当体義抄

当体義抄

 文永10年(ʼ73) 52歳 最蓮房

当体義抄 序講

当体義抄の講義にあたり、まずその序講として、
   第一に本抄の御述作の由来を明かし、
   第二に本抄の諸御抄における位置を論じ、
   第三に本抄の大意を論じ、
   第四に当体蓮華と譬喩蓮華について論ずることにする。

第一 本抄の御述作の由来

当体義抄は、著作の年代、場所、宛名も記されていないので、その由来については詳らかではない。だが、誰に授与されたかは「当体義抄送状」に、最蓮房に伝うとあるところから、明らかである。いちおう日蓮大聖人が佐渡流罪中の文永10年(1273)聖寿52歳の時、一の谷において御述作されたとされているが、異説もある。
 大聖人は、文永8年(1271)9月12日竜の口の法難後、佐渡に流罪され、文永11年(1274)3月13日、離島されるまでの約2年半を、北海の佐渡で不自由な生活を送られた。
 しかしながら、実に、この時期こそ、最も重要な数々の法門を説かれたのである。まさに竜の口法難において発迹顕本された、久遠元初の御本仏の所作以外の何ものでもない。なかんずく「開目抄」において人本尊を開顕し、また「観心本尊抄」によって法本尊を示されたのである。本抄も、この開目抄、本尊抄の宗門の二大柱石ともいうべき御抄と並んで、大御本尊を信ずるものの証得を明かされた甚深の御書である。
 本抄がいかに重要な御抄であるかは、次の送状の御文に伺い知れる。
 「問う当体の蓮華解し難し故に譬喩を仮りて之を顕すとは経文に証拠有るか、答う経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し地より而も涌出す」云云、地涌の菩薩の当体蓮華なり、譬喩は知るべし以上後日に之を改め書すべし、此の法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐・地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり、国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり、日蓮最蓮房に伝え畢んぬ」(0519:01)と。
 本抄を賜わった最蓮房とは、詳しくは最蓮房日浄といい、かっては天台の学匠であったが、佐渡流罪中の文永9年(1272)2月に大聖人の門下になったことが、最蓮房御返事に見えている。相当学識のあった人のようであり、天台の法門についてかなりつっこんだ質問をしている。だが、大聖人は、これらについて、すべて文底の奥義から論ぜられている。
 しかも、病弱であった最蓮房を激励し、祈祷経送状には「仮使山谷に篭居候とも御病も平癒して便宜も吉候はば身命を捨て弘通せしめ給ふべし」(1357:01)と、たとえ山谷にこもっていても、病気が平癒したなら身命を捨てて法華経を弘めるべきであると指南されている。弘安3年(1280)7月に与えられた十八円満抄にも「末法に入つて天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は必ず無間大城に墜ちんこと疑無し、貴辺年来の権宗を捨てて日蓮が弟子と成り給う真実・時国相応の智人なり 総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき所詮時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし」(1367:10)と末法今時における天台の修行法は堕地獄の因であるから、大聖人門下となったからには南無妙法蓮華経を修行すべきであると厳しく指導されている。
 ともあれ、大聖人が佐渡に流罪され、まもなく門下になったことを思えば、宿縁深厚の人であったことは事実である。諸法実相抄の追伸にいわく「まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」(1362:01)とあり、賜わった御書は、本抄のはかに「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「諸法実相抄」「祈祷抄」「十八円満抄」ほか数々あり、いずれも甚深の法門が明かされている。佐渡流罪中に門下となった宿縁の故であろうか。だが、大聖人は、本抄を著わされたのは後世のためであったことは、送状に「国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり」とあることからも察せられる。
 ここに「国主」とは、社会的権力を行使できる指導者の意である。

第二 本抄の位置

本抄の大意を論ずるにあたって、まず本抄の諸御抄中における位置を明らかにしたい。すなわち「開目抄」と「観心本尊抄」と「当抄」を教行証に配することができる。
 すなわち、開目抄は教行証のうち教の重に、観心本尊抄は行の重に、本抄は証の重にあたるのである。教行証の教とは仏の所説の教法、行とは教法によって立てた行法、証とは教行によって証得される果徳をいう。仏の教法は衆生の機根と相応するものであるから、すべての教法がつねに行証をともなうとはかぎらない。機により所によって、一つの教法によって修行が行われ、証得のある時代もあれば、逆に、その教法はあるが修行する人もなく、修行があっても証得する人がいない時代もある。ただ日蓮大聖人の法華経、三大秘法の南無妙法蓮華経の立場からみるならば、教行証の三つが具備しているのである。
 教行証御書に「末法には教行証の三つ倶に備われり例せば正法の如し等云云、已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし」(1283:02)と。
 次に教行証の配当を詳しくみると、はじめに開目抄が教の重となるのは、開目抄において、一代諸経の勝劣・浅深を判じているからである。その一切経の勝劣・浅深を判ずるに、五重の相対をもってしている。
   一に内外相対、通じて一代の諸経をもって外典外道に対して経を論ずる。開目抄に「一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし」(0188:11)と
   二に権実相対、八か年の法華経をもって真実とし、四十余年の権教に相対して論じられている。開目抄に「大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給し」(0188:15)と。
   三に権迹相対、迹門の二乗作仏をもって爾前の永不成仏に相対して論じている。開目抄の結文に「此の法門は迹門と爾前と相対して爾前の強きやうに・をぼゆもし爾前つよるならば舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべし・いか・なげかせ給うらん」(0195:18)と。
   四に本迹相対、本門をもって爾前迹門にてこれを論ずる。開目抄に「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す」(0197:15)と。
   五に種脱相対、寿量品の文上は脱益、文底は下種である。開目抄に「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189:02)と。
 一念三千文底秘沈とは、但法華経の、但本門寿量品の、但文の底に沈められていると読むべき意で、権実、本迹、種脱の相対が明らかである。この種脱相対は本抄においては「彼は脱此れは種なり」(0249:如来滅後五五百歳始観心本尊抄:17)判ぜられ、また常忍抄に「日蓮が法門は第三の法門なり」(0981:08)とも判ぜられている。
 以上のように、五重の相対して、はじめて日蓮大聖人の御本懐に達するのである。
 諸宗の者は、ただ内外相対のみを知って、そのほかの相対を知らず、あるいはまた本迹一致派の徒は本迹相対を知らず、勝劣派といえども本迹相対までは知っているが、種脱相対を知らないのである。ゆえに大聖人の法門に到達することができないのは、理の当然である。妙楽大師は「諸の法相は所対によって同じからず」といい、大聖人は法華取要抄に「所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」(0332:07)と仰せられている。このような御金言があるにもかかわらず、他門流の者がこのことを知らないのは、哀れむべきことである。まことに法門を論ずるには、この判定の基準がなければ、空論となることを知らねばならない。
 次に、観心本尊抄が行の重であるということは、観心本尊抄に受持即観心の義を明かしているからである。
 観心本尊抄に「無量義経に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等云云、法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云、涅槃経に云く「薩とは具足に名く」等云云、竜樹菩薩云く「薩とは六なり」等云云、無依無得大乗四論・玄義記に云く「沙とは訳して六と云う胡法には六を以て具足の義と為すなり」吉蔵疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」天台大師云く「薩とは梵語なり此には妙と翻ず」等云云、私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給」(0246:11)と。
 まず引く所の無量義経の「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」とは、因位の万行が妙法五字に具足するの義を顕わしているのである。因位しかり、果位が具足するのも当然である。故にこの妙法五字を受持すれば、因位の万行、果位の万徳が自然に具わるのである。その次の文も同じである。一切諸仏の因位の万行、果位の万徳は、皆ことごとく妙法五字に具足する。故に末法下種の大御本尊の功徳は無量無辺であり、広大深遠の力用を具備しているのである。われらは、妙法を受持することにより何らの行功もなく、三世諸仏の万行万善の功徳を受得することができるのである。
 三に当体義抄が証の重であるとは、御本尊を受持することによって、わが身が妙法蓮華経の当体と顕われることを説き明かした御書だからである。
 当体義抄に「然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(0518:15)と。
 また同抄に「本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(0512:12)と。まさに妙法を持った人は、事の一念三千の当体としての自己を確立し、生命活動のうえで、また生活活動のうえで、最高の生命活動、最高の生活を営み、幸福を満喫していけるのである。それはあたかも、白馬に乗って天空を翔けめぐるがごとく、自由自在な光輝に満ちた人生である。
 以上のごとく、教行証の三つを御書の上で論じていくことができる。
 末法には教のみあって行証なしというのが通途の仏法の姿である。しかるに、日蓮大聖人の仏法は、末法において、厳然と教行証を具備するのである。

第三 本抄の大意

本抄は、まず十界の依法、正法ことごとく妙法蓮華経の当体であることを論じ、さらに日蓮大聖人の観心から大御本尊を持つ者のみが「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す」ことが明かされている。
 さらに日寛上人の文段によれば、本抄はまず所証の法たる妙法蓮華経を法体に約し、信受に約し、さらに解釈を引いて明かし、次に当体蓮華を証得した人を久遠元初、釈尊在世、末法という三世に約して論じられたものである。いまこれを図表として掲げれば大略次のようになる。
                       ┌法体に約す①②③
           ┌所証の法を明かす①~⑤┼信受に約す④
           │           └解釈を引いて本有無作の当体の蓮華を明かす⑤
  大意(当抄の始終)┤           ┌如来の自証化他を明かす⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭
           └能証の人を明かす⑥~⑲┼如来在世の証得を明かす⑮⑯
                       └末法衆生の証得を明かす⑰⑱⑲
 また本抄の始終は問答形式であることも特質すべきであろう。問答形式であることは、立正安国論や聖愚問答抄等にもみられるが、日寛上人は立正安国論文段に「まさに知るべし、賓主問答を仮立したもう所以は、愚者をして解し易からしめんがためなり」と仰せである。一方的な押しつけではなく、諄々と相手を納得させるために有効な方法である。本抄においても問いと答えをつねに念頭におかなければならない。本抄では19の問答を掲げている。
  ①妙法蓮華経の当体とは、宇宙森羅万象のことごとくをいう。
  ②一往はわれら一切衆生も妙法の全体である。
  ③九界の生命活動も妙法の当体の働きである。その故は法性の妙理に染浄の二法、迷悟の二法があり、このことごとくが法性真如の一理である妙法蓮華経に期する。
  ④再往は権教を捨て実教の法華経を信ずる人のみ当体蓮華である。所詮、日蓮大聖人の弟子のみが本門の当体蓮華仏と顕われるのである。
  ⑤当体蓮華とは因果俱時・不思議の一法を指し、譬喩蓮華とは華草の蓮華であり、これをもって当体蓮華を説明しているのである。
  ⑥五百塵点劫の当初に日蓮大聖人が当体蓮華を証得された。
  ⑦法華経においては当体蓮華は方便品に、譬喩蓮華は譬喩品・化城喩品に説かれている。
  ⑧当体蓮華の文は方便品において諸法実相に約して一念三千を明かした文である。
  ⑨当体蓮華の現証は、当世の学者は宝塔品の三身、妙音・観音の三十三・四身等を勘えているが、日蓮大聖人は方便品の文と神力品の結要付嘱の文をあげておられる。
  ⑩神力品の結要付嘱の文には深意があり、よき文証・現証である。
  ⑪神力品の結要付嘱の文は、外用上行菩薩に本門の当体蓮華を付嘱することを示す。
  ⑫当流の法門の意は、二十八品の初めにある妙法蓮華経の題目が当体蓮華である。
  ⑬品々の題目の蓮華は、当体譬喩を合説するが故に、品々の題目は当体蓮華をいう。
  ⑭法華経の意は譬喩即法体、法体即譬喩である。
  ⑮釈尊在世に当体蓮華を証得したのは、本門寿量の教主のみである。
  ⑯爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せず、ただ本門寿量の説顕われて後は、霊山一会の衆、皆ことごとく当体蓮華を証得したのである。
  ⑰末法今時に当体蓮華を証得したのは、日蓮大聖人の御門下のみである。
  ⑱南岳・天台・伝教等の正師は当体蓮華を証得したといっても内鑑冷然で妙法を流布しなかった。
  ⑲妙法五字は末法の大白法である。

第四 当体蓮華と譬喩蓮華

(一)天台大師の譬喩蓮華

蓮華とは、普通は草花の蓮華のことである。しかし、この蓮華の特質が妙法を説明するのに、ひじょうに好都合で、しかもわかりやすい譬喩となる。したがって、法門の譬喩として用いられた草花の蓮華を譬喩蓮華という。この草花の蓮華のさまざまな特質によって説明した法門それ自体が妙法蓮華経であり、これを譬喩蓮華に対し当体蓮華と名づけるのである。
 とくに蓮華が妙法をあらわす特質として華と果実が同時であるといわれる。また、泥沼の中にあって、しかも泥沼を出て、清浄な花が咲く等がある。
 天台大師は当体蓮華を難解の蓮華とし、これこそ正意であるとしている。譬喩蓮華は易解の蓮華であり、下根、中根の者に対する説明であるとしている。そして、天台大師は、難信難解の妙法を譬をかりて顕そうとして、法華玄義に譬喩蓮華を説明している。
 法華玄義巻七下にいわく「唯此の蓮華のみ華果倶に多し、因を満行に含み、果に万徳を円するを譬うべし、故に以って譬となす。又世の華は麤なり、九法界の十如是の因果を喩う。此の蓮華は妙なり、仏法界の十如の因果を喩う。又此の華を以って仏法界を喩うるに、迹本の両門に各三喩あり」と。蓮華の華果をもって、仏法界の因果に譬えているのである。その他の華果は、一見はなやかで美しく咲き誇っているようにみえるが、風に誘われて散り去るように、実に、はかないものである。これらは、瞬間的な喜びであり、感動であり、潤いである九法界に譬えることはできるが、円融円満、因果俱時である仏法界に譬えることはできない。
 さらに天台大師は、法華本門、迹門の二門に約しておのおの三喩を説いている。
 迹門の三喩とは、
 一には、華が生ずるとき必ず蓮がある。だが、華のうえから見たのではそれがわからない。権教の心は実教にあれども、それが知る者がないことを譬えており、実教をあらわすためには権教を説いて衆生を誘引してきたことを譬えている。すなわち、為実施権を譬えている。
 二には、華が開く故に蓮の実が現われることである。権の中に実があっても、知ることができなかったものが、いま権を開いて実を顕わすことで、実である仏の知見を知らしめたことを譬えたものである。これは開権顕実を譬えている。
 三には、華落ちて蓮の実がみのることである。これは三乗を廃して一乗を顕わし、唯一仏乗の法のみが成仏の直道であることに譬えたものである。廃権立実を譬えたわけである。
 次に本門の三喩とは、
 一には、華には必ず蓮がある。迹には必ず本があり、迹には本が含まれるものである。仏の意は本門に在るのであるが、仏の本意は知り難いことを譬えたのである。これは従本垂迹を譬えている。
 二には、華が開いて蓮が現われる。迹門を開いて本門を顕わすこと、すなわち開迹顕本を譬えている。その意は迹門において、よく菩薩に仏の方便を識らせる、すでに迹を識り終われば、還って本を識り増道損生することを譬えたのである。
 三には、華落ちて蓮がみのるのは、迹門を廃して本門を顕わすこと、すなわち廃迹立本を譬えている。
 以上の六譬は、華と蓮との関係に約して説明したものであるが、さらに種子から蓮成に至るまでを妙法に譬え、蓮華の始終をもって十如是の法門を譬えているのである。
 例をあげれば法華玄義巻七下に「譬えば蓮子の汚泥の中に在れども四微朽ちず、是を蓮子の体と名づくるが如し。一切衆生の正因仏性も亦復是の如し、常楽我浄の不動不壊なるを仏界の如是体と名づく」と。「如蓮華在水」の原理にもとづき、蓮華の花は泥沼の中に見事に咲き誇っている。蓮華の種子もまた泥沼の中で朽ちない。これはそのまま、濁りきった不幸の人生を歩んでいる衆生の生命のも、仏性が厳然と存在していることにも通ずる。譬喩蓮華はすなわち人生における「如蓮華在水」の原理をあらわしたものともいえるであろう。
 さらにまた法華玄義巻七下に「譬えば蓮子の、また鳥皮汚泥中と雖も、白肉改まらざるが如し。一切衆生の了因の智慧も亦復是の如し。五住の汚泥、生死の果報、一切の智願猶お在りて失せず、是を如是性と名づく」と。
 蓮華の種子は、泥沼の中にあっても成長していく。すなわち、一切衆生は、煩悩の淤泥の中にあって、しかも智慧を奮い起して成仏する。煩悩即菩提を譬えているのである。
 このように天台大師は、蓮華の種子から次第に成じて蓮の実にいたるまでの蓮華の始終について十義が具足することを明かし、仏界の衆生においても始めの無明から終わりの仏果にいたるまでの十如是が欠けることのない譬えとして挙げている。さらに十二因縁、四諦等、あるいは本門の十妙についても蓮華をもって譬えている。
 以上のように譬喩蓮華は天台大師にあっては、釈尊の法門の究極を、誰にでもわかるように例をとって説明したものである。

(二)当体蓮華について


 譬喩蓮華をもって顕わそうとした当体は実は当体蓮華である。
 当体義抄にいわく「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し」(0513:04)と。
 この「因果倶時・不思議の一法」が当体蓮華であり、三大秘法の御本尊の異名である。大聖人はこれを「本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華」とも仰せである。
 九界を因として仏界を果とした場合、九界即仏界・仏界即九界となり、九界・仏界ともに一念の心法にある。
 故に「因果倶時・不思議の一法」という。そして再往、十界各具の因果に約せば、地獄界の場合は「瞋恚は是れ悪口の因、悪口は是れ瞋恚の果」となる。仏界の場合は「信心は是れ唱題の因、唱題は是れ信心の果」となる。このように因果はあるけれども、共に一念の心法にあるが故に「因果倶時・不思議の一法」と説かれているのである。
 この「因果倶時・不思議の一法」に対して、因果俱時であることを妙法蓮華経に相似の華草の蓮華をもって、わかりやすく説明しているのである。このように華草の蓮華をもって、難解の妙法蓮華経、因果倶時・不思議の一法を顕わす故に譬喩蓮華という。
 また当体蓮華には、二つの義があると日寛上人は当体義抄文段に説かれている。
 一には、十界三千の妙法の当体を直ちに蓮華と名づける故に、当体蓮華というのである。
 二には、一切衆生の胸間の八葉を蓮華と名づけ、これを当体蓮華という。このことを十如是事にいわく「妙法蓮華経の体のいみじくおわしますは何様なる体におわしまするぞと尋ね出してみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり、されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申し上げる」(0411:11)と。
 さてわれわれの胸の中に八葉の蓮華ありというとは、何を意味しているのかというと、二つの意味がある。以下日寛上人の当体義抄文段を通じて講じた「御義口伝講」を引用しておくので了承されたい。
 その一つは、われわれの生命それ自体が妙法蓮華経であるということである。
 二つには、われわれの生命自体が妙法蓮華経即当体蓮華であるということを、われわれの肉体の中から見出したことである。しからばなにをもって、胸間の八葉の蓮華というかというに、心臓と肺蔵の一対を意味するのである。解剖学による心臓と肺蔵の有り様を見るに、二つの肺蔵の中に包まれている心臓がある。その形が、あたかも蓮華によく似ているのである。これを名づけて、胸間の八葉の蓮華といっているのである。
 これあたかも法華経と譬喩蓮華のごときもので、法華経に当たる当体蓮華は、われわれの生命それ自体であり、譬喩蓮華に当たる当体蓮華は、心臓とそれを包んだ二つの肺蔵である。そえゆえ、われわれの胸間に八葉の蓮華ありとするのは、われわれ自体が妙法蓮華経の当体であることを、強く意識せしむるのである。あたかもタイのひれの付け根に、タイの形と同じ骨があって、これをタイのタイと名づけ、また人間の死後、火葬に付した時に、人の形によく似た骨ができるが、それを「のど仏」と名づくようなものである。牛馬決にいわく「妙法蓮華とは一切衆生の胸の間に八葉の蓮華があり、これを名づけて当体蓮華となす」等云云。
 この胸間の八葉の蓮華は、男子は仰ぎ、女子は伏すといわれている。しかして、もし女人が妙法を受持すれば、男子と同じく仰ぐなりと仰せられている。これには深い意味があると思う。解剖学的に、肺蔵が回転するという意味ではなかろう。生理学的には、何かしら、心臓と肺蔵の活動に差異が生ずるであろうと推定するだけである。
 男子と女子とは、一般的に、生活力の差異があることは認めざるを得ない。しかして、本門戒壇の大御本尊を信ずる女性は、その生活力が男子と同様になるとの意ではあるまいか。それゆえ日寛上人は「当流の女人は外面は女人であるが、内心はこれ男子である」と仰せられている。
 そして、この胸間の八葉の蓮華の色はどうかというと、これは白蓮華であると決定されている。
 また大日経第一に胸間の蓮華を説く文にいわく「内心の妙白蓮は八葉円満なり」等云云。
 法華伝第六にいわく「比丘尼妙法、俗性は李氏、年漸く長大にして情出家を欣ぶ、年十二の時其の姉法華経を教ゆ。日に八紙を誦し月余にして一部を誦し訖る。人其の徳を美にして名づけて妙法と云う。願を立て諷誦八千辺臨終の時三茎の白蓮を生じ、池に生ずる時の如し、七日にして萎落せず」云云。
 釈書十一にいわく「釈氏蓮長天性精勤にして妙経を持す、唇舌迅疾にして一月に千部を経る。臨終の時、手に不時の蓮華一茎を把る。鮮白薫烈なり、傍人当うて云く此の華何より得る。答う是れ妙法蓮華なり云い已って已に寂す、手中の蓮華忽然として見えず」等云云。
 これは、妙法読誦の功用によって胸間の白蓮華を顕現したと説いているのである。実際問題として白蓮華が顕現したとするのか、また妙経の体を体得したとするのか、これは上中下の機根にまかせて判読すべきであるといわれている。それゆえ日寛上人の仰せに「像法既に爾なり、今唱題を励む豈顕現せざらんや、ゆえに知んぬ胸間の蓮華は生に是れ白蓮華なり」と。
 今、末法下種の三宝は日蓮大聖人の胸間の大白蓮華が顕現し給うのである。十如是事にいわく「妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり」(0411:12)等云云。ゆえに、御本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とおしたため遊ばされている日蓮とは、白蓮華を意味しているとの仰せである。
 日蓮大聖人が白蓮華であるということは、籤の十六に「有る人云く白蓮は日に随って開き回り、青蓮は月に随って開き回る、故に諸天の中に華の開合を用いて昼夜に表するなり」等云云とのべられているとおりである。日蓮の二字は、日に随って開き回る蓮華である。ゆえに白蓮なることは疑いないのである。したがって日蓮大聖人の当体そのままが、中央の御本尊であり、すなわち白蓮華なのである。
 また日興上人も白蓮華である。そのゆえは「白蓮阿闍梨」と名乗られている。所詮自性の理によって、名は必ず体を顕わす徳がある。白蓮阿闍梨の名はまさしく日興上人が白蓮華であることを明かしているのである。ゆえに末法下種の三宝は、われわれ衆生の胸間の白蓮華である。
 日蓮大聖人は末法本果妙の仏界であり、日興上人は本因妙の九界である。すなわち、文底下種の本因・本果・本国土の三妙合論の事の一念三千であって、すなわち本門の本尊である。されば依正の因果悉く是れわれわれ衆生の心性、八葉の白蓮華、本門の本尊である。ゆえにこの本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、すなわち本門寿量の当体蓮華仏ということである。日女御前御返事にいわく「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・ 只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(1244:09)等云云。

(三)法華経と当体・譬喩蓮華

さらに「御義口伝講義」には、法華経の当体・譬喩蓮華をめいかしているので、以下それについて論じておきたい。
 一体、法華経には、何が説かれているのか、これこそ、根本問題である。序品における儀式、宝塔品の二処三会、湧出品における地湧の菩薩の大地より湧現等々、これらは、何を示すものであろうか、法華経を、本当にわかろうとするならば、当然ぶつかり、解かねばならぬ重大課題といえよう。ただ文上のみにとらわれ、満足しているとすれば、増上慢であり、謗法の科はまぬかれないのである。
 なお大仏法を、われわれとまったく無関係に位置づけてしまうものであって、生活と遊離した空理空論に終始してしまうわけである。法華経序品にすでに大不思議がある。それを戸田城聖前会長は、次のように述べている。「さて、この耆闍崛山に集った第一類声聞衆・第二類菩薩衆・第三類雑衆の数をざっと数えてみれば、約三十万に近いと思われる。それ以上であるか、それ以下であるかは、若干百千とあるので、推測にまかせる以外にはない。これだけの大多数の人間が、どうして集れたのかということが不思議になってくる。たとえ、集まりえたとしても、釈尊の音声がこれらの人へ、どうして聞かせたことか。仏は梵音声があるといって、梵音声の一相をもってこれを片づけるとしても、末代のわれわれ凡夫は信ずることができない。拡声器のようなものがあったと説く人がいるが、今日の科学者は断じてこれを信ずまい。古跡の発掘から、それらしきものが出てくれば別であるが、いまだ、そんな話は聞いたこともない。ことに雑衆中、帝釈天とか自在天とか、大梵天とか、また、人にあらざる竜王とか、緊那羅とか、乾楼羅とかにいたっては、どうしてこれを信ずることができようか。法華経をひもといて、これを鵜呑みにするならいざ知らず、少しく科学的に考慮する者は、序品第一から、疑いを起して二十八品を読了する気にはならないであろう。
 しかるに、経文の処々において、これを信ぜざる者は悪道に堕つとある。日蓮大聖人もまた六万九千三百八十四文字ことごとく金色の仏なりと仰せである。金色の仏とは仏の真理なりとのお言葉である。信ぜんとすれば、疑わざるをえず、これを疑えば釈尊および大聖人の二仏を妄語の仏となし、かつは悪道に堕ちねばならない。吾人はここに進退きわまれりというか、翻って仏語を案ずるに、仏の言葉はいつわりではない。しからば何を意味するのか。法華経には当体蓮華、譬喩蓮華の義がある。当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とはその真理を、譬をかりて説明したものである。たとえば、蓮華のことであるが、因果俱時の法それ自体を説くときは当体蓮華であって、因果俱時の法を蓮華の花をかりて、その花と実とが同時にあることを示して、これを説明するのは譬喩蓮華である。
 この序品の三類の大衆の集りは、すなわち、譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのである。しからば序品の当体蓮華はいかん。何万の声聞・何万の菩薩・何万の雑衆は、これことごとく釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の雑衆である。妙法蓮華経は、釈尊の命であり、釈尊の心である。さればこそ、十界の衆生ことごとく釈尊の内証にすむというのも、なんのまちがいもないのである。序品を読む者、よくよくこれを心得なければならぬ。なお、すすんでいうならば、寿量文底の仏の大地がここにあらわれていると読んでいいのではないか」と。
 結局、法華経は、序品から、仏の生命を説いていることが明確であろう。さらに宝塔が湧現し、十方分身の諸仏が坐し、地湧の大菩薩が大地から湧出するという、虚空会の儀式も、ただ門上のみにとらわれては理解することができない。それでは、虚空会の儀式は何を説こうとしたのであろうか。虚空会の儀式は、教主大覚世尊が、滅後弘通の大法である妙法蓮華経を本眷属に付嘱し、流通を托すための一連の儀式の初めにあたる部分といえる。この儀式を日蓮大聖人の仏法から見直すならば、日蓮大聖人が虚空会の儀式を借りて三大秘法の御本尊をご図顕されたわけであり、このことをさらに立ち入って考えれば、久遠の如来が末法の御本仏として出現し、末法の衆生に御本尊を遺されたものである。ここに虚空会の儀式の深意があったわけである。
 ところで、こうした観点から法華経を見直すなら、迹仏のあらわした法華経は末法の御本仏である大聖人の仏法の説明書にあたるものといえよう。それでは、御本仏の顕わされた御本尊すなわち南無妙法蓮華経とはいかなる当体であろうか。実は、過去の宗教者、思想家たちが、模索し続けてきた。その悟りの当体こそが南無妙法蓮華経なのである。この南無妙法蓮華経は、文字は七文字であるが、その義は実に深固幽遠である。この不思議なる当体を顕わすために、釈尊は二十八品を説いて、説明に務めた。
 こうしてみてくると釈尊の仏法は、今日では、家の設計図に譬えられ、日蓮大聖人の仏法たる南無妙法蓮華経は、家それ自体に譬えられる。ゆえに、釈尊の仏法は、南無妙法蓮華経を説明する、譬喩蓮華であり、大聖人建立の大御本尊こそ当体蓮華であるといえよう。

 

 

第一章(十界の事相に約す)

本文

   当 体 義 抄           日蓮之を勘う
  問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。

 

現代語訳

  問う、妙法蓮華経とは、その実体は、どのようなものであろうか。答う、十界の依報と正報とのすべてが、妙法蓮華経の当体なのである。

問う、もしそうであるならば、われわれのような一切衆生も妙法の全体であるといえるのであろうか。

答う、もちろん、そうである。その証文としては、方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とあるとおりである。この文を、妙楽大師は金錍論で次のように解釈している。「実相(不可説なる実智の境であり、万法の理を指す。真実の姿、森羅万象の本質ということ)とは、すなわち諸法(一切の法を指し示した言葉。大宇宙における一切の現象、活動、法則のこと)である。あらゆる現象は十如という因果の理にかなった生命活動である。この十如の生命活動も十界の範疇での活動である。それでいて、その生命体の正報と国土世間の依報が一体不二をなしている」と。天台大師は法華玄義に「生命の完全な本質を明かした十如・十界・三千の諸法は、法華経に説き明かされた法理の本体なのである」と説いている。南岳大師は安楽行義において「いったい、いかなるものを妙法蓮華経というのであるか。それは、妙とは衆生の生命の本質が妙であるが故に、法とは衆生の存在そのものが法であるが故に、衆生が妙法の当体なのである」と述べている。さらにこれを天台が釈して「衆生は法にして、しかもその本質は妙である」と法華玄義でいっている。

 

語釈

妙法蓮華経

御義口伝上にいわく「妙法蓮華経は漢語なり……梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う……妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり」(0708:南無妙法蓮華経:10)とある。本抄では、十界の依正がことごとく妙法蓮華経の当体であることを明かしている。

 

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の教義を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(現在の江蘇省宜興市)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興浄楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻、また「五百問論」三巻等多数ある。直弟子に、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道・行満がいる。

 

十如

十如是のこと。ものごとのありさま・本質を示す十種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。法華経方便品第二で説かれた、如是で始まる十の語。仏が覚った諸法実相を把握する項目として示されたもの。天台大師智顗が一念三千の法門を立てる際、これに依拠した。方便品には諸法実相について、「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂る諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」と示されている。ここで諸法実相を把握する項目として「如是」で始まる十項目が挙げられており、それ故、十如是・十如実相という。

 

十界

十法界ともいう。凡聖迷悟の一切の世界を十種に分類したもの。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界をいう。「十界」の明文は経論にはないが、法華経法師功徳品第十九には「三千大千世界の下阿鼻地獄に至り、上有頂に至る、其の中の内外の種種の所有る語言」として挙げられているなかに、地獄声・畜生声・餓鬼声・比丘声・比丘尼声・声聞声・辟支仏声・菩薩声・仏声などがある。また大智度論巻二十七には「四種の道あり。声聞道・辟支仏道・菩薩道・仏道なり……復六種の道あり。地獄道・畜生・餓鬼・人・天・阿修羅道なり」とあり、十界の名称が出そろっていたことが分かる。これらの経釈を受けて、天台大師の法華玄義巻二上には「気類相似を取って合して四番と為す。初めに四趣、次に人天、次に二乗、次に菩薩・仏なり」とある。十を通じて法界と名づける理由について、法華玄義巻二上には「今権実を明かすとは十如是を以って十法界に約す、謂く六道四聖なり。皆法界と称することは其の意三あり。十数皆法界に依る、法界の外に更に復法なし。能所合称するが故に十法界と言うなり。二には此の十種の法は分斉同じからず、因果隔別し凡聖異あるが故に、之に加うるに界を以ってするなり。三には此の十は皆即ち法界にして一切法を摂す。一切法は地獄に趣く、是の趣過ぎず。当体即ち理にして更に所依なきが故に法界と名づく。乃至仏法界も亦復是くの如し」と釈している。

 

天台

05380597)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、また智者大師と尊称する。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。荊州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、十八歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、慧曠律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(0560)光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、32歳の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建7年(0575)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳3年(0585)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(0587)法華文句を講説した。開皇11年(0591)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し60歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

 

十如十界三千

一念三千の三千世間(三千如是)のこと。一念三千とは、天台大師智顗が摩訶止観巻五で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は、天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。ここで三千とは、十如是・百界(十界互具)・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。

 

南岳大師

05150577)。中国・南北朝時代の北斉の僧。名は慧思。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、「立誓願文」を著した。この立誓願文には正法五百年、像法一千年、末法一万年の三時説にたち、自身は末法の八十二年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著「法華経安楽行義」では、法華経安楽行品第十四に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」とされている。

 

衆生法妙

「衆生の法は妙なり」と読む。南岳大師が、法について衆生、心、仏の三法に釈し、更に天台大師が衆生法について釈したもの。衆生法とは九界の衆生であり、そのおのおのが十界十如を具しているが故に妙であるということ。すなわち衆生法妙とは、九界即仏界を意味し、また衆生の当体が妙法蓮華経の当体であるということ。

 

講義

 この章は宇宙の森羅万象ことごとく、妙法蓮華の当体であることを明かされている。すなわち所証の法を明かすにあたって、まず法体に約して、森羅万象を当体蓮華といわれたのである。

ただし「妙法蓮華経とは其の体何物ぞや」との問いの元意は、文底秘沈の事の一念三千の本尊の南無妙法蓮華経を問われたのである。この元意が難信難解であるため、浅きより深きに至るいくつかの設問を論じられている。したがって、あくまで妙法蓮華経とは三大秘法の御本尊の異名であることを念頭において本抄を読まなければならない。

本章は、十界三千の諸法はそのまま妙法蓮華の当体であり、われら衆生もまた妙法の全体なる義を明かしている。引用されている四箇の証文もこの意である。

 

十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり

 

妙法蓮華経という実体、本体は何かという質問である。これに対して十界三千の生命活動をしている生命そのもの、すなわち森羅万象ことごとく、妙法蓮華経の当体であると明かされたのである。ただしこれは、あくまでも一往の義であり、理の上の法相である。再往は、後に論ずるように、南無妙法蓮華経と唱えたものが、真実の妙法蓮華経の当体となり、仏界を湧現できるのである。

十界とは、地獄界から仏界までの十種の生命活動である。依正とは、依報と正報のことである。十界の依正とは三千の諸法ということである。有情界のみならず、非情界の草木、瓦石たりとも妙法蓮華経の当体である。また悩み苦しむという地獄の活動をしている生命も、それ自体が妙法蓮華経の当体であり、幸せを満喫していく仏界の生命活動も、その生命活動している当体自体が妙法蓮華経の当体である。また依正とは一言にしていうならば、生命と約することができる。正報とは、果報の主体の意であり、主観的立ち場、自己自身の生命である。依報とは、正報の依りどころとなる非情の草木、国土、つまり自己をとりまく一切の環境である。

一切の現象、事物の姿には、この依報、正報があり、しかもそこに依正不二、すなわち依報と正報は二にして、しかも一体不二という関係がある。

瑞相御書にいわく「夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(1140:06)と。

ここに明らかなように、依正について、正報を中心として依報を論ずる場合、依報を中心として正報を論ずる場合との二つの立ち場がある。だがあくまでも、依正といっても正報が根本であり、自己の一念によって環境を変えていくのである。

したがって、地獄の苦しみに沈んでいる境涯の人にとっては、依正不二で、どこへ行こうと、あらゆる世界が地獄である。反対に、自分の境涯が、正報が天界であるならば、犬の吠えるのも、草木の姿も、これら依報が、なんとなく明るく感ずる。

自分自身が仏界であれば、人々を見て「かわいそうだ。自分は福運に満ちみちている。何とかして人々を救っていきたい。御本尊を教えてあげたい」という折伏精神になる。これによって相手の生命の仏界を開いていける。

このように正報が地獄界であれば、依報も地獄界を感じ、正報が仏界であれば、依報も仏界を感ずるのである。すなわち依正不二の当体なのである。

したがって、地獄界から仏界まで十種の生命活動はあるが、瞬間瞬間、生命の依報と正報というものは、一つの当体として考えることができる。詮じ詰めてみれば、依正とは生命と約せるのである。

万法ことごとく、一法も残さず、どんな現象であっても、どんな境涯の活動であっても、その本源をたどっていけば、妙法蓮華経の法則になっているとの仰せである。

しかるにこれは、あくまで理の上の法相であって、真実の当体蓮華の義を明かしていない。御義口伝にはこれを「不変真如の理」と「随縁真如の智」に約して説明されているが、ここでは「不変真如の理」の段階である。

釈尊は、法華経迹門にいたって、二乗作仏、女人成仏、悪人成仏を説き、さらに諸法実相を説いて、森羅万象ことごとく、妙法の当体であることを示し、一切衆生ことごとく妙法の当体であると説いた。この道理は絶対の真理であり、「不変真如の理」を説き明かしたものである。理論的に考えるなら、たしかに森羅万象はすべて、百界千如、一念三千の当体であり、有情、非情にわたって、皆、仏界、仏性を具しているはずである。しかしこれは、あくまでも理にすぎない、仏性を具しているだけでは価値は生じない。例えば、自分自身がいかに理論的に妙法の当体であり、かつ仏界を具していると理解していても、現実の生活が悩みだらけではどうしようもない。では仏界を湧現する方法は何か、これこそ仏法上の重要問題である。

日蓮大聖人の仏法においては、法華経二十八品ことごとく、御本尊の説明書であり、御本尊を信じ、題目を唱えることにより、仏界を湧現できるのである。これが「随縁真如の智」である。

わが身も妙法の当体、宇宙も妙法の当体である。われらが妙法を唱えるとき、わが生命が、大宇宙の本源のリズムに合致する。その宇宙の本源力たる妙法蓮華経が現実の生活の上に、生命活動の上に涌現してくる。その生命力、知恵が源泉となって、苦難、苦悩を打開し、人間革命、生活革命を成就していくのである。

 

所謂諸法・乃至・本末究竟等

 

本末究竟等の文は、われわれが朝晩の勤行のときに三遍繰り返す方便品第二の十如是の文である。

まずその文をあげると「所謂諸法、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。

この本末究竟等とは、どのような意味なのであろうか。法華玄義の第二に「初めの相を本と為し、後の報を末と為す」とあり、初めの如是相を本とし、如是報を末とするのである。究竟とは、物事のきわみ、究極のことをいう。すなわち、十如実相の初めの如是相より如是報にいたるまで、相・性・体等とおのおのの差別はあっても、その本源をたずねていくならば、一貫して変わらない生命の本質なり、との意味である。

この段では、宇宙の森羅万象ことごとく妙法蓮華の当体であるとの文証として引かれている。このことは、諸法実相抄に「此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358:01)とあることからも明らかである。

「本末究竟等」のこの原理は、空間的には、大宇宙を包含し、時間的には永遠をはらむ瞬間の生命を説き明かしたものであり、依正不二、因果俱時の原理に通ずる生命の本質論である。戸田先生は、この「本末究竟等」の原理を、釈迦仏法の立ち場から、次のごとくわかりやすく説明されているのである。

「如是相を初め(本)とし、如是報を終わり(末)として、本末究竟して中道法相であります。畜生界の人は如是相から如是報にいたるまで、一貫して十万円に執着しきっている姿で相性体力作因縁果報まで、究竟して等しく、この状態以外の何ものもありません。修羅界の人も、如是相から如是報にいたるまで、一貫して腹を立てきっている状態で、相性体力作因縁果報、皆、究竟して、この姿であります。声聞・縁覚界の人は、如是相から如是報にいたるまで一貫して、皆、関係したくないという個人主義的な状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しく、この姿であります。菩薩界の人は、如是相から如是報にいたるまで、一貫して思いやり深い状態で、相性体力作因縁果報まで究竟して等しく同じであります」と。

だが、釈迦仏法においては、地獄から仏界までの本末究竟等を理の上で、観念的に論じたものであり、それは哲学的な立ち場である。しかしながら真実の幸福境涯における本末究竟等は、事実の上で、わが身に仏界を湧現させることに尽きるのである。

されば、九界即仏界を事実の上で体現した日蓮大聖人こそ本末究竟等の当体なのである。したがって、日蓮大聖人の精神に立脚し、御本尊を信ずる者の生命もまた本末究竟等とあらわれ、一切の振舞いが、妙法に合致し、仏界に照らされた、悠々たる活動であり、一貫して幸福境涯を思うがままに遊戯していくことができるのである。

この本末究竟等は、多角的に論ずることができる。ここでは、おもな例をあげ、説明してみよう。

まず「本末究竟等」とは、時間的に縦にこれを論ずれば「因果俱時」の原理をいうのである。

聖人知三世事にいわく「教主釈尊既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・広宣流布疑い無き者か、若し爾れば近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり」(0974:05)と。

日蓮大聖人の仏法は、現当二世の仏法であり、因果俱時の仏法である。したがって、われわれの現在の瞬間瞬間の活動は、ことごとく、未来の果を、はらんでいるのである。

また信心に反対であれば、瞬間に、地獄の果をはらんでいるがゆえに、地位、名誉、財産等がどうであろうと、その人は、地獄へ、地獄へと、向かうのである。これ、本末究竟等ではないか。

次に本末究竟等を「久遠即末法」の原理から論じてみよう。

瞬間の生命をつきつめていくならば、まことに過去遠々劫も、未来永劫も、ことごとくこの瞬間の生命に包含されるのである。永遠といっても、瞬間の連続以外の何ものでもない。これを「久遠即末法」というのである。

久遠即末法を、仏に約して論ずるならば、久遠元初の自受用身如来が、末法にそのままの姿、振舞いで、日蓮大聖人とあらわれ、久遠元初の大法たる、南無妙法蓮華経を末法のわれら衆生に、授けられたことを意味する。

これ、久遠元初が本であり、末法は末であり、本末究竟して等しき姿である。

さらに「本末究竟等」を、空間的に横に論ずるならば、まさしく「依正不二」の原理をいうのである。

先に述べたとおり、依正とは依報と正報のことである。正報たる自己が本であり、依報たる一切の環境は末である。

しかして、本末究竟等の原理により、自ら題目を唱え、如説修行の実践をするところ、絶対に行き詰まりなく、希望と勇気と歓喜に満ちみちた行動となり、われらの一念で、日本を変え、世界を変え、仏国土を現出することができるのである。

 

実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土

 

これは、妙楽大師が方便品の「所謂諸法・乃至・本末経竟等」の文を解釈した言葉である。妙楽の金錍論の実相四必銘といわれ、一念三千の法門の依文でもある。

ここで経・釈・論について簡単に説明しよう。釈尊の教説・釈尊自身の教えを「経」という。経文に即して詳細に解釈したものが「釈」であり、天台の法華文句、妙楽の法華文句記等をいう。さらに竜樹・天親等の人師・論師が「経」や「釈」をもとにして、さまざまな議論を展開したものを「論」という。たとえば十住毘婆沙論、大智度論などである。

この妙楽の釈は妙法蓮華経を開いて論ずればどうなるか、その関係性について述べたものである。すなわち宇宙の実体、生命の本体を明かしたものであって、久遠元初より尽未来際まで、無始無終の宇宙観、生命観を説かれているのである。

実相とは宇宙の本源であり、生命の本質である。

御義口伝にいわく「如は実なり去は相なり実は心王相は心数なり、又諸法は去なり実相は如なり」(078214)と。

実相の実とは不変真如の理、生命の本質をいい、相とは随縁真如の智、生命の働きをいう。したがって実相とは、生命の本質、宇宙、森羅万象の本源、本体をいうのである。

この文を教相に配して論ずるならば、有情・非情を問わず、いかなる生命にも十界三千の法が具備しているということである。あらゆる生命活動は時々刻々に変化していく。いな、ほしいままに、自由自在に変化しているといってよいだろう。だがそこに厳然とした法則が貫かれているのである。

その諸法には必ず十如是がそなわっている。十如とは如是因、如是縁、如是果……如是本末究竟等という作用である。一つの現象には、本末究竟して、瞬間のうちに十如が具わっているのである。すなわち、あらゆる現象は、それぞれ個々バラバラに変化していくのではない。因果の理法にかなった生命活動であるということである。

この十如の活動は、必ず十界の範疇の活動になっている。地獄界の人はあくまで地獄界の十如の働きをしていくのである。餓鬼界の人は、如是相から如是報まで、一貫して不足をかこっている状態で、相性体力作因縁果報まで、究竟して等しく、この状態以外の何ものでもないのである。

それでいてその生命活動は、環境と微妙に影響しあっている。その生命体と国土世間とが一体不二をなしているのである。むしろその生命の当体と環境とは一体となって、一つの生命活動を行なっているといってもよいだろう。

詳しくいうならば、身土の身とは生命活動の主体である衆生の一身をいい、土とはその一身が存在する場所すなわち国土をいう。その衆生の身と国土とが身土不二、依正不二なのである。

一生成仏抄にいわく「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(0384:01)と。

所詮、妙楽の文は生命の本質を十界互具、十如是、三世間というさまざまの角度から論じたものであり、一念三千をこのような言葉で表現したのである。だが、釈尊や天台、妙楽の説いた一念三千の法門は、所詮、理の上の生命論であり、有名無実(うみょうむじつ)のものである。

たとえば、マイクロフォンという非情の生命について考えてみても、この実相は必ず諸法を具している。声を拡大させるという作用および力、また使用する人間との縁等々、一つのマイクロフォンに必ず十如是があり、その十如是は必ず十界の範疇での因果の理法なのである。マイクロフォンを講義に使用すれば、マイクロフォンは声聞界の縁の働きをする。そのマイクロフォンをとおして美しい歌声がながれれば、十界のなかの天界の縁の働きに変わるのである。このように、非情のマイクロフォン自体にも有情と同じように十界三千の働きがある。万法ことごとく、一法も残さず、どんな現象であっても、その本源をたどってみるならば、すべて妙法蓮華経の当体なのである。

諸法実相抄にいわく「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く『実相の深理本有の妙法蓮華経』と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり」(135903)と。

諸法実相の実相も教相の面からいえば、森羅万象ことごとくが実相、すなわちありのままの姿であるというだけのことであるが、日蓮大聖人の観心から見るならば、三大秘法の御本尊の御姿の現われである。すなわち、十界三千の諸法が南無妙法蓮華経の一法に具足した姿、これが御本尊の相貌であり諸法実相なのである。

実に妙楽のこの釈も、御本尊の相貌を明かさんとしたものと読むのが正しいといわねばならない。具体的にいえば、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とあり、南無妙法蓮華経は法本尊、日蓮は人本尊で人法一箇であることを示している。これが十界三千の諸法の当体であり、実相であり、この左右にしたためられた十界は大聖人己心の十界であり、南無妙法蓮華経の光明に照らされた十界の生命活動である。

十界を、御本尊のなかに拝するならば、仏界は釈迦・多宝になる。菩薩界は四菩薩ならびに文殊師利菩薩・薬王菩薩、声聞・縁覚は迦葉尊者・舎利弗などである。天界は毘沙門天・大日天・大月天・大持国天・帝釈天、さらには第六天の魔王もいる。人界は阿闍世王、修羅界は阿修羅、餓鬼界は鬼子母神、畜生界は竜王、地獄界は提婆達多で代表される。

この十界には必ず身土がある。十界の生命それ自体は、御本尊即日蓮大聖人の御身である。御本尊自体がまします所が「土」となる。

このように、無始無終の宇宙観、生命観が見事に説かれているのである。

タイトルとURLをコピーしました