妙密上人御消息

妙密上人御消息

 建治2年(ʼ76)閏3月5日 55歳 妙密

  1. 背景と大意
  2. 第一章(施食の功徳を述べる)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 上大聖より下蚊虻に至るまで命を財とせざるはなし。これを奪へば又第一の重罪なり。如来世に出で給いては生をあわれむを本とす
      2. 人に食を施すに三の功徳あり
  3. 第二章(仏法渡来の当初を示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  4. 第三章(伝教、天台・真言を修学する)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  5. 第四章(題目の末弘を教示する)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 或は弥陀の名号、或は大日の名号、或は釈迦の名号等をば、一切衆生に勧め給へる人人はおはすれども、いまだ法華経の題目南無妙法蓮華経と唱へよと勧めたる人なし
  6. 第五章(題目流布の時を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 一切時による事なり。されば正像二千年の間は題目の流布の時に当らざるか
      2. 此の人末法に出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中国ごと人ごとに弘むべし。例せば当時日本国に弥陀の名号の流布しつるが如くなるべきか
  7. 第六章(末法に大法を弘める人を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 日蓮は何れの宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず。持戒破戒にも闕けて無戒の僧、有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり
  8. 第七章(大法受持の至難を述べる)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  9. 第八章(諸宗の祖、法華経の正意を知らず)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す
  10. 第九章(賢人・聖人の別を説く)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 麻の中の蓬、墨うてる木の、自体は正直ならざれども自然に直ぐなるが如し。経のままに唱うればまがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか
  11. 第十章(真の聖人を示唆する)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  12. 第十一章(真の聖人の大確信を述べる)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 日本国の中に但一人南無妙法蓮華経と唱えたり。これは須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露なり
  13. 第十二章(謗法による難を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  14. 第十三章(供養の功徳を讃嘆する)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 二十八品は正しき事はわずかなり。讃むる言こそ多く候へ

背景と大意

この手紙は、建治2年(1276年)閏3月、身延で書かれ、鎌倉の福谷(くわがやつ)に住んでいた信徒・妙密(みょうみつ)に宛てられたものである。妙密についての詳しい情報は伝わっていないが、彼とその妻はしばしば身延山の荒野にある大聖人の草庵を訪れ、供養をしていたとみられる。

この手紙が書かれた頃、日興上人が駿河など各地で弘教に尽力した結果、入信者の数は増加していた。鎌倉でも在家の信徒たちが活発に弘通を行っていた。しかし、新たな信徒が増えるにつれて、幕府による弾圧も強まっていった。それでも妙密夫妻は、四条金吾を中心とする他の門下とともに、大聖人の教えへの誠実な信心を保ち続けた。

この手紙の冒頭で、日蓮大聖人は仏教の根本精神である「生命への絶対的な尊厳」と、それを支える実践である「布施」の重要性を強調している。そして妙密の誠実な供養に応えて、他者の生命を養うことによって三つの利益を得ると説いている。「自らの生命を維持する」「顔色がよくなる」「力を得る」という三つの利益は、一見すると施しを受けた側の利益のように思われるが、大聖人はこれを施す側が得る功徳であると解釈し、さらにそれらを仏の三身と結びつけている。

次に、大聖人は日本における仏教の歴史を簡単に振り返り、末法の世には法華経の題目「南無妙法蓮華経」が必ず広まるであろうと宣言している。

さらに大聖人は、この題目を最初に唱え、弘め始めた自らの行動こそ、仏が地涌の菩薩・上行菩薩に託した使命を果たすものであると示唆している。そして自分だけが、仏の本意にかなう形で法華経を読誦していると述べ、自身が受けてきた数々の困難こそが、法華経の真実性を証明し、また自分が法華経に予言された「末法に出現する真の聖人」であることの証であると確信を述べている。

結論として大聖人は、今は自分一人が題目を唱えているが、やがては国中の人々が唱えるようになるであろうと述べている。それは、ほんの一粒の塵が須弥山となり、一滴の水が大海をなすようなものであると説いている。

 

 

第一章(施食の功徳を述べる)

 

本文

青鳧五貫文、給び候い畢わんぬ。
 夫れ、五戒の始めは不殺生戒、六波羅蜜の始めは檀波羅蜜なり。十善戒・二百五十戒・十重禁戒等の一切の諸戒の始めは皆、不殺生戒なり。上大聖より下蚊虻に至るまで、命を財とせざるはなし。これを奪えば、また第一の重罪なり。如来、世に出で給いては、生をあわれむを本とす。生をあわれむしるしには、命を奪わず、施食を修するが、第一の戒にて候なり。
 人に食を施すに、三つの功徳あり。一には命をつぎ、二には色をまし、三には力を授く。命をつぐは、人中・天上に生まれては長命の果報を得、仏に成っては法身如来と顕れ、その身虚空と等し。力を授くる故に、人中・天上に生まれては威徳の人と成って眷属多し。仏に成っては報身如来と顕れて蓮華の台に居し、八月十五夜の月の晴天に出でたるがごとし。色をます故に、人中・天上に生まれては三十二相を具足して端正なること華のごとく、仏に成っては応身如来と顕れて釈迦仏のごとくなるべし。
 夫れ、須弥山の始めを尋ぬれば一塵なり。大海の初めは一露なり。一を重ぬれば二となり、二を重ぬれば三、乃至十・百・千・万・億・阿僧祇の母は、ただ一なるべし。

現代語訳

  銭五貫文を確かにいただきました。いったいに、小乗経で説く五戒の始めは不殺生戒である。大乗経で説く六波羅蜜の行法の始めは檀(布施)波羅密である。十善戒、二百五十戒、十重禁戒等の一切の諸戒の始めは全て不殺生戒である。上は仏から下は蚊やあぶにいたるまで自分の生命を財宝としないものはない。この命を奪えば、第一の重罪となるのである。仏は世に出現されて、生命を慈しむことを根本とした。生命を慈しむしるしとして、命を奪わず食物を施す修行をすることが第一の戒である。

人に食物を施すのに三つの功徳がある。一には生命をたもつことができる、二には色艶を増す。三には力を与えるのである。

命をたもつということは、人間界、天上界に生まれては長寿の果報を得、仏となっては法身如来とあらわれて、その身は虚空と等しい境涯となるのである。力を授けるということは、人間界、天上界に生まれては、威徳を具えた人となって多くの人々がその周りに集まるのである。仏となっては報身如来と顕れて蓮華台に常座し、ちょうど八月十五夜の満月が晴れた天に出たようなものである。色を増すということは、人間界、天上界に生まれては三十二相を具えてその相の端正なことは華のように美しく、仏となっては応身如来と顕れて釈迦仏のようになるのである。

そもそも須弥山の始めを尋ねれば一つの塵であり、大海の初めは一滴の露である。一を重ねれば二となり、二を重ねれば三となり、このようにして十、百、千、万、億、阿僧祇となっても、その生みの母はただ一なのである。

 

語釈

 青鳧五貫文

鎌倉時代の通貨で、銅銭、孔あき銭のこと。青鳧(せいふ)とは青い鳧(かも)の意。孔のあいている通貨の形が鳥の目のようであるところから、鵞目、鳥目、青鳧などと呼ばれた。青鳧は青蚨に通じ、かげろうの意でもある。「捜神記」一三によれば、かげろうの母子の血をとって、それぞれ銭に塗ると、その片方の錢を使えば、残った方を慕って銭が飛び帰るという言い伝えがあり、これを子母銭という。一貫文は、銭の孔に紐を通し、百枚ごとに束ね、十束としたもの。五貫文で五千文である。

 

五戒

小乗戒で、八斎戒とともに在家の男女(俗男俗女)のために説かれた五種の戒律。優婆塞戒ともいう。戒は非を防ぎ悪を止める義がある。一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。この五戒をよく持つ者は、主君、父母、兄弟、妻子、世人に信任され、賛嘆され、身心安穏であって善を修するのに障りが少なく、死んではまた人界に生まれ、慶幸をうけることができるという。

 

六波羅蜜

「波羅蜜」は梵語、パーラミター(Pāramitā)の音写。彼岸と訳す。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧波羅蜜の六行があり、その行は万差であるから、六度万行という。菩薩等がこの六法を修して生死の彼岸よりよく涅槃の彼岸に至るということである。爾前経においては菩薩の歴劫修行を説いてきたが、無量義経にいたって「末だ六波羅蜜の修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれている。すなわちこれは、三大秘法の御本尊の功徳をたとえ、即身成仏を説いている。

 

十善戒

正法念処経巻二に説かれている十種の善業道。一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪淫、四に不妄語、五に不綺語、六に不悪口、七に不両舌、八に不貪欲、九に不瞋恚、十に不邪見である。十善戒とは、身口意の三業にわたって、十悪を防止する制戒で十善道ともいう。即ち受十善戒経には「若し此の十善戒を受持し、十悪業を破り、上、天上に生じ、梵天王となり、下、世間に生まれて転輪王となり十善を教化す」とある。

 

二百五十戒

男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。

 

十重禁戒

大乗戒の一つで、梵網経巻下に説かれる十種の重大な禁戒をいう。①快意殺生戒、いたずらに生命あるものを殺害することを禁じた戒。②劫盗人物戒、人の財物を盗むことを禁じた戒。③無慈行欲戒、無慈悲に淫事を行なうことを禁じた戒。④故心妄語戒、人にうそをついて邪見や不正行為をさせることを禁じた戒。⑤酤酒生罪戒、人に酒を売って転倒の心を起こさせることを禁じた戒。⑥談他過失戒、人の罪過を説くことを禁じた戒。⑦自讃毀他戒、自分を讃め他人を謗ることを禁じた戒。⑧慳生毀辱戒、慳貪で法施・財施をせず人を罵ることを禁じた戒。⑨瞋不受謝戒、瞋りの心を持ち、相手の謝罪を受け入れないことを禁じた戒。⑩毀謗三宝戒、仏宝、法宝、僧宝の三宝を謗ることを禁じた戒。

 

施食

人に食物を施すこと。

 

法身如来

仏の三身の一つ。真理を身体とする仏。常住普遍の真理もしくは法性そのものをいい、寂光土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562:01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。

 

威徳の人

人を恐れ敬服させる威厳と人を心服させる徳のある人をいう。

 

眷属

①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。

 

報身如来

仏の三身の一つ。仏の智慧をあらわす仏身。自ら内証の法楽を受ける身を自受用報身、十地の菩薩のために法を説き、大乗の法楽を受用させる身を他受用報身といい、実報土に住する。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022:09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562:01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144:08)等とある。

 

蓮華の台

蓮華の台座。仏菩薩の常座である。蓮華は淤泥に生じても、これに染まらない徳があり、仏菩薩の台座として、穢国にいても離塵清浄神力自在であることを示すことができるので、このようにいう。

 

三十二相

応化の仏が具えている三十二の特別の相をいう。八十種好とあわせて仏の相好という。仏はこの三十二相を現じて、衆生に渇仰の心を起こさせ、それによって人中の天尊、衆星の主であることを知らしめる。三十二相に八十種好が具り円満になる。大智度論巻四による三十二相は次の通りである。1 足下安平立相(足の下が安定して立っていること。足裏の全体が地について安定している)。2  足下二輪相(足裏に自然にできた二輪の肉紋があり、それは千輻が放射状に組み合わさって車の輪の相を示していること)。3 長指相(指が繊細で長い。4 足跟広平相(足の踝が広く平らかであること。5 手足縵網相(手足の指の間に水かきがあり、指をはればあらわれ、張らなければあらわれないこと。6 手足柔軟相(手足が柔らかいこと。皮膚は綿で編んだように微細である)。7 足趺高満相(足の甲が高いこと)。8 伊泥延膊相(膝・股が鹿の足のように繊細で引き締まっていること)。9 正立手摩膝相(立てば手で膝をさわることができること)。10 隠蔵相(陰部がよく整えられた馬のように隠れてみえないこと)。11 身広長等相(インド産の無花果の木のように、体のタテとヨコが等しいこと。12 毛向上相(身体の諸の毛がすべて上に向いてなびくこと)。13 一一孔一毛生相(一つ一つの孔に一毛が生ずること。毛は青瑠璃色で乱れず右になびいて上に向かう)。14 金色相(皮膚が金色をしていること)。15 丈光相(四辺にそれぞれ一丈の光を放つこと)。16 細薄皮相(皮膚が薄く繊細であること。塵や土がその身につかないことは、蓮華の葉に塵水がつかないのと同じである。17 七処隆満相(両手・両足・両肩・頭の頂の七処がすべて端正に隆起して、色が浄いこと)。18 両腋下隆満相(両脇の下が平たく隆満しており、それは高すぎることもなく、また下が深すぎることもない)。19 上身如獅子相(上半身が獅子のように堂々と威厳があること)。20 大直身相(一切の人の中で、身体が最も大きく、またととのっていること)。21 肩円好相(肩がふくよかに隆満していること)。22 四十歯相(歯が四十本あること)。23 歯斉相(諸の歯は等しく、粗末なものはなく、小さいもの・出すぎ・入りすぎや隙間のないこと)。24 牙白相(牙があって白く光ること)。25 獅子頬相(百獣のように獅子のように、頬が平らかで広いこと)26 味中得上味相(食物を口に入れれば、味の中で最高の味を得ることができること)27 大舌相(広長舌相ともいう。舌が大きく、口に出せば顔の一切を覆い、髪の生え際にいたること、しかも口の中では口中を満たすことはない)28 梵声相(梵天王の五種の声のように、声が深く、遠くまで届き、人の心の中に入り、分かりやすく、誰からもきらわれないこと)29 真青眼相(良い青蓮華のように、目が真の青色であること)30 牛眼睫相(牛王のように、睫が長好で乱れないこと)31 頂髻相(頭の頂上が隆起し、拳が頂上に乗っていること)32 白毛相(眉間のちょうどいい位置に白毛が生じ、白く浄く右に旋って長さが五尺あり、そこから放つ光を亳光という)

 

応身如来

仏の三身の一つ。仏の肉体・または慈悲をあらわす。三大秘法禀承事には「寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』等云云」(1022-09)、総勘文抄には「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0562-01)、四条金吾釈迦仏供養事には「三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、 此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします」(1144-08)等とある。

 

阿僧祇

「阿僧祇」梵語、はアサンキャ(asakhya)の音写では無数。数えることのできない長い間の意。

 

講義

 

本抄は、建治2年(1276)閏35日、大聖人が55歳の時、身延において書かれたお手紙である。

対告衆の妙密上人は、鎌倉楅谷に住んでいた方で、詳しいことは明らかでないが、本抄から、夫婦共ども真剣に信心していたことがうかがえる。

このお手紙は、まず青鳧五貫文を御供養されたことに対して、人に食を施す三つの功徳について述べられている。

次に、日本に仏教が伝来した経過、末法に三大秘法の南無妙法蓮華経の題目が必ず広宣流布していくことを述べられて、後半の部分は、大聖人が末法に出現し、題目を流布していくことによって、経文の予言通りに数々の大難を受けられたが、これこそ大聖人が末法の御本仏であるとの証拠であると宣言され、広宣流布への大確信を述べられている。

第一章では、御供養への謝辞を述べられ、続いて、五戒をはじめとして、一切の諸戒の根本は、不殺生戒であることを明かしている。

このことは、この世に存在するものの中で、生命にまさる財はないということであり、それ故に、生をあわれむしるしに、施食を修することの三つの功徳を述べられている。

 

上大聖より下蚊虻に至るまで命を財とせざるはなし。これを奪へば又第一の重罪なり。如来世に出で給いては生をあわれむを本とす

 

妙密上人の供養によせて、命というものがいかに大切であるかを述べられている。

人間一人の命は、地球の重さより重いといわれている。いかに科学技術が発達し、医学が長足の進歩をとげても、人間の命を創り出すことはできない。

仏法は、人間や動物のみにとどまらず、草木や石等に至るまで「生命」としてとらえ、無思慮に破壊することを戒めている。仏法が生命尊厳の思想であることは論をまたない。

ただ、生命を尊いものと考えることと、生あるものを殺さないこととは、次元を異にして考えなければならない。人間が生を維持していくためには「食」をとらなければならないのは事実であり、動物を殺したり、植物を摘み取ったりしなくてはならない。それを、一切の生きものは殺してはいけない、などと考えると、精密な自然の生態系を破壊し、何よりも人類が生き延びていくことが不可能になる。かつて犬を人類以上に尊厳視し「お犬さま」と呼んで殺すことを禁じた徳川綱吉の例は、様々な悲喜劇を生んだが、仏法の精神の誤った理解の最たるものといえよう。

仏法においては、生物を絶対に殺してはならないといっているのではない。ではどうすることが真実の生命の尊厳になると説いているのか。その考え方の本質を、本抄では「生をあわれむ」と表現されている。つまり「殺す」ことがいけないのではなく「殺す心」がいけないのである。

動物の食うか食われるかの世界を、よく「弱肉強食」という。しかし、食べられるほうが弱く、食べるほうが強いとか、草食動物はおとなしいが、動食動物は獰猛だとかいう考え方は、彼我の力関係のみをとらえているきらいがある。生態学的発想からみれば、それぞれ生を保つために「共存」しあっているのであり、草木は大地より栄養を、草食動物は草木より、肉食動物は草食動物より栄養を得るのであり、動物といえどもまた大地に還って栄養分となる。その考え方をせんじつめれば肉食動物より大地の微生物は強く、草木はそれより上位に位することになってしまう。そうしたナンセンスを認めまいとすれば、弱肉強食的な把握の仕方を変えなければならないことが理解できよう。

動物の世界にあっては、そのほとんどが、同じ種族の動物は殺し合わない。まれに食物が欠乏するとき共食い現象が起きることがあるが、それさえも種族保持の大前提に立っているのであり、人間のように憎しみで殺し合ったりすることは絶対にないのである。自然界の生殺与奪の権を握っているのが人間であることを考えれば、自然の精密な生態系を破壊することなく「生をあわれむ」ことが、いかに大切な義務であるか知れよう。その人間がその使命を忘れて殺戮しあい、自然を破壊し、動物を駆逐しているのは、仏法の教えに背いた逆罪以外のなにものでもない。

殺生とは、生あるものを殺すことであるが、単にそれだけに止まるのみでなく、自然破壊にみられるように〝生命の環〟を破るような動植物の無益な犠牲を求めることも含めていえるのである。

人間は自然界のこの共存の環の中に入り込んで生きているのであり、人間が生きていくためには、他の生き物との共存がなければならない。この根本的な事実に無関心、無反省であれば、それを当然のごとく思うようになり、生命軽視となるのである。それは結局、自然界による復讐を受け、人間自身を苦しめることであり、生命軽視の風潮が、公害問題となって人類の生存をも脅かしている状態なのである。

公害は、自然破壊から生命破壊へと立ち至るものである。人間と自然とは相対立して存在しているのではなく、共に一体不二の生命体である。したがって、自然を破壊するということは、自らの生命を破壊していることになるという認識が確立されなければならない。

 

人に食を施すに三の功徳あり

 

衣食住が人の生活の基本となるものであることは論をまたないが、なかでも「食」は、それを欠くことが生命を維持することを不可能にするうえで、最も基盤となることは疑いない。日蓮大聖人は、この「食」を施す功徳を三つ挙げ、人界・天界における果報と、仏界の果報に配して解説しておられる。

まず三つとは「命をつぐ」「色をます」「力を授く」である。「命をつぐ」とは生命をたもつことである。「色をます」とは色艶を増す、つまり生き生きとした肉体となること、「力を授く」とはその内面に築かれるエネルギーのことである。エネルギーといっても物理的なそれにとどまらず、知恵の力なども含まれよう。ここでは食を施すことがそのまま自らの生命に食を施す、つまり自身の「命をつぐ」「色をます」「力を授く」となる、ととらえていることに注目しなければならない。

人界・天界、つまり日常の生活空間のなかで、この功徳はどのようにあらわれるであろうか。やはり「命をつぐ」は、長生きすることとあらわれるであろう。「色をます」とは三十二相を具足することであると説かれている。三十二相は仏の具する相貌であるが、転輪聖王など王中の王は三十二相を具足するとされている。三十二相を具足すること自体、色相荘厳の釈迦仏法の考え方であり、凡夫即極の日蓮大聖人の仏法からみれば浅薄な志向だが、ここでは、凡夫そのままの肉体のなかに自らそなわる尊さ、魅力も含めて考えるべきである。人間離れした容貌をいうのでなく、生命力の湧現と共に自然にあらわれる健康美、若々しい輝きこそ、人間として得難い相貌であるといえるのではなかろうか。「力を授く」とは、内面的な力である。「威徳の人と成りて眷属多し」とあるごとく、人を納得させずにはおかない内面からの威厳と、信頼するに足る徳を秘めた人は、人々から信望を集めることができるのである。

仏身の果報でいえば「命をつぐ」は生命自体であり法身如来である。仏の生命は宇宙と等しい境涯であり「其の身虚空と等し」い。「色をます」は仏身の姿、形、また振る舞いであり応身如来となる。具体的な例としては釈迦如来が示した姿である。「力を授く」は仏の智慧であり、報身如来となる。「食を施す」つまり生命を守り慈しむ行為は仏道修行の根幹となるものであり、究極的には三身即一身の仏身とあらわれるのである。

 

 

第二章(仏法渡来の当初を示す)

 

本文

されば日本国には仏法の始まりし事は天神七代・地神五代の後・人王百代・其の初めの王をば神武天皇と申す、神武より第三十代に当りて欽明天皇の御宇に百済国より経並びに教主釈尊の御影・僧尼等を渡す、用明天皇の太子の上宮と申せし人・仏法を読み初め法華経を漢土より・とりよせさせ給いて疏を作りて弘めさせ給いき、それより後・人王三十七代・孝徳天皇の御宇に観勒僧正と申す人・新羅国より三論宗・成実宗を渡す、同じき御代に道昭と申す僧・漢土より法相宗・倶舎宗を渡す、同じき御代に審祥大徳・華厳宗を渡す、第四十四代・元正天皇の御宇に天竺の上人・大日経を渡す、第四十五代・聖武天皇の御宇に鑑真和尚と申せし人・漢土より日本国に律宗を渡せし・次でに天台宗の玄義・文句・円頓止観・浄名疏等を渡す、然れども真言宗と法華宗との二宗をば・いまだ弘め給はず、

現代語訳

そこで、日本国の仏法の始まりについていうと、天神七代、地神五代の後、人王百代その初めの王を神武天皇という。その神武天皇から第三十代の欽明天皇の御代に、百済国から経文並びに教主釈尊の御影像と僧尼等が共に渡された。第三十一代用明天皇の第二皇子である上宮太子(聖徳太子)という人は、仏法を読みはじめ、法華経を中国から取り寄せ、法華経義疏等を著わして仏法を弘めたのである。それから後、人王第三十七代、孝徳天皇の御代に観勒僧正という人が、新羅国から三論宗・成実宗を日本へ伝えた。

同時代に道昭という僧が、中国から法相宗・倶舎宗を伝えた。また同時代に新羅国の審祥大徳が華厳宗を伝えた。

第四十四代元正天皇の御代に、インドの上人である善無畏三蔵が大日経を伝えた。第四十五代聖武天皇の御代に鑑真和尚と云う人が、中国から日本へ律宗を伝え、そのついでに天台宗の法華玄義、法華文句、摩訶止観、浄名疏等を伝えたのである。しかし、真言宗と法華宗の二宗はまだ弘めなかった。

 

語釈

天神七代

地神五代より前に高天原に出た七代の天神。陽神(男神)と陰神(女神)がある初めは抽象的だった神々が、次第に男女に別れ異性を感じるようになり、最終的には愛を見つけ出し夫婦となる過程をもって、男女の体や性が整っていくことを表す部分だと言われている。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。

 

地神五代

日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。

 

人皇百代

神武天皇以降の100代の天皇。八幡大菩薩は100代の王を守護するとの誓いを立てている。

 

神武天皇

第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。

 

欽明天皇

(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(055210月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。

 

百済国

古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。

 

用明天皇の太子の上宮

聖徳太子のこと。(05740622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。

 

障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。

 

孝徳天皇

05960654)は、日本の第36代天皇(在位06450654)。諱は軽。和風諡号は天万豊日天皇。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(大化改新)などを含めて難波朝という別称で称されることがあった。

 

観勒

百済の僧。生没年不詳。推古10年(0602)来朝し,暦本、天文地理書などをもたらした。同32年(0624)、日本で初めて僧正の位に任ぜられ、元興寺について仏法を弘めた。三論・成実の学問に通じていた。

 

道昭

06290700)。日本法相宗の開祖。河内国丹比郡に生まれ、元興寺に入って出家、白雉4年(0653)、遣唐大使にしたがって入唐。慈恩寺を訪れ、玄奘に師事し法相の教えを受ける。窺基とも交わり、恵満について禅も学んだ。斉明天皇6年(0660)に帰朝、元興寺に禅院を建立、法相宗を弘め、諸国をまわって慈善事業に励む。文武天皇4年(07003月寂。遺命によって遺骸を荼毘に付したが、これは日本における火葬の初めといわれる。

 

審祥大徳

新羅人とも新羅への留学僧ともいわれる。入唐して法蔵に華厳を学び、天平のころ帰国して良弁らとともに華厳宗を弘めた。日本華厳宗の初祖とされる。

 

元正天皇

06800748 奈良時代の第44代天皇。女帝。在位、霊亀元年(071592日~ 養老8年(0724)。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高・日高、又は新家。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。

 

天竺の上人

インドの徳のすぐれた僧侶。

 

聖武天皇

0710-0756)第54代天皇。大宝元年(0710)生まれ。和銅7年(0714)元正天皇の皇太子となり、神亀元年(0724)即位。在位25年にして天平感宝元年(07497月、位を皇太子に譲り、みずからは太上天皇と称した。天平勝宝8年(07565月逝去。奈良市法蓮町にある佐保山南陵がその墓である。聖武天皇は深く仏法を信じ、諸国に国分寺・国分尼寺を建て、みずから経文を書写して各寺に納められた。また東大寺を建立して総国分寺とし、丈六の廬舎那仏を鋳造した。こうした仏教興隆によって美術工芸がいちじるしく発達を示し、いわゆる天宝文化となって開花した。

 

鑑真和尚

06880763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。

 

玄義

法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。

 

文句

天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10870枚にわたって解釈している書。

 

円頓止観

天台大師の説いた三種止観のひとつ。法華経を根本にした観法で、修行の段階や能力の差にかかわらず、直地に順一実相を対象として、実相の他に別の法なしと体得する止観のこと。妄念を止め、心を特定の対象に注ぐことを「止」といい、止によって智慧を起こし対象を観ることを「観」という。摩訶止観に体系化して説かれている。

 

浄名疏

維摩経疏のこと。天台大師の撰述に「維摩経玄疏」「維摩経文疏」があり、天台大師の維摩経疏を構成している。玄疏では維摩経の玄旨を五重玄をもってあらわし、文疏では各品を解釈している。のちに妙楽大師が文疏を圧縮し維摩経略疏を著し、天台学の重要な教典となった。

 

講義

本章は、日本国への仏法並びに諸宗の伝来について述べられている。

欽明天皇の時、百済国より経文並びに教主釈尊の御影・僧尼等が渡来、ついで、聖徳太子の仏法尊崇、三論・成実二宗の伝来、法相・俱舎二宗の伝来、華厳宗の伝来、大日経の伝来、律宗並びに天台三大部の伝来等々である。仏法の伝来については、非公式にはそれより早く伝わっていたと推察されるが、ここでは公伝の説に依られている。

 

 

第三章(伝教、天台・真言を修学する)

本文

人王第五十代・桓武天皇の御代に最澄と申す小僧あり後には伝教大師と号す、此の人入唐已前に真言宗と天台宗の二宗の章疏を十五年が間・但一人見置き給いき、後に延暦二十三年七月に漢土に渡り・かへる年の六月に本朝に著かせ給いて、天台・真言の二宗を七大寺の碩学数十人に授けさせ給いき、

現代語訳

人王第五十代桓武天皇の御代に最澄という小僧がいた。後に伝教大師と号した。

この人は、中国に渡る以前に真言宗と天台宗の二宗の章疏を十五年間にわたって、ただ一人研究されたのである。後に延暦二十三年七月に中国へ渡り、翌年六月に日本へ帰られて、天台、真言の二宗を七大寺の博学の僧数十人に授けられたのである。

 

語釈

桓武天皇

737806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。

 

最澄

07670822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

二宗の章疏

天台宗と真言宗の三大部の注釈書。

 

七大寺

南都(奈良)の七大寺のこと。東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七か寺をいう。

 

講義

最澄により、天台、真言の二宗が渡来し、伝教は南都七大寺の碩学にこれを授けた。

伝教が天台仏法と共に真言宗を学んだことについては、当時、天皇をはじめとして密教への関心が強く、密教を学ぶことが、仏教者として一種の必須条件となっていたことによる。伝教も、その例にならって真言密教を修め、その結果、法華経こそ最も根本の成仏の法であるとの結論に達したのである。

しかしながら、空海の巧みなやり方によって真言密教が急速に弘まるにつれて、伝教の後継者もまた、法華最第一の本義を忘失し、真言に傾いてしまったことは残念という以外にない。

 

 

第四章(題目の末弘を教示する)

本文

其の後于今四百年なり、総じて日本国に仏法渡りて于今七百余年なり、或は弥陀の名号或は大日の名号・或は釈迦の名号等をば一切衆生に勧め給へる人人はおはすれども、いまだ法華経の題目・南無妙法蓮華経と唱へよと勧めたる人なし、日本国に限らず月氏等にも仏滅後一千年の間・迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等の大論師・仏法を五天竺に弘通せしかども・漢土に仏法渡りて数百年の間・摩騰迦・竺法蘭・羅什三蔵・南岳・天台・妙楽等・或は疏を作り或は経を釈せしかども・いまだ法華経の題目をば弥陀の名号の如く勧められず、唯自身一人計り唱へ・或は経を講ずる時・講師計り唱る事あり、然るに八宗・九宗等其の義まちまちなれども・多分は弥陀の名号・次には観音の名号・次には釈迦仏の名号・次には大日・薬師等の名号をば・唱へ給へる高祖・先徳等はおはすれども・何なる故有りてか一代諸教の肝心たる法華経の題目をば唱へざりけん、其の故を能く能く尋ね習い給ふべし、譬えば大医の一切の病の根源・薬の浅深は弁へたれども・故なく大事の薬をつかふ事なく病に随ふが如し。

  されば仏の滅後正像二千年の間は煩悩の病・軽かりければ一代第一の良薬の妙法蓮華経の五字をば勧めざりけるか、

 

現代語訳

その後今日まで四百年になる。総じて日本国に仏法が伝来してから今日まで七百余年になる。その間、ある時は阿弥陀如来の名号を、ある時は大日如来の名号を、ある時は釈尊の名号等を唱えなさいと一切衆生に勧めた人々はいたけれども、いまだかつて法華経の題目である南無妙法蓮華経を唱えなさいと勧めた人はいないのである。

日本国に限らずインド等にも釈尊滅後一千年の間、迦葉、阿難、馬鳴、竜樹、無著、天親等の大論師が仏法を全インドに弘通したけれども、また中国に仏法が渡って数百年の間、摩騰迦・竺法蘭、羅什三蔵、南岳、天台、妙楽等があるいは疏をつくり、あるいは経文を解釈したけれども、いまだに法華経の題目を阿弥陀の名号のように勧めることはなかった。 ただ自分一人だけで唱え、あるいは法華経を講義する時、その講師だけが唱える事はあった。しかし、八宗九宗等、その教義はまちまちであるが、その多くは阿弥陀の名号を唱え、次には観音の名号を唱えたり、次には釈迦仏の名号を唱えたり、次には大日如来、薬師如来等の名号を唱えた高祖や先徳はいたけれども、どんな理由があってか釈尊一代諸教の肝心である法華経の題目だけは唱えなかったのである。その理由をよくよく求め学ぶべきである。例えば名医が一切の病の根源や薬の効能の浅深はわきまえていても、やたらと大事な薬を使う事はしないで病気によって使い分けるようなものである。

故に釈尊滅後正像二千年の間は、煩悩の病も軽かったので、釈尊一代のうちの第一の良薬である法華経二十八品の肝心・妙法蓮華経の五字を、人々に勧めなかったのであろうか。

 

語釈

弥陀の名号

南無阿弥陀仏と唱えること。

 

釈迦の名号

南無釈迦牟尼仏と唱えること。

 

迦葉

釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある

 

阿難

梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。

 

馬鳴

梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoa)の漢訳。付法蔵の第十二番目の伝灯者。一世紀から二世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」1巻なども馬鳴の作といわれている。

 

竜樹

梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

 

無著

「無著」は梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など837巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。

 

天親

天親菩薩ともいう。生没年不明。45世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。

 

五天竺

インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。

 

摩騰迦

迦葉摩騰、摂摩騰ともいう。中天竺の人で、よく大・小乗経を解した。西インドにいったころ、一小国王のために金光明経を講じて敵国の侵害を防ぎ、大いに名をあらわしたといわれる。後漢の明帝の請をうけ、竺法蘭と共に中国に入ってからは四十二章経などの翻訳をし、また、洛陽に特に建立された白馬寺で中国仏教開宣の端をひらいた。

 

竺法蘭

中天竺の僧で後漢の明帝の請をうけ、竺謄迦と共に中国に入って仏法を伝えた。

 

羅什三蔵

03440409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409820日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。

 

南岳

中国、南北朝時代末期の僧。名は慧思。慧文について法華三昧を体得した。大蘇山(河南省)に拠ったとき、智顗(天台大師)に法華経・般若心経を講じた。晩年に南岳衡山(湖南省)で坐禅講説に努め、南岳大師といわれた。

 

天台

05380597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

妙楽

07110782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。

 

講義

 

或は弥陀の名号、或は大日の名号、或は釈迦の名号等をば、一切衆生に勧め給へる人人はおはすれども、いまだ法華経の題目南無妙法蓮華経と唱へよと勧めたる人なし

 

日蓮大聖人当時は、念仏宗をはじめとして真言宗、禅宗等の宗教が流行し、それぞれの教義にしたがって阿弥陀如来の名号や大日如来の名号を唱えていた。それに対して大聖人は釈尊一代の説法の本懐である法華経の題目をもって末法の所詮とされたのである。

本文中に「或は釈迦の名号」とあるが、釈迦の名前を唱えるのは僧侶のごく一部で、一般庶民はほとんど口にすることさえなかったと思われる。仏教の各経典に説かれる諸仏の名を唱えることはあっても、その教主たる釈尊が忘れ去られているというのは随分と奇妙なことである。その故、大聖人は当時の社会に、まず釈尊、法華経を宣揚する戦いから始めなければならなかった。大聖人の弟子檀那のなかに釈迦如来の像を供養する人がいても、それを素晴らしいことだとしてほめたたえられたのはそのためである。日寛上人は、一宗の弘通の始めであることを理由の一つとして挙げられている。

しかし大聖人の御本意は種脱相対にあることは、この段からもうかがわれるのである。つまり釈尊の名号を唱えることも、阿弥陀、大日の名号を唱えることと同列に置いておられるということである。法華経の題目を唱えられるということは、一応は釈迦仏法の範疇である法華経に従っておられるようであるが、単なる法華経の「表題」ということとは意味が違うのである。

つまり法華経の題目は、表題であると同時に、法華経の「肝心」であるからである。曾谷入道殿御返事にも「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり云云」(1058:08)とある通りである。

「表題」「題名」は本来、その書の内容、表図するところのものを一言にしてあらわしているものであるが、法華経の題目は、法華経二十八品の意図するところのもの、説かんとするところの原理を一言にして表現したものである。まさに「一句万了の一言」ともいうべきものであろう。いわば二十八品は憲法でいえば条文であり、題目はそのあらわさんとする基本的人権の尊重の精神であるようなものである。「法華経の説かんとするもの」「法華経の目指すところのもの」は、もはや法華経を超えたものである。法華経の題目は法華経を超越しているのである。

大聖人は、先師が法華経の題目を自身ばかり唱え、あるいは講義をする際に唱えたと述べておられるが、これも大部分は種脱相対した観心のうえで唱えたものというより、釈尊極説の法華経を尊重する意であろうかと思われる。他宗の僧であってさえ、法華経を、釈尊の遺言の経典であり、また釈尊の永遠性をあらわした尊い経として崇重する風潮があったのである。

なお、名号ということに関しては、それまで唱えられていたものが阿弥陀や大日、薬師如来や観音、釈尊というように、全て仏身に対する帰命であり、大聖人に至って初めて帰命の対象が「法」となっていることに注目しなければならない。もちろん仏は「尊極の衆生」であり、人間革命の先達である。尊極するのは当然であろう。しかし仏陀は本来、「覚者」の意であり、宇宙根源の「法」を覚った人をいうのである。したがって仏を、法を離れた存在としてのみ捉えたとするなら、それは仏の本義を忘れるものといってよい。

のみならず、仏身を尊崇するのあまり、後世に至って、仏は人格を超越した存在として受け取られ、「尊極の衆生」という概念は薄れてしまった。仏は荘厳の度を重ね、神格化されて、衆生に縁のない偶像に変化していったことは、歴史に見るところである。仏教が、人間革命の宗教でなく、仏の慈悲にすがる他力本願の宗教に堕していったのは、ここにも因があるといえよう。

日蓮大聖人が法華経の肝心である題目を本尊とされたことは、いうなれば仏教の本来の精神に戻ったことでもある。釈尊といえども苦悩する人間であり、その苦悩の極致に、人間生命に関する覚りを得た。その悟りを被瀝した法華経こそ、万人の帰依すべき対象であろう。仏身に帰依する仏教から根源の法に帰命する仏教へと転回した段階から、仏教は初めて、偶像崇拝の神秘的宗教から生命哲学としての高等宗教へと昇華したともいえるのではなかろうか。大聖人の立宗宣言はその意味でも、仏教の歴史的転回をなさしめた一大宣言であったのである。

 

 

第五章(題目流布の時を明かす)

本文

今末法に入りぬ人毎に重病有り阿弥陀・大日・釈迦等の軽薬にては治し難し、又月はいみじけれども秋にあらざれば光を惜む・花は目出けれども春にあらざればさかず、一切・時による事なり、されば正像二千年の間は題目の流布の時に当らざるか、又仏教を弘るは仏の御使なり・随つて仏の弟子の譲りを得る事各別なり、正法千年に出でし論師・像法千年に出づる人師等は・多くは小乗・権大乗・法華経の或は迹門・或は枝葉を譲られし人人なり、いまだ本門の肝心たる題目を譲られし上行菩薩世に出現し給はず、此の人末法に出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中・国ごと人ごとに弘むべし、例せば当時・日本国に弥陀の名号の流布しつるが如くなるべきか。

 

現代語訳

今は末法に入っている。人はそれぞれみな重病にかかっている。その病は阿弥陀如来、大日如来、また釈尊等の軽い薬では治すことは難しい。月は素晴らしいけれども秋でなければ光が冴えないし、花は美しいけれども春でなければ咲かない。全てのものは、時によるのである。故に正像二千年の間は題目の流布する時に当たっていないのであろう。また仏教を弘めるのは仏の御使である。したがって弟子が仏から譲り受ける法門が、めいめい異なるのである。正法千年に出現した論師、像法千年に出現した人師達は、その多くは、小乗教や権大乗教または法華経のあるいは迹門、あるいはその他の枝葉を付嘱された人々である。まだ法華経本門の肝心である題目を付嘱された上行菩薩は世に出現されていない。この上行菩薩は末法に出現して、妙法蓮華経の五字を世界中の国ごと、人ごとに弘めるのである。例えば、今、日本国に阿弥陀の題目が流布しているようになるのである。

 

語釈

末法

正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

 

釈迦等の軽薬

ここでは、法華経の題目に対していわれている。種脱相対からすれば、文上の釈尊も軽薬となる。

 

論師

阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。

 

人師

人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。

 

上行菩薩

法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第16の説法の後に、法華経如来神力品第21で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱したことをいう。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

講義

本章は、仏法の流布は全て時により、弘教は仏から譲りを受けた人によることを明かし、末法流布は、上行菩薩の出現に待つものであると述べられている。

 

一切時による事なり。されば正像二千年の間は題目の流布の時に当らざるか

 

全て一切のものは「時」によるとあるように、まず仏法においては最も「時」を重要視するのである。撰時抄に「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(0256:01)と。また如説修行抄には「されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる春種子を下して秋菓を取るべし秋種子を下して春菓を取らんに豈取らる可けんや」(0503:08)。「仏法も亦復是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり」(0503:11)とある。

これらの文の一節には、仏法を弘通する者の最も心得るべきこととして「時」の重要性が述べられている。つまり、その時代を知り、また時代を転換させる法とは何であるかを知らなければならない。現代をどうとらえ、その中でどのように生きるかを思索し、実践の方途を考えるならば、おのずから仏法流布の方程式として「時」を知る必要が出てくるのである。

このように仏法が「時」を重視しているところに、仏法の時代、社会に対する柔軟性がうかがわれる。宗教といえば、中世キリスト教の異端裁判にみられるように、教義をかたくなに守り、新しい知識、価値観の転換、時代の変化を受け入れることを拒む代表のように考えられがちである。しかし、少なくとも仏法においては、教条主義に陥ることを強く戒めており、時代、社会の動向を見極め、人々がいかにすれば正しい認識を持つかを念頭におくことを考慮している。もちろん、宗教の根本教義を変更したり、解釈を歪めたりすることはあってはならない。しかし、その教義をいかに実践するか、どう展開するかは、時代の推移と共に変わるものであり、柔軟に処していくべきである。かえって、古い形式をいつまでも押し付け、枠の中にはめようとすることが、根本教義の精神を失わせることにもなりかねない。釈尊以後の仏教が、いわゆる教条主義に陥り、大衆との離反現象が起こったとして大乗復興運動が展開され、大乗仏教が広く用いられるようになったのも、仏法にそうした土壌があるからだといえよう。「随方毘尼」という戒も、仏法の根本教義に違背しない限り、各地方の風習にしたがってよいと考えており、これなども、仏法の柔軟性を示していよう。このように「時」を洞察し、賢明に仏法の根本精神を生かしていく姿勢があったからこそ、何千年という長い間、またさまざまな風俗、習慣を超えて仏法が伝播していったのであり、この点においても、仏法が世界宗教たる条件をそなえていることが知れよう。

したがって、仏法を弘める運動は、決して一時的なもので終わるのでなく、長い将来にわたって続けられるであろうが、その際、心がけなければならないのは、この「時」ということであろう。日蓮大聖人の仏法の根本精神にはあくまでも純粋、厳密に、しかしその展開、応用にあっては、大いに随縁真如の智を発揮していかなければならない。ただ、一切が時によるといっても、座して時を待ったり、時代のなすがまま、社会の動向に身をゆだねよ、ということではあるまい。時代の本質を洞察し、把握しながら、なおかつ新しい時代、社会を創り出していく努力がなされなければならないことを銘記したいものである。

 

此の人末法に出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中国ごと人ごとに弘むべし。例せば当時日本国に弥陀の名号の流布しつるが如くなるべきか

 

大聖人が広宣流布の確信を披瀝された御文である。しかも、この御文のなかに、広宣流布に対する明確なビジョンを持たれていたことを読み取ることができる。つまり、広宣流布を、実現不可能な、完全無欠のユートピアとして考えられたのではなく、実現可能な、というより現実に大聖人の御在世の時に既に現われている様相を例として考えておられたということである。夢物語を掲げることは易しい。しかし常に理想と現実のギャップがあり、遂には挫折してしまうことにもなる。それを力づくでも埋めようとすれば、勢い武力、権力に頼らざるをえなくなり、そこから理想は無残に壊れていくものである。

大聖人は広宣流布のモデルとして、当時の念仏の流布の姿を挙げておられる。大聖人が「国ごと人ごと」といわれていても、決して全員が念仏の信者であったわけではない。しかし、念仏のものの考え方、末世思想、穢土をきらう風潮が社会に色濃く浸透していた。なにか天災地変が起こると、そうした念仏の諦観思想を結びつけて考えたのである。社会全般、文化の全てにそうした発想が行き渡っていたといえる。これはいわば念仏思想の広宣流布である、と大聖人は考えられたのである。その故に民衆が苦しみの極にあえいでいる。今、社会全体が念仏の思想にとらわれている故に、不幸の上に不幸が重なっているのであり、社会全体が妙法の哲理を根本にしないかぎり、社会の宿命転換はありえないと、大聖人は立正安国論で叫ばれたのであった。

広宣流布とは、一国全部が信心をしなければならないと権力によって強制したり、憲法の条文に明記したりすることでは決してない。それではかえって宗教の堕落をもたらすであろう。社会の根底に、文化の諸分野のなかに大聖人の仏法の考え方が、動かしがたい強さで浸透していることが広宣流布のあるべき姿であろう。教育も生命尊厳の思想に貫かれ、政治も人間主義に徹していく。科学の発達も人類全体、地球全体の調和ある発達を考慮して進められるとき、それが広宣流布の姿であるといってよい。そうした根強い侵透は、決して上からの強制によってなされるものではあるまい。その故にこそ、大聖人は一対一の折伏行を根本にされたのである。

この御文は他の御書にもみられ、撰時抄には「但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258:15)といわれている。ここでは、世界広布も、この方程式で進めるべきことが示唆されている。こうした御文をみても、日蓮大聖人の仏法が、権力革命を目指すものではなく、文明の一切の根底にある思想の地道な革命にその目的を見いだされていたことがわかるのである。

 

 

第六章(末法に大法を弘める人を明かす)

本文

然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず・持戒破戒にも闕て無戒の僧・有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり、何にしてか申し初めけん・上行菩薩の出現して弘めさせ給うべき妙法蓮華経の五字を先立て・ねごとの様に・心にもあらず・南無妙法蓮華経と申し初て候し程に唱うる者なり、所詮よき事にや候らん・又悪き事にや侍るらん・我もしらず人もわきまへがたきか、

 

現代語訳

ところが日蓮は、いずれの宗も元祖でもない。またその流れを汲むものでもない。持戒破戒の者でもなく、無戒の僧であり、有智、無智という概念からもかけ離れた牛羊のような者である。それがどういうわけでいい始めたのか、上行菩薩が出現して弘められるべき妙法蓮華経の五字を、その出現に先立って寝言のように心にもなく南無妙法蓮華経と申し始めたように唱えているのである。所詮、このことはよいことであろうか。また悪いことであろうか。私自身も知らないし、人も判定はできないであろう。

 

語釈

持戒

「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。

 

破戒

「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。

 

無戒の僧

戒律を受けていない僧侶のこと。

 

有智無智

智慧ある者と智慧のない者。ただし仏教でいう智慧の有無は、世間でいう賢愚と次元を異にする。すなわち仏道を修め、仏法に通達解了した人が真の有智の人であり、世間で知識が豊富であっても、人生を真に解決する仏法の智慧がなければなお無智に属する。

 

講義

ここでは、日蓮大聖人が、自らの立場を一往、表面的には謙遜されつつ、しかも、再往、大聖人の胸奥には、御本仏としての確信に満ちみちて、妙法蓮華経の五字を初めて唱える者であると述べられている。

 

日蓮は何れの宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず。持戒破戒にも闕けて無戒の僧、有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり

 

一往は、日蓮大聖人の謙遜の意と拝するが、最往は、凡夫即極の御本仏の確信を示されたものと拝することができる。

すなわち「何れの宗の元祖にもあらず」とは日蓮大聖人御自身はいずれの宗派にも属さず、むしろそれらを超えた立ち場であり、宇宙生命の本源の法を自ら悟られた御本仏であるとの宣言であるといえよう。

総勘文抄に「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給い」(0568:13)とある。「釈迦如来五百塵点劫の当初」とは久遠元初の日蓮大聖人の自解仏乗である。しかも、この妙法は、三世十方の諸仏の能生の根源であり、また帰趨するところでもある。したがって、いかなる宗の末葉でもあるわけがない。またこのことは、権力と結びついた既成宗教と異なり、権力とは無縁の、一切衆生の救済者の確信を抱いておられた言葉であるとも拝せよう。

次に「持戒破戒にも闕けて無戒の僧」とあるが、無戒の僧について考えてみたい。

無戒とは、戒を受けないものをいい、釈迦仏法においては戒がまずあり、それを持つか破るか、つまり持戒と破戒であったが、大聖人は釈迦仏法の戒を受けない立場をとられるのである。末法無戒である。

南条兵衛七郎殿御書に「像法千年の後は末法万年なり持戒もなし破戒もなし無戒の者のみ国に充満せん」(1495:02)とある。また、四信五品抄に伝教の文を引いて「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」(0341:12)とあるように釈迦仏法における戒は無意味なものとなる。

四信五品抄に「問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて曰く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(0340:09)と述べられているように、末法の初心の者の仏道修行は布施・持戒等の五波羅密の修行をしてはならない。南無妙法蓮華経と唱えることが、法華経の根本意なのである。したがって、それまでのような釈迦仏法の細かい戒は、末法には必要ないということを「末法無戒」というのである。

しかし、無戒であるからといって、題目さえ唱えていれば、盗みを働いたり、殺生をしてもよいというのではない。これらの戒は全て南無妙法蓮華経に含まれるのである。このことは、我々が唱題し、折伏を行じつつ、よりよい社会人として生きるなかに自然に智慧・精進・忍辱・持戒・布施・禅定等の徳が備わっていることから、おのずとわかるはずである。戒が先にあって、その実践の結果仏果を得るのでなく、根本の妙法をたもつことが第一義であり、それを根本とした人間的努力のなかに、戒の目指すものがあらわれるということである。無量義経に「六波羅蜜は自然に在前し」とあるのは、このことをさしている。

御義口伝には「今日蓮等のい南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり」(0744:第二十此経難持の事:03)とある。

また、教行証御書に「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持って後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持って法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282:10)とあるように、日蓮大聖人の仏法における戒を金剛宝器戒という。二乗や悪人、女人等の成仏をきらわない円満な戒のことであり、ひとたび御本尊を受持したら、必ず成仏することは間違いないという戒である。戒を金剛宝の器に譬えて、金剛のように未来永劫に破失することのない円頓戒をいうのである。すなわち、末法における戒とは、受持即持戒といって、三大秘法の御本尊を受持し、唱題、折伏に励むことのなかに、一切の戒が含まれているのである。

更に「有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者」については、大聖人御自身の境涯を謙遜されつつ述べられていると拝せよう。

有智無智とは、智慧ある者と智慧のない者の意である。一代聖教大意には「有智は舎利弗・無智は須利槃特」(0398:04)とあり、舎利弗は、インド第一の智者として有智の人、須利槃特は三か年に十四字もおぼえられなかった愚者で無智の人の例に挙げられている。ただし仏教でいう智慧の有無は、世間でいう賢者とは次元を異にしている。すなわち、仏法に通じ、出離生死に迷わない人が有智の人である。別言すれば仏道を修め、仏法に通達解了した人が真の有智の人であり、世間でいう智者でも人生の諸問題を真に解決する智慧がなければ、仏法ではなお無智に属する。

法華玄義巻五下に「慧は能く惑を破して理を顕わす。理は惑を破すること能わず。理若し惑を破せば一切衆生悉く理性を具す。何がゆえに破せざる。若し此の慧を得れば則ち惑を破す。故に智をもって乗体と為す」とあり、惑いを破るのは、知識、理論、あるいは理性ではなく、ただ智慧の力である。この智慧を得る道が仏道修行であり、その鍵は「以信代慧」といわれるように、妙法への信にある。

いわゆる知識とは、智慧に入る門であり、いくら知識があっても、それがそのままでは人生の闇を照らす力とはなりえない。真実の智慧とは、三世に通達した仏の智慧である。方便品第二に「其智慧門。難解難入」とあり、この門に入るのは以信代慧といって正法を信ずる以外にないのである。智慧第一の舎利弗も妙法を信じて初めて悟りを開くことができたのであり、逆に愚者の須利槃特も妙法を信じて仏智に到達している。

新池御書に「智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり・己が智慧にて仏にならずと説き給へり」(1443:16)とある。

また、御義口伝上に「三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり」(0725:第一信解品の事:05)とある。末法今時においては三大秘法の南無妙法蓮華経を信受することが、仏智を得る直道である。

大聖人が、有智無智にはずれているといわれているが、一往謙遜のようであるが、もう一重立ち入って考えれば、世間でいう有智や無智の範疇に入らないということであり、また、種脱相対して、釈迦仏法の有智無智に入らない、つまり、天台仏法の智慧と次元を異にすることの表明でもあろう。大聖人こそ法華独一本門の真実の智慧を体得した仏なのである。

「牛羊の如くなる者」との言葉は、大聖人が凡夫即極の御本仏であられるとの仰せとも拝される。日蓮大聖人は、御自身の出生を「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(0891:07)といわれている。

かの釈尊にしてもカピラ国の王子という出生であり、竜樹・天親等の大論師もカースト制度の最高階級である婆羅門の出身であり、中国の天台も、日本の伝教も、全て上流階級の出身であった。しかも、釈尊をはじめ正法・像法時代の正師達は、みな色相荘厳の姿で民衆を化導し、その依処となった。しかし日蓮大聖人唯一人が、当時下賎の身としてさげすまれていた階級から出現された事実は、末法の御本仏と民衆の関係を最も端的に物語っているものである。すなわち、大聖人は凡夫の姿を通して、一切衆生を救済されたのである。

御義口伝下に「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)とある。また、妙法そのものを悟られた御本仏であるが故に「教弥よ実なれば位弥よ下れり」(0339:11)なのである。色相荘厳は、外見をもって衆生を化導しようとするものであり、凡夫の仏はその全生命、哲学をもって救済するのである。位が下がれば下がるほど法は深い。色相が荘厳であることは法の劣ることを示しているといえよう。大聖人が凡夫であると宣明されていることは、その仏法の深さが既成宗教の比でないことの証明でもある。

 

 

第七章(大法受持の至難を述べる)

本文

但し法華経を開いて拝し奉るに・此の経をば等覚の菩薩・文殊・弥勒・観音・普賢までも輙く一句一偈をも持つ人なし、「唯仏与仏」と説き給へり、されば華厳経は最初の頓説・円満の経なれども法慧等の四菩薩に説かせ給ふ、般若経は又華厳経程こそなけれども当分は最上の経ぞかし、然れども須菩提これを説く、但法華経計りこそ三身円満の釈迦の金口の妙説にては候なれ、されば普賢・文殊なりとも輙く一句一偈をも説かせ給うべからず、何に況や末代の凡夫我等衆生は一字二字なりとも自身には持ちがたし、

 

現代語訳

ただ法華経を披見すると、この経は等覚の菩薩である文殊、弥勒、観音、普賢といえども、たやすく一句一偈も持つ人はない。法華経方便品に「ただ仏と仏のみが知る」と説かれている。それゆえ華厳経は釈尊が最初に悟りをそのまま示した円満な経であるけれども法慧等の四菩薩に説かせたのである。般若経はまた華厳経ほどではないけれども、それまでの中では、最もすぐれた経である。しかしながら須菩提が仏に代わってこの経を説いている。ただ法華経だけが三身円満の釈迦如来の金口から出た妙説である。

故に普賢、文殊であっても簡単に一句一偈をも説かれなかったのである。まして末法の凡夫の我等衆生は、たとえ一字二字であっても自身には持ち難いのである。

 

語釈

等覚の菩薩

等覚とは、別教で説かれた菩薩の五十二位のうちの第五十一位。無明を断じた菩薩の最高の位をいう。

 

文殊

文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。

 

弥勒

慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。

 

観音

観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。

 

普賢

普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。

 

唯仏与仏

ただ仏と仏とのみが、真実を究め尽くされているとの意。法華経方便品第2に「唯仏与仏、乃能究尽諸法実相」(唯仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり)とある。

 

法慧等の四菩薩

華厳の会座に来集した諸大菩薩の上首。法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四大菩薩のこと。華厳経は、この他方の菩薩が説法した形になっている。

 

般若経

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

須菩提

梵語スブーティ(Subhūti)の音写。法華経信解品第四に慧命須菩提とある。祇園精舎を供養したスダッタ(Sudatta)長者の弟の子といわれる。釈尊の十大弟子の一人。思索にすぐれ、よく諸法の真理を悟った。解空第一と称される。法華経授記品第六で、名相如来の記別を受けた。

 

三身円満

「三身」とは法身・報身・応身のこと。爾前の経教においては、種々の仏が説かれるが、いずれも娑婆世界でなく他土に住し、始成の仏である。しかも、ただ法身のみであったり、報身のみであったり、応身であったりする。法華経寿量品において、久遠本有常住・此土有縁深厚の三身ともにそなえた釈迦如来が説かれて、はじめて生命の実相一念三千が説き示された。

 

講義

前章の「上行菩薩の出現して弘めさせ給うべき妙法蓮華経の五字」を、末法の凡夫である大聖人が持ち弘めることが、いかに至難の業であるかを道理の上から述べられている。

法華経は、釈尊の出世の本懐であり、仏の悟りを説いたものであるから、仏と仏のみがそれをよく究め尽くすことができるのであって普賢や文殊等の大菩薩といえども、一句一偈も説くことはできない。ましてや、末代の凡夫である我々は、たとえ一字二字たりとも自身に受持することは至難である。

先に「仏法を弘むるは仏の御使なり」とあったように、法華経を弘めるのは、この法華経を説いた仏の使いである。「仏の使い」とは、仏と同じ力をもち仏と等しい資格において世の人々に伝える人でなくてはならない。その観点からみた場合、末代の凡夫は、この資格ある使いというには、あまりにも遠い存在にみえる。

だが、それは、外面の姿である。現実に大聖人およびその門下が、等覚の菩薩すら受持することのできない法華経の題目のこの大法を受持し弘めているのである。この事実のうえから「末代の凡夫我等衆生」が、その本性においては、本化地涌の菩薩であり、更に究極の本地は久遠元初の仏の眷属であることは明らかである。

 

 

第八章(諸宗の祖、法華経の正意を知らず)

本文

諸宗の元祖等・法華経を読み奉れば各各其の弟子等は我が師は法華経の心を得給へりと思へり、然れども詮を論ずれば慈恩大師は深密経・唯識論を師として法華経をよみ、嘉祥大師は般若経・中論を師として法華経をよむ、杜順・法蔵等は華厳経・十住毘婆沙論を師として法華経をよみ、善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ、此等の人人は各法華経をよめりと思へども未だ一句一偈もよめる人にはあらず、詮を論ずれば伝教大師ことはりて云く「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」云云、例せば外道は仏経をよめども外道と同じ・蝙蝠が昼を夜と見るが如し、又赤き面の者は白き鏡も赤しと思ひ・太刀に顔をうつせるもの円かなる面を・ほそながしと思ふに似たり。

 

現代語訳

諸宗の元祖等が法華経を読み奉っているので、それぞれの弟子達は、我が師匠は法華経の肝心を証得されていると思っている。しかし所詮は、慈恩大師は深密経や唯識論を師匠として法華経を読み、嘉祥大師は般若経や中論を師匠として法華経を読んでいる。杜順や法蔵等は華厳経や十住毘婆沙論を師匠として法華経を読んだ。善無畏、金剛智、不空等は大日経を師匠として法華経を読んだ。これらの人々は、それぞれ法華経を読んだと思っていても、まだ一句一偈たりともよんだ人ではないのである。

所詮を論ずれば、伝教大師は注釈して「法華経を讃めていても、かえって法華の心をころす」と。例えば外道が仏経を読んでも、その義を外道と同じものとして理解するようなものであり、蝙蝠が昼を夜と見るようなものである。また赤い顔をした者は、白い鏡でも赤いと思い、太刀に顔を映した者は、丸い顔でも細長いと思うのに似ている。

 

語釈

慈恩大師

06320862)。中国唐代の僧。法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。

 

深密経

解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。

 

唯識論

「ヴィジュナプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」( siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による悟りの成就についての論」の意。世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典をいう。

 

嘉祥大師

05490623)。吉蔵大師の異名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し七年間仕えた。

 

中論

竜樹菩薩の著「中間論」のこと。姚秦の羅什三蔵が訳した427品とし「十二門論」「百論」とともに三論宗の所依である。八不にせよ中道実相の理を説いている。嘉祥は疏10巻をはじめ、元康・琳法師・曇影等の疏がある。

 

杜順

05570640)。中国隋・唐代の人で華厳宗の祖。僧名は法順。俗姓が杜氏であり杜順と通称される。雍州万年(陝西省西安市)の人。18歳で出家し、僧珍禅師について修行し、禅および華厳を究めた。隋の文帝、また唐の太宗の崇敬を受けた。「華厳法界観門」一巻を著わして、専ら華厳を弘め、その弟子・智儼に華厳宗を伝えた。

 

法蔵

06430712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。

 

十住毘婆沙論

全十七巻。竜樹著と伝えられる。鳩摩羅什訳。菩薩の修行段階である十地を広説したものであり、十地毘婆沙論ともいう。

 

善無畏三蔵

06370735)。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。

 

講義

諸宗の元祖等が法華経を読んだといっても、それは、それぞれの依経を師として法華経を読む故に、法華経の肝心を証得することができないと述べられている。

更に、伝教大師の法華秀句下に「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」とある文を引き、それらを破折されている。

 

法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す

 

伝教の法華秀句下、仏説諸経校量勝五の中の文で法相宗の慈恩の邪義を破折した言葉である。

慈恩は著書の「法華玄賛」十巻をもって法華経を讃えながら、「成唯識論述記」および「成唯識論枢要」の中では、法華経に明かされている二乗作仏の法門を方便であるといい、法華経では二乗一闡提の人は成仏できないと邪説を唱えた。また一代五時継図に「慈恩大師の西方要決に云く末法万年に余経悉く滅して弥陀の一教のみと文」(0687:09)とあるように、法華経を誹謗した。

この伝教の破折は、単に慈恩に対するものだけではなく、法華経を持つ者への戒めでもある。日蓮大聖人を信じほめたたえながらその意を失った徒輩の出現をみても、深くこの戒めを銘記しなければならない。日蓮大聖人御入滅後、法華経の本門と迹門に勝劣があるかないかで諍論が起こり、本迹一致を主張した系統が、身延山を総本山とした日蓮宗である。

しかし日蓮大聖人の仏法は五重の相対で明らかなごとく、迹門を劣、本門を勝とするのは明確であり、いくら本門があらわれれば迹門は会入されるといっても本門と迹門が等しくなることはない。絶待妙の立場から用いることはあっても、同じだということではなく、厳然たる違いはあるのである。更にそれら本迹といっても文上であり、文上は劣って文底が勝れる故に、文底下種の南無妙法蓮華経でなければならない。

本尊の雑乱は、日蓮宗各宗派に共通であるが、特に身延派は甚しくて、脱益の釈迦仏を仏宝として大聖人を菩薩と呼び僧宝としている。御義口伝には「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760:第廿五建立御本尊等の事:02)とあり、また「末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)と述べられていることを拝すれば、身延派の誤りは明白である。

日蓮大聖人は、当時の仏教界がみな本尊に迷って、阿弥陀や大日如来を本尊にして拝んでいる状態を徹底的に破折されて、三大秘法の御本尊を建立になり、一切大衆を救護されたのである。故に御本尊に帰依する以外には、真実の成仏得道の道はありえない。

以上の日蓮宗を名乗る各派の他、新興宗教に至るまで、日蓮大聖人の名と題目を掲げているもの全ては、口に題目を唱えていても正義はもはや失われてしまっている。新池御書に「『法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す』等云云、文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども法華の心に背きぬれば還って釈尊・十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり」(1439:04)とある通りの結果になってしまっている。大聖人の仏法を讃嘆しても、その元意を失ってしまえばかえってその心を殺すことになるのである。「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(0919:16)と戒められた御文のままになっていることは悲しいかぎりである。

再往、信心をしている我々の立場であっても、「法華の心を死す」振る舞いがないかどうかは、常々心しなくてはならない点である。広宣流布を推進し、大聖人の仏法を宣揚していく活動のなかで、仏法を讃えているつもりで、かえって大聖人の本意に背いていることがないか、誤解させていくことになってはいないかを自戒しなくてはなるまい。いくら仏法の正しさを訴えるのだといっても、非常識な行動をとったり、いわんや法律を犯すようなことがあるならば、なんの効果ももたらさないばかりか、仏法を破壊していることになる。

このような非常識、仏法破壊の行動の出てくる本源をたどってみると、実は、本当の「信心」ではなく、勝手な我見であったり、仏法とはなんの関係もない考え方であることがほとんどである。「外道は仏経をよめども外道と同じ」と仰せられているように、先入観的な外道の思考に合わせて、歪めて仏法を読んでいるにすぎない。

したがって、一見すると、強盛な信心の発露であるような行動が、その本質は外道の域を出ていないこともありうるのであり、そうした行動が仏法を人々に誤解させ、ひいては仏法を破壊してしまうのである。このことは、仏法を実践するうえに、厳しく戒めていかなければならない問題であろう。

 

 

第九章(賢人・聖人の別を説く)

本文

今日蓮は然らず已今当の経文を深くまほり・一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む、麻の中の蓬・墨うてる木の自体は正直ならざれども・自然に直ぐなるが如し、経のままに唱うれば・まがれる心なし、当に知るべし仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか、又それ他人の弘めさせ給ふ仏法は皆師より習ひ伝へ給へり、例せば鎌倉の御家人等の御知行・所領の地頭・或は一町・二町なれども皆故大将家の御恩なり、何に況や百町・千町・一国・二国を知行する人人をや、賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり、仏滅後・月氏・漢土・日本国に二人の聖人あり・所謂天台・伝教の二人なり、此の二人をば聖人とも云うべし又賢人とも云うべし、天台大師は南岳に伝えたり是は賢人なり、道場にして自解仏乗し給いぬ又聖人なり、伝教大師は道邃・行満に止観と円頓の大戒を伝へたりこれは賢人なり、入唐已前に日本国にして真言・止観の二宗を師なくしてさとり極め、天台宗の智慧を以て六宗・七宗に勝れたりと心得給いしは是れ聖人なり、然れば外典に云く「生れながらにして之を知る者は上なり上とは聖人の名なり学んで之を知る者は次なり次とは賢人の名なり」内典に云く「我が行・師の保無し」等云云、

 

現代語訳

今日蓮はそうではない。法華経こそ已今当において最も難信難解であり最勝であるとの信念を深く守り、一経の肝心である題目を自分も唱え、人にも勧めている。ちょうど麻の中に生えた蓬や黒線を印した木が、それ自体は曲がっていても自然に真っすぐになるようなものである。法華経の教える通りにしたがって題目を唱えているから、曲がった心がないのである。まさに仏の御心が我らが身にお入りにならなければ唱えることはできないであろう。

また、他の人が弘められた仏法は、皆師匠から習い伝えたものである。例えば、鎌倉の御家人の知行や、地頭の所領が一町、二町ほどのものであっても、みな故源頼朝の御恩の故である。ましてや、百町、千町また一国、二国を知行する人達が御恩をこうむっていることはいうまでもない。

世に賢人というのは、よい師匠から習い伝えた人をいうのであり、聖人というのは、師がなくて自ら悟った人をいうのである。仏滅後インド、中国、日本国の三国に二人の師匠が出現した。いわゆる天台大師と伝教大師の二人である。この二人をこそ聖人というべきであり、また賢人ともいうべきである。天台大師はその師南岳大師から教えを伝え受けた。この点では賢人である。また道場において自ら仏乗を悟られた。この面からいえば聖人である。伝教大師は道邃・行満を師として摩訶止観と即身成仏の大戒の教えを伝授された。この面では賢人である。中国に渡る前に、日本で真言宗と天台宗の二宗を師匠なくして悟りきわめ、天台宗の教が六宗、七宗より勝れていると悟られたのは聖人である。

それゆえ外典には「生まれながらにして知っている者は上である、学んでから知る者は次である(次とは賢人の名である)」とあり、仏典には「我が修行には師のたすけがない」と説かれているのである。

 

語釈

已今当

法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。

 

御家人

鎌倉~江戸時代,将軍と主従関係にあった武士 (家人の敬称。鎌倉幕府の御家人は,源頼朝と一般武士との間に発生した個人的御恩奉公の双務的関係から発した私的色彩の強いものであったが,頼朝の東国政権が全国的規模の武士政権である鎌倉幕府に発展したとき,御家人制度は鎌倉幕府の制度として固定した。鎌倉御家人となるためには,根本私領を開発して保有している者が,名簿を将軍にささげ,見参と称して将軍の前に出て御目見し,将軍に忠誠を誓い,将軍からその所領,所職の保障を示す所領安堵の下文をもらわねばならなかった。鎌倉御家人の平時の軍役は,京都大番役,鎌倉大番役,篝屋番役があり,ほかに将軍御所修造役,内裏修造役,舎人・人夫役,社寺修造役,社寺祭礼役などいろいろな臨時の公事、課役などがあった。これらの役を負担できるだけの所領を有していることが,御家人となるべき必要条件であった。しかし西国御家人のなかには守護が交名 (連名書を将軍に差出すだけで御家人となった者もあり,荘園領主,寺社惣官の下文だけで御家人となった者も少くなかった。しかも鎌倉時代初期には惣領だけが御家人であったが,中期以後には独立した庶子も御家人役の負担が可能な者は御家人となった。鎌倉時代は分割相続が原則であったので,御家人領は零細化し,鎌倉時代中期以降には御家人の生活は窮乏していった。南北朝時代にも御家人の称が残っていたが,室町幕府ではほとんど使用されなくなった。江戸幕府では御目見以下の幕臣を御家人と称した。

 

御知行

武士に支給される領地。

 

一町

土地の単位。現在の10,000

 

道場

①仏の常道の場所。②仏道を成するための修行や行教法。③仏道を修行する場所。④仏を供養するところ。⑤寺院のこと。

 

自解仏乗

「自ら仏乗を解す」と読む。教えを受けることなく、自ら仏の境地を解ること。『法華玄義』の章安大師灌頂による序文で、章安大師が天台大師智顗の偉大さをたたえた言葉。「寂日房御書」には「日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」と述べられている。

 

道邃

中国、唐代の天台宗の僧。生没年未詳。諡は興道尊者。妙楽大師湛然に師事。貞元20年(0804)に龍興寺(浙江省臨海市)に住す。同年より翌21年にわたり、最澄と通訳僧であった義真に天台法門を伝えた。道邃が最澄に出会った時の興味深い逸話が「一代聖教大意」に説かれる。天台山国清寺で入寂した。

 

行満

中国、唐代の天台宗の僧。生没年未詳。妙楽大師湛然に師事。天台山仏隴寺に住し、法門を伝持した。貞元20年(08049月から翌月にかけ、最澄に数多の天台学の書籍を与え、天台法門を伝授した。

 

六宗

南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。

 

七宗

南都六宗に真言宗を加えて「七宗」という。

 

外典に云く「生れながら……」(26-妙密上人御消息-9

論語の季氏第十六に「生ながらにして之を知る者ものは上なり、学びて之を知る者は次なり、困みて之を学ぶは又其の次なり、困みて学ばざるは民にして斯れを下と為す」とある。

 

内典に云く「我が……」(26-妙密上人御消息-9

釈尊がまさに涅槃しようとする時、純陀が述べた言葉。大般涅槃経に「一旦に無上世尊を遠離せば、設ひ疑惑当に有りとも復た誰にか問うべき」とある。

 

講義

他宗の元祖達が法華経を読むといっても、我見や他経の考え方を根本にして、歪めて読んだのに対し、大聖人は法華経をその精神のままに正しく読んでいるのだとの仰せである。

「已今当の経文を深くまほり」とは、二つの意味に拝せられる。法師品の「已今当説最為難信難解」の文は、法華経こそ一切経に対し最勝最高であるとの意である。したがって、「已今当の経文を深くまほり」とは、法華経を最高とし、他経と同列に置いたり、まじえたりしないということである。

もう一つは「最為難信難解」であるから、この法華経を受持し弘めるのは至難であり、幾多の障害を乗り越えなければならないのは必定である。したがって、競い起こる障魔を耐え忍び、克服して、受持・弘教していくのだということである。

このように、あくまで法華経を、その精神の通りに正しく受持・実践している故に「法妙なるが故に人貴し」で、「経のままに唱うればまがれる心なし」となる。すなわち正法を根本とすることによって、自身の生命が正しくなり、人間革命されていくのである。

それと同時に、更にこのように正しく正法を受け入れ実践することができるのは「仏の御心の我等が身に入らせ給」うからである。つまり、本来、その生命に仏の生命があるからだともいえる。

この「本来ある」という面と「正法によって正しくなる」という面とが相応じて成仏は達成される。すなわち、一切衆生は、本来、妙法の当体であり、無作三身の仏の生命をもっているのであるが、正法の受持・実践という縁によってこの仏性を顕現し、成仏を実現することができるのである。そして、これを示すために、端的な例として次の〝聖人〟と〝賢人〟の概念を述べられるのである。

 

麻の中の蓬、墨うてる木の、自体は正直ならざれども自然に直ぐなるが如し。経のままに唱うればまがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか

 

世間では「麻畝の性」ということが言われる。麻は真っすぐ伸びる植物であるが、蓬は曲がりがちである。そこで蓬を麻の中に植えてやると、周囲の麻に支えられて、蓬のような草でも真っすぐに伸びるようになる。

「墨うてる木の、自体は正直ならざれども」とは、製材のために墨で木にしるしをつければ、元の木自体は曲がっていても、結局墨の通り真っすぐ切られるので「自然に直ぐなるが如し」といわれたのである。

この二つの例は、よい環境によって悪がただされ、感化されることを示している。そのように「経のままに唱うればまがれる心なし」と、唱える経の甚深の功徳によって、誤った教えに染まった生命も清浄になると述べられている。

ここで「まがれる心なし」とは、世間でいう素直な心というにとどまらない。法華経に説く法理を、そのまま悟り、実践していることを「まがれる心なし」といわれているのである。諸宗の元祖等が法華経を口では読んでも心に読まず、法華経を讃すといってもかえってその心をころしていることになっているのは「まがれる心」の故であり、それと対比されている。仏法の根本をそのまま把握、実践することが「素直な心」の基本である。

また大聖人は、法華経の原理を悟り、題目を唱えることができるのは「仏の御心の我等が身に入らせ給」う故であるといわれている。仏界の生命をあらわすことができるのは、本来、自身の生命の中に仏界を内在せしめる故であり、いかなる人であっても、仏界を本来もっているかぎり、また、題目を唱えることができるとの意でもある。

法華経と爾前経の教理の違いは、仏と衆生との間に格差を設けているかどうかである。行布を存することと久遠が明らかにされていないことが爾前経の失 であるが、行布を存することは生命の境涯に差別を設けてそれを越えがたいものとし仏界と衆生に区別を置いていることである。法華経は十界互具を説いてこの〝行布〟を打ち破ったのであり、また、久遠実成、仏性の常住を明かして、仏果の生命が本来、内に存していることを示しているのである。

衆生の生命に仏界が内在することを説くのが釈尊の本意であったとしても、爾前経では、それをそのまま説いたところで、仏界の尊さを認めるに至らないため、まず仏界の尊貴な姿を示したのである。しかしこのように、仏のみが尊貴で、九界、六道の衆生はどこまでも卑しいとする考え方が仏の本意でないことはいうまでもない。その尊貴な仏の生命が衆生の内に存在していると説いたのが法華経なのである。

この法華経の考え方に立てば、仏といっても決して人間離れした存在でもなく、九界の衆生の最も尊い姿が仏であり、この仏の生命を本来、内に蔵している故に、いかなる人であっても題目を唱えることができる。つまり大聖人の仏法を信ずる生命は、全ての存在にあるのであり、心の奥底では、だれもが大聖人の仏法を願っているといえよう。日蓮大聖人の仏法が金剛宝器戒であり、破らんとしても破れぬ戒だというのは、一切の生命の中に妙法が内在する故に、そこから逃れることはできないということである。

 

 

第十章(真の聖人を示唆する)

本文

夫れ教主釈尊は娑婆世界第一の聖人なり、天台・伝教の二人は聖賢に通ずべし、馬鳴・竜樹・無著・天親等・老子・孔子等は或は小乗・或は権大乗・或は外典の聖賢なり、法華経の聖賢には非ず。

 今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず、然れども法華経の題目の流布すべき後五百歳・二千二百二十余年の時に生れて・近くは日本国・遠くは月氏・漢土の諸宗の人人・唱へ始めざる先に・南無妙法蓮華経と高声によばはりて二十余年をふる間・或は罵られ打たれ或は疵をかうほり或は流罪に二度死罪に一度定められぬ、其の外の大難数をしらず・譬へば大湯に大豆を漬し小水に大魚の有るが如し、

 

現代語訳

教主釈尊は娑婆世界第一の聖人である。

天台、伝教の二人は聖人であると同時に、賢人にも通ずるのである。馬鳴、竜樹は小乗教の聖人賢人であり、無著、天親は権大乗教の聖人、賢人であり、老子、孔子等は外典の聖人、賢人である。法華経の聖賢ではない。

今、日蓮は聖人でも賢人でもない。持戒にも無戒にも、また有智にも無智にもあたらない。しかし、法華経の題目が流布すべき後の五百歳、仏滅後二千二百二十余年を経た末法の時代に生まれて、近くは日本国、遠くは、インド、中国の諸宗の人々が唱え始める前に、南無妙法蓮華経と高声に題目を唱えて、二十余年を経た。その間というものは、あるいはののしられ、あるいは打たれ、あるいは傷を受け、また流罪には伊豆、佐渡と二度あい、更には一度、竜口の法難という死罪に定められたのである。

それ以外の大難は数しれない。例えば、大湯に大豆をひたし、少しの水に大魚をいれたように、いつも生命の危険にさらされていたのである。

 

語釈

娑婆世界

娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。

 

老子

生没年不明。中国周代の思想家。道徳経を著す。史記によると、楚の苦県の人。姓は李、名は耳、字は伯陽。周の守藏の吏。周末の混乱を避けて隠棲しようとして、関所を通る時、関の令、尹喜が道を求めたので、道徳経五千余言を説いたと言う。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、それが万物を生みだす根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人が道の原理に法って事を行えば現実的成功を収めることができるとする。

 

孔子

(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。

 

後の五百歳

法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。

 

或は罵られ、打たれ、或は疵をかうほり……

「打たれ」とは、竜口法難の日、少輔房に法華経第五の巻で打たれたことなどをさす。「疵をかうほり」は、小松原の法難で東条景信に刀で切りつけられ、眉間に傷を受け、左手を骨折されたことをいう。流罪は伊豆・佐渡の流罪、死罪は竜口の頸の座である。

 

講義

釈迦仏法あるいは外道の聖人・賢人の例を挙げ、それに対して、大聖人御自身について述べられている。すなわち「今日蓮は聖にも賢にも非ず」云云と。

そして、大聖人は、御自身の振る舞いが法華経を実証したものであり、その哲理を身をもってあらわしたものであることを述べられるのである。

このことは、大聖人が、過去のいわゆる聖賢の範疇にはおさまらない人法一箇の仏であるということである。つまり、いわゆる〝聖人・賢人〟とは、人々に法を教えることによって導く行き方である。これに対して、大聖人の場合は、自身の行動そのものが〝法〟を体現しており、それがそのまま人々にとって手本となっていくのである。人即法、法即人となっているのである。

 

 

第十一章(真の聖人の大確信を述べる)

本文

経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「諸の無智の人有りて悪口罵詈す」或は云く「刀杖瓦石を加え或は数数擯出せらる」等云云、此等の経文は日蓮・日本国に生ぜずんば但仏の御言のみ有りて其の義空しかるべし、譬へば花さき菓みならず雷なりて雨ふらざらんが如

し、仏の金言空くして正直の御経に大妄語を雑へたるなるべし、此等を以て思ふに恐くは天台伝教の聖人にも及ぶべし又老子孔子をも下しぬべし、日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人・三人・十人・百人・一国・二国・六十六箇国・已に島二にも及びぬらん、今は謗ぜし人人も唱へ給うらん、又上一人より下万民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず・春を留んと思へども夏となる、

 

現代語訳

法華経に「この法華経は、如来が世におられる時ですら数多くの怨嫉があった。まして如来滅後においてはなおさらである」「一切世間に怨む者が多く、信ずることは難しい」、更に「多くの仏法に無智の人がいて悪口罵詈する」と。あるいは「刀や杖、瓦、石をもって迫害を加え……あるいはしばしばその居所を追い出される」とある。

これらの経文は、日蓮がこの日本国に生まれなかったなら、ただ釈尊の言葉のみあって、その義が虚妄になってしまう。例えば、花が咲いて実がならず、雷が鳴って雨が降らないようなものである。釈尊の金言は虚妄になり、正直捨方便の法華経に大妄語をまじえることになるのである。これらのことをもって思うには、日蓮はおそらく、天台、伝教という聖人にも匹敵し、老子、孔子よりもすぐれているであろう。

また日蓮は日本国でただ一人、南無妙法蓮華経と題目を唱えたのである。このことは須弥山という大山を形成する最初の一塵であり、大海を構成する最初の一露である。二人、三人、十人、百人、一国、二国、六十六箇国まで弘まり壱岐、対馬にまで及ぶであろう。今は日蓮を謗じていた人達も題目を唱えるであろう。また日本国の上一人より下万民にいたるまで、法華経の神力品で説かれているように、必ず一同に声を合わせて南無妙法蓮華経と唱えることがあるだろう。それは木が静かであろうと思っても風がやまないために動くし、春を留めようと思っても必ず夏が来るのと同じようにとどめようのないことである。

 

語釈

或は云く「刀杖瓦石を加え、或は数数擯出せらる」

法華経勧持品第十三の文。末法の法華経の行者が難にあうことを示した文。日蓮大聖人は刀の難を文永元年(12641111日小松原の法難で受けられ、杖の難は文永8年(1271912日に平左衛門尉の郎従・少輔房に法華経第五の巻で打たれたこと、また数数見擯出の文は伊東流罪と佐渡流罪によって身読された。「刀杖瓦石」は俗衆増上慢、「数数擯出せらる」は第三・僭称増上慢の加える難として示されたものである。

 

六十六箇国

北海道、琉球及び壱岐・対馬の2島を除く日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国、東山道八か国、東海道15か国、北陸道7か国、山陽道8か国、山陰道8か国、南海道6か国、西海道9か国である。

 

島二

壱岐・対馬の二島のこと。

 

講義

本章は、日蓮大聖人が末法に出現し、南無妙法蓮華経の題目を流布していくことによって、経文通りに数々の大難を受けられた。このように釈尊の予言を真実とした日蓮大聖人御自身こそ真の「聖人」であり末法の御本仏である。そして、この日蓮大聖人の唱え始められた南無妙法蓮華経が広宣流布することは必然であると大確信を述べられている。

 

日本国の中に但一人南無妙法蓮華経と唱えたり。これは須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露なり

 

日蓮大聖人の立場があくまで本因妙であることを示されている。

「須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露」とは、須弥山を構成する無数の塵、大海の無量の水と、その質において異なるものではない。つまり、大聖人は、末法の一切衆生と全く等しい立場である。ただ、はじめてこの妙法を唱え、一切衆生が妙法を唱えるための最初の手本となるのだということである。

一般的な考え方からすると、仏とか、宗教を開いた聖者というのは、今の須弥山の譬えでいえば、山の形を定め、作る立場というふうになるであろう。ところが、大聖人は、自らを、この山を構成する一つの塵であり、ただその最初の一塵であるというところに意味があるとされているのである。

こういえば、大聖人の立場というのは、ひどく軽小のように受けとれるかも知れないが、もし、そう考えるとすれば正しくない。広宣流布の須弥山、大海を作りあげるのは、その一塵であり一露である民衆の一人一人が目覚め、自らの意志で立ち上がり、その力を結集していくことによるのである。だから強いのである。

もし特別な超越者が定めて作り、民衆は自らの意志も持たない単なる材料に過ぎないとしたら、それは、ひとたびは出来あがっても、たちまちに崩れてしまう脆いものであろう。

自らを民衆と同じ最初の一塵、一露として、同じ自覚で無数の民衆が立ち上がり結集して、須弥山、大海を築き上げることを期待されたこの大聖人の方程式こそ、真の民主主義の精神を具現したものであり、万年尽未来まで持続できる広宣流布の大原理であることを知らなければならない。

 

 

第十二章(謗法による難を明かす)

本文

日本国の人人は法華経は尊とけれども日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えまじと・ことはり給ふとも・今一度も二度も大蒙古国より押し寄せて壱岐・対馬の様に男をば打ち死し女をば押し取り・京・鎌倉に打ち入りて国主並びに大臣百官等を搦め取り・牛馬の前に・けたて・つよく責めん時は争か南無妙法蓮華経と唱へざるべき、法華経の第五の巻をもつて日蓮が面を数箇度打ちたりしは日蓮は何とも思はずうれしくぞ侍りし、不軽品の如く身を責め勧持品の如く身に当つて貴し貴し。

  但し法華経の行者を悪人に打たせじと・仏前にして起請をかきたりし・梵王・帝釈・日月・四天等いかに口惜かるらん、現身にも天罰をあたらざる事は小事ならざれば・始中終をくくりて其の身を亡すのみならず議せらるるか、あへて日蓮が失にあらず・謗法の法師等をたすけんが為に彼等が大禍を自身に招きよせさせ給うか。

 

現代語訳

日本国の人々が、法華経は尊いけれども日蓮が憎いので、南無妙法蓮華経とは唱えないと拒んでいるとしても、もう一度、二度と大蒙古国から兵が押し寄せて壱岐・対馬のように男を打ち殺し、女を無理に捕え、京都、鎌倉までも攻め入って、国主ならびに大臣、百官等を搦め取り、牛馬の前にけたて強く責めたてるような時は、どうして南無妙法蓮華経と唱えないでいられようか。以前、小輔房が法華経の第五の巻をもって日蓮の顔を数度打ったとき、日蓮は何とも思わず、かえってうれしく思ったのである。不軽品に説かれているように迫害を受け、また勧持品に説かれてあるように自分を責められることは、非常に貴いことである。

ただし、法華経の行者を悪人を打たせまいと、仏前において誓いを立てた梵天、帝釈天、日天、月天、四大天王等の諸天善神などは、どんなにか悔しいことであろう。

法華経の誓いにそむいてこの謗法の悪人達に天が罰をあてないのは、小事ではないので過去、現在、未来にわたってその身を亡ぼすだけでなく、釈尊等の前で問題にされているであろう。これは全く日蓮の失ではない。諸天が謗法の法師等を助けようとして、彼らの大きな禍いを自身に招き寄せたのである。

 

語釈

祈請

祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。

 

講義

日本国の人々が、法華経は尊いけれども、日蓮が憎いので南無妙法蓮華経と題目を唱えないと拒んでいるが、大蒙古国が押し寄せ、強く責めたてる時はどうして南無妙法蓮華経と唱えないではいられようか。必ず妙法の広布はなされるとの確信が述べられている。

この文の中に、謗法の傾向があらわれている。謗法といっても、法自体を謗る人はほとんどいない。というより、法の内容を知る人はいないといってもよい。それよりも、人の外見をみて軽蔑したり、世間の風評に従ったり、好悪の感情をもって判断するのが常なのである。

大聖人は、貴族出身であったり権力者とつながりのある当時の僧侶に比べ、栴陀羅の出であり、いかなる僧侶の系統にも属さず、外見から見れば、尊敬するに値しない凡夫僧である。しかも時の権力と結びついた諸宗の非を強く鳴らした故に、傲慢であるとして毛嫌いした人も多かったであろう。世の人々も、単なる風評をもとに判断するしかなかったにちがいない。そこから自然に悪僧日蓮、邪僧日蓮という評価が定着していったのであろうと思われる。現実に大聖人と身近に接した人々は、世間の評判とのあまりの違いに、心から服したのである。竜口法難の際、大聖人の周りにいた兵士達も、翌日にはそれぞれ念仏の数珠を捨てたり帰伏の意志をあらわしたことが種種御振舞御書に述べられているし、佐渡の阿仏坊等はもちろんのこと、本間六郎左衛門、一谷入道等も、心では帰伏したのである。このように身近に接した人々が大聖人に心服したというのも、当時の誹謗が、いかに根の浅いものであったかがうかがわれる。

しかし、もともと仏法を誹謗するというのは、そうしたものなのである。ほんの小さな感情のこじれや、意志の疎通のなさから、仏法に正しい理解をもとうとしない人も多い。故にこそ常に粘り強く、仏法の真意を訴えていく折伏弘教が必要であるといえよう。同時に、仏法をたもっている以上、折伏弘経にあたっては、良識ある社会人として振る舞い、誤解から誹謗をつのらせることのないよう心がけていくことも必要ではなかろうか。

 

 

第十三章(供養の功徳を讃嘆する)

本文

此等を以て思ふに便宜ごとの青鳧五連の御志は日本国の法華経の題目を弘めさせ給ふ人に当れり、国中の諸人・一人・二人・乃至千万億の人・題目を唱うるならば存外に功徳身にあつまらせ給うべし、其の功徳は大海の露をあつめ須弥山の微塵をつむが如し、殊に十羅刹女は法華経の題目を守護せんと誓わせ給う、此を推するに妙密上人並びに女房をば母の一子を思ふが如く・犛牛の尾を愛するが如く昼夜にまほらせ給うらん、たのもし・たのもし、事多しといへども委く申すにいとまあらず、女房にも委く申し給へ此は諂へる言にはあらず、金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる・法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし。

       閏三月五日                               日蓮花押

     楅谷妙密上人御返事

 

現代語訳

これらのことから考えてみると、あなた(妙密上人)が便りごとに送ってくださる青鳧五連の御供養の志は、日本国に妙法の題目を弘められる人にあたるのである。国中の人々が一人、二人、ないし千万億の人が題目を唱えるようになれば、しらずしらずのうちに功徳が妙密上人自身にあつまることであろう。その功徳は、ちょうど大海が露をあつめ、須弥山の微塵を積んで大きくなっていくようなものである。

ことに十羅刹女は、法華経の題目を唱える人を守護すると誓いを立てている。このことから推量するに十羅刹女は、妙密上人ならびに女房殿を、母親が一子を思い、犛牛がその長い尾を大事にするように、昼夜にわたって守られているであろう。本当に頼もしいことである。

いろいろ申し述べたいことがあるが、くわしく述べるひまがない。夫人にもよく伝えてください。これは、へつらっていっているのではない。

(こがね)は焼いて鍛えれば、いよいよ色がよくなり、剣はとげばいよいよよく切れるようになる。と同じように法華経の功徳は讃嘆すればするほど、ますます勝れるのである。

法華経二十八品は正しい道理を説いたところはわずかで讃めた言葉が多いということを心得ていきなさい。

閏三月五日         日 蓮  花 押

楅谷妙密上人御返事

 

語釈

青鳧五連

銭五貫文のこと。一貫文ごとに銭の穴に紐を通して束ね、一結、一さし、一連などと呼んだ。

 

十羅刹女

鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。

 

犛牛

牛の一種。ヤク(yak)の別名。「りぎゅう」とも読み、旄牛とも書く。ヒマラヤ、チベット等の高地に棲息する。

 

講義

日蓮大聖人への御供養の志は、題目を流布しているのにあたるとされ、やがて日本中、世界中の人々が題目を唱えるようになったときには、その題目の功徳が全て妙密上人の身に集まってくると述べられ、これらのことを夫人にもくわしく伝え、夫婦ともども信心に励むよう激励されている。

 

二十八品は正しき事はわずかなり。讃むる言こそ多く候へ

 

この文は法華経をほめることが大切であるとの例として述べられたものであるが、このことのなかに法華経の特質があらわれている。二十八品は法華経八巻二十八品である。法華経においては、法理を説き示した箇所は多くない。迹門十四品の中では方便品第二、本門十四品では寿量品に説かれている程度である。あとはほとんど「讃むる言」である。序品は説会に来集した大衆の多いことを説き、譬喩品以下では方便品に示される一念三千の法門をもって、永不成仏とされた二乗への授記等が行なわれる。法師品以降は滅後の弘教を勧める個所であり、涌出品で地涌の菩薩を呼び出して次の寿量品で久遠実成が示される。そのあとは法華経をたもつ功徳が述べられ、不軽品で不軽菩薩の実践が説かれたあと、神力・嘱累の両品で付嘱が行なわれるのである。薬王品以下は、虚空会も終わり、薬王、妙音、観音菩薩等の修行を示しているのみである。法華経二十八品を通観してみると「正しきことはわずか」であることがわかる。

このことから、由来、法華経には内容がないとか、薬の効能書きのようなものである、というような批判がなされた。その主なものは日本においては国学者である、本居宣長、平田篤胤等がそうである。しかし、これは法華経に説かれた教理の深さを知らないところからなされた、故なき批判である。法華経に説かれた「正しき事」は、量としては少ないが、その内容は爾前経の説くところをはるかに超えたものなのである。

「讃むる言」が多いということは、所詮、法華経の原理がどれほど深いかを強調するためであるともいえよう。

ものごとの根本原理というものは、煩雑なものではない。さまざまな理論の展開や応用は、木の枝葉が百、千と分かれているように量はいくらでも多くなるが、それらが全く一根におもむくように、諸経の根本教義、天地自然を貫く基本原理は簡潔なものである。ユークリット幾何学といえば膨大な体系を有しているが、その根本にはたった五つの公理があるだけであり、アインシュタインの難解な相対性原理も「すべての運動は相対的である」「光の速度は一定である」という二つの前提が基本になっており、そこからさまざまな理論が展開されているのである。

同様に、法華経の哲理といっても、基本的には九界即仏界、仏界即九界の原理であり、簡潔このうえない。しかしこの根本原理こそ、一切の哲学、思相の基本となっていくものなのである。煩雑で難解なものを仏法は目指しているのではない。最も常識的な、しかも最も大事なものに光を当て、それを実現しようとするだけである。仏教が真実の人間主義の宗教であると主張するゆえんもここにある。その骨格となるのが法華経なのである。

 

 

 

 

タイトルとURLをコピーしました