乙御前御消息(身軽法重抄)2009:7.8.9月号大白蓮華より
先生の講義 7月号
法華経は、民衆を救う大船
民衆の叫びは、真実の力です。
民衆の賑やかな行進は、社会を動かします。
民衆の力ほど、強きものはない。
そして、民衆の団結ほど、強大にして不敗もものはない。
民衆の団結には、誰人たりとも敵わない。
いかなる時代にあっても!
いかなる世界にあっても!
日蓮大聖人の仏法は、民衆の時代を開き、民衆自身を幸福にする、「民衆の宗教」です。 民衆の幸福の現実といっても、それは抽象論ではありません。どこまでも焦点は「一人」にあります。目の前の「一人」を現実に幸せにすることができるかどうか。その現証を示し切ってこそ、真の宗教の証明となります。
理想的な社会の実現といっても、すべては、「一人の人間における偉大な人間革命」から始まります。
大聖人は、その偉大な一人一人を育てようとされました。そして、そのために必要不可欠な要件として、大聖人が教えてくださったのが「信心」です。
誰人であっても、一生成仏を目指し、「人間革命の信心」を貫き通すならば、確固たる自分自身を確立することができます。各人が、「自他共の幸福」を実現する境涯を築きあげる。いかなる逆境にも屈せずに前進し、価値創造の人格を高める。どんな宿命にも負けない、自在な境地を打ち立てゆく信仰です。自分の信心を磨き上げるための信心です。
この「乙御前御返事」は、蒙古の再びの襲来が予想され、世情や思想が乱れるなかで、女性門下に対して、いよいよ強盛に信心に励み、「本物の一人」に成長することを呼びかけられている御書です。
乱世だからこそ、頼るべきものは、わが「信心」しかありません。
本抄をいただいた乙御前の母は、乙御前という娘とともに、師弟の道を歩み抜いた健気な門下の一人です。鎌倉から大聖人のおられる佐渡へ足を運び「日妙聖人」という名まで頂きました。この誉れの女性門下に対して、大聖人はどのように激励、指導なされたか。本抄を拝し、信心の精髄を深く学んでいきましょう。
本文
乙御前御消息 建治元年八月 五十四歳御作
漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は三皇・五帝・三王・乃至大公望・周公旦・老子.孔子.つくらせ給いて候いし文を或は経となづけ或は典等となづく、此の文を披いて人に礼儀をおしへ・父母をしらしめ・王臣を定めて世をおさめしかば人もしたがひ天も納受をたれ給ふ、此れに・たがいし子をば不孝の者と申し臣をば逆臣の者とて失にあてられし程に、月氏より仏経わたりし時・或一類は用ふべからずと申し或一類は用うべしと申せし程に・あらそひ出来て召し合せたりしかば外典の者・負けて仏弟子勝ちにき、
現代語訳
中国にまだ仏法のつたわらなかった時は、三皇・五帝・三王の諸王や、太公望・周公旦・老子・孔子等の聖賢が作られた書をあるいは経と名づけ、典等と名づけた。これらの書を開いて人に礼儀を教え、父母を知らせ、王と臣を定めて世を治めたから、世の人も従い、天も願いを聞き入れられた。この経典に背く子を不幸の者いい、臣下を、逆臣の者と称して罪に処せられたが、そのうちインドから仏教が伝来してきた時、ある一類は仏教を用いてはならないといい、ある一類は仏教を用いるべきであると主張しあらそいが起き、双方が、朝廷に召されて対決したところが、外典の者が負けて仏の弟子が勝ったのである。
講義
“創始者が会えば結論は早い”
まず大聖人は、乙御前の母に対して「貴女が持つ法華経がどれだけ尊い教えなのか」を語りかけられています。仏教の特徴、なかでも大乗の本質、その究極が法華経であるとして、乱れた世にあって、法華経を持つ人がいかに尊貴か。正しき師匠のもとで、究極の法を持つ乙御前の母が、いかにすぐれた女人であるかを自覚させているのです。
その端緒として、中国における仏教伝来の歴史から説き起こされます。
まず、仏教伝来の以前に中国に広まった諸経も、それぞれの時代において、民衆を救う力をもっていたことを指摘されています。
いかなる宗教も、本来は「民衆の幸福」のためにあります。
よく戸田先生は、語っておられました。
「大聖人をはじめ、釈尊、キリスト、マホメットといった、各宗教界の創始者が一堂に会して、『会議』を開けば早いのだ」
国家も、団体も、トップ同士だ、話は通じやすいし、解決も早い、自分が責任をもって考えているからです。
まして、宗教において、責任ある者同士が語らいをすれば、必ず共通点を見いだすことができる。おりわけ、世界宗教の創始者たちは、それぞれ、時代、社会などの状況が異なり、方法論に違いはあっても、人類から悲惨を絶滅するという願いにおいては一致するはずである。 これが、戸田先生の宗教観でありました。
問題は創始者たちが目指していた「民衆の幸福の実現」という原点を、その末流の者たちが忘れてしまう点にあります。創始者の激闘を忘失し、形式化し、果ては自身が欲望にまみれ、信徒を見下す。信徒の幸福を顧みない日顕宗など、その最悪の事例です。宗祖の精神に背いてしまえば、もはや邪教です。
日蓮大聖人が諸宗を激しく破折されたのも、当時の諸宗の僧たちが、仏教の原点をないがしろにして、人々の幸福実現のための成仏の法理を閉ざしてしまったためにほかならない。
日蓮大聖人の基準は、どこまでも「全民衆の幸福の実現」にあられた。
「但偏に国の為法の為人の為」(0035-12)であり「一切衆生の為」であればこそ、大聖人は、国主を諌暁し、諸宗を破折されたのです。
悪僧によって「民のなげき弥弥深し」という状態になることを放置することはできなかった。
他の御書では、仏教を知らなくても、民衆の苦しみを救い、民衆の嘆きを止めた智者は「仏の御使い」であるとまで仰せです。その智人たちは、自分で意識していなくても、仏法の智慧をそれぞれ心に宿していたからです。
本抄でも、中国に仏教が伝来するまでの時代、理想の君主や賢聖たちが残した思想が、人々の生きる良き規範となり、平和な世が築かれていたことを、まず紹介しています。
ここで礼儀や父母・主君への尊敬などの規範が挙げられています。当然ですが、これは、封建的な主従関係などを説く道徳を奨励しているのではありません。その時代においては「恩」に報いる生き方や、「主師親」を救うという規範が確立されてこそ、「自他共の幸福」を社会に実現していけるからです。
しかも、外からの規範だけでは、人間の欲望の力を抑えることはできません。そこで、より深い智慧である仏教が伝来し、やがて用いられているようになったのです。
仏教は、人間自身を豊かにして、優れた人間革命をもたらす深い智慧を用いてこそ、宗教の本来の使命である「自他共の幸福」の実現へ、大きな力を発揮することができる。反対に、「人間」という一点を忘れれば、宗教は“独善の穴”に陥ります。
宗教は常に民衆救済を競い合い、互いに「切磋琢磨」する存在でなければならない。今日にあって、「万人の幸福」という法華経の高貴な理想のもと、大聖人が残された民衆仏教の真価を、いかにして世界中の人々に伝えていくか、私達の世界的規模で、人道的競争のパイオニアとして、人間の錬磨と人材の育成に励んでいるのです。皆さま方こそ、21世紀の人類宗教の栄光の開拓者です。その誇りをもって、堂々と進んでいきましょう。
本文
大乗と申すは大船なり人も十・二十人も乗る上・大なる物をも・つみ・鎌倉より・つくしみちの国へもいたる。
実経と申すは又彼の大船の大乗経には・にるべくもなし、大なる珍宝をも・つみ百千人のりて・かうらいなんへも・わたりぬべし、 一乗法華経と申す経も又是くの如し、
現代語訳
大乗という教えは大船である。人も十人・二十人と乗せるうえ、大きな物を積み、鎌倉から筑紫、みちのくへも行ける。
そのうえ実経という教えは、かの大船の権大乗経などと比較にならない。大量の珍宝を積み、百千人の多人数が乗って、高麗などへも渡ることができるのである。一仏乗を説いた法華経という経もまたこの大船と同様である。
講義
法華経こそ万人を乗せる大船
開かれた視点から、仏教の卓越性を述べられた大聖人は、続いて「仏経の中に又勝劣.浅深候いけり」と、経典にも勝劣があることに言及されます。
「勝劣・浅深」という表現は、例えば、一つの教えが全く無益だというのではなく、それぞれ、時代と機根に応じての意味はあった。しかし、時と機根に応じた、より深い教えが出現すれば、それまでの教えは、浅く劣ったものとなる、という相対的な次元です。
本抄で明快に示されている大聖人の基準は、その教えで、どれだけ多くの人が救済できるかという点にあります。
大聖人は小乗・権大乗・実大乗という、それぞれの教えを「船」に譬え、わかりやすく比較されています。
小乗経は「世間の小船」のようなものです。2人3人しか乗せられず、彼岸にも行けず、少しのものしか積めない、とあります。
権大乗は、「大船」です。10人20人を乗せ、当時で言えば鎌倉から筑紫や陸奥までも行け、大きなものも積み込むことができます。
これ以上優れているのが、法華経の船です。100人1000人を乗せ、貴重な宝石も積んで、韓・朝鮮半島まで渡ることができる。
このように、「乗客数」「航行可能距離」「塔載物」という客観的な視点から譬えられています。
このうち「乗客数」は、法によって、救済される人の規模です。「距離」は、修行を積み重ねることによって到達できる境涯の深さ、豊かさを表わしています。「塔載物」は、法の力用、智慧の深さです。
端的に言えば、法華経だけが十界互具を説き、万人の生命に仏の生命が内在することを明かした経典です。胸中の仏界を湧現すれば、いかなる人も成仏できます。いわば、法華経は、人数は無数、距離は無制限の「人類の大船」です。加えて、この一生の間のことだけではありません。永遠の「塔載物」幸福を実現する法華経の船こそ、生死の大海をわたる「如渡得船」の大船であるのです。
大聖人は、まず、乙御前の母に信心をしている人は、必ず絶対の幸福境涯を得られることは間違いないとの確信と安心をあたえようとされたのではないでしょうか。
本文
提婆達多と申すは閻浮第一の大悪人なれども法華経にして天王如来となりぬ、又阿闍世王と申せしは父をころせし悪王なれども 法華経の座に列りて一偈一句の結縁衆となりぬ、竜女と申せし蛇体の女人は法華経を文珠師利菩薩説き給ひしかば仏になりぬ、其の上仏説には悪世末法と時をささせ給いて末代の男女に・をくらせ給いぬ、 此れこそ唐船の如くにて候・一乗経にてはおはしませ、
現代語訳
提婆達多という者は世界第一の大悪人であったけれども、法華経の提婆達多品で天王如来という仏になった。また阿闍世王という者は自分の父を殺した悪王であるが、法華経の会座に列なってその一偈一句を聴聞して結縁衆となった。竜女という蛇体の女人は、法華経を文殊師利菩薩が説かれているのを聞いて仏になった。
そのうえ仏が説かれるところでは、法華流布の時代は末世末法である時を指し示されて、末代の五濁悪世の男女に法華経を贈られたのである。この法華経こそ、唐船のように、一切衆生を彼岸へ渡し得る一仏乗の経典である。
講義
悪世末代の女人を幸福にする仏法
大聖人は続く部分で「悪人成仏」と「女人成仏」について言及されています。法華経に説かれている以前の経典では、悪人と女人は成仏できないとされていました。その諦めの心を打ち破り、万人の成仏を広々と説き明かしたのが法華経です。
釈尊に反逆し、破和合僧などの罪を犯して、生きながら無間地獄に堕ちたとされる提婆達多。マガダ国の王で提婆達多にそそのかされて父である頻婆娑羅王を幽閉して王位に就き、釈尊の殺害まで企てた阿闍世王。そうした悪人さえも成仏させることができる、力ある教えが法華経なのです。
そして何よりも、法華経は女人成仏の秘法です。竜王の娘であった竜女は、文殊師利菩薩から法華経を聞き、たちまちに仏の境涯を現しました。爾前経で忌み嫌われていた女性の幸福勝利が実現したのです。
「竜女の成仏」というと、何か男性は関係のないことのように思えるかもしれない。しかし、大聖人は「一切衆生は性徳の竜女なり」(0798-02)とも仰せです。竜女の成仏は即身成仏の実証として、万人の成仏にあっても絶対不可欠な要件です。いわば、全人類救済の象徴でもあるのです。
また、大聖人がここで提婆と竜女を取り上げられているのは、続いての御文で「悪世末法」の時に「末代の男女」のために贈られた経典が法華経にほかならないことを明かされているためです。
最悪の時代に、濁悪の国土で、あらゆる機根を救い切る「法」こそ法華経である。法華経の根源にある「下種の法」が、いかなる衆生でも、仏の生命を開く種になるからです。「末代の男女」のため、という大確信のお言葉が、乙御前の母の胸中に、どれほど勇気を灯したことでしょうか。
戸田先生は綴られています。
「世界の文化がいくら発達しても、国と国とのもつ間柄が道徳を無視して、実力と権力闘争の世界では、決して人類の真の幸福ははい。不幸にして原子爆弾による戦争が起こったならば、世界の民族は崩壊の道をたどる以外にない。そのときに、日本国に厳然として存在している人類の破滅を阻止しうる偉大な宗教が、日蓮大聖人によって与えられているのであると確信する。
私の胸中には、いつも恩師の大情熱が込み上げています。私たちが歩みを止めてしまえば、大聖人が悲しまれます。人類が野蛮に逆行してしまう。人類の不幸の流転と苦悩を打ち破る大偉業に、確固たる信念で前進していきましょう。
本文
経に勝劣あるのみならず大日経の一切の真言師と法華経の行者とを合すれば水に火をあはせ露と風とを合するが如し、犬は師子をほうれば腸くさる・修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る、一切の真言師は犬と修羅との如く・法華経の行者は日輪と師子との如し
現代語訳
経に勝劣があるばかりでない。大日経を依経とする一切の真言師と法華経の行者とを合わせれば、火に水を注ぎ露が風を吹き払うようなものである。犬は師子を吠えれば腸がくさる。阿修羅は日輪を矢で射れば頭が七分に破れるという。一切の真言師は犬と阿修羅とのようであり、法華経の行者は日輪と師子のようなものである。
講義
民衆のために戦う真の指導者
この段では、経典に勝劣があるだけでなく、その経の実践者にも勝劣・浅深があることをのべられていきます。
大聖人は諸御抄で仰せです。
「法妙なるが故に人貴し」(1578-12)
「されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」(0465-18)
「法」が素晴らしいゆえに、その法を受持する「人」も尊い。弘める「法」が第一であれば、その法を弘める「人」も第一の人である。と。
いかなる智慧を依経としているか。
いかなる思想・哲学が背景にあるのか。そして、思想を、どこまで実現しているのか。
これにより、人間の価値が問われ、人生の広さや深さも決まります。
大聖人はここで「法華経の行者」と「真言の僧」を対比され、天地雲泥の違いがあることに言及されます。両者が対決するならば、水を注げば火は消え去るように、また、風によって露が吹き飛ばされるように、法華経を持つ者が勝利を収めると述べられています。
大聖人はなぜここで、特に真言の僧を取り上げ、破折されたのか。
それは、当時、蒙古調伏のための加持祈祷を、国を挙げて真言師に頼っていたからであると拝察できます。
また、真言密経は当時の仏教界において、最も権威・権力を併せ持っていたためとも拝されます。法華経を依経とするはずの天台宗も真言密経に取り込まれていった。真言宗をはじめ諸宗の僧は、呪術・祈祷の権威をかざして人々を惑わし、権力者に取り入り、その庇護を受けていた。
されは、法華経の経文通りに、万人の救済を掲げ、邪悪な権力と徹底して戦われ「法華経の行者」の闘争とまったく対局である姿でした。
「人間のための宗教」なのか「権威のための宗教」か。
「民衆を幸福へと導く宗教」なのか、「民衆を不幸へと陥れる宗教」か。
「権威の魔性と戦う宗教」なのか「権力の魔性と結託する宗教」か。 しかしながら、当時の人々は、これら諸宗の本質を知る由もありませんでした。
「気色のたうとげさ.智慧のかしこげさ」と喝破されている通り、“何となく尊そう”“何となく賢そう”という「仮面」に、人は惑わされていたのです。また、偽物は巧みに人をだますものです。ですから、民衆が賢くなるしか、本質的な解決はありません。そのために、民衆が賢明に判断できるように、大聖人は、烈々たる破折を続けられたのです。
「犬は師子をほうれば腸くさる・修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る」
邪見の真言の僧は「師子を吠える犬」や「修羅」そのものであるとの、あまりにも激しい呵責の言葉です。民衆を苦しめ、一国を滅亡へと導きかねない誤った思想に対して、鋭く厳然と、正義の大音声をあげられたのです。
この大聖人の峻厳なる護法の精神を深く学ばずして、真実の日蓮門下とはいえません。法華経を守り、釈尊の精神を護りぬくために、たとえ一人になっても戦い抜いていく。この大聖人の崇高なる魂が迫ってくるような一節ではありませんか。
民衆のために戦う人を、どこまでも擁護する。人間のための思想には、どこまでも寬容を貫く。
しかし、民衆を蔑視する者には、強く弾呵する。人間を苦しめる思想には、断固、鉄槌を加える。
これが真の幸福主義です。その覚悟に立ち上がっているから、「法華経の行者は日輪と師子の如し」なのです。
私たちも、「師子」として生き抜きましょう。「太陽」の存在となっていきましょう。
「師子」は、何ものをも恐れぬ百獸の王です。「太陽」は、社会と世界を毅然と照らし、人々の心に希望を贈ります。
かつて作家の故・杉浦明平氏が次のような声を寄せてくださいました。
「戦後、民衆の目を覚まさせてきました。人間は人間の輪の中でしか磨かれないのです」
あらゆる非難・中傷の嵐をも悠然と乗り越えて、どこまでも民衆のため、徹して民衆の中に分け入り、民衆を賢くする。これこそ、創価の「人間革命」運動であります。大聖人が仰せのままの「立正安国」の闘争にほかなりません。
「師子」であれば、恐れてはならない。「太陽」であれば、負けてはならない。必ず正義と勝利と幸福の人生の軌道を切り開いていける。大聖人は、この大確信を乙御前の母に伝えられていると拝されます。
本文
当世の人人の蒙古国をみざりし時のおごりは御覧ありしやうに・かぎりもなかりしぞかし、去年の十月よりは・一人も・おごる者なし、きこしめしし・やうに日蓮一人計りこそ申せしが・よせてだに・きたる程ならば面をあはする人も・あるべからず、但さるの犬ををそれ・かゑるの蛇を・をそるるが如くなるべし、是れ偏に釈伽仏の御使いたる法華経の行者を・一切の真言師・念仏者・律僧等に・にくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを・かほれる国なる故に皆人・臆病になれるなり、譬えば火が水をおそれ・木が金をおぢ・雉が鷹をみて魂を失ひ・ねずみが猫に・せめらるるが如し、一人も・たすかる者あるべからず、其の時は・いかがせさせ給うべき、軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり。
現代語訳
今の世の人々は蒙古国の襲来を見なかったときの思い上がりは、ご覧になられていたように限りないものがあった。しかし、去年の十月蒙古が攻めてきたからは、一人も驕りたかぶる者はない。あなたもお聞きになったように、このことは日蓮がただ一人予言していたのであるが、寄せ手が来たときには、彼らに面と向かう人もないであろう。ただ猿が犬を恐れ、蛙が蛇をおそれるようなものであろう。
これはひとえに釈迦仏の御使いである法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等に憎ませて、われと我が身を損い、ことさらに諸天の憎しみを蒙った国であるから、すべての人が臆病になったのである。譬えば火が水を恐れ、木が金におびえ、雉が鷹を見て気を失い、鼠が猫に責められるようなものである。一人として助かる者のあるはずがない。その時はどのようにするであろうか。戦には大将軍を魂とする。大将軍が臆したならば部下の兵はことごとく臆病になってしまう。
講義
「指導者革命」こそ時代の要請
文永元年(1206)7月、大聖人は「立正安国論」を認められ、正法を用いなければ、三災七難のうち、まだ起きていない「自界叛逆難」「他国侵逼難」の二難が競い起こることを予言されました。そして実質的な最高権力者である北条時頼に提出し、諫められたのです。
ところが幕府はおろか、当時の人々は皆、大聖人の鋭い洞察に、真剣に耳を傾けようとはしなかった。後の文永5年(1268)、蒙古からの使者が来てもなお、大聖人の教えを信ずることはできなかったのです。
それどころか、その後、嫉妬の悪僧と狂乱の権力者が結託し、竜の口で大聖人のお命を奪おうとまで画策した。
こうして、日本の国は、正法誹謗の報いにより、諸天善神から見放され、大聖人の「他国侵逼難」の御予言が現実のものとなります。本抄御執筆の前年10月、ついに蒙古軍が襲来してきました。
蒙古軍をまだ目の当たりにしない時には、人々の慢心は相当なものでした。しかし実際に攻め込まれた後は、恐怖に狼狽し、「一人も驕る者がなくなった」と述べられています。さらには、蒙古が再び攻めてくるようなことがあれば、真っ向かう迎え撃てる者はないであろう、とまで仰せです。
この年の4月にも、再び蒙古の使者が長門に到着しました。ところが、幕府は、この使者の首を刎ねるとともに、警護を強化し、さらに各地の神社に異国調伏の祈祷を依頼するなど、社会全体が騒然としていたのです。
「日蓮一人計りこそ申せしが」 大聖人はただお一人、仏法の慧眼からすべて知悉され、二難が起こることを、かねてから警告されてきました。「余にさんどのかうみようあり」と仰せの通りです。「立正安国論」御提出以来、いかなる迫害を受け大難が競い起ころうとも、3度にわたって幕府権力者を諌めてこられたのです。
それは“一切衆生を救わずにおくものか”との、大慈悲の戦いであられました。日本に巣くう、正邪を転倒させてしまう精神構造そのものを、根底から変革しゆく大闘争であられました。
この蒙古襲来の時には、それまで、驕り高ぶっていた人々が、反対に臆病になってしまっている。「皆・人臆病になれるなり」です。
それでも大聖人は、この人々を断じて救わずにはおかないものかとの大慈大悲として、次のように宣言なされます。
「軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり」
未曾有の国難を乗り切らなければならない日本。このような時こそ、正しい智慧と勇気を持ち合わせた指導者が必要不可欠となります。
ところが、幕府の最高権力者が正しい判断力を失い、臆病になってしまっている。外交上、使者の首を刎ねるなどと尋常なことではありません。
戦において将軍が怖じ気づけば、前線の兵士たちも尻込みするように、誤った権力者の元にいる人々もすべて臆病になってしまうと述べられています。
第二次世界大戦の日本もそうでした。あまりにも愚かしい指導層が一国を破滅に導いてしまった。愚かな指導者に率いられた民衆は悲惨です。
無為無策の為政者のために、民衆が塗炭の苦しみにあえぐようなことがあっては断じてならない。今こそ、指導者革命の時ではないか。 どこまでも「民衆」を視座とした烈々たる闘争宣言を大聖人は残されたのです。
さらにいえば、この困難な状況を打開しゆく真の大将軍、指導者とは、一体どこにいくのか。誰なのか。
大聖人は極楽寺良観に対して公場対決を強く迫られ「日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り」(0174:08)と宣言されました。国難を真に解決できるのは、大聖人をおいてほかにないのではないか、との絶対の御境涯であられたと拝察されます。
そのうえで、「軍には大将軍を魂とす」との御聖訓を、私たちはリーダー論として心して拝してまいりたい。
牧口先生も、ご自身の御書に傍線を引かれ、繰り返し身読されてきました。戸田先生も私もまた、大きな広布のたびに、皆で拝して前進の支えにしてきた一節であります。
乱世であればあるほど、いかなる戦いにあっても、中心者の一念が肝要となります。リーダーに「勢い」があるのか。戦う「情熱」が燃えたぎっているのか。どんな困難な局面にも臆することのない、勝利への「執念」が漲っているのか。
勇気は勇気を呼びます。やがて一波が万波となり、全軍が鼓舞され、怒涛のごとく勝利の大波が起こるのです。一切は、指導者で決まります。
今年、生誕200年を迎えたアメリカ合衆国の第16代大統領リンカーンを、民衆詩人ホイットマンは、万感を込めて謳い上げました。
「おお『船長』わたしの『船長』よ」
「穏やかで、率直で、義に篤く、意志強く、周到な指揮ぶりで
どんな国どんな時代にも例を見ぬ史上最悪の罪を敵にまわし、
諸州寄りつどう連邦を救ってくれたその人だった」
民主主義の先駆者として理想実現の船を操舵した大統領を讃えた歌です。
私たちは、末法の全人類を救っていく、いわば「創価丸」という大船で広宣流布の大遠征を続けている。
「歴史を創るはこの船たしか」です。どうか、人類最高の聖業に進む開拓者として、永遠不滅の歴史を築いていこうではありませんか。
先生の講義 8月号
最も苦しんでる人こそが、最も幸福なれる。これが妙法です。
苦しみを勝ち越えた人こそが、大勢の人々を救うリーダーになれる。これが信心です。
日蓮大聖人は、自分に縁するすべての門下を、「本物の信仰者」に育てようとなされました。民衆の真っただ中で、自他共の幸福を実現する「本物の弟子」をつくろうとなされたのです。
この御消息でも、大聖人は、乙御前とその母に、本当に幸福な人生を歩んでほしい、そのためにこそ、いかなる悪世でも、強く生き抜いていける信心を築いてほしい。そうした師匠の御慈愛が全編に込められています。
また、それに応えていこうとする健気な女性門下の足跡が伝わってきます。
「正しい人生とは何か」
その答えは「正義」と「信念」を貫き通される師と共に歩むことである。それが、乙御前の母だけでなく、全女性門下の結論であったと拝されます。
本抄をはじめ、日蓮大聖人が多くの女性門下の信心を賞讃されているのも、一人ももれることなく、幸福と勝利の人生を飾ってほしいとの御真情であられたと拝されます。
「母が皆、幸せになった時に、本当の平和な世界となる」とは、恩師・戸田先生の叫びでした。
私も同じ思いです。創価の女性の幸福と勝利の連帯が世界を動かし、「女性の世紀」を築くとの信念で今日まで行動してきました。全員が「勝利者」に!
全員が「幸福博士」に!
そのために不可欠な信心の要諦が綴られている。「乙御前御消息」を今回も皆で学んでいきましょう。
本文
女人は夫を魂とす・夫なければ女人魂なし、此の世に夫ある女人すら世の中渡りがたふみえて候に、魂もなくして世を渡らせ給うが・魂ある女人にもすぐれて 心中かひがひしくおはする上・神にも心を入れ仏をもあがめさせ給へば人に勝れておはする女人なり、鎌倉に候いし時は念仏者等はさてをき候いぬ、法華経を信ずる人人は志あるも・なきも知られ候はざりしかども・御勘気を・かほりて佐渡の島まで流されしかば問い訪う人もなかりしに・女人の御身として・かたがた御志ありし上・我と来り給いし事うつつならざる不思議なり、其の上いまのまうで又申すばかりなし、定めて神も・まほらせ給ひ十羅刹も御あはれみましますらん、
現代語訳
女人は夫を魂とする。夫がなければ女人は魂がないのと同じである。この世に夫のある女人でさえ世の中を渡りがたいと見られているのに、魂と頼む夫もなくて世を渡られているあなたが、夫のある女人にも勝れて心中かいがいしくおいでになるうえ、神をも信じ、仏を尊はれておられるので、人よりも勝れた女人である。
日蓮が鎌倉にいた時は、念仏者等はさておいて、法華経を信ずる人々は、だれが信心があるかないかは分からなかたが、北条氏のとがめをうけて佐渡の島まで流されると、問い訪ねる人もなかったのに、女人の身でありながら、いろいろとお志を示されたうえ、あなたみずからはるばる来られたことは、現実とは思えないほど不思議なことである。そのうえこのたびの身延への訪れはなんとも申し述べようもない。かならず諸天善神も守られ、十羅刹も賞嘆されていることであろう。
講義
師弟に生き抜く心が勝利の人生を
「女人は夫を魂とす・夫なければ女人魂なし」 ここで大聖人が仰せの「魂」とは、「支えとなるもの」というみであると拝されます。 飢饉や疫病が相次ぎ“いつ再び蒙古が襲来するか分からない”という世相にあって、夫のいない乙御前の母が乱世に生き抜くことは困難の連続であったに違いありません。しかし、乙御前の母は、そうした環境に負けたり、嘆いたりするおとなく、ただひたすら師の教え通りに信心の実践に励んだのです。
「人に勝れておはする女人なり」 この賞讃の言葉は、乙御前の母一人に限らず、すべての女性を激励されている御文であると拝されます。“真剣に祈っていくならば、どんな苦難や宿命も一切乗り越え、勝利の自分史を綴っていけることは間違いない”と。
健気な女性門下に対する大聖人の賞讃はこれだけにとどまりません。多くの門下が退転してしまった法難の渦中、はるばる佐渡にまで足を運んだ乙御前の母を「現実とは思えないほどの不思議なことである」と讃えられています。
佐渡への旅だけではありません、大聖人が佐渡から戻られると、今度は入山された身延にまで求道と報恩の思いで訪れます。大聖人は重ねて“必ず諸天善神の守護は間違いありません、十羅刹女が見守り続けますよ”と激励なされています。
信心が本物であるかどうか。「いざ」という時に、はっきり分かります。大事な時に、師と共に行動が貫けるのかどうか。この一点です。
大聖人の佐渡流罪とは、仏法の眼からみれば、魔の働きによる“師弟の離間策”にほかなりません。障魔は、常に仏の軍勢の分断を図ろうとするからです。
仏意仏勅の創価学会の歴史を振り返ってみても、師弟の絆を断ち切ろうと魔が蠢動したことが幾度もありました。同時に障魔が襲うたびに、誰が師弟に生き抜く本物の弟子であるかも、くっきりと明らかになりました。
戦時中、創価教育学会が軍部政府によって弾圧され、牧口常三郎先生が投獄された際もそうでした。最高幹部まで次々と裏切り、去っていく中、戸田先生ただお一人が、お供され、弟子の道を貫き通しました。
牧口先生の三回忌の際、戸田先生は、先師の写真を涙ながらに見つめ、語られました。
「あなたの慈悲の広大無辺は、わたしを牢獄までつれていってくださいました」「その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましょうか」
まさに「師弟の道」を歩みきった時に、魔を打ち破ることができる。そこに、無量の福徳に包まれた境涯が広がることを、戸田先生は自ら証明されました。
乙御前の母は、誰が本当の仏法の師匠であるのか。本当のために戦っている人は、どなたであるのか、師弟という一点に、いささかの迷いもありませんでした。そうであるからこそ、”師と共に戦う“という行動に徹することができたのです。この乙御前の母の信心をそのまま継承しているのが、創価学会の女性です。
「大聖人のもとに足を運ぶ」とは、今日の私たちに当てはめれば、師弟の心のギアをがっちりと合わせて、広宣流布の本舞台で勝利の金字塔を打ち立てるということです。師弟の間は、物理的な距離ではありません。「一念」と「行動」がどうか。師弟の精神といっても、この一点に収まるのです。
本文
法華経は女人の御ためには暗きに・ともしび・海に船・おそろしき所には・まほりと・なるべきよし・ちかはせ給へり、羅什三蔵は法華経を渡し給いしかば毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送りしなり、道昭法師・野中にして法華経をよみしかば無量の虎来りて守護しき、此れも又彼には・かはるべからず、地には三十六祇・天には二十八宿まほらせ給う上・人には必ず二つの天・影の如くにそひて候、所謂一をば同生天と云い二をば同名天と申す左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし・況や善人におひてをや、
現代語訳
法華経は女人のためには、暗い夜はともしびとなり、海を渡る折には船となり、恐ろしい所では守護役になると、薬王品に誓われている。羅什三蔵が中国へ法華経を渡された時は毘沙門天王は無数の兵士を遣わして葱嶺の難所を送ったという、また道昭法師が野中で法華経を読誦したとき無数の虎が現れて守護したと伝えられている。あなたも羅什等のように諸天が守護しないはずがない。地には三十六神、天には二十八宿があって守っておられるうえに、人にはかならず二つの天が、影のようにつきそっている。いわゆる一を同生天といい、二を同名天という。この二神がつねに人の左右の肩に付き添って守護するから、罪のない者を天が罰することはない。まして善人を罰するはずはない。
講義
「仏法は勝負だ。命ある限り戦おう」
「暗きに・ともしび」
「海に船」
「おそろしき所には・まほり」
これらは、法華経の薬王品第23の経文を踏まえて、法華経こそが女性にとって唯一の成仏の法門であることを教えられた一節です。
同じ薬王品には「一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまう」という法華経の偉大な功力を説かれている。
法華経に巡りあうことが、いかにすばらしいことか。
法華経を実践する功徳が、いかに大きいか。
実は、薬王品でこれらの表現は、決して女性に限定されたものではありません。それをあえて大聖人は「女性の御ためには」と示されているのです。仏法は、苦しんでいる人の最大の見方です。乙御前の母に対して、“あなたが幸福になることは、経文に照らして絶対の約束です”と大感激される大聖人のお心が伝わってくる一節です。
続いて大聖人が述べられている「同生天・同名天」は、人が生まれたときから左右の肩にあって、常にその善悪の行為を記録し、交互に天に報告するといわれています。 常に左右のいずれかの肩にいるのですから、「記録」は正確です。また、たえず「報告」にいくわけですから、漏れることもありません。これは、大聖人が乙御前の母に、“あなたの善の行いは、細大もらさす、すべて諸天善神はご存知ですよ”と断言されている一節です。
因果の法理は厳正です。仏法の世界に、小才や要領は通用しません。地道に取り組んだことは全部、わが身の福徳の果報となって戻ります。真面目に戦った人は、絶対に護られます。真剣な人は必ず報われます。これは、私の60年の信仰の結論です。
大聖人は御書の隨所で、目に見えない努力や誰にも知られない戦いも、必ず報われることを強調されています。
「陰徳あれば陽報あり」(1180:09)
「かくれたる事のあらはれたる徳となり候」(1171:01)
「かくれての信あれば・あらはれての徳あるなり」(1527:04)
私自身、戸田先生のもとで一切の陰の戦いをやり抜きました。苦境の先生を人知れず支えました。なかなか会合に参加できなかった。そんな私を見て、「池田は退転だよ!」と冷淡に言い放つ幹部までいました。しかし、わたしは迷いませんでした。戸田先生をお護りすることが、広宣流布を進めることになると確信していたからです。
ある日、孤軍奮闘する私に戸田先生は眼光鋭く、こう語られました。
「大作、仏法は勝負だ、男らしく、命ある限り、戦いきってみようよ。生命は永遠だ。その証拠が、必ず、何かの形で、今世に現われるだろう」
今、本当にその通りだと確信しています。広宣流布の大師匠のいわれることは、寸分の狂いもありません。今日の世界広宣流布の一大実証の因は、すべて、あの若く日の苦闘の生命の中にあります。現在の私の一切は、戸田先生をお護りし抜いた福徳の果報であると、断言できます。これが仏法の世界です。
志深き無名の庶民が絶対に幸福になる直道。大聖人が示された、法華経の偉大にして確かな功力は、どれほど晴れ晴れと乙御前の母の胸中に希望の明かりを灯したことでしょうか。
本文
されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ、是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし・其よりも今一重強盛に御志あるべし、其の時は弥弥十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし、例には他を引くべからず、日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども・今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし、
現代語訳
それゆえに妙楽大師は「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等といわれている。心の堅固な者には神の守りがかならず強いというのである。このように申すのは、あなたのために申すのである。前々からのお志については、言いつくせない。だが、それよりもなおいっそう強盛の信仰をいなさい。その時はいよいよ十羅刹女の守りも強くなることと思いなさい。その他は引くに及ばない。この日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで、一切の人々が害しようとしたが、いままでこうして無事に生きていられることは、日蓮は一人であっても法華経を信ずる心が強いゆえに諸天が守護されたのであると思いなさい。
講義
信心の要諦は「今日より明日へ」
大聖人は妙楽大師の文を引かれたうえで「心」の堅固な者には、諸天善神の守護が必ず強く現われると仰せです。
この「心」とは、要するに「信心」のことです。「信心」強き人、広宣流布への「心」が固い人を、諸天は必ず守るとお約束です。
仏法では「心」は一日に八億四千の展開があると説かれています。それほど人間の心は変わる。悪縁に動かされます。末法濁世の無明の嵐にも動じない「心」を築きあげることは、実は難事中の難事です。「心の固き」こそ、焦点です。
受け身や弱気のこころでは、諸天を動かすことはできません。“いかなる苦難があろうとも、断じて負けない、絶対に勝利してみせる” この決定した「一念」から湧き上がる祈りと実践に、諸天善神は感応し、人々を厳として守る働きとして現れるのです。
乙御前の母は「心の固き」女性でした。
そのうえで、大聖人は、わざわざ、「あなたのために」申し上げるのだと仰せられ、乙御前の母が一層の信心に立つための極意が明かされていきます。
まず、「古への御心ざし申す計りなし」と、乙御前の母のこれまでの求道の歩みが本物であったことを、あらためて賞讃されます。しかし、続いて大聖人は、あえて、こう御指導されます。
「今一重強盛に御志あるべし」
これまで以上に、強盛な信心を貫いていきなさい、と仰せです。
すでに佐渡への身延へと、不惜の師弟不二の姿を示している乙御前の母です。それまでの求道と報恩の姿が不十分だったというわけでは、決してありません。
それでも、「今一重」と仰せられているのは、信心において一番大切な要諦は、「昨日より今日」「今日より明日へ」という姿勢であることを教えられたと拝されます。
仏法は本因妙であり、現当二世です。
どんなに過去に信仰の功績があっても、今、歩みを止めてしまったならば、いつしか、信心は成長の軌道から外れてしまう。「進まざるは退転」です。
もちろん、病気や加齢によって体が思うように動かない場合もあります。信心の行動に制約が生じる境遇もあるかもしれない。しかし、たとえ、いかなる状況になっても、心が退いてしまったならば、「心の固き」とはいえません。どんなに戦ってきても退転してしまったならば、一切の功労もゼロを掛けるようなものです。
本抄の後半でも、大聖人は乙御前の母に「いよいよ強盛の御志あるべし」と御指導されています。また、大聖人は御書のいたるところで、「いといよ」「弥弥」と、門下の信心を励まされるお言葉を繰り返されています。
“さあ、これからだ!”“いよいよだ!” これが草創以来の学会精神です。「前進、前進、また前進」が広宣流布の合言葉です。
どんな逆境にも立ち向かっていく。どんなことがあっても退かない。それが「心の固き」です。いざ、という時に、心が軟弱で、一念が定まらない。そうであっては、諸天の加護もありません。
天台大師は、「心の固き」について城主の譬えで説明しています。城主の心が堂々としていれば兵士たちも強い。城主が臆病であれば、兵士たちは右往左往してしまう。
大難があろうと、何が起ころうと、前進し続けていく。「月月・日日につより給へ」(1090-11)の信心です。
「不撓不屈の信仰者」たれ!
「本物の弟子」となれ!
乱世だからこそ、今こそ乙御前の母に、「絶対勝利」のために本物の信心を伝えておきたい、との大聖人の大慈悲が、ひしひしと感じられる一節です。
本文
例には他を引くべからず、日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども・今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし
現代語訳
その他は引くに及ばない。この日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで、一切の人々が害しようとしたが、いままでこうして無事に生きていられることは、日蓮は一人であっても法華経を信ずる心が強いゆえに諸天が守護されたのであると思いなさい。
講義
「一人立つ」師の闘争に断じて続け
大聖人は力強く仰せです。
「例には他を引くべからず」
「心の固き」信心で妙法を実践する人は、必ず諸天に守られる。その例として他を見る必要などない。私自身の姿を見よ! これが大聖人の烈々たる大確信であります。
大聖人は、末法の一切衆生を救われるために「立正安国論」を認められ、時の最高権力者を諌暁されて以来、幾度となく命に及ぶ大難に遭われました。「日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せし」と仰せの通りです。正しく、一国を挙げて大聖人の命を奪おうとする迫害が続いたのです。
しかし、今まで御無事であられた。その理由は何か。大聖人は「一人なれども心の強き故なるべし」と明確に仰せです。
私には、この御文が深く身に迫ってなりません。
敵は万軍であったのに対し、大聖人はただお一人であられました。しかし、人数ではない。「心」できまるのだと仰せです。
大聖人が身をもって証明された「心のつよき故」との仰せには、信心の奥義が凝縮しています。
広布大願を貫く「不退の心」。
邪悪と戦い抜く「勇猛心」。
民衆を救いきる「慈悲の心」。
法華経を信ずる「心」なにものも恐れぬ「師子王の心」が強盛であられたがゆえに、大聖人は一切に勝利されたのです。
この大聖人の堂々たる師子王の大確信に、乙御前の母は大きく包まれるような安心感を得たことでしょう。それとともに、大聖人が示される「心の強き故」とは、一人の人間の「心」が、いかに強く、尊極な可能性を秘めているかを門下に教えられるためであったとも拝されます。
また大聖人が様々な御書で、御自身の闘争のお姿を綴られているのも、決定した「本物の弟子」が出現することを願われてのよびかけであると拝されます。
「日蓮が如く」「日蓮と同意」等々、私が戦ってきたように戦いなさい。師の弟子に対する指導はこの一点に尽きます。
それは同時に「同じ心」「同じ行動」があれば「同じ境涯」が開けることを示しています。「如我等無異」万人を自分と同じ境涯にしたいというのが、仏の大願です。それは、すべての人が、仏と同じ無限大の可能性を秘めているという、仏教の人間観に基づきます。
万人の成仏の教えを説く仏経は、釈尊の「一人立つ」決断から始まりました。
末法広宣流布もまた、日蓮大聖人が立宗時に、ただお一人、立ち上がれたところから始まりました。創価学会も、三代の師弟の「一人立つ」実践を起点として、それぞれの時代に応じ、広布の源流が迸り、拡大の基盤が築かれ、世界広布の大花が咲き誇っているのです。
すなわち、師匠の「一人立つ」行動のままに、弟子もまた「一人立つ」実践を開始してこそ、真の「師弟不二」です。
他の人がどうかではない。たとえ一人になったとしても戦う。「一人立つ」誉れの門下を育てたい。乙御前の母は、大聖人から渾身の大激励を受けて、どれほど勇気を奮い起したことでしょうか。広布のため、一人決然と立ち上がる誓いを、いやまして深めたに違いありません。
仏法は一念三千です。「一念」が勝利を導く力となることを、師匠自らが示し、お姿を通して教えてくださっているのです。「つよき心」は、必ず伝播します。勇者は勇者の魂を呼び覚ますからです。
反対に、臆病に汚染された例が、当時の日本であると大聖人は次に喝破されます。
本文
一つ船に乗りぬれば船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ・又身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり、日本国には・かしこき人人はあるらめども大将のはかり事つたなければ・かひなし、壹岐・対馬・九ケ国のつはもの並に男女多く或はころされ或はとらはれ或は海に入り或はがけよりおちしもの・いくせんまんと云う事なし、又今度よせなば先には・にるべくも・あるべからず、京と鎌倉とは但壹岐・対馬の如くなるべし、前にしたくして・いづくへも・にげさせ給へ、其の時は昔し日蓮を見じ聞かじと申せし人人も掌をあはせ法華経を信ずべし、念仏者・禅宗までも南無妙法蓮華経と申すべし、
現代語訳
一隻の船に乗り合わせてしまえば、船頭の舵取が悪ければ、一同に船中の人々は命を損なうし、またいかに体が強くても心が弱ければ多くの能力も役立たない。日本国には賢明な人々はいるようであるが、大将の指揮が拙劣であるから望ましい結果もでない。壱岐・対馬と九か国の兵士並びに一般の男女まで、多くあるいは殺され、あるいは捕われ、あるいは海に沈み、あるいは崖から落ちた者は、幾千万と数を知れない。また今度攻め寄せて来たならば、この前と同じ程度で済むはずがない。京都と鎌倉とは、かの壱岐・対馬のようになるであろう。蒙古が攻めてくる前に支度をしてどこへでも逃げられるがよい。その時は昔、日蓮を見まい、聞くまいといっていた人々も、掌を合わせて法華経を信ずるであろう。念仏者や禅宗の者までも南無妙法蓮華経と唱えるであろう。
講義
女性こそ平和創造の真の主体者
一人立て!心強く進め! 門下に万感の励ましを送られる一方、大聖人は当時の社会情勢に視点を移されます。
指導者とは本来、どうあるべきなのか。法華経の眼から将軍学を展開されるとともに、ふがいなき日本の権力者たちを厳しく弾呵されていきます。
折しも、再度の蒙古襲来を眼前にして、一国が絶望と恐怖に覆われていました。日本という船の舵をどう切っていくか。
大聖人は、まず、船頭の舵取りが悪いと、乗客が皆、命を落としてしまうと示されます。続いて、体が頑丈であっても、心が弱ければ、多くの才能も生かしていけないと仰せられています。
すなわち大聖人は、日本のこの苦境を乗り越えていくためには、指導者に正しい「智慧」と、力強い「勇気」が不可欠であることを打ち込まれているのです。
大聖人は「立正安国論」で何よりも、為政者自身がかわらなければならないことを示されました。為政者が賢明になれば、一国が変わります。指導者革命こそ、安国の要です。
大聖人の時代に、もし一国の指導者が正しき「はかり事」を即座に決断していれば、「他国侵逼難」は起き得なかったはずです。時の権力者らは、大聖人の言を用いなかったばかりか、反対に、迫害を加えてきたのです。しかも、蒙古が現実に襲来した後でさえも、正しい判断ができない。
そうした状況の中で、否、そうした状況だからこそ、大聖人は、広宣流布は必ず実現できるとの断固たる大確信を門下に教えられます。身延にあっても、大聖人は、大獅子吼の現論戦を続けられたのです。
本抄でも、今再び、蒙古が攻め寄せてきたら、日本国中の人々もようやく目覚め、大聖人の正しさを知り、正法へ帰依するであろうと述べられています。
「大悪をこれば大善きたる」(1300-04)の原理です。大謗法の一国だから、大正法が必ず広まる。かつては「日蓮を見じ聞かじ」といっていた人々、さらに「念仏者・禅宗」の人々までも、妙法を唱える時代が必ず到来すると、大聖人は乙御前の母に宣言されているのです。
あらためて感銘することは、大聖人は、女性門下の一人一人に、最高の仏法哲学を様々な観点から教えられているという点です。
御書は、人生をよくいきるための、自分観、人生観、社会観、宇宙観を教えられていると拝察することもできます。仏教の法理や歴史を説き、宗教の正邪を明かし、男女を問わず「一人の人間」がいかに尊極であるかを示され、変革の哲学を教えられています「男女はきらふべからず」(1360-08)とのお心のままに、大聖人は、全門下に最高の人間教育をされているのではないでしょうか。
仏法の目的は、民衆の幸福です。戦乱で最も苦しむのは「母と子」です。私も、兄の戦死の報を聞いた時の母の落胆は忘れられません。仏法者の最大の責務は、世界中「母と子」が平和で安穏な社会を築くことです。
そのために、戦争と欲望の分明から、平和創造の分明へと文明の質を変えていかなければならない。そして、その主約は女性です。
強く、快活で、智慧ある女性がスクラムを組めば、社会は大きく変わります。何も恐れるものがない女性の連帯があれば、時代は大きく変わります。生命を慈しみ守り、豊かな感性をもった女性が立ち上がれば、文明が大きく変わります。仏法は、そのために、目覚めた「本物の民衆」をつくりあげる教えなのです。
本文
日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ昔と今と一同なり、各各は日蓮が檀那なり争か仏にならせ給はざるべき。
現代語訳
日蓮が竜の口の首の難は大覚世尊が身代わりになられた。昔と今は同じである。あなた方は日蓮の檀那である。どうして仏になれないことがあろうか。
講義
「一人の勝利」が万代の広布を開く
法華経を受持する人は、釈迦仏が肩にかつぎ、背負うようにして守ってくれるとの経文があります。大聖人はここで、この経文に基づき、竜の口の法難の時には釈尊が身代わりになって大聖人を守ってくださるといわれています。
また鳩摩羅什の父である鳩摩羅琰三蔵が釈迦仏に背負われて守られたとの説話を紹介して「昔と今と一同なり」と仰せです。鳩摩羅琰の「昔」と、大聖人の「今」と、仏法の原理は変わることなく、法華経の真実の実践者には必ず守護があることを強調されます。
ここで大聖人は、仏法の法則は不変だから、同じ方程式で乙御前の母も絶対に成仏・諸天に守られ、必ず成仏することは間違いないと御断言されています。
大聖人のお一人からはじまった「立正安国」の闘争は乙御前の母のような女性門下をはじめ、無名の庶民に継承され、そして今では創価学会に受け継がれました。「信念の一人」が立ち上がれば強い、いかなる迫害の嵐にも決して屈することはありません。
文豪ヴィクトル・ユゴーは叫びました。
「一時的な権威家が何をしようと、永遠の力が之に反抗する」
「正義のために身命を投ず、之より高き陣地はない」
「人間の良心が覚醒すべき時は今である」
「いざ、良心よ、蹶起せよ!眠りを醒ませ!今はその時である!」
世界広布の基盤は厳然と整いました、創価の人間主義を世界が待望しています。大事なのは、どこまでも「一人」の勝利です。「一人」の勝利こそが、広布の大河の流れを万代へ決定づけるのです。
先生の講義 9月号
仏法の根幹は「師弟」です。
師匠と弟子の心が一つであれば、何事をも成就できる。人間革命も立正安国も「師弟の道」を貫き通すことが、絶対勝利の直道なのです。
法華経に「隨順師学(この師に随順して学す)」とあります。広宣流布の偉大な師匠に随順して仏法を学ばせていただける。それに勝る人生の幸福はありあせん。私は、この思いで戸田先生に仕え抜いてきました。
仏法で説く師弟の道のありがたさは、師匠自らが、一人の人間として、自身の人生のうえに仏法の真髄を体現されている点にあります。「人間はともかく尊貴なり」との師匠自身の実証の姿が万人の心を揺さぶり師匠と同じ大道を歩む決意を促してくれる。そして目覚めた弟子が、また、師と同じく世界を変える行動を開始するのです。
この師匠の「正義」と「共戦」がある限り、仏法は人類を救う大法として、必ず世界に広まり、人々の心に照らしていくことは間違いありません。
「乙御前御消息」は、日蓮大聖人が、日本一国を相手にした御自分の闘争を記された御書であると拝することもできます。蒙古が襲来してその惨状が人々に伝わり、また再び襲来するとの恐怖が充満している。人々が苦難を前に臆し、不安に苦しむ当時の日本一国に対して、今こそ、真の哲学を柱とすべきだと厳然と宣言されている一書です。
本抄を執筆された時は、世間から見れば、大聖人は身延に「隠遁」したと映っています。しかし、大聖人の精神の闘争は、一歩も退していない。いな、むしろ「永遠に戦い続ける雄姿」を教えられている。
「わが姿をみよ」
「私の戦いは、いやまして盛んである」
大聖人の「戦う心」に接して、弟子たちは本当に嬉しかったに違いない。師の魂の躍動が、弟子たちの胸中に響いてやまなかった。
乙御前の母も、大聖人から「どこまでも、ともに進もう」との呼びかけをいただいて、深い決意で立ち上がったことでありましょう。
本抄で大聖人は、門下が「師弟不二の大道」を貫くうえで大切な信心の要諦を教えられました。それが「いよいよ強盛の信心」であります。
本文
いかなる男をせさせ給うとも 法華経のかたきならば随ひ給うべからず、いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり
現代語訳
どんな男を夫とされても、法華経に敵対するならば随ってはならない。いよいよ強盛の信心を持ちなさい。氷は水から出たものであるが水よりも冷たい。青い色は藍から出たけれども色を重ねると藍よりも色が濃い、同じ法華経ではあるが、信心を強く重ねれば他人よりも色もすぐれ利益もあるであろう。
講義
「志」を重ねることで功力は増大
信心は、社会と人生の荒波を越えるための羅針盤です。
濁世を生きるのであればなおさらのこと、悪縁に紛動されるのではなく、信心を自身の生命と活動の中心軸に据えていくことが肝要となります。
「いかなる男をせさせ給うとも法華経のかたきならば随ひ給うべからず」 たとえ、どうゆう人を夫とすることがあっても、「法華経の敵」ならば、信心に関しては少しも随ってはならないとの仰せと拝されます。信心を忘れてしまえば、真の幸福はありえないからです。
続いて大聖人は「いよいよ強盛の御志あるべし」と仰せです。信心があれば、いかなる逆境もはね返すことができる。だからこそ、一層、強盛な信心に立つことが勝利への究極の源泉となるのです。
水が凍れば氷とならます。しかし、その性質は大きく変わります。氷は硬くて冷たい。青い染料は、植物の藍の葉からとりますが、その染料に布や糸を漬けて染め上げる作業をかさねていくと、もとの藍の葉の色よりもはるかに鮮やかな青になります。こうした自然界の事例を挙げて、大聖人は「同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり」と仰せです。
「いよいよ強盛」の信心があれば、「色まさる利生もある」とあるように、心身にますます力と輝きが増し、功徳もますます明瞭に現れるのです。
いよいよ強盛の信心を重ねることによって、私たちの生命に、金剛不壊の仏界の生命が顕現するからです。その大いなる変革を大聖人は、続く御文で「木は火に焼かるが栴檀の木は焼けることはない。火は水に消されるが、仏の涅槃の火は消えない。華は風に散っても、浄居の華はしぼまない」等と譬えられています。
信心の志を重ねることによって、無常のわが生命が何ものにも崩れざる常楽我浄の永遠の宝によって荘厳されるのです。その大境涯を確立するために、志を重ねることが重要となるのです
「志をかさぬれば」とは、信心の持続です。すなわち、なにがあってもたゆむことなく、むしろことあるごとに、いよいよ強盛の信心を奮い起して、わが生命を錬磨していくことです。
同じ法華経への信心、同じ御本尊への信心でも、いよいよ強盛の信心を奮い起すことによって、功徳はいやましておおきくなり、境涯はいやまして広く、豊かになる。このことは、現実に皆さんが実感し、実証しているとおりです。
ゆえに御書には「いやましての信心」を強く奨励されている。例えば、四条金吾に対して「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(1143:06)「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」(1192:11)と仰せです。また窪尼御前にも「いよいよ御信用のまさらせ給う事」(1478:12)上野尼御前にも「いよいよ信心をいたさせ給へ」(1505:07)と励まされております。
このように信心強盛な模範の門下にも、大聖人は「いよいよ」と仰せです。言い換えれば、「いよいよ」の姿勢こそ、信心の極意であり、根幹の要諦となるのです。
大聖人も、釈尊も、この「いよいよ」を貫かれて、御生涯の最後まで「戦う心」で生き抜かれた。牧口先生、戸田先生もそうです。私も今、この信心の精髄を門下に教えたい。
人生は、ある意味で、常に「生き詰り」との戦いです。生きる限り、また、戦う限り、必ず困難の壁は立ちはだかるのは当然です。順風ばかりで「生き詰まり」がないのは、むしろ停滞の証しです。
戸田先生の事行が逼迫し、打開の道を開く苦闘を続けられていた時のことです。疲労が重なっていた私の姿をご覧になった戸田先生は、力強く叱咤してくださいました。
「信心は生き詰りとの闘争だ。仏と魔との闘争が信心だ、それが、仏法は勝負ということだ」
誰人の人生にも、また、どんな戦いにも、必ず「生き詰まり」を感じる時があります。
しかし、生き詰った時こそ、自分の信心が試されるのであり、「勝負の時」にほかならない。大事なことは、常に前進の方向へ一念を定めることです。壁を乗り越える挑戦自体が、自身の境涯を確実に広げていく因となることは間違いありません。戦えば必ず生命は変わります。宿命は絶対に転換できる。
その意味でも、生き詰った時こそが本当の勝負です。生き詰りを打開する力こそ、「いよいよ強盛」の信心です。これは社会にあっても変わりません。
その意味でも、生き詰ったときこそが本当の勝負です。生き詰りを打開する力こそ、「いよいよ強盛」の信心です。これは社会にあっても変わりません。
広く言えば、社会も、経済も、一国も、生き詰りを見せるのは、その根底にある既存の思想、哲学の限界が露呈しているからです。むしろ、その時にこそ新しき哲学の萌芽がある。力ある思想が勃興すれば、一つの行き詰りは、新たな社会建設への契機となるのです。
釈尊の言葉にもこうあります。
「善をなすを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。
一切は、これからです。一切は心の戦いです。「心こそ大切」なのです。
本文
今日本国の人人は法華経の・かたきと・なりて身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり、かう申せば日蓮が自讚なりと心えぬ人は申すなり、さには・あらず是を云わずば法華経の行者にはあらず、又云う事の後にあへばこそ人も信ずれ、かうただ・かきをきなばこそ未来の人は智ありけりとは・しり候はんずれ、
現代語訳
今日本国の人々は法華経の敵となって身を亡ぼしてしまったのである。このようにいえば日蓮は自讃であると物の道理の分からない人はいったのである。けっしてそうではなく、これをいわなければ法華経の行者ではない。またいったことがのちに符合すればこそ人も信ずるのである。こうして書きおけばこそ、未来の人は日蓮は先見の明智があったと知るであろう。
講義
真実を叫びぬく「護法の実践」
「法に依って人に依らざれ」 大聖人はどこまでも「法」を根本に戦い抜かれました。したがって「法」の正邪については峻厳でいられた。万人成仏の仏教の理念を実現しようとする「正法」の教えのなか、その根幹の理念をゆがめ、人々を苦しめる「邪法」なのか。正邪を峻別し、正法を護り、邪法を責める、それが、日蓮大聖人の「護法」の実践にほかなりません。
当時の日本の人々は、悪縁に紛動されて法華経を捨て、万人成仏を否定する権教を信奉していた。それゆえに大聖人は「今日本国の人人は法華経の・かたきと・なりて身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり」と仰せです。
このままでは国が滅んでしまう。大聖人は、このことを回避するために、特に「立正安国論」提出以来、国主を諌暁され、真実を叫び続けてこられました。
真実を言い切れば、大難を受けることは覚悟のうえです。それは、ただ、「法」を護るためであり、民衆を救うためであられました。
当時、大聖人に向けられた非難の一つに、“日蓮は自讃の人である”“慢心である”という批判がありました。本抄でも「かう申せば日蓮が自讃なりと心えぬ人は申すなり」とあります。とりわけ、嫉妬の心が根深い島国の日本にあって、一歩も退かずに堂々と真実を叫び続けられるようであった。
本抄において、大聖人は、そうした非難に対する御自身の心情を記されます。法華経が最勝の教えであり、人々が法華経の敵となっている時に、一国が滅ぶと言い切らないのであれば、それは「法華経の行者」ではない、という点です。
法華経を宣揚し、法華経の敵と戦ってこそ、真実の法華経の行者です。戦わなければ「行者」ではない。
本抄においては、大聖人を自讃と批判する人々に対して、更に別の観点から御自身の心情をのべられています。それは、未来に真実を残すためである、という点です。
「自界謀叛逆難」「他国侵逼難」という予言の的中を明確に書き残されることによって、未来の人々は、大聖人こそが真実の智者であられることを深く理解できるからです。
むしろ大聖人は、予言の的中は、御自分の力ではなく仏法の正しさを証明したものにほかならないと仰せです。
「撰時抄」には「三度の高名」予言の的中を取り上げ、「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる」(0288:01)と仰せです。
真実が残れば、必ず後世、慧眼の士が現れ賞讃し、同じ行動を開始します。そして真実に生きる後継者が立ち上がり、民衆の潮流が生まれます。事実、日蓮大聖人の御精神は、私ども三代の師弟が受け継ぎました。仏意仏勅である世界広宣流布へ、威風堂々たる民衆の大行進は、もはや誰人も止めることはできません。
いかなる非難中傷があっても、真実を徹底して叫び残していけば勝利は必ず約束されます。草創期、学会の大発展とともに、「悪口罵詈」経文通り、誹謗の記事が増大しました。戸田先生は「書けば、必ず、売れると思って書いている」「いろいろ書いて、驚かそうといったって無理です。書くほうが知らないで書いているのだから!」と悠然と見おろしておられました。
そして戸田先生は、師子吼されました。
「学会には信心がある!御本尊がある!学会の前進は、この御本尊の功徳から、みな出たものではないか」「ただ、信心が中心!信心を貫くのです」
この大確信で、断固として創価学会は勝利してきました。いつ、いかなる時も、「信心」が破られなければ、絶対に最後は勝利することができます。
本文
又身軽法重・死身弘法とのべて候ば身は軽ければ人は打ちはり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね還つて重くなるべし、かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩と・いははるるやうに・いはうべし、其の時は日蓮を供養せる男女は武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしと・おぼしめせ、
現代語訳
また涅槃経の疏に、「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」と述べている。日蓮は身は軽く賤しいから、人は打ちたたき憎んだとしても、法は重いから必ず弘まるであろう。法華経が弘まるならば日蓮の屍はかえって重くなるであろう。屍が重くなるならばこの屍は衆生を利益するであろう。利益があるなら今の八幡大菩薩が祭られているように祭られるであろう。その時は日蓮を供養した男女は、八幡大菩薩に仕えた武内宿儞や若宮などのように崇められるであろうと思いなさい。
講義
「身軽法重・死身弘法」の人こそ尊極
「法」を根本に生き抜く究極の信仰は「身軽法重・死身弘法」にあります。
「身軽法重」とは、どこまでも正法を護持し、弘通する精神を示したものです。「死身弘法」も、わが身を賭して仏法を弘めることを述べたものです。
大聖人は乙御前の母に対して、御自身はどこまでも「身軽法重・死身弘法」のままに戦われているとの御心境を示されています。
それとともに、この原理に照らして、人々が大聖人を非難しても、非難されるわが身は「軽く」、どんなに人々が憎んでも、法そのものは「重い」。ゆえに正法が広まることは絶対に間違いないと断言なされています。
「法」は永遠不滅の真理です。したがって、身を賭して「法」を弘める人が現れれば、広宣流布は必ず実現します。反対に、法を弘める死身弘法の人が存在しなければ、広宣流布は画餅に終わります。
誰が仏法のために命がけで戦っているのか。妙法が偉大な存在であるということは、妙法を弘通する人もまた偉大であるということです。
そして、大聖人は、死身弘法の実践によって法が広まったならば、その大功徳は永遠に自身を荘厳していくのであると仰せです。
また、その偉大な師匠を支えた弟子もまた、永遠の福徳に包まれると厳然と約束なされています。
妙法の広宣流布に生き抜いた師弟は、皆が想像もつかないほど、はるかに尊極なのだとの大宣言に乙御前の母は、感動と決意を新たにしたことでしょう。
わたしたちもまた、大聖人の「身軽法重・死身弘法」の御精神を、広宣流布の根本として、自分たちの実践の根幹にしてまいりたい。これが学会精神です。
もちろん、「死身弘法」といっても、封建主義的な“滅私奉公”や“自己犠牲”を意味するものではありません。仏法の目的は、全民衆の幸福であり、人類の宿命転換です。仏法を弘めることは、そのまま自身の宿命転換、境涯革命になります。自他ともの幸福を築くための確実かつ最上の直道なのです。
創価学会は、大聖人の身軽法重・死身弘法の御精神のままに広宣流布に励んでいます。この学会に連なった方々は、本抄の仰せにあるように、永遠に人々から尊敬されていく存在になることは、絶対に間違いありません。
仏法の法理に照らせば、学会員の一人一人が、あまりにも崇高な使命をもった不思議な存在なのです。
本文
抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何に況や一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はんをや、
現代語訳
そもそも、一人の盲目を開ける功徳さえ言葉には表わせない。まして日本国の一切衆生の眼を開ける功徳にいたってはいうまでもない。さらに全世界の人々の見えない眼を開ける功徳はとうてい言いつくせない。
講義
全世界の人々の眼を開く大功徳
身軽法重・死身弘法で広宣流布を進める人の大功徳が示された一節です。
法華経を持つことは、まさしく眼を開くことです。それまで眼を閉ざしていた迷いの覆いを払い、物事の道理や本質が見えるようになる、ということです。
一人の心の盲目を開く功徳さえ、偉大である。まして日本国の一切衆生の眼を開ける功徳がどれだけ広大なのか。さらに全世界の人々の眼を開ける功徳は、想像も及ばないことでしょう。その偉大なる誓願を日蓮大聖人は成就されました。
「一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はん」 このお言葉から、世界を視野に広布の指揮を執っておられた大聖人の大境涯をうかがい知ることができます。
700年前も、今も、人類は根底的に「開目の哲学」を求めているとも言えます。それは法華経に説かれた「万人成仏」「万人尊敬」の思想です。
民族、文化の相違を越え、一切の垣根を払い、すべての人は仏と同じ尊貴な生命を持ち、この尊極な生命を実現するために人々は生きている。いかなる人間も尊厳なる存在である。そして、一人の人間が存分に、内なる「仏の生命」を輝かせた時に、世界が変わる。一人の偉大な人間革命が世界の宿命を変える。
この法華経の生命尊厳、万人尊貴の思想に基づき、大聖人の人間主義の仏法を弘めているのが、創価学会です。
ゆえに創価の行動は、一閻浮提の一切衆生の眼を開く大闘争です。万人の心の眼を開き、この地上から悲惨と不幸をなくすまで、私たちの前進は止むことはありません。
「創価学会は、すでに世界的な出来事である」かつて大歴史家・トインビー博士は、小説『人間革命』第一巻に寄せてくださった序文のなかで、こう明言されました。 「日蓮は、母国・日本を愛したが、彼の視野と関心は、狭き日本にとどまることはなかった。彼にとって仏教とは、全世界の人々を救済するものであった」
「そして今、創価学会は『人間革命』を推進し、日蓮の遺命を実践しているのである」と。
またトインビー博士は、初代・二代会長の足跡に言及されながら、こう指摘されました。
「創価学会の戦後の驚異的な発展の因はなにか?」。根本の因は、この現代の教団とその指導者たちの『信心』である。滅後700年を経た今も、強く影響を与え続けている日蓮によって啓発された『信心』である。この『信心』が、彼らに、迫害に耐え抜く勇気と不屈の精神を与えた。そして耐えて戦う教団と指導者たちの誠実な姿が、人々の心を日蓮の教えへと開き、それによって、創価学会は、爆発的に会員数を伸ばしていったのである。
深い理解から発せられた証言です。本当に偉大な博士でした。
私たちは、これこれからも、民衆の歓喜の行進劇を続けていきたい。一閻浮提の広宣流布を目指された大聖人の御境涯を深く拝しながら、今後も「大聖人直結」「御書根本」で前進してまいりたい。それが、現代世界に責任を持つ学会の栄誉であり使命です。
本文
今日蓮おろかなりとも野干と鬼とに劣るべからず、当世の人いみじくとも帝釈・雪山童子に勝るべからず、日蓮が身の賎きについて巧言を捨てて候故に国既に亡びんとする・かなしさよ
現代語訳
今日蓮は愚かであっても野干や鬼は劣るはずがない。当世の人々が立派でも帝釈天や雪山童子に勝ることはない。日蓮の身分が下賎であるとして、その正しい主張を捨てて用いないゆえにすでに国が亡びようとしているのは、真に悲しいことである。
講義
「仏法は只経文を先とすべし」
一国の主師親として戦われる日蓮大聖人を迫害し続けたのが、当時の日本です。その大聖人への誹謗として、大聖人の「身の賤しさ」を取り上げる輩がいました。
「賤身」「身の賤」とあるように、大聖人を賤しき身として批判する者たちがいたようです。
もとより大聖人御自身、御自身を「民の家より出でて」(1407:10)「旃陀羅が家より出たり」(0958:09)と堂々と宣言なされています。非難したもののほうが、自分の批判を鏡として自分にとらわれる醜態をさらしていたことはいうまでもありません。
本抄で大聖人は、野干を敬って仏法を習った帝釈天や、鬼神を師とした雪山童子の例をあげられて、明快に破折されています。貴賎にこだわって法を軽んずるのは、帝釈や釈尊の過去世の姿である雪山童子の振る舞いを否定することになるとの痛烈な弾呵と拝されます。
「仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず只経文を先きとすべし」(0481:15)
仏法における基準はどこまでいっても人の貴賎ではなく、法の高低浅深です。
「人を身なりや外見で判断しては絶対にならない。その人が、将来どうなるか、どんな使命をもった人か、身なりなんかで絶対に判断つくはずがない」
これは恩師・戸田先生の厳命です。創価学会の世界において、社会的地位や肩書、学歴などは、一切関係ありません。信心の志のある人が偉大なのです。広宣流布のために行動する人を大切にするのです。これは、これからも永遠に変えてはならない大原則です。
本文
又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをも・たすけがたからん事こそ・なげかしくは覚え候へ。
いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし見奉らん・山中にて共にうえ死にし候はん、又乙御前こそおとなしくなりて候らめ、いかにさかしく候らん、又又申すべし。
現代語訳
日蓮を不便と思って仕えてくれた弟子達をも助けがたいことが嘆かわしい。どのような事でも起こったならば、この身延へおいでなさい。心からお迎えしましょう。山中でともに餓え死にしましょう。また乙御前はさぞかし成長されたことであろうどんなにか聡明になられたことであろう。いずれまた申し上げましょう。
講義
師弟の絆がつくり上げる「民衆の城」
先に誹謗した輩に対して「かなしさよ」と仰せられた大聖人は、一転、門下に対して「なげかしくは覚え候へ」と仰せです。それは、一国謗法のために総罰を受ける国にあって、大聖人とともに戦ってきた弟子たちも、社会の混乱に巻き込まれてしまうとの大聖人の大慈大悲のお心です。
この御本仏の気遣いのお心。これが大聖人の仏法の御精神です。門下の心の襞に入るようなこまやかな御配慮こそ、「人の振る舞い」を尊重する仏法の真髄なのです。
その大聖人の万人を包む真心は、乙御前の母にも向けられます。
“娘の乙御前はさぞかし成長されたことでしょう”“蒙古が攻めてきたならば、身延の山中の私のもとにきなさい。一緒に餓え死にしよう”と、大聖人は、子供を抱える女性門下に対し“これほどまでに”と思う激励を送られます。
仏法には、感傷や悲哀や浅薄な同情などありません。「一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけ」ると述べられている通り、全世界を舞台に正義の論陣を張り、命に及ばんとする迫害にも少しも退くことなく、妙法流布に生き抜かれる。この「正義を貫く厳たる強さ」と、「庶民を包み込む温かさ」 いわば、「強靱な破折精神」と「民衆を包む慈愛」は表裏一体です。その両極を共に備えてこそ、真の人間主義です。
日蓮大聖人と乙御前の母との間に結ばれた固い師弟の絆、そこには、何の夾雑者もありません。大聖人には、こうした魂の絆で結ばれた弟子門下が大勢いました。幾多の大難をも乗り越えてきたこの固い絆は、もはやいかなる権威・権力の魔性も破ることはできませんでした。師弟不二の民衆の結合こそ、永遠に崩れざる広宣流布の一大拠点です。
今、世界中にこの民衆の大城が築かれました。いよいよ、これからです。世界中の“乙御前の母”の笑顔のために、正法流布は、いよいよ本番です。
ゲーテは歌いました。どこまでも、人生は「戦い」である、と。
「人間叡智の最後の言葉は、こうだ。
『自由と生命をかちえんとするものは、日々、新しく、/これを戦いとらねばならぬ』」
「おれはそのような人間の、みごとな共同社会をながめながら、/自由な民と自由な土地に住みたい」
牧口先生が座右の銘とされていた『大学』の一節には、こうあります。
「荀に日に信たに、日に日に新たに、又日に新たなり」
さあ「いよいよ」です。万事はすべて、いよいよこれからです。
私の胸中には、戸田先生の言葉が永遠に刻まれています。この師子吼を、皆様に贈りたい。
「今の乱れた世の中を、創価学会が変えていくのだ、勇気を奮い起し、一致団結して、広布の大道に進もうではないか。