教行証御書

 

教行証御書 

文永12年(ʼ75)3月21日 三位房

  1. 第一章(三時の教・行・証を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 教行証について
      2. 乃往過去の威音王仏の像法に……是れ同じかるべし
  2. 第二章(妙法が末法万年に流布するを示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 問うて云く末法に限りて冥益と知る経文之有りや……
      2. 問うて云く汝が引く所の経文釈は……
      3. 拙いかな諸宗の学者法華経の下種を忘れ……
  3. 第三章(爾前経に得道ありとの義を破す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 彼が何度も爾前の得道を云はば
      2. 得道の所詮は爾前も法華経もこれ同じ
  4. 第四章(真言宗の邪義を責める)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  5. 第五章(念仏の邪義を責める)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  6. 第六章(現証を示して諸宗の謗法を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 一経の株を見て万経の勝劣を知らざる事
      2. 一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死
  7. 第七章(法華経の得益の大なるを示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 状に云く彼此の経経得益……やはか御坐候べきと
      2. 次に六難九易何なる経の文……なんど立つ可し
      3. 五百塵点の顕本之有りや……況や五百三千をや
      4. 二乗の成不成・竜畜……釈し給はんや
      5. 彼れ彼れの経経に何なる……大事之に如かず
  8. 第八章(自法愛染との非難を破す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  9. 第九章(律宗の良観の邪義を破す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 然るに推知するに……意を得て宗論すべし
      2. 又彼の律宗の者どもが破戒……是を訇しるべし
  10. 第十章(末法の金剛宝器戒を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  11. 第十一章(末法に教行証具備の正法流布を示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  12. 第十二章(問答の心構えを教えて結す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義

第一章(三時の教・行・証を明かす)

本文

夫れ、正像二千年に小乗・権大乗を持依して、その功を入れて修行せしかば、大体その益有り。しかりといえども、彼々の経々を修行せし人々は、自依の経々にして益を得と思えども、法華経をもってその意を探れば、一分の益なし。所以はいかん。仏の在世にして法華経に結縁せしが、その機の熟否に依り、円機純熟の者は、在世にして仏に成れり。根機微劣の者は、正法に退転して権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にしてその証果を取れること在世のごとし。されば、正法には教・行・証の三つともに兼備せり。像法には教・行のみ有って証無し。
 今、末法に入っては教のみ有って行・証無く、在世結縁の者一人も無し。権実の二機ことごとく失せり。この時は、濁悪たる当世の逆・謗の二人に、初めて本門の肝心・寿量品の南無妙法蓮華経をもって下種となす。「この好き良薬を、今留めてここに在く。汝は取って服すべし。差えじと憂うることなかれ」とは、これなり。
 乃往過去の威音王仏の像法に、三宝を知る者一人も無かりしに、不軽菩薩出現して、教主説き置き給いし二十四字を一切衆生に向かって唱えしめしがごとし。彼の二十四字を聞きし者は、一人も無くまた不軽大士に値って益を得たり。これ則ち前の聞法を下種とせし故なり。今もまたかくのごとし。彼は像法、これは濁悪の末法。彼は初随喜の行者、これは名字の凡夫。彼は二十四字の下種、これはただ五字なり。得道の時節異なりといえども、成仏の所詮は全体これ同じかるべし。

現代語訳

  正像二千年の間には小乗経や権大乗経を持って、一心に修行すれば一往その証果があった。しかし、それらの経教を修行した人々は自分の持った経によって証果を得たと思っているが、法華経からみるならば、一分の利益もないことが分かる。

その理由は、釈尊の在世に法華経に結縁した人が、その機根の熟否によって、そのうちの円機純熟の者は、釈尊の在世に仏になったが、根機微劣の者は、正法時代に退転して、権大乗経である浄名経、思益経、観無量寿経、仁王経、般若経等を修行して証果を得たのである。それは釈尊在世に爾前経で得脱した衆生と同じである。したがって、正法一千年間は、教法と行法と証果の三つが兼備していたが、像法時代には、教法と行法はあるが証果はなくなり、今、末法に入っては教法のみがあって行法と証果がなくなってしまったのである。つまり、末法に入っては、釈尊在世の結縁の者は一人もなくなり、権教や実教によって成仏する機根は一人もなくなったのである。

この末法濁悪の時には五逆罪と謗法の者ばかりで、それらの衆生のためには、初めて本門の肝心たる如来寿量品の南無妙法蓮華経をもって成仏の下種とするのである。如来寿量品第十六に「是の良き良薬を、今留めて此に在く、汝取つて服すべし。差えじと憂うること勿れ」と説かれているのは、このことである。

それは、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれているように、乃往、過去の世に威音王仏が出現し、その仏の滅後の像法の世に仏・法・僧の三宝を尊ぶ者が一人もいなかった。その時、不軽菩薩が世に出て、威音王仏が説かれた「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏(我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」の二十四文字を一切衆生に向かって唱えたようなものである。かの二十四文字を聞いた者は、一人も漏れなく不軽菩薩に会って成仏したのである。これは、前に聞いた二十四文字の法華経が成仏の種となったからである。今の末法もまた同じである。不軽菩薩は像法、日蓮は末法である。不軽菩薩は初随喜の行者、日蓮は名字の凡夫である。不軽菩薩は二十四文字の下種、日蓮は南無妙法蓮華経の五字の下種である。得道の時節は、像法と末法と異なるが、成仏の原理においては同じである。

語釈

正像二千年

仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。

小乗

小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。

権大乗

大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。

福利を招く効能。

利益のこと。仏の教え・正法に従い行動することによって恩恵・救済。功徳のこと。

法華経

大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。

【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。

【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284:08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266:11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546:11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910:17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。

【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。

結縁

仏法に縁を結ぶこと。成仏・得道の縁を結ぶこと。

説法を受ける所化の衆生の機根。

円機

円教の機根のこと。円教である法華経を受持できる衆生の機根のこと。

浄名

維摩経のこと。聖徳太子が法華経・勝鬘経とともに、鎮護国家の三部経の一つと定めている。釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の仏弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に期すことを説いている。後漢の厳仏以来、7回以上訳されたが、現存するのは三訳。①呉の支謙訳「維摩詰経」2巻②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻③唐の玄奘訳「説無垢称経」6巻。

思益

正式には「思益梵天所問経」という。方等部に属し、羅什訳の4巻である。迦蘭陀竹林で東方の思益梵天等を集めて説かれた。授記の意義、六波羅蜜の授記などを説いている。二乗を弾呵し菩薩の行法が明かされている。

観経

観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。

仁王

仁王経のこと。鳩摩羅什訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」二巻八品と、不空訳の「仁王護国般若波羅蜜多経」二巻がある。五時八教のうち般若部の結経であり、わが国では法華経、金光明経と合わせて護国三部経と称され、鎮護国家の経とされた。内容は、正法が滅して思想が乱れる時に正法誹謗の悪業によって起こる七難を示し、この難を逃れる行法として五忍を説いている。

般若

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

証果

仏の悟りのこと。

教行証

教行証とは教法と行法と証法のことで、三法ともいう。教とは仏の説いた教法をいい、行とは教法によって立てられた修行法をいい、証とは教・行によって証得される果徳をいう。

権実の二機

釈尊の仏法に結縁して利益を得る衆生のこと。権機と実機をいう。権機は権教に相応した機根の人をいい、実機は実教に相応した人をいう。

逆謗

五逆罪と誹謗正法のこと。

本門

仏の本地をあらわした法門のこと。迹門に対する語。法華経28品を前後に分け後14品を本門とする。迹門は諸法実相に約して理の一念三千を説き、本門では釈尊の久遠実成の本地を明かし、因果国に約して仏の振舞の上から事の一念三千が示されている。また本門の中心となる寿量品では、釈尊は爾前迹門で説いてきた始成正覚の考えを打ち破って、実は五百塵点劫という久遠の昔に常道していたことを説き、成道の根本原因、本因・本果・本国土の三妙を合わせて明かし、成仏の実践を説いている。

寿量品

如来寿量品第16のこと。如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別して本地三仏の別号。寿量とは、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量えるので、寿量品という。今は、本地の三仏の功徳を詮量するのである。この品こそ、釈尊出世の本懐であり、一切衆生成仏得道の真実義である。寿量品得意抄には「一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし」(1211:17)と、この品が重要であることを説かれている。その元意は文底に事行の一念三千の南無妙法蓮華経が秘し沈められているからである。御義口伝には「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752:04)、また「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」(0753:07)とあり、末法においては、寿量品といえども、三大秘法の大御本尊の説明書であり、蔵と宝の関係になるのである。

下種

「種を下ろす」と読み下す。仏が衆生を成仏に導くさまを植物の種まき・育成・収穫に譬えた、種熟脱の三益のうち最初の種。成仏の根本法である仏種を説いて、人々に信じさせること。仏が衆生に仏種を下ろすという利益を「下種益」という。釈尊が生涯にわたって説き残した膨大な諸経典には、仏種が明かされていない。唯一、法華経本門の如来寿量品第16で「我本行菩薩道(私は久遠の昔から菩薩道を実践してきた)」(法華経482㌻)と述べて、釈尊自身が凡夫であった時に菩薩道を実践したことが、自身の成仏の根本原因であったと示しているだけである。日蓮大聖人は、寿量品の文の底意として示された仏種を覚知し拾い出して、それが南無妙法蓮華経であると説き示され、南無妙法蓮華経を説き広めて末法の人々に下種する道を開かれた。それ故、大聖人は下種の教主であり、末法の御本仏として尊崇される。

威音王仏

不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。

三宝

仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

二十四字

不軽菩薩の説いた二十四文字の法華経のこと。「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道 当得作仏(我深く汝等を敬う 敢えて軽慢せず 所以は何ん 汝等皆菩薩の道を行じて 当に作仏することを得べし)」とある。

不軽大士

不軽菩薩のこと。大士は大菩提心を起こした人で菩薩のこと。

聞法

仏の法をきくこと。

初随喜の行者

滅後の法華経修行の位を五つに分けたうちの第一で、法を聞いて歓喜の心を起こす初信の位のこと。法華経分別功徳品第十七の「如来の滅後に、若し是の経を聞いて、毀訾せずして、随喜の心を起こさば、当に知るべし、已に深信解の相と為す」の文に基づいて、天台大師が法華文句巻十上に述べている。悪口を言わないで随喜の心を起こす人のこと。

名字

①呼び名・名称・題名。②天台大師が摩訶止観巻1で立てた六即位の第二。言葉(名字)の上で仏と同じという意味で、仏の教えを聞いて仏弟子となり、あらゆる物事はすべて仏法であると信じる段階。

得道

仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。

講義

  本抄の御述作は、「三月二十一日」とあるのみで、年代は明らかでない。文永12年(1275)、建治3年(1277)、弘安元年(1278)等の諸説がある。

本抄は三位房の質問に答えられて、諸宗との問答の際の心構え、破折の仕方などが詳細に述べられており、しかも「但し公場ならば然るべし私に問注すべからず」「公場にして理運の法門申し候へばとて……」等の御文から、公場対決に備えて三位房を指導されたものと考えられる。そして、文永12年(1275)から建治2年(1276)ごろにかけて真言宗等と公場対決が行われるとの風評があったことから、文永12年(1275)と推定されている。

弘安元年説の根拠としては、弘安元年(1278)3月21日の諸人御返事には「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り……将又一閻浮提皆此の法門を仰がん」(1284:諸人御返事:02)と述べられており、当時、日蓮大聖人の門下と真言・禅等の諸宗との公場対決の動きがあったことがうかがえる。諸人御返事の弘安元年(1278)3月21日という日付と、公場対決が近いという背景が符合することから、この時に三位房に与えられたのが本抄であろうと推定されているのである。

ただし、このように、日付と背景は符合しているが、弘安元年三月には、鎌倉から急使が駈け付けており、公場対決が眼前に迫っていたように思える。それに対して教行証御書の内容は、それほど緊迫した記述のようには感じられない。したがって、これだけでは弘安元年の御述作とは断定できないように思える。

一方、建治三年説は、建治3年(1277)6月9日に三位房日行が鎌倉・桑ヶ谷で天台僧の竜象房を破折した桑ヶ谷問答が行われており、本抄はその準備のために三位房が大聖人に質問したことに対する御返事ではないかという説である。

また本抄は「与三位房書」「報日進書」とも呼ばれており、三位房日進へ与えられた書とする説も古くからある。しかしながら、三位房日進とは、日興上人が身延を離山された後、波木井家の菩提寺にすぎなくなった身延に住していた日向の跡を継ぎ、身延山第三世と称した人物で、文永8年(1271)に生まれたとされており、当時はまだ幼年だった。日進が三位房大進阿闍梨と称したところから、後世に三位房日行としばしば混同されたようである。

さて、本抄の内容を概説すると、前半では、正法・像法・末法の三時における教・行・証について述べられ、正法には教・行・証がともにそなわり、像法には教・行はあっても証はなく、末法には教のみあって行・証はないことが明かされている。これは小乗教についてみた場合である。大乗教についてみた場合には、像法時代が教行証をそなえ、末法には教行のみで証がなくなる、と顕仏未来記に述べられている。

そして、末法には法華経本門寿量品文底の南無妙法蓮華経をもって下種し、救うべきことが述べられている。

後半では、真言・念仏・律等の諸宗と法論をするにあたっての破折の方法や要点、態度や心構えなどが教示されている。三位房からの質問に答えて真言・念仏の教義の誤りを指摘され、次に律宗の良観を破折されている。

最後に、法華経本門の肝心・妙法蓮華経の功徳の広大なことを明かされ、この大法が末法に広宣流布することを予言されている。そして、三位房が大聖人に代わって法論するよう指示されている。

本抄の初めに、正像末の三時における教・行・証について述べられている。

正像二千年の間では、小乗教・権大乗教によって修行しても利益がある。しかし、それはそれらの経々自体に利益があるのではなく、釈尊在世に法華経に結縁した衆生が、正法・像法時代に生まれて、小乗・権大乗を縁にして証果を得るのである。

すなわち、小乗や権大乗教は在世の法華経の下種を思い出し顕現させるための縁にすぎないのである。しかるに、その正意を知らないで、正法・像法時の小乗や権大乗自体に利益があると思い込んで宗派を立てて法華経に敵対しているのが真言、念仏等の諸宗であり、これらは一分の利益もないのみならず、法華経に敵対しているゆえに大謗法となってしまっているのである。

教行証について

教行証とは教法と行法と証法のことで、三法ともいう。十地経論巻三に「経に曰く、又、大願を発す。所謂一切の諸仏の説きたもう所の法輪を皆悉く受持するが故に、一切の仏の菩提を摂受するが故に、一切の諸仏の教化したもう所の法を皆悉く守護するが故に、広大なること法界の如く、究竟なること虚空の如く、未来際を尽くし、一切の劫数、一切の仏の成道の数を尽くして、正法を摂護して休息あること無けん。論に曰く、第二の大願に三種の法あり。『一切の諸仏の説きたもう所の法輪を皆悉く受持す』とは、所謂修多羅等を書写し、供養し、読誦し、受持し、他の為に演説するが故なり。『一切の仏の菩提を摂受す』とは、所謂法を証するなり。三種の仏の菩提の法を証す、此の証法を摂受して教化し転受するが故なり。『一切の諸仏の教化したもう所の法を皆悉く守護す』とは、所謂行法を修するなり。修行の時に於いて諸の障難あるを摂護し救済するが故なり」とあり、法華玄義巻五には「乗に三種あり、教・行・証を謂う」とある。

すなわち、教とは仏の説いた教法をいい、行とは教法によって立てられた修行法をいい、証とは教・行によって証得される果徳をいうのである。つまり、いかなる教法を受持して、いかなる修行に励めば、いかなる証果・悟りを得ることができるかを示したものといえよう。

法華玄義巻二下には「或は教行証、融ぜざる者を麤と為し、教融じて行証未だ融ぜざるも亦た麤なり、俱に融ずる者は則ち妙なり」とあり、教行証の具わる法こそ妙法であると判じている。

また、仏の教法は衆生の機根に相応して説かれたものなので、ある機根の衆生には行証を具えていても、別の機根の衆生には行証を伴うとはかぎらないのである。

慈恩の大乗法苑義林章巻六には「仏滅度の後、法に三時有り。謂く正・像・末なり。教・行・証の三を具するを名づけて正法となす。但だ教・行あるを名づけて像法となす。教のみあって余無きを名づけて末法となす」とあり、良賁の仁王経疏巻三下には「教あり行あり得果証あるを名づけて正法となし、教あり行あり果徳なきを名づけて像法となし、唯其の教のみありて行なく証なきを名づけて末法となす」とあって、教行証が具わるかどうかによって、正・像・末の三時を定義しているのである。

しかし、それらは小乗教に約した説であり、権大乗教についていえば、像法にも証果があり、末法に入ると教行のみとなって証はなくなるのである。

大聖人は、本抄および顕仏未来記において、正法・像法における小乗・権大乗の諸経を修行して得られる利益は、釈尊在世に法華経に結縁した衆生が、正法においては小乗の教行を縁とし、像法にあっては権大乗の教法を縁として証果を得たものであることを明かされている。

そして「今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり、此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」と仰せになって、末法には釈尊の仏法はすべて教のみあって行証はなくなり、法華経本門寿量品文底の南無妙法蓮華経のみが、末法の衆生を救いうる正法であることを示されている。

釈尊滅後、正像二千年の間は、釈尊在世に法華経によって下種された者が、小乗・権大乗を縁として、熟益・脱益を得ることができたのであるが、末法には釈尊在世に結縁した衆生はいなくなり、小乗・権大乗はもとより、実教たる法華経によっても利益を得ることはできないのである。

すなわち、末法は釈尊の仏法に結縁のない本未有善の衆生が生まれる時なのである。したがって、不軽菩薩が逆縁をもって衆生を救ったように日蓮大聖人が出現されて、妙法蓮華経を下種されるのである。この下種の妙法を素直に修行するものは仏因仏果を同時に得るので、即身成仏の大利益を得られるのである。また誹謗し信じない者も、妙法を聞く縁によって仏種が植えられて、未来に必ず成仏できる。これを逆縁とも毒鼓の縁ともいう。このように、末法下種の妙法には、教・行・証がともに具わるのである。

日蓮大聖人の仏法における教・行・証について、日寛上人は当体義抄文段に「相伝に云く、開目抄と観心抄と当抄とを次の如く教・行・証に配するなり。所謂開目抄には、一代諸経の浅深・勝劣を判ずる故なり。此に五段の教相あり……観心本尊抄は行の重とは、これ則ち彼の抄に受持即観心の義を明かす故なり……当抄は証の重とは、下の文に云く『然るに日蓮が一門は(乃至)当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり』等云云」と述べられ、開目抄、観心本尊抄、当体義抄に、大聖人の仏法における教・行・証が明かされていることを示されている。

開目抄では、一代聖教の勝劣・浅深を五重に相対して、末法に弘通すべき教法が「但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめた」(0189:02)秘法であり、文底下種事行の一念三千であることが明かされているので「教の重」となる。

観心本尊抄では、末法の修行について「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)と述べられ、御本尊を信受し唱題する受持即観心の一行に限ることを明かされているので「行の重」となる。

当体義抄では、末法の証果について「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり……本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512:10)と述べられ、御本尊を信じて大聖人の教えのままに励む人は、当体蓮華を証得して即身成仏できることが明かされているので「証の重」となる。

すなわち、大聖人の仏法においては、教とは寿量文底下種の南無妙法蓮華経であり、行とは御本尊を受持して自行化他の信行に励むことであり、証とは即身成仏の大利益をいうのである。

そして、大聖人が末法に出現されて教行証の具わった妙法をもって一切衆生に下種されるとの文証として、法華経如来寿量品第十六の「是好良薬、今留在此。汝可取服。勿憂不差」の文が挙げられている。

この経文の深義について、御義口伝には「是好良薬とは或は経教或は舎利なりさて末法にては南無妙法蓮華経なり、好とは三世諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり取は法華経を受持する時の儀式なり、服するとは唱え奉る事なり」(0756:第十是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差の事:01)と述べられており、観心本尊抄には「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(0251:09)と仰せである。

釈尊が法華経寿量品の文底に秘沈された下種の妙法を、日蓮大聖人が取り出されて南無妙法蓮華経の御本尊として顕され、日本国に留め置かれたのであり、末法の一切衆生はそれを信受して題目を唱えれば、いかなる苦悩も解決しないことはないとの意なのである。

乃往過去の威音王仏の像法に……是れ同じかるべし

次に大聖人は、末法が下種益であることを、威音王仏の像法の時に出現して二十四文字の法華経を弘通した不軽菩薩の例を引いて明かされている。

顕仏未来記にも「此の時に当つて……此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507:13)と同じ趣旨が述べられている。なお、この御文で「此の時」とは末法、「此の人」とは法華経の行者をさす。

不軽菩薩とは、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩の略称で、釈尊の過去世の姿とされている。

威音王仏の像法の末に、悪口罵詈、杖木瓦石等の迫害を加えた衆生に対して「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱えて礼拝を行じたので、不軽菩薩といわれた。迫害を加えた四衆は地獄に堕ちたが、逆縁によって再び不軽菩薩すなわち釈迦仏のもとに生まれてその教化にあい、成仏できたと説かれている。

釈尊はこの常不軽菩薩の修行をとおして、折伏の方軌と逆縁の功徳を説いているのである。大聖人は寺泊御書に「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」(0953:18)と仰せになって、不軽菩薩を末法における御自身の弘教の方軌の例証とされている。

本抄では、不軽菩薩が二十四文字の法華経を衆生に聞かせることによって下種を下し(聞法下種)、誹謗した衆生も救ったように、末法の現在も下種益であることを示されている。

大聖人が不軽菩薩をその先例として用いられるのは、①ともに法華経の行者であること、②ともに弘教の方軌が折伏であること、③ともに所化の衆生が逆縁の機であること、が挙げられる。

①については、不軽菩薩は二十四文字の法華経を弘めて悪口罵詈、杖木瓦石の難にあっているのに対して、日蓮大聖人は妙法五字を弘めて、悪口罵詈、杖木瓦石の難はもとより、法華経勧持品で説かれた刀杖の難(小松原法難・竜の口法難)と数数見擯出の難(伊豆・佐渡の流罪)を受けられている。そのため大聖人は聖人知三世事に「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(0974:09)と述べられているのである。

①については、開目抄に「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(0235:10)と述べられている。

②については、教機時国抄に「謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり、例せば不軽菩薩の如し」(0438:12)と述べられ、御義口伝には「不軽菩薩を軽賎するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賎せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:01)と述べられている。

本抄では、不軽菩薩は威音王仏の像法に出現し、大聖人は釈迦仏の末法に御出現であり、不軽菩薩は初随喜の行者で、大聖人は名字の凡夫であり、不軽菩薩は二十四文字の法華経を弘め、大聖人は妙法五字を弘教された等の違いがあっても、その弘教の方軌と下種益という点は同じであると述べられている。

ただし、不軽菩薩は釈尊の過去世の修行の姿であり、日蓮大聖人は久遠元初の自受用身即末法の御本仏である点が、根本的に異なっているのである。

 

 

第二章(妙法が末法万年に流布するを示す)

本文

問うて云く上に挙ぐる所の正像末法の教行証各別なり・何ぞ妙楽大師は「末法の初冥利無きにあらず且く大教の流行すべき時に拠る」と釈し給うや如何、答えて云く得意に云く正像に益を得し人人は顕益なるべし在世結縁の熟せる故に、今末法には初めて下種す冥益なるべし已に小乗・権大乗・爾前・迹門の教行証に似るべくもなし現に証果の者之無し、妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり。
  問うて云く末法に限りて冥益と知る経文之有りや、答えて云く法華経第七薬王品に云く「此の経は則ち為閻浮提の人の病の良薬なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」等云云、妙楽大師云く「然も後の五百は且く一往に従う末法の初冥利無きにあらず且く大教の流行す可き時に拠るが故に五百と云う」等云云。
  問うて云く汝が引く所の経文釈は末法の初五百に限ると聞きたり権大乗経等の修行の時節は尚末法万年と云へり如何、答えて曰く前釈已に且従一往と云へり再往は末法万年の流行なるべし、天台大師上の経文を釈して云く「但当時大利益を獲るのみに非ず後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云、是れ末法万年を指せる経釈に非ずや、法華経第六分別功徳品に云く「悪世末法の時能く是の経を持てる者」と安楽行品に云く末法の中に於て是の経を説かんと欲す等云云此等は皆末法万年と云う経文なり、彼れ彼れの経経の説は四十余年未顕真実なり或は結集者の意に拠るか依用し難し、拙いかな諸宗の学者法華経の下種を忘れ三五塵点の昔を知らず純円の妙経を捨てて亦生死の苦海に沈まん事よ、円機純熟の国に生を受けて徒に無間大城に還らんこと不便とも申す許り無し、崑崙山に入りし者の一の玉をも取らずして貧国に帰り・栴檀林に入つて瞻蔔を蹈まずして瓦礫の本国に帰る者に異ならず、第三の巻に云く「飢国より来りて忽ち大王の膳に遇うが如し」第六に云く「我が此の土は安穏○我が浄土は毀れず」等云云。

 

現代語訳

 問うていうには、上に挙げたところの正像末の三時における教法と行法と証果との関係はそれぞれ別である。妙楽大師は法華文句記で「末法の初、冥利無きに非ず。且く大教の流行すべき時に拠る」と釈されているのはどういうわけであろうか。

答えていうには、正法や像法の時代に成仏した人々は、いずれも釈尊在世に成仏の因縁を結んで、それが調養したから顕益となったのである。今、末法に入って、初めて下種をするのであるから、冥益となるのである。この法華経本門の教行証は小乗、権大乗等の爾前・迹門の教行証とは全く異なるのである。それゆえ今の世に証果の者がいないのである。まさに、妙楽大師の釈によるなら、冥益であるからこそ人々はこれを知らないのであり、成仏の人を見ないのである。

問うていうには、末法に限って冥益であるという経文があるのであろうか。

答えていうには、法華経巻七の薬王菩薩本事品第二十三には「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」と説かれている。また、妙楽大師も法華文句記で「然も、後の五百は且く一往に従う。末法の初め、冥利無きにあらず。且く大教の流行す可き時に拠るが故に五百と云う」と釈しているのである。

問うていうには、汝が引用する所の経文・教釈では、法華経の広まるのは「末法の初め五百年に限る」とされているが、権大乗経等の修行の時でさえ、末法万年という者があるが、法華経の利益が末法の初めに限るというのはどういうことなのであろうか。

答えていうには、妙楽大師も前の釈で「且く一往に従う」と言っているが、再往は末法万年の流行なのである。それゆえ、天台大師も上の経文を釈して法華文句に「但当時大利益を獲るのみにあらず、後の五百歳遠く妙道に沾わん」と言っている。これは末法万年をさす経・釈ではないか。法華経巻六の分別功徳品第十七には「悪世末法の時、能く是の経を持たん者」とあり、また、法華経巻五の安楽行品第十四には「末法の中に於いて、是の経を説かんと欲す」と説かれている。これらは、法華経が末法万年に広まるという経文である。前に挙げた浄名経・思益経・観無量寿経・仁王経・般若経等の経教の説は「四十余年・未顕真実」なのであって、それらの経教に「末法万年」とあっても、それは経典の結集者の意で記されたのであって、依用すべきではない。

拙いかな、諸宗の学者、三千塵点劫・五百塵点劫の結縁を知らずして法華経の下種を忘れ、純円の妙経を捨てて、また生死の苦海に沈まんことを。円機純熟の日本国に生を受けて、いたずらに無間大城に還るであろうことは、かわいそうでならない。それはあたかも崑崙山に入って一つの宝玉も取らずに貧国に帰り、栴檀の林に入りながら香気の高い瞻蔔を踏破せずに、瓦礫の本国に帰る者と同じである。法華経受持の喜びを法華経巻三の授記品第六には「飢えたる国より来って、忽ちに大王の膳に遇うようなものである」と説かれ、また第六の巻の如来寿量品第十六には「我が此の土は安穏にして……我が浄土は毀れず」と説かれている。

 

語釈

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。

 

冥利

冥伏している利益。

 

流行

流布すること。広く世の中に行きわたること。

 

顕益

はっきりと顕れる利益のこと。

 

冥益

気づかないうちに受ける利益のこと。

 

爾前

爾前経のこと。爾の前の経の意で、法華経已前に説かれた諸経のこと。釈尊50年の説法中、前42年に説かれた諸経。

 

迹門

本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。

 

薬王品

妙法蓮華経薬王菩薩本事品第23のこと。この品から五品は付嘱流通のなかの化他流通である。弘法の師をつとめるのであって、宿王華菩薩の問いに対し、釈尊は日月乗明徳如来の本事と、その仏から付嘱を受けた薬王菩薩の本事を説いたのであるから、この名前がある。薬王菩薩が苦行して色心三昧を得、報恩に焼身供養したことを説いてある。ここで諸仏の同賛があり、「善い哉、善い哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく」と説かれた。後段で薬王品十喩の譬えが説かれている。

 

閻浮提

一閻浮提のこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。

 

末法万年

末法は三時のひとつ。仏の教えはあっても、三毒強盛の衆生が充満し証果がなくなり、釈尊の教えでは救済できない時代。年限についての万年は、中観論疏巻1末等による。

 

一往

ひととおり、そのままの見方。

 

再往

一重、立ち入った観察・見極め方。

 

天台大師

538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。

 

後の五百歳

法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。

 

分別功徳品

妙法蓮華経分別功徳品第17のこと。略広に開近顕遠して、菩薩大衆は種々の功徳を得たのであるが、その功徳の浅深不同を分別することを説いたので、分別功徳品というのである。全体が二段に分かれていて、初めから弥勒が領解を述べた偈頌の終わりまでは、本門の正宗分で、その中に授記と領解があり、まず総じて菩薩に法身の記を授け、大衆の供養があり、ついで、領解、分別功養がある。つぎに、後半、「爾の時、仏、弥勒摩訶薩に告げたまわく」から終わりまでは流通分に属し、次の品の終わりまでは初品の因の功徳を明かすのであって、まず一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成の現在の四信と、随喜品、読誦品、解脱品、兼行六度品、正行六度品の滅後の五品を説き、次品の終わりまでにも及んでいる。日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の正行を、初信の位にとっておられる。

 

安楽行品

法華経安楽行品第14のこと。迹門14品の最後である。身・口・意・誓願の四安楽行が説かれ、悪口・迫害されず、安穏に妙法を修行するには、いかにしたらよいかを示し、正像摂受の行を明かしている。

 

四十余年未顕真実

「四十余年には末だ真実を顕さず」と読む。無量行説法品の文である。釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間の法華経で真実を説くとの意。40余年の爾前経を打ち破り、法華経を説くための重要な文である。

 

結集者

仏典結集に携わった人々。釈尊滅後諸弟子が集まり、釈尊の教法を合誦、個々の異同をただして、経律を収集したこと。四回行われている。①釈尊入滅の年に阿闍世王の外護のもと摩竭提国王舎城付近の畢婆羅屈で行われた。摩訶迦葉を中心に、阿難は経蔵・憂波離は律蔵・迦葉は論蔵を誦し、500人の弟子によってなされた。②仏滅後100年ごろ、毘舎城で耶舎陀を中心に700人の賢聖が集まって三蔵の結集が行われた。③仏滅後200年ごろ、阿育王の外護のもとに、華氏城鶏園寺、目犍連帝須を中心に1000人の賢聖を集め、仏教教義の混濁を正すことを目的として行われた。このとき、経律論の完成がなされた。④仏滅後300年ごろ、迦弐志迦王の外護のもとに500人の阿羅漢が迦弐志迦城において世友を上首として行われた。このとき経律論の三蔵の釈論が完成している。ただしこれらの結集の年代等については、異説もある。

 

三五塵点の昔

法華経に説かれる三千塵点劫と五百塵点劫の昔の下種のこと。三千塵点劫とは、法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」とある文を意味する語。釈尊在世から三千塵点劫という膨大な時間をさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって法華経を説いた。その仏の滅後、仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。また五百塵点劫とは、法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊は五百塵点劫という遠い昔に成道し、法華経を下種したことをさす。

 

生死の苦海

生死とは生老病死のこと、苦しみと訳す。また生死生死と旋火輪のように永遠に伝わっていく生命の実体を説く場合もあり、迷いと訳す場合や、生と死を意味することもある。生死の海とは生死の苦海ともいい、生死流転の苦しみがいかに深いものであるかを海にたとえていう。

 

無間大城

無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。

 

崑崙山

古くから神秘的な山として伝えられ、黄河の源、あるいは西王母の住居などといわれる。玉石を多く産出する山とされる。

 

栴檀

インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。

 

瞻蔔

梵語チャンパカ(champaca)の音写。「せんふく」「せんぶく」「せんぶ」とも読む。インドに産する香花樹の名。黃花樹、金色花樹ともいう。樹は高大で、葉の長さは約20㌢もあり、花は金色でその香気は遠くまで薫るという。樹皮、葉および花から薬料、香料を採取する。

 

瓦礫

瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。

 

浄土

浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384:02)と申されている。

 

 

講義

前章で明らかにされたように、正・像・末の三時において教・行・証は移り変わり、末法には教のみあって行・証はないとしたのに対して、妙楽大師の法華文句記には、末法には大教が流行して妙理があるといっているのは、どういうことか、との疑問を出している。

この疑問に対して、正法・像法時代に釈尊の仏法によって利益を得たのは、釈尊在世に法華経に結縁した人々であり、熟・脱の利益なので顕益だったが、末法では初めて下種されるので、その利益は妙益であると答えられている。

種・熟・脱の三益のうち、熟益・脱益が顕益とは、熟益・脱益は過去に植えられた仏種が養育されて熟し(熟益)、ついに成仏の境界に至る(脱益)のであるから、その利益は明らかに顕れるのである。

それに対して、下種とは仏になる種子を衆生の心田に植えるので、その利益が直ちに現れることがないのは当然であろう。しかし、大聖人の仏法に顕益がないわけではなく、初信の時、生死に関する時、他宗と正邪を争う勝負の時などは、顕益が現れるのである。

しかも、当体義抄に「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(0513:05)と述べられ、観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)と仰せのように、御本尊を受持して信行に励むことによって、即身成仏の大利益を得ることができる。

 

問うて云く末法に限りて冥益と知る経文之有りや……

 

次に、この冥益の仏法は末法に限るとの経文はあるのか、との問いを設けて、法華経の薬王菩薩本事品第二十三の文と、妙楽大師の法華文句記の文を挙げられている。

薬王品には、引用された文の前に「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ。宿王華よ。汝は当に神通の力を以て、是の経を守護すべし。所以は何ん」とある。すなわち、第五の五百歳である末法の始めに、法華経が広宣流布して、一閻浮提の人々の良薬となるであろうと釈尊が明言しているのである。

薬王品の「後の五百歳」とは、大集経に説かれている五箇の五百歳、すなわち正法時代の解脱堅固・禅定堅固の各五百歳と、像法時代の読誦多聞堅固・多造搭寺堅固の各五百歳と、「我が法の中において闘諍言訟し白法隠没せん」と説かれた末法の始めの五百歳のうち、第五の五百歳をさしているのである。

しかし、大集経では第五の五百歳は白法隠没と説いているのに、薬王品ではその時に広宣流布するとしているのは、釈尊の自語相違ではないかとの疑いが生まれる。

それに対して日寛上人は、薬王品談義の中で「彼の経の意は権教当分の白法・末法に入て隠没することを明かすなり、今経は南無妙法蓮華経の大白法広宣流布することを明かすなり」と述べられている。

妙楽大師の法華文句記の文についても、日寛上人は「文の意は大集経の五箇の五百歳は爾前権教に付いて盛衰 を記したまえる一往にして、末法にて実大妙法の利益は滅尽するにあらず、故に後五百歳中広宣流布と説き、後五百歳遠沾妙と釈せらると云う。妙楽の指南に冥利とは只在世の顕益に対するのみ」と述べられている。

このように、大聖人は薬王品や文句記の文を、末法に南無妙法蓮華経が広宣流布するとの文証とされているのである。

そのことは撰時抄に「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258:14)と明示されているとおりで、末法には釈尊の仏法の権教当分の白法が隠没して、南無妙法蓮華経の大白法が全世界に広宣流布することは疑いないのである。

 

問うて云く汝が引く所の経文釈は……

 

次に、薬王品や文句記の文に「後の五百歳の中に」「後の五百」とあることから、妙法の利益は末法の初の五百年に限るということではないのかという疑問を設けられている。

この点については、文句記に「且く一往に従う」とあるように、一往は後五百歳、再往は末法万年に流布するということである、と述べられているのである。

日寛上人は、薬王品談義で「経及び疏の文は且く妙楽大師の流行しはじまる時を指したまえり、実には来際を尽して流布すべしと云う意なり、若ししからずば無令断絶の文は如何に消ししや、宗祖云く万年の外未来までも流布すべし云云、末法妙法流布の時なる事分明なり」と述べられている。

大聖人が報恩抄に「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329:03)と仰せのように、「後五百歳広宣流布」とは、末法の初めから、末法万年、尽未来際に至るまで南無妙法蓮華経の大法が流布するとの意なのである。

そして、天台大師が薬王品の文を釈して「当時大利益を獲るのみに非ず後の五百歳遠く妙道に沾わん」と述べた文を挙げられて、妙法が末法万年に流布するとの文証であるとされているのである。

「後五百歳遠沾妙道」の文がなぜ末法流布を明かす文になるのか。日寛上人は依義判文抄で次のように述べられている。

「応に知るべし、後五百歳は末法の初め、遠沾は是れ流布の義なり、妙は是れ能嘆の辞、道は即ち所歎の三大秘法なり。問う、何ぞ道の字を以て即ち三大秘法と為すや。答う、天台常に道と言うは、即三義有り。一に虚通の義、即ち本門の本尊なり……二に所践の義、即ち本門の戒檀なり……三に能通の義、即ち本門の題目なり」。

更に大聖人は、法華経分別功徳品第十七と安楽行品第十四の文を、末法万年をあらわす経文であるとされている。

分別功徳品には「悪世末法の時 能く是の経を持たば 即ち為れ已に上の如く 諸の供養を具足す」とあり、安楽行品には「如来の滅後に末法の中に於いて、是の経を説かんと欲せば、応に安楽行に住すべし」とある。

ここで説かれている「末法」とは、ともに末法万年の意であるとの仰せである。それは「後五百歳」等と限定されていないからであろう。前述のように、あくまでも末法流布の始まるのが後五百歳であって、その後は万年にわたって広まりゆくのが大聖人の文底下種の仏法なのである。

そして、爾前の諸経は四十余年の未顕真実の経々にすぎない。したがってそれらの経に末法万年に流布する等と説かれていたとしても、それは経典結集者が書き加えたものであって、信用することはできないと仰せである。

 

拙いかな諸宗の学者法華経の下種を忘れ……

 

以上の結びとして大聖人は、諸宗の学者等が、末法の正法流布の時にありながら、信ぜずに誹謗して無間地獄に堕ちることを憐れまれている。

ここで、当時の諸宗の学者等を「法華経の下種を忘れ三五塵点の昔を知らず」とされているのは、権実相対の立場から、釈尊の法華経に示された妙法との結縁の深さを挙げられて、それに背いて爾前権教に執着している誤りを破折されたものと拝される。

したがって、「純円の妙経を捨てて」と述べられている妙経とは、一往は法華経をさし、再往は本抄で「本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経」と仰せの文底下種の法華経を意味しているといえよう。

「円機純熟の国」と述べられているのも、一往は法華経有縁の国である日本国をさし、再往は日寛上人が依義判文抄に「日本国は、本因妙の教主日蓮大聖の本国にして、本門三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」と述べられているように、御本仏日蓮大聖人が御出現になった末法広布の本国たる日本国をさしているといえる。

御本仏御出現の時に生まれ合わせながら、信ぜずに誹謗して生死の苦海に沈み、無間地獄に堕ちた大聖人御在世当時の諸宗の僧侶ほど、哀れで悲しい者はいないだろう。とくに「諸宗の学者」と仰せられているのは、三位房が対論する相手が僧だからであろう。

大聖人はそうした人々を、名玉の産地とされる崑崙山へ入りながら一つの玉も取らずに元の貧しい国へ帰るようなものであり、栴檀の林に入りながら香りの高い花の匂いもかがずに瓦礫の本国へ帰る者と同じである、と述べられている。それは、妙法の話を聞きながら信じようとせずに、苦悩に沈んでいる人々にあてはまる。

そして、その後に法華経授記品第六の「飢えたる国従り来って 忽ちに大王の膳に遇わん」の文と、同如来寿量品第十六の「我が此の土安穏」「我が浄土は毀れざる」の文を引かれ、法華経を信ずる利益の大なることを示されている。

授記品の文は、目犍連・須菩提などの声聞が仏に授記を請うた偈の一節にあたり、法華経を聞いて未来成仏の授記を得ることを、飢えた国からきた者が大王の豪華な食膳を与えられたようなものであるとしているのである。この場合の飢えた国とは、爾前経において二乗は永く成仏できないとされてきたことをさしている。

大聖人はこの文を「所詮末法に入つては謗法の人人は餓鬼界の衆生なり、此の経に値い奉り・南無妙法蓮華経に値い奉る事は併ら大王饍たり」(0829:御講聞書:04)と釈されている。すなわち、末法においては、過去に謗法をしてきた者が御本尊を信受することにより、飢えた者が大王の膳にあったように満ち足りて、所願満足となり成仏できるのである。

また、寿量品の文は、仏が法華経を説く国土は常に安穏であり、毀れることはないとの意で、仏の常寿とともに国土の常住を説いている。

末法においては、当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」(0512:10)と述べられているように、御本尊を受持して信行に励む者の住処こそ「安穏」であり「不毀」となるのである。

 

 

第三章(爾前経に得道ありとの義を破す)

本文

状に云く難問に云く爾前当分の得道等云云、涅槃経第三に「善男子応当修習」の文を立つ可し之を受けて弘決第三に「所謂久遠必無大者」と会して「爾前の諸経にして得道せし者は久遠の初業に依るなるべし」と云つて一分の益之無き事を治定して、其の後滅後の弘経に於ても亦復是くの如く正像の得益証果の人は在世の結縁に依るなるべし等云云、又彼が何度も爾前の得道を云はば無量義経に四十余年の経経を仏・我れと未顕真実と説き給へば・我等が如き名字の凡夫は仏説に依りてこそ成仏を期すべく候へ・人師の言語は無用なり、涅槃経には依法不依人と説かれて大に制せられて候へばなんど立てて未顕真実と打ち捨て打ち捨て正直捨方便・世尊法久後なんどの経釈をば秘して左右無く出すべからず。

  又難問に云く得道の所詮は爾前も法華経もこれ同じ、其の故は観経の往生或は其の外・例の如し等云云と立つ可し、又未顕真実其の外但以仮名字等云云と、又同時の経ありと云はば法師品の已今当の説をもつて会す可きなり、玄義の三籤の三の文を出す可し、経釈能く能く料簡して秘す可し。

 

現代語訳

御房から寄せられた状に「法華経以前にも当分の成仏がある」と難問してくる者があるということについては、涅槃経第三の「善男子、応当(まさ)に仏・法及び僧を修習して常想を作すべし」の文を出して答えるがよい。これについては、止観輔行弘決巻三に「久遠に必ず大無くんば、即ち小乗の行法をして成ぜざらしめん」といい、また、「爾前の諸経にして得道せし者は久遠の初業に依るなるべし」といって、一分の利益もないことを定め、また、釈尊滅後の弘経においても同じで、正像年間に証果を得た人は釈尊在世に結縁があった人々なのであると釈している。

また、相手が何度も「爾前の得道」をいうならば、無量義経で釈尊が四十余年の経教を、仏自ら未顕真実と説かれているのを挙げ、我らのような名字の凡夫は仏説によって成仏を期すべきであって、人師の言葉は不要なのである。涅槃経には「法に依って人に依らざれ」と説かれているではないかといって、法華経以前の経は「未顕真実」と打ち捨てるがよい。法華経の「正直に方便を捨て」、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説き給うべし」等の経釈は秘しておいて、やすやすと出してはならない。

また、「得道の究極の問題は爾前も法華経も同一である。それは観経で西方浄土に往生した者も、彼の土で成仏をするからである」等の難問に対しては、そんなことは、どこでも言っていることだと立てて、「未だ真実を顕さず」や法華経方便品第二の「但仮の名字を以って、衆生を引導したもう」の文を出すがよい。もし、観経等を法華経と同じ時に説かれた経であるというならば、法華経法師品第十の「我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、この法華経、最も為れ難信難解なり」の文を引いて答えるがよい。

また、法華玄義巻三の「若しは破、若しは立、皆是れ法華の意なり」、法華玄義釈籤巻三の「今以って仏教を採って法華の意を申ぶ、遍く破し遍く立ちて、教の指帰を明かす」との文を出すがよい。ただし、経釈をよくよく心得て、妄りに出してはならない。

 

語釈

当分

当位の分斉のことで、跨節に対する語。天台宗で用いた教相判釈の一つ。当分とは、その分、そのままの意で、ある限られた立場、また限定された視野でとらえた場合の意。これに対し、跨節は節を跨ぐことで、一歩深い立場のこと。天台法門においては、当分は爾前の施権、跨節は法華の開権の義を意味する。

 

涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

 

善男子応当修習

涅槃経巻三の文をさす。仏・法・僧の三宝の常住一体を修習することが因となって、声聞、縁覚、菩薩が得道できるとの意。法華経如来寿量品第十六では三宝一体であり本有常住であると説く。

 

弘決

所謂久遠必無大者

 

久遠の初業

久遠に受けた妙法蓮華経の下種のこと。

 

無量義経

一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。

 

四十余年の経経

釈尊が30歳のときに成道してのち、法華経を説くまで、42年間のあいだ、かずかずの経文を説いてきた経。

 

人師

人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。

 

依法不依人

仏法を修する上では、仏の説いた経文を用い、人師・論師の言を用いてはならない、との仏の言葉。

 

正直捨方便

法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。

 

世尊法久後

方便品の文。「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説くべし」と読む。

 

往生

死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。

 

但似仮名字

法華経方便品第2の文。仏が成仏以来、40余年の間に説いた経教に成仏の言葉はあっても、それは名字のみであって実ではないということ。

 

法師品の已今当の説

法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。

 

玄義

法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。

 

妙楽大師湛然の法華玄義釈籤のこと。十巻。妙法蓮華経玄義釈籤の略称で、天台法華釈籤、法華釈籤、釈籤、玄籤ともいう。天台大師の法華玄義の注釈書。妙楽大師が天台山で法華玄義を講義した時に学徒の籤問に答えたものを基本とし、後に修訂を加えて整理したもの。法華玄義の本文を適当に分けて大小科段を立て、順次文意を解釈し、天台大師の教義を拡大補強している。

 

料簡

思いめぐらし考えること。思索すること。

 

講義

次に大聖人は、三位房からの質問に答えて、諸宗の邪義や批判を破折されている。

その最初に、爾前の諸経にも当分の得道があるとの説に対し、爾前経で得益があった人はすべて過去に法華経を下種されて結縁していたからであると明かされている。なお、「難問に云く」とは、他宗からの問難によればの意で、当時多くあった批判を挙げられたものである。

爾前経にも当分の得道があるという問難に対しては、爾前経巻三の「善男子、応当に仏・法及び僧を修習して、常想を作すべし。是の三法には異想有ること無く、無常相無く、変異想無かれ。若し三法に於いて異想を修せば、当に知るべし、是の輩の清浄の三帰、則ち依処無く、所有の禁戒皆具足せず、終に声聞・縁覚・菩提の果を証すること能わず。若し能く不可思議に於いて常想を修せば、則ち帰処有り。善男子、譬えば樹に因りて則ち樹影有るが如し」の文を挙げて反論せよと仰せである。

この涅槃経の文は、仏法僧は一体にして本有常住であるとする常想によって証果が得られるとの意である。すなわち、法華経寿量品に説かれる仏法僧の常住を修習することが因となって、爾前の諸経における声聞、縁覚、菩薩の得道が可能になるとの意である。

大聖人は常忍抄にこの文の意について「此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に譬うる文なり、経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云、又寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり過去に寿量品を聞きし者の事なり」(0981:03)と述べられている。

この文を挙げることによって、爾前経の得道といっても法華経本門寿量品の法門の影にすぎない、と破折せよとの意と拝される。

更に、妙楽大師の摩訶止観輔行伝弘決に、この涅槃経の文を釈して「所謂、久遠に必ず大無くんば、即ち小乗の行法をして成ぜざらしめん、本無きを以っての故に諸行成ぜず、樹の根無くんば華果を成ぜざるが如し」とあり、久遠に妙法蓮華経が説かれていなければ今日の小乗経において成道はできないことは、本がなければ諸の修行をしても成仏できず、木に根が無ければ花も実もならないようなものである。としているのである。

弘決にはまた「今日の声聞、禁戒を具するは良に久遠の初業に常を聞くに由る。若し昔聞かずんば、小尚具せず、况や復大をや。若し全く未だ曾って大乗の常を聞かずんば、既に小果無し。誰か禁戒の具・不具を論ぜん。実の為に権を施して覆相して具を論ず。かの久遠の初業に常を聞くに及んでこの世に顕わに論じて機を得てまさに具す」と釈されている。

この文は、久遠に妙法蓮華経を聞いたことによって今日の得道があるので、その妙法蓮華経を説くために小乗経や権大乗経を施してきたのであり、久遠に妙法蓮華経を聞いていなければ、現在、爾前経によって成仏することはできない、との意である。

大聖人はその意をとって「爾前の諸経にして得道せし者は久遠の初業に依るなるべし」とされ、この文が爾前の諸経には「一分の益之無き事を治定」していると教えられているのである。

更に、滅後の弘教においても同じで、正法・像法の間に利益を受け、証果を得た人は、釈尊在世に法華経に結縁したことによるのである、と述べられている。

すなわち、釈尊の仏法で得益した人は、在世では久遠に法華経を聞いて下種された人であり、正法・像法では在世に法華経に結縁した人に限るのである。したがって、爾前経は得益の縁になったにすぎず、爾前経で成道したとするのは誤りなのである。

 

彼が何度も爾前の得道を云はば

 

それでもなお爾前経にも得道があると言い張るならば、無量義経の「四十余年、未顕真実」の文をもって、仏説に従うべしと強く破折するように述べられている。

法華経の開経である無量義経には「諸の衆生の性欲は、不同なることを知れり。性欲は不同なれば、種種に法を説きき。種種に法を説くことは、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」と、法華経以前の四十余年間に説いた諸経は未だ真実を顕していない方便の教えであることを明かしている。

仏自身が未顕真実といっている以上、我ら凡夫は仏説を根本として成仏を期すのだから、他のいかなる人師が爾前得道といおうとも無用で、真実であるとすることはできないと破折せよとの意であろう。

涅槃経には「法に依って人に依らざれ」と厳しく戒めてあり、あくまでも仏の教説に依るべきであって、人師の説などに依ってはならないというのが仏法実践の基本なのである。したがって、いかなる人が爾前経に得道があるといっても、未顕真実であると打ち捨てていけ、と仰せである。

大聖人はまた「涅槃経に仏最後の御遺言として『法に依つて人に依らざれ』と見えて候、人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候」(1115:頼基陳状:03)とも「唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり」(0462:持妙法華問答抄:03)とも仰せになっている。大聖人は一貫して、仏法という以上は、あくまでも仏説を基本とすべしと厳格に主張されて、人師の己義邪見による邪義を破折されているのである。

また、無量義経の未顕真実の文で破折すれば十分であって、法華経方便品第二に「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」とあり、また「世尊は法久しくして後 要ず当に真実を説きたまうべし」と明かされている経文やその釈等は秘して出してはならない、と戒められている。法華経の文を出すまでもない、ということであろう。

 

得道の所詮は爾前も法華経もこれ同じ

 

その後更に、爾前経も法華経も成仏するということは同じである、という問難に対する破折がされている。

念仏宗では、観経で西方の極楽浄土に往生した者はそこでやがて成仏するとして、「所詮は同じ」と主張したものであろう。

それに対しては、前の「四十余年、未顕真実」の文のほかに、法華経の方便品第二の「十方仏土の中には 唯だ一乗の法のみ有り 二無く亦た三無し 仏の方便の説を除く 但だ仮の名字を以て 衆生を引導したまう」の文を立てて破折すべきである、と仰せである。

つまり、観経は未顕真実の経であり、また仏の方便の説である仮の文字であって、成仏の法である法華経へ導くための権経であるから、観経で成仏することなどありえない、とその邪義を破るよう教えられているのである。

また、観無量寿経は法華経と同時に説かれた経である、という主張に対しては、法華経の法師品第十にある「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」との文を挙げて破折せよ、と仰せである。

観無量寿経の一部が法華経と同じ霊鷲山で説かれたというので、法華経と同時の経であると主張したもののようである。しかし、已に説いた爾前の経と、今説いている無量義経と、当に説こうとしている涅槃経等の一切経のなかで、法華経が最も難信難解であり、第一であるとあるのだから、観無量寿経が同時の経だとしても、観経が劣り法華経が勝れていることに変わりはないのである。

また、観無量寿経には阿闍梨太子とあり、法華経では阿闍世王となっているので、観経は法華経より前に説かれた「已説」の経であることが明らかであり、同時という説は誤りなのである。

また、法華玄義巻三下の「若しは破、若しは立、皆是れ法華の意なり」の文や、妙楽大師の法華玄義釈籤巻三下の「今採って仏教を以って、法華の意を申ぶ、遍く破し遍く立ちて、教の指帰を明かす」の文を出すようにとの仰せである。

この文は、諸の経教をあるいは破り、時には用いるのも、みな法華経の意によらなければならない、との意である。

したがって、法華経以外の経にどう説かれていようとも、それはあくまでも法華経へ導くための方便であり、法華経の意によって用いるべきなのであって、法華経と同じなどと立てるのは、大きな誤りであることを示されているのである。

 

 

第四章(真言宗の邪義を責める)

本文

一状に云く真言宗等云云、答う彼が立つる所の如き弘法大師の戯論無明の辺域何れの経文に依るやと云つて・彼の依経を引かば云うべし・大日如来は三世の諸仏の中には何れぞやと云つて・善無畏三蔵・金剛智等の偽りをば汝は知れるやと云つて・其の後一行筆受の相承を立つ可し、大日経には一念三千跡を削れり漢土にして偽りしなり、就中僻見有り毘盧の頂上を蹈む証文は三世の諸仏の所説に之有りや、其の後・彼云く等云云、立つ可し大慢婆羅門が高座の足等云云、彼れ此れ是くの如き次第何なる経文論文に之を出すやと等云云、其の外常に教へし如く問答対論あるべし、設ひ何なる宗なりとも真言宗の法門を云はば真言の僻見を責む可く候。

 

現代語訳

真言宗に対してどのように答えるかとのことであるが、それには彼の宗の所立の弘法大師が法華経を「戯論」と言い、釈尊を「無明の辺域」というのは、どの経文に依るのかと聞くがよい。もし、その経文を引くなら、「大日如来は三世の諸仏のなかのいずれの仏か」を尋ね、「善無畏三蔵、金剛智等の偽りを汝は知っているのか」と言って、その後に善無畏が一行を欺いて、大日経の疏を筆受させた時のはかりごとを言うがよい。大日経には一念三千の法門は跡形もないのに、善無畏が中国に来て、大日経に一念三千の法門があると偽ったのである。

そのなかでもとくに僻見の甚だしいものは、毘盧遮那仏の頂上を踏むというものである。はたして三世の諸仏の説法に、仏の頂を踏んでよいというものがあるのか。その後に彼らはこういうことを言っていると立てて、昔、インドの大慢婆羅門がバラモンの三神と釈尊とを高座の足にして、四聖は我が足にも及ばないと言ったことを言うがよい。彼といい、此れといい、汝が言っていることは、いずれの経文、論文に出ているのかと責めるがよい。

その他は常に教えているように、問答対論をするがよい。たとえいかなる宗の者であっても、真言宗の法門を言うならば、真言の僻見を責めるがよいであろう。

 

語釈

真言宗

大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。

 

弘法大師

07740835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。

 

戯論

児戯に類した無益な論議・言論のこと。

 

無明の辺域

真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。

 

大日如来

大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。

 

三世の諸仏

過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。

 

善無畏三蔵

06360735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。

 

金剛智

06710741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。

 

一行

06830727)中国唐代の天台宗の僧であったが、真言宗の善無畏にたぼらかされて、真言の邪義を広めるのに力を尽くした。一行は中国の魏州の人で、唐の高宗、広通元年に生まれ、嵩山で剃髪した。普寂に禅を学び、さらに天台山国清寺で天台学を学んだ。開元4年(0726)、善無畏を助けて大日経を訳し、また善無畏にだまされて「大日経疏」20巻をあらわした。これは天台の教えを盗み、また誹謗した邪説である。開元15年(072745歳没。

 

筆受の相承

中国の真言宗の一行が善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいい、善無畏が天台宗の意によって釈したものであるのに、弘法は法華経を三重の劣と下した。これは善無畏・一行の真言の相承をも破ったものである。

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

 

一念三千

天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

僻見

偏った見方、誤った考え方、見解。僻は偏る・あやまる・よこしま。見は考え方、見方。

 

毘廬の頂上を蹈む

禅宗の教え。法身如来の頂上を踏み越えること。

 

大慢婆羅門

インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。

 

講義

次に大聖人は、真言宗を破折する要点を教えられている。

第一に、日本真言宗の祖・弘法大師空海が法華経を戯論といい、釈尊を無明の辺域としたのは何の経文によるのかと責めよ、と仰せである。

「戯論」とは、児戯に類した無益な論議、言論の意で、弘法が十住心論のなかで、「此くの如くの乗乗、自乗に仏の名を得れども、後に望めば戯論と作る」といって、真言に対すれば法華経等は戯論にすぎないといって下したことをさす。

「無明の辺域」とは、いまだ無明惑を断ち切らない、真実の悟りからは遠く隔たりのある境界の意で、弘法が秘蔵宝鑰巻下で「諸の顕教に於いては是れ究竟の理智法身なれども、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……是くの如くの一心は無明の辺域にして、明の分位に非ず」といって、法華経の教主は顕教のなかでは究竟の理法身であるが、真言門に対すれば初門にすぎず、明の分位である果門に対すれば無名の辺域であると下していることをさす。

そのように弘法の言い分の根拠は何の経にあるのかと責めよと仰せになっているのは、そうした文証などはどこにもなく、全く弘法の我見、邪見にすぎないからである。

そのことを撰時抄には「弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論に云く『此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す』又云く『無明の辺域にして明の分位に非ず』……此等の釈の心如何、答えて云く予此の釈にをどろいて一切経並びに大日の三部経等をひらきみるに華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論・六波羅蜜経に対すれば盗人・守護経に対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候はず……法華経を戯論の法とかかるること大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ」(0277:01)と破されている。

また真言天台勝劣事では「弘法大師釈摩訶衍論を証拠と為て法華を無明の辺域戯論の法と云う事是れ以ての外の事なり、釈摩訶衍論は竜樹菩薩の造なり、是は釈迦如来の御弟子なり争か弟子の論を以て師の一代第一と仰せられし法華経を押下して戯論の法等と云う可きや、而も論に其の明文無く随つて彼の論の法門は別教の法門なり権教の法門なり是円教に及ばず又実教に非ず何にしてか法華を下す可き、其の上彼の論に幾の経をか引くらんされども法華経を引く事は都て之無し権論の故なり……用ゆべからず用ゆべからず」(0138:06)と釈摩訶衍論を論拠としてきたときの破折の仕方も述べられている。

そのように、弘法の立義は全く根拠のないもので、それこそ正法誹謗の戯論であり暴論なのである。したがって、第一にそれを責めよとされたのであろう。

第二に、もし依経を出してきたなら、大日如来は三世の諸仏のうちでどこに位置する仏なのか、と責めよと仰せである。

「彼の依経を引かば」とは、前の戯論や無明の辺域の文証という意味ではなく、真言宗が大日如来の所説であるとして真言の三部経などを引いた場合にはとの意で「三世の諸仏の中には何れぞや」とは、その大日如来はいつ出世した仏なのかを問い詰めよ、との仰せである。

そのことについて真言見聞には更に詳しく「真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、若し爾れば大日の出世成道・説法利生は釈尊より前か後か如何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖教の通判なり……若し他土の仏なりと云はば何ぞ我が主師親の釈尊を蔑にして他方・疎縁の仏を崇むるや不忠なり不孝なり逆路伽耶陀なり、若し一体と云はば何ぞ別仏と云うや若し別仏ならば何ぞ我が重恩の仏を捨つるや……凡そ法華経は無量千万億の已説・今説・当説に最も第一なり、諸仏の所説・菩薩の所説・声聞の所説に此の経第一なり諸仏の中に大日漏る可きや、法華経は正直無上道の説・大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給う」(0149:01)等と述べられている。

すなわち、真言の依経が大日如来の所説だと主張するなら、その大日如来はだれを父母としていつ成道したのか、法を説いて衆生に利生を与えたのは釈尊より前なのか後なのか、もしもこの娑婆世界の仏だというならば世に一仏のみとする仏教の通判に反することになり、もしも他土の仏だというなら此土の娑婆世界の教主である有縁の釈尊をないがしろにして無縁の大日如来を崇めるのは不忠不孝の者となるではないか、等と責めるべきなのである。

大日如来といっても、釈尊が方便に説いた法身仏であり権仏にすぎない。にもかかわらず大日如来を尊極の仏と立てて法華経を誹謗し、教主釈尊をないがしろにしているところに真言宗の根本の誤りがあり、そのために大聖人は真言亡国と定められているのである。早勝問答には「亡国の証拠如何、答う法華を誹謗する故なり云云、一義に云く三徳の釈尊に背く故なり」(0167:02)と述べられている。

第三に、中国・真言宗の祖・善無畏と金剛智がどのように人々を偽ったか知っているかと問うて、善無畏が一行をだまして大日経疏で真言が法華経に勝れるとの誤りを筆受させたことを申し立てて責めるべきである、と仰せである。

善無畏や金剛智の偽りとは、インドから中国に真言を伝えた時、大日経にもともと一念三千の法があると立て、偽って弘めたことをいう。

善無畏が天台宗の一行禅師をだまして大日経疏を書かせたいきさつと内容は撰時抄に次のように詳しく述べられている。

「大唐の玄宗皇帝の御宇に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす……善無畏三蔵をもはく此の経文をあらわにいゐ出す程ならば華厳法相にもをこつかれ天台宗にもわらはれなん大事として月支よりは持ち来りぬさてもだせば本意にあらずとやをもひけん、天台宗の中に一行禅師という僻人一人ありこれをかたらひて漢土の法門をかたらせけり……天台宗の立てられけるやうを申しければ善無畏をもはく天台宗は天竺にして聞きしにも・なをうちすぐれてかさむべきやうもなかりければ善無畏・一行をうちぬひて云く……天台宗は神妙の宗なり今真言宗の天台宗にかさむところは印と真言と計りなり……天台大師の法華経に疏をつくらせ給へるごとく大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをもう汝かきなんやといゐければ一行が云くやすう候、但しいかやうにかき候べきぞ……爾の時に善無畏三蔵大に巧(たくら)んで云く大日経に住心品という品あり無量義経の四十余年の経経を打ちはらうがごとし、大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきやうは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし……さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば三密相応の秘法なるべし……天台宗は意密計りなれば……といゐければ、一行阿闍梨は此のやうにかきけり」(0275:05)。

善無畏は法華経と大日経とはインドにおいては同一の経であり、一念三千の理のみを説いたのが法華経であり、一念三千の意密に印と真言を加えた三密相応の法を説いたのが大日経であると偽って、法華経と大日経は一念三千の理は同じだが、印と真言の事において大日経が勝れるという趣旨で一行に大日経疏を書かせたのである。善無畏の口述を受けて一行が筆記したので、これを「一行筆受の相承」といった。

善無畏がそのように一行を偽ったのも、中国にきて天台大師が法華経によって立てた一念三千の法門を知り、それを凌駕することはとうていできないので、その理を盗んで大日経にもあるとこじつけ、大日経等に印と真言が強調されていることをもって法華経に勝れていると立てたのである。

また、金剛智は金剛頂経等を中国に伝えて翻訳したが誤りが多く、善無畏と同じく真言第一と立てて法華経を下したのである。

そして「大日経には一念三千跡を削れり漢土にして偽りしなり」と仰せのように、理同事勝の邪義は中国へ善無畏や金剛智が渡って一念三千の法門を知ってから偽ってこじつけたもので、もともと大日経に一念三千の法門など説かれてはいないのである。

第四に、最も甚だしい僻見は、真言宗で灌頂の儀式の際に壇上に曼荼羅を敷いて仏の頂を踏むことであり、三世の仏の所説のどこにそのようなことがあるのかと責めよ、と仰せである。

「毘廬の頂上を蹈む」とは、もともと禅宗がいった言葉で、毘廬とは毘廬遮那仏の略で法身仏をいい、その頂上を踏み越えること。中国・宋代の禅宗の一派・雲門宗の雪竇重顕の書・壁巌録に「如何なるか是れ十身調御。師云く、檀越、毘廬の頂上を踏み行け」とある。仏の十身を会得することは仏の頂を踏み越えていくことで、仏の身相に執着してはならない、我が身が仏であるとの意という。

それに対して大聖人は蓮盛抄で「毘盧とは何者ぞや若し周遍法界の法身ならば山川・大地も皆是れ毘盧の身土なり是れ理性の毘盧なり、此の身土に於ては狗野干の類も之を蹋む禅宗の規模に非ず・若し実に仏の頂を蹋まんか梵天も其の頂を見ずと云えり……夫れ仏は一切衆生に於いて主師親の徳有り若し恩徳広き慈父を蹋まんは不孝逆罪の大愚人・悪人なり、孔子の典籍尚以て此の輩を捨つ況んや如来の正法をや豈此の邪類・邪法を讃めて無量の重罪を獲んや云云、在世の迦葉は頭頂礼敬と云う滅後の闇禅は頂上を蹋むと云う恐る可し」(0152:10)と厳しく破折されている。

主師親の三徳を具えた仏を足で踏むなどということは、不孝・悪逆の大謗法であり、大重罪なのである。

真言宗では僧が一定の地位に進むときに頭の頂に水を注ぐ灌頂の儀式を行うが、その際に檀上に諸仏・菩薩の図を描いた曼荼羅を敷く。したがって仏を踏んで灌頂の儀式を行うことから、それを「毘廬の頂上を蹈む」といわれたものであろう。ゆえに、禅宗に対するのと同じ破折がそのままあてはまるであろう。そのような不遜な儀式が経文に説かれているわけはないのである。

それでもとやかくいうようならば、インドの大慢婆羅門と同じだと責め、いかなる経文にあるのかと問い詰めよと述べられている。

「大慢婆羅門が高座の足」とは、大唐西域記によれば、大慢とは南インド摩臘婆国のバラモンで、生まれながらに学問に秀でて内外典を究め、過去・現在・未来の賢人・聖人よりも優れていると慢じて、バラモン教の大自在天・婆籔天・那羅延天の三天と釈尊の像を刻んで台の四足とし、自分はその上に座って説法したという。毘廬の頂を踏むなどというのも、この大慢婆羅門と同じ増上慢であり逆罪なのである。

大聖人は撰時抄に「彼の月氏の大慢婆羅門は生知の博学・顕密二道胸にうかべ内外の典籍・掌ににぎる、されば王臣頭をかたぶけ万人師範と仰ぐあまりの慢心に世間に尊崇する者は大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊・此の四聖なり我が座の四足にせんと座の足につくりて坐して法門を申しけり、当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて潅頂する時敷まんだらとするがごとし、禅宗の法師等が云く此の宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし、而るを賢愛論師と申せし小僧あり彼をただすべきよし申せし……大慢を驢にのせて五竺に面をさらし給いければいよいよ悪心盛になりて現身に無間地獄に堕ちぬ、今の世の真言と禅宗等とは此れにかわれりや」(0278:14)と大慢の故事を例として、真言と禅の邪見を破折されている。

最後に、その外には常日ごろ教えているとおりに問答対論をすべきであり、また相手が何宗であっても真言の法門を主張したなら、真言の誤りを責めよ、と仰せである。

 

 

第五章(念仏の邪義を責める)

本文

次に念仏の曇鸞法師の難行・易行・道綽が聖道・浄土・善導が雑行・正行・法然が捨閉閣抛の文、此等の本経・本論を尋ぬべし、経に於て権実の二経有ること例の如し、論に於ても又通別の二論有り、黒白の二論有ること深く習うべし、彼の依経の浄土三部経の中に是くの如き等の所説ありや、又人毎に念仏阿弥陀等之を讃す又前の如し、所詮和漢両国の念仏宗・法華経を雑行なんど捨閉閣抛する本経本論を尋ぬべし、若し慥なる経文なくんば是くの如く権経より実経を謗ずるの過罪、法華経の譬喩品の如くば阿鼻大城に堕落して展転無数劫を経歴し給はんずらん、彼の宗の僻謬を本として此の三世諸仏の皆是真実の証文を捨つる其の罪実と諸人に評判せさすべし、心有らん人誰か実否を決せざらんや、而して後に彼の宗の人師を強に破すべし、

 

現代語訳

次に念仏宗の曇鸞法師が立てた難行道・易行道、道綽の立てた聖道門・浄土門、また、善導の雑行・正行、法然の捨閉閣抛等の義については、いったい、どの経によってその義を立てたのか、その本経、本論を尋ねるがよい。経において権経と実経との区別はあるが、論においてもまた、通申論、別申論の二つがあり、黒論と白論の二論があることを深く知らねばならない。

彼らの依経となっている浄土三部経のなかに、彼らが唱えているような法門があるのであろうか。また、人ごとに念仏を称え、阿弥陀仏を念じているが、その依文についても同様である。結論していうならば、日本、中国の二国の念仏宗で法華経を雑行などと言い、捨閉閣抛せよといっているが、経文や論文があるのかを尋ねるがよい。もし、確かな経文がなければ、このように権教の立場から実教である法華経を誹謗する罪は、法華経譬喩品のとおりであるならば、阿鼻大城に堕ちて、無数劫の間、苦しまなければならないだろう。

念仏宗の誤りを根本にして、三世の諸仏が「皆是れ真実なり」と証明された法華経を捨てるのは、その罪は実に恐ろしいものだと人々に言うがよい。思慮ある人ならば、その是非をわきまえないわけがないであろう。このようにした後に、彼の宗の人師を強く破折するがよい。

 

語釈

念仏

念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。一般に浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。

 

曇鸞法師

04760542)中国念仏の開祖で、菩提瑠支から観無量寿経を授けられ、もっぱら念仏の修行を積んだ。並州の大寺、石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の途山寺で、76歳で死んだ。浄土宗では七祖のうちの第三祖としている。「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道うんぬんの文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗教を「修行し難き道」と悪口し、排斥している。

 

難行

難行道のこと。易行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。

 

易行

易行道のこと。難行道に対する語。法然の立てた邪義で、出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。やさしい修行のことで、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。

 

道綽

05620645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。

 

聖道

聖道・浄土の二門のうちの聖道門。自力によってこの現実世界で成仏することができるとする法門。

 

浄土

浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384:02)と申されている。

 

善導

06130681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

雑行

浄土宗の教義で、善導の観無量寿経疏正宗分散善義巻四に典拠をもつ。同書のなかに「行き就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」とある。修行を正行と雑行に分け、浄土三部経によって修行するのが正行であるとし、五種の正行以外の諸善を雑行と名づくとしている。五種の正行とは、浄土宗の教義。極楽浄土に往生するための五種類の正行のこと。五種の雑行に対する語。①読誦正行。専ら『観経』等を読誦する。すなわち文に、「一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」ること。②観察正行。専ら彼の国の依正二報を観察する。すなわち文に、「一心に専注して彼の国の二報荘厳を思想し観察し憶念す」ること。③礼拝正行。専ら弥陀を礼する。すなわち文に、「もし礼するには、すなわち一心に専ら彼の仏を礼す」ること。④称名正行とは、専ら弥陀の名号を称する。すなわち文に、「もし口に称するには、すなわち一心に専ら彼の仏を称す」ること。⑤讃歎供養正行。専ら弥陀を讃歎供養する。すなわち文に、「もし讃歎供養するには、すなわち一心に専ら讃歎供養す。これを名づけて正と為す」ること。この中で称名正行を第一の正行、他の四つをその助行とする。この五種の正行の説をふまえて法然は浄土三部経の修行を正行、それ以外の経教の修行を雑行として排した。なお、五種の雑行とは浄土宗の教義で、極楽浄土に往生することができない五種類の修行のことで、選択本願念仏宗にある。⑥読誦雑行。『観経』等の往生浄土の経を除いて已外の大小乗顕密の諸経において、受持し読誦すること。⑦観察雑行。極楽の依正を除いて已外の大小、顕密、事理の観行、皆ことごとく観察雑行という。⑧礼拝雑行。弥陀を礼拝するを除いて已外の、一切の諸余の仏菩薩等、および諸の世天等において、礼拝恭敬すること。⑨称名雑行。弥陀の名号を称するを除いて已外の自余の一切の仏菩薩等、および諸の世天等の名号を称すること。⑩讃歎供養雑行。弥陀仏を除いて已外の一切の諸余の仏菩薩等および諸の世天等において、讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行という。

 

正行

①正しい教えによって立てた正しい行為・修行。②南無妙法蓮華経の題目を唱えること。

 

法然

11331212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(121280歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。

 

捨閉閣抛

法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。

 

権実の二経

権教と実教の二教のこと。権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。

 

通別の二論

通論と別論のこと。菩薩の論蔵を二種に分類したもの。通論とは通じて大乗・小乗の諸教を解釈したもの。別論は別して一経または一品にしぼって論訳したものをいう。

 

黒白の二論

黒論と白論。黒論は仏説に依らない論、白論は仏説に依る論。

 

浄土三部経

念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。

 

阿弥陀

梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。

 

譬喩品

妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。

 

僻謬

偏り誤っていること。

 

講義

次に、念仏の邪義を破折する要点を示されている。

はじめに、念仏の教義の基本となっている、曇鸞の立てた難行道・易行道や、道綽が立てた聖道門・浄土門の別や、善導の雑行・正行の立て分け、法然が主張した捨閉閣抛等について、その本経本論を尋ねよ、と仰せである。つまり、どこにその根拠となる経文があり、いずれの論釈に出典があるのかと責めよ、という意である。それらの立義はすべて経論になんの根拠もない我見による邪義にすぎないからである。

曇鸞は中国浄土宗の祖とされ、その著・往生論註のなかで、竜樹が立てたという雑行道と易行道のうちの易行道を強調し、浄土へ往生する本因は阿弥陀仏の本願によるとする他力本願思想を説き、それがその後の浄土思想のもととなった。

道綽は中国浄土宗の第二祖で、曇鸞の碑文を見て浄土教に帰依したといい、その著・安楽集のなかで、曇鸞の教説を受けて釈尊一代の聖教を聖道門・浄土門に分け、自力で難行道を行って此の土で成仏を期する教えを聖道門として退け、末法には他力の易行道で阿弥陀仏の名字を称えて往生する教えである浄土門がかなっていると主張した。

善導は道綽の弟子で中国浄土宗の第三祖とされ、その著・観無量寿経疏のなかで、浄土往生の修行に正行と雑行があり、正行とは阿弥陀仏を対象とする修行をいい、五種の正行(読誦・観察・礼拝・称名・賛歎供養)があるとし、雑行は正行以外の一切の仏道修行をいい、雑行を捨てて正行に帰せよと述べている。

日本浄土宗の祖・法然はそうした曇鸞・道綽・善導の教説を用いて選択集を著し、浄土宗の依経である観経などの浄土三部経以外の一切の諸経を捨閉閣抛、すなわち「聖道を捨て……定散の門を閉じ……聖道門を閣き……諸雑行を抛ち」と主張したのである。

それに対して大聖人は立正安国論に「之に就いて之を見るに曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』の誡文に迷う者なり」(0023:04)とその誤りを破折されている。

竜樹や曇鸞・道綽・善導は法華経以前の四十余年の経々について難行道・易行道と立て分けたにすぎないにもかかわらず、法然は、法華経を難行道・聖道門・雑行のなかに含め、末法には時機に相応しない教えであるとして否定したことに根本的な誤りがある。

守護国家論には「選択集の第一篇に云く……道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す……此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな」(0052:08)と述べられている。

そのように、法然の捨閉閣抛の主張は、経論に背いている邪義であるばかりではなく、曇鸞等の中国浄土宗の先師の立義にも我見を加えたもので、故意に法華経を否定して末法に時機不相応な念仏を弘めようとしたものなのである。

次に大聖人は、仏の説いた経典にも権教と実教の立て分けがあり、経文の意を論議した論にも、通じて諸経を論釈した通論(通申論)と、別して一経・一品に限って論釈した別論(別申論)の二つがあり、また仏説に依らない黒論と、仏説に依った白論の二つがあることを深くわきまえるべきであると仰せである。

その意は、たとえ経典に文証があったとしても、それが権経のものであるなら方便のために説かれた未顕真実の教えであり、まして実教である法華経に背いたものは用いてはならない、ということであろう。また、論師・人師の著した論を根拠にするにしても、それが通論か別論かによって意味は異なってくるし、ましてそれが仏説に依った白論なら用いるべきであるが、仏説に依らない黒論であったら用いてはならないのである。

そのように、たとえ経典や論釈に出典があったとしても、そのまま用いていいわけではなく、その経や論の内容や位置づけを明確にしたうえで、その用否を決めなければならない。それを知らずに経論を用いたならば、邪見に陥ってしまうのである。ゆえに、そうした経論の差異を「深く習うべし」と仰せられているのである。

そして、念仏の依経である浄土の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)のなかに説かれているのかと責めよ、と仰せである。もちろん一言半句たりともあるはずがない。

また、多くの人々に阿弥陀仏の名を称えさせることについても、それはいかなる経論にあるのか、更に中国と日本の念仏宗で法華経を雑行などと下して捨閉閣抛せよと否定しているが、その主張の根拠となる経論はあるのかと追及せよ、と仰せである。

そして、確かな経文もないのに、念仏の人師が権経に依って実経である法華経を否定して誹謗した過ちの罪は、法華経譬喩品第三に「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とあるように、無間地獄に堕ちて無数劫を経るであろう、と断じられている。正法を誹謗することは悪のなかの大悪であり、その罪はいかなる悪業にもまさる極重罪にあたるので、その受ける業苦も大きいのである。

呵責謗法滅罪抄には「五逆罪と申すは一逆を造る猶・一劫・無間の果を感ず……親を殺す者此程の無間地獄に堕ちて隙もなく大苦を受くるなり、法華経誹謗の者は心には思はざれども色にも嫉み戯れにも訾る程ならば経にて無けれども法華経に名を寄たる人を軽しめぬれば上の一劫を重ねて無数劫・無間地獄に堕ち候と見えて候」(1125:05)と述べられ、五逆罪よりもはるかに謗法の罪が重いことを明かされている。

そのうえで大聖人は、法論の場において、そうした中国・日本の浄土宗の人師の僻見・謬説を根本として、多宝如来をはじめ三世の諸仏が「釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と定めた法華経を捨てるその罪がいかに大きいかを、列座の諸人に判断させるべきである、と仰せである。そうすれば、心ある人はどちらが正しいかを決めることができるであろう。――その後に浄土宗の人師を強く破折すべきである、と仰せになっている。

つまり、他宗と法論対決をする場合、相手とその邪義を打ち破るだけではなく、その座にいる人々にもどちらが正しいかを判断ができるようにもっていくべきであると、その心構えを教えられているのである。

 

 

第六章(現証を示して諸宗の謗法を明かす)

本文

一経の株を見て万経の勝劣を知らざる事未練なる者かな、其の上我と見明らめずとも釈尊並びに多宝分身の諸仏の定判し給へる経文・法華経許り皆是真実なるを不真実・未顕真実を已顕真実と僻める眼は牛羊の所見にも劣れる者なるべし、法師品の已今当・無量義経の歴劫修行・未顕真実何なる事ぞや五十余年の諸経の勝劣ぞかし、諸経の勝劣は成仏の有無なり、慈覚智証の理同事勝の眼・善導法然の余行非機の目・禅宗が教外別伝の所見は東西動転の眼目・南北不弁の妄見なり、牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず、依法不依人の経文・毀謗此経の文をば如何に恐れさせ給はざるや、悪鬼入其身して無明の悪酒に酔ひ沈み給うらん。

   一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や、観仏相海経等の諸経並びに竜樹菩薩の論文如何が候や、一行禅師の筆受の妄語・善無畏のたばかり・弘法の戯論・慈覚の理同事勝・曇鸞道綽が余行非機・是くの如き人人の所見は権経権宗の虚妄の仏法の習いにてや候らん、それほどに浦山敷もなき死去にて候ぞやと・和らかに又強く両眼を細めに見・顔貌に色を調へて閑に言上すべし。

 

現代語訳

一経に執着して、万経の勝劣を知らないことは未熟者ではないか。そのうえ、自分で一切経を読まないでも、釈尊、多宝仏、十方分身の諸仏が定められた法華経に「法華経ばかりが真実」と説かれているのを、「真実でない」と言ったり、「四十余年には未だ真実を顕さない」と説かれているのを、「既に真実を顕した」とする僻見は、牛羊にも劣る見方である。法華経法師品第十に「已に説き、今説き、当に説かん」と説き、無量義経に、歴劫修行の教えは未顕真実の教えであると記されているのは、釈尊五十余年の諸経の勝劣を明示されたものである。

慈覚、智証の理同事勝の眼、善導、法然の余行非機の目、禅宗の教外別伝の所見は東西を取り違えた見方であり、南北をわきまえない妄見である。それは牛羊にも劣り、こうもりと違わないものである。涅槃経の「法に依って人に依らざれ」、法華経譬喩品第三の「此の経を毀謗せば、即ち一切、世間の仏種を断ぜん」の経文をどうして恐れないのであろうか。悪鬼が其の身に入って、無明の悪酒に酔っているからであろう。

一切は現証にすぎるものはない。善無畏の頓死、一行の横死、弘法、慈覚の死去のありさまなどは、まことに、正法の行者の姿とは思えない。観仏相海経等の諸経並びに、竜樹の論文に臨終の時に成仏の可否が分かるとあるではないか。一行禅師が筆受した大日経疏の妄語、善無畏のたばかり、弘法の法華経は戯論だという説、慈覚の「理同事勝」、曇鸞・道綽の「余行非機」等の所説は、権経権宗の誤れる仏法の習いであろう。これらの人々の死に方はそれほどにうらやましくもないと、穏やかに、また強く、両眼を細くして、顔色をととのえて言うべきである。

 

語釈

木の切り株。「くいぜ」と読むが、古くは「くいせ」とも言った。木の切り口を見れば年輪等、一部の内容は知られるが、だからといって樹の全体像を知ることはできない。それと同様に、一経(浄土三部経)を見ただけで万経(一切経)を見切ったような錯覚に陥っている念仏者は、まさしく〝未練なる者〟、未熟者であると喝破されている。

 

多宝

多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。

 

分身の諸仏

本仏から身を分けて、衆生を教化するために種々の世界で法を説く仏のこと。分身は分体・散体ともいう。

 

歴劫修行

爾前の諸経の菩薩・二乗が無量劫にわたって修行すること。小乗の菩薩は三僧祇、通教の菩薩は動踰塵劫、別教の菩薩は多倶低劫などと修行の時節を定め、初発心から得道までの長い期間にわたって菩薩道を行じていくこ。

 

慈覚

07940864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。

 

智証

08140891)。延暦寺第4代座主。諱は円珍。智証は諡号。讃岐国那珂郡(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し天安2年(0859)帰国。帰国後、貞観元年(0859)三井・園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言の悪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平4年(08911078歳で没著書に「授決集」二巻、「大日経指帰」一巻、「法華論記」十巻などがある。

 

理同事勝

真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。

 

余行非機

法然の選択集にある語。末法では念仏以外の諸教は衆生の機根に合わないとする説。

 

禅宗

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

教外別伝

「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139:真言諸宗違目:09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181:行敏訴状御会通:06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179:行敏御返事:04)である。

 

蝙蝠鳥

こうもりのこと。鳥のように飛び、獣の姿でもあることから、古来、どちらにも属さなかったり、形勢によって立場を変える者をこの名で呼ぶ。

 

毀謗此経

法華経譬喩品第3の文。「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、則ち一切、世間の仏種を断ぜん」とある。

 

悪鬼入其身

勧持品に「濁劫悪世の中には、多くの諸の恐怖あらん、悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん」とある。六道の一つである餓鬼道の衆生を鬼といい、天竜等の八部衆を神というが、この鬼神、天神、夜叉鬼等の類いを悪鬼という。人に対しては病気を惹き起こし、また思想の乱れを起こす。国家社会に対しては、天変地変や思想の乱れ等を惹き起こす働きをする。ここでは、法然・弘法等の邪宗の僧が、国家権力に取り入って、法華経の行者を迫害することをさす。兄弟抄には「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1083:04)とある。

 

無明の悪酒

無明とは一切の煩悩の根本となる無明惑のこと。成仏を妨げる根本の無明を、人を酔わせる悪酒にたとえたもの。

 

現証

三証のひとつ。現実の証拠のこと。

 

善無畏・一行が横難横死

横難は不慮の災難。思いがけない災難。横死は天寿を全うすることができず、不慮の災害等で死ぬことをいう。大日経疏巻5に「阿闍梨の言く、少かりし時、嘗て重病に因りて、神識を困絶せしに、冥司に往詣して、此の法王を覩たり…因りて放されて、此に却還せらる。蘇るに至りて後、その両臂の縄に縛持せられし処に、猶お蒼痕あり、旬月にして癒たりき」とある。また、「一行の王難」は中国・唐代に、玄宗皇帝が一行に寵愛している楊貴妃の像を描かせた。その時、あやまって筆を落とした時、臍のあたりに黒い点が落ちてしまった。玄宗は楊貴妃の臍のところに一つのホクロがあることから、一行を怪しんで火羅国に流したという。

 

弘法・慈覚が死去の有様

弘法は即身成仏といって、室にはいったまま入定したという。しかし入定したままの弘法の姿を見た人はいない。また、慈覚大師は頭と首が別々にされたとある。

 

観仏相海経

現存の大蔵経中には、この経名は見当たらない。あるいは観仏三昧海経をさすのであろうか。十法界明因果抄には「観仏三昧経に云く『五逆罪を造り因果を撥無し大衆を誹謗し四重禁を犯し虚く信施を食するの者此の中に堕す』と阿鼻地獄なり」(0427:04)と述べられている。

 

竜樹

梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

 

虚妄

空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。

 

講義

次に、法華経と諸経の勝劣に迷う諸宗の人師の愚かさを厳しく指摘され、法華経を誹謗した諸宗の人師の死相が悪かった現証を挙げて破折するように教えられている。

 

一経の株を見て万経の勝劣を知らざる事

 

そのはじめに、一経に執着して万経の勝劣を知らないのは未熟な者であり、釈尊や多宝如来等の定判を用いれば法華経のみが真実であり、最勝であることは疑いないではないかと責めよ、と仰せである。

「法華経許り皆是真実」とは、法華経見宝搭品第十一で、多宝如来が「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は、能く平等大慧、菩薩を教うる法にして、仏に護念せらるる妙法華経を以て、大衆の為めに説きたまう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と証明したことをさす。

「未顕真実」とは、法華経の開経である無量義経に「四十余年には未だ真実を顕さず」とあることをさす。

そのように経文に明らかであるにもかかわらず、法華経を真実でないと下したり、反対に未顕真実の経を真実であるとしている歪んだ眼を「牛羊の所見にも劣れる者なるべし」と指摘されている。

「法師品の已今当・無量義経の歴劫修行・未顕真実何なる事ぞや五十余年の諸経の勝劣ぞかし」とは、法華経法師品第十に「我が説く所の諸経 而も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり……我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とあり、また無量義経の「四十余年未顕真実」の文の次に「是の故に衆生は得道差別して、疾無上菩提を成ずることを得ず……方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども……衆生の解は異なる。解は異なるが故に、得法・得果・得道も亦た異なる」とあることをさし、それらの経文こそ釈尊一代五十年の諸経の勝劣を明らかにしたものである。との意である。

法師品の已今当について、法華文句には、已説とは爾前の四十余年の諸経をいい、今説とは無量義経をいい、当説とは涅槃経をいうとしている。これを「已今当の三説」といい、この三説に超過した法華経を「三説超過」という。

法華初心成仏抄に「法華より外の経には全く已今当の文なきなり已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云う今説とは無量義経を云う当説とは涅槃経を云う此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり」(544:04)と述べられているように、已今当の三説こそ、釈尊が一代五十年の説いた諸経の勝劣を明かしたものなのである。

また無量義経の歴劫修行の文は、四十余年の爾前の諸経は、女人・二乗・悪人等は成仏できないと差別を設け、しかもその修行は歴劫修行であり、したがって一切衆生の即身成仏を説いた法華経に劣るのである。

「諸経の勝劣は成仏の有無なり」とは、諸経の勝劣は、衆生が成仏できるかどうかという問題と結びついているということである。

このように一切衆生を説いた法華経こそ最も勝れるのであるが、ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:上野殿御返事:11)と明かされているように、末法にあっては南無教法蓮華経こそが唯一の衆生の成仏の法なのである。

そのように、法華経の勝劣は明らかであるのにもかかわらず、理同事勝、余行非機、教外別伝などの義を立てた諸宗の人師は「牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず」と厳しく破折されている。正邪を正しく判断できないことから牛や羊にも劣るとされ、蝙蝠と同類であるとされている。

理同事勝とは、法華経と大日経を比較すると、説かれている一念三千の理は同じだが、印と真言の事相が法華経には欠けているので大日経が勝れているというもので、比叡山延暦寺の座主でありながら、天台法華宗に真言を取り入れて天台真言宗としてしまった慈覚や智証が立てた邪義である。

余行非機とは、法然の選択集にある「諸行非機」から出た言葉で、善導や法然が念仏以外の修行は衆生の機根に合わないと主張した邪義をさす。

教外別伝とは、仏の本意は教説を用いないで伝えられ、文字や言語によって明らかになるものではないとする禅宗の教義をいう。

そして、涅槃経巻六に「法に依って人に依らざれ」と説かれ、法華経譬喩品第三に「若し人は信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん……其の人は命終して 阿鼻獄に入らん」と示されている文をどうして恐れないのか、と責められている。

依法不依人の仏の戒めに背いた我見・邪見によって法華経を諸経に劣ると下しているのは、仏種を断じて堕地獄の業因となる正法誹謗の重罪にあたるのであり、それを恐れることなく行っているのは、法華経勧持品第十三に「悪鬼は其の身に入って」とあるような姿であり、また無明の酒に酔いしれているというしかないのである。

大聖人は御講聞書にも「本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり……失とは無明の酒に酔いたる事なり仍て本心を失うと云うなり、此の酔をさますとは権教を捨てしむるを云うなり」(842:一不可失本心の事:01)と仰せであり、正法に背いて邪法に執着することを、悪酒に酔って本心を失っている姿にたとえられている。

 

一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死

 

大聖人は更に、一切は現証にすぎるものはないとされ、諸宗の人師の臨終の姿が悪かった例を挙げられ、こんなことは正法の行者にはありえないことで、それこそ正法誹謗の現証であると教えられているのである。

中国に初めて真言密教を伝えた善無畏は、一時頓死して閻魔王の責めにあったが、法華経の「今此三界」の文を唱えて蘇生したといわれ、またその死相が悪くて堕地獄の相だったことが弟子の記録にも明らかである。

善無畏の死相については報恩抄に「善無畏三蔵は……天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、忽に頓死して二人の獄卒に鉄の縄七すぢつけられて閻魔王宮にいたりぬ、命いまだ・つきずと・いゐてかへされしに法華経を謗ずるとや・おもひけん真言の観念・印・真言等をば・なげすてて法華経の今此三界の文を唱えて縄も切れかへされ給いぬ……結句死し給いてありしには弟子等集りて臨終いみじきやうを・ほめしかども無間大城に堕ちにき、問うて云く何をもってか・これをしる、答えて云く彼の伝を見るに云く『今畏の遺形を観るに漸く加縮小し黒皮隠隠として骨其露なり』等云云、彼の弟子等は死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(0315:12)と詳しく述べられている。

善無畏にだまされて大日経は法華経に勝るという大日経疏を書いた天台僧の一行は、後に玄宗皇帝の籠姫・楊貴妃の姿を描いた際、あやまって筆を落とした時、臍のあたりに黒の点を付けてしまった。玄宗は、楊貴妃の臍のところに一つの黒子があることから、一行を怪しんで火羅国に流した、といわれている。それを「一行の横難」とされたものであろう。

日本真言宗の祖・弘法は、その死後に弟子達が入定と称してその遺骸を人の目に触れさせなかったと伝えられており、それはよほど死相が悪かったためと思われる。

比叡山延暦寺の第三代座主でありながら天台宗を密教化した慈覚については、慈覚大師事に「慈覚大師の御はかは・いづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭は出羽の国・立石寺に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか」(1019:12)と述べられているように、出羽国で首を切られて頭と体が別に葬られたと伝えられている。慈覚の死は横死だったのである。

法華経を誹謗して真言が勝るとの義を立てた人師が、そろってその死相が悪かったということは、真言最勝の義が仏説に背く邪義であることを示す現証である。

そして、観仏相海経や竜樹菩薩に論文にどうあるか、と仰せになっている。観仏相海経とは観仏三昧海経のことと思われ、巻六に「法を非法と説き、非法を法と説いて、諸の徒衆を教えて皆邪見を行ぜしむ。禁戒を持ち威儀欠けずと雖も、謬解を以っての故に命終の後、箭頃を射る如く阿鼻獄に堕ちて、八十億劫に恒に苦悩を受く」という文があることをさしていると考えられる。

「竜樹菩薩の論文」については、妙法尼御前御返事に「大論に云く『臨終の時色黒き者は地獄に堕つ』等云云」(1404:03)とある。大論とは竜樹造とされる大智度論をいう。

そうした経釈によれば、前に挙げた諸宗の人師の死相は、地獄に堕ちた姿であることは明瞭なのである。

一行は善無畏にだまされて大日経疏で述べた真言最勝の義のため、弘法は法華経を戯論とした邪義のため、慈覚は理同事勝と立てて法華経を下したため、曇鸞・道綽は余行非機といって法華経を衆生の機根に合わないと謗じたため、すなわち方便権経によって法華経を誹謗したがゆえに無間地獄に堕ちた証拠として、無残な死相を現じたのである。

大聖人は、諸経の勝劣に迷う者に対する破折の在り方を示され、最後に「それほどうらやましい死にざまではないではないか」と、穏やかに、しかも強く、両眼を細くして、顔色を整えて静かに言い切るべきである、と教えられている。

厳しい罰の現証を指摘するのだからこそ、感情に走ったり、声を大きくして言うのではなく、静かに強く言い切ることが大切となるのである。こちらが感情的になれば相手も感情的になって、いかに正しい道理でも聞くことができないからであろう。そうした人情の機微をふまえて折伏の在り方を教えてくださっているのである。

 

 

第七章(法華経の得益の大なるを示す)

本文

状に云く彼此の経経得益の数を挙ぐ等云云、是れ不足に候と先ず陳ぶべし、其の後汝等が宗宗の依経に三仏の証誠之有りや未だ聞かず、よも多宝分身は御来り候はじ、此の仏は法華経に来り給いし間・一仏二言はやはか御坐候べきと・次に六難九易何なる経の文に之有りや、若し仏滅後の人人の偽経は知らず、釈尊の実説五十年の説法の内には一字一句も有るべからず候なんど立つ可し、五百塵点の顕本之有りや・三千塵点の結縁説法ありや・一念信解・五十展転の功徳何なる経文に説き給へるや、彼の余経には一二三乃至十功徳すら之無し五十展転まではよも説き給い候はじ、余経には一二の塵数を挙げず何に況や五百三千をや、二乗の成不成・竜畜下賤の即身成仏今の経に限れり、華厳・般若等の諸大乗経に之有りや、二乗作仏は始めて今経に在り、よも天台大師程の明哲の弘法慈覚の如き無文無義の偽りはおはし給はじと我等は覚え候、又悪人の提婆・天道国の成道・法華経に並びて何なる経にか之有りや、然りと雖も万の難を閣いて何なる経にか十法界の開会等草木成仏之有りや、天台妙楽の無非中道・惑耳驚心の釈は慈覚智証の理同事勝の異見に之を類す可く候や、已に天台等は三国伝灯の人師・普賢開発の聖師・天真発明の権者なり、豈経論になき事を偽り釈し給はんや、彼れ彼れの経経に何なる一大事か之有るや、此の経には二十の大事あり就中五百塵点顕本の寿量に何なる事を説き給へるとか人人は思召し候、我等が如き凡夫無始已来生死の苦底に沈淪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を・無作本覚の三身と成し実に一念三千の極理を説くなんど・浅深を立つべし、但し公場ならば然るべし私に問註すべからず、慥に此の法門は汝等が如き者は人毎に座毎に日毎に談ずべくんば三世諸仏の御罰を蒙るべきなり、日蓮己証なりと常に申せし是なり、大日経に之有りや、浄土三部経の成仏已来凡歴十劫之に類す可きや、なんど前後の文乱れず一一に会す可し、其の後又云うべし、諸人は推量も候へ是くの如くいみじき御経にて候へばこそ多宝遠来して証誠を加え分身来集して三仏の御舌を梵天に付け不虚妄とは訇しらせ給いしか、地涌千界出現して濁悪末代の当世に別付属の妙法蓮華経を一閻浮提の一切衆生に取り次ぎ給うべき仏の勅使なれば・八十万億の諸大菩薩をば止善男子と嫌はせ給しか等云云、又彼の邪宗の者どもの習いとして強に証文を尋ぬる事之有り、涌出品並びに文句の九・記の九の前三後三の釈を出すべし、但日蓮が門家の大事之に如かず。

 

現代語訳

また、手紙に、諸経の利益の数を挙げた場合、どう対応するかとのお尋ねであるが、これにはまず「それらでは不足である」と答えるがよい。その後に、「汝らの宗の依経に、釈尊、多宝仏、十方分身の諸仏の証明があるのか」と聞くがよい。「ある」とはいまだ聞いたことがない。よもや、多宝仏、十方分身の諸仏が証明に来ることはあるまい。これらの仏は法華経の会座に来られた時、「法華経は皆是れ真実なり」と証明されたのであるから、同じ仏に二言があるわけがないと言うがよい。

次に法華経には六難九易が説かれているが、他の経にこのようなことが説かれているであろうか。仏の滅後の人々が造った偽経にはあるかもしれないが、釈尊の五十年の説法の内には一字一句もないと言うがよい。

また、法華経には釈尊が五百塵点劫に成仏したことが説かれているが、諸経に説かれているであろうか。また、三千塵点劫に法華経を説法して成仏の因縁を結んだことが説かれているであろうか。また、一念信解・五十展転の功徳が説かれているであろうか。他経には、一、二、三も十功徳も説かれていないのだから、五十展転まで説かれているなどということはまさかあるまい。また、諸経には一、二塵数の過去さえ挙げていない。いかにいわんや、五百塵点劫、三千塵点劫の過去が説かれているわけがない。

二乗の成仏と不成仏、下賤(とされた女人)でしかも畜生の身である竜女の即身成仏は、ただ法華経に限られるのである。華厳経、般若経等の諸大乗経にこれが説かれているであろうか。二乗作仏は初めて法華経で説かれたのである。このことは天台大師も言われているのであるが、天台大師ほどの明晰な学匠が、弘法、慈覚のように、経文も義もない偽りを言われるわけがないであろう。

また、悪人の提婆達多の天道国での成仏は法華経以外にはどの経で説かれているであろうか。

しかし、これらの難はさしおき、はたしていかなる経に十法界の開会や草木成仏が説かれているであろうか。天台大師の「一色一香も中道に非ざること無し」、妙楽大師の「無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」の釈は、慈覚、智証の理同事勝の邪見とこれを同じとすることができようか。天台大師等はインド・中国・日本の三国の仏法伝灯の人師であり、大蘇山普賢道場で開悟した聖師であり、天真独朗の菩薩である。どうして経論にないことを己義を構えて釈されることがあろうか。

だいたい法華経以外の経教に一つでも大事な法門が説かれているであろうか。法華経には二十の大事がある。とくにそのなかでも、五百塵点劫の本地を顕した寿量品に、いかなる法門が説かれていると人々は思っているだろうか。我らのような、無始已来、生死の苦海に沈んで、仏道の彼岸に到ることができようとは夢にも思わなかった凡夫を、無作本覚の法報応の三身如来となし、一念三千の極理を説かれたのが法華経であると述べて、諸経との浅深を明確にしなさい。

ただし、これは公場対決でなすべきであって、私的な問答をしてはならない。この法門は汝らがごとき者が相手や場所を選ばず、毎日のように談ずるならば、必ず三世の諸仏の御罰を蒙るであろう。日蓮が己証の法門と常に言っているのはこのことである。

大日経にこのような法門があろうか、浄土の三部経の一つである無量寿経に「成仏より已来、凡そ十劫を歴たり」と説かれているのと比較になるであろうか、と理論整然と、相手の言い分に答えるがよい。

その後にまた、「皆さん、考えてもごらんなさい。このような貴い御経であるからこそ、多宝仏ははるか宝浄世界から来至して『皆是真実』と証明を加え、十方分身の諸仏も集まって、広長舌を梵天につけて虚妄でないことを明かされたのでないか。また、地涌千界の菩薩が出現して末法濁悪の今の世に、妙法蓮華経を一閻浮提の一切衆生に弘通する仏の御使いとして如来神力品で別付嘱を受けたのである。それゆえ、八十万億那由他の諸大菩薩の末法弘通の申し入れに対しても、『止みね善男子』と拒まれたのである」と言うがよい。

また、このように言えば、彼の邪宗の者達の習いとして必ず証拠の経文を尋ねるであろう。その時には法華経従地涌出品と法華文句の第三の巻と法華文句記の第三の巻にある前三後三の釈を出すがよい。日蓮が門家の大事、これにすぎるものはない。

 

語釈

三仏の証誠

釈迦・多宝・十方の諸仏によって法華経こそ真実を明かした教えであること。また一切衆生皆成仏道の究竟の妙理であることが証明されたことをいう。

 

やはか

よもや……ない。「争でか」「如何でか」ともいう。

 

六難九易

宝塔品にある。一般にむずかしいとされるものを九つあげ、法華経を受持することのむずかしさを六つあげ、対比して、法華経受持の難しさをしめしている。宝塔品には「諸余の経典、数恒沙の如し、此等を説くと雖も、未だ難しと為すに足らず。若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、亦未だ難しと為ず。若し足の指を以って大千界を動かし、遠く他国に擲げんも、亦未だ難しとせず。若し有頂に立って衆の為に無量の余経を演説せんも、亦未だ難しと為ず。若し仏の滅後に、悪世の中に於いて能く此の経を説かん、是れ則ち難しとす。仮使人有って、手に虚空を把って以て遊行すとも、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、若しは自らも書き持ちて、若しは人をしても書かしめん、是れ則ち難しとす。若し大地を以って足の甲の上に置いて梵天に昇らんも、亦未だ難しと為ず。仏の滅度の後に、悪世の中に於いて、暫くも此の経を読まん、是れ則ち難しとす。仮使劫焼に乾ける草を担い負って中に入って焼けざらんも亦未だ難しと為ず。我が滅度の後に、若し此の経を持ちて一人の為にも説かん、是れ則ち難しとす。若し八万四千の法蔵、十二部経を持ちて、人の為に演説して、諸の聴かん者をして六神通を得せしめん、能く是の如くすと雖も、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、此の経を聴受して其の義趣を問わん、是れ則ち難しとす。若し人法を説いて、千万億、無量無数、恒沙の衆生をして阿羅漢を得、六神通を具せしめん、是の益有りと雖も、亦未だ難しと為ず。我が滅後に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せん、是れ則ち難しとす」とある。項目別には以下の通り。(イ)「六難」は、①広説此経難(悪世の中で法華経を説くこと)②所持此経難(法華経を書き、あるいは人に書かせること)③暫読此経難(悪世の中で、しばらくの間でも法華経を読むこと)④少説此経難(ひとりのためにも法華経を説くこと)⑤聴受此経難(法華経を聴受して、その義趣を質問すること)⑥受持此経難(法華経を受持すること)(ロ)「九易」は、①余経説法易(法華経以外の無数の経を説くこと②須弥擲置易(須弥山を他方の仏土に擲げ置くこと)③世界足擲易(足の指で大千世界を動かして、遠く他国に擲げること)④有頂説法易(有頂天に立って無量の余経を演説すること)⑤把空遊行易(手に虚空・大空を把って遊行すること)⑥足地昇天易(大地を足の甲の上に置いて梵天に昇ること)⑦大火不焼易(枯れ草を背負って大火に入っても焼けないこと)⑧広説得通易(八万四千の法門を演説して、聴く者に六神通を得させること)⑨大衆羅漢易(無量の衆生に阿羅漢果を得させて、六神通を具えさせること)。

 

五百塵点の顕本

法華経如来寿量品第16に「譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と為して、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意に於て云何、是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や。弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。」とある。五百塵点劫の顕本とは、釈尊五百塵点劫成道の本地を顕したことをいう。

 

三千塵点の結縁

法華経化城喩品第7に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が16王子に法華経を説き、その16王子がのちにそれぞれに法華経を説き衆生を化導した。その第16番目の王子が釈尊の過去世の姿であり、この王子と衆生との結縁を大通結縁という。

 

一念信解

分別品に説かれている四信五品の中の現在の四信の第一である。ほけきょうの修行の位であり、一番最初の初信の功徳である。分別品にはこの一念信解の功徳が説かれている。すなわち、八十万億那由佗劫において、仏道のために五波羅蜜という布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五つを修行する功徳を、この一念信解の功徳に比べるに、百千万億分の一にもおよばないという。末法において一念信解とは信心であり、信心に一切の功徳は収まるのである。

 

五十展転の功徳

折伏の功徳が記されている法華経随喜功徳品第十八の冒頭にある。仏の滅後(釈尊の死後)、法華経を聞いて随喜して人に伝え、伝え聞いた人がさらに他の人に伝え、やがて50番目に伝え聞いた人が随喜する功徳をいう。具体的には、「亦随喜転教 如是展転 至第五十」の記述である。加えて、「是の如く第五十の人に展転して法華経を聞いて随喜せん功徳・尚無量無辺阿僧秖なり・何に況や・最初会中に於いて聞いて随喜せん者をや」と続く。すなわち、伝え聞いた50番目の人の功徳も大きいが、まして最初に聞いた人の功徳は比較にならないほど大きいとの意味である。

 

一二三乃至十功徳

法華経分別功徳品第18に説かれる50展転の功徳の第一~第十まで。すなわち「身を転じて陀羅尼菩薩と共に一処に生ずることを得ん。(1)利根にして(2)智慧あらん。(3)百千万世に、終に瘖瘂ならず。(4)口の気臭からず。(5)舌常に病無く、(6)口にも亦病無けん。(7)歯は垢(8)黒ならず、(9)黄ならず(10)」とある。

 

二乗の成不成

二乗が成仏することと成仏しないこと。二乗の成仏は法華経迹門で初めて説かれる。爾前の諸経では、一念三千の法門が説かれ、初めて成仏の記莂が与えられた。

 

竜畜・下賎の即身成仏

下賤の身とされた畜生類である竜女が法華経提婆達多品第12で法華経会座において大衆の前で即身成仏したこと。

 

提婆

提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。

 

天道国

提婆達多が仏となる国名。

 

十法界の開会

十法界は十界のこと。開会は真実を開き顕して一つに合わせること。十界のすべての衆生が妙法蓮華経の当体であり、仏性を具えていることを明かしたこと。

 

草木成仏

草木や土砂等の非情の物質が成仏することをいう。また、依正についていえば、依報の成仏である。日寛上人は、諸御書を案ずるに、草木成仏に二意あるとして、一に不改本位の成仏、二に木画二像の成仏があるとしている。まず不改本位の成仏とは、草木の全体がそのまま本有無作の一念三千即自受用身の覚体である。草木成仏弘決には「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」(1339:06)、三世諸仏総勘文抄教相廃立のは「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(0574:14)御義口伝には「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0784:第二量の字の事:02)とある。このように、無心の草木でありながら、その体は本覚の法身であり、その時節を違えず花咲き実の成る智慧は本覚の報身であり、有情を養育するは本覚の応身であり、これを不改本覚の成仏という。木画二像の成仏とは、四条金吾釈迦仏供養事には「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1145:01)木画二像開眼之事には「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469:08)観心本尊抄には「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246:08)とある。御義口伝で「草木成仏の証文に而自廻転の文を出すなり」(0723:第五而自廻転の事:03)と仰せられているのは「法性自然にして転じ因果依正自他悉く転ずるを」(0723:第五而自廻転の事:01)ということについてである。すなわち、依報・正報ともに変わっていくということは、正報の成仏により、非情の草木等の依報も成仏するのである。一枚の紙が御本尊に変わることを木画二像の成仏である。

 

無非中道

摩訶止観の語。いかなる存在も真理である中道ならざるものはないこと。

 

惑耳驚心

妙楽大師の止観輔行伝弘決巻一の二の文。世人は、色香を無情といい、しかも中道の理をそなえることを認めるが、無情(非情)たる色香にも仏性があるというと、信じられずにただ耳を惑わし、心を驚かすばかりであるとの意。この世人とは、妙楽大師が華厳宗の澄観を破折して言ったもの。

 

三国伝灯

インド・中国・日本の三国に仏法が流伝したこと。

 

普賢開発の聖師

天台大師のこと。天台大師が大蘇山で普賢三昧の解悟をしたことからこういう。

 

天真発明の権者

天台大師のこと。生来の資質が開き顕され、聡明であること。

 

二十の大事

法華経が爾前の諸経に対し二十の勝れた特色があることを明かしたもの。妙楽大師の法華文句記巻四下にある十双歎のこと。

「今義に依り文に附するに略して十双有り以って異相を弁ず。

一、 二乗に近記を与え(方便品乃至人記品)、如来の遠本を開く(如来寿量品)。

二、 随喜は第五十の人を歎じ(随喜功徳品)、聞益は一生補処に至る(分別功徳品)。

三、 釈迦は五逆の調達を指して本師と為し(提婆達多品)、文殊は八歳の竜女を以って所化と為す(提婆達多品)。

四、 凡そ一句を聞くにも咸く綬記を与う(法師品)。経名を守護するに功量るべからず(法師品)。

五、 品を聞いて受持するは永く女質を辞し(陀羅尼品)、若し聞いて読誦するは老いず死なず(薬王品)。

六、 五種法師は現に相似を獲(法師功徳品)、四安楽行は夢に銅輪に入る(安楽行品)。

七、 若し悩乱する者は頭七分に破れ(陀羅尼品)、供養することある者は福十号に過ぎたり(法師品)。

八、 況や已今当の説は一代に絶えたる所(法師品)、其の教法を歎ずるに七喩を以って称揚す(薬王品)。

九、 地より涌出せるをば、阿逸多一人をも識らず(従地涌出品)、東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず(妙音菩薩品)。

十、 況んや迹化には三千の塵点を挙げ(化城喩品)、本成には五百の微塵に喩えたり(如来寿量品)。

本迹の事の希なる諸経に説かず。斯くの如き等の文、経に準ずるに仍あり」とある。ただし、八項のなかの七喩について、大聖人は三種教相で十喩と改めている。

 

沈輪

沈み、輪廻すること。

 

仏道の彼岸

悟りの境地のこと。煩悩・業・苦に支配された迷いの境地を彼岸とし、解脱・涅槃の境地を意味する。

 

衆生界

衆生の住む世界。また,人間界。現世。 ② 十界のうち仏界を除く九界。

 

無作本覚の三身

本来覚っている三身如来のこと。無始無終の仏身をいう。

 

公場

公の場所。正式の席上。古来・仏法の正邪・勝劣・浅深を判ずる場所。国王・大臣が列席するなかで諸宗の学僧が法論を展開した。

 

問註

①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。

 

成仏已来凡歴十劫

無量寿経巻上にある文。阿弥陀仏が成仏して已来、十劫を経ているということ。

 

梵天

仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

地涌千界

法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、滅後末法の妙法流布の使命を託すためであるが、また、寿量品の仏の本地を示すための不可欠の前提となった。ゆえに、この地涌出現を、一応「在世の事」といわれているのである。

 

別付属

法華経如来神力品第21における地涌の菩薩への付嘱のこと。

 

八十万億那由佗の諸大菩薩

勧持品で、述べられる八十万億那由佗の不退の菩薩。八十万億那由佗の菩薩が仏に末法弘通の告勅を願い、いかなる難をも忍ぶと誓って、20行の偈を述べたものである。

 

止善男子

「止みね善男子」と読む。涌出品の文。他方から来た過八万恒河沙大菩薩が滅後の弘教を請うが、釈尊は「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止したことを指す。

 

前三後三の釈

法華経従地涌出品第十五で、釈尊が他方の菩薩の弘経の申し出を断り、本化の菩薩を呼び出した理由につき、天台大師の法華文句巻九上で三項目ずつ挙げている。これを前三義・後三義の六釈という。前三義は遮詮門で他方の菩薩の弘経を静止した理由、後三義は表詮門で地涌の菩薩を召し出した理由を明かしたもの。六釈を表示すると次のとおり。

前三の一、汝等各各に自ら己が任有り、若し此の土に住せば彼の利益を廃せん。

前三の二、他方は此土結縁の事浅し、宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無からん。

前三の三、若し之を許さば則ち下を召すことを得ず、下若し来らずんば迹を破することを得ず、遠を顕すことを得ず。

後三の一、是れ我が弟子なり、応に我が法を弘むべし。

後三の二、縁深広なるを以って能く此の土に遍して益し、分身の土に遍して益し、他方の土に遍して益す。

後三の三、開近顕遠することを得。

天台大師の前三後三の釈について、妙楽大師は法華文句記巻九で更に詳しく釈している。

 

講義

本章では爾前経にも得道があるとする諸宗の言い分をいかに破折するかを述べられている。

 

状に云く彼此の経経得益……やはか御坐候べきと

 

爾前経にも得道があるとの諸宗の主張に対しては、諸経の利益は不足である、と答えるよう教えられている。諸経にさまざまな利益があると説かれていたとしても、法華経の利益に比べれば全く問題にならないからである。

そして次に、法華経で説かれる利益の諸経に勝る点を一つ一つ挙げて諸宗を破折すべきである、と述べられている。

まず、諸宗の依経には釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の証明があるかと責めよ、と仰せである。

法華経には、方便品第二で釈尊自身が「要ず当に真実を説きたまうべし」と述べ、見宝塔品第十一で多宝如来が「善き哉、善き哉。釈迦牟尼世尊は……妙法華経を以って、大衆の為めに説きたまう……説きたまう所の如きは 皆な是れ真実なり」と証明しており、更に如来神力品第二十一に「諸仏救世者は……衆生を悦ばしめんが為めの故に 無量の神力を現じたまう 舌相は梵天に至り 身より無数(むしゅ)の光を放って 仏道を求める者の為めに 此の希有の事を現じたまう」と十方分身の諸仏が証明を加えているのである。

このような三仏の証明は、法華経にのみあることで、余経にそのような例はない。

開目抄に「大覚世尊・初成道の時・諸仏十方に現じて釈尊を慰諭し給う上・諸の大菩薩を遣しき、般若経の御時は釈尊・長舌を三千にをほひ千仏・十方に現じ給い・金光明経には四方の四仏現せり、阿弥陀経には六方の諸仏・舌を三千にををう、大集経には十方の諸仏・菩薩・大宝坊にあつまれり、此等を法華経に引き合せて・かんがうるに黄石と黄金と白雲と白山と白冰と銀鏡と黒色と青色とをば……邪眼の者は・みたがへつべし」(0194:13)と述べられているように、諸経にも仏・菩薩の一分の証明はあるが、法華経の三仏の証明に比べれば、その規模は比べものにならないのである。

したがって、三仏の証明の有無をもって、法華経と諸経の勝劣は明らかとなる。

 

次に六難九易何なる経の文……なんど立つ可し

 

第二に、法華経には仏滅後にこの経を受持することの難しさを、六難と九易とを対比することによって明かされているが、他のいかなる経にそのようなことが説かれているかと責めよ、と仰せである。

六難九易とは、六つの難しいことと九つの易しいことで、法華経の見宝塔品第十一に「諸余の経典は 数恒沙の如し 此れ等を説くと雖も 未だ難しと為すに足らず若し須弥を接って 他方の 無数の仏土に擲げ置かんも 亦た未だ難しと為さず……若し仏の滅度して 悪世の中に於いて 能く此の経を説かば 是れは則ち難しと為す」等と説かれており、九易といっても普通では大難事であるが、法華経受持に比べればはるかに容易なことであるとされているのである。

そのように法華経を受持することが難しいとされているのは、法師品第十に「我が説く所の諸経 而も此の経の中に於いて 法華は最も第一なり……我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」とあるように、法華経が一切経のなかで最第一であるために、最も難信難解であり、受持することが難事となるのである。

大聖人は、後世に作られた偽経は別にして、釈尊五十年の説法のなかで、六難九易のようなことは法華経にしか明かされていないではないか、と諸宗を破折するよう教えられているのである。

 

五百塵点の顕本之有りや……況や五百三千をや

 

第三に、法華経に説かれている五百塵点劫の顕本や、三千塵点劫の結縁、一念信解の功徳、五十展転の功徳などは、他のどの経文に説いているかと責めよ、と仰せである。

五百塵点劫の顕本とは、法華経の如来寿量品第十六に、釈尊の五百塵点劫成道という久遠の本地が顕されていることをいい、「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」、「我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れ自従り来、我れは常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」等と説かれている。

爾前の諸経が、釈尊はインドに生まれて修行し、はじめて正覚を成じたと説いているのに対して、法華経で久遠の本地が顕されたことにより、爾前経の始成正覚の法門が打ち破られて、久遠からの本因本果の法門が明確にされたのである。

開目抄に「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」(0197:15)と述べられているように、釈尊の久遠の本地を顕したことこそ、法華経が他の一切経に勝る点なのである。

三千塵点の結縁とは、法華経化城喩品第七に、釈尊在世の声聞が三千塵点劫の昔に大通智勝仏の第十六王子から法華経を聞いて結縁したと明かされていることをいい、「時に十六王子は 出家し沙弥と作って……無量億の衆の為めに 仏の無上慧を説く 各各法座に坐して 是の大乗経を説き……彼の仏の滅度の後是の諸の法を聞きし者は 在在の諸仏の土に 常に師と倶に生ず」等と説かれている。

そのように、三千塵点劫という長遠の昔からの釈尊との結縁を説いている経も法華経以外にはない。そのために天台大師は、化城喩品で化導の始まりを明かしたことを三種の教相の第二の「化導の始終不始終の相」と立てて、法華経が諸経のなかで第一であると判じているのである。

一念信解とは、法華経の分別功徳品第十七に、寿量品で説かれた仏の寿命の長遠であることを聞いて、一念に信解を生じた功徳が無量であると明かしたことをいい、「其れ衆生有って、仏の寿命の長遠なること是の如くなるを聞き、乃至能く一念の信解を生ぜば、得る所の功徳は、限量有ること無けん。若し善男子・善女人有って、阿耨多羅三藐三菩提の為めの故に、八十万億那由他劫に於いて、五波羅蜜を行ぜん……是の功徳を以て、前の功徳に比ぶるに、百分・千分・百千万億分にして、其の一にも及ばず、乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり」等と説かれている。

一念信解とは、法華経の信心修行の位のうち最初の初信の位をいう。法華経に対して一念に信解を起こしただけでその功徳は無量であり、爾前経の修行である布施・戒・忍辱・精進・静慮の五波羅蜜を八十万億那由他劫もの間行じた功徳の百千万億倍であるとされている。これは、法華経がいかに諸経に勝れているかを示している。

なお、末法における一念信解とは、四信五品抄に「檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分(けぶん)と為すなり」(0340:09)と述べられているように、南無妙法蓮華経を信じて行学に励むことである。

五十展転の功徳とは、法華経の随喜功徳品第十八に、仏の滅後に法華経を聞いて随喜して人に伝え、第五十番目に伝え聞いた人の功徳をいい、「如来の滅後に、若しは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、及び余の智者の、若しは長若しは幼は、是の経を聞いて随喜し已って……其の聞く所の如く、父母・宗親・善友・知識の為めに、力に随って演説せん。是の諸人等は、聞き已って随喜して、復た行きて転教せん。余の人は聞き已って、亦た随喜して転教せん。是の如く展転して、第五十に至らん……一切の楽具を以て、四百万億阿僧祇の世界の六趣の衆生に施し、又た阿羅漢果を得せしめん。得る所の功徳は、是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて、随喜せん功徳には如かず、百分・千分・百千万億分にして、其の一にも及ばじ。乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり……是の如く第五十の人の展転して法華経を聞いて随喜せん功徳すら、尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況や最初、会中に於いて聞いて随喜せん者をや。其の福は復た勝れたること無量無辺阿僧祇にして、比ぶることを得可からず」と説かれている。

そのように、法華経を人から人へと伝え聞いた五十番目の人の随喜した功徳さえ無量なのであるから、最初に聞いた人の功徳はどれほど大きいか分からないのである。聞いて随喜しただけでそれほど大きい功徳があるということは、法華経があらゆる経に勝れていることを示している。

それに対して、余経には五十展転の功徳どころか、一、二転の功徳さえも説かれてはいないし、五百塵点劫、三千塵点劫どころか、釈尊は今世に始めて成仏したという始成正覚を説いているにすぎない。したがって、これらの法門の有無をみただけで、法華経と諸経の勝劣は明らかなのである。

 

二乗の成不成・竜畜……釈し給はんや

 

第四に、二乗の成仏、畜生の竜女の即身成仏を説いているのは法華経に限られており、華厳・般若などの諸大乗経にも説かれてはいないと責めよ、と仰せである。

法華経の方便品第二から授学無学人記品第九に至る八品には声聞・縁覚の二乗の成仏が説かれ、提婆達多品第十二では畜生である竜女の成仏が説かれている。これは華厳経や般若経等の諸大乗経にも説かれることはなく、法華経にきて初めて明かされたものなので、諸経と法華経の勝劣の大きな理由の一つとなるのである。

天台大師は法華玄義巻六に「譬えば、良医の能く毒を変じて薬と為すが如く、二乗の根敗反た復すること能わず。之を名づけて毒と為す。今経に記を得るは、即ち是れ毒を変じて薬と為す。故に論に云く余経は秘密に非ずとは法華を秘密と為せばなり」と述べており、爾前の諸経で永不成仏と定められていた二乗に法華経で成仏の記を授けたのは、毒を変じて薬としたようなものであり、法華最勝を示しているとしている。

また、開目抄に「竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」(0223:07)と述べられている。

二乗作仏や竜女の成仏をもって法華最勝とした天台大師の義は、弘法や慈覚が立てた経典に文も義もない勝手な邪義とは異なり、仏説によった有文有義なのである。天台大師は「若し深く所以ありて、復修多羅と合する者は、録して之を用う。無文無義は信受す可からず」とも「文証無き者は悉く是れ邪謂」とも述べているように、あくまでも法華経の文理をもって余経に勝れているとしたのである。

第五に、悪人の提婆達多が天王如来として成仏することが他経に説かれているかと責めよ、と仰せである。

法華経の提婆達多品第十二には「提婆達多は却って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号づけて天王如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と曰わん。世界を天道と名づけん」と説かれている。

この提婆達多が未来に成仏を許されたことの意義を、開目抄には「提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり」(0223:05)と述べられている。

そのように悪逆の提婆達多の成仏が説かれたことは、順縁・逆縁ともに成仏させうる法華経の力の大きさを示すものとなっている。

第六に、今まで挙げてきた難問を差し置いて、十法界の開会や草木成仏がいかなる経にあるかと責めよ、と仰せである。

十法界の開会とは、十界の一切衆生が妙法蓮華経の当体であることを明かされたことをいう。すなわち、十界すべてが仏界を具えている十界互具が明らかになったことであり、天台大師は十界互具を基盤にして一念三千の法門を展開したのである。

観心本尊抄には十界互具の文証として「法華経第一方便品に云く『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く『是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり』等云云此の経文は仏界所具の九界なり」(0240:05)等と述べられている。

十界互具によって、九界の迷いの凡夫の生命にも仏界が具わっており、だれびとたりとも成仏できることが明かされたのであって、たとえ爾前の諸経において衆生の成仏が説かれていたとしても、十界互具が明らかにならなければ、真の成仏の義は具わらず、有名無実となるのである。

草木成仏とは、草木や国土等の非情が成仏することで、天台大師が立てた一念三千の法門にその義が明かされている。それも法華経にその実義があるのである。

天台大師は摩訶止観に「一色一香も中道に非ざること無し」と説き、妙楽大師は止観輔行伝弘決で「然るに亦共に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」と述べており、法華経にその実義があるからこそ草木成仏の深義をそのように釈したのであり、経論に依らずに勝手に立てた弘法や慈覚等の邪義と異なるのである。

 

彼れ彼れの経経に何なる……大事之に如かず

 

第七に、法華経には二十の大事があるが、諸経にはどのような大事が説かれているかと責めよ、と仰せであり、なかでも釈尊の五百塵点劫の昔の本地を顕した寿量品にはいかなる法門が説かれていると思うのか、我ら凡夫を無作本覚の三身如来とする一念三千の極理が説かれているのであり、このような法門は余経に明かされているか、と、このように浅深・勝劣を明確に立てるべきである、と述べられている。

二十の大事とは、十双歎ともいい、法華経と諸経を比較相対し、法華経に十種の勝れた特色があることを讃えた法門のことで、妙楽大師の法華文句記に説かれており、その第二十に法華経の本門寿量品の五百塵点劫成道を挙げている。

法華取要抄には「今・法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り、其の中最要二有り……教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり……此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり……有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く……寿量品に云く『我も亦為()れ世の父・狂子を治する為の故に』等云云」(0332:10)と述べられている。

寿量品において釈尊の久遠の本地が明かされたことにより、所化の衆生も久遠以来の釈尊結縁の衆生であることが明かされ、凡夫の身が釈尊と同じく本覚の三身如来と或ることが可能になるのである。

しかし大聖人は、この諸経と法華経との勝劣の法門は、公場対決の場でなければ、論じてはならないと厳しく戒められている。公場においてでなく、軽々しく論ずるならば三世の諸仏の罰を受けるだろうとされ、これは大聖人の内証の法門だからであると述べられている。

三沢抄にも「此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489:07)と述べられているように、その内容が諸宗に知られて、対決を避けるようなことがあってはならないとの御配慮であろう。

更に大聖人は、法華経に説かれるこのような法門が大日経に説かれているか、また五百塵点劫や三千塵点劫の昔の結縁を明かした法門と、浄土の三部経のなかの無量寿経巻上に「阿難また問いたてまつる。『其の仏成道より已来、いくばく時を経とやせん』。仏の言く、『成仏してより已来、凡そ十劫を歴たり……』」と説かれていることが比べものになるかどうかと責めよ、と仰せである。

無量寿経では法蔵比丘が四十八願を立てて歴劫修行の後に正覚を成じて阿弥陀如来となってから今まで、およそ十劫を過ぎていると説いているが、題目弥陀名号勝劣事に「三の巻の心ならば阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時・十六の王子として法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ」(0115:15)と述べられている。御文の「三の巻」とは法華経化城喩品である。法華経化城喩品第七の意によれば、阿弥陀如来も大通智勝仏の十六王子の一人であり、法華経によって成道したのである。

そのように筋道を立てて一つ一つ破折していくよう教えられたうえで、その後に言い切るべきことは、このように法華経が素晴らしい経だからこそ多宝如来や十方分身の諸仏が来集して真実との証明を加えたのであり、また、その弘教の使命も八十万億那由他の菩薩を断って、地涌千界にのみ別付嘱されたのである、と仰せである。

法華経の従地涌出品第十五に、八恒河沙の他方の菩薩が、仏の滅後の弘通を誓願したのに対して「爾の時、仏は諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、『止みね。善男子よ。汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩有り……是の諸人等は、能く我が滅後に於いて、護持し読誦し、広く此の経を説かん』」と制止して地涌の菩薩を呼び出し、如来神力品第二十一において法華経の肝要を地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱しているのである。

涌出品では過八恒沙の他方の菩薩の申し出を断って本化地涌を召し出したのであるが、ここで断られたのは他方の菩薩だけでなく、すでに勧持品第十三で申し出た八十万億那由他の迹化の菩薩も含まれている。それゆえ、今、御文で「八十万億の諸大菩薩をば止善男子と嫌はせ給しか」と述べられたのである。

大聖人は更に、そのようにいえば邪宗の者どもが必ずその文証を尋ねるだろうから、そのときには法華経の従地涌出品第十五の文や法華文句や法華文句記に述べられている迹化他方の菩薩を止めた理由の三義と本化の菩薩を召し出した理由の三義の釈を出すべきである、と仰せである。

前三後三の釈とは、娑婆世界における他方の菩薩の弘通の願いを制止し、地涌の菩薩を召し出す理由をそれぞれ三つずつ挙げたもので、天台大師が法華文句巻九で立てたものである。

それによると、他方の菩薩の弘法を制止する理由は、①他方の菩薩はそれぞれの土において自己の任務がある、②他方の菩薩は娑婆世界との結縁が浅い、③他方の菩薩に弘法を許せば地涌の菩薩を召し出すことができず、迹を破して久遠を顕すことができなくなる、の三つで、これを前三義としている。

地涌の菩薩を召し出す理由は、①地涌の菩薩は久遠の仏の本眷属である、②地涌の菩薩は娑婆世界に結縁深厚である、③地涌の菩薩を召し出すことによって開近顕遠することができる、の三つで、これを後三義としている。

なお、日寛上人は三重秘伝抄に、天台大師のこの立て方では迹化の菩薩と他方の菩薩の立て分けが未だ明確ではないとされ、他方と本化についての前三後三、迹化と本化についての前三後三の十二釈が明かされている。

なお、御文で「但日蓮が門家の大事之に如かず」と仰せになっているのは、この本化地涌の菩薩として末法に妙法を弘通していくのが「日蓮が門家」だからであるという意味からであろう。

 

 

第八章(自法愛染との非難を破す)

本文

又諸宗の人・大論の自法愛染の文を問難とせば、大論の立所を尋ねて後・執権謗実の過罪をば竜樹は存知無く候いけるか、「余経は秘密に非ず法華是れ秘密」と仰せられ・譬如大薬師と此の経計り成仏の種子と定めて・又悔い返して「自法愛染・不免堕悪道」と仰せられ候べきか、さで有らば仏語には「正直捨方便・不受余経一偈」なんど法華経の実語には大に違背せり、よもさにては候はじ、若し末法の当世・時剋相応せる法華経を謗じたる弘法・曇鸞なんどを付法蔵の論師・釈尊の御記文にわたらせ給う菩薩なれば鑒知してや記せられたる論文なるらん、覚束無しなんどあざむくべし、御辺や不免堕悪道の末学なるらん痛敷候、未来無数劫の人数にてや有るらんと立つ可し。

 

現代語訳

また、もし諸宗の人々が大智度論の「自法愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」の文を挙げて問難してきた場合には、まず大智度論がどういう文脈でこれを述べているかを反問して、後に「竜樹は権教に執着して実教を謗る罪を知らなかったのであるか」と言うがよい。竜樹は「余経は秘密に非ず、法華是れ秘密」と仰せられ、大智度論の百の巻に「譬えば大薬師の能く毒を以って薬となすが如し」と法華経だけを成仏の種子であると定められているのに、また、それを悔いて「自法の愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」と仰せられたのであろうか。もしそうであるならば、仏の言葉に「正直に方便を捨て」、「余経の一偈をも受けざれ」等の法華経の真実の言葉に大いに違背していることになる。よもやそのようなことはあるまい。

「竜樹は付法蔵の論師であり、釈尊からその出現を予言された菩薩であるから、末法の今の世で、時刻の相応した法華経を誹謗している弘法や曇鸞などをあらかじめ察知して記しおかれた文であるかもしてない」と嘲弄してやるがよい。

「貴辺こそ、『悪道に堕すことを免れざる』末学となるであろう、なんともかわいそうでならない。未来無数劫の間、地獄を出られない人であろう」と逆に言ってやるがよい。

 

語釈

大論

大智度論の略称。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦の鳩摩羅什訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。

 

自法愛染

自分の持つ教法に愛着すること。愛染は自分のものに執着することをいう。

 

執権謗実

爾前権教に執着して実教を謗ること。

 

譬如大薬師

大智度論巻100に「譬えば大薬師の能く毒を以って薬となすが如し」とある。

 

自法愛染・不免堕悪道

大智度論巻1に「自法の愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」とある。

 

不受余経一偈

法華経譬喩品第3の文。「余経の一偈をも受けざれ」と読む。真実の大乗経典である法華経のみを信じて、それ以外の一切の経典の一偈・一句をも信受してはならないということ。

 

付法蔵の論師

釈尊滅後の正法時代に、教法の付嘱をうけ、次の人に伝えた正法護持者。

 

論師

阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。

 

鑒知

真偽・勝劣などを照らし見分けること。

 

講義

次に、竜樹造とされる大智度論に、自らの信ずる法に執着して他の信ずる法を排斥すると地獄の苦を免れないとある文によって、法華経の立場から諸宗諸経を破折することを非難された場合の反論の仕方を教えられている。

「大論の自法愛染の文」とは、大智度論巻一に「復次に、一切の諸の外道の出家は心に念えり、『我が法は微妙第一清浄なり』と。是くの如き人は自ら所行の法を歎じ、他人の法を呰毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕して、種種無量の苦を受く。偈に説くが如し。『自法の愛染の故に、他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず』と」とあることをいい、「一切の諸の外道の出家」が自らの法を賛美して、他人の法をけなし罵ることを戒めたものである。

法華経との勝劣のうえから、文証・理証・現証を挙げて厳しく破折された当時の諸宗が、苦しまぎれに自法愛染の文を持ち出して大聖人を批判したのであろう。

それに対して大聖人は、まず大智度論で竜樹が何に対して「自法愛染」と説いたかを明らかにしなければならないとされ、権教に執着して実教である法華経を誹謗する罪を竜樹が知らないわけがない、と仰せである。

その証拠として、同じ大智度論に「余経は秘密に非ず法華是れ秘密」と述べており、秘密とは人に容易に知られない内容の深い法門の意で、法華経が秘密とされるのは爾前経で永不成仏とされていた二乗が成仏の記別を受けたことをさしている。

また、同じく大智度論に「譬如大薬師」すなわち「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而して法華等の諸経は阿羅漢の決を受けて作仏することを説き、大菩薩は能く受持して用う。譬えば大薬師の能く毒を以って薬となすが如し」とあり、法華経を大薬師に譬えて、爾前では救われない重症の二乗の毒を変じて薬とする最高の教えであることを示している。

それらの文から、竜樹は法華経だけが二乗の成仏を説いた一切衆生の成仏得道の種子であると定めていたことは明らかである。したがって、勝れた法華経の立場から劣る諸経を破折することを、竜樹が自法愛染であり悪道に堕ちるなどというはずがない。

もしもそうした破折を自法愛染とするならば、それは法華経の方便品第二に「正直に方便を捨てて 但だ無上道を説く」とあり、譬喩品第三に「但だ楽って 大乗経典を受持し 乃至 余経の一偈をも受けずば」と説かれている仏の金言に背くことになるのである。

竜樹は、むしろ、法華経を誹謗して戯論と下した弘法や、法華経を難行道であるとして排斥した曇鸞などが未来に出現することを予知して、そうした自法愛染の者は、悪道に堕ちると戒めたと考えられるのである。

したがって、正法によって破折する人を「自法愛染」の文をもって非難する者に対して、汝らこそ竜樹のいうように未来無数劫の間、地獄の苦を免れないであろうと責めよ、と仰せられている。

法華経以外の諸経に執着して法華経を信ぜず誹謗する者こそ「自法愛染・不免堕悪道」の者なのである。

 

 

第九章(律宗の良観の邪義を破す)

本文

又律宗の良観が云く法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云く、忍性年来歎いて云く当世日蓮法師と云える者世に在り斎戒は堕獄す云云、所詮何なる経論に之有りや是一、又云く当世日本国上下誰か念仏せざらん念仏は無間の業と云云、是れ何なる経文ぞや慥なる証文を日蓮房に対して之を聞かん是二、総じて是体の爾前得道の有無の法門六箇条云云、然るに推知するに極楽寺良観が已前の如く日蓮に相値うて宗論有る可きの由訇る事之有らば目安を上げて極楽寺に対して申すべし、某の師にて候者は去る文永八年に御勘気を蒙り佐州へ遷され給うて後・同じき文永十一年正月の比御免許を蒙り鎌倉に帰る、其の後平金吾に対して様様の次第申し含ませ給いて甲斐の国の深山に閉籠らせ給いて後は、何なる主上・女院の御意たりと云えども山の内を出で諸宗の学者に法門あるべからざる由仰せ候、随つて其の弟子に若輩のものにて候へども師の日蓮の法門・九牛が一毛をも学び及ばず候といへども法華経に付いて不審有りと仰せらるる人わたらせ給はば存じ候なんど云つて、其の後は随問而答の法門申す可し、又前六箇条一一の難問・兼兼申せしが如く日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず、彼れ彼れの経経と法華経と勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ぜん時・爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし。

  又彼の律宗の者どもが破戒なる事・山川の頽るるよりも尚無戒なり、成仏までは思もよらず人天の生を受くべしや、妙楽大師云く「若し一戒を持てば人中に生ずることを得若し一戒を破れば還て三途に堕す」と、其の外斎法経・正法念経等の制法・阿含経等の大小乗経の斎法斎戒・今程の律宗忍性が一党誰か一戒をも持てる還堕三途は疑無し、若しは無間地獄にや落ちんずらん不便なんど立てて・宝塔品の持戒行者と是を訇しるべし、

 

現代語訳

また、律宗の良観がかつて法光寺殿(北条時宗)に「忍性、近頃嘆くことは、日蓮法師というものが世にあり、『戒律を持つ者は地獄に堕ちる』と言っていることです。これは、いったいいかなる経論にあるのか。これ第一の不審であります。また、当世、日本国の上下万人でだれが念仏をしない者があるでありましょうか。そうであるのに、『念仏は無間地獄の業因』と言っている。これはどの経文にあるのか、確かな文証を日蓮房にただしたい。これ第二の不審であります」等と、法華経以前の諸経によって得道ができるか否かの法門六か条について訴状を送ったことがある。

もし、極楽寺良観が今でも日蓮に会って法論をするというのであるならば、幕府へ訴状を差し出して良観に言うがよい。「某の師匠である日蓮大聖人は、去る文永八年に幕府の御咎めを蒙って佐渡へ流され、その後、同じ文永十一年正月の頃、御赦免を蒙り鎌倉に帰ってこられた。その後、平左衛門尉頼綱に対して、さまざまなことを申し含められて、甲斐の国の深山である身延山に閉じこもられてからは、『たとえ天子や皇后の御召しであっても、山中を出て、諸宗の学者と法論をすることはしない』と仰せられている。日蓮聖人の若輩の弟子ではあり、師の日蓮聖人の法門を九牛の一毛も学んではいないが、法華経について不審があると言われる人がおられるならば、及ばずながらお答えしよう」と言って、その後は問いにしたがって法門を申すがよい。

また、かの六か条の難問については、かねがね申したとおりである。日蓮が弟子等は臆病であってはならない。彼らの依経と法華経との勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ずるときは、爾前迹門の釈尊であっても物の数ではない。いわんやそれ以下の等覚の菩薩などいうまでもない。ましてや、権宗の者どもにおいておやである。法華経という大梵王の位にいるのであるから、彼らを民とも下し、鬼畜などと下しても、あえて誤りではないと信じて宗論をするがよい。

また、かの律宗の者どもの戒律を破ることは、山川の崩れることよりもなお甚だしい。成仏など思いもよらず、人天に生まれることもできない。妙楽大師は「若し一戒を持てば人中に生ずることを得、若し一戒を破れば還って三途に堕す」と言われている。

「今の律宗の良観の一門で、斎法経、正法念経等に定められている戒律や、阿含経等の大小乗経の斎法、斎戒の一戒をも持っている者があるか。『還って三途に堕す』は疑いないのである。あるいは無間地獄に堕ちるかもしれない。不憫なことである」と言って、法華経見宝塔品第十一の「此の経は持ち難し。若し暫くも持たば、我れは即ち歓喜す。諸仏も亦た然なり。是の如きの人は、諸仏の歎めたまう所なり。是れは則ち勇猛なり。是れは則ち精進なり。是れを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」との経文を挙げて、彼らを難ずべきである。

 

語釈

律宗

戒律を受持する修行によって涅槃の境地を得ようとする宗派。中国では、四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣が開いた南山宗がある。日本では南山宗を学んだ鑑真が天平勝宝6年(0754)に来朝し、奈良の東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場として以来、律宗が成立した。さらに下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本の僧尼は、この三か所のいずれかで受戒することになった。律宗は平安時代には次第に衰微し、鎌倉時代に一時復興したが、その後、再び衰微した。

 

良観

12171303)。鎌倉時代の律宗の僧。良観は法号で、名を忍性という。建保5年(1217)、大和国(奈良県)に生まれた。十歳で信貴山にのぼり、修行。24歳で奈良西大寺の叡尊の弟子となり、具足戒を受けた。のちに関東に下り、鎌倉で律宗を弘めた。北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、長時は極楽寺に良観を招いて開山とした。以来、鎌倉の人々の信頼を得、大きな力をもち、更に粗衣粗食と慈善事業によって聖人の名をほしいままにした。また文永8年(1271)に、大聖人と祈雨を競って敗れた後、大聖人を讒言して死罪にしようと画策し、竜の口の法難、佐渡流罪を引き起こした。大聖人に終始敵対し、大聖人門下にも種々の迫害を加えた。

 

法光寺殿

12511284)。鎌倉幕府第八代執権・北条時宗のこと。法光寺は出家時の法号。第5代執権・時頼の嫡子。相模守であったことから守殿とも呼ばれた。母は北条重時の娘。幼名は正寿。相模太郎と称した。文永元年(1264)に連署となり、翌年、相模守となる。文5年(12683月に執権となった。たび重なる蒙古の牒状、二度の元寇という国家の危機の中で、防衛に全力を注いで難局を乗り越えた。また禅宗に帰依し、中国・宋から無学祖元を招聘して円覚寺を創建した。弘安7年(128444日、病床にあった時宗は無学祖元の手で落髪し、法光寺道杲の法号を授けられ、同日に逝去した。

 

訴状

訴えの趣旨を記載した文章。

 

斎戒

祭祀を前に心身を清め,禁忌を犯さないようにすること。心のけがれを清めることを斎といい,身のあやまちを禁じることを戒という。

 

念仏は無間の業

念仏を信ずる者は地獄のなかで最も恐ろしい無間地獄に堕ちるとの意。業とは、身口意の所作のすべてをいい、善業・悪業がある。ここでは、悪業をさし、無間地獄に堕ちるべき業因、すなわち、念仏を信ずることをいう。念仏は一般に浄土宗といわれ、日本における開祖は法然で、依経とするのは無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経である。この娑婆世界を穢土と嫌い、信仰の目的は来世に極楽浄土に生まれることであると説く。そして釈尊の一切経を聖道門と浄土門、また難行道と易行道に分け、法華経は聖道門の難行道であるから「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」といい、浄土宗のみ浄土門の易行道で、成仏の宗であるという邪義を立て、法華経を誹謗した。この故に大聖人は、法華経譬喩品第三の「若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人は命終して阿鼻獄に入らん」の文をもって念仏無間と破折されたのである。

 

爾前得道の有無の法門六箇条

文永8年(12717月、浄土宗の行敏が日蓮大聖人に法論を申し入れた時、その訴状の中に記されている六か条。①八万四千の教乃至一を是とし諸を非とする理豈に然るべけんや。②法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す。③法華前説の諸経は皆是れ妄語なり。④念仏は無間の業。⑤禅宗は天魔波旬。⑥大小の戒律は世間誑惑の法。

 

宗論

①経を総括して法義を立てて、宗旨とすること。②宗派間の論議のこと。勝劣・真偽を決定する法論。

 

目安

①目当て・標準。②箇条書きの文書・形式。

 

御勘気

主人または国家の権力者から咎めを受けること。

 

佐州

新潟県佐渡島のこと。北陸道七国のひとつ。

 

平金吾

(~1293)。平左衛門尉頼綱のこと。金吾は左衛門尉の唐名。執権北条時宗・貞時の二代に仕え、北条得宗家の家司(執事)、また侍所の所司(次官)として軍事・警察・政務を統轄し、鎌倉幕府の実力者として権勢をふるった。極楽寺良寛など諸宗の僧と結びつき、文永8年(1271912日、軍勢をつれて日蓮大聖人を松葉ヶ谷の草庵に襲い、夜半、竜の口で頸を斬ろうとしたが果たせず、佐渡に流罪した。文永11年(127448日、佐渡から帰られた大聖人と対面し、蒙古の来襲の時期を尋ねているが、大聖人の諌暁を用いることはなかった。弘安2年(1279)には捕えられて鎌倉へ連行されてきた熱原の農民信徒に拷問を加え、3人を斬殺、他を追放処分にしている。弘安7年(1284)貞時が執権となった時、内管領となり、翌年、評定衆の秋田城介の安達泰盛を滅ぼし(霜月騒動)、権力を独占した。しかし永仁元年(12934月、長男・宗綱の訴えにより、貞時によって次男の資宗と共に滅ぼされ、宗綱も佐渡流罪となった。

 

甲斐の国の深山

山梨県南巨摩郡身延町波木井。大聖人はこの地で文永11年(1274)~弘安5年(1282)までお住まいになられている。

 

主上

天皇の尊称。

 

女院

天皇の生母・准母・三后・内親王などで、朝廷から「院」または「門院」の称号を受けた女性。待遇は上皇に準じた。孝明天皇の生母を最後に、女院の称は廃絶した。

 

御意

相手を敬っていう語。おぼしめし。お考え。

 

九牛が一毛

「九牛」の「九」は具体的な数字ではなく、数が多いという意味。多くの牛の中のたった一本の毛という意から、たくさんある中のきわめてわずかな部分のことをいう。また、取るに足りないこと。司馬遷が友人の任安に宛てた手紙に「たとい僕、法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡うが若し(私が罪によって殺されたとしても、それは九牛が一毛を失った程度のこと)」とあるのに基づく。

 

随問而答

相手の疑問・質問に対して答えること。問答形式のひとつ。相手の問いに答えて法を明らかにしていくこと。

 

爾前迹門の釈尊

法華経本門以前に説かれた始成正覚の釈尊のこと。

 

等覚の菩薩

仏の覚りと等しい位。菩薩の最高位。大乗の菩薩の五十二位の中で五十一位にあたる。三祇百劫の修行をし、無明を断じて、その智徳や功徳が妙覚と等しいので等覚という。一生補処、金剛心、有上士、無垢地ともいう。

 

大梵王

大梵天王のこと。梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。

 

三途

死者が行くべき三つの場所。猛火に焼かれる火途、刀剣・杖で強迫される刀途、互いに食い合う血途の三つで、それぞれ地獄道・畜生道・餓鬼道にあてる。三悪道。三悪趣。

 

斎法経

どの経をさすかは不明。

 

正法念経

『正法念処経』のこと。70巻。東魏の瞿曇般若流支訳。六道生死の因果を観じ、これを厭離すべきことを説く。

 

阿含経

釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。

 

宝塔品の持戒行者

法華経見宝塔品大11に説かれる持戒の行者。法華経を受持する人のこと。

 

宝塔品

妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。

 

講義

次に、極楽寺良観が執権北条時宗へあてて出した日蓮大聖人を誹謗する訴状の内容を挙げられて、良観と対決する場合の心がけを教えられている。

良観は真言律宗を創めた奈良・西大寺の叡尊の弟子で、建長4年(1252)に関東へ下り、弘長元年(1261)には鎌倉へ入って律宗を弘めた。

北条時頼は光泉寺を創建して良観を開山とし、北条長時は極楽寺の開山に招いている。良観は幕府の権力者と結んで大きな勢力をもち、貧民救済のための医療施設を設けるなど社会事業に力を注いだが、その反面で一貫して日蓮大聖人に怨嫉し、とくに文永8年(1271)の祈雨の勝負に破れたときは、大聖人を幕府に讒言して竜の口法難、佐渡流罪の原因をつくった。

「法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云く」とは、妙法比丘尼御返事に「戒を持ちながら悪心をいだく極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ」(1416:16)と述べられているように、竜の口法難のまえに執権北条時宗へ提出した訴状の内容と思われる。

その内容は「斎戒は堕極す云云、所詮何なる経論に之有りや……念仏は無間の業と云云、是れ何なる経文ぞや慥なる証文を日蓮房に対して之を聞かん」というものであった。もとより大聖人は、常に経文の証拠を挙げて破折しておられたのであり、良観もそれを知っていたが、大聖人があたかも経文になんの根拠もなくて諸宗を誹謗しているような印象を与えようと讒訴したものであろう。

その反面で良観は、本抄の最後に「彼の良観が・日蓮遠国へ下向と聞く時は諸人に向つて急ぎ急ぎ鎌倉へ上れかし為に宗論を遂げて諸人の不審を晴さんなんど自讃毀他する由其の聞え候……又日蓮鎌倉に罷上る時は門戸を閉じて内へ入るべからずと之を制法し或は風気なんど虚病して罷り過ぎぬ」と述べられているように、卑劣な虚勢を張りながらも、大聖人と対決することを臆病なまでに避け続けていたのである。

また「爾前得道の有無の法門六箇条」とは、文永8年(12717月に、浄土宗の僧・行敏が日蓮大聖人に対して法論対決を申し入れた訴状について、そのなかの問難を一つ一つ破折された行敏訴状御会通のなかで「八万四千の教乃至一を是として諸を非とする理豈に然る可けんや」(0180:04)「法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す」(0180:08)「法華前説の諸経は皆是れ妄語なりと」(0180:12)「念仏は無間の業と」(0180:15)「禅宗は天魔波旬の説と」(0181:05)「大小の戒律は世間誑惑の法と」(0181:07)と、行敏が大聖人の主張として挙げた内容が述べられているが、それをさしたものとも考えられる。それらの破折は、行敏訴状御会通に詳しく述べられている。

 

然るに推知するに……意を得て宗論すべし

 

大聖人は、極楽寺良観が大聖人と対決して法論をしたいなどと言い触らしているのなら、幕府へ訴状を提出して公場で対決し、次のように述べよ、と仰せになっている。

私の師である日蓮大聖人は、佐渡流罪を許されて鎌倉へ帰り、平左衛門尉を諌めて用いられなかったため、国を去って甲斐国身延の山中に引退しており、その後はだれの命令があっても山を出ることはないので、その弟子にあたる私は若輩であり師の法門も十分に学んではいないが、法華経について不審があると言われる人がいればお答えしようと言い切って、その後は相手の問いに応じて答えていけ、と仰せである。

そして「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と仰せられ、「彼れ彼れの経経と法華経と勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ぜん時・爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや」との大確信をもって臨むよう教示されている。

諸経と法華経との勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ずる場合の法華経の行者の立場は、たとえ相手が爾前経や迹門の教主釈尊でさえも物の数ではなく、ましてそれ以下の等覚の菩薩などは問題ではなく、そうなれば権教権宗の者どもなどは全く相手にはならない、との仰せである。

これは別しては久遠元初の自受用身の再誕であり末法出現の御本仏であられる日蓮大聖人の御立場であるが、総じていえば、四信五品抄に「汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将()た又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」(0342:06)と仰せのように、大聖人門下の立場であり、確信でなければならない。

ゆえに「法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得」て法論すべきであると仰せられている。

これは諸宗を信ずる者を直しに卑しんで鬼畜とみるという意味ではなく、法華経を信ずる者の位を娑婆世界の主である大梵天王とするなら、爾前権教による諸宗の者は民であり鬼畜にあたると下しても言い過ぎではないとの意であり、更に邪宗邪義によって人々を不幸にする良観等の輩はまさに鬼畜といってもいいであろう。邪宗邪義と対決するときには、そのような大確信に立って堂々と破折することが大切であるとの御教示である。

 

又彼の律宗の者どもが破戒……是を訇しるべし

 

更に大聖人は、戒律を守ると称している律宗の者達は、実は破戒であり無戒であって、そのために地獄に堕ちるだろう、と現証のうえから律宗を破折されている。

そもそも末法に小乗の戒律を守ることは全く無益であるばかりでなく、とうてい不可能なのである。そのため伝教大師は末法燈明記のなかで「「設い末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ恠異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可けん」と述べて、市の中に虎がいるわけがないように、末法に持戒の者などいるはずがないと明かしているのである。

良観をはじめとする当時の律宗の僧などが、戒律を守るといいながら戒を破っている状態は、山や川が崩れるよりも甚だしく、成仏することなど思いもよらないばかりか、人界・天界に生まれることさえも難しいであろう、と破されている。

その実態については聖愚問答抄で「極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と是を仰ぎ奉る彼の行儀を見るに実に以て爾なり、飯嶋の津にて六浦の関米を取つては諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す慈悲は如来に斉しく徳行は先達に越えたり……我深く良観上人の如く及ばぬ身にもわろき道を作り深き河には橋をわたさんと思へるなり、其の時居士・示して云く汝が道心貴きに似て愚かなり、今談ずる処の法は浅ましき小乗の法なり……上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や」(0475:13)と偽善ぶりを鋭く指摘されている。

一戒を持てば人界に生じることができるが、一戒でも破ればかえって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちるとした妙楽大師の言によれば、破戒を重ねる良観の一党の律僧が三悪道に、あるいは無間地獄に堕ちることは疑いないのである。

そのように律僧を責めたうえで、法華経見宝塔品第11の「此の経は持ち難し。若し暫くも持たば、我れは即ち歓喜す。諸仏も亦た然なり。是の如きの人は、諸仏の歎めたまう所なり。是れは則ち勇猛なり。是れは則ち精進なり。是れを戒を持ち、頭陀を行ずる者と名づく」とある文を挙げて、法華経の受持こそ真の持戒であると強く言い切るよう教えられている。

そして、受持即持戒の義について、次の章に詳しく述べられている。

 

 

第十章(末法の金剛宝器戒を明かす)

本文

其の後良有つて此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ、此れを「諸教の中に於て之を秘して伝へず」とは天台大師は書き給へり、今末法当世の有智・無智・在家・出家・上下・万人此の妙法蓮華経を持つて説の如く修行せんに豈仏果を得ざらんや、さてこそ決定無有疑とは滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給へり、三仏の定判に漏れたる権宗の人人は決定して無間なるべし、是くの如くいみじき戒なれば爾前・迹門の諸戒は今一分の功徳なし、功徳無からんに一日の斎戒も無用なり。

 

現代語訳

その後しばらくして、「この法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたものであるから、この五字の内にどうして万戒の功徳を納めていないことがあろう。この万行万善の妙戒は、一度持てば、後に行者が破ろうとしても破ることができないのである。これを金剛宝器戒という」などと言うがよい。三世の諸仏はこの妙戒を持って法身・報身・応身ともに無始無終の仏になられたのである。このことを天台大師は「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と書かれたのである。

末法の今の世の智者・愚者、出家・在家、上下万人は、この妙法蓮華経を持って、説のごとく修行するならば、どうして仏果を得ないことがあろうか。そうであるからこそ、釈尊滅後、濁悪の末法の法華経の行者を「是の人は仏道に於いて、決定して疑い有ること無けん」と定められているのである。釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏とこの三仏の定判に漏れた権宗の人々は間違いなく無間地獄であろう。

このように金剛宝器戒は貴い戒であるから、爾前・迹門の戒は、今一分の功徳もないのである。功徳がないのであるから、一日の斎戒も無用なのである。

 

語釈

金剛宝器戒

金剛の宝器のように、堅固で壊れることのない戒のこと。金剛宝戒、金剛不壊戒ともいう。法華経の円頓戒をいうが、広くは大乗戒をもいった。梵網経巻下に「金剛宝戒は是れ一切仏の本源、一切菩薩の本源、仏性の種子なり」とあり、伝教大師の一心金剛戒体秘決巻上には「一切衆生の無始の心中に皆性徳本有の金剛宝戒あり、性徳本有の戒の中に本来無作の三身あり……是の性徳本有無作の三身を性徳本有の金剛宝戒と名づけ、円頓の戒体と為す」とある。末法今時では南無妙法蓮華経の御本尊を信受して無作三身如来の戒体をあらわすことが金剛宝器戒であり、これに一切の戒および功徳が含まれる。

 

無始無終の仏

始めもなく終わりもない三世にわたる常住不滅の仏。久遠元初の自受用法身如来。

 

有智

仏法に通達し解了している者。

 

無智

仏法を理解していない在家の人。

 

在家

①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。

 

出家

世俗の家を出て仏門に入ること。在家に対する語。妻子・眷属等の縁を断ち切り仏道修行に励む者のこと。比丘・比丘尼のこと。

 

決定無有疑

神力品総結の文「我が滅度の後に於いて、斯の経を受持すべし、是の人仏道に於いて、決定して疑あることなけん」とある。御本尊を受持するならば、仏になること疑いないとの御文である。

 

講義

律僧の持つ戒の無力さを指摘したうえで、真実の戒は法華経本門の肝心である妙法蓮華経の五字を持つことであり、これこそ金剛宝器戒であると主張せよ、と仰せになっている。

「法華経の本門の肝心・妙法蓮華経」とは、法華経寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経、その究極は日蓮大聖人御図顕の御本尊である。

それは、観心本尊抄の「末法の初は……寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250:09)、「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254:08)、「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254:18)等の御文の意に明らかである。

「三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり」と仰せになっているのは、観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)の御文と同趣旨である。

釈尊はもとより、三世十方の諸仏のあらゆる善行、功徳は、ことごとく寿量文底の南無妙法蓮華経、すなわち御本尊に含まれているのであり、三世十方のあらゆる仏は、この妙法受持という戒によって仏になったのである。言い換えれば、三世十方の諸仏のそなえている功徳とは、この妙法から生じたものなのである。

日寛上人は観心本尊抄文段に「当抄に明かす所の観心の本尊とは……これ即ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり、故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり……これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」と述べられている。

したがって、末法の現在は、御本尊を受持し、帰命することによって自身の仏界を涌現して成仏することができるので、御本尊を持つことが非を防ぎ悪を止める戒にあたり、それを受持即持戒という。

大聖人が四信五品抄に「末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(0340:09)と述べられているように、御本尊を受持することこそが末法の戒なのである。

そして「此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけん」と述べられているように、ひとたび御本尊を受持すれば、その戒体は破れることがないので金剛宝器戒というのである。

金剛宝器戒とは、金剛石でできた宝器のように、堅固で壊れることのない戒の意で、金剛宝戒、金剛不壊戒ともいい、法華経の円頓戒をさしていう。伝教大師の一心金剛戒体秘決巻上に「一切衆生の無始の心中に皆性徳本有の金剛宝戒あり、性徳本有の戒の中に本来無作の三身あり……是の性徳本有無作の三身を性徳本有の金剛宝戒と名づけ、円頓の戒体と為す」とある。

末法では、南無妙法蓮華経の御本尊を受持して無作三身如来の戒体を顕すことをいい、これに一切の戒と功徳が含まれるのである。しかもその戒は絶対に破れることはなく、ひとたび御本尊を持てば、たとえ一時は信心を退転したとしても最後には必ず成仏の境涯に至ることができるので、金剛宝器戒というのである。

大聖人は、三世の諸仏は皆、この戒を持つこと、すなわち南無妙法蓮華経を受持することによって法身・報身・応身の三身常住の仏になったのであり、そのことを天台大師が法華文句で「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と記しているのである、と述べられている。

法華文句の文は、寿量品の「如来秘密・神通之力」の文を釈した一節であり、詳しくは「秘密とは、一身即ち三身なるを名づけて秘と為し、三身即ち一身なるを名づけて密と為す。又昔、説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自知するを名づけて密と為す。神通之力とは三身の用なり。神は是れ天然不動の理、即ち法身なり。通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり。仏は三世に於いて等しく三身有り、諸教の中に於いて之を秘して伝えたまわず」とある。

爾前の諸経で説かれる仏は、法身・報身・応身の三身が各別とされているが、法華経にいたって初めて一身即三身・三身即一身の三身具足の義が明かされた。しかし法華経迹門までの釈尊は三身即一身の仏といっても初成正覚の仏であって常住の三身ではなかったが、如来寿量品第十六において五百塵点劫の久遠における成道が明かされ、その久遠の昔から三身を円満に備えた仏であるという本地が明かされた。

しかし、寿量品の仏は、久遠元初の自受用身と比べると、五百塵点劫という時に垂迹化他した第一番成道の仏身であり、三世常住といっても無始無終にわたる常住の仏ではない。寿量文底下種の義では、久遠元初の自受用身即日蓮大聖人こそ、三世諸仏の能生の仏であり、真の無始無終・三身常住の仏なのである。

それについて日寛上人は、文底秘沈抄に「外用の浅近に據れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に據れば本地自受用の再誕日蓮なり……佐州已後は蓮祖即ち是れ久遠元初の自受用身なり……血脈抄に云く『釈尊久遠名字即の御身の修行を末法今時の日蓮が名字即の身に移す』云云。又云く『今の修行は久遠名字の振る舞いに介爾計りも相違無し』云云、是れ行位全同を以て自受用身即ち是れ蓮祖なることを顕すなり。故に血脈抄に云く『久遠元初の唯我独尊とは日蓮是れなり』云云、三位日順の詮要抄に云く『久遠元初の自受用身とは、蓮祖聖人の御事なりと取り定め申すべく候』云云」と述べられている。

三世の諸仏も、久遠元初の自受用身所持の法体である南無妙法蓮華経を持って三身常住の仏となることができたのである。

したがって、末法の一切衆生がこの妙法蓮華経を持って信行に励めば、当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512:10)と仰せのように、仏果を得られないわけはないのである。

法華経の如来神力品第二十一の最後に「我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人は仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん」とあるのは、別しては末法の法華経の行者、すなわち日蓮大聖人のことをさしたものであり、総じては大聖人門下の成仏を疑いないと定めたものなのである。

法華経は釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏が真実と定めた経であり、それに漏れた権経権宗を信ずる人々は、仏の金言に背いているのであるから、無間地獄の苦悩を受けることは疑いない。

このように、末法には御本尊を受持するという金剛宝器戒以外の爾前経や法華経迹門までのあらゆる戒律は、非を防ぎ悪を止める戒としての働きも一分の功徳もないので、釈尊の仏法での戒律は無益という意味で〝末法は無戒〟というのである。したがって、そうした戒律を守ることは全く意味がないので無用となる。

 

 

第十一章(末法に教行証具備の正法流布を示す)

本文

但此の本門の戒を弘まらせ給はんには必ず前代未聞の大瑞あるべし、所謂正嘉の地動・文永の長星是なるべし、抑当世の人人何の宗宗にか本門の本尊戒壇等を弘通せる、仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず、日本人王・三十代・欽明天皇の御宇に仏法渡つて今に七百余年前代未聞の大法此の国に流布して月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ、又已前の重末法には教行証の三つ倶に備われり例せば正法の如し等云云、已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし、日本・漢土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべし、在世四十二年並びに法華経の迹門十四品に之を秘して説かせ給はざりし大法本門正宗に至つて説き顕し給うのみ。

 

現代語訳

この本門の戒が弘まる時には、必ず前代未聞の大瑞があるのである。いわゆる、正嘉の大地震、文永の大彗星がこれである。いったい、今の世の人々で、またいずれの宗で本門の本尊・本門の戒壇等を弘通しているだろうか。仏滅後、二千二百二十余年に一人もいなかったのである。

日本国王の第三十代の欽明天皇の治世に初めて仏法が百済から渡来して七百余年、前代未聞の大法がこの国に流布して、インド・中国をはじめ、一閻浮提の一切衆生が仏に成ることができるとはなんとありがたいことではないか。

また、前に述べた教行証でいえば、末法には正法時代と同じく、この三つがそろうのである。

すでに地涌の大菩薩である上行菩薩が世に出られている。結要付嘱された大法もまた弘められるにちがいない。日本・中国、そしてすべての国々の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆である優曇華にあったようなものである。この大法は釈尊在世の四十二年、並びに法華経の迹門十四品においてこれを秘して説かれなかったのを、本門正宗分に至って初めて説き顕されたのである。

 

語釈

本門の戒

法華本門に説かれる戒。文底独一本門の戒。

 

正嘉の地動

正嘉元年(1257823日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。

 

文永の長星

「史料綜覧」によると、文永元年(1264626日に東北の上空に彗星が出現し、74日に再び現れ、8月に入っても光は衰えなかった。このため、彗星を攘う祈?が連日のように行われたという。「安国論御勘由来」には「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。

 

本門の本尊

日蓮大聖人が建立された宗旨である三大秘法の文底独一本門・事の一念三千の大御本尊のこと。

 

戒壇

受戒の儀式を行う場所。場内で高く築くので壇という。

 

欽明天皇

(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(055210月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。

 

御宇

ひとりの天子の時代。

 

已前の重

前に述べた件と重なるが、等の意。

 

上行

上行菩薩のこと。四菩薩の一人。釈尊は法華経如来寿量品第十六の説法の後に、法華経如来神力品第二十一で上行菩薩に、滅後末法弘通のため法華経を付嘱した。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来である。四徳においては我の徳をあらわし、生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯をいう。

 

結要の大法

法華経如来神力品第二十一で釈尊から上行菩薩等の四菩薩を上首とする地涌の菩薩に結要付嘱された法体のこと。結要付嘱とは「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」の文にあたる。結要とは法の要点をまとめ、その肝要を選ぶことをいう。

 

金輪聖王

金の輪宝をもって四方を支配する転輪聖王のこと。金輪聖王ともいう。四輪王の一人。金輪王は、人寿八万歳の時に出現し、須弥山を中心とする東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四洲、すなわち全世界を併合し領有するという。また金輪王の出現にあたっては、その先兆として必ず優曇華が咲くといわれる。

 

優曇華

梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。

 

迹門十四品

垂迹仏が説いた法門の意で法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。

 

講義

この章では、三世諸仏の成仏の根本となった「法華経本門の肝心・妙法蓮華経」の大法が今まさに一閻浮提に流布することが示されている。

その大瑞が正嘉の大地震と文永の大彗星であると仰せである。

正嘉の地動とは、正嘉元年(1257823日に鎌倉地方を襲った大地震のことで、吾妻鏡の正嘉元年823日の条に「二十三日、乙巳、晴。戌刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きは無し。山岳頽崩す。人屋顚倒す。築地皆悉く破損す。所々地裂け水涌き出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず。色青し」と記されており、それ以後も94日に至まで余震が続いたとされている。

そのために受けた生命・財産にかかわる被害がどれほど大きなものだったかは記録がないので不明だが、聖愚問答抄には「正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに或は幼き子をふりすて或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中さこそ悲しかるらめ 行くもかなしみ留るもかなしむ」(0474:06)と述べられている。

また、安国論御勘由来に「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す,同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病同二年庚申四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ」(0033:02)と述べられていることからも、その惨状の一分がうかがえるのである。

文永の長星とは大彗星のことで、文永元年(1264626日、東北の空に彗星が現れ、7月四日に再び輝き始めて、8月に入っても光が衰えなかったため、日本国中で大騒ぎとなり、彗星を攘う祈禱が盛んに修せられたという。当時、彗星の出現は凶瑞とされたからである。

大聖人はこの二つの現象を、末法に正法が興隆する瑞相とされており、観心本尊抄にも「正像に無き大地震・大彗星等出来す、此等は金翅鳥・修羅・竜神等の動変に非ず偏に四大菩薩を出現せしむ可き先兆なるか」(0254:14)と述べられている。

日本に仏教が伝来してから七百余年、前代未聞の大法とは、「本門の本尊戒檀等」と述べられているように、日蓮大聖人が御建立になった本門の本尊・本門の戒檀・本門の題目の三大秘法をさしている。

法華取要抄に「如来滅後二千余年・竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(0336:02)と述べられているように、三大秘法こそ正像未弘の大法であり、末法万年に流布して一閻浮提の一切衆生を成仏せしめることができる唯一の正法なのである。

そして、本抄の最初に釈尊の仏法は末法に至っては教はあっても行証はないとされているが、「末法には教行証の三つ倶に備われり例せば正法の如し」と仰せのように、日蓮大聖人の文底下種の南無妙法蓮華経には、教・行・証がともに備わっていることは釈尊の仏法における正法時代と同様であるとされている。

大聖人の仏法における教とは文底下種事行の一念三千であり、行とは御本尊を信受し唱題する受持即観心の行であり、証とは御本尊への信行に励む人が当体蓮華を証得して即身成仏できることである。すなわち、末法の正法たる御本尊と、御本尊を受持して信行に励む信心のなかに教・行・証が備わっているのである。

更に大聖人は「已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし」と仰せになり、地涌の菩薩の上首・上行菩薩がすでに出現している以上は、上行菩薩が釈尊から末法に弘通すべく結要付嘱を受けた大法が広まらないわけがないとされている。

上行菩薩の再誕とは、日蓮大聖人の外用の姿であり、「結要の大法」とは大聖人が所持された三大秘法の南無妙法蓮華経をさす。結要とは結要付嘱のことで、法華経如来神力品第二十一で釈尊が滅後末法のために法華経の肝要である四句の要法を上行菩薩の等の地涌の菩薩に付嘱したことをいう。

前にも挙げたが、観心本尊抄に「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体」(0247:15)と述べられていることから、結要の大法とは、妙法蓮華経の五字であり、その法体は日蓮大聖人御図顕の御本尊であることが明らかである。

本抄では「在世四十二年並びに法華経の迹門十四品に之を秘して説かせ給はざりし大法本門正宗に至つて説き顕し給うのみ」と仰せである。

ただし、観心本尊抄に「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249:17)と述べられているように、末法に流布する法は寿量品の文底に秘沈された下種益の南無妙法蓮華経であって、在世の脱益のための一品二半そのものではないのである。

そして、大聖人が末法の日本に御出現になり、正像未弘の御本尊を御建立になったということは、日本・中国そして世界の一切衆生が、優曇華に値ったようだと仰せになっている。優曇華は三千年に一度しか咲かないとされる想像上の花であいがたいことのたとえに用いられる。

日興上人の遺誡置文には「於戲仏法に値うこと希にして喩を曇華の蕚に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か、爰に我等宿縁深厚なるに依つて幸に此の経に遇い奉ることを得、随つて後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」(1617:01)と述べられており、あいがたき妙法を信受することができた我々は、ひとえに広宣流布を願って信行に励むべきことを示されている。

 

 

第十二章(問答の心構えを教えて結す)

本文

良観房が義に云く彼の良観が・日蓮遠国へ下向と聞く時は諸人に向つて急ぎ急ぎ鎌倉へ上れかし為に宗論を遂げて諸人の不審を晴さんなんど自讃毀他する由其の聞え候、此等も戒法にてや有らん強に尋ぬ可し、又日蓮鎌倉に罷上る時は門戸を閉じて内へ入るべからずと之を制法し或は風気なんど虚病して罷り過ぎぬ、某は日蓮に非ず其の弟子にて候まま少し言のなまり法門の才覚は乱れがはしくとも・律宗国賊替るべからずと云うべし、公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず浅猨しき事なるべし、弥身口意を調え謹んで主人に向うべし主人に向うべし。
     三月二十一日 日 蓮 花押
   三位阿闍梨御房へ之を遣はす

 

現代語訳

良観は、日蓮が遠国の佐渡に行ったと聞くと、人々に向かって、「日蓮が早く鎌倉に上ってくればよい。日蓮と法論して人々の疑いを晴らしてみせよう」などと自讃毀他していたということである。「これも律宗の戒法であるのか」と、厳しく尋ねるがよい。

また、日蓮が佐渡から鎌倉に上る時は、門戸を閉じ、「入ってはならない」などと出入りを禁じたり、あるいは風邪であるなどと仮病を使ったのである。

某は日蓮聖人ではない。その弟子であるから少し言葉にも訛りがあり、法門の才覚も浅いが、律宗が国賊である義は少しも変わらない、と言うがよい。

また、たとえ公場で道理にかなった法門を申したからといって、悪口したり、粗暴な言葉を吐いたり、自慢気な様子は人に見せてはならない。それはあさましいことである。態度にも、言葉にも、よく注意をはらって、謹んで相手に向かわなければならない。

三月二十一日             日 蓮  花 押

三位阿闍梨御房にこれを送る

 

語釈

自讃毀他

自らをほめたたえ、他人を謗ること。

 

風気

風邪気味。

 

律宗国賊

四箇の格言の一つ。日蓮大聖人は「律宗は国賊の妄説」(173㌻)、「律宗・持斎等は国賊なり」(1073㌻)などと仰せである。持戒を装って「生き仏」「国宝」と崇められていた良観(忍性)などの律宗の僧を大聖人が破折されたもの。戒律の復興をうたいながら一方で幕府権力に取り入って非人支配や公共事業の利権を掌握して私腹を肥やすその欺瞞性を、「国宝」どころか「国賊」であると糾弾されている。

 

理運の法門

道理に叶っている法門のこと。

 

身口意

身業・口業・意業のみっつ。身・口・意による三種の所作のことで、生命体の一切の振る舞いをさす。業は未来にもたらされる果の原因となる。

 

阿闍梨

梵語アーチャールヤ(ācārya)の音写。聖者・尊者・教授・正行などと訳す。弟子を教え導く高徳の僧。後世になって職名・僧位として用いられた。

 

講義

極楽寺良観の偽善ぶりを指摘するとともに、三位房に対して公場で対決する心構えを教えられて、本抄を結ばれている。

極楽寺良観は大聖人に敵対しながら、面と向かって対決することは避け続けていたのである。

なお、公場対決とは、公の場で相対して正邪・善悪・勝劣を決定することをいい、古来から仏法の勝劣・浅深を決するため、国王や大臣などが列席する場での法論対決が行われた。

日蓮大聖人は、鎌倉政府が政治の実権を握っていた当時の社会体制のなかで、事実上の国主の立場にあった北条時頼や時宗に対して、禅・念仏・真言・律等の諸宗への帰依をやめて、正法正義に帰依することこそ国を安んじ民を安んずる唯一の道であることを、立正安国論、北条時宗への御状等をもって諌められるとともに、極楽寺良観など他宗の僧達と公場で対決させるよう求められている。

すなわち、文永5年(1268)正月に蒙古から日本の服属を求め、来貢しなければ武力で討つという国書が到来したのを機に、大聖人は立正安国論で警告された「他国侵逼難」が現実のものになったことを指摘した書状を幕府の要人に送り、幕府の反省を促された。

それに対して幕府はなんらの反応も示さなかったため、大聖人は極楽寺良観や建長寺道隆等が陰で画策しているものと察せられ、このうえは公場において対決し、正邪を決する以外にないとして、同年1011日に執権北条時宗をはじめ、宿屋左衛門光則、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺にあてて十一通の諌状を送られた。

北条時宗の御状には「速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり……所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え」(0169:04)と、公場での対決によって仏法の正邪を決することを求められたのである。

良観への御状では「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り』と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し……所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず」(0174:02)と良観の行状を厳しく破折され、公場での対決によって法の正邪を決しようと強く求められたが、良観はついに応じようとしなかった。

また文永8年(1271618日から74日まで、鎌倉地方が旱魃だったために良観が雨を祈ったが、その折に大聖人は「此体は小事なれども此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばや」(1157:頼基陳状:16)と思われて、良観の所へ使いをやり「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし……是を以て勝負とせむ」(1157:頼基陳状:17)と申し入れたのである。

良観は7日のうちに雨を降らそうとしたが「弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す……力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず」(1158:頼基陳状:05)というありさまで、ついに一滴の雨も降らすことができなかった。

勝負に破れた以上、約束どおりに良観は大聖人の弟子となるべきにもかかわらず、更に憎悪と怨嫉の炎を燃やし、大聖人を幕府の権力者等に讒言して竜の口法難の原因をつくったのである。

大聖人はそのことを「然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にも・まじはり・約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに・さはなくして無尽の讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧か」(1158:15)と指摘されている。

そのような卑劣な良観であるから、大聖人が鎌倉に不在の折には、法論をやって大聖人を打ち負かしてやりたいと言い触らし、大聖人が鎌倉におられるときには門戸を閉じて面会を断ったり、仮病を使って対決を避け続けたのも当然だったといえよう。自己宣伝に努めているのは自讃毀他にあたり、自らを讃めたたえて他を毀ることは十重禁戒の一つとされており、良観の行為はその戒律に背いていることになるのである。

大聖人は、そうした卑劣な行為をすることも戒法にあるのかと強く責めよと仰せられているのである。

更に三位房へ、良観に対しては、自分は日蓮大聖人の弟子なので言葉のなまりもあり、仏法習学の力も十分ではないが、律国賊であることは明瞭である、と言い切るよう仰せになっている。

律国賊とは、四箇の格言の一つで、律宗を信じ、弘める者は国を破滅に導く賊となることをいう。

最後に、公場において良観等と対決する場合の心構えとして、いかに道理にかなった法門を立てているといっても、不作法な言葉や空威張りの強そうな言葉をはいたり、偉そうに自慢するような姿を人に見せてはならない、あさましいことである、と戒められている。そして、身口意の三業をととのえ、すっきりとして相手に対するべきであるとさとされて、本抄を結ばれている。

こうした御教示は、現代にあっても、折伏弘教にあたって心すべきことであろう。

なお、建治2年(1276)正月に著された清澄寺大衆中のなかで、大聖人は「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(0893:04)と述べられて、経巻や論釈の借用を依頼されており、そのころ真言師が蜂起して公場対決が実現し、仏法の師邪を明らかになるような状況があったとうかがえる。

同年7月の報恩抄送状にも「内内・人の申し候しは宗論や・あらんずらんと申せしゆへに十方にわかて経論等を尋ねしゆへに」(0330:05)と述べられており、当時は世間に宗論があるとのうわさが流れていたために、大聖人が弟子達を諸方に派遣して法論の資料となる経論を集めさせ、準備されていたことが分かる。だが、それもうわさにとどまって実現しなかった。

弘安元年(1278)春にも再び公場対決が実現するような動きがあったため、鎌倉に住む門下がご報告したのに対し、大聖人は「日蓮一生の間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか、将又五五百歳の仏記宛かも符契の如し、所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り……将又一閻浮提皆此の法門を仰がん」(1284:諸人御返事:01)と喜ばれている。しかし、それも実現することはなかった。

なお、弘安2年(1279)秋に起きた熱原法難の際にも、大聖人は幕府へ提出する滝泉寺申状を自ら執筆され、そのなかでも公場対決によって法の正邪・優劣を決するよう訴えられている。

このように、大聖人は一貫して公場対決の実現を望まれ、破邪顕正のうえで広宣流布の実現を図られたのである。しかし、良観や道隆など諸宗の僧は、大聖人と法論対決をすれば敗北することは必至だったので、対決を避け続け、幕府も大聖人の諌言を用いずにその機会を作ろうとしなかったために、ついに公場対決が実現することはなかったのである。

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