報恩抄:池田大作先生の講義(大白蓮華の2015年1月号より)

報恩抄:池田大作先生の講義(大白蓮華の2015年1月号より)

本文

  日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。

現代語訳

日蓮大聖人の慈悲が曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。この功徳は、伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にも勝れている。

極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時節がきたのである。

春は花が咲き、秋には果実が実る。夏は暑く冬は寒い。これも時のしからしむるによるところではないか。

講義

「慈悲」の精神で人類を結びゆけ

新しき躍進の夜明けです。

赫々たる太陽を仰ぎながら、今、親愛なる同志の皆様の胸中には、清々しい希望の光が満ち満ちていることでしょう。

新しき一歩を勇んで踏み出す時です。

今日から、自身の新たな前進の歴史を勝利の金文字で刻んでいくのです。師弟が共に、そして全世界の同志が共々に、朗らかに「未来までの・ものがたり」(1086:07)を綴っていくのです。

今も鮮やかに思い出します。

ちょうど40年前、ごく小さな世界市民の集いが行われました。

1975年(s50)の1月26日。

太平洋戦争の激戦地となり、甚大な犠牲者を出したグアム島に、51ヵ国・地域から約160人の地涌の先駆者が参集し、第1回「世界平和会議」が開催されたのです。

国家首脳の会議でも、学者や経済家などの集まりでもない。無名の庶民の集いです。しかし一人一人の胸には、人種や民族、国籍などの違いを超えて、崇高な誓願の炎が燃えていました。

「世界広宣流布」即「世界平和」への大道を開拓しゆく、尊き誓いを共有した「SGI」が、この日、この時、発足したのです。

「全世界に平和の種を蒔いて」

最初のスピーチで、私は宣言しました。

「地平線の彼方に、大聖人の仏法の太陽が、昇り始めました。

皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わらせてください。私もそうします」と。

日蓮大聖人の大仏法は、生命尊厳と人間尊敬の慈光で全人類を包みゆく「太陽の仏法」であります。

20世紀から21世紀へ、大きな人類史の転換期の中で、わがSGIの友は皆、時代・社会の荒波を忍耐強く、聡明に乗り越え勝ち越え、良き市民として活躍してきました。

いまやSGIは、192ヵ国・地域にわたる「平和と文化と教育の連帯」へと大発展しています。

地平線の彼方、闇を破って輝き始めた仏法の人間主義の太陽は、いよいよ明々と全天を照らしているのです。

今回、「世界広布新時代・躍進の年」のスタートにあたり、私はあらためて「報恩抄」の有名な一節を拝したいと思います。創立の父・牧口常三郎先生も、ご自身の御書に力強く線を引かれていた御金言です。

報恩抄で誓願成就明かす

「報恩抄」は、日蓮大聖人が、若き日の師・道善房の死去に際して、師恩に報ずるために著された重書です。

本抄では、大聖人が仏道を志した若き日に、仏法の肝要を知る智者となって、全ての人を苦悩から根本的に救うと誓った誓願が示されています。この誓願の成就こそ、御生涯をかけて目指された根本の目的と拝されます。

本抄の結論となる段で、一切衆生を救済する根本法たる「三大秘法の南無妙法蓮華経」を明かされ、釈尊滅後の世界で、ただ一人、この南無妙法蓮華経を「声もをしまず」唱え始め、不惜身命の弘通を貫かれてきたことを述べられています。

すなわち「三大秘法の南無妙法蓮華経」を厳然と建立されたこと、そして、末法万年尽未来歳にわたる広宣流布の基盤を確立されたこと――大聖人は、これをもって、根本の誓願の成就であり、亡き師匠への最大の報恩の証しとされているのです。

さらに「根ふかければ枝しげし」「源遠ければ流ながし」などの譬えをもって、妙法が「根源」にして「永遠」の大法であることを示されたあとに説かれるのが、今回、拝する御文です。

今、「広宣流布大誓堂での広宣流布誓願勤行会の折にも、女子部の代表によって凛として拝読されています。

「慈悲曠大」を受け継いだ陣列

「法」は永遠であり、常住です。しかし、いかに勝れた「法」であっても、それを実践する「人」がいて初めて、その偉大な力は現実の上に顕れるものです。御書に「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856:百六箇抄:09)と示されている通りです。

一方、一人一人の人間は、生老病死の理を逃れられません。この有限の「人」がいかにして「法」を永遠に現実世界にあらしめていけるのか。

日蓮大聖人は、仏と仏のみが覚知できる永遠の妙法を「三大秘法の南無妙法蓮華経」の御本尊として顕し、混乱と苦悩が渦巻く末法の凡夫の私たちが信受できるように確立してくださいました。私たちは、この御本尊を拝し南無妙法蓮華経と唱える時、虚空会の付嘱の儀式における末法広宣流布の「地涌の菩薩」の大誓願に連なることができるのです。

言い換えれば、大聖人が建立された三大秘法と、その法を受持し弘通する地涌の菩薩が出現してこそ、初めて、妙法がこの現実世界で流布され、永遠に民衆を救済することができる。

「日蓮が慈悲曠大ならば」――こう言われる大聖人の慈眼には、「日蓮と同意」の広布の大誓願に燃えて、後継の地涌の菩薩として娑婆世界で妙法を実践し、民衆を救いきっていく人間群が、二陣三陣と躍りでていく光景が、ありありと映じていたのではないでしょうか。

まさしく今、日本中、世界中で、この「慈悲曠大」なる尊き「仏の仕事」を「仏の使い」としての誉れと使命を胸に、忍耐強く、また誇り高く法を弘めているのは誰か。いったい誰が、勇敢に民衆の大海原に飛び込んで、苦悩に沈む一人を励ましてきたのか。一人また一人と、絶望の淵から希望の人生へと蘇生させてきたのか。それは、わが創価学会の同志であり、わがSGIの先駆者であります。

「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」(0720:13)との仰せを、事実のうえで証明してきたのは、他でもない皆様方なのです。

「全人類の宿命転換」を大宣言

以前、世界広布のリーダーから「ガンジス川の源流域」の写真をいただいたことがあります。ヒマラヤの氷河に発する悠久なる大河の源流は、それはそれは凄まじい奔流でした。獅子が吼え走るが如く、何ものも押し止めようのない「勢い」でした。

私は思います。あの轟々たる奔流に始まる大河の如く、南無妙法蓮華経が全人類を平和と幸福の智水で潤していく。そのほとばしる大精神を、大聖人は「慈悲曠大」との仰せに込められているのではないでしょうか。

この根源の妙法には、そして、その大法を行ずる実践には「日本国の一切衆生の盲目を開く功徳」があると仰せです。日本国は一閻浮提に通じます。妙法への強き「信」が元品の無明の闇を破り、己心の仏界の眼を開かせ、顕現させていく。あらゆる人々の胸中に燦然と太陽が昇るのです。

さらに大聖人は、「無間地獄の道をふさぎぬ」、すなわち「塞いだ」と厳然と仰せです。

「無間地獄」とは、御在世当時の念仏宗をはじめとする謗法です。

念仏への執着を捨てきれなかった道善房を救い、ひいては将来永遠にわたって一切衆生を幸福への軌道へと入らせていくとの大確信。

“一人でも、苦しむ人がいるならば、草の根をかき分けてでも救っていく。絶対に絶望と悔恨の人生に転落させない!”――これこそ、大聖人の慈愛の師子吼に連なる学会の師弟の精神です。

とともに、この仰せは、あらゆる人間集団――家族から国家、人類社会までも包含した、全体の破局への坂道までも塞いだとの、「全人類の宿命転換」の大宣言とも拝されるのではないでしょうか。

不信と無力感の闇を破れ

歴史を見れば、甚大なる自然災害や戦争や飢饉など、個々人の人生をひとたまりもなくのみ込み、奪い去っていくような悲劇が繰り返されてきました。人間がいかに無力な存在か、思い知らされるような過酷な実現があります。そうした災難を、人智を超えた運命や宿命とする諦観の言葉も古来、数多くありました。

しかし――。100年前、フランスの文豪ロマン・ロランは、まるで「戦争の宿命は一切の意志よりも強い」という「古い極吏文句」に煽られるように、各国で雪崩をうって参戦し、第一次世界大戦へ突入していく中で、激烈な抗議の声を発しました。

「決して宿命はない!宿命とは、私たちが欲することだ。それはまた、よりしばしば、私たちの意欲が足りないということだ」

ロランは、国家指導者や知識人が“これが運命”とばかり戦争迎合の時流にのみ込まれていく無責任な姿を、断固として拒否したのです。

詮ずるところ、一人一人の人間が、何をしても無駄だという。この無力感――人間の尊厳性と無限の可能性への無知・不信こそが元凶です。私が敬愛してやまない南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領も、その元凶と戦い抜いてきました。

大聖人が放たれた「無間地獄の道をふさぎぬ」との師子吼は、まさに、この人間不信の闇を打ち破るものであったと、私は思えてなりません。

「立正安国論」には、人々を無間地獄に突き落とす元凶を剔抉して、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024:03)、「唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(0025:17)と破折されています。

大聖人が、鋭く「三災七難」の「兵革の災」、「自界叛逆難・他国侵逼難の二難」の警鐘を鳴らされたのも、まさに、運命論や無力感を打ち破って、「無間地獄の道」を塞ぎ、人類が悲惨な不幸に転落するのを防ぐためであったと拝されます。

現代社会を慈悲の精神で包む

思えば20世紀は、未曾有の規模の「世界戦争」が2度にわたって起こった時代であり、その大闘諍の中で核兵器が造り出され、人類滅亡の危機という前代未聞の扉が開かれてしまった時代でもあります。さらに急激な環境の破壊によって、21世紀の今、地球の生態系の存続さえ危惧されるに至っています。また、グローバル化が進む中、経済危機や疫病なども世界規模の脅威となってきました。

「人類の破局」を塞ぐ道はあるのか?それは、今の時代につきつけられた避けることのできない課題であります。

私ども創価学会、また「SGI」が誕生したのは、まさにこの人類生存の危機が現実に浮上してきた時代であります。

民衆を戦争に駆り立てる、国家神道を精神的支柱とした軍国主義に敢然と対峙し、「今こそ、国家諌暁の秋」と叫び、民衆の幸福のために戦い切った初代学長・牧口常三郎先生は、獄中で殉教されました。そして、先師を獄死せしめた凶暴な国家主義、権力の魔性との戦いを誓った第2代会長・戸田城聖先生は、日本が焦土と化した焼け野原に、広宣流布の旗を掲げて、ただ一人立たれたのです。

先生の胸には、「東洋広布」「仏法西遷」の誓願の炎が燃え、戦乱の止まぬアジアと世界の民への深い同苦がありました。さらに全面核戦争の脅威が広まる渦中には、「原水爆禁止宣言」が発表されたのです。それは、民衆の生存の権利を脅かす魔性の根を断ち、人類の地獄への転落を塞ぎたいとの師子吼でありました。

戸田先生は「現代の時勢に、もっとも吾人の強く感ずることは、人々の生活に慈悲と自覚が欠如していることである。無慈悲そのものが現代の世相ではないか」と喝破し、「自然の行業に慈悲があふれる人々をより多くつくらなくてはならない」と訴えられました。

無慈悲な社会の中に、暖かな慈悲の血潮をいやまして脈々と流れ通わせ、平和と幸福の人間世紀をひらいていくのが、私どもの広宣流布の運動の目的です。

仏法は苦しんでいる人のために

ここで「慈悲」について、今少し考察しておきたいと思います。

「慈悲」には、「楽しみを与える」意義と、「苦しみを抜く」意義の両面があります。

その由来をインドの言葉にたどれは、「慈」は梵語の「マイトリー」で、有情や友との結びつきを意味します。「悲」は「カルナー」あるいは「アメカンバー」で、憐憫や同情、優しさを意味します。同苦といってもよい。

「慈しみ」と題する初期の仏典には、こういう一節があります。

「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」

慈悲が包み込む世界が、どれほど広大無辺であるか、この言葉にも明らかでしょう。

慈悲は「平等」です。それは、ヨコに無限に広がり、タテに永遠に及びます。

と同時に、その慈悲とは単に「等しい」というものではなく、最も不幸な人に向けられたものです。大聖人は、釈尊が入滅に臨んで最も心配されたのは、罪深き阿闍世王であったとの経文を通し、「人にはあまたの子あれども父母の心は病する子にありとなり」(1253:05)と述べられています。

誰が一番、苦しんでいるのか。だれが一番、助けが必要であるのか、それは、今、眼前で苦しんでいる人です。

私は常々、「一番苦しんでいる人こそ、一番幸福になる権利がある」と訴えてきました。仏法とは、その一番苦しんでいる人のためにあるのです。その人に同苦する、その人の身になって考え行動する。そこに慈悲が光ります。

より高い次元から見れば、末法という最も困難な時代、耐え忍ぶべき苦しみに深く覆われた娑婆世界で懸命に生きている、一切の人間に手を差し伸べ、苦悩を抜いていくことこそ、仏法の根本目的にほかなりません。

苦悩から立ち上がっていくカギは何か――それは、苦悩の根本原因が、尊厳性の否定であり、人間不信であるが故に、尊厳性の自覚であり、人間への信頼と尊敬です。

いかなる生命も本来、尊極であり、この世の何一つ無駄なもの、無意味なものはない、自身もまたその尊き宝の一つであると自覚する時、強い自身と揺るぎない安心と限りない感謝が生まれます。そして、他の人もまた、一人も残らず尊い宝であると知り、深い尊敬と固い信頼と慈愛が生まれてくるのです。

現実の苦悩の人を救う行動

この「慈悲」の発露が、折伏の精神です。

「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」(0236:13他)

「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」(0236:14他)とは章安大師の言葉です。

真に相手を思って悪を除くのが慈悲の真髄の行動であり、この正しき修行が折伏行です。

大聖人は「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」と断言されました。

いうまでもなく、念仏宗では、娑婆世界を「穢土」として嫌います。そして、専修念仏によって「西方十万億土」の彼方にあるとされる極楽浄土に往生し、そこで安楽に修行して成仏すると説きます。

しかし、そうした理想の場所は、観念上のものでしかありません。どこまでも、この苦難の現実の中にあって、幸福への道を開拓し、創造するしかないのです。

大聖人は、現実逃避の“あきらめ”の思想を、一時的な慰めとなる方便にしかすぎないと破折され、どこまでも娑婆世界というこの現実で戦うことこそ、正しい末法の修行であると断言されました。

これこそが、民衆が幸福になるための根本の道です。

この折伏行は本来、仏事であり、まさしく慈悲なくしては為し得ぬ仏道修行です。しかし現実には、凡夫が慈悲を現することは容易ではありません。

ゆえに戸田先生は、凡夫において慈悲に代わるものは「勇気」であると教えてくださったのです。

このご指導通りに、わが同志は、友のもとへ、人間の中へ、民衆の中へと飛び込んできました。ただただ勇気に燃えて――。

この折伏精神に生き抜く「穢土の一日」の修行こそが最高の功徳となり、わが人間革命の黄金の歴史となり、わが生命の最高の「心の財」と輝いてくのです。

妙法流布の時は「今」

日蓮大聖人は、佐渡御流罪のただ中、「如説修行抄」を記されています。

「然るに今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災・七難盛に起れり、かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ」(0501:14)と。

大聖人のこの時代、誰もが、「末法悪世」を感じていました。「末法だから」世も終わりだという絶望が蔓延していたのです。

これに対し、「末法だから」こそ、最も力のある大法がいよいよ出現し、民衆を利益する時だ、妙法流布の時は「今」なのだと立ち上がられた末法の御本仏が、大聖人です。

まさに、この末法という「時」を自ら選んで、できる、できないでなく、必要だから、正しいからと勇んで戦いを起こすのが、地涌の菩薩です。

時代の危機の闇が深ければ深いほど、絶望を打ち破る太陽のような力ある思想が興隆する時であると、一人立ち上がるのです。

牧口先生がそうでした。

戸田先生がそうでした。

私たちも決然と立ち上がりました。これが創価学会です。

そして日本中、世界中の地涌の同志が、民衆の心に平和の種を蒔き、「人間主義の時代」を創ってきたのです。

「人間のための宗教」の太陽

今から20年前の1995年1月17日、日本では、阪神・淡路大震災が起こりました。あまりにも多くの方々が犠牲になられ、甚大な被害がもたらされました。あの苦難と衝撃を忘れることはできません。

その真っ直中で、わが同志は「妙とは蘇生の義」(0947:02)との仰せの通り、共に必死に励まし合いながら、不死鳥のように立ち上がってこられました。生きる希望の源泉たる「人間のための宗教」の太陽を昇らせてこられました。

震災直後、私たちの友人で、アメリカの人権の母ローザ・パークスさんは、兵庫の女子部にメッセージを贈ってくださいました。

「私は思うのです。今こそ、皆さまや皆さまのお友達は、自らの勇気を奮い起こして神戸災害の再建に立ち上がり、その姿を通して世界を激励する時である、と」

そして女子部の友が、「この困難な挑戦に対し、新しい精神で『ウィ・シャル・オーバーカム』を歌われることを信じています」と念願されたのです。

このパークスさんが人種差別に抗議して、「ノー!」と叫んだあの瞬間について“彼女は「ツァイトガイスト」によってそこにいた”としてきしたのは、公民権運動の若き指導者キング博士でした。

歴史が大きく動く変革期には、しばしば「人」と「時」の不思議な巡り合わせ、絶妙なる協動があるものです。

世界を結ぶSGIの慈悲の行進

キング博士は「人類の進歩は、不可避性という車輪が回って進んでゆくものでは決してないのです」と洞察しました。

「人類の進歩」とは、使命を深く自覚した人々の「倦くことなき努力によってもたらされる」のです。反対に、「このひたむきな働きがなければ、ときそのものが、社会停滞の勢力に与することになってしまう。

ゆえに博士は、こう結論しました。

「われわれは、創造的に、すなわち、正しいことをおこなうためには、時期はいつも熟しているという認識において、ときを利用しなければならないのです。

世界広宣流布の「時」も、ただ座して待っていて、動き始めたわけでは、断じてありません。「立つ時は今だ」と一念を定めて戦った創価の友によって、「時」が創られたのです。まさに「時のしからしむる」と仰せの如く、大法興隆の「時」が満ちてきたのです。

そして今、世界のあの地この地に、「地より涌きたる」使命の慈悲の菩薩が、陸続と出現しているのです。

苦難を乗り越える地涌の底力

40年前、「SGI」の出発に際して、私は、こうスピーチを締めくくりました。

「どうか勇気ある大聖人の弟子として、また、慈悲ある大聖人の弟子として、それぞれの国のために、この一生を晴れ晴れと送ってください。

SGIの友が暮らす国や地域――それは、現実の世界そのものです。

誰もが心から平和と幸福を求めて生きている。また誰もが苦悩を抱え、もがきながら生きていいます。国家や社会、民族を翻弄する分断と反目の暴力に傷つき、今も懊悩している人々も少なくありません。国は豊かに見えても、差別や格差に苦しむ人々もいます。

この現実世界で、SGIの友は、自他共の幸福と世界の平和を祈り、自身の人間革命と宿命転換に勇敢に挑みながら、信頼と友情の花を広げてきました。戦乱を逃れた流浪の中で仏法に巡り合い、やがて祖国に帰還して広布に走る友もいます。紛争で引き裂かれた国々で互いに連携を取り合いながら、唱題の同盟を結んでいる同志もいます。

自分のいるその場所で!――他の誰でもなく、これが自分の使命だと、決然と一人立ってきました。地涌の菩薩に一切、限界はありなせん。学会員は、どんなところにも飛び込み、どんな境遇の人々とも関わってきました。「難問答に巧みにして、其の心に畏るる所無く、忍辱の心は決定し」との経文の如く、無理解や侮辱の壁も、世間の差別の壁も、勇気と智慧と誠実の対話に乗り越えてきました。

かける言葉を失うような絶望と悲嘆の底にある友の傍らにも、わが同志は寄り添ってきました。ただ伝わる手の温もり、ただ一緒に流す涙だけが唯一の対話だったこともあるでしょう。しかし、決して希望を捨てなかった。いかなる人も、苦難に負けない底力を、逆境をはね返す底力を、そして宿命を使命に変える底力を持っていると信じてきたのです。

「貧乏人と病人の集まり」――学会の草創期、こんな罵詈雑言が浴びせられました。しかし、戸田先生は「一番苦しんでいる人を救うのが、本当の力ある宗教じゃないか、慈悲の行動じゃないか」と達観されていました。

苦悩の友を、絶対に見捨てない。自他共の幸福と勝利のために動き働く、あの尊い菩薩の姿よ!私は、この学会員の行動の中に、大聖人が仰せの「慈悲曠大」なる精神に生きて躍動していることを確信してやみません。

私たちは、人類史上初めて、地球のあらゆる地域に暮らす民衆同志が、草の根ネットワークをむすぶことのできる時代を迎えました。

ロシアの文豪であり偉大な世界市民であったトルストイは晩年、こう留めました。

「人間のあいだに愛を増大させることだけが、現在の社会機構を変えることができる」

「私がこの世界の生活の発展過程に目を注ぐかぎり、そこに現われているのは、相互扶助の法則のみである。およそ歴史は、この唯一の万人強調の法則が次第にはっきり姿を現わす過程にすぎない」

「慈悲」の拡大に通じる言葉です。

我等創価の民衆のスクラムを

「慈悲」の精神が社会のすみずみに浸透し、脈動していく時、どんなに社会は明るく変わることでしょう。「人間主義の時代」「生命尊厳の時代」へ――私たち創価の民衆スクラムの前進が、その夜明けを創りひらいていくことは、絶対に間違いありません。

自己の使命に目覚めた民衆による「慈悲曠大」の行動が、必ず人類の境涯をも変えていく。そして、燃え盛る火宅のような世界を変革し、人が人を殺戮することのない、平和と不戦の世界を創っていく――それが、私たち創価の悲願です。SGIの使命です。

苦悩の民衆がいる限り、創価学会の戦いに終わりはありません。

戸田先生は、「地上から“悲惨”の2字をなくしたい」と叫ばれました。広宣流布とは、人類の苦を抜き去り「慈悲の行業」を世界に広げる戦いです。平和と幸福の種を蒔き続ける永遠の挑戦です。我等創価学会の連帯は、この「慈悲」の精神で、人類を結びゆくのです。

「世界広宣流布・躍進の年」とは、その「希望の春」の到来です。地涌の生命の連帯が、大きく躍進する時がきたのです。

さあ、新たな勇気の行動開始です。平和を願う民衆と民衆の心を通わせながら、わが地域を舞台に、我らの地球を舞台に、意気揚々と躍り進もうではありませんか。

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