南条殿御返事(大橋太郎の事)
建治2年(ʼ76)閏3月24日 55歳 南条時光
背景と大意
第一章(供養の品々の徳用を挙げる)
かたびら一つ・しおいちだ・あぶら五そう、給び候い了わんぬ。 ころもはかんをふせぎ、また、ねつをふせぐ。みをかくし、みをかざる。法華経の第七やくおうほんに云わく「裸なる者の衣を得たるがごとし」等云々。心は、はだかなるもののころもをえたるがごとし。もんの心は、うれしきことをとかれて候。ふほうぞうの人のなかに商那和衆と申す人あり。衣をきてむまれさせ給う。これは先生に仏法にころもをくようせし人なり。されば、法華経に云わく「柔和忍辱衣」等云々。 こんろん山には石なし、みのぶのたけにはしおなし。石なきところには、たまよりもいしすぐれたり。しおなきところには、しお、こめにもすぐれて候。国王のたからは左右の大臣なり。左右の大臣をば塩梅と申す。みそ・しおなければ、よわたりがたし。左右の臣なければ、国おさまらず。 あぶらと申すは、涅槃経に云わく「風のなかにあぶらなし。あぶらのなかにかぜなし」。風をじする第一のくすりなり。 かたがたのものおくり給びて候。御心ざしのあらわれて候こと、申すばかりなし。せんずるところは、こなんじょうどのの法華経の御しんようのふかかりしことのあらわるるか。「王の心ざしをば臣のべ、おやの心ざしをば子の申しのぶる」とは、これなり。あわれ、ことののうれしとおぼすらん。
現代語訳
帷一領、塩一駄、油五升、たしかにいただいた。 衣は寒さを防ぎ、また暑さを防ぎ、身を隠し、身を飾るものである。法華経第七の巻薬王品に「裸者が衣を得たるが如し」とある。この意は、裸でいる者が衣を得たようなものであるということで、文の心は嬉しさを述べたものである。 付法蔵の人のなかに、商那和衆という人がいて、衣を着て生まれてこられた。これは前世で仏法に衣を供養した人である。それゆえ、法華経には「柔和忍辱の衣」等と説かれている。 崑崙山には珠ばかりで石がない。身延の嶽には塩がない。石のないところでは珠よりも石の方が勝れ、塩のないところでは、塩は米よりも勝れている。国王の宝は左右の大臣である。左右の大臣のことを塩梅という。味噌、塩がなければ、生きていくことは難しい。左右の臣がいなければ国は納まらない。油というのは、涅槃経に「風の中に油はない。油の中に風はない」と述べて、風病を治す第一の薬である。 さまざまな品々を送っていただき、そこにあらわれているお志は、言葉ではいいつくすことができない。それも結局は故南条殿の法華経の御信用が深かったことがあらわれたものだろうか。王の志を臣がのべ、親の志を子が申しのべるとはこのことである。故殿は嬉しく思っておられるであろう。 付法蔵の人のなかに、商那和衆という人がいて、衣を着て生れてこられた。これは前世で仏法に衣を供養した人である。それゆえに法華経には「柔和忍辱の衣」等と説かれている。
語釈
かたびら 夏の着物の一種。「片方」という意で、古くは、衣服に限らず、裏のつかないものの総称であった。それが、平安中期には、公家装束の下着である単小袖をさすようになり、小袖が男女の表着となると、麻や絹縮みの単衣を帷と呼ぶようになった。
いちだ 馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。
如裸者得衣 薬王菩薩本事品の文。「裸なる者の衣を得たるが如く」と読む。法華経が一切衆生の願いを満たす功力を譬えた文。
ふほうぞう 釈尊滅後に摩訶迦葉が教法を結集し、それを阿難に付嘱し、阿難はまた商那和修に伝え、以下、獅子尊者まで、計二十四人に受け継がれた。付法蔵因縁伝に詳しい。
商那和衆 梵語シャーナヴァーサ、シャナカヴァーサ(Śāṇavāsa、Śaṇakavāsa)の音写。商那和修、舎那婆修、奢搦迦、商諾迦縛娑とも書く。麻衣と訳す。付法蔵の第三祖。中インド王舎城の長者で、釈尊滅後、阿難の弟子となり阿羅漢果を得、摩突羅、梵衍那、罽賓の地に遊行教化した。優波毱多に法を付嘱した。付法蔵因縁伝巻二に商那和修について「昔商那和修、商主として諸の賈客五百人と共倶に大海に入て珍宝を採らんとせしに、其の前む路に辟支仏の身の重病に嬰りて、気命羸れ惙へたるを見て、諸の商人即ち停住し、医薬を求めて之を治療し……是の辟支仏は商那衣を著す。爾の時、商主、諸の香湯をもって辟支仏を浴せしめんとして、その衣の弊悪なるを見て、上妙の衣を奉献せんとす。時に支仏此衣を著て出家成道し、又涅槃に入るべしと、此の功徳に依て和修、母の胎に処りしより商那衣を著し、乃至身と倶共に増長せり……よって即ち号して商那和修という」とある。
先生 前生のこと。前世・過去世のこと。
柔和忍辱衣 正法を素直に受持し、いかなる難にも屈せず耐え忍ぶ心構えを衣にたとえたもの。法華経を弘通するための規範・衣座室の三軌のひとつ。「柔和」とは性格がやさしくおとなしいとの意で正法をすなおに受け持つこと。忍辱とはいかなる迫害や辱めにも屈せず信心を貫くこと。
こんろん山 崑山ともいい、チベット高原・タリム盆地・モンゴル高原にまたがる大山脈をいう。古来、美玉を産する山として有名。
みのぶのたけ 山梨県南巨摩郡身延町にある山。標高1148㍍。日蓮大聖人は文永11年(1274)佐渡から帰られ、3度目の諫言が聞き入れられなかったので、同年5月、身延の地頭・萩井六郎実長の招きで身延山中に草庵を結んだ。入山後は諸御書の執筆、弟子の育成に当たられ、弘安2年(1279)には出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊を建立された。弘安5年(1282)9月、身延山をたって常陸の湯治に向かう途中、武蔵国池上の地で入滅された。大聖人の滅後の付嘱を受けて久遠寺別当となられた日興上人が墓所を守っていたが、五老僧の一人・日向の影響で地頭の実長が謗法を犯し、日興上人の教戒を受け付けようとしなくなったことから、身延を離山して大石ケ原に移られた。
塩梅 味をほどよく加減すること。転じて、臣下が君主を助けて適切な政治をさせることをいう。ここでは転じた意。書経の説命篇下に「若し和羹を作れば、爾は惟れ塩梅」とあり、苑氏がこれを註して「羹は塩梅にあらずんば和せず、人君、美質ありといえども、必ず賢人の輔導を得て乃ち能く位を成す。羹を作るに、塩過ぐれば則ち鹹く、梅過ぐれば則ち酸く、塩と梅と中を得て然る後に羹を成す、臣の君に於けるも、当に柔を以て剛を済い、可を以て否を済い、左右規正して以てその徳を成す」とある。
涅槃経 釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
風のなかに・あぶらなし・あぶらのなかに・かぜなし 涅槃経に「熱病有る者は蘇能く之を治し、風病有る者は油能く之を治し、冷病有る者は蜜能く之を治す。是の三種の薬は、能く是の如き三種の悪病を治す。善男子、風の中に油無く、油の中に風無し」とある。風病は風の毒に侵されて起こるとされる病気で、頭痛・四肢の疼痛・運動障害などをさしている。
こなんでうどの (~1265)南条兵衛七郎入道行増のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒で、南条時光の父。幕府の御家人で氏は平氏。伊豆国南条(静岡県伊豆の国市韮山町南條)を本領としていたので南条の名がある。後に駿河国富士郡上野郷(静岡県富士宮市)の地頭となった。文永2年(1265)3月に死去した。
講義
本抄は、建治2年(1276)閏3月24日、日蓮大聖人が身延において著されて南条時光に与えられた御消息である。大橋太郎とその子の故事が引かれているので別名を「大橋太郎御書」「大橋書」ともいい、また「報南条七郎次郎書」とも呼ばれている。御真筆は大石寺に現存する。 内容は、はじめに南条家より帷や塩・油などが御供養されたことに感謝されるとともに、それが時光の信心の表れであり、さらに根本的には故南条兵衛七郎の信心を時光が表しているのであり、故人もどんなにか喜んでいるであろうと称賛されている。そして、罪を得て捕らえられていた大橋太郎を、その子息が、法華経読誦の功徳により将軍源頼朝の心を動かして救った故事を詳しく引かれて、時光が信心に励むことこそ亡父への最高の孝養となることの例証とされている。 最後に、蒙古の襲来は、鎌倉幕府が大聖人の諌暁を用いないばかりか迫害したのだからやむをえないことであるとされ、時光がより強盛な信心に励むよう勧められている。 南条時光は、日蓮大聖人が身延に入られた直後の文永11年(1274)7月に、身延へ登山しお目通りしてから、純真に信心に励んでおり、翌12年(1275)1月に日興上人が大聖人の御名代として父兵衛七郎の墓へ詣でられた後は、日興上人の御指導を仰ぎ、その弘教を助けている。 また、文永11年(1274)7月以後、建治二年閏三月まで二年たらずの間に、現存するだけでも十一通の御消息をいただいており、数々の御供養をしていることがうかがえる。 本抄でも、はじめに南条家から帷・塩・油を御供養したことに対して、それぞれの徳用を挙げられ、時光の信心の表れとして喜ばれている。 帷というのは麻の単衣のことで、夏用の衣料であり、旧暦の閏三月は初夏にあたるので、暑さに向かって帷が御供養されたものであろう。大聖人は「ころもはかんをふせぎ又ねつをふせぐ・みをかくし・みをかざる」と、衣の徳用を挙げられている。 そして、薬王菩薩本事品第二十三の「裸なる者の衣を得たるが如し」の文を引かれて「もんの心はうれしき事をとかれて候」と述べられている。薬王品の文の本義は、法華経が一切衆生を利益してその願いを叶えることの譬えの一つとして挙げられたものであり、衆生にとって嬉しいことの代表として説かれたものであると述べられ、時光の帷の御供養に対する謝意として述べられたのである。 次に、付法蔵の第三である商那和衆の故事を引かれている。商那和衆については「妙法比丘尼御返事」(1406)に詳しく述べられているので参照していただきたい。 要するに、衣服は人間にとって貴重な宝であり、それを供養した南条時光の真心を讃えられるとともに、辟支仏に衣を供養した商那和衆の得た福徳を挙げることによって、末法の法華経の行者である日蓮大聖人に帷を御供養した南条時光が、どれほど大きな福徳を得るかを教えられているのである。 さらに法華経法師品第十には「柔和忍辱衣」とあることを挙げられ、仏法修行者のそなえるべき柔和忍辱の徳が衣になぞらえられていることを教えられ、衣というものの重要性を示されている。
こんろん山には石なし……風をぢする第一のくすりなり
次に、塩と油の徳用を挙げられている。塩については「みのぶのたけにはしをなし……しをなきところには・しを・こめにもすぐれて候」と仰せになっているように、海から遠く隔たった身延の山中にあっては、塩が入手しにくく、貴重であった。 この点については弘安元年(1278)九月の南条時光への御消息にも「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井・河北は早河・東は富士河・西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間・山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず、富人なくして五穀ともし・商人なくして人あつまる事なし、七月なんどは・しほ一升を・ぜに百・しほ五合を麦一斗にかへ候しが・今はぜんたい・しほなし、何を以てか・かうべき、みそも・たえぬ、小児のちをしのぶがごとし」(1551:04)と述べられていることから、うかがえる。 塩は人間が生きていくために必要不可欠なものであり、塩が欠乏すると肉体的にも精神的にも大きな障害が起こるため、塩の入手に人々は並々ならぬ努力を注いできたのであった。 先史時代には塩のとれる海岸・塩湖・岩塩のある場所は交易の重要な中心になり、塩のための交易路さえ開かれている。 日本での古い製塩法は、海藻に海水をふりかけてかわかし、その海藻を焼いて塩をとる方法だった。のちに、海水を煮詰めて塩をとる方法も行われたが、能率が悪く不経済だったので、濃縮した塩水を集める方法として塩田が発達した。しかしそれも乾元年間(1303)以後といわれており、大聖人御在世当時はまだ「藻塩焼く」原始的な製塩法が行われていたと考えられる。 南条家が御供養した塩は、駿河湾で製塩されたものか、あるいは、駿河に隣接する三河・尾張が古くからの塩の産地だったので、その方面から入手したものとも考えられる。 また、このときに「塩一駄」、弘安元年(1278)9月に「塩一駄」、弘安2年(1279)8月に「しほ一たわら」、弘安4年(1281)9月に「塩一駄」、弘安5年(1282)正月に「白塩一俵」と、南条家からは、たびたび塩が御供養されており、その間隔から毎年2俵程度を定期的に身延へお届けしていたのではないかと推測される。 そして、「国王のたからは左右の大臣なり・左右の大臣をば塩梅と申す、みそしを・なければよわたりがたし・左右の臣なければ国をさまらず」と、中国の故事に国王を補佐する左右の大臣を塩と梅に譬えることを引かれて、味噌や塩の調味料がなければ生活できないことを示され、塩の貴重なことを述べられている。 塩梅とは塩と梅酢のことで、中国の古書に「熱い吸い物は塩と梅酢が適当でなければならず、主君も必ず賢人の補導がなければならない。吸い物を作るのに塩が過ぎれば塩からく、梅酢が過ぎれば酸っぱく、塩と梅酢がちょうどよくてはじめて吸い物になる。臣下が主君を助けるにも、柔で剛を救い、可で否を救い、左右あい正してその徳を成すのである」とあるのによる。 なお、味噌は大豆、米、麦などを蒸してつき砕き、麹と塩を混ぜて発酵させたもので、当時の味噌も現在と大差はないものだったようだが、それだけをなめる「なめ味噌」だった。 油については、涅槃経に引かれて「風をぢする第一のくすりなり」とされていることから、この油は食用油だったのであろう。
かたがたのものをくり給いて……うれしと・をぼすらん
大聖人は、そうした品々を御供養したことを「御心ざしのあらわれて候事申すばかりなし」と時光の信心の表れとされたうえで、「せんするところは・こなんでうどのの法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるるか」と、それも亡き父・兵衛七郎の信心が深かったことの表れであろうと称賛されているのである。 そして、「王の心ざしをば臣のべ・をやの心ざしをば子の申しのぶるとはこれなり、あわれことのの・うれしと・をぼすらん」と仰せになり、時光の純真な信心と大聖人への御供養は、亡き父の遺志を正しく果たすものであり、それをどれほど喜んでいることだろうかと、兵衛七郎の心中を思いやられている。このことは、時光の御供養が亡き父への最高の孝養となっていることを教えられていると拝されるのである。
第二章(大橋の太郎と子息の故事を引く)
本文
つくしにををはしの太郎と申しける大名ありけり、大将どのの御かんきを・かほりて・かまくらゆひのはまつちのろうにこめられて十二年めしはじしめられしとき・つくしをうちいでしに・ごぜんにむかひて申せしは・ゆみやとるみとなりて・きみの御かんきを・かほらんことは・なげきならず、又ごぜんに・をさなくよりなれしかいまはなれん事いうばかりなし、これはさてをきぬ、なんしにても・によしにても一人なき事なげきなり、ただしくわいにんのよし・かたらせ給う・をうなごにてやあらんずらん・をのこごにてや候はんずらん、ゆくへをみざらん事くちおし、又かれが人となりて・ちちというものも・なからんなげき・いかがせんとをもへども・力及ばずとていでにき。
かくて月ひすぐれ・ことゆへなく生れにき・をのこごにてありけり、七歳のとし・やまでらにのぼせてありければ・ともだちなりけるちごども・をやなしとわらひけり、いへにかへりて・ははにちちをたづねけり、ははのぶるかたなくして・なくより外のことなし、此のちご申す天なくしては雨ふらず・地なくしてはくさをいず、たとい母ありとも・ちちなくばひととなるべからず、いかに父のありどころをば・かくし給うぞとせめしかば・母せめられて云うわちごをさなければ申さぬなり・ありやうはかうなり、此のちごなくなく申すやう・さてちちのかたみはなきかと申せしかば、これありとて・ををはしのせんぞの日記・ならびにはらの内なる子に・ゆづれる自筆の状なり、いよいよをやこひしくて・なくより外の事なし、さて・いかがせんといゐしかば・これより郎従あまた・ともせしかども・御かんきをかほりければ・みなちりうせぬ、そののちは・いきてや又しにてや・をとづるる人なしと・かたりければ・ふしころび・なきて・いさむるをも・もちゐざりけり。
ははいわく・をのれをやまでらにのぼする事は・をやのけうやうのためなり、仏に花をもまいらせよ・経をも一巻よみて孝養とすべしと申せしかば・いそぎ寺にのぼりて・いえへかへる心なし、昼夜に法華経をよみしかば・よみわたりけるのみならず・そらにをぼへてありけり、さて十二のとし出家をせずして・かみをつつみ・とかくしてつくしをにげいでて・かまくらと申すところへたづねいりぬ。
八幡の御前にまいりて・ふしをがみ申しけるは・八幡大菩薩は日本第十六の王・本地は霊山浄土に法華経をとかせ給いし教主釈尊なり、衆生のねがいをみて給わんがために神とあらわれさせ給う、今わがねがいみてさせ給え、をやは生きて候か・しにて候かと申して・いぬの時より法華経をはじめて・とらの時までに・よみければ・なにとなき・をさなきこへはうでんに・ひびきわたり・こころすごかりければ・まいりてありける人人も・かへらん事をわすれにき、皆人いちのやうに・あつまりてみければ・をさなき人にて法師ともをぼえず・をうなにてもなかりけり。
をりしも・きやうのにゐどの御さんけいありけり、人めをしのばせ給いてまいり給いたりけれども御経のたうとき事つねにもすぐれたりければはつるまで御聴聞ありけりさてかへらせ給いておはしけるがあまりなごりをしさに人をつけてをきて大将殿へかかる事ありと申させ給いければめして持仏堂にして御経よませまいらせ給いけり。
さて次の日又御聴聞ありければ西のみかど人さわぎけり、いかなる事ぞとききしかば・今日はめしうどの・くびきらるると・ののしりけり、あわれ・わがをやは・いままで有るべしとは・をもわねども・さすが人のくびをきらるると申せば・我が身のなげきとをもひて・なみだぐみたりけり、大将殿あやしと・ごらんじて・わちごはいかなるものぞ・ありのままに申せとありしかば・上くだんの事・一一に申しけり、をさふらひにありける大名・小名・みすの内みな・そでをしぼりけり、大将殿.かぢわらをめして・をほせありけるは.大はしの太郎という・めしうど・まいらせよとありしかば・只今くびきらんとて・ゆいのはまへ・つかわし候いぬ、いまはきりてや候らんと申せしかば・このちご御まへなりけれども・ふしころびなきけり、ををせのありけるは・かぢわらわれと・はしりて・いまだ切らずばぐしてまいれとありしかば・いそぎ・いそぎゆいのはまへ・はせゆく、いまだいたらぬに・よばわりければ・すでに頚切らんとて刀をぬきたりけるとき・なりけり。
さてかじわら・ををはしの太郎を・なわつけながら・ぐしてまいりて・ををにはにひきすへたりければ・大将殿このちごに・とらせよとありしかば・ちごはしりをりて・なわをときけり、大はしの太郎は・わが子ともしらず・いかなる事ゆへに・たすかるともしらざりけり、さて大将殿又めして・このちごに・やうやうの御ふせたびて・ををはしの太郎をたぶのみならず、本領をも安堵ありけり。
大将殿をほせありけるは法華経の御事は昔よりさる事とわききつたへたれども・丸は身にあたりて二つのゆへあり、一には故親父の御くびを大上入道に切られてあさましとも・いうばかりなかりしに、いかなる神・仏にか申すべきと・おもいしに走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ千部と申せし時、たかをのもんがく房をやのくびをもて来りて・みせたりし上・かたきを打つのみならず・日本国の武士の大将を給いてあり、これひとへに法華経の御利生なり、二つには・このちごが・をやをたすけぬる事不思議なり、大橋の太郎というやつは頼朝きくわいなりとをもう・たとい勅宣なりとも・かへし申して・くびをきりてん、あまりのにくさにこそ十二年まで・土のろうには入れてありつるに・かかる不思議あり、されば法華経と申す事はありがたき事なり、頼朝は武士の大将にて多くのつみを・つもりてあれども法華経を信じまいらせて候へば・さりともと・こそをもへと・なみだぐみ給いけり。
現代語訳
昔、筑紫に大橋の太郎という大名がいた。大将殿の御勘気を受けて、鎌倉の由比ヶ浜の土の牢に十二年の間押し込められた。召し捕られて、筑紫を出る時、夫人に向かっていうには、「弓矢とる武士の身となって、主君の御勘気をこうむることを嘆くのではない。だが御前とは幼いころより親しくしてきたのを、いま離れることは、いいようもなく辛い。そのことはさておいて、男子でも女子でも、子が一人もいないことが歎きである。けれども、懐妊したと聞いた。女子であろうか、男子であろうか、見届けることができないのは残念なことである。また、その子が一人前となって、父という者がいないのを歎くであろう。どのようにすべきか、と思うけれども、どうすることもできない」といって、出発した。
やがて月日が過ぎて、無事に生まれたのは男の子であった。七歳の年、山寺に登らせたが、友達となった稚児達は、親なし子と笑った。その子は家に帰って母に父のことをたずねた。母は話すことができなくて、泣くよりほかにしかたがなかった。
この稚児は「天がなければ雨は降らない。地がなければ草は生えない。たとえ母上はあっても、父上がいなければ人として生まれるはずがない。どうして父上の居所を隠されるのですか」と問い詰めたので、母は責められて「あなたが幼かったのでいわなかったのです。事情はこうです」と話した。
その稚児は泣く泣く「それでは父の形見はないのでしょうか」というと、「これがあります」といって、大橋の先祖の日記、ならびに、腹のなかにいた子に譲った自筆の書状を取り出した。ますます父親が恋しくなって、泣くよりほかにはなかった。「それでは、いったいどうしたらいいのですか」というと、「父上がここを出発の時は、家来の者も数多く供をしたけれども、御勘気をこうむったのであるから、皆散り失せてしまいました。その後は、生きておられるのか、また死んでおられるのか、様子を知らせてくれる人もいません」と語ったので、稚児は、うつぶし、まろび泣き、いさめてもいうことを聞き入れなかった。
母は「あなたを山寺に登らせたことは、父上への孝養のためです。仏前に花をも捧げ、経を一巻なりとも読んで孝養をしなさい」と諭したので、稚児は、急ぎ寺に登って、家に帰る心を起こさなかった。昼も夜も法華経を読んだので、読み通せるようになっただけでなく、そらに覚えるほどになった。
やがて、十二の年に出家をしないで髪をつつみ、どうにか苦心して筑紫を逃げ出して、鎌倉というところへ尋ね着いた。
鶴岡八幡宮の御前にまいって、伏し拝んでいうには「八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土において法華経をお説きになった教主釈尊です。衆生の願いをかなえられるために、神とお現れになったとお聞きします。いま、私の願いをかなえてください。父親は生きているのでしょうか。死んでいるのでしょうか」といって、戌の時より法華経を読み始めて、寅の時まで読み続けたので、何ともいえぬ幼い声は宝殿に響きわたり、心にしみわたるようであったので、参詣にきていた人々も、帰ることを忘れてしまった。人々が市のように集まって、見れば幼い人で、法師とも思われず、女人でもなかった。
ちょうど京の二位殿が御参詣になっていた。人目を忍んでお詣りされたのであるけれども、御経の声の尊いことはいままでにこえて勝れていたので、読み終わるまで御聴聞された。そしてお帰りになったが、あまりに名残りおしいので、人をその場につけておき、大将殿にこのようなことがありましたと申されたので。大将殿は稚児を呼ばれて持仏堂で御経を読ませられた。
さて、次の日、また御経を御聴聞されていると、西の御門で人が騒いだ。「どうしたのか」と聞けば、「今日は囚人が首を斬られるのだ」と大声でいっていた。その時稚児は「ああ、我が親は今まで生きているとは思えないけれども、やはり人が首を斬られると聞けば、我が身のなげきのごとく思われる」と涙ぐんでしまった。大将殿はそれを不審に思われて、「和児はいかなる者か、ありのままに申せ」と仰せになったので、稚児は、今までのことを一々申し上げた。お側についていた大名、小名も、簾のうちの女房達も、みな感動して涙を流し袖をしぼったのであった。
大将殿は梶原景時を呼び寄せて「大橋の太郎という囚人を連れてまいれ」と仰せになると、梶原は「ただ今、首を斬るために由比ヶ浜に連れていったところです。今はもう、斬ってしまっているかもしれません」と答えたので、この稚児は御前であったけれども、ふしころびながら泣いた。大将殿が「梶原、自ら走っていって、まだ斬っていなかったら、連れてまいれ」と仰せられたので、梶原は急いで由比ヶ浜へ駈けつけて行った。いまだ行きつかぬうちに大声で叫んで制止したのは、まさに頸を斬ろうとして刀を抜いた時であっ
さて、梶原は大橋の太郎を縄のついたまま連れてきて、大庭にひきすえた。大将殿から「その者をこの稚児に与えなさい」との許しがあったので、稚児は走り下りて縄をといた。大橋の太郎は我が子とも知らず、どういうわけで助かったのかも知らなかった。さて、大将殿はまたこの稚児を呼び寄せて、種々の御布施を与え、大橋の太郎を下げ渡されただけではなく、本領をももとのように下された。
大将殿が仰せになるには「法華経の功徳は昔から様々に伝え聞いていたけれども、自分も身に当たることが二つある。一つは亡き親父の御首を太政入道に斬られて、無念とも何ともいいようがなかったので、いかなる神仏に祈念すべきかと思っていたところ、走湯山の妙法尼より法華経を読み習って千部を読誦した時、高雄の文覚房が親父の首を持って来て見せたうえ、仇を討つことができただけでなく、日本国の武士の大将となることができた。これはひとえに法華経の御利益である。二つには、この稚児が親を助けたことは不思議である。大橋の太郎というやつは、頼朝はけしからぬ者と思っていた。たとえ許すようにと勅宣が下されようとも、それをお返しして、首を斬ったであろう。あまりの憎さに十二年まで土の牢に入れておいたが、このような不思議があった。そのため、法華経の御利益というのはありがたいことである。頼朝は武士の大将として多くの罪が積もっているけれども、法華経を信じ申し上げているので、悪道に堕ちることはないであろう、と思っている」と涙ぐまれた。
語釈
つくし
九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
ををはしの太郎
俗伝では平安末期の武将・平通貞のこととされているが、吾妻鏡等にそうした記録はない。通貞は、通称大橋太郎左衛門尉といったとっされ、伊勢平氏の祖維衡の末裔、祖父は平家貞、父は平貞能、家貞は平忠盛の側近として活躍した。父の貞能も平清盛の腹心とし、筑後・筑前・肥後などの九州各地の国守を歴任した。平氏一族の凋落とともに九州における彼の威勢も衰えた。文治2年(1186)貞能の子通貞は頼朝の勘気を受け囚われの身となり、12年間、鎌倉由比ヶ浜の土牢にあった。通貞の子、貞経は、童名を一妙麿といい、深く法華経を信仰するようになり12歳の時、父を尋ねて筑紫から鎌倉にのぼった。鎌倉の八幡宮で法華経を読み、父が見つかるようにと願いをかけた。その功徳によって、父は処刑される寸前に助けられ、本領も無事返されたとの説があるが、史書・古文書の文献がなく、実在の人物でないとする説もある。
御かんき
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
わちご
児はやや成長した子供のこと。童児、おさなご。「和」は接頭語で、親愛感や、身近な者に対する軽い敬意、また軽侮の気持ちをあらわす。
八幡
八幡宮のことで、八幡神を祭神とする神社。
八幡大菩薩
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
本地
①現れたところの化身に対し、それを現わす本身を本地という。大地が万物のよりどころとなるように、種々の外相も真実相を根本としている。また天月を本地、池にうつった月を垂迹にたとえることもある。一般には、仏菩薩が衆生を済度するために、仮の姿で現れた垂迹に対して、その真実身である仏菩薩をいう。天台の本地は釈尊であり、日蓮大聖人の本地は久遠元初自受用報身如来であり、天台を薬王如来の再誕、日蓮大聖人を上行菩薩の再誕といわれているのは、垂迹の姿である。②本来の境地。
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
はうでん
①神宝・奉納品などを納めておく建物。②立派な宮殿のこと。
きやうのにゐどの
藤原兼子(1155~1229)のこと。藤原範兼の娘。後鳥羽天皇の乳母。卿局・卿二位と呼ばれた。後鳥羽上皇の後宮にあって権勢を振るう。上皇の鎌倉幕府に対する政策につねに参与していたという。ただし、兼子は京都に在住しており、御文の内容から、ここにいう二位殿とは、源頼朝の妻・政子のことと思われる。
かぢわら
(~1200)。梶原景時のこと。鎌倉時代初期の武将。坂東平氏の一族、五郎景清の子。通称は平三。大庭景親のもとに一度は頼朝を破ったが、追撃すると見せて頼朝と和を結び、臣下として平氏追討に功績をあげた。その後も頼朝の信任を受け要職を得たが、人を讒訴することが多く、源義経も景時の讒言によって退けられている。だが結城朝光を讒言し、かえって諸将の排斥を受けて滅ぼされた。
本領
もとからの領地。代々受け継がれた土地。
大上入道
(1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
走湯山
静岡県熱海市伊豆山のこと。ここに伊豆山神社がある。源頼朝・政子夫妻が厚く尊崇したとされる。
妙法尼
伝不詳。伊豆の国、伊豆山神社に住み、法華経を行じていた尼。源頼朝はこの尼について法華経を読んでいたといわれる。吾妻鏡巻一・治承4年(1180)8月18日の条には「伊豆山に法音と号する尼あり、これ御台所の御経師、一生不犯の者たり」とある。
たかをのもんがく房
生没年不明。平安末から鎌倉初期の真言宗の僧。京都高雄山神護寺の再興者。俗名は遠藤盛遠。上西門院に仕える北面の武士であったが、18歳の時、誤って源渡の妻・袈裟御前を殺害し、これを悔いて出家して文覚と称した。諸国を巡って荒行を重ね、神護寺の荒廃を見て再興を思いたち、後白河法皇に募財を願ったが、とりつがれなかったため乱暴を働き、伊豆に流された。配流の地で源頼朝に会い、挙兵を勧めて尽力し、ひそかに平家追討の院宣を得た。鎌倉幕府成立後、頼朝の厚遇を受け、神護寺・東寺の修復を許された。しかし頼朝没後、謀反の企てに関与したとして正治元年(1199)佐渡に流され、3年後に許されて帰京したが、三度罪を得て鎮西に流され、その地で没したといわれる。なお「をやのくびをもて来りて……」との記述は、平家物語巻五等にあり、文覚が、頼朝の父義朝の首を取り出して挙兵を勧めたという。
御利生
衆生を利益すること。利益衆生の意味。
勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
講義
南条時光の故父への孝養に関連し、ここで大聖人は、源頼朝の勘気を受けて囚われていた九州の大名・大橋の太郎を、その子息が法華経読誦の功徳で救った故事を詳しく引かれている。
この大橋の太郎については、吾妻鏡等の史書にその記録がみられず、古文書等にもそうした記述が見当たらないため、実在の人物ではないとする説もあった。江戸時代になって大橋氏の後裔と称する者が家譜によるとして、平清盛の臣だった肥後守平貞能の子・通貞が大橋太郎左衛門尉と称しており、それが大橋太郎であり、その子・貞経が幼名を一妙麿といって、その父子の事跡が大聖人の御書の記述どおりであるといい出して、それがその後の通説のようにはなっているが、確たる根拠はない。
また、一説によると、文治2年(1186)に書かれた古文書に、肥前国(佐賀県)神埼の大名・窪田太郎が源氏方の武将に捕えられたとあり、神埼郡内に「大橋」の地名が残っているところから、「大橋の太郎」の「大橋」は地名を指していて、「窪田太郎」と同一人物であろう、ともされている。
いずれにせよ、大聖人の記述が詳しく具体的であるところから、当時はその父子の故事が法華経読誦の功徳談として生き生きと語られていたことがうかがえる。
「大将殿の御勘気を・かほりて」とあるのは、鎌倉幕府を開設した征夷大将軍源頼朝の怒りをかつて捕らえられたことをいう。頼朝のことを「大将殿」「右大将家」などと呼ぶのは、平氏を壇ノ浦で滅ぼした後、征夷大将軍を望んだ頼朝に対して、後白河法皇は常置の武官としては最高の地位であった右近衛大将と権大納言の位を与えたのみだったので、頼朝はいったんそれを拝受したが、3日後にそれを返上しているので、その後は「前右大将」と呼ばれるようになり、後白河法皇の死後に征夷大将軍となってからもそのまま用いられていた。
大橋の太郎が平通貞だったとすれば、父平貞能は平氏の有力な武将として肥後国の国守をつとめており、平氏滅亡の後は行方をくらましたが、元暦2年(1185)7月に宇都宮朝綱のもとへ出家して降り、頼朝の許しを受けて朝綱に預けられているので、通貞はその後、幕府に反抗して捕らえられたものであろうか。
また肥前国神埼の窪田太郎とすれば、吾妻鏡の文治二年(1186)月に神埼御庄の兵粮米を停止すべき院宣があり、天野藤内遠景へ神埼庄の武士の濫行を停止すべしとの頼朝の命が下されていることと関連があると考えられる。
いずれにしても、12年間も獄につながれた後に処刑されようとしたことや、「大橋の太郎というやつは頼朝きくわいなりとをもう・たとい勅宣なりとも・かへし申して・くびをきりてん、あまりのにくさにこそ十二年まで・土のろうには入れてありつるに……」と頼朝が語っていることから、よほど深い怒りをかっていたことがうかがえる。
そうした重罪人だった大橋の太郎の一子は、父が囚われた後に生まれたので顔も知らなかったが、父を慕って十二の年にはるばる九州から鎌倉まで行き、鶴岡八幡宮で父の行方を知りたいと祈って法華経を読誦した。その音声が居合わせた頼朝の妻・政子を感動させ、頼朝に招かれて持仏堂で法華経を読誦することになった。その折に罪人が処刑されると聞いて涙ぐんだので、頼朝にその理由をたずねられて身の上を話したところ、処刑寸前の父を救うことができたのである。
頼朝はそれを自分が法華経を読誦したことによって親の敵である平氏を討ち滅ぼしたうえに、日本国の武士の頭領となることができたのと同じで、法華経を信じた功徳であるとしている。
「故親父の御くびを大上入道に切られて」とは、頼朝の父・義朝が、平治の乱に破れ尾張の国まで落ちのびて旧臣長田忠致を頼ったが、逆心を起した忠致に殺されたことをいい、それを命じたのが平清盛だったために、平氏の一族を敵としたのである。義朝の三男で、まだ若かった頼朝は、一命を助けられ、伊豆に流されたが、父義朝の追善のために法華経千部転読の願いをおこし、八百部に至ったとき平氏討伐の軍を起こした、と吾妻鏡等に記されている。
大聖人は、源平争乱の結果、平氏が滅びて頼朝が権力を握った理由を「日蓮小智を以て勘えたるに其の故あり……国主となる事は大小皆・梵王・帝釈・日月・四天の御計いなり、法華経の怨敵となり定まり給はば忽に治罰すべきよしを誓い給へり、随つて人王八十一代・安徳天皇に太政入道の一門与力して兵衛佐頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め山王を氏神とたのみしかども安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺さる一門・皆一時にほろび畢んぬ……現世の祈禱は兵衛佐殿・法華経を読誦する現証なり」(0372:16)と述べられている。
源平の合戦は当時までの史上最大の内乱であり、日本を二分する武力抗争であった。栄華を誇った平氏が滅びたのは亡国亡家亡人の悪法たる真言によって源氏を調伏したために還著於本人の結果となったもので、源氏の勝利は頼朝が法華経を読誦した功徳だったのである。
なお、当時はすでに末法に入っていたのだから、「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(1546:11)と仰せのように、法華経だけを読誦しても功徳がなかったのではないかと思われるが、末法に入ったといってもまだ御本仏・日蓮大聖人が御出現になる以前のため、天台宗のように真言の邪法に染まった信仰でなく、純粋に法華経のみを信じて読誦する功徳はまだ残っていたのである。
頼朝は法華経の功徳を実感していたからこそ、大橋の太郎の子が父のために法華経を読誦したことに免じて死罪を許して赦免したばかりか、所領まで安堵したのである。
第三章(時光の孝養の志を称える)
本文
今の御心ざしみ候へば故なんでうどのは.ただ子なれば・いとをしとわ.をぼしめしけるらめども・かく法華経をもて我がけうやうをすべしとは・よもをぼしたらじ、たとひつみありて・いかなるところに・おはすとも・この御けうやうの心ざしをば.えんまほうわう・ぼんでん・たひしやく.までも・しろしめしぬらん、釈迦仏・法華経もいかでか・すてさせ給うべき、かのちごのちちのなわを・ときしと・この御心ざし・かれにたがわず、これはなみだをもちて・かきて候なり。
現代語訳
今の貴殿の御志を見ると、故南条殿は、親子であるから、いとおしいとは思われていたであろうが、このように法華経をもって自分の孝養をしてくれるだろうとは、よもや思われなかったであろう。たとえ、罪があっていかなるところにおられようとも、このご孝養の志を、閻魔法王も、梵天、帝釈天までも知っておられるであろう。釈迦仏、法華経もどうして捨てられることがあろうか。かの稚児が父の縄をといたことと、貴殿の御志とは少しも違うものではない。この返書を、涙によって書いているのである。
語釈
えんまほうわう
閻魔法王のこと。閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。
ぼんでん
大梵天王のこと。梵語マハーブラフマン(Mahãbrahman)。色界四禅天の中の初禅天に住し、色界諸天および娑婆世界を統領している王のこと。淫欲を離れているため梵といわれ、清浄・淨行と訳す。名を尸棄といい、仏が出世して法を説く時には必ず出現し、帝釈天と共に仏の左右に列なり法を守護するという。インド神話ではもともと万物の創造主とするが、仏法では諸天善神の一人としている。
たひしやく
帝釈天王のこと。梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
講義
大橋の太郎の故事を受けて、今、時光が大聖人に御供養申し上げ、正法信仰の志を表していることは、亡き父に対する最高の孝養となっていることを示されている。そして時光の供養の功徳は必ず父の後生を助けており、その孝心は大橋の太郎の子息にも劣らない、と最大に称賛されているのである。
妙法への信心こそが、亡き父母への最高の孝養となる法理は、盂蘭盆御書に「目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生・三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ」(1430:03)と述べられている。
「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(1429:05)と示されているように、正法を信ずる功徳によって我が身が仏になり、その功徳が亡き父母や祖先はもとより、他人にまで及んでいくのが回向であり、それこそ最高の追善供養となり、孝養となるのである。
また、建治3年(1277)5月の南条時光の御消息には「御信用あつくをはするならば・人のためにあらず我が故父の御ため・人は我がをやの後世には・かはるべからず・子なれば我こそ故をやの後世をばとぶらふべけれ、郷一郷・知るならば半郷は父のため・半郷は妻子・眷属をやしなふべし」(1539:16)と仰せになっている。
家門を大切にし、先祖を敬う心の強かった当時の武士の心情を理解されながら、亡き父の後生を弔い、その霊を苦しみから救う最高の追善供養とは正法による回向であることを、繰り返し教えられているのである。
第四章(蒙古襲来の必至を示し信心を勧む)
本文
又むくりのおこれるよし・これにはいまだうけ給わらず、これを申せば日蓮房はむくり国のわたるといへば・よろこぶと申すこれゆわれなき事なり、かかる事あるべしと申せしかば・あだがたきと人ごとにせめしが・経文かきりあれば来るなり・いかにいうとも・かなうまじき事なり、失もなくして国をたすけんと申せし者を用いこそあらざらめ、又法華経の第五の巻をもつて日蓮がおもてをうちしなり、梵天・帝釈・是を御覧ありき、鎌倉の八幡大菩薩も見させ給いき、いかにも今は叶うまじき世にて候へば・かかる山中にも入りぬるなり、各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり、御信用の上にも力もをしまず申させ給え、あえてこれよりの心ざしのゆわきにはあらず、各各の御信心のあつくうすきにて候べし、たいしは日本国のよき人人は一定いけどりにぞなり候はんずらん、あらあさましや・あさましや、恐恐謹言。
後三月二十四日 日 蓮 花 押
南条殿御返事
現代語訳
また、蒙古が攻めてくるということは、こちらではまだうかがってはいない。蒙古のことをいうと「日蓮房は、蒙古国が攻めてくるといえば喜ぶ」といわれているようだが、それはいわれのないことである。このようなことがあるであろうといったので、仇、敵のように人々は日蓮を責めたのであるが、経文に説かれてあるので、攻めて来るのである。どのようにいわれようとも、いたし方がないことである。
何の罪もない、ただ国を助けたいという者を用いようとしないばかりか、法華経の第五の卷をもって日蓮の顔を打ったのである。梵天・帝釈はこれを御覧になっていたし、鎌倉の八幡大菩薩も見られた。どんなにしても、今は諌めを聞き入れられない世であるから、このような山中に入ったのである。
あなた方のことも不憫とは思うけれども、助けることは難しいであろう。しかし昼夜に法華経に祈念している。あなたも御信用のうえにも、力を惜しまずに祈念されるがよい。あえてこちらの志が弱いためではない。あなた方の御信心が厚いか薄いかによるのである。
結局は、日本国の身分の高い人々は、必ず生け捕りになるであろう。まことにあさましいことである。恐恐謹言。
後三月二十四日 日 蓮 花 押
南条殿御返事
語釈
むくり
蒙古のこと。13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
法華経の第五の巻
法華経八巻の巻第五。提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品からなる。このうち勧持品の二十行の偈には、末法の法華経の行者を迫害する三類の強敵が説かれている。
講義
本抄を結ぶにあたって、大聖人は蒙古襲来が近いとの風評によせて、蒙古襲来は、大聖人が経文にあるとおりを訴えたのが的中したのであって、「立正安国論」をはじめとする諌言を為政者が用いないばかりか、かえって大聖人を迫害したのであるから、これを防ぐことはできないと述べられ、大聖人の門下の人々も、いっそう信心に励まなければ助からないであろうと指導されている。
「むくりのおこれるよし・これにはいまだうけ給わらず」と仰せられているのは、文永11年(1274)10月の第一回蒙古軍の来襲以来、再び近く蒙古軍が侵攻するとの風評が時光から伝えられたものであろう。
蒙古は文永の役でいったんは撤退したが、日本侵攻をあきらめたわけではなく、翌文永12年(1275)4月には日本に朝貢をして服属すべしと勧告するための宣諭使・杜世忠らを送ってきている。幕府は蒙古の使者5人を竜の口で処刑し、強い拒否の姿勢を示した。そして、九州方面の防備を固めるため、異国警護番役を強化し、九州諸国の守護を交代させ、また博多湾に石築地を築造する作業にかかっている。建治2年(1276)3月から石築地を築く工事が開始されており、そうしたことが蒙古襲来近しとの風評を生んだとも考えられる。
そして、「これを申せば日蓮房はむくり国のわたるといへば・よろこぶと申すこれゆわれなき事なり」と、蒙古の襲来を大聖人が喜んでいるとの風評を否定され、それを防ごうとして「立正安国論」の提出をはじめとして度々為政者に警告を発し諌暁してきたにもかかわらず、用いないどころか迫害するに及んだので、「他国侵逼難」等の経文の予言のとおりに蒙古が攻めてくるのであると指摘されている。
「法華経の第五の巻をもつて日蓮がおもてをうちしなり」とは、文永8年(1271)9月12日の竜の口法難の際、平左衛門尉が大聖人を召し捕らえに来た時、平左衛門尉の家来である少輔房が、大聖人の懐中の法華経第五の卷をとって、大聖人のお顔を打ちすえたことをいわれている。こうして捕らえられた大聖人を平左衛門尉は、謀反人のように市中を引き回し、その深夜、竜の口の刑場へ送ったのである。
なお、法華経第五の卷で打たれたことの意義については、「勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり……及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず……日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(1557:02)と述べられている。すなわち、末法に正法を弘通する者には必ず三類の敵人が出現し刀や杖による留難があると記されている法華経第五の卷で打たれたことは、大聖人が末法の法華経の行者であることを示す見事な符合なのである。
この事実を「梵天・帝釈・是を御覧ありき、鎌倉の八幡大菩薩も見させ給いき」と仰せになっているのは、八幡は日本の守護神ではあるものの、法華経の敵となった国を守るわけにはいかないのである。かりに八幡があくまで日本国を守ろうとしても、更に強力な法華経守護の神である梵天・帝釈も、日本の国が法華経の行者を迫害したのを見ているから、その日本を八幡が守ろうとすれば、八幡自身が梵天・帝釈から治罰されるのである。ゆえに、日本を蒙古襲来から守ることは、もはや不可能となったのであり、大聖人は蒙古から日本を守るため最善を尽くしたが、もう叶わないので身延へ入山したのであると仰せられている。
しかし、なおかつ大聖人は、けっして日本の国が滅びて民衆が苦悩に沈むのを座視されていたのではない。そのことは「各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり」との御文に明らかである。
そして、蒙古襲来という大難を前にして、その悲惨な災いを脱れるために大切なことは、一人一人の信心の厚薄であることを強調され、時光に対しても、御本尊に強盛に祈念していくよう勧めて、本抄を結ばれている。