乙御前御消息

 

乙御前御消息

建治元年(ʼ75)8月4日 54歳 日妙・乙御前

 

  1. 第一章(内道・外道の勝劣を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 此の文を披いて人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ、王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがひ、天も納受をたれ給ふ
  2. 第二章(法華経最第一を説く)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  3. 第三章(法華経の行者と真言師の勝劣を示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
  4. 第四章(謗法の現証を示す)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 当世の人人の蒙古国をみざりし時のおごりは、御覧ありしやうにかぎりもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし
      2. 軍には大将軍を魂とす。大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり
  5. 第五章(諸天の加護を説く)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 法華経は女人の御ためには、暗きにともしび、海に船、おそろしき所にはまほりとなるべきよしちかはせ給へり
      2. 人には必ず二つの天、影の如くにそひて候。所謂一をば同生天と云い、二をば同名天と申す云云
      3. 例には他を引くべからず。日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしとおぼすべし
  6. 第六章(国中の人の唱題を予告する)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 身つよき人も、心かひなければ多くの能も無用なり
  7. 第七章(強盛な信心を教える)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ。昔と今と一同なり。各各は日蓮が檀那なり。争か仏にならせ給はざるべき
      2. 同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり
      3. 木は火にやかるれども栴檀の木はやけず……水は大旱魃に失れども黄河に入りぬれば失せず
      4. 檀弥羅王と申せし悪王は、月氏の僧の頚を切りしに、とがなかりしかども、師子尊者の頚を切りし時、刀と手と共に一時に落ちにき……今日本国の人人は法華経のかたきとなりて、身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり
  8. 第八章(末法御本仏の胸中を明かす)
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 身軽法重死身弘法とのべて候ば、身は軽ければ人は打ちはり悪むとも、法は重ければ必ず弘まるべし
      2. 法華経弘まるならば死かばね還って重くなるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし云云
      3. 抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし。況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや云云
      4. 天の帝釈は野干を敬いて法を習いしかば今の教主釈尊となり給い……日蓮が身の賤きについて巧言を捨てて候故に国既に亡びんとするかなしさよ
      5. 又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをもたすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ。いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし、見奉らん。山中にて共にうえ死にし候はん

第一章(内道・外道の勝劣を明かす)

本文

漢土にいまだ仏法のわたり候わざりし時は、三皇・五帝・三王、乃至太公望・周公旦・老子・孔子つくらせ給いて候いし文を、あるいは経となづけ、あるいは典等となづく。この文を披いて、人に礼儀をおしえ、父母をしらしめ、王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがい、天も納受をたれ給う。これにたがいし子をば不孝の者と申し、臣をば逆臣の者とて失にあてられしほどに、月氏より仏経わたりし時、ある一類は「用うべからず」と申し、ある一類は「用うべし」と申せしほどに、あらそい出来して召し合わせたりしかば、外典の者負けて仏弟子勝ちにき。その後は、外典の者と仏弟子を合わせしかば、氷の日にとくるがごとく火の水に滅するがごとく、まくるのみならず、なにともなき者となりしなり。

現代語訳

中国にまだ仏法の伝わらなかった時は、三皇・五帝・三王の諸王や、太公望・周公旦・老子・孔子等の聖賢がつくられた書を、あるいは経と名づけ、典等と名づけた。これらの書を開いて人に礼儀を教え、父母を知らせ、王と臣とを定めて世を治めたから、世の人も従い、天も願いを聞き入れられた。この経典に背く子を不孝の者といい、臣下を逆臣の者と称して罪に処せられたが、そのうちにインドから仏経が伝来してきた時、ある一類は仏経を用いてはならないといい、ある一類は仏経を用いるべきであると主張してあらそいが起き、双方が、朝廷に召されて対決したところが、外典の者が負けて仏の弟子が勝ったのである。そののちは外典の者と仏弟子とを対決させると、あたかも氷が日光に照らされて解け、火が水によって消えるように、外典の者は負けただけではなく、なんの価値もない者となったのである。

語釈

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

三皇

中国古代の伝説上の理想君主。伏羲・神農・黄帝または伏羲・黄帝・神農とされるなど異説も多い。

五帝

三皇に続く中国古代の五人の帝王。諸説があるが史記によれば伏羲・顓頊・帝嚳・尭・舜。

三王

中国古代、夏の禹王、殷の湯王、周の文王の三王をいう。異説には周王を武王ととるものがある。三王とも善政を施したことで特に尊敬を集めた。

大公望

中国周代の賢者。名は呂尚。周の文王の師。渭水で釣りをしていて周の西伯に会い、請われてその師となる。文王の祖父太公が周に必要な人材として待ち望んでいた人という意味で、のちに太公望と称された。文王の死後、武王を助け、殷の紂王を滅ぼして斉国の主となった。

周公旦

中国周代の賢者。姓は姫氏、名は旦という。文王の子。文王の死後、兄の武王を助けて殷の紂王を滅ぼし、武王没後は幼い成王を助けて政治をとり周朝の基礎を固めた。周公旦の政治は殷代の神権政治を脱却し、礼楽を採用して、社会秩序の根本としたことが特色とされる。

老子

古代中国の思想家。道徳経を著す。史記によると、楚の苦県の人。姓は李、名は耳、字は耼、または伯陽。周の守藏の吏。周末の混乱を避けて隠棲しようとして、関所を通る時、関の令尹喜が道を求めたので、道徳経五千余言を説いたと言う。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、万物を生み出す根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人が道の原理に法って事を行なえば現実的成功を収めることができるとする。

孔子

(BC0551頃~BC0479)。中国春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘、字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。貧しいなかで育ったが、礼を学び学問に熱心であった。理想政治の実現をめざして政治改革を行なったが失脚して、衛、陳等を遍歴。前四八四年、魯国に帰り著述に励み、顔回・子路・子貢、子游など多くの弟子の育成に努めた。

①儒教でとく特に重要とされる書物。経書。経籍。②サンスクリット(sūtra)の漢訳。仏教の経典。③儒教・仏教以外でも、ある分野・宗教において特に重要とされる書物。④ 四部分類の一つ。⑤織物の縦糸。

①大切な書物。ふみ。「 典籍 ・楽典 ・経典 ・外典・古典・字典 ・辞典 ・聖典 ・内典 ・仏典 ・文典 ・宝典 。② おきて。のり。「 典型 ・典範 ・典例 ・恩典 ・教典 ・法典 」。 ③ 根拠がある。一定の型。「典雅 ・典拠 ・典故 ・典麗 ・出典 」 。④ 儀式。「 典礼 ・祭典 ・式典 ・大典 ・特典 」。⑤ つかさどる。「 典獄 ・典侍 ・典薬 」。 ⑥ 質入れ。「典当 ・典物 ・典舗 」。

仏弟子

仏教を修行する者。釈尊の弟子。

外典の者負けて……

外典とは、仏教以外の書籍。内典に対する語。外典の者とは仏教以外の経典、思想の信奉者。仏祖統紀巻三十五によると、後漢の明帝の永平14年(0071)、漢の道士ら数百人が、迦葉摩騰、竺法蘭の二僧と討論をして敗れたとある。四条金吾殿御返事に詳しい。

仏弟子

仏教を修行する者。釈尊の弟子。

講義

本抄は、建治元年(1275)8月4日、日蓮大聖人が54歳の時、身延でしたためられたものであるが、御真筆は現存しない。別名を「身軽法重抄」という。本抄のあて名は「乙御前」とあるが、内容はその母親に与えられたお手紙である。

まず、中国への仏教伝来の例を引きながら、内道・外道の勝劣を明かされる第一章から始まって、内典の中にも、勝劣・浅深があり、そのなかでもとくに法華経が、他の一切経に比較して、もっとも勝れて立派な教えであることを強調される。ついで、諸経の人師にも経と同様、勝劣・浅深があることを論じ、とくに、当時、隆盛を極めていた真言師と法華経の行者とを対比され、真言師を犬とすれば、法華経は師子であり、また、前者を修羅とすれば、後者は日輪のように、比較もできないほど、法華経の行者は真言師に勝ることを教えられている。また、遠い佐渡といい、不便な身延の山中といい、女人の身で大聖人を慕って訪ね、仏法を求める乙御前の母の姿は、このうえなく不思議なことであると賞められている。そして、夫なき身ではあっても、ますます強盛に信心に励むならば、妙法の功徳は絶大であると述べて激励されている。

法華経がもっとも勝れた経であることを述べるにあたって、まず、中国の歴史において、仏教が伝来したことにより、それ以前の外典の教えが力を失った様子を叙述されている。すなわち、まず内道と外道との勝劣を歴史的事実から明らかにされたところである。

此の文を披いて人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ、王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがひ、天も納受をたれ給ふ

仏教渡来以前からの中国思想の主柱である儒教が、中国社会で果たした役割を、簡潔に述べられている。

儒教の特色は、人間社会の中での相互の在り方について、規範を確立したことにある。「人に礼儀」とは、同じ人間としての接し方であり、「父母をしらしめ」は、その中でも自分を産み、育ててくれた父母に対する敬いの心、「王臣を定め」は、国家、社会の中でのそれぞれの立場の遵守である。これらの基本原理をもって「世をおさめしかば」とあるように、儒教は、なによりも支配的立場にある人々によって積極的に支持された。すなわち、支配者の哲学であったといえる。

中国が、周の統一以来、巨大な国家でありながら、幾多の変動はあったものの、他のいかなる文明社会にも見られないほどの安定性を保つことができたのは、儒教を一貫した精神的基盤としたことによる面が大きい。当然、そうした支配者の哲学ということから、支配者の御都合主義と民衆の自由への圧迫に陥りやすいという限界は認めなければならない。しかし、儒教がそれなりに果たした人間精神進歩の功績を、大聖人は客観的に評価されているのである。

開目抄にいわく「三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁えて孝をいたす」(0186:02)と。儒教思想の源流といわれる三皇の教えは、父の恩を教えたとされる。このことは、三皇がたとえば伏義(ふっき)は狩猟、漁労を、神農は農耕を、というように、技術を教えたとされることと関係がある。つまり、こうした技術とともに、技術伝達の関係として、父と子のつながりが必然的に緊密化したと考えることができる。さらに五帝は、家族制度の確立によって、老いた父母を子が養うべきことを教えた。こうして、家というものを基盤とした儒教によって、国という集団生活に必要な礼儀・仁義等の道徳を行じ、安定した社会生活を営む基盤ができたのである。

しかし、仏教はこうした外典の教えはあくまでも仏教へ入るための序分であるとする。すなわち儒教は礼楽等を教えて、のちに仏教が伝来した時に、仏教の理解を容易にさせるためであったとするのである。なぜなら、儒教は、人間関係についての在り方や行動の規範は説いたが、宿業などに代表される人間生命の内面の問題については、解決の方途を示さない。すなわち、ただ現世における五常の道を行ずるのみで、一人として永遠の幸福へ導くことはできない。まして生命を覆う無明を破ることはできず、仏法と対比するならば、まことに浅薄なものである。

人間の生命は、現在における外の世界のさまざまな事象や他の人々との関係によってと同時に、その奥深いところで、過去・現在・未来の三世にわたる因果の法則によって動かされている。したがって、この生命を動かす因果の理法を正しくわきまえなければ根本的な幸福と社会の安定を得ることはできない。生命の因果の法則を立て得ない儒教では、真実の人生観の確立はありえないので、仏教に対して儒教を外道というのである。開目抄上には、これを「外典・外道の四聖三仙、其の名は聖なりといえども、実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども、実に因果を弁えざる事嬰児のごとし。彼を船として生死の大海をわたるべしや。彼を橋として六道の巷こゑがたし」(0188:06)と明快に仰せられている。この文に仰せの「因果」とは、生命の因果の法則であることはいうまでもない。

ここに、本章に述べられるように、仏教が儒教より勝れるゆえんは明らかであり、仏教の興隆とともに儒教が「冰の日にとくるが如く、火の水に滅するが如くまくるのみならず、なにともなき者となりし」原因がある。人人の人生の苦悩を解決する、より力ある宗教は、障害にあったとしてもかならず人々の心の中に受け入れられ、流布していくのである。

 

 

第二章(法華経最第一を説く)

 本文

   又仏経漸くわたり来りし程に仏経の中に又勝劣・浅深候いけり、所謂小乗経・大乗経・顕経・密経・権経・実経なり、譬えば一切の石は金に対すれば一切の金に劣れども・又金の中にも重重あり、一切の人間の金は閻浮檀金には及び候はず、閻浮檀金は梵天の金には及ばざるがごとく・一切経は金の如くなれども又勝劣・浅深あるなり、小乗経と申す経は世間の小船のごとく・わづかに人の二人・三人等は乗すれども百千人は乗せず、設ひ二人・三人等は乗すれども此岸につけて彼岸へは行きがたし、又すこしの物をば入るれども大なる物をば入れがたし、大乗と申すは大船なり人も十・二十人も乗る上・大なる物をも・つみ・鎌倉より・つくしみちの国へもいたる。
  実経と申すは又彼の大船の大乗経には・にるべくもなし、大なる珍宝をも・つみ百千人のりて・かうらいなんどへも・わたりぬべし、一乗法華経と申す経も又是くの如し、提婆達多と申すは閻浮第一の大悪人なれども法華経にして天王如来となりぬ、又阿闍世王と申せしは父をころせし悪王なれども法華経の座に列りて一偈一句の結縁衆となりぬ、竜女と申せし蛇体の女人は法華経を文殊師利菩薩説き給ひしかば仏になりぬ、其の上仏説には悪世末法と時をささせ給いて末代の男女に・をくらせ給いぬ、此れこそ唐船の如くにて候・一乗経にてはおはしませ、

 

現代語訳

  そののちまた仏経が次々と中国に伝来するうちに、仏経の中にまた勝劣浅深があった。いわゆる小乗経・大乗経、顕経・密経、権経・実経である。譬えば一切の石は黄金に相対すればどの黄金にも劣るが、また黄金の中にも種類差別がある。あらゆる人間のもつ黄金は閻浮檀金には及ばないが、その閻浮檀金も梵天の黄金には及ばない。これと同じように、一切経は外道に対すれば黄金のようであるが、その中にまた勝劣浅深がある。

 小乗経という経は世間の小船のようなもので、わずかに人を二人三人は乗せるが、百人千人という多人数は乗せられない。たとい二人三人は乗せたとしても、こちらの岸に船をつけて浮かべるだけで、向こう岸へは行きがたい。また小さな物を入れるけれども大きな物を積み入れることは困難である。それに対し、大乗という教えは大船である。人も十人二十人乗せるうえ、大きな物をも積み、鎌倉から筑紫、みちのくへも行ける。

 そのうえ実経という教えは、かの大船の権大乗経などと比較にならない。大量の珍宝を積み、百人千人の多人数が乗って、高麗などへも渡ることができるのである。一仏乗を説いた法華経という経もまたこの大船と同様である。

 提婆達多という者は世界第一の大悪人であったけれども、法華経の提婆達多品で天王如来という仏に成った。また阿闍世王という者は自分の父を殺した悪王であるが、法華経の会座に列なってその一偈一句を聴聞して結縁衆となった。竜女という蛇体の女人は、法華経を文殊師利菩薩が説かれるのを聞いて仏になった。

 そのうえ仏が説かれるところでは、法華流布の時代は悪世末法であると時を指し示されて、末代の五濁悪世の男女に法華経を贈られたのである。この法華経こそ、唐船のように、一切衆生を彼岸へ渡し得る一仏乗の経典である。

 

語釈

 小乗経

 仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。

 

大乗経

 仏教を二つに大別したうちの一つ。自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の教えを小乗というのに対して、広く衆生を救済するために利他行としての菩薩道を説き、それによって成仏すると教えた法。乗は運載の義で、衆生の迷いの彼岸から、悟りの彼岸に運ぶための教法を乗り物にたとえたもの。大乗の大とは広大、無限、最勝を意味し、小乗に比べ、多くの人を彼岸に運べる優れた乗り物で大といった。天台大師の教判では華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃時の経教が大乗にあたる。

 

顕経

 「けんきょう」「けんぎょう」とも読む。文字の上にあらわに説き示された教え。真言宗では応身の釈迦仏が説いた法華経を「顕教」とし、法身の大日如来が説いた教法を密教とするという邪義を立てている。

 

密経

 呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。

 

権経

 権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。

 

実経

 真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。

 

閻浮檀金

 梵語でジャンブーナダスヴァルナ(Jambū-nada-suvara)。古代インドの想像上の金の名。閻浮樹の大森林の下を流れる河の中から採取されるという最上の金の名。「えんぶだごん」ともよむ。閻浮は樹木の名。壇は河の意。色は赤黄色で紫焔気を帯び黄金のなかでもっとも勝れているとされる。

 

梵天の金

 大梵天王の住む色界初禅天の王宮にある黄金のこと。

 

一切経

 釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。

 

つくし

 九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。

 

みちの国

 奥州地方のこと。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部に相当する。

 

かうらい

 朝鮮半島の王朝(09181392)。開城の豪族・王建が弓裔を倒して朝鮮北部に建国、国を高麗と称した。さらに0953年に新羅を併合し、翌年に後百済を滅ぼし、朝鮮を統一した。その後、蒙古の侵略を受けて属国となり、1392年に滅びた。

 

一乗法華経

 一仏乗の法華経と同意。一とは唯一無二、乗とは乗り物で、衆生を悟りの境界に運ぶ教えの譬。一乗の思想は権教である華厳経、勝鬘経等にも明かされるが、一切衆生がことごとく成仏すると説き、一仏乗の哲理を究竟して説き示した教えが法華経である。法華経方便品第二に「如来は但だ一仏乗を以ての故に、衆生の為めに法を説きたまう」とある。仏乗は梵語ブッダヤーナ(Buddha-yāna)の訳で、仏の境地に運ぶ乗り物の意。

 

提婆達多

 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。

 

閻浮第一

 一閻浮提第一のこと。全世界第一7を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。

 

天王如来

 法華経において提婆達多が記莂を受けた時の如来号。法華経提婆品において「提婆達多、却ってのち、無量劫を過ぎてまさに成仏することを得べし、号をば天王如来、応供・正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊、といわん、世界を天道と名づけん」とある。

 

阿闍世王

 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。

 

一偈

 「偈」ゲダ(gāthā)の音写。仏典の中で韻文形式を用いて仏の徳を讃嘆したり、法理を述べたもの。頌ともいう。梵語の仏典では、八音節四句からなるシュローカ、音節数は自由だが必ず八句二行からなるアールヤーなどがある。漢訳仏典では別偈と通偈に分かれており、別偈は一句の字数を三字四字などに定めて四句となしたものをいう。別偈は更に、前に散文の教義なしに記された伽陀と、前に散文の教義があって重ねてその義を説いた祇夜の二つに分かれている。通偈は首盧迦ともいい、散文、韻文にかかわらず、三十二字を一頌と数えることをいう。なお教義には別偈のみを偈とする。

 

一句

 句とは通常、数語で一つの意味をなしている最小限度のものをいうが、漢訳経典では、四字または五字などで一句をなすものが多い。偈は一般に経典中の韻文形式で説かれたものをいい、仏の徳または教理を賛嘆している。

 

結縁衆

 仏の会座に列する四衆の一つ。時機未熟のため、その会座においては得道しないが、未来に得道すべき縁を結ぶ衆生のこと。

 

竜女

 竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。

 

文珠師利菩薩

 文殊菩薩のこと。菩薩の中では智慧第一といわれる。法華経序品では過去の日月灯明仏のときに妙光菩薩として現われたと説かれている。迹化の菩薩の上首で、普賢菩薩と対で権大乗の釈尊の左に座した。文殊菩薩を生命論から約せば、普賢菩薩が学問を究め、真理を探究し、法理を生み出す智慧、不変真如の理、普遍性、抽象性の働きであるのに対し、文殊菩薩の生命は、より具体的な生活についての隨縁真如の智、特殊性、具象性の智慧の働きをいう。

 

悪世末法

 分別功徳品には「悪世末法の時、能く是の経を持たん者は」とあり、第五の五百歳、闘諍堅固・白法隠没の悪世において、地涌の菩薩が出現することを明かしている。

 

唐船

 古代から近世を通じて,中国船に対する日本での呼称で,同時に日本で造った中国式の船の呼称でもあった。中国式のいわゆるジャンクは,遅くも6世紀には中国独特の船体構造と帆装をもつすぐれた海船として完成したが,その後段階的発達をとげて,中世以後には東南アジア,インド,南洋まで航跡を延ばして貿易に活躍した。船体は竜骨に多数の隔壁を組合せた骨組みに外板を張ったじょうぶな構造で,独自の網代帆の帆装は横風や逆風時にも高性能を発揮し,1516世紀では世界のトップレベルの航洋帆船であった。なお室町時代には,遣明船のように日本から中国へ渡航する船を,船の型式にとらわれず唐船と呼んでいた。

 

一乗経

 一仏乗を説いた経のことで、法華経をさす。一仏乗は仏の境智に運ぶ乗り物の意で、一切衆生ことごとく成仏することのできる教法をいう。

 

講義

  第一章の内外相対に引き続き、本章では、大小相対して、法華経こそ真の大乗経であることを明かされる。

 すなわち、釈尊が説いた一切の仏経典は、外道が説いた経・典等の外道に比較すれば、黄金のように高価で勝れたものであるけれども、また、その仏が説いた一切の教えにも、勝劣・浅深が厳然とある。そこに立てられたのが、小乗経と大乗経、顕経と密経、権経と実経という対比である。

 小乗経が少数の人しか救えない教えであるのに対し、大乗経は大勢の人を救うことのできる法を説いている。小乗経が少数しか救えないというのは、自己の煩悩の断滅に終始し、煩悩に満ちた現実社会を、煩悩を避けるのでなく、煩悩と真っ向から対決しながら生きていかなければならない一般民衆にとっては、とうてい実銭できない教えだからである。しかも「設ひ二人三人等は乗すれども、此岸につけて彼岸へは行きがたし」と述べられているように、煩悩の断尽は結局、自我の否定に陥り、菩提即ち悟りの境地という彼岸に行きつくことは不可能である。すなわち、少数の人々、別していえば自分自身すら、実は救えないのである。

 権経と実経の相対は、方便の教えと、仏の悟りの真実を説いた教えとの対比である。すなわち釈尊は、みずからの究極の悟りを説こうとしたが、衆生がまだ信受できる状態ではないので、信受できるようにするため、四十余年間にわたって悟りの一分一分を説き、衆生の機根の条件を調えた。たとえていえば、高度な学問の真理を幼児に教え、理解させようとしても無理である。まず学問の初歩から教え、理解力を培わせることから始めなければならないのと同じである。それが権経であり、このあと、最後の八年間に、ようやく悟りの法を明かして法華経と名づけたのである。

 この実経である法華経は、したがって、いかなる人をも救う力をもっている。爾前経では「永不成仏」といって絶対に成仏できないとされた二乗が次々と未来成仏の記別を受け、提婆達多という閻浮第一の大悪人は、法華経によって成仏を許され、天王如来の記別を受けることができたし、父を殺した阿闍世王も、蛇身で女人の竜女も、法華経によって初めて成仏することができた。このことは、とりもなおさず、法華経の明かしている法に絶妙な力があることを示している。と同時に、五逆罪というこの世でもっとも重い罪を犯した者といえども、救うことのできる法を説いた法華経は、一切経の中で、もっともすぐれた経であることをあらわしているのである。

 しかも、法華経は、ただ釈尊在世あるいは正像時代の衆生のために説かれた経典ではない。そこに秘沈されている法は「其の上仏説には悪世末法と時をささせ給いて、末代の男女にをくらせ給いぬ」とあるように、釈迦仏法の力ではもはや救いきれない末法の本未有善の衆生を救済するための法である。

 仏は、この偉大な法を悪世末法の一切衆生を救済しうる法として、如来寿量品第十六の文底に秘し沈めて残された。これこそ、本門寿量品の肝心の大法である南無妙法蓮華経の七文字である。

 日蓮大聖人は、釈尊が説いた法華経の予言どおりに、末法の御本仏として、一切衆生救済のために末法の初めに出現され、如来寿量品第十六の文底に秘沈された三大秘法の妙法を説き明かし、南無妙法蓮華経の題目を流布し、一閻浮提総与の大御本尊を御図現された。

 この南無妙法蓮華経こそ仏法の骨髄、宇宙森羅万象の根源力である。曾谷入道殿御返事に「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058:08)とあって、法華経の肝心であり、正体にほかならないことを明かされている。そしてそれは、そのまま「無作の三身の所作」であるとともに、また、「十界の依正」すべての当体でもあることを明かされている。

 日寬上人の観心本尊抄文段上には、大聖人御図現の三大秘法の御本尊の力について「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と断言している。

 この三大秘法の妙法こそ、末法の御本仏が、末法の一切衆生救済のために建立された法体であり、法華経最第一の究極の意である。ゆえに、これを「一乗経」と仰せになられたのである。

 

 

第三章(法華経の行者と真言師の勝劣を示す)

本文

されば一切経は外典に対すれば石と金との如し、又一切の大乗経・所謂華厳経・大日経・観経・阿弥陀経・般若経等の諸の経経を法華経に対すれば螢火と日月と華山と蟻塚との如し、経に勝劣あるのみならず大日経の一切の真言師と法華経の行者とを合すれば水に火をあはせ露と風とを合するが如し、犬は師子をほうれば腸くさる・修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る、一切の真言師は犬と修羅との如く・法華経の行者は日輪と師子との如し、冰は日輪の出でざる時は堅き事金の如し、火は水のなき時はあつき事・鉄をやけるが如し、然れども夏の日にあひぬれば堅冰のとけやすさ・あつき火の水にあひて・きへやすさ、一切の真言師は気色のたうとげさ・智慧のかしこげさ・日輪をみざる者の堅き冰をたのみ・水をみざる者の火をたのめるが如し。

 

現代語訳

それゆえ仏教の一切経は外典に比べれば石と黄金とのような隔たりがある。また一切の大乗教、いわゆる華厳経・大日経・観無量寿経・阿弥陀経・般若経等の諸の経々を法華経に相対すれば、蛍火と日月の光と、崋山と蟻塚とのような相違がある。経に勝劣があるばかりでない。大日経を依経とする一切の真言師と法華経の行者とを合わせれば、火に水を注ぎ露を風が吹き払うようなものである。犬は師子を吠えれば腸がくさる。阿修羅は日輪を箭で射れば頭が七分に破れるという。一切の真言師は犬と阿修羅とのようであり、法華経の行者は日輪と師子とのようなものである。

氷は日輪の出ない前は金のように堅い。火は水のないときは鉄を焼いたように熱い。しかしながら夏の日にあえば堅い氷も容易に解け、熱い火も水を注げばただちに消えてしまう。一切の真言師は見るからに尊く、智慧ありげな様子をしているが、日輪を見ない者が堅い氷を頼みとし、水を見ない者が火を頼りとするようなものである。

 

語釈

華厳経

正しくは大方広仏華厳経という。漢訳に三種ある。①60巻・東晋代の仏駄跋陀羅の訳。旧訳という。②80巻・唐代の実叉難陀の訳。新訳華厳経という。③40巻・唐代の般若訳。華厳経末の入法界品の別訳。天台大師の五時教判によれば、釈尊が寂滅道場菩提樹下で正覚を成じた時、3週間、別して利根の大菩薩のために説かれた教え。旧訳の内容は、盧舎那仏が利根の菩薩のために一切万有が互いに縁となり作用しあってあらわれ起こる法界無尽縁起、また万法は自己の一心に由来するという唯心法界の理を説き、菩薩の修行段階である52位とその功徳が示されている。

 

大日経

大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。

 

観経

観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。

 

阿弥陀経

鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。

 

般若経

般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。

 

螢火と日月

維摩経巻上に「大道を行かんと欲するに、小径を示すこと莫れ……日光を以て彼の蛍火に等しくせしむることなかれ」と。小乗教と大乗経の差異を譬をもって示している。ここでは日光を法華経に譬え、蛍火を諸の経々に譬えて、法華経が勝れていることを述べている。

 

真言師

真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。

 

華山と蟻塚

華山とは中国の五岳の一つ。西岳ともいう。秦嶺山脈の支脈である終南山脈の一峰。蟻塚は蟻が作った円錐状の巣。弘明集巻一に「嵩岱に登りて丘垤を見るがごとし」とある。嵩岱とは嵩山と岱山のことで、各々五岳の一つであり、丘垤とは蟻塚のこと。ここでは崋山を法華経に譬え、蟻塚を諸経に譬えて法華経が勝れていることをいったもの。

 

犬は師子をほうれば腸くさる

 この文の出典は不詳であるが、これに類する文として、臨済録に「師子一吼すれば、野干脳裂す」とある。

 

修羅は日輪を……

修羅とは阿修羅の略称。古代インドでは、戦闘を好み、帝釈とつねに争う鬼神として描かれている。日月を迫害すれば頭が七分に割れるという。この説話の出典は、大智度論巻十によれば、羅睺羅の言葉として「世尊は偈を以て我に勅したまへり『我月を放たずんば、頭を七分せん、設い生活するを得とも安穏ならじ』と。故を以て我は今この月を放てり」とある。

 

講義

本章では、根本とする経の勝劣・浅深にしたがって、各宗の師にも勝劣・浅深があること、なかんずく真言宗の法師と法華経の行者とでは、天地雲泥の相違があることを述べられている。

この原理は「法妙なるが故に人貴し」(1578-12)という言葉によって、諸御書のなかで、一貫して示されているところである。いかなる経を根本としているかということは、いかなる哲学を基盤にしているかということでもある。そうした、根底とする哲学の高低は、あたかも、その人の立っているフロアの高低と同じで、背丈(せたけ)の差ではどうしようもない違いをそこに生ずる。持っている哲学が高度であるということは、人生、社会、宇宙の諸問題に対して、幅広く恒久的に対応できるということである。したがって、その哲理を自分のものにしていけば、人間として、より力強く生き、勝利していけることになる。持っている哲学が低ければ、対処できる幅は狭く、時間的にも、短い効力しか発揮できない。ゆえに、低い哲学の人は、それを自分のものにしたとしても、対応できない問題にぶつかり、敗れることになるのである。

いうまでもなく、仏教において、経典を持つといっても、ただ形式的に読み、学ぶのみに終わったならば、なんの役にも立たない。自己の生命に吸収し、また、それによって実銭化の努力をしようとしないで、ただ信仰しているというだけであるのは、真実のその経の〝行者〟とはいわない。

法華経――末法の法華経である南無妙法蓮華経の仏法も、それをいかに、わが生命に吸収し、現実のうえで、生きる力、智慧、福運として発現していくかが大切である。この努力をしている人は、妙法が他のいかなる経法にも勝れているように、尊極の生命変革をなし、人生においても、かならず偉大な人間としての勝利を実証していけるのである。

いわんや、双方が直接に対決するならば、すぐれた経を持つ者が勝利を収めることは、いかんともしがたい。「犬は師子をほうれば腸くさる。修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る」とは、法華経の行者である大聖人に敵対する真言師は、師子に吠えかかる犬、日輪を射る修羅のように、わが身を滅ぼすであろうと大確信を仰せられている。この原理は、妙法を実践するわれわれにおいても同じであると確信すべきであろう。

さて、日蓮大聖人に敵対し、大聖人に迫害を加える元凶となったのは、当時の念仏、禅等、あらゆる仏教宗派であるが、ここで、なぜ、真言宗をとくに取りあげられたかという問題について考えておきたい。

まず一つは、このお手紙の実質的な対告衆である乙御前の母が、大聖人に帰依する以前は真言宗を信仰していた人ではないかということが推測される。この点については、裏づけの史料がないので、憶測の域を出ないが、個人あての御消息であるだけに、いただいた人の立場が、その内容に反映されていると考えるのが自然である。

次に、当時の仏教界で、もっとも権威と力とを併せもっていたのが真言宗であった。たんに勢力だけをいえば、浄土宗が凌駕していたであろうが、仏教界に占める権威は、すでに早く天台宗をも傘下に組み入れた真言宗が、やはり圧倒的であった。

まして、本抄御執筆の前年に文永の役があり、ふたたび攻めてくることが明らかな事情のもとで、国を挙げて真言の加持祈祷に頼っていた。そして、それこそがまた、日本民衆の災厄をいっそう抜きがたいものとしている根源でもあったのである。

「一切の真言師は気色のたうとげさ、智慧のかしこげさ」とは、そうした、国中の尊信を受けているさまを表現されたのであろう。しかし、それも、末法の法華経の行者であり、御本仏日蓮大聖人に責められて、真言の法自体が日輪にあった氷、水をかけられた火のように消滅するがゆえに、それを頼みにしている真言師の権威も、はかなくやぶれ去ることを絶対の確信をもって言い切られているのである。

 

 

第四章(謗法の現証を示す)

本文

当世の人人の蒙古国をみざりし時のおごりは御覧ありしやうに・かぎりもなかりしぞかし、去年の十月よりは・一人も・おごる者なし、きこしめしし・やうに日蓮一人計りこそ申せしが・よせてだに・きたる程ならば面をあはする人も・あるべからず、但さるの犬ををそれ・かゑるの蛇を・をそるるが如くなるべし、是れ偏に釈迦仏の御使いたる法華経の行者を・一切の真言師・念仏者・律僧等に・にくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを・かほれる国なる故に皆人・臆病になれるなり、譬えば火が水をおそれ・木が金をおぢ・雉が鷹をみて魂を失ひ・ねずみが貓に・せめらるるが如し、一人も・たすかる者あるべからず、其の時は・いかがせさせ給うべき、軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり。

 

現代語訳

今の世の人々が蒙古国の襲来を見なかったときの思い上がりは、ご覧になられていたように限りないものがあった。しかし去年の十月蒙古が攻めてきてからは、一人も憍りたかぶる者はない。あなたもお聞きになったように、このことは日蓮がただ一人予言していたのであるが、寄せ手が来たときには、彼らに面と向かう人もないであろう。ただ猿が犬を恐れ、蛙が蛇を恐れるようになるであろう。

これはひとえに釈迦仏の御使いである法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等に憎ませて、われとわが身を損ない、ことさらに諸天の憎しみを蒙った国であるから、すべての人が臆病になったのである。譬えば火が水を恐れ、木が金におびえ、雉が鷹を見て気を失い、鼠が猫に責められるようなものである。一人として助かる者のあるはずがない。その時はどのようにするのであろうか。戦には大将軍を魂とする。大将軍が臆したならば部下の兵はことごとく臆病となってしまう。

 

語釈

蒙古国

13世紀初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国、朝鮮から西はロシア、オーストリアの境にいたる広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国が成立した。フビライが1271年に、国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。元寇は二度にわたったが、一度目は本抄御執筆の前年、文永11年(127410月で、これを「文永の役」と呼ぶ。

 

念仏者

念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。

 

律僧

律宗を修行した僧侶のこと。

 

講義

末法の法華経の行者日蓮大聖人を軽侮し、その忠告を聞き入れず、既成の権威である諸宗の教えの方を、正しいと信じていた日本国は、諸天善神から見放され、そのために、国家万民ことごとくが国難に遭遇して一喜一憂し、臆病この上ない惨めなありさまとなってしまった。そのさまは、五行説で水は火に、金は木に剋つという相剋関係の上から、火が水を恐れ、木が金を恐れるといわれており、また、雉が鷹に出あって動転し、そして猫ににらまれた鼠が縮み上がってしまう様子に似ている。このように、西方の超大国・蒙古の襲来にあって、臆病になってしまったのは、ただたんに大聖人の教えを信じなかっただけでなく、末法の御本仏に対して、生命にかかわる大難を与え苦しませ抜いた因果のあらわれであると喝破されている。

この章で述べられていることを敷衍して考えると、国家の安全、民衆の幸福のために、一国を外敵から守り抜くには、勇気ある指導者でなければならないということである。勇気とは、事にあたって沈着、賢明に処しうるということであり、そのためには、真実を正しく見極めていること、さらにいえば、未然に察知できることが要求される。日蓮大聖人ただ一人が、この時の最大の国難であった蒙古襲来の事態を予め見抜き、警告されていたのみならず、その根源を究めておられたのである。この事実こそ、大聖人が日本国の一切衆生を正しくリードし、この災厄に対処しうる〝大将軍〟であり、〝主の徳〟をもつ人であることを証明している。

 

当世の人人の蒙古国をみざりし時のおごりは、御覧ありしやうにかぎりもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし

 

文永11年(127410月の、元兵の壱岐・対馬来寇は、それまで外敵を見たこともなく、その攻撃を経験したこともなかった日本国の人々を、一瞬にして恐怖のどん底につき落としてしまった。同年11月に曾谷入道に与えられた御書に、「『多く他方の怨賊有って国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地に所楽の処有ること無けん』と申す経文合い候いぬと覚え候」(1024:01)と述べられているが、その原因は、「仏法の邪見」、すなわち「真言宗と法華宗との違目なり」と断定されている。

乙御前御消息の前半に、一貫して説かれる真言破折は、自界叛逆難や、他国侵逼難にあうことの必然性を教えられるためであったと拝察される。「蒙古国をみざりし時のおごり云々」とは、当時の人々の、大聖人に対する数数の迫害と法華誹謗の態度であり「去年の十月より云々」とは、実際に蒙古に責められて、蒙古という大国の強さを認識した後の、人々の周章狼狽のありさまである。

文応元年(12607月、日蓮大聖人は立正安国論をしたためられ、前執権北条時頼にあてて上書された。その中で、他国侵逼・自界叛逆の二難を鋭く予言されたが、当時の人々は、幕府はおろか、だれびとも真剣に大聖人の言を信じようとしなかったばかりか、その後、文永5年(1268)蒙古から使者が来てもなおかつ大聖人を竜口で斬ろうとし、弟子檀那等は所領没収、入牢等の責めを受けたのである。

しかるに、いよいよ大聖人の予言が的中し、蒙古の攻撃が事実となったとき、幸い嵐によって蒙古の軍船が沈み、侵略は免れたものの、その軍勢の強大さに対する世間の驚きと恐怖の念は、言い知れぬものがあった。そのさまは、あたかも、井の中の蛙が大海を知った時の驚愕と自信喪失に似ていたのであろう。正法誹謗による災いは、外からの侵略にとどまらず、智慧と勇気を失った、日本人の心の内に及んでいることを厳しく指摘されているのである。

 

軍には大将軍を魂とす。大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり

 

この文意は、深く洞察すれば限りなく広い。日常の生活のうえで、私達が直面する個人的問題から、地域社会全般、国家、全人類の上にふりかかってくる大きな難題に至るまで、それらの難題が大であれ小であれ、解決していくには、指導者の在り方が最大の要因となるという、いわば指導者の在り方を示されているのである。

いかなる事業においても、それを成し遂げる最大の要因は指導者のいかんにある。言い換えれば、指導者の指揮いかんによって、その組織が発展するか停滞するかのみならず、命運さえ決まるのである。したがって、指導者はどうあらねばならないかということを、この御文から学びとらなければならないと思う。

御教示の真意は、指導者たるものは、事態を正しく見究める鋭い英知と確信ある勇気をもって、責任ある英断の行動をしていかなければならない。そのような本源的な能力を発揮するためにこそ、根本的には三大秘法の南無妙法蓮華経を生命の奥底に持たねばならない、と拝することができよう。

当時、蒙古襲来に際して、歩兵の魂となるべき大将軍がどうしても必要であった。上下万民が、右往左往の慌て方であったのに対して、この事態に正しく対処できる「大将軍」とはだれであるかを明かされたものである。極楽寺良観への御状に「蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か、日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り『於一切衆生中亦為第一』とは是なり」(0174:08)とあり、日本第一の法華経の行者、大聖人をおいて他には、日本を救う大将軍はありえないことを、経文を示して宣言されている。これは、主・師・親三徳のうち、主の徳を示されているのである。

 

 

第五章(諸天の加護を説く)

本文

女人は夫を魂とす・夫なければ女人魂なし、此の世に夫ある女人すら世の中渡りがたふみえて候に、魂もなくして世を渡らせ給うが・魂ある女人にもすぐれて心中かひがひしくおはする上・神にも心を入れ仏をもあがめさせ給へば人に勝れておはする女人なり、鎌倉に候いし時は念仏者等はさてをき候いぬ、法華経を信ずる人人は志あるも・なきも知られ候はざりしかども・御勘気を・かほりて佐渡の島まで流されしかば問い訪う人もなかりしに・女人の御身として・かたがた御志ありし上・我と来り給いし事うつつならざる不思議なり、其の上いまのまうで又申すばかりなし、定めて神も・まほらせ給ひ十羅刹も御あはれみましますらん、法華経は女人の御ためには暗きに・ともしび・海に船・おそろしき所には・まほりと・なるべきよし・ちかはせ給へり、羅什三蔵は法華経を渡し給いしかば毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送りしなり、道昭法師・野中にして法華経をよみしかば無量の虎来りて守護しき、此れも又彼には・かはるべからず、地には三十六祇・天には二十八宿まほらせ給う上・人には必ず二つの天・影の如くにそひて候、所謂一をば同生天と云い二をば同名天と申す左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし・況や善人におひてをや、されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ、是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし・其よりも今一重強盛に御志あるべし、其の時は弥弥十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし、例には他を引くべからず、日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども・今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし、

 

現代語訳

女人は夫を魂とする。夫がなければ女人の魂はないのと同じである。この世に夫のある女人でさえ世の中を渡りがたいと見られるのに、魂と頼む夫もなくて世を渡られているあなたが、夫のある女人にも勝れて心中かいがいしくておいでになるうえ、神をも信じ、仏をも尊ばれておられるので、人よりも勝れた女人である。

日蓮が鎌倉にいた時には、念仏者等はさておいて、法華経を信ずる人々は、だれが信心があるかないかは分からなかったが、北条氏のとがめをうけて佐渡の島まで流されると、問い訪れる人もなかったのに、女人の身でありながら、いろいろとお志を示されたうえ、あなたみずからがはるばる来られたことは、現実とは思えないほど不思議なことである。そのうえこのたびの身延への訪れはなんとも申し述べようもない。かならず諸天善神も守られ、十羅刹も賞嘆されていることであろう。

法華経は女人のためには、暗い夜にはともしびとなり、海を渡る折には船となり、恐ろしい所では守護役になると、薬王品に誓われている。羅什三蔵が中国へ法華経を渡された時は、毘沙門天王は無数の兵士を遣わして葱嶺の難所を送ったという。また道昭法師が野中で法華経を読誦したとき、無数の虎が現れて守護したと伝えられる。あなたもまた羅什等のように諸天が守護しないはずがない。地には三十六神、天には二十八宿があって守っておられるうえ、人にはかならず二つの天が、影のように付き添っている。いわゆる一を同生天といい、二を同名天という。この二神がつねに人の左右の肩に付き添って守護するから、罪のない者を天が罰することはない。まして善人を罰するはずはない。

それゆえ妙楽大師は「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等といわれている。心の堅固な者には神の守りがかならず強いというのである。このように申すのは、あなたのために申すのである。前々からのお志については、言いつくせない。だが、それよりもなおいっそう強盛の信仰をなさい。その時はいよいよ十羅刹女の守りも強くなることと思いなさい。その例は他から引くには及ばない。この日蓮を日本国の上一人より下万民に至るまで、一切の人々が害しようとしたが、いままでこうして無事に生きていられることは、日蓮は一人であっても法華経を信ずる心の強いゆえに諸天が守護されたのであると思いなさい。

 

語釈

①心の働きを司るもの。霊魂・精霊。②精神・気力。③心識・神識・霊妙な働き。④素質・天分。

 

御勘気

主人または国家の権力者から咎めを受けること。

 

十羅刹

十人の羅刹女のこと。鬼子母神の娘。羅刹女は梵語でラークシャシー(Rākasi)といい、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経守護の諸天善神に列せられている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。

 

暗きにともしび……:

法華経の力用を譬える文。法華経薬王菩薩本事品第二十三には次のように説かれている。すなわち「此の経は能く一切衆生を救いたまう者なり。此の経は能く一切衆生をして諸の苦悩を離れしめたまう(中略)渡りに船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に灯を得たるが如く(中略)能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまう」とある。

 

羅什三蔵

03440409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409820日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。

 

毘沙門天王は……

羅什三蔵が西域から、中国へ法華経を渡した時、毘沙門天王は無数の兵士を遣わして羅什を守護し、葱嶺を送らせたということ。法華伝記巻一には多聞の守護したことが記してある。

 

葱嶺

パミール高原の中国名。その名称は、西域記巻十二に「多く葱を出すの故に葱嶺と謂う」とある。世界の屋根といわれ、中国と西方諸国を結ぶ交通路の要所として、多くの隊商や僧侶がここを通った。

 

道昭法師

06290700)。日本法相宗の開祖。河内国丹比郡に生まれ、出家して元興寺に入った。白雉4年(0653)、遣唐使に従って入唐。慈恩寺の玄奘に師事。ついで恵満について禅を学んだ。斉明天皇6年(0660)に帰朝、元興寺に禅院を建立、諸国をまわって法相宗を弘めた。文武天皇4年(07003月寂。

 

三十六祇

三十六神、三十六部神ともいう。灌頂経巻三に説かれている三十六の善神の総称。この善神は帝釈天の勅を受けて三帰を受けるものを守護する役割をもつといわれる。

 

二十八宿

二十八種の星宿のこと。二十八舎・二十八星ともいう。黄道に沿って天球を二十八の星座に配し、一日一宿をあてたもの。インド・中国で古くから用いられた天文説に基づく。摩登伽経巻上にあるが経文によって異説もある。

 

同生天・同名天

人が生まれた時から左右の肩の上にあって、つねに、その善悪の行為を記録し閻魔王に報告するという二つの神。華厳経巻六十には、「人の生じ已れば則ち二天有りて恒に相い随逐す。一を同生と曰い、二を同名と曰う。天は常に人を見れども人は天を見ざるが如し」とある。吉蔵の無量寿経義疏では、同生は女神で右肩にあって悪業を記録し、同名は男神で左肩にあって善業を記録するとあるが、異説もある。

 

妙楽大師

07110782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(074838歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。

 

「必ず心の固きに仮りて……」

止観輔行伝弘決巻八の文。摩訶止観巻八下の「心は是れ身の主、同名同生天は是の神、能く人を守護す。心固ければ則ち強し」の文を釈して「身と名を同じくし、身と生を同じくするを名けて天神と為す。自然にあるが故に之を名けて天と為す。常に人を護ると雖も、必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」とある。

 

講義

この章においては、夫と別れた身でありながら、夫のある女性以上にけなげで、法華経に対する帰依も厚く、大聖人を慕ってはるばる佐渡に訪ね、身延入山後は人里離れた身延の沢へも大聖人をお訪ねするなど、乙御前の母の求道の姿勢を賞讃されている。そして、こうした強い信心に立ったとき、諸天がかならず守護することを、ご自身が迫害の中を生き抜かれたことを先例として述べられ、いっそうの強い信心に立つよう指導されている。

 

法華経は女人の御ためには、暗きにともしび、海に船、おそろしき所にはまほりとなるべきよしちかはせ給へり

 

「暗きにともしび」「海に船」「おそろしき所にはまほり」この三つの譬えは、いずれも、法華経こそが女性にとって、唯一の成仏の法門であることを教えられたものである。

当時はとくに乱世であり、外からは、文永の役のあと、蒙古がいつふたたび襲来してくるかわからないという不安に、日本中が脅かされていた。頼りとするものもない寡婦であり、一人の幼児を連れた乙御前の母の生活は苦しく、惨めな思いをしていたのではないかと思われる。そのような乙御前の母にとって、この御文は、なによりの励ましであったであろう。

本来「暗き」とは、冥土というように、死後の世界を表現したものである。「海」もまた「生死の海」といい、生死のなかでも死を意味している。「おそろしき所」も、死後の生命は険難の所を往かなければならないとされているところから、このようにいわれているのであって、いずれも、これらは死後の世界についていわれている。

法華経が、このように「暗きにともしび」「海に船」「おそろしき所にはまほり」となるとは、死後の幸せを守ってくれるということであり、端的にいえば、成仏の法であるということである。

だが、ただ死後のためばかりの法ではない。成仏という究極の問題について、これほどまでに力がある経であるなら、この人生の諸問題に対して力がないわけはない。その現世の利益の例として、以下、羅什、道昭等のエピソードを述べられているのである。

 

人には必ず二つの天、影の如くにそひて候。所謂一をば同生天と云い、二をば同名天と申す云云

 

同生同名天については、語訳に示されているとおりである。つねに身にそい、あらゆる善悪の業を天に、交互に報告するとも、あるいは、死後、十王の法廷を回るときに、今生の一切の業を閻魔王等に告げるともいわれている。

本抄では、若干ニュアンスが異なり、左右の肩にそっていて、人を守護し、天が罪のないのにこの人を罰することがないようにしてくれると述べられている。一般にいわれているのが、どちらかといえば罪を告発する検事のような印象であるのに対して、本抄の仰せは、罪のない人を守ってくれる弁護士という印象で、ニュアンスは、まるで反対である。しかし、善悪の業を、正確に天に伝えるという点では同じことであって、同生同名天自体の働きが違うように説明されているわけではない。このように、善につけ悪につけ、一つ一つ正確に天に報告し、人の行為に対して厳格な果報が生ずるようにしているということは、要するに、生命の因果の法則を譬喩的にあらわしたものといえる。

ともあれ、善を行った場合はよい報いがあり、悪を行なったときは、かならず悪い報いがあらわれるというのが仏法の教えであり、そこには、厳しい因果の理法が貫かれていることを確信すべきであろう。

 

例には他を引くべからず。日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしとおぼすべし

 

「例には他を引くべからず」とは、前述の妙楽の弘決の「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」の文の実例として、数々の難にあわれてきた御本仏日蓮大聖人の姿を見よとの仰せである。大聖人ご自身の受けてこられた数々の大難と、その結果をつぶさに見れば、おのずから判明するであろうとの意である。

大聖人の布教のご一生は、御年32歳の建長5年(1253428日、安房国長狭郡東条郷の、清澄寺における立宗宣言に始まるが、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という、四箇の格言による大聖人の諸宗破折は、当時の諸宗を信じてきた民衆にとって、青天の霹靂であったのである。清澄寺を出て、鎌倉・名越の松葉谷に草庵を営まれるが、天災、飢饉、疫病に疲労困憊していく、無気力な民衆をまのあたりにされるにつけ、そうした災厄の根源である、諸宗に対する大聖人の攻撃は厳しさを加え、ついに文応元年(1260716日、御年39歳の時、宿屋入道を介して、北条時頼に立正安国論を送り、すでにあらわれている災の元凶を明らかにするとともに、自界叛逆難・他国侵逼難の予言をもって諫暁されたのである。

この第一回の国主諫暁を因として、大聖人の御身の上に、次々と難が降りかかってきた。法華経勧持品第十三の二十行の偈に、身をもって直面されたのである。なかでも大きい難は次の四つである。

一、松葉谷の法難(文応元年827日)

一、伊豆流罪(弘長元年5月12日~同3222日まで)

一、小松原の法難(文永元年1111日)

一、竜口の法難(文永8912日、次いで佐渡流罪、同113月まで)

弘安2年(1279)にしたためられた聖人御難事に「而るに日蓮二十七年が間、弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり、左の手を打ちをらる。同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流、又頭の座に望む」(1189-13)と述べられているのは、これらの大難をいわれたのである。

このような難について、日蓮大聖人は、一面では、凡夫としての過去世の謗法の罪によるとされ、いま難を受けることによって、その罪を消滅しているのであると述べられている。しかし、また、もう一面では、法華経に記されている、末法の法華経の行者が数々の難にあうとの文を身をもって証明しているのであり、そうした難は、仏法の興隆を恐れる第六天の魔王の妨げによることを示されている。

すなわち、一方は自身の成仏のため、一方は正法興隆・広宣流布のためであって、一つの過程として苦しみはあるが、かならず大きく開けることは間違いない。しかも法華経に述べられているように、強い信念をもってこれを乗り越えていくならば、そこに正法を守る働きとしての諸天の加護があらわれ、守られていくことも間違いないのである。

ここに掲げた御文に述べられているように、日蓮大聖人ご自身、これほどの数多くの大難にあいながら、生き永らえて弘教の戦いを続けてこられたのである。

すなわち、松葉谷の襲撃にも屈せず、三年にわたる伊豆の流罪でも助けられ、小松原の刀剣の難も致命傷とはならず、まして竜口の〝頸の座〟をも、諸天善神に厚く守られた。結果は佐渡流罪となられたが、佐渡においても島の念仏者、あるいは諸宗の者達にねらわれながら、餓死や凍死から逃れることができたのは、阿仏房等の働きによることは当然であるが、諸天の働きによるとされているのである。こうして3年間にわたる厳しい流罪生活ののち、ついに文永11年(127438日、赦免の吉報を受けとられ、326日、無事鎌倉に帰還された。以上の経過は、種種御振舞御書に詳細に述べられている。

以上のような結果をもたらした原因はなにか、それは「一人なれども心のつよき故なるべし」なのであるとの仰せである。大聖人には、御本仏としての大確信と、広宣流布の使命感があられた。先に引用した、妙楽の弘決の「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」の文の「心の固き」とは、大聖人においては、末法万年の人類救済という大慈悲と責任感と使命にほかならない。「一人なれども」とは、日蓮大聖人が、当時の日本国の眼前に迫った、自界叛逆と他国侵逼の二難から一切衆生を救い、末法に三大秘法の本尊を流布するために、ただ一人、御本仏としての自覚に立って苦難を乗り越えてこられた、その心境をいわれたお言葉と拝せる。

われわれもまた、末法における世界の民衆救済という広宣流布の大事業は、いかなる障魔が立ちふさがろうとも、各人が〝一人立つ〟の自覚に立ち、強い信心の実銭を貫くとき、かならずや諸天の加護を受け、達成されるのである、と確信すべきであろう。

 

 

第六章(国中の人の唱題を予告する)

本文

 一つ船に乗りぬれば船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ・又身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり、日本国には・かしこき人人はあるらめども大将のはかり事つたなければ・かひなし、壱岐・対馬・九ケ国のつはもの並に男女多く或はころされ或はとらはれ或は海に入り或はがけよりおちしもの・いくせんまんと云う事なし、又今度よせなば先には・にるべくも・あるべからず、京と鎌倉とは但壱岐・対馬の如くなるべし、前にしたくして・いづくへも・にげさせ給へ、其の時は昔し日蓮を見じ聞かじと申せし人人も掌をあはせ法華経を信ずべし、念仏者・禅宗までも南無妙法蓮華経と申すべし、

 

現代語訳

一隻の船に乗り合わせてしまえば、船頭の舵取が悪ければ一同に船中の人々は命を損なうし、またいかに体が強くても心が弱ければ多くの能力も役立たない。日本国には賢明な人々はいるようであるが、大将の指揮が拙劣であるから望ましい結果もでない。壱岐・対馬と九か国の兵士並びに一般の男女まで、多くあるいは殺され、あるいは捕われ、あるいは海に沈み、あるいは崖から落ちた者は、幾千万人と数え知れない。また今度攻め寄せて来たならば、この前と同じ程度で済むはずがない。京都と鎌倉とは、かの壱岐・対馬のようになるであろう。蒙古が攻めてくる前に支度をしてどこへでも逃げられるがよい。その時は昔、日蓮を見たくない聞くまいといっていた人々も、掌を合わせて法華経を信ずるであろう。念仏者や禅宗の者までも南無妙法蓮華経と唱えるであろう。

 

語釈

壱岐・対馬・九ケ国

壱岐とは、壱岐国(現在の長崎県壱岐郡)のこと。対馬は対州ともいい、主島は上島・下島のこと。ともに九州と朝鮮半島との間に飛石状をなす島。早くから大陸との交通・軍事上の要地として開けた。九ケ国は九州の九か国をさし、西海道九か国で、筑前(福岡県北西部)、筑後(福岡県南部)、豊前(大半は福岡県、一部は大分県)、豊後(大分県の大部分)、肥前(一部は佐賀県、一部は長崎県)、肥後(熊本県)、日向(宮崎県)、大隅(鹿児島県の東部)、薩摩(鹿児島県の西部)のことをいう。当時これらの国々は、蒙古軍の侵略による被害を真っ向からこうむった。

 

講義

ここでは、蒙古が再度、日本へ攻めてくるということを取り上げ、そのときには日本中の人々が、大聖人に帰依せざるを得ないであろうと述べられている。本抄が建治元年(127584日の御述作ゆえ、第一回の蒙古襲来すなわち「文永の役」から約10か月後ということになる。

文永の役は、約25,000の元と宋の両軍兵力に高麗兵8,000、水夫等6,000によって、日本侵攻をめざしたものであった。これは、蒙古としては台風の季節を避けたつもりであったのであろうが、嵐によって兵船のほとんどを失い、失敗に終わった。だが、翌文永12年(12754月には、蒙古の使者が来ており、再度来寇の通諜があった。この4月に改元になり、建治元年となっている。5月、幕府は西国諸国に防御準備を命じ、7月には、文永の役で戦わなかった御家人を問責するなど、断固応戦の姿勢を固めている。しかし、文永の役で、まのあたりに見た蒙古軍の強さは、圧倒的なものがあり、武士はもとより民衆の恐怖は、言語を絶したようである。

いま、この本文に述べられているように、蒙古軍に攻略された壱岐・対馬においては、武士達はもとより、多くの庶民も殺され、捕えられ、残虐な目にあわされたのである。さらに九州本土に上陸した蒙古軍は、圧倒的優勢をもって太宰府に迫ったのであった。その要因としては、旧態依然の個人戦法をとる日本軍に対し、蒙古軍はユーラシア大陸の大半を席捲した豊富な経験を持つ集団戦法である。弓の強力さも比較にならず、加えて、火薬を使った武器も用いていたという。しかし、そうした技術的な問題がすべてではなく、なによりも、真言等の祈りによって助けられるのではないかといった依頼心にあらわれる臆病さが日本側にはあったことも見逃せない。

幸いにして夜になり、蒙古軍は船に引き挙げ、その船が嵐によって転覆したので、日本は救われたのであった。だが、すでに述べたように、半年を経ないでふたたび使者が訪れ、再度侵攻の通諜があり、そのとおり行なわれた七年後の弘安4年(1281)の、いわゆる「弘安の役」は「文永の役」の4倍に近い、140,000の兵力をさしむけてくるのである。

もとより、建治元年の時点では、蒙古がどれほどの兵力で攻めてくるかは知るよしもなかったであろう。だが、ふたたび攻めてくることは確かであったし、一度、失敗しているだけに、それ以上の兵力を結集し、準備もととのえてくることは、予想されていた。それゆえにこそ、日本一国を挙げて、悲壮なまでの決意とともに、恐怖心に覆われていたのである。

日蓮大聖人が、今度の戦争によって、人々は法華経に帰依し、念仏者、禅宗等までも南無妙法蓮華経と唱えるであろうと予測されたのは、そうした国中にみなぎる空気を背景に拝察しなければならない。

 

身つよき人も、心かひなければ多くの能も無用なり

 

一人の人間にあって、肉体の力を動かしていくのは心である。頑健な身体をもち、技を身につけていたとしても、それを正しく働かせ、自分自身にとっても、人々のためにも、善の価値をもたらすように活用するには、悪や不幸をもたらすものに立ち向かう勇気と、どのようにそれを打ち砕くかを見極める英知といった、心・精神が必要である。

これは、さらにいえば、知識と知恵の関係にもあてはまる。いかに幅広い知識をもっていても、それを使いこなしていくのは知恵である。現在においても、未来においても、人間の教育において、この身と心の関係、すなわち、技術、技能、知識と精神、知恵との関係は、つねに忘れてならないもっとも根本的な課題であり、この両方のバランスが図られていかなければならない。それは、ひとり教育にとどまらず、文化の在り方全般にとってのもっとも重要なテーマでもあろう。

ともあれ、一個の人間にあって、もっとも大事な心は、一つの船にたとえれば、その指揮をとり、正しい航路へ導いていく船長であり、一国にたとえていえば、大将すなわち権力者である。権力をもつ人が正義を重んじ、賢明な知恵を発揮していけば、その国の民衆は苦難を免れ、幸せを得ていくことができる。大聖人は、そうした現実社会を率いていくために、真実の英知と強い勇気が必要であることを仰せられているのである。

 

 

第七章(強盛な信心を教える)

本文

 抑法華経をよくよく信じたらん男女をば肩に・になひ背に・おうべきよし経文に見えて候上・くまらゑん三蔵と申せし人をば木像の釈迦をわせ給いて候いしぞかし、日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ昔と今と一同なり、各各は日蓮が檀那なり争か仏にならせ給はざるべき。
 いかなる男をせさせ給うとも法華経のかたきならば随ひ給うべからず、いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり、木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず、火は水にけさるれども仏の涅槃の火はきえず、華は風にちれども浄居の華は・しぼまず・水は大旱魃に失れども黄河に入りぬれば失せず、檀弥羅王と申せし悪王は月氏の僧の頸を切りしに・とがなかりしかども・師子尊者の頸を切りし時・刀と手と共に一時に落ちにき、弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時・十二神の棒にかふべわられにき、今日本国の人人は法華経の・かたきと・なりて身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり、かう申せば日蓮が自讃なりと心えぬ人は申すなり、さには・あらず是を云わずば法華経の行者にはあらず、又云う事の後にあへばこそ人も信ずれ、かうただ・かきをきなばこそ未来の人は智ありけりとは・しり候はんずれ、

 

現代語訳

さて法華経をよくよく信ずる男女を、肩に担い、背に負うであろうと法華経に説かれているうえ、鳩摩羅琰三蔵という人を木像の釈迦が背負われたのである。日蓮の首の難には大覚世尊が身代わりになられた。昔と今とは同じである。あなた方は日蓮の檀那である。どうして仏にならないことがあろうか。

どんな男を夫とされても、法華経に敵対するならば随ってはならない。いよいよ強盛の信心を持ちなさい。氷は水から出たのであるが水よりも冷たい。青い色は藍から出たけれども色を重ねると藍よりも色が濃い。同じ法華経ではあるが、信心を強く重ねれば他人よりも色もすぐれ利益もあるであろう。

木は火に焼かれるが栴檀の木は焼けない。火は水に消されるけれども仏の涅槃の火は消えない。華は風に散るけれども浄居天の華はしぼまない。水は大旱魃にはなくなるが黄河の流れに入ればなくならない。

檀弥羅王という悪王は、インドの僧の頸を切った時には科にあてられなかったが、師子尊者の頸を切った時は、刀と手が同時に落ちた。弗沙密多羅は鶏頭摩寺を焼いた時、十二神の棒で頭を割られたという。今日本国の人々は法華経の敵となって、身を亡ぼし国を亡ぼしてしまったのである。このようにいえば日蓮の自讃であると物の道理の分からない人はいったのである。けっしてそうではなく、これをいわなければ法華経の行者ではない。またいったことがのちに符合すればこそ人も信ずるのである。こうして書き置けばこそ、未来の人は日蓮は先見の明智があったと知るであろう。

 

語釈

肩にになひ……

法華経を読誦する者を、仏が肩に担い背に負うと経文に説かれている。法師品第十に「其れ法華経を読誦すること有らば、当に知るべし、是の人は仏の荘厳を以て自ら荘厳すれば、則ち如来の肩の荷担する所と為らん」とある。また法華文句巻八上には「為如来肩荷」とは、背に在るを荷と為す。肩に在るを檐と為す」と釈している。

 

くまらゑん三蔵

鳩摩羅琰は、梵語クマーラーヤナ(Kumārāyana)の音写。鳩摩羅什の父。四世紀ごろのインドの人で、代代国相の家に生まれる。聡明で意志が強く、宰相の位を辞退して出家し、東上して亀茲国に入り、国師として迎えられた。

 

木像の釈迦

宝物集上によると、「インドの弗沙密多羅王が国中の仏法を滅ぼした時、鳩摩羅琰は悲しんで仏像を持して亀茲国へ渡る途上、昼は仏を背に負い奉り、夜は仏に背負われた」とある。

 

大覚世尊

仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。

 

檀那

布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。

 

利生

利益衆生の意で、衆生を利益すること。

 

栴檀の木はやけず

仏教典に見える栴檀は、一般にビャクダン科の常緑樹をさす。翻訳名義集巻三には「華厳に云く、摩羅耶山、栴檀香を出す。名けて牛頭と曰う。若し以って身に塗れば、設い火坑に入るとも火も焼くこと能わざるなり」とある。

 

仏の涅槃の火……

涅槃経後分巻下によると「仏の荼毘の火が消えようとする時、四天王が一刻も早く火を消し、仏舎利を天に収めて供養したいと思い、七宝の金瓶に満ちた香水と、須弥の大樹から採った甘乳を一時に流し注いだが、かえって火勢が強まり消えなかった。これを見て、海神・娑伽羅竜王、江神、河神等も無量の香水を荼毘所に注いだが、いよいよ火勢が盛んになるばかりであった」とある。

 

浄居の華

浄居天に咲いている華のこと。浄居天とは色界の十八梵天の最後の五天のこと。五浄居天・五那含天ともいう。この五天は声聞の聖位の第三阿那含果の聖者の住処とされる。壊劫の最後に起こるという風災等の三災も侵すことのない色界最上の天であるから「華はしぼまず」と仰せられたものと思われる。

 

大旱魃

長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。

 

黄河

中国の北部を流れ、渤海へと注ぐ川。全長約5,464kmで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、アジアでは長江とエニセイ川に次いで3位、世界では6番目の長さである。なお、河という漢字は本来固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。現在の中国文明の直接の母体である黄河文明を育んだ川であり、中国史上において長江と並び巨大な存在感を持つ河川である。

 

檀弥羅王

付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。

 

師子尊者

師子、師子比丘ともいう。六世紀ごろ、中インドの人。付法蔵二十四人の最後の伝燈者。景徳伝燈録巻二によると、尊者は罽賓国に遊化して衆生を化導していたが、二人の外道の幻術に惑わされた檀弥羅王は誤解し、怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、七日の後に命が終わったという。

 

弗沙密多羅王

梵語プッシャミトラ(Puyamitra)の音写。紀元前二世紀ごろのインドの王。阿育王の末孫にあたる。雑阿含経巻二十五によると、「王はその名徳を世に令こうとして群臣にこれを謀ったところ、賢善の臣は阿育王のように仏塔を建て三宝を供養すべきことを勧めたが、王はこれを喜ばず、かえって悪臣の言をいれて、もろもろの仏塔を破壊し多くの僧侶を殺害した」とある。

 

鶏頭摩寺

鶏園寺・鶏林精舎・鶏寺ともいう。古代インド・マカダ国にあった寺。阿育王の建立。大唐西域記巻八によると、「王は仏法を信じて以来この寺で種々の善根を修し、群臣と共にこの寺に詣でては、千僧を召集し、凡聖の両衆に対して四事を供養した」とある。阿育王が第三回の仏典結集を行なった伽藍は、この鶏頭摩寺をさすと考えられる。

 

十二神の棒

阿育王伝巻三、雑阿含経巻二十五等によると、弗沙密多羅王が兵をもって鶏頭摩寺等を攻めて仏法を破壊しようとした時、娑伽羅国の仏塔の護法神が女婿の虫行神に命じて、大山を以って棒とし、王と兵士を圧殺したとあるが、十二神を示す言葉はない。十は余りの字でたんに二神をさすとの説もある。他に薬師経巻下に、薬師経を読誦し持つ者を守護するとされる十二大将、十二天供儀軌には、世界を守護する神々として十二天等が説かれている。

 

講義

この章は、強盛な信心に立つならば、なにものによっても破られることはない、ということを幾多の例を引いて示されている。

まず、乙御前の母に対し、だれと再婚するにせよ「法華経のかたき」に従ってはいけないこと、大切なことは、乙御前の母自身がいっそう信心に励み、なにものによっても崩されることのない、福運をみずから築き上げることである、と懇ろに指導されている。

 

日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ。昔と今と一同なり。各各は日蓮が檀那なり。争か仏にならせ給はざるべき

 

「昔と今と一同なり」とは、この前にある鳩摩羅琰と日蓮大聖人とを並べていわれていることは、いうまでもない。鳩摩羅琰は、昼間、釈迦仏の像を背負ったところ、夜は、その像が鳩摩羅琰を背負ったというエピソードである。これは、仏法のために尽くせば、かならず仏法によって守られることをあらわしている。大聖人は、あらゆる苦難を身に受けて、釈尊の説いた法華経の真実であることを証明されたのであった。聖人御難事にいわく「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり」(1190:01)と。ゆえに、大聖人の最大の難である竜口の法難において、法華経の教主・釈尊、すなわち大覚世尊が大聖人になりかわったのである、との仰せである。

そして、この竜口の頸の座で大覚世尊が「かはらせ給いぬ」とは、日蓮大聖人が、凡身を払って久遠元初の自受用報身とあらわれたことを意味する。

開目抄には、このことを「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢぬらむ。此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の、未来日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし」(0223:16)と。日寬上人は、この御文について、次のように釈している。「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成仏を唱え、末法下種の本仏と顕れたもう明文なり」と。

これらの御文から、いま「日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ」と仰せの真義は明瞭である。ゆえに、仏法の原理から、大聖人の教えどおりに実銭していくならば、日蓮大聖人の檀那たる各人も、成仏できない道理は断じてないと言いきられているのである。

 

同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり

 

氷は水からできているが、水より冷たい。青は藍からつくられるが、藍よりもあおい。これと同様、同じ法華経を持っていても、信心の志を重ねるなら、人より以上に法華経の力を輝かせ、功徳を得ることができる、ということである。この〝法華経〟とは、三大秘法の御本尊であることはいうまでもない。したがって、御本尊を受持するにあたって、持つ人の信心こそ大切であることを教えられた御文である。

御本尊は偉大な力を秘めた当体であられる。だが、そのお力は、受持する人の信心の深さ、その信心に立った粘り強い実践に応じて発現されてくる。信心が弱く、実践もしないならば、力自体は絶大であっても、発現しないのである。ゆえに、御本尊が偉大であるなら、なんとか救っていただけるであろうという、甘えた姿勢であってはならない。どこまでも、みずからの信力・行力を奮い起こし、題目を唱えぬき、その生命力で問題と取り組んでいくことが大事なのである。同様に、この仏法を弘めていく広宣流布の大事業も、仏法が偉大であるなら自然に弘まるのではない。大聖人の精神を受け継いで、死身弘法の実践をしていく人々の努力によって、はじめて広布は推進され、成就されていくことを知らなければならない。

 

木は火にやかるれども栴檀の木はやけず……水は大旱魃に失れども黄河に入りぬれば失せず

 

ここは、御本尊を受持し、実践している人は、いかなる苦難にあっても破られることはなく、金剛不壊の境地に住することを、譬喩をもって示されている。

火に焼かれてしまう普通の木は、煩悩に焼かれる凡夫の生命を譬えられている。妙法を信ずる人は、仏身を現じているゆえに、これを栴檀に譬え、いかなる煩悩の火にも焼かれることはないと仰せられているのである。水に消されてしまう火とは、生死の水に消される凡夫の生命を譬えられている。妙法を受持している人は、生死を即涅槃と開くゆえに、いかなる水にも消えることはない。同様に、風に散る華は、世間一般の幸福の譬えである。妙法を根底とした人の幸福は、浄居天の華のように、どのような苦難の嵐にあっても、しぼむことはないのである。また、大旱魃にあって失せてしまう小川の水や池の水は、己れの過去の善根に拠っている福運を譬えられている。無上宝聚に譬えられる、宇宙生命そのものともいえる妙法に帰命した人の福運は、黄河に入った水のように、いかなる大旱魃にも涸れることはないのである。

 

檀弥羅王と申せし悪王は、月氏の僧の頚を切りしに、とがなかりしかども、師子尊者の頚を切りし時、刀と手と共に一時に落ちにき……今日本国の人人は法華経のかたきとなりて、身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり

 

敵対する相手によって、罰の大きさが異なることをいわれている。相手が卑賎であれば、罰はさほど大きくない。檀弥羅王がインドの僧を切って科がなかったというのは、このためである。ところが、師子尊者は、仏法の法燈を伝える付法蔵の人であり、当時においてもっとも尊貴の人であった。したがって、この師子尊者を切ることは、法燈を断ち切るのと同じであり、ゆえに檀弥羅王は即座に、自分の腕が落ちるという仏罰をこうむったとされるのである。弗沙密多羅王が、阿育王建立と伝えられ、仏教史に赫々たる名を残す鶏頭摩寺を焼いて十二神の棒で頭をわられたというのも、同じ原理である。

同じく、いま、日本中の人々は、日蓮大聖人に敵対し「法華経のかたき」となることによって、他のだれびとを迫害し苦しめたよりも大きな罰をこうむって、おのおのの身ばかりでなく、国をさえ亡ぼそうとしているのである。そして、このことは、かならず後世になって事実としてあらわれ、大聖人こそ、真に仏法に通達した人、すなわち仏であられたことに、未来の人は気づくであろうと、大確信を述べられている。大聖人は、自分をいじめたために国が亡ぶというのは、人は自讃というかもしれないが、未来の人々に正しい仏法に目覚めさせるために書き残しておくのだといわれている。すなわち、このように断言され、書き残されるのも、遠い未来の人々への大慈悲の所作なのである。

 

 

第八章(末法御本仏の胸中を明かす)

本文

 又身軽法重・死身弘法とのべて候ば身は軽ければ人は打ちはり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね還つて重くなるべし、かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩と・いははるるやうに・いはうべし、其の時は日蓮を供養せる男女は武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしと・おぼしめせ、抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何に況や一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はんをや、法華経の第四に云く「仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間之眼なり」等云云、法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候、日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり、されば天もいかり日日に天変あり地もいかり月月に地夭かさなる、天の帝釈は野干を敬いて法を習いしかば今の教主釈尊となり給い・雪山童子は鬼を師とせしかば今の三界の主となる、大聖・上人は形を賤みて法を捨てざりけり、今日蓮おろかなりとも野干と鬼とに劣るべからず、当世の人いみじくとも帝釈・雪山童子に勝るべからず、日蓮が身の賤きについて巧言を捨てて候故に国既に亡びんとする・かなしさよ、又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをも・たすけがたからん事こそ・なげかしくは覚え候へ。
  いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし見奉らん・山中にて共にうえ死にし候はん、又乙御前こそおとなしくなりて候らめ、いかにさかしく候らん、又又申すべし。

       八月四日                        日蓮花押

     乙御前へ

 

現代語訳

また涅槃経の疏に、「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」と述べている。日蓮の身は軽く賤しいから、人は打ちたたき憎んだとしても、法は重いから必ず弘まるであろう。法華経が弘まるならば日蓮の屍はかえって重くなるであろう。屍が重くなるならばこの屍は衆生を利益するであろう。利益があるなら今の八幡大菩薩が祭られているように祭られるであろう。その時は日蓮を供養した男女は、八幡大菩薩に仕えた武内宿儞や若宮などのように崇められるであろうと思いなさい。

そもそも、一人の盲目を開ける功徳でさえ言葉に表わせない。まして日本国の一切衆生の眼を開ける功徳にいたってはいうまでもないのである。さらに全世界の人々の見えない眼を開ける功徳はとうてい言いつくせない。法華経の第四の巻には、「仏の滅度の後に、能く仏法の義を解する者は、諸の天人、世間の眼である」等とある。仏の滅後によく法華経を持つ人は一切世間の天人の眼であると説かれている。日本国の人々の日蓮を迫害するのは一切世間の天人の眼をえぐりとる人である。それゆえ天も怒り、日々に天変が起こり、地神も怒り、月々に地夭が重なるのである。

帝釈天は野干を敬い仏法を習ったところ今の教主釈尊となられ、雪山童子は鬼を師としたところ今の三界の教主となった。古の大聖や上人は形を賤しんで法を捨てることはしなかった。今日蓮は愚かであっても野干や鬼には劣るはずがない。当世の人々が立派でも帝釈天や雪山童子に勝ることはない。日蓮の身分が下賎であるとして、その正しい主張を捨てて用いないゆえにすでに国が亡びようとしているのは、真に悲しいことである。また、日蓮を不便と思って仕えてくれた弟子達をも助けがたいことが嘆かわしい。どのような事でも起こったならば、この身延へおいでなさい。心からお迎えしましょう。山中でともに餓え死にしましょう。また乙御前はさぞかし成長されたことであろう。どんなにか聡明になられたことであろう。いずれまた申し上げましょう。

八月四日              日 蓮  花 押

乙 御 前 へ

 

語釈

身軽法重死身弘法

章安大師の涅槃経疏巻十二の文。「身は軽く法は重し。身を死して法を弘む」と読む。仏法弘通の精神を示した文。凡夫の身は軽く、弘むべき法は重いとの意。一身を賭して仏法を弘めるべきであるとの精神を教えた言葉。

 

八幡大菩薩

天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。

 

武内

武内宿禰のこと。古事記・日本書紀に見られる伝説上の人物。孝元天皇の曾孫。大和朝廷の初期、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五人の天皇に仕えたといわれる。神功皇后の新羅征伐、応神天皇の即位を助けたという。

 

若宮

①神社の本宮に祭った神の子を、その境内に祭る社。②本宮を勧請して祭った神社、新宮をいう。京都の石清水八幡宮を新たに祭った鎌倉の鶴岡八幡宮は若宮となる。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

四天下

鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超をいう。

 

天変

天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。

 

地夭

地上に起こる異変。

 

天の帝釈は……

未曾有因縁経巻上によると、「尸陀山に住む野干が師子王に追われて涸井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に、仏法に帰命して罪障消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈は諸天を率いて野干を敬って説法を請うた」といわれる。ただし、野干から仏法を学んだ帝釈が釈尊となった因縁説の本拠については明らかでない。

 

野干

射干とも書く。狐の別称。中国では、狐に似た正体不明の獣。翻訳名義集巻二に「悉伽羅。此に野干という。狐に似て而も小型なり。色は青黄にして狗の如し。群行して夜狼の如く鳴く」とある。野干・射干・悉伽羅等の語は梵語シュリガーラ(śgāla)の音写で、ジャッカルのこと。

 

教主釈尊

一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。

 

雪山童子

釈尊が過去世で修行していた時の名。雪山大士ともいう。涅槃経巻十四にある。

 

巧言

巧みに言い回した言葉。口先だけでうまく言うこと。

 

乙御前

生没年不詳。日蓮大聖人御在世当時の信徒。乙御前の母は日妙尼のことと思われるが、確証はない。日妙聖人御書には、「而れども一の幼子あり。あづくべき父もたのもしからず。離別すでに久し」(1217:14)とある。

 

講義

日蓮大聖人は、身は軽く法は重きゆえに、身を死して法を弘めてこられたのであるが、その「法」即法華経が流布したときには、大聖人の身も重みを増し、人を利益すると仰せである。

事実、真実の法を教え、人々の眼を開いた大聖人は、人々にとって大恩ある仏であり、日本国の人々は大聖人をあだむゆえに、天変地夭が重なり、国さえ亡びようとしているのである。

これは、法華経の行者として命を賭された大聖人こそ、末法の衆生を救う御本仏であることを述べられているのである。大聖人のかばねが未来の人々を利益し、逆に大聖人をあだむならば、罰があると仰せられているのは、ご自身が御本仏であるとの大確信にほかならないからである。

 

身軽法重死身弘法とのべて候ば、身は軽ければ人は打ちはり悪むとも、法は重ければ必ず弘まるべし

 

死身弘法の実践こそ、仏法流布の根本精神であることを述べられた御文である。

日蓮大聖人ご自身が、わが身命をなげうって仏法を弘め、この範を示されたのであった。ゆえに、大聖人の精神を継ぐというならば、同じく、死身弘法の実践に励まなければならないことは当然であろう。

なぜ、身を死しても法を弘めるべきか。それは、身は軽く法は重いゆえである。われわれは三毒強盛の凡夫の身である。法は三世十方のあらゆる仏の能生の根源たる久遠元初の南無妙法蓮華経である。およそ、比べものにならないほどに、法は重く身は軽い。したがって、この法を弘めるにあたっては身命を惜しんではならないのであり、たとい三障四魔、三類の強敵によって、凡夫の身は殺されるようなことがあっても、法はかならず弘まるのである。仏法の実践者の根本精神は、この法をどこまでも重んじ、法を弘めるところにあることを忘れてはならない。

 

法華経弘まるならば死かばね還って重くなるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし云云

 

「法華経弘まるならば死かばね還って重くなるべし」とは「法妙なるが故に人貴し」(1578:南条殿御返事:12)と同じ原理である。自身は、どこまでも法を重んじ、わが身をなげうつのであるが、法のゆえに、今度はかえって、わが身が重みを増すのである。

いうまでもなく、ここで重みといわれているのは尊貴さ、偉大さという意味である。

ここでは、一往「法華経弘まるならば」と実際に人々の間に広く流布することをいわれているが、大聖人の生命は、真に法華経の行者として貫かれたご一生であるゆえに、たとい、正法を信ずる人は数えるほどしかいなくとも、末法御本仏であることは間違いないし、その生命のもつ重みは無上である。また、たとい逆縁という形であっても多くの人が正法と結縁することができれば、それはすなわち「弘まる」ことと同義である、とも拝せよう。

なお、ここで「かばね」と仰せの元意は、肉体のかばねではなく、したがって御身骨等の意でないことは明らかである。これをさらに深く考えるならば、具体的には「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(1124:経王殿御返事:12)と仰せられているように、末法の衆生のために遺された大御本尊と拝せるであろう。

したがって「此のかばねは利生あるべし。利生あるならば今の八幡大菩薩といははるるやうにいはうべし」とは、願いとして叶わざるなしの御本尊を、あたかも日本の一切衆生が八幡大菩薩を信仰しているように、おまつり申し上げ、あらゆる人々が信仰する時がかならずくる、との広宣流布への大確信を述べられているのである。

「其の時は日蓮を供養せる男女は武内・若宮なんどのやうにあがめらるべし」とは、大聖人に供養し、大聖人の弘教を扶(たす)けた功によって、後世の人々から尊敬されるようになると仰せである。願わくは、広布の大業に邁進し、仏法のゆえの名を後世に留めるようでありたいものである。

 

抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし。況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや云云

 

この盲目とは、肉眼の欠陥をいうのではない。心の眼であり、智慧の眼を問題にして言われた言葉である。そして、その心眼、智慧の眼のなかでも、究極すれば汝自身の根源、開いていえば宇宙万法の真理を達観した仏法の智慧、すなわち「仏知見」「諸仏智慧」と法華経に説かれる智慧である。日蓮大聖人が全人類に教え、その盲目を開かんとされたのは、まさに、この仏法の真髄の智慧を示そうとされたのであった。

智慧の眼を開くのは、その人に、真の自立と自由を得させることでもある。盲目であっては、つねに杖等に頼らなければならないように、自立と自由が欠如することになる。なかんずく智慧の眼の盲目は、より本源的な不自由と依存を意味する。したがってより深く、根本的な智慧の眼を開くならば、より強く恒久的な自立と、広大な自由が得られるのである。そして、人間の尊厳とは、こうした自立と自由によって打ち立てられるのである。人に依存することしかできず、自由のない境涯においては、人間の尊厳も、生命の尊厳もありえないことを知らなければならない。

したがって、もっとも根源的な智慧の眼を開く仏法は、もっとも強く根本的な自由と自立を人間にもたらすものであり、ゆえに、もっとも究極的な人間の尊厳を実現しようとするのである。ゆえに、この仏法を持つ人は「一切世間の天人の眼」であり、この仏法を教える人は「一閻浮提四天下の人の眼をあける人」であり、この人をあだみ迫害することは、人間の尊厳に敵対し、人間の尊厳を踏みにじるのと同じになる。ゆえに、そうした行為に対しては、かならず「天もいかり…地もいかり」災いが報いとしてあるのである。

折伏弘教に励み、広布に邁進する人に対して、これを憎み迫害しようとするならば、この御文に照らし、また幾多の体験的事実に照らし合わせて、厳罰があることを知らなければならない。

 

天の帝釈は野干を敬いて法を習いしかば今の教主釈尊となり給い……日蓮が身の賤きについて巧言を捨てて候故に国既に亡びんとするかなしさよ

 

仏法を習うにあたっては、相手の身の賎しさ等、外形にとらわれてはならないことをいわれた御文である。

野干とは畜生である。鬼とは餓鬼である。その人の境涯がどんなに賎しくとも、仏法に通達しているならば、心から敬意をはらい、法を求め、教わっていくのが、仏法求道者のあるべき姿であることを教えられているのである。いわんや、貧富等の経済的条件や、位階等の社会的条件といった外面的な問題にこだわっていくとしたならば、もはや仏法者ではないといわなければならない。

大聖人に対し世間の人々は、大聖人が当時の仏教界において、なんの位もなく、権威ももっておられなかったことから、大聖人を卑しみ、その言葉がことごとく真実を言い当てたにもかかわらず、偏見と感情にとらわれて用いなかったために蒙古襲来という国難を招き、亡国の危機に陥ったのであった。

凡夫僧の身が、どんなに賤しいといっても野干や鬼に比べればはるかに尊い人間ではないか、それを卑しんでいる当世の人々は、貴い身分だといっても帝釈天や雪山童子に比べれば取るに足りないではないか、と当時の人人の愚かさを心から嘆いていらっしゃるのである。

いうまでもなく、これは当時の謗法にとらわれた権力者等のことをいわれたのであるが、原理は、仏法を学び実践する信仰者の世界においても、そのまま通ずる。われわれは、一人一人が、この精神を心肝に染め、純粋な求道の世界を守っていくことが大切であろう。

 

又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをもたすけがたからん事こそ、なげかしくは覚え候へ。いかなる事も出来候はば是へ御わたりあるべし、見奉らん。山中にて共にうえ死にし候はん

 

弟子檀那に対する慈愛あふれるお言葉である。日本国が大蒙古国の大軍に攻められ、滅ぼされるかも知れない事態にあって、弟子達を助けられないことを嘆いておられるのである。そして、もし、蒙古が攻めてきたなら身延の山中の大聖人のもとへ来なさい、と。もちろん、不自由な山中にあっては、大聖人お一人でさえ、食べていくのも、ままならない状態である。人が来たなら、食糧もたちまち底をつくのは目にみえている。しかし、必ず迎えて面倒をみてあげよう。そして、食べ物がなくなったときは一緒に餓え死にしようではないか、といわれているのである。

娘の乙御前の成長を尋ね、期待を寄せながらの、このように慈愛あふれるお手紙に、母親は、どんなにか喜びと勇気に包まれたことであろうと察せられる。

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