書」には「次に寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし、天台・伝教等も粗しらせ給へども言に出して宣べ給はず竜樹・天親等も亦是くの如し……其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり(0892:06)と述べられている。

そうしたなかで、文永10年(1273)4月の「観心本尊抄」には「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」(0253:13)あるいは「諸法実相抄」には「上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る」(1359:08)等、本尊と題目については述べられているが、そこでは、戒壇という名目を示されることはなかった。

その意味からいえば、文永11年(1274)の本抄で戒壇の名目を示されたのは、重大な意義があると考えなければならない。

なお、この追伸で竜樹・天親、天台大師・伝教大師の顕さなかった三大秘法を大聖人がはじめて顕し、そこに日蓮大聖人の独自性があることを宣言されているのは、本抄末尾の、釈尊、天台大師、伝教大師の三人に御自身を加えて四人と為して「法華経の行者末法に有るか」と述べられたことを補足して、このように書き加えられたと拝せられよう。

天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう

前述したように、三大秘法の名目を明らかに示された重要な御文である。

この御文の前では、正法時代にインドに出現した竜樹菩薩・天親菩薩はともに〝千部の論師〟といわれるほど、数多くの論を造り、仏法の深遠な法理を説いたのであるが、「但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず」と述べられている。

つまり、実大乗の法華経を心の中では知ってはいたが、権大乗の教えだけを実際には宣説し、法華経に関しては一言も外に向かって説かなかったのである。

なお「此に口伝有り」と記されている〝口伝〟とは、摩訶止観の「内鑑冷然、外適時宣」の文を指すと思われる。すなわち、竜樹・天親は内心の悟りにおいては、法華経の一念三千の理を覚知し、鏡のように冷ややかに澄んでいたが、外に向かっては、時にかなった教えを説いたという文である。

つぎに、像法時代に出現した天台大師、伝教大師は、釈尊の出世の本懐たる法華経に関し、その深遠な意義を詳しく説いたのであるが、〝三大秘法〟だけは説かずに末法のために残したと仰せである。

ここに「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」という四つの意義が示されているが、四菩薩を除く三つが、本門の本尊・戒壇・題目の〝三大秘法〟であるということである。

すなわち、末法の時に、四菩薩が出現し、末法の民衆のために弘通する真実の法門こそ〝三大秘法〟であると明言されたのがこの御文なのである。

ところで、この四菩薩とは、法華経の従地涌出品において、地の下から涌出した六万恒河沙という、無数の地涌の菩薩の上首である、上行・無辺行・浄行・安立行の各菩薩であることはいうまでもない。

この四菩薩が末法に出現して、三大秘法の法門を弘通するといわれているのであるが、ではいったい、具体的には誰を指すのかといえば、現実に、南無妙法蓮華経を不惜身命の実践で弘通された末法の御本仏・日蓮大聖人であられることは改めて論ずるまでもなかろう。

このように、日蓮大聖人こそ末法の御本仏なのであるが、ここでは、一往、謙遜の意味を込められて、「今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ」と述べられ、御自身を西王母の先相としての青鳥、客人の来相としての鳱鵲、という先駆けの立場になぞらえられているのである。

 

 

第二章 (法華行者逢難の文証と事実を挙ぐ)

 本文

法華経の第四に云く「如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、同第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、涅槃経の三十八に云く「爾の時に外道に無量の人有り○心瞋恚を生ず」等云云、又云く「爾の時に多く無量の外道有り和合して共に摩伽陀の王・阿闍世の前に往きぬ○今は唯一大悪人有り瞿曇沙門なり王未だ検校せず我等甚だ畏る、一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為る乃至迦葉・舎利弗・目犍連」等云云如来現在猶多怨嫉の心是なり、得一大徳天台智者大師を罵詈して曰く「智公汝は是れ誰が弟子ぞ三寸に足らざる舌根を以て覆面舌の所説の教時を謗ず」、又云く「豈是れ顚狂の人に不ずや」等云云、南都七大寺の高徳等・護命僧都・景信律師等三百余人・伝教大師を罵詈して曰く「西夏に鬼弁婆羅門有り東土に巧言を吐く禿頭沙門あり此れ乃ち物類冥召して世間を誑惑す」等云云、秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり、天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」云云。

 

現代語訳

   法華経の第四の巻に「仏の在世でさえなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅度の後においてはなおさらである」等とある。同第五の巻には「一切世間に怨嫉が多くて信じがたい」等とある。涅槃経の第三十八の巻に「その時に無数の外道がいて○心に瞋を生じた」等とある。また「その時に多く無数の外道がいた。寄り集まってともにマガダ国の王・阿闍世の前へ行った。○『今ただ一人大悪人がいる。釈尊である。王は未だ取り調べをしていない。私達は非常に畏れている。一切世間の悪人が己の利益のために、その所に集まって従者となっている。(中略)迦葉や舎利弗や目犍連である』といった」等とある。「如来の現在すら猶怨嫉多し」の文の意はこれである。得一大徳が天台智者大師をののしって「智者大師よ、おまえはいったいだれの弟子なのか。三寸に足らない舌で、覆面舌の仏の説かれた教時を誹謗するとは」と、また「これこそ顚倒して狂っている人間ではないか」等といっている。南都七大寺の高徳といわれていた護命僧都、景信律師等の三百余人は伝教大師をののしって「西北インドに鬼弁バラモンがいた。東土には巧みにことばを操る坊主がいる。これはとりもなおさず、物怪の類がひそかに通じ合って世間を誑かしているのである」等といっている。法華秀句には「浅い教えは信じやすく深い教えは信じがたい、というのは釈尊の教判である。浅い教法を去って深い教法に就くのが丈夫の心である。天台大師は釈尊を信じ順い法華宗を助けて中国に宣揚し、比叡山の天台家は天台大師に相承を受け法華宗を助けて日本に弘通するのである」とある。

 

語釈

涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

 

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

 

瞋恚

怒り、憤怒すること。三毒・十悪のひとつ。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。

 

摩伽陀

インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。

 

阿闍世

梵名アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。のち、身体に悪瘡ができことによって仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。

 

瞿曇沙門

釈尊のこと。瞿曇は釈迦種族の名で、沙門は出家の総称。おもにバラモンや提婆達多などが、釈尊に侮蔑の意をこめて用いた呼称。

 

迦葉

釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある

 

舎利弗

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

 

目犍連

釈迦の声聞十大弟子の一人で神通第一。摩訶目犍連、目連尊者ともいわれる。摩竭提国王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈迦の教えを求めて二百五十人の弟子とともに、弟子となる。迦葉・阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。また亡母の青提女を釈迦の教えにより救った。釈迦入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。

 

得一大徳

生没年不明。平安時代初期の法相宗の僧。徳一・徳溢とも書く。出家して興福寺の修円から法相宗を学び、東大寺で弘教したといわれる。法華一乗は権教であるとして三乗真実・一乗方便の説を立て、伝教大師と法華経の権実に関する論争を行った。著書に「仏性抄」「中辺義鏡」三巻などがある。

 

毀罵

誹謗し謗ること。

 

覆面舌

仏の顔全体を覆うほど広く長い舌のこと。広長舌相ともいい、仏の三十二相の一つ。嘘・偽りのないことを示す。

 

南都七大寺

奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。

 

護命僧都

05700834)。法相宗の僧。美濃国(岐阜県南部)に生まれる。若くして出家し、元興寺の勝虞について唯識論を学んだ。伝教大師の大乗戒壇設立に激しく反対した。著書に「法相研神章」などがある。

 

景信律師

生没年不明。景深とも書く。平安時代初期の東大寺の僧。伝教大師の大乗戒壇設立の上奏に対して「迷方示正論」を著して反対した。

 

西夏

①唐の夏州節度使の後裔である李元旲が建てた国、中国西北区甘粛省から内モンゴル西部にあたる地域。②北インドあるいはインド北方。

 

鬼弁婆羅門

二世紀ごろインドにいたバラモンの一人。鬼を祀って福を求め、論談しては人々の尊敬を集めていた。激しい論難には帷を垂れて面談しようとしなかったが、馬鳴菩薩によって論破され、その虚名がさらされたという。

 

東土

日本のこと。

 

禿頭沙門

剃髪した出家僧のことをいうが、侮蔑の意味で使われることが多い。

 

秀句

法華秀句三巻のこと。伝教大師最澄の著。天台法華宗が唯識・三論・華厳・真言などの諸宗よりも勝れていることを、十の観点から論証している。

 

丈夫

身心ともに堅固な人。武士。

 

震旦

一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。

 

敷揚

仏法を普く敷き及ぼすこと。

 

叡山

比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21(0802)50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同13年(0822)天子の御願寺となる。弘仁14年(0823216日に延暦寺という額を賜る」とある。

 

講義

  本章から本題に入る。

本章は、法華経や涅槃経等の経文と、伝教大師の「守護章」「法華秀句」等を引用されて、法華経を信じ行ずる者に大難が必ず競い起こるということを、経文の上から、歴史的な事実の上から述べられている。

すなわち、法華経の法師品と安楽行品の二文をとおして、法華経の経説に対して、一般世人が信じ難く怨嫉をいだくということを強調されている。これらの経文は、難が仏の在世と滅後の両方にわたる、普遍的な事象であること、むしろ滅後の難は在世のそれを超過するであろうことを述べたものである。

初めの法師品の「如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」という文は〝如来の現在〟すなわち、釈尊の在世中ですら、釈尊が法華経を説くにあたっては、怨嫉や大きな難があったのであるから、〝況や滅度の後をや〟つまり、釈尊の滅度の後にあってはなおさら、大きな難があると説かれている。

日寛上人は、「況や滅度の後をや」の〝滅度の後〟を、正法・像法・末法の三時に配し、正意は別して末法を指すと解釈され、末法においてこそ、法華経を信じ行ずる者に、最も大きな難や怨嫉が競い起こると述べられている。

なにゆえに、法華経が怨嫉や大難にあうかといえば、法華経は爾前権経の教えを破折して正義を教えるからである。今、法華経の内容についてそのごく基本的な点を要約していえば、法華経は、人間を含め、あらゆる生命に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界の命を平等に具えているという実相を明らかにし、生命それ自体の無上の価値を徹底して説き明かしている。これは、生命に価値の差別を設けた爾前権経に対立するもので、その差別の上に君臨して、権威、権力を恣にせんとする上層階層や、反対に、自らの価値を卑下し、卑屈になっている人々もまた、法華経の経説に対し、無意識の内に反発し、怨嫉を起こすのである。その結果、法華経を信じ行ずる者に、留難が絶えないことになる。まさに、安楽行品の「一切世間に怨多くして信じ難く」なのである。

逆に、留難、怨嫉が競い起こることが、真に法華経を信じ行じていることの現実的な証拠とさえなるのである。

以上のように、法華経の法師品、安楽行品の二文を引用されて、法華経の教えそのものが、信じ難く必ず怨嫉を受けることを述べられた後に、具体的な歴史的事実を挙げられていく。

まず、「如来の現在すら猶怨嫉多し」の事例として、涅槃経の二文を引用され、釈尊存生中に、釈尊に対して加えられた外道からの怨嫉の難を挙げられている。

つぎに、滅度の後の例として、像法時代の中国の天台大師、日本の伝教大師が受けた怨嫉の難を挙げられている。

中国の天台大師に対する怨嫉については、日本の平安時代初期の法相宗の僧である得一が起こしたものである。

得一の怨嫉は、法相宗の教義の上から、法華経を釈尊の出世の本懐とする天台大師の五時八教論を罵ったものである。

得一のことばの〝覆面舌の所説の教時を謗ず〟とは、釈尊の、顔を覆うような広く長い舌をもって説かれた「教時」を、天台大師が三寸に足らない凡夫の舌でもって誹謗している、という意味である。

ここに「教時」とは、法相宗の依経である解深密経の中で説かれているもので、一代仏教を三つの時期に分類し、釈尊は最初に小乗を説き、第二時に〝空〟を中心とする大乗教を説き、第三時には、〝中道〟を中心とした大乗を説いたとし、第三時の大乗こそ解深密経であるとするものである。

この三時の教説に対して、中国の天台大師が、はるかに緻密な論理的な裏づけをもって、五時の教説を樹立して打ち破り、法華経第一の正義を展開したので、法相宗に執着する得一が天台大師に怨嫉し、「豈是れ顚狂の人に不ずや」と悪口雑言を投げかけたのである。

同じく、伝教大師は南都七大寺の護命僧都や景信律師等を代表とする三百人余りの僧達によって罵られた。

伝教大師は日本において、初めて、法華経の正しい意義を顕したのであるが、それゆえに、伝教大師をインドの鬼弁バラモンに比して、物怪と一緒になって巧言を吐いて、世間の人々をだましていると罵られたのである。

 

秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり……助けて日本に弘通す」云々

 

伝教大師の法華秀句の重要な文である。

「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり」とは、浅い教えや法門は信じ易く就き易いが、深い教えはなかなか信じ難く就き難い、つまり、法華経は深いがゆえに難信難解であるということである。

〝釈迦の所判〟とは、法華経法師品において「我が説く所の教典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、この法華経は最も為れ難信難解なり」と、また同宝搭品において六難九易を釈尊自身が説いていることを指すと考えられる。

だが、いかに難信難解であっても、浅い教えを捨て去って、深い教えに就いていこうとするところに〝丈夫の心〟があると、伝教大師は説いているのである。〝丈夫の心〟とは、ますらおの心であり、心があらゆるものごとに動ぜず、堅固であることをいう。ここでは、深くて難信難解の法門である法華経を信じ護持し、退くことのない修行者の心を指している。日寛上人は撰時抄愚記で「余の教典を去って法華経に就くが故に『浅を去って深に就く』というなり。当に知るべし『丈夫』は即ち釈迦の異称なり」といわれている。

そして、中国の天台大師、日本の伝教大師は、ともに〝丈夫の心〟をもって法華経の深きに就き、釈尊に信順して、法華集をそれぞれ、中国と日本に弘通するのであると、法華秀句に述べ、天台大師と伝教大師の正統なる立場を宣明しているのである。 法華経の第四の巻に「仏の在世でさえなお怨嫉が多い。ましてや仏の滅度の後においてはなおさらである」等とある。同第五の巻には「一切世間に怨嫉が多くて信じがたい」等とある。涅槃経の第三十八の巻に「その時に無数の外道がいて……心に瞋を生じた」等とある。また「その時に多く無数の外道がいた。寄り集まってともにマガダ国の王・阿闍世の前へ行った。……『今ただ一人大悪人がいる。釈尊である。王は未だ取り調べをしていない。私達は非常に畏れている。一切世間の悪人が己の利益のために、その所に集まって従者となっている。(中略)迦葉や舎利弗や目犍連である』といった」等とある。「如来の現在すら猶怨嫉多し」の文の意はこれである。得一大徳が天台智者大師をののしって「智者大師よ、おまえはいったいだれの弟子なのか。三寸に足らない舌で、覆面舌の仏の説かれた教時を誹謗するとは」と、また「これこそ顚倒して狂っている人間ではないか」等といっている。南都七大寺の高徳といわれていた護命僧都、景信律師等の三百余人は伝教大師をののしって「西北インドに鬼弁バラモンがいた。東土には巧みにことばを操る坊主がいる。これはとりもなおさず、物怪の類がひそかに通じ合って世間を誑かしているのである」等といっている。法華秀句には「浅い教えは信じやすく深い教えは信じがたい、というのは釈尊の教判である。浅い教法を去って深い教法に就くのが丈夫の心である。天台大師は釈尊を信じ順い法華宗を助けて中国に宣揚し、比叡山の天台家は天台大師に相承を受け法華宗を助けて日本に弘通するのである」とある。

 

 

第三章 (仏の在滅の法華経の行者を挙ぐ)

 本文

夫れ在世と滅後と正像二千年の間に法華経の行者・唯三人有り所謂仏と天台・伝教となり、真言宗の善無畏・不空等・華厳宗の杜順・智儼等・三論法相等の人師等は実経の文を会して権の義に順ぜしむる人人なり、竜樹・天親等の論師は内に鑒みて外に発せざる論師なり、経の如く宣伝すること正法の四依も天台・伝教には如かず、

 

現代語訳

さて釈尊の在世と滅後の正法・像法二千年の間に法華経の行者は、ただ三人いた。いわゆる仏と天台大師と伝教大師とである。真言宗の善無畏や不空等、華厳宗の杜順や智儼等、三論宗・法相宗等の人師達は実経の文を解釈して権経の義に順わせている人々である。竜樹や天親等の論師は内心には明らかに知っていたが、外に向かっては説かなかった論師である。経のとおりに宣べ伝えることについては、正法時の四依も天台大師や伝教大師にはおよばない。

 

語釈

正像二千年

仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。

 

天台

05380597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

伝教

07670822)。伝教大師。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。諱は最澄。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国滋賀郡(滋賀県高島市)に生まれ、後漢の孝献帝の末裔といわれる。12歳で出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦21年(0802)高雄山寺で南都の碩学を前に天台三大部を講じた。延暦23年(0804)に入唐して道邃・行満・翛然・順暁について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒壇実現に努力、没後、大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻などがある。

 

真言宗

大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。弘法大師空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、自らの教えを大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお真言宗を東密といい、天台宗の慈覚・智証がとりいれた密教を台密という。

 

善無畏

06370735)。中国・唐代の真言密教の僧。宋高僧伝によれば、東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などを翻訳し、また「大日経疏」二十巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。

 

不空

07050774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。

 

華厳宗

華厳経を所依とする宗派のこと。中国・唐代に杜順によって開かれ、法蔵によって大成された。日本には天平8年(0736)、唐の道璿により華厳経典が伝来し、天平12年(0740)新羅の審祥が講経し、その教えを受けた良弁が東大寺で宗旨を弘めた。教義は、一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという全宇宙を統一する理論である法界縁起を立て、これによってすみやかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立て、華厳経を最第一としている。

 

杜順

05570640)。中国華厳宗の開祖。帝心尊者ともいわれる。18歳で出家し、僧珍に仕えた。のちに唐の太宗に厚く信任され、華厳宗を弘めた。著書に「華厳法界観門」一巻などがある。

 

智儼

06020668)。中国華厳宗の第二祖。至相大師・雲華尊者ともいわれる。十四歳で杜順について出家し、四分律や涅槃などの諸経論を学んだが、のちに華厳経の研究に専念した。著書に「華厳経捜玄記」五巻、「華厳孔目章」四巻などがある。

 

三論

三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。

 

法相

法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。

 

正法の四依

正法とは釈尊滅後の正法時のこと。四依とは四つの依りどころの意であり、法の四依と人の四依とがあるが、ここでは人の四依のことで①具煩悩性の人、②須陀洹・斯陀含の人、③阿那含の人、④阿羅漢の人をいう。すなわち正法時代に民衆の依処となった竜樹・天親等をさす。

正法の前五百年

小乗の四依――┬ 初依:三賢(煩悩性を具す)

├ 二依:初果(須陀洹の人)

├ 二依:二果(斯陀含の人)

├ 三依:三果(阿那含の人)

└ 四依:四果(阿羅漢の人)

正法の後五百年

権大乗の四依―┬ 初依:十住・十行・十回向

├ 二依:初地~六地

├ 三依:七地~九地

└ 四依:十地・等覚

 

講義

  前章を受けて、釈尊の在世と滅後の正像二千年間における法華経の行者として、仏、天台大師、伝教大師の三人の名を挙げられている。

法華経の行者とは、いうまでもなく、法華経を行ずる者という意味であるが、ふつう法華経を修行する者の意で用いられる。その意味では仏は〝行者〟には入らないはずである。

しかし、ここで、釈尊をも法華経の行者とされているのは、釈尊は法華経を説いた教主であるととともに、法華経こそ釈尊の生命であり、その振る舞いは法華経を体現したものであるからである。

これに対して、天台大師、伝教大師は、法華経を修行した立場である。これらに対し、日蓮大聖人の場合は、外用の辺では法華経修行の立場であるが、内証の辺では法即人、人即法の、妙法を体現された仏という意味での行者であられる。

ともあれ、末法より前でいえば、以上の三人こそ法華経の行者であったのに対して、真言宗の善無畏・不空等、華厳宗の杜順・智儼等、三論・法相等の人師達は、それぞれ法華経をそれなりに研鑽はしたが、「実経の文を会して権の義に順ぜしむる」ことをしたゆえに、法華経の行者の中に入れないと述べられている。

つまりこれらの人師は、実経たる法華経の文を、自分勝手に理解し、解釈して、権経の義に順わせ、本末転倒の邪見に陥ってしまったからである。

つぎに、竜樹・天親等の論師は「内鑑冷然・外適時宜」といわれるとおり、法華経の意義を内心で深く知ってはいたが、仏からの付嘱がなく、また、法華経を弘める時と機根でもなかったため、法華経を外には説かなかった。この点において、竜樹・天親等の論師も、「法華経の行者」とはいえないことを暗示されている。

 

 

第四章 (末法の法華経の行者を明かす)

 本文

而るに仏記の如くんば末法に入つて法華経の行者有る可し其の時の大難・在世に超過せんと云云、仏に九横の大難有り所謂孫陀利の謗と金鏘と馬麦と琉璃の釈を殺すと乞食空鉢と旃遮女の謗と調達が山を推すと寒風に衣を索むるとなり、其の上一切外道の讒奏上に引くが如し記文の如くんば天台・伝教も仏記に及ばず。
  之を以て之を案ずるに末法の始に仏説の如く行者世に出現せんか、而るに文永十年十二月七日・武蔵の前司殿より佐土の国へ下す状に云く自判之在り。
  佐渡の国の流人の僧日蓮弟子等を引率し悪行を巧むの由其の聞え有り所行の企て甚だ以て奇怪なり今より以後彼僧に相い随わん輩に於ては炳誡を加えしむ可し、猶以て違犯せしめば交名を注進せらる可きの由の所に候なり、仍て執達件の如し。
  文永十年十二月七日 沙門観恵上る
  依智六郎左衛門尉殿等云云。
  此の状に云く悪行を巧む等云云、外道が云く瞿曇は大悪人なり等云云、又九横の難一一に之在り、所謂琉璃殺釈と乞食空鉢と寒風索衣とは仏世に超過せる大難なり、恐くは天台・伝教も未だ此の難に値いたまわず当に知るべし三人に日蓮を入れ四人と為して法華経の行者末法に有るか、喜い哉況滅度後の記文に当れり悲い哉国中の諸人阿鼻獄に入らんこと茂きを厭うて之を子細に記さず心を以て之を推せよ。
文永十一年甲戌正月十四日    日蓮 花押
一切の諸人、これを見聞し、志有らん人々は、互いにこれを語れ。
追って申す。

 

現代語訳

しかしながら仏の未来記のとおりであれば、末法に入って法華経の行者がいるはずであり、その時の大難は釈尊在世をはるかに超えているであろう、ということである。仏に九つの大難があった。いわゆる孫陀利から謗られたこと、金鏘の供養の果報を説いた釈尊が婆羅門に謗られたこと、馬の餌の麦を食べなければならなかったこと、釈迦族の者が多く琉璃王に殺されたこと、乞食しても得られず鉢が空であったこと、旃遮女に謗られたこと、提婆達多に大石を落とされたこと、寒風に責められ三衣を求めなければならなかったこと、である。そのうえ一切の外道の讒奏は前に引用したとおりである。経文のとおりであるならば、天台大師・伝教大師も仏の未来記にかなっていない。

これらのことから考えてみるに、末法の始めに仏説のとおり法華経の行者が世に出現するであろう。ところで文永十年十二月七日、武蔵前司殿より佐渡の国へ下げわたした書状に次のようにいっている。自身の判がある。

「佐渡の国の流人の僧・日蓮が弟子等を率いて悪行を企んでいるとの噂をきいている。そのような企ては、はなはだけしからぬことである。今後、かの僧に随おうとする者には、明らかな誡めを加えさせよ。それでもなお違犯するならば、その名を書き連ねたものを急いで報告されよ。通達の意向は以上のようである。

文永十年十二月七日   沙門観恵奉る

依智六郎左衛門尉」等とある。

この書状に「悪行を企んでいる」等とあるのは、外道が「瞿曇は悪人である」等といったのと同じである。また九横の大難一つ一つについても相応した難が日蓮にある。いわゆる琉璃殺釈、乞食空鉢、寒風索衣は、日蓮の方が釈尊在世にはるかに超えた大難である。おそらくは天台大師・伝教大師も未だこの難にあわれていない。まさに知るべきである。釈尊・天台大師・伝教大師の三人に日蓮を入れて四人として、日蓮こそ末法に出現した法華経の行者であることを。なんと喜ばしいことか、「況や滅度の後をや」の経文に我が身が当たっているのである。なんと悲しいことか、国中の諸人が無間地獄に入るであろうことは。繁雑になることを避けて、このことを細かには記さない。心をもってこのことを推し量りなさい。

文永十一年甲戌正月十四日      日 蓮  花 押

一切の諸人はこの書を見聞いて、志ある人々は互いにこのことを語りなさい。

 

語釈

仏記

仏の未来記。予言する経文。

 

九横の大難

大智度論等に述べられている釈尊が在世中に受けた九つの大難。諸説あるが、日蓮大聖人は次の九つを挙げておられる。

1.孫陀利の謗。     外道にそそのかされた孫陀利という女が、釈迦と関係があったといいふらして謗ったこと。

2.金鏘。        下婢の真心からした、腐って臭い米の汁の供養に対し、その果報を説いた釈尊が一人のバラモンから嘘だと謗られたこと。

3.阿耆多王の馬麦。   釈尊が五百人の僧とともにバラモン種の阿耆多王の招きに応じて赴いた時、食事が出されなかったために九十日間、馬の餌の麦を食べて飢えをしのがなければならなかったこと。

4.瑠璃の殺釈。     多くの釈迦族の人々が波瑠璃王によって虐殺されたこと。

5.乞食空鉢。      釈尊がバラモン城で乞食しようとした時、王は民衆に布施と法を聞くことを禁じたため、鉢が空であったこと。

6.旃遮女の謗。     バラモンの旃遮女が腹に鉢を入れて、釈尊の子を身ごもったといって誹謗したこと。

7.調達が山を推す。   提婆達多が耆闍崛山から釈尊めがけて大石を落とし、その飛び散った小片によって釈尊の足の指から血を出したこと。

8.寒風に衣を索む。   冬至前後の八夜、寒風が吹きすさんだ時、釈尊が三衣を索めて寒さを防がねばならなかったこと。

9.阿闍世王の酔象を放つ。提婆達多にそそのかされた阿闍世王が、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたこと。

 

讒奏

讒言して奏状することで、他人のことを偽って国主や権力者に申し述べること。

 

武蔵の前司

武蔵国の前の国司、北条宣時(12381323)のこと。北条宣時は文永4年(12676月に武蔵守に任じられ、同10年(1273)までその職にあった。その間、竜口の法難に際して、大聖人の身柄の保護監督にあたる「預り役」となっており、佐渡での大聖人の配所は宣時の知行地である。後に連署にまでに進んだ幕府内の実力者であったが、武蔵守当時、三度にわたって私製の御教書を発して大聖人の外護を禁ずるなど、佐渡在住中の大聖人を迫害しつづけた。

 

佐土の国

新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(127110月~文永11年(12743月までである。

 

炳誡

きびしくいましめること。

 

交名

文書に人名を書き連ねること。また、その人名を列記した文書。

 

観恵

北条宣時自身を示す署名とする説や、宣時の秘書役の名とする説があるが明らかではない。

 

依智六郎左衛門尉

本間六郎左衛門尉重連のこと。北条宣時の家人で佐渡国の守護代であったが、本館が相模国依智(神奈川県厚木市依智)にあったことからこう呼ばれた。佐渡に流された日蓮大聖人を預かっていたが、塚原問答後の予言の的中により大聖人に帰伏したといわれる。

 

阿鼻獄

阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。

 

講義

  末法において「法華経の行者」と称しうるのは、日蓮大聖人唯一人であることを明かされる。

「仏記の如くんば末法に入つて法華経の行者有る可し其の時の大難・在世に超過せん」とあるように〝仏記〟すなわち、仏の未来記によれば、末法に入って「法華経の行者」が必ず出現するが、その時には、仏が受けた大難をはるかに超える大難が、その法華経の行者に競い起る、と予言されている。

〝仏記〟とは、釈尊が記し置いた法華経の文であることはいうまでもない。

例えば分別功徳品には「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」とあり、末法に法華経の行者が出現することが示されている。

また、仏の受けた大難を超える大難が競い起こることについては「如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」との法師品の文がそれであり、勧持品には、八十万億那由佗の菩薩達が、未来末法を予言して述べた〝二十行の偈〟の中に、〝三類の強敵〟としてはっきり記されている。

問題は、〝仏記〟のとおり、いったいだれが法華経の行者として、仏在世のそれを超えるような大難を受けたか、ということであろう。

これを明らかにするために、まず、仏・釈尊の九横の大難を挙げられ、「記文の如くんば天台・伝教も仏記に及ばず」と。天台大師・伝教大師が法華経のゆえに受けた難といえども、仏の九横の大難には及ばないことは明白である。「之を以て之を案ずるに」とあるように、仏は明確に説かれているのに、これまで、それに当たる人はあらわれていない。今すでに末法であり、仏の予言が偽りであるわけがないから、今、末法の始めにあたって、九横の大難を超える大難を受ける法華経の行者が出現しなければならないと述べられ、暗に、日蓮大聖人その人であることを示唆されている。

そしてその証拠として、文永10年(1273127日に、武蔵の前司である北条宣時が佐渡の国に下した命令の文書を挙げられている。

この文書は、当時の人々が、日蓮大聖人とその弟子檀那を陥れるためになした根拠のない訴えを北条宣時が真に受けて、大聖人に対し、大変な瞋をいだいて発したものである。内容は、佐渡の国に流された日蓮が、弟子達を引き連れて悪行をたくらんでいるとの風聞があるから、日蓮に随う者を厳しく取り締まるよう指示し、それでもなお、違反する者があるならば、名前を書いて鎌倉に届け出るよう命令している。

日蓮大聖人は、この文書中の〝悪行を巧む〟との讒言を、釈尊が在世中に蒙った〝瞿曇は悪人なり〟との外道の讒言と並べ合わせ、仏と同じ大難を受けた証拠とされている。

さらに、仏の九横の大難以上の難を受けたことについては「九横の難一一に之在り、所謂琉璃殺釈と乞食空鉢と寒風索衣とは仏世に超過せる大難なり」と、明確に述べられている。

すなわち、九横の大難に匹敵する難を日蓮大聖人は悉く受けたが、なかでも、琉璃殺釈と乞食空鉢と寒風索衣に関しては、仏に超過する大難を受けたと断言されている。

「琉璃殺釈」とは、波瑠璃王によって、釈迦族が全滅させられた事件であるが、釈尊自身は殺されるという危難にはあっていない。

これに対し、日蓮大聖人は、竜の口の法難で、権力者が頸をはねようとしたのである。これは、釈尊の「琉璃殺釈」よりは大きい難である。また、小松原法難で、御自身は傷を負われ、鏡忍房や工藤吉隆が殺されたことも、この中に含まれるであろう。

また、「乞食空鉢」とは、釈尊が乞食行をしてバラモン城に入ろうとしたとき、王は民衆が釈尊に帰依することをねたんで、布施したり法を聞く者に罰金を課した。そのため、民衆は全て家の門を閉じて布施する者がなく、釈尊の鉢は空鉢であったという。釈尊の場合は、たまたま、バラモン教を信ずる国ではこの難を受けたが、その他の所、とくに王自ら仏教に帰依している国では、王族以下万民から尊敬されていた。

日蓮大聖人の場合は、佐渡流罪の身であるうえ、その佐渡の人々に〝日蓮を助けてはならない〟という触が回されたのであるから、釈尊の場合とは比較にならないほど厳しい状況であった。

次の「寒風索衣」についても、厳寒の佐渡での流罪生活は、インドの釈尊のそれをはるかにしのぐ苛酷さであったことはいうまでもない。

以上の点において、大聖人は「仏世に超過せる大難」を受けたと断言されているのである。

 

当に知るべし三人に日蓮を入れ四人と為して法華経の行者末法に有るか、喜い哉況滅度後の記文に当れり悲い哉国中の諸人阿鼻獄に入らんこと

 

これまでに述べられたことから、日蓮大聖人こそ末法の法華経の行者であることを結論されている。

この御文の前で、末法において、法華経を弘通するゆえに仏在世の大難を超える留難を蒙ったのは、日蓮大聖人以外にないことを論証されたが、それには喜ばしい面と悲しい面の両面があることを述べられている。

すなわち、仏、天台大師、伝教大師の三人の法華経の行者に、日蓮大聖人御自身を加えられて「法華経の行者末法に有るか」と述べられ、大聖人こそ末法の法華経の行者であることを明確に示されている。これは「喜い哉況滅度後の記文に当れり」と、日蓮大聖人が法華経の行者であり、末法の仏であられる一面である。これほど喜ばしいことはない。しかし、また反面、大聖人が法華経の行者たるためには、大聖人に迫害を加えた人がいるわけで、これらの人は、もし悔い改めて正法に帰依することがなければ、無間地獄の苦におちなければならない。これほど悲しいことはないとの大慈悲の御言葉である。これらの両面を挙げて述べられている御言葉の奥に、大聖人の烈々たる御本仏としての御確信が拝せられるのである。

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