兄弟抄(2009:4・5・6月号大白蓮華より。先生の講義)

兄弟抄(2009:4・5・6月号大白蓮華より。先生の講義)

4月号

「広宣流布の大業というものは、魔との闘いである。たじろぐことは許されない。負ければ、人類は、永遠に闇に包まれてしまう」

恩師・戸田城聖先生の遺訓ともいうべき獅子吼です。戸田先生は、広宣流布を阻む魔との闘争に一歩も退かれなかった。いな、魔を駆り出して、追撃するまで、断固、戦い続けられた。

それは、万人の幸福の実現のためです。この地上から、悲惨と不幸を無くすために、人々を苦しめる一切の魔性を打ち破ろうとされた。そして、最後の最後まで、広宣流布の総大将として指揮をとり続けられた。

とりわけ、総仕上げの昭和32年(1957)は、創価学会総体に怒涛の如く三障四魔が競い起こった年です。夕張炭労事件、大阪事件が重なり、戸田先生のお体にも、これまでにない激しい病魔が襲いかかってきました。しかし、戸田先生は、絶えず仏眼・法眼から物事の本質を見ておられた。

75万達成されようという時だ。魔が競い起こるのは当然のことだ。しかし、魔のなかでも、こんどの病魔は小邪鬼の部類だ。これくらいの魔に負けたのでは広宣流布はとてもできない 。

どこまでも毅然たる態度で、戸田先生は魔軍に立ち向かわれました。

「私が、こうして病気をしていることは、大きな『転重軽受』なのだよ。この病気で、学会が受ける大難を軽くすませているのだよ」と、語られたこともあります。 この厳然たる大確信の通りに、戸田先生は、病気を完全に克服され、翌年の2月11日、58歳のお誕生日には、快気祝いをなされました。病気を破られたうえで、戸田先生は、3月16日、後継の青年たちに、広布継承の印授を渡され、4月2日、安詳としいて今世における尊き使命の人生を終えられました。

今年は、不二の弟子が報恩感謝の誓を立ててから、51年目の「4・2」を迎えます。

「学会永遠の五指針」

戸田先生の闘病のさなかの昭和32年12月のことです。生涯の願業であった75万世帯の折伏が遂に達成できました。誓願成就を発表する本部幹部会の席上、戸田先生は、愛する同志のために「学会の永遠の三指針」を示されたのです。

「一家和楽の信心」

「各人が幸福をつかむ信心」

「難を乗り越える信心」

いずれも、簡潔な表現のなかに「信仰の目的」と「信心の姿勢」の本質が余す所なく示されています。

恩師の構想のすべてを託された私は、第3代会長就任後、初めて迎える元日にも、その翌年の元日にも、この「永遠の三指針」について話をしました。師が示された“何のため”という根本の一点を忘れたところから魔性に破れ、停滞が始まり、信心が崩れてしまうからです。

新世紀に入り、あらためて私は、この戸田先生の「永遠の指針」の原点を確認しつつ2003年、新たに2項目を加えさせていただきました。

「健康長寿の信心」

「絶対勝利の信心」

いわば、戸田先生と私の“師子吼”となった「学会永遠の五指針」です。それは全世界の同志が障魔に断じて負けず、広宣流布に生き抜き、絶対の幸福境涯を勝ち開いてほしいとの祈りを込めて、一生成仏への要諦を示したものです。

戸田先生と私が師弟して、この「信心の姿勢」を学ぶ重書として拝読した御聖訓が「兄弟抄」です。

“わが門下よ、競い起こる三障四魔を決然と乗り越えよ”“各人が第六天の魔王を破り、成仏の境涯を確立せよ” 日蓮大聖人は、この「兄弟抄」で「師弟不二」「異体同心」の信心で堂々と一切の魔性を乗り越えゆけ、と門下に教えてくださっております。まさに「学会永遠の五指針」の源流となる御書とも拝されます。

魔と戦わない限り真の「和楽」も「幸福」も「絶対勝利」もありえません。今回から3回にわたって「兄弟抄」を拝し、日蓮大聖人が全門下に示してくださった「完勝の方程式」を学んでいきたい。

本文

   

夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり、三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ、

現代語訳

法華経というのは、八万法蔵の肝心であり、十二部経の骨髄である。三世の諸仏は、法華経を師として正覚を成就し、十方世界の仏は、一乗仏である法華経を眼目として、衆生を導いたのである。

講義

大難は宿命転換即成仏の直道

最初に、池上兄弟が直面した大難について確認しておきたい。

対告衆である池上宗仲・宗長の兄弟がいつ入信したかは、はっきりしませんが、草創以来の門下であると伝えられています。池上家は、有名な工匠として鎌倉幕府に仕えていましたが、父康光は、兄弟の信仰に反対して、兄・宗仲を勘当しました。

武家社会における勘当は、家督相続権を失うことであり、経済的な基盤も、社会的な身分も奪われるという、大変に厳しい圧迫でした。同時に、兄だけを勘当することは、弟・宗長にとって、信仰を捨てれば家督相続権が譲られることを意味しており、宗長の心を揺さぶる陰険な狙いは明白でした。

この勘当事件に対して、大聖人が池上兄弟に送られたのが「兄弟抄」です。

大聖人は、本抄全体を通して、兄弟が直面する難は、法華経信仰のゆえの必然であり、法華経に説かれている通りに魔性と戦うことが成仏への大道となると教えられています。そのため、冒頭では、兄弟が信じている法華経がいかに勝れた教えであるかを強調されているのです。

法華経は「八万法蔵」ともいうべき膨大な仏典の「肝心」であり「十二部経」と総称されるあらゆる教えの「骨髄」です。また三世十方の諸仏もまた、この法華経を師匠として自ら成仏しただけでなく、法華経の教えを説いて一切衆生を成仏に導いているのです。以上が冒頭の一節です。

大難に直面している兄弟二人だからこそ、大聖人は、まず、法華経を信仰することの本質的な意義から諄々と説き起こされていると拝されます。そして、法華経を持つことがいかに無上の価値となるかを、あらためて実感し、歓喜の心に燃え立つことが、いかなる難をも乗り越える力になることを教えられているのです。

「兄弟抄」では、この御文の後、法華経から退転することの罪の大きさを、種々、論じられます。その理由として、「この法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり」と仰せです。すなわち退転は、根本の教えを捨てることです。

言うなれば、「一切衆生の成仏」「万人尊敬」「万物共生」の根本法則に自ら違背するゆえに、根本法と対極にある貪瞋癡の三毒の生命が強くなる。やがては悪道を流転する生命に支配されてしまうのです。

法華経を「一字一点も捨てる心を起こしてはならない」との大聖人の仰せに信心の正念場に立たされた池上兄弟を“断じて退転させまい”として厳しく戒められる、御本仏の大慈悲が痛いほど伝わってきます。

本文

  此の法華経はさてをきたてまつりぬ又此の経を経のごとくにとく人に値うことは難にて候、設い一眼の亀の浮木には値うとも・はちすのいとをもつて須弥山をば虚空にかくとも法華経を経のごとく説く人にあひがたし。

現代語訳

この法華経については、しばらく置く。またこの経を経文の如く説く人に値うことは難しいのである。たとえ一眼の亀が栴檀の浮木に値うことがあっても、蓮の糸で須弥山を虚空に懸けることができても、法華経を経文の如く説く人には値いがたい。

語釈

真実の師匠には会い難い

冒頭より、法華経という「法」について言及されてきた大聖人は、ここに至って着眼点を法華経を説く「人」に移されます。

「法」をいかに尊くとも、それを実践する「人」がいなければ、何の力も生みません。「法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856:百六箇抄:-脱益の妙法の教主の本迹)と御断言の通りです。

「法華経を経のごとく説く人」に巡りあうことがいかにまれなことか。大聖人は、「一眼の亀」や、「須弥山をつりあげる蓮の糸」の譬えをあげ、そうした稀なこと、不可能なことが実現したとしても、それ以上に難しいと示されています。

まさしくここに説かれている「法華経の行者」とは別して日蓮大聖人のことであられる。五濁悪世の娑婆世界にあって、大聖人と巡りあえることが、どれほど稀なことであるのか。それとともに、大聖人滅後の後世の人々にとって、法華経の真髄である妙法を、大聖人の御書の通りに弘通する、仏法の正しき指導者に巡りあうことも、また至難です。

私自身、この世に生を受けて、広宣流布の師匠である戸田先生と出会い、師弟の契りを結ばせていただいた以上の喜びはありません。この妙法を実践しようと思えたのも、戸田先生にお会いして「この人なら信じられる」と確信したからです。

かつて井上靖氏との往復書簡で、わたしはこう綴りました。「戸田先生を知って仏法を知ったのであり、仏法を知って戸田先生を知ったのではありません」と。

戸田先生と私との運命的出会いを記した書簡に対して、井上靖氏は、こう返書を寄せてくださいました。

「拝読して、大変心に打たれました。一つの大きな人格に出会い、その人間と思想に共鳴し、傾倒して、ご自分が生涯進む道をお決めになり、しかも終生その人格に対する尊敬と愛情を持ち続けられるということは、そうたくさんあることではないと思います」

師弟が、どれほど重要な人生の宝であるか。まして仏法から見れば、師弟がどれだけ尊極な生命の結合であるか。ともあれ、初代・牧口先生、二代・戸田先生の師弟がおらなければ、日蓮大聖人の仏法は現代に蘇ることは断じてなかったのであります。

「法」は、「人」の生命の中で、はじめて脈動し、「人」の振る舞いを通して真価が発揮されるからです。「法」を正しく持ち、「法」の精神のままに行ずる「人」がいない限り、価値創造はうまれません。

ですから、仏法の実践にあって「師匠」の存在が不可欠なのです。そして「弟子」が「師」と同じ振る舞いをするなかに、「法」は継承されます。「師弟」こそ、仏法の要の中の要です。

今や、創価のネットワークは世界中に広がり、民族や言語の相違を超えて、幾多の友が「法華経を経のごとく説く」実銭を重ねています。この創価の師弟の血脈に連なり、創価学会とともに進むこと自体が、いかに偉大な人生なのか、何よりも大聖人が賞讃されることは絶対に間違いありません。

本文

  されば法華経を信ずる人の・をそるべきものは賊人・強盗・夜打ち・虎狼.師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり

現代語訳

それゆえ、法華経を信ずる人が、畏れなかればならないものは、賊人、強盗、夜打ち、虎狼、師子等よりも、現在の蒙古の責めよりも、法華経の行者の修行を妨げ悩ます人々である。

講義

「悪知識」こそ恐れよ!

私たち法華経を信じ、行ずる者にとって、本当に恐れなければならないものとは何か。大聖人は、賊人や強盗、猛獣等ではなく、「法華経をなやます人々なり」と仰せです。

では、信仰の妨げとなる「なやます人人」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。

この前段では、慈恩・善無畏といった中国唐代の僧が、法華経ではなく権教に執着してしまった例をあげられています。

大聖人は、彼らは、ひとたびは法華経の卓越性を認めたことはあった。しかしながら、結局は「法華経を信ずる心」を失ってしまったと指摘されます。そして、その「元凶」が「悪知識」 すなわち悪縁や悪師によるものであると看破されています。

「法華経の行者をなやます人人」とは、まさに「悪知識」にほかなりません。悪知識の恐ろしさは、私たちの「心」を破ることにあります。悪縁に紛動され、悪僧にたぶらかされ、正しい「心」を見失ってしまえば、仏道を成就することはできません。

反対に言えば「心」が破られない限り、いかなる大難も最後は「信心の力」で乗り越えることができます。「心こそ大切」です。「悪知識に破られない心を築くためには、聡明な智慧で魔を魔と見破り、悪知識と戦っていく勇敢なる実践が不可欠となるのです。

本文

  此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり、六道の中に二十五有と申すろうをかまへて一切衆生を入るるのみならず妻子と申すほだしをうち父母主君と申すあみをそらにはり貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、但あくのさかなのみを・すすめて三悪道の大地に伏臥せしむ、たまたま善の心あれば障碍をなす

現代語訳

われわれの住む娑婆世界は、第六天の魔王の眷属である。魔王は六道のなかに二十五有という牢を構えて、一切衆生を入れるばかりでなく妻子という絆を打ち、父母主君という網を空にはり、貧瞋癡の酒をのませて、一切衆生の仏性の本心をたぼらかす。そして、悪の肴ばかりをすすめて三悪道の大地に伏臥させる。衆生にたまたまの善心があれば邪魔をするのである。

講義

信心は第六天の魔王との闘争

「此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり、」

魔の本質を鋭く洞察された重要な御文です。私も入信以来、幾度となくこの御聖訓を拝し、心に刻んできました。

この御文以降の部分で、大聖人は、私たちが最も恐れなければならない「悪知識」の正体とは、「第六天の魔王」であることが明かされます。

まず「此の世界」すなわち、私たちが住む娑婆世界は「第六天の魔王」の所領であると喝破されます。それは、三界のうち、欲界の頂点に君臨する第六天の魔王が、無始以来、衆生の生命を支配してきたからであると述べられています。

第六天の魔王は、他者の生命をほしいままに動かし、善を妨げ、悪へと引きずり落とします。

魔は、仏道修行者の功徳を奪い、智慧の命を殺します。そして、衆生の善根を破壊し、三界六道に流転させていく。そして魔の軍勢は、仏の勢力の前進を阻むために、さまざまな策略を巡らす。大聖人は、第六天の魔王の働きについて、具体的な譬喩を通して次のように示されています。

「妻子という手かせ足かせをかける」

「父母・主君という網をかける」

「貪瞋癡の酒を飲ませて仏性という本心を見失わせる」

これは三障四魔の三障に約せばそれぞれ「業障」、「報障」、「煩悩障」に相当します。

そもそも、大聖人が幾多の大難を勝ち越え、戦ってこられたものとは、一体、何であったのか。その相手こそ、まさに「第六天の魔王」にほかなりません。

「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう」(1224:辧殿尼御前御書:03)

第六天の魔王は、十種の魔軍を率いて、娑婆世界を取られまい、奪おうと戦いを起こしてくる。それに対して大聖人は次のように決然と御宣言された。

すなわち、大聖人の御生涯とは、第六天の魔王が率いる魔軍との連続闘争であられた。広宣流布とは、永遠に「仏」と「魔」との熾烈な戦いであるのです。

学会は、日蓮大聖人正当の教団であります。ゆえに、創価の正義の軍勢が勢いよく前進すればするほど、第六天の魔王とその眷属がいや増して襲いかかってきました。

恩師は叫ばれました。「魔と恐れなく戦え!魔の蠢動を許すな!絶対に妥協するな!」

広宣流布の死身弘法の指導者である牧口先生、戸田先生は、すべての難を一身に受け切り、権力の魔性と戦われ、会員を護り、学会を護り抜いてこられました。3代の私もまったく同じ心境です。

創価の三代の師弟は、三障四魔や三類の強敵と厳然と戦い、すべて完璧に打ちのめしてきたのです。

本文

  法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり、又般若経へすかしをとす悪友は嘉祥・僧詮等是なり、又深密経へ・すかしをとす悪友は玄奘・慈恩是なり、又大日経へ・すかしをとす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証是なり、又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり、此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に「悪鬼其の身に入る」と説かれて候は是なり。

現代語訳

法華経を信ずる人をなんとしても悪道へ堕とそうと思うが叶わないので、だんだんにだまそうとしてまず法華経に相似する華厳経に堕とした。杜順・智儼・法蔵・澄観等がこれである。また次に般若経へだまし堕とす悪友は嘉祥・僧詮等である。また深密経へだまし堕とす悪友は玄奘・慈恩である。また大日経へだまし堕とす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証である。また禅宗へだまし堕とす悪友は達磨・慧可等である。また観無量寿経へだまし堕とす悪友は善導・法然である。これは第六天の魔王がこれらの智者の身に入って、法華経を信ずる善人をだますのである。法華経第五の巻・勧持品に「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのはこのことである。

講義

「悪鬼入其身」の「悪友」を見破れ

「いかにしても悪へ堕とさんとをもうに」とあるように、第六天の魔王は、人々の成仏を妨げるためであれば手段をえらびません。その企みを、大聖人は、わかりやすく諸宗の僧を例にあげて、「相似せる」ものをもって、徐々にだまそうとするのだと仰せです。

「此れは第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり」 大聖人は、ここで「智者」すなわち、諸宗で尊とばれている高僧の名を次々と挙げられています。善人をたぼらかす“智者”こそが、悪師、悪知識であり、それは、まさに第六天の魔王が身に入った姿なのであると仰せです。大聖人は、このことは法華経勧持品第13に説かれる「悪鬼入其身」そのものであると仰せです。

彼等が社会的に高僧であるゆえに、人々は、その正体を見破ることができない。それどころか、かえって「悪鬼入其身」の“智者”たちを尊び、その教えを尊重するがゆえに、知らず知らず毒気深入によって「本心」を見失い、やがて法華経を捨て、最後は法華経に対して誹謗を行う。それらが「悪鬼入其身」の社会の恐ろしさです。人々の正常な感覚がいつしか麻痺し、社会の土壌そのものが腐ってしまう。それでも人々は何が原因か理解できない。

こうした毒気深入の人々に、毒の正体を教えるのが法華経の行者であす。本心を失ってしまった人々から見ると、かえって真実を説き明かす法華経の行者こそ悪人に映ります。それでも法華経の行者は言論の力によって、経文に照らして謗法の醜面を浮かべ、満天下に悪知識の正体を暴いていく。それが「勧持品の二十行の偈」が示している闘争にほかならないのです。

本抄で大聖人は、当時の開祖や高僧たちの名を連ねて、全員が、人々の法華経信仰を奪った張本人であると痛烈な破折を加えられています。大聖人は「一切の人はにくまばにくめ」(1135:四条金吾殿女房御返事:05)「よしにくまばにくめ」(1308:阿仏房尼御前御返事:04)とまで仰せです。人々の非難中傷をも恐れない、覚悟と誓願の心に立っているがゆえに、真実の法華経の行者といえるのです。その決定した心がなければ、第六天の魔王とはたたかえません。

戸田先生も、第六天の魔王に支配された悪僧、悪知識には容赦がなかった。その「一凶」とは、腐敗した宗門の坊主でした。

戸田先生は、烈火の如く「牧口先生を悪口した坊主どもよ!仏法を捨て、先生を捨てた意気地なしどもよ!」といわれていた。

仏法の破壊者だけは絶対に許してはならない、この魂こそ日蓮仏法の心髄です。

本文

  設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや

現代語訳

たとえ等覚の菩薩であっても、元品の無明という大悪鬼がその身に入って、法華経という妙覚の功徳を妨げるのである。まして、それ以下の人々においては、なおさらのことである。

講義

「元品の無明」を破る「信の利剣」

ここまで、法華経の信仰を妨げる悪知識とは「悪鬼入其身」の“智者”の存在であり、その正体は第六天の魔王にほかならないと明かされてきました。

ではなぜ、智者であっても、第六天の魔王がその身に入ってしまうのでしょうか。

それは外側に原因があるのではなく、「元品の無明」という生命自体に潜む魔性に起因するからです。

大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:治病大小権実違目:07)と仰せです。

元品の無明は、あらゆる人々に本然的に具わります。大聖人は仏にも具わっているといわれている。ゆえに「等覚の菩薩」という、悟りにおいては仏と等しい智慧を得た菩薩であったとしても、元品の無明が第六天の魔王の働きを起こし、最高位である妙覚へと至ることを妨げることがあると説かれています。等覚の菩薩でさえ、そうであるならば、凡夫はなおさらのことです。

いわば、第六天の魔王とは人間の生命に潜む根源的な悪の働きのことです。この魔性が、支配欲や殺しの心を起こし、破壊、戦争を引きおこしていく。この魔性を破るために大切なのは、元本の無明と同様、万人に具わる「元品の法性」を顕現させることです。そのためには、自行化他にわたる信仰をたゆまず実践し続けていくこと自体が重要なのです。

ある時、戸田先生は、御本尊の相貌の中に第六天の魔王が認められていることについて、こう講義されたことがあります。

「第六天の魔王が御本尊のなかにいる。そうすると御本尊を拝みたてまつるとき、第六天の魔王が御本尊のいうことを聞くのです。第六天の魔王がほかの魔将を命令で、きちんと押さえるのです。本有、すなわちもともと立派な姿となって、御本尊のなかにあらわれてくる。みな南無妙法蓮華経に照らされて本有の尊形となる」

先生はさらに「初めて人を助ける第六天の魔王に変わるのです」とまでいわれました。

「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751:第一唱導之師の事:15)と仰せのように、元品の無明を打ち破るのは、まさしく「信心」の利剣です。生涯信心を貫き、戦い続ける。魔を魔と見破り元品の法性を顕現させ続ける。常に戦いつづける“月々・日々に強くしていく信心”であってこそ、本質的な意味で、胸中の無明の働きをやぶることができるのです。

そのためにも、常に正しき道標を示す師匠の存在が必要なのです。

戸田先生は、よく、「私の真の弟子ならば難を恐れず最後まで続け、断じて負けてはならぬ」と指導されました。一日また一日、先生の言われるままに戦い、私は一切の魔性を打ち破ってきました。

「師弟」はいかなる魔性をも破る原動力です。反対に、「師弟」を忘れ、忘恩に堕した人間は、皆、無明の生命が強くなり、結局、第六天の魔王の眷属と化してしまったのです。

ともあれ、「何があっても恐れない」「一切、魔性に従ってはならない」 これが、魔と戦う信心です。必ず勝つことができます。そしてまた、これが人生の極意ともいえます。

本文

  又第六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり

現代語訳

また、第六天の魔王があるいは妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、あるいは国王の身に入って法華経の行者をおどし、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりするのである。

講義

三障四魔を乗り越え成仏を

第六天の魔王は、「智者」だけでなく、妻子や国王、父母などの身にも入って、正法の信仰を妨げると説かれています。

「父母の身に入つて孝養の子をせむる」

池上兄弟は、この御文を身をもって実感しつつ拝したに違いありません。

兄弟に対する迫害の背景には、確かに悪鬼入其身の極楽寺良観ら、悪僧の画策もあった。その上で、実は父・康光にも第六天の魔王が取り入り、信仰を阻まんと攻め込んできていると仰せです。ゆえに断じて従ってはならない。魔の本質を見抜けと教えられています。

「信仰」か「孝養」かの選択を迫られ、悩み苦しむ門下に対して、大聖人は、本抄や諸御抄を通して、これでもか、これでもかというほど、指導、激励を重ねられています。真の孝養とは、最高の仏法哲理で自分が成仏し、親を三世にわたって救っていくことです。

そして兄弟は、師匠の仰せのままに信心を貫き通し、見事、障魔に打ち勝っていったのです。

今は未曾有の経済危機の中、三障四魔も盛んに競い起こっています。だからこそ、一番大事なのは、「自分自身の心に勝つこと」「唱題に徹し抜くこと」です。

「難を乗り越える信心」に生ききれば、必ず変毒為薬することができます。必ず宿命転換することができます。必ず、一生成仏の境涯を築くことができます。必ず広宣流布の道は大きく開かれていくのです。

さあ、深き信心に立ち、「心」で勝って「5・3」を勝ち飾り、そして一人一人大勝利の実証の姿で、明年の創立80周年を迎えていきましょう。

5月号

 本文

  我等過去に正法を行じける者に・あだをなして・ありけるが今かへりて信受すれば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば 未来の大苦をまねぎこして少苦に値うなり、この経文に過去の誹謗によりて・やうやうの果報をうくるなかに或は貧家に生れ或は邪見の家に生れ或は王難に値う等云云、この中に邪見の家と申すは誹謗正法の家なり王難等と申すは悪王に生れあうなり、此二つの大難は各各の身に当つてをぼへつべし、

現代語訳

われわれは、過去において正法を修行していた者に怨をなしたのであるが、今度は反対に自分が正法を信受することになったので、過去に人の修行を妨げた罪によって本当は未来に大地獄に堕ちるところを、今生に正法を行ずる功徳が強盛なので未来の大苦を今生に招きよこして少苦に値うのである。この経文に、過去の謗法によって、さまざまな果法を受けるなかに、あるいは貧しい家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは王難に値う等と示されている。このなかに「邪見の家」というのは誹謗正法の家であり「王難等」というのは、悪王の世に生まれあわせることである。この二つの大難は、あなたがたの身にあたって感ずることであろう。

講義

大難は「転重軽受」の証明

大聖人はここで、正法を持つ者が大難を受ける理由について、それは、「転重軽受」、すなわち宿命転換の功徳であることを明かされております。

過去世において、正法を行ずる者を迫害した罪によって「未来に大地獄に堕つ」べきほどの報いがあるところを、今生において「正法を行ずる功徳」が強く盛んであるため、「未来の大苦」を招き起こして、現世で「少苦」として受けるのである。とおおせです。

日蓮大聖人の宿命転換の仏法では、まず、あらゆる悪業の根源は、妙法に対する不信・謗法であると洞察されます。「根本の悪」が明らかになることで、「根本の善」も明確になります。根本の善悪の因果が明瞭になってこそ、本格的な宿命転換が可能になるからです。

その「根本の悪」である謗法とは、すべての人に仏性があることを信じないゆえに、「万人成仏」の教えである法華経を謗ずることです。さらには、万人の仏性を開いていく行動を続ける「法華経の行者」を誹謗することです。そして「法華経の行者」と共に、万人の仏性を否定する根源的な悪とたたかうことにほかなりません。

この「護法の功徳力」によって、未来に受けるべき苦報を現世に軽くうけることが「転重軽受」です。「ぱ地獄の苦みぱつときへて」(1000:転重軽受法門:04)今世で一切の「重罪をけしはてて」(0233:開目抄:01)晴れやかな仏界の境涯を開いていけるのです。いわば、悪から悪への流転の境涯から、善から善への生死へと、生命の軌道の方向転換することができる。それが大聖人の宿命転換の仏法です。

したがって、転重軽受によって受ける難は、「護法の功徳力」として生じたものであり、宿命転換の証しともいえるのです。

さて「兄弟抄」に戻れば、転重軽受のゆえに、今世で受ける「少苦」の具体的な内容として、大聖人は般泥洹経に説かれる八つの難のうち、「邪見の家に生れ」「王難に値う」の二つが、池上兄弟の身に当たる難であると指摘されます。

ここで「邪見の家に生れ」とは、誹謗正法の家に生まれることです。また、「王難等と申すは悪王に生れあう」と仰せです。これは、法華経の行者を迫害する権力者、社会とともに生まれあわせることです。

このように、池上兄弟が「邪見の家に生れ」「王難に値う」ことは、大聖人とともに妙法弘通の実践をしているがゆえに生じた難であり、師弟不二の実践を貫いている証明でもあるのです。

本文

  各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる

現代語訳

あなたがた兄弟は、かなり法華経(御本尊)を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それは例えば鉄を念入りに鍛えて打てば内部の疵が表面にあらわれてくるようなものでる。石は焼けば灰となるが、金は焼けば真金となる。

講義

宿命転換は、生命最後の錬磨

鉄を何度も熱して鍛えていくと、脆さの原因である内部の不純物がたたき出されます。それを、さらに鍛え打つことによって、鉄は一段と強靭になります。兄弟の信心が強盛であるため、過去世の重罪を責め出して今世に苦難の果報を受けているとの仰せです。

ここにある通り、転重軽受・宿命転換の道においては、苦難の意味そのものが深まり、「信心の錬磨」「生命の鍛錬」の意義を持つのです。

大聖人は「鉄は炎打てば剣となる」(0958:佐渡御書:14)とも述べております。

私たちの信仰は、宿命と立ち向かうなかでこそ、磨かれ、強くなるのです。

悩みや苦しみという“業火”に焼かれた時、人間の真価は発揮されます。「弱き信心」であれば、灰となって崩れ散ってしまう。「強き信心」であれば、真金となって、ますます輝きを放っていくのです。

わが生命を鍛え抜き、強く磨き上げることが、仏法の大目的です。

磨かなければ人材は光らない。鍛えなければ本物は育たない。広宣流布のために徹底して戦う中で、過去世の宿業を転換し、わが人生を金剛不壊の宝剣のごとく、光り輝かせていくことができるのです。

鍛錬といえば、牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私の創価の師弟もまた、毎日が生命錬磨の日々でありました。

19歳で牧口先生との出会いを刻まれた戸田先生は大正9年(1920)4月、「若き日の日記」に、このように綴られています。

「国家の人材、世界の指導者としての大任を授かるべく練り、果たすべく磨かざるべからず(中略)今日の人のそしり、笑い、眼中になし、最後の目的を達せんのみ」

この折、若き戸田先生は、牧口先生が校長を務めておられた西町尋常小学校の臨時代用教員として採用されました。

偉大なる師と出会い、偉大なる目的を成就するために「練る」すなわち、人格、実力、心身を鍛練しゆくことを深く決意されたのです。

私もまた、19歳の時に恩師・戸田先生の運命的な出会い、栄光の師弟不二の大道を歩み始めました。

戸田先生の事業が挫折し最も苦境の時にも、私は矢面に立って、一身に師を守り支えつづけました。

昭和25年(1950)12月の日記に、当時の心中を次のように記しました。

「苦闘よ、苦闘よ。

汝は、その中より、真実の人間ができるのだ。

汝は、その中より、鉄の意思が育つのだ

汝は、その中より、真実の涙を知ることができるのだ。

汝は、その中より、人間革命があることを知れ」

戸田先生に言い尽くせぬほど、お世話になった者たちが、手のひらを返したように、大恩を踏みにじり「戸田の野郎」などと罵詈罵倒して、去っていきました。

しかし、私は微動だにしませんでした。戸田先生と共に受ける苦難こそ誉れであり、鍛錬こそ勝利の道である。そして戸田先生に必ず第二代会長として、広宣流の指揮を執っていただくのだと祈り切って、悪戦苦闘を突き抜けていったのです。

本文

  此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ、雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし、十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん

現代語訳

このたびの難においてこそ、本当の信心があらわれて法華経の十羅刹女もあなたがたを必ず守護するにちがいない。雪山童子の前にあらわれた鬼神は帝釈であり、尸毘王に助けられた鳩は毘沙門天であった。同じく、十羅刹女が、信心を試すために、父母の身に入って、法華経を信ずる人を責めるということもあるであろう。

講義

諸天善神が信心を試すゆえの難

つづいて大聖人は、兄弟の実践に「本当の信心」があらわれたので、法華経の行者を守護すると誓った「諸天善神」によって守られることは間違いないと仰せられます。そのうえで、帝釈天が羅刹となって雪山童子の求道心を試したように、また、毘沙門天が鳩となって尸毘王の慈悲心を試したように、諸天善神は、その人の信心が本物かどうかを試すことがあると示されています。

大聖人は、その原理を踏まえて、今回の勘当は、十羅刹女が兄弟の信心を試すために、父母の身に入って二人を責めたであろうと仰せです。

諸天善神がその人の信心を試すために難を起こす この原理について、大聖人は、他の御書で明かされます。

例えば、熱原の法難の折に、農民信徒たちが平左衛門尉頼綱によって理不尽な尋問を受けたことがあります。しかし、一人として退転する者はなかった。彼らは権力者の弾圧を受けても恐れる心なく題目を唱え続けました。

直ちにこの報告を聞かれた大聖人は、即座に記されました。

「定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か」(1455:聖人等御返事:02)

大聖人は、平左衛門尉の身に十羅刹が入ったか、あるいは悪鬼が入ったかと仰せです。

悪鬼が入って法華経の行者を迫害することは、前回、第六天の魔王が智者や国主、父母の身に入って迫害を加える原理として学んだ通りです。

しかし、諸天善神が平左衛門尉の身に入って熱原の農民信徒の信心を試したとは、いかなることでしょうか。

それは、「不退転の信心」こそが「成仏の因」となるからです。もとより難を受けるのは、正法である法華経を持つたゆえです。問題は大難を受けた時に、臆病な心が出来して退転してしまうか、勇気の心を奮い起して不退転を貫くかどうかです。

自分の心の弱さゆえに退転してしまえば、それは第六天の魔王に責め苦に敗れたことになります。反対に、自分の心が固いゆえに不退転を貫けば、それは諸天の試練に打ち勝つたと振り返ることができます。

要するに、どこまでいっても自分の「心」で決まるのです。諸天善神の加護といっても、本質は、自分の信心の力です。

戸田先生は師子吼されました。

「大聖人をいじめ抜いた、極悪の仏敵である平左衛門尉に対して、御書には、“彼は、自分にとっては善知識だ”と仰せになっておられる。

敵など断じて恐れるな!全部自分自身を完成させて、仏にしてくれる、闇の列風に過ぎない」これが、日蓮仏法の師子王の魂です。大事なことは、恐れない「心」です「一念」です。

大聖人は、幾度となく妙楽大師の「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」との一節を引用されています。信心が本物であれば、諸天善神は必ず法華経の行者を守護することは間違いありません。

先ほどの御文の続きでも、大聖人は、釈迦・多宝・十方の諸仏、諸天の加護は、法華経の会座での誓いであり、絶対に破られることはない。変毒為薬の原理から、たちまちに「賞罰」が厳然とあることも確かなことであるとおおせられています。 「心こそ大切」です。自分の信心いかんで未来の勝利は決まるのです。

「自分の運命をになう勇気をもつ人だけが、英雄である」というヘッセの箴言があります。

一切が自分の生命の変革から始まると確信した者が、真の勇者であり、永遠の幸福を築くことができるのです。

本文

  それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし、又前車のくつがへすは後車のいましめぞかし、今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし、此の世のありさま厭うともよも厭われじ日本の人人定んで大苦に値いぬと見へて候・眼前の事ぞかし

現代語訳

それにつけても信心が弱くては、必ず後悔するにちがいない。前車が覆えったのは、後車の誡しめである。

今の乱れた世にあっては、これということがなくとも仏道を求める心が起こるのは当然である。この世の有様をみて厭うといっても、よもや厭うことはできない。日本の人々は、定めて大苦に値うことは目に見えており、まさに眼前のことである。

講義

「まことの時」に不退の信心で

「それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし」

これは、すべての門下に送られた言葉と拝されます。

「法華経を経のごとく説く人」に巡り合うことができた。この“師と時を同じくして戦える福徳”をいかに自覚するか。せっかく大事な時に、心が浅ければ、永遠に後悔を残してしまう。

難にあっている時は、実は、自分の成仏の門を永遠に開いていけるか、それとも退転によって幸福の道を閉ざしてしまうか。その最大の岐路であり、最も「大事な時」となります。

いついかなる時も、私たちは大難の時こそ「開目抄」の一節を拝して戦い抜きたい。

「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234:07)

この御文の身読が、創価学会の永遠の生命線です。常にこの御文に立ち戻り、前進していけば、私たちの信仰は不滅の輝きを放つからです。この御文の精神に照らせば、私たちが難に直面した時は、すべて「まことの時」です。三障四魔が競い起こった時も、自分の宿命転換の時も、広宣流布の活動の“剣が峰”の時も「まことの時」に反転攻勢できる信心が不可欠です。その信心を私たちは、日々、大聖人から教わっているという自覚に立つことです。断じて「つたなき者」になってはならない。

「心あさからん事」「つたなき者」 それは生きる根本目的を持たずに浮き草のように漂う人生になってしまいます。

人間は「生きる意味」を求める動物です。

そして真剣に、その意味を探求し貫いていけば、おのずといくらでも深まっていく。学会員は、人生の意味と信仰とを常に深めていくことができます。皆、人生の哲学博士なのです。

「今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし」とは、当時の不安に満ちた社会事情を踏まえての仰せです。

大聖人の御在世当時は、度重なる飢饉や疫病、天変地異が相次ぐ時代でした。そうした時代だからこそ、本来であれば、人々に「道心」が芽生えるはずです。混迷の度をますほどに、深い哲学が求められます。日蓮仏法は、まさしく悪世末法の時代の闇を照らす「太陽の宗教」なのです。

ところが、日本は、その大聖人を正しく愚するどころか迫害した国です。結果として大聖人が予言された内乱と侵略の警告が的中し、なすすべがなくなってしまった。避けることのできない悲惨と苦悩に直面したのが総罰の姿です。大聖人は二月騒動と蒙古襲来という「眼前の事」を見れば、そのことが明瞭ではないかと喝破されています。

特に文永11年(1274)の「文永の役」のあとは、日本一国をあげて、近々あるであろう再度の蒙古襲来に備えている最中であり、人々の間には大きな不安が広まっていました。

「蒙古討伐に向かった人々は、年老いた親、幼い子、若い妻、そして大切な住み家を捨てて、ゆかりのない海を守り、雲が見えれば敵の旗かと疑い、釣舟が見えれば兵船ではないかと肝をつぶす」

戦争による嘆きは、いつの時代も変わりません。愛する家族との辛い別れ、いつ命が果てても不思議ではないという、死と隣り合わせの日々、いつの時代も苦しむのは庶民です。ゆえに、絶対に戦争を起こしてはならない。これは仏法者の永遠の叫びであります。

「現身に修羅道をかんぜり」という現代社会です。大聖人の戦いは一面から見ればそうした“修羅道の社会”の変革であり、全民衆が幸福と平和をつかむ世の中の実現であったのです。

いずれにしても、民衆が苦しむ事態を招いたのは邪悪に加担して最大の正義の大聖人を迫害した為政者の責任です。大聖人は、池上兄弟が今、父親から責められているのも、結局は、国主が悪僧らにそそのかされて「法華経の敵」となってしまったからであると洞察されています。

仏法は勝負です。大聖人は「法華経の御利生心みさせ給え、日蓮も又強盛に申し上げ候なり」と仰せです。

師弟一体の祈りと団結で、正邪を必ず満天下にしめしていこうと、最愛の弟子へ力強くよびかけられています。

大聖人が池上兄弟に教えられている行き方は、一貫して、魔性に対して堂々と立ち向かっていく「攻めの姿勢」です。受け身になつたり、弱気になれば魔は増長します。「絶対に臆してはならない」と御指導されているのです。

戸田先生は烈々と語られました。

「困難を避けるような弱虫に、何ができるか。そんな人間は、この戸田のもとには、いないはずです」

「学会は師子の団体だ、師子の集まりだ。臆病ものはいらぬ!」

本文

がうじやうにはがみをしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ、わだが子となりしもの・わかさのかみが子となりし・将門・貞当が郎従等となりし者、仏になる道には・あらねども・はぢを・をもへば命をしまぬ習いなり、なにと・なくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ。

現代語訳

だからあなた方は信心強盛に歯をくいしばって難に耐え、たゆむ心があってはならない。例えば日蓮が平左衛門尉の所で、堂々と振舞い、いい切ったように、少しも畏れるような心があってはならない。北条氏との戦さで敗れた和田氏の子、時頼と戦って敗れた若狭守泰村の子、あるいは天慶の乱の平将門の家来、前九年・後三年の役の阿倍貞当の家来となった者は、仏になる道ではなけれども恥を思うゆえに命をおしまなかった。これが武士の習いである。これということがなくても、一度は死ぬことは、しかと定まっている。したがって、卑怯な態度をとって、人に笑われてはならない。

講義

「強盛に歯をかみしめて、弛む心なかれ」

信仰ゆえに苦境に立たされた池上兄弟に対して「断じて恐れる心、へつらう姿があってはならない。「たゆむ心があっては絶対にならない」と重ねて励まされています。

私たちの信仰の目的は、何があろうと揺るがぬ、悠然たる幸福の大境涯の確立です。

大聖人がここで池上兄弟に示そうとされたのも“どんな苦難を前にしても、少しも揺るがぬ人格を今こそ築きゆけ”との激励であったと拝されます。

日蓮仏法は師弟の宗教です。師匠が師子王であれば、師子の子である弟子もまた師子王にならなければならない。“私を見よ”“私に続け” それが師匠の厳命です。

「例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい・いゐしがごとく」と仰せのように、“私が厳然と戦ったように、あなたがたも堂々と戦いなさい”と不二の実銭を貫くように指導されているのです。

ここで、大聖人の平左衛門尉の前で振る舞いとは、文永8年(1271)9月の竜の口の法難の際の国主諫暁そして、佐渡流罪赦免後の文永11年(1274)4月の国主諫暁を指されています。

大聖人は、竜の口の法難の際、平左衛門尉に対して師子吼されました。

「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり」(0287:11)

さらに、佐渡赦免後の諫暁でも仰せです。「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(0287:撰時抄:15)鎌倉幕府が治めている地に生まれ合わせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心は随えられることなど絶対にない。

まさに「恐れる心」「へつらう心」を一切振り払った、威風堂々の大宣言です。そうした師匠の戦いを“模範”として立ち上がった不二の弟子に、恐れるものなどありえません。“私のように戦いなさい”との師の戦いに直桔することで、自身の無限の力有を引き出すことができるのです。

なお、この撰時抄の一節はユネスコが編纂した『語録人間の権利』にも収録されておいます。

さらにまた「なにと・なくとも一度の死は一定なり」と仰せです。

これは、私の半世紀以上にわたる信心のなかで深く感銘を覚えた御聖訓です。

人としてうまれてきたからには、いつかは必ず死ぬ、いかなる人間もこの道理から逃れることはできません。大切なのは、一度しかないこの命を何に使うか、ということです。

大聖人は青年・南条時光に対して「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」(1561:上野殿御返事:03)と述べておられます。

戸田先生は、「死は一時、生は永遠である、創価学会も同志も、いまや広宣流布の大旗を掲げて立ったのである。いまや広宣流布の秋である。勇まなくてはならない」と、ただ一人、妙法流布の旗をもって立ち上がり75万世帯の折伏を完遂されました。

先生は「霊鷲山で、釈尊の弟子方と同座した時“末法の青年はだらしがないな”と笑われては、地涌の菩薩の肩書が泣く」とも教えられました。まさに「異驢馬悪しくして人に・わらはせ給うなよ」との御指南通りの叱咤出でありました。

本文

  釈迦如来は太子にて.をはせし時・父の浄飯王.太子を・をしみたてまつりて出家をゆるし給はず、四門に二千人の・つわものをすへて・まほらせ給ひしかども、終に・をやの御心をたがへて家を・いでさせ給いき、一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か

現代語訳

釈迦如来が、太子であられたとき、父の浄飯王は太子を惜しんで出家を許されなかった。そして城の四方の門に二千人の兵士を配置して、守らせたけれども、釈迦如来は、ついに王の心にそむいて、家を出られたのである。いっさいのことは親に随うべきではあるが、成仏の道だけは、親に随わないことが孝養の根本といえるであろう。

講義

孝養の在り方を教える

仏法の法理のうえから「不退の信心の大切さ」を述べてこられた大聖人は念をおすように、「弟、宗長のことがあまりに心配だから」といわれて、さらにさまざまな故事などを引用しながら激励を続けられます。

大聖人の励ましは、いつも真剣勝負であられる。相手が心の底から納得して立ち上がるまで、激励が途切れることがありません。何としても弟子が絶対に魔に食い破られないように、そして、真の門下として立ち上がれるように、大聖人は時に厳しく、時に諄々と、慈愛と智慧の指導を続けられます。

魔と戦い、魔を破った人が、仏法の師匠です。したがって、弟子が魔との闘争を始めるには、師匠から信心を学ぶしかありません。弟子が師に感応して、自ら奮い立ってこそ師弟不二の宗教が完成するのです。

弟子が障魔に勝ちきっていけるように、大聖人は、次々と長い故事・物語をのべられています。

まず、古来から忠孝の手本とされてきた白夷・叔斉の故事を挙げられます。続いて釈尊と天台大師の例を出して、仏道を妨げようとする親の意には従ってはならないことをしめされます。

また日本の朝廷の兄弟の例、法華経の浄蔵・浄眼の兄弟の逸話、隠士・烈士の故事を取り上げて、二人が心を合わせていくことの重要性を繰り返し訴えられていきます。

このなかでも、釈尊が、父・浄飯王の心に背いて出家した話は、信仰か孝養かで苦しむ兄弟にとって重要な教えとなります。

元来「信仰」と「孝養」は、どちらか一方だけを選び取るような問題ではありません。むしろ、孝養の重要性を説き明かしているのが仏法です。また真の孝養とは何かを教えているのです。

大聖人は「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候かと仰せです。

自身が成仏することが、最高の孝養となります「唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん」(0984:始聞仏乗義:15)と仰せです。

学会の同志にも、両親から信心の理解を得られないなかで活動に励んでいる方がおられます。しかし、あせる必要もなければ、信仰を無理強いする必要もありません。一家の誰か一人が、真面目に信心に励んでいけば、本末究竟して等しく一家一族が永遠に勝ち栄えてゆくことは間違いないからであります。

戸田先生は「青年訓」において「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者が多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲な自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」と呼びかけられました。親を大切にする心なくして、自身の人間革命も社会の変革もなし得ません。この恩師の心は、そのまま私の思いです。

大聖人は逸話を紹介されるなかで、池上兄弟が団結して戦っている様子を「未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき」と賞讃されています。

大聖人の弟子として立ち上がり、障魔と戦う信心のドラマを描いた門下一人一人の活躍は、そのまま「未来までの・ものがたり」となります。

事実、池上兄弟が団結して信心を貫き通し、2回の勘当を乗り越えただけでなく、父親の入信を実現するまでの「体験談」が、どれだけ後世の人々の希望となったか、はかりしれません。同じように、現在の学会員一人一人の信仰体験が、どれだけ後世の模範となるかも誰人の想像も及びもつかないでしょう。

一人一人の「勝利の物語」それを実現するのが「師弟の大道」です。

「自分自身」では、魔に打ち勝つことはできません。広宣流布の師匠とともに立ち上がることは、確固たる自分自身を築く「正道」です。そして、自身の胸中に「幸福の大道」を見いだした人は、絶対に敗れることはありません。

民衆詩人ホイットマンは「大道の歌」の中で謳いあげます。

「今から後私は幸福を求めない、この私自身が幸福なのだ」

「大地、それだけで充分である。

諸星座がも少し近ければなどわたしは欲しはしない」

どこか遠くの星をつかもうとする必要などありません。自分の中に一切の勝利の源泉があるからです。

戸田先生は語られました。

「大作、野良犬が吠えるような、いかなる罵倒や非難があっても、決して動ずるな!

そんな、つまらぬことに、決して紛動されるな! 英雄の道を歩むのだ。

私達の信奉する大聖人の難から見れば、すべて九牛の一毛にすぎないのだ」

私はこの決意で60年余、戦ってきました。大難は「師弟の大道」を歩む誉れの勲章です。後は、この創価の大道を、後継の青年に継いでもらいたいのです。

「生命を、幸福へ向かわせる仏の住み家とするか、逆に不幸へと向かわせる魔の住所とするか、どちらか一方をとらなければならない。

進んで魔の働きをかり出し、これを退治してこそ幸福と広宣流布とがある」

6月は、創価の父・牧口常三郎初代会長のご生誕の月です。牧口先生は、魔との戦いの中に一生成仏と広宣流布の信心があることを、ご自身の闘争の姿で教えてくださいました。

昭和13年(1938)牧口先生から毎月のように手紙をただいた、ある青年教師が述懐していました。

「『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる…』と3回に1度は書いていただいておりました」

この青年だけでなく、牧口先生は、絶えず会員に対して、三障四魔と戦い抜く信心を強調されていました。魔と戦う信心こそ、日蓮大聖人の仏法の真髄だからです。この牧口先生の障魔を破る実践の源流として創価学会は大聖人の仏法を正しく如説修行し抜いてきたのです。

牧口先生の分身の弟子である戸田城聖先生もまた、一切の魔と戦い抜く破邪顕正の指揮を一貫して執り続けられました。

獄から出られた戸田先生は、牧口先生を獄死に至らしめた魔性の権力への勝利の誓い、「妙法の巌窟王」となって敢然と広宣の旗を一人掲げられました。

その師をお護りしたのが私です。やがて、師弟して三障四魔の列風をはね返し、戸田先生は第2代会長に就任されました。この地上から悲惨と不幸を根絶するために、貧困・憎悪・暴力の苦悩の解決へ、人間の根源悪である無明を打ち破る未聞の宗教革命を開始されたのです。そして、勇敢に魔軍と立ち向かう75万の地涌の陣列を呼び出し、三類の強敵を打ち破りつつ「立正安国」の砦を築き上げられました。

また「原水爆禁止宣言」をはじめとして、人類の魔性の爪をもぎとる熾烈な闘争も繰り広げられております。そして、宗門に巣くう邪悪と戦い抜き、人間精神の「一凶」となる一切の魔性に対する追撃の手を緩めてはならないとの遺命が、弟子の最後の御指導となりました。

まさしく「魔との闘い」が、大聖人の御聖訓通りの初代、2代、そして3代の闘争を貫く学会指導の骨髄なのです。

現在も、そして未来も、この信心を継承すれば、広宣流布は必ず実現します。その方程式を教えられた御書が、今、学んでいる「兄弟抄」です。今回は「三障四魔との闘争」「異体同心」「師弟不二の信心」を拝していきます。

6月号

  本文

  されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事・一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年・南北の十師・智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり、此の法門は漢土に始るのみならず月氏の論師までも明し給はぬ事なり、然れば章安大師の釈に云く「止観の明静なる前代に未だ聞かず」云云、又云く「天竺の大論尚其の類に非ず」等云云、其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。

現代語訳

それ故、天台大師の摩訶止観という書は、天台大師一生の大事、釈尊一代聖教の肝心を述べたものである。仏法が漢土に渡って五百余年、当時の南三北七の十師達は、智は日月に等しくたとえられ、徳は四海に響いていたけれども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第について迷っていたのを、天台智者大師が五時八教の判釈をもってふたたび仏教を明確にされたばかりでなく、妙法蓮華経の五時の蔵の中から、一念三千の如意宝珠を取り出して、インド・中国・日本の一切衆生に広く与えられたのである。この天台の法門は、漢土に始まるばかりでなく、インドの論師さえ明かさなかったのである。それ故、章安大師は止観を釈していうには「摩訶止観ほど明らかで誤りのない法門は、前代にいまだ聞いたことがない」また「インドの大論も、なおその比較の対象にならない」等といっている。そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。故に、この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻には「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる(乃至)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮が身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである。

講義

「門家の明鏡」「未来の資糧」

大聖人は大難に直面した池上兄弟に対する「兄弟抄」を三障四魔の出現を説く「摩訶止観」の文を通して、断じて魔に敗れてはならないと御指導されています。

本抄では、法華経を持つ者に、なぜ魔が競い起こるのか、という点について、種々の角度から詳細に述べてこられました。

そのうえで、あらためて、信心とは「三障四魔」との戦いであることを確認されています。

まず、大聖人は、天台大師の「摩訶止観」第五の巻を取り上げられ「一念三千の法門」こそ、仏法の肝心であることを示されます。

「一念三千」とは、万人成仏を示す法華経の思想の真髄を、観心という生命変革の実践の指標として表現した法理です。

天台大師は「摩訶止観」第五の巻「正修止観」の章の冒頭で、いよいよ仏法の極理である一念三千の法門を説き明かすにあたって、まず、三障四魔を恐れて退転してはならないとの警鐘を鳴らしています。この点に大聖人は鋭く注目されます。

すなわち、「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」とおおせのように、正しい仏法の実銭には必ず魔が出来する。その確信と覚悟のもとで敢然と魔を打ち破り、生命変革を勝ちとっていかなければならない。その真剣勝負の指標が、ここに説かれているのです。

まず「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解の深まり、その理解に基づいての修行が整った時」という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。

私たちの信仰でいえば、「行学の二道」に励み、「いざ前進」の時に必ず三障四魔が競い起こる、という意味になります。

大聖人は凡夫から仏への境目の時に三障四魔が起こるといわれています。

次に、三障四魔は「紛然として競い起る」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起る」とは、三障四魔が、入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。

この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を天台大師は明快に2点、挙げています。

それが「随う可らず」そして「畏る可からず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば正法を修行することの妨げとなってしまう。 結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利の根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」魔を恐れず、魔に断固立ち向かっていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が「無明」を即「法性」へ転じ「難来るを以て安楽」(0750:第一安楽行品の事:02)という境涯に開いていくからです。

大聖人は他の御書で、この「止観」の三障四魔出来の文を引用されたあと、直後にある「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」(0916:種種御振舞御書:15)との一節も引用されています。

三障四魔と戦うことで信心が磨かれるのです。それはあたかも、金山がますます輝き、大海がますます豊かになり、火がますます燃え上がり、求羅がますます大きくなるようなものです。法華経へのこの強盛な信心こそ、変毒為薬の妙用をもたらします。「災い」を変じて「幸い」へと変えるのです。

「法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し」(1136:四条金吾殿御返事:09)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(1448:椎地四郎殿御書:03)と仰せです。大難は、法華経の行者の生命を強くします。大難に雄々しく立ち向かってこそ、仏界の生命は、いやまして光り輝いていくのです。

大聖人はこの「難即成仏」の軌道を示して、池上兄弟に最後まで戦う覚悟を促されていると拝されます。

ありがたいことに、三障四魔と戦い、勝ち切っていく軌道は、師匠であられる御本仏・日蓮大聖人自身が歩んでこられた道です。まさに「日蓮が身に当る」実践です。

そして、師に続いて同じ栄光の大道を歩めと、池上兄弟に呼びかけられているのです。それが「日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」との仰せです。

また、池上兄弟が実践し、勝利した姿が、後に続く門下たちの未来永遠の手本となります。ゆえに「謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と仰せられているのです。

私たちもまた、牧口先生、戸田先生に教わった「魔と戦う信心」を、謹んで習い伝えて、創価学会万代発展の因を今こそ築いていこうではありませんか。

本文

  此の釈に三障と申すは煩悩障・業障・報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障礙出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競へる人あるや

現代語訳

この釈に三障というのは煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、おのおのの生命にある貧・瞋・癡等によって、仏道修行の障礙があらわれるのである。業障というのは、妻や子等が仏道の障礙とあらわれることである。報障というのは、国王や父母等が障礙とあらわれるのである。また四魔のなかで、天子魔というのもこの報障と同様である。今、日本国には、われも止観を体得した、われも止観体得したという人々のうち、誰に一体三障四魔が競い起こっているであろうか。

講義

三障四魔と戦う「本物の信心」

続けて大聖人は、池上兄弟のために、三障四魔の具体的な姿を教えられております。そして、現実に三障四魔と戦い続ける大聖人と門下だけが、真の正法実践の継承者であることを明かされています。

最初に「三障」をおしえられています。「障」とは、仏道修行を妨げ、善根を害する働きです。経典によって多くの種類が挙げられていますが、涅槃経等では、煩悩障、業障、報障の三障を説いています。

「煩悩障」とは、貧、瞋、癡など、その人自身に具わる煩悩が信心修行の妨げとなるものです。煩悩は、その人の生命力を弱め、人の心を狂わせて、向上の気力そのものを失わせます。「業障」とは、自身の生命に刻まれた悪業の影響力が信仰を妨げるものです。誤った行動によって自ら仏道修行から遠ざかり離れてしまうのです。「報障」とは、過去世の悪業の果報によって生じる障りをいいます。悪世や悪環境に生まれることは、その悪報の最たるものです。

大聖人は本抄において、業障を「妻子による妨げ」、報障を「国主父母による妨げ」とうように、具体的に示されています。これは現実に池上兄弟が直面している事態に即して明瞭に言われたものであると拝されます。

ただし、ここで確認してかなければならないことは、妻子や国主・父母が信仰の妨害をすることは、あくまでも自身の信心を妨げる「悪縁」にすぎません。退転してしまうかどうかは、自分自身の心の問題です。妻子・国主・父母そのものが絶対的な悪の存在などではありません。自身が勝利すれば一切が善知識となります。さらに言えば、自分自身を変革することで、他者の生命を変革していくことも可能になるのです。

つづいて「四魔」がとりあげられています。「魔」とは、サンスクリットの「マーラ」の音写である「魔羅」の略で、殺者、能奪命者、破壊等と漢訳されています。信心している人自身の内側から、生命そのものを奪い、心を破壊しようとする働きです。

経論によって種々の魔が説かれますが、「大智度論」等では、煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔の四魔が挙げられています。「煩悩魔」とは、煩悩から衆生の心を悩乱し智慧の命を奪うことです。「陰魔」とは、五陰の不調和から心に懊悩が生じて信心を破壊することで、病魔なども含みます。「死魔」は、修行者自身の生命が奪われることと、修行者の死によって周囲の者が信心に疑いを生ずることです。そして「天子魔」は他化自在天魔、すなわち第六天の魔王による信心の破壊です。

ここで大聖人は、四魔のうち天子魔のみを取り上げられています。これは、池上兄弟が現実に直面している課題に直接かかわる点に絞られているゆえであると拝されます。第六天の魔王に立ち向かう信心については、本抄のこれまでの個所で、大聖人は繰り返し御指導なされてきました。ここでは、この三障四魔を起こして、打ち破ることのできるのは、日蓮大聖人及び大聖人の門下しかないことを強調されていきます。すなわち、「誰か三障四魔競へる人あるや」と仰せです。

“止観をえたり”という人々はたくさんいる。しかし、一体誰に、三障四魔が競い起こっているというのか。大聖人御自身とその門下を除いて、ほかにいないではないか 。

この崇高なる戦う魂を受け継ぎ、現代において「誰か三障四魔競へる人あるや」の御文を証明してきたのが、創価の師弟の闘争であり、学会員の実銭にほかなりません。

創価教育学会の第五回総会で、牧口先生は「兄弟抄」のこの一節を引いて獅子吼されました。

「従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい」

「魔が起こらないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』ではないか。しからば、魔が起こるか起こらないかで、信者と行者の区別がわかるではないか。

自分一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない、これに反して、菩薩行という大善生活をやれば、必ず魔が起こる。

「我々は、蓮華の泥中よりぬけ出でて、清浄の身をたもつがごとく、小善中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに行者といわれるのでる」

自分だけの小利益を願い、魔との戦いを恐れ、避けるような、臆病な「信者」であってはならない。

一生成仏そして広宣流布という大利益のため、身命を賭して三障四魔との戦いに挑む人こそ、真の「行者」です。そして、わが学会員の皆様こそ、現代における誉れの「行者」なのです。

本文

  之に随えば将に人をして悪道に向わしむと申すは 只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とかけり、されば法華経を除きて華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等なり、天台宗を除きて余の七宗の人人は人を悪道に向わしむる獄卒なり、天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒なり。

現代語訳

止観のなかに、「三障四魔に随うならば、まさに人を悪道に向かわせる」というのは、ただ三悪道ばかりでなく、人界・天界、そして九界を皆悪道と書かれているのである。それ故、法華経を除いて、華厳・阿含・方等・般若・大日経等は皆、人を悪道に向かわせる法である。天台宗を除いて、ほかの七宗の人々は人を悪道に向かわす獄卒である。だが天台宗の人人の中にも法華経を信ずるようでいて実際は人を爾前の教えへ向かわせる者は人を悪道に行かせる獄卒である。

講義

人々を悪道に堕とす獄卒との闘争

大聖人は再び「摩訶止観」の「之に随えば将に人をして悪道に向わしむ」の文を引かれます。

人々を三障四魔によって悪道に堕としていくのは、悪知識である諸宗の悪僧たちです。そうした輩は、三悪道へ、爾前経の九界へと人々を向かわせる「獄卒」にほかならないと喝破されています。しかし、それとともに、本来であれば、法華経を信じている天台宗であっても、法華経を信じているようで、かえって人々の法華経信仰を捨てさせるのは「悪道に人をつかはす獄卒」であると断言されています。

この建治年間、大聖人はいよいよ、日本中の法華経謗法の根本の因を作った天台座主の慈覚・智証に対して、破折の舌鋒を鋭くされていきます。法華経を守るべき彼らが、自宗に真言を取り入れ「法華経をころす人」となってしまった。

毒気深入の一国謗法と化した時代に、いわば「敵前上陸」して、人々が智者としてよりどころとしている僧を「根源の悪」として責めるのです「仏と魔王との合戦にも・をとるべからず」との原理のままに、三障四魔が激しく出来するのは必然です。

その矢面に立つ日蓮大聖人と共に立ち上がっているのが、池上兄弟をはじめとする真正の弟子たちです。大聖人は、「正義」を弘める師弟の「共戦」をあらためて強く呼びかけられていると拝されます。

本文

  今二人の人人は隠士と烈士とのごとし一もかけなば成ずべからず、譬えば鳥の二つの羽人の両眼の如し、又二人の御前達は此の人人の檀那ぞかし女人となる事は物に随つて物を随える身なり夫たのしくば妻もさかふべし夫盗人ならば妻も盗人なるべし、是れ偏に今生計りの事にはあらず世世・生生に影と身と華と果と根と葉との如くにておはするぞかし、木にすむ虫は木をはむ・水にある魚は水をくらふ・芝かるれば蘭なく松さかうれば柏よろこぶ、草木すら是くの如し、比翼と申す鳥は身は一つにて頭二つあり二つの口より入る物・一身を養ふ、ひほくと申す魚は一目づつある故に一生が間はなるる事なし、夫と妻とは是くの如し此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ、一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし、此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生に仏になし・たてまつるべし

現代語訳

今、宗仲、宗長の兄弟は隠士・烈士の二人のようなものです。どちらか一人が欠けるならば、仏道を成就することはできない。譬えば、鳥の二つの羽、人の両眼のようなものです。また二人の夫人たちはこの兄弟の二人にとっては大事な支えです。女性というものは物に随って、物を随える」のであります。夫が楽しめば、妻も栄えることができ、反対に夫が盗人ならば、妻も盗人となるのです。これはひとえに、今生だけのことではない。世世・生生に、影と身と、花と果実と、根と葉のように相添うものなのです。木に住む虫は木を食べる。水中に住む魚は水をのむ。芝が枯れれば蘭が泣き、松がさかえれば柏は悦ぶ。草木でさえ、このように互いに助け合うのです。比翼という鳥は、身は一つで、頭が二つあり、二つの口から別々に入った食物が、同じ一つの身を養う。比目という魚は、雄雌一目づつあるゆえに、一生の間離れることはない。夫と妻とは、このようなものです。この法門(御本尊)のためには、たとえ夫から殺害されるようなことがあっても後悔してはなりません。婦人たちが力を合わせて夫の信心を諌めるならば、竜女の跡を継ぎ、悪世末法の女人成仏の手本となられることでしょう。このように、信心強盛であるならば、たとえどのようなことがあろうとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹女・釈迦・多宝にいって、あなたが未来順次に生まれるたびに、必ず成仏してさせてあげましょう。

講義

兄弟、夫婦の団結こそ勝利の因

魔性と戦う信心の要諦は「師弟不二」と「異体同心」です。

大聖人は本抄を結ばれるにあたって、その急所を端的に教えられています。最初に異体同心の大切さを教えられます。

まず、池上兄弟にとって、何よりも重要なのは兄弟二人の団結です。

魔は分断を企みます、今回の勘当事件も、父親が兄弟二人を同時に勘当するのであれば、親と子の信仰上の軋轢であり、誤解がとければ解決する問題であるといえます。しかし、兄を勘当して、弟に家督相続の誘惑をする。この事件は明らかな離間策であり、まさに第六天の魔性の働き以外の何ものでもありません。

魔を打ち破ることができるのは、「善の連帯」しかありません。「一もかけなば成ずべからず」 兄弟の団結こそが、魔性の侵入を防ぐ最高の金城鉄壁になるのです。

さらに大聖人は、兄弟の夫人たちにも、勇気ある信心を貫き通すべきことを御指導されます。

「この法門のためには、たとえ夫から害を受けるようなことがあっても後悔してはならない。御婦人たちが心を合わせて夫の信心を諌めるならば、二人は竜女の跡を継ぎ、末法悪世の女性たちの成仏の手本となることであろう」。

いざという時、女性の信心がどれほど大切か。深く拝すべき御文です。そのうえで、一家和楽の信心を築くにあたって、焦る必要は全くありません。ただ一人でも妙法を持つことは、家族・一族全員を照らす太陽が昇ったのと同じです。その功徳は、眷属全員に及びます。大切なのは、「全員を幸せにしてみせる」という祈りであり確信です。

大聖人は「物に随って物を随える身なり」「一同して夫の心をいさめば」と仰せられております。夫人たちが聡明に毅然たる信仰を貫けば、魔を必ず破り、家族一同に成仏の大境涯をあらわすことができると励まされているのです。兄弟の父が遂に正法に帰依できた陰には、大聖人の御指導通りに振る舞う夫人たちの賢い支えがあったとも拝されます。

本文

  心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり。

  設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし、

現代語訳

「心の師とはなっても、自分の心を師とするな」とは六波羅密経の文である。たとえ、どのような煩わしい、苦しいことがあっても、夢のなかのこととして、ただ法華経(御本尊)のことだけを思っていきなさい。

講義

「心こそ大切」の勝利の人生を

「心こそ大切なれ」(1192:四条金吾殿御返事:14)です。

「心こそ大切に候へ」(1316:千日尼御前御返事:18)です。

「心」には、生命の無上の尊極性を開く力があります。一方で、無明につき動かされ堕落するのも「心」です。したがって「心」の変革こそが一切の根幹となります。

その時に、凡夫の揺れ動く自分の「心」を基準にしては、三障四魔の烈風が吹く険しき尾根を登ることはできません。絶対に揺るがない成仏の山頂を見据えて「心の師」を求め抜くしかありません。それが「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」との一節です。

「心の師」 断固として揺れ動くことのない不動の根拠とは「法」しかありません。したがって、「法」を悟り弘める仏の説き残した「経典」が大事になります。私たちで言えば、「御本尊根本」「御書根本」の姿勢が「心の師」を求めることになります。

そして、「法」と私たちとを結びつけるのが、仏法実践の「師匠」の存在です。自分中心の慢心ではなく、師弟不二の求道の信心に生き抜くことが「心の師」を求める生き方にほかなりません。

そして、どこまでも「心の師」 「法」を根本として生き抜くことを示されているのが次の一節です。

「たとえ、心を煩わせる、どのようなことがあっても、夢と思って、ただ法華経のことだけに専念していきなさい」

いかなる事象も、永遠という壮大なスケールから見れば、すべて一時の夢の出来事にすぎない。「法」は永遠の存在です。ゆえに、三障四魔に敗れて「法」から離れてしまえば永遠の後悔を残してしまう。ただ「法華経の事のみ」、ただ広宣流布を見つめて、永遠の勝利のために信仰を貫いていきなさいとの仰せです。

現代において「只法華経の事のみ」という「心の師」を求める生き方を堅実に歩んできた学会員は皆、見事に勝利の実証を示しています。日本中、世界中に庶民の信心の英雄は数多くおられます。その方たちこそ、「広宣流布の宝」です。また「人類の宝」です。「法」を根幹として、また「師弟不二」に徹して、自分の宿命を転換し、何ものにも揺るがぬ幸福境涯を確立されています。同時に、社会の繁栄、世界の平和のために尽力し、自他共の幸福の実現という無上の人生を歩む。この宝の如き学会員を、日本だけでなく世界中の知性も賞讃する時代に入りました。

本文

  中にも日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず、始は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返つて本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり、在世にも善星比丘等は始は信じてありしかども後にすつるのみならず返つて仏をはうじ奉りしゆへに仏も叶い給はず無間地獄にをちにき、此の御文は別してひやうへの志殿へまいらせ候、又太夫志殿の女房兵衛志殿の女房によくよく申しきかせさせ給うべし・きかせさせ給うべし

現代語訳

中でも日蓮の法門は、以前には、信じ難かったが、今は前々言って置いたことが的中したので、理由もなく誹謗した人々も、悔いる心が起きたのであろう。たとえ、それよりのちに信ずる男女があっても、あなたがたに換えておもうことはできません。始めは信じていたけれども、世間の迫害の恐ろしさに、信仰を捨てた人々は数をしらないほど多い。そのなかには、かえってもとから誹謗していた人々よりも、強情に謗る人々もまた多くおります。釈尊の在世にも、善星比丘は、始めは信じていたけれども、のちに信仰を捨てたばかりでなく、かえって釈迦仏を謗じたゆえに、仏の慈悲をもってしてもいかんともしがたく、無間地獄に堕ちてしまいました。この御手紙は、別して兵衛志殿にあてたものです。また大夫志殿の女房、兵衛志殿の女房にも、よくよくいい聞かせなさい。きかせなさい。

講義

「師弟不二」の信心こそ一切の要

本抄の結びに、あらためて「師弟不二」の重要性を教えられています。

人間の心の動きは千差万別です。なかには、大聖人の予言的中の現証を見て、誹謗したことを撤回して悔いる心を持つ人もいました。反対に信心をしていながら迫害を恐れて退転し、あまつさえ、もともと誹謗していた人よりも一層激しく毀謗する心をもつ人も多くいました。

心浅き人間、退転反逆の輩、臆病な者たち。人間の心は恐ろしいものです。だからこそ、大聖人は、まっすぐに師弟の道を歩み通した池上兄弟と夫人たちに「設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず」とまで仰せくださったと拝されてなりません。

どんな嵐が吹き荒れても、いささかも微動だにせず、背信の者たちを悠然と見おろし、ただ広宣の大道を貫いてきた門下たちこそ真の弟子であると、大聖人は最大に讃嘆なされております。「師弟」こそ、人生の無上の価値です。

戸田先生は、次のように語られたことがあります。

「一生成仏という大空に悠々と舞い上がっていくには、難という烈風に向かって飛び立たねばならない。難に負けない信心こそが、永遠の幸福の城を築きゆく力なのだ。信心で越えられぬ難など、断じてない」

この戸田先生の決然たるご確信こそ、学会精神であり、折伏精神であり、魔と戦う攻撃精神です。

どこまでも大事なのは信心です。

大聖人は池上兄弟に対して「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091:兵衛志殿御返事:16)と仰せになられました。

「賢者はよろこび」の信心に立てば、三障四魔の激しき風は、我が生命を覆う宿命の「雲」を吹き払います。澄み切った天空に、大歓喜の虹がかかることは絶対に間違いありません。そこにこそ「正義」と「幸福」と「勝利」の太陽の光が燦然と輝くことを確信して、大難に対して威風堂々と挑んでいくことです。三障四魔を打ち破る弟子の勝利こそ師匠の祈りであり、喜びなのです。

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