太田入道殿御返事

 太田入道殿御返事

建治元年(ʼ75)11月3日 54歳 大田乗明

背景と大意

この手紙は、大田乗明が皮膚の病に苦しんでいるとの報告に対する返書である。建治元年(1275年)11月、身延から下総国に住む大田乗明に送られた。大田は大聖人の最も篤信の門下の一人で、幕府の役人であったが、富木常忍によって大聖人の教えに導かれた。1278年頃、剃髪して出家し、妙日(みょうにち)という法号(「妙なる太陽」の意)を授かった。大聖人から彼に宛てられた別の手紙の内容からすると、大田と大聖人は同じ年齢であったようである。

この手紙において、大聖人は天台大師の『摩訶止観』を引き、病の六つの原因について言及している。そして、業によって生じる病は最も治しがたいが、「法華経という良薬」によってさえも、それを癒すことができると述べている。

 

第一章(病気について述べた経釈を挙げる)

本文

貴札之を開いて拝見す、御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ、維摩詰経に云く「爾の時に長者維摩詰自ら念ずらく寝ねて牀に疾む云云、爾の時に仏・文殊師利に告げたまわく、汝維摩詰に行詣して疾を問え」云云、大涅槃経に云く「爾の時に如来乃至身に疾有るを現じ、右脇にして臥したもう彼の病人の如くす」云云、法華経に云く「少病少悩」云云、止観の第八に云く「若し毘耶に偃臥し疾に託いて教を興す、乃至如来滅に寄せて常を談じ病に因つて力を説く」云云、又云く「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む」云云、大涅槃経に云く「世に三人の其の病治し難き有り一には大乗を謗ず・二には五逆罪・三には一闡提是くの如き三病は・世の中の極重なり」云云、又云く「今世に悪業成就し乃至必ず地獄なるべし乃至三宝を供養するが故に地獄に堕せずして現世に報を受く所謂頭と目と背との痛み」等云云、止観に云く「若し重罪有つて乃至人中に軽く償うと此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」云云、

現代語訳

  あなたのお手紙を開いて拝見しました。 御病気のことについて、一たびは歎き、二たびは悦んだ。維摩詰経に「その時に長者の維摩詰が自ら念じた。寝込んで病床に伏そうと。その時に仏が文殊師利に告げられた。汝よ、維摩詰のところに見舞いに行って病状を問いなさい」とある。大涅槃経に「その時に如来は(乃至)身に病がある姿を現じ、右脇を下にして伏された、彼に病人のようになされた」とある。法華経に「少く病み少く悩む」とある。摩訶止観の第八に「維摩詰が毘耶梨城の自邸に倒れ伏し、病に寄せて教えを説き起こしたのと同じように(乃至)如来は入滅に寄せて常住を談じ、病によって功力を説いた」とある。また「病の起こる因縁を明かすのに六種ある。一には地・水・火・風の四大が順調でない故に病む・二には飲食が節制されていない故に病む・三には坐禅が正しく調わない故に病む・四には鬼が便りを得る・五には魔の為すところ・六には業の起こる故に病む」とある。大涅槃経に「世の病に治し難い三種の人がある。一には大乗を誹謗する人・二には五逆罪を犯す人・三には一闡提の人、このような三種の病は世の病のうち極めて重い」とある。また「今世に悪業を成就し(乃至)必ず地獄に堕ちるだろう(乃至)仏・法・僧の三宝を供養する故に地獄に堕ちることなく現世に報を受ける。いわゆる頭と目と背との痛み」等とある。摩訶止観に「もし重罪を犯して(乃至)人の中で軽く償うと。これは悪業が消滅しようとする故に病むのである」とある。

語釈

貴札

手紙のこと。差出人に敬意を示して「貴」の文字をつける。

御痛みの事

痛みは身体の痛みであるが、病気のことをいう。

維摩詰経

維摩経のこと。釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の仏弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に期すことを説いている。後漢の厳仏以来、7回以上訳されたが、現存するのは三訳。①呉の支謙訳「維摩詰経」2巻②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻③唐の玄奘訳「説無垢称経」6巻。わが国では聖徳太子が「浄名経」の名で、法華経・勝鬘経とともに、鎮護国家の三部経の一つと定めている。

長者維摩詰

梵語、ヴィマラ・キール。古代インド毘舎離城(ヴァイシャリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔けた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる。なお、彼の名前は維摩経を中心に、大般涅槃経などでも「威徳無垢称王」などとして挙げられている。したがって北伝の大乗経典を中心として見られるもので、南伝パーリ語文献には見当たらない。これらのことから彼は架空の人物とも考えられるが、実在説もある。彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している。大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された。一休宗純などはその典型的な例であると考えられる。

文殊師利

文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。

大涅槃経

釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」二巻。大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」四十巻。栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」三十六巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。

乃至

①すべての事柄を主なものをあげること。②同類の順序だった事柄をあげること。

法華経

大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。

【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。

【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284:08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266:11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546:11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910:17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。

【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。

少病少悩

法華経従地涌出品第15に「世尊は安楽にして、少病少悩いやます」「如来は安楽にして少病少悩なり」等とある。

毘耶

古代インドの跋耆連合国の首都。釈尊は衆生教化のためにたびたびこの地を訪れた。在家の弟子である維摩詰はこの地に住んでいた。釈尊滅後、第二回仏典結集が行われた拠点。

偃臥

横ばいに臥すこと。

因縁

果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574-11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716:第三唯以一大事因縁の事:03)とある。

四大順ならざる故に病む

地水火風の四大が順調でなく、自然の運行や身体の構成要素の乱れから起こる病。熱射病・低体温症など。

飲食節ならざる故に病む

暴飲暴食・拒食症など。

坐禅調わざる故に病む

体の動作や呼吸等の乱れによって起こる病。

鬼便りを得る

悪鬼が付け入って起こるところの病。

魔の所為

魔のしわざによって起こる病。

業の起るが故に

過去世からの宿業が現れることによって病むこと。

大乗を謗ず

大乗教・法華経を誹謗すること。

五逆罪

理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。

一闡提

梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。

今世

過去・現在・未来世の中の現在世。現世のこと。

悪業

悪い行為。三悪道・四悪趣に堕すべき業因。

地獄

十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。

三宝

仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。

供養

梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。

過去世の業因に応じた報い。業の結果として受ける苦楽。

止観

摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。

重罪

誹謗正法・五逆罪などの重い罪。

①身口意の三業にわたる種々の所作のこと。過去世の業を宿業といい、現世の業を現業という。②業因のこと。苦楽の因果をもたらす因となる善悪の行為をいう。

謝せん

①あやまる。②お礼を言う。③断る・謝絶する。④去る・消える・なくなる。

講義

本抄は、建治元年(1275)11月3日、日蓮大聖人が54歳の時身延で著されて、下総国の大田乗明に送られた御消息である。大田乗明が、病にかかったことを大聖人に手紙でご報告したのに対する御返事で、別名を「業病能治事」という。

この建治元年(1275)4月には、蒙古の使者・杜世忠が長門の室津に着いている。幕府は一行を鎌倉へ連行したうえで、9月7日に竜の口の刑場で処刑している。これによって蒙古軍の再度の襲来は確実になったといえる。また、この年に、駿河国熱原郷の天台宗滝泉寺の住僧、日秀・日弁・日禅らが日興上人の化導によって大聖人の門下となっている。そのため、6月には院主代の行智による迫害が起こり、三河房頼円は退転し、日秀・日禅は滝泉寺を退去、日秀は寺に留まって熱原の農民に対して弘教を進めている。後の熱原の法難の萌芽がこの年に芽生えているのである。

本抄の内容は、経訳の文を引いて病気の原因に6つあることを明かされ、その中でも第6の業病が最も治し難いこと、業病の中でも法華経誹謗の業病が最も重いことを示されている。次に大田乗明の病気の原因が謗法によるものであったとしても、妙法を持っているので病気を治すことができて長寿を招くことは疑いないとされ、病気の平癒を強く祈るように信心を励まされている。

初めに、大田乗明が病気になったことについて、一度は嘆いたが、再びは悦んでいるとされ、悦んでいる理由について、経論の文を引かれ、これにより仏法をさらに深く学ぶことができるからであると仰せられている。維摩詰経には、在家の信徒でありながら大乗仏教に通達していた毘耶離城の長者維摩詰が、自ら念じて病を現して床についたのに対し、釈尊が文殊師利菩薩に維摩詰の所へ赴いて病気を見舞うように命じた、と説あれている。維摩詰は、見舞いにきた文殊に、衆生を憐れむ故に病を現じたのであると述べ、仏法の大慈悲について説くのである。大涅槃経には、釈尊が涅槃に入る時に際し、身に病を現して、右脇を下にして臥したが、これも衆生に仏の少病少悩を示すためで「仏には真実の疾病というのではない」と説いているのである。また、法華経の従地涌出品第十五では地涌の菩薩が仏に向かって「世尊、少病少悩にして、安楽に行じたもうや否や」と問うたのに対し、仏は「如来は安楽にして少病少悩なり」と答えている。

次に、これら2つの事例の意義について、天台大師が摩訶止観の中で釈した文が引かれている。摩訶止観巻8で天台大師は維摩詰が毘耶離城の邸に倒れ伏し、病気によせて教えを説きおこしたように、仏は入滅によせて常住を語り、病気によってその力を説いているのである、と釈している。

摩訶止観では、さらに病の起こる因縁に6つあることを明かし、1には人体や自然の構成要素である地・水・火・風の4大の調和が崩れることによって病み、2には飲食の不節制によって病み、3には坐禅が整わないために病み、4には悪鬼が便りをえることによって病み、5には天魔が悩ますために病み、6には前世に造った業によって病むのである、と説いている。

第1の4大不順とは、仏教では宇宙の構成要素を地水火風の4大ととらえており、人体を構成する4大の不順によって病気が起こるとしている。仏医経では、これをさらに詳しく、4大の不順によって4百4病が起こることを説いている。竜樹の大智度論では、人体が4大によって構成されることについて、血・肉・筋・骨・骸・髄等が地大にあたるとしており、水大とはリンパ液等がそれにあたると考えられる。火大とは体温がそれであり、風大とは呼吸がそれにあたるとしている。

したがって、これら4大がそれぞれに異常をきたして病が起きるのであるが、また環境世界を構成している4大の調和が乱れることによって、病がもたらされる場合もある。いずれにせよ、これらは「身の病」として括ることが可能で、中務左衛門尉殿御返事には、「一には身の病所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一・已上四百四病・此の病は治水・流水・耆婆・偏鵲等の方薬をもつて此れを治す」(1178-01)と述べられている。

2の飲食の不節制による病とは、食べ過ぎや飲みすぎ、偏食や栄養失調などが原因となって起こる病気といえよう。

3の坐禅が整わないために起こる病気は、坐禅は結跏趺坐とか半結跏趺坐といった身体の姿勢を調えることによって心の乱れを防ぎ、法性・仏性を求める修行法をいうところから、広い意味で、日常の姿勢を調えることによって心の乱れるのを防ぎ、法性・仏性を求める修行法をいうところから、広い意味で、日常の姿勢の悪さや、さらにいえば運動不足、逆にいえば肉体を酷使することなどによって起こる病気を指すと考えられる。

4の鬼が便りを得ることによって起こる病気とは、鬼は人の功徳や生命を奪う働きとされていることから、現在でいえば病原菌等に起こる病気と考えられる。

5の魔の所為によって起こる病とは、魔は衆生の心を悩乱させる働きをいうことから、本能的欲望や感情が乱れることにより指すものと考えられる。

6の業が起こることによる病とは、前世の悪業を原因として起こる難病をいう。この病の6種の因は、病の起こる原因の違いによって立て分けたものと考えることができる。そして、この原因が潜むふかさによって対処法も異なってくるのである。

特に悪業が原因となる病は重い。その悪業すなわち悪い行いにもさまざまあるが、最も深い悪業が、次の大涅槃経に説かれている三種である。ここでは、世の中に最も治し難い病人が3人おり、第一は大乗経を誹謗する者であり、第二は五逆罪を犯すものであり、第三は一闡提、すなわち断善根・不信具足と訳し、正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生であり、それによって起こる病は極重病である、と説かれている。これらの罪業はきわめて深く重いために、それを滅することは難しく、その業を原因として起こる業病も治し難いために極重病となるのである。また、同経には、今世に悪業をなせば来世には必ず地獄に堕ちて大苦悩を受けなければならないが、仏・法・僧の三宝を供養することによって地獄には堕ちず、現世にその報いを受けて頭と目と背の痛みとなって現れるのである、とも説いている。正法誹謗などの悪業を行えば、来世に地獄に堕ちることは間違いないが、正法を信受して三宝を供養するならば、地獄へ堕ちるべき悪業の報いを現世に軽く受けることができて、それが頭や目や背の痛みとして現れて罪業を滅するのである、と転重軽受の法理を明かしているのである。

摩訶止観には、もし重罪があっても、今生に軽く償う場合には、悪業を消滅させるために病気になる、と説かれている。正法を持った場合には、過去の悪業の報いが病気となって現れ、今世に軽く受けて罪業を償うことができるのである。

これらの文は、病気という角度から、人間の不孝・苦しみの起こる原因と、それを治す原理を明かしているもので、さまざまな他の苦悩にも当てはめて考えることができる。

 

 

第二章(病気を冶すための良薬を明かす)

本文

竜樹菩薩の大論に云く「問うて云く若し爾れば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法に非ず而も法華は秘密なり等、乃至譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云、天台此の論を承けて云く「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く乃至今経の得記は即ち是れ毒を変じて薬と為すなり」云云、故に論に云く「余経は秘密に非ず法華を秘密と為すなり」云云、止観に云く「法華能く治す復称して妙と為す」云云、妙楽云く「治し難きを能く治す所以に妙と称す」云云、大経に云く「爾の時に王舎大城の阿闍世王其の性弊悪にして乃至父を害し已つて心に悔熱を生ず乃至心悔熱するが故に徧体瘡を生ず其の瘡臭穢にして附近すべからず、爾の時に其の母韋提希と字く種種の薬を以て而も為に之を傅く其の瘡遂に増して降損有ること無し、王即ち母に白す是くの如きの瘡は心よりして生ず四大より起るに非ず若し衆生能く治する者有りと言わば是の処有ること無けん云云、爾の時に世尊・大悲導師・阿闍世王のために月愛三昧に入りたもう三昧に入り已つて大光明を放つ其の光り清凉にして往いて王の身を照すに身の瘡即ち愈えぬ」云云、平等大慧妙法蓮華経の第七に云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即ち消滅して不老不死ならん」云云。

 

現代語訳

竜樹菩薩の大智度論に「問うて言う。もしそうであれば、華厳経や般若波羅蜜経は秘密の法ではない。しかも法華経は秘密の法である。(乃至)たとえば大薬師がよく毒を変じて薬とするようなものである」とある。

天台大師はこの論をうけて「たとえば良医がよく毒を変じて薬とするように(乃至)法華経の記別を得ることは毒を変じて薬とすることである」と述べている。故に大智度論に「他の経は秘密ではない。法華経を秘密とするのである」とある。摩訶止観に「法華経はよく治す。また妙と称するのである」とある。妙楽大師は「治し難いのをよく治すために妙と称する」と述べている。涅槃経に「その時にマカダ国の首都・王舎城の阿闍世王はその性質が悪く(乃至)父を殺害した後、心に後悔の熱を生じた。心が後悔の熱に冒される故に、全身に瘡を生じた。その瘡は臭く汚くて、ちかよることができなかた。その時に、阿闍世王の母は韋提希という名であったが、種々の薬を阿闍世王につけたが、瘡はいよいよ増して、軽減することがなかった。阿闍世王は母にいった。このような瘡は心から出たものである。地・水・火・風の四大から起こったものではない。もし衆生がよく治す者いるというならば、それは偽りであるといった。その時に大慈悲の導師である世尊は阿闍世王のために月愛三昧に入られた。三昧に入りおわった時に大光明を放った。その光り清凉であり、王の身に届いて照らすと身の瘡は即座に愈えた」とある。平等大慧の妙法蓮華経の第七に「この経は閻浮提の人の病に効く良薬である。もし人が病になっている時に、この経を聞くことができるならば病は直ちに消滅して不老不死になるであろう」とある。

 

語釈

竜樹菩薩の大論

大論は大智度論の略称。また大智度論とは「摩訶般若波羅蜜経釈論」の意である。すなわち大品般若経三十巻九十品の注釈で、後秦の時、鳩摩羅什の訳出で百巻よりなる。「中論」がもっぱら、般若思想を中心としているのに対して、この論は般若経の注釈でありながら、さらに法華経等の思想を包含し、それによって般若の空思想を積極的、肯定的に展開している。

 

華厳経

正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。

 

般若波羅蜜

般若経のこと。般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

秘密の法

秘め隠してあらわに示さない法。仏が末だ説いたことがなく、仏のみしか知らない深遠の教法のこと。

 

法華

大乗経典の極説、釈尊一代50年の説法中、最も優れた経典である。漢訳には「六訳三存」といわれ、「現存しない経」①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)「現存する経」④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)がある。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。(二)天台の摩訶止観(三)大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経のこと。

 

秘密

ひそかに隠して人に知らせないこと。仏の密意のことで、人に容易に知られない、分からない内容の深い法門・秘法。

 

天台

05380597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

①経文の意を論議して明らかにしたもの。②法門について問答採決したものを集大成した書。

 

余経

法華経以外の経。

 

妙楽

07110782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。

 

大経

①大般涅槃経のこと。②無量寿経のこと。

 

王舎大城

王舎城のこと。古代インド、摩掲陀国の首都。現在のビハール州南部のパトナ県ラージギルにあたる。インド最古の都の一つで、仏教の外護者として著名なシャイシュナーガ朝ビンビサーラ王が建設したと伝えられる。付近には霊鷲山、提婆達多が釈尊を傷つけた所、七葉窟、竹林精舎、祇園精舎などの仏教遺跡が多い。王舎城の故事については法華文句巻第一上、西域記などにある。

 

阿闍世王

梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。

 

弊悪

よくないこと。わるいこと。悪い習慣。

 

悔熱

犯した罪悪を悔いて激しく悩むために発する熱のこと。

 

徧体

体のすべて・全身。

 

韋提希

「韋提希」とは梵語、ヴァイデーヒー(Vaidehī)の音写で、毘提希とも書く。訳しては思惟、勝妙身。南インド摩竭提国・頻婆沙羅王の夫人で、阿闍世王の母。後に阿闍世王子のクーデターによって父王が幽閉されると、韋提希は深く王の身の上を気遣い、自分の体を洗い清めて、小麦粉に酥蜜を混ぜたものを塗り、胸飾りの11つにブドウの汁を詰めて、密かに王の許に行き、それを食べさせたという。母である韋提希の行動を知った阿闍世は怒って、その剣を首筋に当てて王舎城から追い出し、同じように牢に幽閉させた。

 

降損

少しも快方に向かわないこと。

 

四大

大種の略称。地・水・火・風をいう。この地・水・火・風はともに空を依処としているのであり、五大と同意である。すなわち、妙法蓮華経を意味し、宇宙の根本を構成する要素であり、人間の五体もこの四大よりなっている。地は骨・肉・皮膚、水は血液、火は熱、風は呼吸をさす。

 

世尊

世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。

 

大悲導師

仏の異名。

 

月愛三昧

釈尊が阿闍世王の身心の苦悩を除くために入られた三昧の名。清らかな月の光が青蓮華を開花させ、また夜道を行く人を照らし歓喜を与えるように、仏がこの三昧に入れば、衆生の煩悩を除いて善心を増長させ、迷いの世界にあって、さとりの道を求める行者に歓喜を与える。

 

三昧

サマーディ(Samādhi)の音写、訳して定・調査定・等持・等念という。心を一処に定めて動かぬこと。無量義経の無量義処三昧、法華経の法華三昧など、釈尊の教えの中には多数の三昧が説かれている。日蓮大聖人の仏法においては、一心に御本尊に向かって題目を唱えることが三枚である。

 

良薬

良く効く薬。法華経が一切衆生の苦悩を取り除く良薬である。

 

不老不死

老いたり死んだりしない若々しい生命状態をいう。

 

講義

さらに論釈を引かれ、法華経こそ治し難い病を治すための最高の良薬であることを明されている。

初めに、竜樹菩薩の大智度論にある「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而るに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説き、大菩薩は能く受持し用いるのは、譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」の文が要約して挙げられている。

阿羅漢の受決作仏が説かれていることは、舎利弗等の二乗が仏から成仏の記別を受けて劫・国・名号が決定したことをいうので、法華経こそが妙であり、比べるものがないほど勝れていることを明かしているのである。その意味から「華厳経乃至般若波羅蜜は秘密に非ず而も法華は秘密なり」と記されているであろう。秘密とは内容の深い法門をいい、秘密という意味である。

天台大師は法華玄義で、大智度論の文意を承けて、譬えば良医が能く毒を変じて薬とするように、法華経において二乗が成仏の記別を受けたことは、すなわち毒を変じて薬とするようなものである、と釈している。諸経で永不定仏とされていた二乗が、法華経において成仏を許されたことは、毒を変じて薬とするようなものである、との意である。

また、摩訶止観には、法華経はよく二乗や闡提を治すので、また妙と称するのであると説き、妙楽大師は他経では治せない者をよく治すので、妙と称するのであると述べている。法華経のみが、諸経では永く成仏できないとしている二乗や一闡提をも成仏できるとしているので、妙というのである。との意である。「秘密」も「妙」も凡夫の智慧・理解の及ばないことを意味しているのである。

次に、涅槃経の阿闡世王の故事が引かれている。阿闡世王は中インドのマカダ国の王で、太子であった時に提婆達多に唆されて、仏教の外護者であった父・頻婆娑羅王を監禁して死に至らせた。王位についてからはマカダ国を当時のインド第一の強国にしたが、そのために近隣の国々を滅ぼしたり苦しめたうえ、強大な力を使って仏教を弾圧した。また、提婆達多を新仏にするために、象に酒を飲ませて放し、釈尊を踏み殺そさせようとしたという。

マカダ国の王舎城の阿闡世王は、その性分が極悪だったが、父王を殺害したことへの強い後悔の念から熱を生じて、全身に瘡ができ、悪臭を放つため人々が近づくこともできない状態となった。母の韋提希夫人が種々の薬をつけたが、かえって悪瘡が増えるだけで、少しも軽くはならなかった。王は母に対して、この悪瘡は心から生じたものであって、四大の不調和から起こったものではないから、世間の者がこの病を治せるといっても、その道理はない、と語った。その時、世尊であり大慈悲の導師である仏が、阿闡世王のために月愛三昧に入って大光明を放ち、その清涼な光が王の身を照らすと悪瘡がたちまちに治った。というのが涅槃経の文の要旨である。

月愛三昧の月愛とは、仏の慈悲の月の光をさまざまな働きに譬えたもので、大光明とは、仏の大慈悲が阿闡世王をつつんだことをいったものであろう。阿闡世王は、自分を唆した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたことを知り、また悪業への悔いから、全身に悪瘡を生じ、寿命も尽きようとしていたのを、耆婆大臣に諌められて、仏法に帰依し、仏の慈悲の力によって救われ、その後40年も寿命を延ばして仏教の外護をしているのである。

次に、法華経の薬王菩薩本事品第二十三に説かれた法華経こそ一閻浮提の人の病の良薬であり、病の人がこの経を聞くことができれば、病が即消滅して不老不死となるであろう、との文が引かれている。

平等大慧妙法蓮華経とは、妙法蓮華経こそ一切衆生を平等に利益する仏の智慧であることを示すために、このように書かれたと拝される。

なお、この薬王品の文について、御義口伝には、「是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然らば病とは謗法なり、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(0774:第六若人有病得聞是経病即消滅不老不死の事:04)と述べられている。法華経の大良薬にしてはじめて謗法という最も重い悪業に起因する病などの病悩が癒されるのであり、妙法を受持した者は病即消滅となり、謗法の罪障を消滅して成仏することは疑いない、と示されているのである。

 

 

第三章(法華誹謗の業病こそ冶し難きを明かす)

本文

已上上の諸文を引いて惟に御病を勘うるに六病を出でず其の中の五病は且らく之を置く第六の業病最も治し難し、将た又業病に軽き有り重き有りて多少定まらず就中・法華誹謗の業病最第一なり、神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱き持水・流水・耆婆・維摩も口を閉ず、但し釈尊一仏の妙経の良薬に限つて之を治す、法華経に云く上の如し、大涅槃経に法華経を指して云く「若し是の正法を毀謗するも能く自ら改悔し還りて正法に帰すること有れば乃至此の正法を除いて更に救護すること無し是の故に正法に還帰すべし」云云、谿大師の云く「大経に自ら法華を指して極と為す」云云、又云く「人の地に倒れて還つて地に従りて起つが如し故に正の謗を以て邪の堕を接す」云云、

 

現代語訳

以上、上述の諸の経文を引いて、あなたのことを考えると、六種の病の域を出ない。そのなかの五種の病はしばらく指し置く。第六の業病が最も治すのが難しい。また業病に軽いものがあり、重いものがあって、さまざまである。

なかでも法華経を誹謗した業病は最も第一でる。神農や黄帝・華佗・扁鵲といった名医も手を拱き、持水や流水・耆婆・維摩といった名医も口を閉ざしてしまった。ただし釈尊一仏だけが妙法蓮華経の良薬に限ってこの業病を治せるのでる。

法華経には上述のように説かれている。大涅槃経に法華経を指して「もしこの正法を謗っても、よく自ら悔い改め、かえって正法に帰依すれば救われる(乃至)この正法を除いてはまったく救い護ることはできない。このために正法に帰依すべきである」と述べている。

妙楽大師は「大涅槃経自ら、法華経を指して極極の教法としているのである」といい、また「人が地に倒れたとき、かえって地によって立ち上がるようなものである。ゆえに正法を謗って地獄に堕ちても、正法に帰依するならば、かえって堕地獄の罪を救うことになる」と述べている。

 

語釈

六病

六種の病が起こる原因。①四大順ならざる故に②二には飲食節ならざる故に③三には坐禅調わざる故に④四には鬼便りを得る⑤魔の所為⑥業の起るが故に。

 

神農

中国上古、伝説時代の至徳の聖王とされる王。神農は炎帝神農ともいい、木を切って鍬を作り、木を曲げてその枝とし、鋤・鍬の使い方を民に示して、はじめて農耕を教えたとされる。農作物の収穫を感謝して歳末に行う蜡の祭りを創始し、あらゆる草を食してみて医薬を作り、五弦の瑟をつくった。また、市をもうけて交易することを教え、八卦を重ねて六十四卦としたともいう。

 

黄帝

中国古代の伝説上の帝王。五帝の一人。史記五帝本紀等によると、少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。すでに徳の衰えていた神農の子孫と戦い、これを破って神農氏の子孫に代わって帝位についた。五行説にいう黄竜のような土徳があったので、黄帝と呼ばれた。衣服・貨幣の制をはじめ、医薬の方法を定めた。

 

華佗

華陀とも書く。中国・後漢末から魏の初めの名医。生没年不詳。字は元化。名は旉。沛国譙県(安徽省亳県)の人。経書に通じ鍼灸、方薬でよく病を除いたといわれる。病が内部にあって鍼や薬の効力がないとき、麻沸散(麻酔薬)を飲ませて外科手術を行なったという。また養生術に通じ、「五禽之戯」という保健体操を考案し、自らも実行して百歳になってもなお壮健であったため仙人と思われていた。魏の武帝(曹操)の侍医となったが、意に従わず殺された。

 

扁鵲

中国・春秋戦国時代の名医。史記列伝第四十五によると、姓は秦、名は越人。渤海郡鄭(河南省)の人。長桑君という隠者より医術を伝授され、扁鵲はあらゆる医術に長じた。諸国をめぐって医業を行ない、その名声は天下に聞えた。しかし、秦の太医令の李醯にねたまれ、刺客を向けられて殺害されたという。

 拱

手を拱き

何もできないのでただ見ている状態。

 

持水

金光明経巻三に説かれる名医。治水とも書く。過去無量不可思議阿僧祇劫に宝勝如来がおり、涅槃した後、像法の時代に天自在光王がいた。王は正法を修行し、法の教えるとおりに世を治めていた。この国に持水という長者がおり、医術に詳しく多くの衆生を病苦から救った。ある時、国内に疫病が流行した。持水は年老いて治療にあたれなかったが、子の流水が父から法を学んで、持水に代わって病の治療にあたり、国中の人々を疫病から救ったという。

 

流水

金光明経巻3に説かれる名医。持水の子。

 

耆婆

梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を七年間学んで摩竭提国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。

 

維摩

釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の仏弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に期すことを説いている。後漢の厳仏以来、7回以上訳されたが、現存するのは三訳。①呉の支謙訳「維摩詰経」2巻②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻③唐の玄奘訳「説無垢称経」6巻。わが国では聖徳太子が「浄名経」の名で、法華経・勝鬘経とともに、鎮護国家の三部経の一つと定めている。

 

釈尊一仏

釈迦如来ひとりだけ。

 

正法

正しい法。邪法に対する語。

 

荊谿大師

711782)湛然のこと。中国・唐代の天台宗の僧侶。妙楽大師と称された。天台宗の第6祖。

 

極上・最良・至極・道理・究極。

 

講義

6種の病のなかで業による病が最も冶し難く、業病の中でも法華誹謗という業による病こそ最も治し難いこと、これを治すには、妙法の良薬によらなければならないことを明かされている。

前に引いた諸論師の趣旨から考えると、太田入道の病気は、6種のいずれかであるが、そのなかで最も重い業病、しかも最も治し難い法華経誹謗による業病さえも治すことができるのが妙法であることを述べられている。もとより、いま太田入道のかかっている病が、6種のなかのどれに当たるかは分からないが、最も重く治し難い法華誹謗による業病さえ妙法によってなおせるのであるあら、他の5病に相当する場合も、治せないわけがないことを示されて、一日も早く快癒するよう励まされたものと拝される。

なお、ここに挙げられている神農とは、古代中国の伝説上の皇帝で、三皇五帝の一人に数えられ、民に耕作や商業や薬草などを教えたといわれる。黄帝も、中国古代の三皇五帝の一人で、五穀の栽培を教え、衣服・家屋・文学・医術などを発明したとされている。

華陀は、中国後漢の末から魏の始めに活躍したとされる名医で、諸経に通じ、鍼灸や方薬でよく病を治したといわれる。扁鵲は、中国の春秋時代の名医で、諸国を巡って医術を施し、開腹手術で太子を蘇らせ、婦人病・神経病・少児病などを直したといわれ、後に医術の宗家と崇められた。

持水は、金光明経に説かれている名医である。過去無量不可思議阿僧祇劫に宝勝如来が出現した時、一人の長者が持水といい、医方を知って諸の病苦を救い、方便によって4大の増損を知った、とある。持水の子が流水で、疫病が流行した時に、年老いた父から治病の秘法を授けられて、人々を救ったという。

耆婆は、釈尊在世の名医で、釈尊や阿闍世王の病を治した。王舎城内での開頭手術、腸捻転の手術、頭痛の治療、失明や瘡の治療など、画期的な外科療法を行ったといわれる。阿闍世王に大臣として仕えている時、王が父を殺しただけでなく、母を殺そうとしたのを諌めている。

維摩とは、釈尊在世の中インドの毘耶離城の長者だった維摩詰のことで、在家の信者であったが、大乗仏教の奥義に通達していたとされる。維摩詰経には、維摩が病気になり、見舞いにきた文殊師利菩薩と大乗の妙理について対論したことが説かれている。維摩詰が、一切衆生の病ある者に大乗の法を説いて、阿耨多羅三藐三菩提の心を発せられたとあるので、名医の中に加えたものと思われる。

こうしたインド・中国の名医の名を挙げたうえで、彼らも法華誹謗の業病に対しては手を拱き、口を閉じて無力を嘆くのみであり、釈尊の妙法蓮華経の良薬だけが治すことができる、と明かされている。その文証として、前に引かれた法華経薬王菩薩本事品第二十三の文と、大涅槃経の、もしこの人が正法を毀謗したとしても、よく自ら改悔し、正法に帰依するならば、その罪は消滅する。…この妙法を除いてはこの謗法の罪を救い護ってくれるものはない故に、この正法に還って帰依すべきである、との文を挙げられている。

そして、この文でいう正法とは法華経を指しているのであるとされ、妙楽大師が法華文句記で、大涅槃経では法華経を指して至極の法としている、と述べている文をその証拠とされている。

また、同じく法華文句記の、人が大地に倒れても、大地によって立ち上がるのと同じように、正法を誹謗した罪で地獄に堕ちた者は、他の邪見堕悪の罪も含めて、正法を信受した時にその罪業を消滅して救われるのである、との趣旨の文を引かれている。法華経を誹謗したことによる業病が、法華経を信受することによって治癒するだけでなく、他の原因による病も治せることを明確にされているのである。

法華証明抄にも、この天台大師の文を引いて「地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候」(1586:13)と述べられている。

 

 

第四章(謗法を改め正法に帰した先例を挙げる)

本文

世親菩薩は本小乗の論師なり五竺の大乗を止めんが為に五百部の小乗論を造る後に無著菩薩に値い奉りて忽に邪見を飜えし一時此の罪を滅せんが為に著に向つて舌を切らんと欲す、著止めて云く汝其の舌を以て大乗を讃歎せよと、親忽に五百部の大乗論を造つて小乗を破失す、又一の願を制立せり我一生の間小乗を舌の上に置かじと、然して後罪滅して弥勒の天に生ず、馬鳴菩薩は東印度の人、付法蔵の第十三に列れり本外道の長たりし時勒比丘と内外の邪正を論ずるに其の心言下に解けて重科を遮せんが為に自ら頭を刎ねんと擬す所謂我・我に敵して堕獄せしむ、勒比丘・諫め止めて云く汝頭を切ること勿れ其の頭と口とを以て大乗を讃歎せよと、鳴急に起信論を造つて外小を破失せり月氏の大乗の初なり、嘉祥寺の吉蔵大師は漢土第一の名匠・三論宗の元祖なり呉会に独歩し慢幢最も高し天台大師に対して已今当の文を諍い立処に邪執を飜破し謗人・謗法の重罪を滅せんが為に百余人の高徳を相語らい智者大師を屈請して身を肉橋と為し頭に両足を承く、七年の間・薪を採り水を汲み講を廃し衆を散じ慢幢を倒さんが為法華経を誦せず、大師の滅後隋帝に往詣し雙足を挍摂し涙を流して別れを告げ古鏡を観見して自影を慎辱す業病を滅せんと欲して上の如く懺悔す、

 

現代語訳

世親菩薩はもともと小乗の論師である。インドの大乗を制止するために、五百部の小乗論を造る。後に無著菩薩にあって、たちまちに邪見をひるがえし、一時にこの罪を滅するために、無著菩薩に向かい、舌を切ろうとした。無著菩薩はそれを止めて「汝よ、その舌をもって大乗を讃えよ」といった。世親菩薩はたちまちに五百部の大乗論を造って小乗を打ち破った。また一つ願を立てた。我は一生の間、小乗を決して説かないと。そうして後、罪を滅して弥勒の都率天に生じた。馬鳴菩薩は東インドの人で、付法蔵の第十三に列なっている。往時、外道の長であった時、勒比丘という者と内道と外道の邪正を論じたところ、仏教の精随を一言のもとに理解して、今までの重科を止めるために、自らの首を切ろうとした。「我は我自身を敵にして地獄に堕とそう」といったところ、勒比丘は諌めて止めて「汝、頭を切ってはいけない。その頭と口をもって大乗を讃えよ」といった。馬鳴菩薩はわずかの間に大乗起信論を造って、外道と小乗を破った。これがインドの大乗の初めである。

嘉祥寺の吉蔵大師は中国第一の名高い師匠であり、三論宗の元祖である。呉の国の会稽山に住み、比べる者がないほど優れ、慢心の幢も高かった。天台大師に対して、法華経法師品第十の「已に説き、今説き、当に説かん」文について論争し、すぐその場で邪な執着を飜して、人を謗り法を謗った重罪を滅するために、百余人の高徳の僧らを誘って、智者大師に身を屈し墾請して講義を聴き、また自分の体を肉橋として高座に登らせ、頭に天台大師の両足を受けて踏み台とした。吉蔵大師は天台大師が入滅するまでの七年の間、薪を採り水を汲んで給仕をし、今までの自分の講義を廃し門下の人々の集いを解散し、慢心の幢を倒すため、法華経を誦されなかった。

天台大師の滅後、隋帝のところに行って、両足をいただき最高の敬意を表して、涙を流して別れを告げ、古い鏡に写っている自分の影を見て慎しみ辱めた。これは正法を誹謗した自身の業病を滅しようとして、上述のように懺悔されたのである。

 

語釈

世親菩薩

生没年不明。45世紀ごろのインドの学僧。梵名はヴァスバンドゥ(Vasubandhu)。世親は新訳名で、旧訳名は天親。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」30巻、「十地経論」12巻、「法華論」2巻、「摂大乗論釈」15巻、「仏性論」6巻など多数あり、千部の論師といわれる。

                                      

小乗の論師

小乗教の論を作り、小乗教を宣揚する人。

 

五竺の大乗

五竺は五天竺・全インドのことで、インドに流布していた大乗教のこと。

 

五百部の小乗論

世親が小乗教を講述した500部の論のこと。

 

無著菩薩

「無著」梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など837巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。

 

邪見

仏教以外の低級・邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。外道の輩が仏教を誹謗していう言葉。

 

無著菩薩のこと。

 

讃歎

ほめたたえる意をあらわした言葉。

 

世親菩薩のこと。

 

五百部の大乗論

世親が大乗教を講じた500部の論のこと。

 

破失

破折し失うこと。

 

制立

定め立てること。

 

小乗を舌の上に置かじ

小乗教を講じたり、説いたり、話したりしないということ。

 

弥勒の天

都率天のこと。都率は梵語トゥシタ(Tuita)の音写。六欲天の第四天。兜率天とも書く。知足、妙足、喜足、喜楽と訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。外院は天界の衆生の欲楽する処とされる。

 

馬鳴菩薩

付法蔵の第十二。仏滅後600年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。

 

東印度の人

インドを五つにわけたなかの東。東天竺のこと。

 

付法蔵の第十三

付法蔵は釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計二十四人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。第13は馬鳴菩薩とする場合と毘羅とする場合がある。

 

外道の長

インドのバラモンの指導的立場にいた者。

 

勒比丘

馬鳴の師のことであるが、脇尊者と富那奢の二説があり、どちらとも定めがたい。

 

内外の邪正

内外相対のこと。

 

重科

①重い罪②重い刑罰。

 

遮せん

遮ること。消すこと。償うこと。

 

我・我に敵して

自身が説いてきた説を打ち消して・ひるがえして。

 

堕獄

堕地獄のことで、地獄に堕ちることをいう。

 

馬鳴菩薩のこと。

 

起信論

「大乗起信論」のこと。馬鳴著と伝えるが,中国撰述の疑いもある。五世紀頃の成立か。大乗仏教の代表的概説書。大乗に対する正しい信心を起こさせることを目的とし,心を本来の面(心真如門)と活動の面(心生滅門)の二面から考察する。

 

外小

バラモン教と小乗教のこと。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

大乗の初

馬鳴菩薩が大乗起信論を作って外道・小乗を論破したことが大乗のはじめとされている。

 

嘉祥寺の吉蔵大師

吉蔵大師(05490623)は中国梁・隋代の人で三論宗の祖とされた。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦(しんだい)に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。嘉祥寺は浙江省紹興市会稽にある。東晋時代(0370)に建立されたもので、律行清厳なところから多くの僧尼が集まってきた。隋代の初め、開皇年中に吉蔵がこの寺で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。聴衆は千余人に及び寺の名は天下にとどろいた。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。しかし晩年にいたって吉蔵は天台大師に心身共に帰伏した。

 

漢土第一

中国で最高・第一であるということ。

 

名匠

すぐれた仏宝指導者。

 

三論宗

竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(057211日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。

 

元祖

創始者。

 

呉会に独歩し

中国・呉国の会稽山に住いていた吉蔵のこと。その学徳は無比に優れていたといわれる。

 

慢幢

おごりたかぶる心を幢に高くそびえるさまにたとえた語。「慢」はおごること。「幢」は「はたほこ」で、小さな旗を上部につけた鉾をいい、空中にひるがえし、軍陣などで用いた。

 

天台大師

538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。

【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

 

已今当の文

法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。

 

邪執

よこしまな見解・誤った義に執着すること。

 

飜破

ひるがえし破ること。

 

謗人

①正法を誹謗する人。②正法をたもつ人を誹謗する人。

 

謗法

誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

 

高徳

高く優れた人。またその人の持つ徳。

 

智者大師

天台大師のこと。(05380597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。

 

屈請

身をかがめて、懇ろに請うこと。

 

身を肉橋と為し頭に両足を承く

吉蔵が天台大師が講義するに際し、身をもって、高座にのぼるための橋となり、また頭を台となって仕えたことをいう。

 

隋帝

05810618)中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城。国姓は楊。当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。

 

往詣

詣でに赴くこと。

 

雙足を挍摂し

両足をいただいての意で、最高の礼を尽くすことを意味する。

 

古鏡を観見して自影を慎辱す

古い鏡に映った自分の姿を見て、正法を謗っていたことを辱めること。

 

業病

前世の悪業の因によって起こる病気。

 

講義

世親・馬鳴・嘉祥など、もとは正法を誹謗していたが、後に正法に帰依した人々の例を挙げられている。

世親は、45世紀ごろのインドの学僧・婆薮槃豆のことで、世親とも訳される。北インドの富婁沙羅国の出身で、無著の弟にあたる。初め、説一切有部の小乗教を学び、俱舎論など多くの論を著した。後に兄の無著に導かれて大乗を学び、十地経論、唯識二十論、摂大乗論釈、仏性論など大乗の論を数多く著して大乗経を宣揚し、千部の論師と呼ばれた。

世親は、兄の無著によって大乗に導かれた時、小乗を弘めて大乗を妨げてきた今までの罪を滅するために舌を切ろうとしたが、その舌で大乗を讃嘆し弘めることが罪を滅することになると兄に諌められ一生の間に二度と小乗を説かないと誓願し、多くの大乗論を著して小乗を破し、その罪を滅して弥勒菩薩の住む兜率天に生まれることができたと伝えられている。

兜率天は六欲天のちの下から4番目で、兜率は、喜足・喜楽と釈され、歓楽が満ちて満足を知るのでこう名づけられている。

馬鳴は2世紀ごろに中インドの舎衛国にいた大乗の論師で、付法蔵の第12祖にあたる。初めは外道の学者として盛んに仏教を批判していたが、付法蔵第11の富那奢に論破されて仏教に帰依し、多くの衆生を教化したとされる。著書に仏所行讃、大荘厳論経などがあり、大乗起信論、大宗地玄文本論なども馬鳴の著とされている。後に大月氏国の迦弐志加王に従って北インドへ移り、大いに仏教を弘めて功徳日と敬称されたという。

馬鳴は、仏教を誹謗した重罪を謝するため、自ら首をはねて地獄に堕ちようとしたが、その頭と口を使って大乗を賛嘆せよと諌められ、大乗起信論をつくって外道や小乗を破折した。これがインドにおける大乗の初めとなった。

嘉祥寺の吉蔵は、中国・唐代の三論宗の再興の祖とされる。三論宗とは、竜樹の中論・十二門論と提婆菩薩の百論をよりどころにして立てられた大乗教の学派をいう。吉蔵は、12歳の時から法朗に師事して三論を学び、嘉祥寺に入ってからも研究を続けて三論宗を大成させた。法華経や涅槃経などの諸経典にも詳しく、開皇17年(0597)には天台大師と法華経について書簡を交換している。その後、法華経の研究をし、法華経を2000部書写している。著書には三論玄義、中観論疏、大乗玄論、法華玄論などのほか、諸経の注釈書がある。

本抄では、吉蔵が天台大師に帰服して、謗法の罪を滅するために、100人の高徳を語らって天台大師の講説を聞き、自ら身をもって天台大師に仕えたことが明かされている。

吉蔵が天台大師の講義を聞くように勧めた状には「千年の興五百の実復今日に在り乃至南岳の叡聖天台の明哲昔は三業住持し今は二尊に紹係す豈止甘呂を震旦に灑ぐのみならん亦当に法鼓を天竺に震うべし、生知の妙悟魏晉以来典籍風謡実に連類無し乃至禅衆一百余の僧と共に智者大師を奉請す」(0270:04)とあったと撰時抄に引かれている。

吉蔵については、報恩抄でも「嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども・妙楽かれをせめて云く「毀其の中に在り何んぞ弘讃と成さん」等云云、法華経をやぶる人なりされば嘉祥は落ちて天台につかひて法華経をよまず我れ経をよむならば 悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき」(0314:12)また、開目抄でも「三論の嘉祥は法華玄十巻に法華経を第四時・会二破二と定れども天台に帰伏して七年つかへ廃講散衆して身を肉橋となせり」(0216:11)と述べられている。吉蔵は心から天台大師に帰伏して、自己の講会・講演を廃し、聴衆を解散させたとされていたのである。さらに道暹の法華文句輔正記には、吉蔵が天台大師に帰伏して、我が身を橋として天台大師を背に乗せて高座へ登らせたとある。

本抄では、天台大師の滅後、随帝に別れを告げて古鏡に映った我が身を見て、この身が正法を謗っていたのだと辱めさとされ、それは謗法による業病を滅するためにそのように懺悔したのである、とのべている。このように、世親・馬鳴・嘉祥の例を挙げられているのは、法華経誹謗の罪がいかに重いかを示されるためであると、その罪を消滅する道は、逆に正法興隆の為に尽くすのであることを教えるためであると拝される。

 

 

第五章(法華最勝と真言の破法亡国を明かす)

本文

夫れ以みれば一乗の妙経は三聖の金言・已今当の明珠諸経の頂に居す、経に云く「諸経の中に於て最も其の上に在り」又云く「法華最第一なり」伝教大師の云く「仏立宗」云云。

  予随分・大・金・地等の諸の真言の経を勘えたるに敢えて此の文の会通の明文無し但畏・智・空・法・覚・証等の曲会に見えたり是に知んぬ釈尊・大日の本意は限つて法華の最上に在るなり、而るに本朝真言の元祖たる法・覚・証等の三大師入唐の時・畏・智・空等の三三蔵の誑惑を果・全等に相承して帰朝し了んぬ、法華・真言弘通の時三説超過の一乗の明月を隠して真言両界の螢火を顕し剰え法華経を罵詈して曰く戯論なり無明の辺域なり、自害の謬悞に曰く大日経は戯論なり無明の辺域なり本師既に曲れり末葉豈直ならんや源濁れば流清からず等是れ之を謂うか、之に依つて日本久しく闇夜と為り扶桑終に他国の霜に枯れんと欲す。

 

現代語訳

謹んで思うに、一仏乗の妙法蓮華経は釈迦仏・多宝如来・十方分身の諸仏の三聖の金言であって、「已説・今説・当説…最為難信難解」との文を明珠として諸経の頂上にある。法華経薬王品第二十三に「この法華経は諸経の中において最も其の上にある」とあり、また 「法華経は最第一である」とある。伝教大師は「法華宗は仏の立てた宗旨である」と述べている。

私は随分と大日経・金剛頂経・蘇悉地経などさまざまな真言の経典を考究したが、強いてこの法華経の最第一の文を打ち破るだけの明文はない。真言経のほうが法華経より勝れているというのは、ただ善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証などの曲解のようである。ここに釈尊・大日如来の本意は法華経こそ最上ということにあると知ったのである。

しかし、日本の真言宗の元祖である弘法・慈覚・智証などの三大師が唐に入った時、善無畏・金剛智・不空などの三人の三蔵の邪義を慧果・法全などから受け継いで、日本に帰ってきた。そして法華経と真言経とを弘通するに際して、已今当の三説を超過している一仏乗の法華経の明月を隠し、真言経の胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅の螢火を顕し、その上で法華経をののしって「法華経は戯れの論であり、釈尊は無明の辺域である」などといったのである。これは自らを害する誤りであり大日経は戯れの論であり、無明の辺域であるといっていることになる。彼らの本師が既に曲がっているのであるから、その末葉の門下が真っ直ぐであるはずがない。源が濁れば流れが清くないとは、このことをいうのである。この邪義によって日本の国は永い間、謗法の闇夜となり、扶桑の国はついに他国の霜に枯れ滅びようとしているのである。

 

語釈

已今当の明珠

法華経法師品第十の7「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。この文は法華経の頂を飾るすばらしい宝珠にたとえたものであるとの意。

 

諸経の頂

あらゆる経典の最高峰という意味。

 

伝教大師

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

大・金・地

真言の三部経のこと。大=大日経・金=金剛頂経・地=蘇悉地経。

 

諸の真言の経

大日経・金剛頂経・蘇悉地経など真言宗の教えを示した経典。

 

会通

彼此相違した説を会して融通すること。「会」とは、あわせる、理解する、照らし合わせる擣の意で、「通」は開く、かよわす、伝える、説き明かす等のいみである。すなわち、よく理解して疑いやとどこおりのないことで、いろいろな議論に合わせて理解し説き明かすことの意。

 

明文

明白に意をあらわした文。

 

畏・智・空・法・覚・証

真言教を弘めた代表的僧侶。畏=善無畏・智=金剛智・空=不空・法=弘法・覚=慈覚・証=智証。

 

曲会

真理や道理を曲げて解釈すること。

 

釈尊

釈尊とは通常釈迦牟尼仏をさすが、六種の釈尊がある。①蔵教の釈尊②通教の釈尊③別教の釈尊④法華経迹門の釈尊⑤法華経本門の釈尊⑥法華経本門文底の釈尊である。⑥を教主釈尊といい、久遠元初の自受用報身如来たる日蓮大聖人である。

 

大日

大日は梵語(mahāvairocana)遍照如来・光明遍照・遍一切処などと訳す。密教の教主・本尊。真言宗では、一切衆生を救済する如来の智慧を光にたとえ、それが地上の万物を照らす陽光に似るので、大日如来というとし、宇宙森羅万象の真理・法則を仏格化した法身仏で、すべて仏・菩薩を生み出す根本仏としている。大日如来には智法身の金剛界大日と理法身の胎蔵界大日の二尊がある。

 

本意

本当の意図・気持・意義。

 

法華の最上

法華経が一切経の中で最高であるということ。

 

本朝

①日本の朝廷。②日本国。

 

真言の元祖

真言宗の創始者。

 

法・覚・証の三大師

日本に密教を弘めた三師。法=弘法・覚=慈覚・証=智証。

 

入唐

日本から中国に渡ること。

 

畏・智・空等の三三蔵

中国・真言宗の三人の三蔵。畏=善無畏・智=金剛智・空=不空。

 

誑惑

たぶらかすこと。

 

果・全

中国における二人の真言宗の僧。①慧果・(07460806)。照応の人で、俗姓を馬という。不空の弟子で、真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。日本から留学生として渡唐した弘法にその教えを伝えた。②法全・生没年不明。中国・唐代の長安青龍寺の僧。円仁、円珍が入唐した時に密教を教えている。円仁には胎蔵の儀軌、円珍には瑜伽を教え、伝法阿闍梨の灌頂をしている。

 

相承

相は相対の意、承は伝承の義。師弟相対して師匠から弟子に法を伝承すること。

 

帰朝

外国から(特に中国)日本に帰ってくること。

 

法華・真言弘通の時

法華経と真言経が弘通する時。

 

三説超過の一乗の明月

法華経を明るい月にたとえたもので、三説は已・今・当の三説。一乗は一仏乗。

 

真言両界の螢火

真言宗で立てる金剛界・胎蔵界の二界を法華経に対比すると、真言両界は法華の明月に対する蛍火のごときものであるということ。

 

罵詈

誹謗し謗ること。

 

戯論

児戯に類した無益な論議・言論のこと。

 

無明の辺域

真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。

 

自害の謬悞

法華経は戯論であり無明の辺域であるというのは、自らを害する誤りを犯しているのである。

 

大日経は戯論なり無明の辺域なり

真言の依経である大日経こそ戯論であり無明の辺域であるということ。

 

本師既に曲れり末葉豈直ならんや

真言宗の開祖である弘法が既に誤っているから、その末流の門下も間違っているということ。

 

源濁れば流清からず

水源が濁っていれば、川の流れは清くない。おなじように宗祖が間違っていれば、その末流も誤っているということ。

 

扶桑終に他国の霜に枯れんと欲す

日本国に真言の邪義が広まることによって、ついに他国から攻め亡びようとしていること。

 

講義

法華経こそ一仏乗の妙経であり、釈尊一代の諸経のなかで最勝であるというのが仏説であるにもかかわらず、この仏説に反して善無畏らが我見をもって立てたのが真言宗であり、それが日本にひろまったため、今や亡国の危機に瀕していることを述べられている。

法華経最勝は釈迦・他宝・十方の諸仏の金言であり、已今当最為難信難解の法師品の文は、法華経が已今当の一切経の頂点に位置することを示し、王の頂の明珠のようなものであると仰せられている。そして法華経の安楽行品第十四に「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於いて、最も其の上に在り」と説かれ、法師品第十に「我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」と明確に示されていること、さらに、伝教大師が法華秀句の中で「天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗なり」と述べていることを挙げられ、法華経を最も勝れているとするのが仏法の本義であることを示されている。

大聖人は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の真言宗の依経を調べてみても、法華最勝と説き、三説超過という明文のある法華経に対して、大日経などの真言経が勝れている根拠となる文はまったく見当たらないと指摘され、真言の諸経が法華経に勝ると主張したのは、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の真言師が勝手に法を曲げたものでることは明らかで、釈尊の大日如来の本意は、法華経が最上とすることにあったと断じられている。

日本の真言宗の祖とされる弘法大師空海と、天台密教の祖とされる慈覚大師円仁・智証大師円珍の3人が入唐した時に、善無畏・金剛智・不空の三三蔵が立てた邪義を、慧果や法全から相承して日本へ伝えたのであると断じられている。

慧果は、中国・唐代の真言僧で、不空から密経の奥義を受けたとされ、長安の青竜寺に住んで青竜寺和尚といわれた。弘法が延暦年間に唐へ渡った時、この慧果から真言を学んでいる。このことについては撰時抄にも「弘法大師は同じき延暦年中に御入唐・青竜寺の慧果に値い給いて真言宗をならはせ給へり、御帰朝の後・一代の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候」(0276:18)と述べられている。

法全も、中国・唐代の真言僧で、慧果の法孫にあたり、長安の青竜寺に住み、日本から唐へ渡った天台僧の慈覚や智証に密経を授けている。帰朝後の慈覚や智証は、真言が法華経に勝るとする邪義を立てながら、後に比叡山延暦寺の第3代・第5代座主に登ったため、伝教大師の立てた天台法華宗を完全に天台密教へ堕落させ、転落させてしまった。

大聖人は、弘法・慈覚・智証が、一往は法華経と真言諸経を弘めたのであるが、その際に、一仏乗の法華経の明月を隠して、真言宗の金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅という。はかない蛍火のほうを宣揚するという歪曲を犯したこと、しかも、それだけでなく、法華経を戯論であると下し、釈尊を無明の辺域である等と誹謗したのである、と指摘されている。

戯論は、児戯に類した無益な論議のことだが、ここでは弘法が秘蔵宝鑰の中で「大乗の前の二を菩薩、乗後の二を仏乗、比くの如き乗乗、自乗の仏の名を得れども、後に望むれば戯論と作る」と述べていることを指す。これは、弘法が大日経に衆生の心相が十種に分えていることに基づいて十住心の教判を立て、真言密教が最高であることを示そうとしたもので、十住心の第八・如実一道無為心と、第九極無自性心とを仏乗とし、ともに自らの教えに仏乗の名を得ているが、第十の秘密荘厳心に比べれば戯論になると主張し、真言が勝るとしたものえある。弘法は十住心の第八は法華経・第九は華厳経・第十は真言を意味するとし、法華経は真言に劣るだけではなく、華厳経よりも下である、と法華経を下したのである。

無明の辺域とは、無明惑を断ち切っていない。真実から遠く隔たりのある境界をいうが、ここでは弘法が秘蔵宝鑰の中で十住心の第七の覚心不生心・第八の如実一道無為心・第九極無自性心のそれぞれの結びの文に記した言葉を指す。如実一道無為心は法華経に対する教判であるが、そこから、法華経の教主についても、顕教のなかでは究竟の理智法身であるが、真言門に望めば初門に過ぎず、その境界は無明の辺域である、と下したのである。

そして、そうした邪義は自身を害する刀であり、大日経こそ戯論であり、大日如来こそ無明の辺域であると反論されたうえで、このように弘法・慈覚・智証等の本師が誤っているのだから、末葉である今の真言師が正しいわけがないと断じられ、源が濁れば流れが清いわけではないことはこのことである、と破折されている。さらに、このような真言の邪法が日本の仏教の中枢となってしまったために、日本は久しく闇夜となり、まさに扶桑の木が他国の霜によって枯れようとしていると仰せられ、日本が蒙古の襲来によって滅びようとしているのは、法華経と釈尊を誹謗する悪法である真言が流布した結果であると指摘されている。

 

 

第六章(重病も転重軽受のための信心を励ます)

本文

抑貴辺は嫡嫡の末流の一分に非ずと雖も将た又檀那の所従なり身は邪家に処して年久しく心は邪師に染みて月重なる設い大山は頽れ設い大海は乾くとも此の罪は消え難きか、然りと雖も宿縁の催す所又今生に慈悲の薫ずる所存の外に貧道に値遇して改悔を発起する故に未来の苦を償うも現在に軽瘡出現せるか、彼の闍王の身瘡は五逆誹法の二罪の招く所なり、仏月愛三昧に入つて其の身を照したまえば悪瘡忽に消え三七日の短寿を延べて四十年の宝算を保ち兼ては又千人の羅漢を屈請して一代の金言を書き顕し、正像末に流布せり、此の禅門の悪瘡は但謗法の一科なり、所持の妙法は月愛に超過す、豈軽瘡を愈して長寿を招かざらんや、此の語徴無くんば声を発して一切世間眼は大妄語の人・一乗妙経は綺語の典なり・名を惜しみ給わば世尊験を顕し・誓を恐れ給わば諸の賢聖来り護り給えと叫喚したまえと爾か云う書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん、恐恐。

       十一月三日                                日蓮花押

     太田入道殿御返事

 

現代語訳

そもそも、あなたは真言宗の正統の家筋の末流の一分ではないが、真言宗を檀那として支えた人の従者である。その身は邪法の家に住んで長い年が過ぎ、心は邪義の師に染みて月々を重ねてきた。たとい大山は崩れ、たとい大海は乾いたとしても、この謗法の罪は消えるのは難しい。しかしながら過去世の縁に誘われるところ、また今の世の仏に慈悲が薫るところ、思いのほかに貧道の身の日蓮に出会い、今までの信仰を悔い改める心を起こした故に、未来世に受ける重い苦を償うために、現在に軽い瘡が出ているのであろうか。

彼の阿闍世王の身の瘡は五逆罪と謗法罪の二罪が招いたところである。仏が月愛三昧に入って、その阿闍世王の身を慈悲の光で照らされると、悪い瘡はたちまちに消え、あと三週間といわれた短い寿命を延ばして、それから四十年の年齢を保ち、その間に千人の阿羅漢を懇ろに要請して、釈尊一代の金言を書き残し結集して、正法・像法・末法の三時に流布したのである。今、仏道に入ったあなたの悪い瘡はただ正法を謗ったという一つの科罪である。あなたが受持されている妙法は月愛 三昧を超えている。どうして軽い瘡を治して長寿を招かないことがあろうか。この日蓮がいうような現証がなければ、あなたは声を出して「一切世間も眼である釈尊は大嘘つきの人であり、一仏乗の妙法蓮華経は飾り立てた偽りの言葉の経典である。名を惜しまれるならば釈尊は効験を顕し、法華守護を誓った諸の賢人・聖者はその誓いを破ることを恐れるならば直ぐにここに来て護りなさい」と叫ばれるがよい。このように言っても、書面は言葉を尽くさない。言葉は心を尽くさない。さまざまな事柄はお目にかかった時を期して話すことにしたい。恐恐。

十一月三日                                日蓮花押

太田入道殿御返事

 

語釈

嫡嫡の末流の一分

正統の家系の子孫の一人。転じて正統の流派・宗派・血脈。

 

檀那の所従

檀那は施主・施者のこと。所従は従者・家来のこと。

 

邪家

邪な宗教の家。

 

邪師

邪な師匠。仏法を正しく伝えず、邪義・邪見をもって衆生を不幸に導き入れる者。

 

宿縁

宿世につくった因縁のこと。

 

今生

今世の人生のこと。先生、後生に対する語。

 

慈悲

一切衆生を慈しみ憐れむこと。大智度論巻27には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を以って衆生に与え、大悲は離苦の因縁を以って衆生に与う」とあり、慈を与楽、悲を抜苦の義としている。また涅槃経では一切衆生の無利益なるものを除くことを慈とし、無量の利益を与えることを悲としている。

 

薫ずる

香をたき、香りを染み込ませること。仏の慈悲が染み込むことにたとえる。

 

貧道

僧みずから呼ぶ謙称。道を修めることが、きわめて貧しいという意からいわれる。

 

値遇

思いがけなく値うこと。

 

改悔

悔い改めること。改心悔解の意。

 

発起

①四衆の一つの発起衆のこと。②心を起こすこと。③事を起こすこと。④迷いが起こること。

 

闍王の身瘡

闍王は阿闍世王のこと。阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。

 

五逆誹法の二罪

五逆罪と誹謗正法の二罪のこと。

 

悪瘡

悪性のできもの、はれもの。正法誹謗の罪によって起こるとされる悪重病のひとつ。

 

三七日の短寿

残り3週間・21日間の生命しかない重病。

 

四十年の宝算

40年間の尊い寿命のこと。

 

千人の羅漢

千人の阿羅漢のこと。阿羅漢は声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。

 

一代の金言

釈尊一代50年の説法のこと。

 

正像末

仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

 

流布

広く世に広まること。

 

禅門

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

謗法の一科

正法誹謗の唯一の罪科。

 

所持の妙法

受持している南無妙法蓮華経・御本尊。

 

現実の証拠

 

一切世間眼

すべての世界を正しく見る眼。その眼を持つ仏。

 

大妄語の人

うそつきの人。大虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。

 

綺語の典

真実に背いて巧みな言葉で飾り立てた経典。

 

名を惜しみ

名誉を大切に思うこと。

 

世尊

世に尊敬される仏を指す。仏の10号のひとつ。

 

働きかけによって現れる結果・利益。

 

堅く約束すること。

 

賢聖

聖人と賢人のこと。

 

叫喚

叫びわめくこと。

 

書は言を尽さず

文章では言いたいことを十分に書き尽くせないということ。

 

言は心を尽さず

言語では思っていることを十分に言い表せないということ。

 

見参

対面・お目にかかること。

 

講義

太田入道の病気が、過去の謗法の罪を滅して未来の大苦を免れるために起きたものであることを明かして、信心を励まされている。

太田入道が、真言の檀那の家来筋の家に生まれ、長年の間、悪法に染まってきたことを指摘され、この謗法の罪は滅し難いが、宿縁があったためか、仏の大慈悲によってか、日蓮大聖人にお会いすることができて謗法を悔い改め、発心して正法を信受したことによって、未来に受けるべき大苦悩を償うために、現在に軽い病気が現れたのであると、述べられている。

この転重軽受の法門は、文永8年(127110月に、太田入道・曾谷入道・金原法橋の3人に対して与えられた御消息の中でも明かされている。そこでは、大難を受けることが過去の正法誹謗の重罪を軽く受けて消滅するためであることを教えられているが、本抄では太田入道の病気も過去の謗法を軽く受けて消すためであるといわれている。したがって、現実には重い病気であっても、未来に受けるべき大苦悩に比べればはるかに軽い病気といえるのである。

そして阿闍世王の場合、全身に悪瘡を生じて寿命まで尽きようとしたのは、五逆罪と謗法の罪によって招いたものであり、仏が月愛三昧に入って阿闍世王を照らしたために悪瘡がたちまちに消え、21日間の短い寿命が、40年も寿命を保つことができたと述べられ、それと比べ合わせたとき、太田入道がこの病を乗り越えられないわけがないと励まされている。

寿命をのばすことができた阿闍世王は、釈尊の滅後、1000人の弟子が集って行ったとされる第1回の経典の結集を外護している。釈尊の滅後、仏の教法が散逸するのを恐れた迦葉が上首となって、阿難が経を、優婆離が律を誦して、経と律の結集が行われた。大唐西域記には、第1回の結集は阿闍世王の王舎城の南、畢波羅山麓の畢波羅窟の法堂で行われたとあるが、異論もある。なお、経典の結集はこのあと、100年ほどの間隔で4回にわたって行われている。

いずれにせよ、釈尊はその教えを各地を巡回するなかで、さまざまな人を対象に説いたものであり、もし、阿闍世王の外護によってこの第1回の結集が行われていなかったら、各地にバラバラに伝えられるのみで、やがては消滅していったであろう。まさに阿闍世王の寿命が延びたことによって、釈尊の教えが、その後、正法・像法・末法にわたって流布し、人々を利益していきことが可能になったのである。

阿闍世王に比べれば、太田入道の病気は、真言を信じて正法を誹謗した罪だけであり、しかも信受している妙法は、釈尊の月愛三昧とは比較にならない大法であるから、この軽病を治して長寿を招けないはずはない、と励まされている。

そして、もし病が治らないようなことがあれば、仏は大妄語の人であり、法華経は真実でない偽りの経典であると訴え、名を惜しむならば、仏よ験を顕し、諸の賢聖は来って護りたまえと強く叫べ、と教えられている。

阿闍世王の重い悪瘡でさえも治ったのであるから、太田入道の病気は、妙法の力で治らないはずはないとの大確信に立つよう促されて、本抄を結ばれている。

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