撰時抄

撰時抄

 

  1. 撰時抄 第一章(時の要なるを標す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
        1. 時間について
  2. 第二章(仏法は時によるを明かす)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義            
      1. 一字は如意宝珠・一句は諸仏の種子等
  3. 第三章(機教相違の難を会す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 機にあらざるに大法を授けられば……
      2. 無智悪人の国は摂受を先とする
  4. 第四章(正像末に約して滅後の弘教を明かす)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 五の五百歳・二千五百余年に人人の料簡さまざまなり
      2. 法華経の肝心たる南無妙法蓮華経
      3. 八万の国あり、八万の王あり
  5. 第五章(経文を引いて証す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 前代未聞の大闘諍……の小僧を信じて
      2. 南無釈迦牟尼仏……南無妙法蓮華経……と一同にさけびし
      3. 広宣流布実現の時
  6. 第八章(正法の後の五百年の弘教)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 始には外道の家に入り
  7. 第九章(像法の初めの五百年の弘教)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 大小を分けず権実をいはずしてやみぬ
      2. 南三・北七と申して仏法十流にわかれぬ
  8. 第十章(像法の後の五百年の弘教)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 其の中に二宗あり所謂法相・三論宗なり
  9. 第十一章(日本に六宗の伝来)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 仏教と日本の国
      2. 小乗の戒壇を東大寺に建立
  10. 第十二章(天台宗の弘通)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 小乗の別授戒、大乗の別授戒
      2. 大小権実の戒の功徳の相違
      3. 末法には法華本門の戒
  11. 第十三章(妙法流布の必然を明かす)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 一閻浮提に闘諍起るべき時節なり
      2. 法華経の結縁なき者のために
      3. 後五百歳に一切の仏法の滅せん時
  12. 第十四章(能弘の師徳を顕わす)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 仏の御使として南無妙法蓮華経を流布
      2. 蒙古のせめ乃至兵難に値うべし
      3. 教主釈尊記して云く末代悪世に等
  13. 第十五章(総じて問答料簡す)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
        1. 浄飯大王・摩耶夫人に観仏三昧経・摩耶経をとくべからず
        2. 覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず
        3. 不軽菩薩は誹謗の四衆に向つていかに法華経をば弘通せさせ給いしぞ
    4. 講義
      1. 像末に対すれば最上の上機なり
  14. 第十七章(天台大師の弘通)
    1.  本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 玄文止観の大要 
        1. 玄義十巻
        2. 文句十巻
        3. 止観十巻
      2. 天台大師に帰伏等

撰時抄 第一章(時の要なるを標す)

 本文

撰時抄   建治元年  五十四歳御作
  釈子日蓮述ぶ
  夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし、過去の大通智勝仏は出世し給いて十小劫が間一経も説き給はず経に云く一坐十小劫又云く「仏時の未だ至らざるを知り請を受けて黙然として坐す」等云云、今の教主釈尊は四十余年の程法華経を説き給はず経に云く「説く時未だ至らざるが故」と云云、老子は母の胎に処して八十年、弥勒菩薩は兜率の内院に籠らせ給いて五十六億七千万歳をまち給うべし、彼の時鳥は春ををくり鶏鳥は暁をまつ畜生すらなをかくのごとし何に況や仏法を修行せんに時を糾ざるべしや、

現代語訳

  釈迦仏の弟子・日蓮が述べる。
 一体、仏法を修学するの道は、必ず時を習わなければならない。
 このことを三世の諸仏について考えてみるならば、過去三千塵点劫の昔に出世した大通智勝仏は、出世してから十小劫の間、一経も説かなかった。このことを、法華経化城喩品第七には「一坐十小劫」と説き、また「仏は法を説くべき時が、いまだ来ていないことを知っていたから、説法を請い願われても黙然と坐していた」等と説かれている。次に、今の教主釈尊は、成道してから四十余年の間、出世の本懐たる法華経を説かなかった。このことを法華経方便品第二には「説く時がいまだ来ていなかったから、真実の無上道たる法華経を説かなかった」といっている。
 外道の法でも、老子は母の胎に八十年いて時を待ったという。次に未来仏たる弥勒菩薩は兜率の内院にこもり、五十六億七千万歳の間、出世の時を待っているといわれている。彼の時鳥は、春の終わろうとする初夏を待って鳴き、鶏鳥は暁を待って鳴く。畜生すら、このように時を違えないのであるから、まして仏法を修行しようとする者が、時を糺明しないでよいだろうか。必ず時というものを、はっきりと認識してかからなければならないのである。

語釈


 ここでいう時とは、現代人の考える時間をいうのではなくて、「一時、仏は王舎城の耆闍掘山の中に住したまい……」等と説かれる時であり、衆生の機と仏の応とが相応ずる時をいう。

大通智勝仏
 三千塵点劫の昔に出現して法華経を説いた仏。法華経化城喩品第七に説かれる。大相劫、好成国に出現し、出家する以前に十六人の王子がいた。道場に坐して魔軍を破し終わった後、十小劫じっと坐ってついに悟りを得た。成道後、十六王子や諸梵天王の請いによって四諦・十二因縁の法を説き、十六王子もまた出家した。更に二万劫を経て十六王子の請いによって八千劫の間、法華経を説いた。この時、法華経を信受したのは十六王子と少数の声聞以外はだれも信解せず、ついに静室に入り八万四千劫の間、禅定に住した。その間、十六王子はそれぞれの国で広く法華経を説き、おのおの六百万億那由佗恒河沙等の衆生を信解させた。これを大通覆講といい、この時、法を聞いた衆生は大通結縁の衆という。大通智勝仏は八万四千劫の禅定の後、法座に登って十六王子の法を信受した者は成仏すると説いた。この十六王子の第十六番目が釈尊である。なお三千塵点劫とは、法華経化城喩品第七において、釈尊が衆生との結縁を明かすなかで述べられている。すなわち、三千大千世界(一人の仏の教えが及ぶ範囲とされる)の国土を粉々にすりつぶして塵とし、千の国土を過ぎるごとにその一塵を落としていって塵を下ろし尽くし、今度は一塵を下ろした国土も下ろさない国土も一緒にしてまた粉々にすりつぶして、その一塵を一劫とし、その膨大な数えきれない劫以上の無量無辺の長い時間をいう。

老子は母の胎に処して八十年
 玄妙内篇に「李母懐胎八十一歳、李樹下を逍遥し乃ち左腋を割って生まる、生まれて白首、ゆえにこれを老子という」とある。中国・六朝時代の道教の書籍にある文。

時鳥
 ホトトギスは、夏に日本に飛来する夏鳥。日本では古来、ホトトギスは夏の到来を告げる鳥とされ、時鳥などと書かれ、その初音(その年初めて鳴く声。忍音という)を聞くことが待ち望まれた。カッコウと混同され、「郭公」と表記されることもある。

鶏鳥
 「くたかけどり」とも読む。鶏は古名を「かけ」「くたかけ」「くだかけ」という。鳴く声からの命名という。鶏鳥もまた、時を知る鳥である。

講義

この章は、仏法を修学するものが、必ず時を習うべきことを明かされている。その理由として、過去の大通仏、現在の釈迦仏、未来の弥勒菩薩について明かし、また外道の聖賢たる老子と、畜生たる時鳥、鷄等も時を待つことを例証に引かれている。
 なにゆえに「必ず先ず」と時を重視するかといえば、次のように、宗教の五綱がことごとく時代によって相違するゆえである。すなわち、第一に教についていえば、正法時代が小乗教、権大乗教であり、像法時代は法華経の迹門、末法は独一本門の流布すべき時である。第二に機を論ずれば、正像は本已有善の機であり、末法は本未有善である。第三に時は今の論点であり、第四に国を論ずれば、正像にはインドの釈迦仏法が東に流れ、末法に入っては日本の日蓮大聖人の仏法が西へ流れる。第五に教法流布の先後とは、末法においては正像に流布した大小権実がことごとく無益となり、ただ寿量品文底下種の大白法が流布すべき時である。このように時によってすべてが決定されるゆえに「必ず先ず時を習うべし」とおおせられるのである。
 如説修行抄にいわく「されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる春種子を下して秋菓を取るべし秋種子を下して春菓を取らんに豈取らる可けんや、極寒の時は厚き衣は用なり極熱の夏はなにかせん、凉風は夏の用なり冬はなにかせん、仏法も亦復是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり」(0503:08)と。
 以上のように、時の一時を離れては、五綱を論ずることもできないし、また次のように判教の浅深も論ずることができないのである。すなわち、正法の始めの五百年はもっぱら内外相対を用い、次の五百年はもっぱら大小相対を用い、像法一千年はもっぱら権実相対を用いた。もししからば、末法はもっぱら本迹相対を用いるのである。如説修行抄の「純円一実の法華経」とは、本門寿量品の文底秘沈の大法である。
 機根もまた同じである。正像二時の機は本已有善であり、末法は本未有善である。国もまた同じで、正像弘通の権迹は月氏・震旦を始めとし、末法流布の本門は、日本国を始めとするのである。諌暁八幡抄にいわく「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(0589:01)と。
 このように、すべて時をもって本となして論ずるのである。時を知らずして、何を論ずることができようか。日蓮大聖人の滅後においても、その時代を大きく分けて、逆縁の広宣流布の時代と、順縁の広宣流布の時代とに分けられるであろう。
 日蓮大聖人御在世時代の弾圧迫害に始まり、数百年にわたる悲運の時代が続いた。この時代は逆縁の衆生のみが日本国中に充満し、国をあげて正法流布を妨害した。
 最後の迫害と日本国民の受けた総罰は、太平洋戦争であった。創価学会の牧口初代会長は、みずから折伏戦の陣頭に立たれて、国難を救い、世界人類の平和と幸福のために、三大秘法の広宣流布を叫ばれた。しかるに軍部と神道主義者たちは、誕生して間のない創価学会に弾圧を加え、昭和18年(1943)7月に幹部21人が投獄され、牧口会長は19年(1944)11月18日に、牢死なされて御身を御本尊に捧げられたのであった。その謗法の結果は、日本の国は戦いに敗れ、数百万にのぼる戦死者を出し、国土は爆撃を受けて廃墟と化し、指導者たちは戦争犯罪人として死刑等の極刑に処せられ、国民大衆は苦痛のどん底へ落ちたのである。
 しかし、これを転機として、いよいよ順縁広布の時が来た。牧口会長の御意志を受け継いだ戸田会長は、創価学会を再建し、昭和33年(1958)の春までに、80万世帯を突破する大折伏を達成し、かくて広宣流布の基盤を築かれた上で、昭和33年(1958)4月2日、御逝去なされた。
 私は恩師の御遺命のままに、第三代会長に就任して、さらに一歩前進すべく、活動を開始した。しかして昭和39年(1964)には、折伏数は五百万世帯を突破し、日本国内はもとより、遠く世界の各国に学会員ができて、日夜、信心に折伏に励みつつある。
 いまや創価学会員のいない町や村はない。どこの町にも、どこの職場にも学会員がいるようになった。これこそ、順縁の広宣流布ではないか。観心本尊抄文段にいわく「兼ねて順縁広布の時を判ずるか」と。ここで「順縁広布の時」とは、観心本尊抄の「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(0254:01)の文である。
 この文を日寛上人は、法体の折伏と化儀の折伏に判ぜられた。すなわち日蓮大聖人の行じられた折伏は法体の折伏であって、化儀の折伏に相対する時は摂受といえるのである。化儀の折伏とは、権力との戦いである。この場合には、昔は「威儀を修せず応に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」(0028:立正安国論:09)というように武力を持って戦い、今日ではあらゆる文化活動を通じて、広宣流布を実現していくのである。今こそ順縁広布の時代であり、化儀の折伏を行じ、化儀の広宣流布を実現すべき時代なのである。

時間について

 仏法において「時」を論じている中に、衆生の機根と仏とが相応ずる時、正像末の三時、五時八教等の「時」がある。そのほか、生命は永遠であり無始無終であるという哲理、あるいは法華経涌出品における「五十小劫、半日の如し」等、まことに仏法では多種多様にわたり時間について説いている。
 一般の人は、時とか時間といえば、すぐ時計の動きを思い、哲学者は時間と空間等について観念的に思索し、天文学者や科学者は天体間の相対運動や光速度や相対性理論などを考えていく。古来、時間の問題は、哲学や自然科学等の分野でも、ひじょうに難解とされ、いまだに解明されきってはいないのである。
 しかし、仏法においては、すでに三千年前から深遠なる時間論を説いており、仏法で説く時間こそ、真実の時間であるといっても過言ではない。とくに日蓮大聖人の仏法で説く、久遠元初、久遠即末法、久末一同等の時間に対する考え方は、それ自体、偉大なる最高の哲学である。そしてアインシュタイン博士が提唱した有名な相対性理論等で説く時間も、仏法で説く、これらの時間論の一部であると思われるのである。
 仏法では、生命活動を中心とした時間を深く説ききっている。すなわち、実際生活で感ずる時間を重視する。ここから時間の本質が究明されている。そして、時間とは、生命活動にそなわる特性であり、宇宙生命の活動や変化によって感ずるものであるとしている。そして、いわゆる物理的時間は、これらの考え方の上にたって、用いていくのである。
 ここで、第一に物理学的時間から定められて、日常生活に用いられている時間を論じ、第二に物理学的時間の中でも、アイザック・ニュートン(Isaac Newton)の絶対時間と、アルベルト・アインシュタイン(AlbertEinstein)の相対時間とを論じ、第三に仏法で説く時間の本質について、かんたんに論じてみよう。
 第一に、われわれが、ふつう日常生活で使っている時間とは、どんなものであろうか。時間は、第一に「午前八時十分に出勤した」というような一瞬間の時刻と、第二に「試験時間は三時間である」というような継続した時間とがある。いずれも、地球の公転と自転とによって定めた時間である。
 われわれの日常生活は、ニュートンの絶対的な数学的な時間を考えて、ほとんど不自由はない。すなわち時間は同じ速さで経ち、もし外界からの力がなければ地球は同じ速度で自転、公転をつづけているとして、約束の上で定めた共通な時間である。太陽のまわりを地球が公転し、春夏秋冬をくり返すのを一年と定め、地球の自転で昼と夜をくり返すのを一日と考え、これを等分して時間を定めた。
 現代のように、一日を24時間に分けたのは、古代エジプト人である。すなわち太陽を中心に生活した古代エジプト人は、西紀前4000年ごろ、三六五日を一年とする太陽暦を用い、西紀前3000年ころには、昼と夜を、それぞれ十二時間に分けた。同じくバビロニアにおいても西紀前八世紀ごろには昼夜をおのおの12時間に分けて、時間を定めていた。また一日を十二時に分ける方法も行われた。これらの思想がギリシャ、ローマにおいて発展して、いろいろな形をへて今日にいたっている。日本や中国でも、いわゆる子丑(等の十二支による二倍時間が長い間使われてきた。
 現在の時間は、同じように、一日を24時間として、一時間を六十分、一分を60秒としているが、一日の時間、一時間の時間に、それぞれ平均太陽日、平均太陽時を用いている。なぜなら、昔のように、太陽がある地点の子午線(北極と南極を結ぶ大円)を経過してから、また同じく子午線を経過するまでの時間を一日とする真太陽日を用いることは、地球の軌道が円ではなく楕円であるため、一日の長さが一年を通じて一定でないからである。平均太陽日は、一年を通じて同じ速さで黄道上を運動している仮想の太陽を考えて作った時間であり、平均太陽時は、その1/24の時間である。実際には、恒星を観測してえた真恒星時から、平均恒星時を算出し、平均太陽時に概算している。一年は365.2422平均太陽日であり、365日5時間46分48秒となる。
 また、最近では、地球の自転速度には、なお原因不明の変動があるため不規則をまぬがれず、より正確を期して、地球の公転周期にもとづく定義にかえられた。すなわち1900年初めの時点ではなかった一太陽年(太陽が春分点から春分点までかえる時間)の31556925.9747分の一を一秒ときめた。さらに正確な時間の決定のために、アンモニア分子の中の窒素原子の振動や、セシウム原子の中での振動の周期を利用した原子時計の研究等も進められている。いずれにしても、地球の公転と自転、あるいは原子の振動などとによって定めた時間であるから、絶対的な客観的な時間とはいいがたい。
 次に平均太陽がイギリスの有名なグリニジ天文台にあるグリニジ子午線を通過する時刻の十二時間前を0時として、これをグリニジ標準時間といい、全世界の地方標準時の基準としている。各国では、グリニジ標準時と整数時間の差をもつ標準時を定めている。日本では東経一三五度を標準時としているため、グリニジ標準時より九時間だけ早い。 
 ジェット機の発達につれて、海外旅行の際、よく時差のために悩まされる。時差とは地球上の各地方の標準時が示す時刻に、10時間とか15時間とか差があることである。24時間を単位とした規則正しい生活が、時差のある新しい生活に身体がなれるまで大変なわけである。
 第二に相対性理論というものは、いかなるものであろうか。ニュートンいらいの古典物理学では、時間、空間は絶対的なものとされてきた。ところがアインシュタインの特殊相対性理論、つづいて一般相対性理論によって、時間、空間はすべて絶対的なものではなく、相対的なものであるという、新しい概念におきかえられた。
 アインシュタインが相対性理論を発表するまでは、ニュートンの古典力学が、用いられていた。ニュートンはプリンシピア(Principia)という有名な著書に、時間と空間の絶対性を説いて「①絶対的な、真の、かつ数学的な時間は、ひとりでに、それ自身の性質として、外界のどんなものとも無関係に、いちように経っていく。②絶対な空間は、それ自身の性質として、外界のどんなものとも無関係に、つねに同一であり、かつ不動である」といっていた。そして、これを誰も疑うものはなかった。
 しかるに、アインシュタインは、時間と空間は、決してこのように無関係に別個に独立して存在するのではなく、きわめて密接に関係しあっている。すなわち、時間も空間も、どちらかの一方だけでは存在できないで、おたがいに関係しあっているものである。そして、宇宙のすべてのものは、時間と空間をもちながら、つねに休むことなく運動と変化をつづけており、われわれも時間を第四の次元とする四次元の世界に住んでいるという。四次元とは、空間が、タテ、ヨコ、高さを持つ三次元で、時間の概念を加えると四次元になるわけである。
 これを具体的にいえば、時間は相対的であり、あらゆる場所で、全く同様には測定されないのである。相対性理論の世界は、高速度に関係が深い。光速度は一秒に約30万㌔であるが、宇宙のかなたの星は何万何億光年も遠い先にある。すなわち十万光年の星の光は、十万年前に輝いた星の光を今われわれがようやく眺められるわけである。しかし地球上では、この光速度が、われわれの生活の各速度とくらべてあまりにも大きいので、ほとんど相対性理論の影響を感じないが、光速度が関係して、実際には、わずかでも次のような奇妙なことがおこるという。
 すなわち特急列車の中で、二人の人が同時に別の場所で、それぞれタバコに火をつけたとする。しかし地面に立っている人から見れば、決して火のつけ方は同時ではないというのである。これは宇宙の天体間の事件に拡大して考えれば納得できるであろう。このように、異なった場所におこった二つの事件が、ある場所からみて同時であったとしても、他の場所からみれば同時ではなくなり、一定の時間だけへだたっていることになる。
 そのほか、光速度以上の速度は絶対に出せない。また、速度が増すにつれて、時間はおくれるようになり、光速度に近づけば、ひじょうに時間がおくれるようになり、光速度の速さの物体では生命の変化や運動が感ぜられないから時間も感ぜられないことになる。また、科学解説者ガモフ(George Gamow)によれば、将来いつか宇宙船が地球から発船して太陽系の他の惑星や、われわれの銀河系内でも近くの恒星の惑星を訪れて地球に帰ってきた操縦士や乗客は、ずっと地球上にいた人よりも年をとらないで若いこともありうるという。そして、これは帰ってくるときの方向転換のために大きな加速度をうけることを考えれば、数学的に証明できるという。
 かくして、非現実的ではあるが、八光年離れているシリウス星まで、一年間で光速度の九十八㌫に達する宇宙船にのれば、九年で帰ってこれるが、地球上に住む人からみれば、十六年後にやっと帰ってくるという計算になるという。また銀河系宇宙の中心まで一定速度で往復旅行をすれば、地球上の暦では四万年かかるが、宇宙船自体の時計では、わずか三十年しかかからぬという。
 もちろん、これらは時間と空間の相対論的性質を示す一つの話にすぎない。現実には、いかにイオンロケットや原子力をもちいても、遠い恒星や惑星まで旅行できるような宇宙船は作ることはできないからである。
 しかし、このような時間と空間の相対性は、もはや否定することができない。そして、宇宙時代の発展と共に、種々の分野に影響をあたえずにはおかないであろう。また、この相対性理論における時間、空間の問題は、哲学、思想上にも、大きな影響をあたえずにはおかなかった。ただ、東洋仏法の真髄のみが、相対性理論いな、それ以上の時間空間論を説ききってきたことは、偉大なる大仏法哲学を究明することによって知れるのである。
 時間は、宇宙生命の変化、運動によって、われわれが感ずるものであり、また地球の公転や自転のように、ほぼ規則正しい運動を利用して、われわれが決定したものである。このように、相対性理論が唱えられたことによって、仏法の説く時間の正しさが、証明されることになったのである。そして、あくまでも宇宙生命の存在、変化、運動が主体であるから、光速度以上の速度を考えて、歴史を逆行させるというような空論が、事実として成立するわけのものではないことは当然である。すなわち仏法哲学よりみれば、因果の二法によって成り立つ現象界が、逆戻りすることはありえないから、とうぜん時間の可逆性は成り立たない。また公転や自転の速さが異なる他の天体においては、当然、地球で感ずる時間とは異なるわけである。とくに仏法哲学においては、客観的な時間ではなく、生命活動を中心にした主観的な時間を説いている。これは現代科学における時間の考え方をリードする思想といえよう。
 すなわち、第三に、仏法においては、それぞれの生命の感ずる時間をもって、その時間としている。しかして、ひじょうに楽しい境涯のとき、たとえば十界の中では天界の境涯の時には、じつに時間の進みが早い。このような時には、たしかに三時間、四時間も、三分四分ほどにしか感じないものである。ゆえに、このことは、われわれの生活感情から、容易に首肯できるであろう。
 その反対に、ひじょうに苦しい悩みの多い日常生活にあっては、苦痛の一日が早く終わればよいと感じながら、一日がひじょうに長く感ぜられるものである。すなわち時間の経つのが遅く感ぜられる。ゆえに、地獄界にあっては、時間が経つのが遅く感ぜられ、それだけ苦痛が多いわけである。
 このように、生命活動の果報としてえられる時間は、時計ではかる時間とは、違って、すべての時間の長短は、その時の十界三千の果報によって決定されてくる。たとえば、深い眠りに入っているような時は、生命活動の上に意識が消えてしまって、時間がまったく感ぜられない。死んだ後にわが生命が宇宙生命に冥伏した時も同様である。そして、翌朝眠りから覚めて、縁によって思い出す中に、過去を感ずるのである。
 御義口伝にいわく「第三我実成仏已来無量無辺等の事 御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり……仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」(0753:第三我実成仏已来無量無辺等の事:01)と。
 同じく御義口伝下にいわく「久遠とははたらかさず.つくろわず.もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云」(0759:第廿三 久遠の事:01)と。
 過去、現在、未来という時間について「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」とおおせである。これは現在の一念、現在の一瞬の中に、過去も未来も、すべて含まれているという重大な御教示と拝するのである。また、総勘文抄にいわく「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(0562:08)と。過去、現在、未来と表面的に区別することはできるが、生命の本源からみれば、区別できないとおおせられている。
 生命活動の本源をたどれば、究極は現在の瞬間の生命にあることがわかる。過去というものを考えれば、あるものを縁として過去を思い出すゆえに、過去の実在を知りうるのである。思い出すということがなかったら、過去があったのか、なかったのか、全くわからない。記憶を再現することは、一瞬間の生命の働きであり、一瞬の生命を成(ひら)いて過去の生命活動を涌現したのである。ゆえに現在の一瞬の生命活動があるゆえに過去があり、過去は現在の一瞬にすべて包含される。また、将来起ころうとすることを考え、未来を認め、未来を確信するのも、現在の一念の働きであり、現在の一瞬の生命活動の用といいうる。たしかに、いま現在と思った刹那はすぐに過去となり、未来もたちまち現在となり、過去となる。したがってこの瞬間の生命に、過去、現在、未来があるのである。
 さらに一瞬の生命に因果を有しており、過去のすべての因が現在の果となり、現在の因が未来の果を生ずる。そして因果俱時不思議の一法を南無妙法蓮華経と名づけたのである。御義口伝には「元初の一念一法界より外に更に六道四聖とて有る可からざるなり所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり」(0788:02)とある。百六箇抄に「久遠一念元初の妙法……」(0867:01)また本因妙抄に「久遠一念の南無妙法蓮華経」(0871:09)等とある。
 かくして、過去も未来も、すべて現在の一瞬に含まれ、一瞬一瞬の生命活動が変化しつつ連続するのが永遠である。現在の一瞬の生命のうちに、過去永遠の生命を包含し、未来永劫の生命を包含する。久遠の生命も一念の生命におさまるのである。次に久遠即仏法とは、すなわち「久遠とははたらかず・くつろわず・もとの儘」であり、生命活動の本質をたどってみれば、究極は一瞬であり、それをさして久遠元初ともいい、末法ともいうのである。しかして、久遠元初も末法も、ともに三大秘法の南無妙法蓮華経のみがひろまる時なるがゆえに、すなわち久遠即末法、久末一同ではないか。
 所詮、仏法哲学よりみれば、われわれの生命活動なくして、時間はない。われわれの生命活動を根本として、宇宙生命の運動、変化から感じ取っていくのが、真実の時間であるといいうるのである。このように、仏法で説く時間こそ、時間の本質なりと主張するものである。



第二章(仏法は時によるを明かす)

 本文

  寂滅道場の砌には十方の諸仏示現し一切の大菩薩集会し給い梵帝・四天は衣をひるがへし竜神八部は掌を合せ凡夫・大根性の者は耳をそばだて生身得忍の諸菩薩・解脱月等請をなし給いしかども世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし即身成仏・一念三千の肝心、其義を宣べ給はず、此等は偏にこれ機は有りしかども時の来らざればのべさせ給はず経に云く「説く時未だ至らざるが故」等云云、霊山会上の砌には閻浮第一の不孝の人たりし阿闍世大王座につらなり、一代謗法の提婆達多には天王如来と名をさづけ五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる、決定性の成仏は燋種の花さき果なり久遠実成は百歳の叟・二十五の子となれるかとうたがふ、一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず、されば此の経の一字は如意宝珠なり一句は諸仏の種子となる此等は機の熟不熟はさてをきぬ時の至れるゆへなり、経に云く「今正しく是れ其の時なり決定して大乗を説かん」等云云。

現代語訳

仏教は相手の衆生(機)によって法を説くよりも、むしろ時によって説くべき教法が決定されてきている。

 すなわち釈迦仏が最初成道して華厳経を説法した寂滅道場の時には、十方の諸仏が示現し、いっさいの大菩薩はその会座に来集せられ、大梵天・帝釈天・四天王は衣をひるがえして集まり、竜神・八部衆は掌を合わせて仏を礼拝し、凡夫、大根性の者は耳をそばだてて仏の説法を聞かんと欲し、無生忍を証した生身得忍の諸菩薩・解脱月菩薩が墾ろに説法を請うている。このような華厳経の会座においてさえ、仏は法華経の肝心たる二乗作仏・久遠実成をば隠してその名字すら説かなかった。また即身成仏・一念三千の法門は、じつに一代仏教の肝要であり、極理であるが、華厳経にはその義を説き明かさなかったのである。このように、爾前四十余年の諸経では、上根上機の衆生があったけれども、いまだ法華経を説くべき時がこなかったので、述べなかったのである。ゆえに法華経方便品第二では「説く時いまだ至らざるゆえ」と説いているのである。

 さて、いよいよ霊鷲山において法華経を説くにあたっては、父の頻婆沙羅王を殺して世界第一の不孝者となった阿闍世王も、その会座に連なり、一生の間、謗法を犯しつづけた提婆達多には天王如来の記を授けられ、女人として罪深い五障の竜女は、蛇の身を改めないで畜生のままで即身成仏の現証を示した。決定性の二乗は、永遠に二乗の境地から抜け出ることができないはずだったのに、その二乗すら成仏すると説かれたことは、あたかも燋れる種がふたたび芽を出し花が咲き果がなったようなものであり、また本門へ入って久遠実成を説く時には百歳の老人が二十五の若い子供になったかと疑わしめた。すなわち老人とみられた地涌の大菩薩たちを、実は釈尊が五百塵点劫のその昔に成道して已来教化してきたのであると説いた。しかして、一念三千は九界即仏界・仏界即九界と説いて本有常住の十界互具を説き明かした。されば、この法華経の迹門も、本門も爾前経に対すれば、その一字が如意宝珠であり、法華経の一句は諸仏の種子となっている。

 さて、このように爾前四十余年と法華経八年が相違するのは、衆生の機根の熟・不熟はさておいて、時のいたれるゆえである。法華経方便品第二に「今正しくこれその時なり、決定して大乗を説く」と説いているのは、この意である。

語釈

寂滅道場

 寂滅は覚りの境地。道場は覚りを得る場所。釈尊が今世ではじめて覚りを開いた、伽耶城(ガヤー)の菩提樹の下のこと。華厳経が説かれた所としても知られる

生身得忍

 現在の身(生身)のままで無生法忍を得ること。無生法忍とは、一切のものは空であり固有の実体をもたず生滅変化を超越しているという道理を受け入れること。大智度論などでは、この生身得忍は不退の菩薩の段階で得られるという。

解脱月

 華厳経の会座に来集した菩薩の一人。金剛蔵菩薩が菩薩の修行の階位である十地の名を説いた後、詳説しなかったので、解脱月菩薩は聴衆を代表して金剛蔵菩薩にその義を説法することを請うたとされる。その要請によって十地品が説かれている。

阿闍世大王

 梵名アジャータシャトル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って釈尊を殺そうとするなどの悪逆を行った。後、体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど仏法のために尽くした。

提婆達多

 梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写。また調達とも書く。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従弟とされるが異説もある。出生のとき諸天が、提婆が成長の後、三逆罪を犯すことを知って、心に熱悩を生じさせたので、天熱と名づけたという。釈尊が出家する以前に悉達太子であったころから釈尊に敵対し、悉達太子から与えられた白象を打ち殺したり、耶輸陀羅女を悉多太子と争って敗れたため、提婆達多は深く恨んだ。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。最後は、王舎城の中で、大地が自然に破れて生きながら地獄に堕ちたとされる。しかし法華経提婆達多品第十二で釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に千年間仕えて法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられ悪人成仏が説かれた。

竜女

 海中の竜宮に住む娑竭羅竜王の娘で八歳の蛇身の畜生。法華経提婆達多品第十二には次のように説かれている。竜女は、文殊師利菩薩が法華経を説くのを聞いて発心し、不退転の境地に達していた。しかし智積菩薩や舎利弗ら聴衆は竜女の成仏を信じなかったので、竜女は法華経の説法の場で「我れは大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」と述べ、釈尊に宝珠を奉った後、その身がたちまちに成仏する姿を示した。竜女の成仏は、一切の女人成仏の手本とされるとともに、即身成仏をも表現している。

決定性の成仏

 法相宗では、衆生が本来そなえている仏法を理解し信じる資質を五種類に分ける五性を説いた。そのうちの三つは、声聞・縁覚・菩薩の境地を得ることが定まっているので決定性と呼ばれた。この決定性の二乗(声聞・縁覚)は、法華経以外の大乗経では、自身が覚りを得ることに専念することから利他行に欠けるとして、成仏の因である仏種が断じられて成仏することはない(永不成仏)とされた。それに対し法華経迹門では、二乗にも本来、仏知見(仏の智慧)がそなわっていて、本来、成仏を目指す菩薩であり、未来に菩薩道を成就して成仏することが、具体的な時代や国土や如来としての名などを挙げて保証された(二乗作仏)。

如意宝珠

 意のままに宝物や衣服・食物等を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭魚の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状、芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」、また御義口伝には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」と仰せである。

一句は諸仏の種子

 法華経の一字一句は一念三千の宝珠である。ゆえに三世の諸仏を出生する種となる。普賢経にいわく「此の大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」というのがこの意である。しかるに末法においては、寿量品文底下種の一念三千こそ唯一の即身成仏の仏種である。開目抄上にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(189:02)と。秋元御書にいわく「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072:06)と。

講義            

この章では、仏が説法するにあたって、どのような法門を説くかは、衆生の機根によって決定されるのではなく、むしろ時が来たか来ないかによって決定されることを明かされている。

 その例として、この章では、寂滅道場すなわち華厳経の説法と、霊山会上すなわち法華経の説法とを比較されている。華厳経の時は、十方の諸仏、一切の大菩薩、梵帝四天等が集まったにもかかわらず、二乗作仏、久遠実成、一念三千等の肝要の法門は一つも説かなかった。

 法華経の説法の時には、この世界中で第一の不孝者といわれる阿闍世王や、一代を通じて仏を誹謗した提婆達多や、畜生の竜女さえ、その座につらなって説法を聞いている時に、二乗作仏、久遠実成、一念三千と説いて、一切衆生の即身成仏を説き明かしたのである。要するに華厳経の時には「説く時いまだいたらざるゆえ」に説かなかったのであり、法華経の時には「今正しくこれその時なり」で、時が来たゆえ、一念三千即身成仏という釈尊出世の本懐、一代聖教の肝要・真髄を説き明かしたのである。このように、仏は、善人のためには大法を説かず、悪人のために大法を説くゆえに、仏法は機によらず専ら時によるというのである。

 このように、仏は時に相応する経法を説き、また時代相応の教法を定めておいてある。仏道修行者は、まずその時代相応の教を求め、時代相応の修行をしなくてはならない。爾前四十余年に法華経を修行したり、後八年に爾前経を修行しても、得道のできるわけがないのである。仏滅後においても、次のように、時代によって機感相応の相違がある。三大秘法抄にいわく「正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり、像法一千年には法華経の迹門・機感相応せり、末法の始の五百年には法華経の本門・前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり機法相応せり」(1021:14)と。

 このように教法の流布は、時を知り、時代に応じなければならないのである。

「今正しく是れ其の時なり」との法華経方便品の文は、正しく化儀の広宣流布を達成すべき現代のための経文であることを痛感する。政治の根底に、教育の根底に、あらゆる文化の根底に、偉大なる思想理念、偉大なる窮境哲学を求める声が、今日ほど強い時はない。

 しかして、悠久なる大河のごとく、峨峨たる大岳のごとく、伝承されてきた東洋仏法の真髄のみが、よく人類を救う指導理念たりうることを確信して止まない。この大理念が、いよいよ時に応じて、すべての民衆の宝珠として用いられる黎明の時代がきたのである。

一字は如意宝珠・一句は諸仏の種子等

 語訳の項で説明したように、法華経には一念三千を説いてあるから、法華経は如意宝珠であり、諸仏の種子となるのである。爾前経には一念三千がないから、どんなにりっぱなことが説いてあっても、成仏の種子とはならないのである。しからば、法華一部八巻が、そのまま末法の下種本門となるかというに、そうではない。およそ末法下種の正体とは、久遠名字の妙法・事の一念三千である。これすなわち文底深秘の大事で、日蓮大聖人の出世の御本懐であらせられるのである。それは次の御抄に明らかである。開目抄上にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189:02)と。

 本章の御文は前に示すとおり、権実相対の文であって、華厳と法華経とを比較して、勝劣浅深を判ぜられたのである。同様の御文で、観心本尊抄に「爾前迹門の円教尚仏因に非ず」(0249:07)と判ぜられているのは、本迹相対である。さらに同抄に「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249:17)の御文は正しく種脱相対である。

 秋元御書にいわく「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072:05)と。曾谷入道殿許御書にいわく「而るに今時の学者時機に迷惑して……題目の五字を以て下種と為す可きの由来を知らざるか」(1027:15)と。

 以上の御抄のうちで、観心本尊抄では「但」と判じ、秋元抄では「必ず」と判ぜられているが、いずれも日蓮大聖人御内証の寿量品によってのみ成仏がかなうことをお示しになっているのである。観心本尊抄にいわく「所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず」(0250:09)と。これすなわち末法の下種本門の御事であり、末法における妙法弘通は地涌の菩薩にこそ託されたことを明かされているのである。



第三章(機教相違の難を会す)

 本文

  問うて云く機にあらざるに大法を授けられば愚人は定めて誹謗をなして悪道に堕るならば豈説く者の罪にあらずや、答えて云く人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや良医・薬を病人にあたう病人嫌いて服せずして死せば良医の失となるか、尋ねて云く法華経の第二に云く「無智の人の中に此の経を説くこと莫れ」同第四に云く「分布して妄りに人に授与すべからず」同第五に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り長夜に守護して妄りに宣説せざれ」等云云、此等の経文は機にあらずば説かざれというか、今反詰して云く不軽品に云く「而も是の言を作さく我深く汝等を敬う等云云四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り、悪口罵詈して言く是の無智の比丘○又云く衆人或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、勧持品に云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん」等云云、此等の経文は悪口・罵詈・乃至打擲すれどもととかれて候は説く人の失となりけるか、求めて云く此の両説は水火なりいかんが心うべき答えて云く天台云く「時に適うのみ」章安云く「取捨宜きを得て一向にすべからず」等云云、釈の心は或る時は謗じぬべきにはしばらくとかず或る時は謗ずとも強て説くべし或る時は一機は信ずべくとも万機謗べくばとくべからず或る時は万機一同に謗ずとも強て説くべし、初成道の時は法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の大菩薩、梵帝・四天等の凡夫・大根性の者かずをしらず、鹿野苑の苑には倶鄰等の五人・迦葉等の二百五十人・舎利弗等の二百五十人・八万の諸天、方等大会の儀式には世尊の慈父の浄飯大王ねんごろに恋せさせ給いしかば仏・宮に入らせ給いて観仏三昧経をとかせ給い、悲母の御ために忉利天に九十日が間籠らせ給いしには摩耶経をとかせ給う、慈父・悲母なんどにはいかなる秘法か惜ませ給うべきなれども法華経をば説かせ給はずせんずるところ機にはよらず時いたらざれば・いかにもとかせ給はぬにや。

現代語訳

問う、大法を聞くべき機根でないものが、いきなり大法を授けられるならば、愚人は定めて誹謗し、そのために悪道へ堕ちるならば、それこそ説くものの罪ではないのか。

 答う、ある人が大衆の便利をはかって路を作った。その路に迷うものがあるからといって、路を作るものの罪だといえるだろうか。良医があって、大良薬を病人にあたえた時に、病人は薬を嫌って服しないで死んだならば、それが良医の過失となるであろうか。すなわち、苦悩のどん底にある衆生に対して、御本尊を信じて幸福になれといった時、衆生は信じないで、さらに大きな苦悩へ陥っていった場合に、御本尊の大利益を説くものの罪となるであろうか。決して、そうではない。

 尋ねていわく、法華経の第二巻、譬喩品第三には「無智の人のなかにおいて、この経を説いてはならない」とあり、同じく法華経の第四巻、法師品第十には「この経を分布して妄りに授与してはならない」と。また同じく法華経の第五、安楽行品第十四には「この法華経は諸仏如来の秘密の蔵であり、諸経の中において、もっともその上にあり。ゆえに長夜に守護して妄りに宣説してはならない」と、このように説いてあるのは、相手が法華経を聞く機根でなければ説いてはならないというのではないかとの疑問を生ずる。

 今その疑問に対して反詰していわく、同じく、法華経の不軽品には「不軽菩薩が会う人ごとに我れ深く汝を敬うと礼拝した。これに対し四衆の中には不軽菩薩に対して瞋恚を生じ、心が不浄の者があり、不軽を悪口罵詈して無智の比丘だといい、又衆人は杖木瓦石をもって不軽菩薩を打ち迫害した」とあり、また勧持品には「仏の滅後に、この経を弘めるならば、多くの無智の人が悪口罵詈等し、および刀杖を加えて迫害する者があるであろう」と説かれている。これらの経文は悪口罵詈され刀や杖で打ち斬られても強いて法を説けといっている。相手が信じないからといって、どうして説法者の失となるであろうか。

 求めていわく、その両説は水火のごとく相容れないものであるが、どのようにこれを心得ていたらよいのであろうか。

 答えていわく、天台は「時に適うのみ」といって、摂受を行ずるか折伏を行ずるかは、時代によって異なると説き、章安は「取捨宜しきを得て、一向にしてはならない」といっている。すなわち、この釈の心は、ある時は謗ずるならば、しばらく説かないでいる。ある時はどんなに誹謗しても強いて説き聞かせる。またある時は、わずかに一機が信じても、万機の大衆が謗るならば説いてはならない。ある時は万機が一同に謗っても強いて説くべきである。このように、摂受と折伏とは、時によって異なるとの意である。

 さて、釈尊の初成道・華厳経の説法の時には、法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の大菩薩を初めとして、梵天・帝釈・四天王等の諸天や、凡夫・大根性の者が数知れず集まっていた。また阿含経を説いた鹿野苑の苑には、倶鄰等の五人の比丘・迦葉等の二百五十人・舎利弗等の二百五十人・八万の諸天が集まってきた。またついで説かれた方等大会の儀式には、釈迦牟尼世尊の慈父たる浄飯大王が、ねんごろに仏を恋い慕われたので、仏は王宮へお入りになったが、観仏三昧経を御説きになっている。また悲母のためには、忉利天に九十日の間こもらせたまいて、摩耶経をお説きになった。自分の慈父・悲母のためならば、どんな大法をも惜しむわけではないけれども、法華経をばお説きにならなかったのである。結局のところ、爾前経の間は、大菩薩や声聞や諸天や両親にさえ、法華経を説かなかったということは、仏の説法というものが、衆生の機根によって差別されるのではなくて、法華経を説くべき時がいまだこなかったゆえである。

語釈

法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵

 華厳経の説法の場に来集した菩薩。華厳経では、成道間もない釈尊の前に、この四菩薩を上首とする六十余りの菩薩たちが、十方の諸仏の国土より来集し、賢首菩薩・解脱月菩薩などの要請に応じて、菩薩の修行段階である五十二位の法門を説いた。すなわち、法慧菩薩は十住を、功徳林菩薩は十行を、金剛幢菩薩は十回向を、金剛蔵菩薩は十地を説いた。華厳経では、釈尊自身は何も法を説かず、菩薩たちが仏の神力を受けて説いたとされる。仏の覚りは言葉では表現できないほど深いものであるから、菩薩の修行段階とその功徳を示すことによって、それより優れた仏の境地を間接的に明かしている。

鹿野苑

 梵語ムリガダーヴァ(Mṛgadāva)の訳。古代インドの波羅奈国(ヴァーラーナシー)にあった園林。現在のヴァーラーナシーの北方にあるサールナートに位置する。釈尊が苦行を捨てて菩提樹下で初めて覚りを開いたのち、この鹿野苑において阿若憍陳如ら五人の比丘に初めて法を説いたので、初転法輪の地といわれる。この地は早くから仏教徒の巡拝が行われ、それに伴って仏塔や僧院などが建造され、付近からインド彫刻史上の傑作といわれるアショーカ石柱の獅子柱頭も出土している。

倶鄰等の五人

 釈尊から最初に化導された五人の比丘。倶鄰は梵名アージュニャータ・カウンディンニャ(Ajñāta-Kauṇḍinya)の音写、阿若倶鄰の略。阿若憍陳如とも音写する。釈尊が出家したとき、王の命によって五人の比丘が随行し苦行をともにしたが、釈尊が苦行を捨てたとき、決別し鹿野苑に去った。釈尊が成道後、鹿野苑で再会し、最初の弟子となった。

観仏三昧経

 仏説観仏三昧海経の略。中国・東晋の仏陀跋陀羅の訳。十巻。仏が迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)の尼拘楼陀精舎で、父の浄飯王や叔母の摩訶波闍波提らのために、観仏三昧(仏を心に観察する瞑想)によって解脱を得ることを教えている。

忉利天

 梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳する。六欲天の第二天。須弥山の頂上、閻浮提の上、八万由旬の処にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬といわれる。倶舎論巻十一には、忉利天の衆生の寿命について「人の百歳を第二天(即ち三十三天)の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、100歳×360日×1000年で、3600万歳にあたる。

摩耶経

 詳しくは、摩訶摩耶経とも仏昇忉利天為母説法経ともいう。斉の曇景訳。二巻。仏が母の摩耶夫人の恩を奉ずるために、忉利天に四月十五日に昇り七月十五日に帰るまでの九十日間に説法し、初果の益を得させた。この経には貧者の一灯の教えがある。すなわち願って多くの財を布施しても信心が弱くては仏に成ることはできないが、たとえ貧しくても信心が強く志が深ければ、仏に成ることは疑いないということである。のちに、仏が入滅したことを聞いた摩耶夫人は急ぎ忉利天より下り、涅槃の場にかけつけ仏の鉢と錫杖とを抱いて泣いた。そのとき、仏は大神通力をもって金棺の蓋をあけ、身を起して毛孔から千百の光明を放ち、一一の光明中に千百の化仏を現じて、母子が相いまみえた。仏は母のために世の無常の理を説き、説き終って再び棺の蓋を閉じたと説かれている。後半では、釈尊滅後千五百年までの法を広める人の出世年代・事跡などが記されている。 

講義

この章は、仏教が機によらず、もっぱら時によることを明かす中で、本節は初めの「問うて云く機にあらざるに……」からが料簡であり、次に「初成道の時は……」からが結文となる。

 料簡の項では、初めに機教相違の難を会す。すなわち大法を聞くべき機根でない衆生に対しても、なぜ強いて大法を説き聞かせるか。また強いて大法を説き聞かせても、決して説法者の罪ではないことを明かす。次に「尋ねて云く法華経の第二……」からは経説相違の難を会す。すなわち同じ法華経の中にも、摂受と折伏の両説が説き示されているのは、時代によって異なるのであり、例せば正像二千年は摂受、末法は一向に折伏であるようなものである。しかして「釈の心は或る時は……」と四種の或時を挙げている。初めの三箇は未謗已謗の機に配し、未謗の者には摂受、已謗のものには折伏なることを明かし、時に適うべきことを明かす。次の二箇は、釈尊は本已有善の衆生に対して小をもってこれを将護し、不軽は本未有善に対し大をもってこれを強毒するの意である。

 次に「初成道の時……」以下は「寂滅道場……」よりの意を結する文となる。

機にあらざるに大法を授けられば……

 折伏をした場合に、相手が入信しないのみか、かえって誹謗をし、罰を受けてさらに苦悩へとおちていく人がある。こういう人を見ると、初めから折伏されないほうが、幸福だったのではないかなどという疑問も生ずる。しかし日蓮大聖人は、はっきりと「人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや」等の譬えをあげて、折伏する者に罪はないと断定されている。ゆえに、われら正信の者こそ、確信をもって折伏を行ずべきである。

 摂受と折伏については、次の各御抄にも詳しく論じられ、末法には折伏を行ずべきことをお示しになっている。

 佐渡御書にいわく「仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩埵王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし」(0957:02)と。

 開目抄下にいわく「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし」(0235:10)と。

 如説修行抄にいわく「末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く『法華折伏・破権門理』とまことに故あるかな」(0503:13)と。

 このようにして折伏を行ずる時は、一国の迫害を受けることは必至であり、迫害を加える者が謗法の現罰を受けることもまた必定である。しかし結局は、地によって倒れた者が地によって立ち上がるのと同じで、御本尊を誹謗して悪道へおちた者は、ふたたび御本尊の功徳によって救われるのである。これを逆縁の功徳とも、毒鼓の縁ともいい、御抄には次のとおりにお示しになっている。

 教機時国抄にいわく「謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり、例せば不軽菩薩の如し」(0438:12)と。上野殿御返事にいわく「天竺に嫉妬の女人あり・男をにくむ故に……年来・男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり・両の足にてさむざむにふみける、其の後命つきて地獄にをつ・両の足ばかり地獄にいらず・獄卒鉄杖をもつて・うてどもいらず、是は法華経をふみし逆縁の功徳による、今日蓮をにくむ故にせうぼうが第五の巻を取りて予がをもてをうつ・是も逆縁となるべきか」(1555:06)と。

 さらにいったんは罰を受けても、それがかえって功徳に変ずるという御本尊の功徳がある。これを変毒為薬といい、御抄には次のようにお示しになっている。太田入道殿御返事にいわく「『……譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し』云云、天台此の論を承けて云く『譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く乃至今経の得記は即ち是れ毒を変じて薬と為すなり』」(1009:10)と。始聞仏乗義にいわく「竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ」(0984:01)と。新池殿御消息にいわく「毒薬変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す」(1437:12)と。

無智悪人の国は摂受を先とする

 創価学会においては、日蓮大聖人の御遺命のままに折伏を行ずべきことは当然であるが、ここでまた重要なことは、その国によって折伏を前とすべき国と、摂受を前とすべき国のあることである。

 開目抄下にいわく「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、……末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(0235:09)と。

 要するに、日本の国のように、邪智謗法の者が多く、真言、念仏、禅のごとき権教をもって実教の法華経を破り、法華経の中においても、本迹相対、種脱相対のあることを知らず、せっかく末法の御本仏日蓮大聖人が三大秘法を御建立あそばされているのに、かえって正法を破り、折伏を行ずる人に怨嫉をいだく。このような邪智謗法の多い国においては、折伏を行じなくてはならないのである。

 しかるに、最近は、とくに欧米諸国や、東南アジア諸国に御本尊が流布し、題目を唱える者が多くなってきた。これ、宗教に国境なく、正しい仏法は、あらゆる民族、全人類を幸福にしきっていくという一大現証というべきである。しかして、これらの諸国においては、謗法ばらいすべき対象となるような神や仏の像などがほとんどなかったり、民衆の間に慣習的な宗教行事が少しばかり行なわれていても、その宗教の教義を基として、権実、本迹、種脱を迷乱させるような、教義も信仰もない。このような場合を、無智悪人といって、邪智謗法と区別される。しかして、このような諸国においては破折すべき対象もないので、折伏の上の摂受を前としていかなければならない。折伏精神を根本とすることは当然であるが、相手の立ち場を尊重しつつ、次第に誘引していくのである。

 ゆえに、先年来「海外における信仰のあり方」として、海外における御本尊流布にあたって、各国の国情や習慣等も考慮し、できるだけ信心しやすいように、学会として指導をつづけてきたのである。たとえば、具体的には、第一に御本尊の絶対の御力を教え、入信したい人には、そのまま御本尊を受けさせてよろしいわけである。第二には、海外の諸国には、日本のように謗法物はないし、謗法払いは本人が御本尊の功徳がわかってきた後に、自分の意志でやっていけばよいわけである。第三には、真心こめて仏法を教え、まだ仏法を知らない人々であるから、決して邪宗うんぬんということばをいう必要はなく、ひたすら御本尊の功徳を知らせるべきだ等である。

 しかして、わが学会は、あくまでも各国の国是や立ち場を尊重しつつ、かつ各国の国民がみずからの手で、正法による幸福と繁栄をうるよう努力している。これらは決して信心の妥協ではない。折伏精神を根本にした、折伏の上の摂受である。最近の海外発展が、とくにめざましいゆえんも、このように、日蓮大聖人のおおせのままに実践し、慈悲の精神を根底としているからにほかならないと確信するものである。

 なお、この点について、日寛上人は、宗教の五義に約すのであると、次のように、開目抄文段のお示しになっている。まず第一には教法に約す。法華は正しく折伏の教法である。これすなわち法華の開顕は爾前の権理を破し、法華の実理を顕わすのである。玄文第九には「法華折伏・破権門理」といっているが、同じように、本迹においても、種脱においても、本、種をもって、迹、脱を破するのである。

 第二には機縁に約す。本已有善の衆生のためには、摂受門をもって、これを将護するのであり、本未有善の衆生のためには折伏門をもってこれを強毒するのである。このゆえ、に疏の第十には「本すでに善あり、釈迦小をもってこれを将護す、本未だ善あらず、不軽は大をもってこれ之を強毒す」といっている。

 第三には時節に約す。顕仏未来記にいわく「末法に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有つて行証無し大乗には教行のみ有つて冥顕の証之無し……小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり、仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵よりも多く正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり、此の時に当つて……本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し……彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ」(0506:18)と。開目抄下にいわく「設い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁(わきま)へずば・いかでか生死を離るべき」(0236:09)と。末法に折伏を行ずべしという御文は限りなく、末法に生まれているわれわれが、折伏を行じなければならないのは当然である。

 第四には国土に約す。開目抄の「末法に摂受折伏あるべし」の御文は、国土に約す文である。末法は折伏の時代であるといいながら、もし横に余国を尋ねるならば、悪国があるであろう。その悪国においては摂受を前とするのである。日本の国は破法の国であるから、折伏を行じなければならない。日寛上人の時代には現代のような地理的な知識もなかったのに、横に余国を尋ねるといわれている。今日、わが学会によって全世界に三大秘法が流布されてみると、あらためて開目抄の御予言の正確なことに驚かざるをえないのである。

 第五には教法流布の先後に約す。すでに竜樹、天親、天台、伝教等は前代流布の教法を破して、当機益物の教法をひろめた。いま日蓮大聖人もまた、前代流布の爾前迹門を破して、末法適時の法華本門の大法、本門寿量の肝心をひろめられるのである。



第四章(正像末に約して滅後の弘教を明かす)

 本文

  問うて云くいかなる時にか小乗・権経をときいかなる時にか法華経を説くべきや、答えて云く十信の菩薩より等覚の大士にいたるまで時と機とをば相知りがたき事なり何に況や我等は凡夫なりいかでか時機をしるべき、求めて云くすこしも知る事あるべからざるか、答えて云く仏眼をかつて時機をかんがへよ仏日を用て国土をてらせ、問うて云く其の心如何、答えて云く大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には禅定堅固已千上年一 次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固已千上年二 次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云云、此の五の五百歳・二千五百余年に人人の料簡さまざまなり、漢土の道綽禅師が云く正像二千・四箇の五百歳には小乗と大乗との白法盛なるべし末法に入つては彼等の白法皆消滅して浄土の法門・念仏の白法を修行せん人計り生死をはなるべし、日本国の法然が料簡して云く今日本国に流布する法華経・華厳経並びに大日経・諸の小乗経・天台・真言・律等の諸宗は大集経の記文の正像二千年の白法なり末法に入つては彼等の白法は皆滅尽すべし設い行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず、十住毘婆沙論と曇鸞法師の難行道・道綽の未有一人得者・善導の千中無一これなり、彼等の白法隠没の次には浄土三部経・弥陀称名の一行ばかり大白法として出現すべし、此を行ぜん人人はいかなる悪人・愚人なりとも十即十生・百即百生・唯浄土の一門のみ有つて路に通入すべしとはこれなり、されば後世を願はん人人は叡山・東寺・園城・七大寺等の日本一州の諸寺・諸山の御帰依をとどめて彼の寺山によせをける田畠郡郷をうばいとつて念仏堂につけば決定往生・南無阿弥陀仏とすすめければ我が朝一同に其の義になりて今に五十余年なり、日蓮此等の悪義を難じやぶる事はことふり候いぬ、彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。

現代語訳

問うていわく、仏教は時に依るというが、しからば、どのような時に小乗経や権経を説き、どのような時に法華経を説くのであるか。答えていわく、下は十信の菩薩から上は等覚の大菩薩にいたるまで、時と機とをば知り難いのである。ましてわれらは凡夫であるから、どうして時機を知ることができようか。

 問うていわく、少しも知ることができないのか。答えていわく、仏眼たる経文を借りて時機をかんがえよ。衆生の闇をはっきりと照らす仏日を用いて国土をてらしてみよ。そうすれば、はっきりとわかることである。

 問うていわく、それはどういう意味なのか。答えていわく、釈迦仏は大集経において月蔵菩薩に対して未来の時を定めている。それによれば釈迦滅度の日から最初の五百年は解脱堅固であって、仏教を修行しては皆よく解脱することができる。次の第二の五百年は禅定堅固であって、修行しては盛んに禅定に入る時代となる。已上一千年。次に第三の五百年は読誦多聞堅固であって、経典をよく読み誦し多く聞くことが盛んとなる。次に第四の五百年は多造搭寺堅固であって、多くの塔寺を盛んに造立する時代となる。已上二千年。さて次に第五の五百年はわが仏法の中において闘諍言訟が盛んとなり、闘諍に明け暮れて白法(善法)が隠没してしまうであろうと予言している。

 ところがこの五の五百年・二千五百余年について人々の料簡がさまざまである。中国の道綽禅師がいうには正像二千年・四箇の五百歳には小乗と大乗の白法が盛んに流通するが、末法に入っては彼等の白法が皆消滅して浄土の法門たる念仏の白法を修行する人ばかりが生死が離れるであろうと。日本の法然が料簡していうには今、日本国に流布するところの法華経・華厳経を初め大日経や諸の小乗教、天台・真言・律等の諸宗は大集経の予言に記された正像二千年の白法である。末法に入っては彼等の白法は皆滅尽するであろう、たとえ行ずる人はあっても一人も生死を離れることはできない。竜樹菩薩の十住毘婆沙論と曇鸞法師の言っている難行道というのがこれであり、道綽は念仏以外の教ではいまだ一人も得者する者がないといい、善導が念仏以外では千人の中に一人も得道することができないといっているのもこの意である。彼らの白法が隠没して終った次には浄土の三部経・阿弥陀の名号を称えるわが念仏の一行ばかりが大白法として出現するのである。これを修行する人人はいかなる悪人・愚人であっても十即十生・百即百生であってことごとく極楽浄土へ往生することができる。すなわちただ浄土の一門のみあって路に通入すべしというのである。

 されば後世を願う人人は比叡山・東寺・園城寺・七大寺等の日本一州の諸寺や諸山の御帰依をやめて、さらに彼の寺山に寄進した田畠郡郷を奪い取り念仏堂へ寄進するならば決定往生疑いなし、ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えよとすすめたので、わが日本国は一同にその義に染まって今に五十余年となる。日蓮はまた立宗以来この念仏の悪義を難じ破りつづけて年月を経ている。

 彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳であり今日・当世であることには疑いがない、ただし彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる寿量品文底の南無妙法蓮華経こそ大白法として広宣流布する。一閻浮提の内に八万の国があり、その国々に八万の王があり、これらの王が全部・また王の臣下・万民までも、ことごとく今日本国に弥陀の称名を口口に唱うるごとく南無妙法蓮華経が広宣流布するのである。

語釈

道綽禅師

 (0562~0645)。中国の隋・唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を承け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」二巻等がある。

正像

 正法と像法のこと。仏の滅後を正法、像法、末法の三種の時にわけて、これを正像末の三時という。正法とは仏の教法が正しく信心修行されて証果を得る時である。像法の像とは似るということで、形式的に流れ精神はなくなるが、まだ正法に似ている時である。末法とは仏の教法がすたれ証果のない時である。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は大集経巻五十五に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年(解脱堅固)と第二の五百年(禅定堅固)の一千年間を正法とされている。像法は正法一千年のつぎに到来する時代をいい、像は似の義とされ、形式が重んじられる時代といえる。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は、大集経巻五十五の五五百歳の中の第三の五百年(読誦多聞堅固)と第四の五百年(多造塔寺堅固)の一千年間を像法とされている。

法然

 (1133~1212)。平安時代末期の僧。日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登り功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(1175)43歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(実際は讃岐)に流された。同年11月に赦があり、しばらく摂津国(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、「選択集」二巻をはじめ、「浄土三部経釈」三巻、「往生要集釈」一巻等がある。

十住毘婆沙論

 十七巻三十五品。竜樹の著とされる。鳩摩羅什訳。華厳経十地品(十地経ともいう)に説かれる菩薩の十地(修行の位)のうち初地(歓喜地)と二地(離垢地)を注釈したもの。十住とは十地と同意で、毘婆沙は梵語の音写で広説・広解と訳される。三十五品から成り、このうち発菩提心品第六から阿惟越致相品第八まで難行道が説かれ、巻第五の易行品第九に易行道が説かれる。すなわち菩薩が十地の第一、不退地(初地、歓喜地ともいう)に至るのに、自ら勤苦精進して行く道を陸路の歩行にたとえて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水路の船行にたとえて易行道とする。故に難易二行を立て分けて易行道を重んじる浄土宗では特に重視している。

曇鸞法師

 (0476~0542)。中国・北魏代の僧。浄土教の祖師の一人。初め竜樹系統の教理を学び、のち神仙の書を学んでいた時、洛陽で訳経僧の菩提流支に会って観無量寿経を授かり、浄土教に帰した。竜樹造とされる十住毘婆沙論にある難行道・易行道の義を曲解し、念仏を易行道とし、その他の修行を難行道として排した。晩年は汾州(山西省)の玄中寺に住み、平州の遥山寺に移って没した。著書に「浄土論註」(往生論註)二巻、「略論安楽浄土義」一巻、「讃阿弥陀仏偈」一巻等がある。

未有一人得者

 道綽の安楽集巻上の文。「未だ一人も得る者有らず」と読み下す。まだ一人も成仏した者がいない、との意。本書では悪世末法において、真実に利益のある教えは、聖道門・浄土門のうち、ただ浄土門のみであり、他の一切の教えでは、いまだ一人として得道した者はないと説く。

善導

 (0613~0681)。中国・初唐の僧。中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)(一説に山東省・臨淄)の人。若くして密州の明勝法師について出家。初め三論宗を学び、法華経・維摩経を誦したが,経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽について浄土教を学び、師の没後、長安の光明寺等で称名念仏の弘通に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃偈」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

千中無一

「千が中に一無し」と読む。善導の往生礼讃偈の文。五種の正行(極楽に往生するための五種類の修行)以外の教えを修行しても、往生できる者は千人の中に一人もいないとする。

十即十生・百即百生

 善導の往生礼讃偈に「十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず」とある。念仏以外の雑行・雑修を捨てて、念仏を称えれば、十人が十人、百人が百人とも極楽浄土に往生できると述べたもの。

七大寺

 南都(奈良)の七大寺のこと。東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七か寺をいう。このうち、元興寺と大安寺は現存しない。

講義

この章からは、正像末に約して滅後の弘経を明かす中で、この章は略して末法は三大秘法広宣流布の時なることを明かしている。最初の問で「いかなる時にか法華経を説くべきや」という法華経は、元意の法華経に約し、下種の法華経たる三大秘法である。

五の五百歳・二千五百余年に人人の料簡さまざまなり

 正像末の三時についての異説は序講に述べたとおりである。さてここで問題になるのは、大集経によれば、仏滅後二千年過ぎて、白法穏没の末法となる。日蓮大聖人の時代は二千二百年のころであるから、末法の初めであり、今日はすでに末法にはいって九百余年となるはずである。しかるに、西洋哲学の研究や、小乗教の伝説では、これと約五百年の相違があって、現在が二千五百年になり、日蓮大聖人の時代はまだ滅後千八百年くらいで、末法には、入っていなかったなどとの、説をなす者もある。これが問題にならないことは、すでに三千年にわたる歴史を通じ、五箇の五百歳のそれぞれの堅固なることが、まったく仏の予言どおりであったことによって、疑問の余地はなくなるのである。

 次いで、念仏でも時をよく論ずるので、道綽と曇鸞、善導等をあげてその邪智を破折なされている。念仏では権教を以て実教を破し、法華経を難行道といい、聖道門といい、雑行といい、千中無一などといっている。守護国家論にいわく「道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も 我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す『準之思之』の四字是なり」(0052:11)と。つまり道綽は法華経を破折してはいなかったが、法然の選択集には、法華経をも爾前権経と一まとめにして、聖道門なりと破している。

 又次に、念仏のごまかしがたくさんある中で、ひどいのは、双観経の下には、「此の経を留めて百歳ならん」といっているのに、念仏宗では末法万年に念仏が流布して、衆生を救済するなどといっている。一代五時継図にいわく「雙観経の下に云く当来の世に経道滅尽せんに我慈悲を以て哀愍して特に此の経を留めて止住すること百歳ならん」(0687:15)、またいわく「往生礼讃に云く万年に三宝・滅して此の経住すること百年」、またいわく「慈恩大師の西方要決に云く末法万年に余経悉く滅して弥陀の一教のみ」と。

 法華初心成仏抄にいわく「本経には『当来の世・経道滅尽し特り此の経を留めて止住する事百歳ならん』と説けり、末法一万年の百歳とは全く見えず」(0549:04)と。

 念仏はこのように邪宗であるが、念仏以外にも邪宗が数多いのに、なぜここで特に念仏を破折されるのか。これについて、日寛上人は、次の総別ありとなされている。すなわち、総じていえば念仏がもっぱら盛んであったからである。別していえば、次の三意がある。第一に所破のためである。第二に一分所有となすのである。大集経の白法隠没、第五の五百歳は当世であるゆえである。第三は所例となす。すなわち日本国中が念仏を唱えているように、南無妙法蓮華経を唱えるようになるのである。日蓮大聖人の仏法こそ報恩抄にお示しのとおり、万年のほか未来永遠に流布していくのである。

法華経の肝心たる南無妙法蓮華経

 これについて他宗派では、如是我聞の上の妙法蓮華経であるとか、本地甚深の南無妙法蓮華経である等といっているが、みな謬りである。正意は法華経本門寿量品の肝心・久遠名字の南無妙法蓮華経である。久遠名字の南無妙法蓮華経とはすなわちこれ本門の本尊・中央の南無妙法蓮華経である。顕仏未来記にいわく「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507:06)と。

八万の国あり、八万の王あり

 これこそ全世界広宣流布の予言である。日本の国ばかりならば「八万の国」とはおおせられないであろう。

撰時抄を学ぶということは、過去の歴史において、機感相応の仏法により、民衆の平和と幸福が実現されてきたということを知ることも大切であるが、その元意、御内証は、実に日蓮大聖人の仏法が、未来において「時」が来るならば、全世界に広宣流布するという予言書として拝さなければならない。

 しかして、その「時」は今であり、創価学会によって実践されつつあることも、現証の示すところである。学会の目的とするところは、あくまでも三大秘法の広宣流布すなわち慈悲と道理による平和無血革命によって世界の平和と民衆の繁栄を達成する以外にはない。心ある士は勇躍して、この広布の大業に参加すべきであると叫ぶものである。



第五章(経文を引いて証す)

 本文

  問うて云く其の証文如何、答えて云く法華経の第七に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云、経文は大集経の白法隠没の次の時をとかせ給うに広宣流布と云云、同第六の巻に云く「悪世末法の時能く是の経を持つ者」等云云又第五の巻に云く「後の末世の法滅せんとする時」等・又第四の巻に云く「而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」又第七の巻に第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く「悪魔魔民諸の天・竜・夜叉・鳩槃荼等其の便を得ん」大集経に云く「我が法の中に於て闘諍言訟せん」等云云、法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」又云く「或は阿蘭若に有り」等云云又云く「悪鬼其身に入る」等云云、文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし、例せば神力品の十神力の時・十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向つて大音声をはなちて南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。

現代語訳

問うていわく、第五の五百歳白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経が広宣流布するという証文はどこにあるのか。

 答えていわく、法華経の第七の巻薬王品には「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、この閻浮提に於て断絶することがないであろう」と。このように経文には大集経の白法隠没の次の時を説き示して広宣流布といっている。同第六の巻分別功徳品には「悪世末法の時能く是の経を持つ者」とあり、また第五の巻安楽行品には「後の末世の法が滅せんとする時」とあり、また第四の巻法師品には「而も此の法華経は如来の現在にすらなお怨嫉が多い。いわんや滅度の後には、さらに大怨嫉が競い起こるであろう」と。また第五の巻安楽行品には「一切世間に怨が多くて信じ難い」と。また第七の巻薬王品第二十三には第五の五百歳・闘諍堅固の時代の世相を説いていわく「悪魔や魔民や諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等が其の便を得て悩ますであろう」と。大集経にいわく「我が仏法の中に於て互いに闘諍言訟するであろう」と。法華経の第五の巻勧持品には「悪世の中の比丘」とか「或は閑静の処に居て悪事をたくらむ」とか、また「悪鬼が其の身に入って正法の行者に迫害を加えるであろう」等と、末法の世相を説いている。

 さて、これら諸文の意は、次のような次第を説いているのである。すなわち、第一に、勧持品に示すごとく、第五の五百歳・白法穏没の時、悪鬼がその身に入ったところの高僧名僧が出現する。第二に、その時に智人が一人出現する。これは「悪世末法の時能く此の経を持つ者」に当たり、すなわち地涌の菩薩である。第三に、彼の悪鬼の身に入る大僧等が、時の王臣・万民等を語らいて、一人の智人を悪口罵詈し杖木瓦礫を加え流罪死罪に行なうであろうと。これすなわち「況や滅度の後をや」に当たる。第四に、その時に釈迦・多宝・十方の諸仏が地涌の大菩薩らにおおせつけ、大菩薩はまた梵天・帝釈・日月・四天等に申し下されて、その謗法を責めるから天変・地夭が盛んに起こるであろう。それでも国主等が其の諫めを用いないで謗法をつづけるならば、隣国におおせつけて彼々の国々の悪王・悪比丘等を責めるならば、前代未聞の大闘諍が一閻浮提に起こるであろう。これすなわち大集経の「闘諍堅固」の文にあたる。第五に、その時に日月所照の四天下の一切衆生は、この大闘争に襲われて、あるいは国を惜しみ、あるいはわが身を惜しむゆえに、一切の仏菩薩に祈りをかけるとも、一向にそのしるしがなく、ますます不幸のどん底へ沈むならば、ついに彼の憎んでいた一人の小僧を信じて、無量の大僧・八万の大王・一切の万民等ことごとく頭を地につけ、掌を合わせて一同に南無妙法蓮華経と唱うるであろう。すなわち「後の五百歳広宣流布」の文意である。

 この広宣流布の時に天下万民が一同に南無妙法蓮華経と唱えるさまは、例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生が、一人も残らず娑婆世界に向って大音声をはなち、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同に叫んだのと同じである。

語釈

夜叉

 梵語ヤクシャ(Yakṣa)の音写で、薬叉とも書き、暴悪等と訳す。森林に棲む鬼神。地夜叉・虚空夜叉・天夜叉の三類あって、天・虚空の二夜叉は飛行するが、地夜叉は飛行しないといわれている。仏教では護法神となり、北方・多聞天王(毘沙門天)の眷属。

鳩槃荼

 梵名クンバーンダ(Kumbhāṇḍa)の音写。陰嚢・甕形・冬苽・厭眉と訳す。人の精気を吸う、馬頭人身の鬼神。仏教では護法神となり、南方・増長天王の配下にある。

阿蘭若

 梵語アランニャ(araṇya)の音写。阿練若、阿蘭那、阿練茹などとも書く。無事閑静処という意味で、人里はなれた山寺などのこと。勧持品の意は、僭称増上慢のものが静かな山寺などにこもって、人々に邪法を説く姿をあらわしている。

地涌の大菩薩

 法華経従地涌出品第十五において、釈尊の呼び掛けに応えて、娑婆世界の大地を破って下方の虚空から涌き出てきた無数の菩薩たち。上行・無辺行・安立行・浄行の四菩薩を代表とし、それぞれが無数の眷属をもつ。如来神力品第二十一で釈尊から、滅後の法華経の弘通を、その主体者として託された。この地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊(本仏)により久遠の昔から教化されたので、本化の菩薩という。

講義

前節は、第五の五百歳に、法華経の肝心たる大白法が広宣流布すると決定されたのに対し、今節はその証文として十箇の経文を引きその意を釈している。その証文の意は、大略五意となる。

 第一に、大集経の白法隠没の時は、即法華経広宣流布の時となることを顕わす。これは法華経薬王品第二十三の「後五百歳中、広宣流布」の文である。第二に、後の五百歳末法の始め地涌の菩薩が出現すべきことを顕わす。これは分別功徳品第十七の「悪世末法の時よくこの経を持つ」の文である。第三に、この末法の始めに地涌の菩薩が弘経するには、怨嫉の多きことを顕わす。これは第五の巻、第四の巻・第七の巻等と引き続き挙げられている文である。第四に、怨嫉によって闘諍の起こるべきことを明かしている。これは大集経の闘諍言訟の文である。第五に、その怨嫉の人は悪鬼入其身の大悪僧なることを明かしている。これはすなわち、引用されている勧持品の三文である。

前代未聞の大闘諍……の小僧を信じて

 これまた広宣流布の予言の御文である。前代未聞の大闘諍とは何を指すか。日蓮大聖人の時代にも蒙古襲来という大闘諍があった。しかしこの時には「一切の万民皆頭を地につけ掌を合わせて一同に南無妙法蓮華経と唱うる」ようにはならなかった。

 それでは広宣流布は虚妄なのかというに、そうではない。日寛上人は逆縁の広布と順縁の広布を説かれ、日蓮大聖人の御在世時代は逆縁の広布であって、日本国中が大聖人に対して怨嫉を懐き謗法を犯したのである。その後、大聖人の御入滅後においても、わずかに折伏がなされても、すぐに迫害され弾圧された。鎌倉時代に引き続き、南北朝時代、室町時代、戦国時代と、日本国中は戦乱に次ぐ大戦乱が続いた。わずかに江戸時代は三百年の泰平が続いたけれども、それも表面だけであって、民衆が真に平和と幸福を楽しめるような時代ではなかった。こうしてみると、前代未聞の大闘諍はまだ起きていないし、広宣流布もまだ実現されなかたといえるであろう。

 しかるに、第二次世界大戦は、実に全世界を挙げて戦乱の惨禍にまきこまれた。とくに広島と長崎に原子爆弾を投下され、東京、大阪を始め大都市が悉く焼き払われた敗戦国日本の惨状は、実に目をおおわせるものであった。創価学会もまたこの大戦中に弾圧を受け、初代牧口会長は昭和19年(1944)11月18日に牢死なされた。昭和20年(1645)7月3日、二年の間投獄されていた第二代戸田会長が釈放された。戸田会長は今こそ広宣流布の時が来たとの御確信のもとに、創価学会の再建にとりかかられた。国が亡び去ってすら、広宣流布ができないような宗教なら、それは真の宗教ではない。仏語が真実ならば、必ず広宣流布できるはずであるとの御確信であった。

 その後の創価学会の発展の経過を見るに、実に順縁広布の時が来たと確信せざるをえないのである。すでに五百万世帯の学会員が誕生し、三大秘法の信行に励んで、御本尊の功徳に浴しつつある。しかもなお将来にわたって、どこまで発展を続けていくか際限もないのである。

 しかしまた、わが国の広宣流布はこのようにして実現しても、たとえば米、ソ等の各国にまで広宣流布していくには、さらに原水爆戦争のような、未曾有の大闘諍が起きるのではないかという人もある。しかしわれら創価学会員としては、そのような惨禍のあらわれることのないよう御本尊に御祈念し、人類の平和と繁栄とを祈願してゆかねばならない。

 次に「一の小僧を信じ」とは、いうまでもなく末法の御本仏、本門寿量の当体蓮華の仏、本因妙の教主、日蓮大聖人であらせられる。それでは、すでに大聖人は入滅せられて、七百年も過ぎた今日、どうすればよいのかとの問題がある。しかし、日蓮大聖人は、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」(1124:経王殿御返事:12)とおおせになっている。

 このように日蓮大聖人は、未来永遠の衆生をお救いになるのである。邪宗の開祖たちが、大聖人の仏法はすでに尽きて新しい仏法が起きるとか、大聖人の滅後何百年過ぎれば、大聖人が再び生まれてくるなどというのは、すべて邪義であり妄説である。われらは創価学会員として、御本尊を信じ奉り、仏意、仏勅のまま折伏を行ずる者のみが、御本仏日蓮大聖人の眷属として即身成仏がかなうのである。

南無釈迦牟尼仏……南無妙法蓮華経……と一同にさけびし

 次に「例せば神力品」の下は在世をもって末法に例するのである。しかし、経の神力品には、一同に南無釈迦牟尼仏と唱えているが、南無妙法蓮華経と唱えた文はない。これについて、諸宗では、次のような異解を生じている。日寛上人は、これらの異解を挙げてのち、さらに正義をお示しになっている。

 一には、能例所例合してこれを挙ぐ。二には、すでに人法体一なりゆえに仏名即経名なるゆえなり。三には、法子なおこれを敬う、いわんや仏母の経をや。四には空中の勘信すでに人法あり、帰命の文あにしからずや。五にはすでに能説の教主を信じてその名を唱う、何ぞ所説の法体を信じて、その名を唱えざるやと。

 以上のような謬解は、みなこれ人情であって、日蓮大聖人の御正意には何の関係もない。今ここに正意を示すならば、釈迦牟尼仏に大小権実迹本等の違いがあり、神力品の文は正しく寿量品の意をもって消すべきである。さて寿量顕本に略して二意があり、一に文上の意は、すなわち久遠本果の三身を顕わす。この仏は色相荘厳の尊容であって、在世脱益の教主である。この仏の名号を南無釈迦牟尼仏というのである。彼の十方世界の一切衆生は文上本果の三身を信ずるがゆえに南無釈迦牟尼仏と唱えたのである。二に文底の意は本地無作三身を顕わす。この仏は凡夫の当体本有のままであられる。すなわちこれ本因妙の教主であり、この仏の名号を南無妙法蓮華経というのである。彼の十方世界の一切衆生は、文底の無作三身を信じて南無妙法蓮華経と唱えたのである。

 今はこの第二の意をもって末法に例しているのである。ゆえに、末法下種の仏、教主日蓮大聖人は即本地無作三身の南無妙法蓮華経仏である。ゆえに一の小僧を信じて南無妙法蓮華経と唱うべしと判じ給う。

 御義口伝にいわく「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752:第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事:06)と。また三大秘法の大御本尊を信じ奉る者は、みなことごとく無作三身の南無妙法蓮華経仏である。御義口伝にいわく「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(0754:07)と。

 また寿量顕本に二意ありとなす証文如何と問うのに対し、日寛上人は「天台いわく『此の品の詮量・通じて三身と名づく』とは久遠本果の三身にして文上の意なり。もし『別意に従えば正しく報身に在り』とは、すなわちこれ本地無作の報身にして久遠元初の自受用報身なり。これ文底の意なり。これは是れ天台の内鑒冷然の意なり、是れ深秘の相伝なり云云」とおおせられている。

広宣流布実現の時

 日蓮大聖人の御仏意を拝し、世界の動向を見るに、今こそ広宣流布実現の時であると断ぜざるをえない。すなわち化儀の広宣流布を今、達成しなければ、世界動乱、人類滅亡の恐れが十二分にあることを憂うるのである。

 広宣流布に二意がある。いわゆる法体の広宣流布と化儀の広宣流布である。日寛上人は、観心本尊抄の「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(0254:01)の御文において、聖僧と成って正法を弘持するのは法体の折伏であり折伏家の摂受である。賢王と成って愚王を責め誡めるとは化儀の折伏であるとおおせである。化儀の広宣流布とは、三大秘法の御本尊を広宣流布していくことであり、かつ全世界の民衆を救済していくことである。

 不思議にも、法体の広宣流布の時にも、化儀の広宣流布の時にも、全世界にわたる一大闘諍が広布の先相として、まきおこったのである。思えば一国の政治革命にも、フランス革命、明治維新、ロシア革命等にみられるごとく、血を血で洗う動乱と外国からの干渉が大なり小なり、つきまとった。われらの宗教革命は、慈悲と道理による無血革命である。しかして人類の興亡をかける世界的動乱の時に、必ず大仏法が流布して人類を救わんとの御金言である。

 観心本尊抄にいわく「此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254:08)と。これ法体の広宣流布の時の闘諍、すなわち北条幕府の内乱と、大蒙古国の襲来をさすことは明らかである。

 しかして、撰時抄の前章には「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258:14)とおおせである。「八万の王」とは、現在においては世界各国の政治家、指導者をさすといえよう。

 さらに本章に入って、法華経の多くの文証をあげられて後に「文の心は第五の五百歳の時」云云と仰せられ、この三大秘法の南無妙法蓮華経が広宣流布する時には「前代末聞の大闘諍・一閻浮提に起こるべし」と仏法の一大哲理を示されたのである。すなわち、これ、七百年前における法体の広宣流布の時にも、さらに今日における化儀の広宣流布にも通ずるのである。

 七百年前の法体の広宣流布の時における大闘諍とは、いうまでもなく、文永、弘安の二回にわたる蒙古襲来である。蒙古は後に元と称し、有史いらいの最大国家といわれるほど強大な国家であった。すでに武力によって、中国大陸を中心にヨーロッパ方面はオーストリヤのウイーン、ロシアのモスクワまでも版図をひろげ、中央アジア、満州、インドの北部、東南アジア等すべて手中におさめ、最後に国をあげて日本を席捲せんとして襲いかかったのである。まさに前代未聞の大闘諍であり、一閻浮提(全世界)をおおう闘諍というべきであった。

 しかし、当時は八万の国々に、全世界の国々に三大秘法の南無妙法蓮華経をひろめることは、交通や通信の未発達という社会情勢からも所詮は無理であった。すなわち法体の広宣流布なるがゆえに、日蓮大聖人は「万里の波濤を渡らずとも」とおおせられ、厳然と日本にとどまられながら全世界を中心におさめられ、御本尊を建立あそばされたのである。しかして、世界広布は「前代未聞の大闘諍」における化儀の広宣流布の時に、ゆずられたといえよう。

「国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば」とは、正しく一つには法体の広宣流布における、隣国の蒙古の襲来である。さらに、今一つには、このたび第二次世界大戦の一環たる太平洋戦争の姿といえよう。日蓮大聖人の仏法を聞こうとしないばかりか、創価学会を弾圧、迫害した日本の軍部は、隣国たるアメリカ、ソ連、中国に敗れ去る結果になったではないか。同じく日蓮大聖人の仏法を信ぜず、謗法を犯す、いかなる国々の指導者も、必ずや隣国等よりせめられ戦火をあびねばならぬという方程式といえよう。

「或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば」とは、時の軍部や為政者等が、国を惜しみ身を惜しむゆえに、あるいは天照大神に、あるいは高野山で大日如来に、あるいは神社仏閣にと、一国をあげて祈りをかけたけれども、少しもしるしなく日本は敗れたのである。しかし敗戦後、創価学会の再建とともに「彼のにくみつる一の小僧」日蓮大聖人を信ずる人々は、急激に倍増している。今こそ、正に日本の広宣流布の姿でなくてなんであろうか。

 世界の情勢は、今なお第二次世界大戦の余燼はくすぶり第三次世界大戦の危機さえ、はらんでいる。現在においても、世界の各地に戦火が絶えず、毎日多くの人命が失われているのだ。東洋の民衆に、全人類に、早く御本尊の大功徳を知らせ、あたえてあげたいと思うのは当然であろう。

 このように、世界広布の先祖たる「前代未聞の大闘諍」とは、第二次世界大戦であり、今こそ化儀の広宣流布の時であると、強く主張するものである。

「前代未聞の大闘諍」とは、第三次世界大戦が、今後、一閻浮提(全世界)におこることであると考えられぬこともない。また一知半解(いっちはんげ)の邪宗の徒の中に、かくのごとき無責任な言辞を弄するものもいる。しかし、原水爆やミサイル等による全面的な第三次世界大戦が始まれば、三十数億の人類は滅亡せざるをえないではないか。また、かかる苦悩を断じてあたえないためにも、われわれは、第二次世界大戦をもって「前代未聞の大闘諍」であると決定する。そして、第三次世界大戦は、いかなることがあっても、おこさないことを、御本尊に強く願い、死身弘法、必ずや化儀の広宣流布を達成せんことを誓うものである。

 化儀の広宣流布が実現するならば、第三次大戦等が絶対におこらぬ、恒久的な世界平和、人類の幸福は約束されるのである。しかし、今、万が一、化儀の広宣流布が実現できえなかったならば、御仏智に照らして大仏法哲理に徴して第三次大戦は必至なりといわざるをえないのである。わが創価学会が、あらゆる迫害、弾圧に屈せず、毅然として前進するゆえんも、実にここにあり、ただただ世界の恒久平和、人類永遠の幸福を願う止むに止まれぬ活動であることを知るべきである。

 立正安国論にいわく「先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(0031:15)と。七百年前の大聖哲の警告「其の時何んが為んや」は、正しく正法を用なかったために、日本の敗戦、亡国となってあらわれた。しかし、なお化儀の広宣流布が、御仏意としてあたえられ、変毒為薬することができた。しかるに、全民衆が日蓮大聖人の仏法を信ぜず、化儀の広宣流布を達成できなかった時「其の時何んが為んや」の御金言を恐れるものである。

 立正安国論に、またいわく「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(0031:18)と。四表の静謐とは、真実の世界平和をさすのである。北条時宗への御状にいわく「身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり」(0170:13)と。わが一身を省みず、一創価学会のためでもなく、全人類の幸福のため、世界平和のために立ち上がったのが、わが創価学会であり、これこそ学会精神である。

 日蓮大聖人の仏法は、日本人の仏法にあらずして全人類の仏法である。日本民族の安泰を願うのにあらずして、世界全民衆の幸福と平和と繁栄を築くべき大仏法、大哲学である。吾人が「核兵器の絶対使用禁止」「地球民族主義」を叫ぶゆえんも、ここにある。地球民族主義とは、全世界の民族が一民族として相互扶助の精神で、共に繁栄すべきことをいうのである。

 世界は狭くなった。交通、通信の発達、各民族の交流は、あたかも世界が一国のごとき様相を呈している。そして、民族の如何を問わず、過去に仏法の縁の深かった東洋諸民族は申すにおよばず、欧米の諸民族にも、東洋哲学を求める声が、日々に強まっている。このことは、私が海外諸国を歴訪して、直接に見聞したことによっても、確信をもって、いいうることである。

 欧米先進国は、一応キリスト教によって、その文化が支えられてきたといえるが、すでに過去の宗教であり、その非科学性は、現代科学との矛盾を克服しえず、唯物論に対しては説得力を失い、いたずらに自己の堡類を守るために力の政策による結果となって、現在の国際的対立危機をまねくにいたった。

 共産主義諸国は、思想の根底が唯物論であるがゆえに、人間性の抑圧は、心ある人は憂えている。権力至上主義ともいうべきイデオロギーが、民衆を蹂躙しているといっても過言ではあるまい。

 このように、いかなる社会体制も、矛盾をかかえて、相克を示し、人間疎外、人間性の抑圧という共通的な致命的な欠陥は、ついに今日の世界的危機を招来するにいたったといえよう。思想哲学の貧困こそ、現代社会における病理の根源であって、今こそ失われたる人間性を恢復し、現代科学を指導して、あらゆる人々に幸福をあたえ、世界に恒久平和の秩序を築きうる大思想、大哲学の出現をまたねばならぬ重大な時がきたのである。

 この大思想こそ、東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の仏法であり、全人類の求める最高唯一の大生命哲学であることを、強く訴えるものである。

 別言すれば仏法民主主義ということである。民主主義は政治の正統理念として待望されながら、西欧民主主義、人間民主主義等いずれも完全なる民主主義とは、いいがたい。いずれも民主主義とは名ばかりで、現実には人間的に政治的に経済的に、不平等と束縛と生命軽視の風潮が支配的ではないか。人間生命の尊厳と慈悲を根底とする仏法民主主義こそ、真の自由、真の平等を達成する真実の民主主義である。

 また、現在、いかなる国々も社会福祉をとなえる社会主義的な政策をとろうとしている。しかし、今までの社会主義は、機構、制度のみを重視し、人間性は全く無視されていた。われら創価学会の理想は、大衆福祉であり人間性社会主義である。個人の尊厳を自覚し、真の人間形成をはかりつつ、すべての大衆の福祉を達成する新社会主義である。

 いよいよ、人類の新しき時代は到来した、真実の民主主義、真実の社会主義をかかげて、全民衆の永遠の平和と幸福を確立していかねばならない。

 

 

第八章(正法の後の五百年の弘教)

 本文

正法の後六百年・已後一千年が前・其の中間に馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅睺尊者・僧佉難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の人人始には外道の家に入り次には小乗経をきわめ後には諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給いき此等の大士等は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給いしかども諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず、設い勝劣をすこしかかせ給いたるやうなれども本迹の十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千の肝要の法門は分明ならず、但或は指をもつて月をさすがごとくし或は文にあたりてひとはし計りかかせ給いて化導の始終・師弟の遠近・得道の有無はすべて一分もみへず、此等は正法の後の五百年・大集経の禅定堅固の時にあたれり、

 

現代語訳

正法の後の六百年以後一千年までの五百年間には、馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅睺尊者・僧佉難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の人々が、始めは外道を学び、次に小乗経を究めて、後には諸大乗経をもって諸小乗経をさんざんに打ち破っている。

 しかし、これらの諸大菩薩たちは、大乗経をもつて小乗経を破ったけれども、諸大乗経と法華経との勝劣は分明に説いてはいない。すなわち大小相対を立てたのみで権実の相対は立てなかった。たとえ少しは権実の勝劣を書いているようではあっても、法華経の肝要たる本迹の十妙・迹門の二乗作仏・本門の久遠実成・已今当最為第一の妙・百界千如・一念三千等の法門は分明に説いていない。単にあるいは指をもって月を指すごとくし、あるいは文に当たってその一端ばかりを書いているのみで、化導の始終・師弟の遠近・法華経の即身成仏・爾前経の無得道等は、すべて一分も説いていない。これらは正法の後の五百年であり、大集経の禅定堅固に当たる時代であった。

 

語釈

馬鳴菩薩

 梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoa)の訳。二~三世紀ごろに活躍したインドの仏教思想家・詩人。付法蔵の第十一(第十二ともいわれる)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、付法蔵第十の富那奢に論破され、屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。中インド華氏城で民衆を教化していたとき、北インドの迦弐志加王が中インドを征服し、和議の結果、華氏王に報償金九億を求めた。そこで華氏王は、報償金の替わりに馬鳴と仏鉢と一つの慈心鶏をもって各三億にあて、迦弐志加王に納受された。こうして馬鳴は北インドに赴き、迦弐志加王の保護のもと、おおいに仏法を弘め民衆から尊敬された。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を嘶かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には、釈尊の一生を美文で綴った「仏所行讃」(ブッダチャリタ、Buddhacarita)五巻があり、「犍稚梵讃」一巻、「大荘厳論」十五巻等も馬鳴に帰せられる。

 

毘羅

 梵名カピマーラ(Kapimala)の音写。迦毘摩羅ともいう。付法蔵の第十二。二世紀ごろ、インド・摩竭陀国の華氏城(パータリプトラ)の人。はじめ外道であり三千人の弟子をもっていたとき、神通力を用いて馬鳴を陥れようとして、かえって論破されて弟子となった。馬鳴から滅後の付法を受け、南インドさらに西インド一帯を化導し、法を竜樹に付した。「無我論」一百偈を著し、その外道を破折している様子は、金剛石がいっさいのものを破るようであるといわれたが、著書は伝わっていない。

 

竜樹菩薩

 梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。01500250年ころ、南インドに出現し大乗の教義を大いに弘めた大論師。付法蔵の第十三(第十四ともいわれる)。新訳経典では竜猛と訳される。はじめ小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。主著「中論」などで大乗仏教の空の思想にもとづいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。こうしたことから、八宗の祖とたたえられるが、同名である複数の人物の伝承が混同して伝えられている。著書に「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻、「中観論」(中論、中頌、中論頌、根本中頌ともいう)四巻等がある。日蓮大聖人は、世親(天親、ヴァスバンドゥ)とともに、釈尊滅後、正法の時代の後半の正師と位置づけられている。

 

提婆菩薩

 梵名アーリヤデーヴァ(Āryadeva)。三世紀ごろの南インドの人で、竜樹の弟子。聖提婆、迦那提婆ともいう。付法蔵の第十四。主著「百論」は三論宗のよりどころとされた。

 

羅睺尊者

 梵名ラーフラバドラ(Rāhulabhadra)。音写・羅睺羅跋陀羅の略。付法蔵の第十五。竜樹と同時代の人。インド迦毘羅国の人で浄徳長者の子。釈尊の十大弟子の一人である羅睺羅とは別人。提婆菩薩を師とし、生来聡明で智慧があり、種々の方便によって多くの衆生を化導し、僧佉難堤に法を付嘱した。

 

僧佉難堤

 梵名サンガナンディ(Samghanandi)の音写。僧伽難堤とも書く。訳して衆河という。付法蔵の第十六。インド室羅閥城(舎衛城、シュラーヴァスティー)の宝荘厳王の子。羅睺尊者より付嘱を受け、後に僧伽耶奢に法を付嘱した。

 

僧伽耶奢

 梵名サンガヤシャスの音写。訳して衆称という。付法蔵の第十七。摩竭陀(まがだ)国の人で、智慧が優れ弁舌さわやかといわれ、仏法の正統を伝えて教化盛んであった。僧佉難提より付嘱を受け、後に鳩摩羅駄に法を付嘱した。

 

鳩摩羅駄

 梵名クマーララータ(kumāralabdha)の音写。鳩摩羅多とも書く。訳して童受という。付法蔵の第十八。三世紀末、北インドの咀叉始羅国国(タクシャシラー)の人。聡明で学道に優れ、多くの人を教化し、名声が高かったという。闍夜那に法を付嘱した。

 

闍夜那

 梵名ジャヤタ(Jayata)の音写。闍夜多とも書く。付法蔵の第十九。鳩摩羅駄の弟子。北インドの人。初め外道を学び、次に小乗教を究め、後に諸大乗教を広めて諸小乗教を打ち破ったとされる。盤陀に法を付嘱した。

 

盤陀

 梵名ヴァスバンドゥ(Vasubandhu)の音写・婆修槃陀の略。付法蔵の第二十。世親と訳されるが、俱舎論を著した世親(天親)と同一人物とする説もある。インド羅閲国の人。博識で、智慧勝れ、弁舌の才に富んでいて、闍夜那に師事し、広く衆生を救った。

 

摩奴羅

 梵名マドゥラ(Madhura)の音写。三~四世紀の人。付法蔵の第二十一。インド那提国の王子。盤陀より付嘱を受け、三蔵の義に通達し、南インドを中心に外道を論破して大乗を広めた。鶴勒夜那に法を付嘱した

 

鶴勒夜那

 梵名ハクレーナヤシャ(Haklena-yaśa)の音写。鶴勒夜奢とも書き、略して鶴勒ともいう。付法蔵の第二十二。月氏国のバラモン出身。摩奴羅から付嘱を受け、中インドで弘教に励み、やがて師子尊者に法を付嘱した。

 

師子

 梵名アーリヤシンハ(Āryasimha)。獅子(ライオン)の意。付法蔵第二十三(第二十四との説もある)の最後の伝灯者。六世紀ごろの中インドの人。付法蔵因縁伝(付法蔵経)巻六によると、罽賓国(けいひんこく)でおおいに仏事をなしたが、国王弥羅掘は邪見の心が盛んで敬信せず、仏教の塔寺を破壊し、衆僧を殺害し、最後に利剣で師子尊者の頸を斬った。その時一滴の血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。これは尊者が白法(正しい教え)をもっていたこと、また成仏したことをあらわすとされる。摩訶止観巻一では、弥羅掘王を檀弥羅王としている。景徳伝灯録巻二によると、師子尊者を斬ったあと、王の右手は地に落ち、七日のうちに王も死んだという。

 

本迹の十妙

 天台大師智顗は『法華玄義』で、「妙法蓮華経」の「妙」の意義について、本門・迹門のそれぞれ十項目を挙げて論じている。本門の十妙は、そのうち本門における妙の意義を説いたもの。①本因妙・②本果妙・③本国土妙・④本感応妙・⑤本神通妙・⑥本説法妙・⑦本眷属妙・⑧本涅槃妙・⑨本寿命妙・⑩本利益妙のこと。迹門の十妙は、①境妙・②智妙・③行妙・④位妙・⑤三法妙・⑥感応妙・⑦神通妙・⑧説法妙・⑨眷属妙・⑩利益妙である。

 

化導の始終・師弟の遠近

 天台大師は法華玄義に三種の教相を立てて「教相には三あり、一には根性の融不融の相、二には化導の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相」と述べている。このうち②化導の始終は、迹門化城喩品によって立てた権実相対の第二の教相である。仏が衆生を成仏へと教え導く過程の始まりと終わりのことで、実経(法華経)では三千塵点劫以来の仏と衆生の因縁を説き、種・熟・脱の三益を明かすゆえに始終、権経(爾前経)は下種も得脱も明かさないゆえに不始終、故に迹門が勝る。次に③師弟の遠近は、本門寿量品によって立てた本迹相対の第三の教相である。師弟の関係が久遠以来であるか否かを分別することであり、本門では如来寿量品で五百塵点劫の久遠実成を顕本し、以来、衆生を教化してきたことを明かすゆえに遠近、迹門の釈迦仏は始成正覚で、師弟も現世における結縁であり不遠近、故に本門が勝る。なお、本文に記されない①根性の融は、迹門方便品・譬喩品などによって立てた権実相対の第一の教相である。衆生の機根が融であるか不融であるかを分別することで、実経(法華経)では声聞・縁覚・菩薩の三乗を開いて一乗の機に融合されるゆえに融、権経(爾前経)は衆生の機根が三乗各別で不融、故に迹門が勝る。

 

講義

この章には、大集経の第二の禅定堅固を明かしている。

 この期間の諸論師は、内外相対・大小相対を立て、外道を破し小乗経を破して権大乗経を弘通している。権大乗経を弘通する時代に、権実相対や本迹相対を立てる必要もないし、かえって不要の論議を立てることは、仏法弘通の妨げとなる。内外相対のキリスト教の信者を破折するのに、権実相対や本迹相対の必要がないし、また、権実相対の念仏の行者を破折するのに本迹相対や種脱相対を説明する必要がない。そのような無用の説明はかえって折伏の妨げになることは、われわれのつねに体験する所である。すなわち仏法においては、所対によって説く法門は異なってくるのである。

 しかし、この時代の大菩薩たちは権大乗を弘通しながらも、内心には法華経の実義たる一念三千をきちんと持っていた。すなわち開目抄上にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189:02)等とおおせられているとおりである。

 

始には外道の家に入り

 

 この下に内外・大小・権実・本迹の四種の相対がある。すなわち「次には小乗経をきわめ」云云が内外相対、「後には諸大乗をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ」云云が大小相対、「諸大乗経と法華経の勝劣」等が権実相対であり、本迹の十妙等の文が本迹相対である。

 本迹の十妙は一句で本迹を顕わし、二乗作仏は迹門、久遠実成は本門で、二句で本迹を顕わし、已今当の妙は一句で本迹を顕わす。通常は、法華経迹門法師品第十の「已に説き、今説き、当に説くべし。而も其の中に於いて、此の法華経は最も為れ難信難解なり」の文によって、法華経を已今当・最為難信難解とするが、本迹を相対する時は迹門が易信易解・本門が難信難解となる。観心本尊抄に「迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり」(0249:03)とあるのは、この意である。次に百界千如は迹門・一念三千は本門を顕わす。同じく観心本尊抄の迹門三段および本門三段に、この意が分明であり、ある時には与えて迹門を理の一念三千と名づけるのである。

 

 

第九章(像法の初めの五百年の弘教)

 本文

正法一千年の後は月氏に仏法充満せしかども或は小をもて大を破し或は権経をもつて実経を隠没し仏法さまざまに乱れしかば得道の人やふやくすくなく仏法につけて悪道に堕る者かずをしらず、正法一千年の後・像法に入つて一十五年と申せしに仏法東に流れて漢土に入りにき、像法の前五百年の内・始の一百余年が間は漢土の道士と月氏の仏法と諍論していまだ事さだまらず設い定まりたりしかども仏法を信ずる人の心いまだふかからず、而るに仏法の中に大小・権実・顕密をわかつならば聖教一同ならざる故・疑をこりてかへりて外典とともなう者もありぬべし、これらのをそれ・あるかのゆへに摩騰・竺蘭は自は知つて而も大小を分けず権実をいはずしてやみぬ、其の後・魏・晋・宋・斉・梁の五代が間・仏法の内に大小・権実・顕密をあらそひし程にいづれこそ道理ともきこえずして上み一人より下も万民にいたるまで不審すくなからず南三・北七と申して仏法十流にわかれぬ所謂南には三時・四時・五時・北には五時・半満・四宗・五宗・六宗、二宗の大乗・一音等・各各義を立て辺執水火なり、しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり法華経は阿含・般若・浄名・思益等の経経に対すれば真実なり了義経・正見なりしかりといへども涅槃経に対すれば無常教・不了義経・邪見の経等云云、漢より四百余年の末へ五百年に入つて陳隋二代に智顗と申す小僧一人あり後には天台智者大師と号したてまつる、南北の邪義をやぶりて一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三なり等云云、此れ像法の前・五百歳・大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたれり、

 

現代語訳

正法時代一千年を過ぎた後には、インドに仏法が充満していたけれども、あるいは小乗をって大乗を破り、あるいは権経をもって実経を隠没し、仏法がさまざまに乱れたので、得道する者は漸く少なくなり、仏法によって悪道に堕ちる者が数知れず多くなった。正法一千年すぎて、像法時代に入って一十五年目に、仏法が東に流伝して漢土へわたってきた。像法の前五百年の内、初めの百年の間は、中国の道士とインドの仏法との諍論が激しく戦われていて、いまだいずれが真実か決定しかねており、たとえ仏法が真実であると決定しても、これを信ずる人の心がいまだ深くなかった。こういう状態であったから、仏法の中にも大乗小乗の別、権経実経の別、顕教密教の区別があるなどと立て分けるならば、同じ仏教の中にも相違があるので疑いを起してかえって仏教を捨てて外道につく者が出てくる。このような恐れがあったから、最初に仏教を流伝した摩騰・竺蘭は自分では知っていたけれども、大小とか権実の立て分けは何もいわないでいた。

 その後、魏・晋・斉・宋・梁の五代の間、仏法の中で大小・権実・顕密をたがいに争ったところ、おのおのの流派を生ずるばかりで、いずれが正当だと決定することができないので、上一人より下万民にいたるまで仏法に対して不審の念が多くなった。この間に南三・北七といって仏法が十派に分裂していた。すなわち南には三時・四時・五時とそれぞれの教判を立てる三派が生まれ、北には五時・半満・四宗・五宗・六宗・二宗の大乗・一音等それぞれの判教のもとに流義をたて、たがいに辺執して、その主張も水火のごとく相容れないものであった。しかれどもこれらの十派の主張する大綱は同じであった。すなわち一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三と立て法華経は阿含や般若や浄名や思益等の経々に相対すれば真実であり了義経であり、正見であるけれども、涅槃経に対すれば無常経・不了義経・邪見の経であるといい、さらに涅槃よりも華厳が勝ちれていると主張していた

 漢の時代から四百余年の末五百年に入って陳隋二代にわたるころ、智顗と申す小僧があり、後には天台智者大師と号したてまつった。この天台大師は、五時八教をたて、南北十派の邪義を破って、一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三と立て、釈迦仏出世の本懐たる法華経を広宣流布した。これは像法の前半五百年のことであり、大集経の読誦多聞堅固の時に当たる時代であった。

 

語釈

摩騰・竺蘭

 摩騰迦と竺法蘭。ともに中インドの人。後漢の明帝の命により、中国に仏典をもたらし、崇重された。

 

魏・晋・宋・斉・梁の五代

 魏(02200265)、晋・西晋(02650316)・東晋(03170420)、宋(04200479)、斉(04790502)、梁(05020557)中国の歴代王朝のこと。東晋から梁までは、いずれも華南の王朝(南朝)である。南朝では文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えた。

 

南三北七

 中国・南北朝時代(北魏が華北を統一した439年~隋が中国全土を統一する589年)にあった仏教の教判(経典の判定)に関する十人の学説のこと。南三とは、漸教のうち江南(揚子江流域の南地)における三つの異なった見解のことで、①虎丘山の笈師の三時教、②宗愛(大昌寺僧宗と白馬寺曇愛の二人とする説もある)の四時教、③定林寺の僧柔・慧次と道場寺の慧観の五時教。北七とは、河北(黄河流域の北地)における七派による見解で、①五時教、②菩提流支の半満二教、③光統(慧光)の四宗(教)、④五宗(教)、⑤六宗(教)、⑥北地の禅師の(有相・無相の)二種大乗(二宗の大乗)、⑦北地の禅師の一音教。①および④~⑦は個人名が明かされていない。

 

智顗

 (05380597)。中国天台宗の開祖。慧文・慧思(南岳)よりの相承の関係から第三祖とすることもある。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王(のちの煬帝)より智者大師の号を与えられた。智顗は諱。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代から隋代にかけての人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた。著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

陳隋二代

 陳王朝(05570589)と隋王朝(05810618)の二代。陳は中国・南北朝時代の南朝最後の王朝。梁の後を受けて建国し、隋に滅ぼされた。天台大師智顗は、陳の宣帝と後主叔宝の帰依を受けた。隋は南北朝に分裂していた中国を再統一した王朝。文帝(楊堅)が科挙をはじめ帝政の強化を図ったが、子の煬帝(晋王楊広)の外征失敗などで混乱し、唐に滅ぼされ短命に終わった。文帝は北周の廃仏以降の仏教復興を図り、そのもとで寺院の建設や訳経事業が活発に行われた。天台大師智顗は文帝と煬帝の帰依を受け、また同時代の吉蔵(嘉祥)が三論教学を大成した。

 

講義

この章は、像法の初めの五百年の弘教を明かしている。この五百年間には、仏教がインドから中国へ伝来し、多くの名僧が経典を求めてインドへ旅行し、またインドから中国へ経典を持って渡っては、盛んに翻訳をした。これまた当時の国王の援護をえて、国家的な事業として行なわれたものが多い。

 

大小を分けず権実をいはずしてやみぬ

 

 インドから中国へ仏教の渡った当時は、すでにインドでは小乗を破して大乗を立て、実教たる法華経を根本にした竜樹、天親等の弘教もあったが、新しく中国へいってひろめる場合は、大小、権実を分けなかった。摩謄・竺蘭は、みずからは知っていたが、いわなかったのである。次いで仏教は中国に栄えるようになるので、隋唐時代になると、日本から盛んに中国大陸へ留学生が渡っては、仏教を学び、日本へ伝持してきた。

 いまは創価学会の発展によって、学会の幹部は世界各国に会員指導のために旅行し、また世界各国の会員は日本へ旅行し、広宣流布大誓堂での「広宣流布誓願勤行会」に参加できることを、最高の希望とし目的として日夜励んでいる。実に世界広布が眼前に実現されようとする瑞相ではないか。

 さて海外へ行って弘法する場合には、今は末法であるとはいえ、摂受を前として行ずる場合のあることは、前章にも述べた。この章で摩謄・竺蘭が大小相対を知ってはいるが、いわなかったということも、参考になるであろう。後章に出てくるが、日本へ仏教の伝来した時にも同じような例がたくさんある。鑑真は法華経を持ってはきたが、小乗の戒壇を建て小乗の授戒に一生を終わったようなのも、その一例である。

 

南三・北七と申して仏法十流にわかれぬ

 

 なぜ十派にも分裂していたかは、前にも述べたとおり、教判の相違から来るのである。釈尊一代仏教の説かれた順序や、内容別の分類をしてみると、そこにいろいろの異議を生じてくる。

 南の三派はいずれも頓・漸・不定の三教を立てる。頓は華厳、漸は四阿含から涅槃まで、不定は勝鬘金光明等である。このうち漸の内容をさらに分類して三時教は有相(阿含十二年)無相(十二年後法華まで)常住教(涅槃)と立つ。四字教は、無相と常住教の間に法華を立てて同帰教とする。五字教は、無相と同帰の間に浄名思益等を立てて抑揚教としている。

 北の七派は、一に五字教とは、南の三時のほかに無相教と人天教を立てる、二に半満二教とは、初転法輪より十二年までを半字教、十二年以後を満字教とし、大乗、小乗を分別したのみである。三に四宗とは、因縁宗(毘曇)仮名宗(成実)誑相宗(大品)常宗(涅槃、華厳等)である。四に五宗とは、四宗のほかに法界宗(華厳経)を立てる。五に六宗とは、四宗のはかに真宗(法華経)円宗(華厳宗)を立てる。六に二種の大乗とは、大乗を有相(大品、華厳、瓔珞等)と、無相(楞伽、思益等)に分ける。七に一音教とは、但一仏乗を立てる。

 以上のような論争の後に出現された天台大師は、これらすべての教判は仏意に反すると破折し、正しく五時、八教を立てた。五時とは、華厳、阿含、方等、般若、法華であり、八教とは化儀の四教たる頓・漸・秘密・不定であり、化法の四教たる蔵通別円である。

 

 

第十章(像法の後の五百年の弘教)

 本文

像法の後五百歳は唐の始・太宗皇帝の御宇に玄奘三蔵・月支に入つて十九年が間、百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値いたてまつりて八万聖教・十二部経の淵底を習いきわめしに其の中に二宗あり所謂法相宗・三論宗なり、此の二宗の中に法相大乗は遠くは弥勒・無著近くは戒賢論師に伝えて漢土にかへりて太宗皇帝にさづけさせ給う、此の宗の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便・所謂深密経・勝鬘経等此れなり、天台智者等は此の旨を弁えず等云云、而も太宗は賢王なり当時名を一天にひびかすのみならず三皇にもこえ五帝にも勝れたるよし四海にひびき漢土を手ににぎるのみならず高昌・高麗等の一千八百余国をなびかし内外を極めたる王ときこへし賢王の第一の御帰依の僧なり、天台宗の学者の中にも頭をさしいだす人一人もなし、而れば法華経の実義すでに一国に隠没しぬ、同じき太宗の太子高宗・高宗の継母則天皇后の御宇に法蔵法師といふ者あり法相宗に天台宗のをそわるるところを見て前に天台の御時せめられし華厳経を取出して一代の中には華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てけり、太宗第四代・玄宗皇帝の御宇・開元四年・同八年に西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ、此の宗の立義に云く教に二種あり一には釈迦の顕教・所謂華厳・法華等、二には大日の密教・所謂大日経等なり、法華経は顕教の第一なり此の経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども事相の印契と真言とはたえてみへず三密相応せざれば不了義経等云云、已上法相・華厳・真言の三宗一同に天台法華宗をやぶれども天台大師程の智人・法華宗の中になかりけるかの間内内はゆはれなき由は存じけれども天台のごとく公場にして論ぜられざりければ上国王大臣・下一切の人民にいたるまで皆仏法に迷いて衆生の得道みなとどまりけり、此等は像法の後の五百年の前二百余年が内なり、

 

現代語訳

像法時代の後半の五百年について述べよう。中国では唐の初めであり、太宗皇帝の時であった。このとき玄奘三蔵は貞観三年に出発してインドへの大旅行にたち、十九年(十七年とする説もあり)のあいだ百三十か国の寺塔を見聞して多くの論師に会いたてまつり、八万聖教・十二部経といわれる一代仏教の奥底を習いきわめたところ、そのなかに法相宗と三論宗という大乗の二宗があった。この二宗のなかで法相大乗宗というのは、遠くは弥勒菩薩が降臨して説いた法を無著菩薩がひろめたといわれ、当時は戒賢論師にまで伝えられていた。玄奘三蔵は戒賢論師からこの法相宗を習い伝えて中国へ帰り太宗皇帝に授けたのである。

 この法相宗の精神は、仏教は衆生の機根に従うべきであるという。ゆえにすぐ成仏のできる一乗の機根の衆生には、三乗の説法が方便であって、一乗の説法が真実である。これは法華経等である。これとは逆に三乗の機根の衆生のためには、三乗の説法が真実であり、一乗の説法は方便である。これは深密経・勝鬘経等である。天台智者大師はこの旨をわきまえないで、法華経のみが即身成仏・真実得道の経典であるといっているが、天台は誤りである等の論議を立てているのが法相宗である。

 しかも太宗皇帝は賢王である。当時はその名を天下にひびかすのみならず、古代の伝説にある三皇・五帝よりも勝れているとたたえられて、その名は四海に鳴り響いていた。中国全土を平定したのみか、西はインドとの国境である高昌まで、東の方は高麗までの一千八百余国をなびかし、その勢威は国の内外にまで仰がれた賢王であった。玄奘は実にこの賢王の帰依を受けていたのである。ゆえに、天台宗の学者の中にも頭をさしだす人は一人もいない。そして法華経の実義は、すでに一国に隠没してしまった。

 同じく、この太宗の太子の高宗および高宗の継母たる則天皇后の時代に、法蔵法師という者があった。天台宗が法相宗に襲われているのを見て、前に天台の時に破られた華厳経をとり出し、華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てた。太宗の第四代・玄宗皇帝の御代、開元四年、同八年に、西の方インドから善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵のいわゆる三三蔵が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持ってきて真言宗を立てた。この宗の立義によれば、教に二種類あって一には釈尊の顕教であり、いわゆる華厳や法華である。二には大日如来の密教で、いわゆる大日経等である。法華経は顕教の中では第一であるが、大日の密教に対すれば、極理は少し同じであるけれども、事相の印契と真言とは法華経にまったく説かれてない。ゆえに法華は身・口・意の三密が相応しないから不了義経である。

 以上のように、法相・華厳・真言の三宗は、一同に天台法華宗を破って各自の邪義を立てたけれども、天台大師ほどの智人が法華宗の中にはなかった。内々はこれらの邪宗はいわれのないものだと知っていたけれども、天台のように公場で論じなかったので、上は国王大臣より下はいっさいの人民にいたるまで、みな仏法に迷い、衆生の得道は、みなとどまってしまった。これらの事件は、像法の後の五百年の中で初めの二百年――仏滅後千六、七百年のころであった。

 

語釈

太宗皇帝

 (05980649)。李世民のこと。中国、唐の第二代皇帝。太宗は廟号。隋末、天下おおいに乱れたとき、父の李淵とともに、太原に兵をあげ、天下を平定した。のち、李淵が帝位につくや秦王となり、皇太子を経て高祖より王位を受けた。房玄齢・杜如晦・魏徴らの名臣を用いて「貞観の治」を現出した。しかし、よき後継者に恵まれず、死後は則天武后の専制と革命(武周の建国)を許すことになった。

 

玄奘

 (06020664)。生年には0600年説など諸説がある。中国・唐代初期の僧。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘、13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちに唯識思想を究めようとインドへ経典を求めて旅し、多くの経典を伝えるとともに翻訳を一新した。彼以後の漢訳仏典を新訳といい、それ以前の旧訳と区別される。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。弟子の基(慈恩)が立てた法相宗で祖とされる。

 

法相宗

 南都六宗の一つ。解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基(慈恩)によって大成された。教義は、五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。日本伝来については四伝あり、道昭が孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、玄奘より教えを受けて、斉明天皇6年(0660)帰朝して元興寺で弘通したのを初伝とする。

 

戒賢論師

 (05290645)。梵名シーラバドラ(Śīlabhadra)の訳。唯識学派の論師。東インド出身で、那爛陀(ナーランダー)寺で唯識十大論師の一人、護法(ダルマパーラ〔Dharmapāla〕)を師として出家した。護法の後を継ぎ、同寺の学頭となる。玄奘を迎え、彼に唯識説を伝えた。

 

深密経

 解深密経のこと。中国・唐の玄奘訳。五巻。唯識説(あらゆる事物・事象は心に立ち現れているもので固定的な実体はないという思想)を体系的に説き明かし、法相宗では根本経典とされた。

 

高昌

 五~七世紀に中央アジアのトゥルファン(新疆ウイグル自治区の東部)を支配した王国の総称。天山山脈の南麓にあたる。中国・北涼の滅亡に伴い沮渠氏がこの地に亡命したのが始まり。支配層は漢族だが、イラン系のソグド人を中心に多彩な文化が栄えた。西域の中でも特に仏教が盛んだった。唐の太宗が貞観14年(0640)に高昌を討って西州都護府を置いた。

 

高麗

 0918年に王建(太祖)が建国、0936年に朝鮮半島を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた。日蓮大聖人の御在世当時では、1231年よりモンゴル軍の侵入が始まり,全土を踏みにじられ、1270年、ついに降伏して元の属国となった。元の日本遠征(文永・弘安の役)には、その先導をつとめた。

 

高宗の継母則天皇后

 (06230705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。。

 

法蔵法師

 (06430712)。中国・唐代の僧。中国華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。在俗のまま、洛陽雲華寺の智儼について華厳経を学んだ。則天武后の帰依をうけ、咸亨元年(0670)勅命によって出家、太原寺に住んだ。実叉難陀が華厳経八十巻を翻訳するのを助けて華厳教学を講説し、長安・洛陽をはじめ各地に華厳寺を建立、華厳宗を流布して大薦福寺で没した。著書に「華厳経探玄記」二十巻、「華厳五教章」三巻または四巻、「華厳経伝記」五巻などがある。

 

太宗第四代・玄宗皇帝

 (06850761)。唐の第六代皇帝。睿宗皇帝の第三子。姓は李、諱は隆基。26歳で即位。治世の初めは宋璟・姚崇を用い、外征をおさえて民生の安定に努め、唐の繁栄に貢献し、「開元の治」と称された。在位が長くなるにつれて政治を倦み怠ったため、政情が乱れ内乱が起きた。晩年は不遇のうちに没した。

 

善無畏三蔵

 (06370735)。中国・唐代の真言密教の僧。梵名シュバカラシンハ(Śubhakarasiha)、音写して輸波迦羅。善無畏はその意訳。中国・唐代の真言宗の開祖。宋高僧伝によれば、東インド烏荼国の王子として生まれ、13歳で王位についたが兄の妬みをかい、位を譲って出家した。マガダ国の那爛陀寺で、達摩掬多に従い密教を学ぶ。唐の開元4年(0716)中国に渡り、玄宗皇帝に国師として迎えられた。「大日経」「蘇婆呼童子経」「蘇悉地羯羅経」などを翻訳、また「大日経疏」二十巻を編纂、中国に初めて密教を伝えた。とくに大日経疏で天台大師の一念三千の義を盗み入れ、理同事勝の邪義を立てた。金剛智、不空とともに三三蔵と呼ばれた。

 

金剛智三蔵

 (06710741)。中国・唐代の真言密教の僧。梵名バジラボディ(Vajrabodhi)、音写して跋日羅菩提。金剛智はその意訳。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。十歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき七年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入り、玄宗皇帝に迎えられ慈恩寺に住した。「金剛頂瑜伽中略出念誦経」四巻など多くの密教の諸経論を訳出。弟子に不空等がいる。

 

不空三蔵

 (07050771)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、音写して阿目佉跋折羅、意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。十五歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家。開元29年(0741)、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、六年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。「金剛頂経」三巻など多くの密教経典類を翻訳し、羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられている。

 

講義

像法の後の五百年で多造搭寺堅固の時代である。中国では唐の太宗皇帝の時代に玄奘が法相宗をひろめ、次の高宗と則天皇后の時代に法蔵が華厳宗をひろめ、玄宗皇帝の時代には善無畏三蔵がインドから来て真言宗をひろめ、いずれも法華経の真義を破って邪義を弘通したので、仏教では得道する者は一人もなくなった。五時八教を立て、法華最第一と立てた天台の正義も、たちまちにして、これらの邪義に押し流されてしまったことは、まことに惜しむべきである。

 

其の中に二宗あり所謂法相・三論宗なり

 

 インドの大乗教に二つの系統がある。

 一には、仏滅後七百年に出た竜樹が大乗空宗をひろめ、中観宗として南方に唱道し、これが中国に伝わって三論宗となる。竜樹が空論を説いた代表的なものが「中論四巻」「十二門論一巻」であり、竜樹のこの教学を迦那提婆が継承し「百論二巻」がその代表的著述である。

 二には、仏滅後九百年に出た無著・世親の兄弟が大乗有相としての瑜伽宗を北インドに唱道した。これが中国へ伝来して法相宗となった。無著の代表的著書には「摂大乗論三巻」「瑜伽師地論百巻」等がある。聖密房御書にいわく「法相宗は唯心有境・大乗宗・無量の宗ありとも所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり・三論宗は唯心無境・無量の宗ありとも所詮・唯心無境ならば但一宗なり」(0899:15)と。

 本抄の下の文(0272:05)に、奈良七大寺の大徳が伝教大師に出した帰伏状を載せられているが、その中にいわく「三論法相久年の諍い渙焉として氷の如く釈け……」と。すなわちインドにおける大乗空宗としての三論宗と、大乗有宗としての法相宗との争いは、日本にまできて、伝教大師によって、ようやく解決されたわけである。これによってみても、仏教は釈尊の本懐たる法華経によらなければならないことがわかるであろう。

 

 

第十一章(日本に六宗の伝来)

 本文

像法に入つて四百余年と申しけるに百済国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等・日本国にわたる、漢土の梁の末・陳の始にあひあたる、日本には神武天王よりは第三十代・欽明天王の御宇なり、欽明の御子・用明の太子に上宮王子・仏法を弘通し給うのみならず並びに法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定めさせ給いぬ、其の後・人王第三十七代に孝徳天王の御宇に三論宗・成実宗を観勒僧正・百済国よりわたす、同御代に道昭法師・漢土より法相宗・倶舎宗をわたす、人王第四十四代・元正天王の御宇に天竺より大日経をわたして有りしかども而も弘通せずして漢土へかへる此の僧をば善無畏三蔵という、人王第四十五代に聖武天皇の御宇に審祥大徳・新羅国より華厳宗をわたして良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて東大寺の大仏を立てさせ給えり同御代に大唐の鑒真和尚・天台宗と律宗をわたす、其の中に律宗をば弘通し小乗の戒場を東大寺に建立せしかども法華宗の事をば名字をも申し出させ給はずして入滅し了んぬ、

 

現代語訳

像法に入って四百余年過ぎたころ、百済国から一切経および教主釈尊の木像・僧尼等が日本へ渡ってきた。このころの中国は梁の末で陳の初め、すなわち天台大師の時代であった。日本では神武天皇から第三十代の欽明天皇の御代であった。欽明の御子・用明天皇の太子に上宮太子(聖徳太子)があって大いに仏法を弘通する上に法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定められた。

 その後、第三十七代に孝徳天皇の御代に、三論宗と成実宗を観勒僧正が百済国から渡した。同時代に道昭法師は中国から法相宗と倶舎宗を渡した。

 第四十四代元正天皇の御代には、インドから大日経を持ってきたが、弘通しないで中国へ帰った僧がある。それは善無畏三蔵であった。

 第四十五代聖武天皇の御代に、審祥大徳は新羅国から華厳宗を渡して良弁僧正・聖武天王に授けて東大寺の大仏を建立した。同時代に唐から鑒真和尚が天台宗と律宗を渡したが、律宗のみ弘通し、小乗の戒壇を東大寺に建立したけれども、法華経のことは、名前すら出さないで入滅してしまった。

 

語釈

観勒僧正

 生没年不詳。七世紀ごろの百済出身の僧。0602年に来日して元興寺に住み、三論宗・成実宗を伝えた。国家が仏教を統制するため任命した僧官を僧綱というが、0624年に日本最初の僧綱として僧正に任命された。

 

道昭法師

 (06290700)。日本法相宗の開祖。唐に渡り玄奘に師事し、法相教学(または摂論)を学んだ。経論を携えて帰朝し、元興寺で法相宗を広めた。弟子に行基がいる。

 

審祥大徳

 (~0742?)。奈良時代の学僧。日本華厳宗の初祖とされる。「新羅学生」と記録されていることから、新羅に学びにいった日本僧と推測される。唐の法蔵に華厳教学を学び、来日して大安寺に居住する。0740年、良弁の請いにより金鐘寺(東大寺の前身)で華厳経を講義し、聖武天皇の外護を受けて華厳宗を広めた。

 

鑒真和尚

 (06880763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。

 

講義

本章は、欽明天皇の御代に、日本の国へ初めて仏教が伝来し、次いで奈良の六宗の伝来した経過が述べられている。

 

仏教と日本の国

 

 日本の国は大乗仏教に縁が深く、特に法華経が広く流布されて、末法の本仏日蓮大聖人が三大秘法を御建立になる先序となった。御義口伝上にいわく「殊には此の八歳の竜女の成仏は帝王持経の先祖たり、人王の始は神武天皇なり神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり此の葺不合尊は豊玉姫の子なり此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり八歳の竜女の姉なり、然る間先祖法華経の行者なり甚深甚深」(0746:12)と。実に不思議の因縁ではないか。

 弥勒菩薩の瑜迦論にいわく「東方に小国あり、その中に唯大乗の種姓のみあり」と。肇公の翻経の記にいわく「大師須梨耶蘇摩左の手に法華経を持し右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与していわく、仏日西に入って遺耀将に東に及ばんとす、この経典東北に縁あり、汝慎んで伝弘せよ」と。遵式の筆にいわく「始め西より伝う、猶月の生ずるが如し、今復東より返る猶日の昇るが如し」と。伝教大師いわく「地を尋ぬれば唐の東羯の西」と。

 以上のように、いずれも日本の国をさして、大乗有縁とし、あるいは法華経の流布すべき国と定められていたのである。

 わが国に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇13年(0552)で、百済の聖明王が仏像経巻等を献じてきたのが最初である。なぜこれを公式伝来というかといえば、既に朝鮮半島と我が国とは古来から往来が盛んであったので、民間人が仏像を持ってきたり、経巻の一部を持ってきたり、ましてや一部の教えが日本に伝えられたことは当然に想像できる。一例として継体天皇16年(0512)に、南梁の司馬達等という人が日本へ来て、大和坂田か原へ草堂をかまえ、仏像を安置して礼拝していたという伝説がある。

 さて百済王から献じられた仏教を、信じるか信じないかで、国内は二派に分かれて争いを生じた。蘇我稲目は礼拝を主張、物部尾輿、中臣の鎌子はこれに反対した。数十年にわたる争いの結果、崇仏派が勝ち、排仏派は敗れ去った。とくに推古天皇の太子厩戸皇子(聖徳太子)は、憲法十七条を制定して、よく国を治めるとともに、厚く仏法を敬い、勝曼経、法華経、維摩経の義疏を製し、またこれらの経典を講じて鎮護国家、文化の向上に努められた。

 そのほか仏教伝来の経過は本文にお示しのとおりであるが、聖徳太子も法華経を講じたが、諸経を破折するというようなことはなかったし、鑑真も律宗と天台宗を持ってきながら、天台宗をばひろめないで、小乗の授戒に一生を終わっている。これも、時のしからしむるところである。

 

小乗の戒壇を東大寺に建立

 

 小乗戒壇の戒場には三重の壇があって、大乗の菩薩の三聚浄戒を表わしているという。もしそうであるなら、東大寺の戒壇も大乗の戒壇といえるではないかとの疑問がおきる。

 これに対し日寛上人は、幾多の事例をあげて、小乗の戒壇なりと破折されている。一に伝教大師は顕戒論に、三車、除糞といって、東大寺の戒壇を破している。三車とは牛・鹿・羊の三車で、声聞・縁覚・菩薩の三乗であり、除糞は家業につく前に、糞はらいとして雇われたことをいう。そのほか、慈覚も、智証も、三井寺の明尊も法然の伝記によっても、すべて小乗の戒と破していることが明らかである。

 

 

第十二章(天台宗の弘通)

 本文

其後・人王第五十代・像法八百年に相当つて桓武天王の御宇に最澄と申す小僧出来せり後には伝教大師と号したてまつる、始には三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並びに禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給いし程に我と立て給える国昌寺・後には比叡山と号す、此にして六宗の本経・本論と宗宗の人師の釈とを引き合せて御らむありしかば彼の宗宗の人師の釈・所依の経論に相違せる事多き上僻見多多にして信受せん人皆悪道に堕ちぬべしとかんがへさせ給う其の上法華経の実義は宗宗の人人・我も得たり我も得たりと自讃ありしかども其の義なし、此れを申すならば喧嘩出来すべしもだして申さずば仏誓にそむきなんとをもひわづらはせ給いしかども終に仏の誡ををそれて桓武皇帝に奏し給いしかば帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う、彼の学者等・始めは慢幢・山のごとし悪心・毒蛇のやうなりしかども終に王の前にしてせめをとされて六宗・七寺・一同に御弟子となりぬ、例せば漢土の南北の諸師・陳殿にして天台大師にせめおとされて御弟子となりしがごとし、此れはこれ円定・円慧計りなり其の上天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給うのみならず法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず仏の滅後一千八百余年が間身毒尸那一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる、されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり、されば日本国の当世の東寺・園城・七大寺・諸国の八宗・浄土・禅宗・律宗等の諸僧等誰人か伝教大師の円戒をそむくべき、かの漢土九国の諸僧等は円定・円慧は天台の弟子ににたれども円頓一同の戒場は漢土になければ戒にをいては弟子とならぬ者もありけん、この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり悪人なり、而れども漢土日本の天台宗と真言の勝劣は大師心中には存知せさせ給いけれども六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるゆへにや、伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺日本一州一同に真言宗は天台宗に勝れたりと上一人より下万人にいたるまでをぼしめしをもえり、しかれば天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける此の伝教の御時は像法の末大集経の多造塔寺堅固の時なり、いまだ於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にはあたらず。

 

現代語訳

日本に仏教が伝来し、奈良時代ができたが、その後、人王第五十代桓武天皇の御代に最澄が出現した。釈迦滅後千八百年、末法に入って八百年ごろの人であり、後に伝教大師と号された。

 最澄は、始めには三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗および禅宗等を、近江国崇福寺に住する行表僧正に学んでいた。後に国昌寺(後に比叡山と号す)に住して、六宗の本経・本論と後代の人師の解釈とを引きあわせて勉強した結果、六宗の人師の解釈はその宗派の拠り所としている経文や本論に相違していることが多い上、自分勝手の誤った見解が多く、信じている人はみな悪道に堕ちると考えられた。その上にまた法華経の実義を各宗の人々は我も得たりと自分で自分をほめているけれども、法華の実義などは全然説かれていない。これを最澄が事実のままにいい出すならば、宗教界が大喧嘩になってしまうだろう。黙って誤りを見過ごしていれば、喧嘩はおこらないけれども、仏の滅後に正法を弘通するとの誓いに反することになる。最澄はこのように思いわずらわれたが、ついに仏の誡を恐れて、桓武天皇にこのことを奏上した。天皇は驚かれ、奈良六宗の大学者と最澄とを召し合わせ討論せしめた。六宗の学者たちは始めは自分を慢ずる幢が山のように高く、悪心が毒蛇のようだったが、ついに王の前で最澄からせめおとされ、六つの宗派と主だった七つの寺が、一つ残らず最澄の弟子となった。

 たとえば、中国の南三北七といわれた十宗の諸師が、陳の国王の宮殿で天台大師にせめおとされ、天台の御弟子となったのと同じである。しかし天台は、戒定慧の三学のうち円定円慧ばかりをひろめたのであったが、最澄は天台がまだ打ち破らなかった小乗の別受戒をせめおとし、六宗の八人の大徳に梵網経の大乗の別受戒をさずけ、法華経の円頓の別受戒を授けるべき迹門の戒壇を比叡山延暦寺に建立した。ゆえに比叡山延暦寺の円頓の別受戒は日本第一であるのみか、釈尊滅後一千八百年間、インドにも中国にも、一閻浮提に、いまだどこにもなかった霊山の大戒――法華の大戒が、日本国にはじめられたのである、されば伝教大師の功績を論ずるならば、インドでもっとも有名な竜樹・天親よりもすぐれ、中国の天台・妙楽にも勝れている聖人なのだ。ゆえに日本国当世の東寺・園城・七大寺はもとより、諸国の八宗・浄土・禅宗・律宗等の諸僧等はだれびとか伝教大師の円戒に背いてよいのだろうか。中国では九国の諸僧等が、円定と円慧ばかりは天台の弟子に似ているが、円頓の戒壇が中国には建てられなかったので、戒においてはかならずしも天台の弟子でないものもあったであろう。この日本国は法華迹門の戒壇が建てられて、ことごとく伝教大師の御弟子となったからには、伝教大師の戒を受けて御弟子とならない僧は、外道であり、悪人である。

 しかしながら、中国と日本の両国とも、天台宗と真言宗の勝劣が、だんだんに、はっきりしなくなってきた。伝教大師はこのくらいの勝劣はもとより心の中では御存知であったが、奈良の六宗と天台宗とのごとく公場において勝負をつけなかったためか、伝教大師以後には東寺・七寺・園城の諸寺をはじめ、日本一州一同に真言宗は天台宗にすぐれていると、上一人より下万人にいたるまで思っている。しかれば天台法華宗は伝教大師の御時ばかりであった。此の伝教の御時は像法の末であり、大集経の予言では多造塔寺堅固の時であり、いまだ「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」と予言されている末法の時代ではなかった。

 

語釈

桓武天王

 (07370806)。第五十代桓武天皇。光仁天皇の第一皇子。律令政治を立て直すため、長岡京、平安京への遷都を行った。伝教大師最澄を重んじ、日本天台宗の成立に大きく貢献した。

 

最澄

 (07670823)。平安時代初期の人で、日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。叡山大師・根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。幼名は広野。近江国(滋賀県)滋賀郡の生まれ。先祖は後漢の孝献帝の末裔で、応神天皇の時代に日本に帰化したといわれる。12歳で近江国分寺の行表について出家。延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受け、その後、比叡山に登り、諸経論を究めた。延暦21年(0802)和気弘世・真綱の招請を受けて下山し、京都高雄山寺(のちの神護寺)で天台三大部を講じた。延暦23年(0804)還学生(短期留学生)として義真を連れて入唐し、道邃・行満(以上天台学)・翛然(禅)・順暁(密教)等について学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。その後、嵯峨天皇の護持僧となり、大乗戒壇実現に努力した。没後、勅許を得て大乗戒壇が建立された。貞観8年(0866)伝教大師の諡号が贈られた。おもな著書に「山家学生式」一巻、「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻等がある。

 

行表僧正

 (07240797)。奈良末期の三論宗の学僧。興福寺で受戒し華厳・法相・律などを学び、後に近江国(滋賀県)の僧尼を監督する国師を務めた。伝教大師最澄が近江国分寺で出家した際の師。

 

国昌寺

 伝教大師最澄が出家・得度し所属していた寺で、近江国分寺とされる。本抄に「後には比叡山と号す」とあることから、日蓮大聖人の時代には、伝教大師が比叡山に建てた草庵であり、延暦寺の前身である比叡山寺であるという伝承があったと思われる。

 

小乗の別受戒

 受戒に通受戒と別受戒とあり、大乗の菩薩戒である摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の三聚浄戒をまとめて受けることを通受、摂律儀戒だけを受けることを別受という。小乗の別受戒とは、律蔵で定められた二百五十戒を受けること。

 

身毒尸那

 インドと中国。「身毒」は梵語シンドゥー(Sindhu)の音写。インダス川地方の意。史記「大宛列伝」に「大夏の東南に身毒国あり」とあり、前漢以降の中国におけるインドの呼称。唐代以後は「天竺」、さらに後代には「印度」の語が一般化した。「尸那」は中国の歴史的呼称。梵語チーナ・スターナ(Cīna-sthān)の音写。震旦・真旦・真丹とも書く。中国人の住んでいる地域との意。チーナ(Cīna)は秦の音写。スターナ(sthān)は地域・場所の意。古代インド人が秦(中国)をさした呼称。

 

叡山

 比叡山延暦寺のこと。滋賀県大津市にある日本天台宗の総本山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(07857月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(0788)、一乗止観院(後の根本中堂)を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(0806)、年分度者二名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後7日目の弘仁13年(0822)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同14年(0823)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。

 

東寺

 京都市南区九条町にある真言宗東寺派の本山。金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と称し、略して教王護国寺、また弥勒八幡山総持普賢院ともいう。延暦15年(0796)第五十代桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の二寺を建立した。その左大寺が東寺である。弘仁14年(0823)第五十二代嵯峨天皇が空海に下賜した。

 

園城

 園城寺。滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。三井寺ともいう。山門(比叡山延暦寺)に対する寺門をいう。弘文天皇(大友皇子)の皇子、与多王によって七世紀後半に建立されたと伝えられる。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので御井(三井)と呼ばれた。比叡山の円珍(智証)が貞観元年(0859)に再興し、同6年(086412月に延暦寺の別院とし、円珍が別当となった。しかし、円仁(慈覚)門徒と円珍門徒との間に確執が生まれ、法性寺座主が円珍系の余慶となったことをめぐって争うなど、双方の対立は深刻化する。そして正暦4年(0993)には比叡山から円珍門徒一千人余りが園城寺に移り、以降、山門(円仁派)と寺門(円珍派)の抗争が続いた。

 

七大寺

 南都(奈良)の七大寺のこと。東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の七か寺をいう。このうち、元興寺と大安寺は現存しない。

 

講義

仏教が日本に弘通された経過をお述べになるなかで、この章では奈良六宗が日本に渡来した後に、伝教大師が出現し、円頓の戒壇を比叡山に建立した経過や意義をお述べになっている。

 

小乗の別授戒、大乗の別授戒

 

 大乗の菩薩戒である摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の三聚浄戒をまとめて受けることを通受、摂律儀戒だけを受けることを別受という。小乗の別受戒とは、律蔵で定められた二百五十戒を受けること。

 小乗の戒には、五戒、八戒、十戒、具足戒等があり、具足戒とは比丘の二百五十戒と、比丘尼の五百戒をいう。大乗の戒には、梵網経に説く十重禁戒・四十八軽戒などがある。

 鑑真和尚が日本にきて東大寺に建てた戒壇は小乗の戒であり三師七証白四羯磨の作法という。三師とは授戒阿闍梨(戒和尚)・羯磨阿闍梨・教授阿闍梨をいう。七証とは七人の証明役が受戒の場にいて証言する。白四羯磨とは授戒をする時に、その旨を一回白した後、三度その可否を問うてそのことを決すること(一白三羯磨)をいう。

 中国の天台大師は、南三北七を破折して仏教界を統一したとはいえ、戒壇建立を実現しなかったので、法華経を学び、一念三千の観を行じて、円定・円慧の修行はするが、戒だけは小乗の戒を用い、小乗の授戒を受けたりしていたのである。日本においても同様のことが行なわれていた。すなわち聖密房御書にいわく「宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじ(榜示)をうちわかつものなり、東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし」(0899:05)と仰せである。

 そこで伝教大師は、円定円慧をひろめる上においては、戒においても必ず円戒を建てなければならないということを主張し、山家学生式で定慧が菩薩でありながら戒は声聞というのはおろかしいと述べている。しかして三聚浄戒の第一の摂律儀戒を、小乗声聞の戒ではなくて、正には法華により傍には梵網の十重四十八軽戒とした、すなわち伝教大師の三聚浄戒は、第一には菩薩の行義を正する戒(摂律儀戒)、第二は菩薩の自行(摂善法戒)、第三は菩薩の化他(摂衆生戒)とし、すなわち三つともに菩薩の大乗戒となったのである。

 東大寺の戒壇は、三重の壇の上に釈迦・多宝の二仏、四周には四天王となっている。比叡山の戒壇は、壇上に釈迦がいて、その脇士が文殊・弥勒の二菩薩となっている。

 これについて伝教大師は、学生式に「普賢経に依りて三師証等を請す、釈迦牟尼仏を請して菩薩戒の和上と為す、文殊師利菩薩を請じて菩薩戒の羯磨阿闍梨と為す。弥勒菩薩を請じて菩薩戒の教授阿闍梨と為す、十方一切の諸仏を請じて菩薩戒の証師と為す、十方一切の諸菩薩を請じて同学等侶と為す、現前の一りの伝戒の師を請じ以て現前の師と為す」述べられている。

 普賢経とは、法華経の結経で観普賢菩薩行法経という。これには「爾の時、行者は若し菩薩戒を具足せんと欲せば、(中略)釈迦牟尼仏正遍知世尊よ、我が和上と為りたまえ。文殊師利具大悲者よ。願わくは智慧を以て我れに清浄の諸の菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日よ。我れを憐愍するが故に、亦た我が菩薩の法を受くることを聴したまうべし。十方の諸仏よ。現じて我が証と為りたまえ。諸大菩薩は各おの其の名を称して、是の勝大士は、衆生を覆護し、我れ等を助護したまえ」等と説かれている。

 

大小権実の戒の功徳の相違

 

 同じく戒といっても、大小権実によって、次のような違いがある。まず大小の違いは十法界明因果抄にいわく「問うて云く二乗所持の不殺生戒と菩薩所持の不殺生戒と差別如何、答えて云く所持の戒の名は同じと雖も持する様並に心念永く異るなり、故に戒の功徳も亦浅深あり、問うて云く異なる様如何、答えて云く二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し亦仏菩薩と成らんと思わず但灰身滅智の思を成すなり、譬えば木を焼き灰と為しての後に一塵も無きが如し故に此の戒をば瓦器に譬う破れて後用うること無きが故なり、菩薩は爾らず饒益有情戒を発して此の戒を持するが故に機を見て五逆十悪を造り同く犯せども此の戒は破れず還つて弥弥戒体を全くす」(0434:04)と仰せられている。

 次に権実の戒にも次のような相違がある。同抄にいわく「梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り、法華経に於ては二乗七逆の者を許す上・博地の凡夫・一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり」(0437:12)と。

 

末法には法華本門の戒

 

 法華経においては、伝教大師の比叡山の戒は、迹門の理戒であって、末法には無益であるのみか、かえって有害である。末法において日蓮大聖人が建立される戒は、法華本門の大戒であって、受持即持戒とも、金剛宝器戒ともいわれている。次に、末法の戒および戒壇に関して若干の御抄を拝読してみよう。

 観心本尊抄にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)と。

 教行証御書にいわく「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282:10)と。

 三大秘法抄にいわく「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」(1022:15)と。

 そして身延相承書には

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九 日        日   蓮  在 御 判

                   血脈の次第 日蓮日興」

1600)と仰せである。

 

 

第十三章(妙法流布の必然を明かす)

 本文

今末法に入つて二百余歳・大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり、伝え聞く漢土は三百六十箇国・二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ華洛すでにやぶられて徽宗・欽宗の両帝・北蕃にいけどりにせられて韃靼にして終にかくれさせ給いぬ、徽宗の孫高宗皇帝は長安をせめをとされて田舎の臨安行在府に落ちさせ給いて今に数年が間京を見ず、高麗六百余国も新羅百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ、今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし闘諍堅固の仏語地に堕ちず、あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし、是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか、彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし、生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道・四生・三世の事を記し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、何に況や法華経は釈尊・要当説真実となのらせ給い多宝仏は真実なりと御判をそへ十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや、大地は反覆すとも高山は頽落すとも春の後に夏は来らずとも日は東へかへるとも月は地に落つるとも此の事は一定なるべし、

 

現代語訳

今は末法に入って二百余年になる。大集経に予言されている「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたっている。そして仏の予言が真実であるならば、間違いなく一閻浮提に闘諍が起こるべき時節である。

 伝え聞くところによれば、中国の三百六十ヵ国・二百六十余州はすでに蒙古の軍勢に打ち破られたという。また都はすでに破られて徽宗・欽宗の二人の帝は北方の金の軍勢にいけどりにされて韃靼で亡くなられた。また徽宗の孫高宗皇帝は都の長安をせめおとされて、田舎の臨安行在府へ逃げて、今に数年の間都をみることができないでいる。また高麗六百余国も新羅や百済の朝鮮半島の諸国もみんな大蒙古国の皇帝に攻められた。今の日本の壱岐・対馬や九州のようなものである。闘諍堅固と予言されている仏語は地におちることなく、あたかも大海の潮が、時を違えることなく満ち干するようなものである。

 このようなことから考えてみれば、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法が日本の国をはじめ全世界に広宣流布することも疑いのないことであろう。かの大集経は、仏説の中では権大乗の経である。生死を離れて成仏する道でもないし、法華経の結縁がない者には未顕真実の経ではあるけれども六道や四生や三世の事を記し給うている点では、寸分の違いもない。まして法華経は釈尊が「要ず当に真実を説くべし」と証明し、多宝仏も「法華経はみなこれ真実なり」と証明し十方の諸仏は広長舌を梵天にまでつけて説法の真実なることを証明している。その上に釈尊は無虚妄の舌を色究竟天までつけられて、後の五百歳に一切の仏法が滅してしまう時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を持たしめて、謗法一闡提の白癩病の輩の良薬にしようと、梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられた金言が、虚妄となるはずがあろうか。大地が反覆しても、高山がくずれ落ちても、春の後に夏がこなくても、日が東にかえっても、月が地に落ちても、このことは間違いのないことである。

 

語釈

徽宗

 (10821135)。中国・北宋の第八代皇帝。姓は趙、名は佶。第六代皇帝・神宗の子。元符3年(1100)帝位についたが政治に関心が薄く、院体画に才を示すなど文化面での才能を発揮した。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると民衆に重税を課して豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなった。道教を保護し、宣和元年(1119)、詔を下して仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏教の称号を廃して道教の称を用いるとした。この時、法道三蔵は上書して諌めたが、徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。後年、女真族の建てた金国と紛争を起こし、攻撃を受けることとなった。徽宗は位を皇太子の欽宗に譲り、自ら教主道君皇帝と名のった。のちまもなく国都の開封は陥落し、靖康2年(1127)欽宗と共に金国の捕虜となって北宋は絶えた。

 

欽宗

 (1100111)。中国・北宋の第九代皇帝。姓は趙、名は桓。第八代皇帝・徽宗の長子。金軍に都を包囲された際、父の徽宗から帝位を譲られた。靖康元年(1126)、金の第二回攻撃で開封は陥落、金軍に捕らえられ,上皇の徽宗をはじめ皇族らとともに金に拉致された。金・南宋間の和議成立後も帰国できず、配流30年で没した。

 

高宗皇帝

 (11071187)。中国・南宋の初代皇帝。北宋の第八代皇帝・徽宗の第九子。徽宗および欽宗が開封で金の軍勢に捕らえられたために、南京で即位した。紹興2年(1132)臨安 (現在の杭州市を都と定め、同8年(1138)金と和議を結び、南宋の基礎を築いた。本抄に臨安行在府とあるのは、宋人が「仮の首都」として行在(あんざい)と呼んだもの。ゆえに「今に数年が間京を見ず」、かつての国都・開封を今に至るまで奪還できないでいる、といわれている。日蓮大聖人の時代には、開封が金国に奪われてから百数十年経っている。臨安府は一二七六年に元軍によって占領され、南宋は滅亡した。

 

色究竟

 色究竟天のこと。色界の最頂にある天。阿迦尼吒天・有頂天ともいう。色界四禅天の頂上にあり、梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)、音写して摩醯首羅天の住所とされる。

 

講義

本章以降は、末法の初めを明かす段となり、初めに本章では、仏の予言が虚妄でないことを示して、かならず妙法蓮華経が末法に広宣流布することを述べられている。

 

一閻浮提に闘諍起るべき時節なり

 

 当時は世界中が大戦乱の中にあった。

 日本では、承久の乱により三上皇が島罪しされ、天皇が廃せられた翌年に、日蓮大聖人は御誕生になった。その後も国内には内紛や謀叛が相ついで起きた。外国では蒙古の勃興により各国が征服されて、次第に日本にもその危機が迫りつつあった。中国大陸の状勢は、本文にもお示しのとおり、蒙古の大軍は、漢土三百六十か国、二百六十余州を打ち破り、弘安二年には南栄が滅亡した。西は中央アジアからヨーロッパまで、東は朝鮮半島まで、ことごとく蒙古に破られて、島国の日本だけが残されていた。西洋では第四次十字軍が東ローマ帝国の首都を占領してラテン帝国を建てた時代であり、日蓮大聖人の御誕生は、第四次十字軍の十九年後に当たるが、第五次・第六次・第七次と、次々に十字軍が派遣されて、激烈な宗教戦争が戦われていたのである。

 しかし、この時には国が滅亡しることはなかったが、日蓮大聖人の滅後六百数十年にして世界の各国を相手に日本が大戦争し、敗戦亡国の運命に陥った。この時こそ、創価学会は起ち上がったのである。しかして、創価学会の今日までの発展の経過をみるならば、日蓮大聖人の予言なされた世界公布も必ず実現するものと確信して止まない。

 

法華経の結縁なき者のために

 

 大集経は権大乗の教であって成仏得道はできない教えであるが、六道四生や三世のことを説いている点は真実であるとの御文意である。法華経の結縁なき者のためには未顕真実とおおせられているから、「法華経の結縁の有る者には真実の教えなのか」との疑問が起きる。これは正像と末法の相違であって、正像二千年には法華経に結縁の有る衆生が生まれてきているので、権教を縁として法華の下種を熟することができた。今末法に入っては結縁のない衆生ばかりであるから、権教ではいくら修行しても熟し脱することができない、寿量品文底秘沈の下種仏法でなければならない所以である。

 顕謗法抄にいわく「或人云く無量義経の四十余年未顕真実の文はあえて四十余年の一切の経経・並に文文・句句を皆未顕真実と説き給にはあらず、但四十余年の経経に処処に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給い……答えて云く此の料簡は東土の得一が料簡に似たり」(0449:12)と。この顕謗法抄の文によれば、文々句々がみな未顕真実ではないという得一の説を破している。すなわち、文々句々みなことごとく未顕真実であるということになれば、今の撰時抄の文に反するではないか。

 これに対して、日寛上人は、得一は爾前経に成仏往生のあることを主張するが、爾前に成仏はないから、文々句々ことごとく未顕真実となるのである。成仏以外のことなら、爾前も真実であるという今の文と一致するのである。

 

後五百歳に一切の仏法の滅せん時

 

 日寛上人は三意をあげて、文底下種仏法の広宣流布を断言されている。第一に、一切の仏法が隠没してしまうゆえに。第二に、地涌の菩薩が後五百歳広宣流布の付嘱を受けているがゆえに。第三には、謗法一闡提の本未有善の衆生なるがゆえに、釈尊の説いた熟脱の仏法ではなくて、本門寿量品文底秘沈の下種仏法が広宣流布するとの御意である。大地がひっくりかえろうと、高山がくずれ落ちようと、春の後に夏が来なくても、太陽が西から回ろうと、月が地に落ちようとも「此の事一定なるべし」との日蓮大聖人の御確信を、よくよく肝に銘ずべきである。

 そもそも日蓮大聖人の御予言は、同時に末弟に対する偉大な御遺命と拝すべきである。撰時抄にいわく「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり」(0287:03)と。また佐渡御書にいわく「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」(0957:17)と。われらは、御本仏の教えを虚妄にすることなく、絶対的確信をもって、御遺命を達成しようではないか。

「後五百歳に一切の仏法の滅せん時」とおおせのように、釈迦仏法はすべて滅してしまうのである。今ごろまだ、念仏、真言、禅などという邪宗が、さも仏教であるかのような顔をして存在しているということは、釈尊の真意にも反すること、はなはだしいのである。

 

 

第十四章(能弘の師徳を顕わす)

 本文

此の事一定ならば闘諍堅固の時・日本国の王臣と並びに万民等が仏の御使として南無妙法蓮華経を流布せんとするを或は罵詈し或は悪口し或は流罪し或は打擲し弟子眷属等を種種の難にあわする人人いかでか安穏にては候べき、これをば愚癡の者は咒詛すとをもひぬべし、法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり、而るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば日月いかでか彼等が頂を照し給うべき地神いかでか彼等の足を戴き給うべき、提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば大地揺動して火炎いでにき、檀弥羅王は師子尊者の頸を切りしかば右の手刀とともに落ちぬ、徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやきて江南にながせしかば半年が内にゑびすの手にかかり給いき、蒙古のせめも又かくのごとくなるべし、設い五天のつわものをあつめて鉄囲山を城とせりともかなふべからず必ず日本国の一切衆生・兵難に値うべし、されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにても見るべし、教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしと・とかせ給へり、而るを今の日本国の国主・万民等・雅意にまかせて父母・宿世の敵よりもいたくにくみ謀反・殺害の者よりも・つよくせめぬるは現身にも大地われて入り天雷も身をさかざるは不審なり、日蓮が法華経の行者にてあらざるか・もししからばををきになげかし、今生には万人にせめられて片時もやすからず後生には悪道に堕ん事あさましとも申すばかりなし、又日蓮法華経の行者ならずばいかなる者の一乗の持者にてはあるべきぞ、法然が法華経をなげすてよ善導が千中無一・道綽が未有一人得者と申すが法華経の行者にて候か、又弘法大師の云く法華経を行ずるは戯論なりとかかれたるが法華経の行者なるべきか、経文には能持是経能説此経なんどこそとかれて候へよくとくと申すはいかなるぞと申すに於諸経中最在其上と申して大日経・華厳経・涅槃経・般若経等に法華経はすぐれて候なりと申す者をこそ経文には法華経の行者とはとかれて候へ、もし経文のごとくならば日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし、いかにいかにとをもうところに頭破作七分・口則閉塞のなかりけるは道理にて候いけるなり、此等は浅き罰なり但一人二人等のことなり、日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし、これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震一天を罰する文永の大彗星等なり、此等をみよ仏滅後の後仏法を行ずる者にあだをなすといへども今のごとくの大難は一度もなきなり、南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや。

 

現代語訳

このこと(末法に入っては、一切の仏法が滅して、妙法蓮華経の五字が広宣流布すること)が決定的な事実であるならば、闘諍堅固のこの時に、日本国の王臣ならびに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布しようとする日蓮を、あるいはののしったり、あるいは悪口をいったり、あるいは流罪にし、あるいは杖で打ち、弟子や眷属等を種々の難にあわせている人々が、どうして安穏でいられようか(かならず厳罰を受けるであろう)。このことをおろかな人間はのろっていると思うであろう(決してのろっているのではない)。

 法華経をひろめる者は、日本国の一切衆生の父母である。章安大師は「相手のために悪を除いてあげることが相手の人にとっては親の徳である」といっている。されば、日蓮は(日本国中の謗法を除こうとしているのであるから)日本の皇帝の父母であり、念仏者・禅衆・真言師等の師範であり、また主君である(実に日蓮大聖人が主師親三徳の御本仏であらせられるとの御宣言である)。

 しかるに、上一人より下万民にいたるまで、日蓮をあだむのだから、日天月天もどうして彼等の頂を安穏に照らしていようか。地神がどうして彼らの足をいただいて安穏な日を送らせようか。提婆達多は仏を打ちたてまつったので、大地が揺れ動き火炎を噴いて地獄の相を現じた。インドの檀弥羅王は、付法蔵第二十四の師子尊者の頸を切ったので、右の手が刀とともに落ちたという。徽宗皇帝は、法道三蔵の顔に火印をおして江南に流し、仏法を迫害したので、半年の内に北方から攻めてきた蕃族にとらえられてしまった。蒙古が日本へ襲来するのも、これと同じなのである。たとえ五天竺といわれるインド全体の兵を集め、鉄囲山を城として防いでも、蒙古の襲来を防げるものではない。かならず日本国の一切衆生が兵難にあうであろう(なぜなら、法華経の行者を迫害する謗法の罪によって蒙古から攻められているからである)。

 されば、日蓮が法華経の行者であるかないかは、この現証によって知るべきである。教主釈尊の説かれた経文によれば「末代悪世に、法華経をひろめる者の悪口をいったり、馬鹿にしたりすれば、仏を一劫という長い間怨(あだ)した罪よりも百千万億倍も過ぎる大謗法の罪をうけるであろう」と予言している。しかるに、今の日本国の国主や万民は我見をもって、父母の敵・宿世(前世)からの敵よりも強く日蓮をにくみ、謀反人や人を殺害した者よりも強く日蓮を責めている。それゆえ現身にも大地が割れて地獄へおちるが、天の雷にでも引き裂かてしまいそうなものを、それがないのが不審である。それでは日蓮が法華経の行者ではないのであろうか。もし法華経の行者でないとすれば、おおいになげかわしいことである。この世では万人に責められて片時ばかりの安らかな時もなく、次の世には悪道に堕ちるとするならば、実にあさましい限りである。また日蓮がもし法華経の行者でないとするならば、いったい、だれが一仏乗の法華経を持っている者といえるだろうか。

 法然は「法華経をなげすてよ」といい、善導は「法華経などでは千人に一人も得道する者がない」といい、道綽は「いまだ一人も得道した者がない」といっているが、こういう念仏の開祖たちが、法華経の行者なのか。また弘法大師は「法華経を行ずるのは戯れの論だ」と説いているが、こんなのが法華経の行者といえるだろうか。経文には「よくこの経を持つ」「よくこの経を説く」などと説かれている。この経文に「よく説く」といわれているのは、どんなことかといえば「諸経の中において、この法華経はもっともその上にある」といって、大日経や華厳経や涅槃経や般若経等、あらゆる経典より法華経が勝れているぞという者をこそ、経文には「法華経の行者なり」と説かれているのだ。もし経文のとおりなら、日本の国に仏法が渡って七百余年になる間、伝教大師と日蓮以外の者は一人も法華経の行者ではないのである。

(法華経の行者である日蓮を迫害する日本国中の者が、現罰を受けないのは)どうしてかと考えてみるのに、「頭が七分に破れる」「口が閉塞する」という現証が現れないのはまた道理の通ったことである。そういう罰は浅い罰であって、ただ一人か二人のうけることだ。日蓮は世界第一の法華経の行者である。この日蓮を謗ったり怨んだりする者の味方になるような者は、世界第一の大難にあうであろう。その現証が日本国を振りゆるがす正嘉の大地震や一天を罰する文永の大彗星となって現われたのだ。これらを見よ、釈尊が入滅してから今日まで、仏法を行ずる者に怨をなしたといっても、今の日本のような大難は一度もなかった。南無妙法蓮華経と一切衆生に唱えしめた者が、いまだかつてなかったからである。だれびとが一天に眼を合せ、四海に肩をならべる者がいるだろうか(いるはずがないのである)。

 

語釈

章安大師

 (05610632)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し結集した。諱は灌頂。浙江省臨海県章安の人。陳の文帝の天嘉2年(0561)に生まれ、7歳で摂静寺にはいり、25歳で天台大師に謁して観法を稟け、常随給仕し、所説の法門をことごとく領解した。その聴受の結集は、天台三大部(文句・玄義・止観)をはじめ、大小部合わせて百余巻ある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」三十三巻を著わした。唐の貞観6年(063287日、天台山国清寺で年72にして寂した。弟子智威に法灯を伝えた。

 

檀弥羅王は師子尊者の頸を切り

 付法蔵第二十四番目、最後の伝灯者である師子尊者は、釈尊滅後千二百年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、七日の後に命が終わったという。

 

徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやき

 法道は中国・宋代の僧。もと永道と称した。宣和元年(1119)徽宗皇帝が詔を下し、仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏僧の称号を廃して道教の風に改めることを決定した。永道はこれに反対し、上書してこれを諌めたが、帝は怒って永道の面に火印(焼印)を押し、江南の道州に放逐した。翌年、仏教の称号を用いることが許され、永道も許されて帰り、名を法道と改めた。靖康元年(1126)、徽宗は女真族の建てた金国に攻められ捕虜となり、北の異境でさびしく死んだ。

 

鉄囲山

 一小世界を囲む鉄山のこと。須弥山を中心とする九山八海の一番外側にある鉄山をいう。また三千大千世界を囲む鉄山をさすこともあり、この時は前者を小鉄囲山、後者を大鉄囲山という。倶舎論十一等に見える。

 

弘法大師

 (07740835)。平安時代初期の僧。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法は諡号。姓は佐伯氏、幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」三巻、「弁顕密二教論」二巻、「十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰」三巻等がある。

 

いかにいかにとをもうところに頭破作七分・口則閉塞のなかりけるは道理

 日寛上人のおおせには、謗者がもし一人や二人なら頭破口塞もあるだろう。しかるに、今は上一人より下万民にいたるまで、日本国じゅう、みな謗者である。たとえば、みな白髪となれば抜き捨てがたくなるようなものであるから、頭破口塞のなかったのは道理であるというのである。しかるに日蓮大聖人は閻浮第一の法華経の行者なるゆえに、これを怨む人々は、閻浮第一の大罰をこうむるのである。いわゆる正嘉の大地震、文永の大彗星これである。これすなわち謗者の罰が大きいのによせて、能弘の師徳の大なることをあらわすのである。

 

頭破作七分

 法華経の行者を誹謗する者が受ける罰。法華経陀羅尼品第二十六には、十羅刹女が法華経を持つ者の守護を誓った言葉に「若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん」とある。

 

口則閉塞

 法華経の行者を誹謗する者が受ける罰。法華経安楽行品第十四には「若し人は悪み罵らば 口は則ち閉塞せん」とあるのをさす。

 

正嘉の大地震

 正嘉元年(1257823日戌亥の刻、すなわち午後九時ごろ鎌倉地方を襲った大地震のこと。この時の惨状が「立正安国論」を著される契機となった

 

文永の大彗星

 文永元年(126475日の大彗星をさす。日蓮大聖人の時代、彗星は時代・社会を一掃する変革をもたらすできごとの兆しと考えられていた。大聖人御自身は、正嘉の大地震とともに、この大彗星を末法に地涌の菩薩が出現する前兆と捉えられていた

 

講義

 前章にかならず広宣流布すべきことを明かされて、本章では、法華経の行者日蓮大聖人を誹謗する者が、大罰を受けることによって、日蓮大聖人の御徳がいかに崇高であらせられるかを明かしている。謗法の罰としては法華経に「頭が七つに破れる」とか、「口が則ち閉塞する」と説かれているけれども、それは一人二人の浅い罰であって、日蓮大聖人をあだむ罪は世界第一の大罪であり、いまだかつて世界中にかなった大罰をうける。この大罰の現証によって、大聖人の御徳の偉大さを知らしめようとなさるのである。

 

仏の御使として南無妙法蓮華経を流布

 

 南無妙法蓮華経をひろめる人は仏のお使いなりというのは、外用浅近の辺であり「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」とは内証深秘であって、すなわち日蓮大聖人が末法の主師親三徳の御本仏なりとの御趣旨である。

 このように、日蓮大聖人が仏の御使いとか、上行菩薩の再誕とかおおせられていても、その御内証は主師親三徳の末法の御本仏であらせられることは明白な事実である。日蓮大聖人御自身が、このようにはっきりと断言されているにもかかわらず、日蓮宗と称する邪宗の徒は、一向にこの御文を読むことができないで、日蓮大菩薩などと呼んで平然としているのは、まことにあわれむべき存在であり、師敵対謗法の限りである。

 開目抄にいわく「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:05)と。佐渡御書にいわく「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと」(0957:18)と。報恩抄にいわく「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:03)と。この御文で慈悲曠大は親の徳、一切衆生の盲目をひらくは師の徳、無間地獄の道をふさぐは主の徳である。すなわち主師親三徳の御宣言なのである。

 なお御義口伝下にいわく「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(0766: 第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)と。諸法実相抄にいわく「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用(ゆう)の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(1358:11)と。

 

蒙古のせめ乃至兵難に値うべし

 

 正法の行者を迫害し邪法邪師を重んずるならば、その国が滅びるとは、立正安国論の予言であり、七百年後の今日、事実となって現われた。江戸時代の日寛上人の時代には、未だ亡国の現象はなかったが、日寛上人はこの御文を次のように釈されている。

 問う、太平記によると、日本は元軍を破って勝っているのではないか。国が滅ぶという日蓮大聖人の予言は的中しなかったのではないか。答う、この文には多くの意味があるけれども、しばらく二三を示そう。第一に、これは大慈悲忠諌の辞である。父が子供の過ちを責める時には、改めないと必ず身を亡ぼし家を亡ぼすであろうというが、その意は身を全うし家を全うさせんがために、親心の親切からいうのである。大聖人もまた謗法の過を責めて蒙古のせめとおおせられるが、その意は、身を安んじ国を安んぜんがための大悲心である。

 問う、また太平記によると、大元の軍を打ち破ったことは、わが国の武勇によるのではなくて、大小の神祇が冥助した神力によって勝利をえたのだという。もしそうなら諸天善神がこの国を捨て去ったという所論と違うではないか。答う、神天上とは謗者に約するのであって、(信者に約するならば)信者の頂には常に神がいる。たとえば濁水には月の影は映らないが清水にはすなわち映るのと同じである。しかしてわが国の神が冥助した理由に二意があり、一には鎌倉幕府が改悔(かいげ)したことによる。大聖人を佐渡へ流し奉ったが、終に赦免して大聖人の御弘通を妨害しなくなった。二には日蓮大聖人が国を護られたことによる。すなわち、

 種々御振舞御書に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:16)と。

 かくて、日蓮大聖人の御在世中は、亡国の悲運からまぬかれたが、七百年後において「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」の御予言が的中して、太平洋戦争において敗戦亡国となってしまったのである。

 なお、これは一国についての賞罰の原理であるが、このことは、個人についても、一家にとっても、一会社にとっても同じことがいえるのである。たとえば、妻が信仰していて、夫が反対しているような場合がある。夫が謗法を犯せば、その家庭にはそれなりの罰の現証が顕われる。しかし一方では、妻や子供が熱心に信仰していさえすれば、失業して路頭に迷うとか、主人が死んでしまったら、一番困るのが妻や子供であるから、そういうことはないのである。やはり熱心にやっていればいるほど守られているのである。むしろ妻の信心が純真であり熱心であれば、夫に少しの欠点があっても、その家庭は不思議によく守られ、繁栄していく例もよくあることである。

 しかし「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」で、あまりにも謗法が酷ければ、一家が亡びるような結果になることもある。日蓮大聖人は日本の国を救われたのであるから、せめてわれわれは、自分の家庭くらいは、最後の破滅などにならないように、励んでいかなければならないのである。

 

教主釈尊記して云く末代悪世に等

 

 法華経法師品第十の文に「薬王よ。若し悪人有って不善の心を以て、一劫の中に於いて、現に仏前に於いて、常に仏を毀罵せば、其の罪は尚お軽し。若し人は一の悪言を以て、在家・出家の法華経を読誦する者を毀呰せば、其の罪は甚だ重し」とあるのをさす。

 すなわち創価学会員のごとく御本尊を信じ折伏行に励む者を迫害し悪口をいえば、たった一言の悪口であっても、仏を一劫の間そしる罪より、はなはだ重いというのである。信じて持つところの御本尊が尊貴のゆえに、その人も貴く、したがって謗ずる者はこのような重罪となり、現罰をうけるのである。まことに恐るべし、慎むべし。

 法華経普賢品第二十八にいわく「若し復た是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さば、若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之れを軽笑すること有らば、当に世世に牙歯疎欠、醜唇平鼻、手脚繚戻し、眼目角睞に、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし」と。このように、御本尊を受持する者の過悪を出すならば、もしそれが事実であってもなくても、このような大罰を受ける。また軽笑することによっても、このような罰を受け、長く不幸のどん底に沈むことになってしまうのである。

 

 

第十五章(総じて問答料簡す)

 本文

疑つて云く設い正法の時は仏の在世に対すれば根機劣なりとも像末に対すれば最上の上機なり、いかでか正法の始に法華経をば用いざるべき随つて馬鳴・竜樹・提婆・無著等も正法一千年の内にこそ出現せさせ給へ、天親菩薩は千部の論師・法華論を造りて諸経の中第一の義を存す真諦三蔵の相伝に云く月支に法華経を弘通せる家・五十余家・天親は其の一也と已上正法なり、像法に入つては天台大師・像法の半に漢土に出現して玄と文と止との三十巻を造りて法華経の淵底を極めたり、像法の末に伝教大師・日本に出現して天台大師の円慧・円定の二法を我が朝に弘通せしむるのみならず円頓の大戒場を叡山に建立して日本一州皆同じく円戒の地になして上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰がせ給う豈に像法の時法華経の広宣流布にあらずや、答えて云く如来の教法は必ず機に随うという事は世間の学者の存知なり、しかれども仏教はしからず上根上智の人のために必ず大法を説くならば初成道の時なんぞ法華経をとき給はざる正法の先五百年に大乗経を弘通すべし、有縁の人に大法を説かせ給うならば浄飯大王・摩耶夫人に観仏三昧経・摩耶経をとくべからず、無縁の悪人謗法の者に秘法をあたえずば覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず、不軽菩薩は誹謗の四衆に向つていかに法華経をば弘通せさせ給いしぞ、されば機に随つて法を説くと申すは大なる僻見なり。

 

現代語訳

(白法隠滅の末法に入って法華経の肝心・南無妙法蓮華経が広宣流布すると説かれたのに対し)疑っていわく、仏の滅後千年の正法時代というのは、仏の在世に比べたら、衆生の根機が劣っているとしても、像法末法の衆生に比べたら最上の上機である。どうして、正法時代の初めに法華経を用いないといえようか。したがって、インドの馬鳴・竜樹・提婆・無著等も、正法一千年の間にこそ出現して仏法をひろめたのである。天親菩薩は千部の論師といわれた大学匠であって、法華経は諸経の中に第一であると立てた。真諦三蔵の相伝によれば「インドで法華経を弘通したのは五十余家もあり、天親はその一なり」といっているが、これは正法時代のことである。像法に入っては、天台大師が、仏滅後千五百年ごろ中国に出現して、法華玄義・法華文句・摩訶止観の三十巻を造って、法華経の法門の奥底をきわめられた。像法の末・仏滅後千八百年には、伝教大師が日本に出現して、天台大師の円慧・円定の二法を、わが国に弘通したのみか、円頓の大戒場を比叡山に建立して、日本全国をみな同じく円戒の地となし、上一人の天皇から下万民にいたるまで、延暦寺を師範とあおぐようになった。これこそ、像法時代に法華経が広宣流布したことになるではないか。

 答えていわく、如来の教法は、かならず衆生の機根によって説かれるのだというのは、世間の学者の通常の考えである。しかれども、仏教はそうではない。機根の高い智慧のある衆生のために、必ず大法を説くというならば、釈尊が初めて成道して説法する時に、どうして法華経を説かなかったのか。正法時代の前半の五百年は、どうして大乗をひろめないで、小乗経をひろめたのか。また仏に縁があるものに大法を説くというなら、仏の父たる浄飯王や母の摩耶夫人のために観仏三昧経や摩耶経のような権教を説くのは、おかしいではないか。また仏に縁のない悪人謗法のものには秘法をあたえないというなら、覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経を授けるわけがない。不軽菩薩は誹謗する四衆に向かって、どうして法華経を弘通したのか。だから衆生の機根にしたがって法を説くというのは、重大な誤った見解である。仏法は時によって弘通されるのであり、機によるのではない。

 

語釈

浄飯大王・摩耶夫人に観仏三昧経・摩耶経をとくべからず

釈尊の父と生母である。浄飯大王(シュッドーダナ)はインド迦毘羅衛国(カピラヴァストゥ)の王。摩耶夫人は浄飯王の妃。釈尊の生母で、釈尊生誕七日後に死に、忉利天に生まれ、かわりに妹の摩訶波闍波提が釈尊を養育したと伝えられる。観仏三昧経は、仏説観仏三昧海経の略。釈尊が父の浄飯王や叔母の摩訶波闍波提らのために、観仏三昧(仏を心に観察する瞑想)に住して解脱を得ることを説いている。摩耶経は詳しくは、摩訶摩耶経とも仏昇忉利天為母説法経ともいう。仏が母の摩耶夫人の恩を奉ずるために、忉利天に四月十五日に昇り七月十五日に帰るまでの九十日間に説法し、初果の益を得させた。のちに、仏が入滅したことを聞いた摩耶夫人は急ぎ忉利天より下り、涅槃の場にかけつけ、仏の鉢と錫杖とを抱いて泣いた。そのとき、仏は大神通力をもって金棺の蓋をあけ、身を起して毛孔から千百の光明を放ち、一一の光明中に千百の化仏を現じて、母子が相いまみえたと説かれている。しかし本抄では、もし「有縁の人に大法を説かせ給うならば」、釈尊は最も有縁の父母にこそ、まず法華経を説いたはずである、それがどうして、観仏三昧経・摩耶経という権教を説いたのか、と問われている。これに対し「されば機に随つて法を説くと申すは大なる僻見なり」、大法は時によって弘通されるのであり、機によるのではない、と論じられる。衆生の機根にしたがって法を説いたわけではない例証である。

 

覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず

覚徳比丘は涅槃経巻三の金剛身品第二に説かれる、正法護持の比丘。過去に拘尸那城に歓喜増益如来が出現し、その滅後、あと四十年で正法が滅しようとした。その時、覚徳は九部の経典を頒宣広説し、諸の比丘を「奴婢・牛羊・非法の物を畜養することを得ざれ」と制した。この言葉を聞いて、多くの比丘は悪心を生じ、刀杖を執持して覚徳を殺害しようとした。この時、国王の有徳王が破戒の悪比丘と戦い、覚徳は守られたが、有徳王は身体に刀剣箭槊の瘡を受けて死んだ。有徳王は次に阿閦仏国に生まれ、阿閦仏の第一の弟子となり、覚徳比丘も命終して阿閦仏国に生まれ、彼の仏の第二の弟子となった。しかし本抄では、もし「無縁の悪人謗法の者に秘法をあたえずば」、国土には悪比丘で充満しているから、覚徳比丘は涅槃経を宣説しなかったか、いや、法を説いたからこそ、刀剣の難に遭ったのである。衆生の機根にしたがって法を説いたわけではない例証である。

 

不軽菩薩は誹謗の四衆に向つていかに法華経をば弘通せさせ給いしぞ

法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時の代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。一方、不軽菩薩を軽賤・迫害した者は、改悔したが、消滅しきれなかった罪の余残によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽菩薩の教化にあって仏道に住することができたという。不軽菩薩は逆縁の徒のただ中にあって布教したのである。衆生の機根にしたがって法を説いたわけではない例証である。

 

講義

像末に対すれば最上の上機なり

 

 正法時代は、像末に対すれば最上の上機であるから、正法の初めに法華経がひろめられるはずではないか。ましてや、像法には、天台も伝教も法華経を広宣流布しているではないか。どうして法華経の流布が末法に限るというのかとの質問である。

 撰時抄の初めに、すでに仏教は機によらず、ただ時によることを明かしているのに、なぜまた、このような疑問を設けるかとの問いに対し、日寛上人は「本抄の初めには、在世に約してその相を明かしたゆえに、今は滅後に約してこれを疑うのである」と仰せである。その結論は、如来の教法は、必ず機に従うというのが、世間の学者の主張であるが、仏教はそうではない。機に従って法を説くというのは、大なる僻見であると申されている。

 

 

第十七章(天台大師の弘通)

 本文

疑つて云く羅什已前はしかるべし已後の善無畏・不空等は如何、答えて云く已後なりとも訳者の舌の焼けるをば悞ありけりとしるべしされば日本国に法相宗のはやりたりしを伝教大師責めさせ給いしには羅什三蔵は舌焼けず玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば桓武天王は道理とをぼして天台法華宗へはうつらせ給いしなり、涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば我が仏法は月支より他国へわたらん時、多くの謬誤出来して衆生の得道うすかるべしととかれて候、されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り何ぞ聖旨に関らん」とこそあそばされて候へ、今の人人いかに経のままに後世をねがうともあやまれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候、仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをくこれこそ第一の大事にては候らめ。疑つて云く正法一千年の論師の内心には法華経の実義の顕密の諸経に超過してあるよしは・しろしめしながら外には宣説せずして但権大乗計りを宣べさせ給うことは・しかるべしとはをぼへねども其の義はすこしきこえ候いぬ、像法一千年の半に天台智者大師・出現して題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつくし、文句十巻には始め如是我聞より終り作礼而去にいたるまで一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべて又一千枚に尽し給う已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ十方界の仏法の露一渧も漏さず妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ、其の上天竺の大論の諸義・一点ももらさず漢土・南北の十師の義破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う、其の上・止観十巻を注して一代の観門を一念にすべ十界の依正を三千につづめたり、此の書の文体は遠くは月支・一千年の間の論師にも超え近くは尸那五百年の人師の釈にも勝れたり、故に三論宗の吉蔵大師・南北一百余人の先達と長者らをすすめて天台大師の講経を聞けと勧むる状に云く「千年の興五百の実復今日に在り乃至南岳の叡聖天台の明哲昔は三業住持し今は二尊に紹係す豈止甘呂を震旦に灑ぐのみならん亦当に法鼓を天竺に震うべし、生知の妙悟魏晋以来典籍風謡実に連類無し乃至禅衆一百余の僧と共に智者大師を奉請す」等云云、修南山の道宣律師天台大師を讃歎して云く「法華を照了すること高輝の幽谷に臨むが若く摩訶衍を説くこと長風の太虚に遊ぶに似たり仮令文字の師千羣万衆ありて彼の妙弁を数め尋ぬとも能く窮むる者無し、乃至義月を指すに同じ乃至宗一極に帰す」云云、華厳宗の法蔵大師天台を讃して云く「思禅師智者等の如き神異に感通して迹登位に参わる霊山の聴法憶い今に在り」等云云、真言宗の不空三蔵・含光法師等・師弟共に真言宗をすてて天台大師に帰伏する物語に云く高僧伝に云く「不空三蔵と親たり天竺に遊びたるに彼に僧有り問うて曰く大唐に天台の教迹有り最も邪正を簡び偏円を暁むるに堪えたり能く之を訳して将に此土に至らしむ可きや」等云云、此の物語は含光が妙楽大師にかたり給しなり、妙楽大師此の物語を聞いて云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや而も此方識ること有る者少し魯人の如きのみ」等云云、身毒国の中に天台三十巻のごとくなる大論あるならば南天の僧いかでか漢土の天台の釈をねがうべき、これあに像法の中に法華経の実義顕れて南閻浮提に広宣流布するにあらずや、答えて云く正法一千年・像法の前四百年・已上仏滅後・一千四百余年にいまだ論師の弘通し給はざる一代超過の円定・円慧を漢土に弘通し給うのみならず其の声月氏までもきこえぬ、法華経の広宣流布にはにたれどもいまだ円頓の戒壇を立てられず小乗の威儀をもつて円の慧定に切りつけるはすこし便なきににたり、例せば日輪の蝕するがごとし月輪のかけたるに似たり、何にいわうや天台大師の御時は大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたていまだ広宣流布の時にあらず。

 

現代語訳

疑っていわく、正法一千年の論師が、内心では、法華経の実義が顕密のあらゆる経々よりもすぐれていることを知っていたが、外に向かって宣説することなく、ただ権大乗ばかりをひろめていたということは、どうもそうとは思えないけれども、その義は少しばかりわかってきた。像法一千年の半ばごろには、天台智者大師が出現して、法華経の題目の妙法蓮華経の五字を、玄義十巻一千枚に書きつくし、文句十巻には経の初めの「是の如きを我れ聞きき」から、経の終わり「礼を作して去りにき」にいたるまで、一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四つの釈をならべてまた一千枚に書きつくされた。以上の玄義文句の二十巻には一切経の心を江河にたとえ、法華経を大海にたとえて、十方界の仏法の露を一渧ももらさず、妙法蓮華経の大海に入れて解釈をなさった。その上にインドの大論師の諸義まで一点ももらさず、中国の南北の十師の義も破すべきをば破し、取るべきをば用いられている。その上に摩訶止観十巻を述べて釈尊一代の観門を一念に統活し、十界の依報正報を三千に収めつくした。この書の文体は遠くはインドの一千年の論師に超過し、近くは中国五百年の人師の釈よりも勝れている。
 ゆえに三論宗の吉蔵大師は南北十派の一百余人の先達や長者らに、天台の経を講ずるのを聞けと勧める状に次のようにいっている「千年の間に聖人が一人出で五百年の間に賢人が一人出るというのは、実に今日のことをいったのである。南岳の叡聖、天台大師の明哲と、このともに優れた二人は昔は身・口・意三業に法華経を受持し、今は南岳・天台の二尊と紹継して中国に出現している。ただ単に甘露の法雨を中国にそそぐのみではない。またまさに法鼓をインドまでふるうべきである。生まれながらにして仏法の深妙の理を悟り、魏晉の時代からこのかた経典の講説の巧妙なること実に比類すべき者がない。よって百余人の僧衆とともに天台智者大師の許に参って講説を請い奉る」と。
 修南山の道宣律師が天台大師を讃歎していわく「法華経のあらゆる義理に通達しつくしているさまは、正午の太陽が深い谷の底までも照らしつくすがごとく、大乗の極理を自在に説くさまは、長風が大空に遊ぶのと似ている。たとえ文字の師が千万人あって天台の妙弁をあつめ討究しても、よくその至極を究むることはできないであろう。その所詮の妙義は、月をさすがごとく明らかに、能詮の言葉は、結局のところ妙法蓮華の一極の宗に帰している」と。
 華厳宗の法蔵大師が天台を讃歎して云く「慧思禅師(南岳大師)や智者大師のごときは、自分の心が自然に真理に感通して、その位は初住の菩薩の行動であり、インドの霊鷲山で聞いた説法の記憶が今もそのままあらわれている」と。
 真言宗の不空三蔵や含光法師等が、師弟ともに真言宗を捨てて、天台大師に帰伏する物語を、高僧伝では、次のように伝えている。「不空三蔵とともにインドに遊学中、一人の僧がいて質問するには、中国には天台の教えがあってもっとも邪正を簡び偏円を暁めるのに傑出しているという。よくこれを訳してインドにもひろめるべきではないか」とある。この物語りは含光が妙楽大師に語ったものである。妙楽大師は、この物語りを聞いて「仏教の中心地たるインドでは正法をすでに失って、今ではこれを四方の辺地に求めるようになったではないか。しかもわが国では天台の教観が優れていることを知っているものが少ない。ちょうど、自分の国の孔子の偉大さを知らなかった魯国の人のようなものである」といっている。インドの中に天台の玄義・文句・止観の三十巻のような大論があるならば、インドの僧がどうして中国の天台の釈を乞い願うことがありえようか。こうしてみると、インドではだめだったにしても、像法千年の間には法華経の実義が顕われて、南閻浮提に広宣流布しているではないか。
 答えていわく、天台大師は正法一千年・像法の前四百年、以上仏滅後千四百年の間いまだ論師のひろめたことのない一代超過の円定円慧を中国に弘通し、その名声はインドまで伝わったことは明らかな事実である。それは法華経の広宣流布には似ているけれども、いまだ法華円頓の戒壇を建てられてはいない。そして小乗の威儀(戒)をもって、円の法華の定慧に切り付けるというのは、すこしたよりないことである。たとえば、太陽が蝕し月がかけているようなもので、戒定慧の三学すら整っていない。まして天台大師の時は、大集経の読誦多聞堅固の時であり、いまだ白法隠没して法華経の実義が広宣流布すると予告された時代には当たっていないのである。

 

語釈

吉蔵大師
 (05490623)。中国・南北朝から唐代にかけての僧。三論宗の大成者。祖父または父が安息(パルチア)人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵(南京)の人。幼時、父に伴われて真諦(しんだい)に会って吉蔵と命名された。十二歳で法朗に師事し、三論(中論・百論・十二門論)を学ぶ。隋代の初め、開皇年中に嘉祥寺で八年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わし、三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著作に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。法華遊意では「二乗作仏を明かすことについては般若経よりも法華経が勝れているが、もし菩薩のために実恵と方便の二恵を明かす点では、般若経が勝れ法華経が劣る」として、般若経の智慧を最勝としている。

南岳の叡聖
 叡聖とは叡智のすぐれた聖人の意。南岳大師は中国・南北朝時代の北斉の僧。名は慧思。天台大師智顗の師。後半生に南岳(湖南省衡山県)に住んだので南岳大師と通称される。慧文のもとで禅を修行し、法華経による禅定(法華三昧)の境地を体得する。その後、北地の戦乱を避け南岳衡山を目指し、大乗を講説して歩いたが、悪比丘に毒殺されそうになるなど度々生命にかかわる迫害を受けた。これを受け衆生救済の願いを強め、金字の大品般若経および法華経を造り、「立誓願文」を著した。この立誓願文には正法五百年、像法一千年、末法一万年の三時説にたち、自身は末法の八十二年に生まれたと述べられており、これは末法思想を中国で最初に説いたものとされる。主著「法華経安楽行義」では、法華経安楽行品第十四に基づく法華三昧を提唱した。天台大師は23歳で光州(河南省)の大蘇山に入って南岳大師の弟子となった。日蓮大聖人の時代の日本では、観音菩薩が南岳大師として現れ、さらに南岳の後身として聖徳太子が現れ仏法を広めたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では、南岳大師を「観音の化身なり」、聖徳太子を「南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり」とされている。

天台の明哲
 明哲とは賢明なる哲人の意。天台大師は中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、また智者大師と尊称する。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。荊州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、18歳の時、湘州果願寺の法緒について出家し、慧曠律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(0560)光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行(身・口・意・誓願)を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、32歳の時、陳都金陵(南京)の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建7年(0575)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰に修禅寺を創建した。そして天台山の最高峰、華頂峰で一心に修禅していると、雷鳴が轟き山地が振動し、大師の修行を妨げようと魔が出現したが、これに屈せず、明けの明星を見て開悟したという。この第二の開悟を、華頂降魔という。至徳3年(0585)陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(0587)法華文句を講説した。開皇11年(0591)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、維摩経疏を献上した。揚州に留まるよう懇請されたが、天台山に再入した。開皇17年(0897)、晋王広の求めに応じ下山を決意、天台山西門まで下りたが疾重く、石城寺で入寂した。享年60歳。彼の講説は弟子の章安灌頂によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

道宣律師
 (05960667)。中国・隋唐代の南山律宗の祖。南山律師・南山大師ともいう。16歳の時に出家。隋・大業年中に智首律師について律を学び、禅定を修した。後に、終南山に入り、行事鈔を作り四分律宗(南山宗)を立てる。貞観十9年(0645)から長安の弘福寺で玄奘の翻経を助けた。著書に「四分律刪繁補闕行事鈔」(行事鈔)、「続高僧伝」、「広弘明集」、「大唐内典録」など多数ある。死後、唐の懿宗から澄照律師の号を贈られた。

摩訶衍
 梵語マハーヤーナ(mahāyāna)の音写。大乗と訳す。ここでは法華経をいう。

迹登位に参わる
 迹は行迹の略。人がおこなってきた事柄、行跡のこと。登位とは真理を一分でも証する位に登ること。この文は、初住の菩薩の利物(衆生に利益を与えること)や応現にも参同する行迹なりとの意である。

霊山の聴法憶い今に在り
 インドの霊鷲山で聞いた説法の記憶が今もそのままあらわれている、との意。陳の天嘉元年(0560)、天台大師は光州の大蘇山に南岳大師慧思を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅を喜んだ。

含光法師
 生没年不詳。中国・唐の密教僧。不空の弟子として、その訳経を助けた。妙楽大師湛然の法華文句記巻十下には、妙楽大師が含光と出会った際に次のような話を聞いたと記している。すなわち、含光が不空とともにインドに遊学中、一人の僧が「中国には天台の教えがあって、邪正を区別し、偏頗な教えと完全な教えを明らかにする点で最も優れているという。これを訳してインドにもってくることはできないだろうか」と懇願した、と。そして妙楽大師は「この言葉はインドで仏法が失われたために、仏法を四方の国に求めているということではないか」と述べている。

高僧伝
 ここでは「宋高僧伝」のこと。宋の賛寧らの著作。三十巻。宋の太宗の勅旨により作成され、唐の高僧を中心に正伝五百三十三人、付伝百三十人の伝記が収められている。梁の慧皎の「梁高僧伝」十四巻、唐の道宣の「続高僧伝」三十巻、明の如惺の「大明高僧伝」と合わせて四朝高僧伝という。

 

講義

前章までに正法時代の竜樹天親等が法華の実義を宣べなかったことを明かし、本章では天台に約して像法時代に法華の実義が弘通されなかったことを明かしている。

 

玄文止観の大要 

 

天台の玄義・文句・止観の三大部の大要を、日寛上人の文段・撰時抄愚記から摘記しよう。

玄義十巻



 およそ玄文十巻の中には、この妙法の五字を釈す。すなわち名体宗用教の五重玄に約するなり。ここに広略あり。第一巻は仏意の略釈なり。謂く略して標章・引証・生起・開合・料簡・観心・会異の七番に約し、共に名体宗用教の五重玄に解すなり。第二巻より去っては機情広釈なり。中において第二巻より第八の半ばにいたるまでは名玄義を釈す。第八の半ばより第九巻の始にいたるまでは体玄義を釈す。第九の中比は宗玄義を釈す。第九巻の終わりは用玄義を釈す。第十巻は教玄義を釈すなり。是に五重の各説を名づく。
 第二巻より第八の半ばにいたるまで名玄義を釈する中、第二巻の始はまず通別を判ず。次に妙法の前後を定め、次に心仏衆生の三法に約し法の一字を釈し、次に妙の一字を釈する中にまず待絶二妙を明かし、次に十妙に約して之を釈する中第二巻より第六巻の終わりにいたるまでは迹門の十妙を明かすなり。
 迹門の十妙とは境妙・智妙・行妙・位妙・三法妙・感応妙・神通妙・説法妙・眷属妙・利益妙なり。第一の境妙はしばらく六種の境妙あり。所謂十如境・因縁境・四諦境・二諦境・三諦境・一諦境等なり。中において、第二巻は十如因縁の二境を明かす。第三巻は始より半ばにいたるまで四諦・二諦・三諦・一諦等を明かす。第三の半ばより巻を訖るまで第二智妙を明かす。第四巻は始より半ばにいたるまで第三行妙を明かす。第四の半ばより第五の半ばにいたるまで第四位妙を明かす。第五巻の末は第五三法妙を明かす。第六巻は感応等の五妙を明かす。此の十妙は一々に正釈・判麁・開麁・観心の四重の釈あり云云。
 第七巻にいたってまず六重本迹を明かす。謂く事理・理教・教行・体用・実権・已今なり。前の五重は所詮の法なり。第六已今は能詮の教なり。已迹とは始め華厳より終わり安楽行品にいたるまで名づけて已迹と為す。今本とは涌出已後の十四品なり。
 次に本門の十妙を明かす。謂く本因・本果・本国土・本感応・本神通・本説法・本眷属・本利益・本寿命・本涅槃なり。この十妙の一々に皆三義を以て迹を払う。
 次に麁妙・権実の二科を立て事に約して判開し、また一々に理に約して融通するなり。
 第七巻の終に蓮華の二字を釈し、第八巻の初に経の一字を釈するなり。その後妙楽大師は釈籖十巻を造って玄義を釈するなり。

文句十巻



 凡そ文句十巻においては二十八品を釈すなり。第一巻においてはまず一経三段・二経六段の分文を明かし、正しく一経三段をもって惣分となし、二経六段をもって所含となす。迹本二門・文々句々を釈するなり。次に惣じては因縁・約教・本迹・観心の四釈の大旨を示す。
 次に正しく経文を釈す。第一巻より第三の半ばにいたるまでは序の一品を釈す。第三の半ばより第四の終わりにいたるまで方便品を釈す。中にまず題号を釈し、法用・能通・秘妙の三種の方便を明かし、次に、一切皆権・一切皆実・一切亦権亦実・一切非権非実の四句の権実を明かし、正しく第三の亦権亦実の句について、さらに十双の権実を開し、所謂事理・理教・教行・縛脱・因果・体用・漸頓・開合・通別・悉檀なり。この十双を釈するに、八番の解釈あり。いわく列名・生起・解釈・引証・結権実・分別・照諦・約諸経・約本迹云云。所詮は三種の中の秘妙方便、四句の中の亦権の一半、十双中の意即実之権、即方便品の題号の意なり。次に文に入って釈する中第三巻は略開三顕一の文を釈す。第四巻は広開三顕一の文を釈す。中においてまず十門料簡を明かす。十門料簡とは一に通あり別あり。二に有声聞無声聞、三に或有厚薄、四に転根不転根、五には有悟不悟、六に領解不領解、七に得記不得記、八に悟有浅深、九に益有権実、十に待時不待時なり。次に巻を訖りて正しく広開の文を釈す。
 第五は譬喩品、第六は信解品、第七巻中に薬草喩品・授記品・化城喩品・五百品・人記品の五品を釈す。第八巻の中に法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品を釈す。第九巻の中に涌出・寿量・分別の三品を釈す。第十巻は隨喜已下の十一品を釈す。この品々、一一の章段、一字一句にみな因縁等の四釈を用う。縦い文略すといえどもその義宛然なり。
 因縁とは四悉檀なり。約教とは四教五時、本迹とは迹門の中には体用本迹を借用し、本門の中には即久近本迹なり。観心とはただこれ託事附法の二観なり。いまだ約行観を宣べず、そのほか妙楽大師は疏記十七巻を述べて本疏の闕略を補う。文句の義意を釈するに、また私志記、東春輔正記等、本末の意を指南するなり。

止観十巻



 およそ止観に於て十大章あり。一には大意・二には釈名・三には体相・四には摂法・五には偏円・六には方便・七には正観・八には果報・九には起数・十には旨帰なり。第一第二の両巻は先ず大意を釈す。第三巻には釈名・体用・摂法・偏円の四章を釈す。第四巻は方便の一章を釈す。第五巻より第十巻の終わりにいたるまでは正観を明かす。後の三大章は略して之を宣べず。
 第一の大意又五科に分ち是を五略と名づく。一に発大心、二に修大行、三に感大果、四に裂大綱、五に帰大処なり。中において第一巻は発大心を明かす。
 第二巻の初より五十三葉にいたるまでは修大行を明かす、すなわちこれ常行・常座・半行半座・非行非座の四種三昧なり。五十四葉より感大果第三の科を釈す。
 第三巻に釈名・体相・果等の三科を明かすなり。第三の巻は前の如し。
 第四巻は方便の章を釈すに二十五法あり。所謂五縁・五欲・五蓋・五事・五法なり。巻の始は具五縁を釈す。五縁とは持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・得善知識なり。四十八葉より五欲を呵するを釈す。五欲とは色・声・香・味・触なり。五十三葉より五蓋を棄つるを釈す。五蓋とは貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・狐疑なり。六十八葉より五事を調うるを釈す。いわく調食・調眠・調身・調息・調心なり。七十三葉より五法を行ずるを釈す。五法とは楽欲・専念・精進・巧慧・一心なり。
 第五巻より第十巻に至るまでは正観を釈する中・具さに十境を明かす。十境とは一に陰入・二に煩悩・三に病患・四に業相・五に魔事・六に禅定・七に諸見・八に上慢・九に二乗・十に菩薩なり。中において第五巻より第七巻にいたるまで陰入境を明かすなり。まず第五の巻の初に陰入境を明かし、この下の簡境用観して但心法を乗とは取り所観の境となす。これ心法観体と名づく。ここに能造近要等の異義あり。
 この下広く十乗を明かすなり。十乗とは一には観不思議境・二には起慈悲心・三には巧安止観・四には破法遍・五には識通塞・六には修道品・七には対治助開・八には知次位・九には能安忍・十には無法愛なり。まさに知るべし十境の一々に十乗を具す。
 中において第五巻二十二葉より観不思議境を明かすなり。この下初めて一念三千を明かすなり。先ず略して十界および五陰世間・衆生世間・国土世間を釈す。次に広く十如是を釈して正しく名目を出し、此の三千一念の心に在り等と曰うなり。すなわちこれ止観一部の肝心・三大部の眼目・一代諸経の骨隋なり。ここにおいて理修化他の三境、諸師の異義蘭菊たり。また如意珠・三毒惑心・眠夢の三喩をもって上来の意を顕すなり云云。
 四十二葉より起慈悲心を明かす。四十五葉より巧安止観を明かす。六十二葉より第六巻の終に至るまで破法遍を明かす。文広しこれを略す。第七巻の始は識通塞を明かす。十葉より修道品を明かす。三十葉より対治助開を明かす。六十八葉よりの知次位を明かす。七十八葉より能安忍を明かす。八十一葉より無法愛を明かすなり。已上、十乗畢んぬ。
 第八巻は煩悩境・病患境・業相境・魔事境を明かすなり。第九巻は禅境を明かす。第十巻は見境を明かすなり。後の三境は略してこれを宣べず。
 止観第一初にいわく「纔かに見境にいたりて法輪転ずることを停め後分を宣べず」〇問う、止観に己心に行ずる所の法門を説くとなすは、将に法華の意によってこれを註すとなすや。答う、止観の一部は法華の意によるなり。弘五にいわく「法華経の経旨を攢し不思議十乗十境を成ず」等。止観大意にいわく「円頓止観は全く法華による。円頓止観は即法華三昧の異名のみ」云云。自余の諸文又枚挙に遑あらず。
 問う、迹門の意によるや本門の意に依るや。答う、恵檀の異義なり、恵心流には専ら弘五上本迹二門求悟此の十法等の文を引きて、止観は本迹二門に亘る云云、檀那流には盛に弘三上今的法華迹理等の文を引いて止観は迹門に限る云云、わが祖祖の深義は立正観抄送状にいわく「若し与えて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり〇若し奪つて之を論ぜば爾前権大乗・即別教の分斉なり」(053413)と。此の中の奪っての辺は、しばらく当世天台の僻見を破すなり。止観は法華に勝るというゆえなり。もし実義を論ぜば迹門の意となる。ゆえに檀那流の義尤も吉しというなり。十章抄にいわく「前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一念三千此れよりはじまる」云云(1174:02)。安心録にこの両文を会して云く附文元意云云。この義は深義にあらず迹門は但百界千如を明かしていまだ国土世間を明かさず。本門はすなわち一念三千を明かす。しかるに止観の意は正しく理の一念三千を明かす。三千を明かすといえども、但これ理具なり。ゆえに迹の意という。理具を明かすといえども、これ三千なり。ゆえに本門の意という。両判ありといえども、但これ面裏の違目なり。ついに相違の義にあらず、本尊抄にいわく「南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本尊未だ広く之を行ぜず」(0253:12)等云云と。

 

天台大師に帰伏等



 天台大師の法華経の解釈は、最高の権威があり、釈迦仏法の範囲における法華経は、天台大師において事きわまるのである。ゆえに開目抄上にいわく「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども……」(0202:08)と、日蓮大聖人においてすら、天台の立ち場を最大限に尊重されておられる。しかし、難を忍び慈悲の勝れる点においては、日蓮大聖人のお姿を見て天台は恐れをいだくであろう……と。末法の御本仏の立ち場を明らかにされているのである。
 さて、このような天台の権威の前には、本抄にお示しのように、三論宗の吉蔵大師も、修南山の道宣律師も、華厳宗の法蔵大師も、真言宗の不空三蔵もみな、天台に帰伏しているのである。最後にあげられている不空は、インドから中国へ渡り、ふたたびインドへ旅行した時に、インドの老僧が天台大師をほめたたえ、天台の教えをインドへ持ってきてくれといわれたというのである。わずか数百年前には竜樹・天親等の大論師が出て、大乗仏教が隆盛をきわめたのに、中国に天台大師の出現するころには、すでにインドにおいて仏法の真髄は失われてしまっていた。と同時に、また不空が内心には天台には帰伏していたからこそ、このような物語りを残しておいたことが分かるのである。
 開目抄上には、天台に帰伏した模様が述べられている。善無畏、不空等は胎蔵界の大日経と、金剛界の金剛頂経を左右の臣下のごとくおいて、法華経をその中央に大王のごとくおいたという。三論の嘉祥は、天台に帰伏して七年つかえ、廃講散衆して身を肉橋とした。法相の慈恩は、玄賛の第四に故亦両存等とわが宗を不定にした。自分の宗が不定になったのは、心が天台に帰伏したからである。華厳の澄観は、法華を方便と書いたが、また「彼の宗之を以て実となす此の宗の立義、理通ぜざることなし」等と書いているのは、法華経第一を認めたからであろう、
 しかし、いくら天台大師に権威があっても、天台みずからが「後の五百歳遠く妙道に沾わん」といって、末法を恋い慕っている。そして日蓮大聖人は撰時抄に「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」(0260:11)と申されている。したがって、われわれこそ、真に最高の福運を持って生まれてきたといえる。

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