報恩抄
建治2年(ʼ76)7月21日 55歳 浄顕房・義浄房
第十三章(弘法の真言伝弘)
本文
又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり後には弘法大師とがうす、去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受し大同二年十月二十二日に御帰朝平城天王の御宇なり、桓武天王は御ほうぎよ平城天王に見参し御用いありて御帰依・他にことなりしかども平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給いしかば弘法ひき入れてありし程に伝教大師は嵯峨天王の弘仁十三年六月四日御入滅、同じき弘仁十四年より弘法大師・王の御師となり真言宗を立てて東寺を給真言和尚とがうし此より八宗始る、一代の勝劣を判じて云く第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云、法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり、教主釈尊は仏なれども大日如来に向うれば無明の辺域と申して皇帝と俘囚との如し、天台大師は盗人なり真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐というなんどかかれしかば法華経はいみじとをもへども弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず、天竺の外道はさて置きぬ漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり、例ば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし、伝教大師・御存生ならば一言は出されべかりける事なり、又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん天下第一の大凶なり、
現代語訳
また、石淵の勤操僧正の弟子に空海という者があり、後に弘法大師と号した。この人は、さる延暦二十三年五月十二日に入唐し、中国の地において金剛智・善無畏両三蔵の第三代目の弟子である慧果和尚から、金剛界および胎蔵界の真言を伝受した。そして平城天皇の大同二年十月二十二日に帰朝した。
その時は、すでに桓武天皇は崩御されて、平城天皇の代であったが、平城天皇にたびたび面会して上奏した。平城天皇も深く信用して帰依した。しかし、まもなく平城天皇は退位され、嵯峨天皇が即位した。嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日に、伝教大師は入滅された。同じく弘仁十四年から、いよいよ弘法大師は嵯峨天皇の師となり、真言宗を打ち立てて、東寺をたまわり真言和尚となり、世に認められて、日本における仏教の八宗として出発したのである。
弘法は、釈尊一代の教法を判じていわく、「第一真言大日経、第二華厳、第三は法華涅槃である」等と。しかも弘法は「法華経は、阿含経、方等経、般若経等に対すれば真実の経であるけれども、華厳経、大日経に望むれば戯論の法である。法華経を説かれた教主釈尊は、仏ではあるけれども、大日如来に比すれば、無明の辺域を脱しきれぬ仏である。あたかも皇帝と俘囚(捕虜)のごときである。天台大師は盗人である。真言の醍醐味を取って、法華経を醍醐という」等と書いたので、彼のいうことを聞いていると、みなは内心では法華経は勝れた教えだとは思うけれども、弘法大師にあえば、物の数でないことになってしまう。
インドの外道の邪義であることはさておいて、中国の南三北七の邪師が、法華経は涅槃経に比すれば邪見の法だといったよりも、はなはだしい謗法であり、華厳宗のものが、法華経は華厳に対すれば、枝末の教だと説いたよりも過ぎている。たとえば、彼の月氏の大慢婆羅門が、大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくって、その上にのぼって種々の邪法をひろめたのにひとしい。もし、かりに、伝教大師が御存生であったならば、かならずや破折のことばを出されたにちがいないのである。
御入滅なされた伝教大師はともかく、伝教大師に師事したところの、義真・円澄・慈覚・智証等は、弘法の所説に不審を懐かなかったのであろうか。これまことに奇怪であるが、このことこそ、まさに、天下第一の大凶、大不幸というべきである。
語釈
石淵の勤操僧正
(0758~0827)。大和国石淵寺の三論宗の僧。善議法師から三論宗を受ける。伝教大師からは密潅を受け、弘法大師には三論宗を伝えた。六宗七大寺14人の碩徳 に加わり、伝教大師と論議して敗れた。
空海
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。空海は諱。諡号は弘法大師。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
慧果和尚
(0746~0806)。中国唐代の僧。照応(陝西省臨潼の人で、俗姓を馬という。真言宗東寺派では、大日如来から法を受けついだ第七祖とする。不空の弟子。唐の代宗、徳宗、順宗の三朝に国師として尊敬された。永貞元年(0805)弘法に教えを伝えた。
両界
真言宗の依経である大日経胎蔵界と金剛頂経金剛界曼荼羅。
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
無明の辺域
真言の祖・弘法がその著「秘蔵宝鑰」のなかでいっている言葉。「法身真如一道無為の真理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ即ち初門なり……此の理を証する仏をまた、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくの如き一心は無明の辺域にして、明の分位にあらず」と。すなわち「顕教諸説の法身真如の理は、真言門に対すれば、なお、仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は明の分位たる果門に対すれば、無明の辺域にほかならない」という邪義を述べている。
大慢婆羅門
インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。
大自在天
梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)の音写。もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天と音写され、大自在天と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。
那羅延天
梵語ナーラーヤナ(Nārāyaṇa)の音写。大力の神と訳し、堅固力士、金剛力士ともいう。大日経には、毘紐天の別名で、仏の分身であり、迦楼羅鳥に乗って空を行くとある。一切経音義巻六には、この神を供養するものは多くの力を得るとあり、大毘婆沙論にも同様の大力が示されている。
婆籔天
梵語ヴァスデーヴァ(Vasu-deva)、音写して婆藪天。「意譯世天」と訳す。此天為毘紐天の子。
講義
この章からは日本の真言の開祖たる弘法・慈覚の伝弘を明かしている。まず本章は弘法である。
真言は亡国の悪法
前章の講義にも真言の邪義謗法を指摘したが、じつに真言宗というのは国を滅ぼし家を滅ぼす悪法邪法である。
彼らの立てるところによれば、大日如来が色究竟天法界宮において大日経を説き、金剛頂経を説いた。金剛薩埵がそれらを結集して南天の鉄塔においた。
釈尊滅後の100年ころ、竜樹菩薩がその鉄塔の扉を開き、両経を金剛薩埵より授かり、これを竜智菩薩に伝えた。竜智はさらに大日経等を善無畏に、金剛頂経を金剛智に授けたという。さらに不空に伝えられ、不空は慧果に伝えた。善無畏・金剛智・不空・慧果はみな中国において弘通したが、いまだ真言宗という一宗派にはなっていなかった。
日本の弘法は慧果より、金剛・胎蔵両部を伝承し、帰朝の後、真言宗として日本に弘めた。弘法や正覚房や慈恩が、法身の大日を立てるとともに、口をきわめて法華経や釈尊を戯論だなどとののしったことは、前章の講義のとおりである。
しかして弘法の流れは、弘法の立てた東寺を中心にして弘めたので、東密という。これに対し、慈覚や智証は天台宗の座主でありながら、天台・法華を破し、真言を第一と立てて弘通したので、これを台密とう。
日蓮大聖人は真言を亡国の邪法なりと断定されたのは、おのれの主君である釈尊を捨て、法身の大日を立てるので、亡国とおおせられたのである。大日如来は法身仏であって、われわれの生活に直接の関係はない。慈悲と智慧をもって衆生を化導する一身即三身の仏こそ、主師親の三徳の仏である。正像には釈尊、末法には日蓮大聖人こそ主師親三徳の仏である。
誤れる宗教がなぜ国を滅ぼすか。現代人は宗教に無智であるから不思議に思うであろう。しかるに開目抄には「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(0200:09)と仰せられている。いくら仏道修行に励んでも、いくら努力をつみ重ねても、国に亡国の邪法が流行していては、民衆の幸福はありえないのである。とくに一国の指導者・政治上の権力者が、心すべきことはこのことである。
現在の真言宗は、台密を別にすれば、いずれも弘法を開祖として、高野山を総本山とする古義真言宗と、智山、豊山の両山を総本山とする新義真言宗とに分けられる。すなわち古義は高野山金剛峯寺、仁和寺、大覚寺等の古義真言宗、真言宗東寺、真言宗醍醐寺等の七派であり、これに対して新義は真言宗豊山派と真言宗智山派である。
新義派は、法身の大日如来が自証極意という絶対の位で説法したのが大日経であるとする本地身説法を説き、古義派は衆生を加護するための加持身を現わして説法したのが大日経であるとする加持身説法を説く。しかし、いずれの派も、釈尊出世の本懐である法華経を第三の劣、戯論と下し、また釈迦仏を無明の辺域であり草履取りにも及ばないという邪義を立てている。
江戸時代の中期に、第五代将軍綱吉は始め英邁な将軍とされていたが、後に新義真言の隆光に帰依してから悪政をほしいままにし、隆光の勧めで、世に悪名高い「生類憐みの令」によって、人間を犬等の畜生以下に取り扱う等の暴挙に出たこともあった。現在も真言の悪義は亡国亡家の教えであり、真言の祈禱によって、国を滅ぼし社会を混乱させ家を滅ぼした例は無数にある。また成田不動などの不動信仰も、真言密教の邪悪な修法の流れであり、同じく大きな害毒を社会に流しているのである。弘法ひとりの我見によって、現在まで、日本国中に邪法がまき散らされていることは、まことに恐るべきことといわなければならない。
第十四章(慈覚の真言転落)
本文
慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐・漢土にして十年が間・天台・真言の二宗をならう、法華・大日経の勝劣を習いしに法全・元政等の八人の真言師には法華経と大日経は理同事勝等云云、天台宗の志遠・広修・維蠲等に習いしには大日経は方等部の摂等云云、同じき承和十三年九月十日に御帰朝・嘉祥元年六月十四日に宣旨下、法華・大日経等の勝劣は漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻・已上十四巻此疏の心は大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と法華経の義は其の所詮の理は一同なれども事相の印と真言とは真言の三部経すぐれたりと云云、此れは偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし、然れども我が心に猶不審やのこりけん又心にはとけてんけれども人の不審をはらさんとや・おぼしけん、此の十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて御祈請ありき・かくは造りて候へども仏意計りがたし大日の三部やすぐれたる法華経の三部やまされると御祈念有りしかば五日と申す五更に忽に夢想あり、青天に大日輪かかり給へり矢をもてこれを射ければ矢飛んで天にのぼり日輪の中に立ちぬ日輪動転してすでに地に落んとすと・をもひて・うちさめぬ、悦んで云く我吉夢あり法華経に真言勝れたりと造りつるふみは仏意に叶いけりと悦ばせ給いて宣旨を申し下して日本国に弘通あり、而も宣旨の心に云く「遂に知んぬ天台の止観と真言の法義とは理冥に符えり」等と云云、祈請のごときんば大日経に法華経は劣なるやうなり、宣旨を申し下すには法華経と大日経とは同じ等云云。
現代語訳
慈覚大師は、去る承和五年に入唐、彼の中国で十年のあいだ、天台・真言の両宗を学んだのである。
法華経と大日経との勝劣について、法全・元政等の八人の真言師に学んだところが、法華経と大日経とはその所詮の理は等しいけれども、事相たる印と真言においては大日は勝れ、法華経は劣るという理同事勝をとなえていた。また、天台宗の志遠・広脩・維蠲等に学んだところは、大日経は釈尊一代五時説法中の第三方等部の部類であり、法華経より格段に劣ると説いていた。
こうして慈覚は、承和十三年九月十日に帰朝した。その翌々年の嘉祥元年六月十四日に、真言灌頂の事を願い出たところが、行なってもよいという宣旨が下った。慈覚は法華経と大日経等の勝劣については、中国で学んだあいだは、知ることができなかったかのごとくであった。ゆえに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、合して以上十四巻の疏を作ったのであるが、この疏の意は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経の説く義と、法華経の義は、その説き明かす所詮の理は同じであるが、事相たる印と真言においては、真言の三部経が勝れ、法華経は劣っているというのである。
この所見は、まったく善無畏・金剛智・不空等の意によったもので、彼らの大日経の疏の意と同じである。しかし、このように書いたものの、わが心になお不審が残っていたためか、また自分の心では決めていても、他の人々の不審をはらそうと思ったのか、慈覚は、この十四巻の疏を、本尊の宝前に安置して祈請をしたのである。すなわち、自分はこの疏に意見をしたためたのであるが、仏意のほどはなかなかはかりがたい。大日経の三部が勝れるものか、法華経の三部が勝れるのか、験をたまわりたいと祈ったところが、五日目の午前四時ごろに夢想があった。それは、青天に大日輪がかかり、矢をもってこれを射たところ、矢飛んで空に上り、日輪の中に当たったので、日輪は動転して地に落ちんとした時に夢さめたのである。夢さめて慈覚は、ひじょうに喜んでいうのには、「われにとってまさに吉夢である。法華経に真言勝るるという所見は、すでに仏意にかなっている証拠である」と喜んでいった。そこで宣旨を得て、日本全国にひろめたのである。
しかし妙なことに、この宣旨には、「ついに天台の止観と、真言の法義とは、その所詮の理は冥合である」といっている。祈請の意は、「大日経は勝れ、法華経は劣る」というのであるから、宣旨を申し下した「法華経と大日経とは同じ」という内容と、ぜんぜん違い、まことに奇怪千万なことである。
語釈
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
法全
生没年不明。中国唐代の真言宗の僧で慧果の法孫。長安青竜寺で義操から真言密教の胎蔵界を学び、玄法寺に到り、後に青竜寺に移った。この両寺において、慈覚・智証等の当時日本からの留学僧の多くは、法全について胎蔵界を学び、両寺の二儀軌を持ち帰っている。
元政
中国・唐代の真言宗の僧。慧果の弟子恵則に従って密教を修業し、長安大興善寺翻経院に住んだ。叡山第三代座主の慈覚は承和5年(0838)入唐し、金剛界の教えを受けた。
志遠
(0768~0844)。中国・唐代の天台宗の僧。幼くして父を失ったが、母は常に法華経を念じてその義を悟ったという。各地の名徳をたずね五台山華厳寺に入って天台宗を学び、入唐した慈覚に止観を伝えた。
広脩
(0771~0843)。中国・唐代の天台宗の僧。広修とも書き、至行尊者ともいわれる。道邃和尚の弟子となり、天台山禅林寺で天台の教観を学び、法華経・維摩経・金光明経等を日々読誦したといわれる。後に、請われて台州に行き、学堂で止観を講じた。円澄の「延暦寺未決三十条」の問いに対して、開成5年(0840)弟子の維蠲とともに答えている。
維蠲
中国天台宗、天台山広脩座主の高弟。妙楽大師の法曽孫。
金剛頂経の疏七巻
金剛頂経を慈覚大師が訳した書。7巻からなる。
蘇悉地経の疏七巻
蘇悉地経を慈覚大師が撰した書。7巻からなる。
忽に夢想あり
慈覚大師は、仁寿元年(0851)金剛頂経の疏を作り、4年後の斎衡2年(0854)、蘇悉地経の疏を作った。この二経の疏を仏像の前に置き、7日間の祈りをこらした。5日目の夜に、晴天にかかった日輪を射て、動転させる夢をみて、これこそ仏意にかなった吉夢として、後世に伝え、流布した。ただしこの夢は吉夢ではなく悪夢である。
疏
障なく通ずること。そこから、経典などの文義の筋道を明確にし、わかりやすく説き分けること。また、その書をいう。
講義
この章は慈覚の伝弘を明かし、その謗法を破折なされている。
14巻の疏を作り、その疏が仏意にかなう証拠として、夢に日輪を射て、矢が日輪に立ち、日輪が動転するのを見たという。このような大凶夢を、仏意にかなうなどというのは、じつに言語道断である。また、まことに非科学的であるといわざるをえない。
ゆえに撰時抄には「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり」(0279:12)とて、慈覚が天台の第三の座主でありながら、法華に真言は勝れると立て、日本国の滅亡の原因をつくってしまったことを責められている。慈覚、智証ともに本来は天台宗であり、伝教大師の弟子であり孫弟子である。ゆえに恩師の正義を奉じて、おおいにこれを高顕するとともに、もし恩師の滅後に邪智邪見の者が出現したならば、不自惜身命の戦いをなすべき地位にあったのである。
しかるに彼らは、真言の研究に没頭し、ついには法華が劣り、真言が勝れるという、とんでもない弘法の邪義に転落した。本来が弘法の弟子で、師の邪義を受け継いだというのなら、同じ地獄へ堕ちてもまだやむをえない一面があるとしても、天台座主という仏教界の最高の地位にありながら、邪義邪見に陥ったということは、「百千万億倍・信じがたき最大の悪事」と責められるのもとうぜんであろう。
宗教批判の原理に、文証、理証、現証ということがある。どんな幼稚な人であっても、太陽を射落として、これが吉夢だなどということが、道理の上から考えても、生活現証の上から考えても、どうしていえるであろうか。しょせん狂人というよりほかはないのである。
まことに慈覚の理同事勝の邪見は、救いがたいものであり、日蓮大聖人は「早勝問答」の中に「慈覚大師を無間と申すなり」(0165:12)ともおおせである。
慈覚は諱(いみな:本名)を円仁といい、下野国都賀郡の人である。年15にして伝教大師の弟子となり、後に止観院において円頓戒もうけ、承和5年(0838)、勅を奉じて唐に渡った。年の間、修行研鑽に励み承和13年(0843)9月帰朝した。この間の「日記」や「入唐巡礼記」は有名で、細密な記録は当時の唐を語る貴重な文献として珍重されているが、その後、延暦寺座主に任ぜられながら、真言に転落したのである。世上、いかに尊敬され、記録を残そうとも、仏法において大違失、大謗法あるならば、仏敵としか言いようがない。これは、弘法や智証等、すべての邪師に通ずる問題である。
はたせるかな、弘法、慈覚等の最後は、はなはだ悪かったのである。日蓮大聖人の教行証御書には「一切は現証には如かず善無畏・一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様・実に正法の行者是くの如くに有るべく候や、……是くの如き人人の所見は権経権宗の虚妄の仏法の習いにてや候らん、それほどに浦山敷もなき死去にて候ぞや」(1279:16)とおおせである。
すなわち慈覚の遺体は、今、山形県の山寺、立石寺にありというが、首と胴が離れ離れになっており、死去のありさまは大変悪かったようである。また弘法も死去の前に悪瘡が身体に生じて苦しみ、死去の際も入定と称して誰にも会わせなかったといわれ、七百年前には、明白な記録があったゆえに、日蓮大聖人が、かくおおせになったと思われるのである。「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(1404:妙法尼御前御返事(臨終一大事の事):07)の御金言、もっていかんとなすや。
現代の仏教観
ところで、一般世間の弘法、慈覚、忍性良観等に対する見方は、仏法の正邪、あるいは民衆に真の幸福をあたえたかどうかではなくして、多分に表面的なものや形式等を中心にして評価しているのである。とくに、現代人の仏教観はますます仏法の真髄から離れる傾向にあることは、おおいにいましめていかなければならない問題であろう。
たとえば、現代の人々は、仏教といえば「消極的なあきらめの宗教である」「念仏のような他力本願の宗教である」「座禅を組むのが仏教の教えである」「仏教はなんでも同じである」あるいは「仏とは死んだ人をさすのである」「南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も同じである」等というような、きわめて浅薄な誤れる仏教観しかもっていない。
その結果、仏教を軽べつし、興味を失い、キリスト教や西洋哲学のような低級宗教、低級哲学に走ってしまうのである。これも、いままで、あまりにも堕落しすぎた既成仏教、葬式仏教、墓守り仏教の罪というべきである。しかし、真実の仏教は、全世界の宗教、哲学を堂々とリードし、指導しきっていく大生命哲学なることを知らなければならない。
よく仏教で「諦観」「諦め」「三諦」とかいう、いわゆる「諦める」とは、現在のように、「消極的に物事を思いきる」「断念する」意味ではなくて、「物事の道理をあきらかに究明しきっていく」ことを意味しているのである。そして、その結果、空仮中の三諦とか、三諦円融とか、西洋哲学も遠くおよばない、まさに画期的な思想体系を作り上げているのである。
また「念仏のような他力本願」「禅宗のような自力本願」といわれるような教えは、すでに三千年前、釈尊が方便権教として捨て去るべきであると決定した低級哲学であり、真実の仏教は、釈尊在世には法華経、像法時代には法華経迹門、理の一念三千、現代においては日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経の教え以外にないことを仏教史観に照らして明らかに知るべきである。仏教には五時八教、五綱等があって、けっして「仏教はなんでも同じ」ではなく、厳然と優劣正邪があるのである。
さらに仏とは「死んだ人」というような観念は、仏教思想が堕落した江戸時代ごろからいわれたことであり、真実の仏とは、インドの釈尊、日本の日蓮大聖人のごとく、絶対的幸福の境涯に達し、すべての民衆を救い切っていく大聖哲をさすのである。また仏教においては、一念三千の理法によって、真実の本尊を信じ行ずることによって、あらゆる人が、人間革命しえて絶対的幸福の境涯に達することができることを教えているのである。したがって、正しい仏教を信じた人は仏となり、邪法邪義を信じ正法を信じない人は現世にも苦しみ、死んでも仏とはなれないのである。
卑近な例のみをあげたが、そのほか現代人には真実の仏教に対する誤解が満ちみちているといっても過言ではない。心ある人々が、早く東洋仏法の真髄、世界最高の大哲学を求めて、各個人の偉大なる人間革命と、社会繁栄の実をあげていただきたいことを、心から念願してやまないものである。
第十五章(智証の真言転落)
本文
智証大師は本朝にしては義真和尚・円澄大師別当・慈覚等の弟子なり、顕密の二道は大体・此の国にして学し給いけり天台・真言の二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡り給けるか、去仁寿二年に御入唐・漢土にしては真言宗は法全・元政等にならはせ給い大体・大日経と法華経とは理同事勝・慈覚の義のごとし、天台宗は良諝和尚にならひ給い・真言・天台の勝劣・大日経は華厳・法華等には及ばず等云云、七年が間・漢土に経て去る貞観元年五月十七日に御帰朝、大日経の旨帰に云く「法華尚及ばず況や自余の教をや」等云云、此釈は法華経は大日経には劣る等云云、又授決集に云く「真言禅門乃至若し華厳法華涅槃等の経に望むれば是れ摂引門」等云云、普賢経の記・論の記に云く同じ等云云、貞観八年丙戌四月廿九日壬申・勅宣を申し下して云く「聞くならく真言・止観・両教の宗同じく醍醐と号し倶に深秘と称す」等云云、又六月三日の勅宣に云く「先師既に両業を開いて以て我が道と為す代代の座主相承して兼ね伝えざること莫し在後の輩豈旧迹に乖かんや、聞くならく山上の僧等専ら先師の義に違いて偏執の心を成ず殆んど余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みざるに似たり、凡そ厥の師資の道・一を闕きても不可なり伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや、今より以後宜く両教に通達するの人を以て 延暦寺の座主と為し立てて恒例と為すべし」云云。
現代語訳
智証大師は、入唐前、日本において義真和尚、円澄大師、別当の光定、慈覚等の弟子であった。ゆえに、顕密の二道は、だいたいこの日本国において勉学し終わった。しかるに天台、真言の二宗の勝劣に不審の念をいだき、それを解決するために中国へ渡ったのであろうか、去る仁寿二年に入唐し、中国においては、真言宗は法全・元政等に学んだが、だいたいにおいて、大日経の勝劣については、慈覚の邪義のごとく、同じく理同事勝の邪義であった。
天台宗については、良諝和尚に学びとり、真言、天台の勝劣においては、大日経は華厳・法華経にはおよばぬという教えを学んだ。七年のあいだ、中国において研究し、去る貞観元年五月十七日に帰朝した。その所見を発表した大日経旨帰にいわく「法華経でさえ大日経にはおよばない。ましてその他の教法においてをや」と。すなわち、この釈では、法華経は大日経に劣ることを説いている。また授決集にいわく「真言や禅宗が、乃至もし華厳や法華、涅槃経等と比較するならば、摂引門にあたり、大日経等は法華に入らしめるためである」と。その他、普賢経の記、および法華論の記にも同じく書かれている。
また、貞観八年丙戌四月廿九日壬申に勅宣を申し下して「聞くところによれば、真言、止観の両教の宗は同じく醍醐の教えであり、ともに深秘の法である」といっている。また六月三日の勅宣にいうには、「先師伝教大師は、すでに止観、遮那の両業を開いて、もってわが天台家の修道とされた。したがって、代々の天台宗座主はみなこれを相承して、両業を兼ね伝えぬことはなかった。後人のやから、またこの旧来の義に違背すべきではない。聞くところによれば、近来の比叡山の僧等は、もっぱら先師の義に違背して、自分の勝手な偏執の心をおこしている。しかして、ほとんど古来からの余風を宣揚し、旧業を興隆することを顧みようとしないのである。およそ、師資の道がそのまま一つ闕けてもならないのである。伝弘のつとめは、先師のごとく兼備していかなければならない。いまより以後は、よろしく顕密両教に通達する人をもって、延暦寺の座主として立てることを恒例とする」と。
かくのごとく、智証のいうことは、あるいは真言が勝れ、あるいは法華が勝れ、あるいは同じなどと、すべて矛盾に終始しているのである。
語釈
智証大師
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
義真和尚
(0781~0833)。平安前期の天台宗の僧。比叡山延暦寺第一代座主。修禅大師と称される。相模(神奈川県)の出身。俗性は丸子連または丸子部。はじめ奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から受戒され中国語にも通じた。その後最澄に師事、延暦23年(0804)最澄の入唐時、訳語僧として随行し通訳を務めた。最澄の死後、大乗戒壇設立の勅許を得て戒和上となった。著書に「天台法華宗義集」1巻などがある。「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり」(0310:報恩抄:14)とおおせで、義真が師の正義をよく奉じたことを賞されている。
円澄大師
(0771年~0836)。比叡山延暦寺第二代座主。諡号は寂光大師。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310:報恩抄:14)、「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320:報恩抄:04)とおおせで、円澄はその心の半分を、他師である弘法の方に向けている、と喝破されている。
別当
(0779~0858)。光定のこと。延暦寺の別当となったことから別当大師とも呼ばれた。伊予(愛媛県)に生まれ、30歳の時に伝教大師の弟子となる。よく宗義を論じ、大乗戒壇設立に尽力した。著書に「一心戒文」などがある。
慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
顕密の二道
顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
法全
生没年不明。中国唐代の真言宗の僧で慧果の法孫。長安青竜寺で義操から真言密教の胎蔵界を学び、玄法寺に到り、後に青竜寺に移った。この両寺において、慈覚・智証等の当時日本からの留学僧の多くは、法全について胎蔵界を学び、両寺の二儀軌を持ち帰っている。
元政
中国・唐代の真言宗の僧。慧果の弟子恵則に従って密教を修業し、長安大興善寺翻経院に住んだ。叡山第三代座主の慈覚は承和5年(0832)入唐し、金剛界の教えを受けた。
良諝和尚
生没年不明。中国・唐代の天台宗の僧。良湑とも書く。天台大師から第九代の伝法弟子。開元寺に住み、後に日本天台宗第五代になる智証が嘉祥4年(0851)にこの寺を訪れた時、天台宗旨を講述した。和尚は弟子から呼ぶ師匠の称。なお禅宗では「おしょう」、天台では「かしょう」、真言、律宗では「わじょう」と読む。
授決集
智証の著。二巻。
摂引門
授決集には「真言・禅門……若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば是れ摂引門」とある。真実の教えに摂引すべき方便の門すなわち、真言、禅等は、法華へ入らしむるためのものであるとの意。
普賢経の記
智証の著。「観普賢菩薩行法経記」2巻のこと。
論の記
智証の著。天親(世親)の法華論を注釈した「法華論記」10巻、略して「論記」という。
醍醐
五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。
両業
天台宗の学生が学ぶべき二つの行為で、止観業と遮那業のこと。
相承
相は相対の意、承は伝承の義。師弟相対して師匠から弟子に法を伝承すること。
旧迹
伝教の開創した天台宗の行業。
山上の僧
比叡山延暦寺の僧。
扇揚
あふりたて、さかんにすること。
師資の道
教法を授受するの道。資は稟の義で弟子をいう。
両教
顕密両教のこと。
講義
次にこの章は智証の伝弘である。
智証は諱を円珍といい、後に三井寺を再興した。三井寺はまた園城寺ともいう。智証は慈覚と同じく、理同事勝の邪義を弘めたが、慈覚を祖とする比叡山延暦寺と、智証を祖とする園城寺は、後に犬猿のごとく相争い、日本歴史に、また仏教史上に、大きな汚点を残すようになるのである。
そして、比叡山と三井寺は、約千年の間、日本民族を不幸にしながら、現在においては、あわれな旧跡をとどめて、また観光地化に一役かっているような姿にすぎない。本師・伝教大師が、いかほど嘆き悲しんでいるか、察するにあまりあるものである。
智証は、伝教大師や慈覚と同じく、唐へ渡って仏法の正邪を明らめようとした。仏法東漸の像法時代において当時の仏道修行者は、一度は大陸へ渡って、一切経を学び、奥底をきわめようとすることを願っていた。これはちょうど現在、留学生が欧米に渡っているのと似ているのである。そうすることは、世間的にも、また官に仕える立場からいっても、ひとつの資格のように思われていたのである。しかるに今日では、かつて仏教の発生したインドにおいても、また多くの日本の留学生を迎え仏教の中心として栄えた中国の各地においても、仏教はすでに亡び去っている。
現在は仏法西漸の時代である。末法の御本仏は、この日本の国に出現あそばされ、三大秘法をお建てになったのである。これによって一切衆生の即身成仏もかなうのである。
智証の矛盾
さて本章では智証の矛盾を挙げられている。
一には大日経旨帰には「真言は勝れ、法華でさえ真言に及ばないから、余経は問題ではない」といっている。
二には授決集には「法華経が勝れていて、真言などは摂引門でしかありえない」といっている。
三には勅宣を引いて「真言と法華は等しい」といっている。
なぜ勅宣を引いて智証の矛盾をあげたかといえば、その宣示は智証の申し述べた意味をそのまま取って宣示されたから、これを引かれたのである。
第十六章(慈覚智証を破責す)
本文
されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値いて有りしかども二宗の勝劣は思い定めざりけるか或は真言すぐれ或は法華すぐれ或は理同事勝等云云、宣旨を申し下すには二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり、此れ等は皆自語相違といゐぬべし他宗の人はよも用いじとみえて候、但二宗斉等とは先師伝教大師の御義と宣旨に引き載せられたり、抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや此の事よくよく尋ぬべし、慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは親に値うての年あらそひ日天に値い奉りての目くらべにては候へども慈覚・智証の御かたふどを・せさせ給はん人人は分明なる証文をかまへさせ給うべし、詮ずるところは信をとらんがためなり、玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき、法護三蔵は印度の法華経をば見たれども嘱累の先後をば漢土の人みねどもあやまりといひしぞかし、設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん、伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の秘書なり、彼の書の序に云く「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し旧到の華厳家は則ち影響の軌範を隠し、沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れて称心の酔を覆う、著有の法相は撲揚の帰依を非し青竜の判経を撥う等、乃至謹んで依憑集の一巻を著わして同我の後哲に贈る某の時興ること日本第五十二葉・弘仁の七丙申の歳なり」云云、次ぎ下の正宗に云く「天竺の名僧大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪えたりと聞いて渇仰して訪問す」云云、次ぎ下に云く「豈中国に法を失つて之を四維に求むるに非ずや而かも此の方に識ること有る者少し魯人の如きのみ」等云云、此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり、天台・真言の二宗・同一味ならばいかでかせめ候べき、而も不空三蔵等をば魯人のごとしなんどかかれて候、善無畏・金剛智・不空の真言宗いみじくば・いかでか魯人と悪口あるべき、又天竺の真言が天台宗に同じきも又勝れたるならば 天竺の名僧いかでか不空にあつらへ中国に正法なしとはいうべき、それは・いかにもあれ慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とは・なのらせ給ども心は御弟子にあらず、其の故は此の書に云く「謹で依憑集一巻を著わして 同我の後哲に贈る」等云云、同我の二字は真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ同我にてはあるべけれ我と申し下さるる宣旨に云く「専ら先師の義に違い偏執の心を成す」等云云、又云く「凡そ厥師資の道一を闕いても不可なり」等云云、此の宣旨のごとくならば慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ、かうせめ候もをそれにては候へども此れをせめずば大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じていのちをまとに・かけてせめ候なり、此の二人の人人の弘法大師の邪義をせめ候はざりけるは最も道理にて候いけるなり、されば粮米をつくし人をわづらはして漢土へわたらせ給はんよりは本師・伝教大師の御義を・よくよく・つくさせ給うべかりけるにや、されば叡山の仏法は但だ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん、天台座主すでに真言の座主にうつりぬ名と所領とは天台山其の主は真言師なり、されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給う人なり、已今当の経文をやぶらせ給うは・あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや、弘法大師こそ第一の謗法の人とおもうに、これは・それには・にるべくもなき僻事なり、其の故は水火・天地なる事は僻事なれども人用ゆる事なければ其の僻事成ずる事なし、弘法大師の御義はあまり僻事なれば弟子等も用ゆる事なし事相計りは其の門家なれども其の教相の法門は弘法の義いゐにくきゆへに善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり、慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なりなんど申せば皆人さもやと・をもう、かう・をもうゆへに事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり、例せば法師と尼と黒と青とは・まがひぬべければ眼くらき人はあやまつぞかし、僧と男と白と赤とは目くらき人も迷わず、いわうや眼あきらかなる者をや、慈覚・智証の義は法師と尼と黒と青とが・ごとくなる・ゆへに智人も迷い愚人もあやまり候て此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ。
現代語訳
されば慈覚と智証の二人は、伝教の弟子であり、また義真の弟子である。しかも、ともに中国に渡っては、天台宗や真言宗の明師に会って学んでいるのであるが、天台、真言の二宗の勝劣については、決定し兼ねたのか、あるいは真言がすぐれるといい、あるいは法華経がすぐれるといい、あるいは理同事勝である等といっている。宣旨を申し下した文の中には、天台、真言の二宗の勝劣を論ずるものは違勅の罪人であるといましめている。
これらは、みな自語相違というべきである。真言宗のほかの他宗の人々は、もはや信用しないであろう。しかして真言天台の二宗は斉しいということは、先師伝教大師の御義である等と宣旨に引きのせられているが、いったい伝教大師のいずれの書物に書かれていることか、よくよくたずねてみるべきである。慈覚、智証と日蓮大聖人とが伝教大師の御事を、いろいろ詮索するのは、親に会い親の前でその年をいいあらそうようなものであり、日天に向かって自分の目が太陽よりも明るいというようなものである。すなわち慈覚・智証は伝教大師の直弟であり、日蓮大聖人は後世の者であるからである。しかし、慈覚・智証の味方をする人々は、もっとも明らかなる証文をいだすべきである。ということは、つまりは真実の確信を得んがためのものである。
昔、玄奘三蔵はインドで婆沙論を見た人であるが、インドにも行かぬ宝法師に攻められた。法護三蔵はインドの法華経を見たけれど、嘱累の先後については正しくこれを見ることができなかった。ゆえに漢土の人々から、彼は誤ったといわれたのである。たとい慈覚は伝教大師にあいたてまつって習学したとしても、また智証は義真和尚から直接に口決の相承を受けたとしても、伝教大師、義真大師の確証たる正文と相違するならば、慈覚・智証の義に不審を懐かざるをえないではないか。
伝教大師の著に、依憑集という一巻の書がある。この書は伝教大師における第一の重要な意義をもつ秘書である。この依憑集の序にいわく「新来の真言宗は、すなわち筆授の相承の教義を泯亡するものである。旧到の華厳宗はすなわち天台の影響をうけ、天台を規範としたことを隠している。空に沈むところの三論宗は昔、天台の学徒より論破された屈恥を忘れて、章安の講義に心酔したことをかくしている。有相に執着する法相宗のものは撲揚が天台の教義に帰依したことを否定し、また青竜寺の良賁が天台の判教によったことを忘れている。いま、つつしんで依憑集一巻を著わして我に同心なる後来の学者に贈る。日本国第五十二代、弘仁七年、丙申の歳」と。
ついで次下の正宗文には「インドの名僧がいうには中国に天台の教迹があって、まことによく邪正権実を簡ぶということだから、ぜひ見たいと思ってたずねた」とあり、次下には「じつに仏法の中国たるインドに仏法を失って四周の他国に仏教を求めるものではないか。ところが、天台の国の人々は、これほどの大法が自分の国にあることを知っている者は、ほとんどいない。ちょうど、それは魯国の人が自分の国の孔子の偉大さを知らなかったようなものである」と。
依憑集は法相、三論、華厳、真言の四宗を論破したところの書である。天台、真言の二宗が同一味ならば、どうして真言を攻めるわけがあろうか。しかも不空三蔵のことを「魯人」とまでいわれているのである。善無畏、金剛智、不空等の主張する真言がりっぱであるならば、どうして伝教大師が「魯人」などと悪くいわれるわけがあろうか。またインドにある真言が天台宗に同じか、または勝れるならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に天台宗の調査を依頼し、「中国(インド)には彼の正法がないゆえにこれを釈せ」といっただろうか。
いずれにしても、慈覚、智証の二人は言葉では伝教大師の御弟子と名のっているけれども、心はけっして伝教大師の弟子ではないのである。そのわけは依憑集には「謹んで依憑集一巻をあらわして同我の後哲に贈る」とある。同我という二字の意味は、真言宗は天台宗に劣る教であると心得てこそ、同我というのである。しかして慈覚等が申し下した宣旨には「もっぱら先師伝教大師の義に違うて偏執の心を成ず」といい、「おおよそ師資の道というものは、一を闕いても成り立たない」とある。この宣旨によるならば、慈覚、智証こそもっぱら先師伝教大師にそむくものではないか。かくいって責めることは恐れ入ることであるけれども、このように責めなければ、大日経と法華経の勝劣が転倒してしまうと思い、命をかけてこの義を公言し邪義を責めるしだいである。
このようなわけであるから、この慈覚、智証の二人が、弘法大師の邪義を責めなかったのは、まことにとうぜんのことである。されば彼らは多くの費用を浪費し、数多くの人々の労力を使って中国へ渡ることよりも、本師伝教大師の御義を徹底してよくよく研究すべきであった。比叡山の仏法は、ただ伝教大師、義真大師、円澄大師の三代の時までで、以下の天台座主はまったく真言の座主に転落してしまったのである。ゆえにその名と所領とは天台山であるが、その主人は真言師である。
されば慈覚、智証の両大師は「已今当」の経文を破壊した以上は、釈迦、多宝、十方の諸仏の怨敵になるのであって、いままでは弘法大師こそが第一番の謗法者だと思っていたが、彼の慈覚、智証の両師は、弘法以上の大僻見者であった。
そのわけは、水と火、天と地ほど相違した僻事はだれでもこれを見破り、人は信用することがないから、その僻事は成功することはない。弘法大師のいう義は、あまりの僻見であるから、弘法の弟子たちも信用しないのである。弘法の門下たちは、その事相だけはその門流であるが、教相においては、弘法の義は依用しがたいから、善無畏、金剛智、不空、慈覚、智証の義を用いている。慈覚、智証の義こそ真言と天台の理は同じだなどというから、なにびともそうであろうと思っている。
こう思うところから、事に勝れた印、真言について、天台宗の人々も、画像・木像の開眼は、一様にこの事相によらねばならぬとしている。かくして日本一同、真言宗へと転落して、真の天台宗のものは一人もいなくなった。
このように、天台の末学が誤りをおかした原因は彼らに黒白を区分することができなかったからでもあるが、またそれほど酷似していたといえよう。たとえば法師と尼と、黒と青とはよく似ているので、目の悪いものは迷ってしまうのである。僧と俗人、白と赤とは目の悪いものも迷わない。ましてや目が健全なものは迷うわけがない。慈覚、智証の義は、法師と尼と、黒と青とのごとくであるから、智人も迷うのである。ましてや愚人はなお誤ってしまうのである。かくして四百余年間、比叡山、園城寺、東寺は無論のこと、奈良の諸大寺も、五畿七道のものも、日本全国みな真言のものとなった。ゆえにみな大謗法の者となったのである。
語釈
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
婆沙論
説一切有部の教説の注釈書。旧訳は北涼の浮陀跋摩・道泰の共訳による「阿毘曇毘婆沙論」60巻、新訳には玄奘三蔵訳の「阿毘達磨大毘婆沙論」200巻がある。
宝法師
中国・唐代の高僧。はじめは玄奘三蔵の高弟であったが、玄奘が「婆沙論」を訳し終わったとき、非想の見惑について疑問を発した。玄奘は、みずから十六字を論中に加えてその疑問に答えたが、宝法師は、仏語の中に梵語を入れるとはもってのほかであるとし、玄奘の門を去った。後、俱舎宗を弘めた。
法護三蔵
竺法護のこと。中国・三国時代の僧。8歳で出家得道したが、諸大乗経があまり中国へ伝わらないのを嘆き、みずから西域に遊行し、広く言語を学び翻経に一生を捧げた。現存する法華経の三つのうち「正法華経」の訳者である。
嘱累の先後
鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」には、嘱累品は第二十二番目にあるが、法護訳の「正法華経」には経末にある。これを妙楽大師は法華文句記の嘱累品のなかで、羅什訳が正しいとしている。
筆授の相承を泯し
筆授の相承とは、中国・唐代の真言宗の一行阿闍梨が、善無畏三蔵より筆受した真言の相承をいう。一行は嵩山の普寂について禅を学び、更に諸方で律蔵ならびに諸経論を研鑽し、また天台の教義にも通じていたといわれる。善無畏述・一行記の「大日経疏」は、まったく天台宗の立場で大日経を釈したものであるが、弘法の東密は大日経を学ぶうえでこれを唯一絶対の権威としながらも、天台法華を大日の三部より劣ると下している。これは善無畏・一行の真言の相承を破ったものであるという意味。なお「泯す」とは、ほろぼす、すたれさせるなどの意である。
影響の軌範を隠し
華厳宗は、天台宗に影響を受け、天台を規範としたことを隠している。すなわち、華厳の法蔵三蔵の五教(小乗教・大乗始教・大乗終教・大乗頓教・大乗円教)は天台の五時(華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時)に範をとり、それに影響されたのである。
弾訶の屈恥を忘れて
三論の祖である嘉祥が、講義中に、天台の学徒で十七歳の法盛に論難され、まったく閉口したことを示す。
称心の酔を覆う
称心は、章安大師の住所。嘉祥が章安大師の講義を聞いて、体も心も酔うようになったという。このことを隠しているとの意。
撲揚の帰依を非し
撲揚は、中国法相宗第三祖の智周の住所。智周は初め天台に帰依し、「菩薩戒経」の疏をつくったが、日本の法相宗は天台の義によらないので、かくいったのである。
青竜の判経を撥う
中国青竜寺の良賁が、仁王経の註釈をするとき、従来の法相宗の師の分文に従わず天台大師の仁王経疏によって分文したことを忘れている。
同我の後哲に贈る
我に同心なる後来の学者。世の人々におくること。
日本第五十二葉
日本国第52代、嵯峨天皇の御世。
正宗
正宗分のこと。
「豈中国に」
中国とはインドのこと。仏教の中心地の意味でこういう。
四維
四方。周囲のこと。
魯人
露人とも書く。ロシア人のことで、仏教を知らない人々をあらわす言葉として用いられている。
不空にあつらへ中国に正法なし
不空に向かって、インドの僧が仏教の中心地である中国にもはや正法は存在しないといった語。
五畿
畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、帝都より四万500里以内の地をいった。京都を中心として山城・大和・河内・和泉・摂津のこと。
七道
東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道。地理的な行政区分であるとともに、畿内から放射状に伸びる道路名と同時に、諸国を包括する地理的区分でもある。
講義
この章は慈覚、智証が本師・伝教大師に違背した失を顕わし、その謗法の罪を破なされている。
此れ等は皆自語相違ともいゐぬべし
或いは真言すぐれ、或いは法華すぐれ、或いは理同事勝、宣旨には二宗の勝劣を論ずる者は違勅の者と禁止されている。このように真言と法華の勝劣についての彼らの見解がまちまちであるゆえに、自語相違と断ぜられているのである。
しかし、慈覚は、法華が勝れているとはいっていない。法華が勝れると立てたのは智証であるが、いまは相従して両方へかけられたのである。
等海抄にいわく「尋ねて云く真言天台、勝劣同異に幾不同有りや。心賀御義に云く爾なり。四義不同なり。
一には真言は事理倶に一向天台に勝る是れ弘法智証の御義なり。智証大師御釈に云く南岳大師の三観、一心の理は源、阿字本空の理より出ず。無畏、不空三密同体の教は、冥に円頓一実を助く。此の釈は能生の法は真言、所生の法は天台と釈する故、所生の法は事理共に劣るなりと聞きたり。
二には事理倶密は真言勝れたり。唯理秘密は両宗同じ。慈覚、五大院、兜率等の御義なり。
三には真言、天台は事理倶に一向全同なりと。是れ伝教の御義なり。山家の御釈に云く、真言止観、其の旨一なり。故に一山に於て両宗を弘む。本覚の身口意三業の行は更に三密修行に不同無き者なり。元より名目も不同に名言も相違せん事は、両宗格別なる故なり。然るに三密修行も三業相応の行にして共に本覚の修行を以てなり。更に不同有るべからざるなり。
四には天台は勝れ真言は劣るとは、四重秘釈を以て口伝する子細これ有り」と。
但二宗斉等とは先師伝教大師の御義等
本文に「抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや」とて、伝教大師には、法華と真言が等しいなどということを書いたものはないと述べられている。
しかるに伝教大師の書かれた物の中には、二宗が等しいと述べられたものが、次のように残されている。
すなわち牛頭決には「天台所立の十界互具の文と、秘密最大三十七尊住心城の文と、大道異なりと雖も不思議一なり」と。学生式には「止観真言、二羽両輪」と。しかるになぜ、伝教大師には「二宗斉等」の文がない、と本抄におおせられるのであるか。
それは、このように真言と法華が等しいと述べられたところは、約教一往の傍義である。約部再往の正意ではないのである。たとえば「此の妙彼の妙、妙の義異なることなしと雖も、但、方便を帯せるか、方便を帯せざるかを以て異と為すのみ」と同じ意である。「大道異なりと雖も不思議一なり」とか「止観真言、二羽両輪」とは、一往の傍義である。再往の正義とは、
一には真言には宗の名をつけず、天台法華宗と称された。
二には守護章に大日経を傍依の経となされた。
三には依憑集に真言を破する故。
四には記十を引いて真言の元祖を「魯人」となされた。
五にはそのような含光の物語りを書き載せられた。
これらの文義に准ずれば、伝教大師の御心は二宗勝劣にあることは分明である。守護章上にいわく「我が山家は教部にして、八教を摂ぜず」と。すでにわが山家は教部といわれていることを思い合わすべきである。それでは伝教大師はなぜ一往斉等の釈をなされたのであるか。それは一山において両業を修して除障方便となされたのである。その証拠として、日寛上人は次の等海抄に略引されている。
「等海抄に都率の三密抄を引て云く、大日経の疏の始終一向に文義を以て釈成す。此の経の理と三観の妙理全く天台に同じ。問う若し爾らば何ぞ秘密教は障を除き顕教は爾らざるや。答う円頓の理は法華経に過ぎず。除障の方便は三密の加持に如かず。天台の法華の陀羅尼品疏にいうが如し。悪世の弘教はすべて悩乱多し、咒を以て之を護る流通することを得る便りとす云云。正宗の妙理、勝ると雖も更に咒を用い難を除く故に、知ぬ三密の教門は除障の術なり。此の教門多く悪世を利する為に、学者我山は真言止観を兼学す。良に以有るなり」
伝教大師の依憑集と申す文
この文からは正文相違の失を破している。
天台大師の著述された依憑集とは、依憑天台集といって、序文は「天台の伝法は諸宗の明鏡なり」から始まり仏教の各宗派が天台に依憑して宗を立て義を立てていることを明かしている。
日寛上人は文段に次のようにお述べになっている。「此の序文の意、或は二意有り。謂く且く文相に准ずるに、但元祖の依憑を挙げて、以て末弟の偏執を破するなり。往て義意に准ずるに、彼の元祖の依憑は即ち盗台に当るなり。其の故は天台法華の義に依憑して、宗々の依経を誇耀する故なり」と。
この依憑集で破折されている真言宗、華厳宗、三論宗、法相宗等は、いずれもその時代の思想界、宗教界を指導し、あるいは政治権力と結んで東洋の各地に流行したものである。しかるにいかに巧妙な宣伝をしても、釈尊がみずから四十余年未顕真実と打ち破ったところの爾前権経を立てるがゆえに、天台法華宗とは天地雲泥の相違を認めざるをえなくなるのである。
今日においては創価学会のみが、仏法の正統であり嫡流である。しかるに、日蓮宗と名のる邪宗が流行し、いまだに立正佼成会などという、法盗人がことごとに創価学会のマネをし、大衆の無知を悪用して、私利私欲をむさぼっている。
師資の道
「師資の道・一を闕いても不可なり」であって、正法正義を選んで信心に励んでこそ、即身成仏がかない、邪法邪義を信ずる者は無間地獄に堕ちることも深くいましめなければならないのである。
「師資の道・一を闕いても不可なり」とは、師弟の道を示しているのである。師とは師匠である、資とは稟けるの意で、弟子を意味する、すなわち、仏法において、師弟の道は一を闕いても成仏はできないとの謂である。仏法はいかに師弟相対を重んじていることか。
日蓮大聖人と日興上人のお姿こそ、厳然たる師弟の道であり、六老ありといえども、ただ日興上人お一人が、日蓮大聖人の大仏法を余す所なく理解され、大聖人を正しく御本仏と拝されたのである。しかして、日興上人のほかの五老僧や、その末流は、日蓮大聖人を御本仏と仰げず、三大秘法の御本尊を信じ得ないゆえに、謗法の徒であり、断じて師弟の道は成り立たないのである。とくに五老僧は佐渡以後の常随給仕がなく、信心もなく、大聖人御滅後、退転し師敵対してしまった。学会にあっては、一人も五老僧のようなものを出してはならない。
わが学会が、日蓮大聖人、日興上人いらいの唯一の相伝たる御本尊を信じている姿こそ、正しく師弟の道を遵奉しているものである。しかるに邪宗邪義のものは、師対弟子という真の師弟の道に立てず、あまつさえ自宗内で世襲制をしいているがごときは、けっして仏法とはいいえないのである。
とくに、浄土真宗の東西両本願寺や、立正佼成会のごとき新興宗教は、明らかな宗教企業であり、しかも信徒から奪った財を世襲制によって子孫に渡すというような醜態は、仏教の仮面をかぶった餓鬼という以外にないのである。
第十七章(法華最勝の経釈)
本文
抑も法華経の第五に「文殊師利此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」云云、此の経文のごとくならば法華経は大日経等の衆経の頂上に住し給う正法なり、さるにては善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかんが会通せさせ給うべき、法華経の第七に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦為第一なり」等云云、この経文のごとくならば法華経の行者は川流・江河の中の大海・衆山の中の須弥山・衆星の中の月天・衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり、伝教大師の秀句と申す書に云く「此の経も亦復是くの如し乃至諸の経法の中に最も為第一なり能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦為第一なり」已上経文なりと引き入れさせ給いて次下に云く「天台法華玄に云く」等云云、已上玄文と・かかせ給いて上の心を釈して云く「当に知るべし他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず、天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり已に仏説に拠る豈自歎ならん哉」等云云、次下に譲る釈に云く「委曲の依憑具さに別巻に有るなり」等云云、依憑集に云く「今吾が天台大師法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐に独歩す明に知んぬ如来の使なり讃る者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く」等云云、
現代語訳
そもそも法華経の第五の巻安楽行品には「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵である。諸経の中において最上の経法である」とある。この経文のごとくであるならば、法華経は大日経等の諸経の頂上に位するところの正法である。
であるならば、善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等は、この経文をいかに解しているのだろうか。法華経第七の巻、薬王品には「この経を受持するものも、またかくのごとく一切衆生の中で第一人者である」と。この経文の通りであるならば、法華経の行者は川流、江河中の第一の大海であり、衆山中第一の須弥山であり、衆星中第一の月天子であり、多くの光明中第一の日天子、諸の小王中第一の転輪王、三十三天中第一の帝釈天、一切諸王中第一の大梵天王のごとくである。
伝教大師の法華秀句という書には、「この経も、またまた、かくのごときである。乃至多くの経法の中で法華経が最もこれ第一の経である。よくこの経を受持する者もまたかくのごとく一切の衆生の中で第一の衆生なり」と。以上経文であると引き入れておいて、その以下にはそれを解釈した「天台法華玄に云く」としてその文を示し、已上玄文と書かれて、その心を釈していうには、「まさに知るべし、他宗所依の経は、まだこれ第一ではない。その経を受持するものも第一ではない。天台法華宗所持の経典こそ、最もこれ第一であるゆえに、よく法華経を受持するものはまた、衆生の中の第一である。これは明らかに仏説によるのであって、決して自分の独りよがりではない」と、いっている。同じく伝教大師は法華秀句の巻末に「諸宗の諸師が天台大師に依憑している仔細のことは別巻にある」と記された。その依憑集には「今わが天台大師が法華経を説き、法華経を解釈することは、南三北七の諸群聖に秀で、中国全土に独歩するものである。これまことに如来の使いである。ゆえに如来の使いたる天台大師を賛嘆するものは福を安明(須弥山)よりも高く積み、これを誹謗するものは無間地獄におつるという大罪をうけるであろう」とある。
語釈
文殊師利
文殊師利菩薩のこと。文殊師利は梵語マンジュシュリー(Mañjuśrī)の音写。妙徳、妙首、妙吉祥と訳す。迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。法華経序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、同提婆達多品第十二で沙竭羅竜王の王宮に行き、女人成仏の範を示した竜女を化導している。
会通
「和会疏通」の意。和会、融会、会釈ともいう。経論の異義異説を和会し、一意に帰させること。「和会」は経論の説を照らし合わせること、「疏通」とは筋道が通ることをいう。
須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
委曲の依憑具さに別巻に有るなり
伝教大師が、秀句の巻末に述べた語。諸宗・諸師が依らないことの仔細は、別巻(依憑集)で書き記すとの意。
安明
須弥山の訳名を安明山という。水に入ること深くして動ぜざることが「安」、諸山に超出して高きことを「明」という。
講義
この章からは、正しく日蓮大聖人の御弘通を明かしている。初めに法華が一切経中において最も勝れているという経文と、天台、伝教の釈を引かれるのである。
法華経第五の「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」との御文は、安楽行品第十四の文である。次に引かれた法華経第七の文は、薬王品第二十三の十喩のうち、第八の四果辟支仏喩の文である。
伝教大師の「法華秀句」には、次に示すように、第八喩の所持能持、一連の文を引いているのに、本抄ではなぜ安楽行品を引いて、薬王品の所持第一の文を引かないのか。これに対し日寛上人は文段に次のようにお答えになっている。
「然るに元意を推するに恐らくは真言宗を破せんが為、別して此の文を引くなり。此に二意有り。一には彼宗は大日経を以て即秘密と名く。釈尊は法華経を以て別して秘密と名く故に経に〝秘密の蔵〟と云うなり。問う若し爾らば彼は秘密にあらざるや。答う彼は是れ隠密にして微密に非るなり。二には彼の宗は金剛頂経を以て衆経の頂上と為す。釈尊は正しく法華経を以て衆経の頂上と為す。故に〝諸経の中に於て最も其の上に在り〟というなり」と。
伝教大師の秀句と申す書
秀句の第八喩の文は次のとおりである。
「又云く、一切凡夫人の中、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し、一切衆生の中に於て亦第一なりと。ある。
天台の法華玄に云く五仏子の如き、凡夫の中に於て第一なり。或は衆生を抜きて涅槃に出だす。菩薩の無学の上に居するが如し。今の経は衆生を抜きて方便教の菩薩の上に過ぐ。即ち法王と成る最も第一なりと。已上玄文
当に知るべし他宗所依の経は未だ最為第一ならざることを。其の能く経を持する者も、亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も第一なり。故に能く法華を持する者も亦衆生の中に第一なり。已に仏説に拠る、豈自歎ならんや」と。
「諸の経法の中に最も為れ第一なり」は、所持第一の文であり、「能く是の経典を受持すること有らん者」からは、能持の行者第一の文である。「妙法なるが故に人貴し」であって、この法を毀りこの人を毀る者は、無間地獄の罪業を造るのである。
法華秀句は、伝教大師は、なにを目的として書いたものであろうか。
法華秀句は上中下の三巻からなり、弘仁十二年に作られたものである。「十勝」とも称され、日蓮大聖人は「秀句十勝抄」を著わされ、法華秀句を研究なされたことが明らかである。しかし、この「秀句十勝抄」は大聖人の御真書ではあるが、天台の法門の御抄録文とみなして、御書全集のなかには入れていないのである。
法華秀句を著わした目的は、秀句の序分にのべられている。すなわち、
「法華秀句は髻珠を琢磨するの砥礪なり。乃ち霊山の明珠は遠く西秦に伝わり、天台の珠嚢は遥かに東海に流るるあり。珠を施すの客、各是非を諍い、珠を求むるの主、所帰を知るなし。是れを以て麤食の見林を剪除して天台の円城を建立す。是に於いて一謀家ありて云く、天台所立の四車の義は、華厳宗をして其の義を奪い取らしめ又其の所立の成仏の義は三論宗をして其の義を奪い取らしむと。然れば則ち天台法華宗は何等の義を以て自宗の義と為ん。若し自宗の義なくんば別宗を許さざる者なり。時人を矇さんと欲し其れを度りて謀を為す。誣誷も亦甚だし。是の故に且く法華秀句三巻を著わす。庶わくば妙法の勝幢千代に傾かず、一乗の了義、群心を開悟せんことを。但恐らくは織成正しからずして聖の耳目を汗さんことをや」と。
この序文によって、法華秀句の目的は、法華が最勝であることを主張し、他宗の策謀家を粉砕して天台法華の光輝をいよいよ増益するためであることが知れる。
また顕勝門の十勝とは、仏説已顕真実勝一、仏説経名示義勝二、無問自説果分勝三、五仏同道帰一勝四、仏説諸経校量勝五、仏説十喩校量勝六、即身六根互用勝七、即身成仏化導勝八、多宝分身付属勝九、普賢菩薩勘発勝十である。
とくに「仏説已顕真実勝一」には、得一の「慧日羽足」の十教二理・四教二理等を徹底的に破折している。これが上中二巻となり「仏説経名示義勝二」以下をもって下巻としているという。
このように、伝教大師は多くの著述をあらわして、邪宗邪義を、ただ一人で粉砕されていったのである。
釈尊と天台と伝教は、法華経を諸経法中の第一となしているのに、慈覚は真言を諸経法中の第一となしている。これは仏敵であり大罪人である。
弘法は、法華経を第三となしたが、弘法のほうがまだ罪は軽い。法華を第二となして人々を迷わした慈覚、智証のほうがさらに罪は重いのである。
仏教研究の初歩
およそ、いかなる学問・研究においても、またどんな時代でも、文証・経文・原典を根本として究明していくということはとうぜんのことである。とくに、宗教、哲学、思想等では、おおいに厳格なることが要求されるのである。因果の理法を説き、最高の哲学体系を誇る仏法においては、さらに正確、細密でなければならない。
ところが、善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等が、法華経、大日経等を研究するのに、みな我見私見を基にして、経文、原典を省みないありさまは、じつに軽率でありふまじめである。哲学究明の初歩において、すでに誤り転落したものというべきではないか。
このような傾向は、真言、念仏等の邪宗にすべてみられるところである。すなわち念仏の法然等の論釈をみても、まず道綽、善導等の人師の釈を引用して解釈し、次に論師の論を引用し、終わりに申しわけていどに法華経や浄土三部経を援用しているというような書き方で、これでは論文として倒錯であり落第である。しかも、これが学生の卒業論文などと違って、仏法の誤りは何十万何百万という民衆を不幸に突き落す作用をしているのである。
日蓮大聖人が、また天台大師、伝教大師等が、まず経文を引き、次に論釈を援用して、みごとな論説を展開して、正法正義を宣揚しておられるのと比べて、まことにその差の大きいのに驚くのみである。
依憑集において伝教大師は、天台大師を如来の使いなりと断定し、「讃る者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」と述べられていることは、釈尊の経典から天台の立ち場を絶対のものとの確信に立たれていたものと思われるのである。
現代においても明らかに邪宗とわかる新興宗教などよりも、邪宗日蓮宗のほうが謗法の罪が重く、さらに創価学会の組織や行事などを、ことさらにまねて大衆をまどわしている立正佼成会のごときは、もっとも邪宗、邪義のはなはだしいものである。
しかして現代においては、天台も、伝教も如来の使いとしての働きはないのである。釈尊の仏法自体がすでに白法隠没しさっているから、その使いの功能のないのもとうぜんである。
末法今日の大白法は日蓮大聖人の三大秘法である。この三大秘法を仏説のごとく信じ行ずる創価学会員こそが如来の使いである。ゆえに信心折伏に励む学会員を、讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開くのである。「妙法なるが故に人貴し」であって、いかに下賤の者といわれようとも、持つところの御本尊が貴いゆえに、その人も尊貴の人となるのである。ゆえに、日蓮大聖人は、もったいなくも、われわれの尊貴なるゆえんをのべられた後に「請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ」(0342:08)等と、おおせられているのである。