曽谷殿御返事(成仏用心抄)

曽谷殿御返事(成仏用心抄)

建治2年(ʼ76)8月3日 55歳 曽谷殿

背景解説

本抄は、下総国(現在の千葉県北部)曾谷郷に住んでいた門下、曾谷氏に宛てられたお手紙です。彼の姓名は曾谷二郎兵衛尉教信(そやじろうひょうえのじょうきょうしん)であり、鎌倉幕府の引付衆(裁判官のような役職)の一員であったと考えられています。曾谷氏は1260年頃に日蓮大聖人の教えに帰依し、富木常忍や太田乗明とともに、その地域の有力な門下の一人となりました。

1271年、曾谷氏は出家して入道となり、大聖人から**法蓮日礼(ほうれんにちらい)**という法名を授かりました。法蓮は二つの寺を建立し、1291年に68歳で亡くなるまでその地で過ごしました。

境智の二法と悟り

本抄において大聖人は、まず法華経の「方便品」を引用し、**「成仏の道は、境(きょう)と智(ち)という二つの要素にある」**と述べられています。

  • 境(Reality): 宇宙のあらゆる現象に法が浸透しているという究極の真理を指します。
  • 智(Wisdom): その真理を認識し、理解する能力を意味します。

この智慧が存在し、「智の水」が「境の河床(かわどこ)」を満たすとき、それは**境智一如(きょうちににょ)**として知られる状態となります。これがすなわち「悟り」です。言い換えれば、自身の生命において法を照らし出し、顕現させることを指します。

末法の仏種と弘教の使命

大聖人は、南無妙法蓮華経こそが「境」と「智」の両方を統合する法であり、末法の人々すべてにとっての**仏種(成仏の種)であると強調されています。この法は、末法の初めに上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)**によって弘められるべきものです。大聖人は、ご自身がこの偉大な使命に着手した最初の一人であることを宣言されました。これは、ご自身がすべての人々を成仏へ導く「根源の師(本仏)」であることを示唆されています。

謗法への戒め

最後に、**謗法(ほうぼう:正しい法をそしること)**を犯す者を黙認するような師匠や弟子は、ともに地獄に堕ちることを指摘されています。これは、仏の教えを守り抜くという信徒の責任を教えられた、慈悲深い戒め(用心)なのです。

第一章(成仏の道は法華経にある事を明かす)

 本文

 夫れ、法華経第一の方便品に云わく「諸仏の智慧は甚深無量なり」云々。釈に云わく「境淵無辺なるが故に甚深と云い、智水測り難きが故に無量と云う」。
 そもそも、この経釈の心は、仏になる道はあに境智の二法にあらずや。されば、境というは万法の体を云い、智というは自体顕照の姿を云うなり。しかるに、境の淵ほとりなくふかき時は、智慧の水ながるることつつがなし。この境智合しぬれば、即身成仏するなり。法華以前の経は境智各別にして、しかも権教方便なるが故に成仏せず。今、法華経にして境智一如なるあいだ、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり。この内証に声聞・辟支仏さらに及ばざるところを、次下に「一切の声聞・辟支仏の知ること能わざるところなり」と説かるるなり。

現代語訳

  法華経第一方便品第二に「諸仏の智慧は甚深無量である」と説かれている。天台大師の釈には「境の淵が無辺であるので甚深といい智慧の水が測り難いので無量という」とある。

そもそもこの経文と釈の意は、仏になる道は境智の二法にある。ということである。すなわち、境というは万法の体をいい。智と云うは自体顕照の姿をいうのである。

しかるに境の淵が広大で深い時は、智慧の水がながれるのに滞ることがない。この境智が合うならば即身成仏するのである。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えであるので成仏ができない。

今、法華経では境智が一如であるから、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのである。この内証には、声聞や辟支仏は全く及ばないことを、次下に「一切の声聞・辟支仏は知ることができない」と説かれたのである。

語釈

 境智の二法

境は覚知する対象としての客観視した世界、智は覚知する客観的智慧。釈迦多宝の二仏を境智に配すれば、多宝は境・釈迦は智となる。

自体顕照

妙法に自身の当体が照らされ、仏界を顕現し、ありのままの姿で、最高に個性を発揮し、智慧を発揚していくこと。大御本尊を境とし、自身を智とし、冥合していく信心の一念が事態顕照となる。

即身成仏

衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。

権教

実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。

方便

悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。秘妙方便。秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。

一如

表面的には異なるものも、本来は不二であり平等であること。

開示悟入の四仏知見

開示悟入と四仏知見は同意語である。方便品には「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」とある。この開示悟入の四仏知見は、衆生がもともともっている仏界を開発することを示したもので、開三顕一となるのである。開仏知見の開とは信心の異名であり、示は南無妙法蓮華経を示し、悟は即身成仏と悟り、入は悟る当体直至道場のこと。信心の開示悟入が正意となる。信心に約せば開とは大御本尊を初めて信じた状態、示とは大御本尊の功徳を我が身の上に示し、他にも示し、悟とは、いかなることがあっても大御本尊を疑わず、いっさいが我が身の福運と確信することであり、入とは、そのときそのままの姿で真に喜び切った幸福境界にはいることである。しかも、それを一貫して貫いているのは、信の一字である。また、一往このように段階があるように見えるが、本当に信心に立脚したときには、開示悟入の四仏知見は、そのとき、ことごとく備わっているのである。

内証

生命の奥底の悟り。外用に対する。

声聞

声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。

辟支仏

梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。

一切声聞辟支仏所不能知

法華経方便品第2の文。「一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり」と読む。

講義

  本抄は、建治2年(1276)8月3日、日蓮大聖人が55歳の時、身延山から曾谷教信入道法蓮に送られた御消息である。

ここから、本抄を「曾谷殿御返事」と呼ぶとともに、その内容から「成仏用心抄」との別名もあるのである。

この書は最初に、仏になる道は境智の二法の一如を説いた法華経にあり、法華経以前の爾前権教には境と智が各別であるから成仏できないことを示されている。

続いて、法華経に説かれた境智一如の本体が南無妙法蓮華経の五字七字であると明かされるとともに、それら、大聖人がその要法を弘通されていることを説かれている。

次に、付嘱に総付嘱と別付嘱の二義があり、この二義を混乱させて「根源の師」を忘れ、他経・他仏・他師に心を移すならば、成仏できずに輪廻生死を繰り返すことになると厳しく御指摘になっている。

更に、たとえ、正師であっても、謗法を呵責しないときは、師・檀ともに無間地獄に堕ちることを明かされる。

また、法華経は種・仏は植え手、衆生は田であることを示され、末法の衆生は、どこまでも正法である法華経・主師親三徳具備の御本仏・正師に依って自らの生命の内奥深く植えられた仏種を成熟させて成仏すべきことを勧められている。

最後に「若し此等の義をたがえさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」と戒められ、成仏の用心を示されている。

本章では、まず法華経の第一方便品の「諸仏の智慧は甚深無量なり」の経文と、この文を中国の天台大師が解釈した法華玄義の取意である「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」という文を引用されて、仏に成る道は境智の二法にあることを明かされている。

そして、境が「万法の体」すなわち宇宙森羅万象の本体であり、智が「自体顕照の姿」すなわち万法のありのままの自体を照らし顕す働きであることを示され、境の淵が辺のないほど広くて深ければ、その境をありのままに照らし顕す働きである智慧の水の流れも滞ることなく、その水量を測ることができないほど豊かであると説かれて、このような甚深の境と無量の智とが合致するとき即身成仏することができる、と仰せられている。

次に、爾前権教において境と智とが別々であるために衆生を成仏させることができないのに対し、法華経は境智一如を説いているので、衆生はその仏の知見を開・示・悟・入されて成仏できることを明かされている。

また、この境智不二の仏知見の内証は、声聞・辟支仏の二乗の浅い智慧では到底及ばないのであり、そのことを法華経・方便品では「一切声聞辟支仏所不能知」と説かれていることを明かされている。

境智の二法について

本文にあるように、法華経卷一方便品第二の冒頭において、釈尊は舎利弗を対告宗に「諸仏の智慧は甚深無量なり、其の智慧の門は難解難入なり、一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり」と説く。

その意味するところは、仏の智慧が二乗の智慧よりも遥かに深く広大であることを明かして、声聞・辟支仏を驚愕させ、改心させて仏の智慧に導かんとする点にある。

この有名な経文に関して中国の天台大師は法華文句・法華玄義・摩訶止観の三大部において、縦横無尽な解釈を施している。

それらの解釈の中心になっているのが境・智の二法なのである。

まず、法華文句から見てみよう。

卷三下で、以下のように説いている。

「二智を双歎ずるに就いて、先に実を歎じ、次に権を軟ず。実とは諸仏の智慧なり、三種の化他の権実に非ず。故に諸仏と言う。自行の実を顕す。故に智慧と言う。此の智慧の体は即ち一心三智なり。甚深無量とは即ち称歎の辞なり。仏の実智は竪に如理の底に徹することを明かす。故に甚深と言う。横に法界の辺を窮む。故に無量と言う。無量甚深にして、深に高く横に広し、譬えば根深きとは則ち條茂く、源遠きとは則ち流れ長きが如し、実智既に然り、権智も例して爾り云云」

ここで明らかなように、方便品の「諸仏の智慧は甚深無量なり」との経文は、仏の実智を賛嘆したものであること。そして「其の智慧の門は難解難入なり」という次の文は、仏の権智を賛嘆していることを、天台大師はまず指摘している。

すなわち、仏の智慧には実と権の二智がある。更に、この二智に自行と化他が加わって、ここに、仏の智慧には自行の権実の二智と化他の権実の二智があることになる。

一般に、自行と化他の意味については、修行に約する時と法体に約する時とがあるが、この場合は法体に約して論じているのである。

修行に約す場合は、自利、利他とも称されるが、自行は自身が法の利益を受けるために修行することであり、化他は他を教化・化導することである。

法体に約す場合、自行は仏の悟りや境地をそのまま説き明かした“随自意の法”をいい、化他は仏が九界の衆生の機根に応じて説いた“随他意の法”をいう。

釈尊の仏法においては、自行の法体は随自意の法である法華経をいい、化他の法体は随他意の法である爾前権教をいう。

次に、この仏の自行と化他に、それぞれ実と権の二智がある。すなわち、仏の自行の権実二智と仏の化他の権実二智とである。

まず、仏の自行の権実の二智は、随他意の法である爾前権教に説かれるところの権智と実智のことである。

さて、権実の二智については、法華玄義巻二上において「妙法」の二字を解題する件で、初めに“法”を釈するとき三妙法のそれぞれを説明するなかの“仏法妙”のところで次のように述べている。

「仏法妙とは、経に『止みなん止みなん説くべからず、我が法は妙にして思い難し』というが如し。仏法は権実を出でず。是の法は甚だ深妙にして、見難く了すべきこと難し。一切衆生の類、能く仏を知る者無し、即ち実智妙なり。及び仏の諸余の法も亦、能く測る者無し、即ち仏の権智妙なり。是の如きの二法は、唯、仏と仏とのみ乃し能く諸法実相を究尽したまえり、是を仏法妙と名づく」と。

ここに、実智と権智の内容が説かれている。

実智とは「甚だ深妙にして、見難く了すべきこと難き」真理に到達している智慧であり、権智とは「仏の諸余の法」、すなわち一切の方便の諸法を知る智慧で方便智ともいう。

「是の如き二法」は、ただ、仏と仏とのみが能く諸法の実相を究尽し了知していることを明かしている。

言い換えれば、実智だけでは衆生から超越してしまい、一切衆生を救済することができないが、権智によって方便の諸法を知っているがゆえに、衆生との関係が生じ、衆生を悟りへと導くことが可能となるのである。

そして、この二智を合して“唯仏与仏乃能究尽”の仏智といい、また三法のうちで“仏法”と称し、それが衆生にとって思考しないところを“妙”というのである。

以上述べてきたころから、先に引用した法華文句巻三下の文の意味は明白となろう。

「諸仏の智慧は甚深無量なり」との文は、仏の“自行”の仏智のなかでも実智を説いたものである。

当然“三種の化他の権実”の二智を説こうとしたものではないことは、明らかなところであろう。

その実智を賛嘆して“甚深無量”といったのである。すなわち、仏の実智が「竪に如理の底に徹」しているところを「甚深」といい、「横に法界の辺を窮」めているところを「無量」と賛嘆したのである。縦と横で時間的・空間的なすべてを含んでいる。

更にそれを言い換えて「深に高く横に広し」ともいい、また、これをたとえて「根深きとは則ち篠茂く、源遠きとは則ち流れ長きが如し」と述べている。

仏の実智が究尽したところのものは法華経方便品第二で、次のように説かれる。

「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり、唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」と。

これによると、仏は諸法の実相、・十如是の法を究め尽くしているのである。法華玄義の序王では「言う所の妙とは、妙は不可思議と名づくるなり。言う所の法とは、十界十如権実の法なり」と説かれている。

つまり、仏は「妙法」すなわち、凡夫・二乗の思議し難き法である“十界十如権実の法”を悟ったのである。

さて、天台大師は先にも少し触れたように、法華玄義で、妙法の法について、衆生法・仏法・心法の三法妙を明かしている。仏法妙は前述したように、仏智と同じであり、五眼のうちの仏眼にあたり、また仏知見でもある。

その仏法の徹見した法は、ここでは衆生法として展開されており、天台大師は玄義で衆生法を説明するのに、十如・十界・権実の順で展開している。

では、ちなみに心法は何かといえば、「広く心法を釈せば、前に明かす所の法は、豈、心と異なることを得ん。但、衆生法は太だ広く、仏法は太だ高し。幼学に於いて難しと為す。然るに心・仏及び衆生、是の三差別無ければ、但、自ら己心を観ずるは即ち易しと為す」と論じている。すなわち、仏の悟りにおいては心法も衆生法も仏法も等しく差異なるはないのであるが、“初学に於いて”とあるように、仏法の実践修行の初心者にとっては最も身近な“己心”を観ずることが悟りに迫るのにやさしいところから、この点に限ってとくに心法を重視すると述べている。

以上の記述から、仏の悟りの状態は、能観の智と所観の境とが一つであるとともに、その能・所の智・境が一体となっている“場所”がそのまま仏の“心”となっていることが明白である。

したがって「心・仏及び衆生、是の三差別無ければ」との文は、この妙なる境位を表わしているのである。

仏がその仏智をもって徹見した所観の境は、諸法の実相であり、言い換えれば、十界十如権実の法としての衆生法であり、一切法の実相である。

更に天台大師は、十界十如の法を空・仮・中の三諦と転読することをとおして、十界が互いに具しあう百界千如の法門を明らかにして、次のように述べている。

「此の一法界に十如是を具し、十法界に百如是を具す。又一法界に九法界を具すれば、則ち百法界千如是有り、束ねて五差と為せば一に悪、二に善、三に二乗、四に菩薩、五に仏なり判じて二法と為す、前の四は是れ権法、後の一は是れ実法なり、細しく論ずれば各権実を具す。且らく両義に依る。然るに此の権実は思議す可らず、乃ち是れ三世の諸仏の二智の境なり、此を以って境とすに、何れの法をか収めざらん。此の境、智を発するに、何れの智か発せざらん。故に文に『諸法』と云う。諸法とは、是れ所照の境広きなり『唯、仏と仏とのみ能く究尽したまう』とは、能照の智深く辺を窮め底を尽くすを明かすなり。『其の智慧の門は解し難く入り難し』とは境妙を歎ずるなり。『我が得る所の智慧は微妙にして最も第一』とは、智と境と相称うことを歎ずるなり。 如来、洞かに達して十法の底を究め、十法の辺を尽くして」と。

この文からも明らかなように、十法界に集約される諸法が所照の境であり「所照の境広きなり」と、その広大さが強調されている。

また、この所照の境を徹見する能照の智は「深くして辺を究め底を尽くす」とあるように、辺を究め、底を尽くしているのである。

とくに、能照の智に関しては同法華玄義巻二の「仏法」を述べる段で、次のように説いるところも参照しておきたい。

「二に広く仏法を明かさば、仏、豈、別の法有らんや、秖、百界千如、是れ仏の境界成り、唯、仏と仏とのみ、斯の理を究竟したもう、函大なれば、蓋も亦、随って大なるが如し。無辺の仏智を以って、広大の仏境を照らして、其の根底に到るを、随自意の法と名づくるなり、若し九法界の性相本末を照らして、纖芥も遺さざるを随他意の法と名づく」と。

この文でも、百界千如が仏の境界、すなわち所照の境であり、それは“広大な仏境”であるとして、仏の境が“広大”であることを強調されている。

そして、この仏境を照らすことができるのは、唯仏与仏の“無辺の仏智”であるとして、仏智には“無辺”すなわち、辺際や限界なく境を照らす働きのあることが述べられるとともに「其の源底に到る」とあるように、広大な所照の境や源や底、つまり始源を照らし尽くす働きであることも、あわせて強調されている。

以上の叙述からも、仏の実智が如理の底に徹し法界の辺を究めている、との法華文句の文の意味も明らかとなろう。

最も簡潔にいえば、玄義に「如来、洞かに達して十法の底を究め、十法の辺を尽くして」とあるような事態をさしていることになろう。

すなわち、如来の能照の智は所照の境である十法界の底を究めて到達し、十法界の辺を照らし尽くしていることになる。

更に、この境・智の関係をたとえて「函大なれば、蓋も亦、随って大なるが如し」とあるように、所照の境たる十法界が“函”の大なるにたとえられ、“蓋”の大なるにたとえられているのである。

釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と

この釈の文は、天台大師の法華玄義の文と、妙楽大師の法華玄義釈籤の文からそれらの趣意を取って、一つの文とされたものと考えられる。

まず、天台大師の釈は法華玄義巻三上の文で、次のようにある。「境淵辺無ければ智水測ること莫し、唯、仏と仏とのみ乃し能く究尽したもう」と。

次に、妙楽大師の法華玄義釈籤巻七では天台大師の釈を受けて「実境淵深の故に竪に極まれり権境無辺の故に横に遍し、横竪の水量り難し。故に智測る可からざるなり」とある。

前述した境・智の二法の説明と対照させながら、これらの釈をみると、まず、所照の境が“淵”すなわち大地の広大で深い凹みにたとえられており、能照の智がその巨大な凹みに満々とたたえられた無量の水にたとえられていることが分かる。

さて、天台大師の釈では、“淵”にたとえられた所照の境が辺際のないほどの広大であるので「甚深」といい、その“淵”満々とたたえられた“水”にたとえられた能照の智が測りがたいゆえに「無量」というのであると、方便品の「甚深無量」を解釈している。

妙楽大師の釈は“淵”を更に「深さ」と「無辺の広さ」とに分けて、前者の実を境に、後者を権の境に、それぞれ立て分けている。そして、智“水”は“淵”の横と竪いっぱいに満ちあふれて、測りがたき無量のものと釈している。おそらく妙楽大師は、天台大師が方便品の「諸仏の智慧は甚深無量なり」の経文を、ただ仏の実義を賛嘆したものとして解釈したのに対し、これを仏の権実の二智を表わしたものと解釈して、その対象である所照の境にも権と実の二境を立て分けて釈したものと考えられるのではないだろうか。

抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや

これまでの法華経方便品の経文とその解釈である天台大師・妙楽大師の文とを照らし合わせて、日蓮大聖人は凡夫が仏になる道は、ただただ境と智の二つの法の間の関係に帰すると説かれている。

後の御文でも説かれるように、境と智とが合致するかどうかで衆生が成仏するか否かが決まると仰せなのである。

されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり

“境”は「万法の体」をいい、“智”は「自体顕照の姿」をいう、との仰せである。

万法の体、とは森羅万象の本体ということである。もっとも、本体といっても森羅万象の一つ一つが実体をもった個物として存在しているというとらえ方では、毛頭ない。これは、仏教の根本的な教えの一つである。

このことを明確にしているのが「縁起」という教えでる。縁起とは「縁って起こる」と読み、森羅万象のどの一つの物や現象も、他の物や現象から独立して存在しているものではなく、必ず、他の物や現象に“縁って起こって”いるということである。

我々凡夫には一見明らかに確たる具体性をもって存在するように思われる事物・現象も、仮に因縁が和合して現われているにすぎず、それ自身としては空であるということになる。

また、森羅万象の一つ一つが相互に縁って起こって存在しているということは、一つとして他の事物・現象との関係を離れて存在しえないということでもある。

ここから、森羅万象のどの一つを取り上げても、それ以外のすべての事物、すなわち万法の全体が関係してくるということになる。

例えば、網の一つの目はそれ以外のすべての他の網目との関係によって存在しているから、一つの目でも引っ張ると、一つだけでなく他のすべての網目が同時に連なって引っ張られていくことになる。

以上のように、相互に関連しあい、かつ、どの一つにも全体をはらみつつ、万象の一つ一つが絶対の平等性により貫かれている森羅万象総体のことを、ここで大聖人は「万法の体」と称されて“境”とされているのである。

そして、この“境”を徹見する能照の“智”は「自体顕照の姿」であると仰せである。ここに、「自体」とは“自”という意味が“みずから”“おのずから”を表わし“体”とは“万法の体”すなわち、森羅万象の縁起としている総体を表わしている。

結局、森羅万象が縁起により、相互に関係している全体の世界のありのままの姿を「自体」といわれたのである。

この「自体」をありのままに、寸分の濁りや偏見のない眼で徹見するのが“智”である。

“智”を「自体顕照の姿」と仰せられているのは、能照の智によって森羅万象の総体がそのありのままの姿において照らし出された状態、換言すれば“所照”のほうに少し重心を置かれて説かれたように拝される。

いずれにしても、境といい智といっても、凡夫の境涯では到底うかがいしれないのであって、“甚深無量”としか表現しようのない内容をはらんでいるのである。

それについて大聖人は次の御文で「而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし」と仰せられている。

天台大師が法華玄義で、境を淵に、智慧の水にたとえたのをそのまま用いられつつ、しかも、天台大師より、躍動的にダイナミックに説かれていることが分かる。そのことは、とくに智慧の水が流れて停滞しない、と説かれている点に明らかであろう。

すなわち、天台大師の場合の智“水”が広大で深い“淵”に満々とたたえられた無量の水量をもって描かれていたのに対し、大聖人の智“水”はその無量の水量が滔々と流れて滞らない、とされているからである。

ともあれ、このような「境」と「智」とが合致することによって即身成仏ができるのである。と仰せられている。

とすると、我々凡夫はどのようにして成仏が可能となるのであろうか。この門題への答えを示されているのが、次の御文である。

法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず、今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり

「法華経以前の経」の諸経は、衆生の機根に合わせて説かれた教えであるから、その法は、仏の智と隔たっており、境智が合致しない。それゆえに、これら権教・方便の諸経では成仏することができない、と仰せられている。

これに対し、「今法華経にして境智一如なる間」と仰せのように、法華経にきたって初めて、衆生の機根に関係なく、仏の悟っているところが正しく説き明かされたのであり、ここに境智一如の仏の内証があらわとなったのである。

しかも、その能照の智が九界の衆生に本来「仏知見」として備わっていることが明かされる。

これにより、凡夫が何ゆえ成仏しうるかという、根本的な問題を解決する一端が開かれたといえるのである。

その方便品の経文は次のような有名な件である。

「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと為づく」と。

要約すれば、諸仏が世に出現する唯一の目的は、衆生のなかに本来具している「仏知見」を開かせ、示し、悟らせ、その「仏知見」の道に入らしめることにある、という内容である。天台大師は、法華玄義巻二上で「経に『衆生をして仏の知見に開示し悟入せしめんが為に』というが如き、若し衆生に仏の知見無くんば、何の開を論ずる所あらん。当に知るべし、仏の知見は衆生に蘊在することを」と述べている。

仏の知見が九界の衆生に蘊在しているからこそ、その仏知見を開き顕すことができるのである。この法華経の真理を開顕と仏知見の開発によって、一切衆生の成仏が可能となったのである。

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