一谷入道御書

 去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気をこうぼりて伊豆国伊東郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。さりしかども、ほどもなく、同じき三年太歳癸亥二月に召し返されぬ。また文永八年太歳辛未九月十二日、重ねて御勘気を蒙りしが、たちまちに頸を刎ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司預かって、その内の者どもの沙汰として彼の島に行き付いてありしが、彼の島の者ども、因果の理をも弁えぬあらえびすなれば、あらくあたりしことは申すばかりなし。しかれども、一分も恨むる心なし。
 その故は、日本国の主として少しも道理を知りぬべき相模殿だにも、国をたすけんと云う者を、子細も聞きほどかず理不尽に死罪にあてがうことなれば、いおうや、そのすえの者どものことは、よきもたのまれず、あしきもにくからず。

 

現代語訳

  去る弘長元年五月十二日に御勘気をこうむって、伊豆の国・伊東の郷というところへ流罪された。そこは兵衛介頼朝が流されていたところである。しかし、ほどなく、同三年二月二十二日に赦され鎌倉に返された。

又文永八年九月十二日、再び御勘気をこうむり、すぐに頚をはねられるべきところを、何の事情があったのか、しばらく延びて、北国・佐渡の嶋を知行する武蔵前司・北条宣時に預けられ、その家来達の計らいとして、佐渡の国へ流された。

かの島の者達は、因果の理もわきまえぬ粗暴な人々であったので、日蓮に荒々しくしたことは、申すまでもない。しかしながら、少しも恨む心はない。

その故は日本国の主人として、少しは道理を知っているはずの執権・北条時宗殿でさえも、法華経をもって国を救おうとする者を、詳しく事情をよく聞きもせず、理不尽にも死罪に処するところであるから、ましてや、その下々の者達のことは、善い人でも頼りにできず、悪くされても憎くはないのである。

 

語釈

 

伊豆の国伊東……

現在の静岡県伊東市。大聖人は弘長元年(1261512日から同3年(1263222日までの約2年間、この地に流罪された。執権・北条長時が、念仏の強信者であった父の極楽寺入道重時の意を受けて、貞永式目第十二条の「悪口の咎の事」の条文・「闘殺の基、悪口より起る」を濫用して罪状を仕立て上げたものと思われる。妙法比丘尼御返事(1413:01)には「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」とある。

 

兵衛の介頼朝

源頼朝のこと。兵衛の介とは、律令制で左右兵衛府の次官。正しくは兵衛佐と書く。頼朝は13歳の時に右兵衛佐に補せられたのでこう呼ばれた。平治の乱(1159)に敗れた頼朝は、翌年伊豆に流され、治承4年(1180)に平氏追討の兵を挙げるまでこの地にあった。

 

武蔵の前司

武蔵国の前の国司のことで、ここでは北条宣時(12381323)をさす。宣時は文永4年(12676月に武蔵守に任じられ、同10年(1273)までその職にあった。その間、竜口の法難に際して、大聖人の身柄の保護監督にあたる「預り役」となっており、佐渡での大聖人の配所は宣時の知行地である。後に連署にまでに進んだ幕府内の実力者であったが、武蔵守当時、三度にわたって私製の御教書を発して大聖人の外護を禁ずるなど、佐渡在住中の大聖人を迫害しつづけた。

 

あらゑびす

荒々しい人、粗暴な田舎者の意で、都人(中央政権)が、辺地に住んでいるものをこう呼んだ。鎌倉時代には関東(鎌倉幕府)を指している場合が多い。

 

相模殿

相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。

 

講義

  本抄は、建治元年(127558日、身延において一谷入道女房に宛ててしたためられたお手紙である。本抄の題名が「一谷入道御書」とあるのは、一谷入道女房に与えられているものの、その夫・一谷入道への御指南が込められているため、後人が名づけたようである。御真蹟は断簡で十紙が現存し、上総(千葉県)の鷲山寺他三か所に散蔵されている。「一谷入道百姓女房御書」「沢入道殿女房御返事」とも別称する。

ここは、日蓮大聖人が妙法弘通の故に、こうむった二つの大難を回想風に述べられているところである。一つは、弘長元年(1261512日の伊豆の伊東への流罪であり、いま一つは、竜口の法難から佐渡流罪に及ぶ大難である。これらの二つの大難は、開目抄上に「既に二十余年が間、此の法門を申すに、日日月月年年に難かさなる。少少の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ」(0200:17)と仰せの、二度の王難であることはいうまでもない。つまり、ともに、ただ俗衆・道門増上慢によるものだけではない。僭聖増上慢、すなわち国家権力による難である点が共通している。更に、注意すべきは、弘長元年の大難が純然たる流罪であるのに対し、文永8年(1271)の大難は、結果的には流罪になったが、もともと死罪になるべき性質のものであったことである。

本文に「又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽に頚を刎らるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて……彼の嶋に行き付いてありしが……」と述べられているのも、元来、死罪であったのが、結果的に佐渡流罪になったことをほのめかされている。

「子細ありけるかの故」に、死罪がしばらく延びた、と簡潔に大聖人は語られているが、その〝子細〟とはおそらく、幕府側の事情をいわれているのであろう。報恩抄にも「相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん。其の夜はのびて依智というところへつきぬ」(0322:17)とあるところからも、幕府側に何らかの不都合事が生じたと考えられる。「種種御振舞御書」に「昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし・此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり」(0915:15)とある。しかし、幕府側の事情による死罪延期も、竜口の刑場で大聖人を斬れなかったという事実を前提としていわれているのであって、もし、竜口で処刑が執行されていたならば、延期も何もなかったところである。ここに重大な事実があったことは、「種種御振舞御書」をはじめ、諸御抄に明らかである。

竜口の刑場で〝光り物〟が現れて、その結果、事なきを得たという事実である。これは、御本仏・日蓮大聖人の御一念によって、宇宙森羅万法が、大聖人を守護すべく作動したのであった。

さて同時に、このとき、日蓮大聖人御自身が発迹顕本されたという、まぎれもない事実である。この発迹顕本については、開目抄で「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢぬらむ」(0223:16)と、仰せられているところからも明らかである。すなわち、末法の御本仏・日蓮大聖人が、いよいよ久遠元初自受用報身如来の再誕として、御本仏の本地を顕されたということである。しかし、一谷入道女房の機根を考慮されてか、そのことは触れられずに「子細ありけるかの故に」と幕府側の事情に事寄せて、簡潔にすまされているのである。

 

彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし。然れども一分も恨むる心なし

 

いかに、佐渡の住民が、物事の因果の道理に暗く、まして仏法に無知のゆえに、大聖人に辛く当ったかを述懐されている。本抄の後にも「文永九年の夏の比、佐渡の国石田の郷一谷と云いし処に有りしに、預りたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに……」(1328:17)とあるのと同じ意であろう。当時の佐渡の状況について、大聖人は諸御書に記されていて、まことに酷烈な扱いのもとに置かれたことを知ることができる。

例えば、富木入道殿御返事には「此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや」(0955:01

また、呵責謗法滅罪抄には「此の佐渡の国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(1132:01

このような状況であったが、大聖人は「一分も恨むる心なし」と、澄みきった境涯で過ごされたのである。

その理由として、日本国の主たる北条幕府が、大聖人を、理不尽にも死罪に処そうとしたことを挙げられている。主人たる幕府が、物事の因果の理を弁えないのであるから、その末に当たる佐渡の住民が理不尽に大聖人を憎悪し、冷酷に扱っても当たり前であると仰せられている。

すなわち、「一分も恨むる心なし」という御境涯は、その根底に、当時の社会や人間に対する高次元からの深い洞察によって支えられていたことを学ぶことができるのである。

ここに、日蓮大聖人が単に、精神論として、あるいは仏法者としての建て前から、「恨むる心なし」といわれているのではないことを知らねばならない。御本仏の高い立場と、深い仏法哲理に基づく智慧の上から、現実の日本国の姿を見おろされ、その上で「恨むる心なし」と達観されているのである。結局、仏法で得られる境涯とは、現実の社会、人間を洞察する智慧の深さと不可分の関係にあることを、この大聖人の述懐は教えているといえよう。

仏法の目的を畢竟するに、仏の智慧と慈悲を獲得することにつきる。智慧が豊かであるとは、大所高所から物事を悠々と見おろし、瑣末な現象にとらわれる小さな了見を超越しているということであろう。そして、その智慧の豊かさは、境涯の深さによりもたらされ、更には、人間の醜さと哀しさとをも大きく包容する慈悲の一念の強さとなって現れるのである。故に、この両者は不可分の関係にあり、真に智慧が豊かであることは同時に、民衆救済の慈悲の念が強いということであり、逆に慈悲深い人は、即智慧の豊かな人をいうのである。

御本仏・日蓮大聖人の「一分も恨むる心なし」との広大な御境涯の奥に、智慧の輝きという仏法の重要な教えを学び取っておきたいのである。

 

 

第二章(法華弘通の真意を述べる)

 本文

   此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思い儲けしなり、弘演と云いし者は主衛の懿公の肝を取りて我が腹を割いて納めて死にき、予譲と云いし者は主の知伯が恥をすすがんが・ために劒を呑んで死せしぞかし、是は但わづかの世間の恩を報ぜんが・ためぞかし。

  況や無量劫より已来六道に流転して仏にならざりし事は法華経の御ために身を惜み命を捨てざる故ぞかし、されば喜見菩薩と申せし菩薩は千二百歳の間・身を焼いて日月浄明徳仏を供養し、七万二千歳の間・臂を焼いて法華経を供養し奉る其の人は薬王菩薩ぞかし、不軽菩薩は法華経の御ために多劫の間・罵詈毀辱・杖木瓦石にせめられき、今の釈迦仏にあらずや、されば仏になる道は時により品品に替つて行ずべきにや、

 

現代語訳

  この法門を申し始めてから、命を法華経に差し上げ、名を十方世界の諸仏の住所である浄土に流そうと覚悟していた。

 弘演という者は、主君・衛国の懿公の肝を取って、自分の腹をさいて、その中に肝を入れて死んだ。予譲という者は、主君の智伯の恥をそそぐために、剣に伏して死んだのである。これらは、ただ少しばかりの世間の恩を報ずるためなのである。

 ましてや、無量劫からこのかた、六道に深く沈んで仏にならないことは、法華経の御ために身を惜しみ、命を捨てなかった故である。

 それゆえ、喜見菩薩は、千二百歳の間、わが身を焼いて日月浄明徳仏を供養し、七万二千歳の間、臂を焼いて法華経を供養申し上げた。その人は、今の薬王菩薩なのである。不軽菩薩は法華経の御ために、多劫の間、罵られたり、はずかしめられたり、杖木で打たれたり、瓦石を投げられたりして責め苦にあった。その人こそ、今の釈迦仏ではないか。

 それゆえ、仏になる道は、その時によってさまざまにかわって修行すべきなのであろう。

 

語釈

 

十方世界の諸仏の浄土

 十方は東西南北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維に上下の二方を加えたもの。十方ですべての空間を包含し、したがって、十方世界とは全宇宙を意味する。浄土は仏の住する清浄な国土。仏国土のことをいう。

 

弘演

 中国の春秋時代、衛の懿公に仕えた忠臣で公演とも書く。弘演が使者としての役目を終えて帰国したところ、衛は狄に攻め滅ぼされており、主君の懿公は殺され、その遺体の内臓が散乱しているのを見て、主の名誉を守るため自分の腹をさいて、懿公の臓物を収めて死んだという。内臓をさらけ出して死んでいるのは、恥とされていたのである。紀元前0660年頃の話。魏志・陳矯伝にある。

 

衛の懿公

 衛国は、中国・周王朝の初期(前1100年頃)に河南省地方に建国された、周諸侯国の一つ。懿公は、前六六八年に即位したが、当時、衛は周辺の強国の圧迫を受けて国勢はふるわず、また、懿公自身も淫楽奢侈にふけっていたので人心を失い、即位後九年にして狄に攻められた時に殺された。その際、臣下の弘演のとった行動は、忠臣の鑑として有名。

 

予譲

 中国・戦国時代、晉の智伯に仕えた忠臣。はじめ、范氏、中行氏の臣下であったが、用いられなかった。後、智伯に仕えて重用された。智伯が趙の襄子に滅ぼされると「士は己を知る者のために死す」といって主君の仇を討とうとしたが、果たさず捕えられた。襄子は予譲の忠節に感じて釈放した。その後、予譲は体に漆を塗って癩人の姿となり、炭を飲んで喉を潰すなどして姿を変え、橋の下に潜んで襄子を待ったが、再度捕えられてしまった。そこで、襄子の衣を請い受け、仇を報いたしるしに、この衣を刺した後、自殺したという。ここで「剣をのみて」とあるのは、自刃したことをいう。史記八十六・予譲伝にある。

 

智伯

 (~BC0353)。中国・春秋末期の晉の卿。智は氏で、諱は瑶。智氏は晋の名族で、代々智伯と称した。春秋末にいたって、晉王室の力は弱く、六卿の勢力が強大になった。智伯は韓・魏・趙の三氏と共に范・中行の両氏を討ち、その領地を併有して最も大きな勢力を得た。そして、更に晉王室の土地をも併合しようとしたが、かえって韓・魏・趙のために滅ぼされた。史記三十九・晋世家にある。

 

無量劫

 量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。

 

六道

 十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。

 

喜見菩薩

 一切衆生憙見菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれ、薬王菩薩の前身とされる。同品によると、日月浄明徳仏のもとで法華経を習い、仏と法華経の恩に報いるため、体に香油を塗って身を焼き、その火は千二百歳の間燃え続け、八十億恒河沙の世界を照らした。更に、日月浄明徳仏の滅後、八万四千の塔を造り、その前で七万二千歳の間臂を焼き、燈として供養したという。

 

日月浄明徳仏

 薬王菩薩本事品で説かれる仏。汚れなき月と太陽の光に照らされる徳ある者、の意。無量恒河沙劫という遥か昔にいたとされる仏。その寿命は四万二千劫とされる。薬王菩薩が過去世に一切衆生喜見菩薩として、菩薩幢を修行していた時の師である。

 

薬王菩薩

 衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では72000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。

 

不軽菩薩

 法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

 

罵詈毀辱

 ①毀罵、誹謗し謗ること。②毀辱、毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。

 

杖木瓦石

 不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(12641111日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271912日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。

 

講義

  ここは、冒頭で述べられた、伊東の流罪と佐渡流罪の二つの大難も、日蓮大聖人にとっては、あらかじめ覚悟の上であったことを述懐されているところである。

「此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思い儲けしなり」といわれているように、日蓮大聖人は立宗宣言されて、妙法弘通を開始されてからというもの、不惜身命の激闘を敢行されてきたのである。

 したがって、命を法華経に奉ろうとの覚悟に立たれた日蓮大聖人は、流罪・死罪に値うことを承知の上で、妙法弘通、民衆救済の活動に入られたのである。何故に、大聖人はそこまで不惜身命の固い決意に立たれたのであろうか。それは、二つの理由が本抄からうかがえるのである。一つは、報恩のためであり、いま一つは、自身の成仏のためである。報恩については、この章ではわずかに弘演と予譲という外道の人々の例を挙げられて、暗に、大聖人の不惜身命の決意が、報恩思想にあることを示されている。ここでは、直接にはいわれていないが、後に国恩、仏恩を報ずるために不惜身命の激闘に入られたことをはっきり述べられている。

 いま一つは、無量劫より六道輪廻して仏になりえなかった理由を、法華経に身を惜しみ命を捨てなかった点に求められ、そこから、仏になるために、法華経に命を捨てるという不惜身命の決意に立たれたことを述べられている。ここでは、後者が主として説かれている。もっとも、以上の二つの理由は、ともに対告衆の一谷入道女房の機根をかんがえられたうえで、示同凡夫の立場から、述べられていることはいうまでもない。

 

仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきや

 

 これは、成仏のための道、言い換えれば、仏道修行のあり方が、時により種々に変化していくものであり、固定的、形式的なものではないことを明かされている。

 佐渡御書にも「仏法は摂受・折伏時によるべし。譬えば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は、時によりて法を行ず」(0957:02)と仰せの通りである。

 確かに仏法の説く〝法〟は不変であり、時代、社会の変遷を超越している。いわば、法は超歴史的であり、その意味で、いかなる時代、社会にあっても、変わらない真理性と普遍性とを内包している。だが、真理としての法自身は、その時代、社会の民衆を実際に救い得て初めて、その価値を生ずるのである。事実の上で、この民衆を救済するという観点に立ったとき、そこに、法体を修行し、弘通するうえでの方法論や化儀における融通性や柔軟性が要求されてくるのは必然の道理である。なぜなら、時代、社会は結局、人間により形成され、人間が築き上げていくものだからである。

 人間それ自身、生命それ自体の真理は万古不易であっても、人間の営む生活、風俗、習慣、文明の進歩度等は可変であり、事実、変化していくことは、これまでの歴史をみても疑問をはさむ余地は全くない。

 ここに、不変で超歴史的な〝法〟をいかにして、変化しつづける歴史、社会に展開するかという重大問題が生ずるのである。日蓮大聖人は、こうした問題を問い直されたのである。すなわち、仏法の目的を、現実の民衆救済、一切衆生の成仏という唯一無二の一大事に置かれているのであり、ここに、大聖人の仏法を事の仏法と名づける理由もある。

 本抄においても、仏になる道として、喜見菩薩や薬王菩薩、不軽菩薩の先例を挙げられ、さまざまに変わって修行すべきであると説きすすめられ、日蓮大聖人が、末法の日本国という時代、社会にかなった成仏の道として、いかなる方途を歩まれたかを次第に明かされていくのである。

 

 

第三章(諸宗弘通の誤りを説く)

本文

今の世には法華経は・さる事にて・おはすれども時によりて事ことなるなれば・山林に交わりて読誦すとも将又・里に住して演説すとも・持戒にして行ずとも臂を焼いて供養すとも仏には・なるべからず、日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり・人是を知らず、譬えば虫の火に入り鳥の蛇の口に入るが如し真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗等の人人は我も法を得たり我も生死を離れたる人とは思へども・立始めし本師等・依経の心をも弁えず、但我が心の思い付いて有りしままに其の経を取り立てんと思へる墓無き心計りにて・法華経に背けば又仏意にも叶わざる事をば知らずして弘め行く程に・国主・万民是を信じぬ又他国へ渡り又年久しく成りぬ、末学の者共・本師の誤をば知らずして弘め習ひし人人をも智者とは思へり、源濁りぬれば流浄からず身曲りぬれば影直からず、真言の元祖・善無畏等は既に地獄に堕ちぬべかりしが・或は改悔して地獄を免れたる者もあり、或は唯依経を弘めて法華経の讃歎をも・せざれば・生死は離れねども悪道に堕ちざる人もあり、而るを末末の者・此の事を知らずして諸人一同に信をなしぬ、譬えば破たる船に乗つて大海に浮び酒に酔る者の火の中に臥せるが如し。

 

現代語訳

今の時代には、法華経が最高であることは当然であるが、修行のあり方が時によって異なるものであるから、山林に入って読誦しても、あるいはまた、人里に住んで演説しても、戒を持って修行しても、臂を焼いて供養しても、仏になることはできない。

日本国は仏法が盛んなようであるが、仏法について不思議なことがある。人はこれを知らずにいる。譬えば、虫が飛んで火に入り、鳥が蛇の口に入るようなものである。

真言師、華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗などの人々は、我も法を悟ることができた、我も生死の苦しみから度脱したとは思っている。だが、その宗を立てた本師達は、依経の意を知らず、ただ、自分の心の思いついたままに、その経をとりたてようと思う浅はかな心ばかりで、法華経に背いているので、また、仏の本意にも叶わないのである。それも知らずに、自宗を弘めていくうちに、国主も万民も、これを信ずるようになったのである。また、他国へ渡り、また年月も久しくなった。末々の学者達は、こうした本師の誤りを知らずに、師のように弘め、修行する人々を智者であると思っている。

源が濁っていれば、その流れは清くはない。身体が曲がればその影も真っすぐではない。

真言の元祖・善無畏達は、すでに地獄に堕ちるべきところであったが、あるいは改悔して、地獄をまぬかれた者もおり、あるいは、ただ依経だけを弘めて、法華経を讃嘆もそしりもしなかったので、生死の苦は離れられないが、悪道に堕ちなかった者もあった。

ところが末々の者は、こうしたことを知らないで、多数の人々が一同にその教えを信じている。譬えば、破損した船に乗って大海に浮かび、酒に酔った者が火の中で寝ているようなものである。

 

語釈

持戒

「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。

 

真言師

真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。

 

華厳宗

華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。

 

法相

法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。

 

三論

三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。

 

禅宗

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

浄土宗

阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。

 

律宗

戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。

 

本師

①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。

 

依経

各宗派がよりどころとする経のこと。一代聖教大意には「華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師.華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗.律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時は いかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し」(0397:05)とある。

 

善無畏

06370735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。

 

すでに地獄に堕ちぬべかりしが……地獄を脱れたる

密教僧の善無畏が地獄に堕ちた時、釈尊を讃嘆する法華経の一節を唱えて地獄を脱することができたという。善無畏抄(1233)に説かれる。「此の如くいみじき人なれども、一時に頓死して有りき。蘇生りて語って云く、我死つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け、鉄の杖を以て散散にさいなみ、閻魔宮に到りにき。八万聖教一字一句も覚えず、唯法華経の題名許り忘れざりき。題名を思いしに鉄の繩少し許ぬ。息続いで高声に唱えて云く「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子、而今此処多諸患難、唯我一人能為救護」等云云。七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す。閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき。今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給いき」

 

悪道

三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。

 

講義

 ここは、前章の「されば仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきにや」の一節を受けて、〝今の世〟、末法という時代と日本国という条件下では、いかなる道が成仏の道であるかを知らなければならないことを指摘され、日蓮大聖人が発見された、仏法についての不思議を説かれている。

 

日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり。人是を知らず

 

日蓮大聖人当時の日本国は、八宗・十宗と多くの宗派が乱立し、一見すれば、仏法が盛んであるようではあるけれども、そこに人々の知らない一つの不思議が存在しているといわれている。その不思議さこそ、大聖人が一切経を読破して発見された重大な事実なのである。それは、結論からいえば、ほとんどの宗派が、釈尊出世の本懐たる法華経に背くことによって、仏法を説いた師たる釈尊に敵対しているという、厳然たる事実であった。すなわち、仏法のなかにも釈尊の出世の本懐たる法華経即正法と、この法華経に背き、釈尊に師敵対する邪法との二つがあるということである。

この正法(法華経)と謗法の諸宗との関係について、少々考えておきたい。大聖人は、謗法、邪法の存在を発見されたことを明かされるときに、たびたび「不思議」という言葉を使われている。

例えば、弘安元年(1278)の「妙法比丘尼御返事」にも「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に・一の不思議あり、我れ等が・はかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし、いづれもいづれも・心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入って……」(1407:15)とあるのをみても明らかであろう。

つまり、仏法のなかに正法と謗法とがあるとの発見は、元来、大聖人の悟達を根底に築かれたものである。宇宙と生命を貫く唯一無二の真理をもって、一切経及び諸宗の教義を検討された結果、そこに、この真理に叶った法華経を依経とする正法と、この真理に背く謗法とが存在することを発見されたのである。

もとより、その発見は経文をはじめ、天台、伝教等の正師の釈文によって客観的に証明されている。しかし、何よりもまず、日蓮大聖人の悟達があって、その後に、この悟りを文底に秘していた法華経が一切経の中から選び出され、法華経に背く教えは、この悟りに叶わない邪教としてしりぞけられたのである。釈尊、天台、伝教等の経ないし釈文は、大聖人の不思議の教判の正しさを示す文証なのである。大聖人の悟りと一切経の読破との間に横たわる関係は、このように考えられるであろう。

 

源にごりぬればながれきよからず、身まがればかげなをからず

 

大聖人は、八宗・十宗を検討されるにあたって、その最も根本から問い直されたことを明かされているのである。すなわち、各宗派がよって立つところの元祖の説を源とし、身体にあてはめてとらえられ、それを破折されることにより、各宗派の謗法を明らかにされているのである。元祖がすでに依経の心をわきまえないのであるから、末流の学者が謗法に陥るのは当然である。

生死を離れ、成仏することを目的に、仏法を修行しても、時期に適さない経典をよりどころにしたならば、「虫の火に入り鳥の蛇の口に入る」ような自滅に陥ることもあり、日本のほとんどの宗派の元祖が、その類いであるとの断言となってくるのである。

なぜなら、宗教、ひいては広く人間の思想というものは、何を根本として立てているかが肝要であるからである。

日蓮大聖人が、八宗・十宗の教義を検討されたとき、おそらく、いかに外見は深遠そうで、傾倒するに値する姿をしていても、その骨格をなす元祖の理論構造は至極単純なものであることを見抜かれたにちがいない。そして、長い歴史を有する各宗派の途中の人師や論師の説に惑わされずに、直ちに元祖とそのよって立つ経典を検討されたのである。

この方法は、まさに御本仏日蓮大聖人の、人間理性及び思想に対する洞察から生まれたものであるというべきである。

 

 

第四章(法華誹謗の重罪を教える)

本文

日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此の事を申し始めしなり、世間の人人何に申すとも信ずる事はあるべからず、還つて流罪・死罪せらるべしとは兼て知つてありしかども・今の日本国は法華経に背き釈迦仏を捨つる故に後生は必ず無間大城に堕ちん事はさてをきぬ・今生にも必ず大難に値うべし、所謂他国より責め来つて上一人より下万民に至るまで一同の歎きあるべし、譬えば千人の兄弟が一人の親を殺したらんに此の罪を千に分ては受くべからず、一一に皆無間大城に堕ちて同じく一劫を経べし、此の国も又又是くの如し、娑婆世界は五百塵点劫より已来・教主釈尊の御所領なり、大地・虚空・山海・草木・一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、譬えば成劫の始め一人の梵王下つて六道の衆生をば生て候ぞかし、梵王の一切衆生の親たるが如く・釈迦仏も又一切衆生の親なり、又此の国の一切衆生のためには 教主釈尊は明師にて・おはするぞかし、父母を知るも師の恩なり黒白を弁うも釈尊の恩なり、

 

現代語訳

日蓮は、このありさまを見たゆえに、たちまちに菩提心をおこして、この法門を申し始めたのである。

しかし、世間の人々は、どのようにいっても日蓮の法門を信ずることはないであろう。かえって死罪、流罪となるであろうとは、かねて承知していた。今の日本国は、法華経に背き、釈迦仏を捨てたゆえに、後生には阿鼻地獄に堕ちることはいうまでもないこととして、今生にも必ず大難にあうであろう。

つまり、他国から攻めて来て、上一人から下万民にいたるまで、一同に嘆くことが起こるであろう。

譬えば、千人の兄弟が一人の親を殺した場合、この罪を千人に分けて受けるということではない。一人一人皆、無間地獄に堕ちて同じように一劫の間苦しむであろう。この日本国も、またこれと同じようなものである。

娑婆世界は、五百塵点劫以来、教主釈尊の御所領である。大地・虚空・山海・草木も、ごくわずかでも、他の仏のものではない。また一切衆生は、みな釈尊の御子である。譬えば、成劫の始め、一人の大梵天王が天から下ってきて、六道の衆生を生んだという。ゆえに大梵天王が一切衆生の親であるように、釈迦仏も、また一切衆生の親である。

またこの国の一切衆生のためには、教主釈尊は、明師でいらっしゃる。父母を知ることができるのも師の恩のおかげである。物の黒白を弁えるのも、釈尊の恩のおかげである。

 

語釈

菩提心

悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある

 

後生

三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。

 

阿鼻大城

無間地獄のこと。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で無間と訳す。この地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて、凡力では脱出できない堅固な所であるところから、城にたとえて「大城」といった。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。

 

今生

今世の人生のこと。先生、後生に対する語。

 

無間大城

無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。

 

一劫

一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。

 

娑婆世界

娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。

 

五百塵点劫

法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。

 

成劫

四劫の一つ。一世界の成立する期間。倶舎論巻十二では空間に器世間が成立し、そこに有情が誕生して有情世間を形成していく期間を成劫といい、その時間的長さは二十劫であるとしている。

 

梵王

大梵天王のこと。梵はブラフマン(Brahman)の音写で、バラモン教では万物の生因たる根本原理の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では、娑婆世界を支配する善神で、仏が出世して法を説く時には、帝釈天とともに常に仏の左右にあって、仏法を守護するとしている。

 

講義

ここは、仏法の正邪をわきまえることが、いかに大事か、邪法の邪法たるゆえんはどこにあるかを示されているところである。

 

娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり

 

すぐ後の章で展開される阿弥陀仏批判、すなわち浄土宗批判にとって、不可欠の前提をなす文である。

一往、文上の法華経により、この娑婆世界は一切教主釈尊の所有であり、釈尊こそ主・師・親の三徳を具備した仏であることを述べられている。

法華経の譬喩品第三には、有名な「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とあり、教主釈尊が娑婆世界の一切衆生の主師親の三徳を具備していることを明かしている。

さらに寿量品第十六では「娑婆世界説法教化」と、本国土妙を明かすことにより、遠く五百塵点劫已来、釈尊が娑婆世界の一切衆生を教化しつづけてきたことを明かしている。

再往、文底観心の立場から論ずるならば、主師親の三徳具備の教主釈尊は久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人のことであり、此の娑婆世界は、根源の一法である南無妙法蓮華経に貫かれ、かつその法則にのっとって、生滅変化を繰り返している常寂光土であるということである。

 

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