四条金吾釈迦仏供養事

四条金吾釈迦仏供養事

 建治2年(ʼ76)7月15日 55歳 四条金吾

背景と大意

日蓮大聖人は、1276年(建治2年)、55歳のときに身延でこの手紙を四条金吾に宛てて書かれました。どうやら四条金吾は、亡き両親のために釈迦如来の木像を造り、その開眼供養(仏像に仏の生命を吹き込む儀式)を大聖人に依頼したようです。この手紙は、その依頼に対する大聖人の返信です。

手紙の冒頭で大聖人は、仏像の開眼供養において法華経を用いてこそ、その像は「五眼(ごげん)」と「仏の三身(さんじん)」を具える真の仏像となるのだと説かれています。

当時、仏像を造ることは広く行われており、多くの人々が阿弥陀仏を信仰していました。その中で大聖人は、正しい理解へと導く一歩として、釈迦如来像を造る行為に対しては寛容な姿勢を示されました。

同じ精神は、手紙の次の部分にも表れています。そこでは、大聖人が四条金吾の家に伝わる「年中のある時期に大日天子を拝む習慣」について言及しています。大聖人は、大日天子の力や働きも、究極的には法華経に説かれる仏法の力に由来するのだと説明しています。

そのうえで大聖人は、四条金吾の孝行心を称えます。そして、主君・江間殿が彼に生活の基盤を与えているからこそ、金吾は親孝行を果たし、さらに法華経の行者に供養することができているのだと述べています。ゆえに、深い恩義を受けた人物を軽々しく見捨てることは誤りであると戒めています。

当時、四条金吾は同僚の武士たちの憎悪を買い、身の危険にさらされていました。大聖人はその状況を踏まえ、金吾に対して常に用心を怠らぬよう警告されています。

 

 

第一章(法華経を持つ者は五眼を具す)

本文

御日記の中に釈迦仏の木像一体等云々。
 開眼のこと。普賢経に云わく「この大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり」等云々。また云わく「この方等経は、これ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり」云々。この経の中に「五眼を具することを得たまえり」とは、一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼なり。この五眼をば、法華経を持つ者は自然に相具し候。譬えば、王位につく人は自然に国のしたがうがごとし。大海の主となる者の自然に魚を得るに似たり。華厳・阿含・方等・般若・大日経等には、五眼の名はありといえども、その義なし。今の法華経には、名もあり、義も備わって候。たとい名はなけれども、必ずその義あり。

現代語訳

  御日記の中に「釈迦仏の木像を一体造立した云云」とある。仏の開眼のことは、普賢経に「この大乗経典は諸仏の宝蔵である。十方三世の諸仏の眼目である」等と説かれている。また同じく普賢経に「この方等経は、是れ諸仏の眼である。諸仏は、この経によって、五眼を具すことを得られたのである」とある。

この経文の中に「五眼を具することを得られた」とあるが、その五眼とは一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼をいうのである。法華経を持つ者には、この五眼が自然に具わってくるのである。たとえば王位につく人には、自然にその国民が従うごとく、また大海の主となる者には、自然に魚が従ってくるようなものである。

華厳経、阿含経、方等経、般若経、大日経等には、五眼という名はあってもその義、すなわち実体はない。今の法華経には五眼という名もあり、その義も備わっているのである。たとえ、名がないとしても必ずその義は備わっているのである。

 

語釈

御日記

狭義では、日々のことを記したものをいうが、一般には、儀式や年中行事を記したもの。一般に元服し、社会人として認められた時から執筆するが、必ずしも一定していない。また鎌倉時代では、その目的としては、儀式、典礼などを詳細に記し、子孫の処世のために残したとされている。本抄の中では、「御日記に云く、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕えさせ給ふ事云云」(1145)とあることから、四条金吾が、大日天子を祭るもようについて、記しておいたものを、亡き人の菩提をとぶらう意味をかねて、日蓮大聖人に送られたものと思われる。また同じような意味で上野殿母御前御返事(1568)には「御菩提のために送り給う物の日記の事」とある。

 

開眼

眼目を開くということ。新たに彫刻し、鋳造し、書写した仏像等を法をもって供養し、心を入れ、生身の仏・菩薩と同じにすること。またはその儀式で開眼供養ともいう。本尊問答抄(0366)に「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」とある。

 

普賢経

曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。

 

五眼

物心にわたって物事を見極める五種の眼のこと。肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五つをいう。①肉眼は人間の肉体に具わった眼。②天眼は昼夜遠近を問わず見ることのできる天人の眼。③慧眼は空理を照見する二乗の眼。④法眼は衆生を救うために一切の事象・法門に通達する菩薩の眼。⑤仏眼とは前の四眼をことごとく具足して、遍く万法の真実を照了する仏の中道の眼。

 

華厳

華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。

 

阿含

阿含とは、梵語アーマガの音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限ってつかわれる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類される。阿含経は声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも二乗である声聞を正位として説かれた経といえる。

 

方等

方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。

 

般若

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

 

講義

  本抄は別名を「釈迦仏開眼供養事」といい、建治2年(12767月、父母の追善供養のため、四条金吾が釈迦仏の木像を造って、日蓮大聖人にその開眼を願い出たことに対する御返事である。

はじめに仏像造立の功徳について述べ、法華経による開眼供養、一念三千の原理等が示されている。ついで、四条家では大日天子を九旬の間供養していることに対し、大日天子の働きはすべて仏法の力によることを述べ、また父母孝養の大事なる事を明かしている。また金吾の変わらぬ忠誠をめでられ、さらに主君江馬氏への恩を報ずべきを説き、知恩報恩の大切なことを述べられている。

最後に、酒宴等は特に注意して慎しみ、不祥事の起こらぬよう、細かく注意を与えている。これは、とくに文永11年(1274)に金吾が主君江馬氏を折伏したことにより、主君をはじめ、同僚の反感を強くさせたことに関係する。しかも、金吾の大聖人に対するひたぶるな信心の情熱は、さらに燃えつづけ、また主君への忠誠をつらぬく変わらぬ態度に、同僚のねたみはいよいよはげしさを増していった。そしてついに建治二年九月には、越後へ減俸左遷という問題が起こるに及んだのである。

このように金吾の背後には、同僚のざん言等大きな迫害が波打っており、金吾自身が非常に緊迫した中に身をおいていたのであった。こうした状況をすべて察知された上で、大聖人は、ともすると迫害のため、主家から暇をとりたいと願う金吾に、あくまでも主家にあって恩を報じ、信心をまっとうすることを、厳しくもまた温かく指導されたのが、このお手紙である。

なお、著作の年代については、文永11年(1274)説、建治3年(1277)説等もあるが、建治2年(1276715日の説が、もっとも妥当なものと考えられる。また本抄の末尾の数行の御真筆は、鎌倉の妙本寺に現存している。

 

釈迦仏造立について

 

日蓮大聖人の仏法は、三大秘法の御本尊が一切の根本である。すなわち「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事:p.1124)として、御図顕された三大秘法の御本尊を信仰の根本の依処とする。そして、それ以外の釈迦仏像をはじめとし、種々の仏、菩薩、神を本尊とすることは無価値であり、信仰して功徳がないばかりか、正しい本尊に違背することになる。

しかし本抄では、題名からも知れるように、四条金吾が釈迦仏像を造立し、しかも大聖人にその開眼を願いでている。仏像像立のいわれに関しては、次の「開眼」の項で述べることとするが、金吾のこうした申し出に対し、大聖人はそれを受け入れ、むしろ讃嘆されているのは、いかなる理由によるのであろうか。

このことについて、日寛上人は末法相応抄の中で、まず色相荘厳の仏像を本尊とすべきではないとして、その理由をあげ、次に「本尊に非ずと雖も而も之を称歎する」と、釈迦仏造立を称歎する理由を詳しく明かされているので、その大略を次に述べる。

まず色相荘厳の仏像を本尊となすべきではない理由として、道理の上から次の三点があげられている。

一、末法は下種の時であるから、下種の仏を本尊とすべきである。本因妙抄には「仏は熟脱の教主・某は下種の法主なり」(0874:01)とあり、釈尊は脱益の教主であり、日蓮大聖人は下種の仏であることは明確である。故に色相荘厳の仏像を造立し、本尊となすべきではない。

二、正像の衆生は本已有善である故に、色相の仏において三徳の縁が深い。しかし、末法の衆生は本未有善であるが故に、色相の釈迦仏には三徳の縁が薄い。すなわち「正像二千余年には猶下種の者有り例せば在世四十余年の如し根機を知らずんば左右無く実経を与う可からず、今は既に末法に入って在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」(曾谷入道殿許御書1027:12)とあるごとくである。あくまでも三徳有縁なるを本尊とすべきであるが故に、末法今時では釈迦仏像を造立して本尊とはしない。

三、色相荘厳の仏には人法勝劣があり、法が勝れ人が劣る。しかるに「本尊とは勝れたるを用うべし」(本尊問答抄:0366:05)であるから、色相荘厳の仏を造立して本尊とはしないのである。

次に文証をあげる。

文句巻八に云く「此の経は是れ法身の舎利なり須らく更に生身の舎利を安くべからず」。法華三昧懺儀に「道場の中に於いて好き高座を敷き法華経一部を安置し未だ必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず」と。また富士一跡門徒存知の事には「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606:02)と記されている。

このように、道理、文証の上から、末法今時にあっては釈迦仏像を本尊とすべきではないことは、全く明らかである。しかし、こうした明白な理由があるにもかかわらず、金吾の釈迦仏像の造立をなぜ称歎されたのであろうか。

金吾の場合、釈迦像は本尊として造立されたのではもちろんないが、それを称歎する理由は、さらに次の三意がある。

一、大聖人の時代は未だなお一宗弘通の初めであった。よって、正意ではないが用捨時宣に随ったのである。

二、当時は日本国中が一同に阿弥陀仏を本尊としていた。このような世にあって、阿弥陀の像を捨てて、釈迦の像を造り崇めるということは、むしろ称歎に価するものといえた。また、釈迦を立てることは、すなわち法華経に帰することであり、法華経に帰すれば、それは末法において上行菩薩の再誕たる本仏に帰依することになるのである。

三、大聖人の観心からすれば、修行中の釈迦像が、全く一念三千即自受用身の本仏と映られた故である。

以上のような理由により、大聖人は金吾の仏像造立を、むしろ称歎されたのであった。またこの他にも、あくまで根本たる本尊としてではないが、釈迦像を造立したものに、日眼女や富木常忍等がいる。しかし、これらはいずれも一体像で、一機一縁のためであり、継子一且の寵愛のごときものである。しかも未だ本門戒壇の大御本尊ましまさず、あたかも月を待つ片時の蛍火ともいえる。

しかし現在は「本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄:0254:08)として、三大秘法の御本尊が建立されて以来、すでに七百年を経ている。しかも寿量文底下種の三大秘法の南無妙法蓮華経は「一閻浮提第一」とおおせのように、日本のみならず、全世界の民衆にとって唯一無二の本尊であり、今やこの妙法の五字は全世界に流布すべき時を迎えている。したがって今日の民衆にとっては、何ら釈迦仏像等を造立したり、称歎したりする必要はなく、ただ三大秘法の御本尊を唯一絶対と確信し、信行学に励んでいくべきである。

 

開眼について

 

開眼とは、仏像を造立して、そこに仏としての魂魄を入れることである。ここに開眼について述べる前に、仏像を造立するようになったいわれについて述べる。

増一阿含経巻第二十八には、優塡大王の木像のことについて説かれている。これによれば、優塡大王が三十三天に昇った釈迦を思慕するのあまり、牛頭栴檀を刻んで仏像を造り、さらにこの話を聞いた波斯匿王は紫磨金をもって五尺の如来像を造ったという。同経には「爾の時閻浮里内に始めて此の二の如来の形像有り」とあり、これが仏像造立のはじめであるとされている。

この経典は、0384年に訳されたが、その原典は二、三世紀頃に成立し、この物語もその当時のことを記したと思われる。

このように最初の造仏は、釈迦の姿を慕うのあまりであり、礼拝等の目的で造られたものではない。一般には、仏滅後五百年ぐらいまでは、礼拝すべき仏像をもたない、いわゆる無像の時代であったと考えられている。このことについて、松本文三郎氏はその著『仏像仏画の起源』のなかで「仏滅より数百年の間、仏像制作はあらわれなかった。これは当時の技術家が制作すべき技を有さなかったのではなく、むしろ之を忌避し、故意に作らなかったのではないか」と述べている。つまり、仏は尊いものであるがゆえに形相の上に表わすことはできえないものと考えられていたようである。たとえば、波斯匿王が仏画をかかせた時、仏の光明が画工の眼を射り正視できず、やむをえず仏の姿を水に写してそれを画いたという説話もある。

このように、釈迦滅後の初期には、釈迦を直接に表現しようとはせず、仏足石、塔、菩提樹下の金剛宝座などの彫刻によって、間接的に釈迦を表現し、それを釈迦の象徴として、崇拝の対象としていたと思われる。

しかし、やがて仏像の造立が多くなされるようになり、造像にあたっては、できる限り三十二相八十種好という仏の高貴にして円満な、しかも威厳のある姿を整えなければならないとされた。その他に、特に身相不具足の像は不祥をおこすとして造るべきではないとされたり、また造像の寸法や材料など、造立への規範が細々と制定され、それに基づいて仏像の造立がなされていった。

こうして仏像が造立され、最後に開眼の儀式が行なわれた。開眼は像ができたら、できる限り早く行なうとし、もし長期間おけば不吉な結果をもたらすと考えられた。したがって一般に、吉日を選んでなるべく早目に開眼の儀式が行なわれた。その式法は宗派により異なるが、造像や開眼の儀式に関することが述べられている一切如来安像三昧儀軌経には「眼を点じて相似すれば云云」とあり、仏師が像に眼をいれて開いたようである。日本でも天平勝宝4年(0752)、東大寺大仏の開眼供養の時は、菩提僧正が筆をとって開眼したとある。

さて今、これらの開眼とは異なり、金吾が釈迦仏像の開眼を願いでたことに対し、大聖人の開眼とは、どのようなことを意味するのかについて述べてみたい。

「木絵二像開眼之事」には「仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり(中略)木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり」(0468:02)とある。すなわち、木像や画像は、仏としての完成された三十二相のうち、三十一相までは兼ね備えているが、梵音声がかけているが故に真実の仏ではないとし、仏としての力はありえないとされた。

また色心二法のうち、色法、すなわち形の上では立派に造ることができても、心法を造ることはできない。よって、仏像に梵音声を与え、心法を備えることが三十二相を備えた仏となり、開眼したことになるのである。

すなわち、木画の二像の前に経を置く時、経文の一字一字がすべて仏の梵音声となり、したがって三十二相を具足し開眼したことになる。またさらに、経文の文字は心法が色法とあらわれたものであるから、経を置くことによって色心の二法が備わるのである。

ただし、ここでいかなる経を置くかが問題である。「阿含経を置けば声聞とひとし……華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非ず……三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり」(木絵二像開眼之事:0468:08)とあるように、いま仏像の前に置かれる経は、正しく法華経、すなわち南無妙法蓮華経でなければならない。

しかるに真言が、大日経をもって開眼供養を行なったことにより、真の開眼とはならず、利生が失われてしまったのである。すなわち「但印真言なくば木画の像の開眼の事・此れ又をこの事なり真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか、天竺・漢土・日本には真言宗已前の木画の像は或は行き或は説法し或は御物言あり、印・真言をもて仏を供養せしよりこのかた利生もかたがた失たるなり」(撰時抄:0282:02)、また「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり」(曾谷殿御返事:1060:07)と述べられているごとくである。

上の御文に明らかなように、真実の開眼供養はあくまでも法華経による以外にないのである。よって「本尊問答抄」に云く「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(0366:14)と。また「観心本尊抄」に云く「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246:08)と。また本抄には「此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり」(1145:02)と述べられているのである。

このように、あくまで三大秘法の南無妙法蓮華経をもって開眼するとき、仏像全体が生身の仏と同じ働きをもつのであり、またこの原理が草木成仏にあたるのである。すなわち本抄における開眼は、釈迦仏像に対して行なわれたものであり、釈迦滅後の木画像も、法華経によって開眼すれば功徳あることを述べられている。しかし同時に釈迦仏像を破折し、三大秘法による開眼、すなわち草木成仏の大原理を示し、御本尊の偉大な力を示さんとするものである。

また「此の五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候」と述べられているように、我々凡夫における開眼という問題がある。それは法華経すなわち御本尊を受持することによって成就される。すなわち、一人一人に備わっている仏界の生命を妙法によって湧現し、磨きあげ、もっとも人間らしい人間に成長していくことこそ、個人における開眼といえよう。

さらにまた、自己の殻に保守的にとじこもるのでなく、妙法によって大きく人間革命した姿を実社会に投影し、力ある存在として社会に妙法の哲理を昇華せしめていくことこそ、真の開眼といえるのである。

 

 

第二章(仏の徳を明かす)

本文

三身の事、普賢経に云く「仏・三種の身は方等より生ず是の大法印は涅槃海を印す此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田にして応供の中の最なり」云云、三身とは一には法身如来・二には報身如来・三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす、譬へば月の体は法身・月の光は報身・月の影は応身にたとう、一の月に三のことわりあり・一仏に三身の徳まします、

 

現代語訳

  三身の事について普賢経には「仏の三種の身は大乗経から生ずる。この大法印は、仏の涅槃という成仏の大海を証明したものである。この大涅槃海の中から、よく仏の三身の清浄の身を生ずるのである。この三種の身は、人天の衆生が縁して善根を生ずる福田であり、また人天から供養を受ける資格をもつものの中で最高のものである」と説かれている。

三身というのは、一には法身如来であり、二には報身如来、三には応身如来である。この三身如来を一切の諸仏は必ず具えている。たとえば月の体は法身にあたり、月の光は報身であり、月の影は応身にたとえられる。一つの月にも三つの側面があるように、一仏には、三身如来の徳が具わっているのである。

 

語釈

三身

法身・報身・応身の三つをいう。応身とは肉体、報身は智慧、法身は生命である。爾前の経教においては、種々の法が説かれるが、いずれも娑婆世界でなく他土に住し、始成の仏である。しかもただ法身のみであったり、報身のみであったり、あるいは応身仏である。これに対し、寿量品においては、久遠本有常住・此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれて、生命の実相が説き示されるのである。寿量品の目的は報中論三といって、報身を要として、総体の三身を説くのである。しかして文底至極の義は、久遠元初の自受用無作三身を示していることは御義口伝の処々に明らかである。

 

普賢経に云く「仏三種の身は方等より生ず……応供の中の最なり」

仏説観普賢菩薩行法経の文。仏説観普賢菩薩行法経に「此の方等経は、是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は、方等従り生ず。是れ大法印なり。涅槃海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は、人天の福田、応供の中の最なり」とある。大法印とは教法の真実を証明することを意味し、涅槃とは解脱のことで、そのひろびろとした境涯の様を海にたとえ涅槃海という。福田とは、種をまき多くの収穫を得る田のように、衆生が仏に供養するという功徳善根の種をうえつけることによって、その行為に対する福徳の果報を得る田地との意味。応供とは供養を受ける資格を有する者のことで、仏の十号の一つである。

 

講義

 

此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひぐす。譬へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします

 

三身如来とは、法身如来、報身如来、応身如来のことである。この三身を生命にあてはめた場合、報身とは智慧、応身とは肉体であり、法身とは生命の本質、生命それ自体をいう。この法報応の三身が具備されて、はじめて完全なる生命といえるのである。

しかし爾前経にあっては、十地経論巻第三に「一切仏とは三種の仏あり、一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とあるように、三種類の仏として三身を各別なものとして説いている。そして法華経に入って、はじめて三身が一体であることを明かされたのである。すなわち法華経本門寿量品において、久遠本有常住、此土有縁深厚の三身具足の釈迦如来が説かれ、生命の実相があきらかになった。そして仏は、この三身即一身の生命として永遠に存在することが示されたのである。

天台は文句第九に、寿量品の「如来秘密神通之力」の文を釈して云く「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す。又昔より説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す。神通之力とは三身の用なり。神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり。仏は三世に於て等しく三身あり。諸教の中に於て之を秘して伝えず」と。

今、日蓮大聖人は、一切の諸仏が三身を具することを月を例に述べられている。すなわち、月という実体そのものは法身にあたり、月の光り輝く作用、働きは報身、その月が具体的な影を映しているのを応身という。

すなわち、法身とは生命の本質そのものであり、報身は生命の智慧、特に全民衆を幸福にしきる御本仏の智慧をさす。また応身とは生命があらわしている姿、形をいう。

このように考えてみる時、一切のものに三身の働きが具足していることがわかる。たとえば、桃の木は梅でも桜でもない、桃の木そのものであるということは、法身にあたる。そして、桃が花を咲かせ、実を結ぶその働き、特質は報身であり、具体的な桃らしい姿、形は応身である。

このように、あらゆる生命は必ずこの三身を具えているのであるが、仏について論ずる場合、最も重視されるのは報身である。文句第九には「此の品の詮量は通じて三身を明かす、若し別意に従わば正しく報身に在り」とあり、報身が中心となって、三身が一体の働きをなすと明かされている。

これは人間一般についても同様で、日常生活、実際の活動も、あくまで報身が基盤となっている。つまり、実際に行動するときに働くのは、意識するとしないとにかかわらず、まずそれまでに体得した生活の知識や智慧であり、その智慧の働きによって、生活に展開され、行動化されていくのである。よって報身が三身の中核となっているといえるのである。このことを報中論三という。

この、あらゆる仏の三身の生命を顕現せしめていく力は、三大秘法の御本尊による以外にないのである。ゆえに、仏像が単に応身だけでなく、仏としての生命、智慧を具えるための開眼は、三身如来を生ぜしめる本源である妙法によらなければならないのである。

ひるがえって考えてみるに、妙法によらない知識や智慧は、確かに高度の科学技術を発展させてきた。しかしながら同時に、その無謀な発達は人類を死地においこもうとしている。これは、本来、人間の幸福を増大するものとして開発され、築かれた科学、技術、文明が、その開眼を得ないまま、恐るべき魔物としての生命を得たとも考えられよう。

 

 

第三章(真実の開眼供養を明かす)

本文

この五眼三身の法門は法華経より外には全く候はず、故に天台大師の云く「仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」云云、此の釈の中に於諸教中とかかれて候は華厳・方等・般若のみならず法華経より外の一切経なり、秘之不伝とかかれて候は法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり。

  されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、

 

現代語訳

  この五眼・三身の法門は、法華経以外には全く説かれていない。ゆえに天台大師は法華文句巻第九に「仏は三世にわたって等しく三身を具えている。しかし諸経の中にはこれを秘して伝えていない」と説いている。この釈の中で「諸教の中に於いて」とかかれているのは、華厳、方等、般若だけではなく、法華経以外の一切経のことである。「之を秘して伝えず」とかかれているのは、法華経の寿量品以外の一切経には、教主釈尊があえてこれを秘して説かれなかったとの意味である。

であるから、画像・木像の仏を開眼供養することは、法華経・天台宗に限るのである。

 

語釈

画像・木像の仏

画像は絵に書いた仏菩薩の像で曼荼羅ということもある。木像は木に彫った仏菩薩の像。

 

講義

五眼も三身も、その生ずる根源は法華経のみにあり、したがって仏像の開眼供養は法華経に限ることを説かれている。

像法時代に釈迦の法華経を正しく受け継ぎ、法華経による仏法体系を確立したのは、天台大師である。しかし末法に入って、真言、律、念仏等をはじめとする多くの僧侶が、勝手に我見で法を打ち立て、経文の本意をないがしろにするのみか、法を下げ、あるいは曲げ、更に、それぞれ自分の教えが最も正しいと主張しはじめた。

こうした背景のもとに、大聖人は仏像に魂魄を入れる開眼の義は、必ず法華経・天台宗によらなければならないと指摘されたのである。

ただし、ここでいう天台宗とは、慈覚・智証以後の真言の邪義に染まった流れをいうのではない。仏の本義をわきまえず、誤って伝えていった真言、律、念仏等に対して、天台宗といわれたのである。故に大聖人は、真言密教と同化した現実の天台宗を否定する意をこめて「法華経・天台宗」と仰せなのである。なお、末法今時にあっては、これは南無妙法蓮華経をさすことは、論をまたない。

 

 

第四章(仏像の真義を明かす)

本文

其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり、止観の明静なる前代いまだきかずと・かかれて候と無情仏性・惑耳驚心等とのべられて候は是なり、此の法門は前代になき上・後代にも又あるべからず、設ひ出来せば此の法門を偸盗せるなるべし、然るに天台以後二百余年の後・善無畏・金剛智・不空等・大日経に真言宗と申す宗をかまへて仏説の大日経等には・なかりしを法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑せしかば皆人此の事を知らず一同に信伏して今に五百余年なり、然る間・真言宗已前の木画の像は霊験・殊勝なり真言已後の寺塔は利生うすし、事多き故に委く注さず。
  此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ、優塡大王の木像と影顕王の木像と一分もたがうべからず、梵・帝・日月・四天等必定して影の身に随うが如く貴辺をば・まほらせ給うべし是一。

 

現代語訳

  そのうえ、一念三千の法門というのは、三種の世間から起こっている。三種の世間というのは、一には衆生世間、二には五陰世間、三には国土世間である。衆生世間、五陰世間の二つはしばらくおく。第三の国土世間というのは、草木世間のことである。

草木世間というのは、五色の絵の具は草木からでき、画像はこの絵の具によってつくられるのである。木というのは、木像がこれから造られるのである。この画像、木像に魂魄すなわち神を入れることは、法華経の力である。またこれは天台大師の悟りである。この法門は衆生の立ち場からいえば、即身成仏とわれ、画像、木像の辺からは草木成仏というのである。

章安大師が「天台大師の止観の法門はまことに明瞭に説かれており、これほどのものは前代には聞いたことがない」と讃嘆し、また妙楽大師が「無情界にも仏性があると明かしたことは、まさに、耳を惑わし、心を驚かすことである」と述べているのはこのことである。

この一念三千の法門は前代になかったのみならず、後代にもまたあろうはずがない。もし、あったとするならば、それはこの天台の法門を盗みとったものにちがいない。

ところが、天台大師から二百余年の後、善無畏、金剛智、不空等は、大日経によって真言宗という宗をかまえた。そして本来の大日経等には一念三千の法門など説かれていないのに、法華経の義・天台の釈を盗み入れて、真言宗の肝心としたのである。しかもその事を、インドから伝わったかのように言いふらし、中国、日本の後世の人たちをまどわしたのである。こうした事情を人々は誰も知らず、みな一同に信じきって、今に至るまで五百余年を経ている。それゆえ、真言宗以前の木像、画像は利生もことさらであったが、真言宗が開眼するようになって以後の寺塔は、利生がなくなってきた。このような事情については多くあり、わずらわしいので詳しくは書かない。

殿の造立されたこの仏像こそ、生身の仏であられるのである。優塡大王のつくられた木像、また影顕王のつくられた木像とも、少しも異なることがない。梵天、帝釈、日天、月天、四天等は必ず影が身に従うように、殿につき従って守られるであろう。是れ第一である。

 

語釈

三種の世間

生きものとしての衆生世間、その生きものの住む場所としての国土世間、この二つを構成する五蘊についていう五陰世間の三つの世間をいう。

 

草木世間

三世間のうちの国土世間のことで、非情界をさす。草木とは、草や木等の植物をさすが、仏法においては、動物や植物、生物や無生物として区別するのではなく、有情と非情とに区分される。有情とは人間や動物のように感情、意識等の「心の働き」のあるものをさす。非情とは、その他の草木や山河、大地等「心の働き」がなく、自分からは何もできないものをさす。この草木、山河、大地等にまた十界各々の差別がある故に、国土世間または草木世間という。

 

魂魄

一般には人間の霊魂を意味するが,中国において本来は,人間の体内のエネルギーである気を司るのが魂,形体を司るのが魄と呼ばれていた。前者は陽,後者は陰に属するとされ,人間が死ぬと,両者は分離して上下に飛散するとも考えられた。

 

即身成仏

衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。

 

草木成仏

草木や土砂等の非情の物質が成仏することをいう。また、依正についていえば、依報の成仏である。日寛上人は、諸御書を案ずるに、草木成仏に二意あるとして、一に不改本位の成仏、二に木画二像の成仏があるとしている。まず不改本位の成仏とは、草木の全体がそのまま本有無作の一念三千即自受用身の覚体である。草木成仏弘決には「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」(1339:06)、三世諸仏総勘文抄教相廃立のは「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(0574:14)御義口伝には「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0784:第二量の字の事:02)とある。このように、無心の草木でありながら、その体は本覚の法身であり、その時節を違えず花咲き実の成る智慧は本覚の報身であり、有情を養育するは本覚の応身であり、これを不改本覚の成仏という。木画二像の成仏とは、四条金吾釈迦仏供養事には「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1145:01)木画二像開眼之事には「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469:08)観心本尊抄には「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246:08)とある。御義口伝で「草木成仏の証文に而自廻転の文を出すなり」(0723:第五而自廻転の事:03)と仰せられているのは「法性自然にして転じ因果依正自他悉く転ずるを」(0723-第五而自廻転の事-01)ということについてである。すなわち、依報・正報ともに変わっていくということは、正報の成仏により、非情の草木等の依報も成仏するのである。一枚の紙が御本尊に変わることを木画二像の成仏である。

 

偸盗

人の物を盗むこと。十悪の一つ。四重禁の一つ。

 

善無畏

06370735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。

 

金剛智

06710741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。

 

不空

07050774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。

 

真言宗

大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。

 

天竺

古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。

 

霊験

祈願・信仰に対して与えられる不可思議な感応あるいは利益。呪術は人々が霊験を希求するところに生れたもので,霊験記の類は,世界各地の諸民族の説話や口碑のなかに広く見出すことができる。

 

利生

利益衆生の意で、衆生を利益すること。

 

生身の仏

五体をもって実在する仏のこと。

 

優塡大王の木像

優塡大王が造った世尊の像。優塡大王は釈迦在世の憍賞弥国の王。釈迦に帰依し、外護者となった。優陀延王と同一人物とする説もあるが、増一阿含経の五王品には「その時に五大国王あり。いかんが五王なる。いわゆる波斯匿王、毘沙王、優塡王、悪生王、優陀延王なり」とあり、別人としている。また四分律には優陀延王を狗睒弥国の王としている。

増一阿含経巻第二十八・聴法品第三十六によると、釈尊が忉利天に上って、一夏の間、母・摩耶夫人らの為に説法した時、王は、釈尊を拝することができないのを深く悲しみ、ついに病気になってしまった。経文には「群臣王に白さく『云何が愁憂を以て患ひを成ずるや』と。其の王報へて曰く『如来を見たてまつらざるに由るが故なり。設し我如来を見たてまつらずば、便ち当に命終すべし』と。是の時群臣便ち是の念を作さく『当に何の方便を以て、優塡王をして、命終せ令めざら使むべきや。我等宜しく如来の形像を作すべし』と。是の時群臣王に白して言さく『我等形像を作らんと欲す、亦恭敬承事作礼す可きや』と。時に王、此の語を聞き已って、歓喜踊躍し、自ら勝ふる能わず、群臣に告げて曰く『善い哉、卿等の説く所至って妙なり』と。群臣王に白さく『当に何の宝を以て如来の形像を作るべきや』と。是の時王、則ち国界の内の諸の奇巧の師匠に勅して、之に告げて曰く、『我今形像を作らんと欲す』と。巧匠対へて曰く『是の如し、大王』と。是の時優塡王則ち牛頭栴檀を以て、如来の形像を作る。高さ五尺なり」とある。こうして、仏像を礼拝し、王の病はようやく回復したという。これが仏像造立の始めであると伝えられている。「日眼女造立釈迦仏供養事」(1187)には「昔優塡大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・日月等・木像を礼しに参り給いしかば云云」とある。

 

影顕王の木像

影顕王とは、頻婆舎羅王のこと。頻婆舎羅は梵語で、訳して影顕、影勝という。大聖人御在世当時、影顕と用いられていた。頻婆舎羅王は、インド・摩竭提国の王で、阿闍世王の父である。はじめ釈迦が出家したとき、王は釈迦を尋ねて出家をとめようとしたが、釈迦の志の堅いことを知り、かえって尊敬の念をいだいた。釈迦が成道してからは、深く帰依し、竹林精舎を建てて供養した。しかし晩年、息子の阿闍世王によって幽閉され、獄死してしまった。王は牢中にあっても常に釈迦を拝し、その光明に照らされ、悟りを得て死んだという。王の木像、画像については、出典が明らかではない。但し、「日眼女造立釈迦仏供養事」(1187)には「影堅王の画像の釈尊を書き奉りしも」とある。

 

大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

帝釈天のこと。梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

日月

日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。

 

四天

四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。

 

講義

木を刻んで作った仏像や草などからとった絵の具で描かれた絵像が、仏としての生命をもつということは、一念三千の法理によってはじめて可能となるのである。すなわち、一念三千の中の三世間、その国土世間とは非情の草木、国土であり〝一念〟の妙法の確立によって、草木、国土も仏の働きをもつのである。

この一念三千の法理は、法華経にのみあり、それを明確に把握したのは天台であるから、法華経・天台によってのみ、非情の仏像に仏の生命をあらわすことが可能となる。

本章の意味するところは大要、以上の通りであるが、ここに「法華経・天台」といわれているものが、現実の真言と化した天台宗を否定され、真実の正法を持って立たれた大聖人の「南無妙法蓮華経」に他ならないことはいうまでもないであろう。

 

一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり

 

一念三千の哲理は、仏教の極理であり、法華経迹門では、方便品の「諸法実相」に約して、ほぼ説かれた。

しかし、迹門ではまだ国土世間が明かされず、本門寿量品にいたってはじめて、三千を成ずる一切の内容が顕わされる。この法華経の示した生命の哲理を明確に体系化したのは天台大師であった。

「玄文両部の中には並びに未だ一念三千の名目を明さず、但百界千如を明すなり、止観の第五巻に至りて正しく一念三千を明すなり」と日寛上人が指摘しているように、天台は文句、玄義では千如是までを明かし、最後に摩訶止観において、はじめて一念三千の法理を体系化したのである。

すなわち、止観の巻第五上に云く「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば、即ち三千を具す」と述べられている。

さてここで、一念三千論のなかで三世間の持つ意味を考えてみたい。

「一念三千法門」に云く「十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり」(0413:01)と。

更に「一念三千理事」には玄義の釈籤をひいて「仮は即ち衆生実は即ち五陰及び国土即ち三世間なり千の法は皆三なり故に三千有り」(0408:10)とあり、また弘の五の文をひいて「一念の心に於て十界に約せざれば事を収むること徧からず三諦に約せざれば理を摂ること周からず十如を語らざれば因果備わらず三世間無んば依正尽きず」(0408:11)とある。

すなわち、仮と実の三世間がなければ、正報たる有情と依報の国土をもらさずつくすことができなくなる。

また「一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり、一切衆生と申すは草木瓦礫も一切衆生の内なるか」(0415:14)と。ここに草木瓦礫とは国土世間であり、ここにはじめて、有情非情にわたっての成仏が説かれるのである。

このように三世間を明かすことによって、十界の生命の具体的な存在の場、生活の舞台、環境が明らかとなり、空仮中の三諦がうちたてられるのである。これは、五陰世間、衆生世間、国土世間が説かれなければ成り立たない。よって、あくまでも三世間を基調として、一念三千論は展開されなければならない。

更に天台が体系化したこの法理を、理論の上にのみとどまらせるのではなく、実践的に、その実体としてうちたてられたのが、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経なのである。

すなわち「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり」(0414:06)の御文を、よく心にきざみつけるべきであろう。

 

此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり、天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり

 

ここで「法華経の力」とは、いうまでもなく文底独一本門の一念三千の大御本尊、すなわち南無妙法蓮華経をさす。一片の画木に、南無妙法蓮華経をもって生命をふきこむ時、画木像全体が生身の仏と同じ働きをもつ。この原理がまた、草木成仏である。

このことは「観心本尊抄」に「非情に十如是亘るならば、草木に心有って有情の如く成仏を為す可きや如何」との問を受けて、難信難解であるとしながら「木画の二像に於ては、外典・内典共に之を許して本尊と為す。其の義に於ては、天台一家より出でたり。草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」(0239:09)と述べられているごとく、根本的には、非情たる草木にも、十界三千の生命があり成仏するのである。そしてまたこの一念三千の法門、すなわち南無妙法蓮華経の法理は、衆生という立場に約すとき、それは即身成仏の法門となり、草木という立場に約すとき、草木成仏という法門になる。

ここで、特に非情界の成仏をあらわす草木成仏について考えてみたい。

日寛上人は、草木成仏には不改本位の成仏と、木画二像の成仏の二意があるとされている。

まず不改本位の成仏とは、非情の草木がそのままの姿で、本覚の如来となることをいう。すなわち、宇宙の活動や変化等、それ自体の事象が仏の生命の働きであるということである。「草木成仏口決」にいわく「口決に云く『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」(1339:06)と。また「三世諸仏総勘文教相廃立」にいわく「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや無心の草木すら猶以て是くの如し何に況や人倫に於てをや」(0574:14)、さらに「御義口伝」にいわく「森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故……桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」(0784:第二量の字の事:02)と。

すなわち無心の草木でありながら、その体は本覚の法身であり、その時節を違えず、花咲き実が成るという智慧の働きは本覚の報身であり、有情を養育する慈悲は本覚の応身である。このように、そのままの姿で本覚の三身如来となるが故に、これを不改本位の成仏というのである。

また木画二像の成仏とは、詳しくは本抄に述べられているところであるが、木像、画像などの非情の生命であっても、大聖人の仏法を根本とするならば、それがそのまま仏の生命、仏の当体となるのである。故に「木絵二像開眼之事」(0469)には「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(0469:08)と述べられているのである。

更にまた、依正の立場から述べるならば、正報が成仏することによって、依法である非情の草木等が成仏するのである。

また「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」(1339-01)とあるごとく、衆生が死んだ時、塔婆をたて回向することは、草木成仏の原理による。すなわち、有情の生命は死によって宇宙の生命の中に退き、非情の存在となる。この死後の非情の生命の境涯、特に苦悩の境涯を、妙法の偉大な力によって変革せしめていくことができるのが塔婆供養であり、草木成仏といえる。

ただし「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり」(0246:如来滅後五五百歳始観心本尊抄:08)とあるごとく、文底秘沈の一念三千の仏種、すなわち、南無妙法蓮華経を根底として、はじめて成り立つことを忘れてはならない。

 

此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ

 

一往、文脈の上からは、四条金吾が造立した釈迦の像についていわれているが、再往は三大秘法の御本尊こそ、この文にある〝仏〟であると拝さなければならない。

すなわち、三大秘法の御本尊こそ、一念三千の当体そのものであり「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候」(1124:経王殿御返事:12)と仰せられた、真実の仏の生命なのである。

また、人法一箇といわれるように、御本尊は即、末法御本仏、日蓮大聖人の生命であり、そのまま〝生身の仏〟なのである。

 

 

第五章(日天子の利生を述べる)

本文

御日記に云く毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間・大日天子に仕えさせ給ふ事、大日天子と申すは宮殿七宝なり其の大さは八百十六里・五十一由旬なり、其の中に大日天子居し給ふ、勝無勝と申して二人の后あり左右には七曜・九曜つらなり前には摩利支天女まします・七宝の車を八匹の駿馬にかけて四天下を一日一夜にめぐり四州の衆生の眼目と成り給う、他の仏・菩薩・天子等は利生のいみじくまします事・耳にこれを・きくとも愚眼に未だ見えず、是は疑うべきにあらず眼前の利生なり教主釈尊にましまさずば争か是くの如くあらたなる事候べき、一乗の妙経の力にあらずんば争か眼前の奇異をば現ず可き不思議に思ひ候、争か此の天の御恩をば報ずべきと・もとめ候に仏法以前の人人も心ある人は皆或は礼拝をまいらせ或は供養を申し皆しるしあり、又逆をなす人は皆ばつあり、今内典を以てかんがへて候に金光明経に云く「日天子及以月天子是の経を聞くが故に精気充実す」等云云、最勝王経に云く「此の経王の力に由つて流暉四天下を遶る」等云云、当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり・彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり勝劣を論ずれば乳と醍醐と金と宝珠との如し、劣なる経を食しましまして尚四天下をめぐり給う、何に況や法華経の醍醐の甘味を甞させ給はんをや、故に法華経の序品には普香天子とつらなりまします、法師品には阿耨多羅三藐三菩提と記せられさせ給う火持如来是なり、其の上慈父よりあひつたはりて二代我が身となりて・としひさし争かすてさせたまひ候べき、其の上日蓮も又此の天を恃みたてまつり日本国にたてあひて数年なり、既に日蓮かちぬべき心地す利生のあらたなる事・外にもとむべきにあらず、是より外に御日記たうとさ申す計りなけれども紙上に尽し難し。

 

現代語訳

  御日記によると、毎年四月八日から七月十五日までの約九十日間、大日天子を祭られるということである。

大日天子の宮殿は七宝でできていて、その大きさは八百十六里・五十一由旬ある。その中に大日天子がおられる。勝、無勝という二人の后があり、また左右には七曜、九曜の星がつらなり、前には摩利支天女がいられる。七宝で造られた車を八匹の駿馬にかけて引かせ、四天下を一日一夜でかけまわり、四州の衆生の眼目となられるのである。他の仏・菩薩・天子等は、利益がすばらしいということは耳にはきくが未だ凡夫の眼には見ることができない。

しかし、日天子に利生のあることは疑うことのできない眼前の事実である。教主釈尊でなければ、どうしてこのように利生があらたかなことがあろうか。また法華経の力でなければ、どうして眼前の奇異を現わすことができようか。不思議に思う。

では、いかにしたらこの日天子の御恩を報ずることができるかともとめたところ、仏法以前の人々も、心ある人はみな、あるいは礼拝を行ない、あるいは供養をして、皆、利益を受けていた。またこれに逆らった人は、みな罰を受けた。今、仏教教典をもって考えてみると、金光明経には「日天子ならびに月天子は、是の経を聞くから、精気が充実するのである」と説かれ、最勝王経には「此の経王の力によって、日天子、月天子は世界をまわるのである」と説かれている。これによって知られるように日月天子が四天をめぐるのは、仏法の力によるのである。

彼の金光明経、最勝王経は、法華経の方便である。法華経との勝劣を論ずるならば、乳と醍醐、金と宝珠とのごとくである。このように劣った経の力によってでさえ、なお、四天下をめぐるのである。ましていわんや、法華経の最高の力をもってすれば、どれほどの利生があるかはかりしれない。

ゆえに法華経の序品には、日天子、月天子は普香天子とともに列なり、法師品では日天子は阿耨多羅三藐三菩提と成仏の記別を与えられた。「火持如来」というのがそれである。そのうえ、あなたは父君の代から日天子を祭って二代目であり、わが身になってから長いことたっている。どうして日天子がみすてられるようなことがあろうか。そのうえ、日蓮もまたこの日天子を恃み奉り、日本国とはりあって数年になるが、すでに日蓮が勝ったという心地がする。このように利生のはっきりしていることは、他にはもとめられない。これより他に、御日記に尊いことと思われるところがたくさんあるが、紙上には書き尽くし難い。

 

語釈

九旬

旬(シュン)は10を意味する。したがって九旬は90日間・年齢90歳などを意味する。

 

大日天子

日天子ともいう。梵語蘇梨耶の訳で日神と称す。身より光を放ち、純金で造った金殿を照らし、金殿の光は日宮を照らし、更にその光は四天下にあまねく輝きわたるとされている。この天子は過去世に善心をもって、沙門・婆羅門を供養し、もろもろの窮乏を救い十善業を修した因縁によって日宮殿に生じたと説かれている。

 

由旬

サンスクリット名ヨージャナ(yojana)は、古代インドにおける長さの単位。古代インドでは度量衡が統一されておらず、厳密に「1ヨージャナは何メートル」とは定義出来ないが、一般的には約11.3kmから14.5km前後とされる。また、仏教の由旬はヒンドゥー教のヨージャナの半分とも言われ、倶舎論の記述などでは普通1由旬を約7kmと解釈する。古来より様々な定義がなされており、例えば天文学書『アールヤバティーヤ』(Aryabhatiya)では「人間の背丈の8000倍」となっている。他にも「帝王の行軍の1日分」「牛の鳴き声が聞こえる最も遠い距離の8倍」など様々な表現がなされている。また、「32000ハスタ」とする定義もある。ハスタ(hasta)とは本来「手」の意味だが、古代インドの長さの単位でもあり、この場合は「肘から中指の先までの長さ」(キュビット)と定義される。以下倍量単位が続き、4ハスタが1ダンダ(daNDa)、2000ダンダが1クローシャ(kroza)、2クローシャが1ガヴューティ(gavyuuti)、そして2ガヴューティが1ヨージャナとなる。仮に1ハスタを45cmとすると、1ヨージャナは14.4kmとなる。一方、仏教では1倶盧舎(クローシャ)が1000ダンダ(4000ハスタ)、そして4倶盧舎が1由旬とされているので、1由旬は7.2kmとなる。由旬を使ってその大きさが示されているものとしては、須弥山の高さ8万由旬などがある。

 

七宝

諸経典によって異なるが、法華経見宝塔品第十一では金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝である。

 

七曜

太陽,月と水星,金星,火星,木星,土星の七つの天体のこと。また日曜から土曜までの週日の総称。上記七つの天体の位置を示す七曜暦を作ることは《延喜式》に規定されていた。また東洋の星座である二十八宿と結びつけ日の吉凶を判断するために,七曜は今のような週日制のためではなく暦注として9世紀に導入された。藤原道長の日記には曜日がつけられている。そのころの具注暦には日曜のことを密または蜜と注している場合がある。

 

九曜

木火土金水の五惑星に太陽と月にを合わせたものが七曜。七曜に羅喉星(触星)と計都星(彗星)を合わせたものが九曜星。羅喉星と計都星は、インド天文学の白道と黄道の交点の星。昇交点が羅喉星。降交点が計都星。この九曜星を中心として二十八宿などをまつる。

 

摩利支天女

摩利支とは梵語で陽炎と訳す。インド民間に信仰された天神の一つで、一般に男神とされているが、陀羅尼集経第十にある摩利支天経には「其の像法を作るは天女の形に似たり」とある。また、常に日天子の前にあり、身を隠す神通力があってその姿が見えないので、縛られず捉えられず、能く敵を破るという。またこれを念ずれば、一切の災厄を離るという。このため、よく武士は、守護神として勝利を祈った。

 

四天下

鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超をいう。

 

四州

須弥山を中心とした古代インドの世界観で、須弥山を八重の山と香水の海が囲み、その外側、第九重の鉄囲山の内側に醎海があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとするとある。

 

一乗の妙経

仏界を説き切った法華経のこと。

 

金光明経

釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。

 

最勝王経

中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。1031品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。

 

醍醐

五味の一つ醍醐味のこと。①蘇を精製してとる液で、濃厚甘味。薬用などにもする。②天台大師が一切経を五時の教判に約して、法華涅槃を醍醐味とたてたこと。③真言宗では自宗のことを醍醐とする邪義を立てている。

 

普香天子

明星天のこと。三光天子のひとつ。帝釈天に率いられて、欲界衆に属し、正法の行者を守護する。

 

阿耨多羅三藐三菩提

法華経法師品第十に「妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せば、我れは皆な与めに当に阿耨多羅三藐三菩提を得べしと授記す」とある。「阿耨多羅」は無上。「三藐」は正等または正徧。「三菩提」は完全な悟りを意味する。すなわち仏の智慧は無上清浄で、正等にして徧頗なく一切にゆきわたるという意。仏法の最高の悟りは、婆羅門等の外道や方便権教の悟りとは比較にならないものであることを表わしている。

 

火持如来

大日天子の成仏の宝号。

 

慈父

父親のこと。

 

大日天子

大日天子とは日天子、すなわち太陽に表徴される善神を意味する。月天子とならび称せられ天界に属するので、天子と呼ばれる。

 

講義

四条家では代々、大日天子を祭っていたようである。これを神として信仰することは、仏像をまつると同様に謗法である。しかし、第一章の〝釈迦仏造立について〟の項で述べたような理由によって、大日天子を信仰することを許されたのである。

この日天子は、法華経の会座につらなり、正法を持つ者を守護すると誓っている。金光明経には、日月天子が正法を聞くことによって精気が増すと説かれている。この文にいう「是の経」とは金光明経をいうのではなく、仏の正法たる法華経、なかんずく文底下種の妙法である南無妙法蓮華経をさしているのである。

「妙一女御返事」には「日月は仏法をなめて威光勢力を増し給うと見へて候、仏法のあぢわいをたがうる人は日月の御力をうばう人・一切衆生の敵なり」(1259:11)とある。すなわち、諸天善神である日月天等は、仏法の法味を食としているのであるから、衆生が正法を護持していれば大いにその力を発揮することができる。しかし逆に、正法を誹謗していればたちまちに力を失い、ついには国土を捨て去ってしまうのである。このことについての金光明経の文は「立正安国論」にもあげられている通りである。

「其の国土に於て此の経有りと雖も、未だ嘗て流布せしめず、捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず、亦供養し尊重し讃歎せず、四部の衆、持経の人を見て、亦復尊重し乃至供養すること能わず。遂に我れ等及び余の眷属無量の諸天をして、此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ、甘露の味に背き、正法の流を失い、威光及以び勢力有ること無からしむ、悪趣を増長し、人天を損減し、生死の河に墜ちて涅槃の路に乖かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯くの如き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず。必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん」と。ここにある「此の経」が金光明経のことではなく、法華経、南無妙法蓮華経を意味することは周知の如くである。

大日天子とは、太陽そのものよりもむしろ太陽のもつ生命力を意味する。つまり、太陽のもつ巨大なエネルギーは、地上の万物を育てる力をもっている。もし、この太陽がなくなったら、人間も、生物も存在しえないであろう。太陽や月が、地球上の生活にいかに恩恵を及ぼしているか、はかり知ることができない。

また一方、太陽それ自体も広大な宇宙の中にあって、あらゆる星と調和しつつ運行している。この生命の育成と自身の調和ある運行の力を「大日天」と表現したと考えられる。

 

其の上日蓮も又此の天を恃みたてまつり、日本国にたてあひて数年なり。既に日蓮かちぬべき心地す

 

本抄の御述作は建治2年(1276)であるから「数年なり」とは、文永8年(1271)年ぐらいからの歳月と考えられる。文永8年(1271921日に四条金吾に与えられた御消息には「三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定めて守護あるべきかとたのもしたのもし」(1114:01)との一節がある。

この文と、本抄の「此の天を恃みたてまつり、日本国にたてあひて数年なり」とを考え合わせてみると、竜口の法難で発迹顕本された大聖人の御胸中が、かすかながら伺われるように思われる。

もともと「日蓮」と名乗られた立宗のはじめから、大聖人にとって、日天子はとくにゆかりの深い天であったのであろう。しかし、発迹顕本されて末法万年の闇を照らす御本仏の境地を開かれてから、ますます、それは近しいものと映ったにちがいない。

根底的には、大聖人御自身が、闇を照らす日天のようなものであったし、その赫々たる御心境と依正不二の関係で、諸天なかんずく日天子が大聖人を守ってくれている現証を歴然と感じておられたと拝察される。

「日本国にたてあひて数年なり」とは、こうして日本中の謗法の僧侶、またそれにたぶらかされた権力者と真っ向から対決をしてすでに数年におよぶということを意味している。そしてその間、濁流の渦まく中、身命におよぶ難を受けつつも、末法の御本仏として諸天に守られた大聖人の戦いの結論として「既に日蓮かちぬべき心地す」と断言されたのである。それはいかなる権力、魔力をもってしても大聖人を打ち破れなかったことを意味し、大聖人の仏法がまさしく、力ある大法であることを示したものであった。

更に、この「かちぬべき心地す」とのお言葉は、未来永劫に必ず正法が流布されていくことを明確に覚知されていわれたと拝することができるのではないだろうか。

 

 

第六章(孝養の志を讃む)

本文

なによりも日蓮が心にたつとき事候、父母御孝養の事度度の御文に候上に今日の御文なんだ更にとどまらず、我が父母・地獄にや・おはすらんとなげかせ給う事のあわれさよ、仏の弟子の御中に目犍尊者と申しけるは父をばきつせん師子と申し母をば青提女と申しけるが餓鬼道におちさせ給いけるを凡夫にてをはしける時は、しらせ給わざりければ・なげきもなかりける程に、仏の御弟子とならせ給いて後・阿羅漢となりて天眼をもつて御らんありければ餓鬼道におはしけり、是を御らんありて飲食をまいらせしかば炎となりて・いよいよ苦をましさせまいらせ給いしかば、いそぎ・はしりかへり仏に此の由を申させ給いしぞかし、爾の時の御心をおもひやらせ給へ、今貴辺は凡夫なり肉眼なれば御らんなけれども・もしも・さもあらばと・なげかせ給う・こは孝養の一分なり・梵天・帝釈・日月・四天も定めてあはれとおぼさんか、華厳経に云く「恩を知らざる者は多く横死に遭う」等云云、観仏相海経に云く「是れ阿鼻の因なり」等云云、今既に孝養の志あつし定めて天も納受あらんか是二。

 

現代語訳

  なによりも日蓮の心に尊く感じたことがある。父母御孝養の事は、度々のお手紙で拝見していたが、今日の御文には、涙がいっこうにとまらなかった。「我が父母は、もしや地獄にいられるのではなかろうか」と嘆かれているお心の尊さよ。

仏の弟子の御中に目連尊者という者は、父を吉占師子といい、母を青提女といった。その母が死後餓鬼道におちられたことを、目連は、凡夫であったときは知らなかったので、嘆きもしなかったが、仏の御弟子となられて後、阿羅漢となり、天眼をもってごらんになると、母は餓鬼道におられた。これをごらんになって、目連が食物や飲み物をさしあげたところ、それは炎となって、ますます苦しみをまさせてしまったので、いそいで走り帰り、仏にこのわけを話したのである。その時の目連の心中を思いやってごらんなさい。今、あなたは凡夫である。肉眼であるから、父母のことはごらんになれないが、もしもそのようなことがあったならばと嘆かれている。これは孝養の一分である。梵天、帝釈、日月、四天も定めていじらしいと思われるであろう。

華厳経には「恩を知らない者は、多く横死にあう」等と説かれている。また観仏相海経には「恩を知らないということは、阿鼻地獄におちる因である」と説かれている。今、あなたはすでに孝養の志が厚い。必ず諸天も聞き入れて下さるにちがいない。是れ第二である。

 

語釈

目犍尊者

釈迦の声聞十大弟子の一人で神通第一。摩訶目犍連、目連尊者ともいわれる。摩竭提国王舎城の近くの婆羅門種の出で、幼少より、舎利弗と共に六師外道である刪闍耶に師事したが、釈迦の教えを求めて二百五十人の弟子とともに、弟子となる。迦葉・阿難とともに法華経の譬喩品の譬えを聞いて得道し、授記品で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。また亡母の青提女を釈迦の教えにより救った。釈迦入滅の前に羅閲城で托鉢の修行をしていたとき、竹杖外道にかこまれた。いったんはのがれたが、過去世の宿業であることを知って自ら外道に殺されて業を滅したといわれる。

 

餓鬼道

梵語、薜茘多の訳。欲に支配された貪りの状態をいう。餓鬼の相について「盂蘭盆御書」(1427:11)に「其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、のむ事なし食うことなし、皮はきんてうをむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまりのごとく頚はいとのごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこへる形は・うへたるひるの人のかをかげるがごとし」と、目連尊者の母が、餓鬼道におちた姿を説いている。

 

阿羅漢

羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。

 

恩を知らざる者は多く横死に遭う

華厳経巻第四十八にある文。すなわち「諸の天子よ、汝等応に恩を知り恩を報ゆべし。諸の天子よ、其れ衆生有りて報恩を知らざれば多くは、横死に遭いて地獄に生ぜん」の文にあたる。

 

観仏相海経

現存の大蔵経中には、この経名は見当たらない。あるいは観仏三昧海経をさすのであろうか。十法界明因果抄には「観仏三昧経に云く『五逆罪を造り因果を撥無し大衆を誹謗し四重禁を犯し虚く信施を食するの者此の中に堕す』と阿鼻地獄なり」(0427:04)と述べられている。

 

講義

金吾の父頼員は建長5年(1253)に、母は文永7年(1270)に没している。金吾の父母への孝養の厚いことは、文永8年(1271)にいただいた「四条金吾殿御書」(1111)、また翌年の「四条金吾殿御返事」(1118)に、それぞれ大聖人に追善供養をお願いしたことが述べられていることからも知れる。特に今回の御手紙では、父母がもしや地獄にいるのではないかと嘆いているようで、大聖人も大層その心中をいじらしく思われている。

仏法では恩について四種あげ、特に父母の恩の重いことを論じている。「報恩抄」には「仏教をならはん者、父母・師匠・国の恩をわするべしや」(0293:03)とあり、また「上野殿御返事」には「父母の恩のおもき事は大海のごとし」(1563:08)と述べられている。

これらの恩を報ずるにあたっては、目連尊者が、法華経によってはじめて母を救うことができたように、法華経の力による以外にない。「上野殿御消息」には「されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(1528:09)と、また「千日尼御前御返事」には「但法華経計りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へ」(1311:18)とも説かれている。すなわち、我が心にはなくとも、日夜、法華経の信仰に励むならば、その力によって、父母の恩に報いることができるのである。

それでは、死んだ人が成仏しているかどうかを何によって知るかということであるが、それは、現世に残る人の生活が安定し、繁栄しているかどうかできまる。つまり、後に残った人々が、妙法の光に包まれ、功徳に満ち満ちた幸せな生活をしていること自体、死んだ人が必ず成仏している証拠であると確信すべきである。

更にまた、真実の報恩は単に一個人、一家庭のワクにとどまっていてはならない。日寛上人は「報恩抄文段」の中で「但当流の学者三重の秘伝を知ると雖も、法を伝えずんば衆生を度せず。畢竟恩を報ずること無きか。如来説て云く『只通化伝法を以て報恩と名づくるのみ』と云云。問う、縦い当流と雖も、無智の俗男俗女は三重の秘伝を知らず。若し爾らば、恩を報ずる能わざるや。答う無智の男女は唯本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る、実にこの大恩を報ずるなり」とおおせである。

すなわち、正法を伝え、民衆救済のために折伏の実践活動をして、はじめて恩を報じたことになるのである。

 

 

第七章(難の必然性を説く)

本文

御消息の中に申しあはさせ給う事くはしく事の心を案ずるに・あるべからぬ事なり、日蓮をば日本国の人あだむ是はひとへにさがみどののあだませ給うにて候ゆへなき御政りごとなれども・いまだ此の事にあはざりし時より・かかる事あるべしと知りしかば・今更いかなる事ありとも人をあだむ心あるべからずと・をもひ候へば、此の心のいのりとなりて候やらん・そこばくのなんをのがれて候、いまは事なきやうになりて候、日蓮がさどの国にてもかつえしなず又これまで山中にして法華経をよみまいらせ候は・たれか・たすけん・ひとへにとのの御たすけなり・又殿の御たすけは・なにゆへぞと・たづぬれば入道殿の御故ぞかし、あらわには・しろしめさねども定めて御いのりともなるらん・かうあるならば・かへりて又とのの御いのりとなるべし父母の孝養も又彼の人の御恩ぞかし、かかる人の御内を如何なる事有ればとて・すてさせ給うべきや・かれより度度すてられんずらんは・いかがすべき・又いかなる命になる事なりとも・すてまいらせ給うべからず、上にひきぬる経文に不知恩の者は横死有と見えぬ・孝養の者は又横死有る可からず、鵜と申す鳥の食する鉄はとくれども腹の中の子はとけず、石を食する魚あり又腹の中の子はしなず、栴檀の木は火に焼けず浄居の火は水に消へず・仏の御身をば三十二人の力士・火をつけしかども・やけず、仏の御身よりいでし火は三界の竜神・雨をふらして消しかどもきえず、殿は日蓮が功徳をたすけたる人なり・悪人にやぶらるる事かたし、もしやの事あらば先生に法華経の行者を・あだみたりけるが今生にむくふなるべし、此の事は如何なる山の中・海の上にても・のがれがたし、不軽菩薩の杖木の責も目犍尊者の竹杖に殺されしも是なり、なにしにか歎かせ給うべき。

 

現代語訳

 お手紙の中につけ加えられていたことについてであるが、詳しく物事の道理を考えてみると、あってはならないことである。日蓮を日本国の人々が憎んでいる。これはひとえに相模守殿が日蓮を憎まれていたからである。道理にかなわない政道であるが、いまだこのことにあわぬときから、こういうことがあるだろうと知っていたから、今更、どんなことがあっても人を恨むような心は全くないと思っていたので、この心が祈りとなったのであろうか、数々の難をのがれてきた。そして今は、何事もないようになった。

日蓮が佐渡の国でも餓え死にせず、また、これまで身延の山中で法華経を読誦できたのは、だれのたすけによるのであろうか。ただひとえに四条金吾殿の御たすけによるのである。また、殿の御たすけは何によるかとたずねると、主君江馬入道殿のおかげによるのである。

入道殿はこのようにして日蓮をたすけていることをはっきりと御存知なくても、必ずそれは祈りとなり天に通じているであろう。そうであるならば、主君の祈りは、またかえってあなたの祈りとなるであろう。またあなたが父母に孝養できるのも、主君の御恩である。このように恩ある主君の御内を如何なることがあったとしても、捨て去るべきではない。もし主君より度度捨てられるならば、やむを得ないことであるが、どのような命におよぶことであっても、主君を捨てるようなことをしてはならない。

先に引用した華厳経の中には「恩を知らない者は横死する」と説かれている。孝養の者はまた横死するようなことはない。鵜という鳥は鉄を食べるが、鉄はとけても腹の中の子はとけない。石を食べる魚がいるが腹の子は死なない。栴檀の木は火に焼けることはない。また浄居の火は水に消えない。仏の御身は、三十二人の力士が火をつけたが焼くことはできなかった。また仏の御身から出た火は、三界の竜神が雨をふらして消したけれどもきえなかった。あなたは日蓮が妙法を流布する功徳をたすけた人であるから、悪人に害されるようなことはまずないだろう。

もしものことがあるならば、それは過去世に法華経の行者を憎んだ罪が今生に報いとして出ているのである。このことは、どんな山の中、海の上へのがれても、のがれることはできない。不軽菩薩が杖木瓦石の責めにあったのも、目尊者が竹杖で殺されたのもこれによるのである。どうして嘆くことがあろうか。

 

語釈

さがみどの

相模守のこと。相模国(現在の神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代、相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼任した。本抄の当時の相模守は第八代執権の北条時宗。第5代執権時頼の子で、母は北条重時の娘。幼名は正寿。通称は相模太郎。文永元年(1264)連署となり、翌年相模守となる。文永5年(12683月に執権となった。二度の元寇という国家の危機のなかで、防衛に全力を注いで難局を乗り越えた。また禅宗に帰依し、宋から無学祖元を迎えて円覚寺を創建し、後に出家した。

 

入道殿

江馬入道光時のこと。四条金吾頼基の主君親時の父親。北条義時の孫で、名越遠江守朝時の嫡子。寛元元年(1243)に越後守に任ぜられ、また将軍頼経の近侍となる。のちに頼経が譲位、入道したが、その周辺に謀叛のうわさが立ち、光時などもあやしまれた。光時は薙髪し出家してわびたが、伊豆江馬に流された。頼経も京都に護送された。その後、光時は許されて鎌倉に帰ったが、その間ずっと金吾の父は主君光時を守り最後まで仕えた。

 

横死

災害・事故等、思いがけないことで死ぬこと。

 

ウ科に属する水鳥で大きなアヒルよりも大きい。よく魚を捕食するので鵜飼に用いられる。ここで鵜が鉄を食するということは不明であるが、善悪ともにその果報功徳を他のものは破ることができないとの譬えにつかわれている。

 

栴檀の木

インド原産の香木。経文にみえる栴檀とはビャクダン科の白檀のことで、センダン科の栴檀とは異なる。高さ約六㍍に達する常緑喬木で、心材は芳香があり、香料・細工物に用いられる。観仏三昧海経巻一には、香木である栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬にもおよぶ伊蘭の悪臭が消えるとある。

 

浄居の火

浄居とは浄居天のこと。色界十八天のうち最上の五天のこと。この天は阿那含、阿羅漢という悟りを得た声聞の住処とされ、風災の至らない天で、華も散らず火も消えないといわれる。これは涅槃の智火が消えない理想の世界をあらわしたもので、正法を信ずる人の功徳をあらわしている。但し、出典は明らかではない。

 

三十二人の力士

入滅した釈迦の棺を拘尸那城の三十二人の大力の者がかついだという。そして釈迦を荼毘に付そうとしたが、焼くことができなかったという。涅槃経後分巻下には三十六人とあり、三十二人とは見られない。

 

三界の竜神

三界は欲界・色界・無色界のこと。竜神は仏法を守護する働きのある八部衆のひとつで、雨を司る神、海の神ともいう。

 

不軽菩薩

法華経不軽品第二十に説かれる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝していた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石等の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受け、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、「御義口伝」(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」、また「不軽菩薩を軽賤するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり」(0766)とある。

 

竹杖

竹杖外道のこと。婆羅門の一派で、仏教徒を憎んで目連尊者を殺したことで有名。釈尊の無見頂相を疑い、竹杖をもって測ろうとしたが、ついに測ることができず、杖を投じて去ったという。

 

講義

おそらく、四条金吾は主君江馬氏の仕打ちに憤慨して、江馬氏に仕えることをやめたいと考え、そのように大聖人への手紙の中に書いたのであろう。そのことに対し、人を恨む心は結局、自らの福運を消すこと、また大聖人が今日まで生命を永らえてこれたのは四条金吾のおかげであり、その四条金吾は江馬氏のおかげで今日あること、さらに父母の孝養のためにも江馬氏の恩を忘れてはならないと、あらゆる角度から、仕官をやめたいという四条金吾の考えの誤りを指摘されているところである。

 

栴檀の木は火に焼けず、浄居の火は水に消へず

 

大方広仏華厳経巻第六十七に「摩羅耶山に栴檀香を出す、名けて牛頭と曰う、若し以て身に塗れば設い火坑に入るとも火も焼くこと能わず」とある。

すなわちこれを身に塗れば火に焼けないように、法華経の信心に励む者は、他から害されることがないとの意である。また浄居天では、風が吹いても華は散らず、火も消えることがないといわれる。ともに、法華経の信仰にたつ者は、何ものによっても破られないことをたとえられたものである。

またこのことについて「本尊供養御書」には「栴檀と申す香を身にぬれば大火に入るに焼くること無し、法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず」(1536:06)と、述べられている。

ここで、法華経とはいうまでもなく三大秘法の南無妙法蓮華経である。

 

 

第八章(細心の用心を説く)

本文

 但し横難をば忍には・しかじと見へて候・此の文御覧ありて後は・けつして百日が間をぼろげならでは・どうれい並に他人と我が宅ならで夜中の御さかもりあるべからず・主の召さん時は昼ならば・いそぎ参らせ給うべし、夜ならば三度までは頓病の由を申させ給いて三度にすぎば下人又他人をかたらひてつじを見せなんどして御出仕あるべし、かうつつしませ給はんほどにむこ人もよせなんどし候はば人の心又さきにひきかへ候べし、かたきをうつ心とどまるべし・申させ給う事は御あやまち・ありとも左右なく御内を出でさせ給うべからず、まして・なからんには・なにとも人申せ・くるしかるべからず、おもひのままに入道にもなりておはせば・さきざきならばくるしからず、又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば・なかなか悪縁・度度・来るべし、このごろは女は尼になりて人をはかり男は入道になりて大悪をつくるなり、ゆめゆめ・あるべからぬ事なり、身に病なくとも・やいとを一二箇所やいて病の由あるべし、さわぐ事ありとも・しばらく人をもつて見せをほせさせ給へ。
  事事くはしくは・かきつくしがたし、此の故に法門もかき候はず、御経の事はすずしくなり候いてかいてまいらせ候はん、恐恐謹言

       建治二年丙子七月十五日               日 蓮 花 押

     四条金吾殿御返事

 

現代語訳

ただし、不慮の災難は忍ぶにこしたことはない。この手紙を御覧になった後は、決して百日の間は、むやみに同僚や他の人とわが家以外で夜、酒盛りをしてはいけません。主君から召されたときは、昼ならば急いで出仕しなさい。夜ならば、三度までは急病であるとの理由を申し上げて、もし三度をすぎ召されるならば、下人やまた他人に語って、辻を見させるなどして出仕しなさい。

このように身を慎んでいるうちに、蒙古の人が攻め寄せるようなことがあれば、人々の心もまた前とかわってくるであろう。敵として討とうとする心も、とどまるであろう。あなたが申されていた件ですが、たとえあなた自身にあやまちがあったとしても、そうたやすく御内を出るようなことをしてはならない。まして、あやまちがなければ、人がなんといおうと気にすることはない。

心のままに入道するということは、もっと先であればよいであろう。それでも身にも心にもあわない事が多く起これば、かえって種々の悪縁が、度々来ることになるであろう。近ごろは女は尼になって人をたぼらかし、男は入道になって大悪を犯している。決してそのようなことがあってはなりません。

身に病気がなくても、灸を一、二箇所すえて、病気を口実にしていきなさい。騒ぎなどがあっても、しばらくは人をつかわしてみさせなさい。

あれこれとくわしくは書きつくしがたい。この故に、法門のことも書きません。御経はすずしくなってから、書いてさしあげます。恐恐謹言。

建治二年丙子七月十五日    日 蓮  花 押

四条金吾殿御返事

 

語釈

頓病

急病・にわか病。

 

むこ

蒙古国のこと。十三世紀はじめ初祖テムジンは十八歳で近隣の部族を統一し、自らチンギス汗と称した。その後全蒙古を統一し、東方の金、南方の西夏などを攻め、アジア大陸の東西にわたる大帝国となった。第二代オゴタイ汗のときにはヨーロッパにも遠征、ついに世界空前の大帝国を建設したが、内部の分裂により、四汗国と中国に基礎をおく元朝とに分裂した。その後、元は、世界制覇の気運にのってわが国にも、文永11年(127410月と弘安4年(12815月と二度にわたって攻めてきたが、日本軍の奮戦と、おりからの大風によって、蒙古軍は大半が壊滅した。

 

やいと

もぐさなどを皮膚の一部に乗せて、火をつけ、温熱効果によって行う治療法。

 

講義

四条金吾に与えられたお手紙には、生活面において細々と指導されたものが多い。この章では、主君や同僚からの風当たりがしだいに強く、窮地に陥ってきた金吾に対し、決して軽はずみのないよう、種々御注意をされている。

酒宴の事、出仕の事等、同僚からの危害を考え、日夜の用心また灸治にいたるまで、実に細かな配慮がうかがわれる。金吾も、こうした大聖人の細心を極めた、慈愛あふれるお手紙を拝し、さぞ感泣にむせんだことであろう。

金吾は、この後も江馬氏から、また周囲の同僚からの迫害が続いた。しかし、これらの大聖人の指導を着実に実践しつつ、見事信心を貫き、建治4年(12781月には、晴れて主君出仕の御供25人の中に加わり、武士としてまた法華宗の四条金吾として、その面目を大いにほどこしたのであった。これは偏に大聖人の限りない愛情こまやかな指導によるものであるが、同時に、それらの指導を我が身に受けて、純粋に実践しぬいた金吾の信心とがあいまって、このような結果を生んだといえよう。

 

 

 

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