富木尼御前御返事
建治2年(ʼ76)3月27日 55歳 富木尼
背景と大意
日蓮大聖人は、建治2年(1276年)3月にこの手紙を富木尼御前に宛てて書かれ、そのころ身延を訪れていた夫の富木常忍(ときじょうにん)に託して届けさせた。
富木常忍の母は、その年の2月末ごろに亡くなっていた。3月になると、常忍は下総国若宮の自宅から、遠く身延まで母の遺骨を運び、そこで追善の法要が営まれた。
前年(1275年)に大聖人が常忍に送った手紙から、富木常忍の母が亡くなったときにはすでに九十歳を超えていたことがわかる。また彼女が息子を非常に深く愛していたことも推察される。
この手紙の内容から、富木尼御前は夫を支え助けるために最善を尽くしていたことがうかがえる。
さらに大聖人は彼女の信心を「満ちゆく月」「満ちゆく潮」にたとえ、その信仰が日増しに厚く、精進の姿勢に満ちていることを称えている。
また、母の死を悼む常忍の悲しみと、姑(しゅうとめ)に対して細やかな看護を尽くした妻への感謝の思いを伝え、病に苦しむ尼御前を深く慈しみ励ましている。
彼女の病は、姑の看病の疲労が一因であった可能性もある。
この手紙および同年11月に常忍に宛てた別の書簡の中で、大聖人はこう記している。
「あなたの妻の病を、我が身の病のように思い、昼夜天に祈っている。」
尼御前の没年は明らかではないが、ある記録によると正安5年(1303年)に亡くなったとあり、彼女は回復してなお長い年月を生きたと考えられる。
第一章(尼御前の内助の功を讃む)
本文
鵞目一貫並びにつつひとつ給い候い了んぬやのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり、いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり、けぶりをみれば火をみるあめをみればりうをみる、をとこをみればめをみる、今ときどのにけさんつかまつれば尼ごぜんをみたてまつるとをぼう、ときどのの御物がたり候はこのはわのなげきのなかにりんずうのよくをはせしと尼がよくあたりかんびやうせし事のうれしさいつのよにわするべしともをぼえずと・よろこばれ候なり、
現代語訳
銭一貫文ならびに筒一つをいただいた。
箭が飛ぶのは弓の力により、雲のゆくのは竜の力、男の所業は女の力による。今、富木殿がこの身延の山へ来られたのは尼御前のお力による。煙を見れば火を知る。雨を見れば竜を知り、夫を見れば妻をみる。今、富木殿にお会いしていると尼御前をみているように思われる。
富木殿が話されていたことは、このたび母御が逝かれた嘆きのなかにも、ご臨終がよかったことと、尼御前が手厚く看病されたことのうれしさは、いつの世までも忘れられない、と喜んでおられた。
語釈
鵞目
鎌倉時代に使われていた通貨のこと。ふつうは銭といったが、鵞目、鳥目、青鳧ともいった。鵞目とは、当時流通していた孔のあいている通貨の形が鵞鳥の目のようであるところから、こう呼ばれた。
りう
神力ある蛇形の鬼神のこと。畜生類の代表で八部衆の一。水中に住し、天に昇って雲、雨、雷電などを自在に支配すると考えられていた。
けさん
対面・お目にかかること。
講義
本抄は、建治2年(1276)3月27日、下総国若宮から、富木常忍が母の遺骨をもって身延を訪れた折、尼御前が病気であることを聞かれ、尼御前にあてて書かれたお手紙である。御真筆が現存している。
なお、富木常忍は、尼御前へのこのお手紙をたずさえて帰る時、所持の法華経を置き忘れて下山したので、大聖人が弟子に持たせて届けられたことが、忘持経事に記されている。
まず、御供養への謝辞が述べられた後、はるばる富木常忍が来てくれたことについて、夫を身延に送り出したのは妻の力であると内助の功を讃えられている。
また、富木常忍が大聖人に母の臨終の姿がよかったことを報告するとともに、その母を尼御前が手厚く看病したことを喜んでいる旨を尼御前に伝えられている。おそらく、富木常忍がそうした感謝の気持ちを尼御前に伝えていないことを推知されて、尼御前に知らせることにより、富木夫妻の愛情がいっそう深まることを期待され、また尼御前の心を引き立たせようとされたのではあるまいか。そうした細やかなお心遣いを拝することができる一節である。
やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり、いまときどののこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり
箭が飛ぶのは弓の力により、また、雲の動くのは竜の力によるといわれるように、男の所業は女の力によるとの仰せである。
そして、身延を訪れた富木常忍をとおして、背後にいる妻の力に想いを馳せられ、尼御前自身に会ったような気がするとまで述べられている。
こうした事例は、四条金吾が鎌倉から佐渡の御流罪地へ訪ねた時や、阿仏房、国府入道が佐渡から身延へ大聖人を慕ってきた時にも見られる。眼前にいる、訪ねてきた人とともに、その背後にあってその人を送り出した陰の人をつねに思いやられ、一緒にきたのと同じであると、その真心を讃えられているのである。眼前のものだけにとらわれない深い智慧と、人間に対する広大な慈愛がそこに拝せられる。
また大聖人は、種々の譬えでもって夫婦一体の愛と女性の役割、生き方について教示されているが、本抄では、妻を弓に、夫を箭に譬えて、夫が社会でどのように活躍できるかは、妻の力によると、むしろ妻の方が主役であることを力説されている。
また、「兄弟抄」では「女人となる事は物に随つて物を随える身なり」(1088:08)と説かれ、男性にしたがいながら巧みにリードするところに女性の生き方があることを教示されている。
もとより、大聖人の門下は寡婦もいたし、すべての人にこの原理を当てはめられているわけではない。現代にあっては、夫婦であっても、妻が社会的に活躍する場合も当然あろう。
ただ家庭にあって妻という立場でいるからには、この原理は円満な家庭生活のためにきわめて重要な御教示といえるのではないだろうか。
妻は、一家の人々の幸・不幸を左右する力ある存在である。その力をどのように賢明に使うかによって、夫の心を動かし、持てる力を社会の中で存分に発揮させるか否かも決まってくるのである。このような妻として、女性がもっている特質に気づかず、男性に自分のエゴを押しつけても、自尊心を傷つけるのみならず、夫から生命力を奪い、夫婦愛をこわしてしまうことにもなりかねないのである。
男性であれ女性であれ、主体的に賢明に生きなければならないが、その生き方は、置かれた立場、それぞれの特質にそったものでなければなるまい。
家庭にあっても、社会にあっても、女性と男性のそれぞれの特質が十分に発現され、調和が実現されるところに、理想的な営みがなされるのである。
日蓮大聖人が、女性の内助の功を称賛されるのは、男性が自分だけの力であり、功であると思っていても、その奥には女性の妻としての力が働いていることを指摘され、夫婦の協調を示される意味も含められていたと考えられよう。
第二章(病気克服の方途を示す)
本文
なによりもをぼつかなき事は御所労なり、かまえてさもと三年はじめのごとくにきうじせさせ給へ、病なき人も無常まぬかれがたし但しとしのはてにはあらず、法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、設い業病なりとも法華経の御力たのもし、阿闍世王は法華経を持ちて四十年の命をのべ陳臣は十五年の命をのべたり、尼ごぜん又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・しをのみつがごとし、いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ、なげき出来る時はゆきつしまの事だざひふの事かまくらの人人の天の楽のごとにありしが、当時つくしへむかへばとどまるめこゆくをとこ、はなるるときはかわをはぐがごとくかをと・かをとをとりあわせ目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれてゆいのはま・いなぶらこしごえさかわはこねざか一日二日すぐるほどに、あゆみあゆみとをざかるあゆみをかわも山もへだて雲もへだつればうちそうものはなみだなりともなうものはなげきなり、いかにかなしかるらむかくなげかんほどに・もうこのつわものせめきたらば山か海もいけどりか・ふねの内か・かうらいかにて・うきめにあはん、これ・ひとへに失もなくて日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮をゆへもなく或はのり或は打ち或はこうじをわたし、ものにくるいしが十羅刹のせめをかほりてなれる事なり、又又これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし、かかる不思議を目の前に御らんあるぞかし、我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき、きさきになりても・なにかせん天に生れても・ようしなし、竜女があとをつぎ摩訶波舎波提比丘尼のれちにつらなるべし、あらうれし・あらうれし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えさせ給へ、恐恐謹言。
三月二十七日 日蓮花押
尼ごぜんへ
現代語訳
しかし、何よりも心懸かりなことは尼御前の御病気である。必ず治ると思って、三年の間、終始怠らず灸治されるがよい。病気でない人でも無常の理はまぬかれ難いものである。
ただし、あなたはまだ年老いたわけでもなく、しかも法華経の行者であるから、思わぬ死などあるわけがない。まさか業病であるはずがない。たとえ業病であっても、法華経の御力は頼もしく、病が治癒しないはずはない。
阿闍世王は法華経を受持して四十年という寿命を延ばし、天台大師の兄の陳臣も十五年の寿命を延ばしたといわれる。尼御前もまた法華経の行者で、御信心は月の満ち、潮のさしくるように強盛であるから、どうして病がいえず寿命の延びないことがあろうかと強くおぼしめして、御身を大切にし、心の中であれこれ嘆かないことである。
もし、嘆きや悲しみが起きてきたときは壱岐・対馬の事、太宰府の事を思い起こされるがよい。あるいは、天人のように楽しんでいた鎌倉の人々が九州へ向かっていくにあたって、とどまる妻子、行く夫、愛しい者同士が顔と顔をすり合わせ、目と目を交わして嘆き、生木をさかれる思いで別れを惜しみ、次第に離れて由比の浜、稲村、腰越、酒勾、箱根坂と一日、二日と過ぎるほどに歩一歩と遠くなって、その歩みを川も山も隔て、雲も隔ててしまうので、身に添うものはただ涙、ともなうものはただ嘆きばかりで、その心中の悲しみはいかばかりであろうか。
こうした嘆きのなかに蒙古の軍兵が攻めてきたならば、山や海で生け捕りになったり、船の中か高麗かで憂き目にあうであろう。このことはまったく、なんの罪もないのに日本国一切衆生の父母ともいえる法華経の行者日蓮を、理由もなく謗り、打ち、あるいは街なかを引き回して、物に狂っていたのが十羅刹の責めを被ってこのような目にあっているのである。彼らの身の上にはまだまだこれより百千万億倍の大難が出来するであろう。こうした不思議をよくご覧なさるがよい。
我らはまちがいなく仏になると思えばなんの嘆きがあろう。皇妃に生まれても、また天上界に生まれてもなにになろう。竜女のあとを継ぎ、摩訶波闍波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。なんとうれしいことであろうか。ただ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経とお唱えなさい。恐恐謹言。
三月二十七日 日 蓮 花 押
尼ごぜんへ
語釈
非業の死
定命をまっとうせずに迎える死のこと。
業病
前世の悪業の因によって起こる病気。
阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
陳臣
生没年不明。陳鍼のこと。天台大師の兄。仏祖統紀巻三十七によれば、張果仙人から一か月後に死ぬことを予言されたが、天台大師が陳臣のために小止観を述べ、陳臣はその教えどおりに修行することによって、寿命を15年間延ばしたといわれる。
ゆきつしま
朝鮮半島と九州との間に飛石状をなす島。西海道11か国に入る。現在は長崎県に所属。早くから大陸との交通・軍事上の要地となっており、天智天皇3年(0664)には対馬に防人と烽が置かれた。文永11年(1274)10月、及び弘安4年(1281)5月の元寇では、元の大軍に蹂躙された。
だざひふ
7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほみこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、現在でも地元は「太宰府」を使っている。
つくし
九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
ゆいのはま・いなぶらこしごえさかわはこねさか
鎌倉から西国に向かう道中を示されたもの。ゆいのはま(由比の浜・神奈川県鎌倉市の海岸)いなぶら(稲村ケ崎・鎌倉市西南部)こしごえ(腰越)さかわ(酒匂・小田原市)はこねさか(箱根坂)。と順に進んでいく。
かうらい
高麗、朝鮮半島のこと。
こうじをわたし
街路を引き回すこと。
十羅刹
羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。
竜女
竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
摩訶波闍波提比丘尼
梵語マハープラジャーパティー(Mahāprajāpatī)の音写。摩訶鉢剌闍鉢底とも書く。釈尊の姨母。釈尊の生母・摩耶夫人が釈尊出生後七日で死去したため、夫人にかわって淨飯王の妃となり、釈尊を養育した。淨飯王の死後、出家を志し、三度釈尊に請願して許され、釈尊教団最初の比丘尼となった。法華経勧持品第十三で成仏の記別を与えられ、一切衆生憙見如来の号を受けた。
講義
尼御前の御病気を心配され、まず「三年はじめのごとくにきうじせさせ給へ」と具体的に治療を加えるよう勧められるとともに、病気と戦う生命力を増すための根本的治療法ともいうべき信心について説かれていく。そして、尼御前は法華経の行者であり、信心も強盛であるから、必ず、どのような病気でも克服し、寿命さえ延ばすことができると激励されるのである。
この個所で、日蓮大聖人は、病気を克服するための基本原理をわかりやすく示されている。それは、肉体的・精神的治療とともに、さらに宿命転換という根源的治療の方途である。
第一に、肉体的な治療法としては、灸治を三年間、怠らず続けるように、また、身体を養生するように指示されている。当時の日本の医学を十分に活用するようにとの意であろう。
つぎに、仏法への強い信心によるならば、生命力そのものを増し、宿業によるものであっても、それを治しうることを教えられている。釈尊の時代の阿闍世王、天台大師の兄である陳臣の例を挙げて、定業さえも転換し、寿命を延ばすことも可能であることを述べられている。この二例は、同じく尼御前に与えられた「可延定業書」でも挙げられている。
第三に、精神的な面から激励されている。
すなわち、鎌倉の人々が、蒙古との戦いのために妻子と別れゆく悲しみ、また九州に着けば蒙古に襲われて山に隠れても海へ逃げても生け捕られ、敵の船中か、高麗へ連れて行かれて殺される苦しみを想い起こしなさい、と教示され、日本国の人々が、このような苦しみ、嘆きに値わなければならないのは、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害したゆえに十羅刹女の責めを蒙っているのであり、しかも、これより百千万億倍も耐え難い苦しみが襲いかかってくるであろうと、死後の無間地獄の苦を暗示されている。それに対して、正法を信仰している尼御前は、成仏は間違いないのであるから、今の病苦を嘆く必要はないと激励されるのである。
病気においては、悲しみ、嘆き、絶望等は、最大の敵である。それは、病気をひきおこす原因の一つになるとともに、病気を悪化させる要因にもなるからである。人間の病気は、いかなる病気も、心の状態が深く結びついている。心に嘆きがあれば病状は悪化し、逆に希望の光がともれば病気と戦う力が湧き起こってくる。
現今、悲しみ、嘆き、失望、絶望等が、心臓病のみならず、ガンの発病と悪化にも深く関係することが証明されつつある。その他、白血病、潰瘍、糖尿病やその他の病気に心の状態が深く結びついていることはいうまでもないであろう。
また、その悲しみや苦しみも、将来、治るという期待があれば耐えられるが、苦しみの連続でいつまで続くかわからない性質のものであれば、人間の心は耐えることができず、病と対決する気力、生命力を失うことになる。日蓮大聖人は、尼御前の病苦の嘆きを、当時の鎌倉の人々の苦しみと対比させ、成仏できる喜びを教えられることによって、悲しみの底から未来への勇気と希望の炎を燃えたたせようとされたのではなかろうか。
このように、未来に希望の光を見つめつつ、法華経の信心をいっそう強盛にしていくとき、心身の治療の効果と、生命力の増強があいまって、たとえ業病でも克服することができるのである。
しかも、法華経の信心を根本とした病気との戦いは、ただ病気が治るということだけにはとどまらない。病気と戦うことそれ自体が、宿業の転換となり、あらゆる苦悩を克服し、一生成仏への道へとつながっていくのである。
その成仏の境界は、人界の最上の王妃や天人等の受ける幸福境涯をはるかに超えた、深く永遠性をもったものである。人天の幸福は所詮、皮相的なものであり、また無常をまぬかれない。それに対して、成仏の境界は、永劫にくずれない金剛不壊の幸福なのである。
病気との信心による対決がこのような幸福境涯を得させてくれることを知るならば、いまの病苦は嘆きではなくなり、心は未来への希望におおわれる。その希望が、また病気の好転をもたらす力となるのである。
病なき人も無常まぬかれがたし但しとしのはてにはあらず、法華経の行者なり非業の死にはあるべからずよも業病にては候はじ、設い業病なりとも法華経の御力たのもし
人間だれしも死はまぬかれえない。どのように健康を誇っていても、不慮の事故で生命を断たれることもある。また、寿命が終わればだれびとも死を迎えねばならない。寿命の尽きることが「としのはて」である。尼御前はまだそんな年齢ではないとの仰せである。
また、法華経の行者であるから「非業の死」であるはずはないともいわれている。法華経の力は、現世での種種の災難を防ぎ、守ってくれるからである。非業の死とは、本来の意味では定業ではない死のことであるが、ここでは現在の種々の災難によって横死することである。
また、よもや業病でもあるまいと仰せである。業病とは、先世からの悪業によってひきおこされる種々の難病である。摩訶止観巻八上には、業病について次のように記されている。「業病とは、或は専ら是れ先世の業、或は今世に戒を破して先世の業を動じ、業力病を成ず」と。ここにあるように、業病とは、先世の悪業が現れて、その業力が病気をひきおこす場合と、今世での破戒が先世からの悪業を動かし、顕現させて、そのために病気になる場合とがある。いずれも宿業が病気の根本原因になっているのである。
たとえ難病であっても、先世からの悪業によるものでない場合は、医学の力によって治すことが可能である。しかし、業病だけは、業そのものを転換できる仏法の力によらなければ治すことはできないのである。
業病、つまり定業の病でも、法華経を信心し強盛にして乗り越えていくことができるのである。「可延定業書」にも「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや、法華経第七に云く『此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり』等云云、此の経文は法華経の文なり」(0985:02)と述べられている。御本尊に過去世の謗法を懺悔すれば、どのような悪業でも消滅できるのである。
南無妙法蓮華経の大仏法を信受した以上は成仏は間違いないのであるから、「きさきになりても・なにかせん……摩訶波闍波提比丘尼のれちにつらなるべし、あらうれし・あらうれし」と、成仏できることになによりの喜びを感じて、その感謝と随喜の心で題目を唱え、信心に励んでいくよう御教示されて結ばれている。これこそ、たんに病苦を乗り越えるためのものであるにとどまらず、信心の根本姿勢であると拝すべきであろう。