妙密上人御消息(2010:11月号大白蓮華より。先生の講義)

妙密上人御消息(2010:11月号大白蓮華より。先生の講義)

「一人立つ」それが創立の心

戸田先生は、深い覚悟で語られました。

「誰がやらなくとも、自分一人しかいなくとも、私は戦う」

私は、戸田先生の弟子です。ゆえに私もまた、何があろうとも、一人立ち上がり、広宣流布に戦い、道を開いてきました。

「我より始めん」

「今より始めん」

「一人立つ」師子王のこころがあれば、いかなる逆境にも絶対勝利することができる。広宣流布の大聖業は、民衆救済の誓願に立たれた日蓮大聖人のお一人の不惜身命の大闘争から始まりました。

現代の世界広布の潮流も、牧口先生、戸田先生が日蓮仏法を純正に実践し、創価学会を創立したところから始まった。

「一人立つ心」とは、まさに、わが創価学会の「創立の精神」そのものであります。

今回は、その意義を込めて、悪世末法にただお一人、民衆救済に立ち上がられた日蓮大聖人の御精神が留められている「妙密上人御消息」を拝していきたい。

「妙密上人御消息」は、建治2年(1276)3月に著されたお手紙です。本抄の内容から妙密上人は折々に大聖人に御供養を続けてきたことがうかがえます。

本抄には、末法万年の一切衆生を救う戦いを、大聖人が、ただお一人、先駆けて始められたことが記されていきます。そして、やがては万人が南無妙法蓮華経を唱える広宣流布の時が到来することを御断言なされている御書です。さらに、大聖人を守り広布を支える妙密上人夫妻に、必ずや、この広宣流布の大功徳が及ぶことが力強く約束されているのです。

本文

  夫れ五戒の始は不殺生戒・六波羅蜜の始は檀波羅蜜なり、十善戒・二百五十戒・十重禁戒等の一切の諸戒の始めは皆不殺生戒なり、上大聖より下蚊虻に至るまで命を財とせざるはなし、これを奪へば又第一の重罪なり、如来世に出で給いては生をあわれむを本とす、生をあわれむしるしには命を奪はず施食を修するが第一の戒にて候なり、人に食を施すに三の功徳あり・一には命をつぎ・二には色をまし・三には力を授く、

現代語訳

いったいに、小乗経で説く五戒の始めは不殺生誡である。大乗教で説く六波羅蜜の行法の始めは檀波羅密である。十善戒、二百五十戒、十重禁戒等の一切の諸戒の始めは全て不殺生戒である。上は仏から下は蚊やあぶにいたるまで自分の生命を財宝としないものはない。この命を奪えば、第一の重罪となるのである。仏は世に出現されて、生命を慈しむことを根本とした。生命を慈しむしるしとして、命を奪わず食物を施す修行をすることが第一の戒である。

人に食物を施すのに三つの功徳がある。一には生命を保つことができる、二には色艶を増す。三には力を与えるのである。

講義

法華経の行者を支える功徳

尊極の妙法が万人に顕現しうることを説いた教えであるといえます。

本抄は冒頭、命が最高の財であると説き起こされています。蚊や虻であろうと、命を大事にしないものはない。何よりも仏自身が、衆生の「命」を大切にし、慈しまれる。それゆえに、五戒をはじめとする種々の戒律の始めには、「不殺生戒」が説かれ、命を支えるために「食を施す」ことが重視されていると示されています。

本抄が、このように説き起こされているのは、妙密上人の御供養は、法華経の行者の命を守り支えるものであり、その功徳がいかに偉大であるかを讃えられるためであると拝されます。

大聖人は続いて、「人に食を施す」ことに「命を継ぐ」「色を増す」「力を授ける」との三つの効用があることを示されていきます。すなわち、食を施すことによって、生命が維持され、生き生きとした姿になり、生き抜く力が漲ります。そして、食を施した人は、人界・天界に生まれた時も、また仏に成った時も、すばらしい果報を受けることができると示されています。

まず、人界・天界に生まれた時の果報をみれば、「命を継ぐ」功徳を与えることによって、施した人は長寿の果報をえること。「力を授ける」功徳を与えることで、威厳と人徳が備わり、多くの人から信望が集まること。「色を増す」ことで、32相を具足して、華の如く端正な風貌を備えることが示されています。

次に、仏に成った時の果報については、仏の三身に約して説明されています。つまり「命を継ぐ」功徳は、虚空のように広大無辺の法身如来とあらわれます。「力を授ける」功徳は清浄なる智慧の輝きに満ちた報身如来とあらわれます。「色を増す」功徳は、釈迦仏のように慈悲にあふれた応身如来とあらわれると教えられています。

以上のように、生命を守り慈しむ行動こそ、仏道修行の根幹であるがゆえに、「食を施す」功徳は、人界・天界に生まれても大福徳となり、さらには、成仏して三身即一身の完全なる仏身を得ることができるのです。

供養には、人に善を成就させる功徳がある。その究極は、最高の善である成仏をも成就させる功徳です。そこで大切なことは、誰に供養するかです。小乗では聖人に供養すれば人界・天界に生まれると説く。それに対して、成仏の教えである法華経に供養してこそ、三身を成就することができるのです。したがって、成仏の根本法を説き弘める法華経の行者を守り支えることが、どれだけ偉大なことか。

本抄では、次の展開から、万人成仏の法を末法で最初に唱え出した大聖人の「一人立つ」闘争について触れられていきます。

本文

  夫れ須弥山の始を尋ぬれば一塵なり・大海の初は一露なり・一を重ぬれば二となり・二を重ぬれば三・乃至十・百・千・万・億・阿僧祇の母は唯・一なるべし

現代語訳

そもそも須弥山の始めを尋ねれば一つの塵であり、大海の初めは一滴の露である。一を重ねれば二となり、二を重ねれば三となり、このようにして十・百・千・万・億・阿僧祇となっても、その産みの母はただ一つなのである。

本文

  いまだ本門の肝心たる題目を譲られし上行菩薩世に出現し給はず、此の人末法に出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中・国ごと人ごとに弘むべし、例せば当時・日本国に弥陀の名号の流布しつるが如くなるべきか。

  然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず・持戒破戒にも闕て無戒の僧・有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり、何にしてか申し初めけん・上行菩薩の出現して弘めさせ給うべき妙法蓮華経の五字を先立て・ねごとの様に・心にもあらず・南無妙法蓮華経と申し初て候し程に唱うる者なり、

現代語訳

まだ法華経本門の肝心である題目を付嘱された上行菩薩は世に出現されていない。この上行菩薩は末法に出現して、妙法蓮華経の五字を世界中の国ごと、人ごとに弘めるのである。例えば、今、日本国に阿弥陀の題目が流布しているようなものである。

ところが日蓮は、いずれの宗も元祖でもない。またその流れを汲むものでもない。持戒破戒の者でもなく、無戒の僧であり、有智・無智という概念からもかけ離れた牛羊のような者である。それがどうゆうわけでいい始めたのか、上行菩薩が出現して弘められるべき妙法蓮華経の五字を、その出現に先立って寝言のように心にもなく南無妙法蓮華経と申し始めたように唱えているのである。

講義

末法に題目を弘める上行の使命

どんな巨大な須弥山も、一塵から構成されています。また、果てしなく広大な大海も、一露から成り立っています。すべては、この一塵・一露から始まる。これが本抄の主題です。

「一は万が母」です。

本抄の御文にも「阿僧祇の母は唯・一なるべし」とあります。末法の広宣流布は、日蓮大聖人ただお一人から始まりました。

本抄では、この点を明確にするために、まず、日本の仏教史を慨括されています。焦点は、法華経の弘通です。日本に仏教が伝わって700年、法華経という経典自体はそれなりに重視されてきたといってよい。しかし、弥陀の名号、大日の名号、釈迦の名号は広まっても「いまだ法華経の題目・南無妙法蓮華経と唱えよと勧めたる人なし」と、法華経の題目・南無妙法蓮華経が弘通されていないことを確認されます。

これは多くの民衆は、阿弥陀仏の本願力による浄土への往生を信じ、大日如来の救済を仰ぎ、釈迦如来を尊崇している。だが、それらと同じようには、法華経は信じられてこなかったということです。護国の経典として、一仏乗の深義を説く経典として、法華経は尊重され、研究されてきました。しかし、本当の意味で、民衆の信仰のよりどころとなったことは、ありませんでした。

更に、インド・中国にさかのぼり、天台・妙楽等の法華経の深義を明らかにした人たちにも言及され、彼らの中には、法華経の題目を自分だけ唱えた人はいても、民衆に弘通した人はいないと指摘されています。そして、この正像の二字にも、人々は、阿弥陀・大日・文上の釈迦・観音・薬師などの仏菩薩の名号を唱えて、信仰のよりどころとしていたことが示されます。

では、何ゆえに正像二時には、法華経の題目が弘通されなかったのでしょうか。大聖人は、本抄ではその理由として「時がいまだ来ていなかったこと」そして、「弘めるための付嘱を受けた人がいなかったこと」の2点を挙げられています。

正像2000年の間は、人々の煩悩の病が軽いので、阿弥陀・大日・観音などの権迹の仏菩薩でも病を癒す薬となります。しかし、末法の「謗法」の大重病の者には、大良薬たる妙法蓮華経の五字でないと根本の治療とはならないと仰せです。

末法の衆生は、貧瞋癡の煩悩が強い。そうした衆生が諸仏の名号を唱えても、仏に救済を願う依存心が強くなるだけで、自分の生命の変革には至りません。己心の外にいる仏の名号を、いくら唱えても、わが胸中の変革とはならず、成仏は実現しません。

これに対して、法華経の題目・南無妙法蓮華経は、釈尊をはじめ諸仏を仏たらしめた根源の法です。この根源の仏種たる南無妙法蓮華経を持つしか、末法の衆生の根本的な救済はありえません。したがって、法華経の題目を唱える以外に成仏の道はないことを教えられているのです。

次に「付嘱」の問題です。法華経では、上行菩薩に末法の弘通を託します。末法の悪機の衆生を救うには、根源の仏種である妙法蓮華経の五字しかありません。地涌の菩薩は、釈尊の久遠の弟子であり、「本法所持の人」とあるように、下種の法である南無妙法蓮華経を所持して出現した菩薩です。振る舞いは菩薩ですが、仏が成仏した根本法を所持している。ゆえに、悪世末法の衆生を正しく導くことができるのです。

古来、法華経を読んだ人は多い。しかし、上行菩薩が担う役割を知って、現実に法華経の題目の流布に立ち上がった方は、日蓮大聖人しかおられません。

日蓮大聖人は本抄で自らの立場を明かされるにあたって、まず「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず」と仰せです。これは大聖人のお立場が2000年間正像時代の仏教の延長戦上に存在しているのではない、ということです。既存の宗教の権威に依らず、権力の後ろ盾も何もなく、末法に生きる一人のありのままの人間として、真っ直ぐに法華経を読まれ、上行の戦いを開始されたお立場が率直に表現されている御文と拝せます。

更に持戒でも破戒でもなく、一度も戒を受けない無戒の者であり、また、有智無智という枠組みからも外れているとも仰せです。

徹して大聖人は、既存の宗教的な枠組みや権威から自由な立場に立たれ、末法悪世に生きる一人の人間として、法華経と釈尊に正面から向き合い、法華経に示された末法における民衆仏法の確立のために戦われたのです。御自身の凡夫を強調されているのも、一人の人間が、仏の意を受けて全民衆救済の行動に徹した時に、どれだけ偉大な精神の輝きを残すことができるかを証明されるためであったと拝されます。そこにのみ、民衆仏法の確立が可能だからです。

仏法は「行動」が根幹です。

「生によって賤しい人となるのではない。生によってバランスとなるのでもない。行為によってバラモンともなる」とは、釈尊の不滅の言葉です。すべての人は生まれできまるのではなく、行いできまるという思想は、現代社世界においても燦然と輝く仏教の平等宣言です。

大聖人御自身、上行菩薩の果たすべき仏の大事業を厳然と成し遂げてこられました。経文通りの大難を受けられ、仏の経文を「天台伝教の聖人にも及ぶべし」と仰せです。大聖人の闘争それ自体は、真実の聖人に匹敵する戦いをされたと宣言されているのです。すなわち、目覚めた人間が、真の使命に一人立ち上がった時に、限りなく偉大な民衆救済の聖業を実現できることを私たち末法の凡夫に教えてくださっているといえます。

本文

  今日蓮は然らず已今当の経文を深くまほり・一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む、麻の中の蓬・墨うてる木の自体は正直ならざれども・自然に直ぐなるが如し、経のままに唱うれば・まがれる心なし、当に知るべし仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか、

現代語訳

今日蓮はそうではない。法華経こそ已今当において最も難信難解であり最勝であるとの信念を深く守り、一経の肝心である題目を自分も唱え、人にも勧めている。ちょうど麻の中に生えた蓬や黒線を印した木が、それ自体は曲がっていても自然に真っすぐになるようなものである。法華経の教える通りにしたがって題目を唱えているから、曲がった心がないのである。まさに仏の御心が我らが身にお入りにならなければ唱えることができないであろう。

講義

法華経根本の実践を貫く

大聖人は、どうして自ら「時」を知り、「法」を知って法華経の題目を弘める末法流布の「最初の一人」になりえたのでしょうか。この御文は、その鍵として「経のままに」真っ直ぐ実践していく「如説修行」の大切さを教えられています。

日蓮大聖人の行動は、一貫して、人師・論師には依らずに、法華経根本であり、如説の実践にあらわれる。それに対して、諸宗の元祖たちは、自宗の依経を師として法華経を読んでいたために、法華経の本義から遠ざかってしまった。すなわち、爾前経の眼で法華経を理解しようとしても、十界互具・一念三千に基づく万人成仏の法華経の真髄は理解できない。ですから、本当の意味で法華経を読んだことにはなりません。

日蓮大聖人は、そうした諸宗の元祖たちと異なり、「已今当の経文を深くまほり」と仰せです。法華経こそが一代聖教の真髄であるとの教えのままに、法華経の題目を自ら唱え、人にも弘通してこられたことが示されています。

ここで大聖人が強調されているのは、経文を信じ、経文の通りに実践することです。曲がりくねっている蓬の茎が、麻の中では真っ直ぐに成長するように、また、製材する時に、墨縄があれば直線を木材の表面に引くことができるように、「経のまま」に唱題すれば、釈尊の真意を歪める心、曲げる心は生じえないことを教えられています。

「仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか」と仰せです。非常に重要な御文です。

方便品に「正直捨方便」とあるように、法華経は仏が正直に方便説を捨てて、ただ成仏の道を真っ直ぐに説いた経典です。そして寿量品に「質直意柔軟・一心欲見仏・不自惜身命」とあるように、衆生が邪見・邪智などの執着を捨てて、正直に柔軟な心で仏の教えを受け止め、自身を惜しまずに一心に仏を求めていけば、末法であっても、法華経の信ずる人の身に仏の心が現われるのです。

大聖人は、仏が仏の心を真っ直ぐに説かれた法華経を、真っ直ぐに受け止められた。ゆえに、虚空会の儀式において上行菩薩が釈尊の金口を直接に聞いて付嘱を受けた時と同じく、妙法蓮華経の五字という「法」の意義も、広宣流布の時という「末法」の意義をおのずから覚知されたのです。

法華経を経文通りに実践すれば、必ず大難が起こることも、経文に厳然と記されています。法師品の「猶多怨嫉・况滅度後」勧持品の「三類の強敵」等々、大聖人は、経文通りに大難を受けられました。それは、むしろ、釈尊の経文が真実であることを大聖人が証明されたことにほかなりません。そのことを、大聖人は「此等の経文は日蓮・日本国に生ぜずんば但仏の御言のみ有りて其の義空しかるべし」とも仰せです。

そして、この大聖人に直結して、御聖訓を証明してきたのが、創価学会です。この80年間、創価学会は「大聖人直結」「御書根本」の信心を真っ直ぐに戦い勝ち越えてきました。だからこそ、日蓮大聖人の仏法を正しく広宣流布して、世界192ヵ国・地域に弘め、大発展することができたのです。

日蓮仏法を、近世に形成した檀家制度の寺院信仰に閉じ込めてはならない。世界に開かれた民衆仏法を確立するのだと、大聖人の御在世に代えられたのが、牧口先生です。そして、民衆一人一人が人生に価値を創造しゆく生活法として仏法を蘇生させ、現実の実証を重視しながら、広宣流布への信心を蘇らせたのです。更に牧口先生は、謗法厳誡の信心を峻厳に貫き、戦時中「神札を受けるように」との宗門の要請を断固拒否しました。大聖人の正統の信心を継承した峻厳な勇断です。

戸田先生もまた、御書を心肝に染め、地涌の菩薩の自覚のままに、広宣流布の誓願に立ち上がり、民衆救済の闘争を貫かれました。

そして、戸田先生の弟子の私もまた、広宣流布の全責任を担い、尊き同志の皆さんとともに立ち上がりました。大聖人が御書で示されている通りに、三障四魔、なかんずく第六天の魔王の軍勢と戦い、三類の強敵に勝利した。学会はすべてに勝利したのです。

現代において、大聖人の御書を色読し証明してきたのが創価学会です。創価学会は、日蓮仏法を受け継いだ唯一の団体です。創価の80年の不惜の如説修行の歴史は厳然と学会の正統性を証明しているのです。

本文

  日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人.三人・十人.百人・一国・二国・六十六箇国・已に島二にも及びぬらん、今は謗ぜし人人も唱へ給うらん、又上一人より下万民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず・春を留んと思へども夏となる

現代語訳

また日蓮は日本国でただ一人、南無妙法蓮華経と題目を唱えたのである。このことは須弥山という大山を形成する最初の一塵であり、大海を構成する最初の一露である。二人・三人・十人・百人・一国・二国・六十六箇国まで弘まり壱岐・対馬にまで及ぶであろう。今は日蓮を謗じていた人達も題目を唱えるであろう。また日本国の上一人より下万民にいたるまで、法華経の神力品が説かれているように、必ず一同に声を合わせて南無妙法蓮華経ととなえることがあるだろう。それは木は静かであると思っても風がやまないために動くし、春を留めようと思っても必ず夏が来るのと同じようにとどめようのないことである。

講義

すべては「始の一塵」「始の一露」から

日蓮大聖人が「但一人」立ち上がられて、末法広宣流布から始まったことを「須弥山の始の一塵」「大海の始の一露」であると仰せです。立宗以来の闘争によって、妙法を唱える人は、二人・三人・十人・百人と次第に増え、一国・二国の地域へと広がり、やがては、日本のすべてである66ヵ国と壱岐・対馬の二島にまで妙法の波動は及んでいると仰せです。

最初は誹謗していた人たちも、大聖人が予言された「自界叛逆難」と「他国侵逼難」が的中してからは、認識を変えていったようです。

大聖人は更に「木はしづかならんと思へども風やまず・春を留んと思へども夏となる」と仰せです。広宣流布は断じてできると、御本仏・日蓮大聖人が御断言されているのです。

「そして、この広宣流布は、「二人・三人・十人」とあるように、一人からまた一人へと伝わってこそ実現するということも、本抄での重要な御指南です。

なぜならば、広宣流布は、「一人」からまた次の「一人」へと、一人一人の生命を呼び覚ましていく運動だからです。

創価学会は、この大聖人の仰せの通りに語り抜いてきました、「一対一の対話」と「座談会運動」が基盤です。

まさしくこの伝統を始められたのが牧口先生です。ある時、牧口先生は、座談会よりも講演会形式にしたほうがいいと語る青年にこう語られました。

「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ。日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答形式ではないか」

また、戸田先生も、「広宣流布は一対一の膝詰めの対話からだ」とよく語っていました。私も同じ信条で、常に一対一の対話を重ねてきました。

どこまでも大切なのは、一対一の人間味ある励ましと信心の触発です。この伝統が継承される、学会は永遠に発展していくことは間違いありません。

本文

  此等を以て思ふに便宜ごとの青鳧五連の御志は日本国の法華経の題目を弘めさせ給ふ人に当れり、国中の諸人・一人・二人・乃至千万億の人・題目を唱うるならば存外に功徳身にあつまらせ給うべし、其の功徳は大海の露をあつめ須弥山の微塵をつむが如し、殊に十羅刹女は法華経の題目を守護せんと誓わせ給う、此を推するに妙密上人並びに女房をば母の一子を思ふが如く. 犛牛の尾を愛するが如く昼夜にまほらせ給うらん、たのもし.たのもし、事多しといへども委く申すにいとまあらず、女房にも委く申し給へ此は諂へる言にはあらず、金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる・法華経の功徳はほむれば 弥功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし

現代語訳

このことから考えてみると、あなたが便りごとに送ってくださる青鳧五連の御供養の志は、日本国に妙法の題目を弘められる人にあたるのである。国中の人々が、一人・二人・ないし千万億の人が題目を唱えるようになれば、しらずしらずのうちに功徳が妙密上人自身にあつまることであろう。その功徳は、ちょうど大海が露をあつめ、須弥山の微塵を積んで大きくなっていくようのものである。

ことに十羅刹女は、法華経の題目を唱える人を守護すると誓いをたてている。このことから推量するに十羅刹女は妙密上人ならびに女房殿を、母親が一子を思い、犛牛がその長い尾を大事にするように昼夜にわたってまもられるであろう。本当に頼もしいことである。

いろいろ申し述べたいことはあるが、くわしく述べるひまがない。夫人にもよく伝えてください。これはへつらっているのではない。

金は焼いて鍛えれば、いよいよ色がよくなり、剣はとげばいよいよよく切れるようになる。と同じように法華経の功徳は讃嘆すればするほど、ますます勝れるのである。

法華経二十八品は正しい道理を説いたところはわずかで讃めた言葉が多いということを心得てきなさい。

妙法を持つ人を賞讃

本抄の結びの段です。青鳧五連の御供養を重ねて、大聖人の広布の実践を支えてきた妙密上人夫妻の激励をされています。

妙密上人の志自体が、日本国に法華経の題目を弘めることと同じでる。したがって、今後、国中の人が題目を唱えたならば、その大功徳は、妙密上人の身にあつまることは間違いない。大海、須弥山の如く大功徳に包まれ、諸天善神が必ず守護することは疑いない、と仰せです。

また、大聖人は、妙密上人を支えた夫人も激励されます。悪世末法で信心を貫き通していること自体、どれだけ偉大なことなのか。どこまでも共に戦う門下を、本当に大切にされたのが日蓮大聖人です。真心の激励に、妙密上人夫妻が新たな決意で立ち上がったことは想像に固くありません。

「金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる」とあります。金は精練すればするほど輝きを増します。剣は研げば研ぐほど鋭くなります。法華経の功徳も、賞讃すればするほど、ますます功徳も勝っていきます。

法華経そのものにおいても、法理の真髄が述べられた個所はわずかです。法華経28品全体が、その万人成仏の法理の功徳を釈迦・多宝・十方の諸仏をはじめ、あらゆる衆生が口をそろえて賞讃し、全人類に妙法の受持を勧めている経典であるといえます。文底から拝するならば、法華経全体が、南無妙法蓮華経の功徳を讃嘆しているのです。

妙法を賞讃する心に功徳があふれます。また、妙法を持ち、弘める人を賞讃する心に功徳はいや増していきます。

自他共の尊極なる可能性

「妙法を持つ人」は、自他ともに、誰もが仏の尊極なる生命を持っていると確信していく人です。「仏の御使い」「仏の弟子」として、法華経の題目を唱え、勧めるひとこそが、真実の生命尊厳の思想を弘め、この世界を慈悲の働きで潤すことができる人です。

21世紀の現在、世界が求める真の人材とは、まさにこの法華経の思相の体現者です。すなわち、すべての人間に、尊極なる可能性が平等に秘められていることを自身の体験と行動で万人に伝えられる人です。自他共の尊極なる可能性に目覚めてこそ、人類の無明ともいうべき差別主義の一凶を打ち破ることができます。また、万人の生命の尊厳を深く確信してこそ、人類の宿痾である戦争を根本的に乗り越えていく戦いに勝利することができます。

インドから始まった仏法が日本に伝来して、約700年法滅の闇の中に大聖人が出現されて、全人類を照らす「太陽の仏法」が確立されました。そして本抄に示された通り、日本一国に題目を流布していかれました。

以来、再び700年、日蓮仏法の清流が全く失われようとしたその時に、不思議にも創価学会が誕生したのです。牧口先生、戸田先生は、一人一人の尊極の生命を持っていることを自覚されるために一人でも多くの人に御本尊を受持させようとしました。そして学会員は、御本尊の功力を実証し、その喜びを万人に広げようと、御本尊を弘めていきました。本格的な御本尊流布は、わが創価学会によって始まったのです。

世界広宣流布、仏法西還の基盤が盤石になった今、まさに世界の「国ごと人ごと」に、仏法の人間民主主義に期待する声が高まっています。法華経の生命尊厳の思想を体現している学会員に対する賞讃は、日増しに高まっています。いよいよ、世界広宣流布の本格的な大前進が始まる時が到来しました。

「妙法を持つ人」は、自他ともに、誰もが仏の尊極なる生命を持っていると確信していく人です。「仏の御使い」「仏の弟子」として、法華経の題目を唱え、勧めるひとこそが、真実の生命尊厳の思想を弘め、この世界を慈悲の働きで潤すことができる人です。

どこまでも大切なのは、宝の如き学会員の存在です。日々、学会活動で生命を磨いておられる皆さまです。日蓮大聖人の御精神、そして、学会の80年の歴史と伝統は、全部、皆さまの胸中に受け継がれています。大聖人が皆さま方を賞讃してくださっていることは絶対に間違いありません。私も妻と共に、大事な大事な宝のお一人お一人の御健勝を日々祈っています。

八とは開く義です。今は新たな出発の時です、全人類を包む閻浮提広宣流布の本舞台に、須弥山の始めの新たな一塵、大海の始めの新たな一露となる挑戦の始まりです。師と共に「我より始めん」「今より始めん」「一人立つ」心こそ、「創立」の心なのです。

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