報恩抄
建治2年(ʼ76)7月21日 55歳 浄顕房・義浄房
背景と大意
この長大な論文は、日蓮大聖人の五大部の著作の一つである。日付は建治2年(1276年)7月21日で、日蓮大聖人が身延に入山されてからおよそ2年余の頃である。この論文が書かれたきっかけは、安房国清澄寺の僧・道善房(どうぜんぼう)の訃報であった。道善房は、日蓮大聖人が12歳で清澄寺に入った際の師である。日蓮大聖人は道善房への報恩の思いからこの論文を著し、入寺当時の上座で、後に弟子となった浄顕房(じょうけんぼう)・義浄房(ぎじょうぼう)に送った。さらに弟子の日向上人にこの文を託し、清澄寺に届けさせるとともに、自身に代わって、初めて南無妙法蓮華経を唱えた清澄山頂の嵩が森で朗読し、続いて亡師・道善房の墓前でも読み上げるよう依頼したのである。
1233年、日蓮大聖人は道善房に師事するため清澄寺に入った。当時、寺は宗教だけでなく学問の中心でもあった。そこで日蓮大聖人は、後に教えを弘める際に大きく役立つ卓越した文章能力を身につけた。また、大聖人は、生涯にわたる仏法探求の旅を始め、多くの誤解を招く諸宗の台頭によって曇らされていた仏教の真実を明らかにしようと決意した。
1253年4月28日、日蓮大聖人は、末法において唯一成仏へ直結する教えは南無妙法蓮華経であると宣言し、当時隆盛を極めていた浄土宗の教義を厳しく批判した。これを聞いた東条景信(とうじょうかげのぶ)は、その地域の地頭で熱心な浄土宗信者であったため激怒し、家人を寺に送り日蓮大聖人を捕らえようとした。道善房は浄土宗の信者であったため公然とは擁護できなかったが、浄顕房・義浄房の二人に命じて、若い日蓮大聖人を安全な場所へ逃がすように指示した。
日蓮大聖人と道善房は、伊豆流罪から帰還後の1264年、大聖人が安房の実家を訪れた際に再会した。この時、道善房は、自身の浄土宗の修行が無間地獄へ堕ちる原因にならないかと大聖人に尋ねた。大聖人はこれに対し、法華経を根本の教えとして尊ぶのでなければ、誹謗の罪を免れることはできないと諭した。その後、道善房は阿弥陀信仰を完全に捨てることはなかったものの、釈迦像を自ら刻んだ。大聖人は、僧として自身を導いてくれた道善房に深く恩を感じており、彼を正しい法へ導きたいと願っていたため、この変化を大いに喜んだ。
日蓮大聖人はこの論文の冒頭で、父母・師匠・三宝・国主への恩義に報いる必要を強調している。恩に報いることは人間の基本的な行いであり、とりわけ「師匠への恩」に報いることが強調されている。続いて大聖人は、恩に報いるためには仏法の真理を極め、悟りに達することが必要であり、そのためには一心不乱に仏道修行を行うべきだと説く。しかし悟りを得るためには、正しい仏法を実践することが不可欠である。大聖人は、インド・中国・日本における諸仏教の発展をたどり、その基となる経典の優劣に照らして教義を検討し、法華経が最も優れていることを強調する。特に真言宗の誤った教義を論駁し、慈覚大師・智証大師が、法華経に基づく天台教学を密教と混合したことで教学を歪めたと強く非難する。大聖人は、究極の真理は法華経にのみ説かれており、その中心は南無妙法蓮華経であり、これこそが末法に弘めるべき教えだと結論づけている。
この論文の結語では、末法の仏は他ならぬ日蓮大聖人であり、その教えとは、法華経の「寿量品」に秘されたまま、一度も顕されたことのなかった三大秘法 ― 南無妙法蓮華経の唱題(大法)、本尊、戒壇 ― であると明かしている。さらに、大聖人は、この三大秘法を万人救済のために建立することによって、亡き道善房への恩に報いていることを示す。2年後の御書「華果成就御書」にも「日蓮が法華経を弘通して得る功徳は、常に道善房に還る」と記され、この手紙の結論を改めて再確認している。
本書は特に重要なのは、日蓮大聖人が三大秘法を一つひとつ具体的に示し、それが末法万年・未来永劫に渡って人々を救う教えであると明言した、現存する最初の文献である点にある。この三つは大聖人仏法の中核であり、「神力品」で地涌の菩薩へ未来の弘通を託された法そのものである。本尊は衆生を成仏に導く御本尊、唱題は本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える行、戒壇は本尊を安置し唱題を行う場所を指す。
序講
報恩抄の講義にあたり、まずその序講として、
第一に、本抄御述作の由来
第二に、本抄の大意
第三に、本抄の元意・内証
を略述することとする。
第一 本抄御述作の由来
本抄は建治2年(1276)7月21日、日蓮大聖人が身延山において御述作になり、安房の清澄寺における故道善房追善のため、浄顕房・義浄房のもとに送られた御抄である。
この時は日蓮大聖人が身延にはいられて3年目にあたり、聖寿55歳の御時であった。本抄の御正筆は身延にあったが、明治8年(1875)の火災で焼失している。
日興上人の富士一跡門徒存知の事には、いわゆる10大部を挙げられているが、報恩抄の項は次のとおりである。
「一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。(1604)
以上のように、本抄は、道善房逝去の報を聞かれて、報恩謝徳のためにこれを述べられ、浄顕房、義浄房のもとへ送られたことが明らかである。
(一)旧師道善房
日蓮大聖人は12歳の御時から、安房国清澄寺に上られて修学に励まれた。その時の師匠が道善房であり、兄弟子にあたる2人が浄顕房、義浄房であった。
建長5年(1253)4月28日、この清澄寺の諸仏坊の持仏道の南面で初めて南無妙法蓮華経の三大秘法をお説き遊ばされたのである。
しかるに地頭の東条左衛門景信は、強盛な念仏信者で、日蓮大聖人を迫害した。また清澄寺内の大衆も、多くは大聖人の御正義に反対し、大聖人は浄顕房、義浄房の2人にかくまわれて、ようやく脱出なされたほどであった。
本抄にいわく「但し各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0323:18)と。
本尊問答抄にいわく「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373:14)と。
このような浄顕房、義浄房に対し、師匠の道善房は、臆病で小心で、地頭の権威を恐れ、清澄寺住職の保身に汲々としていた。日蓮大聖人の教えが正しいとも思い、とくに晩年はひかれるものもあったが、保身のためには念仏を離れることもできないし、地獄におちても仕方がないというような考えであった。
本抄にいわく「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし、但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ、後にすこし信ぜられてありしは・いさかひの後のちぎりきなり、ひるのともしびなにかせん其の上いかなる事あれども子弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし、力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(0323:08)と。
本尊問答抄にいわく「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし」(0373:11)と。
善無畏三蔵抄にいわく「此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、而るに此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず、而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず、れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時 彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」(0888:17)と。
以上のように道善房は、愚癡で臆病で小心の念仏者であった。地頭の東条景信は、また邪宗の信心も強情であったが、次の御書でお示しのように、清澄の飼鹿を狩り取るような悪人であった。しかも清澄寺には、円智房、実成房というような、日蓮大聖人に敵対する勢力も強かったものとみられる。こういう状況の中で最後には少しは信心にめざめた傾向もあったが、結局はまことに頼りない姿で一生を終ってしまった。そもそも、道善房はもとより、清澄の大衆は当然に日蓮大聖人の御徳に感服しなければならないような次のような事件もあった。
清澄寺大衆中にいわく「就中清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にも・をもひをとさせ給はば今生には貧窮の乞者とならせ給ひ後生には無間地獄に堕ちさせ給うべし・故いかんとなれば東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(0894:12)と。
当時、地頭の東条景信は、念仏者の極楽寺などの後援で天台宗であった清澄一山を念仏にしようとした。その上、二間寺をも領家から放そうとしたのである。飼鹿を狩り取ったことは清澄に対する一種の示威運動とみられる。そこで日蓮大聖人は、東条の領家ならびに清澄方の味方となり、東条側も訴訟をなし、一ヵ年の間に勝訴となったものである。
領家は日蓮大聖人の父母もお世話になった関係もあった。こうした難問題を日蓮大聖人御みずから解決なされたことである。
(二)嵩が森で読む
およそ日蓮大聖人の御指導に反することばかりの道善房であり、清澄寺の情勢ではあったが、それでも道善房の逝去をお聞きになった大聖人は、次のようにおおせられている。
本抄いわく「それにつけても・あさましければ彼の人の御死去ときくには火にも入り水にも沈み・はしりたちても・ゆひて御はかをも・たたいて経をも一巻読誦せんとこそ・おもへども賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに・ゆへもなくはしり出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、さればいかにおもひたてまつれども・まいるべきにあらず」(0323:15)と。
本抄送文にいわく「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候、自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」(0330:03)
日蓮大聖人御自身は、このような事情で身延から出るわけにはいかないので、御弟子の中でも房総方面出身の民部日向が、使いとして選ばれ、報恩抄を持って清澄寺に行き、嵩が森の頂と、故道善房の御墓の前で拝読したのである。
同抄送文にいわく「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いて」(0330:09)と。
この日蓮大聖人のご指示は、そのとおり実行された。
華果成就御書にいわく「さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」(0990:01)と。
さて、この送り状にある「嵩はもり」であるが、古来の多くの御書は「山の高み森」とか、「山高き森」とよんでいるが、これは、はなはだしい誤読である。
第二 本抄の大意
(一)本抄の題号
この報恩抄の題号には、通と別の二意を含む
通じていえば四恩の報謝であり、別していえば師の御報謝である。
四恩についても、本抄の四恩と、四恩抄の四恩には次のような相違がある。
本抄の四恩 四恩抄の四恩
父母の恩 衆生の恩
師匠の恩 父母の恩
三宝の恩 国王の恩
なにゆえに本抄は師の恩を出し、一切衆生の恩を没しているのか、それは別して師恩謝徳のために本抄を述作なされたゆえに、師恩を開出されたのである。
しかして衆生の恩を父母の恩の中におく。法蓮抄にも「六道四生の一切衆生は皆父母なり」(1046:06)とある。よって、父母の恩に報ずることが、一切衆生の恩を報ずることになるのである。
次に別していえば、師の恩の報恩にある。旧師道善房の逝去をいたみ、その報恩謝徳のために本抄を御述作になり、嵩が森と御墓の前で読ましめたことは前述のとおりである。
本抄総結の文には「されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329:13)と。
日蓮大聖人の、恩師をしのばれる御心情は、われわれがごとき凡眼には、とうてい想像のつかないところである。
しかしながら、われわれ創価学会のためには、大法弘通の御ために御一生を捧げ尽された恩師牧口先生と、戸田先生がおいでになる。大聖人が、あの凡愚の道善房に対してすら尽された御精神を拝するならば、われわれはこの尊い恩師に、いかにしたらその万分の一をも報いることができるのであろうか。時まさに恩師戸田城聖先生の七回忌を迎えて、粛然として襟を正し、この感慨を深くするものである。
しかしながら、ただ一つ心強く思うことは、恩師なきあと、その御遺訓のままに広宣流布の大道を邁進し、世界に400数十万所帯を突破する大折伏を敢行した事実である。恩師も必ずやお喜びくださるものと確信してやまない。
(二)本抄の大意
本抄御述作の由来からみても、本抄の大意は通じて四恩を報じ、別して師の恩たる故師道善房の恩を報ずべきことを明かしていることはいうまでもない。
しからば、いかにしたらこの大恩を報ずることができるであろうか。それは本抄にお示しのごとく「必ず仏法をならひきはめ智者」とならなくてはならない。「仏法を習い極めんとをもはば」出家して一代聖教を学ばなくてはならない。
しかるに一代聖教を学ぶべき十宗が、日本の国にはびこり、我も第一、我も第一と争っていて、いずれが本意かわからない。そこで一代聖教に照らして判ずるならば、大小、権実、本迹、種脱の勝劣が分明であって、末法の大慈大悲の御本仏が日蓮大聖人であられ、しかも大聖人の建立あそばされるところの大白法は三大秘法であることを明かされている。とくに本抄では真言の邪義を厳しく破折されている。五大部の中においても、立正安国論は佐渡以前の書であり、専ら法然の念仏を破折なされた権実相対が主眼になっている。開目抄には五重相対して人本尊を明かし、観心本尊抄には末法流布の大御本尊を明かされているが、いまだ三大秘法の名目すら出されていない
撰時抄には各宗の邪義を打ち破り「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり」(0272:16)と判じられてはいるが、いまだ三大秘法は明らかではない。
建治の本抄においては、中国における善無畏・金剛智・不空の三三蔵、日本における弘法・慈覚・智証の邪義、誑惑・霊験・悪夢等を徹底的に破責なされている。すなわち通じては禅・念仏の邪義を破するが、別して真言の邪義、とくに身は天台座主の地位にありながら、真言に転落した慈覚・智証を破責なされている。
しかして、本門三大秘法を明かされ、しかも日蓮大聖人の慈悲曠大のゆえに、この三大秘法は末法万年のほか、未来永遠の衆生をお救いになることを断定あそばされているのである。三大秘法を明かされているがゆえに、送文には「大事の大事どもをかきて候ぞ」(0330:07)とおおせになっている。
最後に総結の文には「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(0329:14)とおおせられて、三大秘法を流布し、一切衆生をお救いあそばされることのみが、故師の大恩を報ずる道であることが明かされているのである。
第三 本抄の元意即ち御内証
(一)真の知恩報恩
以上のように、報恩の要術は、三大秘法を信じ、三大秘法を流布することにある。
ゆえに、一往は故師道善房に対する報恩を明かされてはいるが、その元意即ち御内証は、日蓮大聖人が末法の御本仏として、三大秘法を建立し、広宣流布なされることを明かされているのである。
われら末弟もまた、通じては父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国王の恩を報じなければならないし、別しては師の恩を報じなければならないと、訴えておく。
第一章(報恩の道理を明かす)
本文
日蓮これを撰す。
夫れ、老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すら、かくのごとし。いおうや人倫をや。されば、古の賢者・予譲といいし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう演と申せし臣下は腹をさいて衛の懿公が肝を入れたり。いかにいおうや、仏教をならわん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや。
現代語訳
そもそも、狐は決して生まれた古塚を忘れず、老いて死ぬときにも必ず首を古塚に向けるといわれ、また毛宝に助けられた白亀は、後に戦いに敗れた毛宝を背に乗せて助け、その恩に報いたという。かくのごとく、畜生すら恩を知る。いわんや人間に報恩の心がなくてよいのだろうか。
ゆえに昔、中国の予譲という賢人は、主君智伯の恩に感じ、智伯を滅ぼした裵子を刺して恩に報いんとはかった。また衛の弘演は、主君の懿公が戦死したとき、主君の恥をさらすまいとして、おのれの腹を割き、主君の肝を入れて死んだ。これは世法上の報恩である。ましてや、仏法を学ぶもの、どうして父母、師匠、国家社会の恩を忘れることがあってよいであろうか。
語釈
老狐は塚をあとにせず
狐は、みずからが生まれた古塚を忘れず、老いて死ぬときは丘を枕にするという。日寛上人の文段には、次のような諸説が引用されている。淮南子にいわく「兎は死して窟に帰り、狐は死して丘を首にす」。楚辞いわく「鳥飛びて古郷に帰り、狐死するに必ず丘を首にす」。朱子注していわく「鳥の飛びて古郷に帰るは、古巣を思うなり。狐の死して必ず丘を首にす、その生るる所を忘れず」。鄭玄注していわく「狐は穴丘をもって生まる、また、丘を背にして死するを忍びざるは、恩を忘れざるなり」。
白亀は毛宝が恩をほうず
事文類聚に出ている。中国・晋代、ある日、毛宝が河へ行くと、漁師が一匹の白亀をつかまえていた。毛宝は、自分の着物を漁師に与え、その亀を救ってやった。後年、毛宝が予州の刺史となり、邾城の警備の任についていたとき、敵の大軍に攻撃されて城は陥落した。毛宝は城をのがれて河岸へたどり着いたが、乗るべき舟がなかった。すると、そこへ、昔救った亀があらわれた。毛宝は亀の背に乗って河を渡り、難をのがれたとある。
予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて
史記八十六の予譲伝にある。中国・戦国時代、晉の人である予譲は、初め范氏に、続いて中行氏に仕えたが、いずれも用いられなかった。のち、智伯が范・中行の両氏を滅ぼすや、智伯に仕えて大いに重用された。後年、智伯が趙の襄子に滅ぼされると「士は己を知る者のために死す」といって主君の仇を討とうとしたが、果たさず捕えられた。襄子は予譲の忠節に感じて釈放したが、予譲は身に漆を塗って癩人の姿となり、炭を飲んで喉を潰し啞となり、橋の下に潜んで襄子を待ったが、再度捕えられてしまった。そこで、襄子の衣を請い受けてこれを刺し、智伯の仇を報ずるの意を示し、みずからは剣に伏して死んだという。ここで「剣をのみて」とあるのは、自刃したことをいう。紀元前0450年ごろの話である。
こう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり
魏志・陳矯伝、また史記にある。中国・春秋時代、衛の懿公の臣である弘演は、命を奉じて遠くに使いをした。帰国する前に、(北方民族)が衛国を攻め懿公を殺してその肝を捨ててしまった。弘演は、天に号泣して悲しみ、自らの腹をさいて公の肝を入れて死んだという。紀元前0660年ころの話である。
講義
この章は、仏弟子が必ず恩を報ずべき道理を明かしているのである。仏法において説かれる真実の報恩観については、序講にもくわしく述べてきたが、総じては四恩を報じ、別しては師の恩を報ずべきことを明かしている。四恩については、次のように二通りある。
(本抄の四恩は) (四恩抄の四恩は)
一、父母の恩 一、衆生の恩
二、師匠の恩 二、父母の恩
三、三宝の恩 三、国王の恩
四、国王の恩 四、三宝の恩
なぜ本抄において衆生の恩を取り上げず、師匠の恩を強調なされたかについては、日寛上人のおおせによると、別して師恩を開出し、師の恩を報ぜんとなされたからである。しかして、衆生の恩を父母の恩に合せられたことは、次のとおり法蓮抄に明らかである。「六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり」(1046:11)
啓蒙日講は、恩を報ずべきものを明かすのに、初めに世間有為の報恩を明かし、「いかにいわうや仏教をならはん者」の下は出世無為の報恩を明かすといっている。これを日寛上人は破折して、次のようにおおせられている。「本抄の大意は、出世無為すなわち仏法上において、ただ沙門の報恩に約し、無知の男女に約さないのである。沙門の報恩の中においても、意は日蓮大聖人自身の報恩に約すのである。どうして世間有為すなわち一般世間の報恩を明かすということができようか」
日蓮大聖人の師匠の道善房は「此の人愚癡におはする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず」とも「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ」ともおおせられている。このような愚痴の師匠に対してすら、その御死去を聞かれて報恩抄をおしたためあそばされて、道善房の御墓の前で読み、また嵩が森で読めとおおせである。
しかも送状には「大事の中の大事」を本抄にお述べあそばされたとお示しになっているが、日寛上人は、五大部中においても、本抄において初めて三大秘法の名目をあげられたがゆえに「大事の中の大事」であるとなされている。ゆえに、真実の報恩とは、この三大秘法を信じ、折伏を行ずることにあるのである。
報恩は人類の永遠の倫理
報恩ということは、決して封建時代や特定の時代の遺物ではない。時代の変遷によって、種々の意義、種々の形態はあったけれども、永久に人間としてなさなければならない重要な倫理というべきである。
人類始まっていらい、洋の東西を問わず、報恩という徳義は、深く人間性に根ざし、一般庶民の中に奥深く融け込んだものであった。これは、古来、多くの教訓や寓話として、全世界の国々に残されていることからも、推察できるのである。
たとえば、紀元前六百二十年ごろ、ギリシャのアイソーポスによってあらわされたイソップ物語りは、ソクラテスの言行録「フェードン」や、アリストテレスの著作等にも、しばしば引用されているが、これは、動物の世界から材料をとり、道徳や処世の術に関する常識を教えるための諷喩的な短い萬話である。このイソップ物語り等にも恩を感じ恩を報ずべきであるという教訓が多く含まれている。この思想は、古代ギリシャの日常の道徳的教訓であり、「範例による哲学」と称する人すらある。そして、これらの寓話は当時広く東洋民族やゲルマン民族等にも伝えられていたと思われる。
またローマの俚諺にいわく「恩を知らざる人は穴多き桶の如し」と。アラビアに伝わる俚諺にいわく「汝に陰を与えたる樹木は、これを伐るべからず」と。時代が下ってドイツの哲学者カントいわく「世に恩を知らざる人より悪しきはなし」と。このように、ヨーロッパの庶民には「忘恩の者は畜生より劣る」という思想が、はっきりうかがわれる。
中国にも古くから知恩報恩の感情が強かったことは、日蓮大聖人が報恩抄に引用されている「老狐」や「白亀」の例や、「予譲」「弘演」等の故事から、明白に知れることであり、あえて説明を要しないところである。
さらに日本においても、最古の文献である古事記や万葉集などには、古えの人々の報恩観が物語りや歌に託して見られ、また、古くから伝わる、いわゆる、おとぎばなし等の中にも、報恩思想が中心倫理になっているものが、ずいぶんと多いのである。このように、恩を知り恩を報ずることは、人間本来のすぐれた美徳として、賞揚されてきたのである。
現代日本の風潮として、報恩といえば、何か封建的な主従関係を思い出させるのであるが、真実の報恩とは、決してそのようなものではない。封建的な報恩観は、日本の江戸時代末期に、儒教等によって片頗に誇張されて用いられたことが原因になっているにすぎないのである。誤解や誤認識から、真実の報恩を軽蔑し、忘恩を助長するような風潮を深く嘆かずにはおられない。
しかして、真実の報恩とは、日蓮大聖人の仏法に説かれた報恩であり、仏法で説く四恩および本抄により根源的に示された報恩の道理こそ、永久に人類の指針・基準とすべき倫理であると主張するものである。
ひるがえって、現代社会に目を転ずると、いわゆる民主主義をはき違えた放縦主義、無責任主義が横行している。そして、ふみはずした民主主義思想が、どれほど社会に害毒を流しているか、はかり知れないものがある。
真実の民主主義とは、真実の宗教哲学によってのみ説かれ、実践されるものである。なぜならば、真の民主主義の思想は、歴史的にも現実的にも、宗教にその起源を有し、これを土台にして成立しているからである。今の社会に見られるような無責任な放縦主義や、社会を無視した個人の自由や、倫理道徳のない個人の尊厳や、秩序のない平等は、真の民主主義の姿では断じてありえないのである。
われわれは、民主主義の根本思想は、決して唯心主義や唯物主義等ではありえないことを、道理、現証の上から明白に知っている。そして、日蓮大聖人の仏法こそ、真実の宗教であり、真の民主主義を確立するものであると確信する。すなわち、大仏法を信じて、苦悩に束縛されず楽しみきっている自己の生命こそ真の自由であり、民族人種の差別なく、あらゆる人々がすべて一念三千の生命であるがゆえに真の平等であり、だれびとも仏界をそなえ仏界を涌現できるがゆえに真の尊厳なのである。
しかして、報恩という徳義においても、それぞれの思想、哲学、宗教によって千差万別の相があることを知るのである。結論的にいえば、キリスト教、イスラム教、儒教、唯物主義等は、真実の報恩観を説かず、むしろ一般庶民に芽ばえている報恩観をつみとるような働きさえ示しているといわざるをえない。そして、東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の仏法のみが、正しい報恩観を説いていると確信するものである。
たとえば、キリスト教においては、人間は神によって造られ、罪でけがれたものであるがゆえに、恩というものは、ただ神からのみ授かるものであると説く。すなわち、人間は、本来恵みを受けるに値しない罪ある存在であるが、神からのみ、恩寵、恩恵を受けるにすぎないというのである。
さらに、唯物主義における報恩観は、一応、国家社会に対する報恩観ありといえなくもないが、その行動言動において、報恩というよりも、報復と憎悪の対象を求めている姿は、やはり同じく人間性を無視したものといわざるをえない。国家社会に対する一片の報恩観も、根底の思想の誤りのゆえに、決して人類社会を益するものとはいいがたいのである。
しからば、釈尊の仏法における報恩観はどうであろうか。報恩の徳義は、欧米よりも東洋に芽ばえ発展したと思われる。とくに仏法において、さらに高く、広範囲に、一重立ち入って報恩思想を説いているのである。
釈尊の仏法において、方等部の報恩経の中に、知恩報恩の因縁および種々の法門を説いている。さらに報恩を説く各経の一端を示せば、雑阿含経にいわく「恩を知りて恩を報ずとは、其の小恩あるも尚お報じて終に忘失せざれ、況や復た大恩をや」と。大集経にいわく「菩薩摩訶薩は親旧を捨てず、恩を知りて恩を報じ、一切を憐愍す」と。大宝積経にいわく「知恩報恩は是れ菩薩の行なり、仏種を断ぜざるが故なり」と。大方広不思議境界経にいわく「恩を知る者は生死に在りと雖(いえど)も善根を壊らず、恩を知らざる者は善根断滅す」と。般若経にいわく「一切世間の恩を知り恩に報ずるは仏に過ぎたる者無し」と。また智度論にいわく「恩を知る者は大悲の本なり、善業を開くの初門なり」と。
そして、正法念処経には「母恩、父恩、如来恩、説法法師恩の四恩」を挙げ、心地観経には、「父母、衆生、国王、三宝の四恩」が説かれ、とくにこれは広く用いられて、日蓮大聖人の四恩抄にも引用されていることは前述のとおりである。
このように、釈尊の仏法にあっては、小乗、権大乗、実大乗を問わず、報恩を強く説いて、人類の倫理と立てているのである。しかし、当然、少数の人を短い間のみ救済する小乗仏法よりも、多数の人々を長く救済しきる大乗仏法が報恩思想において秀れ、また権大乗よりも実大乗たる法華経が秀れていることはいうまでもない。ゆえに日蓮大聖人のおおせには、釈尊の仏法にあっては「但法華経計りこそ女人成仏・悲母の恩を報ずる実の報恩経にて候へ」(1311:千日尼御前御返事:18)と。また法華経の功徳を讃え「此の経は内典の孝経なり」(0223:開目抄下:14)等とおおせである。
正法時代の竜樹菩薩、天親菩薩、像法時代の天台大師、伝教大師等の仏法の正統承継者も同じく、釈尊の滅後、インド、中国、日本等において、真実の報恩思想を強調したのである。しかして、根本的に報恩を説かれた方こそ、末法の御本仏・日蓮大聖人であられたのである。
一方、中国の儒教等においては、恩を説くこと、はなはだまれであった。孟子が斉の宣王に対して説いた恩も、実は仁、愛を意味するものであった。むしろ儒教では、報恩ではなく施恩を説いたと思われる。江戸時代の初期、日本に儒教思想が取り入れられたさいには、恩はさほど問題ではなかったのである。
しかるに江戸時代の中期、後期にいたって、中江藤樹、貝原益軒等の儒学者が、仏教の報恩思想に対抗して、感恩報恩を強調したのが、儒教の報恩思想の始まりである。そして、これが、故意に儒教流に歪曲されて武士階級に持ち込まれ、いわゆる封建的な主従関係を儒教の感恩の思想によって、しばりつけたのである。この儒教流の感恩思想が災いをなして、報恩といえば、何か封建的な思想として、現代において真実の報恩思想すら排斥されている傾向が強いのである。
仏法における報恩は、決してこのような窮屈な強制的な封建的な儒教流の報恩ではない。とくに日蓮大聖人の仏法における報恩思想は、釈尊の仏法の報恩よりも、さらに一重立ち入った最高の報恩思想であり、全人類が等しく最高の倫理の一つとして仰ぐべき徳義であることを、重ねて強く主張するものである。
第二章(報恩の要術を明かす)
本文
此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか、譬へば衆盲をみちびかんには生盲の身にては橋河をわたしがたし方風を弁えざらん大舟は諸商を導きて宝山にいたるべしや、仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず、この義は諸人をもはく顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう、しかれども外典の孝経にも父母主君に随はずして忠臣・孝人なるやうもみえたり、内典の仏経に云く「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云、比干が王に随わずして賢人のなをとり悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。
現代語訳
しからば、この大恩を報ぜんために、いかにすればよいのか。それには、必ず仏法の奥底を学び修行して、智者とならなければならない。たとえていえば、多くの盲人を道案内して橋や河を渡ろうとするのに、自分があきメクラの身では、決して道案内はできない。また、風の方向を知らぬ船頭の舟が、どうして多くの商人を誤りなく宝の山へ導きえようか。
そのように、仏法を習いきわめ智者となるためには、仏道修行に時間をかけて打ち込むべきである。さらに、むだな時間を惜しんで仏道修行に励もうと思ったならば、父母、師匠、国主等に左右され、従っていては、絶対に目的を果たすことはできない。ともかく、成仏の境涯に立ち、永遠の幸福をつかもうと思ったならば、父母、師匠の心に従っていてはならないのである。
このようにいえば、人々はみな驚き「これは大変なことだ。これでは世間の道徳にもはずれ、仏法の精神にも背くことになるではないか」と思うであろう。しかし、外典の孝経には「父母、主君の心に従うべきではないときは、従わずして、かえって父母、主君を諌めていくのが真の忠臣、孝子である」と説かれている。また、内典の仏経には「父母に対する恩愛の情を捨てて、成仏を願って仏道に入るものは、真実の報恩である」等と示されている。
殷の紂王の臣・比干は、暴逆な王命に従わず、かえって賢人の名を高めた。釈尊は悉達太子といった時代に、父の浄飯大王の心に背いて出家し、ついに三界第一の孝子となった等も、同じ例である。すなわち、父母の心に反して仏道に入ってこそ、忠孝をつらぬき、真実の報恩を果たしたのである。
語釈
方風
方向と風の向き。
出離の道
三界六道の俗世間を出る道。仏道修行のこと。
顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう
羂は皮相的な世間の道徳。冥は内面的な仏教の精神。
「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」
「清信士度人経」にある文。「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」(三界の中に流転して 恩愛断つこと能わずとも 恩を棄て無為に入らば 真実の恩に報いる者なり)。すなわち流転三界の迷いのなかにあっては、真実の報恩はできない。いま、人情の縄によって種々に束縛されている恩愛の情を捨てて、出家して仏道修行に励み、人をも救っていくことが、真実の報恩であるとの意。一説には「清信士度人経」の名目は、一切経にないともいう。
比干が王に随わずして賢人のなをとり
史記の殷本紀第三によると、殷の紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、強く諫めた。妲己は王に向かって「上聖は心に九孔あり、孔に九毛あり、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛ある。比干は中聖なり、帝、かれが心をさきてみたまえ」と。帝は比干の胸を割いた。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅亡した。西紀前0830年ごろの話である。
悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりし
悉多太子は釈尊出家前の名。父の浄飯王の意思にそむいて、19歳のときに王宮を去って仏道修行に入った。
講義
この章からは、報恩の要術を明かす段となる。
世間一般においても、恩を知り恩を報ずることは重要であるが、報恩に、大小、浅深があり、価値観をもって判断すべきことが多いのである。
その前に善ということを取り上げてみよう。古来、善の観念については多くの論議が戦わされ、現在も倫理学の中心問題となっている。しかるに善について、何人も納得できうる規定はなされなかったのである。プラトンは「善のイデア」を論じながら善についての明確な定義を避けており、カントは「道徳律を遵奉するのが善である」といい、平凡社の哲学辞典には「ひろい意味では一般にわれわれにとって価値あるもの、貴重なもの、有利なものを善という」と規定し、岩波新書の哲学小辞典には「広くは意志、要求、目的に適うものとして求めらるべきもの」等としてある。また西田幾多郎著「善の研究」においては「善とは自己の発展完成である」等といっている。
しかして、創価学会初代会長牧口常三郎先生は、カント哲学を批判して、価値概念として善利美の系列を立て、善の概念については、「公益を善という」と定義した。しかして、善にも小善、中善、大善があり、「小善に安んじて大善に背けば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる」等という価値判定の基準を説いたのである。
同じく報恩についても、価値観から論じなければなるまい。報恩において、大中小、浅深、当分跨節がある。たとえば忠臣蔵は、江戸時代の中期に、主君の敵を討って主君の恩に報いたということで、名高い芝居になったものである。その他、主君の恩を報ずるために命を捨てたような例は、歴史上に多く数えられる。また広く国家社会の恩を報ずるために命を捧げたような例も、戦争等において多くみられる。この場合において、たとえ主君の恩を報じても国家社会に公害になるような時は、当分の報恩であり、跨節真実の報恩とはいえまい。また現代の各種の選挙などで、買収されたり、わずかの恩義や義理を感じて悪徳腐敗候補を応援するようなことは、逆に国家社会に対する忘恩となるのも、この理である。所詮は、報恩といっても、普遍妥当性の永久性の価値あるものでなければならぬ。すなわち真実の平和主義、戦争反対のごときは、広く人類に対する報恩というべきである。
日蓮大聖人が佐渡御書におおせには「世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、(中略)世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(0956:12)と。ここで、主君の恩とは、現代でいえば、広く社会の恩と考えるべきであろう。ともかく、大事の仏法を奉じて、人間革命をはかり、また広く社会の繁栄と幸福のために仏道修行を行じていってこそ、師恩および四恩に対する最高の報恩であるとのおおせである。
古くは、三千年前、釈尊が出家したのも、父母親族をはじめ社会の人々の恩を報ずるためであり、近くは御本仏日蓮大聖人の出家のお姿も一切衆生を救わんがためであり、最高の報恩であるとのおおせである。ゆえに、現代でいえば、われわれの広宣流布への実践活動こそ、広く国家社会に対しても、最高の報恩であることを確信すべきである。
さて本文についていえば、まず、この大恩を報ずるには、どうしたらよいか、それには必ず仏法を習いきわめ智者とならなければならないと申されている。仏法を習いきわめ智者となるためには、一代聖教を学び、八宗の章疏を習いきわめなくてはならないであろう。しかし、末代下根の衆生がどうしてそのような習学ができるであろうか。だが、それができなくては、一人も恩を報ずる者がないことになるではないか。
このような疑問に対し、日寛上人は次のようにおおせになっている。
「他宗他門のごときは、たとい一代聖教を胸に浮かべたとしても、決して仏法を習いきわめたとはいえない。これ、三重秘伝を知らず、権実、本迹、種脱に迷乱しているからである。しかるに当流の学者は、じつに一迷先達の日蓮大聖人の御跡を忍ぶゆえに、初めから、このことを知るゆえに、その義、仏法を習いきわめたことになるのである。……ただし、当流の学者が三重秘伝の奥義を知っているといっても、もし正法を伝え、民衆救済のため折伏をしなければ、結局は、恩を報ずることにはならない。仏が説いていうのには、只通化伝法をもって報恩と名づけるのみである云云と。
問う、たとい当流といっても、無知の俗男俗女は三重秘伝を知らない人がいる。このような人は恩を報ずることができないのか。答う、無知の男女は、ただ本門の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉るのが、じつに、この大恩を奉ずることになるのである」と。
以上、お示しのとおり、真実の報恩は、三大秘法の仏法を信じ、題目を唱え、折伏を行ずることである。ゆえに折伏を行じて広宣流布のために戦う創価学会員のみが、真実の報恩の誠を尽くすことができるのである。
「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」とは価値観である。同じく恩といっても、その価値には大小高下がある。「父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず」とおおせになっているのも、三大秘法の習学のため、折伏を行ずるためには、父母にも師匠にも国主にも随っていてはならないとおおせである。
兄弟抄には「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」(1085:07)と。親の恩とか、師匠の恩とか、国主の恩を報ぜよといえば、封建的な道徳観や主従関係を思わせるが、そうではない。日蓮大聖人のお説きになる知恩、報恩とは、以上のように三大秘法の仏法を根本にした知恩、報恩である。親の恩、主君の恩を報じなければならないことはいうまでもないが、仏法の真髄たる三大秘法の御本尊を根本にすれば、ぜんぶ含まれてくるのである。
親の恩を報ずるのは親孝行という徳義であるが、仏法においては下品、中品、上品の孝を説いているのである。「孝養に三種あり、衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」と。ゆえに、三大秘法の大仏法を持ち、ひいては親を折伏し正法に帰依させ、また亡き親に対しては朝に晩に正法をもって回向するのが最高の親孝行というべきである。また、親に反対されたり、一家の中に信仰に反対のものがいても、はじめに入信したものが、しっかりと信心修行に励み、自分の生活に御本尊の功徳を証明していくならば、ついには反対の家族や親も、ともに信仰できるようになり、この世で成仏するのである。これこそ真実の親孝行であり、一家のため、国のためになることは、われわれのよく体験するところではないか。すなわち日蓮大聖人は「世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す」(0183:一昨日御書:15)と申されている。
同じく、親に対する報恩に限らず、すべての報恩に上品、中品、下品の段階があることを知るべきである。
第三章(諸宗の迷乱を挙ぐ)
本文
かくのごとく存して父母・師匠等に随わずして仏法をうかがひし程に一代聖教をさとるべき明鏡十あり、所謂る倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり此の十宗を明師として一切経の心をしるべし世間の学者等おもえり此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと小乗の三宗はしばらく・これををく民の消息の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし、大乗の七鏡こそ生死の大海をわたりて浄土の岸につく大船なれば此を習いほどひて我がみも助け人をも・みちびかんとおもひて習ひみるほどに大乗の七宗いづれも・いづれも自讃あり我が宗こそ一代の心はえたれ・えたれ等云云、所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周.智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏.金剛智・不空・弘法.慈覚・智証等、禅宗の達磨.慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等、此等の宗宗みな本経・本論によりて我も我も一切経をさとれり仏意をきはめたりと云云、彼の人人云く一切経の中には華厳経第一なり法華経大日経等は臣下のごとし、真言宗の云く一切経の中には大日経第一なり余経は衆星のごとし、禅宗が云く一切経の中には楞伽経第一なり乃至余宗かくのごとし、而も上に挙ぐる諸師は世間の人人・各各おもえり諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随うがごとし
現代語訳
こうしたことがわかって、父母、師匠等に随わないで、仏法を習おうとするのに、現在の日本には次のような十宗がある。すなわち、釈尊五十年間の聖教の真髄をうるのには、明鏡とすべき教えが十あることになる。それは倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、真言宗、華厳宗、浄土宗、禅宗、天台法華宗の十宗である。
世間の学者たちは、これらの十宗を明師として釈尊の一切経の真髄を知るべきであると思っている。また、この十の鏡となる教えは、いずれも正しく仏の説かれた道をさし示していると思っている。しかし、そのなかで、倶舎、成実、律宗の三宗は小乗であるから、いまは論じない。これらは、ちょうど他の国へ手紙を出す場合、一個人の資格であっては、権威がないのと同じである。
大乗教の七つの教えこそ、生死の大海を渡って成仏の岸へ着けてくれる大船である。ゆえに、これを習いきわめて、自分も成仏し、人をも導こうと思って習学したところが、大乗の七宗いずれも「わが宗こそ一代聖教の真髄を得た」とそれぞれに自慢している。
いわゆる華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等、これらの人々は、みな各自の宗旨の拠りどころである経典や論釈をタテにとって「われこそ一切経の奥底を悟った」「われこそ仏の本懐をきわめたものである」といっている。
彼らのなかで華厳宗は「一切経のなかで華厳経が第一である。それに比すれば、法華経や大日経等は臣下のごときものである」といっている。真言宗は「一切経のなかで大日経が第一である。他の経は月に対する星のごとき存在である」という。禅宗がいうには「一切経の中では楞伽経が第一である」と。その他の宗も同様に、おのおの自宗が第一なりと誇っている。しかも、いままで挙げたところの諸師は、世間の人々から尊敬されること、ちょうど諸天がその王である帝釈を尊敬し、衆星が日月に随っているような姿である。
語釈
一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。
倶舎
倶舎宗のこと。くわしくは「阿毘達磨倶舎」といい、薩婆多宗ともいう。訳して「対法蔵」。世親菩薩の倶舎論を所依とする小乗の宗派で、一切有部の教義を講究する宗派。わが国では法相宗の附宗として伝来し、東大寺を中心に倶舎論が研究された。
成実
四世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。教義は自我も法も空であるとの人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では、最も進んだ教義とされる。五世紀初頭、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什門下によって盛んに研究された。しかし、天台大師や吉蔵によって小乗と断定されてから衰退した。
律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえ
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」と申されている。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
天台法華宗
天台大師が立てた法華宗。天台宗のこと。
十宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
小乗の三宗
俱舎宗・成美宗・律宗のこと。
大乗の七鏡
法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗のこと。
杜順
(0557年~0640)。中国隋・唐代の人で華厳宗の祖。僧名は法順。俗姓が杜氏であり杜順と通称される。雍州万年(陝西省西安市)の人。18歳で出家し、僧珍禅師について修行し、禅および華厳を究めた。隋の文帝、また唐の太宗の崇敬を受けた。「華厳法界観門」一巻を著わして、専ら華厳を弘め、その弟子・智儼に華厳宗を伝えた。
智儼
(0602~0668)。中国華厳宗の第二祖。至相大師・雲華尊者ともいわれる。14歳で杜順について出家し、四分律や涅槃などの諸経論を学んだが、のちに華厳経の研究に専念した。著書に「華厳経捜玄記」五巻、「華厳孔目章」4巻などがある。
法蔵
(0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」二十巻、「華厳五教章」三巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
澄観
(0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
玄奘
(0602~0664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1,335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
慈恩
(0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
智周
(0668~0723)。中国唐代の法相宗の僧。法相宗は①玄奘、②慈恩、③慧沼、④智周へと伝えられた。著書には「成唯識論演秘」14巻、「成唯識論掌中枢要記」2巻などがある。
智昭
智鳳あるいは道昭を伝写の誤りか。智鳳は奈良時代の新羅僧で、0703年に入唐して智周から法相宗を伝えられた。道昭は帰化人の子孫で、0653年に入唐し、法相宗を玄奘から直接に伝えられ、これを行基に伝えた。
興皇
三論宗祖師の一人、法朗の別名。興皇に住んでいたゆえに、このように呼ばれる。嘉祥の師。21歳のときに、梁の青州で出家した。摂山の僧・朗をしたって、その後継者である止観院の僧・詮について「中論」「百論」「十二門論」「華厳経」「般若経」等を学んだ。陳の太建13年(0581)、75歳で死んだ。
嘉祥
(0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言宗の開祖。東インドの烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てている。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。
金剛智
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
不空
(0705~0774)。中国唐時代に真言宗を弘めた一人。善無畏・金剛智と共に三三蔵と称される。北インドのバラモンの出身で、15歳の時金剛智三蔵に師事した。開元8年(0720)、師の金剛智と共に中国の洛陽に赴く。開元29年(0741)、帰国の途につき獅子国に達した。竜智菩薩に会い、密蔵及び諸経論五百余部を得て、6年後、再び唐都の洛陽に帰った。その後、玄宗皇帝のために潅頂し、尊崇を受けた。永泰9年(0774)、70歳で死んだ。門下の慧果は弘法の師である。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四翻訳家の一人に数えられ、多くの訳経があるが、日蓮大聖人は撰時抄に「不空三蔵は誤る事かずをほし……他人の訳ならば用ゆる事もありなん此の人の訳せる経論は信ぜられず」(0268-09)と仰せである。
弘法
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘仁14年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
慈覚
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。下野国(栃木県)都賀郡に生まれる。俗姓は壬生氏。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて、仁明天皇の治世の承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡をうけ延暦寺第三代の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。著書には「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経略疏」7巻等がある。
智証
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏1,000巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」1巻、「法華論記」10巻などがある。
達磨
中国禅宗の初祖。本名は菩提多羅。般若多羅より教えを受け、彼の滅後67年に震旦(中国)に法を弘めるように命ぜられ、梁の普通元年(0520)中国に入り、武帝に禅を説いたが、受け入れられず、魏に渡り嵩山少林寺の壁にむかい9年間坐禅した。そのため壁観婆羅門と呼ばれた。
慧可
(0487~0593)。達磨より法をうけた禅宗の第二祖。中国の南北朝の人。達磨を訪ねて終夜雪の中に立ち、みずから臂を断って信を表わし初めて入門を許されたという。従学すること6年で、達磨の付属をうけた。
慧能
(0638~0713)諡は大鑑禅師、范陽(河北省涿州市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。
道綽
(0562~0645)。中国の隋・唐時代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。
善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃で、「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」(観無量寿経疏)4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
懐感
中国唐朝の浄土宗の僧。長安の千福寺にいて精進し道を求めたが、満足せず、善導に会うに及んで、ただひたすらに念仏を唱えれば、必ず証験があると信じ、3週間道場にこもった。しかし、なんの霊験もなかったので、さらに3年間修行し、ついに念仏三昧を証得したと称した。「群疑論」(「釈浄土群疑論」)の著者である。法然は「類聚浄土五祖伝」等で、浄土五祖(曇鸞・道綽・善導・懐感・少康)の1人とした。
源空
(1133~1212)。わが国浄土宗の元祖法然のこと。伝記によると、童名を勢至丸といい、母が剃刀をのむ夢をみて源空をはらんだという。15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。承元元年(1207)2月、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下され、法然は還俗させられて土佐国に流罪され、弟子の住蓮と安楽は処刑された。翌年、許されて京都に戻り、建暦2年(1212)80歳で没した。
華厳経
正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
楞伽経
「楞伽阿跋多羅宝経」「入楞伽経」「大乗入楞伽経」の三訳が現存する。禅宗の依経の一つ。仏が、楞伽山頂において大慧菩薩の問いに答えた種種の法門を記した経典。達磨は、この経を如来の極説として、慧可に授けた。
講義
報恩の要術を明かす中に、この章は諸宗の迷乱を挙げている。
日寛上人は「問う、報恩の要術とはその意如何」との問いを設け、次のように明かされている。「答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂く身命を惜しまずして邪法を退治し、正法を弘通する則ち一切の恩として報ぜざるなき故なり」と。
すでに前章にも述べてきたとおり、邪法を退治し正法を弘通することが、すなわち報恩である。ゆえに、いずれが邪法か、いずれが正法かを判別することが最も肝要となるのである。ところが、本文にお示しのとおり「世間の学者等おもえり」とて、世間一般の学者たちは、いずれの宗派も、いずれの教典も、みなそれぞれに功徳があると思っている。しかし、一般に、哲学、倫理、宗教等には、必ず勝劣、浅深、正邪があることを知らなくてはならぬ。しかして勝、深、正なるものを、求むべきである。
それらの批判の原理をのべる前に、西洋哲学の話が出てくるので、哲学、倫理、宗教とは、いかなるものであるかを、かんたんに考察してみよう。
哲学(Philosophy)とは、ギリシャにおいて一般に知識を愛し教養を求むることで、広く学問一般を意味した。しかし、学問が種々に分化することによって、哲学から自然科学、心理学、美学、倫理学等がそれぞれ独立し、現在においては、哲学といえば形而上学、認識論、さらに論理学、歴史哲学等を含む学問をいうようになった。
また倫理とは、人間の意志行為に対する当為規範であり、一般にいわれる道徳、修身等よりは広範囲にわたるのである。
いわゆる道徳、修身等は、まだ狭く封建的な要素を含んでいると考えられるのである。
宗教の「宗」とは根本の意である。したがって、宗教とは生命活動の本源、宇宙現象の根本義を説き明かしたものである。しかして、この根本理論を生活法とし具体的に顕現したものにほかならない。ゆえに宗教には、必ず本尊があり、本尊と人の関係において感応利益がなければならないのである。
しかして、哲学、倫理、宗教等が劣、浅、邪であるならば、不幸にならざるをえない。
さて、一代仏教の判釈は五時八教である。五時とは、華厳・阿含・方等・般若・法華の五時であって、その教は擬宜・誘引・弾訶・陶汰・開会等と、すべて仏の善巧方便によって説きすすめられた次第である。
また八教は、化儀の頓・漸・秘密・不定であり、化法の蔵・通・別・円であって、これまた時に応じ機根に応じて説かれたものである。
しかして仏教の各宗派は、これら大小・権実・顕密等、多種多様の経典を拠りどころにしている。ゆえに、宗教はなんでもよいとか、同じ釈尊の教えだからどの宗派でも同じだなどということにはならないのである。すなわち、法そのものに差別があり、哲理に上下、雲泥の差があるのである。
さらに、本抄にお示しのような十宗は、その依拠とする経典をそのまま用いても、すでに末法には無用有害の経典である。末法は釈尊の仏法に縁がないのである。しかるに、それぞれの開祖たちは、釈尊の出世の本懐たる法華経を誹謗して自宗を立てた。さらに、日蓮大聖人の御出現以後においては、末法の御本仏たる大聖人の三大秘法を誹謗しているので、ことごとく謗法無間地獄のやからとなっているのである。
知恩、報恩のひととなるか、それとも不知恩、忘恩の徒となって地獄へ堕ちるかは、まず第一に、その宗教が正法か邪法かを知って修行に励まなければならないのである。
宗教の正邪の判定は、三三蔵祈雨事にいわく「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468:16)と。
すなわち、正しい宗教には、まず教典の上に正確な依拠があり、しかも、その教えが道理にかない、しかも修行すれば、そのとおりの現証があらわれるものである。反対に、邪宗教とは、道理も証文も現証もないものである。
恩師戸田先生の「立正安国論講義」には、
「第一に文証とは、文の証拠を求めることで、Aなる宗教があった場合、まずその宗教の依経とするものは何かということを究めなくてはならない。仏教以外の宗教なら仏経典とその経典とを比較研究しなくてはならぬ。教義のないような宗教は宗教とはいえないのである。もしまた仏教内の教えである場合、五重相対等によって、その経文の高低、浅深、価値の正反等を判定するのである。
第二に理証とは、文証があるとして、その文証が哲学的に研究して現代の科学と一致し、かつ理論として文化人が納得できるかどうか、または肯定しうるかどうかを研究しなくてはならない。いかに経文はりっぱでも、哲学的価値がなかったならば、これは捨てなければならない。哲学とは思惟することであるが、これがいかにりっぱに思惟されていても、科学的でなくてはならない。即ち普遍妥当性を有していなくてはならないし、同一原因は同一結果を時と所とによらず具現しなくてはならない。かつまた、それが最高の価値をもたらす結論を有しなくてはならない。即ち幸福を証明づける理論でなければならないのである。しかも、その幸福は万代不易の幸福であって、幾多の事件にもたたきこわされるような幸福であってはならないのである。
第三に現証とは、事実生活の上に証明されるものである。もともと最高宗教は人間革命にあり宿命の打破にあるゆえに、この理を完全に説明できる科学でなくては最高の宗教とはいえないのである。現証とは、その宗教を実践するにあたって、いかなる現実の証拠が生活に現われるかという実験証明であり、もっとも大切である。しかし、現在、邪宗教がよくこれを用いて、やれコップにアワが出たから現証だ等といっているのは非常な誤りであって、文証どおり、理証どおり、現実生活に経験せられることが正しい現証論である」
このような宗教批判の原理に照らして、それぞれの宗教を批判してみるときに、その真偽、正邪が明白になるのである。
しかして、末法の御本仏日蓮大聖人が、御入滅ののち700年を過ぎた今日、道理・証文・現証のととのう宗教は、結論的にいって、ただ一つ創価学会だけである。宗教の五網、五重相対等、あらゆる宗教批判の原理の上からして、このことは絶対に誤りのない結論である。
小乗の三宗、大乗の七鏡等
「小乗の三宗はしばらく・これををく」とは、「小を簡びて大を取る」すなわち、大小相対である。譬えの文は、小乗は民の消息のごとく、大乗は、国主の御判のある通知状のようなものである。また、小乗は小舟で、大乗は大船であるから、よく大海を渡り彼岸に達するためには、乗り物を選ばなければならないのである。
次に「大乗の七宗いづれも……」からは、七宗の迷乱を明かすのである。要するに、師匠が邪法を信じ、邪法をひろめていれば、その弟子檀那も、ことごとく邪宗の徒となる。師が地獄へ堕ちれば、弟子檀那も、ことごとく地獄へ堕ちるのである。
また、当時の七宗、十宗等は、一応は民の消息のごときもあり、国主の判のある通知状のごとき宗派もあった。しかし、その後は、さらに時代も濁悪となり、最近では、仏教ともつかず、外道ともつかない天理教や立正佼成会のごとき邪宗が栄えてきた。これみな三大秘法広宣流布の瑞相と見ることができる。
西洋哲学の師弟関係
次に、哲学、宗教等は、必ず師弟によって決定され、指導者の如何によって幸不幸が左右されることを確認したい。仏教哲学に関しては、すでに論じたとおりであるが、いわゆる西洋哲学の分野においても、同じ原理が成立するのである。
たとえば、西田幾多郎といえば「善の研究」で登場し、いわゆる京大哲学の祖として一世を風靡した、近代日本の哲学者といわれている。彼は近代西洋哲学と、禅の体験や念仏思想等の仏教哲学を統一しようと試みたのであった。彼は真宗の家に生まれ、母が真宗の信者であったところから、彼自身は真宗の信者ではないといいながら、知らずしらずのうちに影響をうけ、親鸞や歎異抄に引かれるところが多かったようである。ゆえに結局は、西田幾多郎の哲学の根本は、詮ずるところ、いわゆるキリスト教哲学と、善と念仏の哲学の融合のような形をとらざるをえなかったのである。
また、西田幾多郎には、田辺元、三木清というような弟子があった。田辺元の哲学は、彼自身の告白によれば宗教的方向においては西田幾多郎の禅的直観に傾倒してその影響を受け、またケーベルのキリスト教哲学と波多野精一の原始キリスト教の講義によって、大きくキリスト教の影響をうけた。さらに、彼は自力から他力への転換において親鸞に導かれたけれども、最後にはキリスト教に還った等とのべている。田辺元も西田と同じく、キリスト教、禅宗、真宗という宗教哲学を混同した哲学を説いたにすぎない。そしてそれは、西田、ケーベル等の彼の師の影響以外のなにものでもなかったのである。
また三木清は、彼の「読書遍歴」という著書に、聖書を繰り返して読んで、そのつど感銘を受け、仏教の教典では浄土真宗の「正信偈」とか「御文章」を聞き覚え、誦し、結局は「歎異抄」に感銘をうけた等と告白している。このような背景のもとに、三木清も、西田幾多郎に師事するようになる。
これらは、哲学は師弟によって決定されるという一例であるが、日本の代表的哲学者が、そろいもそろって、キリスト教、禅、念仏等に傾倒したところに、日本の哲学界の悲劇があったといえよう。
また、西洋哲学も、歴史的に研究すれば、すべて師弟相対で論ぜられるものである。いわゆるマルクス、エンゲルスの哲学も、ヘーゲルの弁証法と、ヘーゲル左派のフォイエルバッハの唯物論、さらに当時の空想的社会主義等の影響をうけて発生したにすぎないのである。
「源濁れば流れ清からず」東洋仏法の真髄、日蓮大聖哲の色心不二の大生命哲学によらなければ、真実に人類を幸福にする宗教、倫理、哲学たりえないことは、明々白々であると主張するものである。
ひるがえって、近代の世界指導者をみるに、ヒットラーにせよ、ムッソリーニにせよ、スターリンにせよ、また日本の東条にせよ、すべて誤った哲学を根本としたがゆえに、民衆を不幸に導いたのである。彼らの哲学に、指導理念に、いままで論じてきたような報恩の観念が、少しでも説かれていただろうか。いな、彼らの持つものは、ただ権力と誤れる低級哲学にすぎなかった。恐ろしきものは、指導階級のもつ哲学の内容ではないか。
ここで、突きつめて考えるとき、倫理学も、その根本前提をたずねられれば、宗教哲学とならざるをえないのである。紀元前三世紀のヘレニズム時代にはストア派やエピクゥロス派が、また中世紀にはスコラ哲学などが、倫理学の形をとったが、根本は宗教哲学なのである。そして西洋哲学で宗教が問題となる場合、すべて、キリスト教を指しているのである。
ゆえに西洋哲学で論ぜられるのは、近代の実存主義であれ実証哲学であれ、いつもキリスト教や神を、いかに考えるかが、もっとも重要なる因子となってくるわけである。ここに、哲学、倫理学等も同じく、宗教批判の原理によって、勝劣、浅深、正邪が論ぜられるということになるわけである。
第四章(涅槃経の遺誡)
本文
我等凡夫はいづれの師師なりとも信ずるならば不足あるべからず仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし、世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず家に二の主あれば其の家必ずやぶる一切経も又かくのごとくや有るらん何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ、而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ我れ八宗十宗に随はじ天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり、此の経に又云く「了義経に依つて不了義経に依らざれ」等云云、此の経に指すところ了義経と申すは 法華経・不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり、されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。
現代語訳
われらがごとき凡夫には、いずれの師であっても、信ずるときには不足がないように思われる。したがって、人々はただ、それぞれ最初に信じた教えをあおいで、とうぜんであるように思っている。けれども、そんなことでは日蓮自身の疑いは晴れない。
なぜならば、世間を見るのに、各宗派がおのおの「わが宗こそは」といって力を誇示していようとも、国主というものは、一国に一人であるべきであって、二人になったら、その国土には争乱が起きる。一家に二人の主人がいるならば、必ずその家は滅びてしまう。一切経もまた、これと同じであるはずである。
諸宗所依の多くの経典中、いずれかの一経のみが、一切経のなかには真の大王の教えであるはずである。ところが、十宗・七宗が互いに第一であると争っているのは、ちょうど国に七人十人の大王があって、互いに勢力を争い、万民が平和でありえないのと同じである。こうした実情を知っては、おのおのの教えに勝手に随うわけにはいかないではないか。いかにすればよいかと悩んだすえに、一つの願いを立てたのである。「自分は八宗や十宗の勝手な所説には随うまい。天台大師がただ仏の経文を師匠として、釈尊一代の経々の勝劣を考えたように、自分もあくまで虚心坦懐に仏の本意をきわめよう」と、一切経を開いてみた。
ところが、涅槃経には「法に依って人に依らざれ」とあった。「依法」の法とは、一切経のことであり「不依人」の人とは、仏以外の普賢菩薩、文殊師利菩薩とか、その他、前にあげた諸宗の人師たちである。次にまた、涅槃経には「了義経に依って不了義経に依らざれ」とある。この涅槃経の示すところによれば、「了義経」とは法華経であり「不了義経」とは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経をいうのである。
しかも、この涅槃経は仏の最後の説法であり、仏の遺言の教えにあたる。この仏の遺言を信ずるならば、ただ法華経を鏡として、一切経の真髄を知る以外にないように思われるのである。
語釈
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
法に依って人に依らざれ
涅槃経には、人の四依と法の四依を説く。人の四依とは、仏の滅後において衆生をあわれみ、世間の人々のよりどころとなるべき四種の人格者をいう。すなわち、一には煩悩障を具す人、二には須陀洹・須陀含の人、三には阿那含の人、 四には阿羅漢の人の四種である。また妙楽大師は別円二教の菩薩の位にも四依のあることを判じている。日蓮大聖人は観心本尊抄に「四依に四類有り、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す、大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す、三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分は末法の初なり、四に本門の四依は地涌千界末法の始に必ず出現す可し」(0251:07)と仰せであり、正法の前の五百年には迦葉・阿難、正法の後の五百年には馬鳴・竜樹・天親等、像法一千年には南岳・天台等が出現した。法の四依とは、仏滅後において四依の人が必ず遵法すべきもので、「法に依って人に依らざれ」「義に依って語に依らざれ」「智によって識に依らざれ」「了義経に依って不了義経に依らざれ」の四つの法である。
普賢菩薩
東方の宝威徳上王仏の弟子。釈尊の法華経の説法が終わろうとした時、娑婆世界に来至し、仏滅後いかにしてこの法を持つかを尋ねた。そして末法に正法を守り弘め、正法たる法華経を受持する行者を守護することを誓った。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。なお、普賢菩薩は理徳、定徳、行徳をあらわし、文殊菩薩は智徳、慧徳、証得をあらわす。
文殊師利菩薩
文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。
已今当
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
講義
これより日蓮大聖人の正判を明かすのに、まず仏教が七宗十宗に分裂していることに疑いを起こし、経文を師として一代の勝劣を判じようと誓願を立てるのである。ついで、涅槃経の遺誡たる四依により判ずるならば、法華経を明鏡としてのみ一切経の心を知ることができる、と結論なされているのである。
「法に依って人に依らざれ」等
四依には「人の四依」と「法の四依」がある。「人の四依」とは、仏の滅後において一切衆生を導き、一切衆生の拠りどころとなる四種の人格者をいう。すなわち、この時代の思想、哲学、教育等の根源となる宗教界の指導者である。
涅槃経には次のように四依を説く。
一には煩悩障を具す人
二には須陀洹、須陀含の人
三には阿那含の人
四には阿羅漢の人
小乗声聞 別教菩薩 円教菩薩
初依――三賢―――――十住、十行、十回向――十信――――似位
二依――初果、二果――初地~六地――――――初住~六住―┐
三依――三果―――――七地~九地――――――七住~九住 ├真位
四依――四果―――――十地、等覚――――――十住以上聖位┘
章安大師の疏には、涅槃経の文は小乗の賢聖の位をあげているが、義によって大乗に通ずるものとし、次のようにあげている。
なお、日蓮大聖人が観心本尊抄に「四依に四類あり」とおおせられ、小乗の四依、大乗の四依、迹門の四依、本門の四依と判ぜられていることは、語訳に述べたとおりである。
次に「法の四依」とは、四依の人々が必ず遵守すべき四種の法である。すなわち、その時代の指導者が遵守すべき指導原理、指導精神である。その内容は、
一、法に依って人に依らざれ
二、義に依って語に依らざれ
三、智によって識に依らざれ
四、了義経に依って不了義経に依らざれ
以上の四依は仏道修行の上においても、折伏弘教の上においても、もっとも根本となるべき指導原理である。まず第一の「法に依って」とは、仏の説き示された一切経に依るべきであること。「人に依らざれ」とは、いっさいの菩薩、いっさいの人師などを本としてはならないとの意である。
また、現在の末法において考えるならば、御本仏・日蓮大聖人は人法一箇であらせられる。大聖人の出世の御本懐たる三大秘法の御本尊が法である。この根本の法をいっさいの基準としなければならない。そのほかの本尊も教えも基準にはならない。いわんや、信心している人の生活や姿などを本にして宗教を判断しては決してならないのである。
第二に「義に依って語に依らざれ」とは、文にあらわれたことばのみに執着してはならない。そのことばが何を表現しようとしているのかの義に依らなければならないのである。
第三に「智に依って識に依らざれ」とは、仏の智慧に依らなければならない。菩薩以下の知識を本にしてはならないし、現代人の知識なども拠りどころとはならないのである。
第四に「了義経に依って不了義経に依らざれ」とは、了義経とは釈尊出世の本懐たる法華経であり、不了義経とは、法華経以前に説かれたいっさいの方便権教である。しかして、本文にお示しのごとく、法華経を明鏡として一切経の心を知らなければならないのである。
日蓮大聖人は曾谷入道許御書において「三論宗の吉蔵大師並びに一百余人・法相宗の慈恩大師・華厳宗の法蔵・澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空・慧果・日本の弘法・慈覚等の三蔵の諸師は四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり」(1034:16)と責破されている。
以上にあげられた人は、みな各宗の開祖とあおがれ、大学者とあおがれ、一世の指導者として一生を送った人たちであるが、そのじつは「四依の大士に非ざる暗師なり愚人なり」である。じつに恐ろしいことではないか。
現代においても、世の指導者とあおがれる学者、評論家、思想家たちも、日蓮大聖人の大白法を知らないものは、みな暗師であり、愚人といわざるをえない。
すなわち「法に依って人に依らざれ」という原理は、現代社会にも通用する偉大な原理なのである。現代日本の評論家、学者等の中には宗教の正邪もわきまえず創価学会をうんぬんするものがいるが、学会の奉ずる日蓮大聖人の大仏法哲学を根本的に論じたものは、ほとんど皆無である。これは、まことに不思議な現象である。
そうした評論家、学者といわれる人々は、ほとんど仏法のなんたるかを知らず、また仏法を正しく実践してはいないのである。まことの評論家、学者であるならば、客観的にせよ、主観的にせよ、仏法哲学の真髄を究明し、実践してこそ、初めて真実のりっぱな評論家、学者の資格ありというべきである。
それでは、彼らは、いかなる哲学、思想によって批判するのかといえば、まことに頼りない次第である。定まった哲学、思想等はもっていないといっても過言ではない。前に論じたように、日本で哲学者といわれる人々でさえ、なにかの縁で最初にとりついた、キリスト教や禅や念仏の教えをあおいで信じてとうぜんのように思っているにすぎないのである。このような低級な哲学で、どうして最高の仏法哲学を批判しえようか。
仏法を論じ、学会を批判するのならば、東洋仏法の真髄である日蓮大聖哲の色心不二の大生命哲学を深く究明し、しかる後に自由に批評すべきであると主張するものである。
宗教、哲学、思想等に関するのみでなく、他の種々の学問、自然科学等の分野においても、初めにとりついた概念に固執するという傾向が、善悪にかかわらず、日本には多いのである。これが学閥等を助長する原因ともなりかねないのである。一般の学問は、まだ比較的、弊害が少ないが、こと宗教、哲学、思想の面になれば、ここに大なる弊害があらわれるのである。
評論家や学者が、いままでの自分の観念にしがみついて、虚心坦懐に、仏法というものを正視しえないのも、案外、このようなところに原因があるのかもしれない。そこには、日蓮大聖人が「我義やぶられずば用いじとなり」(232:開目抄下:5)また「其の理にまけてありとも其の心ひるがへらずば・天寿をも・めしとれかし」(1259:妙一女御返事:14)といわれるような求道心、正義感は、ツメの先ほども見当たらぬのを、はなはだ遺憾とするものである。
見よ、現在、比較的自由に宗教を選択しうる庶民、青年、学生等が、ぞくぞくと邪法邪義邪師を捨てて日蓮大聖人の真実の大仏法を求めているではないか。日本の一部の青年が、唯物主義や新興宗教を求めているではないかというものがあるかもしれないが、彼らの大部分は、長くて四、五年もすれば、低級思想にあきたらずに去っていくのである。
しかして、正法を信ずる青年は、人間革命と社会の繁栄を願い、一生を通じて大生命哲学を奉じていくことを思えば、その差は歴然としているのである。しかして、虚心に仏法の真髄を究明していくならば、一国に王が一人であったごとく、天に太陽が一つであるごとく、末法における御本仏は、真の救世主は、日蓮大聖哲ただおひとりであることを知るのである。
第五章(一代諸経の勝劣)
本文
随つて法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居がごとく輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく衆木の頂に月のやどるがごとく諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。
されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは日輪の青天に出現せる時眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり、又大日経・華厳経等の一切経をみるに此の経文に相似の経文・一字・一点もなし、或は小乗経に対して勝劣をとかれ或は俗諦に対して真諦をとき或は諸の空仮に対して中道をほめたり、譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし、法華経は諸王に対して大王等と云云、但涅槃経計こそ法華経に相似の経文は候へ、されば天台已前の南北の諸師は迷惑して法華経は涅槃経に劣と云云、されども専ら経文を開き見るには無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経経をあげて涅槃経に対して我がみ勝ると・とひて又法華経に対する時は是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記莂を授くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云、我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり、かう経文は分明なれども南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば末代の学者能く能く眼をとどむべし、此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし、而るを経文にこそ迷うとも天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人人はしりぬべき事ぞかし、然れども天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし・いわうや余宗の人人をや。
現代語訳
ゆえに仏説にしたがって、法華経を開いてみれば、薬王品には「この法華経は諸経の中で最上位にある」と説かれている。この法華経の文によるならば、須弥山の頂には帝釈がいるように、転輪聖王の頂には如意宝珠があるように、多くの木の上には月がクッキリと浮かぶように、諸仏の頭には肉髻があるように、法華経こそは華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に居するところの如意宝珠である。
それゆえに、もっぱら論師・人師の所見や所説を捨てて、仏の経文にただちによるならば、法華経が大日経や華厳経等に勝れていることは、ちょうど晴れわたった日に、いやしくも目あるものならば、天地を見るのにその高下は明らかなように、まことにはっきりしている事実である。
また、大日経や華厳経等の一切経を見るのに、この法華経のこのようなすぐれた文に似ている文は、一字一点といえども見当たらない。彼らのなかに、いくぶん似た文があっても、ただ小乗経の劣に対して大乗経の勝を説き、あるいは世間法たる俗諦に対して仏法の真諦の勝れているゆえんを説き、あるいは種々の空・仮の二諦に対して中道の勝れたることを説くにすぎない。ちょうど小国の王が、自分の臣下に対しておのれを大王というようなものである。
法華経の王は、諸経の小王に対して大王というのであるから、最高に勝れているわけである。ただし、涅槃経にのみは法華経によく似ている勝れたる経文を見出す。ゆえに、天台大師以前の南北の十師は、それに迷って、法華経は涅槃経に劣るなどといっていた。しかるに、もっぱら経文をすなおに拝見してみれば、無量義経に説かれているように、華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の諸経をあげて、これを涅槃経みずからに比較して、しかも涅槃経は四十余年の爾前経に勝れたりと説いているのである。
また、法華経と比較するときは、この涅槃経の説かれたゆえんは「法華経の中で八千の声聞が未来に成仏するという記別を得たのは菓実がりっぱに実ったようなものである。この涅槃経では、その菓実を秋にとりいれ、冬のための蔵入れも終わっているようなもので、さらに作すべきことはなく、わずかにこぼれを拾うようなものである」といって、みずから「涅槃経は法華経には劣る」と説いた文がある。
このように経文は明らかにその勝劣を説いているが、中国の南三北七の大智者たちも迷ったほどであるから、末代の学者たちは、よくよく意を留めて熟読すべきである。この経文は、ただ法華経と涅槃経の勝劣を説いているばかりでなく、これによってあらゆる十方世界の一切経の勝劣も知ることができるのである。
しかるに、世の学者どもが経文を正しく読みきれないで迷うのは、まだ仕方ないとしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師等が、経文の意はかくのごとしと、明白に諸経の勝劣を厳然と示されたのちは、心あるものは、それを了知していなければならないはずである。しかれども、天台宗の人たる慈覚、智証でさえ、この経文の真意を理解できなかったのであるから、まして他宗の人々が迷うのはとうぜんというべきか。
語釈
須弥山
古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
輪王
転輪聖王。仏教で説く理想の君主で、武力を用いず正法をもって全世界を統治するとされ、七宝(輪・象・馬・珠・女・主蔵臣・主兵臣)および三十二相をそなえるという。王はこの輪宝の旋転により一切を感伏せしめ、あらゆる国土の起伏、不平均を均して、一切をみな平等にならしむる徳がある。また、金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王の四種の輪王がいる。倶舎論巻十二によれば、金輪王は人寿八万歳のときに出現し四洲全部を統領している。銀輪王は人寿六万歳のときに出現し東西南の三洲を領し、銅輪王は人寿四万歳のときに出現し東南の二洲を領し、鉄輪王は二万歳のときに出現し南閻浮提一洲を領するといわれる。
如意宝珠
意のままに、種々無量の宝を出すことのできる珠。仏舎利変じて如意宝珠になるとか、竜王の脳中から出るとか、摩竭魚の脳中から出る等といわれた。摩訶止観巻第五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。しかして兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087:12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈して「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-第八有一宝珠の事-02)と仰せであり、すなわち末法の如意宝珠とは御本尊のことと明かされる。
肉髻
仏の32相のひとつ。頭の頂上の肉が高く隆起して髻のようになっている。または無見頂相。
論師人師
論師とは梵名で阿毘曇師。はじめは三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、のちに論議をよくする人、あるいは論を造って仏法を宣揚する人をいうようになった。人師とは、論師に対する語。仏、菩薩ではなく、しかも人々を教導する者をいう。竜樹、天親等を論師といったのに対し、天台、妙楽をはじめ法蔵、嘉祥、玄奘、慈恩等を総称して人師といった。
俗諦
世間一般で認められる真実。世間の道理。
真諦
絶対不変の真理。究極の真実。第一義諦。勝義諦。
無量義経
一巻。蕭斉代の曇摩伽陀耶舎訳。法華経の開経とされる。内容は無量義について「一法より生ず」等と説き、この無量義の法門を修すれば無上正覚を成ずることを明かしている。
秋収冬蔵して更に所作無きが如し
法華経によってすべてが得道したことは、秋に穀物を取り入れ、冬になって蔵入れを終わったようなものであって、涅槃経はその落穂拾いにすぎない。
講義
これより法華の明文によって一代諸経の勝劣を判じている。
初めに引く明文は薬王品第二十三の文であるが、「諸経の中に於て」とは、釈尊一代五十年の諸経はもとより、十方三世の諸仏の諸経の中において、法華経が最も第一であるゆえに「最も其の上に在り」というのである。
しかしまた法華経にも、釈尊在世の法華経、像法時代・天台の法華経、末法における日蓮大聖人の法華経のごとく差別がある。「仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124:経王殿御返事:12)と判ぜられているように、釈尊の出世の本懐は二十八品の法華経である。日蓮大聖人の出世の本懐は三大秘法の南無妙法蓮華経である。また天台大師は像法時代に出現して、摩訶止観をひろめた。これが像法時代の法華経であった。
法華経薬王品の「諸経の中に於て最も其の上に在り」という経文は、末法の法華経たる日蓮大聖人の仏法こそ全世界の哲学、倫理、宗教、思想の中で最高唯一のものであることを示していると拝さなければならない。
今日の世界をみるに、哲学、倫理、思想といえども、結局その根本理念は宗教哲学であることは明白な事実であり、キリスト教、回教、ヒンズー教、小乗仏教等の低級宗教がその根源となっていることを見破らなければならない。ゆえに、いかに深遠そうな論理を展開しようとも、結局、キリスト教哲学や小乗仏教の亜流にすぎないことは、かのアインシュタインや、トインビー、ラッセル等の平和論、文明論を見れば、一目瞭然たるものがあるではないか。
大日経・華厳経等に法華経の勝れ等
この文からは、諸経の相似の文を会すのである。初めに爾前の相似の文を会している。別して大日経、華厳経をあげたのは、真言宗、華厳宗を破折なされるためである。
「此の経文に相似の経文・一字・一点もなし」とは、「所対」に意をとどめて経文を読まなければならないのである。すなわち、爾前経においても、外道に対すれば仏教の勝れていることを説いているし、小乗に対すれば大乗のすぐれていることを説いている。
しかし、法華経のように、諸経中において最もすぐれているとか、諸王のなかの大王であるというような文は一字一点もない。これは奪って爾前相似の文を会すのである。次は本文に「但涅槃経計こそ」からは、与えて涅槃経の文を会すのである。
「涅槃経の中に法華経に相似の文がある」との御文意は、涅槃経中の五味の文である。その五味の文とは次のとおりである。
涅槃経聖行品の下にいわく「是の諸の大乗方等経典は復無量の功徳を成就すと雖も、是の経に比せんと欲せば、喩を為すことを得ず……善男子、譬えば牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す。醍醐は最上なり。若し服する者有らば衆病皆除く。有らゆる諸薬の悉く其の中に入るが如く、善男子、仏も亦是くの如し。仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す。なお醍醐の如し。醍醐と云うは仏性に喩う」
天台は、以上の文を五時の証拠の文として立てている。大涅槃が醍醐とは、法華涅槃を示すのである。寺泊御書にいわく「涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり、天台大師の料簡に云く命とは法華経なり重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり、但し涅槃経に説く所の円教は如何、此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ涅槃経の円常を以て法華経に摂す、涅槃経の得分は但・前三教に限る」(0952:09)、記の九末にいわく「法華は大陣を破る如し、涅槃経は残党の如し、難からず、故に法華は大収の如し、涅槃は捃拾の如し」
なお本抄の「八千の声聞……秋収冬蔵」等の御文は、前述のごとく、涅槃経如来性品第九の文であって、ともに思い合わすべきである。
次に、本文の「かう経文に分明なれども」からは、十方世界の一切経の勝劣を比知すべきことを明かしている。その意味は、涅槃経がなお法華経に劣ることを了するならば、十方世界の一切の諸経が法華経に劣ることが分明となる。ゆえに十方世界の一切経の勝劣を比べ知ることができるというのである。
「天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人人はしりぬべき事ぞかし」とのおおせであるが、これらの諸大師が法華経第一と決定されてから、すでに千数百年になる。日蓮大聖人が三大秘法をお建てになり、立正安国の大道を示されてからでも、すでに七百年になる。いかに宗教界に進歩がなく、宗教に対する邪智邪見の根深いか知られるであろう。もし創価学会の出現がなければ、さらに幾百年、幾千年にわたって、いかに邪宗邪教が全世界を不幸におとしいれていったか、はかり知れないものがあるであろう。
第六章(法華最第一を明かす)
本文
或る人疑つて云く漢土・日本にわたりたる経経にこそ法華経に勝たる経はをはせずとも月氏・竜宮・四王・日月・忉利天・都率天なんどには恒河沙の経経ましますなれば其中に法華経に勝れさせ給う御経やましますらん、答て云く一をもつて万を察せよ庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり、癡人が疑つて云く我等は南天を見て東西北の三空を見ず彼の三方の空に此の日輪より別の日やましますらん、山を隔て煙の立つを見て火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらんかくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし生盲にことならず、法華経の法師品に釈迦如来金口の誠言をもつて五十余年の一切経の勝劣を定めて云く「我所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説ん而も其の中に於て此法華経は最も為難信難解なり」等云云、此の経文は但釈迦如来・一仏の説なりとも等覚已下は仰いで信ずべき上多宝仏・東方より来りて真実なりと証明し十方の諸仏集りて釈迦仏と同く広長舌を梵天に付け給て後・各各・国国へ還らせ給いぬ、已今当の三字は五十年並びに十方三世の諸仏えの御経、一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説せ給いて候を十方の諸仏・此座にして御判形を加えさせ給い各各・又自国に還らせ給いて我弟子等に向わせ給いて法華経に勝れたる御経ありと説せ給はば其の所化の弟子等信用すべしや、又我は見ざれば月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に法華経に勝れさせ給いたる経や・おはしますらんと疑いをなすはされば梵釈・日月・四天・竜王は法華経の御座にはなかりけるか、若し日月等の諸天・法華経に勝れたる御経まします汝はしらずと仰せあるならば大誑惑の日月なるべし、日蓮せめて云く日月は虚空に住し給へども我等が大地に処するがごとくして堕落し給はざる事は上品の不妄語戒の力ぞかし、法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語あるならば恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに大地の上にどうとおち候はんか無間大城の最下の堅鉄にあらずばとどまりがたからんか、大妄語の人は須臾も空に処して四天下を廻り給うべからずとせめたてまつるべし、而るを華厳宗の澄観等・真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵大師等の華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給わば我等が分斉には及ばぬ事なれども大道理のをすところは豈諸仏の大怨敵にあらずや、提婆・瞿伽梨もものならず大天・大慢・外にもとむべからず・かの人人を信ずる輩はをそろし・をそろし。
現代語訳
かくいえば、ある人は疑っていうであろう。「中国、日本に渡来した経々の中には、法華経よりも勝れている経はないかもしれぬが、月氏・竜宮・四天王・日天月天、忉利天、都率天などには、恒河沙ほどの経があるといわれるゆえに、その中には、法華経より勝れた経典もあるのではなかろうか」と。
答えて言う。いやしくも智人であるならば、一をもって万を察し、門を出ずして天下の形勢を知るということは、これである。法華経が最勝であるゆえんも、こうした智人こそ明らかに知ることができるのである。愚かな者は、疑い深くて南の空だけを見て東西北の三天を見ず、その三方の空には自分らの見る太陽と別の太陽が照らすであろうかと、考えるようなものである。また山のかなたに立つ煙を見て、煙は確かに上がっているが火は見えないから火はないかもしれないというようなものである。今の質問もかくのごとき愚者のことばであり、また、これこそ不信謗法の人であり、生盲に異ならぬというべきである。
法華経の法師品第十で釈迦如来はみずから五十年間の一切経の勝劣を定めて「わが説く所の経典は、実に無量千万億であって、已に説いたもの、今説き了るもの、当に説かんとするもの、まことに多くの経典があるが、その中で、この法華経こそ、最も難信難解であり、最高の哲学である」と説かれている。
この法華経の経文は、たとえ釈迦如来、一仏の説であろうとも、等覚以下のすべての菩薩は、ただ仰いで信ずべきである。しかるにその上に、釈迦仏のほか多宝如来は東方の宝浄世界から飛んで来て、「この法華経は、すべて真実なり」と明白に証明し、さらに十方世界の諸仏までも、無数に集まって、釈迦如来と同じ広長舌を梵天につけて真実を証明した。そして終わって後、多宝仏も十方の分身仏もみなおのおのの本国へ帰ったのである。
このように十分な証明あって説かれた法華経の已今当の三字は、釈尊五十年の説法はもとより、三世十方の諸仏の御経を全部、その一字一点も残さずにこれを総括し、法華経と比較して、しかも法華経こそ最高なりと説かれたのである。十方の諸仏は、それを明らかに認めて、「真実なり」との判を押したのである。ゆえに、もしも諸仏がおのおのの国土に帰ってから、たとえ自分の弟子たちに向かって「じつは法華経より勝れたる経文があったのだ」と説いたとしても、その弟子たちは信用するはずがあろうか。
また自分は見ないけれども、月氏、竜宮、四天、日天、月天等の宮殿には、法華経より勝れたる経があるだろうという人がいれば、まず次のことを知りなさい。梵天、帝釈天、日天、月天、四天、竜王等は、法華経の座にいなかったのかどうか。じつは、この諸天善神はすべて厳然と法華経の座につらなっていたのである。もしも日天、月天等の諸天が「じつは法華経に勝るところの経があるのだが、汝らはそれを知らぬのだ」というならば、まさに大誑惑の日月天というべきである。日蓮はこれを責めていうであろう。「日天、月天が虚空に住して、われらのようにいまだに大地に住しないということは、上品というすぐれた不妄語戒を持った力によるのである。それであるのに、もし今、法華経より勝れたる経文がある等と大妄語あるならば、おそらくは壊劫の時期を待つまでもなく、大地の上に、どうと転落してしまうであろう。そして大地裂けて無間地獄の最下位の堅鉄まで転落しなければ止まりがたいであろう。このような大妄語の日天、月天であるならば、須臾の間も、天に懸かって四天下を照らすべきでない」と、厳然と責めるであろう。
以上のごとく、法華経の最勝は明々の理であるのに、華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等の智者といわれる三蔵大師等が、華厳経・大日経等は法華より勝れたりと立てている。わが分際で批判の限りではないけれども、仏法は道理である、仏説による大道理から見るならば、みな諸仏の大怨敵ではないか。釈尊を殺そうとした彼の大悪逆の提婆達多や瞿伽梨尊者等も問題ではない。まことに大天、大慢バラモン以上の大悪逆のものである。このような誑惑の師を信ずる人々も、また恐ろしいことである。
語釈
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
竜宮
竜王の住む宮殿。水底、または水上にありという。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。
四王
四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。
忉利天
梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
都率天
梵語トゥシタ(Tuṣita)の音写。六欲天の第四天。兜率天とも書く。知足、妙足、喜足、喜楽と訳す。歓楽飽満し自ら満足を知るゆえにこの名がある。都率天は内院と外院に分かれ、内院には都率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。外院は天界の衆生の欲楽する処とされる。
恒河沙
ガンジス河の砂のことで、数え切れないほどの数を示す譬喩。
癡人
おろかもののこと。
一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
等覚
菩薩が修行して到達する階位の52位の中、下位から51番目に位置する菩薩の極位をいう。その智徳が略万徳円満の仏である妙覚とほぼ等しく、一如になったという意味で等覚という三祇百劫の修行を満足し、まさに妙覚の果実を得ようとする位。一生補処、有上士、金剛心の位といわれる。
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
広長舌
神力品に説かれる。法華経を付嘱するためにあらわした十種の神力の第一で広長舌相のこと。仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。
已今当
法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
誑惑
たぶらかすこと。
上品の不妄語戒
五戒を上中下の三品に分かって最上品のこと。
壊劫
四劫のひとつ。生命・世界が破滅する時期。
四大下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超という。
提婆
提婆達多のこと。梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従兄弟とされるが異説もある。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。そのため、大地が破れて生きながら地獄に堕ちたとある。しかし法華経提婆達多品十二では釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に仕えることによって法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられた。
瞿伽梨
梵名コーカーリカ(Kokālika)の音写。倶伽利・仇伽離などとも書き、悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身。雑阿含経巻四十八等によると、提婆達多の弟子であり、釈尊の制止も聞かず、舎利弗や目連を悪欲があると難じた。その報いによって、身に悪瘡を生じて大蓮華地獄に堕ちた。
大天
大天は訳名で、梵名は摩訶提婆という。仏滅後百年に末土羅国の商家に生まれた。大毘婆沙論によると、大天は父母および阿羅漢を殺し、その罪を滅するために摩竭陀国の鶏園寺にはいって出家した。聡明で言詞巧みで、時の王にも崇敬され、我れ阿羅漢を得たり、と慢心を起こした。そして悪見を立て、上座部の耆宿と争い、大衆部をつくって仏法分裂の因をつくった、とある。
大慢
大慢婆羅門のこと。インドの外道の僧で、慢心を起こして外道の三神および釈尊の像を高座の四足としてわが徳四聖に優れたりと称していたが、賢愛論師に法論で敗れ、国王に処刑されるにあたり、賢愛論師は王に請うて彼の罪を減じ、かつこれを慰問したが、大慢はなお諭師をののしり、仏法僧を誹謗したので、ことば終わらざるうちに大地さけて現身に地獄に堕ちた。
講義
これより法華最第一を釈成するのである。初めに仮の難を設けてこれを会し、次に三説超過の文を引いて一代ならびに十方三世の諸経のなかに法華最第一の旨を明かしている。
初めの仮の難は、インドから中国へ、中国から日本へと渡ってきた教典の中では、法華経が勝れているとしても、われわれのまだ知らない世界のどこかには、もっと勝れた経典があるかもしれないではないかというのである。これに対し「一をもって万を察せよ」とも「住まいの庭を出なくても天下を知ることができる」ともおおせられている。
さらに、癡人は南の空の太陽を見ているときには、東西北には別の太陽があるかもしれないとか、山を隔てて煙の立つのを見て、煙は確かに上がっているが、火は見えないから火ではないかもしれないなどと疑いを述べている。そういう輩は一闡提人であり生き盲である。
しかるに、物質文明の驚異的な発展をみた今日においても、宗教に関しては、このような一闡提人や無知な人が多い。創価学会を知らない人たちは、ことごとく、この類いである。すなわち、日蓮大聖人の出世の御本懐たる本門の本尊の功徳を聞いても信じようとしない。
「宗教は何を信じても同じだ」とか「あなたはそれをありがたいと信じていれば、それでよい。私は私で別だ」とか「いかなる本尊でも絶対最高ということはありえない。ほかによいものがあるかもしれない」とか、いろいろの意見がある。一般社会人はもとより、学者、評論家といわれる人たちも、このようにして、仏法の真髄たる生命哲学を知らないで批評している。これらは、すべて一闡堤人であり、宗教に無知な人であると断言できるのである。
法師品の三説超過の文
次に、三説超過の文とは、法華経法師品の文である。「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」。已説の爾前経、今説の無量義経、当説の涅槃経のなかで、法華経こそ最も難信難解であるということは、法華経が最高第一の経典であるがゆえである。
ただ釈尊一代における第一であるのみならず、十方三世の諸仏の諸経中において第一である。そのゆえは、方便品に「三世の諸仏の 説法の儀式の如く 我れも今亦た是の如く」である。
さて、法華経には、また迹門、本門、文底の相違がある。次に示す御文は、爾前と法華と相対し、あるいは爾前と迹門と相対して、法華迹門の難信難解であり、勝れていることを示されている。
観心本尊抄にいわく「『已今当説最為難信難解』と次下の六難九易是なり」(0244:18)。
同抄にいわく「伝教大師云く『此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に』等云云」(0245:02)。
同抄にいわく「始成正覚の仏・本無今有の百界千如を説いて已今当に超過せる随自意・難信難解の正法なり」(0248:13)。
次の難信難解の御文は、爾前、迹門を破って、法華本門を立てられるのでる。
観心本尊抄にいわく「迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり」(0249:03)。
次に、末法においては、日蓮大聖人の法華経本門寿量品文底秘沈の三大秘法こそ、最も難信難解、最高第一であって、釈尊の説かれた二十八品の法華経は、本迹二門ともに随他意の易信易解となるのである。
このことは「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189:開目抄上:02)とも「彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249:観心本尊抄:17)とも判ぜられているのである。
上品の不妄語戒の力ぞかし
五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)に上中下の三品を立てる。上品は最上の意である。本文に不妄語戒の力とおおせあるのは、しばらく一戒をあげたのであって、天に生ずるのは十善戒の功徳によるのである。十善戒とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・綺語・悪口・貪欲・瞋恚・愚癡の十事を堅く行じないことをいう。
不妄語とは正直のことである。諸天善神は正直の因によって神となり、神はまた、正直の頭に宿るのである。このことを諌暁八幡抄にいわく「八幡の御誓願に云く『正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず』」(0587:12)と。
また、八幡の本地は釈迦如来であって、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き、垂迹は日本国に生まれて正直の頂にすみたもう。このことを「凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり」(0588:09)とある。すなわち、諸天善神が正直の因によりて神となり、正直の頭に宿るのがこれである。
かの人人を信ずる輩はをそろし
正法正師について三大秘法を行ずれば、即身成仏するうえに、真実の報恩となる。しかるに、邪法邪師につけば地獄へ堕する。師が堕ちれば弟子も堕ち弟子が堕ちれば檀那も堕ちる。大荘厳仏の末の四比丘は六百万億那由陀の人を皆、無間地獄へ堕としてしまった。師子音王仏の末の勝意比丘は無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を皆、阿鼻地獄へ堕とした。同様に日本の国では、弘法・慈覚・智証の三大師によって、一切衆生ことごとく無間地獄の苦をうけたのである。
またまた、日蓮大聖人の御入滅後にも、邪法を崇重するがゆえに、三災七難が競い起こって、ついに日本の国も敗戦亡国を体験せざるをえなかったのである。いま、化儀の広宣流布の時を迎えて、ふたたび、われわれは、このような謗法による苦難を繰り返してはならない。そのために、わが学会は立ち上がっているのであることを、よくよく肝に命じようではないか。
順縁広布の時代
仏法の浅深高下を論ずれば法華経は難解難入であり難信難解である。三大秘法はそれ以上の最為難信難解である。しかし現代はすでに順縁広布の時代に入り、南無妙法蓮華経の哲理は実際生活の上に余すところなく適用され、自由無礙に全世界に広まりつつある。妙法尼御前御返事には、法華経は難信難解であることをのべられ、次に末法の法華経たる三大秘法の南無妙法蓮華経は持ちやすいことを説かれている。「かかる持ちやすく行じやすき法にて候を末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給いて候」(1403:02)真実の仏法なればこそ、あらゆる人々が信心できる。小乗教のごときは、きわめて少数の人しか救われないのである。
現在、仏法といえば、すべて死せる仏法と思われ、また難解でわからないことが仏法の代名詞のようにいわれるまで、仏法は人々の心を離れてきたのである。しかも仏法を盗んだ新興宗教の群れは、ただ仏法の片鱗のみをもって宗教企業の道具としているにすぎなかったのである。
しかし、東洋仏法の真髄、日蓮大聖哲の真実の仏法が、いよいよ、生きた大仏法として、最高の哲理をもってだれびとをも実生活にあてはめて指導し、あたかも泉がこんこんと湧きいずるごとく、幸福の源泉になってきているのである。
過去の法華経といえば、日本に伝来いらい、初めは民衆と遊離した貴族仏教として一日経、如法経というような姿で書写行の対象となったり、普門品等が用いられたりした。やがて伝教大師によって迹門の法華経が像法適時の仏法として光輝を放ち、法華経迹門の戒壇建立が完成した。しかるに、叡山の慈覚が真言の邪義を取り入れてから、ふたたび法華経は暗黒に包まれ、念仏、真言、禅などとともに、時の政権と結託した堕落宗教となり、正しく用いられることはなかったのである。正しく釈尊の白法隠没の予言のごとくであった。
末法に入って二百余年、日本に御出現の御本仏、日蓮大聖人は、いよいよ末法の法華経たる三大秘法の南無妙法蓮華経を御建立になった。また現在、七百年の夢を破って、日蓮大聖人の正義は、創価学会によって余すところなく実践されているのである。
わが学会は、あらゆる迫害、弾圧の中から、ひたすら大衆の幸福のために、民衆の真の味方となって立ち上がってきた崇高な歴史を有する。創価学会こそ、あらゆる人々に幸福と繁栄をもたらす民衆宗教であり、民主仏法であり、もっとも身近のすべての人々の幸福の源泉となっていく、唯一の清らかな宗団なりと叫ぶものである。
いずれの時代においても、先駆者は迫害と弾圧のアラシにさらされるものである。いわんや仏法は魔との戦いであり、元品の法性は元品の無明との争いであり、正法正義をもって邪宗邪義の邪師を粉砕してこそ、輝かしい民衆救済の目的が達成されるものである。
第八章(漢土天台大師の弘通)
本文
像法に入つて五百年・仏滅後・一千五百年と申せし時漢土に一人の智人あり始は智顗・後には智者大師とがうす、法華経の義をありのままに弘通せんと思い給しに天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども詮して十流となりぬ所謂南三北七なり十流ありしかども一流をもて最とせり、所謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり、此の人は一代の仏教を五にわかつ其の五の中に三経をえらびいだす、所謂華厳経・涅槃経・法華経なり一切経の中には華厳経第一・大王のごとし涅槃経第二・摂政関白のごとし第三法華経は公卿等のごとし此れより已下は万民のごとし、此の人は本より智慧かしこき上慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者より習ひ伝え給るのみならず南北の諸師の義をせめやぶり山林にまじわりて法華経・涅槃経・華厳経の功をつもりし上梁の武帝召し出して内裏の内に寺を立て光宅寺となづけて此の法師をあがめ給う、法華経をかうぜしかば天より花ふること在世のごとし、天鑒五年に大旱魃ありしかば此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいらせしに薬草喩品の其雨普等・四方倶下と申す二句を講ぜさせ給いし時・天より甘雨下たりしかば天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて諸天の帝釈につかえ万民の国王ををそるるがごとく我とつかへ給いし上或人夢く此人は過去の灯明仏の時より法華経をかうぜる人なり、法華経の疏四巻あり此の疏に云く「此経未だ碩然ならず」亦云く「異の方便」等云云、正く法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候、此の人の御義・仏意に相ひ叶ひ給いければこそ 天より花も下り雨もふり候けらめ、かかるいみじき事にて候しかば漢土の人人さては法華経は華厳経・涅槃経には劣にてこそあるなれと思いし上新羅・百済・高麗・日本まで此の疏ひろまりて大体一同の義にて候しに法雲法師・御死去ありていくばくならざるに梁の末・陳の始に智顗法師と申す小僧出来せり、南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども師の義も不審にありけるかのゆへに一切経蔵に入つて度度御らんありしに華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし此の三経の中に殊に華厳経を講じ給いき、別して礼文を造りて日日に功をなし給いしかば世間の人おもわく此人も華厳経を第一とおぼすかと見えしほどに法雲法師が一切経の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるがあまりに不審なりける故に・ことに華厳経を御らんありけるなり、かくて一切経の中に法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給いてなげき給うやうは如来の聖教は漢土にわたれども人を利益することなしかへりて一切衆生を悪道に導びくこと人師のあやまりによれり、例せば国の長とある人・東を西といゐ天を地といゐいだしぬれば万民は・かくのごとくに心うべし、後にいやしき者出来して汝等が西は東・汝等が天は地なりといはば・もちうることなき上我が長の心に叶わんがために今の人を・のりうちなんどすべしいかんがせんとは・おぼせしかども・さてもだすべきにあらねば 光宅寺の法雲法師は謗法によつて地獄に堕ちぬとののしられ給う、其の時・南北の諸師はちのごとく蜂起しからすのごとく烏合せり、
現代語訳
像法時代にはいって五百年、仏滅後一千五百年の時に、漢土にひとりの智人があった。初めは智顗、後に天台智者大師と号した。法華の実義をありのままに弘通しようと思い種々それ以前の人々の説を調べた。それによれば、天台大師以前の智者といわれる百千万人の人々が、種々に釈尊の一代仏教を研究して、それぞれ教判を立てたが、おもなものは十流であった。それは南の三派、北の七派の十流であったけれども、所詮はその中の一派のみがもっとも勢力があった。それはいわゆる南の三派中の第三、光宅寺の法雲の教判である。
この光宅寺法雲は、一代の仏教を五時に分けた。五時の教えの中で、三経を選び出した。すなわち、華厳経・涅槃経・法華経である。光宅法雲は、その三経について、勝劣浅深を説き、「一切経の中では華厳経が第一であって、大王のごとく、涅槃経は第二であって摂政関白のごとく、第三の法華経は公卿等のごときものである。この三経より以下の経々は、万民のごときものである」とした。
そもそも光宅法雲は、生来智慧が勝れているうえに、仏法のことは慧観・慧厳・僧柔・慧次という大学匠から学んでよく解していた。しかも南北の諸師の義を論破するのみでなく、静かに山林に交わって、法華経・涅槃経・華厳経の研究をつくした。梁の武帝は、光宅法雲の名声を聞いて、召し出して法を聞き、内裏のなかに寺を建て、光宅寺と名づけて住せしめ、一方ならず法雲をあがめた。法華経を説法すれば天から花のふること、釈尊在世の説法のごとくであったという。また天鑒5年に大旱魃のあった時、この法雲法師に請うて祈雨せしめた。その時、法華経を講じたが、薬草喩品の「其の雨は普ねく等しくして 四方に倶に下り」の文を講じた時、干天より甘雨が沛然と降ってきた。天子は御感のあまり法雲を僧正に任じ、以来諸天が帝釈につかえるごとく、万民が国王を畏れるごとく、みずから供養しつかえたという。またある人の夢に、「この法雲は過去世の日月燈明仏の時から法華経を講じている人である」と顕われたという。
また法雲は、法華経の疏を4巻作った。この疏の中には「この法華経はまだ碩然せぬ」とか「異の方便である」等といっている。これは法華経がいまだ仏の法理を究めつくしたものでないとのことである。
こうしたことも、この人の義意が仏意に相いかなったればこそ、天から花も降り、また雨も降ったのであろう。このようなすばらしい奇瑞があったのであるから、中国の人々は、「さては法華経は、華厳経や涅槃経に劣る教なのであろう」と思ったのである。その上、中国の祖師たちがこうであるから、新羅、百済、高麗等の朝鮮や日本まで、この光宅法雲の疏が弘まっていた。法雲法師が死去して間もなく、梁の末、陳の始めに、智顗法師すなわち天台大師が出現したのである。
天台大師は南岳大師と申す人の弟子であったが、師匠・南岳大師の義も不審であると思われたかのゆえに、一切経蔵の中にはいってたびたび一切経を研究していた。そして、一切経の中にも、華厳経、涅槃経、法華経の三経をもっとも大事な経として選び出し、この三経の中でも、ことに華厳経の講義に力を入れられた。別して華厳経の礼文を作って、日夜、華厳経に力を入れたので、そのために、世間の人々は、「この天台大師も華厳経を第一と立てるのか」と思っていたのである。しかし天台大師の考えはそうではなかった。すなわち法雲法師が「一切経の中には華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三」と立てたのが、あまりに不審であったので、それを確認するために、華厳経を、とくに、くわしく研究されたのである。
かくして、あらゆる研鑽のすえに、天台大師は、「一切経の中には、法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三」と決定されたのである。しかして天台大師は、さらに嘆いていうのには、「釈迦如来の聖教は多く中国にわたってきたけれども、少しも人々を利益することがない。かえって一切衆生を悪道に導くことになった。これは、ひとえに、仏経を解釈した人師たちの誤りによるものである」と。
たとえば一国の指導者が、東を西といい、天を地というならば、万人はみな、それに従うであろう。それより後に身分の賤しいものが出現して、「汝らの信ずる西は、実は東であり、天は地なのである」といっても、世の人々は、それを用いることがないばかりでなく、指導者の心に迎合するために、そのものを罵詈し打擲するであろう。
天台大師は、そこで、どうしようかと思案されたが、絶対に黙っているべきではないと決意されて、「光宅寺の法雲法師は、謗法の科によって、地獄に堕ちた」と強く叫ばれた。その時は、南北の諸師は、あたかもハチの巣をつついたごとく騒然となり、烏の群れがつどうがごとく集まって、天台大師を攻撃した。
語釈
智顗
(0538~0597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。天台大師、智者大師ともいう。智顗は諱。字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。
南三北七
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
光宅寺の法雲法師
(0467~0529)。中国・南北朝時代の僧。開善寺の智蔵・荘厳寺の僧旻とともに梁の三大法師と称され、成実、涅槃の学匠として名高い。江蘇省宜興市の人で姓は周氏。七歳で出家し、30歳で法華経・浄名経を講じた。天監7年(0508)勅により光宅寺の主となる。天監10年(0511)の華林園における法華経の講説に際し、天花降下の奇瑞を感じたという。普通6年(0525)大僧正に登る。南三北七の南三の第三にあたる定林寺の僧柔・慧次および道場寺の慧観の立てた五時教即ち、有相教(阿含経)、無相教(般若経)、抑揚教(浄名経等)、同帰教(法華経)、常住教(涅槃経)の釈を用い、涅槃経は法華経に勝るとしている。
慧観
中国の南北朝時代に活躍した僧である。姓は崔氏。清河の人。
慧厳
(0363~0 443)。中国の南北朝時代に活躍した僧である。姓は范氏。豫州の人。
僧柔
(0431~0494)。中国の南北朝時代に活躍した僧である。禅・律を学び方等諸教に通じていた。
慧次
(0434~0490)。中国の南北朝時代に活躍した僧である。姓は尹氏。
梁の武帝
中国南北朝時代の梁の帝王。仏法の帰依が厚かった。その願いは提婆達多は地獄におちても最後は成仏したが、欝頭羅弗は天界に生じたが、のちに仏法にそむきて地獄におちた。だから、自分は提婆となって地獄へおちても、欝頭羅弗となることはしない、ということだった。梁の武帝の願に云く「寧ろ提婆達多となて無間地獄には沈むとも欝頭羅弗とはならじ」と云云。(0260:撰時抄:11)
薬草喩品の其雨普等・四方倶下
薬草喩品の「其の雨普ねく等しくして、四方倶に下り、流樹すること無量にして、率土充洽す」とある。文句には、これを注雨の譬えとして「八音四辯をもって法の雨を宣べ注ぐ、四方俱に下り、一時に俱に聞く、また、四等とは、根・茎・枝・葉・信・戒・定・慧をいうなり、およそ心あるものは、みな利潤をこうむる、ゆえに率土克治というなり」とある。
灯明仏
日月燈明仏の略称。法華経序品第一の最初に、八万の大菩薩や、万二千の声聞衆、その他のあらゆる衆生が、釈迦仏のもとへ集まったところ、天より曼陀羅華が降り、地は六種に震動し、仏は眉間の白亳より光を発ち、万八千の世界を照らした。大衆は不思議に思い、弥勒菩薩が代表して文殊師利菩薩にこの瑞の訳を問いた。すると文殊が答えるには、「過去世に日月燈明仏がおられた。声聞に四諦の法を、縁覚に十二因縁を、菩薩に六波羅蜜の教えをそれぞれ説いて、菩提を成ぜしめた。さらにその次の仏、そして次の仏と、二万の仏が生じ、それがみな同一の仏号をもって出世した。その最後の日月燈明仏がまだ出家していないとき、八人の王子があり、みな父に従って出家した。そのとき、日月灯明仏は無量義経を説き、無量義処三昧に入った。その後、皆が今見ているところの瑞相を現じてのち、800の弟子の上首である妙光菩薩によせて、法華経を説いた。その時の妙光菩薩とは、誰あろう我(文殊)である。日月灯明仏は法華経を説き終わって、涅槃にはいった。それがあたかも、いまの釈迦仏のようであった」と、無量義処三昧から法華経開説までの因縁を明かしたのである。
法華経の疏四巻
法雲法師が著わしたものに「法華義記」八巻があり、次下の文にある「……日本まで此の疏ひろまりて……」とあるのは、わが国の聖徳太子が、この義記を用いて法華義疏をあらわした。しかし、義記には「此の疏に云く『此経未だ碩然ならず』亦云く『異の方便』」の文の内容は見当たらない。
新羅
朝鮮半島における最初の統一王朝(前0057~0939)。百済・高句麗とともに三韓の一つ。紀元前0057年頃に辰韓の統一をはかり、朴赫居世が建国、以後7世紀頃まで、高句麗・百済と抗争しつつ並立した。
百済
百済国のこと。古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
高麗
朝鮮三韓のひとつ。(0918~1392)開城の豪族・王建が弓裔を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗とした。0935に新羅を併合し、翌年に後百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の属国となり文永の役には蒙古軍の先導をつとめた。1392年に滅びた。
梁の末・陳の始
天台大師(0538~0597)存命の時代。0557年、梁は陳に滅ぼされている。
南岳大師
(0515~0577)。中国南北朝時代末期の僧。名は慧思。北斉の慧文について法華三昧を体得した。大蘇山(河南省)に拠ったとき、智顗(天台大師)に法華・般若心経を講じる。晩年に南岳衡山(湖南省)で坐禅講説に努め、南岳大師といわれた。日本では南嶽慧思後身説、すなわち聖徳太子は南嶽慧思の生まれ変わりであるとする説が生じた。
礼文
章安大師(灌頂)が編さんした「国清百録」四巻のなかに、天台大師の「敬礼法」が出ている。それには、日々夜々、盧舎那仏および三世十方の諸仏を礼拝することを示している。
講義
前章においては釈尊の在世および正法一千年の時代に、仏法を弘通し、なかんずく法華経弘通のゆえに、大難にあわれたことを明かしたのであるが、本章は漢土における天台大師の法華経広宣流布と、迫害に遭われたことを明かしている。
南三北七について(SOKAnet 教学用語検索より)
南三北七とは中国・南北朝時代(440年~589年)にあった仏教の教判(経典の判定)に関する10人の学説のこと。長江(揚子江)流域の南地の3師と黄河流域の北地の7師がいた。天台大師智顗が『法華玄義』巻10上で分類したもの。10師はそれぞれ依って立つ経論を掲げ、それを宣揚する教判を立て、優劣を競っていた。その全体的な傾向を、日蓮大聖人は「撰時抄」で「しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり」(261㌻)とされている。天台大師はこれら南三北七の主張を批判し、五時の教判を立て、釈尊一代の教えについて法華経第1、涅槃経第2、華厳経第3であるとし、法華経の正義を宣揚した。南北の諸学派は、釈尊一代の教えを、その説き方によって①頓教(真実を直ちに説く)②漸教(順を追って高度な教えに導いていく)③不定教(漸教・頓教に当てはまらず、しかも仏性・常住を明かす)の三つに分類した。頓教は華厳経、漸教は三蔵教(小乗)の有相教とその後に説かれた大乗の無相教、不定教は勝鬘経・金光明経とされた。
南三とは、漸教のうち南地における三つの異なった見解のことで、①虎丘山の笈師[ぎゅうし]の三時教②宗愛[しゅうあい](大昌寺僧宗[そうしゅう]と白馬寺曇愛[どんあい]の2人とする説もある)の四時教③定林寺の僧柔・慧次と道場寺の慧観の五時教。
北七とは、①五時教②菩提流支[ぼだいるし]の半満二教③光統(慧光)の四宗(教)④五宗(教)⑤六宗(教)⑥北地の禅師の(有相・無相の)二種大乗(二宗の大乗)⑦北地の禅師の一音教。①および④~⑦は個人名が明かされていない。
所謂南三北七なり
南三北七の十派については、撰時抄にある。なお、天台の玄義第十に詳論されている。南三とは三時・四時・五時である。これらの諸派は、いずれも頓・漸・不定の三教を立てる。頓とは華厳であり、漸とは鹿苑から涅槃経まで、不定とは勝曼経・金光明経等である。
そのうち漸教に三師の異議がある。
一に三時教とは、一に有相教で阿含、二に無相教で般若、方等、法華、三に常住教で涅槃経である。
二に四時教とは、三時教のうち、無相教の中から法華を開出して万善同帰教と名づけている。
三に五時教とは、四時教のうち、無相教の中から浄名等の方等経を開出して、抑揚教となしている。
次に北七とは、五時、半満、四宗、五宗、六宗、二宗の大乗、一音である。
一に五時とは、提謂波利を取って人天教となし、浄名般若を合して無相教となす。その余の三は南方と同じである。
二に半満とは、阿含を半字教とし、その余を満字教とする。
三に四宗とは、一に因縁宗、二に仮名宗、三に誑相宗、四に常宗である。
四に五宗とは、四宗のほかに華厳を法界となす。
五に六宗とは、法華を真宗と名づけ、大集経を円宗と名づけ、その余の四宗は右に同じとした。
六に二宗の大乗とは、一には有相の大乗で華厳・瓔珞・大品等であり、二には無相の大乗で楞伽・思益。
七に一音教とは、但一仏乗のみあって二無く亦三無しであると。
さてこのように十派に分かれたとはいえ、その中でもっとも有力な一派は光宅寺の法雲である。法雲は南三の中の第三であり、華厳経第一と立てたさまは、本文にお示しである。玄義には「古今の諸釈世々光宅を以て長と為す。今光宅を難ず、余は風を望むのみ」と。
本抄においては「法雲法師は謗法によって地獄に堕ちぬとののしられ給う」とお示しのごとく、天台大師は十派を強折なされたのである。しかして南北の諸師がハチのごとくカラスのごとく競い集まって、天台大師に迫害を加えたのである。これは正法の流布する時に必ず起こる定則である。
釈尊が九十五派のバラモン哲学を破して九横の大難にあわれたことは、すでに述べられたとおりである。わが国の伝教大師は、また、南都六宗を強折なされ、法華迹門の戒壇を比叡山に建立あそばされたことは、次章以下にある。また日蓮大聖人が「況滅度後」の大難にあわれ、末法の御本仏として一切衆生をお救いになることも諸御抄に明らかなとおりである。
像法時代の仏教史観
正像末三時の仏教史観については、各経に正法一千年、像法一千年、末法一万年説、あるいは正法五百年、像法千年説、あるいは正法千年、像法五百年説があるが、仏法の正統家では、天台大師、伝教大師、そして日蓮大聖人は、いずれも正法一千年、像法一千年、末法一万年のほか尽未来際までという説を用いているのである。
また五箇五百歳とは、大集経に正像末三時を五百年ずつ五箇に区分している。即ち第一の五百歳は解脱堅固、第二の五百歳は禅定堅固、これは正法一千年である。次に第三の五百歳は読誦多聞堅固、第四の五百歳は多造塔寺堅固、これは像法一千年である。堅固とは盛の意味である。さらに第五の五百歳は闘諍言訟、白法隠没の末法にはいるのである。
正法一千年は、インドにおいて第一の五百歳は小乗教、第二の五百歳は権大乗教が弘まった。像法時代の初め第三の五百歳には、中国に法華経迹門が弘まり、第四の五百歳には日本に同じく法華経迹門が流布したのである。末法には白法隠没し、釈尊の仏法はすべて功力を失い、いよいよ三大秘法の南無妙法蓮華経が広宣流布するのである。
ここで像法時代における中国の仏法史観を若干のべてみたい。像法の像とは似るという意で、仏法が形式的に流れ、内容が失われつつある時代である。
中国に仏法が三宝具足して伝わったのは、釈尊滅後一千十五年すなわち像法にはいって15年目(0617)後漢の明帝、永平10年、迦葉摩謄、竺法蘭の二僧が、白馬に仏像経巻を乗せて洛陽に到着した時である。
その後、経典の翻訳は着々と進み、鳩摩羅什(旧訳)、玄奘(新訳)にいたって最高潮に達した。また中国人は非常に理論的哲学的で、経文の体系化に得意の手腕をふるった。また教判においても南三北七の十流が生じた。教判とは教相判釈のことで、多くの経典を分類し、その中から最も秀れた経典を選出することである。しかし、ここで五時八教、三種教相等という最高の教判を示して十流を統一したのは、彼の天台大師であった。天台大師は法華経こそ釈尊出世の本懐の経典なるを明かし、理の一念三千、三諦円融等の法門を説き、三大部の中でも摩訶止観は像法の法華経と呼ばれるものである。
かくて天台大師によって、第三の読誦多聞堅固の時代は完成されたのである。天台大師が摩訶止観を完成したのは釈尊滅後1540年(0594)であった。このように、像法の初めに、中国に、法華経迹門が、釈尊の予言どおりに流布したということは、まことに驚くべきことといわねばならない。
次に天台大師出現の社会的背景を眺めてみよう。後漢の末期、漢の帝室は衰え、魏・蜀・呉の三国時代に入り、有名な曹操、劉備、孫権等が諸葛孔明らと共に活躍する。その後、魏の司馬懿が権力を握り、その子昭を経て司馬炎にいたって国号を晋と称し、遂に三国を統一した。晋はわずか20余年で分裂し、その後、西記0317年、南渡して、四世紀には中国は南北の二大勢力に分裂し政変が相次いで起こった。
すなわち江北では五胡十六国から北魏、北斉、北周の諸王朝が交代して北朝となり、江南においては、呉、東晋、宋、斉、梁、陳の六朝時代を築く。天台大師は、この陳の代に出現し、陳の後主にまねかれ金陵の光宅寺で法華文句を説いた。やがて随の天下統一後は煬帝に菩薩戒をさずけ、煬帝は天台に智者大師の号をおくった。のち荊州当陽の玉泉山において法華玄義、摩訶止観を説いて出世の本懐を遂げた。天台大師の出現した六朝時代の末、陳の代は、仏寺の建築や彫刻絵画など仏教芸術が大いに隆盛した時代であり、また教学の研究も非常に盛んであった。かくして天台宗の流布によって、隋唐時代の花やかな文化が築かれたのである。
以上のべたごとく、時代に応じ、国土に合った正法が、人を得て必ず興隆するという姿を、像法時代の中国においても、明白に示したのである。潮の干満のように、春夏秋冬の変化のように、日月の運行のように、末法の正法も必ずや全世界に流布することは、歴史的必然であるという以外にはない。
第九章(天台大師の公場対決)
本文
智顗法師をば頭をわるべきか国ををうべきかなんど申せし程に陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて 我と列座してきかせ給いき、法雲法師が弟子等の慧栄.法歳・慧曠.慧恆なんど申せし僧正・僧都.已上の人人.百余人なり各各・悪口を先とし眉をあげ眼をいからし手をあげ柏子をたたく、而れども智顗法師は末座に坐して色を変ぜず言を悞らず威儀しづかにして諸僧の言を一一に牒をとり言ごとに・せめかえす、をしかへして難じて云く抑も法雲法師の御義に第一華厳・第二涅槃・第三法華と立させ給いける証文は何れの経ぞ慥かに明かなる証文を出ださせ給えとせめしかば各各頭をうつぶせ色を失いて一言の返事なし。
重ねてせめて云く無量義経に正しく次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空等云云、仏我と華厳経の名をよびあげて無量義経に対して未顕真実と打ち消し給う法華経に劣りて候・無量義経に華厳経はせめられて候ぬいかに心えさせ給いて華厳経をば一代第一とは候けるぞ各各・御師の御かたうどせんとをぼさば此の経文をやぶりて此れに勝れたる経文を取り出だして御師の御義を助け給えとせめたり。
又涅槃経を法華経に勝るると候けるは・いかなる経文ぞ涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて涅槃経に対して勝劣は説れて候へどもまつたく法華経と涅槃経との勝劣はみへず、次上の第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり、所謂経文に云く「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞・記莂を受くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云、経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位・涅槃経をば秋の末・冬の始捃拾の位と定め給いぬ、此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ、法華経の文には已説・今説・当説と申して此の法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う、すでに教主釈尊かく定め給いぬれば疑うべきにあらねども我が滅後はいかんかと疑いおぼして東方・宝浄世界の多宝仏を証人に立て給いしかば多宝仏・大地よりをどり出でて妙法華経・皆是真実と証し十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給い広長舌を大梵天に付け又教主釈尊も付け給う、然して後・多宝仏は宝浄世界えかへり十方の諸仏各各本土にかへらせ給いて後多宝分身の仏もおはせざらんに教主釈尊・涅槃経をといて法華経に勝ると仰せあらば御弟子等は信ぜさせ給うべしやとせめしかば日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく漢王の剣の諸侯の頚にかかりしがごとく両眼をとぢ一頭を低れたり、天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり、かくのごとくありしかば・さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと震旦一国に流布するのみならずかへりて五天竺までも聞へ月氏・大小の諸論も智者大師の御義には勝れず教主釈尊・両度出現しましますか仏教二度あらはれぬとほめられ給いしなり。
現代語訳
南三北七の邪師たちは、天台法師(智顗法師)の破折に憤り「智顗法師を殺せ」あるいは「智顗法師を流罪にせよ」とののしった。そのことを聞いた陳の国主は彼ら南三北七の数人と天台大師を公場対決させ、みずから君臨して、両者の主張を聞いたのである。そのとき、法雲法師の弟子の慧栄・法歳・慧曠・慧恆等の僧正・僧都以上の人々百余人が集まった。彼らはおのおの、ただ天台大師の悪口をいい、眉をあげ眼をいからし手をあげ柏子をたたき、罵り騒ぐだけであった。
しかし、天台大師は、当時無官であったため末座に坐ったまま顔色も変えず、言葉も静かに、威儀を正して彼らの一々を取っては、みごとに、これを責め返し押し返したのである。そして逆に彼らを難じていうのに「法雲法師の義に、第一は華厳、第二は涅槃、第三は法華と立てられたのは、いかなる経文によるのか。たしかに明らかな文証を示せ」と責められたので、おのおの頭をたれ、顔色を失って、一言の返答もできなかったのである。
天台大師は重ねて責めていわく「無量義経には、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く等とある。仏みずから華厳経の名をあげられて、無量義経に対して未顕真実と打ち消したのである。法華経より劣るところの無量義経にすら、華厳経は責められているのである。法雲法師は、これをどのように思って、華厳経をば一代経中第一だなどといったのであろうか。おのおのも、また師匠たる法雲法師の味方をしようとするならば、この無量義経の文を破るところの勝れた経文を示して、彼の師の義を助けるべきである」と責められた。
また「涅槃経が法華経より勝れるという経文は、どこにあるのか。涅槃経第十四には、華厳・阿含・方等・般若経等をあげて、涅槃経に対して勝劣は説いているが、法華経と涅槃経との勝劣はまったく見えない。ところが、涅槃経のその前の第九の巻には法華経と涅槃経の勝劣が明らかに示されている。すなわちこの涅槃経の文には『是の涅槃経が世に出ずるのは乃至法華経の中で八千の声聞が記別をうけることができたのは、大果実を実らせる秋収冬蔵の大果実の位、涅槃経はその後の秋の末、冬の初めの捃拾の位、すなわち落ち穂拾いの位である』と定めているのである。
ゆえに、この経文は、明らかに涅槃経みずから法華経に劣ると頭を下げているのである。法華経の文には已説・今説・当説とあって、この法華経は、法華以前の経や、法華経にならぶように見える無量義経等に勝れるだけではなくして、後に説かれる経々にも勝れると仏は説き定められた。すでに教主釈尊が、かく定められた上は、なんら疑うべき余地はないけれども、仏は滅後のことを心配されて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人と定められたので、多宝如来は大地から躍り出て、『妙法華経は皆是れ真実である』と証明した。またその上に十方の分身の諸仏も集まってきて、広く長い舌を大梵天につけ、法華経に誤りなきを証明し、また教主釈尊も同じく広長舌を大梵天につけて法華経真実を宣言した。そうして後、多宝如来は宝浄世界に帰り、十方の分身の諸仏もおのおのの本土に帰られてしまい、多宝仏も十方分身の諸仏も、だれもいないところで、教主釈尊ひとり涅槃経を説いて、涅槃経は法華経にすぐれるとおおせられても、御弟子たちは、これを信ずるだろうか」
かくのごとく天台大師は南三北七の諸師を責められので、法雲の弟子たちは、日月の大光明が修羅の眼を照らすがごとく射すくめられ、また、漢の高祖の剣が、諸侯の首を切らんとかかったごとく両眼を閉じ、頭をたれて聞き入った、その時の天台大師の威容こそは、あたかも師子王が狐や兎の前でほえるがごとく、鷹や鷲が鳩や雉を捕えようとするのに似ていた。
このことがあって、初めて世間の人々は、さては法華経が華厳経や涅槃経より勝れているのだということを知って、中国全土に流布したのみでなく、かえってインドにまで流伝したのである。ためにインドの大小の論師たちも、中国の天台智者大師の義には勝てず、教主釈尊が二度出現されたのか、はたまた仏教がふたたびあらわれたのかと賛嘆したのである。
語釈
陳主
(0553~0604)。陳の第五代皇帝、後主のこと。諱は叔宝。第四代宣帝の子。0528年、30歳で即位した。この時、陳の国力は傾いており、施文慶らの重用によって滅亡を早めた。天台大師を帝師として崇めていた。
慧曠
(0534~0623)。中国・南北朝から隋代にかけての僧。天台大師に律蔵と大乗を教えた律師でもある。しかし、南三北七の諸師と共に、天台大師にその謬義を論破されている。
慧恆
(0515~0589)。中国・南北朝時代の僧。陳の永定3年(0559)には白馬寺で涅槃経・成実論を講じている。至徳4年(0586)には大僧正となった。至徳3年(0585)勅によって天台大師と法論して敗れた。
方等十二部経
方等部の経々。大乗教の一切を意味する場合もある。
摩訶般若
摩訶般若波羅蜜経のこと。「大品般若経」ともいう。27巻からなり、羅什の訳。
華厳海空
華厳経の法門。華厳の教相を海空のたとえによってあらわした語。海空は海印三昧のことで、一切の事物の像が海中に映るごとく、仏の智海が一切の法をはっきりと映し出して覚知できることをいう。菩薩がこの三昧をえると、一切衆生の心行を己心に映すことができるようになるとされる。華厳経が仏の海印三昧の境地で説かれた経であることをさす言である。ここでは華厳経そのものを指した語。
涅槃経の第十四
涅槃経に「善男子、仏もまたかくのごとし、仏より十二部経出で、十二部経より修多羅出で、修多羅より方等経出で、方等経より般若波羅蜜出で、般若波羅蜜より大涅槃出ず、なお醍醐のごとし」とある。これは五つの勝劣を説かれているのである。
捃拾
大果実の位である法華経で大収穫したのちに説かれた涅槃経をさして「捃拾」という。
宝浄世界
多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
日月の大光明の修羅の眼を照らす
正法念処経にある。羅睺阿修羅王は、大海地下二万一千由旬の光明城に住む。王の身体は須弥山の如く大きい。この王が大憍慢を生じて、天女を見ようと大空に上ったが、日光が目を障えるので、右手で日光をさえぎり、諸天の遊戯するのを見て嫉妬したという。これがいわゆる日蝕である。また、月宝殿にいたっては、手で月光を障えたといい、いわゆる月蝕である。
漢王の剣
漢王とは、漢の高祖劉邦(前0206~0195)のこと。沛に兵をあげ、諸候とともに秦をうち、沛公と称した。関中を占領した後、漢王に封ぜられた。後、天下を統一し、漢と号し、帝と名乗って6年間王位についた。後漢書には「漢高三尺の剣座諸侯を制す」とある。
震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
仏教二度あらはれぬ
仏在世と天台大師の時をいう。
講義
この章は前に引きつづき、天台大師の弘通のうち、陳殿における対論であり、公場対決である。
報恩抄には、天台大師については「陳主此れを・きこしめして南北の数人に召し合せて我と列座してきかせ給いき」とある。また伝教大師については「延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人……を召し合わす」とお述べになっている。このように仏法の正邪を、時の君主が自ら明らかにすることが、きわめて重大なことである。
そのゆえは立正安国論に「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり、夫れ国は法に依って昌え法は人に因って貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」(0026-16)と。また「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」(0027:02)と。
正法を立てれば国は安んじ、邪法は国を乱し国を滅すのである。ゆえに時の主権者が、法の邪正を明らかにすることは、政治のもっとも肝要とするところである。
日蓮大聖人は文応元年に立正安国論をもって幕府を諌め、文永五年には十一通の御状をもって国を諌められた。しかして、文永八年には行敏なる者が、四箇の格言を難じ、問答対決を迫ったが、次のようにお答えになっている。聖人御返事にいわく「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随って是非を糾明せらる可く候か」(0179:01)と。
また建治元年には、強仁が同じように問答を迫ってきたが、これに対して、強仁状御返事にいわく「田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し澗底の長松・匠を知らざるか、兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり、貴坊本意を遂げんと欲せば公家と関東とに奏聞を経て露点を申し下し是非を糾明せば上一人咲を含み下万民疑を散ぜんか」(0184:02)と。
要するに私的な問答は喧嘩のもとになったりするから、仏法の正邪を論ずる問答は、公場において決すべきである。行敏にしても、強仁にしても、日蓮大聖人との問答を希望するなら、幕府と朝廷に訴えて、公式の場を作って対論せよとの御意である。
天台大師時代の陳主のように、伝教大師時代の桓武天皇のように、双方を召し合わせて、国主がみずからこれを裁くことによって、正法が広宣流布して、天下太平となったのである。
日蓮大聖人の御在世時代には、公場対決を迫られる大聖人に対して、幾分か公場対決の行なわれそうな風聞の生じたこともあった。諸人御返事にいわく「所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん、在家は左右の臣下に列ならん」(1284:02)と。
日蓮大聖人は公場対決さえ行なわれるならば、「日蓮一生の間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか」(1284:01)とおおせられ、広宣流布は絶対に疑いないと断ぜられているのである。しかるに大聖人の国家諌暁にもかかわらず、公場対決もなければ、かえって迫害弾圧を加えられ、数々見擯出の大難にあわれたのである。
日蓮大聖人の御入滅後においても、幕府も朝廷も、いっこうに用いないのみか、しばしば迫害され、昭和にはいって太平洋戦争中には、創価教育学会の牧口会長以下幹部21人が投獄されるほどの弾圧を受けた、しかして大聖人の予言のとおり、自界叛逆と、他国侵逼の二難が競い起こり、ついに国は滅び民衆は苦悩のどん底にあえぐ結果となってしまったのである。
創価学会は初代牧口会長の時代には、門下3,000人といわれるまでに発展したが、太平洋戦争中の弾圧のため、ほとんど壊滅の状態となり、牧口会長は巣鴨拘置所で獄死なされてしまった。二代戸田会長は、敗戦後の東京において、ただひとり学会の再建にあたられ、昭和33年(1958)におなくなりになるまでに、80余万世帯の折伏を達成なされた。その後は恩師の御精神のままに、全世界にわたって折伏の大行進が展開され、すでに75万世帯を数え、着々と広宣流布の大道を前進しつつある。
思うに、幕府や天皇に権力のあった時代には、幕府や朝廷を諌暁し、公場対決を要求したのである。しかるに現代は民主主義の時代である。国家権力の最高の機関は国会であり、その国会議員を選出する国民が主権者なのである。ゆえに民衆一人一人を折伏し、一軒一軒の家庭が宗教革命による功徳の実証を生活に示しきっていくのが、国家諌暁でもあり、唯一の広宣流布への道である。
ゆえに広宣流布とは、民主政治のもとにある今日においては、権力者の一片の命令や、議決によって成就されるものではない。国民の総意において決定されるべきものであり、創価学会の今日までの活動が、如実にそれを物語っているのである。
教主釈尊・両度出現しましますか
「月氏・大小の諸論も智者大師の御義には勝れず教主釈尊・両度出現しましますか仏教二度あらはれぬとほめられ給いしなり」
正法が流布するところ、必ず文化は興隆し社会が繁栄することは、インドにおいて阿闍世王、アソカ大王、カニシカ王等が厳然と証明し、セイロン、インドネシア、ビルマ等においても例外ではなかった。
そして、天台大師によって法華経迹門が広宣流布した中国においては、隋唐時代の絢爛たる文化の華を咲かせたのである。
唐の初期、長安の都は政治、文化の中心であり、太平の縮図として、うららかな光りに包まれていた。唐の国威と文化を慕って来訪する外国人、また交易のために押し寄せる外国人も多く、国際的な都市として、あたかも世界の中心のような盛況を呈した。
当時、日本からも遣隋使につづいて遣唐使が盛んに派遣され、唐の文化の吸収につとめた。今の正倉院の宝物のごときは、ほとんど唐時代の工芸美術品といわれている。また仏教をはじめとする、あらゆる文化が日本に伝えられたのである。
すなわち唐の初期の政治は、貞観政要で知られる貞観の治といわれる盛世を現出し、さらに開元の治といわれる興隆期を現出した。漢民族の勢力がおおいにふるい、国際的な文化がヨーロッパ、アラビア、ペルシャ、インド、東南アジア、日本、朝鮮等に広く波及したのである。また古代の制度を集大成し、制度、武力を整えて中央集権の確立をはかった等、めざましい政治的な発展があった。
社会情勢をみるに、中国史上、もっとも平和な時代といわれ、産業がおおいに発達した。黄河流域の華北ではアワと麦の輪作による三年四毛作、二年三毛作が普及しおおいに主食が増産された。その他、砂糖、米、茶、麻等が飛躍的に増産され、綿布、漆器、養蚕業、金属工業、商業、交通等が盛んとなり、ヨーロッパ、アラビアとの貿易も大発展した。
美術、工芸、音楽等の芸術は、諸外国からも伝えられ、仏教を中心に発達して、周囲の諸民族に波及した。とくに文学では、文語体小説が大成し、詩の分野でも李白、杜甫の二大詩聖をはじめ、白居易、王維等が輩出したのである。
しかし、この隋唐の興隆時代も、天台大師の正義が流布されて民衆に浸透したあいだだけであり、法相宗の玄奘や真言宗の善無畏等が唐の中期に活躍するにつれて、やがて唐朝も衰微に向かっていく。