光日房御書
建治2年(ʼ76)3月 55歳 光日尼
背景と大意
この手紙は、建治2年(1276年)3月、日蓮大聖人が安房国天津の尼・光日房(こうにちぼう)に宛てて身延で書かれたものです。光日房は武士・弥四郎の母で、息子が先に日蓮大聖人の教えに帰依したことから、自身も信徒となりました。大聖人が佐渡に流罪となっていた時も衣類などを供養し、身延入山後も信心を貫いて供養を続けた篤信の女性であり、『種種御振舞御書』など複数の御書を賜っています。
光日房が信心を持ってしばらくして、息子・弥四郎は亡くなります。この手紙は、武士として人を殺めた弥四郎の来世を案じた光日房の手紙に対する返信です。大聖人は、弥四郎が母を法華経へ導いた功徳によって、母の強い信心により悪道から救われると励まし、深い悲しみの中でも信心を失わなかった彼女を称えています。
前半では、文永8年(1271)9月に大聖人が幕府の怒りを受けて佐渡へ流罪となり、文永11年(1274)に赦免され身延に入山するまでの経緯が記されています。後半では、弥四郎の死を知った大聖人がその人物像を回想し、母の悲しみに深く同情を寄せます。そして「小さな過ちでも悔いなければ悪道に堕ちるが、大罪であっても真剣に懺悔すれば消える」として、仏教の「懺悔(さんげ)」の原理を説きます。阿闍世王などの例を引き、たとえ弥四郎が悪を犯していても、母が釈尊の御前で日夜祈りを捧げれば必ず救われ、やがて親を仏道へ導くであろうと安心させています。
最後に大聖人は、法華経の敵対者に心を惑わされないよう強く戒め、信心を貫くよう光日房を励ましています。
第一章(懐郷の情を述べる)
本文
去ぬる文永八年太歳辛未九月のころより御勘気をかぼりて北国の海中、佐渡の島にはなたれたりしかば、なにとなく、相州鎌倉に住みしには、生国なれば安房国はこいしかりしかども、我が国ながらも人の心もいかにとやむつびにくくありしかば、常にはかようこともなくしてすぎしに、御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外にはなたれし上は、おぼろけならではかまくらへはかえるべからず。かえらずば、また父母のはかをみる身となりがたしとおもいつづけしかば、いまさらとびたつばかりくやしくて、「などか、かかる身とならざりし時、日にも月にも、海もわたり山をもこえて、父母のはかをもみ、師匠のありようをもといおとずれざりけん」となげかしくて、彼の蘇武が胡国に入って十九年、かりの南へとびけるをうらやみ、仲丸が日本国の朝使としてもろこしにわたりてありしが、かえされずしてとしを経しかば、月の東に出でたるをみて、「我が国、みかさの山にもこの月は出でさせ給いて、故里の人も只今、月に向かってながむらん」と心をすましてけり。
現代語訳
去る文永8年(1271)太歳辛未九月のころから、御勘気を蒙って北国の佐渡が島へ放逐されてしまった。なんとなく相州・鎌倉に住んでいたときは、故郷であるから安房の国は恋しかったけれども、安房の国は自分の国でありながら人の心も、どういうわけか親しみにくかったので、平素は往き来することもなく過ごしてしまった。だが、このように御勘気の身となって、死罪となるべきであったのが、減刑になって、さしあたり国外へ追放されてしまった以上は、特別なことでもなければ鎌倉へは帰れそうにない。帰れなければ再び父母の墓に参る身になり難い、と思い続けていたので、今更のように飛び立つばかりに悔しく、どんなに苦労しても父母の墓へも参り、師匠の様子をも、問い訪ねなかったのかと、嘆かわしく思っていた。かの蘇武が皇帝の命を受けて胡国に使いをしたまま捕われて、十九年の間、不自由な生活を送り、そのとき、雁が南へ飛ぶのを見ては、うらやましく思い、また仲丸が日本国の朝廷の使いとして、唐へ渡ったが、そのまま帰国が許されずに、年を経、月が東に出たのを見ては、日本のみかさの山にもこの月は出て、ふるさとの人々も今、同じくこの月をながめていることであろうと思った、そのような心境で日蓮は佐渡の地で心を澄ましていた。
語釈
文永八年太歳辛未九月
文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難およびその後の佐渡流罪をさす。太歳とは、中国の戦国時代の半ばごろに、木星が天を一周するのに12年かかることが観測され、木星の位置を明示して一般の共通紀年法とすることから始まった。すなわち、黄道赤道に沿った一周天を卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅の順に12等分し、年ごとに木星のあるところの干支を順序に従って、その年に命名することにしたのである。木星を歳星といったので、これを歳星紀年法という。ところが、当時すでに周天には歳星の運行とは逆の向きに十二支が配されていたので、歳星は寅から丑・子・亥……と逆方向に進むことになり、混乱を生ずることとなった。そこで、歳星と逆方向に進行する歳星の影像を仮想し、これを太歳または歳陰と名づけ、歳星が丑にあるときは太歳は寅にあり、翌年歳星が子にあるときは太歳は卯にあるということにした。このように太歳の所在によって、正しく子・丑・寅……の順序に進むようにしたのが、太歳紀年法または歳陰紀年法である。この十二支だけでは12年で一周してしまうので、十干を組み合わせ、60年周期にして年紀を示したものである。この十干十二支の方法は、中国殷代につくられた十進法で、十干は一太陰月を上中下の三旬に分け、その一旬10日の毎日につけた記号から始まったといわれる。十二支は1年12ヵ月を示すための記号から起こったという説がある。ただし、十二支の子をネズミ、丑を牛というように動物をあてはめたのは中国・戦国時代からである。干支は殷・周時代はおもに日を数えるのに用いられ、年月を数えるために用いられるようになったのは戦国時代から、さらに1日を等分して時間を示すために用い始めたのは漢代からといわれる。また方向を示すために用いられるようになったのは、戦国時代からである。十干十二支とは幹と枝に見立てた呼称で、母子に見立てて十母十二子と呼ばれたこともある。現在、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干を甲・乙・丙・丁……と呼ぶのは陰陽五行説の影響で、木・火・土・金・水の五行に兄弟を付して「木の兄」「木の弟」……というように十干に呼び名をつけたものである。
安房の国
千葉県南端部。房州ともいう。北は鋸山、清澄山を境として上総に接し、西は三浦半島に対して東京湾の外郭をなしている。養老2年(0718)上総国から平群、安房、長狭、朝夷の四郡が分かれ安房国となった。明治4年(1871)木更津県、同6年(1873)千葉県となり、現在に至っている。日蓮大聖人は、承久4年(1222)2月16日に安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市)の漁村に誕生された。
をぼろげならでは
特別なことがなければ。
師匠
師弟関係を持った間柄のうち身分の高い方を指す言葉である。
蘇武が胡国に入りて十九年
蘇武は中国前漢の武帝に仕えた名臣。字は子卿(前0140頃~前0060)。父蘇建が匈奴征伐に功績があったことから、天漢元年(前0100)武帝より中朗将の任を受けて、匈奴に使いをした。しかし、匈奴は漢の意向を破棄して伏せず、使者として当地に行った蘇武は捕われの身となった。蘇武は自害しようとしたがはたせず、穴牢へ幽閉され、以後19年間不自由な生活を送った。その間の蘇武への責めは過酷で、数日間飲食を断たれて雪を食べて生き抜くこともあった。幾度もの脅迫にも節を曲げず、とうとう後の昭帝の時代になり帰ることができた。昭帝は、匈奴に蘇武の帰還を要求したが、匈奴は、蘇武はすでに死去していると拒絶していた。そのとき、蘇武の身を救ったのは雁の足に付けられた帛書である。19年もの拘留という不遇で身はやつれ、髪は真っ白に変わっていた。しかし、無事帰国してからは、ふたたび昭帝の側近として仕え、功臣の誉を高くし、宣帝のときには関内侯の爵や、その後、数々の称号を賜っている。これは日蓮大聖人が、佐渡の島に流されてからの、降りしきる雪とたたかい、野草を摘んで食して飢えを耐え忍んだ、筆舌に尽くし難い生活を、蘇武の苦難の拘留生活に事寄せられてのべられたものである。
仲丸
阿倍仲麻呂(0698~0770)のこと。奈良時代の文学者。大和の人。霊亀2年(0716)遣唐留学生になり、留学生吉備真備、留学僧玄昉らとともに翌年遣唐大使多治比県守に従って入唐した。そこでは朝臣仲満、ついで朝衡と称して玄宗皇帝に仕えた。まず長安の大学に入学し、科挙に応じて進士科に及第し、唐朝廷に仕官して春宮坊司経局校、左拾遺、左補闕などに任ぜられた。天平5年(0733)遣唐使多治比広成らに従って帰国しようとしたが、唐朝はこれを許さず、さらに儀王友、衛尉少卿を歴任。0753年になって、遣唐使藤原清河に従って帰国の途についた。だが、その船は安南に流され、また唐に帰り、そこで一生を終わった。「妙心尼御前御返事」(1484)に「安部の中麻呂が漢土にて日本へかへされざりし時・東にいでし月をみてかのかすがのの月よと・ながめしも身にあたりてこそ・おはすらめ」と述べられている。在唐50余年、唐では文名高く、王維・李白らと交遊があり、わが遣唐使留学生のため大いに便宜をはかった。彼が故郷を慕って詠じた和歌が「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」である。
講義
この章は、大聖人が佐渡流罪のおりに、懐かしい故郷、安房の国を偲ばれ、故郷にある父母の墓にも参ることのできない心情を故事を挙げて吐露された段であり、望郷に事寄せ、故郷の人を大事に思われた大慈悲を表わされた段である。
さて、文中にある蘇武は漢の武帝に仕えた名臣である。匈奴に十九年の間捕われの身となったが、バイカル湖の畔で、野鼠を食べ、草の実を食べて飢えを忍び、漢への忠誠を曲げなかったのである。
阿倍仲麻呂は、平安の代に留学生として唐に渡り、玄宗皇帝の下で左散騎常侍として大いに活躍し、生涯を異郷の地で終えた逸材である。両者は共に、遠く故郷を離れ、自己の悲哀、自己の労苦に耐え、全生涯を国家と社会のために尽くした人物である。
だが日蓮大聖人の艱難は、蘇武や仲麻呂に似るべくもない。またわれらの想像を絶する苦難であったことは言を俟たない。しかしながら、敢えて大聖人の御振舞いを述べるならば、流罪、死罪に遇われながらも、悠然たる大富士をみるがごとく、大聖人はいかなる苦難にも従容として微動だにもなさらなかった。しかして、大難を莞爾として受けて立たれ、日本の民衆、閻浮提の、全世界の民衆のために、民衆の苦悩を根底より断たれんとして、妙法を弘められたのである。
「諸法実相抄」に「鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但偏に法華経の故なり」(1361:05)と。
「御義口伝」に「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(0758:04)と。
われらもまた、日蓮大聖人の、民衆を思われ、国を思われる大慈大悲の精神を堅持して、妙法広布に邁進すべきである。
第二章(仏法の故の流罪)
本文
此れもかく・をもひやりし時・我が国より或人のびんにつけて衣を・たびたりし時・彼の蘇武が・かりのあし此れは現に衣あり・にるべくもなく・心なぐさみて候しに、日蓮は・させる失あるべしとは・をもはねども此の国のならひ念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすかされぬるゆへに法華経をば上には・たうとむよしを・ふるまい心には入らざるゆへに、日蓮が法華経を・いみじきよし申せば威音王仏の末の末法に不軽菩薩を・にくみしごとく・上一人より下万人にいたるまで名をも・きかじ・まして形をみる事はをもひよらず、されば・たとひ失なくとも・かくなさるる上は・ゆるしがたし、まして・いわうや日本国の人の父母よりも・をもく日月よりも・たかくたのみ・たまへる念仏を無間の業と申し・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の邪法・念仏者・禅宗・律僧等が寺をばやきはらひ念仏者どもが頸をはねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給いたりと申すほどの大禍ある身なり、此れ程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は設ひ・そらごとなりとも此の世にはうかびがたし、いかにいわうや・これはみな朝夕に申し昼夜に談ぜしうへ平左衛門尉等の数百人の奉行人に申しきかせ・いかにとがに行わるとも申しやむまじきよし・したたかに・いゐきかせぬ、されば大海のそこのちびきの石はうかぶとも天よりふる雨は地に・をちずとも日蓮はかまくらへは還るべからず、
現代語訳
今、日蓮も流罪の地・佐渡の国で彼等のように故郷のことを思い遣っていたとき、故郷からある人の便宜に託して衣服を贈られたとき、かの蘇武が得たのはわずか雁の足に巻きつけた帛書のみであったのに、日蓮は現に衣服を贈られて、蘇武の喜びには比較にならないほどうれしく思った。日蓮はこれという失があるとは思わないが日本の国の人々の常として念仏者と禅宗と律宗と真言宗に騙されてしまったがゆえに、法華経を表面上では尊んでいるように振舞いながら、心では信じていないから、日蓮が、法華経が勝れた教えであるといえば、ちょうど威音王仏の像法の末の末法に、いっさいの四衆が不軽菩薩を憎んだように、上一人より下万人にいたるまで、日蓮の名を聞くまいとし、まして姿を見ることなどとんでもないと憎む者ばかりである。
であるから、たとえ失はなくても、このように佐渡にまで流されてしまったからには、そう簡単に赦されるはずがない。まして日本国の人々が父母よりも重く日月よりも高く信じている念仏を無間の業といい、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法であるから、念仏者・禅宗・律僧等の寺をば焼き払い、念仏者どもの首を刎ねるべきであると申すうえ、事実無根の讒言ではあるが故最明寺入道時頼・極楽寺入道重時の二人の入道殿は、無間地獄に堕ちたといったほどの大罪ある身である。これほどの大事を上下万人に言明した以上は、たとえそれが虚事であっても、再びこの世にはうかびがたい。
ましてや、これは日蓮が朝となく夕となくいい、昼となく夜となく万民に語り続けたうえ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に説得し、どのような科に処せられようとも、これは止めることはできない旨を、強くいい聞かせた。それ故、大海の底の、千人で引かなければ動かない大石がたとえ浮かび上がることがあろうとも、天から降る雨が地に落ちないことはあろうとも、日蓮は二度と再び鎌倉へ帰ることはできないのである。
語釈
彼の蘇武が・かりのあし
蘇武(前0140~前0060)は中国・前漢の武将。字は子卿。漢書によると、武帝の命により、匈奴王・単于への使者として匈奴の地に赴いた。到着後、囚われの身となり、単于から幾度も臣従を迫られたが、応じなかったので、穴牢に幽閉され、食物も与えられず、数日の間、雪と衣類を食べて生き延びた。匈奴の人は、蘇武をただ人ではないと驚き、北海(バイカル湖)の辺地に流して羊を飼わせた。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立し、漢は蘇武らの返還を要求したが、匈奴は、彼は死去したと偽った。その時、蘇武の家来が内密に漢使と会って「帝が都の近くで雁を射落としたところ、雁の足に絹の手紙が結びつけてあり、蘇武らはしかじかの沢にいると書いてあった、と言いなさい」と教えた。使者は家来に言われたとおり単于に問いただした。驚いた単于は、しかたなく蘇武を帰すことにした。匈奴に囚われて19年間、漢に戻る折には、髪は真っ白になっていたという。帰朝御も80余歳で没するまで皇帝の側近として仕え、名臣として尊敬された。
念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
いみじき
①通常ではないこと。②誉める時にいう言葉。
威音王仏の末
不軽品に説かれている無量無辺不可思議阿僧祇劫の過去の仏。この時の劫を離衰、国を大成という。威音王仏は声聞の四諦の法、辟支仏は十二因縁の法、菩薩には六波羅蜜の法を説いた。この威音王仏の寿は四十万億那由佗恒河沙劫である。この威音王仏の滅後、正法・像法が終わった後、また威音王仏の名号の二万憶の仏がいたという。この二万億の最初の威音王仏の滅後、像法の末に不軽菩薩が出現した。不軽品には「乃往古昔に、無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぎて仏有ましき。威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と名づけたてまつる。劫を離衰と名づけ、国を大成と名づく。その威音王仏彼の世の中において、天人阿修羅の為に法を説きたもう。声聞を求むる者のためには、応ぜる四諦の法を説いて、生老病死を度し、涅槃を究竟せしめ、辟支仏を求むる者のためには応ぜる十二因縁の法を説き、もろもろの菩薩のためには、阿耨多羅三藐三菩提に因せて、応ぜる六波羅蜜の法を説いて、仏慧を究竟せしむ。得大勢、是の威音王仏の寿は、四十万億那由他恒河沙劫なり。正法世に住せる劫数は一閻浮提の微塵のごとく、像法世に住せる劫数は、四天下の微塵のごとし。その仏、衆生を饒益しおわって、しかして後に滅度したまいき。正法、像法、滅尽の後、この国土に於いて、復仏出でたもうこと有りき。また威音王如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と号づけたてまつる。かくのごとく次第に二万億の仏有す、皆同じく一号なり。最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して、後像法の中に於いて、増上慢の比丘、大勢力あり。その時に一りの菩薩比丘あり、常不軽とづく」とある。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第20に説かれる常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法年間に出現し、常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」との24文字の法華経を唱えて、一切の人々をことごとく礼拝した。ときに国中に謗法者が充満しており不軽菩薩を見て、皆これを迫害した。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、不軽菩薩は専ら礼拝の一行を全うした。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。かくて不軽菩薩は仏身を成ずることができたが、不軽を軽賤し迫害した謗法の衆生は、その罪によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって、信伏随従して成道することができたのである。これは逆縁の功徳を説いている。「御義口伝」(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり」と、また同じく「所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」(0765)と申されている。
念仏を無間の業と申し
念仏を信ずる者は地獄のなかで最も恐ろしい無間地獄に堕ちるとの意。業とは、身口意の所作のすべてをいい、善業・悪業がある。ここでは、悪業をさし、無間地獄に堕ちるべき業因、すなわち、念仏を信ずることをいう。念仏は一般に浄土宗といわれ、日本における開祖は法然で、依経とするのは無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経である。この娑婆世界を穢土と嫌い、信仰の目的は来世に極楽浄土に生まれることであると説く。そして釈尊の一切経を聖道門と浄土門、また難行道と易行道に分け、法華経は聖道門の難行道であるから「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」といい、浄土宗のみ浄土門の易行道で、成仏の宗であるという邪義を立て、法華経を誹謗した。この故に大聖人は、法華経譬喩品第三の「若し人は信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人は命終して阿鼻獄に入らん」の文をもって念仏無間と破折されたのである。
禅宗は天魔の所為
禅宗が「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」を教義とし、仏説を否定するなどは、仏法を破壊する天魔の所為であるという意。禅宗は中国の始祖、菩提達磨が立てたもので、日本における開祖は栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、隠元の黄檗宗、などである。禅宗の特色は仏の経典を否定し、経文は月を指す指であり、月にあたる成仏の性を見れば、指である経文に用がないという。これは先にも記したように仏法を破壊する天魔の業である。なぜなら釈尊は涅槃経のなかで「願って心の師と作って心を師とせざれ」と説き、また「仏の諸説に順わざる者有らば当に知るべし是れ魔の眷属なり」と説いている。故に日蓮大聖人は「禅宗は天魔の所為」(1073)と破折されたのである。
真言は亡国の邪法
真言宗は、国を亡ぼす邪法であるとの意。中国の真言宗の始祖は善無畏三蔵、日本における開祖は弘法である。真言宗では法華経は応身の釈迦仏が説法したものであり、大日経のみが法身の大日如来の説法で、これに比較すると、釈迦仏は無明の辺域であり、履物取りにも及ばぬといい、また法華経は一切経中の第三の劣であり、戯論である。また、大日経と法華経を比較すると、一念三千は大日経の教えであり、法華経にも説かれているから「理」は同じであるが、大日経には別に印と真言があるから「事」において勝れているという邪義をたてた。これに対して日蓮大聖人は真言亡国と破折されたのである。なぜなら、大日経は釈尊一代の権教であり、無量義経、および法華経方便品第二ではっきり「正直捨方便」と説かれている。しかも中国の真言宗は天台の一念三千の法を盗んで自宗の極理となし、日本の弘法は口をきわめて法華を罵っている。このように本主を突き倒して無縁の主である大日如来を立てるから亡国、亡家、亡人の法となると破折されたのである。
最明寺殿
北条時頼(1227~1263)のこと。最明寺で出家し、法名を道崇と号したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。
極楽寺の入道
極楽寺入道は北条重時(1198~1261)のこと。北条義時の三男、執権北条時頼の連署(執権の補佐役)を務めたあと、入道して極楽寺の別業となり、世人から極楽寺殿と称された。
講義
この章は、日蓮大聖人の佐渡流罪が、ひとえに念仏、禅、律、真言の諸宗を破折し、法華経を流布するがゆえに起きた難であることを述べられた段である。
洋の東西を問わず、また、いつの時代にあっても、先駆者は新時代を切り開くために、あらゆる苦難と戦い続けてきた。なかんずく、日蓮大聖人のそれは、未曾有の大法を弘めんとされた先駆者の戦いであった。
当時、往生浄土を説く念仏宗は民衆の間に根強く信じられ、見性成仏を説く禅宗は武士階層に絶大な力をもちはじめていた。さらに鎌倉時代以前に弘まった、律宗、真言宗も全国的な規模で民心を惑わしていたのである。
一方、鎮護国家の大法としての法華経の正意を伝えるはずの天台宗は、第三の座主慈覚、第四の智証によって、真言宗の邪義が汲み入れられ、正法正義は途絶えてしまった。力を誇示するため、また寺経営を成り立たせるために、僧兵を養い、時の法皇に強訴し、世を混乱へと陥れたのである。
まさしく白法は隠没し、憂うべき末世の様相を呈していたのであった。
日蓮大聖人は、経文の上からも、時代の様相からも、末法を知り、あらゆる迫害を知悉されながらも、敢えて苦悩の民衆を救われんがために、世の不幸の根源たる諸宗の邪法邪義をことごとく破折されたのである。
「弟子檀那中への御状」に「定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え」(0177:01)と。
われらもまた、日蓮大聖人の弟子として、法華流布の大業を受けついで立ったのである。したがって、本末究竟して等しく、魔軍が立ちはだかるのは、けだし当然といえよう。
だがわれらは大聖人の弟子であり、仏の軍勢である。今よりも比較にならないほど強大な魔軍を相手に、ただ一人立ち向かわれた大聖人のお姿を思い浮かべるとき、勇気りんりんたるものを覚えるではないか。
さらに、われらは開けゆく生命の世紀の先駆者であり、主体者である。病める民衆の、その病根を絶つまで戦いきる誇り高き正義の戦いは、最高の哲学、理念をもつ平和の戦士によってなされるのである。この正義の戦さを推し進めるのが、われらの使命であると強く自覚すべきである。
第三章(諸天を叱責し赦免の前兆顕われる)
本文
但し法華経のまことにおはしまし日月我をすて給はずばかへり入りて又父母のはかをも・みるへんもありなんと心づよく・をもひて梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給いぬるやらん、天照太神・正八幡宮は此の国にをはせぬか、仏前の御起請はむなしくて法華経の行者をばすて給うか、もし此の事叶わずば日蓮が身のなにともならん事は・をしからず、各各現に・教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前にして誓状を立て給いしが今日蓮を守護せずして捨て給うならば正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか、十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失は提婆達多が大妄語にもこへ瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされたり設ひ大梵天として色界の頂に居し千眼天といはれて須弥の頂におはすとも日蓮をすて給うならば阿鼻の炎には・たきぎとなり無間大城にはいづるごおはせじ、此の罪をそろしと・おぼさばいそぎ・いそぎ国土にしるしを・いだし給え、本国へ・かへし給へと高き山にのぼりて大音声を・はなちて・さけびしかば、九月の十二日に御勘気・十一月に謀反のもの・いできたり、かへる年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども・よしなく打ちころされぬ、天のせめという事あらはなり、此れにや・をどろかれけん弟子どもゆるされぬ。
現代語訳
ただし法華経の教えが真実であり、日天月天が日蓮を捨てないならば鎌倉へ帰り、再び父母の墓へ参ることもあろうと心強く思って、法華経の行者を守護すべき梵天・帝釈・日月・四天はどうしたのであるか、日本の守護神である天照太神・正八幡宮は日本国にはいないのか。仏前の御起請は空言であって、法華経の行者を捨て給うのか、もしこのことが叶わなければ、日蓮の身がどうなろうとも惜しくはないが、現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前で、法華経の行者を守護するという誓状を立てたのに、今日蓮を守護しないで捨てるならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加えることになる。それならば十方三世の諸仏を欺いた罪は、提婆達多の大妄語以上であり、瞿伽利尊者の虚誑罪よりも重い。たとえ大梵天として色界の頂上に住み、千眼天といわれ須弥山の頂上に居ても、日蓮を捨てるならば、阿鼻地獄の炎を増す薪となり、永久に無間大城を出るときはない。この罪が恐ろしいと思うならば、急いで日本の国に現証を顕わして、日蓮を本国へ帰しなさいと高い山に登って大音声に叫んだので、九月の十二日に御勘気を蒙って、まもないその年の十一月にはすでに謀反の者が現われ、翌年の二月十一日に日本国を警護すべき大将達が、いわれもなく討ち殺された。これは諸天の責めであることが明らかである。幕府はこれに驚いたのであろう、鎌倉の牢獄につながれていた日蓮の弟子達は釈放されたのである。
語釈
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
仏前の御起請
諸天善神が法華経の行者を守護するとの誓いである。安楽行品には「諸天昼夜に、常に法の為のゆえに、しかも之を衛護し・能く聴く者をして、皆歓喜することを得せしめん。所以はいかん此の経はこれ、一切の過去、未来、現在の諸仏の、神力をもって護りたもう所なるが故に」、また「天の諸の童子、もって給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ、若し人悪み罵らば、口則ち閉塞せん、遊行するに畏れなきこと師子王の如く、智慧の光明、日の照らすが如くならん」とあり、陀羅尼品では、薬王・勇施等の菩薩・毘沙門天・持国天・十羅刹女・鬼子母神などが、つぎつぎと法華経の行者を守護せんと誓いをなしている。鬼子母神・十羅刹女が仏前の誓いにいわく「若し我が呪に順ぜずして、説法者を悩乱せば頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」と。
教主釈尊
一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
多宝如来
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
正直捨方便
法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。
瞿伽利尊者が虚誑罪
瞿伽利とは梵語であり、悪時者、守牛などと訳す。釈迦族の一人で浄飯王の命で出家し、仏弟子となった。のちに提婆達多を師として仏法に反逆した。竜樹の大智度論十三に「常に舎利弗・目連の過失を求めていた。二人はある日、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈迦もまた三度、瞿伽利を呵責したが、受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死して堕獄した」といわれている。
講義
仏前の誓状を速やかに成就せよと諸天善神を激しく叱咤されたことにより、現証としてご自身の御赦免の前端として弟子達が赦免されたことを述べられた章である。
設ひ大梵天として色界の頂に居し千眼天といはれて須弥の頂におはすとも日蓮をすて給うならば阿鼻の炎には・たきぎとなり無間大城にはいづるごおはせじ、此の罪をそろしと・おぼさばいそぎ・いそぎ国土にしるしを・いだし給え、本国へ・かへし給へ
この段は、末法の御本仏としての烈々たる気魄と大確信とを述べられている。
大梵天とは、三界のうちの色界初禅天にいて娑婆世界を統領している諸王の主をいう。また千眼天とは、帝釈天の別名で、欲界第二の忉利天の主として須弥山の頂の喜見城に住し、三十三天を統領している。この梵天、帝釈はともに、法華経の会座に、眷属二万の天子をつれて列なり法華経の行者を守護することを誓っている。
たとえ梵天・帝釈として三界を統領して尊ばれようとも、末法の御本仏日蓮大聖人を守護しない諸天善神は、必ずや無間地獄に堕するとの仰せである。これはまた、諸天善神が御本仏を守護しないわけが絶対にないとの大確信でもある。この大聖人の御確信のとおり、日本国に自界叛逆難という現証を生じ、大聖人は御赦免になり鎌倉に帰られた。この現証からしても大聖人こそが末法の御本仏と知るべきである。
大聖人が、文永8年(1271)9月12日、竜の口の法難を免れてから、幕府は良観らの奸計にそそのかされて、ついに佐渡流罪と決定した。かくて大聖人は10月10日、依智をたって、10月28日に佐渡に到着。11月1日、塚原の三昧堂に着かれた。
「続日本記」によれば、神亀元年(0724)3月、佐渡を遠流地と定めており、古来、幾多の人々がこの厳寒の孤島へ流されている。これらの流人の多くは病没し果てている。佐渡へ流されるということは、死罪に匹敵したのである。
しかるに大聖人は「遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて、此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし」(0911:種種御振舞御書:11)と予言され、しかも諸天善神を叱咤し奮起を促されているのである。
この御文の予言のとおり、文永9年(1272)2月に時の執権北条時宗の異母兄にあたる時輔の謀反陰謀が発覚し、北条一門が血で血を洗うという醜い同士打ちが起こった。しかも国情騒然として、他国侵逼難すなわち蒙古の襲来のあることは時間の問題となってきた。幕府も大聖人が立正安国論等で、正法をもちいなければ必ずや自界叛逆難、他国侵逼難の両難が競い起こると予言されたことが、寸分の狂いもなく的中しはじめたことに恐れをなしてか、やむなく鎌倉の牢に閉じ込められていた弟子達を赦免したのである。
日蓮大聖人の強きご一念は、はるか佐渡におられながら、鎌倉の指導者の心を変えていったのである。この時、すでに勝負はついていた。いかに、巨大な権力といえども、御本仏の大生命の前には、小波のものでしかない。やがて、日蓮大聖人も、佐渡から御赦免となり、帰還されるが、これこそ、完全なる仏法が、王法に勝つ原理の実証にほかならない。
日蓮大聖人が、諸天善神を叱咤されているが、これは、一念三千の大生命哲理に基づくものであり、強き妙法の一念は、大宇宙をもゆり動かしていくことを、ご自身の上に顕現されたものと拝する。
諸天といえども、所詮、妙法の力用である。わが一念に、妙法の輝きがあるとき、大宇宙のいかなる働きであれ、その強き一念に動かされ、幸福の方向へ、正しき方向へと動き働くことを確信すべきである。
第四章(赦免・国諌と延山に入る経過を述べる)
本文
而れども・いまだゆりざりしかば・いよいよ強盛に天に申せしかば頭の白き烏とび来りぬ、彼の燕のたむ太子の馬烏のれい・日蔵上人の・山がらす・かしらもしろく・なりにけり、我がかへるべき・時やきぬらん・とながめし此れなりと申しもあへず、文永十一年二月十四日の御赦免状・同三月八日に佐度の国につきぬ・同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて十四日は・かのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつに・つくべきが大風にはなたれ・さいわひにふつかぢをすぎてかしはざきにつきて、次の日はこうにつき・中十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ、同じき四月八日に平左衛門尉に見参す、本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ。
現代語訳
しかしながら、弟子は許されても日蓮はまだ許されなかったので、いよいよ強盛に諸天に申し聞かせたところが、頭の白い烏が飛んで来た。昔、燕の国の丹太子が、秦の国の人質となったとき、馬に角がはえ、烏の頭が白くなったことから秦王は丹を帰した例もあり、また日蔵上人が白頭の烏の飛来するのを見て「山がらすかしらもしろくなりにけり、我がかへるべき時やきぬらん」と詠んだことなどを思い合わせて、日蓮の帰るべきときも来たのだと話しているところに文永十一年二月十四日の赦免状が同三月八日に佐渡の国に到着した。同十三日に佐渡の一の谷を出発し真浦の港に出て、十四日はそこに泊って、同じく十五日越後の寺泊の港に着くべき予定であったが、大風のために、それを背にうけて運よくわずか二日の舟旅で柏崎に着いて、次の日は国府に着き、中十二日かかって三月二十六日に鎌倉へ入った。同じく四月八日に平左衛門尉に対面した。本より深く心に期していたことなので、日本の国の亡びるのを助けんがために、三度目の国家諌暁をした。だが、もしこれが用いられなかったならば、「三度諌めて用いずば国を出て、山林に交わる」との古賢の例を心得ていたので、それにならい、同五月十二日に鎌倉を出立したのである。
語釈
燕のたむ太子の馬烏のれい
中国戦国時代の話。燕の太子・丹は人質として秦国にいたとき、丹は帰還を請うたが秦王はこれを許さず「烏の頭が白くなり、馬に角がはえたならば帰してやろう」といった。丹は、天を仰いで嘆いたところ、烏の頭が白くなり、また地に伏して嘆いたところ、馬に角がはえた。秦王は、やむをえず丹を帰したという。
日蔵上人の・山がらす・かしらもしろく云云
日蔵は、真言宗大和竜門寺の僧である。だが日蔵には「山がらす……」の詠はなく、これは増基法師の詠である。明治八年の身延の火災のときに消失した御真筆には「ぞう上人」とあり恐らく転写の際に日蔵上人と書いたものと思われる。
御赦免状
罪や過失を許すことを記した書状。
まうら
新潟県佐渡市真浦のこと。
寺どまりのつ
新潟県長岡市寺泊にある寺泊港のこと。
かしはざき
新潟県柏崎市にある旧の宿場町。
こう
律令制における国府。
四月八日に平左衛門尉に見参す
日蓮大聖人は佐渡流罪赦免後の文永11年(1274)4月8日に鎌倉に戻られ、平左衛門尉と対面され、3度目の国家諌暁をされていることをいう。
三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわる
日蓮大聖人は幕府に対して三度にわたり国家諫暁をなされた。すなわち、第一回目は文応元年(1260)7月16日、立正安国論を宿屋入道を通して、最明寺入道に提出し幕府を諌めた。そのとき日蓮大聖人は、念仏宗等、邪法を捨てないならば一門の同士打ちが起こり、他国侵逼難を受けるであろうと諫言なされた。第二回目は文永八年(1271)9月、竜の口の法難の前日と召捕りの間に、平左衛門尉に向かって諌められている。そして、第三回目が、ここで述べられている文永11年(1274)4月8日の諫暁である。
講義
この章は、初めに佐渡赦免の瑞相としての白頭の烏の故事を挙げ、次に御赦免ののち、最後の国諌をされ、遂に鎌倉を去られるまでの経過を述べられた段である。
本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林に・まじわるべきよし存ぜしゆへに同五月十二日に鎌倉をいでぬ
この御文はわずか二行であるが、御自身の身を顧みず、世のため、人のため、国のために、死を賭して妙法を弘められた御精神が、御文のなかに脈々と流れているではないか。「三度いさめん」とは、すなわち、文応元年(1260)7月16日、文永8年(1271)9月12日、文永11年(1274)4月8日と三度にわたっての国諌がそれである。
だがこの三度目の諌暁にもかかわらず、幕府は阿弥陀堂法印へ祈禱を命じてこれに報いた。大聖人の諌暁は遂に叶えられなかったのである。それゆえ古賢の例にならって、文永11年(1274)5月に鎌倉を出られ身延の沢に入られたのである。
「種種御振舞御書」に「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども云云」(0919:16)と。
すなわち、大聖人が身延に去られると間もなく、蒙古軍が押し寄せてきた。そしてさらにもう一度。やがては、これが幕府滅亡の因となるのである。大聖人の予言は見事に立証されたのである。
さて大聖人が身延に入られる模様について「富木殿御書」に「十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ」(0964:03)と。
「松野殿御返事」に「抑も此の山と申すは南は野山漫漫として百余里に及べり、北は身延山高く峙ちて白根が嶽につづき西には七面と申す山峨峨として白雪絶えず、人の住家一宇もなし、適問いくる物とては梢を伝ふ猨猴なれば少くも留まる事なく還るさ急ぐ恨みなる哉、東は富士河漲りて流沙の浪に異ならず、かかる所なれば訪う人も希なるに加様に度度音信せさせ給ふ事不思議の中の不思議なり」(1381:01)と。
だが日蓮大聖人が身延に退かれたのは、形式上は古賢の隠棲の故事を借りたものの、彼らの振舞いとはくらべものにならない。なぜなら大聖人のそれは身延入山以前にいやましての死身弘法の戦いであったからである。
竹林の七賢、伯夷・叔斉の例をあげれば、彼らの隠棲は、忠言、諌訴、自己の主張が時の為政者に聞き入れられないための隠棲であり、いわゆる隠遁であった。
だが大聖人の隠棲は、ひとえに広宣流布の時を待つ故であり、令法久住のための隠棲であった。すなわち、門下の育成、訓練が身延入山の真実の意義なのである。そのために、門下にたいして、烈々たる山をも抜くがごとき折伏の闘魂を教え、かつ大海原を想わせる大慈悲をもって、ときには優しく暖かに、ときとして厳父の慈愛をもって御弟子を叱責、指導されたのである。
たとえば、彼の熱原の法難は、日興上人をはじめとする門下の輝かしい富士弘教の活躍にたいし、滝泉寺の院主代行智が平左衛門尉と策謀して起こしたものであるが、大聖人は終始、現地で戦う日興上人に指導を与えながら「各各師子王の心を取出して、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干のほうるなり。日蓮が一門は師子の吼うるなり……彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ」(1190:聖人御難事:07)と身延から力強い激励をされている。
このほか主君の反対で所領を没収された四条金吾に代わって「頼基陳情」(1153)を書かれて主君江馬氏を諭され、父の反対に悩む池上兄弟に対して「兄弟抄」(1079)「兵衛志殿御返事」(1090)を、下山光基に反対された僧日永に代わって「下山御消息」を代作なされて、強力に支援されたのである。このほか数多くの御返事が現存していることをもってしても明白である。
所詮、日蓮大聖人の戦いは、鎌倉にあっても、佐渡にあっても、隠棲の地・身延にあっても、行住座臥全てが妙法広布の不自惜身命の精神に立たれた、所作仏事・未曽暫廃の御振舞いであった。
故に、われわれもまた妙法に帰依し、大聖人を御本仏と仰ぐ以上、生涯が魔との戦いであり、妙法への帰命でなければならない。たとえ何時如何なる処にいようと、自己と魔との戦いであり、広布達成への休みなき戦さである。とまれ、われらは輝かしい未来の檜舞台をめざして、未来永劫の指針たる令法久住の大聖人の御振舞いをゆめゆめ忘れることなく進みゆかねばならない。
第五章(弥四郎の生前を回顧)
本文
但し本国にいたりて今一度・父母のはかをも・みんと・をもへども・にしきをきて故郷へは・かへれといふ事は内外のをきてなり、させる面目もなくして本国へ・いたりなば不孝の者にてや・あらんずらん、これほどのかたかりし事だにも・やぶれて・かまくらへかへり入る身なれば又にしきを・きるへんもや・あらんずらん、其の時父母のはかをもみよかしと・ふかくをもうゆへに・いまに生国へはいたらねども・さすがこひしくて吹く風・立つくもまでも東のかたと申せば庵をいでて身にふれ庭に立ちてみるなり、かかる事なれば故郷の人は設い心よせにおもはぬ物なれども我が国の人といへば・なつかしくて・はんべるところに・此の御ふみを給びて心もあらずして・いそぎいそぎひらきてみ候へば・をととしの六月の八日にいや四郎にをくれてと・かかれたり、御ふみも・ひらかざりつるまでは・うれしくて・ありつるが、今此のことばを・よみてこそ・なにしにかくいそぎひらきけん・うらしまが子のはこなれや・あけてくやしきものかな、我が国の事はうくつらく・あたりし人のすへまでも・をろかならずをもうに・ことさら此の人は形も常の人には・すぎてみへ・うちをもひたるけしきも・かたくなにも・なしと見えしかども、さすが法華経のみざなれば・しらぬ人人あまたありしかば言もかけずありしに、経はてさせ給いて皆人も立ちかへる、此の人も立ちかへりしが使を入れて申せしは安房の国の・あまつと申すところの者にて候が、をさなくより御心ざし・をもひまいらせて候上母にて候人も・をろかならず申しなれなれしき申し事にて候へども・ひそかに申すべき事の候、さきざきまひりて次第になれまいらせてこそ申し入るべきに候へども・ゆみやとる人に・みやづかひて・ひま候はぬ上事きうになり候いぬる上は・をそれを・かへりみず申すと・こまごまときこえしかば、なにとなく生国の人なる上そのあたりの事は・はばかるべきにあらずとて入れたてまつりて・こまごまと・こしかたゆくすへかたりてのちには世間無常なりいつと申す事をしらず、其の上武士に身をまかせたる身なり又ちかく申しかけられて候事のがれがたし、さるにては後生こそをそろしく候へ・たすけさせ給へと・きこへしかば経文をひいて申しきかす、彼のなげき申せしは父はさてをき候いぬ、やもめにて候はわをさしをきて前に立ち候はん事こそ不孝にをぼへ候へ、もしやの事候ならば御弟子に申しつたへてたび候へと・ねんごろに・あつらへ候いしが、そのたびは事ゆへなく候べけれども後にむなしくなる事のいできたりて候いけるにや、
現代語訳
ただし、本国に帰って、今一度故郷の父母の墓へ参りたいと思うけれども、錦をきて故郷に帰れということは、内道・外道のしきたりである。これという面目もないまま故郷へ帰るならば、それは不孝の者ではなかろうか。だが、これほど困難とおもわれた佐渡赦免さえもその壁が破れ、鎌倉へ帰り入った身であるから、また錦をきる時もあることであろう。そのときは父母の墓へも参ろうと、深く思うゆえに、いまだに故郷へは帰らないけれども、さすがに故郷が恋しくて、吹く風・立つ雲までも、東の方からというと庵を出でてその風に身を触れ、また庭に立ってその雲を見ていたのである。
このようなありさまであるから、故郷の人といえば、たとえ自分をこころよく思っていない者であっても、安房の国の人であるといえば、懐かしく思われるところに、尼御前からこの手紙を受け取り、心もうわのそらに、急ぎ急ぎ開いて拝見したところが、「一昨年の六月八日に子の弥四郎に先立たれて……」と書かれてあった。手紙も開く前まではうれしかったが、今この言葉を読んでなんでこのように急いで、この手紙を開いてしまったのであろうかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたのを悔いたのである。
故郷の安房の国のことならば、日蓮に冷たくつらい仕打ちをした人の将来のことまでも疎略には思わない。とくにこの人は姿、態度も普通の人よりも勝れてみえ、考え方も頑固でないように見えたけれど、なんといっても法華経を講じている席でのこととて、知らない人々も数多く居たので言葉もかけなかったが、講義が終わって皆人々は立ち帰った。この人も立ち帰ったが、使いを日蓮のもとへ寄こして申すのには「自分は安房の国の天津というところに住む者ですが、幼少のときから、大聖人の御志を慕っております上、母もまた大聖人のことを疎略には申しておりません。ずうずうしいお願いではありますが、密かに申し上げたいことがございます。もっと先へいって次第にお見知りいただいてから申し上げるべきですが、弓矢とる人の側近く仕えていて暇がない上、事が急になりましたので、非礼を顧みず申し上げます」とこまごまと申してきたので、なにぶんにも故郷の人であるから、そのくらいのことは遠慮することはないと招き入れた。するとこまごまと今日までの経過と今後のことなど語ってのち「世間は無常です。いつ死なないとも限りません。その上私は武士として仕えている身です。しかも申しかけられたことは遁れることができません。それにつけても後生が恐ろしく思われてなりません。どうかお助け下さい」と申したので経文を引いて申し聞かせた。
弥四郎殿が嘆いていうのには「父はすでに亡くなったのでさておいて、未亡人である母をさしおいて先立つことは、不幸に思えてなりません。自分にもしやのことがあったならば、私が大聖人の御指導をいただいて後世の備えをしてから死んだということをお弟子を通して母へお伝え下さい」と丁寧に依頼してきたが、そのときはなに事もなかったけれども、そののち死なねばならぬような事件が起きたのであろうか。
語釈
生国
自分が生まれたところ。
いや四郎
光日房の子息。弥四郎のこと。青年時代に大聖人に帰依している。武家に仕える身で、何らかの事件により若死している。
うらしまが子
わが国の有名な古伝説・浦島太郎のこと。日本書紀、丹後国風土記、万葉集、浦島子伝等にみえる。丹後の国・水江(京都府与謝郡伊根町本庄)の漁夫。浦島が子は、ある日助けた亀に連れられて竜宮に至り、美女とともに三年の間、栄華のなかに暮らした。しかし故郷が恋しくなり、いったん帰国しようとする太郎に、女は決して開けるなといい含めて、みやげの玉手箱を与える。太郎が帰国してみると、故郷はまるで変わっており、すでに太郎が国を出てから七百年も経過していた。驚いた太郎は禁を犯してみやげの玉手箱を開けたところ、立ちのぼる白煙とともに白髪の老人になったという。この伝説は中国華南から東南アジア、ミクロネシア一帯に伝播している。
あまつ
千葉県安房郡の太平洋岸の地名。小湊の隣の町。小湊は日蓮大聖人御誕生の地であり、また付近には清澄山、妙の浦等があり、日蓮大聖人と関係の深い地が多い。本書を与えられた光日房も天津の人である。
みやづかひ
宮中に仕える人。貴人・武家の側人。給仕人。
やもめ
未亡人のこと。
講義
この章は日蓮大聖人が同郷の光日房に対して、御自身の故郷への想い、光日房から送られた手紙についての所感、生前の弥四郎についての回顧等を細々と認め、次の六章、七章で指導されるための序分とされた章である。
本章では、大聖人は光日房の心をくんで、光日房と同じ気持ちにたたれて、在りし日の弥四郎のことを回顧されている。このなかに、日蓮大聖人の深いご慈愛が感ぜられてならない。
いかなる三障四魔も、師子王のごとく打ち破っていく御本仏の勇姿とは対照的に、一個の人間として、一人のよるべのない婦人に、かくまであたたかい激励をされている。全日本、全世界、否、末法万年尽未来際のために戦われた大聖人は、同時に、一人一人と苦楽を共にし、情愛に満ちた人間性で、どこどこまでも不幸の人の味方となって進まれたのである。
偉大なものは、遠くにあるのではない。深い人間性の中にこそあるのだ。一人の悩める人間を救えずして、どうして一国を救うことができようか。
この原理は、昔も今も変わらない。深い人間性の発露こそ、一個の人間を変え、社会を変え、世界を変えていく、最強の力であることを確信すべきである。
第六章(光日房の心情を汲む)
本文
人間に生をうけたる人上下につけてうれへなき人はなけれども時にあたり人人にしたがひて・なげき・しなじななり、譬へば病のならひは何の病も重くなりぬれば是にすぎたる病なしと・をもうがごとし、主のわかれ・をやのわかれ夫妻のわかれ・いづれか・おろかなるべき・なれども主は又他の主もありぬべし、夫妻は又かはりぬれば心をやすむる事もありなん、をやこのわかれこそ月日のへだつるままに・いよいよ・なげきふかかりぬべくみへ候へ、をやこのわかれにも・をやはゆきて・子は・とどまるは同じ無常なれども・ことはりにもや、をひたるはわは・とどまりて・わきき子のさきにたつ・なさけなき事なれば神も仏もうらめしや、いかなれば・をやに子をかへさせ給いてさきには・たてさせ給はず・とどめをかせ給いて・なげかさせ給うらんと心うし、心なき畜生すら子のわかれしのびがたし、竹林精舎の金鳥は・かひごのために身をやき鹿野苑の鹿は胎内の子を・をしみて王の前にまいれり、いかにいわうや心あらん人にをいてをや、されば王陵が母は子のためになづきをくだき、神堯皇帝の后は胎内の太子の御ために腹をやぶらせ給いき、此等を・をもひ・つづけさせ給はんには火にも入り頭をもわりて我が子の形をみるべきならば・をしからずとこそ・おぼすらめとをもひやられて・なみだもとどまらず。
現代語訳
人界に生を受けた人は、上より下まで、憂患のない人はないけれども、時にあたり、その人その人にしたがってそのなげきは区々である。たとえば病気のならいとして、どんな病気も重くなると、これ以上の重病はない、と思うようなものである。主人との別れ、親との別れ、夫妻の別れ、いずれが劣る嘆きではないけれども主人との別れにはまた他の主人に仕えることもあろう。夫婦の場合はまたかわりの人を得れば心を安めることもできよう。だが親子の別れだけは月日が経つほどにいよいよ嘆きが深くなってゆくものとみえる。また親子の別れでも、親が先に亡くなって子供が生き残るのは、同じ無常ではあっても自然の道理であろう。だが年老いた母が生き残って若き子が先立ったのは、余りに情けない事なので、神も仏もうらめしい。どうして、親と子をかえて、親の方を先立たせずにこの世に留め置いて、嘆かせられるのであろうかと実につらいことである。心ない畜生でさえも子との別れには堪え難いものである。竹林精舎の金鳥は卵を守るために焼け死に、鹿野苑の鹿は胎内の子の命を惜しんで身代りに狩りにきた王の前に出た。ましてや心ある人間においてはなおさらのことである。それゆえ漢の王陵の母は、子のために頭を砕いて死に、唐の神尭皇帝の后は、胎内の太子のために腹を破った。これらのことを思い続けていったならば、たとえ火の中に入ろうとも、頭をも割ってもわが子の姿を見ることができるならば、惜しくはないと思われることであろうと、その心中が察せられて涙がとまらない。
語釈
竹林精舎の金鳥
竹林精舎はインド五精舎の一つ。中部インド摩伽陀国の都である王舎城の北郊にあった迦蘭陀長者の所有していた竹園であるが、迦蘭陀長者が釈迦に帰依してから、竹園を奉じて精舎を建てた。「金鳥」とは雉のこと。金色の羽毛があるので「金鳥」という。大智度論巻十六に、インド拘尸那城の近くの大森林に野火が起こったときに、一羽の雉がその羽根を清流に浸して、その火を消し、自分の生命を賭して、火林のなかの眷属を救ったという故事がある。また、雉は火のために巣を焼かれるとき、いったんは驚いて飛び出すが、子を思ってまたも火中に入り、子とともに焼死するといわれ、鳥のなかで母性愛の象徴とされている。
鹿野苑の鹿
大智度論巻十六、西域記第七等にある。すなわち、昔、波羅尼期国の大林中に群鹿があった。国王があるとき、狩に出て皆で鹿を射ようとしたとき、鹿王が進み出て「あなたには嬉遊逸楽の小事だが、群鹿は一時に皆死の苦を受けます。願わくは、これから毎日一頭ずつの鹿を送って、王の膳に供しますから」と願い出た。国王もその申し出を受けて、群鹿を救うことができた。ある日、懐妊している鹿が番に当たった。それを見て鹿王は身代わりとなって国王の前に進み出た。理由を聞いた国王は「我れは人の身にして鹿なり、汝は鹿身にして人なり」と深く恥じ、すべての諸鹿を放ち、その林を諸鹿の藪とした。これを施鹿林といい、鹿野の名もこれより起こったという。
王陵が母
漢の沛の人。王陵ははじめ県の豪族であったが、漢の高祖に従って項羽と戦った。項羽は王陵の母を捕えて母子の情に訴えて王陵を味方にしようとしたが、母は密かに使者を出して、王陵に漢王への忠節を尽くすことを訴え、自害して果てた。のちに王陵は高官に昇進し、安国公に封ぜられ右丞相となった。
神尭皇帝の后
神尭皇帝とは唐の高祖李淵のこと。その皇后で、竇皇后をいう。謚は太穆順聖皇后。才色兼備の后で、文と画に巧みであったといわれる。
講義
別れのうちで、最も辛い別れは親子の別れである。それは親の子を思う情が実に深いからであるといえよう。老いたる親が先立つのが世の習いである。だが、子が先立つことこそ、不幸のなかの不幸であり、親にとって嘆いても嘆ききれない。
この章は、幾多の故事を挙げて、弥四郎に先立たれた尼御前を哀悼された段であり、夫もすでに亡く、老後の頼りとする子に先立たれて、ただ一人のこされた尼御前の心情を透徹して理解され、逆境の尼御前に希望を与えようとなされた大聖人の大慈大悲をよくよく理解すべきである。
第七章(懺悔滅罪の証の先例を引く)
本文
又御消息に云く人をも・ころしたりし者なればいかやうなる・ところにか生れて候らん・をほせをかほり候はんと云云、夫れ針は水にしずむ雨は空にとどまらず、蟻子を殺せる者は地獄に入り死にかばねを切れる者は悪道をまぬかれず、何に況や人身をうけたる者を・ころせる人をや、但し大石も海にうかぶ船の力なり大火も・きゆる事水の用にあらずや、小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ、所謂る粟をつみたりし比丘は五百生が間・牛となる、苽をつみし者は三悪道に堕ちにき、羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎佉王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人の諸王は皆父を殺して位につく、善知識にあはざれば罪きへずして阿鼻地獄に入りにき、波羅奈城に悪人あり其の名をば阿逸多という母をあひせしゆへに父を殺し妻とせり、父が師の阿羅漢ありて教訓せしかば阿らかむを殺す、母又他の夫にとつぎしかば又母をも殺しつ、具に三逆罪をつくりしかば隣里の人うとみしかば、一身たもちがたくして祇洹精舎にゆいて出家をもとめしに諸僧許さざりしかば悪心強盛にして多くの僧坊をやきぬ、然れども釈尊に値い奉りて出家をゆるし給にき、北天竺に城あり細石となづく彼の城に王あり竜印という、父を殺してありしかども後に此れをおそれて彼の国をすてて仏にまいりたりしかば仏・懺悔を許し給いき、阿闍世王はひととなり三毒熾盛なり十悪ひまなし、其の上父をころし母を害せんとし提婆達多を師として無量の仏弟子を殺しぬ、悪逆のつもりに二月十五日・仏の御入滅の日にあたりて無間地獄の先相に七処に悪瘡出生して玉体しづかならず、大火の身をやくがごとく熱湯をくみかくるが・ごとくなりしに・六大臣まいりて六師外道を召されて悪瘡を治すべきやう申しき、今の日本国の人人の禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのみて蒙古国を調伏し後生をたすからんとをもうがごとし、其の上提婆達多は阿闍世王の本師なり、外道の六万蔵仏法の八万蔵をそらにして世間出世のあきらかなる事日月と明鏡とに向うがごとし、今の世の天台宗の碩学の顕密二道を胸にうかべ一切経をそらんぜしがごとし、此れ等の人人・諸の大臣・阿闍世王を教訓せしかば仏に帰依し奉る事なかりし程に摩竭提に天変・度度かさなり地夭しきりなる上・大風・大旱ばつ・飢饉・疫癘ひまなき上他国よりせめられて・すでに・かうとみえしに悪瘡すら身に出ししかば国土一時にほろびぬとみえし程に俄に仏前にまいり懺悔して罪きえしなり。
現代語訳
また御手紙には「弥四郎は人を殺した者であるから、後生はどのようなところに生まれるのでしょうか。どうかお教え願います」等と書かれていた。
針は必ず水に沈み、雨は空にとどまっていることがないように、また、蟻子を殺した者は地獄に堕ち、屍を切った者でさえ、悪道に堕ちることを免れない。ましてや人身を受けた者を殺した人はなおさらのことである。ただし大石も海に浮かぶ、それは船の力による。大火も消えるのは水の働きではないか。同じ道理で小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える。
いわゆる過去世に粟を盗んだ比丘は五百生の間・牛に生まれ、苽を摘んだ者は三悪道に堕ちた。また羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎佉王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人のインド古代の諸王は皆その父を殺して位についたが、善知識に値わなかったため懺悔することがなかったので罪が消えずに無間地獄に堕ちたのである。
波羅奈城に悪人がいた。その名を阿逸多といった。母を愛したために、父を殺し母を妻とした。父の師の阿羅漢がいて、誡めたところがその阿羅漢を殺した。母がまた他の男と関係したので母をも殺してしまった。つぶさに三逆罪を犯したので近隣の人にいみきらわれ、身の置きどころがなくなって、祇洹精舎に行き、出家を願ったが、諸僧が許さなかったのでさらに悪心強盛になって多くの僧坊を焼いてしまった。しかしながら、釈尊に値って出家を許されたのである。
また北インドに城があって細石といい、その城に竜印という王がいた。かつて父を殺したのであったが、のちにこのことを恐れて国を捨てて仏のもとに行ったので、仏は懺悔を許されたのである。
阿闍世王は生まれつき貪瞋癡の三毒が熾盛であり、十悪を犯しつづけた。そのうえ、父を殺し母をも殺そうとし、提婆達多を師として無量の仏弟子を殺した。こうした悪逆が積もった果に二月十五日、ちょうど仏の御入滅の日にあたって無間地獄に堕ちる先相として七箇所に悪瘡ができ、身体はもはや安穏ではなかった。その苦しみは大火に身を焼かれるようであり、熱湯を汲み浴びるようであったので、六大臣が参上して六師外道を召されて悪瘡を治されるように言上したのである。ちょうど今の日本国の人々が禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのんで蒙古国を調伏し後生を助かろうと思うのと同じである。またそのうえ、提婆達多は阿闍世王の本師である。提婆達多は外道の六万蔵、仏法の八万蔵を諳んじて、世間の学問と、出世間の仏法の事については、明るいこと日月と明鏡とに向かうようであった。それはあたかも今の世の天台宗の大学者といわれる徒輩が、顕密二教を胸にうかべ一切経を諳んじたと同じである。
これらの提婆達多や邪見の六師外道や諸の大臣達が阿闍世王を指導していたので、阿闍世王は仏に帰依しなかったのである。ところが、摩竭提国に天変が度々起こり、地夭しきりであるうえ、大風・大旱魃・飢饉・疫癘が絶え間なく発生したうえに他国からは攻められて、事態が悪化してゆくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時に亡びるかにみえたときに、王もにわかに改心し、仏の前にきて、懺悔したのでその罪は消えたのである。
語釈
悪道
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
懺悔
過去の罪悪を悟って悔い改めること。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと浴せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。実相妙法であり、即、大御本尊である。また、そのほかに、五種の懺悔が説かれている。いわく「いかなるを刹利・居士の懺悔の法と名づくる。摂利、居士の懺悔の法とは、但まさに正心にして三宝を謗ぜず、出家を障えず、梵行人のために悪留難を作さざるべし。まさに繋念にして六念の法を修すべし。またまさに大乗を持つ者を供養し、必ず礼拝すべし。まさに甚深の教法第一義空を憶念すべし。この法を思う者、これを刹利・居士の第一の懺悔と名づく。第二の懺悔とは父母に孝養し、師長を恭敬する。これを第二の懺悔の法を修すと名づく。第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉、これを第三の懺悔を修すと名づく。第四の懺悔とは、六斉日において、もろもろの境内に勅して、力の及ぶ処に不殺を行ぜしめ、かくのごとき法を修する。これを第四の懺悔を修すと名づく。第五の懺悔とは、ただまさに因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。これを第五の懺悔を修すと名づく」と。
大逆
はなはだしく、人の守るべき道理に背いた行為。主君や親を殺害する行為。
粟をつみたりし比丘
法華文句巻第二にある。仏弟子の憍梵波提は牛のごとく食物を食べ、後になってふたたび口中に出してかみ、足の爪も牛に似ていたという。仏は、この因縁について、過去世に粟を盗み、その罪によって五百年の間、牛と生まれ、今仏弟子となってもなおその余習が消えず牛のような習性をもっているのだと説いた。ついには、人々が笑うのをさけて、天上に住み、仏陀の入滅を知らなかったとある。
羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎佉王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人の諸王
涅槃経第十九梵行品で、阿闍世王が悪瘡に悩んで、父を殺したことを悔いていたとき、外道の大臣悉知義が慰めて語った言葉のなかにでてくるインド古代の諸王。すなわち、皆自分の父を殺して王位につくことを得たが、一王も地獄に入る者がなかったのであるから悔いる必要なしと。だが大聖人はこれらの諸王は善知識にあわなかったので、その罪は消えず、必ず阿鼻地獄に入ったと仰せである。
善知識
善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
波羅奈城
ヴァーラーナシー(vārānasī)の音訳。古代インドの国名。釈尊が成道後、はじめて四諦を説いた鹿野苑はこの国にある。
阿逸多
涅槃経第十九梵行品にある。五逆罪を犯したことを後悔し苦しんでいる阿闍世王を慰める大医耆婆大臣の話のなかに出てくる。阿逸多は悪逆の限りを尽くすが釈尊にあって出家を許される。同じ名をもつ弥勒菩薩とは別人である。
祇洹精舎
古代インドの舎衛城にあった祇樹給孤独園精舎の略称。精舎は智徳を精錬する者の舎宅の意で、寺院のこと。祇陀太子の林に給孤独長者によって建立されたので、この名がある。王舎城の竹林精舎とともに二大精舎といわれ、釈尊の説法が多くなされた。もと七層の建物があったといわれる。
阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
三毒
貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。
十悪
十種の悪業のこと。身口意の三業にわたる、最もはなはだしい十種の悪い行為。倶舎論巻十六等に説かれる。十悪業、十不善業ともいう。すなわち、身に行う三悪として殺生、偸盗、邪淫、口の四悪として妄語、綺語、悪口、両舌、心の三悪としては、貪欲、瞋恚、愚癡がある。
六大臣
阿闍世王に仕えた月称・蔵徳・実徳・悉知義・吉徳・無所畏の六人の大臣のこと。王が悪瘡にかかり、悪事を悔いているとき、六師外道の教えを聴くことを勧めた。
六師外道
釈迦在世時代に中インドで勢力をもっていた六人の外道の思想家。①プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那迦葉)道徳否定論者。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。②マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利)裸形托鉢教団アージーヴィカ教の祖。決定論者。③サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子)懐疑論者④アジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅)順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論者で、人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。⑤パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延)七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。⑥ニガンタ・ナータプッタ( Nigantha Nataputta)ジャイナ教の開祖。相対論者。
蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
外道の六万蔵
インドのバラモン経典のすべて。
仏法の八万蔵
釈尊一代の教法のすべて。八万は数ではなく、数の多いことをいう。
世間
①世の中・世俗のこと。②六道の迷界のこと。③三世間・有情世間・器世間などのように差別の意をあらわす。
出世
世間を出離・越出すること。生死の苦しみ・煩悩の迷いを脱した涅槃・菩提の境地をいい、この出世間の法を出世間法という。
顕密二道
顕教と密教のこと。真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
摩謁提
インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。
天変
天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
地夭
地上に起こる異変。
疫癘
疫病、伝染病、流行り病、ウイルス性感染症のこと。
講義
光日房の手紙にあった「弥四郎は罪深い者であるから、後生はどこに生まれるのでしょうか。御指導下さい」との問いにたいして、この章では、世間の道理、仏法の法理を挙げ、その裏付けとして過去の幾多の実例をとおして答えられた段である。すなわち、一般世間の道理からすれば蟻を殺しても地獄に堕ちる。況んやそれ以上の罪を犯した者は必ず地獄に堕ちる。だが仏法によって懺悔すれば、いっさいの罪を消すことができると、阿逸多、竜印、阿闍世王の体験を挙げられたのである。
小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ
この世に生を受けた、いかなる小さな生命体であっても、これを殺す者は、必ず地獄に堕ちるのである。およそ、人は必ず生涯を通じて、蟻などの小さな生命体を殺さないわけがない。故に、この仏法の原理からすれば、皆悉く地獄の業火にさいなまされることは必定である。だが次下の「大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」の御文のとおり、妙法を信じ、妙法を行ずるならば、いかなる大逆、大罪も朝露が燦々と輝く太陽の前に消えるように、ことごとく、消滅させることができるのである。これこそ、仏法の大慈悲の原理・大荘厳懺悔なのである。
世にいう懺悔は、キリスト教の専売特許であるかのごとき印象を与えているが、これは仏法に無知な者が、キリスト教でいうpenitenceをそのまま仏法の懺悔に置き換えて用いたのである。
キリスト教でいう懺悔の意味は告白であり、悔悛の秘蹟である。すなわち、洗礼ののちに犯した罪を司祭、司教の前で告白することをいうのである。
なんと愚かしいことであろうか。聖職者だからといっても、人間ではないか。神と人間との介在者であり、神の子というなら、まさしく原始時代のシャーマニズムの亜流を汲むものといえよう。キリスト教で説く懺悔は心理学的にいえば抑圧された心理を解放するための手段で、たんなるストレス解消法にすぎない。
なおキリスト教や新興宗教で説く懺悔は実に幼稚であるから、一往の世人の批判を挙げることにする。
ドイツの哲学者ニーチェは「ほかのひとに懺悔してしまうと、当人は自己の罪は忘れるが、たいてい相手のひとはそれを忘れない」といい、フランスのモラリストであるラ・ロシュフーコーは「心のうちを打ち明けるのは、虚栄のため、しゃべりたいため、他人の信頼を惹きつけたいため、秘密の交換をしたいためなのである」といっている。
次に本来の懺悔について述べてみよう。法華経の結経である普賢菩薩行法経には「一切の業障海は皆妄想より生ず、若し懺悔せんと欲せば端座して実相を思え、衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」とある。この文の実相とは生命の本質であり、大宇宙の根源の南無妙法蓮華経である。人に約せば、御本仏の生命であり、法に約せば三大秘法の大御本尊なのである。故に、われらは大御本尊を信受することによって、いっさいの罪障を消滅することができるのである。
「聖愚問答抄」にいわく「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし」(0497:14)と。
日寛上人の「観心本尊抄文段上」に「この本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用有り、故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うればすなわち祈りとして叶わざるなく・罪として滅せざるなし・福として来らざるなく・理として顕われざるなきなり」と。
第八章(母子一体の成仏を示す)
本文
これらは・さてをき候いぬ人のをやは悪人なれども子・善人なれば・をやの罪ゆるす事あり、又子悪人なれども親善人なれば子の罪ゆるさるる事あり、されば故弥四郎殿は設い悪人なりともうめる母・釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば争か彼人うかばざるべき、いかに・いわうや彼の人は法華経を信じたりしかば・をやをみちびく身とぞ・なられて候らん、法華経を信ずる人はかまへて・かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ、念仏者と持斎と真言師と一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をばいかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし、かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ、あはれあはれ・けさんに入りてくわしく申し候はばや、又これよりそれへわたり候三位房・佐度公等にたびごとに・このふみを・よませてきこしめすべし、又この御文をば明慧房にあづけさせ給うべし、なにとなく我が智慧はたらぬ者が或はをこづき或は此文をさいかくとしてそしり候なり、或はよも此の御房は弘法大師にはまさらじ・よも慈覚大師にはこへじ・なんど人くらべをし候ぞかし、かく申す人をば・ものしらぬ者と・をぼすべし。
建治二年丙太子歳三月 日 日蓮 花 押
甲州南部波木井の郷山中
現代語訳
これらはさておいて、人の親は悪人であっても子が善人であれば、親の罪を許すこともある。また子が悪人であっても親が善人であれば、子の罪を許されることもある。であるから、故弥四郎殿はたとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜になげき・追善供養するならば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがあろうか。ましてや弥四郎殿は生前は法華経を信じていたのであるから、悪道へ堕ちるどころか、親を成仏へ導く身となられているであろう。
法華経を信ずる人は、用心に用心を重ねて、法華経の敵を恐れていきなさい。念仏者と持斎と真言師とそのほかいっさいの南無妙法蓮華経と唱えない者は、どんなに法華経を誦んでも法華経の敵であると知っていきなさい。なにが仏道修行の敵であるかを知らなければ敵にだまされてしまう。なんとかして面会して詳しくお話したいものである。またこちらから行く三位房や佐度公等に会う度ごとに、この手紙を読ませて聞かせるがよろしい。またこの手紙を、明慧房に預けておきなさい。多分、大して智慧のない者が、日蓮をあるいは悪口したり、あるいはこの手紙を日蓮の才覚であるとして謗ったりするであろう。あるいはまさかこの御房は弘法大師には勝ることはないとか、まさか慈覚大師には超えることはない、などと人くらべをするに決まっている。こんなことをいう人は仏法の道理を知らぬ者であると、思っていきなさい。
建治二年太歳丙子三月 日
日 蓮 花 押
甲州南部波木井の郷山中
語釈
悪人
①悪事をなす人。②正法を誹謗する人。
けさん
対面・お目にかかること。
三位房
三位房日行のこと。はじめは日蓮大聖人の弟子であった。賜書に御輿振御書、法門申さるべき様の事、十章抄、教行証御書がある。下総(千葉県)の出身で、早くから大聖人の御門下に入った。才智に秀で、宗門内で重きをなし邪宗破折の中心ともなった。だが熱原の法難で退転し、現罰で落馬して死んだ。聖人御難事(1191)に「三位房が事は大不思議の事ども候いしかども……はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ云云」とある。
佐度公
六老僧の第四民部阿闍梨日向のこと。文永元年(1264)日蓮大聖人が房総地方に遊化せられたとき、13歳で得度した。建治2年(1276)清澄寺道善房死去のときに「報恩抄」を読み、大聖人の聖教を講演した。大聖人滅後弘安5年(1282)、輪番制に加わり、弘安8年(1285)ごろ身延に戻り学頭職に補せられた。だが、その後波木井実長(はぎりさねなが)に鎌倉方面の軟風をふきこみ、それによって実長は四箇の謗法をおかし、身延汚濁の因となった。身延山には正和2年(1313)まで居り、そののち、上総藻原(千葉県茂原)に移り、翌年9月3日に没した。
明慧房
詳細は不明。大聖人に師事した清澄寺系統の僧の一人であったといわれる。
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
講義
前章で光日房の「罪を犯した子弥四郎の後生について御指導いただきたい」との願いに答えて一般世間と仏法の立ち場から述べられ、本章では、具体的に答えられたのである。
すなわち、光日房の強盛な信心によって、子の弥四郎を成仏させずにはおかないと答えられたところである。
また親子の信心の大事なこと、法華経の敵対者に注意することを強調され、最後にこの御消息の読み方、保ち方を教えられ、くれぐれも謗法者に用心するよう細々と認められている。
親子一体の成仏
およそ親と子の関係ほど、親密なものはなかろう。親は親、子は子でありながら、その間には何ものにもまさる不思議な力が働いている。まさに、眷属の妙という以外にない。それぞれ別個の生命が互いに融合し、一つの生命となっているともいえる。
親が不幸であって、子供が心からの幸福を感ずる道理がない。また、子供が不幸であって、親が幸福などということも、決してありえない。親の幸福は、則子供の幸福であり、子供の幸福は、即親の幸福である。決して、別ではないのだ。また、親子ともに幸福になっていくことは、家庭全体の幸福でもある。すなわち、親子一体の成仏は、家庭革命の原理なのである。
親の子を思う一念、子の親を慕う一念、そこに信心のほとばしりがあれば、即時福運となって全体を栄えさせていく。家庭内の一人の人間革命によって、家庭そのものが大きく変革し、家族の者すべてが福運を受けていくのである。
たとえば、家族の中で、一人が信心し、あとは皆反対だったとする。しかし、その時すでに、家庭という一個の生命の根底は変革されているのである。これが、因果俱時、また依正不二の原理である。その根底の生命の法則にしたがって、次第にその証拠を、事実の上にあらわしていけることを確信したい。
また、親子一体の成仏とは生きている時のことだけではない。すでに亡き親の抜苦与楽は、厳然と子供の生活の上に実証される。また、子供が信心によって、自己を人間革命していくことが、最大の親に対する回向である。
いま、光日房の場合は、子供に先立たれたが、彼女が信心できたのは、その子弥四郎のすすめによってであり、また、彼女が、大聖人の指導によって、晩年真の幸福をつかんだことは、そのまま弥四郎の生命の実相であり、親子同時であることを仰せられたのである。
さらに、これに関連して、信心の上から、親子のあり方についても言及しておきたい。
かつて親子関係は「慈愛と孝」と考えられてきた。「親の慈愛は海よりも深く、親の恩は山よりも高い」といった道徳が支配し、肉親以上に「家」を背負わされた子は「親は親たらずとも子は子たるべし」とされてきた。
しかるに時代の変遷とともに、「孝」は脆くも崩れ去った。封建的な家族制度が崩壊すると、「孝なき子」を嘆き憂いおろおろしている親の姿だけが残されたのである。
仏法では、親子間をそのような浅薄なものとは考えていない。大聖人は、父母の恩を四恩の一つとして重要視されている。親の恩というと、なにか封建的な道徳観を思わせるがそのようなものではない。大聖人のお説きになる知恩、報恩とは、生命論のうえからの生命の奥底からの知恩、報恩である。さらに、三大秘法の仏法を根底にした知恩、報恩である。親の恩を報ずるのは当然であるが、その報恩の基準が三大秘法の御本尊であることを知らなくてはならない。
親の恩を報ずるとは、親孝行という徳義であるが、仏法においては下品、中品、上品の孝を説いている。
いわく「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」
親を物質的に満足させることや、親の意向どおりに行動することが真実の孝養ではない。大御本尊を持ち、ひいては親を折伏し正法に帰伏させ、また亡き親に対しては朝に晩に正法をもって回向することが最高の親孝行というべきである。
「兄弟抄」にいわく「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」(1085:07)と。
「刑部左衛門尉女房御返事」にいわく「父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし」(1401:04)と。親に反対されたり、一家のなかに信仰反対の者がいようと、はじめに信心をした者が、しっかり信心修行に励み、自分の生活に大御本尊の功徳を証明していくならば、ついには反対の家族や親も、ともに信心できるようになり、この世で成仏するのである。これこそ真実の親孝行であり、一家のため、国のために波動が及んでいくのである。たとえ、親の反対があろうとも、声高らかに唱題し、親をも折伏しきっていく者こそ、大聖人の御金言に適うことを銘記したい。
子の信心によって親を動かした例は枚挙にいとまがない。遠くは法華経の会座で、妙荘厳王が浄蔵、浄眼に導かれて娑羅樹王仏となった例がある。また法華経を謗じて地獄に堕ちた父烏竜を、法華経をもって救った子遺竜の話もある。さらに大聖人御在世にあっては、極楽寺良観の熱心な信奉者で、二十年にわたって猛反対をつづけた父康光を入信させた、池上兄弟の話もある。これらを信心の鑑として、一家和楽の信心を成就させたいものである。
次に御文の後段は、親の立ち場から、親子の関係を述べることにする。
ハーバード大学の非行少年研究の専門家、シェルドン・グルック教授は「私たちは、ドアをあけた瞬間、そこに住んでいる子供が、非行化しているかどうかをいいあてることができる」と述べている。この言葉は、子供というものがいかに家庭に影響されるものであるかをみごとに表現している。
また教典に「人仏教を壊れば孝子無く六親不和にして……」とあるように、子供が早死にしたり、不良化したりするのは、根本は謗法を信じ仏教を破壊することにあるとの意味である。
現在は、五濁悪世といわれる。すなわち、人間が生まれながらに持つ貪・瞋・癡・慢・疑の本能の乱れである煩悩濁、思想の乱れである見濁が根底になって、命濁すなわち生命力が弱まり、生活が乱れる現象を生む。この命濁から人間そのものの濁乱を意味する衆生濁となり、衆生濁はさらに拡がって時代そのものの乱れ、すなわち劫濁となるのである。
この方程式を現代の青少年にあてはめてみれば、あまりにその適合することに驚かないではいられない。したがって、家庭においても、社会にあっても、この青少年問題は、単に道徳とか、躾とかいったものでは解決できないことを知るべきである。
その真実の原因が、正法を誹謗するところからくる生命の濁りであるがゆえに、この五濁の根源を断ち切り、生命を浄化し、社会を健全化していく方法は、妙法を信じ、妙法を広宣流布する以外には断じてない。
親として真に子を思うならば、信心を根本として、粘り強く、信心をもって育て抜くべきである。
とまれ、新時代の親子関係は、支配と服従といった上下関係でも、反抗と抑圧といった権力関係でもない。親と子は眷属妙であるが、真実の眷属妙とは、親も子もともに日蓮大聖人の本眷族として、地涌の菩薩であるとのことである。妙法を根底にした、妙法に照らされた家庭、いな社会をともに手を携えて築くものでなくてはならない。
法華経を信ずる人はかまへて・かまへて法華経のかたきををそれさせ給へ
この御文をわれらはよくよく心肝に染めるべきである。妙法を信じ、広宣流布の達成をめざす者にとって、なにが法華経の敵かをみきわめ、これと戦うべきである、と教示された御文である。
だが「かたきををそれさせ給へ」とは、ただ臆病で恐れおののくことではない。成仏させまい、退転させようとする法華経のかたきを警戒せよとの意である。
では一体なにが法華経のかたきなのか。法華経の敵とは、人間性の敵であり、人生の敵であり、根底の生命の敵である。
ある人のいわく「目に見えぬ敵を恐れよ」と。最も恐るべき敵は、外にはなく、常に内にある。
また、涅槃経には悪知識こそ法華経の敵であり、これを恐れよと説かれている。「菩薩悪象等に於いては心に恐怖すること無かれ悪智識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」と。
悪知識、悪友とは共に邪宗教であり、邪智謗法の徒をさすのである。すなわち、邪宗教にしたがえば、誰でもが内奥に秘めている清浄な生命が破壊され、三悪道に堕ちて、永劫に苦悩に沈みゆくからである。
この悪知識は、自身の生命を破壊するのみならず、社会を塗炭の苦しみに巻き込み、さらには一国を亡国へ亡国へ導くのである。
されば、われらは妙法の眼をもって、自身の魔を魔と見破り、さらに社会の魔の本質をなす真実の敵を完膚なきまでに摧破して、不幸の根源を断ち切らねばならない。