兄弟抄

 建治2年(ʼ76)4月 55歳 池上宗仲・池上宗長

第一章(法華経は仏法の心髄)

本文

 夫れ、法華経と申すは、八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄なり。三世の諸仏はこの経を師として正覚を成じ、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給う。
 今、現に経蔵に入ってこれを見るに、後漢の永平より唐の末に至るまで渡れるところの一切経論に二本あり。いわゆる旧訳の経は五千四十八巻なり。新訳の経は七千三百九十九巻なり。彼の一切経は皆各々分々に随って我第一なりとなのれり。しかれども、法華経と彼の経々とを引き合わせてこれを見るに、勝劣天地なり、高下雲泥なり。彼の経々は衆星のごとく、法華経は月のごとし。彼の経々は灯炬・星月のごとく、法華経は大日輪のごとし。これは総なり。

現代語訳

法華経というのは八万法蔵の肝心であり、十二部経の骨髄である。三世の諸仏は、法華経を師として正覚を成就し、十方世界の仏は、一乗法である法華経を眼目として衆生を導いたのである。今、現実に経蔵に入って一切経を見てみると、中国に仏法が渡った後漢の永平年間から唐の末にいたるまでの約850年間に、中国に渡って来た一切経論に二本ある。いわゆる羅什訳等の旧訳の経は5048巻であり、玄奘等の新訳の経は7399巻である。それらの一切経は皆それぞれ分々に随って「われこそ第一なり」と名乗りを上げている。しかるに法華経とそれらの経々を引きくらべてみると、その勝劣は天地の差であり、高下は雲泥の相違である。それらの経々は多くの星のようなものであり、法華経は月のようなものである。また、かの経々は燈炬や星月の光のようなものであり、法華経は太陽のようなものである。これは、法華経と諸経とを総じて比較した場合である。

語釈

 十二部経

十二部とも十二分教ともいい、仏教の経文を内容、形式の上から十二に類別したもの。 一.修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経という。長行のことで長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。 二.祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。 三.伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。 四.尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。 五.伊帝目多。伊帝目多伽。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事・如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。 六.闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。 七.阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。 八.婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。 九.優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。 十.優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。 十一.毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。 十二.和伽羅。和伽羅那。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。

旧訳の経・新訳の経

漢訳された経典のうち、唐の玄奘三蔵以前に訳された経典を旧訳といい、それ以後に訳されたものを新訳という。旧訳とは主に鳩摩羅什や真諦の訳であり、新訳とは主に玄奘等の訳である。経文は、どちらかといえば、旧訳の経は意味訳であり、新訳の経は直訳である。貞元釈教録によれば、訳者は187人あって、うち旧訳141人、新訳46人である。また、開元釈教録によれば、訳者176人のうち、旧訳139人、新訳37人とある。

講義

  本章は、仏法にはさまざまな流派があるが、そのなかで法華経が最第一であり、三大秘法の南無妙法蓮華経が最高の教えであることを述べている。

夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり

ここでいう法華経は、一往、釈尊出世の本懐である法華経二十八品である。八万法蔵とは、釈尊一代五十年の説法が多数であるという意味でこのようにいう。

釈尊の五十年にわたる説法は膨大である。五十年間というもの、実にさまざまな教えを説いた。戒律も説いている。禅定の法門も説いている。種々の譬え話で衆生を誘引もした。だが、それらは衆生の機根を整え、最後の法華経を理解させるための方便であった。あくまでも生命の究極を説いた法華経をもって肝心とし、骨髄としなければならない。

もし釈尊が法華経を説かず、たとえば小乗などの戒律のみしか説かなかったら、釈尊の説法は、単なる道徳論にすぎず、特筆すべき価値はなかったといっても過言ではない。また、たとえ権大乗を説いたとしても、それのみであれば二乗の成仏はない。女人も差別を受けたままである。悪人は地獄に堕ちるのみである。衆生の生命は一念三千の輝ける当体ではない。気の遠くなるほどの歴劫修行をしなければならない。そして真の永遠の生命を知り、三身常住、三諦円融の理を悟ることはできない。

まさに法華経の説法がなければ、四十二年間の説法も、砂上の楼閣であり、一瞬の夢のごときものであったろう。法華経の仏法哲理があればこそ、釈尊の説法は光りを増し、重みを増すのである。いかなる哲学といえども、要となる哲理によって、その高低浅深が決まる。他の枝葉末節は、いかに、荘厳されていようとも、根本の思想が貧弱ならば、価値はない。釈尊の八万宝蔵といっても、法華経が骨髄となって、存在意義があるのである。

釈尊は自ら、一切経の勝劣を法華経法師品第十で判じている。「わが説く所の経典は、実に無量千万億であって、已に説いた経、今説いた経、当に説かんとする経等、まことに多くの経典があるが、それらを超過して、この法華経こそ、最も難信難解であり、最高の法門である」と。これに対して、諸経の文にも「密厳経は一切経の中に勝れたり」「是の経は即是諸経の転輪聖王なり」「今に世尊が転じ給う所の法輪・無上無容にして是れ真の了義なり」というように、他に勝っているように説いているが、これはまだその経が説かれるまでの経との比較である。法華経のように已今当説のなかで最第一とはいわないのである。

さて、以上のように法華経二十八品が八万法蔵の肝心であるというのは一往の義である。再往は、法華経とは南無妙法蓮華経の五字七字の法華経であり、三大秘法の御本尊である。法華経が尊いというのも妙法を秘沈しているゆえであり、南無妙法蓮華経が、肝心中の肝心であり、骨髄である。

三大秘法抄にいわく「此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)と。

したがって、三世十方の諸仏といえども、全て妙法蓮華経の五字七字の題目を骨髄とし、修行して仏になったのである。秋元御書にいわく「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072:05)と。われらの持つ三大秘法の御本尊が、八万宝蔵の究極であり、生命と宇宙の本源を説いた、大哲理の具現であると確信すべきである。

タイトルとURLをコピーしました