一谷入道御書
建治元年(ʼ75)5月8日 54歳 一谷入道の妻
第一章(二度の受難を回想する)
本文
去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気をこうぼりて伊豆国伊東郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。さりしかども、ほどもなく、同じき三年太歳癸亥二月に召し返されぬ。また文永八年太歳辛未九月十二日、重ねて御勘気を蒙りしが、たちまちに頸を刎ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司預かって、その内の者どもの沙汰として彼の島に行き付いてありしが、彼の島の者ども、因果の理をも弁えぬあらえびすなれば、あらくあたりしことは申すばかりなし。しかれども、一分も恨むる心なし。
その故は、日本国の主として少しも道理を知りぬべき相模殿だにも、国をたすけんと云う者を、子細も聞きほどかず理不尽に死罪にあてがうことなれば、いおうや、そのすえの者どものことは、よきもたのまれず、あしきもにくからず。
現代語訳
去る弘長元年五月十二日に御勘気をこうむって、伊豆の国・伊東の郷というところへ流罪された。そこは兵衛介頼朝が流されていたところである。しかし、ほどなく、同三年二月二十二日に赦され鎌倉に返された。
又文永八年九月十二日、再び御勘気をこうむり、すぐに頚をはねられるべきところを、何の事情があったのか、しばらく延びて、北国・佐渡の嶋を知行する武蔵前司・北条宣時に預けられ、その家来達の計らいとして、佐渡の国へ流された。
かの島の者達は、因果の理もわきまえぬ粗暴な人々であったので、日蓮に荒々しくしたことは、申すまでもない。しかしながら、少しも恨む心はない。
その故は日本国の主人として、少しは道理を知っているはずの執権・北条時宗殿でさえも、法華経をもって国を救おうとする者を、詳しく事情をよく聞きもせず、理不尽にも死罪に処するところであるから、ましてや、その下々の者達のことは、善い人でも頼りにできず、悪くされても憎くはないのである。
語釈
伊豆の国伊東……
現在の静岡県伊東市。大聖人は弘長元年(1261)5月12日から同3年(1263)2月22日までの約2年間、この地に流罪された。執権・北条長時が、念仏の強信者であった父の極楽寺入道重時の意を受けて、貞永式目第十二条の「悪口の咎の事」の条文・「闘殺の基、悪口より起る」を濫用して罪状を仕立て上げたものと思われる。妙法比丘尼御返事(1413:01)には「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」とある。
兵衛の介頼朝
源頼朝のこと。兵衛の介とは、律令制で左右兵衛府の次官。正しくは兵衛佐と書く。頼朝は13歳の時に右兵衛佐に補せられたのでこう呼ばれた。平治の乱(1159)に敗れた頼朝は、翌年伊豆に流され、治承4年(1180)に平氏追討の兵を挙げるまでこの地にあった。
武蔵の前司
武蔵国の前の国司のことで、ここでは北条宣時(1238~1323)をさす。宣時は文永4年(1267)6月に武蔵守に任じられ、同10年(1273)までその職にあった。その間、竜口の法難に際して、大聖人の身柄の保護監督にあたる「預り役」となっており、佐渡での大聖人の配所は宣時の知行地である。後に連署にまでに進んだ幕府内の実力者であったが、武蔵守当時、三度にわたって私製の御教書を発して大聖人の外護を禁ずるなど、佐渡在住中の大聖人を迫害しつづけた。
あらゑびす
荒々しい人、粗暴な田舎者の意で、都人(中央政権)が、辺地に住んでいるものをこう呼んだ。鎌倉時代には関東(鎌倉幕府)を指している場合が多い。
相模殿
相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。
講義
本抄は、建治元年(1275)5月8日、身延において一谷入道女房に宛ててしたためられたお手紙である。本抄の題名が「一谷入道御書」とあるのは、一谷入道女房に与えられているものの、その夫・一谷入道への御指南が込められているため、後人が名づけたようである。御真蹟は断簡で十紙が現存し、上総(千葉県)の鷲山寺他三か所に散蔵されている。「一谷入道百姓女房御書」「沢入道殿女房御返事」とも別称する。
ここは、日蓮大聖人が妙法弘通の故に、こうむった二つの大難を回想風に述べられているところである。一つは、弘長元年(1261)5月12日の伊豆の伊東への流罪であり、いま一つは、竜口の法難から佐渡流罪に及ぶ大難である。これらの二つの大難は、開目抄上に「既に二十余年が間、此の法門を申すに、日日月月年年に難かさなる。少少の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ」(0200:17)と仰せの、二度の王難であることはいうまでもない。つまり、ともに、ただ俗衆・道門増上慢によるものだけではない。僭聖増上慢、すなわち国家権力による難である点が共通している。更に、注意すべきは、弘長元年の大難が純然たる流罪であるのに対し、文永8年(1271)の大難は、結果的には流罪になったが、もともと死罪になるべき性質のものであったことである。
本文に「又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽に頚を刎らるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて……彼の嶋に行き付いてありしが……」と述べられているのも、元来、死罪であったのが、結果的に佐渡流罪になったことをほのめかされている。
「子細ありけるかの故」に、死罪がしばらく延びた、と簡潔に大聖人は語られているが、その〝子細〟とはおそらく、幕府側の事情をいわれているのであろう。報恩抄にも「相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん。其の夜はのびて依智というところへつきぬ」(0322:17)とあるところからも、幕府側に何らかの不都合事が生じたと考えられる。「種種御振舞御書」に「昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし・此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり」(0915:15)とある。しかし、幕府側の事情による死罪延期も、竜口の刑場で大聖人を斬れなかったという事実を前提としていわれているのであって、もし、竜口で処刑が執行されていたならば、延期も何もなかったところである。ここに重大な事実があったことは、「種種御振舞御書」をはじめ、諸御抄に明らかである。
竜口の刑場で〝光り物〟が現れて、その結果、事なきを得たという事実である。これは、御本仏・日蓮大聖人の御一念によって、宇宙森羅万法が、大聖人を守護すべく作動したのであった。
さて同時に、このとき、日蓮大聖人御自身が発迹顕本されたという、まぎれもない事実である。この発迹顕本については、開目抄で「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢぬらむ」(0223:16)と、仰せられているところからも明らかである。すなわち、末法の御本仏・日蓮大聖人が、いよいよ久遠元初自受用報身如来の再誕として、御本仏の本地を顕されたということである。しかし、一谷入道女房の機根を考慮されてか、そのことは触れられずに「子細ありけるかの故に」と幕府側の事情に事寄せて、簡潔にすまされているのである。
彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし。然れども一分も恨むる心なし
いかに、佐渡の住民が、物事の因果の道理に暗く、まして仏法に無知のゆえに、大聖人に辛く当ったかを述懐されている。本抄の後にも「文永九年の夏の比、佐渡の国石田の郷一谷と云いし処に有りしに、預りたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに……」(1328:17)とあるのと同じ意であろう。当時の佐渡の状況について、大聖人は諸御書に記されていて、まことに酷烈な扱いのもとに置かれたことを知ることができる。
例えば、富木入道殿御返事には「此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるをや」(0955:01)
また、呵責謗法滅罪抄には「此の佐渡の国は畜生の如くなり。又法然が弟子充満せり。鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(1132:01)
このような状況であったが、大聖人は「一分も恨むる心なし」と、澄みきった境涯で過ごされたのである。
その理由として、日本国の主たる北条幕府が、大聖人を、理不尽にも死罪に処そうとしたことを挙げられている。主人たる幕府が、物事の因果の理を弁えないのであるから、その末に当たる佐渡の住民が理不尽に大聖人を憎悪し、冷酷に扱っても当たり前であると仰せられている。
すなわち、「一分も恨むる心なし」という御境涯は、その根底に、当時の社会や人間に対する高次元からの深い洞察によって支えられていたことを学ぶことができるのである。
ここに、日蓮大聖人が単に、精神論として、あるいは仏法者としての建て前から、「恨むる心なし」といわれているのではないことを知らねばならない。御本仏の高い立場と、深い仏法哲理に基づく智慧の上から、現実の日本国の姿を見おろされ、その上で「恨むる心なし」と達観されているのである。結局、仏法で得られる境涯とは、現実の社会、人間を洞察する智慧の深さと不可分の関係にあることを、この大聖人の述懐は教えているといえよう。
仏法の目的を畢竟するに、仏の智慧と慈悲を獲得することにつきる。智慧が豊かであるとは、大所高所から物事を悠々と見おろし、瑣末な現象にとらわれる小さな了見を超越しているということであろう。そして、その智慧の豊かさは、境涯の深さによりもたらされ、更には、人間の醜さと哀しさとをも大きく包容する慈悲の一念の強さとなって現れるのである。故に、この両者は不可分の関係にあり、真に智慧が豊かであることは同時に、民衆救済の慈悲の念が強いということであり、逆に慈悲深い人は、即智慧の豊かな人をいうのである。
御本仏・日蓮大聖人の「一分も恨むる心なし」との広大な御境涯の奥に、智慧の輝きという仏法の重要な教えを学び取っておきたいのである。
第二章(法華弘通の真意を述べる)
本文
此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思い儲けしなり、弘演と云いし者は主衛の懿公の肝を取りて我が腹を割いて納めて死にき、予譲と云いし者は主の知伯が恥をすすがんが・ために劒を呑んで死せしぞかし、是は但わづかの世間の恩を報ぜんが・ためぞかし。
況や無量劫より已来六道に流転して仏にならざりし事は法華経の御ために身を惜み命を捨てざる故ぞかし、されば喜見菩薩と申せし菩薩は千二百歳の間・身を焼いて日月浄明徳仏を供養し、七万二千歳の間・臂を焼いて法華経を供養し奉る其の人は薬王菩薩ぞかし、不軽菩薩は法華経の御ために多劫の間・罵詈毀辱・杖木瓦石にせめられき、今の釈迦仏にあらずや、されば仏になる道は時により品品に替つて行ずべきにや、
現代語訳
この法門を申し始めてから、命を法華経に差し上げ、名を十方世界の諸仏の住所である浄土に流そうと覚悟していた。
弘演という者は、主君・衛国の懿公の肝を取って、自分の腹をさいて、その中に肝を入れて死んだ。予譲という者は、主君の智伯の恥をそそぐために、剣に伏して死んだのである。これらは、ただ少しばかりの世間の恩を報ずるためなのである。
ましてや、無量劫からこのかた、六道に深く沈んで仏にならないことは、法華経の御ために身を惜しみ、命を捨てなかった故である。
それゆえ、喜見菩薩は、千二百歳の間、わが身を焼いて日月浄明徳仏を供養し、七万二千歳の間、臂を焼いて法華経を供養申し上げた。その人は、今の薬王菩薩なのである。不軽菩薩は法華経の御ために、多劫の間、罵られたり、はずかしめられたり、杖木で打たれたり、瓦石を投げられたりして責め苦にあった。その人こそ、今の釈迦仏ではないか。
それゆえ、仏になる道は、その時によってさまざまにかわって修行すべきなのであろう。
語釈
十方世界の諸仏の浄土
十方は東西南北の四方と、東南・東北・西南・西北の四維に上下の二方を加えたもの。十方ですべての空間を包含し、したがって、十方世界とは全宇宙を意味する。浄土は仏の住する清浄な国土。仏国土のことをいう。
弘演
中国の春秋時代、衛の懿公に仕えた忠臣で公演とも書く。弘演が使者としての役目を終えて帰国したところ、衛は狄に攻め滅ぼされており、主君の懿公は殺され、その遺体の内臓が散乱しているのを見て、主の名誉を守るため自分の腹をさいて、懿公の臓物を収めて死んだという。内臓をさらけ出して死んでいるのは、恥とされていたのである。紀元前0660年頃の話。魏志・陳矯伝にある。
衛の懿公
衛国は、中国・周王朝の初期(前1100年頃)に河南省地方に建国された、周諸侯国の一つ。懿公は、前六六八年に即位したが、当時、衛は周辺の強国の圧迫を受けて国勢はふるわず、また、懿公自身も淫楽奢侈にふけっていたので人心を失い、即位後九年にして狄に攻められた時に殺された。その際、臣下の弘演のとった行動は、忠臣の鑑として有名。
予譲
中国・戦国時代、晉の智伯に仕えた忠臣。はじめ、范氏、中行氏の臣下であったが、用いられなかった。後、智伯に仕えて重用された。智伯が趙の襄子に滅ぼされると「士は己を知る者のために死す」といって主君の仇を討とうとしたが、果たさず捕えられた。襄子は予譲の忠節に感じて釈放した。その後、予譲は体に漆を塗って癩人の姿となり、炭を飲んで喉を潰すなどして姿を変え、橋の下に潜んで襄子を待ったが、再度捕えられてしまった。そこで、襄子の衣を請い受け、仇を報いたしるしに、この衣を刺した後、自殺したという。ここで「剣をのみて」とあるのは、自刃したことをいう。史記八十六・予譲伝にある。
智伯
(~BC0353)。中国・春秋末期の晉の卿。智は氏で、諱は瑶。智氏は晋の名族で、代々智伯と称した。春秋末にいたって、晉王室の力は弱く、六卿の勢力が強大になった。智伯は韓・魏・趙の三氏と共に范・中行の両氏を討ち、その領地を併有して最も大きな勢力を得た。そして、更に晉王室の土地をも併合しようとしたが、かえって韓・魏・趙のために滅ぼされた。史記三十九・晋世家にある。
無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
六道
十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道という。
喜見菩薩
一切衆生憙見菩薩のこと。法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれ、薬王菩薩の前身とされる。同品によると、日月浄明徳仏のもとで法華経を習い、仏と法華経の恩に報いるため、体に香油を塗って身を焼き、その火は千二百歳の間燃え続け、八十億恒河沙の世界を照らした。更に、日月浄明徳仏の滅後、八万四千の塔を造り、その前で七万二千歳の間臂を焼き、燈として供養したという。
日月浄明徳仏
薬王菩薩本事品で説かれる仏。汚れなき月と太陽の光に照らされる徳ある者、の意。無量恒河沙劫という遥か昔にいたとされる仏。その寿命は四万二千劫とされる。薬王菩薩が過去世に一切衆生喜見菩薩として、菩薩幢を修行していた時の師である。
薬王菩薩
衆生に良薬を施して心身の病を治す菩薩。法華経では法師品第10などの対告衆。勧持品第13では、釈尊が亡くなった後の法華経の弘通を誓っている。薬王菩薩本事品第23には、過去世に一切衆生憙見菩薩として日月浄明徳仏のもとで修行し、ある世では身を焼き、また次の世では7万2000歳の間、腕を焼いて燈明として仏に供養したことが説かれている(ちなみに経文には「臂」〈法華経591,592㌻〉を焼いたと記されているが、漢語の「臂」は日本語でいう腕にあたる)。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
罵詈毀辱
①毀罵、誹謗し謗ること。②毀辱、毀謗と侮辱のこと。そしり、はずかしめること。
杖木瓦石
不軽品の文。勧持品の文。末法の法華経の行者の遭難を示す文。①文永元年(1264)11月11日・東条景信による小松原法難。②文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉のが一の郎従・少輔房による法華経の第五の巻をもっての殴打がある。
講義
ここは、冒頭で述べられた、伊東の流罪と佐渡流罪の二つの大難も、日蓮大聖人にとっては、あらかじめ覚悟の上であったことを述懐されているところである。
「此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思い儲けしなり」といわれているように、日蓮大聖人は立宗宣言されて、妙法弘通を開始されてからというもの、不惜身命の激闘を敢行されてきたのである。
したがって、命を法華経に奉ろうとの覚悟に立たれた日蓮大聖人は、流罪・死罪に値うことを承知の上で、妙法弘通、民衆救済の活動に入られたのである。何故に、大聖人はそこまで不惜身命の固い決意に立たれたのであろうか。それは、二つの理由が本抄からうかがえるのである。一つは、報恩のためであり、いま一つは、自身の成仏のためである。報恩については、この章ではわずかに弘演と予譲という外道の人々の例を挙げられて、暗に、大聖人の不惜身命の決意が、報恩思想にあることを示されている。ここでは、直接にはいわれていないが、後に国恩、仏恩を報ずるために不惜身命の激闘に入られたことをはっきり述べられている。
いま一つは、無量劫より六道輪廻して仏になりえなかった理由を、法華経に身を惜しみ命を捨てなかった点に求められ、そこから、仏になるために、法華経に命を捨てるという不惜身命の決意に立たれたことを述べられている。ここでは、後者が主として説かれている。もっとも、以上の二つの理由は、ともに対告衆の一谷入道女房の機根をかんがえられたうえで、示同凡夫の立場から、述べられていることはいうまでもない。
仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきや
これは、成仏のための道、言い換えれば、仏道修行のあり方が、時により種々に変化していくものであり、固定的、形式的なものではないことを明かされている。
佐渡御書にも「仏法は摂受・折伏時によるべし。譬えば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は、時によりて法を行ず」(0957:02)と仰せの通りである。
確かに仏法の説く〝法〟は不変であり、時代、社会の変遷を超越している。いわば、法は超歴史的であり、その意味で、いかなる時代、社会にあっても、変わらない真理性と普遍性とを内包している。だが、真理としての法自身は、その時代、社会の民衆を実際に救い得て初めて、その価値を生ずるのである。事実の上で、この民衆を救済するという観点に立ったとき、そこに、法体を修行し、弘通するうえでの方法論や化儀における融通性や柔軟性が要求されてくるのは必然の道理である。なぜなら、時代、社会は結局、人間により形成され、人間が築き上げていくものだからである。
人間それ自身、生命それ自体の真理は万古不易であっても、人間の営む生活、風俗、習慣、文明の進歩度等は可変であり、事実、変化していくことは、これまでの歴史をみても疑問をはさむ余地は全くない。
ここに、不変で超歴史的な〝法〟をいかにして、変化しつづける歴史、社会に展開するかという重大問題が生ずるのである。日蓮大聖人は、こうした問題を問い直されたのである。すなわち、仏法の目的を、現実の民衆救済、一切衆生の成仏という唯一無二の一大事に置かれているのであり、ここに、大聖人の仏法を事の仏法と名づける理由もある。
本抄においても、仏になる道として、喜見菩薩や薬王菩薩、不軽菩薩の先例を挙げられ、さまざまに変わって修行すべきであると説きすすめられ、日蓮大聖人が、末法の日本国という時代、社会にかなった成仏の道として、いかなる方途を歩まれたかを次第に明かされていくのである。
第三章(諸宗弘通の誤りを説く)
本文
今の世には法華経は・さる事にて・おはすれども時によりて事ことなるなれば・山林に交わりて読誦すとも将又・里に住して演説すとも・持戒にして行ずとも臂を焼いて供養すとも仏には・なるべからず、日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり・人是を知らず、譬えば虫の火に入り鳥の蛇の口に入るが如し真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗等の人人は我も法を得たり我も生死を離れたる人とは思へども・立始めし本師等・依経の心をも弁えず、但我が心の思い付いて有りしままに其の経を取り立てんと思へる墓無き心計りにて・法華経に背けば又仏意にも叶わざる事をば知らずして弘め行く程に・国主・万民是を信じぬ又他国へ渡り又年久しく成りぬ、末学の者共・本師の誤をば知らずして弘め習ひし人人をも智者とは思へり、源濁りぬれば流浄からず身曲りぬれば影直からず、真言の元祖・善無畏等は既に地獄に堕ちぬべかりしが・或は改悔して地獄を免れたる者もあり、或は唯依経を弘めて法華経の讃歎をも・せざれば・生死は離れねども悪道に堕ちざる人もあり、而るを末末の者・此の事を知らずして諸人一同に信をなしぬ、譬えば破たる船に乗つて大海に浮び酒に酔る者の火の中に臥せるが如し。
現代語訳
今の時代には、法華経が最高であることは当然であるが、修行のあり方が時によって異なるものであるから、山林に入って読誦しても、あるいはまた、人里に住んで演説しても、戒を持って修行しても、臂を焼いて供養しても、仏になることはできない。
日本国は仏法が盛んなようであるが、仏法について不思議なことがある。人はこれを知らずにいる。譬えば、虫が飛んで火に入り、鳥が蛇の口に入るようなものである。
真言師、華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗などの人々は、我も法を悟ることができた、我も生死の苦しみから度脱したとは思っている。だが、その宗を立てた本師達は、依経の意を知らず、ただ、自分の心の思いついたままに、その経をとりたてようと思う浅はかな心ばかりで、法華経に背いているので、また、仏の本意にも叶わないのである。それも知らずに、自宗を弘めていくうちに、国主も万民も、これを信ずるようになったのである。また、他国へ渡り、また年月も久しくなった。末々の学者達は、こうした本師の誤りを知らずに、師のように弘め、修行する人々を智者であると思っている。
源が濁っていれば、その流れは清くはない。身体が曲がればその影も真っすぐではない。
真言の元祖・善無畏達は、すでに地獄に堕ちるべきところであったが、あるいは改悔して、地獄をまぬかれた者もおり、あるいは、ただ依経だけを弘めて、法華経を讃嘆もそしりもしなかったので、生死の苦は離れられないが、悪道に堕ちなかった者もあった。
ところが末々の者は、こうしたことを知らないで、多数の人々が一同にその教えを信じている。譬えば、破損した船に乗って大海に浮かび、酒に酔った者が火の中で寝ているようなものである。
語釈
持戒
「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
法相
法相宗の事。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
三論
三論宗のこと。竜樹の中論・十二門論、提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。日本には推古天皇33年(0625)、吉蔵の弟子の高句麗僧の慧灌が伝えたのを初伝とする。奈良時代には南都六宗の一派として興隆したが、以後、次第に衰え、聖宝が東大寺に東南院流を起こして命脈をたもったが、他は法相宗に吸収された。教義は、大乗の空理によって、自我を実有とする外道や法を実有とする小乗を破し、成実の偏空をも破している。究極の教旨として、八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道をとなえた。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
本師
①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。
依経
各宗派がよりどころとする経のこと。一代聖教大意には「華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師.華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗.律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時は いかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し」(0397:05)とある。
善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
すでに地獄に堕ちぬべかりしが……地獄を脱れたる
密教僧の善無畏が地獄に堕ちた時、釈尊を讃嘆する法華経の一節を唱えて地獄を脱することができたという。善無畏抄(1233)に説かれる。「此の如くいみじき人なれども、一時に頓死して有りき。蘇生りて語って云く、我死つる時獄卒来りて鉄の繩七筋付け、鉄の杖を以て散散にさいなみ、閻魔宮に到りにき。八万聖教一字一句も覚えず、唯法華経の題名許り忘れざりき。題名を思いしに鉄の繩少し許ぬ。息続いで高声に唱えて云く「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子、而今此処多諸患難、唯我一人能為救護」等云云。七つの鉄の繩切れ砕け十方に散す。閻魔冠を傾けて南庭に下り向い給いき。今度は命尽きずとて帰されたるなりと語り給いき」
悪道
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
講義
ここは、前章の「されば仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきにや」の一節を受けて、〝今の世〟、末法という時代と日本国という条件下では、いかなる道が成仏の道であるかを知らなければならないことを指摘され、日蓮大聖人が発見された、仏法についての不思議を説かれている。
日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり。人是を知らず
日蓮大聖人当時の日本国は、八宗・十宗と多くの宗派が乱立し、一見すれば、仏法が盛んであるようではあるけれども、そこに人々の知らない一つの不思議が存在しているといわれている。その不思議さこそ、大聖人が一切経を読破して発見された重大な事実なのである。それは、結論からいえば、ほとんどの宗派が、釈尊出世の本懐たる法華経に背くことによって、仏法を説いた師たる釈尊に敵対しているという、厳然たる事実であった。すなわち、仏法のなかにも釈尊の出世の本懐たる法華経即正法と、この法華経に背き、釈尊に師敵対する邪法との二つがあるということである。
この正法(法華経)と謗法の諸宗との関係について、少々考えておきたい。大聖人は、謗法、邪法の存在を発見されたことを明かされるときに、たびたび「不思議」という言葉を使われている。
例えば、弘安元年(1278)の「妙法比丘尼御返事」にも「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に・一の不思議あり、我れ等が・はかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし、いづれもいづれも・心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入って……」(1407:15)とあるのをみても明らかであろう。
つまり、仏法のなかに正法と謗法とがあるとの発見は、元来、大聖人の悟達を根底に築かれたものである。宇宙と生命を貫く唯一無二の真理をもって、一切経及び諸宗の教義を検討された結果、そこに、この真理に叶った法華経を依経とする正法と、この真理に背く謗法とが存在することを発見されたのである。
もとより、その発見は経文をはじめ、天台、伝教等の正師の釈文によって客観的に証明されている。しかし、何よりもまず、日蓮大聖人の悟達があって、その後に、この悟りを文底に秘していた法華経が一切経の中から選び出され、法華経に背く教えは、この悟りに叶わない邪教としてしりぞけられたのである。釈尊、天台、伝教等の経ないし釈文は、大聖人の不思議の教判の正しさを示す文証なのである。大聖人の悟りと一切経の読破との間に横たわる関係は、このように考えられるであろう。
源にごりぬればながれきよからず、身まがればかげなをからず
大聖人は、八宗・十宗を検討されるにあたって、その最も根本から問い直されたことを明かされているのである。すなわち、各宗派がよって立つところの元祖の説を源とし、身体にあてはめてとらえられ、それを破折されることにより、各宗派の謗法を明らかにされているのである。元祖がすでに依経の心をわきまえないのであるから、末流の学者が謗法に陥るのは当然である。
生死を離れ、成仏することを目的に、仏法を修行しても、時期に適さない経典をよりどころにしたならば、「虫の火に入り鳥の蛇の口に入る」ような自滅に陥ることもあり、日本のほとんどの宗派の元祖が、その類いであるとの断言となってくるのである。
なぜなら、宗教、ひいては広く人間の思想というものは、何を根本として立てているかが肝要であるからである。
日蓮大聖人が、八宗・十宗の教義を検討されたとき、おそらく、いかに外見は深遠そうで、傾倒するに値する姿をしていても、その骨格をなす元祖の理論構造は至極単純なものであることを見抜かれたにちがいない。そして、長い歴史を有する各宗派の途中の人師や論師の説に惑わされずに、直ちに元祖とそのよって立つ経典を検討されたのである。
この方法は、まさに御本仏日蓮大聖人の、人間理性及び思想に対する洞察から生まれたものであるというべきである。
第四章(法華誹謗の重罪を教える)
本文
日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此の事を申し始めしなり、世間の人人何に申すとも信ずる事はあるべからず、還つて流罪・死罪せらるべしとは兼て知つてありしかども・今の日本国は法華経に背き釈迦仏を捨つる故に後生は必ず無間大城に堕ちん事はさてをきぬ・今生にも必ず大難に値うべし、所謂他国より責め来つて上一人より下万民に至るまで一同の歎きあるべし、譬えば千人の兄弟が一人の親を殺したらんに此の罪を千に分ては受くべからず、一一に皆無間大城に堕ちて同じく一劫を経べし、此の国も又又是くの如し、娑婆世界は五百塵点劫より已来・教主釈尊の御所領なり、大地・虚空・山海・草木・一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、譬えば成劫の始め一人の梵王下つて六道の衆生をば生て候ぞかし、梵王の一切衆生の親たるが如く・釈迦仏も又一切衆生の親なり、又此の国の一切衆生のためには 教主釈尊は明師にて・おはするぞかし、父母を知るも師の恩なり黒白を弁うも釈尊の恩なり、
現代語訳
日蓮は、このありさまを見たゆえに、たちまちに菩提心をおこして、この法門を申し始めたのである。
しかし、世間の人々は、どのようにいっても日蓮の法門を信ずることはないであろう。かえって死罪、流罪となるであろうとは、かねて承知していた。今の日本国は、法華経に背き、釈迦仏を捨てたゆえに、後生には阿鼻地獄に堕ちることはいうまでもないこととして、今生にも必ず大難にあうであろう。
つまり、他国から攻めて来て、上一人から下万民にいたるまで、一同に嘆くことが起こるであろう。
譬えば、千人の兄弟が一人の親を殺した場合、この罪を千人に分けて受けるということではない。一人一人皆、無間地獄に堕ちて同じように一劫の間苦しむであろう。この日本国も、またこれと同じようなものである。
娑婆世界は、五百塵点劫以来、教主釈尊の御所領である。大地・虚空・山海・草木も、ごくわずかでも、他の仏のものではない。また一切衆生は、みな釈尊の御子である。譬えば、成劫の始め、一人の大梵天王が天から下ってきて、六道の衆生を生んだという。ゆえに大梵天王が一切衆生の親であるように、釈迦仏も、また一切衆生の親である。
またこの国の一切衆生のためには、教主釈尊は、明師でいらっしゃる。父母を知ることができるのも師の恩のおかげである。物の黒白を弁えるのも、釈尊の恩のおかげである。
語釈
菩提心
悟りを求めて仏道を行ずる心。菩提は梵語ボーディ(bodhi)の音写で、覚・智・道などと訳す。菩提に声聞・縁覚・仏の三種ある
後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
阿鼻大城
無間地獄のこと。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で無間と訳す。この地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて、凡力では脱出できない堅固な所であるところから、城にたとえて「大城」といった。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。
今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
無間大城
無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。
一劫
一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
娑婆世界
娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」とある文を意味する語。釈尊が真実に成道して以来の時の長遠であることを譬えをもって示したものであるが、ここでは、久遠の仏から下種を受けながら、邪法に執着した衆生が五百塵点劫の間、六道を流転してきたという意味で使われている。
成劫
四劫の一つ。一世界の成立する期間。倶舎論巻十二では空間に器世間が成立し、そこに有情が誕生して有情世間を形成していく期間を成劫といい、その時間的長さは二十劫であるとしている。
梵王
大梵天王のこと。梵はブラフマン(Brahman)の音写で、バラモン教では万物の生因たる根本原理の神格化されたものとし、宇宙の造物主として崇拝する。仏法では、娑婆世界を支配する善神で、仏が出世して法を説く時には、帝釈天とともに常に仏の左右にあって、仏法を守護するとしている。
講義
ここは、仏法の正邪をわきまえることが、いかに大事か、邪法の邪法たるゆえんはどこにあるかを示されているところである。
娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり
すぐ後の章で展開される阿弥陀仏批判、すなわち浄土宗批判にとって、不可欠の前提をなす文である。
一往、文上の法華経により、この娑婆世界は一切教主釈尊の所有であり、釈尊こそ主・師・親の三徳を具備した仏であることを述べられている。
法華経の譬喩品第三には、有名な「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とあり、教主釈尊が娑婆世界の一切衆生の主師親の三徳を具備していることを明かしている。
さらに寿量品第十六では「娑婆世界説法教化」と、本国土妙を明かすことにより、遠く五百塵点劫已来、釈尊が娑婆世界の一切衆生を教化しつづけてきたことを明かしている。
再往、文底観心の立場から論ずるならば、主師親の三徳具備の教主釈尊は久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人のことであり、此の娑婆世界は、根源の一法である南無妙法蓮華経に貫かれ、かつその法則にのっとって、生滅変化を繰り返している常寂光土であるということである。
第五章(念仏信仰を破折する)
本文
而るを天魔の身に入つて候・善導・法然なんどが申すに付いて・国土に阿弥陀堂を造り・或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り・或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り・或は宅宅人人ごとに阿弥陀仏を書造り.或は人ごとに口口に或は高声に唱へ・或は一万遍・或は六万遍なんど唱うるに.少しも智慧ある者は・いよいよ・これをすすむ、譬へば火に・かれたる草をくわへ・水に風を合せたるに似たり、此の国の人人は一人もなく教主釈尊の御弟子・御民ぞかし、而るに阿弥陀等の他仏を一仏もつくらず・かかず・念仏も申さず・ある者は悪人なれども釈迦仏を捨て奉る色は未だ顕れず、一向に阿弥陀仏を念ずる人人は既に釈尊仏を捨て奉る色顕然なり、彼の人人の墓無き念仏を申す者は悪人にてあるぞかし、父母にもあらず主君・師匠にてもおはせぬ仏をば・いとをしき妻の様にもてなし、現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て・乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず是れ豈不孝の者にあらずや、此の不孝の人人・一人・二人・百人・千人ならず一国・二国ならず上一人より下万民に至るまで日本国皆こぞりて一人もなく三逆罪の者なり、
現代語訳
ところが、天魔が身に入った善導・法然などがいうことにしたがって、国土に阿弥陀堂を造り、あるいは一郡・一郷・一村などに阿弥陀堂を造り、あるいは百姓万民の家ごとに阿弥陀堂を造り、あるいは家々人々ごとに、阿弥陀仏を書き造り、あるいは人ごとに口々に、あるいは高声に念仏を唱へ、あるいは一万遍、あるいは六万遍など唱えているところに、少しばかり智慧ある人は、ますます念仏をすすめている。譬えば、火の中に枯れ草を加え、水を風に吹かせ、より波立たせることに似ている。
この国の人々は、一人の例外もなく、教主釈尊の御弟子・御民である。したがって、阿弥陀等の他の仏を一仏も造らず、書かず、念仏もいわずにいる者は、悪人ではあっても、釈迦仏を捨てるという姿はまだ顕れない。
ひたすらに阿弥陀仏を念ずる人々は、すでに釈尊仏を捨てた姿が、明らかに顕れている。かの人々のように、はかない念仏をとなえる者こそ悪人なのである。
父母でもなく、主君・師匠でもない他の仏を、いとおしい妻のように大切に扱い、現に国主、父母、明師である釈迦仏を捨て、乳母のような法華経を、口に誦えることもしない。これがどうして、不孝の者でないことがあろうか。
この不孝の人々が、一人二人、百人千人ではない。一国二国ではない。上一人から下万民にいたるまで、日本国の人々は、皆こぞって一人残らず、三逆罪の者である。
語釈
天魔
天子魔の略で、四魔の一つ。欲界の第六天に住する魔王とその眷属によって起こり、父母・妻子・権力者等のあらゆる姿をとって正法破壊の働きをなし、仏道修行を妨げようとする。四魔の中でも、最も恐ろしい魔とされる。
善導
(0613~0681)。中国浄土宗の第三祖。終南大師、光明大師などとも呼ばれた。道綽(0562~0645)のもとで観無量寿経を学んだ。正雑二行の判を立てて専修念仏を説き、30年間、称名念仏を勧めた。浄土往生を証するといって寺前の柳の木で自殺を図り、果たせず、地面に落ち、14日間苦悶して死んだと伝えられている。日本の法然は善導の観経疏を学び、日本浄土宗を開いている。主な著書に「観経疏」四巻、「往生礼讃」一巻等がある。
法然
(1133年~1212)。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県)の人で、幼名を勢至丸といった。15歳で比叡山に登り、天台の教観を学ぶ。18歳で京都黒谷に移り、慈眼房叡空に師事して浄土宗を修め、法然房源空と改名した。大蔵経を閲覧し、善導の「観経散善義」、源信の「往生要集」を読んで悟ったとし、一向専修念仏の浄土宗を創始した。とくに「選択集」を著して、念仏が浄土往生の根本義であると説き、浄土三部経以外の諸経を捨てよ閉じよ閣(さしお)け抛てととなえた。門徒の僧が、官女を出家させた一件が後鳥羽上皇の怒りにふれ、建永2年(1207)2月に念仏を禁じられて讃岐(香川県)に流された。同年12月赦免され、摂津(大阪府)に居住するが、入洛は建暦元年(1211)まで許されなかった。翌年、80歳で没す。著書には「選択集」二巻、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。
百姓
天下の万民のこと。さまざまな姓を有する多くの人民の意。近世以降、農業に従事する者の称となり、「ひゃくしょう」というようになった。
三逆罪
略して三逆ともいう。五逆罪のうち、提婆達多が犯した破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三罪をいう。ただしここでは、通途の三逆罪ではなく、背主・捨父・背師という、主師親の三徳をそなえた釈尊に反逆する罪を、三逆罪と称されたと思われる。
講義
この章は、他土の仏たる阿弥陀仏の信仰が、いかに日本国の一切衆生を、教主釈尊に対する親不孝と、師敵対におとしいれたかを、わかりやすく述べられている。
「上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり」とは、じつに厳しい指摘である。
普通、三逆罪とは、五逆罪のうち、提婆達多が犯した破和合僧、出仏身血、殺阿羅漢をさして用いられるが、他土の阿弥陀仏を信じて主師親三徳具備の教主釈尊に反逆するという大罪を、三逆罪に匹敵するものとして、このように表現されたのであろう。
第六章(念仏信仰の重罪を教示する)
本文
されば日月は色を変じて此れをにらめ・大地も瞋りてをどりあがり・大彗星天にはびこり・大火・国に充満すれども僻事ありとも・おもはず、我等は念仏にひまなし其の上念仏堂を造り阿弥陀仏を持ち奉るなんど自讃するなり、是は賢き様にて墓無し、譬えば若き夫妻等が夫は女を愛し女は夫をいとおしむ程に・父母のゆくへをしらず、父母は衣薄けれども我はねや熱し、父母は食せざれども我は腹に飽きぬ、是は第一の不孝なれども彼等は失ともしらず、況や母に背く妻・父にさかへる夫・逆重罪にあらずや、阿弥陀仏は十万億のあなたに有つて此の娑婆世界には一分も縁なし、なにと云うとも故もなきなり、馬に牛を合せ犬に猨をかたらひたるが如し。
現代語訳
それゆえ、日月は色を変えてこれをにらみ、大地も怒っておどりあがり、大彗星は天に一杯に広がり、大火が国に充満しても、自身に間違いがあるとも思わず、「我らは、ひまなく念仏を称えている。そのうえ、念仏堂を造り、阿弥陀仏を受持し奉っている」などと自賛しているのである。
これは賢いようであって、実ははかないことである。譬えば、若い夫妻達がいて、夫は妻を愛し、妻は夫をいとおしんで、父母を忘れ、父母は薄い衣でふるえているけれども、自分たちの床は温かく、父母は食べていないけれども、自分達は食に飽きているようなものである。
これは第一の不孝であるが、彼等はそれを誤りであるとも知らない。まして母に背く妻や、父に逆らう夫は、重い逆罪を犯しているのではないか。
阿弥陀仏は十万億の彼方にいて、この娑婆世界には、わずかの縁もない。なんと言い立てようと、その根拠もないのである。馬に牛をかけ合わせ、犬に猨をめあわすようなものである。
語釈
大せいせい
ほうき星のこと。中国、日本では古来から妖星とされ、彗星の出現は凶兆とみなされた。とくに兵乱の凶瑞とされる。ここでは、文永元年(1264)に出現した大長星をさすか。これは同年の6月26日に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて8月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
講義
念仏信仰に溺れ教主釈尊に師敵対しているが故に、日本国に、三災七難が競い起こっているにもかかわらず、その原因に気づかないで、念仏信仰にますますうちこんでいる人々の愚かさを衝かれている。
日蓮大聖人はここで、人間の生命が、生命の根本軌道から逸脱した宗教に染め抜かれた場合に、その誤りからなかなか脱出できない恐ろしさを述べておられるのである。これは念仏信仰の場合のみに限ることではなく、あらゆる経文についてもあてはまる。私達の折伏行は、誤った宗教に順応しきっている惰性の生命を、根底から革新し、覚醒をもたらす行為であり、宗教の本義を知った者の生命蘇生の尊き活動なのである。
第七章(一谷入道の外護を称える)
本文
但日蓮一人計り此の事を知りぬ、命を惜みて云はずば国恩を報ぜぬ上・教主釈尊の御敵となるべし、是を恐れずして有のままに申すならば死罪となるべし、設ひ死罪は免るとも流罪は疑なかるべしとは兼て知つて・ありしかども・仏の恩重きが故に人を・はばからず申しぬ、案にたがはず両度まで流されて候いし中に・文永九年の夏の比・佐渡の国・石田の郷一谷と云いし処に有りしに・預りたる名主等は公と云ひ私と云ひ・父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに・宿の入道と云ひ・妻と云ひ・つかう者と云ひ・始はおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内内・不便と思ふ心付きぬ、預りより・あづかる食は少し付ける弟子は多くありしに・僅の飯の二口三口ありしを或はおしきに分け或は手に入て食しに・宅主・内内・心あつて外には・をそるる様なれども・内には不便げにありし事・何の世にかわすれん、我を生みておはせし父母よりも当時は大事とこそ思いしか、何なる恩をも・はげむべし・まして約束せし事たがうべしや。
現代語訳
ただ日蓮一人だけが、この事を知っているのである。その日蓮が自分の生命を惜しんでいわないならば、国恩を報じないうえに、教主釈尊の御敵となるであろう。
これを恐れずに、ありのままにいうならば、必ず死罪となるであろう。たとい死罪はまぬかれても、流罪は疑いないことと、かねて知っていたが、仏の御恩が重い故に、人を憚ることなくいったのである。
案にたがわず、二度まで流罪された中で、文永九年の夏の頃、佐渡の国・石田郷の一谷という所にいたときに、預った名主達は、公にも、私事にも、父母の敵よりも、宿世の敵よりも、憎げに取り扱ったのに、宿の入道といい、その妻といい、使用人といい、初めはおじ恐れていたが、前世からの縁であろうか、内々に不便と思う心が生じてきた。
預りの名主から渡される食は少ない。付き添っている弟子は多かったので、わずかの飯の二口三口ばかりのものを、あるいは折敷に分け、あるいは、手のひらに入れて食べていたところ、家の主人が、内々に心を配り、外には恐れる様子であったが、内には不便の気持ちをもっていたことは、いつの世に忘れることがあろうか。
私を生んで下さった父母よりも、この時に当たっては、大切な人と思ったのである。
どのようにしても、この恩には報いなければならない。まして、約束した事をたがえてよいものであろうか。
語釈
国恩
国主・国王から受ける恩恵のこと。国主の恩ともいう。仏法では四恩の一つに挙げている。その国の風土に養われ、国主の保護を受けて、わが身、わが一族の生命の安全を得る恩。四恩抄(0937)に「天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり」とある。現代の民主主義国家では、民衆によって構成された社会、組織から受ける種々の恩恵をいう。
石田の郷一谷
佐渡国雑太郡にあった郷村。現在の新潟県佐渡郡畑野町。本抄の対告衆・一谷入道の屋敷があったところで、大聖人は佐渡流罪中、9年(1274)4月に塚原三昧堂から入道の屋敷に移られ、文永11年(1274)3月に赦免になるまでの約2年間この地に住まわれた。
名主
平安時代中期から中世を通じての名田の所有者。時代や地域によってその身分や隷属する農民の規模などが異なる。
宿世
前世・過去世。
宿の入道
本抄の対告衆・一谷入道のこと。佐渡流罪中の日蓮大聖人が一谷入道の屋敷を宿所とされた故に、こう呼ばれたもの。
先世
前生のこと。前世・過去世のこと。
おしき
へぎ製の角盆で、四方に折りまわした縁がついている。また、角盆の四隅を切り落とした隅切盆もある。食器や仏神への供物をのせる。
講義
本章の前半では、日蓮大聖人が不惜身命の折伏・弘教に邁進されたいきさつが語られ、後半では、そのためにあった佐渡流罪の苦難の中での一谷入道とその女房の献身的な働きに感謝されている。
但日蓮一人計り此の事を知りぬ
「此の事」とは、前々章以来の叙述を受けて、他土の阿弥陀仏を信ずることがいかに謗法の大罪であり、日本の上下万民の不幸の根源になっているかということであり、その事実を日蓮大聖人但一人だけが知ることができた、との意味である。
第四章で述べられた「日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此の事を申し始めしなり」という文における「此の事」とは、浄土宗をはじめとする謗法の諸宗一般が日本国の不幸の根源であることをさしている。そして、それは同時に「仏法について不思議あり。人是を知らず」の文の「不思議」と同じ内容なのである。
本抄のこれまでの流れに即して、もう一度、順序立ててふりかえってみると、まず「日本国は仏法盛なるやうなれども仏法について不思議あり。人是を知らず」といわれて、成仏を目的とする仏法でも、信心修行すればするほど、無間地獄に堕ちていく謗法・邪法の存在を「不思議」といわれ、そのことを日本国の誰人も知らないと述懐されている。
次に「日蓮是を見し故に忽に菩提心を発して此の事を申し始めしなり」とあり、さきに「不思議」といわれた内容を、「此の事」つまり具体的な事実であると述べられ、仏法を行じながら逆に地獄に堕ちていく不幸な現実を見て、大聖人は慈悲の念から菩提心を発して、この事実を人々に指摘していったのであると、その理由を明かされている。
そして「但日蓮一人計り此の事を知りぬ」と述べられ、「此の事」の内容を浄土宗のみにしぼり、かつ、「人是を知らず」といわれていたのを、より強く「但日蓮一人計り此の事を知りぬ」と断言されている。
この流れをみても、日蓮大聖人が、いかに理論整然と、対告衆の一谷入道女房にわかりやすく諄々と説いていかれているかを知ることができるであろう。
日蓮大聖人の元意は、日本国の最も多くの人々が信仰し、一谷入道夫妻も熱心に信じてきた浄土宗の破折にあることはいうまでもないが、それを、対告衆の心に静かに、説得力をもって納得させていく細かい配慮を読みとっていきたいものである。
命を惜みて云はずば国恩を報ぜぬ上……仏の恩重きが故に人をはばからず申しぬ
日蓮大聖人が不惜身命の折伏に踏み切られた理由を、報恩観のうえから述べられている重要な文である。これについては、第二章の講義でも少し触れたところである。
大聖人が日本国で但一人、深い悟達の上から知ることのできた、謗法・邪法の存在とそのもたらす害毒の恐ろしさとを、国恩・仏恩を報ずるという報恩観から、勇を鼓して言い切っていかれたいきさつが説かれている。
冒頭で述べられた流罪・死罪の二つの大難は、大聖人にとっては、すでに立宗宣言され、諸宗折伏に立ち上がられた時に、覚悟のうえであったことがこの文から明確である。
諸宗を破折すれば、流罪・死罪の大難を招くことは、大聖人にとって「兼て知って」おられたことであった。だが、国恩・仏恩を報ずるという高次元の立場から、あえてわが身をかえりみずに、折伏に踏みきったことを述懐されているのである。
開目抄にも、同じ述懐が語られている。
「日本国に此れをしれる者は、但日蓮一人なり。これを一言も申出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし。いはずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに、いはずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競起るべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし」(0200:09)と。
いずれにしても、大聖人が深い悟達の上から発見された謗法・邪法の存在と、そのもたらす弊害を、人々にはっきりと言うか否かが、立宗宣言当時も、大聖人をとらえた大きな分岐点であったことがわかる。しかし、大聖人は、この岐れ目に立って、国恩・仏恩を報ずるということ、並びに一切衆生を堕地獄から救おうという、極めて高い宗教的、倫理的良心を支えに、結局は、命を惜しまず、言い切っていくこと、つまり折伏行を敢行する道を歩まれたのである。
大聖人は、示同凡夫の立場における、言うべきか言わざるべきかの迷いと葛藤の様子を述べられながら、いかにして、言い切る方向に踏み出されていかれたかを、一谷入道女房のために、教えて下さっているのである。
そのように拝するとき、この個所は、物事の決断ともいうもののあり方を示唆されているとも読むことができるのではないだろうか。決局、決断とは、自らにとって、いかに辛く苦しくとも、正義の方向へ、自身を促していくことであろう。楽な方向への決断というものは元来ないのである。それは、惰性であり、安易な妥協でしかない。
我々がAかBかの選択の岐路に立たされたとき、いかに辛く苦しくとも、人間としてあるべき道と、楽ではあるが人間らしい正義感や誠実さを犠牲にする道とに分かれるものである。
そのとき、辛くても苦しい道を歩み出すための決断の条件としては、広布推進という高い目的観、地涌の菩薩としての使命感、更には報恩観という高度の精神的次元に自らの立場を置くことにより、自らを促すことができるのである。
第八章(法華経授与の経緯を述べる)
本文
然れども入道の心は後世を深く思いてある者なれば久しく念仏を申しつもりぬ、其の上阿弥陀堂を造り田畠も其の仏の物なり、地頭も又をそろしなんど思いて直ちに法華経にはならず、是は彼の身には第一の道理ぞかし、然れども又無間大城は疑無し、設ひ是より法華経を遣したりとも世間も・をそろしければ 念仏すつべからずなんど思はば、火に水を合せたるが如し、謗法の大水・法華経を信ずる小火を・けさん事疑なかるべし、入道・地獄に堕つるならば還つて日蓮が失になるべし、如何んがせん如何んがせんと思いわづらひて今まで法華経を渡し奉らず、渡し進せんが為にまうけまいらせて有りつる法華経をば・鎌倉の焼亡に取り失ひ参せて候由申す、旁入道の法華経の縁はなかりけり、約束申しける我が心も不思議なり、又我とは・すすまざりしを鎌倉の尼の還りの用途に歎きし故に口入有りし事なげかし、本銭に利分を添えて返さんとすれば・又弟子が云く御約束違ひなんど申す、旁進退極りて候へども人の思わん様は狂惑の様なるべし、力及ばずして法華経を一部十巻・渡し奉る、入道よりもうばにて・ありし者は内内心よせなりしかば是を持ち給へ。
現代語訳
しかしながら、入道は心に、後世を深く思っている人であるから、長い間、念仏を称え続けてきた。そのうえ、阿弥陀堂を造り、田畠も、その仏のものとして供養している。また地頭に対しても、恐ろしいなどという思いを抱いて、直ちに法華経の信者にはならなかった。
これは、彼の身としては、第一の道理である。しかしながら、また、無間大城に堕ちることは疑いない。
たとえ、こちらから法華経を差し上げたとしても、世間が恐ろしいので、念仏を捨てることはできないなどと思うならば、火に水を合わせたようなものである。謗法の大水が、法華経を信ずる小さな火を消してしまうことは、疑いのないことである。
入道が地獄に堕ちるならば、かえって日蓮の罪になってしまうであろう。どうすればよいのか、どうすればよいのかと思い悩んで、今まで、法華経をお渡ししなかった。
お渡ししようと思って用意しておいた法華経は、鎌倉の火事の時に、失ってしまったと知らせがあった。いずれにせよ入道は、法華経の縁がなかったのである。約束した私の心も不思議である。
また自分からは気の進まなかったのを、鎌倉の尼が帰りの路用に困っていたので、用立ててもらうよう口添えをしたことを後悔している。
本銭に利息をつけて返して、それですまそうとすれば、また弟子が「それでは御約束が違います」などという。あれやこれや、進退極まったが、人は、私が偽りをいったと思うであろう。やむをえず、法華経一部十巻をお渡しすることにした。入道よりも、祖母の方が、内々心を法華経に寄せていたようなので、この経を所持されるがよい。
語釈
後世
未来世のこと。後生ともいう。
地頭
鎌倉時代の職名。全国の荘園・公領に置かれた。土地の管理権・警察権・徴税権を有していた。ここでは佐渡国新穂の地頭・本間六郎左衛門重連をさす。
鎌倉の焼亡
この当時、鎌倉で起きた大火事をさすのか、大聖人より法華経の管理を命ぜられていた弟子が火災にあったものか、詳細は不明。
鎌倉の尼
姓名・生没年ともに不明。日妙聖人とする説もある。鎌倉から佐渡流罪中の大聖人を訪れている。
用途
要する費用。ここでは旅費の意。
誑惑
たぶらかすこと。
口入
他人の世話、口添えすること。とくに、金銭の貸借、不動産の売買などの仲立ちをすること。
一部十巻
法華経八巻に、開経の無量義経と結経の観普賢経の各一巻を加えて、法華経一部十巻といった。
講義
本章は、佐渡において多大の恩を受けた、一谷入道夫妻への深い配慮をされながら、譲渡すると約束された法華経を渡すべきかいなかを、真剣に思案されたことを述べられており、一人の人を心から大切にされる大聖人の姿勢をうかがうことのできる個所である。
一谷入道家の置かれた立場や状況、更にはその心境までも、深く洞察される大聖人の心遣いに、感動をもよおさないものがあろうか。
最初に、長年の念仏者であったという経歴や、地頭の機嫌を損じたくないという一谷入道の置かれた立場に思いをはせられ、「直ちに法華経にはならず。是は彼の身には第一の道理ぞかし」と、念仏を捨てきれぬ入道の立場を是認されながらも、「然れども又無間大城は疑無し」と、厳しい仏法の因果律のうえから、入道の堕地獄を断言されている。
だからといって、今、法華経をあげて、入道に読誦するよう勧めても、入道自身、世間の批判を恐れて念仏を捨てないならば、それは、謗法の大水が、法華経を信ずる小火を消してしまうようなもので、入道を地獄に堕としてしまう。そうなれば法華経を与えた大聖人の失となると述べられている。
どうすべきか、思案されている間に、渡すべき肝心の法華経が鎌倉の火事の時に失われてしまい、「入道の法華経の縁はなかりけり」といったんは思い切ろうとされているが、大聖人はすでに佐渡で、法華経を譲渡するとの約束を入道との間にかわされていたので、最後は遂に法華経へ内々に関心を寄せる祖母に譲る名目で、法華経を譲渡されたのである。
一度、約束したことを、最後まで貫こうとされた大聖人のお姿を、我々の鑑とし、教訓とすべきではなかろうか。不惜身命の壮烈な折伏を遂行された師子王の如き大聖人に対して、どんな些細な約束をも守りきられ、一人の信仰者を思うことに心をくだかれたもう一人の大聖人を見るような文章である。
この、一見、背反するような二つの側面が、御本仏・日蓮大聖人の生命の中に包み込まれているところに、大聖人の御境涯の豊かさと雄大さをみるべきであろう。
第九章(再度の蒙古襲来を予告する)
本文
日蓮が申す事は愚なる者の申す事なれば用ひず、されども去る文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせせ有りしに対馬の者かためて有りしに・宗総馬尉逃ければ百姓等は男をば或は殺し或は生取にし・女をば或は取り集めて手をとをして船に結い付け・或は生け取にす・一人も助かる者なし、壹岐によせても又是くの如し、船おしよせて有りけるには奉行入道・豊前前司は逃げて落ちぬ、松浦党は数百人打たれ或は生け取にせられしかば・寄せたりける浦浦の百姓ども壹岐対馬の如し、又今度は如何が有るらん彼の国の百千万億の兵・日本国を引回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ、北の手は先ず佐渡の島に付いて地頭・守護をば須臾に打ち殺し百姓等は北山へにげん程に或は殺され或は生け取られ或は山にして死ぬべし、抑是れ程の事は如何として起るべきぞと推すべし、前に申しつるが如く此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり、是は梵王・帝釈・日月・四天の彼の蒙古国の大王の身に入らせ給いて責め給うなり。
現代語訳
日蓮のいう事は、愚かな者のいうことであるから、世間は用いようとしない。
しかし、去る文永十一年十月に、蒙古国から筑紫に攻め寄せてきた時に、対馬の者は、かたく守っていたが、宗の惣馬尉が逃げたので、蒙古軍は百姓達の男を、あるいは殺し、あるいは生け取りにし、女を、あるいは一所に集めて手に縄を通して船にゆわいつけ、あるいは生け取りにした。一人も助かった者はいない。
壱岐に攻め寄せてきた時も、またこれと同様であった。蒙古の船が筑紫へ押し寄せてきた時には、奉行の入道・豊前の前司は逃げ落ちてしまった。
松浦党は、数百人も打たれ、あるいは生け取りにされたので、攻め寄せられた浦々の百姓達は、壱岐・対馬のようであった。
また、今度は、どうなるのであろうか。蒙古の百千万億の兵が、日本国を取り巻いて押し寄せてくるならば、どうなっていくのであろうか。
北方の軍勢は、まず佐渡の島に押し寄せて、地頭・守護をたちまちに打ち殺し、百姓達は、北山へ逃げるうちに、あるいは殺され、あるいは生け取られ、あるいは山で死ぬであろう。
そもそも、これほどの事が、どうして起こるのかを考えてみるべきである。前にいったように、この国の者は、一人として三逆罪を犯していない者はいないのである。
これは、梵王・帝釈・日月・四天が、かの蒙古国の大王の身に入られて、この国を責められているのである。
語釈
蒙古国
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
筑紫
九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
対馬
日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島である。面積は日本第10位である。対馬の大半を占める主島の対馬島のほか、その周囲には100以上の属島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」、「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国や対州、また『日本書紀』において対馬島と記述されていた。旧字体では對馬。
宗惣馬尉
宗助国(1207~1274)のこと。鎌倉時代の武将。宗氏は一説によると、平知盛の子孫といわれ、中世中期以降、対馬を支配した一族。助国は宗氏三代目の当主である。なお、惣馬の尉とは、対馬を惣る尉の意で対馬国の守護代のこと。
壹岐
壱岐島の旧字体。西海道12ヵ国のひとつ。九州・博多湾と対馬との中間にある島。現在は長崎県に属する。対馬とともに古くから日本と大陸を結ぶ交通の要衝であった。蒙古襲来における現証となった地。
奉行入道豊前前司
少弐資能(1198~1281)のこと。少弐資能は筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護で、鎮西奉行の職も兼ねていた。文永の役では、子の経資、景資らと共に蒙古軍と戦った。後、家督を経資に譲り、入道して覚恵と称した。その後の第二回の蒙古襲来にも老齢でありながら戦闘に参加して負傷し、それがもとで死んだ。
松浦党
「まつうらとう」とも読む。中世、肥前国(佐賀・長崎県)の松浦四郡に割拠した小豪族の集団。その本姓はさまざまだが、党に属する者は必ず源氏を名乗り、松浦源氏と称した同族組織である。鎌倉時代、元寇によって多大な被害を受けた。
守護
①まもること。②鎌倉幕府の官職名。警察権・刑事裁判権を行使した。
須臾
時の量、斬時、刹那、瞬間。
梵王
大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
講義
本章に描かれた蒙古襲来・文永の役における、壱岐・対馬の被害状況は、歴史学的にも、貴重な文献となっている。
蒙古襲来は、日本歴史上、未曾有の大事件であったにもかかわらず、その日本側の記録となると、驚くほど少ない。川添昭二著「日蓮」によると、とくに文永の役の壱岐・対馬の生々しい被害状況に関する日本側の史料は、「八幡愚童訓」と、本章の記述ぐらいのものだそうである。その「八幡愚童訓」も、鎌倉末期の成立とされているから、建治元年(1275)という鎌倉中期に、しかも、文永の役と同時代人である日蓮大聖人によって書かれた本抄の史料的価値の高さがわかろうというものである。
今日からみても、第一級の記録を遺されていたといっても、結果的にそのようになったのであって、大聖人の目的は、あくまで、日本国上下万民の謗法がもたらす弊害の悲惨さを克明に見届け、二度と同じ事態を招かぬように、日本国の人々に警告されるところにあったといえよう。
それ故に、壱岐・対馬の被害状況を記された後に「又今度は如何が有るらん。彼の国の百千万億の兵、日本国を引回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ」と憂慮されると共に、暗に、再び来るであろう警告を発せられているのである。つまり、もし、謗法を止めなかったなら、次に、蒙古が襲来してくれば、壱岐・対馬の悲惨はそのまま日本国全土の姿になるといわれているのをみても、大聖人の関心事がどこにあったかは明白であろう。
「抑是れ程の事は如何として起るべきぞと推すべし……是は梵王・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給いて責め給うなり」の文は、結局、蒙古襲来の危機が、日本国の人々の謗法・邪法に起因すると明かされているところである。日本国の人々はすべて三逆罪の者であるが故に、梵天・帝釈等の諸天が蒙古国の大王の身に入って、日本国を責めるという、いわゆる梵天治罰の原理を明かされているのである。
第十章(末法御本仏の内証を示す)
本文
日蓮は愚なれども釈迦仏の御使・法華経の行者なりとなのり候を・用いざらんだにも不思議なるべし、其の失に依つて国破れなんとす、況や或は国国を追ひ・或は引はり・或は打擲し・或は流罪し・或は弟子を殺し・或は所領を取る、現の父母の使を・かくせん人人よかるべしや、日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・是を背ん事よ、念仏を申さん人人は無間地獄に堕ちん事決定なるべし、たのもし・たのもし。
現代語訳
日蓮は愚かであるが、釈迦仏の御使い、法華経の行者なりと名乗っているのを、用いないことでさえ、不思議なことである。その過ちによって、国が破れようとしているのである。
まして、あるいは国々を追い払い、あるいは引き回し、あるいは打ちすえ、あるいは流罪に処し、あるいは弟子を殺し、あるいは、その所領を取り上げたりする。
まのあたりにいる父母の使いを、このようにした人々に、良いことがあろうか。日蓮は日本国の人々の父母である。主君である。明師である。これに背いて、よいわけがない。
念仏を称える人々は、無間地獄に堕ちる事は、決定的である。仏法の厳然たる法理は、まことに頼もしいことである。
語釈
釈迦仏の御使
日蓮大聖人は、釈尊が法華経如来神力品第21において滅後の弘通を付嘱した地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であるということ。これは釈迦仏法の継承者としての大聖人の御立場を述べられたものであり、外用の辺である。内証の辺では久遠元初の自受用法身如来であらせられる。
法華経の行者
法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752:寿量品廿七箇の大事:06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760:第廿五建立御本尊等の事:02)とある。
国国を追ひ
日蓮大聖人の受けられた諸難のうち、居住地を追われた難。具体的には、建長5年(1253)4月28日の立宗宣言の直後、東条景信によって安房国を追われたこと。また、文応元年(1260)8月27七日、念仏者等の暴徒に松葉谷の草庵を襲撃され、相模国を追われたことなどをさすものと思われる。
引はり
引き回す、引っ立てる等の意。弘長元年(1261)5月の伊豆流罪、及び文永8年(1271)9月12日の竜口の法難の際、捕縛されて市中引き回しになったことをさす。
打擲
打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。
流罪し
伊豆、佐渡の二度の流罪をさす。
弟子を殺し
小松原の法難において、弟子の鏡忍房と工藤吉隆が東条景信の兵の手にかかって討ち死にしたことをさすものと考えられる。
所領を取る
四条金吾が、桑ヶ谷問答に事寄せて主君から領地を没収されたことはその一例である。
講義
本章は、日蓮大聖人こそ主師親三徳具備の仏たることを明かされ、その大聖人を、用いないばかりか、逆に流罪・死罪に処した日本国の人々、とくに、浄土宗の人々が、仏法の因果律によって、無間地獄に堕ちる事は、決定的であると述べられている。
日蓮大聖人が「釈迦仏の御使」「法華経の行者」であることは、法華経を読んだ者なら、当然納得できることである。それ故にこそ、大聖人は一往の外用の辺で、これを仰せられたのである。したがって、それすら用いないのは不思議であるといわれているのである。
日蓮は日本国の人人の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背ん事よ
ここは、先の外用の辺の仰せに対して、内証の立場を明らかにされたところである。
第四章で、教主釈尊が日本国の一切衆生の主師親であると述べられたことの元意が、この一文により明らかとなる。すなわち大聖人こそが日本国の一切衆生の主師親三徳を具えた末法の御本仏であることを示すために、その伏線として教主釈尊が主師親三徳具備の仏であることを示されたのである。
第十一章(種々指南して決する)
本文
抑蒙古国より責めん時は如何がせさせ給うべき、此の法華経をいただき頚にかけさせ給いて北山へ登らせ給うとも・年比念仏者を養ひ念仏を申して、釈迦仏・法華経の御敵とならせ給いて有りし事は久しし、又若し命ともなるならば法華経ばし恨みさせ給うなよ、又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき、おこがましき事とはおぼすとも其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ、又是はさてをきぬ、此の法華経をば学乗房に常に開かさせ給うべし、人如何に云うとも念仏者・真言師・持斎なんどにばし開かさせ給うべからず、又日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず、恐恐謹言。
五月八日 日蓮花押
一谷入道女房
現代語訳
そもそも、蒙古国から攻めてきた時には、どのようにされるのであろうか。
この法華経を頭にいただき、頚にかけられて、北山へ登られようとも、あなたは数年の間、念仏者を供養し、念仏を称えて、釈迦仏・法華経の御敵となられてきた事は、久しい期間になる。
また、もし命を失うことになったとしても、決して法華経を恨んではなりません。また、閻魔王宮に行ったとき、何と仰せになるであろうか。おこがましいこととはお思いになろうとも、その時には「日蓮の檀那である」と仰せになることであろう。
また、この事はさておくとして、この法華経を、学乗房に常に開かせ、お聞きになられるがよい。人がどのようにいおうとも、念仏者・真言師・持斎などには、決して開かせてはなりません。
また、日蓮の弟子と名乗るとも、日蓮の判を持たない者を、信用されてはなりません。恐恐謹言。
五月八日 日 蓮 花 押
一谷入道女房
語釈
閻魔王宮
閻魔王の住んでいる宮殿。その住処について長阿含経巻十九には、閻浮提の南の大金剛山内に閻羅王宮があり、その規模は縦広六千由旬であると説き、また、大毘婆沙論巻一七二には閻浮提の地下五百由旬に閻魔王宮があり、一切の鬼神の住処であると説かれている。なお、その住処については諸説がある。
学乗房
(~1301)。日蓮大聖人御在世当時の弟子。日静のことと思われる。佐渡一谷の人。初め真言宗徒であったが、後に大聖人に帰依し、実相寺を開いて佐渡の弘法に努めたという。
持斎
斎は戒法の一つで、八斎戒を持つことを持斉という。ここでは律宗・禅宗等の僧をさす。
判
印鑑・実印。
講義
この手紙を終えるにあたり、蒙古国が攻めてきた場合や、それにより命を失った場合などこまごまとした注意を、一谷入道女房にされているところである。
三世の生命観の上から、現世のみならず、来世の身の処し方までも、こまごまと女房に教示されているのである。日蓮大聖人の慈悲の深さと広大さが、しみじみとうかがわれる最終章である。