撰時抄
建治元年(ʼ75) 54歳 西山由比殿
第二十章(浄土宗を破す)
本文
問うて云く此の三宗の謬悞如何答えて云く浄土宗は斉の世に曇鸞法師と申す者あり本は三論宗の人竜樹菩薩の十住毘婆娑論を見て難行道易行道を立てたり、道綽禅師という者あり唐の世の者本は涅槃経をかうじけるが曇鸞法師が浄土にうつる筆を見て涅槃経をすてて浄土にうつて聖道・浄土二門を立てたり、又道綽が弟子に善導という者あり雑行正行を立つ、日本国に末法に入つて二百余年・後鳥羽院の御宇に法然というものあり一切の道俗をすすめて云く仏法は時機を本とす法華経大日経天台真言等の八宗九宗一代の大小・顕密・権実等の経宗等は上根上智の正像二千年の機のためなり、末法に入りてはいかに功をなして行ずるとも其の益あるべからず、其の上・弥陀念仏にまじへて行ずるならば念仏も往生すべからず此れわたくしに申すにはあらず竜樹菩薩・曇鸞法師は難行道となづけ、道綽は未有一人得者ときらひ善導は千中無一とさだめたり、此等は他宗なれば御不審もあるべし、慧心先徳にすぎさせ給へる天台真言の智者は末代にをはすべきか彼の往生要集には顕密の教法は予が死生をはなるべき法にはあらず、又三論の永観が十因等をみよされば法華真言等をすてて一向に念仏せば十即十生・百即百生とすすめければ、叡山・東寺・園城・七寺等始めは諍論するやうなれども、往生要集の序の詞道理かとみへければ顕真座主落ちさせ給いて法然が弟子となる、其の上設い法然が弟子とならぬ人々も弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし心よせにをもひければ日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間・一天四海・一人もなく法然が弟子となる法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ、譬へば千人の子が一同に一人の親を殺害せば千人共に五逆の者なり一人阿鼻に堕ちなば余人堕ちざるべしや、結句は法然・流罪をあだみて悪霊となつて我並びに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入つて或は謀反ををこし或は悪事をなして皆関東にほろぼされぬ、わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は俗男俗女にあなづらるること猿猴の人にわらはれ俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし、
現代語訳
問うていう。この三宗はどこが誤っているのか。
答えて云う。まず浄土宗は中国の斉の世に曇鸞法師という者がいた。もとは三論宗の人であったが、竜樹菩薩の十住毘婆娑論を見て難行道・易行道を立てた。次に道綽禅師という者がいた。唐の時代の人で、もとは涅槃経を講じていたが、曇鸞法師が浄土にうつる書を見て、涅槃経をすてて浄土へ移って、聖道・浄土の二門を立てた。また道綽の弟子に善導という者がいて、雑行と正行を立てた。
次に日本では末法に入って二百余年、後鳥羽院の時代に法然という者がいた。一切の道俗にすすめていうには、「仏法は時機を本とするのである。法華経・大日経・天台・真言等の八宗、九宗や釈尊一代の大小・顕密・権実等の諸宗等は、上根上智の正像二千年の機のための教えである。末法に入っては、いかに熱心に修行を積んでも、利益はないのである。そのうえ、これらの諸経・諸行を阿弥陀念仏にまじえて行じたならば、念仏の功徳も消えて往生はできなくなる。これは自分が勝手に言っているのではなく、竜樹菩薩・曇鸞法師は念仏以外を難行道と名づけ、道綽は未有一人得者と嫌い、善導は千中無一と定めている。これらは、念仏という他宗派の開祖たちの言であるから、それだけなら疑問もおきるであろう。ところで、慧心先徳を超える天台・真言の智者はこの末法の時代にいるだろうか。その慧心の往生要集には「顕密の教法は、予が死生を離れるべき教法ではない」といっているのである。また三論宗の永観の往生拾因等を見てみなさい。されば法華・真言等を捨てて、一向に念仏を唱えるならば、十即十生・百即百生の功徳がある」とすすめたので、叡山・東寺・園城寺・奈良の七寺等では、はじめは争い論じ合っていたが、結局は往生要集の序のことばが道理のように思えて、顕真座主が念仏の邪義に降伏して法然の弟子となってしまった。
そのうえ、たとえ法然の弟子とならない人々も、阿弥陀仏を他仏には比べようもないほど口ずさみ、心をよせたので、日本国はみな一同に法然房の弟子となったようにみえた。この五十年のあいだ、一天四海、一人もなく法然の弟子となったのである。法然の弟子となったということは、日本国は一人もなく謗法の者となったのである。たとえば、千人の子が一諸に一人の親を殺害すれば千人ともに五逆の者である。そのうち一人が阿鼻地獄へおちれば、ほかの人たちはおちなくてもよいというわけがあろうか。
結局は、法然は流罪されたことを怨んで、悪霊となって、法然並びに法然の弟子を罰した国主や、比叡山や、三井寺の僧等の身に入って、あるいは謀反をおこしたり、あるいは悪事をなさしめたので、朝廷や比叡山や三井寺は、鎌倉幕府に滅ぼされてしまった。わずかに残った比叡山や東寺の僧たちが俗男俗女からあなどられたり笑いものにされるさまは、猿が人に笑われ、俘囚が子供からさげすまされたり、ばかにされたりするようなものであった。
語釈
浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期する宗派。中国では浄土教として廬山の慧遠流・道綽善導流・慈愍流の三派があり、南北朝時代の曇鸞、唐代の道綽、善導によって独立大成した。日本では平安時代末期に法然が浄土の三部経(阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経)と浄土論(世親著。往生論ともいう)の三経一論に依り、善導の教判を受け、専修念仏義を立てて開宗した。
曇鸞法師
(0476~0542)。中国・北魏代の僧。浄土教の祖師の一人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽で訳経僧の菩提流支に会って観無量寿経を授かり、浄土教に帰した。竜樹造とされる十住毘婆沙論にある難行道・易行道の義を曲解し、念仏を易行道とし、その他の修行を難行道として排した。晩年は汾州(山西省)の玄中寺に住み、平州の遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」(往生論註)二巻、「略論安楽浄土義」一巻、「讃阿弥陀仏偈」一巻等がある。
難行道易行道
実践が困難な修行(難行道)と、易しい修行の法門(易行道)をいう。易行という語は、もとは竜樹作とされる十住毘婆沙論の易行品第九にある。そこでは、菩薩が十地(修行の位。十住と同意)の第一、不退地(初地、歓喜地ともいう)に至るのに、自ら勤苦精進して行く道を陸路の歩行にたとえて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水路の船行にたとえて易行道としている。曇鸞はこれを往生論註で独自に解釈し、菩薩が不退を求める修行に難行・易行の二種があるとし、易行の念仏によってのみ成仏できるとしている。
道綽禅師
(0562~0645)。中国の隋・唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。十四歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。
聖道・浄土二門
聖道門と浄土門。中国・唐の道綽の安楽集に説かれる二門。聖道門は、自力によってこの現実世界で成仏することができると説く。対する浄土門は、娑婆世界を穢(けが)れた世界として嫌い、他力によって極楽往生を願う。道綽の安楽集巻上には「聖道の一種は今時に証し難し(中略)唯浄土の一門のみ有りて、通入すべき路なり」とある。
善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)の人(一説に山東省・臨淄)。幼くして出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
雑行正行
善導は「観無量寿経疏」巻四の散善義のなかで「行に就きて信を立てるとは、然るに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり」と修行を正行と雑行に分け、西方浄土往生へと導く修行が正行で、雑行とは正行以外のさまざまな修行のこととした。
法然
(1133~1212)。平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(実際は讃岐)に流された。同年12月に赦があり、しばらく摂津国(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。
千中無一
「千が中に一無し」と読む。善導の往生礼讃偈の文。五種の正行(極楽に往生するための五種類の修行)以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないとする。
慧心先徳
(0942~1017)。恵心とも書く。日本天台宗恵心流の祖。先徳は尊称。大和国(奈良県)葛城郡当麻郷に生まれた。父は卜部正親。幼くして出家し天暦4年(0950)比叡山にのぼる。慈慧大師良源に師事し、天台の教義を学んだ。13歳で得度受戒し、源信と名乗った。権少僧都に任じられた時、横川恵心院に住んで修行したので、恵心僧都・横川僧都と称された。寛和元年(0985)に「往生要集」三巻を完成した。これは浄土教についての我が国初めての著述で、浄土宗の成立に大きな影響を与えた。しかし、晩年に至って「一乗要決」三巻を著し、法華経の一乗思想を強調している。本書は寛弘3年(1006)頃の作で、一切衆生に仏性のあることを明かし、法相宗の五性各別説を破折したものである。
往生要集
三巻。比叡山の恵心僧都源信の著。寛和元年(0985)の作。極楽往生に関する経論の要文を集めたもの。十章からなる。まず厭離すべき六道のありさまを述べ(厭離穢土)、次に求めるべき浄土の様子を説き(欣求浄土)、最後に極楽往生するために念仏を称えることを勧めている。
永観
(1032~1111)。平安末期、三論宗の僧。源国経の子。源信死後十余年に生まれた。洛東禅林寺の深観にしたがって剃髪した。深観は密教にくわしく、永観も灌頂を受けた。次に東大寺有慶について三論、法相、華厳などを学び、30歳の時、山城の光明山に入り、十年間、浄土教を習学した。後に東大寺別当職となる。晩年に洛東禅林寺に帰り、「往生拾因」一巻、「往生講式」一巻などを著した。寺内の薬王院に丈六の弥陀の像をつくり、壮年以前は日に一万遍、壮年以後は日に六万遍、弥陀の名号を称えたという。
十即十生・百即百生
善導の往生礼讃偈に「十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず」とある。念仏以外の雑行・雑修を捨てて、念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土に往生できると述べたもの。
顕真座主
(1131~1192)。比叡山延暦寺第六十一代座主。美作守藤原顕能の子。文治2年(1186)法然を大原の勝林院に招いて専修念仏の義を問い、法然(源空)を信じ、余行を捨てて念仏に帰したという。後に浄土宗では法然の弟子になったと喧伝された。文治6年(1190)3月、延暦寺座主となる。
法然・流罪
建永二年二月、法然は度牒(僧尼に交付される身分証)を剥奪され、還俗させられて土佐(実際には讃岐)に流された。さらに法然死後十五年、延暦寺衆徒による、いわゆる嘉禄の法難が起こった。当時の様子は御書に説かれている。「法然房死去の後も又重ねて山門より訴え申すに依つて人皇八十五代・後堀河院の御宇嘉禄三年京都六箇所の本所より法然房が選択集・並に印版を責め出して大講堂の庭に取り上げて三千の大衆会合し三世の仏恩を報じ奉るなりとて之れを焼失せしめ法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之れを掘り出して鴨河に流され畢んぬ」と。すなわち嘉禄3年(1227)6月、天台座主が朝廷に隆寛、幸西、空阿、証空といった浄土宗の僧たちを流罪に処し、さらに東山にある法然の墓を破壊して遺骸を鴨川に流すように訴え出た。そして延暦寺の僧兵が法然の廟所を襲って破壊したので、浄土宗側はいちはやく法然の遺骸を掘りおこし、六波羅探題の武士団が護衛につきいったん嵯峨に運び込んだ。これが延暦寺側の知るところとなったため、更に太秦に移送した。同年7月に門人の隆寛、幸西、空阿の三人がそれぞれ陸奥、壱岐、薩摩へと配流され、十月には選択集の版木が叡山の大講堂の庭で焼かれた。翌安貞2年(1228)1月、法然の遺骸は西山に運ばれ、ここから各地に分骨した。法然は、生前は流罪、死後も流浪の身であった。
講義
これより通じて、念仏・禅・真言を破折されるが、この章は念仏の破折である。念仏の破折にあたっては初めに中国の三師を破し、次に日本の法然を破されている。
斉の世に曇鸞法師
曇鸞は中国における念仏の開祖である。曇鸞はその著往生論の注に「謹んで竜樹菩薩の十住毘婆娑を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり」といっておるが、日寛上人は、曇鸞に二失ありとされている。一には本論違背の失、二には執権謗実の失である。まず第一の本論違背の失とは、竜樹の十住毘婆娑論の主張と、曇鸞の主張とは違っている。すなわち毘婆娑論の巻五易行品にいわく「仏法に無量の門有り。世間の道に難有り、易有るが如し、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽し。菩薩道も亦是の如し。或は勤行精進する有り、或は信の方便を以て易行して、疾く阿惟越致に至る者有り」と、またいわく「菩薩、此の身に阿惟越致地に至ることを得んと阿耨多羅三藐三菩提を成就することを欲せば応当に是の十方の諸仏を念じて其の名号を称うべし」と。
この文を曇鸞は、自己流に解釈して「難行道とは五濁無仏の時に於て阿毘跋致を求むるを難しと為す。譬えば陸地の歩行は則ち苦しきが如し。易行道とは但信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願い、仏の願力に乗ちて、便ち彼の清浄の土に往生することを得。譬えば水路の乗船は則ち楽しきが如し」といっているのである。
その違いは、第一に竜樹の本論は、通じて仏道に難もあれば易もあるといっているのに、彼は別して無仏五濁の時に約している。二には、本論の意は、歴劫修行の教を難行道とし、勤行精進等といっているが、彼は無仏五濁の時にこの土に入ることを難行としている。三には、本論では、この土において不退に入れば易行であることを明かしているのに、彼は往生浄土を易行としている。このように本論に違背している。
次に第二の執権謗実の失とは、爾前四十余年の権教に執着して、実教たる法華経を誹謗している失である。
道綽の誤り
次に道綽のいう聖道、浄土の二門は、曇鸞のいう難行、易行と同じである。ゆえにその誤りも同じになるが、日寛上人は別して二失ありとされ、一には所立不成の失、二には執権謗実の失とされている。第一の所立不成の失とは、道綽の安楽集にいわく、「一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。其の聖道の一種は今時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由り、二には理深解微なるに由る。是の故に大集月蔵経に云く、我が末法時中、億々の衆生行を起し、道を修するに末だ一人の得者有らずと。当に今末法は是れ五濁悪世にして、唯浄土の一門のみ有って通入すべき道たるべし」と。
道綽のいう聖道門とは、曇鸞のいう難行道である。難行道は、歴劫長遠の権大乗の修行であって、たとえ如来の在世であっても、これは難行である。それを何で仏が滅して遥かに遠いなどというのか、これ一。二には、高山の頂の水ほど深谷まで下る力がある。最高の教えほど下根の機まで救う力がある。たとえば軽病には凡薬、重病には仙薬のごとし。ゆえに理深ならば、解微ということはありえない。また解微のような教えなら理深ということはできない。それをなぜ理深解微などということをいうのか。三には、白法隠没とは、浅理の教えが隠没し、深理の大白法が広宣流布するということである。ところが彼が引用している経の意は深理隠没という義であり、そのような義は大集経にはないし、大体この文そのものが大集経に存在しないのである。以上のように、これはとんでもない妄説なのである。
このように、彼のいう論議は成り立たないから、所立不成という。また権経の浄土の一門に執し「未有一人得者」といって法華経を謗ずるから、執権謗実の失というのである。
善導の誤り
善導もまた、曇鸞・道綽と同じ誤りを犯している。善導は正行と雑行を立てる。正行には五種あり、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆であるとしてこの五種を正助に分け、称名の一行を正行となし、読誦等の四を助行としている。そして、この阿弥陀の三部経の正行以外は、すべて雑行であるとしている。そして、雑行は、千中無一であるといい、正行の功徳は、十即十生であるという。結論として彼は、法華経を雑行と誹謗しており入阿鼻地獄の罪を犯しているのである。
善導は、浄土の法門を演説すること、じつに三十年にわたったという。その揚げ句ついに気が狂って、寺前の楊柳の木で自殺を図り、極楽往生を図ったがはたさず、十四日間、脊椎を打った傷によって苦しみぬいて死んだという。これは確かな当時の中国の記録に残っている事実である。念仏は権教であり、夕陽のごとき、はかない教えである。ゆえに生命力を弱め、不幸で消極的な人間をつくる。善導の現証がなによりも、これを物語っているといえよう。
慧心院源信の謗法
慧心は、中古天台の本覚法門を立てた慧心流の祖である。御書では慧心に対して、与、奪の二面から述べられている。すなわち守護国家論では「源信僧都は亦叡山第十八代の座主・慈慧大師の御弟子なり 多くの書を造れることは皆法華を弘めんが為なり、而るに往生要集を造る意は爾前四十余年の諸経に於て往生・成仏の二義有り成仏の難行に対して往生易行の義を存し往生の業の中に於て菩提心観念の念仏を以て最上と為す、故に大文第十の問答料簡の中・第七の諸行勝劣門に於ては念仏を以て最勝と為し次下に爾前最勝の念仏を以て法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時・一念信解の功徳は念仏三昧より勝るる百千万倍なりと定め給えり、当に知るべし往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり」(0049:16)と、与えて論じられ、次に奪っての立場では本抄に「慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子身の中の三虫なり」と仰せである。
慧心は、このように、身は天台宗の権少僧都にありながら、43歳で往生要集三巻を作り、念仏に身を売った。往生要集とは、極楽往生に関する経論の要文を集めたものである。しかし、60歳の時、弥陀念仏を悔い改め法華経読誦、天台の一心三観の功徳を挙げ、さらに61歳の時、法華経に復帰して一乗要決三巻を著し、五乗方便・一乗真実の義を詳論して法華経最勝を述べた。その後は、法華経を中心に、弟子の指導と著述につとめ、天台慧心流の祖となったのであるが、念仏をすすめる往生要集が、念仏無間の道へ僧侶や民衆を追いやった罪は大きく、日蓮大聖人は慧心を「師子の身の中の三虫」の一人として破折されているのである。