南条殿御返事(現世果報の事)

南条殿御返事(現世果報の事)

 建治2年(ʼ76)1月19日 55歳 南条時光

背景と大意

この書は、日蓮大聖人が五十五歳の時、身延で著されたものである。宛てられた相手は、通称・南条時光として知られる南条七郎次郎時光であり、駿河国富士郡上野の郷の地頭で、大聖人に深く帰依した篤信の門弟であった。

この書において大聖人は、『法華経』の文を引いて、末法において法華経の行者に仕える者は、たとえわずかな時間であっても、一劫のあいだ釈迦仏に仕えた者よりも計り知れないほどの功徳を得ると説いている。すべての仏が法華経の真実を証明し、その中に少しの虚偽もない以上、南条時光の誠の信心が、経文に示されている通り、現世において大いなる福徳をもたらすことは疑いなく、さらに亡き父にもその功徳が及ぶであろうと述べている。

 

 

第一章(法華経の真実なるを宣べる)

本文

  はるのはじめの御つかひ自他申しこめまいらせ候、さては給はるところのすずの物の事、もちゐ・七十まい・さけひとつつ・いもいちだ・河のりひとかみぶくろ・だいこんふたつ・やまのいも七ほん等なり、ねんごろの御心ざしは・しなじなのものに・あらはれ候いぬ。

  法華経の第八の巻に云く「所願虚しからず亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「当に現世に於て現の果報を得べし」等云云、天台大師云く「天子の一言虚しからず」又云く「法王虚しからず」等云云、賢王となりぬれば・たとひ身をほろぼせどもそら事せず、いわうや釈迦如来は普明王とおはせし時ははんぞく王のたてへ入らせ給いき・不妄語戒を持たせ給いしゆへなり、かり王とおはせし時は実語少人大妄語入地獄とこそ・おほせありしか、いわうや法華経と申すは仏・我と要当説真実となのらせ給いし上・多宝仏・十方の諸仏あつまらせ給いて日月・衆星のならばせ給うがごとくに候いしざせきなり、法華経にそら事あるならば・なに事をか人信ずべき、

 

現代語訳

新春早々の御使いお互いにお目出たい。さて、御供養たまわった種々の物のこと、餅七十枚、酒一筒、芋一駄、河のり一紙袋、大根二把、やまのいも七本などである。真心のこもったお志はこれらの品々にあらわれている。

法華経の第八巻普賢品に「願いは必ず叶い、また現世においてその果報を得るであろう」と、また同じく普賢品に「まさに現世において現実の果報を得ることができる」等と説かれている。天台大師は法華文句の中で「天子の一言には虚妄はない」と、また「仏に虚言はない」等と仰せになっている。賢王となった人はたとえ身を滅ぼすようなことがあっても虚言はしない。ましてや釈迦如来は普明王としておられた時、班足王との約束を守り、王の館に帰られた。不妄語戒を持っておられたゆえである。迦梨王と出会われたときは実語の少ない人と大妄語の人は地獄に堕ちる、と仰せられている。まして法華経は仏自ら「要ず当に真実を説く」と述べられたうえ、日月、衆星が並ぶように多宝仏、十方の諸仏が参集された座席で説かれたのである。法華経に虚言があるならば人は何を信じられようか。

 

語釈

申しこめ

①意思や願いなどを申し上げる。②相手に意思を伝える。

 

もちゐ

お餅のこと。

 

河のり

緑藻類の淡水藻。葉状体は扁平で薄く、食用とされる。山間の渓流中の岩に着生する。富士川やその支流で採取されている。

 

天台大師

(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。

 

普明王

梵語シュルタソーマ(Śrutasoma)の音写。須陀須摩王、須陀摩王ともいい、普明王は意訳。釈尊が過去世で国王として尸羅波羅蜜の修行をしていた時の名。須陀須摩王は、精進してつねに些細な約束事でも破らず、持戒波羅蜜を修したという。あるとき、斑足王に捕らえられ、他の999の諸王とともに首を斬られるところであったが、一人の婆羅門への供養をする約束を果たすために7七日間の猶予を乞うた。そこで斑足王は、帰国を許した。須陀須摩王は、彼の婆羅門に供養をし、王位を太子に譲って約束どおり王のもとにもどった。斑足王はその正直さにうたれて、須陀須摩王だけでなく他の999人の王をも許したという。賢愚経巻十一、大智度論巻四等にある。

 

はんぞく王

梵語カルマーシャパーダ(Kalmāṣapāda)の意訳。鹿足ともいう。足に斑点があり、そこから斑足王と名づけられた。邪師の教えにより千人の王の首を得ようとして999王を捕らえた。その1000人目として捕らえられたのが普明王であった。

 

不妄語戒

偽りの言葉をいわないこと。うそをつかないこと。五戒・十重禁戒のひとつ。

 

かり王

梵語カリ(Kali)の音写。迦利・歌梨とも書き、闘諍、悪生、悪生無道と訳す。釈尊が過去世に羼提波羅蜜の修行を行じていたときに、この王によって手、足、耳、鼻を切られた。しかし、少しも動じない仏の姿に恐れをなし、大いに悔いて仏門に入ったといわれる。

 

実語少人大妄語入地獄

「実語少なき人と大妄語、地獄に入る」の意。出典未詳。

 

要当説真実

方便品に「世尊の法は久しうして後に、要らず当に真実を説くべし」とある。

 

多宝仏

東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。

 

十方の諸仏

十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。

 

日月

日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。

 

衆星

多くの星。

 

講義

本抄は建治2年(1276)正月19日、聖寿55歳の御時、身延で書かれ、南条七郎次郎時光に与えられた御手紙である。

これより先、時光から日蓮大聖人に対して初春の祝賀を申し上げるとともに、真心の品々が御供養された。

その供養に対し懇切なる謝辞を述べられるとともに、その真心の供養の功徳によって時光自身が現世に大果報を得られるばかりか、亡き父への追善となると述べられ、讃えられている。御真筆は現存していない。

本抄はその内容から、別名を「現世果報御書」と称される。また「春始書」「初春書」ともいわれる。

まず初春のお祝い並びに御供養に対して、感謝の言葉を述べられたあと、経釈を引いて、法華経には絶対に虚妄はないことを強調されている。

引用されている「所願虚しからず亦現世に於て其の福報を得ん」「当に現世に於て現の果報を得べし」の文は、いずれも法華経第八の卷・勧発品第二十八の文であり、法華経受持と供養の功徳の絶大なることを説いた文である。

爾前経を依経とする宗派では「現世利益は宗教本来の目的からはずれる」と考える人々がいる。だが、この文をみてわかるように、釈尊自身、正しい仏法の実践には現世利益も厳然とあることを明確に示しているのである。むしろ現世利益を否定したら、〝衆生救済〟という仏法本来の目的に反することになる。

しかも、この法華経の文が嘘になることは絶対にありえないことを天台大師の「天子の一言虚しからず」また「法王虚しからず」の文を挙げて示されている。

法王とは仏のことである。譬喩品第三には「我れは為れ法王にして 法に於いて自在なり」とあり、また薬王品第二十三には「仏は為れ諸法の王なるが如く」等とある。

一般に〝賢王〟の発言には偽りがないとされるように、諸法の王たる仏の言には、いささかも虚妄はないとの意である。

「現世に於て其の福報を得ん」「現世に於て現の果報を得べし」との釈尊の法華経における約束は、必ず真実となるとの仰せである。

仏の言葉に偽りがないことの例証として、釈尊の過去である「普明王」の振る舞いと「かり王」と会った際の言葉を挙げられている。ここでは普明王の物語のみ略述しておきたい。

釈尊が過去世に菩薩の修行中、普明王といっていた時があった。

ある日、園林へ遊行のため城門を出ようとしたとき、一人の婆羅門から布施を請われた。

王は快諾し「私が帰るまで待っているように」といって、出かけていった。その遊行のさなか、班足王が現れ、王を捕らえて連れ去ったのである。

班足王は、ある邪師の言を入れて1000王の首を得ようとし、すでに999人の王を捕らえていた。ちょうど千人目が普明王だった。

普明王は嘆息した。「私は死ぬのが怖くて嘆くのではない。ただウソをつくことが残念なのだ。私は城を出るとき、一婆羅門と会い、布施することを約束してきたのだ」と、その心情を吐露した。

班足王は、普明王に一週間の余裕を与えた。王は城に帰ると、その婆羅門だけではなく、国中の婆羅門を集めて供養した。

そのあと王は、位を太子に譲り、周囲が諌めて止めようとするのを振り切って、「自分はウソをつかない。約束を果たす」と、ふたたび班足王の館へおもむいていった。

班足王は大いに歓喜し、「あなたは実語の人だ。本当の大人である」と讃歎した。そして、その邪見を改め、他の999人の王を許すとともに、自らも正法に帰依したといわれる。

これは普明王が不妄語戒を持っていたゆえであった。じつにこの「約束を守る」「信頼を裏切らない」ということが、王者の要件、また人間の条件であり、普明王はそのゆえにこそ命を賭けたのである。

まして法華経は、釈尊が自ら「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説きたまうべし」と、爾前の諸経で明かさなかった真実を明かした最勝の経である。

しかも、その会座に来至した多宝如来は「釈迦牟尼世尊の説きたまう所の如きは、皆な是れ真実なり」と述べ、十方の諸仏は広長舌相をもって、法華経が真実であることを証明しているのである。

大聖人は、もし法華経に偽りがあるとしたならば、人は何を真実として信じたらよいのであろうか、と述べられ、次の段で、このような法華経および法華経の行者に供養する功徳がいかに広大であるか、また、そのことを説かれている法華経が南条時光に限ってウソになるわけはないと、信を勧められるのである。

 

 

第二章(法華経の行者供養の功徳を示す)

本文

かかる御経に一華・一香をも供養する人は過去に十万億の仏を供養する人なり、又釈迦如来の末法に世のみだれたらん時・王臣・万民・心を一にして一人の法華経の行者をあだまん時・此の行者かんぱちの小水に魚のすみ・万人にかこまれたる鹿のごとくならん時、一人ありて・とぶらはん人は生身の教主釈尊を一劫が間・三業相応して供養しまいらせたらんよりなを功徳すぐるべきよし・如来の金言・分明なり、日は赫赫たり月は明明たり・法華経の文字はかくかく・めいめいたり・めいめい・かくかくたり、あきらかなる鏡にかををうかべ、すめる水に月のうかべるがごとし。

  しかるに亦於現世得其福報の勅宣・当於現世得現果報の鳳詔・南条の七郎次郎殿にかぎりて、むなしかるべしや、日は西よりいづる世・月は地よりなる時なりとも・仏の言むなしからじとこそ定めさせ給いしか、これをもつて・おもうに慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給い・だんなは又現世に大果報をまねかん事疑あるべからず、かうじんかうじん。

       建治二年正月十九日                 日 蓮 花 押

 

現代語訳

このような法華経に一華一香でも供養する人は、過去世に十万億の仏を供養した人であると述べられ、また釈迦如来の末法で、世の乱れている時に、王臣や万民が心を一つにして一人の法華経の行者に迫害を加えているとき、この行者が、早ばつのわずかばかりの水にすむ魚のように、また大勢の人間に囲まれた鹿のようになっているとき、一人この行者を助けに訪ねてくる人は、生身の教主釈尊を一劫の間、身・口・意の三業相応して供養し奉るよりも、なお功徳が勝れていると説かれている。如来の金言は分明である。日が赫々と照り、月が明々と輝くように、法華経の御文も赫々明々、明々赫々と照り輝いている。明鏡に顔を映し、澄める水に月の影を浮かべているようなものである。

それであるから「現世にその福報を得る」という如来の勅宣や、「必ず現世に現実の果報を得る」という経文が、南条七郎次郎殿に限って空しいはずがあろうか。日が西より昇るような世の中になり、月が大地から出るような時であっても、仏の御言葉に虚言はないと定められている。これをもって推し量れば、亡くなられた慈父の聖霊は教主釈尊の御前にお出になり、檀那(南条殿)はまた、現世に大果報を招くことは疑いない。幸甚幸甚。

建治二年正月十九日         日 蓮  花 押

南条殿御返事 

 

語釈

一華・一香

わずかばかりの華やお香。

 

末法

正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

 

生身の教主釈尊

「生身」は肉身の意味で、生きている釈尊のことをいう。

 

一劫

一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。

 

三業相応

身口意の三業が相応して欠けないこと。心に思い、言葉で述べ、身で行うことが一致していること。

 

如来の金言

仏の説法。真実の言葉。

 

勅宣

天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。

 

鳳詔

みことのり。詔勅のこと。鳳は鳥の王とされ、そこから国王、天子、仏の言葉をさして用いられた。

 

だんな

「檀那」と書く。布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。

 

大果報

大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。

 

講義

法華経に供養する人は過去世に十万億の仏を供養した善業の人であること、さらに重ねて末法の法華経の行者を供養する果報がいかに広大であるかが法華経に説かれていることを示され、南条時光父子の現当二世にわたる功徳を称歎されて、結ばれている。

「過去に十万億の仏を供養する人」とは、法華経法師品第十の「已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於いて、大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ず」の文による。末法において日蓮大聖人門下として御本尊を信受し、一華・一香をも供養することができるのは、計り知れない大果報をもった身であることを確信すべきであろう。

続いて、末法五濁乱漫の世に、あらゆる人々が法華経の行者を憎み迫害している時に、一人立ち上がって法華経の行者を供養し守る功徳が、釈尊を供養する功徳よりはるかに大きいことが述べられている。

この「法華経の行者」とは、いうまでもなく御本仏日蓮大聖人の御事である。

当時、身延山中における御生活の様子は、「かんぱちの小水に魚のすみ・万人にかこまれたる鹿のごとくならん」と述べられるように、まことに逼迫したものであり、その大聖人を訪ねて供養する功徳は、釈尊を一劫の間、身口意の三業で供養することより、なお勝るとの仰せである。

同趣旨の御文は、弘安4年(12819月御述作の「南条殿御返事(法妙人貴の事)」でも「釈迦仏は・我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候」(1578:05)と述べられている。

このように供養の功徳に違いがあるのは、まず第一に、末法の法華経の行者・日蓮大聖人が「教主釈尊より大事なる行者」(0363:下山御消息:01)、であり、釈尊よりはるかに偉大な久遠元初の自受用報身如来であられるゆえである。

また第二に、供養する側としても、周囲の迫害を覚悟してでなければできることではないから、より強い信心がその基盤にあるからである。

「如来の金言・分明なり」と仰せのように、これはほかならぬ釈尊自身の説示である。

この点については、法師品第十に「人有って仏道を求めて 一劫の中に於いて……持経者を歎美せば 其の福は復た彼れに過ぎん」とあるのがそれである。

法華経の文々句々が真実であるということはすでに明々赫々である。したがって「亦現世に於いて、其の福報を得ん」「当に現世に於いて、現の果報を得べし」との、仏の勅宣、鳳詔たる経文が、供養の志厚く、純真不屈の信心に徹する時光に限って空しかろうはずがないと、一層の確信を促されているのである。

「日は西よりいづる世・月は地よりなる時なりとも・仏の言むなしからじとこそ定めさせ給いしか」と重ねて強調されているように、絶対に妄語のないのが仏説である。

したがって、日蓮大聖人を敬い、献身的に供養の誠を尽くす時光の信心によって、亡き父は必ず成仏するであろうし、また、時光自身も現世において大福運に包まれることは間違いないと断言されて本抄を結ばれている。「かうじんかうじん」の御言葉に、時光の信心を讃えて莞爾とされる大聖人の慈顔が拝されるのである。

新春にあたって、この御手紙をいただいた時光の感激はいかばかりであったろうか。年頭から予想される苦難に対し、不屈の若い血潮を燃えたぎらせたであろうことは想像に難くない。

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