国府尼御前御書
建治元年(ʼ75)6月16日 54歳 国府尼
第一章(供養の功徳を説く)
本文
阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文、同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ。
単衣一領・佐渡の国より甲斐の国・波木井の郷の内の深山まで送り給候い了んぬ、法華経第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、持経者を歎美せんは其の福復た彼に過ぎん」等云云、文の心は釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと・とかれて候、まことしからぬ事にては候へども・仏の金言にて候へば疑うべきにあらず、其の上妙楽大師と申す人・此の経文を重ねて・やわらげて云く「若し毀謗せん者は頭七分に破れ若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云、釈の心は末代の法華経の行者を供養するは十号を具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり、又濁世に法華経の行者あらんを留難をなさん人は頭七分にわるべしと云云。
現代語訳
阿仏御房の尼御前から、銭三百文いただきました。同心の二人であるから、この手紙を二人で人に読ませて、お聞きなさい。
単衣一領、佐渡の国から、甲斐の国・波木井郷の内の深山まで送っていただきました。
法華経第四の巻の法師品の文に「仏道を求める人が、一劫の長い間、合掌して仏の前にあって、無数の偈を唱え讃嘆するならば、この讃仏によって、量り知れない功徳を得るであろう。しかし法華経を受持する者を讃嘆する功徳は、復それよりもすぐれる」とある。文の心は、釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末法悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。真実とは思えぬ事ではあるが、仏の金言であるから疑うべきでない。そのうえ、妙楽大師という人は、この経文を重ねて解釈して、「若しこの法華経を毀謗する人は頭が七分に破れ、若し供養する人は、その福は仏の十号に過ぎるであろう」と述べている。
この釈の心は、末法の法華経の行者を供養することは、十号を具足された仏を供養するよりも、その功徳が勝れているということである。また五濁悪世に出現した法華経の行者に対して迫害する人々は、頭が七分に破れるということである。
語釈
単衣
本来は、公家の男女が着る装束の下着のことであるが、後に小袖の上に着るようになった、夏の一重の衣服のこと。
甲斐の国・波木井の郷
山梨県南巨摩郡身延町のこと。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
偈
仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ(Śloka)、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤー(Aryā)などがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。
持経者
経典を受持・護持する者。正法を信じ、身口意の三業にわたって精進する者のこと。末法では三大秘法の南無妙法蓮華経を受持する者をさす。
三業相応
三業とは身口意で行なう業のこと。相応とはあいかなうこと。身口意の三業が一致していること。すなわち、心で思い、言葉で述べ、身で行なうことが一致していることをいう。
一中劫
20小劫のこと。
妙楽大師
(0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。
十号
仏のもつ十種の尊称。如来、応供、正徧知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊さす。
濁世
濁って乱れきった社会・世の中。五濁悪世・濁劫悪世のこと。
留難
留は拘留、難は迫害のこと。身命に害を加えて、正法流布を妨げること。
講義
本抄は、建治元年(1275)6月16日に身延でしたためられ、佐渡に住む国府尼御前に与えられたお手紙である。御真蹟は7紙で佐渡の妙宣寺に現存する。
国府入道が国府尼御前から単衣を一領、阿仏房の尼御前から銭三百文をことづかって身延の大聖人の所へ訪ねてきた。日蓮大聖人はこうした真心の御供養に対して、佐渡滞在中お世話になったことのお礼を兼ねて、心をこめた謝意と激励の言葉を述べられている。ただ、文永12年(1275)4月の作と推定される国府入道殿御返事(1323)にも、入道が身延を訪ねた様子が記されているところから、本書を文永11年(1274)の作とする説もある。
最初の段は、末法の法華経の行者に供養する功徳がいかに大きいかということを法華経法師品第十の文を引いて述べられている。
ここに、末法の法華経の行者すなわち日蓮大聖人が、釈尊以上の仏であり、末法の御本仏であるということを暗に示されている。つまり功徳の大小というのは、その所対によって決まる。例えば小乗経の仏より大乗経の仏の方が勝れている。したがって小乗教の仏に供養するよりも大乗経の仏に供養する功徳の方が大きい。権仏より実仏が勝れる。よって実仏に供養する功徳は権仏に供養するよりも大きいわけである。したがって、功徳の大小を示されていることは、その供養の対象の仏としての位の高低、力の勝劣を示されていることになるのである。
釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたり
法師品の文を受けて、日蓮大聖人の立場から、その内容を更にわかりやすく示された御文である。
法師品のこの文に述べられていることは「讃仏」であり「持経者を歎美」することである。にもかかわらず、大聖人が「供養」と置き換えられているのは、本来、法師品の原文のこの段が、持経者への供養を勧めたところだからである。
すなわち、この偈の冒頭に「若し仏道に住して、自然智を成就せんと欲せば、常に当に勤めて、法華を受持せん者を供養すべし」と。そして「応に天華の香、及び天宝の衣服、天上の妙宝聚を以て、説法者を供養すべし」また「上饌の衆の甘味、及び種種の衣服もて、是の仏子に供養して、須臾も聞くことを得んと冀え」と述べられている。
その中においていわれている「讃仏」とは口業による供養であり、そこには当然、意業の供養も含まれているわけで、したがって、「三業相応して……ねんごろに供養し奉るよりも」と大聖人が仰せられているのは、法華経の原文の心を忠実に受けておられることが理解できよう。
また、引用の法師品の文においては、単に「持経者を歎美せん」とあるのを「末代悪世の世に法華経の行者を供養せん」とされているのも、法師品の中のすぐ前のところに「吾が滅後の悪世に、能く是の経を持たば、当に合掌し礼敬して、世尊を供養するが如くすべし」とあるのを見れば当然であろう。
このように釈迦仏を直接に供養する功徳よりも、一介の凡夫にすぎない末法の法華経の行者を供養する功徳がはるかに大きいとは、普通には、とうてい信じがたいところであろうと世情を容認しつつ、しかし「仏の金言にて候へば疑うべきにあらず」と、信をとるべきことを勧められている。
そのあとに妙楽大師の釈を引かれているのは、経文こそ仏説であるから信用するには十分なのであるが、さらに念を押して、この釈を示されているのである。
なお、ここでは「仏の金言にて候へば」と単純に信をとるべき理由を挙げられているだけであるが、その奥には、末法の法華経の行者とはすなわち本地内証は久遠元初の自受用報身如来であるという仏法の極説の深い理由づけがあることはいうまでもない。
対告衆の国府尼、千日尼といった老齢の婦人達を考慮されて、そうした複雑な論議は避けられたとも考えられるが、それ以上に、信心の根本精神は、仏の金言であれば、素直に信じなければならないことを教えるために、このように述べられたと拝すべきであろう。