四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)
建治2年(ʼ76)6月27日 55歳 四条金吾
背景と大意
1275年(建治元年)3月、すなわちこの手紙が書かれるおよそ1年前、日蓮大聖人は、初期の信徒であり忠実な武士の弟子であった四条金吾に対し、法華経の行者として、今後もさらに多くの困難や苦難に直面する覚悟を持たねばならないと警告されました。
本書において大聖人は、真の幸福の本質について説いています。それは、南無妙法蓮華経と唱えることにあると述べています。苦しみは避けることができないものであるとしたうえで、大聖人は四条金吾に対し、「苦も楽も人生の一事として受け止め、いかなる時も南無妙法蓮華経と唱え続けなさい」と励まされています。
そして大聖人は、これこそが「法の無量の歓喜」、すなわち仏の境地を体得する道であると強調されています。
本文
一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり。経に云わく「衆生所遊楽(衆生の遊楽する所)」云々。この文、あに自受法楽にあらずや。「衆生」のうちに貴殿もれ給うべきや。「所」とは、一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり。「遊楽」とは、我らが色心・依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや。法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。「現世安穏、後生善処」とは、これなり。
ただ世間の留難来るともとりあえ給うべからず。賢人・聖人もこのことはのがれず。
ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなえ給え。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。
いよいよ強盛の信力をいたし給え。恐々謹言。
建治二年丙子六月二十七日 日蓮 花押
四条金吾殿御返事
現代語訳
一切衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外に遊楽はない。法華経寿量品第十六には「衆生の遊楽する所なり」とある。この文は自受法楽のことをいっているのである。「衆生」のなかにあなたがもれることがあろうか、また「所」とは、一閻浮提を示しており、日本国はその閻浮提の内にある。「遊楽」とは、すなわちわれわれの色心、依報・正報ともに、一念三千の当体であり、自受用身の仏であるから遊楽ではないか。したがって、法華経をたもつ以外に遊楽はない。法華経薬草喩品第五にある「現世安穏にして、後に善処に生ず」とはこのことをいうのである。
ただ、世間の種々の難が起こっても、とりあってはいけない。賢人や聖人でも、この留難は逃れられないのである。ただ、女房と酒を飲みかわして、南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。
苦を苦とさとり、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないか。ますます強盛な信心をしていきなさい。恐恐謹言。
建治二年丙子六月二十七日 日蓮 花押
四条金吾殿御返事
語釈
衆生所遊楽
法華経如来寿量品第十六の文。「……我が此の土は安穏にして天人は常に充満せり。園林諸の堂閣は種種の宝もて荘厳し、宝樹は花菓多くして衆生の遊楽する所なり」とある。
自受法楽
自ら法の楽しみを受けること。広大無辺な妙法を信じ悟る楽しみを享受することができる。
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
色心
色法と心法のこと。すべての存在を五種に分類した五位のふたつ。「色法」は一切の物質的存在のこと。一定の空間を占有し、自他互いに障害しあう性質と変化し壊れる性質を持つとされる。「心法」は心の働き・精神、及び一切法に内在する性質をいう。
依正
依報と正報のこと。「報」は過去の行為の因果が色心の上にあらわれた必然の報い。この報いを受ける主体である有情の身心を正報といい、この身心が拠りどころとする環境・国土を依報という。依正の二法はともに過去の業によって報いたものであるから二果果報ともいい、相依相関性を有し、不二の関係にある。三世間でいえば五陰世間・衆生世間が正報、非情の国土世間が依報となる。
一念三千
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(189㌻)と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」(215㌻以下)などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
自受用身
自受用報身のこと。御義口伝には「自受用身とは一念三千なり、伝教云く『一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり』」(0759:第廿二 自我偈始終の事:02)とある。
現世安穏・後生善処
法華経薬草喩品第五に「是の諸の衆生は、是の法を聞き已って、現世安穏にして、後に善処に生じ」とある。法華経を信ずることにより、現世には幸福な生活が築かれ、後世にもまた恵まれた処に生ずると説かれている。
講義
同僚から憎まれ、主君・江馬氏から冷遇されて、苦境のどん底にあった四条金吾に対し、人生の真実の幸福は、妙法の信仰に生きることであると教え、激励されたお手紙である。しかし、ここに示されている教えは、こうした特殊な状況下のみの問題でもなければ、四条金吾個人の問題でもない。人間の究極の幸せとは何か、また、人間いかに生きるべきかという普遍的にして根源的な法理が説き明かされているのである。
この意味において、このお手紙は、極めて短いが、重要な人生指導の書というべきである。しかも、仏法の深い哲理を、庶民的な言葉で、明快に示されており、一言一句が深遠な輝きと重みをもっている。畏れ多い言い方であるが、一字のムダもなければ、一分の隙もない。まさに玲瓏たる宝玉を見る思いのする御消息である。
一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり
遊楽とは、遊び楽しむことであるが、ここで用いられている意味は、世間一般の浅い遊楽ではない。世間的にいう遊楽とは、ゲームとかスポーツとかが〝遊楽〟の対象として必ずある。それは、仕事や社会的義務から解放されたところで得られる、限定されたものである。
この文のいう〝遊楽〟とは、人生そのものを遊楽することである。言い替えると、生きていることそれ自体が遊楽の境地になっていくことが、仏法の目指す理想の状況なのである。だが、それは、面白おかしく、不真面目に生きるということでは毛頭ない。それは現実を避けているだけで、今は、やりすごしても、その償いは、何倍も厳しい現実として、必ず、あとになって訪れてくる。したがって、それ自体、決して〝遊楽〟ではありえないのである。
真実の遊楽とは、この人生の現実と厳しく対決しながら、これを悠々と乗り越えていくことである。その強い生命力と英知の源泉が妙法であるがゆえに「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」といわれたのである。
遊楽の遊とは、現実に、人生を自在に生きていくことである。楽とは、人生を心の底から楽しむことである。強い生命の力と英知があれば、丁度、波があって波乗りが楽しめるように、嶮難の山があって山登りが楽しめるように、一切の激動も、楽しみながら、これを克服していくことができるのである。
この人生を真実に遊楽しきっていける究極の淵源は、一切衆生――全世界民衆にとって南無妙法蓮華経の大仏法を実践すること以外には、断じてないことを知らなくてはならない。
所とは一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり
一応、この御文は「日本国は閻浮提の内なり」をより強調されているわけであるが、この「所とは一閻浮提なり」との仰せ自体に、他のあらゆる宗教と根本的に異なる大聖人の姿勢が明示されていることを認識すべきである。
すなわち、キリスト教が、真実の遊楽の所としたのは、天国であった。天国の門を入る以外に、遊楽はありえないと教えたのである。仏教においても、浄土宗等のように、法華経以前の教えは、西方極楽世界などの他土が遊楽の地であり、この世は苦悩におおわれた穢土であるとした。この世界を〝娑婆〟すなわち堪忍世界と呼んだことのなかに、この考え方は明確にあらわれている。
これに対し、法華経哲学は、はじめて、理想世界を他に求めるのでなく、この娑婆世界を衆生の遊楽する所と説き、また、そのような世界に転換する変革の原理を明らかにしたのである。
遊楽とは我等が色心・依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや
真実の遊楽の境地とは、わが身が一念三千の当体であり、自受用身の仏であると開覚したところに開けてくる、ということである。しかも、それは、単なる観念でもなければ、環境から孤絶した、自分一個のみの問題でもない。「色心・依正ともに」一念三千、自受用身の仏と現われるのである。
一念三千とは即・自受用身であり、自受用身は即・一念三千である。一念三千とは法に約し、自受用身とは人に約しての呼称であって、人法体一がその実相である。
元来、一念三千の法理そのものが、色心不二、依正不二の原理である。三世間の一つである五陰世間の内容は色・受・想・行・識であり、色は色法、受・想・行・識は心法である。また、五陰世間は正報であり、衆生・国土の二世間は依報である。したがって、わが身・一念三千の当体と現われるということは、色心・依正ともに、本源的変革をもたらすのでなければならない。
自受用身とは、自ずから受け用いる身との意で、自在にこの人生を生きていけることである。生きることそれ自体が楽しいという幸福境涯である。所詮、三大秘法の御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、わが身が一念三千の当体、自受用身の仏と開顕するのである。これが、凡夫即極の仏であり、仏界の生命の顕現にほかならない。ゆえに「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」といわれているのである。
ただ世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず。賢人・聖人も此の事はのがれず
「世間の留難」とは、理想をめざし、実現へ努力する途上において起こってくる、現実社会からの妨害である。四条金吾の場合、同僚の迫害や、その讒言による主君・江馬氏からの圧迫があった。
仏法の信仰に限らず、一つの理想を志向して前進するところには、必ずなんらかの形の迫害、抵抗が生ずることは避けられない。なぜなら、理想とは、現実を超克したところにあるものであり、その理想を目指すことは、現実を変革するか、現実から一歩脱却することを免れられないからである。
とくに仏教の中で、これをみると、小乗教は、自己の内なる現実を否定することによって、煩悩を断じ、不変の平穏を得ようとした。その究極するところは、灰身滅智の自己否定にまで行き着かざるを得なかったのであるが、それは、自己自身の内なる世界に限られていたため、現実社会との摩擦は少なかったといえる。
権大乗教は、架空の世界に理想郷を求めようとした。それは、理想主義的ではあったが、現実を変革するものではなく、現実から逃避するものであったため、これもまた、比較的抵抗を受けることが少なかった。むしろ、理想を死後に託し、現実には諦めを教えたので、過酷な現実に人民を耐えさせるには好都合で、為政者の多くはこれを利用しようとさえした。
これに対し、法華経は、現実を変革する意図を、きわめて強烈に秘めている。ゆえに現実社会の安定、人民の忍従の上に成り立つ安定を欲する為政者、指導階層にとっては、法華経哲学は、警戒せざるを得ない側面をもっているわけである。「世間の留難」が、日蓮大聖人御自身に対しても、門下の人々に対しても、さまざまな形で降りかかってきたのは、むしろ当然だったといえるであろう。
しかしながら、大聖人の御真意は、その現実変革の戦いを、社会現象と同一次元において展開することにあったのではない。生命内奥の変革、人間性の本質的次元における宗教的転換こそ、大聖人の意図された革命であり、社会の現象的次元における変革は、その結果としてもたらされるものなのである。
いま、ここに「ただ世間の留難来るとも、とりあへ給うべからず」といわれているのは、そうした深い次元の戦いに真意があったからに他ならない。この点を理解しなければ、あたかも、大聖人が現実社会に対して諦観主義をとられたかのような誤解を生ずる恐れがある。もし、諦観主義をとるならば、立正安国論以来の大聖人の実践、日興上人等による国諫遂行などと、全く矛盾することとなってしまうであろう。
更に、この「世間の留難」とは、正法を弘めようとすることに対して起こってくる、いわゆる〝法難〟のみではない。現実社会に生きていく上で起こってくる、あらゆる苦難、人生の悩みなども包含していわれていると考えてよい。世間すなわち三界六道の、現実につきまとう苦難である。
それは、賢人・聖人といえども、免れることはできない。なぜなら、現実社会の六道を脱皮したところに不変の真理と幸福を求めようとする賢人・聖人といえども、自ら肉体をもつ凡夫であり、現実の中に生きる六道の生をもっていることに変わりはないからである。賢人・聖人の最極の存在として、仏といえども、この「世間の留難」は逃れられないのである。
この原理を簡明に示したのが、十界互具の法である。賢人・聖人を声聞・縁覚・菩薩・仏の〝四聖〟、世間の留難を六道輪廻としてもよいし、別しては、賢人・聖人を仏、世間の留難を九界としても、この原理は変らない。事実を、そのあるがままに捉え、正しく認識しながら、その故にこそ、それに微動もしない不動の境地を体得するのが、賢人・聖人であり、むしろ、その九界の波動を悠々と楽しんでいくのが、仏なのである。
苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや
人生に苦楽のあることは当然であり、誰びとも、これを逃れることはできない。「現世安穏・後生善処」の妙法を受持したからといって、この人生の苦楽が無くなるわけではない。ただ、苦楽のなかに埋没し、自分を見失ってしまうのではなく、妙法という大生命に生きる自我の確立によって、悠然と、この苦楽の波を楽しんでいくのである。
苦楽とは、現実生活における〝相対的幸福〟の次元である。「南無妙法蓮華経」と唱え、自受法楽していく幸福は〝絶対的幸福〟である。絶対的幸福とは、相対的幸福の積み重ねによって現出するものではない。すなわち、過去の宿業を消滅し、苦しみのない境涯になることが、妙法のめざす理想の〝絶対的幸福〟なのではない。そうした境涯は、所詮、〝相対的幸福〟の範疇を一歩も出るものではないのである。
絶対的幸福とは、相対的次元において、いかに苦悩におおわれていようと、妙法への深い確信から、妙法の大生命を自身の内に顕現することによって、この身このままで成就するところのものなのである。いわゆる「即身成仏」というのも、このことに他ならない。
真実の幸福とは、苦しみがないということではない。むしろ、逆説的にいえば、苦しみがない人生、悩みのない社会ほど退屈で、苦しいものはないに違いない。キリスト教の説く天国、爾前経の教えた西方極楽浄土などというものは、いずれも、苦しみや悩みのない鈍化された幸福郷を描いている。それは、あくまでも、抽象化した観念の世界に過ぎない。現実は、どこまでも苦悩を伴うものであり、ただ、その苦悩に負けない自己を確立したときに、一切を楽しみきっていける境地が開けるのである。
その現実の生命存在の姿、法を踏まえ、そこに絶対に崩れることのない幸福を会得する法を説き明かしたのが法華経である。それは、苦楽に目をふさぎ、逃れようとするのではなく、真正面に苦楽を据えて、苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらく、達観の法である。「南無妙法蓮華経とうちとなへ」るところに、その苦楽に押し流されない自己が御本尊と境智冥合して確立される。その確立された強い自己は、却って現実の苦楽をともに無上の喜びとして、楽しみきっていく。それが〝自受法楽〟である。この〝自受法楽〟こそ、人間の真実の幸福境地であることを知らなければならない。