建治2年(ʼ76)4月 55歳 池上宗仲・池上宗長
第一章(法華経は仏法の心髄)
本文
夫れ、法華経と申すは、八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄なり。三世の諸仏はこの経を師として正覚を成じ、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給う。
今、現に経蔵に入ってこれを見るに、後漢の永平より唐の末に至るまで渡れるところの一切経論に二本あり。いわゆる旧訳の経は五千四十八巻なり。新訳の経は七千三百九十九巻なり。彼の一切経は皆各々分々に随って我第一なりとなのれり。しかれども、法華経と彼の経々とを引き合わせてこれを見るに、勝劣天地なり、高下雲泥なり。彼の経々は衆星のごとく、法華経は月のごとし。彼の経々は灯炬・星月のごとく、法華経は大日輪のごとし。これは総なり。
現代語訳
法華経というのは八万法蔵の肝心であり、十二部経の骨髄である。三世の諸仏は、法華経を師として正覚を成就し、十方世界の仏は、一乗法である法華経を眼目として衆生を導いたのである。今、現実に経蔵に入って一切経を見てみると、中国に仏法が渡った後漢の永平年間から唐の末にいたるまでの約850年間に、中国に渡って来た一切経論に二本ある。いわゆる羅什訳等の旧訳の経は5048巻であり、玄奘等の新訳の経は7399巻である。それらの一切経は皆それぞれ分々に随って「われこそ第一なり」と名乗りを上げている。しかるに法華経とそれらの経々を引きくらべてみると、その勝劣は天地の差であり、高下は雲泥の相違である。それらの経々は多くの星のようなものであり、法華経は月のようなものである。また、かの経々は燈炬や星月の光のようなものであり、法華経は太陽のようなものである。これは、法華経と諸経とを総じて比較した場合である。
語釈
十二部経
十二部とも十二分教ともいい、仏教の経文を内容、形式の上から十二に類別したもの。 一.修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経という。長行のことで長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。 二.祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。 三.伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。 四.尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。 五.伊帝目多。伊帝目多伽。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事・如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。 六.闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。 七.阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。 八.婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。 九.優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。 十.優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。 十一.毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。 十二.和伽羅。和伽羅那。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。
旧訳の経・新訳の経
漢訳された経典のうち、唐の玄奘三蔵以前に訳された経典を旧訳といい、それ以後に訳されたものを新訳という。旧訳とは主に鳩摩羅什や真諦の訳であり、新訳とは主に玄奘等の訳である。経文は、どちらかといえば、旧訳の経は意味訳であり、新訳の経は直訳である。貞元釈教録によれば、訳者は187人あって、うち旧訳141人、新訳46人である。また、開元釈教録によれば、訳者176人のうち、旧訳139人、新訳37人とある。
講義
本章は、仏法にはさまざまな流派があるが、そのなかで法華経が最第一であり、三大秘法の南無妙法蓮華経が最高の教えであることを述べている。
夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり
ここでいう法華経は、一往、釈尊出世の本懐である法華経二十八品である。八万法蔵とは、釈尊一代五十年の説法が多数であるという意味でこのようにいう。
釈尊の五十年にわたる説法は膨大である。五十年間というもの、実にさまざまな教えを説いた。戒律も説いている。禅定の法門も説いている。種々の譬え話で衆生を誘引もした。だが、それらは衆生の機根を整え、最後の法華経を理解させるための方便であった。あくまでも生命の究極を説いた法華経をもって肝心とし、骨髄としなければならない。
もし釈尊が法華経を説かず、たとえば小乗などの戒律のみしか説かなかったら、釈尊の説法は、単なる道徳論にすぎず、特筆すべき価値はなかったといっても過言ではない。また、たとえ権大乗を説いたとしても、それのみであれば二乗の成仏はない。女人も差別を受けたままである。悪人は地獄に堕ちるのみである。衆生の生命は一念三千の輝ける当体ではない。気の遠くなるほどの歴劫修行をしなければならない。そして真の永遠の生命を知り、三身常住、三諦円融の理を悟ることはできない。
まさに法華経の説法がなければ、四十二年間の説法も、砂上の楼閣であり、一瞬の夢のごときものであったろう。法華経の仏法哲理があればこそ、釈尊の説法は光りを増し、重みを増すのである。いかなる哲学といえども、要となる哲理によって、その高低浅深が決まる。他の枝葉末節は、いかに、荘厳されていようとも、根本の思想が貧弱ならば、価値はない。釈尊の八万宝蔵といっても、法華経が骨髄となって、存在意義があるのである。
釈尊は自ら、一切経の勝劣を法華経法師品第十で判じている。「わが説く所の経典は、実に無量千万億であって、已に説いた経、今説いた経、当に説かんとする経等、まことに多くの経典があるが、それらを超過して、この法華経こそ、最も難信難解であり、最高の法門である」と。これに対して、諸経の文にも「密厳経は一切経の中に勝れたり」「是の経は即是諸経の転輪聖王なり」「今に世尊が転じ給う所の法輪・無上無容にして是れ真の了義なり」というように、他に勝っているように説いているが、これはまだその経が説かれるまでの経との比較である。法華経のように已今当説のなかで最第一とはいわないのである。
さて、以上のように法華経二十八品が八万法蔵の肝心であるというのは一往の義である。再往は、法華経とは南無妙法蓮華経の五字七字の法華経であり、三大秘法の御本尊である。法華経が尊いというのも妙法を秘沈しているゆえであり、南無妙法蓮華経が、肝心中の肝心であり、骨髄である。
三大秘法抄にいわく「此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023:13)と。
したがって、三世十方の諸仏といえども、全て妙法蓮華経の五字七字の題目を骨髄とし、修行して仏になったのである。秋元御書にいわく「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072:05)と。われらの持つ三大秘法の御本尊が、八万宝蔵の究極であり、生命と宇宙の本源を説いた、大哲理の具現であると確信すべきである。
第二章(三千塵点劫を挙げて生命の流転を説く)
本文
別して経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり、其三千塵点と申すは第三の巻化城喩品と申す処に出でて候、此の三千大千世界を抹して塵となし東方に向つて千の三千大千世界を過ぎて一塵を下し又千の三千大千世界を過ぎて一塵を下し此くの如く三千大千世界の塵を下はてぬ、さてかえつて下せる三千大千世界と下さざる三千大千世界をともにおしふさねて又塵となし、此の諸の塵をもてならべをきて一塵を一劫として経尽しては、又始め又始めかくのごとく上の諸塵の尽し経たるを三千塵点とは申すなり、今三周の声聞と申して舎利弗・迦葉・阿難・羅云なんど申す人人は過去遠遠劫・三千塵点劫のそのかみ大通智勝仏と申せし仏の第十六の王子にてをはせし菩薩ましましき、かの菩薩より法華経を習いけるが悪縁にすかされて法華経を捨つる心つきにけり、かくして或は華厳経へをち或は般若経へをち或は大集経へをち或は涅槃経へをち或は大日経・或は深密経・或は観経等へをち或は阿含小乗経へをちなんどしけるほどに次第に堕ちゆきて後には人天の善根・後に悪にをちぬ、かくのごとく堕ちゆく程に三千塵点劫が間、多分は無間地獄少分は七大地獄たまたまには一百余の地獄まれには餓鬼・畜生・修羅なんどに生れ大塵点劫なんどを経て人天には生れ候けり。
現代語訳
次に、別して法華経の経文についてみるならば、一切経より勝れた二十の大事の法門がある。そのなかで、第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門である。その三千塵点劫という法門は第三の巻・化城喩品というところに出ている。この三千大千世界をすりつぶして微塵となし、東の方に向かって、千の三千大千世界を過ぎてその一つの塵を落とし、また千の三千大千世界を過ぎて一つの塵を落とし、このようにして三千大千世界の塵をことごとく落とし果たした。さて、その後、塵を落とした三千大千世界と、落とさない三千大千世界とを一緒に束ねてまた塵となし、この諸の塵をもって並べて一塵を一劫として経尽くしては、また同じように始め、終わればまた始めるというように劫をかさねていき、このようにして以上の無数の塵の数だけの劫を尽くしたとき、これを三千塵点劫というのである。今、三周の声聞といって舎利弗・迦葉・阿難・羅睺羅などという人々は、過去遠々劫の三千塵点劫のその昔に大通智勝仏という仏の第十六番目の王子である菩薩がおられた。三周の声聞たちはその菩薩より法華経を習ったのであるが、途中、悪縁にだまされて法華経を捨てる心を起こしてしまった。このようにしてあるいは華厳経へ堕ち、あるいは般若経へ堕ち、あるいは大集経へ堕ち、あるいは涅槃経へ堕ち、あるいは大日経、あるいは深密経、あるいは観無量寿経へ堕ち、あるいは阿含小乗経へ堕ちなどしているうちに次第に堕ちていって、のちには人界・天界の善根におち、さらには、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣に堕ちてしまったのである。このようにして堕ちていくうちに、三千塵点劫の間、多くは無間地獄に生じ、少しは他の七大地獄に生じ、ときたまは一百余の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅などに生まれ、大塵点劫などの長い期間を経て、また人界・天界に生まれたのである。
語釈
二十の大事
法華経が爾前の諸経に対し二十の勝れた特色があることを、妙楽大師が法華文句記巻四下で明かしたもので、十双歎という。「今義に依り文に附するに略して十双有り以って異相を弁ず。①二乗に近記を与え、②如来の遠本を開く。③随喜は第五十の人を歎じ、④聞益は一生補処に至る。⑤釈迦は五逆の調達を指して本師と為し、⑥文殊は八歳の竜女を以って所化と為す。⑦凡そ一句を聞くにも咸く綬記を与う。⑧経名を守護するに功量るべからず。⑨品を聞いて受持するは永く女質を辞し、⑩若し聞いて読誦するは老いず死なず。⑪五種法師は現に相似を獲、⑫四安楽行は夢に銅輪に入る。⑬若し悩乱する者は頭七分に破れ、⑭供養することある者は福十号に過ぎたり。⑮況や已今当の説は一代に絶えたる所、⑯其の教法を歎ずるに七喩を以って称揚す。⑰地より涌出せるをば、阿逸多一人をも識らず、⑱東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず。⑲況んや迹化には三千の塵点を挙げ、⑳本成には五百の微塵に喩えたり。本迹の事の希なる諸教に説かず。斯くの如き等の文、経に準ずるに仍おあり」とある。ただし⑯のなかの七喩について、大聖人は三種教相で十喩と改めている。
三千塵点劫
法華経化城喩品第七に「人は力を以て 三千大千の土を磨って 此の諸の地種を尽くして 皆悉な以て墨と為し 千の国土を過ぎて 乃ち一の塵点を下さん 是の如く展転し点じて 此の諸の塵墨を尽くさんが如し 是の如き諸の国土の 点ぜると点ぜざると等を 復た尽く抹して塵と為し 一塵を一劫と為さん 此の諸の微塵の数に 其の劫は復た是れに過ぎたり」と説かれているのがそれである。この三千塵点劫というぼう大な時間を、釈尊在世からさかのぼった昔、大通智勝仏という仏があって、法華経を説いた。その仏の滅後、この仏の十六人の王子が父の説法を覆講し、多くの衆生を化導した。その十六番目の王子が、釈尊であると説く。
五百塵点劫
法華経如来寿量品第十六に「譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し(中略)是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を、尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。我れは成仏してより已来、復た此れに過ぎたること、百千万億那由佗阿僧祇劫なり」と説かれている。釈尊の成道は五百塵点劫という遠い昔にあり、この久遠五百塵点劫より以来、師弟の関係をもっていることを説き、永遠の生命を説き明かしたのである。
三周の声聞
三周とは釈尊の説いた三周りの説法のことで、釈尊は声聞に機根の違い、悟りの先後があるゆえに三周りの説法をし授記した。すなわち法華経迹門において、人生の目的は菩薩や縁覚や声聞になることではなく、成仏することであると、開三顕一を説く。この説法を聞く声聞に、上根・中根・下根の差別があり、法理を聞いてすぐ悟る人(上根)もあるが、それでは分からず、譬喩によって悟る人(中根)、因縁により悟る人(下根)と種々ある。故に仏の上根の説法を法説周(ほっせつしゅう)、中根の説法を譬説周、下根の説法を因縁周という。第一に、方便品の十如実相、理の一念三千の説法を聞いて、舎利弗がまず最初に開悟した。その後、譬喩品において、華光如来という記別を受けた。これが法説周の声聞である。次に、譬喩品の三車火宅の譬えによって領解し、信解品の長者窮子の譬え、薬草喩品の三草二木の譬えを経て授記品にいたり、記別をうけたのが、目連・迦葉・迦旃延・須菩提の四大声聞である。これを譬説周の声聞という。さらに、それでも領解できない富楼那、阿難・羅睺羅等の下根の声聞は、化城喩品の三千塵点の因縁を聞いて悟ったのである。これを因縁周の声聞という。この法説周・譬説周・因縁周の声聞を三周の声聞という。
羅云
羅睺羅の別称。釈尊十大弟子の一人。密行第一といわれた。釈尊が出家するまえに、耶輸多羅女との間に生まれた子。釈尊の出家を恐れて、魔が6年間も生まれさせなかったといわれている。20歳で仏弟子となり、舎利弗について修行した。途中、おごる心が起こったが、釈尊に戒められ、ついに密行第一といわれるまでになり、法華経で蹈七宝華如来の記別を受けた。
講義
本章は、法華経の大事な法門である三千塵点劫について略述し、その三千塵点劫の昔に法華経の下種を受けながら、退転していった三周の声聞の生命の流転を説いたところである。
三千塵点劫・五百塵点劫
三千塵点劫という法門は、法華経化城喩品第七に説かれた法門であり、天台大師によれば「化導の始終」が明かされたところである。すなわち、三千塵点劫という、考えられないほど遠い昔に、大通智勝仏という仏がいて、その十六番目の王子であった現在の釈迦如来が、このとき大通智勝仏の法華経を覆講した。そのとき下種を受けた衆生が在世今日の二乗であり、今その下種が熟して得脱の時が来たと、化導の始まりから終わりまでを明かすのである。これに対して、五百塵点劫は寿量品第十六に明かされた法門であり、天台大師は「師弟の遠近」を説いた段であるとしている。五百塵点劫に比べれば三千塵点劫は昨日の如きものといわれる位、五百塵点劫は遠い過去である。釈迦仏は今日初めて悟った仏ではなく、五百塵点劫という久遠に成道した仏であり、弟子もまたそれ以来長遠の生命をもつことを明かしたのである。
このように、三千塵点劫・五百塵点劫という二つの法門は法華経のなかでも最も重要なものであり、さまざまな角度から論じられるが、ここでは生命の流転という立ち場から説かれている。
開目抄にいわく「久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり」(0232:02)と。
五百塵点劫に久遠実成本果の釈尊に結縁し下種を受けたもの、そして三千塵点劫に大通智勝仏の十六人の王子に結縁して下種を受けたものが、いずれも菩薩の行を退転し、その下種を忘失して、今日のインド応誕の釈尊に値遇するまで、測り知れないほど長い間流転の人生をさまよったのである。その原因は何か。それは悪知識に惑わされて法華経を捨て、他の経へ移ったが故である。三世の諸仏の能生の根源であり、眼目である法華経から退転する罪は何よりも重いのである。
現在、われわれの信心に約するならば、「法華経」とは御本尊であり、「悪縁」「悪知識」とはわれわれに退転を迫ったり、誘いかけたりするさまざまの働きである。これらの策謀にひっかかって御本尊から離れるならば長い長い苦悩の人生を歩まねばならないということである。
また文底からいえば、「三五の下種」とは久遠元初の下種となり、とりも直さずわれらの己心の仏種である。「三五の塵をふる」とは、われわれが自己の生命の本源を忘れ、九界の迷いの世界を漂っていくことである。現在の瞬間の生命のなかに迷悟の二法を具しており、この一念の働きによって流転の人生ともなり、本源的な幸福の人生ともなるのである。御本尊への絶対の信仰を燃やし、一瞬一瞬の魔との戦いに打ち勝っていくならば、われらの生命は「久遠の下種」に立ちかえり、永遠の幸福境涯を築いていくことができる。反対に、この魔に負けて疑いを起こせば、「三五の塵をふる」人生、輪廻生死の人生を暮らさねばならないのである。
第三章(法華誹謗の罪を説く)
本文
されば法華経の第二の巻に云く「常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し」等云云、十悪をつくる人は等活黒繩なんど申す地獄に堕ちて五百生或は一千歳を経、五逆をつくれる人は無間地獄に堕ちて一中劫を経て後は又かへりて生ず、いかなる事にや候らん法華経をすつる人は・すつる時はさしも父母を殺すなんどのやうにをびただしくは・みへ候はねども無間地獄に堕ちては多劫を経候、設父母を一人・二人・十人・百人・千人・万人・十万人・百万人・億万人なんど殺して候とも・いかんが三千塵点劫をば経候べき、一仏・二仏・十仏・百仏・千仏・万仏乃至億万仏を殺したりとも・いかんが五百塵点劫をば経候べき、しかるに法華経をすて候いけるつみによりて三周の声聞が三千塵点劫を経・諸大菩薩の五百塵点劫を経候けること・をびただしくをぼへ候、せんずるところは拳をもつて虚空を打てば・くぶしいたからず石を打てばくぶしいたし、悪人を殺すは罪あさし善人を殺すは罪ふかし或は他人を殺すは拳をもつて泥を打つがごとし父母を殺すは拳をもつて石を打つがごとし、鹿をほうる犬は頭われず師子を吠る犬は腸くさる日月をのむ修羅は頭七分にわれ仏を打ちし提婆は大地われて入りにき、所対によりて罪の軽重はありけるなり。
さればこの法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり、一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺せる罪にもすぎ十方の仏の身より血を出す罪にもこへて候けるゆへに三五の塵点をば経候けるなり此の法華経はさてをきたてまつりぬ又此の経を経のごとくにとく人に値うことは難にて候、設い一眼の亀の浮木には値うとも・はちすのいとをもつて須弥山をば虚空にかくとも法華経を経のごとく説く人にあひがたし。
現代語訳
それ故、法華経第二の巻、譬喩品には「常に地獄に居ることは、あたかも園観に遊んでいるようにあたりまえとなり、また、他の餓鬼、畜生、修羅の悪道がわが家のようになってしまう」等と。十悪を犯した者は、等活地獄、黒縄地獄などという地獄に堕ちて五百生、あるいは一千歳を経る。五逆罪を作った人は無間地獄に堕ちて一中劫もの長い期間を過ぎて後、また人界に生まれてくる。ところがいかなる事であろうか、法華経を捨てる人は、退転する時は、それほど父母等を殺すことのように重大な罪とは思わないけれども、もっとも重い無間地獄に堕ちて多劫を過ごすのである。
たとえ父母を一人・二人・十人・百人・千人・万人・十万人・百万人・億万人等の人を殺したとしても、どうして地獄に堕ちて三千塵点劫という長い間を過ぎることがあろうか。また、一仏・二仏・十仏・百仏・千仏・万仏、そして億万仏を殺したとしても、どうして無間地獄に堕ちて五百塵点劫を過ぎることがあろうか。ところが法華経を捨てた罪によって、三周の声聞が三千塵点劫を経、諸大菩薩が五百塵点劫を経たことは重大なことに思われる。結局、たとえば拳をもって虚空を打てば拳は痛くない。石を打てば拳は痛い。悪人を殺すのは罪が浅く、善人を殺すのは罪が深い。或は他人を殺すのは拳で泥を打つようなものである。父母を殺すのは拳で石を打つようなものである。鹿を吠える犬は頭が割れるようなことはない。師子を吠える犬は腸が腐る。日月を呑む修羅は頭が七分にわれ、仏を打った提婆達多は大地がわれて無間地獄に入った。このように罪を犯した所対によって罪の軽重は異なるのである。
さればこの法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり、一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺せる罪にもすぎ十方の仏の身より血を出す罪にもこへて候けるゆへに三五の塵点をば経候けるなり此の法華経はさてをきたてまつりぬ又此の経を経のごとくにと説く人に値うことは難にて候、設い一眼の亀の浮木には値うとも・はちすのいとをもつて須弥山をば虚空に懸くとも法華経を経のごとく説く人にあひがたし。
語釈
等活黒繩
八大地獄のなかの第一の等活地獄と、第二の黒繩地獄のこと。等活地獄は、そのなかの罪人は犬猿のごとく互いに害心をもち、鉄の爪で互いの血肉をつかみ裂いて、骨のみ残る。あるいは獄卒が手に鉄杖をもち、頭から足まで全身が砂のようになるまでうち砕く。あるいは鋭利な刀で肉をばらばらに裂く。死んでまた生き返ると再びそれを繰り返す。このようにして何生もの間、繰り返していくのである。此の地獄の寿命は、人間の昼夜五十年が四王天の一日一夜で、四王天の天人の寿命が五百歳である。さらに四王天の五百歳を等活地獄の一日一夜として、その寿命は五百歳である。この地獄の業因は、ものの命を断つことである。黒繩地獄は、等活地獄の苦の十倍で、獄卒が罪人をとらえ、熱鉄の地に伏せて、熱鉄の繩をもって身にすみうち、熱鉄の斧をもって繩に添って、切り、裂き、剥ぐ、また鋸でひき切る。この地獄には、殺生の上に偸盗を重ねた者が堕ちる。顕謗法抄に詳しい。
日月をのむ修羅
阿修羅が日月を害そうとしたことについて、仏から諫止された説話が、法華文句巻二下に「羅睺羅(阿修羅王)此には障持と云う。日月を障持する者なり……日月を怖る時倍して其の身を大にし気もて日月を呵す。日月は光を失て来て仏に訴う。仏、羅睺に告げたまわく、日月を呑むこと莫れと。羅睺の支節戦動して、身に白汗を流し即ち日月を放つ。日月の力・衆生の力・仏の力・衆の因縁の故に害を為すこと能わず」とある。
一眼の亀
優曇華の譬えと同じく、衆生が正法に巡り会い、さらにそれを受持することのいかに難しいかを譬えたものである。松野殿後家尼御前御返事に詳しい。大要述べると次のとおりである。大海のなか、八万由旬の底に一眼の亀がいた。この亀は手足も無く、ひれも無い。腹の熱さは鉄が焼けるようであり、背中の甲羅の寒さはまるで雪山のようであった。ところで赤栴檀という木があり、この栴檀の木は亀の熱い腹を冷やす力がある。この亀が昼夜朝暮に願っていることは「なんとか栴檀の木にのぼって腹を木の穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいものだ」ということであった。ところがこの亀は千年に一度しか水面に出られない。大海は広く亀は小さい。浮木はまれである。たとえほかの浮木に会えても栴檀に会うことは難しい。また栴檀に会えても亀の腹にちょうど合うような、穴のあいた赤栴檀には会い難い。穴が大きすぎて、亀がその穴に入り込んでしまえば、甲羅を暖めることができない。またそこから抜け出ることができなくなる。また穴が小さくて腹を穴に入れることができなければ、波に洗い落とされて大海に沈んでしまう。たとえ適当な栴檀の浮木にたまたま行き会えても、一眼のために浮木が西に流れていけば、東と見え、東に流れていけば西とみえる。南北も同じで、南を北と見、北を南と見てしまう。このように無量無辺劫かかっても一眼の亀が浮木に会うことは難しいのである。このように、浮木の穴を妙法に譬えられて、衆生が妙法に会い難きことを述べられているのである。
講義
常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し
これは譬喩品第三の文である。不幸の中に呻吟しながら、解決するすべも知らず、また打開しようとする気力さえ失った、惰性に安住する人々の姿を述べたものである。さらには現代の悲惨な世界、深刻に憂うべき状態にありながら、それを不幸とも、憂慮すべきであるとも感じない現代人の姿を如実に物語っているともいえる。
人類数千年の歴史は、いうなれば、たえまない戦乱の悲劇によって綴られてきた。その長い歴史の間に人々は、戦争は人間の本然的なものであり、それは永久になくなるものではないとすら考えるようになってしまった。戦争ほど悲惨な地獄絵図はない。しかし、その地獄絵図を、人間に本然的なもので、避けられないとするのは、「地獄に処すること園観に遊ぶが如し」の通りの考え方ではなかろうか。なかには、人を殺し合うなかに、残忍な喜びを見いだしたり、それによって、名誉を得ようとしたり、誇りを感じたりする。それは、地獄の園観であっても、人間性の花園ではない。
もはや人類はこの戦争の世紀に決別を告げなければならない時を迎えているのである。核戦争の危機は、如実にこれを示している。それは、もはや、誰びとにとっても何らの園観でもない。だが人々は、どれだけ戦争絶滅のために、信念と勇気をもって戦っているであろうか。残念ながら、今なお旧来の体制のなかに安住し、消極的に、ただ時代の波にもまれていくのみの、無気力な人々の姿を見るのである。
また「有名」の二字にあこがれ、そこに生きがいを求めて汲々としている人。貪欲に金や地位を得ることが人生の目的であると考える片寄った出世主義者。一方では、毫も社会を変革しようなどとは考えてはいないが、終始、飢えた獣のように、現状に満足せず、不平不満にあけくれる人。自己の小さな目的のために汲々として過ごす人等は、餓鬼道が自分の住み家となっている者といえよう。
さらに、肉親の兄弟、親子の間でありながら、美しい人間関係を忘れ、些細なことでいがみ合う、無智に支配された人生。強者が弱者をおどし、弱き者はつねに事無かれ主義で、長いものにはまかれろといった姿。人生の大道を闊歩するのではなく、事があれば、それを逃避し、刹那的な亨楽に溺れてしまう姿勢は、畜生道をわが舎宅としている者の姿である。さらに、過去の革命にとりつかれて、現代社会の矛盾を、暴力によってのみ解決しようとする者は、修羅界をわが舎宅としている人生である。かくして現代人は、そのいずれかを是としているのである。この姿こそ「余の悪道に在ること己が舎宅の如し」の御文のままではあるまいか。
このように、われらは経文の明鏡に照らしてみるときに、現代社会の病巣、不幸の実態を見ることができるのである。
師子を吠る犬は腸くさる
御本仏日蓮大聖人を百獸の王たる師子にたとえ、大聖人に怨をなす諸宗の僧侶、正法を誹謗する大衆、平左衛門尉を始めとする権力者等を、犬にたとえられたのである。
神国王御書にいわく、
「若し百千にも一つ日蓮法華経の行者にて候ならば日本国の諸人・後生の無間地獄はしばらくをく、現身には国を失い他国に取られん(中略)日月を射奉る修羅は其の矢還って我が眼に立ち師子王を吼る狗犬は我が腹をやぶる釈子を殺せし波琉璃王は水中の大火に入り仏の御身より血を出だせし提婆達多は現身に阿鼻の炎を感ぜり金銅の釈尊をやきし守屋は四天王の矢にあたり東大寺興福寺を焼きし清盛入道は現身に其身も燃うる病をうけにき彼等は皆大事なれども日蓮が事に合すれば小事なり小事すら猶しるしあり大事いかでか現罰なからむ」(1524:17)と。
この文のとおり、大聖人に怨をなした人々は、正法誹謗の罪により、後生は無間地獄に堕ち、現身には重病になる等の現罰があらわれたのである。平左衛門の最期も、まさに、この御文のごとく悲惨であった。さらに、大聖人に怨をなした大衆は、自界叛逆、他国侵逼の両難により塗炭の苦しみに沈んだことは歴史の示すところである。
一つの運動を起こす場合に、波紋が起こる。運動には反対の動きが起こるのは、作用・反作用の原理を挙げるまでもなく、世の常といってもよい。批判する側にしてみれば、それなりの理由と根拠があろう。言論は自由である。したがって、批判することも当然、自由である。
だが、もしも、権力をかさにきて、ただ感情的に、創価学会を誹謗・中傷するだけの批判であれば、それは「師子を吠える犬」の姿に似ているわけである。一方、真実の批判に対しては、どこまでも真摯に受けとめていきたい。誤りは、ただちに正していかなければならないことは当然である。
ところで、妙法という法それ自体は、末法の御本仏日蓮大聖人が悟達し具現化されたものであり、完全無欠である。この妙法に対して、あまり深い思索も高次元の認識および判断力もなくして、ただ感情的に批判を加えるならば、その結果、自己の誤りをさらすことになろう。そのことを大聖人は「腸くさる」と具体的な形を通して教えられているわけである。
ともあれ、もっとも尊き妙法を根本に、批判に対しては、大慈悲の心で受けとめ、師子のごとく仏法流布を進めていきたいものである。
所対によりて罪の軽重はありけるなり
この御文は価値観を論じたところである。例えば、同じ殺人でも、やむを得ない事情で悪人を殺した場合は情状酌量の余地があり、罪は軽くなる。だが善人を殺せば、全く逆で罪は重い。また、他人を殺す罪よりも親兄弟を殺す罪の方が重い。同じ行為であっても、このように罪の軽重があるのである。相手、対象によって、同一行為も千差万別の結果を生み出すのである。されば、大善に反対するものは大悪となる。至高善に反対するものは極大悪となるのである。
ここに何が善か悪か、また善のなかでも、至高の善とは何かを明確に見極めなくてはならない。むろん善悪の基準は社会にゆだねられている。ある社会で善となることが、別の社会では悪になる場合もある。時代の制約を受けることも当然のことである。しかし、これらは、相対的な善である。
しからば、社会、時代の制約を越えた絶対的な善というのものがあるであろうか。それには、人間の本性について、究明しなくてはなるまい。その究明の結果、万人共通の至高善、絶対的な善というものを、われわれは、仏法のなかに見いだすのである。
生命の尊厳をどこまでも第一義とし、人々に、永遠の幸福を開いていく仏法は、万人共通の至高善である。いな、これが、万人に至高善として確立されなければ、人類にとって何が善か、何が悪かということは見抜けず、善悪の逆転さえあり得るのである。時には何百万人の人を殺しても、英雄扱いを受けることすらある。さらば、至高善への向背は、そのまま人類全体への向背に通ずると知るべきであろう。
この法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり
この文は末法の法華経こそ、いっさいの思想、哲学の眼目であり、これらを指導しきる本源の師であるとの仰せと拝することができる。
この文の「法華経」とは文上の法華経をいうのではなく、文底の法華経をいうのである。すなわち、末法の法華経は、五字七字の南無妙法蓮華経であり、三大秘法の御本尊をさすのである。さて、この法華経こそ三世十方のいっさいの諸仏の師匠であり、釈尊の本師である。全宇宙の諸仏、ならびに釈尊も、ことごとく文底の法華経、三大秘法の御本尊を本師として、成仏し得たのである。
これを現代に即していえば、この「法華経」の仏法哲理は、仏質と精神とを融合、包含、止揚し、かつ説き尽くしたものである。それゆえ、全ての既存の哲学、思想の本源をなし、一切の哲学を包含し得る哲理であるといえよう。
古今東西を問わず、いかなる思想、哲学といえども、すべての問題の核心は生命である。だが、生命を本質的に解明している哲学、思想は、皆無に等しい。近代日本で初めて生まれた独創的哲学といわれる西田哲学にしても、その代表的な著「善の研究」にみられるとおり、念仏などの権大乗の言句を用いて、ベルクソン、カントの思想を取り入れ、両者の融合をめざしたものである。だが、それは、西洋哲学の物の論理に対して、心の論理を強調したものにすぎず、観念論に陥ってしまっている。したがって大聖人の仏法哲学からいえば、その一面観にしか至っていないといえる。西田哲学に並ぶ三木哲学にしても、たしかに特異な存在ではあるが、思想の解釈にとどまっており、現代を抜本的に変革しゆく指導原理ではない。
西洋に眼を転じても、全く同様である。「純粋理性批判」「実践理性批判」を著わしたカントの哲学についてみると、実践理性批判の結論に「静かに深く思索すればするほどますます常に新たに、そして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心をみたすものが二つある。わがうえなる星の輝く空と、わが内なる道徳律とである」との文章がある。これを大聖人の仏法からみれば、「わがうえなる星の輝く空」は大宇宙であり、「内なる道徳律」は心であり、生命をさすといえよう。してみると、宇宙即我の原理を志向しているといえるかもしれない。だが、「わが内なる道徳律」では、抽象論の域を越えない。それは、まだ生命の本性への出発点に立ったばかりであり、ここからさらに、生命を論及してこそ、初めて意義をもつのである。
弁証法で名高いヘーゲル哲学も、哲学的にみて「生命とは何か」の問いに答えたものではない。そののちにあらわれたショーペンハウアーにしても、ヘーゲル哲学の批判者であるフォイエルバッハにしても、精神あるいは物質の部分観にすぎない、また、ハイデッガー、サルトルの実存主義哲学をみると、彼らがヨーロッパの精神であるキリスト教、観念論哲学、実証主義哲学に対決し、従来の唯心、唯物の両哲学から脱して新しい価値観を築こうとしていることは事実であろう。だが対決の土台がなお精神と物質を包含し止揚した生命の次元からのものではないゆえに、この最も大事な生命への解明がなされていない。これが西欧近代哲学の限界であるといえまいか。
翻って、今日、人間疎外、主体性の喪失といった社会現象は、生命の存在を忘れたことによるものであり、それがために起こった弊害であることを知るのである。その「生命」の存在の在り方を事の一念三千の法門として説き明かしたのが、日蓮大聖人の仏法哲理である。ソクラテスの言葉を借りていえば、「汝自身」すなわち、自己自身の生命を知らずして、真の哲学、思想とはいえない。したがって、真の教育も、政治も、芸術も、文化もありえない。汝自身の「生命」を説き明した仏法哲理が、一切の師であり、眼目である。
此の経を経のごとくにとく人に値うことは難にて候
ここは、先に「この法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり」と、法に約して述べられたのに続いて、人に約して述べられているところである。
「此の経」とは、末法の法華経たる御本尊である。「経のごとくにとく人」とは、法華経の肝心を明らかにし、その本意を説く人であり、また、身をもって実践する如説修行の行者をさすのである。
法華経の究極は一念三千の法門であり、一念三千の法門は法華経にしか説かれていない。それを正しく説く人が、経のごとくに説く人である。それを大日経や華厳経にも一念三千の法門が説かれているといったり、法華経の仏所護念とは、先祖がわれわれを守ることだと説くのは経のごとくに説く人ではない。これ尊きを摧いて卑しきに入れる人であり、たとえ敬っているようでも「あしくうやまう」大謗法の行為である。
また、法華経迹門を究極とし、本門を裏として、事を廃し理を存する天台の行き方も、末法今時においては法華経を経のごとくに説く人とはいえない。さらに、法華経本門を説いたといっても、白法隠没の末法においては功力はないのであり、本門文上を説くことは釈尊の本意ではない。したがって文上の法華経を説く人も経のごとくに説く人ではないのである。
末法においては、法華経本門寿量品の文底に秘し沈められた南無妙法蓮華経の題目を明らかに説く人が、経のごとくに説く人である。これ末法の御本仏日蓮大聖人以外に断じてありえないのである。末法の御本仏こそ、仏法の本流を教えられた値いがたき根本の大導師であらせられることを、示されたのがこの御文である。
第四章(悪知識により本心を失うを明かす)
本文
されば慈恩大師と申せし人は玄奘三蔵の御弟子太宗皇帝の御師なり、梵漢を空にうかべ一切経を胸にたたへ仏舎利を筆のさきより雨らし牙より光を放ち給いし聖人なり、時の人も日月のごとく恭敬し後の人も眼目とこそ渇仰せしかども伝教大師これをせめ給うには雖讃法華経・還死法華心等云云、言は彼の人の心には法華経をほむとをもへども理のさすところは法華経をころす人になりぬ、善無畏三蔵は月支国うぢやうな国の国王なり、位をすて出家して天竺五十余の国を修行して顕密二道をきわめ、後には漢土にわたりて玄宗皇帝の御師となる、尸那日本の真言師・誰か此人のながれにあらざる、かかる・たうとき人なれども一時に頓死して閻魔のせめにあはせ給う、いかなりける・ゆへとも人しらず。
日蓮此れをかんがへたるに本は法華経の行者なりしが大日経を見て法華経にまされりといゐしゆへなり、されば舎利弗目連等が三五の塵点を経しことは十悪五逆の罪にもあらず謀反・八虐の失にてもあらず、但悪知識に値うて法華経の信心をやぶりて権経にうつりしゆへなり、天台大師釈して云く「若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、本心と申すは法華経を信ずる心なり、失うと申すは法華経の信心を引きかへて余経へうつる心なり、されば経文に云く「然与良薬而不肯服」等云云、天台の云く「其の心を失う者は良薬を与うと雖も而かも肯て服せず生死に流浪し他国に逃逝す」云云。
現代語訳
それ故、慈恩大師という人は玄奘三蔵の弟子であり、唐の太宗皇帝の師である。梵語、漢語の書を空にうかべ、一切経を胸に湛え、仏舎利を筆のさきから雨の如く降らし、説法の時は牙から光を放った聖人である。当時の人も慈恩大師を日月の如く恭敬し、後世の人も眼目として渇仰したが、伝教大師はこの慈恩大師を責めて「法華経を讃めるといえども、還って法華の心を死す」等と破折した。この言葉の意味は、慈恩大師は、自分では法華経を讃えていると思っているが、法華経最第一の原理を知らないゆえに、理の示しているところは、法華経の真意をころす人になっているのである。
善無畏三蔵は月氏の烏仗那国の国王である。位をすてて出家してインドの五十余の国々を修行して顕教・密教の二道をきわめ、のちには漢土に渡って玄宗皇帝の師となった人である。中国・日本の真言師は、誰一人この善無畏三蔵の流れを汲んでいないものはない。このような尊い人ではあるが、ある時に頓死して閻魔の責めに会ったのである。なぜこのように急死して、閻魔の責めにあったのか、その理由を誰も知らない。
日蓮これを考えてみたところ、善無畏三蔵はもともと法華経の行者であったが、大日経を見て法華経より勝れるといったことがその原因である。したがって舎利弗、目連等の二乗が悪道に堕して三千塵点、五百塵点の長期を経たことは、十悪や五逆の罪でもなく、謀叛・八虐の反逆の罪でもなく、ただ、悪知識に値って、法華経の信心を破って権経に移ったゆえである。天台大師が解釈していわく「もし悪友に値えば、本心を失ってしまう」と。この文の本心というのは法華経を信ずる心である。失うというのは法華経の信心を翻して、余経へ移る心である。それゆえに法華経の寿量品にいわく「然も良薬を与えるのに、肯て服さない」等と。この経文を天台は「法華経を信ずる心を失う者は、良薬を与えても、服すことなく、生死の苦しみのなかに流浪し、他国へ逃げてゆく」と釈している。
語釈
慈恩大師
(0632~0682)。中国唐代の僧。法相宗の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、大小乗の教えの翻訳に従事した。永淳元年に没。その学問は、きわめて粗漏が多く、伝教大師の「守護章」で破折されている。著書に「法華玄賛」「成唯識論述記」「成唯識論枢要」等がある。
仏舎利を筆のさきより雨らし
宋高僧伝に「時に童子城に入り、紙二軸及び筆を持ちこれに投ず。……信を過ぎて、夜、寺中に光あり。久しくして滅せず。尋で之を視れば、数軸光を発する者なり。……遂に毫を援のとき、筆鋒に舎利二七粒ありて隕つ」と。
牙より光を放ち
牙とは歯の意。歯から光を放ったこと。
雖讃法華経・還死法華心
伝教大師の法華秀句下九にある。法相宗の慈恩大師が法華玄賛十巻を著わして法華経をほめたが、法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経の精神をころした謗法であると破折した文。
善無畏三蔵
(0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
うぢゃうな国
烏仗那は北インド健駄羅国の北方にあった国名。いまの北西境州のスワート川の流域地方。大唐西域記によれば、周囲五千余里、気候は温暖、穀物はあまり獲れないが、ブドウなどの果実はよく獲れた。人の性格もよく、文字、礼儀を重んじ、仏法を崇重し、特に大乗仏法を敬信した。昔スワート川をはさんで、一千四百の伽藍と僧徒一万八千の多きを数えたといわれる。
謀反・八虐の失
「謀反」は君主に叛いて兵を起こすこと。鎌倉時代に御成敗式目が制定され、大犯三箇条の一つとされ、これを犯す者は極刑に処された。「八虐」は八逆罪ともいい、大宝令で重罪とした八種の罪で、①謀反。②謀大逆。③謀叛。④悪逆。⑤不道。⑥大不敬。⑦不孝。⑧不義をいう。
講義
雖讃法華経・還死法華
法相宗の開祖・慈恩大師が法華経をたたえる十巻の疏釈「法華玄賛」を著わした。だが慈恩大師の書は法華経を第一としないゆえに伝教大師はこれを法華秀句で責めた。その文が、この「法華経を讃むるといえども、還って法華の心を死す」という文である。
慈恩大師は深密経、唯識論を根本の哲理として法華経を讃めた。また、この他にも、中国の三論宗の開祖・嘉祥大師は般若経、中論を根幹にして、十巻の疏釈、「法華玄論」を著わし、法華経をたたえている。さらに、中国華厳宗の祖・杜順、法蔵等の諸師は華厳経、十住毘婆沙論をもとに、真言宗の善無畏、金剛智、不空の三三蔵は大日経を根幹として、それぞれ法華経を読んだのである。
だが、それらの諸宗の祖師は、いかに法華経を賛嘆しているように見せかけても、己れの教義に執着し、法華経の真意を知らないがゆえに、法華経を諸経と同等あるいは下して讃めているにすぎない。したがって、ことごとくが「法華の心を死(ころ)し」ているのである。
法華経は、釈尊一代仏教の骨髄である。法華経以前の経々は権教である。権とは「かり」ということであり、方便としての立場のものである。法華経と権教とは、比較にならない相違である。譬えていえば、ゼロと千との相違のようなものである。それを、同等、もしくは、他の経よりも低く下して、どんなに賛嘆しても、それは、一代仏教の骨髄をくだくことになるのである。
さらに、一重立ち入ってこの文を考えれば、どんなに法華経が、一代仏教のうち最高の教えであると賛嘆しても、法華経の文底に秘沈された三大秘法を知らなければ、同じく「還って法華の心を死す」ことになる。
「法華の心」とは何か。それは、諸御書に、法華経の肝心、肝要、また文底と仰せられているのと同じ意である。法華経一部八巻二十八品、ことごとく、南無妙法蓮華経の一法に帰着する。この一法なくば、法華経は無に等しい。されば、どんなに法華経を読誦しようとも、法華経の生命を断ってしまうことになる。
これはまた、末法の法華経たる日蓮大聖人の仏法においても、同じ原理である。世に、南無妙法蓮華経と唱える人は多い。また、日蓮大聖人をたたえる人も多い。だが、御本尊を信ぜず、大聖人の仰せに背くならば、文底の仏法の生命を断つことになる。四菩薩造立抄にいわく「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし(中略)日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(0989:09)と。種種御振舞御書にいわく「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(0919:16)と。
さらに、御本尊を持ったとしても、他の目的のために信心を利用することがあれば、同じく「法華の心を死す」ことになる。以上、さまざまな角度から、この文は読んでいけるのである。
慈恩・善無畏の謗法について
御文にあるごとく、慈恩にせよ、善無畏にせよ、世間では、あたかも仏の再来のごとく思われた人である。だが実は、全く仏法を壊乱する謗法の元凶であったのである。
仏法は、世間的な名声、地位等には一切関係がない。大事なのは、その人のもっている法自体である。小乗経を根本とした人は、小乗の人である。権教を根本とした人は、権教の世界に住する人である。
慈恩、善無畏ほどの人が、なぜ仏法上の大なる誤りを犯したのか。それは、自己の低い思想から法華経を見ようとしたからである。高い思想から、低い思想は見えるが、低い思想、哲理からは、仏法の最高峰は見えない。小さい殻の中に閉じこもっていては仏法の大海は見えないのである。現代における慈恩、善無畏もまた、偉大な仏法哲理が見えず、自己の狭い世界を徘徊している姿がときとして見受けられる。
若し悪友に値えば即ち本心を失う
本心とは、法華経を信ずる心である。換言すれば、根本の下種の意であり、南無妙法蓮華経である。「本心を失う」とは、この生命の至宝である妙法をいたずらに捨て去ってしまうことである。本心を失った人は、舵を失った船のごとく、根無し草のごとく、主体性なき流転の人生を送らざるをえない。
誰人といえども、宇宙のリズムに合致した、自在の生命活動をしきっていきたいというのが本然の願いである。されは、意識すると、しないとにかかわらず、生命本来の要求なのである。これ、いつわりのない、人間性の究極の本心である。
されば、本心とは、妙法であると共に、妙法に向かう心であり、信心である。信心は、特定の人のものではない。万人が、瑞々(みずみず)しい力強い活力を生み出していく、生命のオアシスであるといえよう。
だが、現実には、多くの人々が、この「本心」を失ってしまっている。日蓮大聖人は、この根本原因が、誤った宗教、思想にあると断定されているのである。宗教、思想ほど偉大なものはない。また、宗教、思想ほど恐ろしいものはない。一片の思想が何千万、何億の狂気をもたらし、幾世紀にもわたって、社会を毒していくこともある。事実、歴史は、その流転をつづけてきたのである。その狂気の到達点が現代の核兵器の時代であるといっても過言ではなかろう。人間は、再び本心に戻らねばならない。
第五章(第六天の魔王の姿を述ぶ)
本文
されば法華経を信ずる人の・をそるべきものは賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり、此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり、六道の中に二十五有と申すろうをかまへて一切衆生を入るるのみならず妻子と申すほだしをうち父母主君と申すあみをそらにはり貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、但あくのさかなのみを・すすめて三悪道の大地に伏臥せしむ、たまたま善の心あれば障碍をなす、法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり、又般若経へすかしをとす悪友は嘉祥・僧詮等是なり、又深密経へ・すかしをとす悪友は玄奘・慈恩是なり、又大日経へ・すかしをとす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証是なり、又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり、此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に「悪鬼其の身に入る」と説かれて候は是なり。
設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや、又第六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり、悉達太子は位を捨てんとし給いしかば羅睺羅はらまれて・をはしませしを浄飯王此の子生れて後・出家し給えと・いさめられしかば魔が子ををさへて六年なり、舎利弗は昔禅多羅仏と申せし仏の末世に菩薩の行を立てて六十劫を経たりき、既に四十劫ちかづきしかば百劫にて・あるべかりしを第六天の魔王・菩薩の行の成ぜん事をあぶなしとや思いけん、婆羅門となりて眼を乞いしかば相違なく・とらせたりしかども其より退する心・出来て舎利弗は無量劫が間・無間地獄に堕ちたりしぞかし、大荘厳仏の末の六百八十億の檀那等は苦岸等の四比丘に・たぼらかされて普事比丘を怨みてこそ大地微塵劫が間無間地獄を経しぞかし、師子音王仏の末の男女等は勝意比丘と申せし持戒の僧をたのみて喜根比丘を笑うてこそ無量劫が間・地獄に堕ちつれ。
現代語訳
それゆえ法華経を信ずる人が、畏れなければならないものは、賊人、強盗、夜打ち、虎狼、師子等よりも、現在の蒙古の責めよりも、法華経の行者の修行を妨げ悩ます人々である。われわれの住む娑婆世界は、第六天の魔王の所領である。一切衆生は無始已来、第六天の魔王の眷属である。魔王は六道のなかに二十五有という牢を構えて一切衆生を入れるばかりでなく妻子という絆を打ち、父母主君という網を空にはり、貪瞋癡の酒をのませて、一切衆生の仏性の本心をたぼらかす。そして、悪の肴ばかりをすすめて三悪道の大地に伏臥させる。衆生にたまたまの善心があれば邪魔をするのである。
法華経を信ずる人をなんとしても悪道へ堕とそうと思うが叶わないので、だんだんにだまそうとしてまず法華経に相似する華厳経へ堕とした。杜順・智儼・法蔵・澄観等がこれである。また次に般若経へだまし堕とす悪友は嘉祥・僧詮等である。また深密経へだまし堕とす悪友は玄奘・慈恩である。また大日経へだまし堕とす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証である。また禅宗へだまし堕とす悪友は達磨・慧可等である。また観無量寿経へだまし堕とす悪友は善導・法然である。これは第六天の魔王がこれらの智者の身に入って、法華経を信ずる善人をだますのである。法華経第五の巻・勧持品に「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのはこのことである。
たとえ等覚の菩薩であっても、元品の無明という大悪鬼がその身に入って、法華経という妙覚の功徳を妨げるのである。まして、それ以下の人々においては、なおさらのことである。また、第六天の魔王があるいは妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、あるいは国王の身に入って法華経の行者をおどし、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりするのである。
悉達太子は国王になるべき位を捨てようとされたので、妃が羅睺羅を孕んでいたのを父の浄飯王は「子が生まれてから出家しなさい」と諫められたところ、魔はこれさいわいと子の生まれるのを六年間おさえた。舎利弗は、昔禅多羅仏といった仏の末世に菩薩の行を立てて、六十劫を経た。あと四十劫で百劫になるまで近づいたのを、第六天の魔王が、その菩薩の行が成就するのではないかと危ぶんだのであろう、婆羅門となって舎利弗の眼を乞うたところ、舎利弗は乞われたままに眼を取らせたけれども其れによって退転する心がでてきて、舎利弗は無量劫の間、無間地獄に堕ちたのである。大荘厳仏の末法の六百八十億の檀那等は、苦岸等の四比丘にだまされて普事比丘を怨んだゆえに大地微塵劫の間、無間地獄を経たのである。師子音王仏の末法の男女等は勝意比丘という持戒の僧を信じて、正法を弘める喜根比丘をあざ笑った故に無量劫の間、地獄に堕ちたのである。
語釈
二十五有
三界六道を二十五種に分けたもの。三界とは、欲界・色界・無色界。欲界では四趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)、四洲(東弗波提、西倶耶尼、南閻浮提、北鬱単越)、六欲天(四王天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天、他化自在天)の十四有。色界では初禅天中の大梵天と四禅(初禅天・二禅天・三禅天・四禅天)の五有。無色界では四処(空無辺処・識無辺処・無処有処・非想非非想処)、無想天・那含天の六有で以上合して二十五をいう。
ほだし
絆と書く。①馬の脚等を繋ぐのに用いる縄等。②手枷、足枷。③憐憫・愛惜などの心が生じて、自由に行動する妨げとなるもの。ここでは、仏道修行を妨げる働きをいう。
舎利弗は……眼を乞いしかば
大智度論巻十二に「舎利弗の如きは、六十劫の中に於て、菩薩の道を行じ、布施の河を渡らんと欲す。時に乞人有り、来って其の眼を乞う。舎利弗言く、『眼は任すべき所ならず、何を以ってか之を索むるや。若し我が身及び財物を須いなば、当に以って相与うべし』と。答えて曰く、『汝が身及び財物を以って須いず、唯だ眼を得んと欲す。若し汝実に檀を行ずるならば、以って眼を与えよ』と。爾の時、舎利弗は、一眼を出して之を与う。乞者は眼を得て、舎利弗の前に於て之を嗅ぎ、臭を嫌って唾して地に棄て、又脚を以って蹹む。舎利弗思惟して言く、『此の如きの弊人等は、度す可きこと難し、眼は実に用無きも、而も強いて之を索め、既に得れば而も棄て、又脚を以って蹹む。何ぞ弊なるの甚だしきや。此の如きの人輩は度す可らず、自ら調えて、早く生死を脱せんには如かず』と。是く思惟し已って、菩薩の道より退き、小乗に迴向せり」とある。
苦岸等の四比丘・普事比丘
過去の大荘厳仏の末法に出家した弟子は、それぞれの上首の比丘の名をもって部の名とし、普事・苦岸・薩和多、将去、跋難陀の五部となっていた。この五比丘のうち、普事のみが仏・所説の真法を知ったが、他の苦岸等の四比丘は邪道に堕ち、仏法を破った。この苦岸等の四比丘に従った六百四万億の人は師弟ともに阿鼻地獄に堕ち、のちに一切明王仏に会ったが、それでも仏果を得ることができなかったという。仏蔵経往古品にある。
勝意比丘・喜根比丘
師子音王仏の末法に入って一人の法師が現われ、その名を喜根比丘といった。喜根比丘はよく諸法の実相を説き、勝意比丘等から誹謗されたが、さらにその主張を貫きとおし、ついに成仏を遂げ、勝意比丘等は地獄に堕ちた。諸法無行経に詳しく説かれている。
講義
此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり
人類が、悲惨の歴史を歩んできた、その根本原因を喝破された御文である。「此の世界」とはわれわれの住む娑婆世界である。欲望と欲望のぶつかりあう世界であり、殺戮の繰り返される世界である。幸福を追い求めながら、かえって果てしなき抗争の泥沼に人類が落ち込まねばならなかったのはなぜか。それは無始已来、第六天の魔王に支配されてきたからであると教えられているのである。
魔とは成仏を妨げる働きをいう。人々の幸福をさえぎる働きである。モーターボートが猛スピードで、前へ進めば強い向かい風をうける。作用があれば反作用がある。と同じように、生命それ自体が幸福に向かって前進しているとき、これを妨げる働きが本然的にあらわれてくる。これは変わらぬ道理である。この働きを魔と名づけるのである。
魔とは観念ではない。生命自体の一実相であり、さまざまな現象となってあらわれてくるものである。幸福への反作用である以上、魔はあらゆる姿で仏道を求める者を妨害しようとするのである。
欲望に支配され、富を得るためにのみ奔走する人生もあろう。名誉地位を得るのに汲々としている人も多かろう。知識を追求し、自らのカラの中で知識欲を満たすだけの人生に満足する利己主義の人もいる。また、人生の目的さえも考えずに過ごしている人もなんと多いことか。これらは魔に思うがままにほんろうされている人生である。だが人々は、その魔に気づかないでいる。
しかし、ひとたび仏法に目ざめ、低級な人生観の世界から、崇高な目標に向かって、自己自身の変革と社会の建設に進むとき、魔はその姿をあらわしてくる。
周囲の人の悪口・冷笑の姿をとることもある。会社の上司が仕事と信心を混同して、迫害してくることもあろう。これらは、はっきりと魔であることがわかるが、なかには味方のような顔をした魔もある。むしろ、魔はその姿を隠して人を欺くのが本領であるともいえる。友人・先輩達が真心から忠告すると見せかけて信心を妨げるかもしれない。妻子・父母の肉親の愛情という武器で攻めてくることも多い。池上兄弟の場合はまさにそれであった。
これらの魔は自分の外にある魔である。しかし、己心の魔ほど恐ろしいものはない。知らぬ間に、自分自身がこの魔に征服されて、魔の声を自分の心の声と聞いてしまう。自分の心は弱いものである。安逸に流れ、妥協しようとする心、地道な実践を忘れて名聞名利に走ろうとする心、自己の誤りを弁護しようとする心、これすべて己心の魔である。
人はこれらの魔にたぶらかされ、仏道修行を成就せずして、悔い多き人生に終始してきたのであった。これらの魔を根底から打ち破るものはなにか。それはしょせん信心の二字以外にありえない。強盛な信心の一念によってみがきぬかれた鏡の前には、魔は正体を現わしてしまうのである。とぎすまされた〝信〟の利剣で一切の魔を断破していかねばならない。
今まで述べてきた種々の魔の働きは、すべて、第六天の魔王の指図によるものといってよい。他化自在天とは、他の人を自分の思うままに動かし、操ることを喜びとする故にかくいう。それは、今日的にみれば、権力による支配といえまいか。権力は本来は善の働きをすべきものであるが、一歩誤れば、恐るべき魔の存在となる。これを第六天の魔王という姿であらわしたのであろう。衆生は第六天の魔王の張り巡らした網の中で苦しみあえぎ、二十五有の牢の中で呻吟してきたのであった。
今、全世界へ妙法の燦たる曙光が輝き渡ろうとしている。このときにこそ、第六天の魔王は、その全力をあげて広布を妨害してくるのである。時代の先駆者は、常に旧体制による弾圧と戦ってきた。今、未曾有の仏法流布をなさんとするにあたって、第六天の魔王は、その一切の軍勢を率い、一切の謀略を凝らして襲いかかってくること疑いないのである。国家権力によって弾圧を加えてくることもあろう。また世間に阿諛して名声を得た者等が、批判してくることもあるだろう。自己の利益のために攻撃する者もあろう。逆に、こびへつらって油断をさせ、内部から崩そうとする輩もいるかもしれない。これらはすべて、仏法の上から見ていくならば、第六天の魔王のしわざであるといえよう。
御義口伝下にいわく「凡有所見の菩薩を無智と云う事は第六天の魔王の所為なり」(0765:第九言是無智比丘の事:01)と。「凡夫所見の菩薩」とは、全民衆の中にある仏界を開いていこうとする地涌の菩薩であり、それを無智と誹謗する者の本性は、第六天の魔王であると断言された御文である。われらはこの第六天の魔王との熾烈な戦いを繰り広げていかなければならない。中傷におびえず、諂佞におごらず、広布への大道をまっしぐらに歩まねばならない。
さらに、第六天の魔王とは、生命の尊厳を脅かす働きである。それ故に「能奪命」と訳されるのである。現代の世界には、地球上の人類を一瞬にして破壊させる核兵器が存在する。核戦争がもし勃発すれば、歴史上未曾有の地獄絵図が出現することは疑いない。いな、人類自体の絶滅すら考えられる。これこそ人間に対する最大の冒瀆であり、人類の生存を真っ向から否定する大罪悪である。これを魔といわずして、何を魔といおうか。
池田会長は、核兵器の問題について、次のように喝破している。
「原水爆の引き金を引く者は、国際間の軋轢や、民族の利害の衝突や、一国の野望によるものとみえようとも、これことごとく魔の仕業である」。
「原水爆を使用する主体者としての、指導者と民衆の生命に潜む魔性を断ち切り、ここに人間性の尊極の思想の流れをつくるとき、初めて恒久平和への盤石な基盤が築かれていくと信ずるのである」。
核兵器を人類の上に使用せんとする者は、いかなる理由があれ、どのように偽装していようと、第六天の魔王である。大宇宙の中で最も尊いものは、人間であり、人間の生命である。これこそ何ものにもまして優先されねばならない価値の本源である。したがって、一国の国家的利益よりも、一個人の生命の方が尊重されねばならないことも当然であり、いかなる大義名分のもとであれ、核兵器のような大量殺戮兵器の使用は、断じて許されるはずがない。
いまや人類は、原水爆を使用する指導者を魔王と弾劾し、人間の生命に潜む魔性を断つことによって、真の恒久平和を勝ちとるべきである。
今まで全世界の民衆を思うがままにし、悪道に堕とすことを喜びとして、傲然として世界を手中に収めてきた第六天の魔王を、断固として駆逐せねばならない。仏法を全世界に流布し、一人一人の生命を浄化する戦いを断固として遂行していくことが、人類の生命を奪う魔王を退治する唯一の方法なのである。
法華経譬喩品第三に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」と。すなわち、この世界は、再往は仏の世界であるとの意味である。御本仏の懐にいだかれて、遊楽の人生を送る世界こそ、本来の人間世界の姿である。
辦殿尼御前御書にいわく「第六天の魔王、十軍のいくさををこして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土をとられじ、うばはんと・あらそう。日蓮其の身にあひあたりて、大兵ををこして二十余年なり。日蓮一度もしりぞく心なし」(1224:03)と。日蓮大聖人は一人であっても己心の仏の大軍勢を起こして、第六天の魔王と戦われたのである。
われらもまた今まさに、未曾有の寂光土を築くために第六天の魔王との前代未聞の闘争を展開している。さればこの地上から悲惨の二字を追放し、全ての人々が幸せを満喫できる世界とするまで、平和の戦士として、勇敢に前進を続けていかなくてはならない。
設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入って法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり
信心修行における油断の恐ろしさを説かれたところである。
釈迦仏法において、別教では菩薩の修行を五十二の段階と立て、円教ではそれを四十二の段階と立てている。そのいずれも、等覚の位とは五十一位、四十一位に位し、菩薩の位としてはその最高の位であって、妙覚を目前にした仏の補処である。このように、ほとんど仏に等しい境地に達した等覚の菩薩にも、魔は競うとの仰せである。等覚という最高位の菩薩には魔は出来しないと思われるかも知れない。しかし、障魔は、この等覚の菩薩をさえ悩ませるほど、その威力は激しいと教えられているのである。成仏という目標にあと一歩と迫っても、そこで疑いを起こせば長い長い歴劫修行の辛労も福運もすべて無に帰するのである。菩薩道の修行の目的は成仏にある。もし、この目的に到達しなかったならば、等覚の位に至って退転した者も、未発心のものも差はない。最後の最後まで、一瞬の油断もなく、魔と戦いぬいていくことが最も大切なのである。
今、私達が一生成仏を目指して戦う場合にもこれはあてはまる。等覚とは、いうなれば一生成仏と広宣流布をめざして同じ陣列で進む地涌の菩薩の一分といえる。一念三千の当体であるわが生命の上に、仏界を湧現し、その逞しい生命力で人生を切り拓いていく戦さに終わりはない。常に己心の魔と厳しく対決し、目標に向かって精進していかねばならない。
故に、われらの戦いには、これでいいということはありえない。最後まで建設の戦いである。「設ひ等覚の菩薩なれども」とは、どんなに長く信心をしてこようとも、どんなに多くの戦いの経験を積んでこようとも、どんなに立ち場が変化しても、と拝すべきである。いかなる人であれ「これでよし」と思う油断のなかに破滅の因を作ってしまう。むしろ、先輩として多くの後輩から手本とされる立場であればこそ、なおさら、堕性を恐れ、燃え上がる求道心と前進の息吹きをもって進まねばならない。
元品の無明とは生命自体にひそむ魔性である。この魔性を打ち破るものは、仏の生命しかない。しかしてそれを顕現していくのは信心なのである。
されば、元品の無明を破る利剣はまさしく「信心」なのである。
御義口伝にいわく「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751:15)と。すなわち、微塵の疑いもはさまない、御本尊に対する絶対の確信のみが、この無明惑を打破する利剣であるとの仰せである。したがって、われわれの信心とは、瞬間瞬間が己心の第六天の魔王との厳しい戦いであり、これを打ち破って勝ち抜いていかなければならないのである。
第六章(転重軽受を明かす)
本文
今又日蓮が弟子檀那等は此にあたれり、法華経には「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」涅槃経に云く「横に死殃に羅り訶嘖・罵辱・鞭杖・閉繫・飢餓・困苦・是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」等云云、般泥洹経に云く「衣服不足にして飲食麤疎なり財を求めるに利あらず貧賤の家及び邪見の家に生れ或いは王難及び余の種種の人間の苦報に遭う現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、文の心は我等過去に正法を行じける者に・あだをなして・ありけるが今かへりて信受すれば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば未来の大苦をまねきこして少苦に値うなり、この経文に過去の誹謗によりて・やうやうの果報をうくるなかに或は貧家に生れ或は邪見の家に生れ或は王難に値う等云云、この中に邪見の家と申すは誹謗正法の家なり王難等と申すは悪王に生れあうなり、此二つの大難は各各の身に当つてをぼへつべし、過去の謗法の罪を滅せんとて邪見の父母にせめられさせ給う、又法華経の行者をあだむ国主にあへり経文明明たり経文赫赫たり、我身は過去に謗法の者なりける事疑い給うことなかれ、此れを疑つて現世の軽苦忍びがたくて慈父のせめに随いて存外に法華経をすつるよし・あるならば我身地獄に堕つるのみならず悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて・ともにかなしまん事疑いなかるべし、大道心と申すはこれなり。
現代語訳
今また日蓮の弟子檀那等は、この事にあたっている。法華経の法師品には「如来のおられる時でさえ猶怨嫉が多い、まして滅度の後においてはなおさらのことである」と説かれ、また安楽行品には「一切世間の人は、仏に怨をなすものが多く、正法を信じ難い」と説かれ、涅槃経には「横死の殃に罹り、訶嘖を受け、罵られて辱しめられ、鞭や杖で打たれ、監禁され、飢餓、困難を味わう。このような現世の軽い報いを受けることによって未来には地獄に堕ちない」等と説かれている。また般泥洹経にいうには「衣服は不足し飲食は粗末で少ない。財を求めても得られず、貧賎の家および邪見の家に生まれ、或は王難およびその他の種々の人間社会の苦報にあうが、現世に軽く受けるのは、これ仏法を護る功徳力に由る故である」とある。経文の意味は、われわれは、過去において正法を修行していた者に怨をなしたのであるが、今度は反対に自分が正法を信受することになったので、過去に人の修行を妨げた罪によって本当は未来に大地獄に堕ちるところを、今生に正法を行ずる功徳が強盛なので未来の大苦を今生に招きよこして少苦に値うのである。この経文に、過去の謗法によって、さまざまな果法を受けるなかに、あるいは貧しい家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは王難に値う等と示されている。このなかに「邪見の家」というのは誹謗正法の家であり、「王難等」というのは、悪王の世に生まれあわせることである。この二つの大難は、あなたがたの身にあたって感ずることであろう。過去の謗法の罪を滅しようとして今邪見の父母に責められているのである。また法華経の行者をあだむ国主に生まれあっている。経文には明々であり、また赫々である。ゆえにわが身が過去に謗法の者であったことを疑ってはならない。これを疑って現世の軽苦が忍びがたくて慈父の責めにあってこれに随い、おもいのほか法華経を捨てることがあれば、自分が地獄に堕ちるばかりでなく、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて、共に悲しむことは疑いないことである。大道心というのはこのように大目的観に立って信心をまっとうすることをいうのである。
語釈
邪見の家
邪見とは邪曲な見解の意で正見に対する語。見思・塵沙・無明の三惑のうち、見思惑のなかの五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)の一つ。善悪因果の理法を無視する妄見の見解をいう。いっさいの諸法がみな因縁によって生ずることを知らず、自然・偶然であるなどというのは邪見である。また内道に背く外道は邪見であり、大乗に背く小乗も邪見である。また本門に背く迹門は邪見であり、文底独一の本門に背くいっさいの教は全て邪見となる。邪見の家に生まれるとは、正法誹謗の家に生まれることをいう。
大阿鼻地獄
阿鼻大城ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avīci)の音写で、意訳して無間という。苦を受けるのが間断ないことをいう。大城とは、無間地獄が七重の鉄城、七層の鉄網で囲まれていて脱出できないことからいわれている。欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、八大地獄のうち他の七つよりも一千倍も苦が大きいという。五逆罪、正法誹謗の者が堕ちるといわれる。
講義
本章は、法華経を信ずる者がなぜ難にあうのかを説かれ、転重軽受の法門を明示された段である。
転重軽受とは、過去世の大謗法が原因となり、未来永劫に苦果を受けねばならないところを、正法を護持した功徳力により転じて、今世に軽く受けるということである。
この原理は、当然、永遠の生命観に立脚した因果の理法である。目には見えずとも、厳然たる因果の理法が貫かれている。宿命というのも、福運というのも、すべてこの生命に内在する因果の法が、それである。こればかりは、どこに逃げようが、どのように表面を装っても、絶対にのがれることも、消し去ることもできない、生命自体の法則である。
だが仏法は、この生命自体の転換をはかるのである。過去遠々劫よりの、悪因悪果の生命の流転を、現世でたたき破って、幸福の方向へと向かわしめるのである。いわば、過去遠々劫より、未来永劫への瞬時の転換をはかることに、仏法の真意があるといえる。だが釈迦仏法は、いまだ歴劫修行の域にとどまり、何生にもわたって、この転換をはかるという説き方がなされていた。
しかし、日蓮大聖人は、この現世において不幸への因果の鎖を断ち切り、現在と未来にわたって幸福な生活を建設していく道を明確に示された。日蓮大聖人の仏法は本因妙の仏法である。
現在の瞬間の生命のなかに、過去世のいっさいの宿業を打破し、未来永遠の幸福の因を開いていくのである。もはやその人生は過去の因果に支配される人生ではなく、未来に向かって雄大に建設していける人生なのである。そのために、大切なのは、現在の決意であり、実践である。今が宿命転換の時であるという発心が実践となってあらわれて全てを変えていくのである。この発心と逞しい実践があるとき、自分の過去の罪障を責め出し、転重軽受していくことができる。
されば、信心とは瞬時の大転換の要諦である。この大転換の戦いに苦難があるのは当然である。むしろ「現世の軽報」は自身の一生成仏の証と確信すべきである。
大道心について
大道心とは、仏法を修め、悟りを求める最大の心である。最大の菩提心である。法華経の行者として、王難や諸難にあうことは経文に記す通りであり、そうした難を忍び妙法を求め、生涯妙法を行ずる心を持ち続けゆくことが、大道心であるといえる。したがって、一生成仏と広宣流布を進めてゆく目的観、使命感が大道心であるといえよう。大道心に立った人ほど強い人はなく、その人生ほど光輝に満ちたものはない。人間は、いうなれば、パスカルの葦の喩えのごとく、一個の弱い存在にすぎぬかもしれない。しかし、その弱い存在も、目的観をもち、使命に生きぬくとき、最も強い存在となる。
惰性と安逸のなかに生きるのも人生である。大道心に生きぬくのも人生である。しかも誰の人生でもない。汝自身の人生であり、選択はその胸中の一念にある。
小さな、目前の利益を求めるか、遠大な目的に生き抜くか、虚栄、幻影を追うか、真実の宗教、思想を奉じてゆくか、同じ一個の人間でありながら、その奥底の一念が人生を決定づけていくのである。
顕仏未来記に、伝教の言葉を引いていわく「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(0509:08)と。わが一念に、信心の大道心を発していくとき、一本の人生の大道が開かれていく。その大道を闊歩するとき、無量の感動が、胸中に高鳴るのである。
第七章(難に当って信心を示す)
本文
各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる、此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ、雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし、十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん、それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし、又前車のくつがへすは後車のいましめぞかし、今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし、此の世のありさま厭うともよも厭われじ日本の人人定んで大苦に値いぬと見へて候・眼前の事ぞかし、文永九年二月の十一日にさかんなりし華の大風にをるるが・ごとく清絹の大火に・やかるるが・ごとくなりしに・世をいとう人のいかでかなかるらん文永十一年の十月ゆきつしまふのものども一時に死人となりし事は・いかに人の上とをぼすか当時も・かのうてに向かいたる人人のなげき老たるをやをさなき子わかき妻めづらしかりしすみかうちすてて・よしなき海をまほり雲の・みうればはたかと疑い・つりぶねの・みゆれば兵船かと肝心をけす、日に一二度山えのぼり夜に三四度馬にくらををく、現身に修羅道をかんぜり、各各のせめられさせ給う事も詮ずるところは国主の法華経の・かたきと・なれるゆへなり、国主のかたきと・なる事は持斎等・念仏真言師等が謗法よりをこれり、今度ねうじくらして法華経の御利生心みさせ給へ、日蓮も又強盛に天に申し上げ候なり、いよいよ・をづる心ねすがた・をはすべからず、定んで女人は心よはく・をはすれば・ごぜたちは心ひるがへりてや・をはすらん、がうじやうにはがみをしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ、わだが子となりしもの・わかさのかみが子となりし・将門・貞当(任)が郎従等となりし者、仏になる道には・あらねども・はぢを・をもへば命をしまぬ習いなり、なにと・なくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ。
現代語訳
あなたがた兄弟は、かなり法華経(御本尊)を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それは例えば鉄を念入りに鍛え打てば内部の疵が表面にあらわれてくるようなものである。石は焼けば灰となるが、金(こがね)は焼けば真金となる。このたびの難においてこそ、本当の信心があらわれて法華経の十羅刹女もあなたがたを必ず守護するにちがいない。雪山童子の前に現われた鬼神は帝釈であり、尸毘王が助けた鳩は毘沙門天であった。同じく、十羅刹女が、信心を試すために、父母の身に入って、法華経を信ずる人を責めるということもあるであろう。それにつけても信心が弱くては、必ず後悔するにちがいない。前車が覆えったのは、後車の誡しめである。
今の乱れた世にあっては、これということがなくとも仏道を求める心が起こることは当然である。この世の有様をみて厭うといっても、よもや厭うことはできない。日本の人々は、定めて大苦に値うことは目に見えており、まさに眼前のことである。文永9年(1272)2月の11日には、執権時宗の義兄・時輔が、謀叛を起こして亡びた。盛んであった花が大風に枝を折られるように、また清絹が大火に焼かれるようになったので、どうしてこの世を厭わない人があろうか。また文永11年(1274)の10月、蒙古の襲来の折の壱岐、対馬の島民が、一時に殺されたことも、どうして他人事と思えようか。当時も蒙古の討伐に向かった人々のなげきは、いかばかりであろう。年老いた親、幼い子、若い妻、そして大切な住み家をうち捨てて、意味もない海を守り、雲が見えれば、敵の旗かと疑い、釣船が見えれば、蒙古の兵船ではないかと肝を冷やす。日に一、二度は、山へ登って見張り、夜には三、四度敵が来たといって馬に鞍をおく。まさに現身に修羅道を感ずる日々である。
あなたがた兄弟がいま責められていることも、結局は国主が法華経のかたきとなっている故である。国主が法華経の敵(かたき)となることは、持斎、念仏者、真言師等の謗法からおこっているのである。今度、この難を耐え忍びぬいて、法華経の御利生を試してごらんなさい。日蓮もまた、強く諸天にいいましょう。決して怖れる心や姿があってはならない。女性は信心が弱いので、あなたがたの夫人達は、きっと心がひるがえっていることであろう。だがあなた方は信心強盛に歯をくいしばって難に耐え、たゆむ心があってはならない。例えば日蓮が平左衛門尉の所で、堂々と振舞い、いい切ったように、少しも畏れるような心があってはならない。北条氏との戦さで敗れた和田氏の子、時頼と戦って敗れた若狭守泰村の子、あるいは天慶の乱の平将門の家来、前九年・後三年の役の阿倍貞当の家来となった者は、仏になる道ではないけれども恥を思うゆえに命を惜しまなかった。これが武士の習いである。これということがなくても、一度は死ぬことは、しかと定まっている。したがって、卑怯な態度をとって、人に笑われてはならない。
語釈
尸毘王のはとは毘沙門天
尸毘王は、梵語でシビ(Śibi)、シビカ(Śibika)といい、安穏、与と訳す。釈尊の因位のとき菩薩として檀波羅蜜を行じたときの姿。鷹に追われた鳩が殺されようとしたとき、わが身を施して鳩を救ったという。このときの鳩は毘沙門天の変化で、王の慈悲心を試みたのである。なお鷹は帝釈天の変化であった。尸毘王については菩薩本生鬘論巻一、大荘厳論巻十二等にある。
清絹
生糸で織った綾、衣のこと。織目があらく軽くうすい織物。夏の装束に用いる。
わだが子
和田義盛(1147~1213)の一族。義盛は鎌倉幕府の初代侍所別当。幕府創業の功臣の一人として重んじられた。建仁3年(1203)源頼家から北条時政の追討を命ぜられたが、北条氏に内応し頼家を退け、源実朝を将軍に擁立した。しかし一族のなかに北条氏を敵視し排撃を企てた者が出て、建暦3年(1213)執権北条義時から処罰されるに到り憤激して兵を集め、北条氏邸を襲撃した。しかしこれは北条氏の謀計であったために戦いに利なく乱軍のなかに和田氏一門は戦死、滅亡した。和田氏の子供達は、その折、心をあわせ、団結して合戦した。
わかさのかみが子
三浦若狭守泰村(~1274)は鎌倉時代中期の武将。執権北条時頼の信任を受け、寛元4年(1264)名越光時の謀反の企てのときも、弟の三浦光村・家村が参加しようとしたのを抑制した。しかしこれを機に三浦氏と北条氏との間は次第に疎遠となり、時頼も安達景盛の勧めで三浦氏を亡ぼそうと決意するにいたった。翌宝治元年(1247)北条氏の軍勢が鎌倉の三浦氏邸を襲い、これに対し、泰村は一族を率いて頼朝の法華堂に立て籠もり、よく交戦したが敗れて、子と共に一族500余人は自刃した。
貞当
安倍貞任(1019~1062)。平安後期の陸奥の豪族。強力な地盤を背景に、朝廷に従わず、独立の風を強めたため、朝廷は源頼義、義家の親子に討伐を命じ、ここに前9年の役が起こった。貞任は父の頼時の死後、抵抗をやめず、天喜5年(1057)いったん義家を破ったが、康平5年(1062)、出羽の清原光頼、武則兄弟と同盟した朝廷軍に大敗し、本拠厨川柵(岩手県盛岡市付近)に逃れたが敗死した。
いろばしあしくて
卑怯な態度をとるの意。いろとは容子、態度のこと。ばしは強調、あしは悪い、卑賤等の意味がある。
講義
本章は、難にあったときの信心について指導されたところである。すなわち、難の起こったときこそ、本当の信心があらわれるのである。世間の人は、蒙古の責め苦にあって嘆き悲しんでいる。兄弟が責め苦にあっているのは、法華経を信ずる故である。
したがって、夫人共々に、どんな難が起ころうが歯をくいしばって耐えぬくように、かつての武士の姿をとおして激励されている。
石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる
真の人材は、難にあうことによって、ますます輝いてくるものである。難に対する心構えのできていない人は、難にあった時に破れ、堕ちていくのである。
いざという時に、自分の本来の姿があらわれるものである。困難にぶつかったとき、自分の本当の力が試されるのである。信心においても同じである。いかなる困難にも、これを試練として耐え抜いていくのが、本当の信心である。少しばかり難や障害にあったからといって、退転してしまうような信心であってはならない。むしろ、いっさいを試練として自己を鍛え、それを成長の糧としていく逞しさがなければならない。
「石」であるか、「金」であるかは、生まれつき決まっているものではない。妙法の信心それ自体が「金」である。あとは勇気であり、忍耐であり、苦難に対して戦う意欲があるか否かである。戦う意欲に燃えている者にとっては、どんな困難があっても、それはすべて自己を鍛える槌となる。すなわち、焼けば焼くほど真金の輝きを増していく。
自己の実力を向上させ、本物の力をつけるには鍛錬が大事である。マラソンにせよ、剣道、柔道にせよ、一流の力をつけるには、たゆまぬきびしい訓練が必要である。頭を鍛えるには、読書と思考が必要である。自己の生命そのものを鍛練するのは妙法である。
われわれの生命は鍛えなければ闇鏡のようなものである。迷いの生命、流転の人生となってしまう。しかし、日々精進してこの鏡を磨きぬいていけば、曇りなき法性の明鏡となっていく。
一生成仏抄にいわく「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(0384:04)と。
雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし
これは、帝釈や毘沙門天が羅刹、鳩の姿となってあらわれ、雪山童子、尸毘王の信心を試した譬えである。だが、再往は、雪山童子の例でいえば、いかなる大難、迫害にも屈することなく、強い信心をもって戦っていくならば、必ず、魔の張本人といえども、味方に変えていくことができるとの原理である。
また、鳩が毘沙門天に変わったという譬えは、無力な庶民にすぎなかった人が、力強い民衆の指導者へと成長し、人間革命していくこととも推せよう。それを可能にするものは、弱い者に対する限りない慈愛である。
経文によれば、尸毘王は、鳩を救うために鳩と同じ重さだけ、自分の肉をとって鷹に与えたという。真実の慈愛とは、そのように真剣であり、深いものである。この慈愛をもって臨んだときこそ、真実の人材を育てていくことができることを知らなければならない。
今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし
人は、自己の無力を知ったとき、なにかにすがりつきたい気持ちにおそわれる。たしかに、これも、宗教の一つの基盤である。それをもって、現代人のなかには、宗教とは弱い者のやることだと、バカにしてかかる風潮がある。だが、これはあまりにも傲慢であり、無知であるといわざるを得ない。
人間の力で、なんでもできるなどと思うのは、自分を知らない傲慢そのものである。現実には、人間は、自分自身をすら思うままに支配できない無力な存在なのである。大科学者といえども、自分の生んだ子の不良化を阻止することさえできなかったという例は、よく見聞されるところである。
愚かなのは、無力な人間ではなく、無力さを知らない人間である。人によって、力のある人、ない人の差はあっても、宇宙、自然から見れば、その差はまさに紙一重に過ぎないのである。むしろ、自分を知る人が、賢明な人というべきである。
さらに、人が宗教心を起こすことの基盤には、もう一つの面がある。それは、自己の力以上の何かをめざすとき、そこに宗教心が起きる。
もし、自分の力の限界は知っているが、所詮、それ以上のことはできないのだと諦めて、目的観もなく、向上の意欲もなく、ただ、その場その場を無事に過ごしていければよいというのは、すでに保守であり、要領主義あり、停滞である。
いっさいの進歩の原動力は、この前進、成長の意欲である。自己自身の変革と成長によって大目的を成就していこうというのが仏法の原理であり、精神である。道心とは、これをいうのである。
なにと・なくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ
生きとし生けるものが、もっとも恐れるのは死である。これは、あらゆる生物の、生存本能ともいえよう。
だが、いかなる人も、動物も、虫も、さらには植物も、永遠に死なないものは絶対にない。したがって、大事なことは、死から逃れようと努力することよりも、いかに人生を生きて死を迎えるかということである。
この、人生いかに生くべきかの根本問題に明快な答えを出したものが仏法である。ゆえに最高哲理の妙法を受持し、一歩も退くことなく、妙法の信心を貫き通した人生が、最高に意義ある人生であるといいたい。
むしろ、死を賭し、生涯をかけて求めるべきものが妙法であり、過去の真実の哲人、賢人が求め抜いたものも、また、妙法である。この折角の妙法の珠を抱きながら、目先の利益や命の惜しさに負けて、妙法の珠を捨てることは、本末転倒であり、愚かしい行為といえよう。これを「いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」と申されているのである。
第八章(伯夷・叔斉の例を引く)
本文
あまりに・をぼつかなく候へば・大事のものがたり一つ申す、白ひ叔せいと申せし者は胡竹国の王の二人の太子なり、父の王・弟の叔せいに位をゆづり給いき、父しして後・叔せい位につかざりき、白ひが云く位につき給え叔せいが云く兄位を継ぎ給え白ひが云くいかに親の遺言をばたがへ給うぞと申せしかば親の遺言はさる事なれどもいかんが兄を・をきては位には即くべきと辞退せしかば、二人共に父母の国をすてて他国へわたりぬ、周の文王に・つかへしほどに文王殷の紂王に打たれしかば武王・百箇日が内に・いくさを・をこしき、白ひ叔せいは武王の馬の口に・とりつきて・いさめて云くをやのしして後・三箇年が内にいくさを・をこすはあに不孝にあらずや、武王いかりて白ひ叔せいを打たんと・せしかば大公望せいして打たせざりき、二人は此の王をうとみて・すやうと申す山にかくれゐてわらびを・をりて命を・つぎしかば、麻子と申す者ゆきあひて云くいかに・これには・をはするぞ二人上件の事をかたりしかば麻子が云くさるにては・わらびは王の物にあらずや、二人せめられて爾の時より・わらびをくわず、天は賢人をすて給わぬならひなれば天・白鹿と現じて乳を・もつて二人をやしなひき、白鹿去つて後に叔せいが云く此の白鹿の乳をのむだにも・うまし・まして肉をくわんと・いゐしかば白ひせいせしかども天これを・ききて来らず、二人うへて死ににき、一生が間・賢なりし人も一言に身をほろぼすにや、各各も御心の内はしらず候へば・をぼつかなし・をぼつかなし。
現代語訳
余りに心配なので、大事な物語を一つお話し申しあげよう。
伯夷・叔斉という兄弟は胡竹国の王の二人の王子であった。父の王は弟の叔斉に王位をゆずったが、父王の死後、叔斉は王位につかなかった。そこで兄の伯夷が弟に「王位につきなさい」といった。だが叔斉は「兄さんが位を継いで下さい」といった。伯夷が「どうして親の遺言に反するのか」というと、弟の叔斉は「親の遺言はそうではありますが、どうして兄さんをさしおいて私が王位に即けましょうか」と辞退したので、伯夷・叔斉の二人は共に、父母の国を捨てて、他国に行ってしまった。
そして、二人は周の文王に仕えた。ところが、その文王は殷の紂王に討たれてしまったので、その子・武王は、父の死後、百か日の間に紂王討伐の軍をおこしたのである。そのとき伯夷・叔斉は武王の馬の口にとりついて諫め、「親が死んでのち、三年間の内に軍をおこすのは、親不孝ではありませんか」といった。それを聞いて武王は怒り、伯夷・叔斉を打ち取ろうとしたが、臣の太公望が、武王を制して打たせなかった。
伯夷・叔斉の二人は、この武王をうとんで、首陽山という山に隠れ、わらびを折ってこれを食べ、命をつないでいた。その山の中で二人が麻子という者にゆき会った時、その人が「どうしてここに居るのか」とたずねた。そこで二人は前のような話をしたところが、麻子は「それならば、そのわらびも王の物ではないか」と責めたのである。二人はそのように責められたので、その時から、わらびを食べなくなった。
天はもともと賢人を見捨てないことになっているので、天は白鹿となって現われ、乳で二人を養ったのである。しかしその白鹿の去ったのちに、叔斉は「この白鹿は乳でさえこれほどうまい、ましてその肉を食べたらどれだけうまいことだろう」といったので、伯夷は叔斉を制したが、天は叔斉の一言を聞き、以後二人の前に現われなかった。そのため二人は飢えて死んでしまった。一生の間、賢明であった人も、一言によって身をほろぼすのである。
今、難に当たって、あなたがた二人もその心の内が自分には分からないので、非常に心配をしております。
語釈
白ひ叔せい(伯夷叔斉)
中国周代初期、河北にあった小国・胡竹の二太子。この兄弟の故事に関する論評は、古くから多く、忠孝の手本とされている。
周の文王
中国周王朝の基礎をつくった君主、理想の名君とされている。姓は姫、名は昌。太公望をはじめ多くの名臣を集め、周囲の諸族を征服して都を鄷と定めた。生前は殷王朝に反旗をひるがえさなかったが、勢力は強大で、中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。死後、子の武王が殷王朝を滅ぼし、周王朝を建てるにおよんで、文王と諡された。
殷の紂王
殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
武王
中国周王朝の祖。名は発。殷の紂王の暴虐を見かねて、紂を討ち天下を統一して周王朝を創立した。自ら武王と名乗り、父を文王と謚した。鎬京に都をおき、弟の周公旦を補佐とし、太公望を師として善政をしいた。
大公望
周代の斉の始祖。姓は姜、氏は呂。魚釣りの貧しい老人の身なりをして各地を放浪し、世を避けていたが、渭水で釣りをしていたところ、周の西伯に会い、先君太公が久しく待ち望んでいた賢人であると、懇望されて西伯に仕えた。西伯の死後は、西伯の子・発を助けて殷を討ち、天下を平定した。
すやうと申す山
中国山西省南西部を走る中条山脈の主峰中条山の南にある山の名といわれている。
麻子
十八史略によると、女性であったらしい。
講義
これまでのところで、大道心を奮い起こして強盛な信心に励むよう、指導されてきたが、この第八章から第11章にかけて、伯夷・叔斉の故事、釈尊の出家のときの事、仁徳・宇治両皇子の事、施鹿林の隠士の事などの物語を次々と引かれて、兄弟二人の信心を激励されている。
この章のはじめに「あまりに・をぼつかなく候へば」と仰せられていることからして、信心の強い兄のほうはともかく、弟の宗長はいつ離れてしまうかも知れず、大聖人はたくさんの例を引いて兄弟二人は団結してがんばり抜くよう、励まされたのである。
この伯夷・叔斉の例は、昔から忠孝の手本として伝えられてきたものである。あらゆる苦難にたえて兄弟二人が団結して徳に生きてきたが、最後に弟が不用意にもらした一言によって身を亡ぼしてしまった。「一生が間・賢なりし人も一言に身をほろぼすにや」の一節は、大事な教訓である。
どんなに長年のあいだ努力してきたとしても、最後の一言で失敗してしまったならば、それまでの功は全て水泡に帰してしまう。
十字御書にいわく「わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる」(1492:04)と。
信心もまた、最後の最後まで貫き通すことが大事である。ここまでやったのだから、もう充分だということはない。本果妙ではなく本因妙の仏法である。結局、奥底の一念が信心から離れたときに、退転があり、堕落があるといえよう。
第九章(真実の孝養を説く)
本文
釈迦如来は太子にて・をはせし時・父の浄飯王・太子を・をしみたてまつりて出家をゆるし給はず、四門に二千人の・つわものをすへて・まほらせ給ひしかども、終に・をやの御心をたがへて家を・いでさせ給いき、一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か、されば心地観経には孝養の本をとかせ給うには棄恩入無為・真実報恩者等云云、言は・まことの道に入るには父母の心に随わずして家を出て仏になるが・まことの恩をほうずるにてはあるなり、世間の法にも父母の謀反なんどを・をこすには随わぬが孝養とみへて候ぞかし、孝経と申す外経に見へて候、天台大師も法華経の三昧に入らせ給いて・をはせし時は父母・左右のひざに住して仏道をさえんとし給いしなり、此れは天魔の父母のかたちをげんじてさうるなり。
現代語訳
釈迦如来が、太子であられたとき、父の浄飯王は、太子を惜しんで出家を許されなかった。そして城の四方の門に二千人の兵士を配置して、守らせたけれども、釈迦如来は、ついに王の心にそむいて、家を出られたのである。いっさいのことは、親に随うべきではあるが、成仏の道だけは、親に随わないことが孝養の根本といえるであろう。
それゆえに、心地観経には孝養の根本を説いて「恩愛の情を棄てて無為(仏道)に入る者が、真実の報恩の者である」等といっている。
この言葉の真意は、真実の仏道に入るには、父母の心に随わないで、家を出て成仏することが、真実の恩を報ずることになるというのである。世間の道理にも、父母が謀反などを起こすようなときには、随わないのが孝養とされているのである。儒教の孝経という経にそのことが出ている。天台大師も法華経の三昧に入られていたときには、父母が、左右の膝に取り付いて、仏道修行を妨げようとしたのである。これは第六天の魔王が、父母の姿を現わして、妨げたのである。
講義
一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か
真実の孝養を明かされた文である。一般には親の意にすべて随うことが孝養であると思われている。だが、仏になる道は、親が信心を妨げるとき、親に随わず、仏道を行ずることが仏となる道であり、真実の孝養であるとの教えである。なぜかならば、最高の仏法によって、自分自身の一生成仏とともに、親の成仏も決定していくことができるからである。
親孝行については、古くから内典、外典ともに説かれてきた。外典では、三皇・五帝・孔子・老子・顔回等の古(いにしえ)の賢人が四徳を修せよと説いている。四徳とは、一には父母に孝あるべし・二には主に忠あるべし・三には友に会いて礼あるべし・四には劣れるに逢いて慈悲あれの四つである。
内典、すなわち、仏教の経典では四恩を報ぜよと説いている。心地観経には、四恩を、一には父母の恩、二には国主の恩、三には一切衆生の恩、四には三宝の恩の四つであると説かれている。
すなわち、外典の四徳、仏典の四恩、ともに、その第一に「父母の孝養」が説かれているのである。
だが、第一にかかげてあるとはいえ外典の父母の孝養については大聖人も「たとひ親はものに覚えずとも・悪さまなる事を云うとも・聊かも腹も立てず誤る顔を見せず・親の云う事に一分も違へず・親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度えみて向へとなり」(1527:上野殿御消息:01)と述べているごとく、親に衣服を与えること、あるいは親の意に違わないことといった道徳的な一面のみを説いているにすぎない。なぜ親に孝養するのかという究極も説かず、その孝養の方法にしても、表面的、形式的な人生論しか示していないのである。
さらに、仏法に説く四恩についても「華厳経を尋ぬれば……然る間・四恩を報ずべきかと思ふに女人をきらはれたる間・母の恩報じがたし、次に仏・阿含・小乗経を説き給いし事・十二年・是こそ小乗なれば我等が機にしたがふべきかと思へば・男は五戒・女は十戒……と説きたれば・末代の我等かなふべしとも・おぼえねば母の恩報じがたし……」(1527:上野殿御消息:18)とあるように、釈尊の説いた50年の説法のうち、42年の経々には、女人は夜叉の如しと嫌われたり、二乗の成仏はかなわぬとして、全てのものに平等に成仏が許されてはいなかった。したがって、真実の父母の恩を報ずることはできなかった。
釈尊は一代聖教の最後に法華経を説き、この法が、全ての人を救い、父や母をも救うことができると、真実の孝養の道を示されたのである。
上野殿御消息にいわく「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(1528:09)と。
さらに日寬上人は「他宗門のごときは、たとい一代聖教を胸に浮かべたとしても、決して仏法を習いきわめたとはいえない。これ、三重秘伝を知らず、権実、本迹、種脱に迷乱しているからである。しかるに当門の学者は、じつに一迷達の日蓮大聖人の御跡を忍ぶゆえに、初めから、このことを知るゆえに、その義、仏法を習いきわめたことになるのである。……無知の男女は、ただ本門の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉るのが、じつに、この大恩を奉ずることになるのである」と述べられている。このように、真実の父母への孝養は、三大秘法の仏法を信じ、その力によって、自分ともども父母を救っていくことになるのである。
また仏法においては、親孝行について、下品・中品・上品の孝養を説いている。
「孝養に三種あり、衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」と。
三大秘法の大仏法を持ち、親を折伏して正法に帰依させ、また亡き親に対しても、朝に晩に正法をもって回向することが最高の親孝行といえるのである。
父母は尊ぶべきであっても、凡夫であることに変わりはない。したがって、父母の意をすべて真であるとすることはできないのである。仏法という偉大な宗教を持ち、それによって父母を導き、幸せにしていくことが、真実の親孝行である。
また、親に反対されたり、家族に反対のものがあっても、はじめに信心したものが、しっかり信心修行に励み、自分の生活に御本尊の功徳を証明していくならば、反対の家族や親も、ともに信仰できるようになり、最高に幸福な家庭を建設することができる。これが最高の親孝行である。
池上兄弟も、幾多の迫害、兄宗仲の二度にわたる勘当にもめげず、二十余年にわたる反対の父康光を、弘安元年(1278)に入信させたことは、この大聖人の「仏道修行こそ孝養の道」の指導を見事に実践しきった姿といえる。
第十章(故事を引いて兄弟の同心を励ます)
本文
白ひすくせいが因縁は・さきにかき候ぬ、又第一の因縁あり、日本国の人王・第十六代に王をはしき応神天王と申す今の八幡大菩薩これなりこの王の御子二人まします嫡子をば仁徳・次男は宇治王子・天王次男の宇治の王子に位をゆづり給いき、王ほうぎよならせ給いて後・宇治の王子の云く兄位につき給うべし、兄の云く、いかに・をやの御ゆづりをば・もちゐさせ給わぬぞ、かくのごとく・たがいにろむじて、三箇年が間・位に王をはせざりき、万民のなげき・いうばかりなし・天下のさいにて・ありしほどに、宇治の王子云く我いきて・あるゆへにあに位に即き給わずといつて死させ給いにき、仁徳これを・なげかせ給いて又ふししづませ給いしかば、宇治の王子いきかへりて・やうやうに・をほせをかせ給いて・又ひきいらせ給いぬ、さて仁徳・位につかせ給いたりしかば国をだやかなる上しんら・はくさひ・かうらいも日本国にしたがひて・ねんぐを八十そうそなへけると・こそみへて候へ。
賢王のなかにも・兄弟をだやかならぬれいもあるぞかし・いかなるちぎりにて兄弟かくは・をはするぞ浄蔵・浄眼の二人の太子の生れかはりて・をはするか・薬王・薬上の二人か、大夫志殿の御をやの御勘気はうけ給わりしかどもひやうへの志殿の事は今度は・よも・あにには・つかせ給はじ・さるにては・いよいよ大夫志殿のをやの御不審は・をぼろけにては・ゆりじなんど・をもつて候へば・このわらわの申し候は・まことにてや候らん、御同心と申し候へば・あまりの・ふしぎさに別の御文をまいらせ候、未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき。
現代語訳
伯夷・叔斉の因縁故事は、さきに書いた。また、この他にも大切な因縁故事がある。日本国の第十六代に応神天皇という王がいた。今の八幡大菩薩がこの王である。この王に御子が二人あり、嫡子を仁徳、次子を宇治の王子といった。ところが天皇は第二子の宇治の王子に位を譲られたのである。しかし、天皇が崩御されたのち、宇治の王子は「兄君が位につかれるべきである」といった。しかし兄の仁徳は「どうして親の決められた譲位を受けられないのか」といって辞退した。このように互いに譲り合って、三年の間、国位に天皇はいなかったのである。万民の嘆きは、いいようもなく大きく、天下の災禍となってしまった。そのとき宇治の王子は「私が生きているから、兄君が位につかれない」といって、亡くなられたのである。兄の仁徳はこれを嘆かれて、うち沈んでおられたので、宇治の王子が生きかえって、兄が位に即くようにいろいろと言い置かれて、また息をひきとられた。そののち、仁徳が天皇に即かれたので、国内は穏やかになった上、新羅、百済、高句麗も日本国に従って、年貢を八十艘の船にそなえて貢いだと記録にみえている。
賢王のなかでも、兄弟の仲が穏かでない例もある。だがどのような契によって、あなた方兄弟はこのように仲がよいのであろうか。淨蔵・浄眼の二人の太子の生まれかわりであろうか。それとも薬王・薬上の二人の生まれかわりであろうか。大夫志殿が父親の勘当を受けられたけれども、兵衛志殿は、今度はよもや兄の側につかれないであろう。そうであれば、ますます大夫志殿に対する父上の不審はつよくなって並み大抵のことでは勘当を許されないであろうと思っていたところが、この鶴王という童子がいっていたことは本当であろうか。兵衛志殿も兄と同じく信心を貫く決意であるというので、あまりの不思議さに感嘆し、別のお手紙を差し上げました。兄弟二人の信心は未来までの物語として、これ以上のものはないであろう。
語釈
嫡子
兄をさす上代語。兄または姉をあらわす「え」に、親愛の意味をあらわす接頭語「いろ」を冠したもの。ここでは兄君との意。なお次男は弟君の意。
仁徳
わが国の第十六代天皇。生没年不明。応神天皇の第四子。名は大鷦鷯尊。天皇の崩御後、異母弟莵道稚郎子(宇治王子)と三年の間皇位を互譲しあっていたが、稚郎子の自殺により大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位し、都を摂津の難波に定めた。即位後、仁徳天皇は大いに徳政を行なった。すなわち、高台に登って戸々のかまどの煙をながめ、その疎なるところから民の貧困を知り、「今より三年に至るまで、ことごとに人民の課、役を除せ」といって3年の間租税を免除した。そのため自らの住む大殿は雨漏りがして器で雨を受けたものの、修理もせず不自由な生活に堪えた。この結果、3年後に再び高台にから眺めると煙の盛んなるのを見て大いに喜んだという。
浄蔵・浄眼
法華経妙荘厳王本事品第二十七に説かれている。過去の雲雷音宿王華智仏の時代に光明荘厳という国があり、その時の王を妙荘厳王、その夫人を浄徳、二人の子供を浄蔵・浄眼という。この二子は、仏の教えを信じ、無量の功徳を得て、母の浄徳夫人と共に出家して、仏のもとで修行した。その後、外道を信じていた父を化導するため、父の前でいろいろな神通力を現じてみせ、ついに仏の教えに帰依させることができた。この二人の姿こそ、真の親孝行であり、大善を意味する。さらに、その因縁をたずねると、むかし仏道を求める四人の道士がいた。生活を送るのに煩いが多く、修行の妨げとなるので、一人が衣食の方を受けもち、他の三人は仏道修行に励んで得道したという。陰で給仕した者がその功徳によって国王と生まれ、他の三人は、その夫人と、二人の王子に生まれて、王を救うことを誓った。これが浄徳夫人であり、浄蔵・浄眼の二人の子供で、三人で妙荘厳王に仏道を得さしめ、過去世の恩を返したのであった。
薬王・薬上
浄蔵・浄眼の兄弟の後身であることが、法華経妙荘厳王品に明かされる。また観薬王薬上二菩薩経によると、瑠璃光照仏の滅後、日蔵比丘が正法を宣布した。時に長者あり、兄を星宿光といい、弟を電光明と名づく。兄弟の長者は日蔵に従って仏慧を聞き、雪山の上薬を採って日蔵と衆僧に供養し、未来世において、衆生の身心の二病を治せんと誓願を立てた。釈迦仏は、その時の星宿光が今の薬王、電光明が薬上であると明かし、釈迦仏は弥勒菩薩に、彼らは未来に浄眼・浄蔵という如来になるであろうと告げたと説いている。薬王菩薩のみについては、法華経の他の箇所にも、さまざまに説かれている。法華経の会座に列しては、迹門流通の対告衆の上首となっており、薬王品には、因位の修行のとき七万二千歳のあいだ臂をやいて仏に供養したことを説き、陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓っている。
講義
本章もまた、過去に兄弟が団結して戦った例をあげて、二人を激励されたところである。まず、前半で、応神天皇の二人の王子の兄弟愛により一国が平和に治まり、外国にまでその威信が響いたことを説かれている。これは、王法の例をもって、兄弟の堅い団結が最も大切であることを示されたものであろう。
後半では、池上兄弟二人の異体同心の戦いを賞でられるとともに、その宿縁の深さについて説かれている。「浄蔵・浄眼の二人の太子の生れかはりて・をはするか」と仰せられて、過去に淨蔵・淨眼の兄弟が団結して父・妙荘厳王を救ったごとく、あなた方兄弟二人も、しっかり団結して、父・康光を救っていきなさい、と激励されたのである。
すでに、何回も述べてきたように、弟の宗長は、信心が弱かったので、いつ退転するかわからない状態であった。兄の宗仲と父・康光との間がどうやらおさまっていた時ならともかく、勘当という最悪の状態となって、もはや弟の信心もくずれてしまうだろうと、大聖人が心配していた時、予想に反して、その勘当後も、兄弟団結して戦っている旨を聞き、大聖人のお喜びは大きかったのであろう。
「このわらわの申し候は・まことにてや候らん、御同心と申し候へば・あまりの・ふしぎさに別の御文をまいらせ候、未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき」の一節は、大聖人が弟・宗長のふるまいを心から喜ばれ、さらにがんばり抜くよう全魂こめて励まされたところである。かく激励された宗長の感激もひとしおであったであろう。ここ一番という大事な時に、御本尊を信じ、大勇猛心をふるいおこして三類の強敵、三障四魔と対決し、それを乗りこえていく人が、真の勇者であるといいたい。
第十一章(隠士・烈士の故事を引く)
本文
西域と申す文にかきて候は月氏に婆羅痆斯国・施鹿林と申すところに一の隠士あり仙の法を成ぜんとをもう、すでに瓦礫を変じて宝となし人畜の形をかえけれどもいまだ風雲にのつて仙宮にはあそばざりけり、此の事を成ぜんがために一の烈士をかたらひ長刀をもたせて壇の隅に立てて息をかくし言をたつ、よひよりあしたにいたるまで・ものいはずば仙の法・成ずべし、仙を求る隠士は壇の中に坐して手に長刀をとつて口に神呪をずうす約束して云く設ひ死なんとする事ありとも物言う事なかれ烈士云く死すとも物いはじ、此の如くして既に夜中を過ぎて夜まさにあけんとする時、如何が思いけん烈士大に声をあげて呼はる、既に仙の法成ぜず、隠士烈士に言つて云く何に約束をばたがふるぞ口惜しき事なりと云う、烈士歎いて云く少し眠つてありつれば昔し仕へし主人自ら来りて責めつれども師の恩厚ければ忍で物いはず、彼の主人怒つて頸をはねんと云う、然而又ものいはず、遂に頸を切りつ中陰に趣く我が屍を見れば惜く歎かし然而物いはず、遂に南印度の婆羅門の家に生れぬ入胎出胎するに大苦忍びがたし然而息を出さず、又物いはず已に冠者となりて妻をとつぎぬ、又親死ぬ又子をまうけたり、かなしくもありよろこばしくもあれども物いはず此くの如くして年六十有五になりぬ、我が妻かたりて云く汝若し物いはずば汝がいとをしみの子を殺さんと云う、時に我思はく我已に年衰へぬ此の子を若し殺されなば又子をまうけがたしと思いつる程に声をおこすと・をもへば・をどろきぬと云いければ、師が云く力及ばず我も汝も魔に・たぼらかされぬ終に此の事成ぜずと云いければ、烈士大に歎きけり我心よはくして師の仙法を成ぜずと云いければ、隠士が云く我が失なり兼て誡めざりける事をと悔ゆ、然れども烈士師の恩を報ぜざりける事を歎きて遂に思ひ死にししぬとかかれて候、仙の法と申すは漢土には儒家より出で月氏には外道の法の一分なり、云うにかひ無き仏教の小乗阿含経にも及ばず況や通別円をや況や法華経に及ぶべしや、かかる浅き事だにも成ぜんとすれば四魔競て成じがたし、何に況や法華経の極理・南無妙法蓮華経の七字を始めて持たん日本国の弘通の始ならん人の弟子檀那とならん人人の大難の来らん事をば言をもつて尽し難し心をもつて・をしはかるべしや。
現代語訳
大唐西域記という本に次のように書いてある。インドの婆羅痆斯国・施鹿林というところに、一人の隠士がいた。この隠士は仙の法を成就しようと考えていた。すでに瓦礫を変えて宝となし、人畜の形を変える力を持つにいたったのであるが、まだ風雲に乗って仙宮に遊ぶことはできなかった。そこで、このことを成しとげるために、一人の烈士を説いて協力を得、これに長刀を持たせて、壇の隅に立たせ、息をひそめ、言葉を断った。
宵から次の朝にいたるまで、ものをいわないならば、仙の法を成就することになっている。仙の法を求める隠士は、壇のなかに坐って、手に長刀をとり、口に神呪を誦し、烈士にいうには「たとえ、死ぬようなことがあっても、ものをいってはならない」と。それに応えて烈士は「死んでも、ものをいいません」と誓った。このようにして、すでに夜中を過ぎて、夜がまさに明けようとするとき、なんと思ったのであろうか、烈士は大声をあげて叫んだのである。この一声で、もう仙の法は成就しなかった。そこで隠士は烈士にいった。「どうして約束を違えたのか、残念なことだ」と。
烈士が歎いていうには「少し眠っていたら、昔仕えた主人が自らやって来て、私を責めたけれども、師の恩が厚いので、忍んでものをいわなかった。そこで、その主人は怒って首をはねるぞと脅した。だがまた、ものをいわなかった。主人は遂に私の首を斬った。中陰に向かう自分の屍を見ると、残念で歎かわしかった。しかし、ものはいわなかった。次に南インドの婆羅門の家に生まれた。入胎出胎するときの大苦は忍びがたかった。だが息を出さずものもいわなかった。やがて若者となって妻を娶った。また親が死に、さらに子を儲けた。悲しくもあり、悦しくもあったけれども、ものをいわなかった。このようにして、年六十有五になった。わが妻が言った。『あなたが、もしものをいわなければ、あなたの子を殺します』と。そのとき私は思った。〝私はすでに年老いた。この子をもし殺されたならば、また子を儲けることは難しい〟と思ったので声を発したと思ったら、目を覚ました」と。
師の隠士は「力が及ばなかった。私もお前も、魔にたぼらかされた。とうとう、事を成ずることができなかった」といったので烈士は大いに歎いた。そして「私の心が弱かったために、師の仙法を成就することができなかった」といったので、隠士は「私のあやまちである。あらかじめ、誡めておかなかったことが失敗だった」と悔いた。しかし烈士は、師の恩を報ずることができなかったことを歎いて、遂に思いつめて死んだと書かれている。
仙の法というのは、漢土では儒家から出ており、インドでは外道の法の一つである。したがって、とるに足らない仏教の小乗阿含経にすら及ばない。まして、通教、別教、円教には及ばない。まして法華経には及ぶべくもない。このような浅いことでさえも、成し遂げようとすれば、四魔が競って成就しがたい。ましてや法華経の極理である南無妙法蓮華経の七字(御本尊)を初めて持ち、日本国の弘通の最初となる人(日蓮)の弟子檀那となる人々に大難が来るだろうことは、言葉でいい尽くしがたい。また心をもっても推し測ることはできない。
語釈
婆羅痆斯国・施鹿林
婆羅痆斯は波羅奈国と称し、中インドにあった国。日本ではベナレスと呼ぶが、ヒンドゥー語でバラナシである。施鹿林は鹿野苑の別名で、釈尊が成道後はじめて四諦の法を説いた場所である。
隠士・烈士
隠士とは、世俗を逃れて、山林に隠れている人。烈士とは、利のために動かされず、威のために屈しない節義の堅い士のこと。
中陰
人の死後、四十九日間の称。現世の生の終わりから再び来世に生をうけるまでの間。中有に同じ。
講義
隠士・烈士について
これは仙の法を成就しようとした隠士と烈士の物語である。日蓮大聖人がこの物語を引かれたことについて、二つの意味が拝される。
その一つは、このような外道の修行にさえも魔が競う。まして、最高の哲理である妙法を持つならば大難が起こるのは当然であるということ。その二は、仏道修行は最後までやりきらなければ、なんの意味もないということである。
われわれが何か目標を立てて、それを成し遂げようとする時、そこには自己自身との戦いがある。前進、成長への強い実践を妨げようとする煩悩が常に心の中に起こってくるのだ。
例えば、ある大学の受験を決意したとする。そして、この人はその大学に合格することを目標として勉強を始める。この時、必ず勉強を妨げるさまざまな困難がこの人を襲うに違いない。眠い、疲れたなどの単純な問題から、スランプ、体調の不振、思わぬ事故、あるいは「自分は能力がないのではないか」等の自己の力への疑惑等と。これと最後の瞬間まで戦っていかなくては、その目標は成就しない。
別に、大学受験に限らず、このようなかことは、日常に多く経験されることである。いや、人生は全て、根本的には常に自己の成長を阻む魔との対決のなかにあるといっても過言ではない。そしてここに人生の勝利と破北との別れ道がある。いわんや、仏法は、根本的人間変革の法である。魔が競い起こらないわけがない。
しかもまた、一つのことも最後までやりきってはじめて成就したといえるのである。われわれは目標の60%ぐらいできると、これ位でいいのではないかと自己満足することがある。だが、60%の成就というのはありえない。100%やりきって初めて成就したといえよう。むろん、どのような戦いにも、最終的な目標とその目標を達成するために中途に設けられた中小目標がある。山登りでいえば、最初の拠点となるベースキャンプと、頂上までの間にいくつか設けるキャンプがそれである。一挙に登頂ができない場合には、途中のキャンプが必要であるが、そのキャンプをいくら作っても頂上をきわめない限り、登頂成功とはいえない。
建設中の家には住めないし、住めないような家は未だ家とはいえない。たんに、家のようなかっこうをしたものにすぎない。成仏も同じであり、半分成仏したとか、成仏しかけたなどということはありえない。瞬間瞬間の生命が仏界を湧現しているか、そうでないかのいずれかであり、中途半端はない。したがって、仏道修行は一生が勝負であり、信心は全うしきらなければ意味がない。
ともあれ、中小目的で満足し、大目的を忘れ去ることは、岩壁の下まで来て、そこで力尽き、自己満足して帰ってしまうようなものである。大目的は広宣流布達成であり、それ以外の目標はこれを成就するための中小目的と定めて、広宣流布と一生成仏の大願成就を目指しての人生でありたいものである。
第十二章(三障四魔出来の原理を明かす)
本文
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事・一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年・南北の十師・智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり、此の法門は漢土に始るのみならず月氏の論師までも明し給はぬ事なり、然れば章安大師の釈に云く「止観の明静なる前代に未だ聞かず」云云、又云く「天竺の大論尚其の類に非ず」等云云、其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。
此の釈に三障と申すは煩悩障・業障・報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障礙出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競へる人あるや、之に随えば将に人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とかけり、されば法華経を除きて華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等なり、天台宗を除きて余の七宗の人人は人を悪道に向わしむる獄卒なり、天台宗の人人の中にも法華経を信ずるやうにて人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒なり。
現代語訳
それ故、天台大師の摩訶止観という書は、天台大師一生の大事、釈尊一代聖教の肝心を述べたものである。仏法が漢土に渡って五百余年、当時の南三北七の十師達は、智は日月に等しくたとえられ、徳は四海に響いていたけれども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第について迷っていたのを、天台智者大師が五時八教の判釈をもってふたたび仏教を明確にされたばかりでなく、妙法蓮華経の五字の蔵の中から、一念三千の如意宝珠を取り出して、インド・中国・日本の一切衆生に広く与えられたのである。この天台の法門は、漢土に始まるばかりでなく、インドの論師さえ明かさなかったことである。それ故、章安大師は止観を釈していうには「摩訶止観ほど明らかで誤りのない法門は、前代にいまだ聞いたことがない」、また「インドの大論も、なおその比較の対象にならない」等といっている。そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。故に、この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻には「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる。(中略)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮の身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである。
止観の三障というのは、煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、おのおのの生命にある貪・瞋・癡等によって、仏道修行の障礙があらわれるのである。業障というのは、妻や子等が仏道の障礙とあらわれることである。報障というのは、国王や父母等が障礙とあらわれるのである。また、四魔のなかで、天子魔というのもこの報障と同様である。今、日本国には、われも止観を体得した、われも止観体得したという人々のうち、誰に一体三障四魔が競い起こっているであろうか。止観のなかに、「三障四魔に随うならば、まさに人を悪道に向かわせる」というのは、ただ三悪道ばかりではなく、人界・天界、そして九界を皆悪道と書かれているのである。それ故、法華経を除いて、華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等は皆、人を悪道に向かわせる法である。天台宗を除いて、ほかの七宗の人々は人を悪道に向かわす獄卒である。だが天台宗の人人の中にも法華経を信ずるようでいて実際は人を爾前の教えへ向かわせる者は人を悪道に行かせる獄卒である。
語釈
章安大師
(0516~0632)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し結集した。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、7歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して観法をうけて常随給仕し所説の法門をことごとく領解した。その聴受し筆録したものは、天台三大部(文句・玄義・止観)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。さらに師が亡くなってから「涅槃玄義」「涅槃経疏」を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年(0632)月7日、天台山国清寺で72歳にして寂した。弟子智威に法灯を伝えた。
三障・四魔
仏道修行を妨げ善心を害する三種の障りと四種の魔のこと。三障は①煩悩障(貪瞋癡等の惑によって起こる障)、②業障(五逆・十悪等によって起こる。また妻子等によって起こる障)、③報障(三悪道・謗法・一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国王や父母、権力者からの障礙)である。四魔は①煩悩魔(貪瞋癡等の惑によって起こる魔)、②陰魔(衆生は五陰の仮和合したものであるからつねに苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とする)、③死魔(死の苦悩で、死がよく命根を断つので魔という)、④天子魔(他化自在天子魔の略称。他化自在天王がよく人の善事・善行を害すること。権力者による迫害等がこれにあたる)である。
講義
本章は、仏道修行の根本指針を示された段であり、この「兄弟抄」の中でも、とくに重要な中核をなす部分である。一往、天台仏法に例を借りて説かれているが、末法の未来が正意であられたことは「門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」との仰せによっても疑う余地がない。
天台大師は、五時八教の教判を明らかにして、釈尊一代仏教の中で、法華経が最第一であることを宣揚した。これによって、当時、中国にはびこり、おのおの勝手な義を唱えていた南三北七の各流派は、ことごとくその立義を打ち破られたのである。
さらに、天台大師は、この釈迦一代仏教の肝心たる法華経の中から、百界千如・一念三千の法門を取り出し、像法の時にかなった修行として、一心三観・一念三千の観念観法を打ち立てた。天台大師が、薬王の再誕といわれ、像法の正師、小釈迦と称えられるのは、まさに、この一念三千の法門ゆえである。
客観的にみても、生命について、これほど厳密に、鋭く、深く分析し、その相貌を明らかにし、しかして壮大な理論体系を打ち立てたものは、他に例がない。
だが、天台の一念三千といっても、あくまでも、それは観念観法によって己心に描くのである。その一念三千の相貌は、末法に入って、日蓮大聖人が御出現になることにより、はじめて樹立されるのである。
観心本尊抄にいわく「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254:18)と。ここに「仏」とは末法の御本仏たる日蓮大聖人御自身であり、「五字」とは三大秘法の御本尊である。
したがって「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずば正法と知るべからず」と仰せの「此の法門」とは、事の一念三千たる三大秘法の大白法をさす。事実、天台大師自身も、天台の正義を受けついだ妙楽や伝教等も、三障四魔を身に受けてはいない。まさに、三障四魔紛然の天台の言葉を、事実の上に読まれたのは、日蓮大聖人にほかならないのである。
いま本文に「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」と申されているのもこのことを述べられているのである。師たる日蓮大聖人の御生涯が三障四魔との激闘の連続であったように、大聖人の弟子として、末法の大仏法を受持した門家一同も、また、三障四魔との戦いの人生であることは、当然、覚悟の上でなくてはなるまい。
兵衛志殿御返事にいわく「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091:15)と。
魔競はずば正法と知るべからず
この文は「魔が競わなければ、その法が正法であると知ることはできない」の意ともとれるが、むしろ、前文の「この法門を申すには必ず魔出来すべし」を受けて「魔が競うようでなければ正法と思ってはならない」という、強い意味が含まれていると拝すべきである。
三障四魔については、本章で詳しく明かされている通りであるが、三沢抄には「仏にならむとする時には・かならず影の身にそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す、設ひ・からくして六は・すぐれども第七にやぶられぬれば仏になる事かたし、其の六は且くをく第七の大難は天子魔と申す物なり」(1487:09)とあり、三障四魔のなかでも、天子魔がもっとも強い魔であると示されている。この天子魔は第六天の魔王より起こるものである。
では、魔はどのようなものであるのか。魔の本性とはなにか。これはすでに論じたので、ここでは仏法の上から簡単にふれておきたい。治病大小権実違目には「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)とある。また祈祷抄には「元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入って、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり」(1346:02)と説かれている。
われわれの生命にはもとももと、法性と無明とが共に内在している。むしろ、法性も無明も一体であり、生命それ自体のあらわれ方の違いなのである。この根本の迷いである元品の無明が、第六天の魔王の働きとなって顕われるのである。
所詮、魔といえども、どこか他の世界からやってくるのではなく、信心修行する者の生命自体の働きによるのである。信心して幸福になっていこうという生命の働きと、一方において、これを妨げる魔の働きとが絶えず争っているのである。
また、魔というのは、前にも述べたごとく向かい風であるとたとえられよう。一般的にも、運動する物体には必ず、その運動を阻止しようとする抵抗力が働くのは当然の道理である。運動力学では、その抵抗力は速度に比例するものとして表わしている。無風状態のときに、ただ歩いていても何も感じないが、自転車に乗って走ると空気の抵抗を身体で感じ取ることができる。さらに、音速に近いジエット機などの場合は、いわゆる「音速の壁」という巨大な抵抗のショックがあるという。
これと同じように、三大秘法の御本尊を受持したときに、必ず魔が競ってくるというのは、まさしく、われらが一路、幸福境涯へとまっしぐらに進まんとするがゆえに、その前進を阻もうとする抵抗力であり、反作用ともいえる。したがって、こうした働きがあらわれること自体、仏法の正しさを証明しているのである。所詮、魔があるということは、幸福へ向かって、邁進している証拠ともいえる。大事なのは、魔を打ち破るだけの、強い信心に立つことである。
御義口伝には「此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751:15)とある。
人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とかけり
十界のなかで、真実の善道は仏界以外にないということである。所詮、九界は迷いの境涯であり、理想的な人格の完成、一切を見とおした智慧の獲得にははるかに遠い。
したがって、十界のなかで、悪道を地獄・餓鬼・畜生の三悪道、修羅を加えて四悪趣と限り、他の善道とするのは、仏道哲学の立ち場からの浅い見方にすぎない。また、人天までを六道輪廻の迷いの境涯とし、声聞・縁覚以上を四聖と称するのも、小乗教の低い生命観である。
声聞・縁覚・菩薩といっても、まだ煩悩を打ち破ってはいない。これらを現代的に考えると、声聞とは、仏法の導師について修行で得た喜びであり、縁覚とは、自らが仏道を修めて真実を究めたときの幸福観でもある。また、菩薩とは、仏法根本に人を助け、社会に貢献することによって得られる満足感ともいえる。
しかし、こうした声聞・縁覚・菩薩の幸福は、それ自体、まだまだ微弱なものであり、その基盤ももろい。
自分はただ、人の身を思って善行をしたつもりでも、世間からは、売名のためだと悪口をいわれることもあろう。助けてあげた相手に裏切られることもあるかもしれない。幸福は一転して、失意と絶望と憤りに、変わってしまうであろう。
このように、九界の範疇にとどまる限り、その幸福は、外部の条件によって左右される一時的な幸福であり、流動的で、千差万別に変化していくのである。したがって、そこに向かわせるものは、それ自体が悪であり、魔の所為にほかならない。
自己自身の完成による、したがって、外部の条件によって変えられることのない、絶対的に崩れない幸福境涯を仏界というのである。これを明かしたのが法華経の開三顕一であり、この仏界の境涯を会得する法が本門文底の三大秘法である。
ゆえに、三大秘法の仏法を持つことを妨げ、成仏の直道を断とうとするものが、「悪道に人をつかはす獄卒」であることを知らねばならない。反対に、三大秘法の仏法を人に持たせ、成仏の直道へ入らしめる人は、仏の使いである。
第十三章(兄弟とその夫人たちの信心を激励する)
本文
今二人の人人は隠士と烈士とのごとし一もかけなば成ずべからず、譬えば鳥の二つの羽人の両眼の如し、又二人の御前達は此の人人の檀那ぞかし女人となる事は物に随つて物を随える身なり夫たのしくば妻もさかふべし夫盗人ならば妻も盗人なるべし、是れ偏に今生計りの事にはあらず世世・生生に影と身と華と果と根と葉との如くにておはするぞかし、木にすむ虫は木をはむ・水にある魚は水をくらふ・芝かるれば蘭なく松さかうれば柏よろこぶ、草木すら是くの如し、比翼と申す鳥は身は一つにて頭二つあり二つの口より入る物・一身を養ふ、ひぼくと申す魚は一目づつある故に一生が間はなるる事なし、夫と妻とは是くの如し此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ、一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし、此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生に仏になし・たてまつるべし、心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり。
設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはくらせ給うべし、中にも日蓮が法門は古へこそ信じがたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし、設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず、始は信じてありしかども世間のをそろしさにすつる人人かずをしらず、其の中に返つて本より謗ずる人人よりも強盛にそしる人人又あまたあり、在世にも善星比丘等は始は信じてありしかども後にすつるのみならず返つて仏をばうじ奉りしゆへに仏も叶い給はず無間地獄にをちにき、此の御文は別してひやうへの志殿へまいらせ候、又太夫志殿の女房兵衛志殿の女房によくよく申しきかせさせ給うべし・きかせさせ給うべし・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
文永十二年四月十六日 日 蓮 花 押
現代語訳
今、宗仲・宗長の二人の兄弟は、隠士・烈士の二人のようなものです。どちらか一人でも欠けるならば、仏道を成就することはできない。譬えば、鳥の二つの羽、人の両眼のようなものです。また二人の夫人たちはこの兄弟二人にとっては大事な支えです。女性というのは物に随って、物を随える身であります。夫が楽しめば、妻も栄えることができ、反対に夫が盗人ならば、妻も盗人となるのです。これはひとえに、今生だけのことではない。世世・生生に、影と身と、花と果実と、根と葉のように相添うものなのです。木に住む虫は木を食べる。水中に住む魚は水をのむ。芝が枯れれば蘭が泣き、松が栄えれば柏は悦ぶ。草木でさえ、このように互いに助け合うのです。比翼という鳥は、身は一つで、頭は二つあり、二つの口から別々に入った食物が、同じ一つの身を養う。比目という魚は、雌雄一目づつあるゆえに、一生の間離れることはない。夫と妻とは、このようなものです。この法門(御本尊)のためには、たとえ夫から殺害されるようなことがあっても後悔してはなりません。夫人たちが力を合わせて夫の信心を諌めるならば、竜女の跡を継ぎ、悪世末法の女人成仏の手本となられることでしょう。このように、信心強盛であるならば、たとえどのようなことがあろうとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹女・釈迦・多宝にいって、あなたが未来順次に生まれるたびに、必ず成仏させてあげましょう。「心の師とはなっても、自分の心を師とするな」とは六波羅密経の文である。
たとえ、どのような煩わしい、苦しいことがあっても、夢のなかのこととして、ただ法華経(御本尊)のことだけを思っていきなさい。中でも日蓮の法門は、以前には、信じ難かったが、今は前々言って置いたことが的中したので、理由もなく誹謗した人々も、悔いる心が起きたであろう。たとえ、これよりのちに信ずる男女があっても、あなたがたに替えて思うことはできません。始めは信じていたけれども、世間の迫害の恐ろしさに、信仰を捨てた人々は数をしらないほど多い。そのなかには、かえってもとから誹謗していた人々よりも、強盛に謗る人々もまた多くおります。釈尊の在世にも、善星比丘等は、始めは信じていたけれども、のちに信仰を捨てたばかりでなく、返って釈迦仏を謗じたゆえに、仏の慈悲をもってしてもいかんともしがたく、無間地獄に堕ちてしまいました。この御手紙は、別して兵衛志殿にあてたものです。また大夫志殿の女房、兵衛志殿の女房にも、よくよくいい聞かせなさい。聞かせなさい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
文永十二年四月十六日 日 蓮 花 押
語釈
ひほく(比目)
比目魚のこと。カレイ・ヒラメの類いをいう。ひもくは目を並べる意。両眼は頭の片側にあり、胴も頭と同様、左右非対称である。常に二匹が離れることなく泳ぐといわれる。
二聖・二天
二聖は薬王菩薩と勇施菩薩。二天は毘沙門天と持国天。共に法華経陀羅尼品第二十六で法華経の行者を守護することを誓っている。
善星比丘
釈尊が太子だったときの子。闡提比丘ともいう。出家して仏道修行に励み、十二部経を読誦し、第四禅定を得たが、これを真の涅槃の境涯と思って慢心を起こし、苦得外道に近づいて退転した。その上、仏法を否定する邪見を起こし、父である釈尊に悪心を懐いてしばしば殺そうとしたため、生身のまま阿鼻地獄に堕ちた。
講義
本抄をしめくくるにあたり、これまで宗仲・宗長の二人に種々指導してきたが、最後に、それぞれの夫人に対して指導し、兄弟、夫婦相和してがんばりぬくよう激励されたのである。このように夫人に対する激励で本抄を結ばれたのは、婦人の信心がきわめて重要であるからであると思う。
女人となる事は物に随って物を随える身なり
女性は「随って随える身」であるとの仰せである。この生き方が、女性の生き方であり、女性の特性をいかんなく発揮することになるのである。日蓮大聖人は、この兄弟抄のほか、諸御書の中でこのことを教えられている。「随う」「随える」というこの相反する一念の作用は、本来本有のものであり、個人によって差はあるにしても、全ての女性に内在しているものである。フランスの詩人ミュッセが「女は服従するように見せかければ見せかけるほど、主権を握れることをよくわきまえている」と語っているのは、このことが洋の東西を問わない不変の真理であることを物語っているといえよう。
四条金吾殿女房御返事にいわく「女と申す文字をばかかるとよみ候。藤の松にかかり、女の男にかかる」(1135:12)と。富木尼御前御返事にいわく「やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり」(0975:01)と。
男をたて、男にしたがうゆえに「随う」であり、男の行く手を誤らないように、しっかりと応援し、また家庭を守り、子供を生み・育てる母なるゆえに「随える」となるのである。女性が、女性の特性をいかんなく発揮するこの生き方が、女性の生き方である。
このように、男性と女性との立場の違いを述べると、男女同権の原理に反し、時代に逆行する考え方であるかのように思う人も多いかも知れない。だが、それは、男女の両性がそれぞれ本然的にもっている特質を無視した錯覚といわなければならない。
もとより、法律上、あるいは体制の上で男女の同権を保証することは、当然、そうあるべきである。本来もっている力を思う存分に発揮させないような、人間性抑圧は、あってはならない。仏法で説く男女の差は、決して法律的、社会機構上の差別ではなく、男女の本性に根ざした人生の生き方の問題なのである。
もし、同権だから、平等だからといって、女性も男性のようになり、男性が女性の仕事もしなければならないとなったら、はたして幸福といえるであろうか。男女とも、かえって不幸を感ずるであろう。それは、男性が子供を生めないのと同じに、本然的なものがあるからである。
家庭の中はもとよりのこと、社会にあっても、男性の特質と女性の特質とが、それぞれ存分に発揮され、両者の調和が具現されていったときに、理想的な運営と発展がもたらされるのである。
このことについて御義口伝講義に「求女とは世間の果報・求男とは出世の果報」(0777:第四二求両願の事:01)の文を引いて、「男女それぞれの幸福に対する考え方の、本質的な違いが、ここに明確である。女性は現世の、また、現在、自分が置かれている立ち場での、安穏な幸福を求める。保守であり、消極性である。(中略)受け身である。男性は、現状に甘んずるのでなく、未来を考え、枠を破って切り開いていく。進取であり、積極性である。また、能動的な行き方がその特質である」と、男女の違いを指摘して、さらに、「この両方が調和されたときに、理想的な家庭生活が営まれるのである。男が信心を全うし、世間に出て働き、その福運を家庭に与える。それをしっかり守り、さらに、豊かに育てていくのは女である。男がリードしていくのが、本来のあり方といえる」と、生活の場における男女の果たすべき役割りを明確に教示している。
しかして、本文に戻って、この文のあとに、大聖人は「此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ」と仰せである。この御本尊を信仰しているために受ける迫害であるならば、たとい夫に殺されるようなことがあっても、少しも悔いることなく、信心を貫かなくてはいけないとの教えである。正しいと信じたことのためには、主体性をもって生きていくことが、正しい女性の生き方であるとの教えであり、決して大聖人のお心は何でも夫に従わなければならないといったものではないことが知られよう。
心の師とは・なるとも心を師とせざれ
ここにいう「心」とは、凡夫としての自己の主観であり、見解であり、ときには感情である。「心の師となる」とは、仏教の教え、したがって、仏の心を根本にして、弱々しい、自己の迷妄の心と戦い、これをリードしていくことである。「心を師とする」とは、反対に、自己の迷妄の心に負け、これに従っていく姿である。
仏道修行においては、仏の教えを根本にして、弱い自己の心を指導していくことが肝要である。迷妄の心は、航路を知らない船頭であり、道を知らない案内人である。一寸先もわからない凡智が、どうして幸福へのリーダーとなりえようか。
一切を悟り究めた仏の智慧が、人生・社会の師であり、仏の教えのごとく実践していくこと、すなわち「如説修行」が、「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」の御金言の具現化にほかならない。
人類の歴史は、さまざまなものを心の師としてきた。
だが、それらは、抽象的な観念か、あるいは、凡夫の心の所産であったといえよう。このゆえに、結局は「心を師とする」ことをまぬかれなかったのである。
とくに、合理主義が時代の風潮となっている現在においては、自分の心で合理的に割り切れるもの以外は認められなくなっているのが実態である。自分の心以外の師を失ってしまっているのが、現代人の一般的傾向といえるかも知れない。一切の行き詰まりの根源は、ここにあるのではなかろうか。
かつて、インドのパール博士は、カルカッタ大学の集会で若き卒業生たちに、
「激動する世界の現状は、新しい思考方法を求める。この新しい思考方法は、ただ古い思考方法の線にそって進むことを意味するものでもなければ、科学的技術の方向をも、政治的目的の方向をも意味しない。もし人類自体の存在が問題ならば、それに対する回答は、人間の心髄(エッセンス)をもって行なわなければならない。諸君よ、無思慮な血気に駆けられることを避けるように、そして超絶の実在(Transcendent Reality)が、つねに諸君の人生の指針であるよう……」と説いた。
彼は、現代世界の危機に際して、東洋的直観と智慧から、今後の人類の存亡は、政治革命でもなく、科学技術の開発でもなく、何か新しい思考法、哲学を求める以外にないと結論づけたのである。さらに彼は、その回答として人間の心(マインド)とも精神(スピリット)ともいわず人間の「心髄(エッセンス)」という言葉で表現した。そして「超絶の実在」を師針(心の師)としていかなければならないとした。しかし、彼も明確な実在を指してはいない。
彼が「心髄」と表現したものは、いま、仏法の眼より見るならば、日蓮大聖人が解明された「妙法」を志向したものと見ることができよう。
また、アインシュタインも「宗教なき科学は盲目である」と科学を指導する眼(心の師)を宗教に求め、汎ヨーロッパ主義の提唱者であるクーデンホ―フ・カレルギー伯も、これからの時代を指導する心の師を高級宗教に求めている。これらの事実は、現代、時代が求め、民衆が心の底から求めているものが、偉大なる宗教であり、日蓮大聖人の三大秘法の仏法であることを示すものである。
設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし
たとえ、どのようなことがあろうとも、信心第一、御本尊第一でふるまっていきなさいとの教えである。どのような悩み、苦しみをかかえていようと、自己の些細なことのみに引きずられた人生は、小さな自己の境涯を一歩も出ることはできない。逆に、国家のこと、社会のことなど、大言壮語してみても、自分の生活をかえりみず、自己を犠牲にしたものであるならば、それは幸福な人生とはいえない。
この現実をみつめ、大地にしっかり根を下ろし、個人の幸福と社会の繁栄の一致をめざす広宣流布への人生こそ、最高に力強く崇高な人生である。考えてみれば、広宣流布をいかにして達成するか、という悩みは、一切の悩みの中で、最高のものであり、これ以上の悩みはない。
この悩みに徹した人生ならば、もはや自己の小さな悩みなど、風の前のちりのごときものであり、大願を一歩一歩成就していった時には、自己の問題も悠々と解決していけるのである。
御義口伝下にいわく「我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり」(0789:法師品:01)と。ここでいう「一念の妄心」とは単なる自分の小さなカラの中での悩み、迷いではない。いかにして広宣流布を達成するか、いかにして全民衆を幸せにしていくか、という大きな悩みである。この大煩悩を燃やす以外に「仏心」すなわち、真実の幸福はない。そして、九界の生死が「真如」すなわち、信心を根幹としたものであれば、必ずや、悠々たる自在の人生を送ることができるとの教えである。心して、この大確信、大煩悩に立った人生を歩んでいきたいものである。
日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし
「前前いひをきし事既にあひぬ」とは、立正安国論で予言された自界叛逆難、他国侵逼難の的中である。この事実をみて、大聖人に対して、それまで敵意を抱いたり、迫害してきた人もおどろき、大聖人の偉大さにあらためて注目する人も少なくなかった。
大聖人が佐渡流罪をゆるされたのも、あまりに予言が見事に的中したためであり、鎌倉にもどられた大聖人に接する鎌倉幕府の態度も百八十度変わったと、御書にしたためられている。
現在においても、まったく同様である。かつては、理由もなく、感情にまかせて御本尊を謗じていた人も、過去の誹謗を悔いている人も多い。いかなる過去の運動といえども、苦闘、曲折なくして成就したものはない。現実に人々に力強い人生の指針を与え、幸福をもたらしていく仏法は必ず人々を納得させずにはおかない。しかして、それが正しいものと、民衆から賛同を得たときには、もはや、その奔流をとめることはできないといえよう。
すべての面に行き詰まった、この二十世紀文明を、人々は何とかして打開したいと願いつつも、その方途をいずこに求めたらよいのか迷っているのが、現代の世界の実相である。この行き詰まりを根本から解決する大仏法が、いま、その雄飛の時を静かに待っているのである。否、すでに、その時が到来したというべきであろうか。20世紀の残りの4半世紀、そしてきたるべき二十一世紀は、日蓮大聖人の大仏法哲理が、全世界の民衆を幸せにしきっていく世紀であるといいたい。