呵責謗法滅罪抄

呵責謗法滅罪抄

文永10年(ʼ73) 52歳 (四条金吾)

  1. 第一章 (呵責謗法の意義を説く)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1.  地涌の菩薩の当体蓮華なり
      2. 国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり
  2. 第二章 (金吾夫妻の信心を称賛する)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 故に知んぬ、末代一時も聞くことを得、聞き已って信を生ずる事宿種なるべし
  3. 第三章 (本化付嘱を説く)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して此れを付属し給ふ
      2. 宝搭涌現と釈迦・多宝・十方の仏
  4. 第四章 (地涌の菩薩の出現を予告する)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 「寿量品の釈尊」について
  5. 第五章 (御本仏の実践を示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す
      2. 日蓮と不軽菩薩とは、位の上下はあれども、同業なれば、彼の不軽菩薩成仏し給はば日蓮が仏果疑うべきや
  6. 第六章 (御本仏の内証を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 爾前の経経は一手二手等に似たり。法華経は「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と、無数手の菩提是なり
      2. 日蓮は法華経並びに章安の釈の如くならば、日本国の一切衆生の慈悲の父母なり
  7. 第七章(母への孝養を説く)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  8. 第八章(門下の信心を激励される)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 兄弟も兄弟とおぼすべからず、只子とおぼせ
      2. 何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助け給へと、湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり

第一章 (呵責謗法の意義を説く)

本文

御文委しく承り候。
 法華経の御ゆえに已前に伊豆国に流され候いしも、こう申せば謙らぬ口と人はおぼすべけれども、心ばかりは悦び入って候いき。無始より已来、法華経の御ゆえに、実にても虚事にても科に当たるならば、いかでか、かかるつたなき凡夫とは生まれ候べき。一端はわびしきようなれども、法華経の御ためなればうれしと思い候いしに、少し先生の罪は消えぬらんと思いしかども、無始より已来の十悪・四重・六重・八重・十重・五無間・誹謗正法・一闡提の種々の重罪、大山より高く大海より深くこそ候らめ。
 五逆罪と申すは、一逆を造る、なお一劫、無間の果を感ず。一劫と申すは、人寿八万歳より百年に一つを減じ、かくのごとく乃至十歳に成りぬ。また十歳より百年に一つを加うれば、次第に増して八万歳になるを一劫と申す。親を殺す者、これ程無間地獄に堕ちて、隙もなく大苦を受くるなり。法華経誹謗の者は、心には思わざれども、色にも嫉み、戯れにも訾るほどならば、経にてなけれども法華経に名を寄せたる人を軽しめぬれば、上の一劫を重ねて無数劫、無間地獄に堕ち候と見えて候。不軽菩薩を罵り打ちし人は、始めこそさありしかども、後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶこと、諸天の帝釈を敬い我らが日月を畏るるがごとくせしかども、始め訾りし大重罪消えかねて、千劫大阿鼻地獄に入って、二百億劫、三宝に捨てられ奉りたりき。
 五逆と謗法とを病に対すれば、五逆は霍乱のごとくして急に事を切る。謗法は白癩病のごとし。始めは緩やかに、後漸々に大事なり。謗法の者は、多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生を受く。人間に生ずる時は、貧窮・下賤等、白癩病等と見えたり。日蓮は法華経の明鏡をもって自身に引き向かえたるに、すべてくもりなし。過去の謗法の我が身にあること疑いなし。この罪を今生に消さずば、未来いかでか地獄の苦をば免るべき。過去遠々の重罪をばいかにしてか皆集めて今生に消滅して、未来の大苦を免れんと勘えしに、当世、時に当たって謗法の人々国々に充満せり。その上、国主既に第一の誹謗の人たり。この時、この重罪を消さずば、いずれの時をか期すべき。日蓮が小身を日本国に打ち覆ってののしらば、無量無辺の邪法の四衆等、無量無辺の口をもって一時に訾るべし。その時に国主は、謗法の僧等が方人として日蓮を怨み、あるいは頸を刎ね、あるいは流罪に行うべし。度々かかること出来せば、無量劫の重罪一生の内に消えなんと謀りたる大術、少しも違うことなく、かかる身となれば、所願も満足なるべし。

 

現代語訳

お手紙、詳しく承りました。法華経のゆえに已前、伊豆の国に流されたのも、このようにいえばへらぬ口をたたくと人は思うであろうけれども、心のなかでは悦びにひたっていたのである。

無始から今に至るまで、法華経の信仰のために、真実にしても虚事にしても、罪を被ったことがあるならば、どうしてこのような拙い凡夫として生まれることがあろうか。

したがって、流罪の身は、一端はわびしいようであるが、法華経のための受難であるから、嬉しいと思い、少しでも先生の罪が消えるであろうと思った。しかし、無始から今に至るまでの十悪、四重、六重、八重、十重、五無間、誹謗正法、一闡提の種々の重罪は、大山よりも高く、大海よりも深いのであろう。

五逆罪というのは、そのうちの一逆罪を造る罪だけでも、なお一劫の間に無間の苦果を感ずる重罪である。

一劫というのは、人寿八万歳から百年ごとに一歳を減じ、このように減じていき十歳にまでなる。また、十歳から百年ごとに一歳を加えていくと次第に増して八万歳になる。その間を一劫という。親を殺す者は、これほど長い期間、無間地獄に堕ちて一瞬の休みもなく大苦を受けるのである。

法華経を誹謗する者は、心では思っていなくても、顔、形に嫉みの色をあらわしたり、戯れにも訾ることがあれば、また経を嫉み訾るのではなくとも、法華経に名を寄せた人を軽蔑するならば、いま述べた一劫を重ねて無数劫の間、無間地獄に堕ちると経文には説かれている。

不軽菩薩を罵り打った人は、始めこそそのように罵ったけれども、後には信伏随従して不軽菩薩を仰ぎ尊ぶこと、まさに諸天が帝釈を敬い、われらが太陽や月を畏敬するようであった。しかし、始めに訾つた大重罪は消えきれず、千劫の間、大阿鼻地獄に入って、二百億劫の間、仏法僧の三宝に見捨てられたのである。

五逆罪と謗法とを病に喩えるならば、五逆罪は霍乱のような病気で、急にその報いを得る。謗法は白癩病のようなもので、始めは緩かに、後に次第次第に大事にいたってくる。謗法の者は、多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生まれる。人間に生まれる時は貧窮であったり、下賎であったりする。また白癩病であったりすると経文に説かれている。

日蓮は、法華経の明鏡を自分自身に引き向かえてみると、全て曇りなく映しだされる。過去の謗法がわが身にあることは疑いない。この罪を今生で消さなければ、どうして未来に地獄の苦しみをまぬかれることができようか。

過去遠々の重罪をいかにして全て集めて今生で消滅して、未来に受ける大苦をまぬかれようかと勘えたところ、今の世は、末法という時にあたって謗法の人びとが国に充満している。そのうえ国主はすでに第一の法華誹謗の人である。このような時にこの重罪を消さなければいつの時を期待できるであろうか。

日蓮が小身をもって日本国中を打ち覆うように、声高く謗法を呵責したならば、無量無辺の邪法の四衆等が無量無辺の口で一時に訾るであろう。

その時に、国主は謗法の僧等の味方として、日蓮を怨み、あるいは頚を刎ねようとしたり、あるいは流罪にするであろう。そして、たびたびこのようなことが起きるならば、日蓮の無量劫の間積み重ねた重罪も、一生の内に消えるであろうと、くわだてた大術が少しも違うことなく、このような流罪の身となったので、その所願も満足するであろう。

語釈

伊豆の国に流され候いし

伊豆流罪のこと。弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。

十悪

十善に対するもので、十不善ともいい、十種の悪業のこと。十不善業ともいい、身口意の三業のうちもっとも甚だしい十種の罪悪をいう。十悪は身・口・意の三業より起こり、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫。口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌。意の三悪として貪欲、瞋恚、愚癡がある。このうち、とくに殺生、愚癡が最も重罪とされている。

四重

出家者、とくに比丘の重罪で、殺生、偸盗、邪淫、妄語。これらを犯せば僧団から追放される。

六重

尼僧の六種の重罪で、優婆塞戒受戒品に説かれる。四重に、説四衆過、酤酒の二重が加わる。

八重

菩薩の重罪で、菩薩善戒経に説かれている。四重に、自讃毀他、慳惜財法、瞋不受悔、謗乱正法を加えた八種の罪過をいう。

十重

菩薩の重罪で、梵網経巻下、菩薩瓔珞本業経巻上に説かれている。六重に、自讃毀他、慳惜加毀、瞋心不受悔、謗三宝を加えた十種の罪過である。

五無間

五つの無間地獄に堕ちる重罪で、五逆罪と同じ。このうち一つでも犯せば無間地獄に堕ちるため、五つの無間の重罪・五無間といわれている。

一闡提

梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦、一闡底柯とも書く。断善根、信不具足、焼種、極悪、不信等の意で、正法を信じないで誹謗し、また誹謗の重罪を悔い改めない者のこと。涅槃経一切大衆所問品第十七には「麁悪言を発して正法を誹謗し、この重業を造り永く改悔せず、心に懺悔無くば、是の如き等の人を、名づけて一闡提の道に趣向すと為す。もし四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定んで是の如き重罪を犯すを知りつつ、しかも心にすべて怖畏・慙愧無く、肯て発露せず。仏の正法において、永く護惜建立の心無く、毀呰軽賎して、言に過咎多き、是の如き等の人も、また一闡提の道に趣向すと名づく」とある。

五逆罪

理に逆らうことの甚だしい5つの重罪。無間地獄の苦果を感じる悪業のゆえに無間業という。五逆罪には、三乗通相の五逆、大乗別途の五逆、同類の五逆、提婆の五逆などあるが、代表的なものは三乗通相の五逆であり、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいう。

一劫

一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。

無間地獄

八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

信伏随従

心から御本尊を疑わず、心身ともに妙法に随うこと。しかし、あるいは信ずる心が弱くて疑ったり、行学を怠けたりするなら、罪障を消滅しきれないのである。

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

三宝

仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。

謗法

誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。

霍乱

炎暑にあたって起こる諸病。症状は急激でコレラのように吐瀉する。今日の日射病、急性腸カタル、コレラ、疫痢等がこれにあたる。なお、丈夫な者が急に病気で倒れることを、俗に「鬼の霍乱」という。

六道

十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。

白癩病

癩病の一種。細菌の感染による慢性伝染病で、斑紋癩(lepra maculosa)の一症状と考えられる。顔面、身幹、四肢に大小不同、不規則の白斑が生ずる。過去世に法華経誹謗をなした者が、現世に受ける業病とされている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん」とある。

四衆

比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。

方人

味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。

講義

この送状は、題名の示すように、当体義抄に添えて、最蓮房に与えられたものである。当体蓮華の意義について、重ねて簡明に示されると共に「国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり」と、この法門の弘通の方軌について指示されている。

 地涌の菩薩の当体蓮華なり

「如蓮華在水」の蓮華は、地涌の菩薩の姿を譬えた、譬喩蓮華である。その当体蓮華は地涌の菩薩そのものに他ならない。

不幸と悲惨と、欺瞞と残酷が充満する世界にあっても、われら地涌の菩薩は、妙法を持つが故に、微塵も染まることなく、幸福と平和へ、誠実と慈悲の人生を貫いていくことができるということである。

むしろ、汚泥を離れて蓮華がないのと同じく、そうした世の中なればこそ、地涌の菩薩として出現し、民衆救済のために立ち上がったのである。現実から逃避し、よそに楽土を求めたのは、念仏等の既成仏教であり、キリスト教の天国思想であった。真実の仏法は、現実を直視し、現実の中に飛び込み、民衆と苦楽を共にしながら、妙法の力によって、清浄無垢の生命の輝きを開発していくのである。

このとき、かつての泥沼は、まったく変わって、美しい蓮華の花の咲き競う楽園となる。すなわち、国土の成仏が成し遂げられるわけである。

仏界を涌現するといっても、それは、あくまでも九界の生活の上にこそ実証されるものである。煩悩・業・苦を断絶するのではなく、妙法により、それらを法身・般若・解脱と転ずるのである。如蓮華在水の原理は、この人生、社会、世界を常寂光土と変える原理なのである。

国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり

「国主信心あらん後」とは、広宣流布の時という意味である。重要の法門なるが故に、その時の来るまで、大事に秘蔵しなさいとの仰せである。

国主とは、現代に約すれば、国の主権者ということである。民主主義国家においては、国民大衆こそ、真実の国主である。議員、大臣等は、主権者たる国民の意思を代行する公僕である。されば「国主信心あらん後」とは、三大秘法の大仏法が流布しつつある現代をおいて他には絶対にない。

まさに、この当体義抄の甚深の哲理が、妙法信受の人々によって、真剣に学ばれ、実践されるべき時が、いま来ていることを知らなければならない。

 

 

第二章 (金吾夫妻の信心を称賛する)

本文

 然れども凡夫なれば動すれば悔ゆる心有りぬべし、日蓮だにも是くの如く侍るに前後も弁へざる女人なんどの各仏法を見ほどかせ給わぬが何程か日蓮に付いてくやしと・おぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して日蓮よりも強盛の御志どもありと聞へ候は偏に只事にあらず、教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙押え難し、妙楽大師の釈に云く記七「故に知んぬ末代一時も聞くことを得聞き已つて信を生ずる事宿種なるべし」等云云、又云く弘二「運像末に在つて此の真文を矚る宿に妙因を殖うるに非ざれば実に値い難しと為す」等云云。

 

現代語訳

しかしながら凡夫であるので、ややもすれば後悔する心もあった。日蓮でさえも、このようであるのに、物事の前後の分別もつきかねる女の人などの、あなた方、仏法を理解していない方が、どれほどか日蓮に付き従ったことを後悔しているかと思うと、実に心苦しかったのである。しかし案に相違して日蓮よりも強盛な信心であると聞きましたが、これは全くただごとではない、教主釈尊があなた方の心に入り替わられたのではないか、と思えて感涙押えがたいほどである。

妙楽大師の法華文句記の七に「末代において一時でも正法を聞くことができ、聞き已って信を起こすことは、過去世において、法華経の下種があった故であると知ることができる」といっている。また弘決の二にも「像法の末に生まれて、法華経の真文をみることができた。宿世に妙因を植えたのでなければ、実に妙法には値いがたいのである」と述べている。

 

語釈

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。

 

宿種

過去に植えられた仏種。宿縁。

 

妙因

仏になる因。仏性を開いて成仏の境涯を得るところの仏因。

 

 

講義

四条金吾とともに、とくにここでは四条金吾の夫人の信心を称えられ激励されたところである。女性はともすると、大小さまざまな迫害に耐えかねて、信心を怯みがちなものである。大聖人は、普通ならば信仰してしまったことを後悔しがちなものなのに、悠々と、しかも強盛に信仰している夫人の姿を聞き、心から喜ばれ、更に、「教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば、感涙押え難し」と激励なされたのがこの段である。

 

故に知んぬ、末代一時も聞くことを得、聞き已って信を生ずる事宿種なるべし

 

聞きがたき妙法を末法今の時に聞くことができ、しかも聞いてのち信ずることができたのは、ただならぬ因縁によるものであり、これはとりもなおさず、過去世からの深き縁に結ばれているのだ、と大聖人は仰せである。

この文句記の「末代」も弘決の「像末」も妙楽の時代のことをいったのであるが、そこに述べている精神は、末法の大聖人の時代、また現代にもそのままあてはまる。

弘決の二の「此の真文を矚る」の真文とは、あらゆるものの中の真実の文、すなわち仏語であり法華経である。像末の今時末法においては御本尊である。御本尊を信受し奉ることがこの文の元意である。ここで、御本尊を信受できるのは、妙因を過去に植えていたからである。もしも妙因を植えていなければ御本尊に値うことはできなかったであろうとの謂である。

聞きがたき妙法を聞くことができ、値いがたき御本尊に巡り会えたわが身の福運、我が身の深厚な宿縁を心から感ずる人が、これらの二文を身読する人といえよう。

 

 

第三章 (本化付嘱を説く)

本文

 妙法蓮華経の五字をば四十余年・此れを秘し給ふのみにあらず迹門十四品に猶是を抑へさせ給ひ寿量品にして本果・本因の蓮華の二字を説き顕し給ふ、此の五字をば仏・文殊・普賢・弥勒・薬王等にも付属せさせ給はず、地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して此れを付属し給ふ、儀式ただ事ならず宝浄世界の多宝如来・大地より七宝の塔に乗じて涌現せさせ給ふ、三千大千世界の外に四百万億那由佗の国土を浄め高さ五百由旬の宝樹を尽一箭道に殖え並べて・宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ十方分身の仏尽く来り坐し給ふ、又釈迦如来は垢衣を脱で宝塔を開き多宝如来に並び給ふ、譬えば青天に日月の並べるが如し帝釈と頂生王との善法堂に在すが如し、此の界の文殊等・他方の観音等・十方の虚空に雲集せる事・星の虚空に充満するが如し、此の時此の土には華厳経の七処八会・十方世界の台上の盧舎那仏の弟子・法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土・塵点数の大菩薩雲集せり、方等の大宝坊・雲集の仏菩薩・般若経の千仏・須菩提・帝釈等・大日経の八葉九尊の四仏・四菩薩・金剛頂経の三十七尊等・涅槃経の倶尸那城へ集会せさせ給いし十方法界の仏菩薩をば文殊・弥勒等互に見知して御物語り是ありしかば此等の大菩薩は出仕に物狎れたりと見え候、今此の四菩薩出でさせ給うて後・釈迦如来には九代の本師・三世の仏の御母にておはする文殊師利菩薩も一生補処と・ののしらせ給ふ弥勒等も此の菩薩に値いぬれば物とも見えさせ給はず、譬えば山がつが月卿に交り猨猴が師子の座に列るが如し、此の人人を召して妙法蓮華経の五字を付属せさせ給いき、付属も只ならず十神力を現じ給ふ、釈迦は広長舌を色界の頂に付け給へば諸仏も亦復是くの如く四百万億那由佗の国土の虚空に諸仏の御舌赤虹を百千万億・並べたるが如く充満せしかばおびただしかりし事なり、是くの如く不思議の十神力を現じて結要付属と申して法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、我が滅後に十方の衆生に与へよと慇懃に付属して其の後又一つの神力を現じて文殊等の自界他方の菩薩・二乗・天・人・竜神等には一経乃至・一代聖教をば付属せられしなり、本より影の身に随つて候様につかせ給ひたりし迦葉・舎利弗等にも此の五字を譲り給はず此れは・さてをきぬ、文殊・弥勒等には争か惜み給うべき器量なくとも嫌い給うべからず、方方不審なるを或は他方の菩薩は此の土に縁少しと嫌ひ、或は此の土の菩薩なれども娑婆世界に結縁の日浅し、或は我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと嫌はれさせ給ふ程に、四十余年・並びに迹門十四品の間は一人も初発心の御弟子なし、此の四菩薩こそ五百塵点劫より已来・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をもふまざる人人なりと見えて候、天台の云く「但下方の発誓を見る」等云云、又云く「是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし」等云云、妙楽の云く「子父の法を弘む」等云云、道暹云く「法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云、此の妙法蓮華経の五字をば此の四人に譲られ候。

 

現代語訳

釈迦仏は妙法蓮華経の五字を四十余年の間、秘密にされたばかりでなく、法華経迹門十四品に至っても、なお妙法五字を抑えて説かれず、法華経本門寿量品にして初めて本因・本果の蓮華の二字を説き顕わされたのである。

この妙法の五字を、釈迦仏は文殊・普賢・弥勒・薬王等の菩薩にも付嘱されなかった。地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して妙法を付嘱されたのである。

この儀式は普通の儀式ではなく、宝浄世界の多宝如来が大地から七宝の塔に乗って涌現されたのである。三千大千世界の他に四百万億那由佗の国土を浄め、高さ五百由旬の宝樹をことごとく一箭道に殖え並べて、その宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ、そこへ十方分身の諸仏がことごとく来て坐られたのである。

また釈迦如来は、垢衣を脱いで宝塔を開き、多宝如来と並ばれたのである。この姿を譬えれば、青天に太陽と月とが並んだようなものであり、帝釈天と頂生王とが善法堂にいるようなものである。この世界の文殊等、他方の観音等の菩薩が虚空に雲集した姿は、さながら星が空に充満するようであった。

この時、この娑婆世界には華厳経の七処八会に集まった十方世界の台上の盧舎那仏の弟子たる法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土の塵点数の大菩薩が雲集した。

更に、方等経の大宝坊に雲集した仏・菩薩、般若経に集まった千仏、須菩提・帝釈等、大日経の八葉九尊の四仏四菩薩、金剛頂経の三十七尊等、涅槃経の倶尸那城へ集まられた十方法界の仏・菩薩を文殊や弥勒等の菩薩はたがいに見知っていて語りあっていたので、これらの大菩薩はその出仕にもなれているように見えたのである。

しかし、今この上行をはじめとする四菩薩が出現された後は、釈迦如来にとっては九代の本師で、三世の諸仏の母であられる文殊師利菩薩も、また一生補処といわれた弥勒菩薩等も、この四菩薩に値ったのちではものの数とも見えないほどであった。譬えば山奥のきこりが高貴な月卿等の貴族の中に交わり、また猿が師子の座に列なったようなものである。

釈迦仏はこの人びとを召して妙法蓮華経の五字を付嘱されたのである。その付嘱もただごとではなく、仏は十神力を現じられたのである。釈迦仏は広長舌を色界の頂に付けられたので、諸仏もまた同様にされた。四百万億那由佗の国土の空に諸仏の舌がまるで赤い虹を百千万億並べたように充満したので、実におびただしいことであった。

このような不思議の十神力を仏は現じ、結要付嘱といって、法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、わが滅後に十方の衆生に与えよと慇懃に付嘱して、そののちまた一つの神力を現じて、文殊等の自界、他方の世界の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経および一代聖教を付嘱されたのである。

もとより影が身に随っているように仕えていた迦葉・舎利弗等にも、この五字を譲られなかった。これはさて置こう。文殊・弥勒等に対してはどうして付嘱を惜まれるのか。たとえ滅後に弘めるべき器量がなくとも嫌うべきではない、等々不審であるのを、仏はあるいは他方の菩薩はこの土に縁が少ないと嫌い、あるいはこの土の菩薩であるが、結縁の日が浅いと嫌い、あるいはわが弟子ではあるが初発心の弟子ではないと嫌われたので、四十余年ならびに法華経迹門十四品のうちには一人も初発心の弟子がなく、この四菩薩こそ五百塵点劫より以来、教主釈尊の弟子として初発心の時より、また他の仏に仕えずに迹門・本門の二門をふまなかった人びとであると説かれている。

天台は法華文句の九に「但下方より涌出した本化の菩薩の発誓をみる」等。またいわく「これ我が弟子である。我が法を弘めるべきである」と。妙楽は法華文句記に「子は父の法を弘める」と述べ、道暹は文句の輔正記に「法がこれ久遠実成の法であるから久遠実成の人に付嘱する」と述べている。この妙法蓮華経の五字を仏はこの四菩薩に譲られたのである。

 

語釈

迹門

本門の対語で、垂迹仏が説いた法門の意。法華経二十八品中の序品第一から安楽行品第十四までの前十四品をさす。内容は、諸法実相、十如是の法門のうえから理の一念三千を説き、それまで衆生の機根に応じて説いてきた声聞・縁覚・菩薩の各境界を修業の目的とする教法を止揚し、一切衆生を成仏させることにあるとしている。しかし釈尊が過去世の修行の結果、インドに出現して始めて成仏したという、迹仏の立場であることは爾前と変わらない。

 

本果・本因の蓮華

妙法蓮華経の五字のこと。宇宙森羅万象のなかで不可思議な因果一体の一切の根本法をいう。因果の理法は宇宙の法則性として厳然として存在する。この理法の本源の因果、すべての究極の因果の理法を蓮華になぞらえて「本果・本因の蓮華」という。

 

文殊

文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。

 

普賢

普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。

 

弥勒

慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。

 

薬王

薬王菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。

 

上行菩薩

法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第16の説法の後に、法華経如来神力品第21で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱したことをいう。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。常楽我浄の我徳、自我の生命が自由自在で他からなんの束縛を受けないことをいう。

 

無辺行菩薩

法華経従地涌出品第15で、末法に妙法を受持し弘通するために、上行菩薩とともに大地から涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩のひとり。常楽我浄の常徳、仏の境地、涅槃が永遠に不変不改であることをいう

 

浄行菩薩

法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。常楽我浄の浄徳、煩悩のけがれをうけないことをいう。

 

安立行菩薩

法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。常楽我浄の楽徳、無上の安楽であることをいう。

 

宝浄世界

多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797:宝塔品)とある。

 

多宝如来

東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。

 

七宝の塔

法華経見方等品第11に出現した金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝によって飾られているので七宝の塔という。この塔の内に釈迦・多宝の二仏が並んで座り(二仏並坐)、聴衆も空中に浮かんで、虚空会の儀式が展開された。日蓮大聖人はこの虚空会の儀式を借りて曼荼羅を図顕され、末法の衆生が成仏のために受持すべき本尊とされた。そして曼荼羅御本尊の中央にしたためられた南無妙法蓮華経を宝塔と同一視されている。また妙法を信受する人は、南無妙法蓮華経そのものであるので、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝(七聖財)に飾られた宝塔であるとされている。この塔の出現する意味には①証前の宝塔・多宝如来が法華経迹門の真実を証明すること。②起後の方等・本門を説き起こすためのもの。の二意がある。

 

三千大千世界

古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。

 

一箭道

矢を放って届く距離。嘉祥の法華義疏巻十一に「一箭道は二里なり」とある。また他説も多く、弓の的をかためた垜よりはかって百五十步,あるいは百三十步,あるいは百二十步とする説もある。法華経薬王品第二十三には「七宝を台と為して、一樹に一台あり。其の樹の台を去ること、一箭道を尽くせり」とある。

 

頂生王

別名を曼駄多という。釈尊の在世に先だって生まれた王。頂生王故事経によると、昔、善住王の頂に瘤が生じ、次第に大きくなり剖けて童子が生まれた。この話に因んで頂生王と名づけられた。長じて金輪王と称し、天下を収め忉利天に上った。その事については涅槃経聖行品に「天主釈提桓因は、頂生王の已に来りて外に存るを知り、すなわち出て迎え、逆見已りて手を執り、善法堂に昇り座を分って坐る。彼の時の二王、形容相貌等しくして差別なし」とあり、その時いかに権勢を誇っていたかが知られる。しかしこののち、帝釈天を害して已れが帝釈天に取って替わろうとしたが成しえず、還って地に下り、病に遇って死んだと説かれている。

 

観音

観世音菩薩のこと。光世音・観世自在・施無畏者ともいい、異名を救世菩薩という。観世音菩薩普門品には衆生救済のために大慈悲を行じ、三十三種に化身するとある。またその形像の相違から十一面・千手・如意輪・不空羂索観音などと呼ばれる。観無量寿経では勢至菩薩とともに、阿弥陀如来の脇士とされている。

 

華厳経の七処八会

華厳経の説法の場所と会座の数。釈尊は寂滅道場菩提樹下で正覚を成して後、3週間にわたって華厳経を説法したが、これが七つの場所で八回行われたので、七処・八会という。七処とは、①寂滅道場②普光法堂③忉利天④夜摩天⑤兜率天⑥他化自在天⑦逝多林。

 

盧舎那

普通には毘盧遮那が法身をさすのに対して盧遮那は報身をさすのである。

 

法慧

法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。

 

功徳林

華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。

 

金剛幢

華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十回向の法門を説いた。

 

金剛蔵

金剛蔵菩薩のこと。華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十地の法門を説いた。

 

十方刹土

十方世界のこと。「十方」とは、上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた方位で、全世界を意味する。仏教では十方に無数の三千大千世界があるとされる。

 

大宝坊

方等部の大集経が説かれたところ。欲界と色界の中間にある大庭。釈尊が耆闍崛山で大集経を説いたときに三昧力をもって、大法廷を珍宝で荘厳したところから大宝坊といわれる。

 

般若経の千仏

般若経では「空」の思想が明かされ、覚りの存在も自由自在に種々の様相となるとされる。その教えが説かれる同経には千仏という種々の仏が説かれる。

 

須菩提

梵語スブーティ(Subhūti)の音写。法華経信解品第四に慧命須菩提とある。祇園精舎を供養したスダッタ(Sudatta)長者の弟の子といわれる。釈尊の十大弟子の一人。思索にすぐれ、よく諸法の真理を悟った。解空第一と称される。法華経授記品第六で、名相如来の記別を受けた。般若経の対告衆の一人でもある。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

大日経の八葉九尊の四仏・四菩薩

大日経では、胎蔵界の中台院。すなわち、胎蔵界曼荼羅のの中央の一院が八葉の蓮華となっており、その中台に大日如来、周囲の八葉には四仏(東方宝幢如来・南方開敷華王如来・西方阿弥陀如来・北方天鼓雷音如来)・四菩薩(東南普賢菩薩・西南文殊菩薩・西北観音菩薩・東北弥勒菩薩)の八尊がすわっており、合計して九尊になるという。

 

金剛頂経の三十七尊

金剛頂経の羯磨会にあらわれた五仏・十六菩薩・そのほかの四菩薩をあわせていう。五仏 1毘盧遮那如来  2阿閦如来 3宝生如来  4無量寿如来 5不空成就如来。十六菩薩 ①東方四菩薩 6金剛菩薩 7金剛王 8金剛愛 9金剛喜 ②南方四菩薩 10金剛宝 11金剛光 12金剛憧 13金剛咲 ③西方四菩薩 14金剛法 15金剛利 16金剛因 17金剛語 ④北方四菩薩 18金剛業 19金剛護 20金剛牙 21金剛拳。 その他の四菩薩 ⑤四波羅蜜菩薩 22金剛波羅蜜菩薩  23宝波羅密菩薩  24法波羅蜜菩薩 25羯磨波羅蜜菩薩 ⑥内供養の四菩薩 26金剛嬉菩薩 27金剛鬘菩薩 28金剛歌菩薩 29金剛舞菩薩 ⑦外供養の四菩薩 30金剛焼香菩薩 31金剛華菩薩 32金剛燈菩薩 33金剛塗香菩薩 ⑧四摂の四菩薩 34金剛鉤菩薩 35金剛索菩薩 36金剛鏁菩薩 37金剛鈴菩薩。

 

倶尸那城

梵語(Kúsi-nagara)拘尸那伽羅で、香茅城・茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・ブランデーン州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にある。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河の西北に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、釈迦本生譚である稚王の火を救った地、鹿王として身を死して生を救った地、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、執金剛神の地に倒れて悲慟した仏滅後七日供養の地、父母慟哭の地、天冠の荼毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃搭も残っており、諸国からの巡礼者が跡を絶たない。

 

九代の本師

文殊師利菩薩のことで、過去世に妙光菩薩として釈尊を化導した師であり、その釈尊が燃灯仏として九番目に法華経を受け成道したところから、こう呼ばれる。法華経序品第一に「仏の滅度の後、妙光菩薩は妙法蓮華経を持ち、八十小劫を満てて、人の為めに演説す。日月灯明仏の八子は、皆な妙光を師とす。妙光は教化して、其れをして阿耨多羅三藐三菩提に堅固ならしむ。是の諸の王子は、無量百千万億の仏を供養し已って、皆な仏道を成ず。其の最後に成仏したまう者を、名づけて燃灯と曰う。 八百の弟子の中に一人有りて、号づけて求名と曰い(中略)爾の時の妙光菩薩は豈に異人ならんや。我が身是れなり。求名菩薩は、汝が身是れなり」と。

 

一生補処

この一生は迷いの世界に縛られているが、次生には仏の位一生補処処を補う位になること。菩薩の最高位である等覚をさす。弥勒菩薩は釈尊の一生補処の菩薩とされ、釈尊に先立って入滅し兜率天に生じ、釈尊滅後567000万歳の時に下生して、一生補処釈尊の説法にもれた衆生を済度するという。

 

山かつ

猟師・きこりなど、山中に生活する身分の低い人。また、ひろく身分の卑しい者をいう。

 

月卿

総称して貴族、貴人をいうこと。禁中を天に喩え、天子を日に喩えるのに対して、公卿を月に譬え月卿といった。

 

猿猴

サル類の総称。

 

十神力

十種の大力ともいう。釈迦は十種の神力を現じて、上行菩薩に深法を付嘱した、すなわち①出広長舌、「広長舌を出して上梵世に至らしめ」②通身放光、「一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く徧くく十方世界を照したもう」③一時謦欬、「然して後に還って舌相を摂めて一時に謦欬し」④倶共弾指「倶共に弾指したもう」⑤地六種動、「是の二つの音声、徧く十方の諸仏の世界に至って、地皆六種に震動す」⑥普見大会、「其の中の衆生、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等、仏の神力を以ての故に、皆此の娑婆世界、無量無辺百千万億の衆の宝樹下の師子座上の諸仏を見、及び釈迦牟尼仏、多宝如来と共に宝塔の中に在して、師子の座に坐したまえるを見たてまつり、又、無量無辺百千万億の菩薩摩訶薩、及び諸の四衆の、釈迦牟尼仏を恭敬し囲繞したてまつるを見る」⑦空中唱声、「即時に諸天、虚空の中に於いて、高声に唱えて言わく」⑧咸皆帰命、「彼の諸の衆生、虚空の中の声を聞き已って、合掌して娑婆世界に向かって、是の如き言を作さく、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と」。⑨遙散諸物、「種々の華香、瓔珞、幡蓋、及び諸の厳身の具、珍宝、妙物を以って、皆共に遥かに娑婆世界に散ず」⑩十方通同、「時に十方世界通達無碍にして一仏土の如し」とある

 

広長舌

神力品に説かれる。法華経を付嘱するためにあらわした十種の神力の第一で広長舌相のこと。仏の三十二相の一つ。古代インドでは、言う所が真実であることを証明するのに舌を出す風習があり、舌が長ければ長いほど、その言説が真実であることの確かな証明とされた。ゆえに広長舌相は虚妄のないことを表す。

 

色界の頂

色界の十八天中、最頂上の色究竟天のこと。

 

結要付属

法華経神力品第二十一において、釈尊が本化の菩薩の上首・上行菩薩に、要を結んで妙法蓮華経を付嘱したことをいう。その文は「要を以て之れを言わば、如来の一切の有つ所の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆な此の経に於いて宣示顕説す」とあるのがそれである。

 

慇懃

ねんごろ・親切丁寧の意。

 

迦葉

釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある

 

舎利弗

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

 

初発心の弟子

仏が初めて仏道心を発した時の弟子ということ。観心本尊抄(0253)には「我が弟子之を惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(0253:17)とある。

 

五百塵点劫

法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。

 

二門をもふまざる人人

釈尊の本眷属・地涌の菩薩のこと。法華経には迹門十四品、本門十四品と本迹二門があり、衆生は、迹門の初めから仏より法を聞き、領解、述成、授記の段階を踏む。だが、この菩薩達は迹門はおろか、本門の一々の段階さえ踏まずに、本門の涌出品の時に突如としてあらわれ、寿量品の大法を聞き、嘱累品で滅後の付嘱を受けた菩薩である。

 

下方の発誓

大地の下より涌出した地涌の大菩薩のみが滅後の弘法を誓った。なお下方ということについては、御義口伝に「此の四菩薩は下方に住する故に釈に『法性之淵底玄宗之極地』と云えり、下方を以て住処とす下方とは真理なり、輔正記に云く『下方とは生公の云く住して理に在るなり』と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり」(0751:09)とある。

 

子父の法を弘む

子たる久遠の本眷属・地涌の菩薩が、父・釈尊の法を弘めることをいう。

 

道暹

道暹律師のこと。中国唐代の人。天台県(浙江省)の人。大暦年間(07660779)長安に来て盛んに著述を行ったという。妙楽の門人といわれる。著書に、天台の法華文句、妙楽の法華文句記を注釈した、法華文句輔正記十巻がある。

 

道暹云く

法華文句輔正記巻六の文。「付嘱とは、この経をば唯下方涌出の菩薩に付す、何が故に爾る、法是れ久成の法なるに由る、故に久成の人に付す」と。

 

久成の法

久遠実成の法のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、その時証得した法をいう。文底からみれば、久遠元初自受用法身如来の所有の法、南無妙法蓮華経。

 

久成の人

久遠実成の人のこと。釈尊は寿量品で五百塵点劫成道を明かすが、この久遠以来化導してきた弟子が地涌の菩薩であるゆえに、本化地涌の菩薩を久成の人という。

 

 

講義

末法出現の大仏法が本化地涌の菩薩に付嘱された様子を、きわめて分かりやすく、生き生きと、ドラマティックに述べられている。これは、前章に妙楽の「宿種なるべし」「宿に妙因を殖うる」の言葉をうけて、いま末法に妙法を信受し、ひろめる人々は、過去、法華経の会座において地涌の菩薩として付嘱を受けたのであり、その更に過去をたどると久遠より宿縁深厚の仏の弟子であり子であったことを示されているのである。

 

地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して此れを付属し給ふ

地涌の菩薩が、もともと居た所は、いうまでもなく「大地」であるが、それは一体、何を意味するか。天台はこれを「法性の淵底、玄宗の極地」といっている。すなわち、大宇宙の仏界の生命ということである。いま、この文で、大聖人は「寂光の大地」といわれているのも、同じである。寂光とは、仏界を表現する言葉以外の何ものでもないからである。

地涌の菩薩が、経文に説かれるあらゆる迹化の菩薩と異なる点は、ここにある。すなわち、迹化の菩薩は、あくまで成仏をめざして求道し修行する迷いの衆生の域を出ない。しかるに、地涌の菩薩は、本来、仏界に住する無作三身の仏なのである。それが、衆生救済のため、妙法を末代悪世に流布するため、菩薩という姿をとって法華経の会座に出現したのである。

いま、末法濁悪の世に出現した我々は、この地涌の菩薩なのである。否、その姿は、三悪道、四悪趣の不幸の姿であるかも知れない。だが、本地は、尊極無上の仏の子であり、末法流布のため、願ってこのような姿をとってあらわれたのである。この本地を悟り、妙法流布の使命達成に励む人は、即、地涌の菩薩であり、その生命には尊極の仏界がひらかれていくことを確信すべきである。

 

宝搭涌現と釈迦・多宝・十方の仏

 

宝搭が涌現して、その中に釈迦・多宝の二仏が並座し、十方の仏が列座するこの儀式が、そのまま、三大秘法の御本尊の相貌とあらわれていることは、いまさらいうまでもないところであろう。この点については、観心本尊抄講義などに本格的に論じられているので、ここでは省略する。

生命論に約すると、七宝で飾られた多宝の搭とは、生命の尊厳をあらわしている。釈迦・多宝の二仏並座は境智冥合を表徴する。すなわち、生命に内在する仏界自体が〝境〟=多宝であり、それを覚知する智慧が〝智〟=釈迦で、これが冥合して、真実の成仏となるのである。そして「境智冥合するところ慈悲あり」で、宇宙を包含し、万物に限りなく注ぐ慈悲の行動、姿となってあらわれることを十方分身の仏は示している。

また、釈迦・多宝・分身は、法・報・応の三身に配せられる。釈迦が報身、多宝が法身、十方分身が応身である。この三身即一で、無作三身の仏、久遠元初の自受用身、即、南無妙法蓮華経をあらわすのである。

 

 

 

第四章 (地涌の菩薩の出現を予告する)

本文

 而るに仏の滅後・正法一千年・像法一千年・末法に入つて二百二十余年が間・月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に未だ一度も出でさせ給はざるは何なる事にて有るらん、正くも譲らせ給はざりし文殊師利菩薩は仏の滅後四百五十年まで此の土におはして大乗経を弘めさせ給ひ、其の後も香山・清涼山より度度来つて大僧等と成つて法を弘め、薬王菩薩は天台大師となり観世音は南岳大師と成り、弥勒菩薩は傅大士となれり、迦葉阿難等は仏の滅後二十年・四十年・法を弘め給ふ、嫡子として譲られさせ給へる人の未だ見えさせ給はず、二千二百余年が間・教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす、然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏・真言大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし、釈迦如来は後五百歳と記し給ひ正像二千年をば法華経流布の時とは仰せられず、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と未来に譲り、伝教大師は「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等と書き給いて、像法の末は未だ法華経流布の時ならずと我と時を嫌ひ給ふ、されば・をしはかるに地涌千界の大菩薩は釈迦・多宝・十方の諸仏の御譲り御約束を空く黙止て・はてさせ給うべきか。
 外典の賢人すら時を待つ郭公と申す畜鳥は卯月五月に限る、此の大菩薩も末法に出ずべしと見えて候、いかんと候べきぞ瑞相と申す事は内典・外典に付いて必ず有るべき事の先に現ずるを云うなり、蜘蛛かかつて喜事来り干鵲鳴いて客人来ると申して小事すら験先に現ず何に況や大事をや、されば法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞なり、涌出品は又此れには似るべくもなき大瑞なり、故に天台の云く「雨の猛きを見ては竜の大きなる事を知り華の盛なるを見ては池の深き事を知る」と書かれて候、妙楽云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」と云云、今日蓮も之を推して智人の一分とならん、去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日・戌亥の刻の大地震と、文永元年太歳甲子七月四日の大彗星、此等は仏滅後二千二百余年の間・未だ出現せざる大瑞なり、此の大菩薩の此の大法を持ちて出現し給うべき先瑞なるか、尺の池には丈の浪たたず驢・吟ずるに風・鳴らず、日本国の政事乱れ万民歎くに依つては此の大瑞現じがたし、誰か知らん法華経の滅不滅の大瑞なりと。

 

現代語訳

ところが仏の滅後、正法千年、像法千年、末法に入って二百二十余年の間に、月氏、漢土、日本さらに一閻浮提の内に、いまだ一度も妙法を弘める四菩薩が出現されないのはどういう事なのであろうか。

正しくもお譲りになられなかった文殊師利菩薩は、仏の滅後四百五十年までこの娑婆世界におられて大乗経を弘められ、そののちも香山、清涼山から度度来て、大僧等となって法を弘められた。

薬王菩薩は天台大師となり、観世音菩薩は南岳大師となり、弥勒菩薩は傅大士となった。迦葉・阿難等は仏の滅後二十年、四十年法を弘められた。だが、嫡子として妙法を譲られた人はいまだに見えられない。

二千二百余年の間、教主釈尊の絵像、木像を賢王や聖主は本尊とした。しかしながら、但小乗、大乗、華厳経、涅槃経、観経、法華経迹門、普賢経等の仏、真言・大日経等の仏、宝塔品の釈迦・多宝などは書いたけれども、いまだに法華経寿量品の釈尊はどこの山寺や精舎にもおられない。どうした事とも推量しがたい。

釈迦如来は後の五百歳と記され、正像二千年を法華経流布の時とはいわれてはいない。天台大師は文句の一に「後の五百歳は遠く妙道に沾うであろう」と未来に妙法流布を譲られた。伝教大師は守護国界章に「正法・像法がほぼ過ぎおわって末法ははなはだ近くにある」等と書かれて、像法の末はいまだ法華経流布の時ではないと、自身から像法の時を嫌われたのである。

それゆえ推し量ってみると、地涌千界の大菩薩は、釈迦・多宝・十方の諸仏のお譲りとお約束を空しくそのままに捨ておいて、果てさせるつもりなのだろうか。

外典の賢人でさえ時を待つ。郭公という畜鳥は四月五月に限って鳴く。この大菩薩も末法に出現するとみえるのである。どうしてそのようにいえるのか。

瑞相というのは内典についても、外典についても必ず後に起こることが先に現われることをいうのである。蜘蛛が巣をかけると喜びごとが起こり、干鵲が鳴くと客人が来るといって、小事でさえ験が先に現われる。まして大事においては当然である。

それゆえ法華経序品の六瑞は釈迦如来一代に超過した大瑞である。涌出品の大瑞は、またこれには似るべくもない大瑞である。ゆえに天台は文句の九に「雨がはげしく降るのを見ては、これを降らせる竜の大きさを知り、華が盛んに咲いているのをみては、池の深いことを知る」と書かれている。妙楽の文句記には「智人は物事の起こりを知り、蛇は自ら蛇を知る」と述べている。

今日蓮もまた瑞相から未来を推し量って、智人の一分となろう。去る正嘉元年八月二十三日、戌亥の刻に起きた大地震と、文永元年七月四日の大彗星、これらは仏滅後二千二百余年の間に、いまだ出現しなかった大瑞相である。

この地涌の大菩薩が寿量品の大法を持って出現される先瑞であろうか。一尺の池には一丈の波は立たない。驢馬がいなないても風は鳴らない。日本国の政治が乱れ万民が歎くことではこれほどの大瑞は現じがたい。誰が知ろう、この大瑞こそ法華経の滅不滅の大瑞相であると。

 

語釈

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

文殊師利菩薩

文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。

 

清涼山

中国山西省五台県にある山。五台山または清涼山ともいう。文殊師利菩薩の住処とされた。華厳経の菩薩住処品に「東北に菩薩の住処あり、清涼山と名づく、現に菩薩あり、文殊師利と名づく」とある。

 

薬王菩薩は天台大師となり、観世音は南岳

これらの因縁は、法華伝記巻二の智顗伝の中にある。「宣律師、天に問うて曰く、陳の国の思、隋の国の顗は、神の徳、倫を超えたり。昔、霊山に在って同じく法華を聴く。昔、誰なるか審かならず……答えて云く、倶に是れ遊方の大士、本是れ古仏なり。思は是れ観音。普門一品の其の利を説く。顗は是れ薬王。日月浄明徳の世に興し、頓て一身を捨て、法に供養す」等とある。天台自身、南岳の下で四安楽行を授け、そののち薬王品の「是真精進、是名真法」の文で開悟したこと、南岳が普門品を用いたことからも、天台が薬王菩薩の後身、南岳が観世音菩薩の後身といわれるわけである。

 

傅大士

04970569)。中国南北朝時代の人。名を傅翕、字を玄風といい、善慧大士と号した。傅大士というのは通り名。大蔵経を閲覧する便をはかって、転輪蔵を創始したことで知られる。自伝に「われ兜率宮より来る。無上菩提を説かんが為なり。昔はこの事を隠し、今は覆蔵せず」と。兜率宮は弥勒菩薩の住処である。この言葉から、弥勒菩薩の再誕といわれた。

 

阿難

梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。

 

観経

観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。

 

普賢経

曇摩蜜多訳。0441年までに完成。法華経の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する方法などを述べたもの。観普賢菩薩行法経。普賢観経。

 

寿量品の釈尊

①久遠五百塵点劫成道の釈尊のこと。②久遠元初の教主釈尊のこと。

 

後の五百歳

法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。

 

伝教大師

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

郭公

カッコウ目カッコウ科の鳥。全長約35センチ。全体に灰色で、腹に黒い横斑がある。ユーラシア・アフリカに分布。日本には夏鳥として渡来し、高原などでみられる。自分では巣を作らず、モズ・ホオジロなどの巣に托卵する。ひなは早く孵化し、仮親の卵を巣の外へ放り出す習性がある。閑古鳥。合法鳥。かっこうどり。

 

瑞相

きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚徵あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。

 

干鵲 

カラスより少し小さく、腹白で頭部が黒い。日本では北九州にいる。高麗烏といわれる。

 

序品の六瑞

釈尊が法華経序品を説いたときに起こった瑞相。此土の六瑞。①説法瑞 釈尊が説法をされた。読経などの声が聞こえる。 ②入定瑞 心を一つの対象に集中させて動揺を静めて平穏に安定させること。心の散乱を静めた瞑想の境地。『法華経』を説かれる前にそのような境地に入られる瑞相があらわれた。静かな暗闇や空・海が見える。③雨華瑞 『法華経』が説かれる前に花が雨ってくる瑞相があらわれた。めでたいしるしとして天から雨り、見る者の心を悦ばせるという。諸天が仏徳を讃歎して四華を散花する記事は諸経典に見える。法要中に散華といって花びらに似せた紙を散じることは、このことをあらわしている。空から無数の花びらが降ってくる。④地動瑞 『法華経』が説かれる前に、瑞相として普く仏の世界の地面が揺れた。大地や建物が揺れる。雷音や鐘・鈴などの音が聞こえる。 ⑤衆喜瑞 その場にいたものたちが瑞相を喜んで一心に仏をみること。仏を感じ、その姿を見える。光るものや何かが見える。⑥放光瑞 釈尊の眉間から光が放たれ、東方一万八千の世界を普く照らし、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の世界を映しだした。回りが急に明るくなったり、光を感じる。他土の六瑞。①見六趣瑞 その世界の六つのめでたい出来事の前兆が釈尊の眉間から映し出された。②見諸仏瑞 諸仏を見る瑞。 ③聞諸仏説法瑞 諸仏の説法を聞く瑞 。④見四衆得道瑞 諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の諸の修行し得道する者を見 る。⑤見行瑞  菩薩摩訶薩の種々の因縁・種々の信解・種々の相猊あって菩薩の道を行ずるを見る。⑥見帰涅槃瑞  諸仏の般涅槃したもう者を見、諸仏般涅槃の後、仏舎利を以て七宝塔を起つるを見る。

 

大瑞

兆し・前兆。善悪ともに通じる。

 

智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る

妙楽大師の法華文句記巻第九中に「然るに智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る。豈補処の人その真応を識らざらんや」とある。文意は、智者は物事の起こる由来を予知し、蛇は蛇だけの知る世界を知っている。それゆえ、仏法の法灯を継ぐ智者は仏法の極理を知る、すなわち唯仏与仏と経にある通り、悟達の聖人のみが宇宙森羅万象の本質を知り予知している、との意である。

 

 

講義

正像二千年間に、文殊、薬王、観世音、弥勒等の迹化の菩薩や迦葉・阿難等は、仏から付嘱を受けたとおりに、たしかに出現して、それぞれの法を弘めた。だが、仏の嫡子として最も偉大な妙法の付嘱をうけた地涌の菩薩は、まだ出現していない。また、仏がそのとき付嘱した「寿量品の釈尊」すなわち文底下種の御本尊も、どこにもあらわれていない。

だが、いま、まさに出現しようとしている瑞相が、先ぶれとしてあらわれている。それが、正嘉の大地震、文永の大彗星等の天変地異である――と、大仏法の出現が間近であることを述べられている。

もとより、この地涌の菩薩の出現ということも、その上首・上行が大聖人御自身にほかならないこと、また、末法に出現すべき「寿量品の釈尊」が、大聖人の本地たる久遠元初の自受用身であり南無妙法蓮華経の御本尊であることも、御承知のうえでの仰せである。ここは、あくまで、婉曲に、遠回しに仏法の当然の道理のうえから、これらの出現が必然であることを示唆されているのである。

 

「寿量品の釈尊」について

 

ここで寿量品の釈尊といわれているのは、インド応誕の釈迦とは根本的に異なることを知らなければならない。ゆえに「寿量品の」とことわられているのである。すなわち、結論的にいえば、大聖人が末法御本仏として、はじめてあらわされるところの、南無妙法蓮華経の御本尊のことである。

「三大秘法抄」にいわく、

「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」(1022:08)と。

また、この「呵責謗法滅罪抄」と同じ文永十年に著わされている「観心本尊抄」に「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」(0254:08)と明言されている。

これらの御文から「寿量品の釈尊」が久遠元初の自受用身如来の生命たる南無妙法蓮華経の御本尊であり、この御本尊を建立すべき御自身の使命について、強い志向性と深い思索をこのころ、なされはじめていたことがうかがわれる。

正嘉の地震、文永の彗星をその前兆として指摘され、天台の雨と竜の言葉などを挙げられている点など、本抄と「観心本尊抄」との間に共通するものが少なくない。

 

 

第五章 (御本仏の実践を示す)

本文

 二千余年の間・悪王の万人に訾らるる謀叛の者の諸人に・あだまるる等日蓮が失もなきに高きにも下きにも罵詈毀辱刀杖瓦礫等ひまなき事二十余年なり、唯事にはあらず過去の不軽菩薩の威音王仏の末に多年の間・罵詈せられしに相似たり、而も仏・彼の例を引いて云く我が滅後の末法にも然るべし等と記せられて候に近くは日本遠くは漢土等にも法華経の故にかかる事有りとは未だ聞かず人は悪んで是を云はず、我と是を云はば自讃に似たり、云わずば仏語を空くなす過あり、身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す、日蓮は彼の不軽菩薩に似たり、国王の父母を殺すも民が考妣を害するも上下異なれども一因なれば無間におつ、日蓮と不軽菩薩とは位の上下はあれども同業なれば彼の不軽菩薩成仏し給はば日蓮が仏果疑うべきや、彼は二百五十戒の上慢の比丘に罵られたり、日蓮は持戒第一の良観に讒訴せられたり、彼は帰依せしかども千劫阿鼻獄におつ、此れは未だ渇仰せず知らず無数劫をや経んずらん不便なり不便なり。

 

現代語訳

仏滅後二千余年の間、悪王が万人に訾られたり、謀反の者が諸人にあだまれたりした。しかし、日蓮は世間の失もないのに身分の高い人からも、また低い人からも、悪王や謀反人のように罵詈され、毀辱され、刀や杖で打たれ、瓦礫を投げられるなど、迫害のやむひまのないこと二十余年である。これはただ事ではない。

過去の不軽菩薩が威音王仏の末世に、多年の間罵詈されたことと似ている。しかも釈迦仏は不軽の例を引いて、わが滅後の末法にもそうなると記されている。だが、近くは日本、遠くは漢土等にも、法華経のゆえにそのような事があったとはいまだに聞かない。人は日蓮を憎んでこれをいわないのである。

自分からこれをいえば自讃に似ている。しかしこれをいわなければ仏語を虚妄にする過がある。身を軽んじて法を重んずるのが賢人であるからいうのである。

日蓮は彼の不軽菩薩に似ている。国王が父母を殺すのも、民が父母を害するのも、身分の上下は異なるけれども同一の業因なので無間地獄に堕ちる。日蓮と不軽菩薩とは名字凡夫と初随喜というように位の上下はあるけれども、同じ業なのだから彼の不軽菩薩が成仏されるならば、日蓮が仏果を受けることを疑えるだろうか。

彼は二百五十戒を持った上慢の比丘に罵られた。日蓮は持戒第一の良観に讒訴された。彼の比丘衆は帰依したけれども、初めに謗った罪で千劫の間、阿鼻地獄に堕ちた。良観はいまだに日蓮を渇仰しない。その重罪は測り知れない。地獄に堕ちて無数劫を経ることであろう。実に不便なことである。

 

語釈

罵詈毀辱

①毀罵、誹謗し謗ること。②毀辱、毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。

 

刀杖瓦礫

刀・杖・瓦・小石・等のこと。

 

不軽菩薩

法華経不軽品第二十に説かれる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経(我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)を弘めて、一切の人々をことごとく礼拝していた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石等の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受け、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、「御義口伝」に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」、また「不軽菩薩を軽賤するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり」(0766)とある。

 

考妣

一般には考妣とは亡父亡母をいう。もとの意は考とは長寿を保つこと、妣とは古くは母のこと。ここでは父母のこと。

 

二百五十戒

男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。

 

良観

12171303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。 

 

講義

すでに「法華経の滅不滅の大瑞」――すなわち、末法にひろまるべき法華経の肝心の大白法が出現する瑞相は、あらわれている。では、いったい、誰がその大仏法を持っているのか、末法の一切衆生を救済する真実の法華経の行者とは誰なのか。

この重要な問題を解くにあたって、現象面にあらわれた明確な鍵がある。それは、法華経に、末法の法華経の行者が、さまざまな難を受けることが記されていることである。勧持品では迹化の菩薩たちの弘通の誓言によせてこれが示され、不軽品では、過去の不軽菩薩の振る舞いにことよせてこれが述べられている。

それらの原理に照らしてみるとき、法華経の行者として、種々の大難にあった人は、日蓮大聖人を除いてほかにはない。この章では不軽品の場合をあげて、大聖人の姿が不軽菩薩と同じであり、したがって、大聖人御自身こそ、末法の真の法華経の行者であることを示されているのである。

 

身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す

 

御自分が不軽菩薩に似ていることをいえば人々は、自讃だといい、かえって、大聖人を蔑むかも知れない。しかし、それをいわなければ、人々は法華経の正しいことに気づかないし、末法の大仏法を求める心も起きないに違いない。ゆえに、わが身の傷つく危険をあえて冒して、このことを言うのだ、との意である。

一般に、日蓮大聖人に対し、自身のことを非常に高くいう人だという評価がなされてきた。普通は、自分のことはへり下った言い方をするのが日本的美徳とされるから、こうしたことは、あまり好意的にみられない。不軽菩薩に似ているということも、上行菩薩の最誕という外用の立ち場や、まして久遠元初の自受用身という内証のお心からすれば、問題にもならないほど、低い次元での言い方なのである。だが、それであっても、世間の人々は増上慢であるかのように思うに違いないのである。

そのように思わせるということは、大聖人にしてみれば、自身に傷をつけるのと同じである。だが、いわなければ、人々は気づかないし、したがって、ますます正法を離れ、無間地獄におちる。この大慈悲と、ただ正法を守らねばならないという責任の上から、自身が憎まれることは敢えて覚悟の上で「日蓮は彼の不軽菩薩に似たり」とおおせられているのである。

もちろん、民族性によって違いはあるけれども、少なくとも日本的倫理の世界においては、自分を自ら高くいうのは、かえって、人々には自分を低く思わせる効果しかない、大聖人は、この人情の機微を鋭く見抜かれた上で、なおかつ、ただ法のために、自身を不軽菩薩になぞらえられているのである。

このことから、あらゆる御書のなかで、大聖人が自らを上行の最誕、あるいは、まして久遠元初自受用身であるということを避け、または、ぼかして言われている理由が明確になってくるのではないだろうか。そして、客観的に見て、事実の裏づけから、確かにその通りだと誰もが納得せざるを得ない限りにおいて、自身の立場、資格を述べられているところに、実に細かい御配慮を拝察することができるのである。

 

日蓮と不軽菩薩とは、位の上下はあれども、同業なれば、彼の不軽菩薩成仏し給はば日蓮が仏果疑うべきや

 

大聖人と不軽菩薩との実践の共通性については、いろいろな御書に述べられているが、なかでも代表的な例として、「顕仏未来記」の次の御文がある。

「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(0507:06)。

この御文に明らかなように、不軽は初随喜の位で菩薩である。大聖人は名字即の凡夫である。位の上下の違いはあるけれども、その仏法を惜しむ心、わが身を捨てての実践は〝同業〟すなわち全く同じである。故に、不軽が成仏したのなら、大聖人の成仏も疑いない、とのお言葉である。

仏法は、因果の理法である。因とは、いかなる信心の決意で、何を実践したかということである。その因の行によって、果の徳は決まる。否、むしろ、因果倶で、すでに因行のなかに果徳は含まれているといっても過言ではない。その人の位がどうであるかということは、この因果の厳しい理法の前には問題ではない。

この法理を現代の我々の身に約せば、ましてや、社会的立場の違いや、組織における位の上下などは、成仏の条件としては、なんら問題にはならないことを知るべきであろう。

 

 

第六章 (御本仏の内証を明かす)

本文

 疑つて云く正嘉の大地震等の事は去る文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて故最明寺入道殿へ奉る所の勘文・立正安国論には法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に天地瞋をなし自界叛逆難と他国侵遍難起るべしと勘へたり、此には法華経の流布すべき瑞なりと申す先後の相違之有るか如何、答えて云く汝能く之を問えり、法華経の第四に云く「而も此の経は如来現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、同第七に況滅度後を重ねて説いて云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布せん」等云云、仏滅後の多怨は後五百歳に妙法蓮華経の流布せん時と見えて候、次ぎ下に又云く「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼」等云云、行満座主伝教大師を見て云く「聖語朽ちず今此の人に遇えり我れ披閲する所の法門日本国の阿闍梨に授与す」等云云、今も又是くの如し末法の始に妙法蓮華経の五字を流布して日本国の一切衆生が仏の下種を懐妊すべき時なり、例せば下女が王種を懐妊すれば諸女瞋りをなすが如し、下賤の者に王頂の珠を授与せんに大難来らざるべしや、一切世間・多怨難信の経文是なり、涅槃経に云く「聖人に難を致せば他国より其の国を襲う」と云云、仁王経も亦復是くの如し取意、日蓮をせめて弥よ天地・四方より大災・雨の如くふり泉の如くわき浪の如く寄せ来るべし、国の大蝗虫たる諸僧等・近臣等が日蓮を讒訴する弥よ盛ならば大難倍来るべし、帝釈を射る修羅は箭還つて己が眼にたち阿那婆達多竜を犯さんとする金翅鳥は自ら火を出して自身をやく、法華経を持つ行者は帝釈・阿那婆達多竜に劣るべきや、章安大師の云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐わり親むは即ち是れ彼が怨なり」等云云、又云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云。
  日本国の一切衆生は法然が捨閉閣抛と禅宗が教外別伝との誑言に誑かされて一人もなく無間大城に堕つべしと勘へて・国主万民を憚からず大音声を出して二十余年が間よばはりつるは竜逢と比干との直臣にも劣るべきや、大悲千手観音の一時に無間地獄の衆生を取り出すに似たるか、火の中の数子を父母が一時に取り出さんと思ふに手少なければ慈悲前後有るに似たり、故に千手・万手・億手ある父母にて在すなり、爾前の経経は一手・二手等に似たり法華経は「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と無数手の菩薩是なり、日蓮は法華経並びに章安の釈の如くならば日本国の一切衆生の慈悲の父母なり、天高けれども耳とければ聞かせ給うらん地厚けれども眼早ければ御覧あるらん天地既に知し食しぬ、又一切衆生の父母を罵詈するなり父母を流罪するなり、此の国此の両三年が間の乱政は先代にもきかず法に過ぎてこそ候へ。

 

現代語訳

疑っていわく、正嘉の大地震等のことについては、さる文応元年七月十六日に宿屋入道に託して、故最明寺入道殿へ奉じたところの勘文、すなわち立正安国論には、法然の選択集に委せて、日本の国が仏法を失うゆえに天神地神は瞋りをなし、自界叛逆難と他国侵遍難が必ず起こると考え論じている。しかし、ここでは正嘉の大地震等を法華経の流布する瑞相であるといっている。安国論と今と相違があるのかどうか。

答えていわく、あなたは能くこのことを質問した。法華経の第四の巻・法師品に「しかもこの法華経は釈迦如来の現在でさえなお怨嫉が多い。まして滅度の後はなおさらである」等と説かれ、同経第七の薬王品には「まして滅度の後はなおさらである」の意味を重ねて説いて「わが滅度の後、後の五百歳のうちに閻浮提に広宣流布するであろう」等と述べられている。これによれば仏滅後の多怨は後の五百歳である末法に妙法蓮華経が流布する時とみえる。その文の次下に「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等がつけいって、さまざまな災いをなすであろう」等ともある。

行満座主は伝教大師を見て「聖語は朽ちない。今この人に遇うことができた。私は披閲する所の法門を日本国の阿闍梨に授与する」と語っている。今もまた全く同様である。末法の初めに妙法蓮華経の五字を流布して日本国の一切衆生が久遠の仏の下種を受け妙法を懐妊すべき時である。

例えば下女が王の子を懐妊すれば、他の多くの女はねたんで瞋りをなすようなものである。下賎の者に王の頂の明珠を授与すれば大難が来ないはずはない。法華経安楽行品の「一切世間に怨多くして信じがたい」との経文はこれである。

涅槃経には「聖人に難を加えれば、他国からその国を襲う」と説かれている。仁王経もまた同様である。

日蓮を責めるならば、いよいよ天地、四方から大災害が雨のように降り、泉のように涌き、浪のように寄せてくるであろう。国の大蝗虫である諸僧、近臣等が日蓮を讒訴することがいよいよ盛んになるならば、大難はますます来るであろう。

帝釈天を射ろうとする修羅は、射た箭が還って己れの眼に刺さり、阿那婆達多竜を火攻めで害そうとした金翅鳥は、自ら火を出して自身を焼いてしまった。法華経を持つ行者は帝釈天や阿那婆達多竜に劣るであろうか。

章安大師は涅槃経疏に「仏法を壊乱する者は仏法の中の怨である。慈悲がなく詐り親しむのは、相手にとって怨となる」と説き、更に「彼のために彼の悪を除くことは彼の親にあたる行為である」と述べている。

日本国の一切衆生は法然の捨閉閣抛と禅宗の教外別伝との誑言にだまされて、一人も漏れなく無間大城に堕ちるであろうと勘えて、国主万民をはばかることなく大音声を出して二十余年の間叫んできたのである。この行為は竜蓬や比干といった諌臣に劣らないであろう。大慈悲の千手観音が一度に無間地獄のなかで苦しむ衆生を救い出すのに似ているといえようか。

火中の数人の子を父母が一時に取り出そうと思う時、手が少ないから、全部を一時に連れ出すことはできず、どうしても慈悲に前後があることになってしまう。故に仏法は、千手・万手・億手がある父母であらせられる。爾前の経々は、一手二手等の父母に似ている。法華経は方便品に「一切衆生を化導して皆ことごとく入道に入らしむ」とあるように、たとえば無数の手を持つ菩薩である。

日蓮は法華経ならびに章安の釈の通りであれば、日本国の一切衆生の慈悲の父母である。天は高いけれども耳が早いので聞かれているであろう。地は厚いけれども眼が早いので見ておられるであろう。天も地もすでに知っておられる。また日本国の一切衆生は彼等の父母を罵詈するのであり、父母を流罪にしているのである。この国のこの二、三年の間の乱政は、先代にも聞かない法外なことなのである。

 

語釈

宿屋の入道

宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260716日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。

 

最明寺入道

北条時頼(12271263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260716日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261512日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、聖人御難事(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。

 

立正安国論

文応元年(1260716日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で109答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。

 

法然

11331212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(121280歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。

 

選択

選択本願念仏集の略。上下二巻よりなる。選択本願念仏集解題によると、本書の選作については古来より二説があり、法然の弟子の作というものと、法然の作というものとがある。本書は当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)に選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛てという破仏法の義を立てたゆえに、当時においてすら、並榎の定照の「弾選択」、栂尾の明恵の「摧邪輪」三巻、および「荘厳記」一巻をもって破折されている。

 

自界叛逆難

仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。

 

他国侵遍難

他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。

 

悪魔

魔と同義。仏道修行、成仏を妨げる働きをするもの。煩悩に従って現れてくるもので、その種類は多いが、欲界の第六天・他化自在天を一切の魔の首領とする。

 

魔民

魔界の衆生。魔王の眷属の民衆。仏道修行を妨げる働きをするもの。

 

諸天竜

諸々の天神と竜神。

 

夜叉

梵語ヤクシャ(Yaka)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。

 

鳩槃荼

梵語クムバーンダ(Kumbhāṇḍa)の音写。人の精気を喰らう、馬頭人身の鬼。仏教では護法神となり、南方・増長天王の配下にある鬼の一つ。

 

選択

選択本願念仏集の略。上下二巻よりなる。選択本願念仏集解題によると、本書の選作については古来より二説があり、法然の弟子の作というものと、法然の作というものとがある。本書は当時、公卿の有力者であった九条兼実の依頼によって建久9年(1198)に選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門、難行道と易行道、雑行と正行とに分け、念仏以外の教えを捨てよ、閉じよ、閣け、抛てという破仏法の義を立てたゆえに、当時においてすら、並榎の定照の「弾選択」、栂尾の明恵の「摧邪輪」三巻、および「荘厳記」一巻をもって破折されている。

 

阿闍梨

梵語アーチャールヤ(ācārya)の音写。聖者・尊者・教授・正行などと訳す。弟子を教え導く高徳の僧。後世になって職名・僧位として用いられた。

 

蝗虫

バッタ目バッタ科の昆虫の総称。触角は短く,はねは退化したものからよく発達したものまで変化に富む。後肢は長く発達して跳躍に適している。雌は土中に穴を掘って産卵し,多くは卵の状態で越冬する。変態は不完全。草本,特にイネ科植物を好み,トノサマバッタのように大発生し,飛蝗となって農林作物に大被害を与えるものもある。イナゴ・トノサマバッタ・ショウリョウバッタ・オンブバッタなど。

 

阿那婆達多竜

八大竜王の一。古代インド伝説中の竜。長阿含経巻第十八にあり、大雪山にある無熱池に棲む竜王で、竜には熱風、熱沙に身を焼かれる苦、突風で塔や衣類を奪われる憂い、金翅鳥に狙われる苦の三種の苦悩があるが、この竜王は無熱池に棲むために苦悩がないといわれている。法華文句巻第二下に「この池は三患なし。若し鳥の心を起こして往かんと欲せば、即便ち命終わる。ゆえに無熱池と名づくなり」とある。

 

金翅鳥

天竜八部衆の一。古代インド伝説上の鳥。迦楼羅の訳名。翅や頭が金色なので、このように呼ばれる。翼をひろげると三百三十六万里あるとされ、須弥山の下に棲み、竜を食す猛鳥で、鳥の王といわれる。

 

捨閉閣抛

法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。

 

禅宗

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

竜蓬

中国古代夏王朝末期の人。関竜逢という。夏王朝最後の王・桀王につかえた諌臣。桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。これを見て竜逢は王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められ滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。

 

比干

中国古代の殷王朝の人。殷の紂王の叔父といわれる。殷の三仁の一人で、史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」といって殺し、その胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びたといわれる。

 

千手観音

千手を具す観世音菩薩のこと。六観音の一。千手千眼観自在、千眼千臂観世音と称し、身は金色を作し、千手に各々一眼を具し、紅蓮華上に半座し、円満な智慧をもって所願成就を司り、とくに一切衆生を地獄の苦悩から救うといわれている。

 

講義

正嘉の大地震等の災害について、立正安国論では、法然の選択集による一国謗法がその原因であると論じ、いま本抄の前段では、末法に法華経の流布する瑞相であると述べている。この矛盾をどう考えればよいかということである。

それに対してここで述べられているのは、末法に妙法を流布しようとするとき、必ず大難があること、この妙法を弘める聖人に難をなす故に国中に災禍が起こってくること、しかるに大聖人は、法然などの邪法によって無間地獄におちようとしている衆生を救う「一切衆生の父母」である、ということである。はじめの疑問に対して、この答えがどのようにそれを解いているのか、一見、わかりにくい。あえて論釈すれば、立正安国論で展開されている、一国謗法が災禍の原因であるということも、謗法による邪見のため、真実の法華経の行者である大聖人を迫害する故である、ということになる。つまり、もともと法に対する叛逆のため無間地獄におちなければならないところを、大聖人は「敢えてキズを出す」ことによって気づかせ、改めさせて救うために、厳しく指摘されたのである。もちろん、多くの人々は、大聖人を憎み、新たな謗法を犯した。

しかし、大聖人という〝人〟への叛逆によって、現世に種々の災禍があらわれ、それだけ、はやく気づくことができるようになる。いわんや、自らの謗法に目ざめて邪法を捨て正法に帰依した人々は、今世から成仏への直道を歩むことができる。この大慈大悲の心から、大聖人は、人々が信ずるか信じないで迫害するかにかかわりなく、あえて、謗法を呵責し、きびしい折伏を敢行されたのである。したがって、立正安国論で論じられている災禍の原因論も、本抄で述べられた瑞相という考え方も、末法弘通のために立たれた日蓮大聖人の第一身において互いに合致しており、なんら矛盾はないことになるのである。

 

爾前の経経は一手二手等に似たり。法華経は「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と、無数手の菩提是なり

 

爾前経は、衆生の機根に応じて説かれた、部分観の教法である。そこでは、声聞、縁覚の二乗、及び悪人、女人は絶対に救われないとされた。したがって、これら以外の、条件に叶った人々は、それなりに爾前の経々によって救われるということになる。だが、それは与えて論じた場合である。

現実には、いかなる人の生命にも、二乗の生命があり、悪逆の心が潜んでいる。また、男女の差も、性転換手術の可能なことが物語っているように、絶対的なものではない。したがって、これらの二乗、悪人、女人が絶対に成仏できないものとするなら、いかなる人も絶対に成仏はできないことになるのである。「爾前の経経は一手二手等に似たり」というのは、あくまで与えていわれたものであることを知らねばならない。

法華経にいたってはじめて、二乗も、悪人も女人も等しく成仏することが明かされ、十界互具、百界千如、一念三千の法理の上から、一切衆生皆成仏道が現実化されたのである。

 

日蓮は法華経並びに章安の釈の如くならば、日本国の一切衆生の慈悲の父母なり

 

法華経の文とは「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」の文であり、一切衆生に注ぐ無限の慈悲を意味する。章安の釈とは「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」の文で、このことから、一切衆生の無間の大苦を打ち破り、仏道に入らしめようとする御自身を、大慈悲の父母にたとえておられるのである。

父母たることの条件は、慈悲である。単に生み、育てることでもなければ、まして法律上の関係などではない。この本質的な原理からいえば「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦」(0758:第十六我亦為世父の事:05)と感じられ、その苦しみの根源を断ち切り、幸福境涯へ導こうとされた大聖人は、一切衆生の親なのである。

仏の資格は一切衆生に対して主・師・親の三徳を具備されていることにある。大聖人がこの主師親三徳具備の本仏であられることは開目抄をはじめ、諸御書で明らかにされている通りであるが、ここでは、とくにその親徳をあげて、御自身が末法救済の御本仏であることを明言されているのである。

 

 

第七章(母への孝養を説く)

本文

 抑悲母の孝養の事・仰せ遣され候感涙押へ難し、昔元重等の五童は五郡の異姓の他人なり兄弟の契りをなして互に相背かざりしかば財三千を重ねたり、我等親と云う者なしと歎きて途中に老女を儲けて母と崇めて一分も心に違はずして二十四年なり、母忽に病に沈んで物いはず、五子天に仰いで云く我等孝養の感無くして母もの云わざる病あり、願くは天・孝の心を受け給はば此の母に物いはせ給へと申す、其の時に母・五子に語つて云く我は本是れ大原の陽猛と云うものの女なり、同郡の張文堅に嫁す文堅死にき、我に一の児あり名をば烏遺と云いき彼が七歳の時・乱に値うて行く処をしらず、汝等五子に養はれて二十四年・此の事を語らず、我が子は胸に七星の文あり右の足の下に黒子ありと語り畢つて死す、五子葬をなす途中にして国令の行くにあひぬ、彼の人物記する囊を落せり此の五童が取れるになして禁め置かれたり、令来つて問うて云く汝等は何くの者ぞ、五童答えて云く上に言えるが如し、爾の時に令上よりまろび下て天に仰ぎ地に泣く、五人の繩をゆるして我が座に引き上せて物語りして云く我は是れ烏遺なり、汝等は我が親を養いけるなり此の二十四年の間・多くの楽みに値へども悲母の事をのみ思い出でて楽みも楽しみならず、乃至大王の見参に入れて五県の主と成せりき、他人集つて他の親を養ふに是くの如し、何に況や同父同母の舎弟妹女等が・いういうたるを顧みば天も争か御納受なからんや。

 

現代語訳

そもそも悲母の孝養のことを仰せつかわされましたが、誠に感涙押えがたい。

昔元重等の五人の童子は、五郡より集った姓を異にする他人であった。しかし、兄弟の契りをむすび互いに背かなかったから三千の財を貯えた。さて、われらには親という者がないと歎いて、あるとき、途で老女を得て母と崇め、一分も母の心に違(たが)わずに二十四年を経たのである。

ところが、母は突然病に沈んで物をいわない。五人の童子は、天を仰いで「われらに孝養の感がないので母は物をいわない病にかかった。願くは天よ、われらの孝養の心を受けられてこの母に物をいわせ給え」といった。

そのとき、母は五童子に向かって「私はもと太原の陽猛というものの女でした、同郡の張文堅に嫁ぎました。そののち文堅は死にました。我には一人の児があり、名を烏遺といいました。彼が七歳の時に戦乱にあい、行方が知れません。あなた方五人に養われて二十四年の間この事を語りませんでした。わが子には胸に七星の文があり、右足の下には黒子があります」と語り終えて死んだ。

五人の童子は埋葬する途中で国令の行くのに行きあった。すると、その国令は物を記した嚢を落した。そこで五人が取ったとして縛りつけた。国令は来て「お前達はどこの者か」と問うた。五童は先にいったようなことを答えた。そのとき、国令は上から転げおりて、天を仰ぎ地に伏して泣いたのである。そして、五人の縄を解いて、自分のいた座に引き上らせて物語るには、「私が烏遺である。あなた方はわが親を養ったのである。わたしはこの二十四年間、多くの楽しみに値ったけれども、母のことのみが思い出されて楽しみも楽しみとならなかった」と。

その後、国令は五人を大王に見参させて、五県の主とさせたのである。他人が集まって他人の親を養ってさえこのようなことがある。まして、父を同じくし母を同じくする弟妹が優しく尽せば、天もどうしてその孝心を受け入れないわけがあろうか。

 

語釈

元重等の五童

摩訶止観輔行伝弘決巻第四の三に、蕭広済の「孝子伝」を引用し、この話を出している。五童とは、元重、淑重、中重、季重、稚重の五人をいう。それぞれ中山郡、常山郡、魏郡、鉅鹿郡、趙郡と全く異郷の孤児であったが、たまたま衛の国で巡り合い、兄弟の契りを結び一老婆を母と崇めて孝養を尽くした。

 

太原

中国山西省の地名。

 

七星の文

北斗七星の形をした七つのあざか黒子をさすと思われる。

 

国令

①国の政令。②国主。

 

講義

四条金吾が母を憶い、孝養を営むことについて、いかに孝養が人間として大切なことであり、崇高な行為であるかを、中国の説話を通して教え示されたところである。

ここに示された中国の故事から、汲めども尽きぬ清浄で美しい人間性をみることができる。その一つは、見ず知らずの他人が集まって、実の母でない人に孝養を尽くしたことである。自分の親でさえ愛し慈しむことのできない中で、義理の母を心底から実母のように愛した行為は、実に美しい人間愛の発露である。

第二は、義母をわが母と崇めて24年の歳月、一分の心を違えることなく、孝養を尽くしたことである。一口で24年とはいうものの、四半世紀にもおよぶし、俗に二昔ということになる。だが五人にとっては、世間でいう長さや、絶対時間など問題ではない。もし、老婆が更に生きていれば、30年でも40年でも義母の心にそって、一分の心も違えず孝養を尽くしたことであろう。

第三は、義母の口がきけなくなったときに、「孝養の感が無くなったから母がものをいわなくなったのだ」と、五人が心から自戒したことである。常に自己を反省し、謙虚さを忘れぬ姿勢が、心を清浄無垢にすることを無言で暗示した例といえよう。

第四は、実子が尊貴な立場となっても、母を憶い浮べていたことである。いつの時代にあっても、人間の本性は変らぬものである。恵まれた境遇であっても、自分を産んだ母を忘れることはできない。それは時代を超えた尊い人間の条件にほかならないのである。

ともあれ、大聖人は、この説話を通して、人間愛の尊さを訴えられ、肉親の兄弟姉妹が協力し合って慈悲を尽くさなければならないことを教示されている。すなわち、母への孝養を通して、まず細かなことから出発して人間性を深め、身近な人に慈悲をかけることが大事であると、信仰者の姿勢と行動の規範を示されたわけである。

 

 

第八章(門下の信心を激励される)

本文

浄蔵・浄眼は法華経をもつて邪見の慈父を導びき、提婆達多は仏の御敵・四十余年の経経にて捨てられ臨終悪くして大地破れて無間地獄に行きしかども法華経にて召し還して天王如来と記せらる、阿闍世王は父を殺せども仏涅槃の時・法華経を聞いて阿鼻の大苦を免れき。

  例せば此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候、一日も寿あるべしとも見えねども各御志ある故に今まで寿を支へたり、是を以て計るに法華経をば釈迦・多宝・十方の諸仏・大菩薩・供養恭敬せさせ給へば此の仏・菩薩は各各の慈父悲母に日日・夜夜・十二時にこそ告げさせ給はめ、当時主の御おぼえの・いみじく・おはするも慈父・悲母の加護にや有るらん、兄弟も兄弟とおぼすべからず只子とおぼせ、子なりとも梟鳥と申す鳥は母を食ふ破鏡と申す獣の父を食わんと・うかがふ、わが子・四郎は父母を養ふ子なれども悪くばなにかせん、他人なれどもかたらひぬれば命にも替るぞかし、舎弟等を子とせられたらば今生の方人・人目申す計りなし、妹等を女と念はば・などか孝養せられざるべき、是へ流されしには一人も訪う人もあらじとこそ・おぼせしかども同行七八人よりは少からず、上下のくわても各の御計ひなくばいかがせん、是れ偏に法華経の文字の各の御身に入り替らせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。

  何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり、事繁ければ・とどめ候。

     四条金吾殿御返事                       日蓮花押

 

現代語訳

浄蔵と浄眼の二人は法華経をもって邪見の父を導いた。提婆達多は仏の御敵であり、四十余年の経々では見捨てられ、臨終の姿も悪くて大地が破れて無間地獄に堕ちたけれども、法華経で召し還されて天王如来と記別を授けられた。阿闍世王は父を殺したけれども仏の涅槃の時に、法華経を聞いて阿鼻地獄の大苦をまぬかれたのである。

例えばこの佐渡の国は畜生のようなものである。またこの国には法然の弟子が充満している。鎌倉で人々が日蓮を憎んだよりも百千万億倍も憎んでいる。よって、一日でも寿があるとは思えないが、あなた方の志のゆえに、今まで寿を支えてきたのである。このことをもって推し計ると、法華経を釈迦・多宝・十方の諸仏・大菩薩が供養恭敬されているので、この仏や菩薩達は、あなた方の父母に日々、夜々、十二時に、法華経の行者・日蓮があなた方の子によく助けられていますと告げられることであろう。現在、あなたが主君の寵愛を受けているのも、慈父悲母の加護によるのであろう。

兄弟も兄弟と思われるな。ただわが子であると思いなさい。だが子であっても梟鳥という鳥は母を食べる。破鏡という獣は父を食べようとそのすきをうかがう。わが子・四郎は父母を養う子であるが悪ければどうしようもない。他人であっても心から語り合えば命にも替わるのである。舎弟等をわが子とされたならば今生の味方となり、まして傍の目によいのはいうまでもない。妹達を娘と思えば、どうして孝養されないであろうか。

日蓮が佐渡へ流された時には一人も訪ねてくる人はないだろうと思っていたが、同行する者は七八人を下らない。上下の資糧もあなたがたのお計らいがなければどうにもならない。これはひとえに法華経の文字があなた方の身に入り替って日蓮を助けているのであると思う。

どのような世の乱れにも、あなた方を法華経・十羅刹よ助け給へと、湿っている木より火を出し、乾いた土より水を出すように、強盛な信心で祈っている。事が繁多となるので止めて置きます。

日 蓮  花 押

四条金吾殿御返事

 

語釈

浄蔵・浄眼

法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている妙荘厳王の二子で、仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、仏のもとで修行した。その後、外道を信じていた父を化導するため、父にいろいろな神通力を現じてついに仏の教えに帰依させた。その因縁をたずねると、昔仏道を求める四人の道士がいた。生活の煩いが多く修行が妨げられた。そこで一人が衣食を受けもち、他の三人が仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した道士がその功徳により国王と生まれ、他の三人は、その夫人と二王子に生まれ王を救うことを誓った。これが浄徳夫人、浄蔵、浄眼で、国王が妙荘厳王であるといわれる。

 

提婆達多

提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。

 

阿闍世王

阿闍世とは未生怨と訳される。釈尊在世ごろ中インドのマガダ国の王。父は頻婆舎羅王、母は韋提希夫人。父王に世継ぎがなかったので占師に夫人を占わせた。すると山中に仙人がいて、その仙人が死後に太子と生まれ変わると予言した。そこで王は早く子がほしいため、仙人の化身したうさぎを殺した。まもなく夫人は子を身ごもり、やがて男子が生まれた。子は長じて提婆達多に親近し、父を殺し、母を幽閉し、釈尊に危害を加えた。だが全身に悪瘡ができて臨終に近づいた。釈尊は阿闍世のために月愛三昧に入り涅槃経を説いた。その結果、悪瘡は癒えて寿命を延ばした。そのことで阿闍世は心から釈尊に帰依し仏滅後経典の結集に力を尽くしたといわれる。

 

十二時

一時は現在の二時間で、十二時で一昼夜、一日中のこと。十二時を二六時中ともいう。

 

梟鳥

梟鳥禽。フクロウのこと。俗に成長すると母を食うといわれるので、母食鳥とも不孝鳥ともいう。

 

十羅刹

羅刹とは悪鬼の意。法華経陀羅尼品に出てくる十人の鬼女で、藍婆、毘藍婆、曲歯、華歯、黒歯、多髪、無厭足、持瓔珞、皐諦、奪一切衆生精気の十人をいう。陀羅尼品に「是の十羅刹女は、鬼子母、并びに其の子、及び眷属と倶に仏の所に詣で、同声に仏に白して言さく、『世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す』」とある。

 

講義

邪見の親、邪智の師、暴逆の主であっても、法華経の功徳力によって、必ず成仏できることがまず説かれている。

次に、鎌倉よりも数百倍、数千倍、いな数億倍も大聖人を憎みきっている佐渡にあって、今日、命を長らえているのは、門下の信心の賜物であり、法華経・御本尊の加護であると仰せられている。

また、大聖人を命がけで守る四条金吾等に対して、一族における人間関係のあり方について指導され、最後に「何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助け給へと……強盛に申すなり」と、御自身逆境のさなかにありながらも、なおかつ、どこまでも弟子檀那を思われ、大慈大悲の御文をもって結ばれている。

 

兄弟も兄弟とおぼすべからず、只子とおぼせ

 

兄弟が互いに低い次元でおれば衝突も摩擦も起こりうる。利害が対立して、二度と合わない亀裂を生む場合すらある。そこで、兄弟同士がどうしたらつねに団結し力を合わせていけるか、その秘訣を教えられているのである。

「兄弟も兄弟とおぼすべからず」とは、他人と思えというのでは決してない。親が子を思うように思いなさいとの指南である。つまり、親が子を愛するような深く幅の広い境涯に立つべきであるとの示唆にほかならない。

ところで、子といっても、次下の文で示されるように、母を食うフクロウ、父を食う破鏡といった、子が親を殺して食べる畜生がいるように、親を食いものにする人間もある。反対に、他人であっても、本当に心が通じ合えば、生命をかけて守ってくれることもある。

ともあれ、弟を我が子と思い慈むならば、生きている限り自分の味方となり、傍からの目も兄弟愛に満ちた兄弟と映り、実に良いことである。妹を自分の娘であると常に親身になって思えば、必ず自分を守りいたわってくれることは間違いない。

こうした細かい人情の機微にふれて、思いやりあふれる指導をされている段である。

 

何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助け給へと、湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり

 

祈りというものが、本来、いかにあるべきかを、この御文から拝することができる。

およそ、自分自身のことは、自らの力で、どのようにでも切りひらいていくことができるものである。信仰者といえども、自身の努力以外の力によって事の成就を願うのは、人間の主体性を本源的に樹立することをめざした仏法の精神に反するのである。

その意味で「天は自ら助くるものを助く」というのは、人間として全ての人に通ずる大前提というべきであろう。その自らの力を養い、努力がそれにふさわしい結果を生むために、仏法の実践は測り知れない働きをするといえよう。

これに対し、自分以外の人に関することはただ祈る以外にない。まして、この時の大聖人のように、御自分は佐渡にあり、四条金吾はじめお弟子たちと遠く離れている場合、いかんともしがたい。このいかんともしがたいお弟子たちのことを、大聖人は「法華経・十羅刹助け給へ」と強盛に申されているのである。

しかも、その様は「湿れる木より火を出し、乾ける土より水を儲けんが如く」である。それは、合理性、理屈を超えたものであろう。だが、道理に合った当然のことであれば、祈るまでもなく、自身の力で努力すればよいのである。不可能と思われることを可能にするところにこそ、祈りの所以があるのだ。

ともあれ、このように、強い祈りをもって弟子たちのために祈られる大聖人のお心に、仏としての崇高なまでの大慈悲を拝することができる。

 

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