要文
この帷をきて仏前に詣でて法華経を読み奉り候いなば、御経の文字は六万九千三百八十四字、一々の文字は皆金色の仏なり。
単衣一領、送り給び候い畢わんぬ。
棄老国には老者をすて、日本国には、今、法華経の行者をすつ。そもそもこの国、開闢より天神七代・地神五代・人王百代あり。神武より已後九十代、欽明より仏法始まって六十代七百余年に及べり。その中に、父母を殺す者、朝敵となる者、山賊・海賊、数を知らざれども、いまだきかず、法華経の故に日蓮程人に悪まれたる者はなし。あるいは王に悪まれたれども民には悪まれず、あるいは僧は悪めば俗はもれ、男は悪めば女はもれ、あるいは愚癡の人は悪めば智人はもれたり。これは、王よりは民、男女よりは僧尼、愚人よりは智人悪む。悪人よりは善人悪む。前代未聞の身なり。後代にも有るべしともおぼえず。故に、生年三十二より今年五十四に至るまで二十余年の間、あるいは寺を追い出だされ、あるいは処をおわれ、あるいは親類を煩わされ、あるいは夜打ちにあい、あるいは合戦にあい、あるいは悪口数をしらず。あるいは打たれ、あるいは手を負い、あるいは弟子を殺され、あるいは頸を切られんとし、あるいは流罪両度に及べり。
二十余年が間、一時片時も心安きことなし。頼朝の七年の合戦も、ひまやありけん。頼義が十二年の闘諍も、いかでかこれにはすぐべき。法華経の第四に云わく「如来の現に在すすらなお怨嫉多し」等云々。第五に云わく「一切世間に怨多くして信じ難し」等云々。天台大師も、恐らくは、いまだこの経文をばよみ給わず。一切世間、皆信受せし故なり。伝教大師も及び給うべからず。「いわんや滅度して後をや」の経文に符合せざるが故に。日蓮、日本国に出現せずば、如来の金言も虚しくなり、多宝の証明もなにかせん。十方の諸仏の御語も妄語となりなん。仏の滅後二千二百二十余年、月氏・漢土・日本に「一切世間多怨難信(一切世間に怨多くして信じ難し)」の人なし。日蓮なくば、仏語既に絶えなん。
かかる身なれば、蘇武がごとく雪を食として命を継ぎ、李陵がごとく簑をきて世をすごす。山林に交わって、果なき時は空しくして両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり。かかる者をば、何としてか哀れとおぼしけん、いまだ見参にも入らぬ人の、膚を隠す衣を送り給び候こそ、いかにとも存じがたく候え。この帷をきて仏前に詣でて法華経を読み奉り候いなば、御経の文字は六万九千三百八十四字、一々の文字は皆金色の仏なり。衣は一つなれども、六万九千三百八十四仏に一々にきせまいらせ給えるなり。されば、この衣を給びて候えば、夫妻二人ともに、この仏御尋ね坐して、「我が檀那なり」と守らせ給うらん。今生には、祈りとなり、財となり、御臨終の時は、月となり、日となり、道となり、橋となり、父となり、母となり、牛馬となり、輿となり、車となり、蓮華となり、山となり、二人を霊山浄土へ迎え取りまいらせ給うべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
建治元年乙亥八月 日 日蓮 花押
この文は、藤四郎殿女房と、常により合いて御覧あるべく候。
背景と大意
この書状は、日蓮大聖人が身延山に入られてから一年余り後の弘安二年(一二七五)八月に書かれたものです。 彼は、会ったこともない信者である夫婦から、軽くて暖かい気候に適した衣服の贈り物を受け取りました。 二人の名前は不明であるが、この手紙のあとがきによれば、弘安元年(1272年)に四条金吾の妻日眼女に宛てた別の手紙の中で、大聖人は「 藤四郎の妻と一緒に何度も何度も手紙を読み合わせる事を望みます。」(同生同名御書 )と書かれていることから、彼らは鎌倉に住んでいたであろうことが示唆されている。
この書状には、諸仏は必ずその誠意に応えてくださる、必ず成仏すると手紙の受取人に保証される大聖人の慈悲の心が伝わってきます。 彼らの捧げ物は簡素な衣服でしたが、それは夫婦が織って縫ったものでした。 大聖人はその贈り物の中に、彼らの心と信仰そのものを感じ取ったのです。
現代語訳
単衣の袈裟について
ご丁寧に送っていただいた単衣の袈裟を受け取りました。
棄老国と呼ばれる国では老人を切り捨てますが、最近の日本では法華経の信者に対しても同じことをしています。
この国が建国されて以来、天の神々の治世7年、地の神の治世五年、そして人間の主権の治世100年がありました。 神武天皇[最初の人間の主権者]の時代から90人の主権者が統治してきました。 欽明天皇(第 29 代の人間の君主)の治世に仏教が日本に伝わり、それ以来 700 年以上にわたって 60 人の君主が君臨してきました。 その間、父親や母親を殺害した者、国家の敵として行動した者、山賊、海賊などがおり、その数は数え切れないほどでした。 しかし、日蓮ほど法華経の行者であるという理由で嫌われている人を聞いたことがありません。
他の人々は、おそらく支配者には憎まれても庶民には憎まれず、僧侶には憎まれても信徒には憎まれず、男性には憎まれても女性には憎まれず、愚かな人々には憎まれても賢者には憎まれなかったのでしょう。 しかし私の場合、支配者よりも庶民に、普通の男女よりも僧侶や尼に、愚か者よりも賢人に、悪人よりも善人に嫌われています。 私のような人物は過去に聞いたこともありませんし、今後も見つかることはないと思います。
そのため、私は32歳から54歳の現在まで、20年以上にわたり、寺院から追放されたり、各地から追い出されたり、親戚から嫌がらせを受けたり、 彼らは夜襲にさらされ、戦闘で対峙し、数え切れないほど虐待を受けてきました。 私は殴られ、手に傷を負い、弟子たちも殺されました。 私は首を切られそうになったこともあり、二度も亡命を宣告されました。 この二十年以上の間、私は一時たりとも平和や安全を知りませんでした。 頼朝は7年間敵と戦いましたが、それでも戦闘には間隔がありました。 頼義は 12 年間戦い続けましたが 、彼の試練は私の試練を超えることはほとんどありませんでした。
法華経第四巻には「この経典に対する憎しみと嫉妬は、如来がこの世にいるときでも多いのであるから、滅んだ後はなおさらであるであろう」とあります。また、第五巻には次のように書かれています。 「それ(法華経)は、世の多くの敵意に直面し、信じるのが難しいでしょう。」天台大師はおそらく、経典のこれらの箇所を十分に身で読んでいなかったのです。 彼の時代には、世界中の人々が法華経を信じ、受け入れていました。 伝教大師も同様で、「入滅後はなおさら」という経典の言葉に時代はまだ合っていなかったのです。 もし私、日蓮がこの日本国に現れていなかったら、仏陀の黄金の言葉は偽りであるように見え、多宝仏によるその正しさの証言は無意味であり、十法の諸仏の言葉は無意味なものになっていたでしょう。 釈迦入滅以来2220年以上、法華経の「世間の敵意が多く、信じがたい」という言葉の真実をインド、中国、日本で体験した人はいません。 もし私が現れなかったら、この仏陀の言葉は無駄に語られたことになったでしょう。
そして、蘇武のように、私は命を維持するために雪を食べるし、李陵のように、日々を乗り切るためにわらのコート(簑)を着ます。 私の山林では、木が実を結ばないときは、二、三日何も食べずに過ごします。 鹿革の服がボロボロになると、私は3、4か月間裸で過ごします。 それなのに、あなたは会ったこともないそのような人のために、哀れみからこの袈裟を送って私の体に着せてくださるのです。何という深い優しさでしょう。 私がこの袈裟を着て仏様の前に立ち、法華経を誦誦すると、経典を構成する69,384文字すべてが、一文字一文字が黄金の仏様となります。 袈裟はたった一つですが、69,384体の仏様一人ひとりに着せられています。 そうであるからこそ、この袈裟を私に贈ってくれた夫婦には仏様が訪れ、この夫婦をサポーターとして見守り守ってくれるのです。 この夫婦にとって、今生では仏様は祈りであり、宝物となるでしょう。 そして、夫と妻が死に瀕したとき、彼らは月、太陽、道、橋、父、母、牛や馬、駕籠、馬車、蓮華、 山となり、彼ら夫妻を霊山浄土へ迎えに行きます。 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経!
日蓮
建治元年(1275年)八月、干支乙亥
この手紙は藤四郎の妻と、いつも一緒に読まれるべきです。